2004年12月23日
下北沢Ｘ物語（１０３）〜下北沢小田急踏切物語�△硫次�
「電車の走っている音を聞いて、形式が分かる。じつはね、それは鉄道技師の親父から聞いたんだよ。目とか耳みたいなもんがとても役立つっていうのさ。トンネル屋は岩を叩いて岩の大きさを知った、機関士は機関車をハンマーでたたいて具合の悪いところをみっけた、保線屋は目でみてわずか２，３ミリのレールの狂いが分かったって言っていたな。」
「へぇ、そんなものなんですか」
「なんでも昔は苦労したみたいだよ。ぼくは小学校は滋賀の大津だった。親父が琵琶湖疎水のトンネル掘っていたからなんだ。今と違って機械ではなくて、ノミとツチという手堀だったから相当に苦労したみたいだよ。こっちと向こうから掘っていったトンネルは測量がきちんとされているからうまくつながるんだけど、ちゃんとつながるかどうか不安でしかたなかったって親父は言うんだよ。向こうで掘る音、こっちで掘る音、近づいてくるといてもたってもいられない。筋違いなんてなったらとんでもないからね。穴が開いたら、琵琶湖の藻草の匂いがするのか、先斗町の芸者衆の化粧が匂うかって冗談言っていたみたいだけどね、トンネルに最初の穴が開くと、風がすぅっと突き抜けていくっていうんだ、そのときは嬉しいらしいね。親父は琵琶湖の藻草のにおいがしたって笑ってたけどね。そんな経験を重ねて一人前になっていくんだとか親父はいってたな」
「たしかに、書くことも同じですね、ああでもないこうでもないと苦労していくうちに見えてくるものがありますね。貧乏がつきまといますけどね。」
大男はひひひと笑った。
「そうそう、機関士も長年やっていると汽笛の音とか走り方を聴いて形式がわかるって言うんだ。その点電車も同じだよ。みんなそれぞれモーターが違う。重さとか長さでも音が違ってくるから、よぉく耳を傾けていると違いがわかるんだ。だけど、１００００系の『はこね』と２００００系の『あさぎり』はモーターが同じだから聞き分けられないな」
東北沢４号踏切がやっと開いた。二人は一番街の方へ歩きはじめた。
「車両形式がどうだのこうだの、なんかプロレタリア文学的じゃないですか。もっと新感覚的な話をしてくださいよ」
「ああ、そうだな、ちょっとマニアックだったな」
インバネスの男は右手を眺めた。東北沢の方へ線路は急勾配で上っている。丘の上の信号がまっ赤だ。それがレールの表面の鏡を伝って流れてくる。心まで赤くなった。
「へぇ、そんなものなんですか」
「なんでも昔は苦労したみたいだよ。ぼくは小学校は滋賀の大津だった。親父が琵琶湖疎水のトンネル掘っていたからなんだ。今と違って機械ではなくて、ノミとツチという手堀だったから相当に苦労したみたいだよ。こっちと向こうから掘っていったトンネルは測量がきちんとされているからうまくつながるんだけど、ちゃんとつながるかどうか不安でしかたなかったって親父は言うんだよ。向こうで掘る音、こっちで掘る音、近づいてくるといてもたってもいられない。筋違いなんてなったらとんでもないからね。穴が開いたら、琵琶湖の藻草の匂いがするのか、先斗町の芸者衆の化粧が匂うかって冗談言っていたみたいだけどね、トンネルに最初の穴が開くと、風がすぅっと突き抜けていくっていうんだ、そのときは嬉しいらしいね。親父は琵琶湖の藻草のにおいがしたって笑ってたけどね。そんな経験を重ねて一人前になっていくんだとか親父はいってたな」
「たしかに、書くことも同じですね、ああでもないこうでもないと苦労していくうちに見えてくるものがありますね。貧乏がつきまといますけどね。」
大男はひひひと笑った。
