2004年12月20日
下北沢Ｘ物語（１００）〜連載百回記念・下北小田急踏切物語� �
代々木上原から梅ヶ丘の間の小田急線の地下化が決定し、その工事も始まった。それによっていずれ地表にある九カ所の踏切が消えていくことになる。下北沢区域にある小田急踏切、それが全部がなくなってしまう。
小田急線の線路が車の通行を妨げている。それがどれほどのものか，実際の調査が行われた。そのデーターが地下化を促した。手元に「代々木上原〜梅ヶ丘間の踏切遮断量」という資料がある。数値の高い踏切ほど多く車を遮断しているということになる。注記に「交通量は昭和６３年調査による。」とある。
（小田急小田原線立体化推進調査報告書 平成５年３月 世田谷区）による。
小田急線地下化によっていずれはなくなっていく踏切である。それでも一つ一つの踏切には人々の歴史があり，生活があった。今回は調査を悪用ではなく、善用してみる。遮断量が多い順に並べて、そこに下北沢ゆかりの作家たちが登場する，そんなとんでもない浮遊物語を企画してみた。九つの踏切は何位で、どんな人が出てくるか。そして，どんな物語が展開するか。連載百回を記念してまた遊んでみる。存分に楽しんでみることにしよう。
小田急線の線路が車の通行を妨げている。それがどれほどのものか，実際の調査が行われた。そのデーターが地下化を促した。手元に「代々木上原〜梅ヶ丘間の踏切遮断量」という資料がある。数値の高い踏切ほど多く車を遮断しているということになる。注記に「交通量は昭和６３年調査による。」とある。
（小田急小田原線立体化推進調査報告書 平成５年３月 世田谷区）による。
小田急線地下化によっていずれはなくなっていく踏切である。それでも一つ一つの踏切には人々の歴史があり，生活があった。今回は調査を悪用ではなく、善用してみる。遮断量が多い順に並べて、そこに下北沢ゆかりの作家たちが登場する，そんなとんでもない浮遊物語を企画してみた。九つの踏切は何位で、どんな人が出てくるか。そして，どんな物語が展開するか。連載百回を記念してまた遊んでみる。存分に楽しんでみることにしよう。
第一位
（踏切名）代々木上原３号踏切 （踏切交通遮断量）６５，８８８
（踏切名）代々木上原３号踏切 （踏切交通遮断量）６５，８８８
東北沢駅に一人の男が下り立った。ぼぉうとした春霞が丘にかかっている。
紋付きに袴の和服姿だ。オールバックにした髪は白く，への字形の眉が濃い。その歩き方に経験の重みが感じられる。ことに行き交う女性への鑑定眼が鋭い。目をちろるとのぞき見て心身の傾向が分かるほどであった。彼は跨線橋の階段を上ったとき襟足の白い女とすれ違った。それで小さな南口改札を見逃した。女を見る目は確かだ。
「情にもろくて人がよさそうだ，白い肌は敏感でまさぐるように撫でると反応するな」
年老いた今でもこれはと思う女性には眼差しが吸い付けられる。
彼は駒場の近代文学館で行われる講演に向かうところである。演題は「新感覚派と雨過山房」というものであった。鎌倉住まいの彼は横須賀線のグリーン車で東京駅まで出た。館の方で駅へ車を差し向けるということだった。だが、日和がいいので電車で行くと断った。「雨過山房」は文学館からさほど遠くない。新感覚派の横光利一を慕って文学青年が多く集まった。その代沢の丘には彼も度々通ったものだ。下北沢で下りて坂を歩いた。帝都線ができてから下車駅は池の上となった。歩いて五六分の距離である。松の木のある門を通って石畳を歩く。横光の顔が懐かしく思い出される。
「今日は久しぶりにかつての横光邸『雨過山房』のあった代沢の丘をこの講演の前に歩いてみました……」
講演の枕にそれを振るつもりであった。それで帝都線ではなく小田急線を使って東北沢までやってきた。
駅を出て新宿方向へ歩くと踏切があった。踏切の鉄柱に「代々木上原３号」という札がある。警報機がくぁんくぁんと鳴って，遮断棒が下りる。するとたちまちに道に車の列ができた。
腰にブルーの帯を巻いた上り電車が次第に太っていって目の前を流れていく。その急行が通過したとたん、踏切の向こうから声が聞こえたように思った。
「駅長さん，弟をよく見てやって，お願いです」
悲しいほどに澄んだ声だった。高い響きのまま向こうからこだましてきた。上越線で越後湯沢に行くときに乗り合わせた娘である。その彼女が動き出した列車の窓からホームにいる駅長にそう呼びかけた。
紺色に染まりかけた汽車の窓辺に彼女の姿が見えた。透明な窓鏡に人影があってその縁を暮れなずむ夕景色が動いていく。小さな赤い灯火が彼女の唇を染める。妖しく美しい絵巻物が繰り広げられていくようだった。
「まさか，そんなことはあるまい」
彼は東北沢にではなく越後湯沢の方に来たのかと思った。男は手をひさしにして周りを見回した。上りホームにはステンレス車体の各駅停車が停まっている。それはやはり小田急電車だった。
「幻聴だったか？」
彼はそう思って首を戻して前を見た。東北沢は各駅停車が止まるホームがこちら側と向こう側にある。その間を上り下りの急行や特急が通る通過線が走っている。反対側の遮断機が見える。セブンイレブンの看板を背にして踏み切りに緋縮緬の女が立っていた。
