2005年03月

2005年03月31日

下北沢X物語(195)〜北沢川文学の源流前橋を訪ねて� �

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    萩原朔太郎の年譜、昭和四年七月には「馬込平張の家を解散。二兒を伴って帰橋。」とあった。昨日は馬込平張を辞した。とすれば今日は訪橋となる。冗談ではなく、本当に朔太郎の詩「帰郷」への旅を思い立った。前橋への旅である。
 立つのなら上野、行くのなら在来線経由がよい。時刻表を見ると「7時10分」ではないが、「7時20分」の電車がある。「帰郷」の列車は夜行である。が、10分遅れの数字の符合は面白い。よし旅立とう。上野発の特急水上、万座鹿沢口行きだ。もちろん高崎線経由である。朔太郎の詩に「旅上」というものがある。それにこと寄せて旅立つ。
 草津に行って温泉にのんびりと浸ってみたい。そう思うけれども、独りで手ぬぐい持って温泉というのはあまりに侘びしい。せめて新しいジーンズをはいて、気ままな旅に出てみたい。電車が武蔵の国をゆくとき、ふと浦和辺りの路傍の公園に紫の花大根が群れ咲いていた。日の光を浴びた上尾の辛夷のつぼみは純白のゴールドである、鴻巣辺りの野原に小さな赤い鳥居が沈んでいる。桶川、梅の花が窓を赤く染める。窓によりかかって見ると思いも染まる。自分一人今日の楽しいことを思う。弥生晦日の朝のしののめ柳の枝がもえいづる心まかせに。
 「まだ上州の山はみえずや」と朔太郎に問われたように思う。うつつか夢か、「見えた」と答えた。赤城、そして榛名を車窓にぼんやりと眺めているとはやもう前橋だ。
 駅前から歩き、歩いた。するうちに広瀬川にぶつかり前橋文学館に行き着いた。400円を払って朔太郎の肉筆の原稿を見、肉声による彼の朗誦を聞き、愛用の灰皿を確認して町に出る。すると前橋風土博物館はそこから始まる。
 広瀬川を遡る。色を見る、こぶし、梅、レンギョウ、ケヤキが多い。茶褐色の芽が靄のように枝にかかっている。代田にも馬込にもケヤキはある。
 音を聴く。広瀬川のせせらぎ、それに、女子校の軟式テニス部の顧問の声、「もっと打てる」、「もっと高い打点で」という声がいつまでも響いていた。前橋の教師はプライドを持っていると思えた。河畔でジャージ着て体操をしている人も文化風土の教授だ。「広瀬川は旧市街流れているからね、たどると面白いよ。この川の水で前橋シルク作っていたからね、女工が。そうたくさ女工が昔いたね。萩原朔太郎の家屋敷を移築してあるのは敷島公園だな。これずっといくといいよ。おれの足だと三四十分だけどな」。健康自慢の高齢教授だ。
 上小出町で出会った女性とはだいぶ長く話し込んでしまった。石塚さん(67歳)だ。
「わたしはね、目を悪くしましてね、しばらく歩けなかったのですよ。それで、やっと歩けるようになって歩いているのね。それでね、恥ずかしいものだから歩くというのが日の入り際なのね。でもね、そうやって歩いていると分かってくるのよ。榛名の山、赤城の山、色が違うのね。季節によっても、時間によっても違うわ。春は霞がぼんやり、秋は薄紫にくっきり、それがね、山っていうのは縁からお化粧するのよ。榛名が薄紫に、赤城が赤紫にね‥‥」
「目が見えるようになって、あっちこっち歩くの、それでね、詩碑なんかを読むのね、朔太郎さんのはあちこちにあるでしょう。それでね、見ていて思ったわ、あの人そこのところにちゃんと訪れているんだと思うわ。そじゃないとあんなの書けないわよ。そうね、何もしないでこういう田舎にいたら人が、あの人何しているのだろうと思うわね。でもだからといって家の中で詩はできないわね。やっぱりこのまわりぐるぐるまわったのだと思うわ」
 町の人が文学案内をしてくれる。前橋風土文学館は生きている。が、赤城下ろしの吹く回数が減ったと彼女は言う。
「ここの北に富士見村ってあるのね、そこから自転車で前橋に通っている人いるのね。帰りはおろしが強いから、自転車漕げないの、歩いておさなきゃならないの。反対に朝は、人が帆掛け船だから、風に押されてここまでちゃっちゃかちゃってきちゃうの。だけどね、赤城下ろしこの頃では吹かなくなったわね」
「そうそう、空がね、星が見えなくなったわね、昔は、天の川の星が降るように見えていたわね。月もね、恐いほど冴えていたわよ」
 そうか、なるほど、月に吠える、月にも吠えたくなるんだと思った。
   (写真は敷島公園に移築された朔太郎邸)