「そうそう、機関士も長年やっていると汽笛の音とか走り方を聴いて形式がわかるって言うんだ。その点電車も同じだよ。みんなそれぞれモーターが違う。重さとか長さでも音が違ってくるから、よぉく耳を傾けていると違いがわかるんだ。だけど、１００００系の『はこね』と２００００系の『あさぎり』はモーターが同じだから聞き分けられないな」
東北沢４号踏切がやっと開いた。二人は一番街の方へ歩きはじめた。
「車両形式がどうだのこうだの、なんかプロレタリア文学的じゃないですか。もっと新感覚的な話をしてくださいよ」
「ああ、そうだな、ちょっとマニアックだったな」
インバネスの男は右手を眺めた。東北沢の方へ線路は急勾配で上っている。丘の上の信号がまっ赤だ。それがレールの表面の鏡を伝って流れてくる。心まで赤くなった。
「ヨーロッパ旅行のときのことなんだ。ウィーンを汽車が出たんだ。うねるような平原がどこまでも続いていて、そこに一面まっ赤なひなげしが咲いているんだ。それが走っても走っても終わらない。その花の波の合間にダニューブの青い流れが見えたり隠れたりする。向かいに座っている若い女性の顔がケシの色で彩られているんだ。たまらなくなってぼくは彼女を何度も盗み見したな」
「なんだか一番街の灯りがみんなひなげしなったみたいに目に浮かんできます」
「初夏の日射しが丘の花を明るく照らしている。ぼくはレールの下までひなげしに埋まっていると思った。そのとたん、線路を走る車輪の音が突然に音楽に変わったんだ。『タアン、タ、タタタン、タアンタ、タアン』、ぼくはそのメロディを口ずさみながら車窓を見つめた。憂いと感傷が悲しいメロディを奏でていく……」
「ううん」と、言って破れた袖口から手を伸ばして中山義秀はあごに手を当てた。一方、インバネスの男は右手の古本屋をのぞいた。白樺書房だ、店頭の１００円コーナーに未完大作「旅愁」がひっそりとある。
横光利一と書かれた本を作者の横光利一が手にとった。
＊注記 中山義秀「台上の月」に書かれたエピソードを参考にした。ウイーンのひなげしは横光利一作品「罌粟の中」を参照した。中山義秀は横光利一の生き字引と言ってよい。「台上の月」は、横光邸のある代沢の丘に昇る月を言うのであろう。赤貧の中からはい上がっていく文学青年、貧困、病気、絶望が襲いくる。それでも最後は希望である。自伝であり、横光利一伝でもある。優れた作品だ。「台上の月」中山義秀 新潮社 昭和３８年刊
「なんだか一番街の灯りがみんなひなげしなったみたいに目に浮かんできます」
「初夏の日射しが丘の花を明るく照らしている。ぼくはレールの下までひなげしに埋まっていると思った。そのとたん、線路を走る車輪の音が突然に音楽に変わったんだ。『タアン、タ、タタタン、タアンタ、タアン』、ぼくはそのメロディを口ずさみながら車窓を見つめた。憂いと感傷が悲しいメロディを奏でていく……」
「ううん」と、言って破れた袖口から手を伸ばして中山義秀はあごに手を当てた。一方、インバネスの男は右手の古本屋をのぞいた。白樺書房だ、店頭の１００円コーナーに未完大作「旅愁」がひっそりとある。
横光利一と書かれた本を作者の横光利一が手にとった。
＊注記 中山義秀「台上の月」に書かれたエピソードを参考にした。ウイーンのひなげしは横光利一作品「罌粟の中」を参照した。中山義秀は横光利一の生き字引と言ってよい。「台上の月」は、横光邸のある代沢の丘に昇る月を言うのであろう。赤貧の中からはい上がっていく文学青年、貧困、病気、絶望が襲いくる。それでも最後は希望である。自伝であり、横光利一伝でもある。優れた作品だ。「台上の月」中山義秀 新潮社 昭和３８年刊
rail777 at 20:23│Comments(0)│TrackBack(0)│