「島村さぁん」
それは駒子の声だった。湯沢の駒子がなぜ東北沢にいるのか。が，とりあえず手で応えようとしたら警笛が鳴った。新宿方向から銀色に輝く電車がやってきてたちまちに彼女の姿を隠した。隣にいた男の子が言った。
「ママ，特急エクセだよ」
男は待ち遠しく思った。彼は左手を持ち上げて自分の人差し指をじっと見つめた。それが駒子の体を覚えていた。
やがて特急は最後尾が赤いデジタルの尾灯を見せて通り過ぎた。遮断機が開いた。男は急いで線路に足を踏み入れた。すると向こうから女がやってきた。が，それは駒子とはあまりにもかけはなれていた。皺深い顔の白髪の老婆，彼女がすれ違いざま赤目をぎろりと剥いて彼を見た。
小説「雪国」の島村から川端康成に戻った彼はゆるりと歩き出した。代々木上原３号踏切を独りの影が渡っていく。その後ろ姿に春の日が射している。
＊代々木上原３号踏切 東北沢駅の新宿寄りにある。ホームが終わったところに二車線の 道路がある。
今日の帰り道、東北沢駅に寄った。南口があるのを知った。ないと思っていたら、あった。危ないところだった。（写真は夜に沈む下北沢駅）
紋付きに袴の和服姿だ。オールバックにした髪は白く，への字形の眉が濃い。その歩き方に経験の重みが感じられる。ことに行き交う女性への鑑定眼が鋭い。目をちろるとのぞき見て心身の傾向が分かるほどであった。彼は跨線橋の階段を上ったとき襟足の白い女とすれ違った。それで小さな南口改札を見逃した。女を見る目は確かだ。
「情にもろくて人がよさそうだ，白い肌は敏感でまさぐるように撫でると反応するな」
年老いた今でもこれはと思う女性には眼差しが吸い付けられる。
彼は駒場の近代文学館で行われる講演に向かうところである。演題は「新感覚派と雨過山房」というものであった。鎌倉住まいの彼は横須賀線のグリーン車で東京駅まで出た。館の方で駅へ車を差し向けるということだった。だが、日和がいいので電車で行くと断った。「雨過山房」は文学館からさほど遠くない。新感覚派の横光利一を慕って文学青年が多く集まった。その代沢の丘には彼も度々通ったものだ。下北沢で下りて坂を歩いた。帝都線ができてから下車駅は池の上となった。歩いて五六分の距離である。松の木のある門を通って石畳を歩く。横光の顔が懐かしく思い出される。
「今日は久しぶりにかつての横光邸『雨過山房』のあった代沢の丘をこの講演の前に歩いてみました……」
講演の枕にそれを振るつもりであった。それで帝都線ではなく小田急線を使って東北沢までやってきた。
駅を出て新宿方向へ歩くと踏切があった。踏切の鉄柱に「代々木上原３号」という札がある。警報機がくぁんくぁんと鳴って，遮断棒が下りる。するとたちまちに道に車の列ができた。
腰にブルーの帯を巻いた上り電車が次第に太っていって目の前を流れていく。その急行が通過したとたん、踏切の向こうから声が聞こえたように思った。
「駅長さん，弟をよく見てやって，お願いです」
悲しいほどに澄んだ声だった。高い響きのまま向こうからこだましてきた。上越線で越後湯沢に行くときに乗り合わせた娘である。その彼女が動き出した列車の窓からホームにいる駅長にそう呼びかけた。
紺色に染まりかけた汽車の窓辺に彼女の姿が見えた。透明な窓鏡に人影があってその縁を暮れなずむ夕景色が動いていく。小さな赤い灯火が彼女の唇を染める。妖しく美しい絵巻物が繰り広げられていくようだった。
「まさか，そんなことはあるまい」
彼は東北沢にではなく越後湯沢の方に来たのかと思った。男は手をひさしにして周りを見回した。上りホームにはステンレス車体の各駅停車が停まっている。それはやはり小田急電車だった。
「幻聴だったか？」
彼はそう思って首を戻して前を見た。東北沢は各駅停車が止まるホームがこちら側と向こう側にある。その間を上り下りの急行や特急が通る通過線が走っている。反対側の遮断機が見える。セブンイレブンの看板を背にして踏み切りに緋縮緬の女が立っていた。
「島村さぁん」
それは駒子の声だった。湯沢の駒子がなぜ東北沢にいるのか。が，とりあえず手で応えようとしたら警笛が鳴った。新宿方向から銀色に輝く電車がやってきてたちまちに彼女の姿を隠した。隣にいた男の子が言った。
「ママ，特急エクセだよ」
男は待ち遠しく思った。彼は左手を持ち上げて自分の人差し指をじっと見つめた。それが駒子の体を覚えていた。
やがて特急は最後尾が赤いデジタルの尾灯を見せて通り過ぎた。遮断機が開いた。男は急いで線路に足を踏み入れた。すると向こうから女がやってきた。が，それは駒子とはあまりにもかけはなれていた。皺深い顔の白髪の老婆，彼女がすれ違いざま赤目をぎろりと剥いて彼を見た。
小説「雪国」の島村から川端康成に戻った彼はゆるりと歩き出した。代々木上原３号踏切を独りの影が渡っていく。その後ろ姿に春の日が射している。
＊代々木上原３号踏切 東北沢駅の新宿寄りにある。ホームが終わったところに二車線の 道路がある。
今日の帰り道、東北沢駅に寄った。南口があるのを知った。ないと思っていたら、あった。危ないところだった。（写真は夜に沈む下北沢駅）
rail777 at 21:06│Comments(0)│TrackBack(0)│