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2005年03月30日

下北沢X物語(194)〜北沢川文学の源流馬込を訪ねて〜

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    馬込への紀行を思い立った。もちろんまたがったのは自転車である。
 呑川を下った。するうちにふと気づくと川に高圧電線が寄り添ってきた。自転車を止めて鉄塔を見ると「駒沢線」と書いてある。ひやりとした。鉄塔がこのまま南下していって萩原朔太郎の馬込の家の側にあったら気味が悪い、そう思った。どこかで別れてくれよな、そう思うがなかなか離れない。東急目黒線の下を地下道で潜り抜けた。が、右手東京工業大学グランドに沿ってまだついてくる。ところが、グランドの端にきてぐびりと東に曲がった。いさぎよく直角に曲がってその先はもう分からない。別離地点の鉄塔を確かめると駒沢線NO13とあった。代田の丘の高圧線鉄塔の源流、NO1はどこにあるのだろうか。後12本たどっていくのも面白そうだ。
 けれども今日は浮気しない。ひたすら南だ。中原街道を渡って、東急池上線の下を潜る。やがて向こうにまた鉄道鉄橋が見えてきた。左からやってきた真っ白い太い棒が矢のように西に向かっていく。新幹線特急「のぞみ」だ。かの電車での駆け落ちはどうだろう。相思相愛の男女が窓外に咲いているおだまきの白い花を見つけてはほほえむ、それもできない。
 第三京浜にたどり着いて進路を左に取る。呑川の河岸段丘に馬込はある。地形が複雑だ。「馬込文士村ガイドブック」を持っているが自分がどこにいるのかよくわからない。馬込も武蔵野である。規則性のない丘がうねっている。幕府の隠密も迷ったことだ、迷い迷いいくのもいいだろう。と、臼田坂という案内が見つかった。
 その急坂を上る。すると上りきったところに坂の由来が角柱に記されていた。近辺に臼田姓が多いとある。その脇にお堂がある。まっ赤な幕に奉納と記されている。古くからあるもののようだ。この近くに萩原朔太郎が住んでいた。自転車でぐるりと回る。すると民家の脇に標識が建っていた。「詩の原理」を熱心に執筆していた萩原朔太郎とそこには記されていた。丘上の静かなところだ。今は廻りに家が建て込んでいるが往事だとかなり見晴らしが良かったと思われる。標識のある前の道は少しいくとぐっと下っていて、その向こうに茶色く芽吹いたばかりの欅の木々が見えた。「馬込平張」というのが地名だった、その当時の面影が残っている。ここも丘、代田も丘、朔太郎は丘の上の見晴らしのよいところが好きなのだなと思った。
  彼の住まいの近くに口碑があるというのも特色だ。驚いたことが二つある。自転車はこういう場合便利だ。土地の匂いを嗅ぐためにぐるりを回ることにしている。たちどころに塚が見つかった。磨墨塚だ。なんのことかと思ったら誉れ高い名馬のことだ。元暦元年(1184)の宇治川の合戦で梶原景季がまたがって武名を挙げた馬の名だ。「平家物語」の世界だ。その馬は馬込産だというのである。もう一つ、ひどく驚いたことがある。
 南馬込三丁目二十の七が朔太郎が居住していた地だ。そこから三軒目の角の家で鳥居を修理しているところに出くわした。屋敷神である。三丁目二十の七の小林さん宅である。たまたまそこを工事していた棟梁と話ができた。
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2005年03月29日

下北沢X物語(193)〜北沢川文学物語・「楡家の人々」〜

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  言葉は、文学は土地の風合いを反映する。とすれば北沢川流域の風光を染めた文学があるだろう。北沢川流域はかつて荏原と呼ばれていた。その荏原からも九州北岸防備に派遣された。当地出身の防人の歌も「万葉集」に数首残されている。奈良時代から下って、中世、往事の武将たちは連歌を好んで詠んだ「北沢川三吟百韻」を河畔で詠んだかもしれない。
 近世は数多い、齋田東野の「東野翁詩集」、「安斉詩集」、そして小枝子の松乃文・竹乃文、梅乃文・桜乃文である。この時代の文献は数知れない。
 
