2004年12月12日
下北沢Ｘ物語（９２）〜下北沢の大岡昇平（７）〜
下北沢を通しての出会いというのはなかなか面白いものがある。実際の出会い、それにプログへのトラックバックやコメントも一つの出会いだ。このプログに滅多にコメントはない。でも、たまにある。「東北沢３号踏切」のことを書いたときコメントをくれた人がいた。
その近くに住んでおられた方のようだった。「懐かしい」とあった、３号踏切は地味である。自分でも好きな踏切だ。大岡昇平によると、昭和五年頃はその踏切の上手の南斜面に松林があったそうだ。利一邸跡にも大きな松がいまもある。
「下北沢の思い出」の中で大岡昇平はこう書いている。
門から玄関まで、石畳になっているのは、遺作『微笑』に書かれてある通りである。そこを歩いてくる足音で、訪問客の目的や性質が分かる、とも書いておられる。
著作権の切れた文書をインターネットに載せているのが青空文庫だ。とても重宝している。そこに「微笑」は収録されている。
ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴を響かせて来た。石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す、とそんな冗談をいうほどまでに、彼は、長年の生活のうちこの石からさまざまな音響の種類を教えられたが （横光利一「微笑」青空文庫からの）
その近くに住んでおられた方のようだった。「懐かしい」とあった、３号踏切は地味である。自分でも好きな踏切だ。大岡昇平によると、昭和五年頃はその踏切の上手の南斜面に松林があったそうだ。利一邸跡にも大きな松がいまもある。
「下北沢の思い出」の中で大岡昇平はこう書いている。
門から玄関まで、石畳になっているのは、遺作『微笑』に書かれてある通りである。そこを歩いてくる足音で、訪問客の目的や性質が分かる、とも書いておられる。
著作権の切れた文書をインターネットに載せているのが青空文庫だ。とても重宝している。そこに「微笑」は収録されている。
ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴を響かせて来た。石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す、とそんな冗談をいうほどまでに、彼は、長年の生活のうちこの石からさまざまな音響の種類を教えられたが （横光利一「微笑」青空文庫からの）
梶とは横光のことだろう。その横光の旧居はこの間そっと覗いたときに石畳もあったように思った。つぎの物語はいつもの浮遊物語だ。「下北沢の思い出」数行を下敷きにして記してみた。
とある日の午後のことだ。玄関の石畳に履物の音がかすかにした。誰かが来たようだ。雪駄を履いている。年齢のいった男だ。初めての客である。足音がためらっている。「誰だろう」、利一は見当もつかなかった。
家内が二階の書斎へ来て、来訪者があると告げた。年を召した方で来意ははっきりしないとこのことだった。そういう場合には合わなくともよい、利一は思った。が、ためらいの足音は気になった。それで、客と会うことにした。
応接間にいたのは羽織を着た白髪の男だった。
「いつも息子がお世話になっております。わたしは昇平の父親でございます」
「ああ、そうでしたか、この近くの森厳寺の裏に住んでおられるのですね。」
「はい、そうです……え、じつはですね。先生にちょっとお伺いしたいことがあって今日は思い切って参ったのでございます。」
ためらいの原因が利一は少しわかったような気がした。
「ほぉ、そうですか。それはどういうことでしょうか。」
「ええ、まあ……」
彼は問題を即座に口にできないようだった。
「遠慮なさることはありませんよ」
「そうでございますか。家のせがれは文学というものにかぶれていて、何かこう文章を書いているようですが、正直言って私は心配なのですよ。こういっては立派な先生を前にして失礼だと思います。けれども文学などをすると肺病を病んですぐに死んでしまうという者が多い。大酒飲みになったり、薬物中毒になったりという話も聞きます。貧乏暮らしをするのならいっそう別の道を歩いた方がいいと思うのです。それで、先生にお伺いしたいことは、うちのせがれが見込みがあるかどうかということです。その率直なところを聞かせていただけないでしょうか」
女中が茶を持ってきた。利一はそれをすすりながらこう話した。
「そうですね。若いけれどもなかなか味のある文章を書いております。それで、文学で大事なことは他人が言わないようなことを書くのが大切です。息子さんは、おやと思うようなことを書いていますからね、見込みがありますよ。いやぁ、もう一息じゃないでしょうか」
「そうですか、それは嬉しいですね。大先生にそんなことを言っていただくなんて、ほんとにありがたいことです。」
「いえいえ、そんなことはございません」
