2004年12月09日

下北沢Ｘ物語（８９）〜下北沢の大岡昇平（４）〜

e4cf5f41.JPG  昨夜から赤い幻影が頭にこびりついて離れなくなった。
　ことばというものは不思議なものだ。書き手の感覚に侵されてしまうからだ。赤というのも大岡昇平「野火」を読み始めたからだ。
　自分がレッドに敏感になっているのだろう。今日の帰り道、三つの赤に出会った。北五商店街を抜けていつも通る路地に入った。とたんに前方がまっ赤だった。赤い回転灯がむやみと回っている。ちょうど救急病院に車が着いたところだった。その救急車の脇をそろりと抜けた。すると隊員が担架に手をかけて負傷者らしき人を下ろすところだった。
　北沢五丁目を抜けて、そして、四丁目、三丁目にかかったとき、何かの気配がして左手の路地を覗いた。またも赤い回転灯だった。今度はパトカーだ。警官が立っていてそこにいる人に話を聞いていた。ほんの一瞬のことだったのに聞こえた。
「ここのところに倒れていたのですね……」
　茶沢通りに出て、今度は交番前の４号踏切に引っかかった。警報機の赤い目玉がきゃんきゃんと音を立てて点滅している。これも赤だ。が、凝視するとそれは赤い点の集まりだった。デジタルだ。やがて、目の前を小田急の上りが通った。「新宿」と書かれた行き先表示もデジタルだった。電車が過ぎれば赤点滅信号はあっけなく消えた。踏切を渡る。
「ぼやぼやしてんなよ」　若い男がそんなことを言った。じっさいにぼんやりしていた。新宿に着いた電車のことを思っていた。「新宿」の表示が切り替わって今度は相模大野行きとデジタルが点く。おれが１２月９日４号踏切で見た電車はすぐによそ行きの顔になって。知らんぷりして今度は相模大野行きになってまた４号を通る、そんなつまらないことを考えながら踏切を渡っていた。
　下北沢のあづま通りにも赤いものが目に付いた。古着の赤、提灯の赤、ネオンの赤だ。
「ああ、そうだよ」
　昨日寝るときにあの場面を読んだのがいけなかったと思った。

永松の銃は土にもたせて、そこに照準をつけてあった。銃声とともに、安田の体はひくっと動いて、そのままになった。
　永松が飛び出した。素早く蛮刀で、手首と足首を打ち落とした。
　恐ろしいのは、すべてこの細目を、私が予期していたことであった。まだ温かい桜色の肉を前に、私はただ吐いていた。空の胃から黄色い液だけが出た。
　もしこの時すでに、神が私の体を変えていたのであれば、神に栄えあれ。
　私は怒りを感じた。もし人間が飢えの果てに、互いに喰い合うのが必然であるならば、
この世は神の怒りの跡にすぎない。
　　「野火」現代の文学６　大岡昇平　昭和四七年刊

　「まだ温かい桜色の肉」なんとも生々しい表現である。これが赤の源だった。赤いものを見ては何か嫌な感覚がわき起こった。嫌うとよけいに赤が目につく。惨い、惨い、本当に悲惨だ。敵はアメリカだった。けれど行き着くところは無惨だ。僚友が敵となる。
　銃で撃ち取った僚友は、たちまちに食料と化す。ほんの少し前まで安田と呼んでいた男である。それは永松の蛮刀でたちまちに解体され安田は乾肉になる。猿の肉だと言われて食っていたのは人間だった。田村一等兵はそれを薄々気づいていた。その田村も現実認識がリアルだ。「まだ温かい桜色の肉」という描写には書き手の欲望の一片が読み取れる。「私は怒りを感じた」、他者へ向けられたものであると同時に自分にも向けられた怒りでもあろう。
　今夕は、鶏肉だった。「野火」を思い出して箸が止まった。そのときに思い出したことがあった。
「いえね、踏切で事故はありますよ。わたしは最初見に行きましたけどね、その晩夕食に鮭が出たんですけどね、とうとう食えませんでしたよ」
　下北沢２号踏切わきの佐山さんはそう言っておられた。そういえば大岡昇平も小田急線の電車内で踏切事故を目撃している。それが横光利一との出会いでもあった。（写真は下北沢駅北口）



rail777 at 21:32│Comments(0)│TrackBack(0)│
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