針医師の手を尽くしたる病さへ治る北沢淡嶋の灸  有信
 「狂歌江戸名所図会」天明老人撰・立原広重画 安政三年刊 
   世田谷地誌集 昭和六十年刊 世田谷区教育委員会発行 「針医師の」の狂歌は「北沢淡嶋明神」をテーマとして詠んだものの冒頭である。約三十首ほどある。たまたま見つけたもので外にも作品はあるだろうと思う。
 近代文学となると豪華だ。挙げきれないので代表作程度に止めた。
 代田二丁目の萩原朔太郎、詩集「氷島」、「定本青猫」、小説「猫町」。代沢三丁目の宇野千代、小説「色ざんげ」他。代沢四丁目の加藤楸邨、句集「万緑」他。代田一丁目の三好達治、詩集「駱駝の瘤にまたがって」他。代沢二丁目の横光利一、小説「機械」「旅愁」など多数。松原六丁目・代田三丁目の齋藤茂吉、歌集「つきかげ」他。代沢四丁目、森茉莉「貧乏貴族」など多数。「父・萩原朔太郎」、「天上の花〜三好達治〜」「蕁麻の家」は萩原葉子が書いた。彼女は今梅ヶ丘に住んでいる。けれどもこの作品は代田の地がどれも舞台となっている。北沢川文学には欠かせない存在だ。
 代沢二丁目には小説家、石川淳、代沢三丁目には小説家、田村泰次郎も一時住んでいた。また、上流松原六丁目の青山脳病院、そして代田二丁目の茂吉の家には宗吉が出入りしていた。「楡家の人々」を書いた北杜夫である。彼も流域文学のキーマンである。レトリックに北沢川の風光が出てくる。
 
「見たまえ。ここはいい土地だ。前方が低く、後方が高い。これは末広といって、とても縁起がよいものなのだ。いや、いいねえ、君、とてもいいところだよ」 
 「楡家の人々」(北杜夫) 昭和39年間 新潮社
 
 楡家創始者、楡基一郎(斉藤茂吉の養父、紀一がモデル)が述べている言葉である。これは土地誉めである。土地を誉めることで幸福を招来する。経験と見識がそれをさせたのだと思う。彼は楡脳病院(青山脳病院)の本院を火事で失った。それで、市外に土地を求めそこに楡脳病院を再建しようとしていた。小説中では実在の地名「梅ヶ丘」となっている。その丘の末広がりの裾は川である。川は東西を走っている。その南面に河岸段丘に病院建設を主は夢見ていた。けれどもこの土地探しに付いてきた医科学生、菅野康三郎は土地の印象をこう述べている。
 
  前方はもとより、横を向いても、うしろをふりかえっても、見渡すかぎりの麦畠である。小川が大層のどかに流れている。そこを渡っても、見えるものは青い麦畑のみ、はるかにぽつんぽつんと農家の藁屋根が散在している。
 いや、これはひどい田舎だ、と康三郎は考えた。こんなところに病院を建てて、一体患者がくるものだろうか?   「楡家の人々」
  梅ヶ丘は代田の隣である。ここに出てくる小川はもちろん北沢川である。こんなところに病院建てて大丈夫だろうか、青年には不安があった。が、紀一には未来がはっきりと見えていた。
 
「院代たちは青山の土地に執着しているが、それは時代を見ないということだ。青山なんぞは君、いずれは家がびっしり建つよ。東京はどんどん発展する。世田谷なんぞもいずれは東京市に編入されるようなるに違いない。大病院は郊外に建てる、そして青山は外来診療を主にして、郊外の病院に患者さんを送る、そういうふうにしなけりゃ駄目だよ、君、ぼくは何時だってひと時代もふた時代も先を見ているからねえ」
 
  字義通り先見の明があった基一郎である。が、彼は自分の病の見立はできなかった。土地の測量中に倒れ不帰の人となった。梅ヶ丘に建った楡病院の院長には楡徹吉が就く。それは斉藤茂吉である。彼の年譜を掲げる。
 昭和二年(一九二七)四十五歳
 四月二十七日、斉藤紀一に代って青山脳病院長の職をついだ。五月一日、二男宗吉(北杜夫)出生。七月、親交のあった芥川龍之介自殺
 「斉藤茂吉集」 現代日本文学大系38 筑摩書房 昭和四十四年刊
 