「このお庭はきれいですね。こういってはなんですが、盆栽店をわたしをやっておりました。庭の塩梅もすこしは分かります。そこの開いているところに椎の木を植えると他の木々が引き立ちますよ」
「そうですかね」
「ええ、今日参ったのもご縁ですから、椎の木を森厳寺のすぐ側の植木屋から届けさせます」
羽織の男は笑みをもらしながら帰っていった。しばらくして植木屋が来て椎の木を植えに来た。作業が終わってから植木店の男が金を請求してきた。手間賃であった。
大岡昇平の「下北沢の思い出」にはこうある。
父は破産していて、十分に手当して選ばせる余裕がなかったのだろう。植木屋の手間賃を先生に払わせたらしいので、私は心苦しい思いをした。
一九三七年、日中戦争が始まった年に父が死んだ。私は財産を整理し、文学を捨てて神戸へ都落ちし、工業会社に勤めた。まもなく結婚した。そのときのことを先生に知らせると、お祝いを下さり、「お父さんに代わって、下北沢から、あなたの将来を見守っていますぞ」とあった。
昇平の父が植木屋に運ばせた椎の木は枯死したという。が、出征した大岡昇平はフィリピンから帰還した。死線を潜り抜けた末の復員だった。そして、文壇への復帰も果たした。戦争経験を書いた作品は鮮烈な印象を読者に与えた。そのことが横光と結びつく。下北沢の縁である。彼は、昭和２４年春に横光家を再び訪れることになる。（写真は冬の日の幻影、下北沢駅）
家内が二階の書斎へ来て、来訪者があると告げた。年を召した方で来意ははっきりしないとこのことだった。そういう場合には合わなくともよい、利一は思った。が、ためらいの足音は気になった。それで、客と会うことにした。
応接間にいたのは羽織を着た白髪の男だった。
「いつも息子がお世話になっております。わたしは昇平の父親でございます」
「ああ、そうでしたか、この近くの森厳寺の裏に住んでおられるのですね。」
「はい、そうです……え、じつはですね。先生にちょっとお伺いしたいことがあって今日は思い切って参ったのでございます。」
ためらいの原因が利一は少しわかったような気がした。
「ほぉ、そうですか。それはどういうことでしょうか。」
「ええ、まあ……」
彼は問題を即座に口にできないようだった。
「遠慮なさることはありませんよ」
「そうでございますか。家のせがれは文学というものにかぶれていて、何かこう文章を書いているようですが、正直言って私は心配なのですよ。こういっては立派な先生を前にして失礼だと思います。けれども文学などをすると肺病を病んですぐに死んでしまうという者が多い。大酒飲みになったり、薬物中毒になったりという話も聞きます。貧乏暮らしをするのならいっそう別の道を歩いた方がいいと思うのです。それで、先生にお伺いしたいことは、うちのせがれが見込みがあるかどうかということです。その率直なところを聞かせていただけないでしょうか」
女中が茶を持ってきた。利一はそれをすすりながらこう話した。
「そうですね。若いけれどもなかなか味のある文章を書いております。それで、文学で大事なことは他人が言わないようなことを書くのが大切です。息子さんは、おやと思うようなことを書いていますからね、見込みがありますよ。いやぁ、もう一息じゃないでしょうか」
「そうですか、それは嬉しいですね。大先生にそんなことを言っていただくなんて、ほんとにありがたいことです。」
「いえいえ、そんなことはございません」
「このお庭はきれいですね。こういってはなんですが、盆栽店をわたしをやっておりました。庭の塩梅もすこしは分かります。そこの開いているところに椎の木を植えると他の木々が引き立ちますよ」
「そうですかね」
「ええ、今日参ったのもご縁ですから、椎の木を森厳寺のすぐ側の植木屋から届けさせます」
羽織の男は笑みをもらしながら帰っていった。しばらくして植木屋が来て椎の木を植えに来た。作業が終わってから植木店の男が金を請求してきた。手間賃であった。
大岡昇平の「下北沢の思い出」にはこうある。
父は破産していて、十分に手当して選ばせる余裕がなかったのだろう。植木屋の手間賃を先生に払わせたらしいので、私は心苦しい思いをした。
一九三七年、日中戦争が始まった年に父が死んだ。私は財産を整理し、文学を捨てて神戸へ都落ちし、工業会社に勤めた。まもなく結婚した。そのときのことを先生に知らせると、お祝いを下さり、「お父さんに代わって、下北沢から、あなたの将来を見守っていますぞ」とあった。
昇平の父が植木屋に運ばせた椎の木は枯死したという。が、出征した大岡昇平はフィリピンから帰還した。死線を潜り抜けた末の復員だった。そして、文壇への復帰も果たした。戦争経験を書いた作品は鮮烈な印象を読者に与えた。そのことが横光と結びつく。下北沢の縁である。彼は、昭和２４年春に横光家を再び訪れることになる。（写真は冬の日の幻影、下北沢駅）
rail777 at 17:24│Comments(0)│TrackBack(0)│