 北沢川のほとりの病院の院長に齋藤茂吉が就いた。楡家の物語を綴ることになる北杜夫はこの年に生まれた。芥川龍之介の自殺も往事の人々にとっては大きなショックだった。伊豆湯が島でもこの悲報を受けて朔太郎、達治、基次郎、千代らも驚いた。昭和二年というのは北沢川近代文学の因縁の年である。
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2005年03月28日

下北沢X物語(192)〜北沢川文学流域紀行�А�

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    齋田小枝子と聞いてはっとしたことがあった。「小枝子」という名前を見て若山牧水を思い出した。彼は透き通った大和歌を詠む近代歌人である。愛に酒に旅に生きた詩人である。好きな歌人であるだけに何かの拍子にふと出会うとしばし思いに耽ることがある。
 近代北沢川文学は齋田小枝子との直接的な繋がりはない。が、土地の風合いは関係する。
    北沢川の色と匂いをかいで多くの芸術家がこの川の河畔に住んだ。それは個別的なものもあるが、関係という因果によって結びついている場合も多い。
 その物語は楽しい、発端は伊豆湯が島にはじまる。出会いが出会いを生んで今日にいたる。若山牧水も北沢川文学の縁に微かに存在する。
 例えばこんなことがある。三好達治が病気を患った梶井基次郎に転地療養を勧める。それで伊豆湯が島へ梶井は療養生活を送る。三好達治も見舞いに行く。その湯が島に牧水が来ていて、彼ら二人は湯へ下りていく姿を見て牧水だ、牧水だと言い合う。
  代田二丁目に住んでいた萩原朔太郎は昭和十年六月日光町長の招待で「慈悲心鳥」の声を聴きに出かけている。(萩原朔太郎年譜)そのメンバーの中に若山喜志子の名前をみつけてあれと思った。彼女は若山牧水の奥さんで歌人である。牧水はもう亡くなっていたが、奥さんとの交流が続いていたのだと思う。
 回り道をした。若山牧水の最初の恋人が「小枝子」である。彼女との激しい恋愛が彼の歌を作り上げた。言葉の作品は人間同士のぶつかり合い、愛するとか憎むとかねたむことで生まれる。
 齋田小枝子の短歌はどうだろうか。まず三首である。
 
雨風も雪にもめげずなよ竹のうきふし忍ぶ色ぞめでたき
 
ときはぎの松のみどり子かずそひて影なす千代をほぎまつるなり
 
うぐいすの竹のそのふのしのび音をあはれとだにも人は知らずや
 
○第一首 竹と節は縁語である。「うきふし」は憂き節である。悲しく辛いことを言う。とすると、おおよそ次のような意味であろうか。、
雨風にも雪にもめげないでよくたわむ弱竹、辛く悲しいことを忍んできた節の色にはとても心惹かれることよ。
○第二首 ときはぎは常磐木 樹木の色がいつも緑であること 数添ふ 親木の松に小松が数多く慕い寄る意か?
  千代 長い年月 ほぎ 終止形は「ほぐ」 祝く・寿く 祝う、祝福する。
常磐木の松の赤子、緑子が数多く親に寄り添って影を作っている。親が元気でまた子どもも育つ、千代に八千代に、いつまでも青々として普遍であるそれを祝福し申し上げたことだ。
○第三首 そのふ 園生 ひと囲いの土地 忍び音 あたりを憚るようなひそめた声
鶯が竹薮で鳴く、辺りを憚るようにひっそりと鳴く声がしみじみとしている。そのことさえも人は知らないのだろうか。わたしはひそかに知っている。
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2005年03月27日

下北沢X物語(191)〜北沢川文学流域紀行�Α�

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 代田の女流歌人は出城跡に住んでいた。
 齋田小夜子は北沢川詩歌文学のひそかな源かもしれない。代田の谷に湧いた言葉のハケ、染み出た言葉の水が川に彩りを与えている。とすれば興味が湧く。
  言葉は土地の風合いを反映する。詠まれたところがどんなところか知らないよりも知っていた方がよい。もうそう思う前にペダルは回っていた。今日の昼過ぎのことだ。
 砦跡への自転車紀行だ。世田谷城続きの台地が北沢川に張り出しているのかどうか、自分のペダルで確かめたかった。
 代田三丁目二十三番地を裏手から回った。屋敷の東だ。ぐるりと廻っていくうちに奥まったところに門があった。頑丈な鉄の門扉には車がついている。門の向こうには樹木が茂っている。松、杉、竹がある。緑豊かである。桜、梅、松、竹、桃などが敷地の外からも眺められる。齋田の森と言われるだけに鬱蒼としている。
 鉄扉を正門と思って映した。今日のブログの写真はこれでよいと思った。が、表門は別にあった。環状七号線沿いが正門だった。齋田記念館だ、そこへ行く方の広い石畳が奥へ続いている。門の脇に自転車を駐輪するが落ち着かない。
 左右の植え込みの間を蔵の方へ向かう道がある。入っていくと門があった。表門である。豪壮である。がっしりした瓦葺き、重厚な梁、太い門柱、杉の一枚板の扉戸、門構えから家柄の重みが見えてくる。
「時代劇のロケを齋田さんのところでよくやっていましたよ」
 邪宗門の奥さん、貴久枝さんがいつかそんな話をしていた。ここである。
 この家屋敷に齋田小枝子は住んでいた。彼女の名は地域資料で前から確認していた。「漢学者で最後の名主となった斉田東岱(平太郎)」(「ふるさと世田谷」)の妻である。
 
  彼女は、文政八年(一八二五)三月二十一日、瀬田村の名主長崎重行の次女として生れ、代田村の名主齋田平太郎に嫁し、男子五人女子二人をもうけたが、男子三人は早世し、彼女五十一才のときに夫も逝去するなどがあったほか、彼女が斉田家に嫁してから四十六年間は、幕末から明治へと激しくゆれ動く世相の中にあったが、天性の才に加えて、漢学に造詣の深かった父重行の訓育によって育まれた資質は和歌をよくし、松乃文・竹乃文、梅乃文・桜乃文などの遺文集がある。
  (「世田谷の地名」上 世田谷区教育委員会 昭和五十九年刊)
 
  遺文には「松」「竹」「梅」「桜」がついている。そのタイトルだけでも魅力がある。遺文に代田の昔の風景が詠み込まれているかもしれないと想像した。それで、世田谷中央図書館に行って聞いてみた。
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2005年03月26日

下北沢X物語(190)〜北沢川文学流域紀行�ァ�

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  狐塚を後に東に向かう。坂だ、ギアはロウで漕ぎ上る。梅や桃が花盛りだ。家並み近く春は来てこぶしの花は青い天上のガラスを白く染める。
 自転車で廻ると地形はよく分かる。いま走っているところは北に延びた舌状台地だ。ゆったりと川に向かって坂が転がっていく。昔はもっと坂は険しかったと地元の人はいう。代田を南北に走っていた古道、堀之内道は戦後拡幅された。今は六車線の環状七号線になっている。が、V字谷の痕跡はいまでもある。北からも、南からも国道は川に向かって下る。北からは切り通しで道は下りてくる。運転手が斜度を見誤ることはある。たいした坂ではないとブレーキを甘めに踏む。が、坂で加速がつき慌てて急ブレーキを踏む。ちょうど円乗院のあたりだ。自身も十年前にこの地点で追突されたことがある。自分の乗っていた二輪車に乗用車がつっこんできて、バイクは隣車線にすっ飛ばされた。そこにトラックが来た。あわやと思ったとき、二トン車は止まった。寺のすぐ脇で成仏するところだった。
環七の代田の谷を甘く見てはいけない。
 甘く見なかったのは齋田家だ。V字谷南斜面突端に位置するその場所は重要地点だった。
「代田村の字本村の台地突端は、世田谷城防衛の重要地点の一つであったと判断されるところから考えて、吉良氏はここに小砦的番所を設け、斉田氏以下後に代田七人衆と呼ばれる家臣を常駐させていた」(「世田谷の地名」上 世田谷区教育委員会 昭和五十九年刊)
   現在地にある齋田家はかつては砦であった。世田谷城続きの台地突端は世田谷城北東の防衛拠点である。ところが戦いは起こらず、砦は無血開城した。
 天正18年(1590)7月、吉良氏と手を組んでいた小田原の北条氏は豊臣秀吉に攻められて滅亡する。
 それより以前の4月世田谷城とその属城等は、上野国を経て南下した前田利家などの北陸軍団に戦わず開城し、吉良氏は下総千葉県生実(千葉県城南海寄り)にのがれたとあるから、この時後の代田七人衆は、自己の住んでいた代田番所(仮称)を出て、とりあえず後に本屋敷と称する区域に帰農し、ある程度開墾の進んだ時点で、円乗院を建立する
 もちろん記事は「世田谷の地名」によった。後に便利だろうと思って買ったが、今は重宝している。世田谷の細かな谷の風合いがさりげなく説明してある。隠れた名著である。代田の歴史紀行には欠かせない。 
 砦は代田七人衆の筆頭であった斉田二家の一つが番所跡に入って。そして代々名主を務めた。それが現在代田三丁目二十三番地の広大な敷地を占めている齋田家である。「齋田記念館」が敷地内にある。「世田谷の地名」は心憎い。齋田家邸内に稲荷の小祠があることを記述している。屋敷神であろう。
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2005年03月25日

下北沢X物語(189)〜北沢川文学流域紀行�ぁ�

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   今日は代田狐伝説を訪ねる旅だ。
  萩原葉子宅から北を目指した。坂を上る,すると東に行く道に出る。緩やかなカーブを描いた道が東南へと続いている。古道,滝坂道だ。このままたどると淡島に出る。左方向に進路を変え,代田三丁目の坂を下る。すると右手に児童公園(18番地)がある。滑り台や砂場,遊具は赤や青の原色が塗られている。男の子や女の子,走ったり,駆けたり,砂を投げたりと忙しい。代田児童遊園である。このまんまん中に不思議なものがある。石碑である。自転車を止めて見学する。
 正面に回る。碑面には「狐塚之霊○」と記されている。この地に遺されている狐伝説である。かつてここには栗原稲荷神社が祀られていた。百五十メートルの参道があり,境内は百八十坪あったようだ。「ふるさと世田谷を語る」にはつぎのように語られている。
 
   いまではその大半の土地には住宅が建っていて,神社は公園の片隅に祀られているのです。この公園の中央には高さ一メートルほどの「狐塚の碑」と書かれた碑が建てられています。これは,昔この辺りが雑木林やスギ,マツ,ヒノキ,キリ,ウメなどの林,竹やぶなどの多かった所で,キツネ,タヌキ,イタチ,ノウサギなどが住みついていた場所であることと関係あるのです。これら小動物の中で,キツネは稲荷信仰の神使いとして稲荷神社では大切に祀られていましたが,その一方で悪さをしたりする動物出もありました。明治五年頃,この栗原では,病気になったり,不慮の事故にあったりする人が続出しました。行者にみてもらったところ,これはキツネに取りつかれたためだということになりました。そして行者の祈祷によって人間に取りついたキツネの魂を引き離して,稲荷神社の境内に封じ込めたのです。狐塚の霊碑は,キツネの霊魂を祀った石碑なのでした。
 今でも地域の有志の人々によって,建碑の明治三十二年三月六日に因んだ毎年三月六日には,交代で供物を捧げ,お参りしているということです。
 
    明治五年に起こった狐祟り事件である。文明開化後の事件であるだけに興味深い。が、文明開化が狐狸の反撃を食らうというのはよく知られた話だ。鉄道開通によって巣穴を壊された狐狸たちが汽車に化けて現れたという話は日本全国に数多くある。(現代民話考「偽汽車・船・自動車の笑いと怪談」松谷みよ子。立風書房1985年刊)
 鉄道が動き始めたのは明治五年だ。代田の狐祟り事件と同じ年に新橋横浜間の鉄道が開通した。ところが狐狸たちは沈黙していた。明治十二三年頃になってようやく反撃に出た。汽車に化けて線路上にしばしば現れるようになった。
 なぜ沈黙していたか?。じつは機関車の運転はお雇い外国人がしていた。日本人機関方に代わったのはちょうど、明治十二三年頃である。「ここに至って狸も狐も昼寝から起ち上り、偽汽車を走らせはじめた」(現代民話考)青い目におびえていた狐狸たちは一斉に反撃に出た。狐狸たちの術は外国人には利かない。
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2005年03月24日

下北沢X物語(188)〜北沢川文学流域紀行��〜

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    予期せずして意外な神に出会った。屋敷神である。
「うちかい、二つあるよ」
 屋敷神が二つもある家とは驚きだ。がっしりした大理石の石門に「宇田川」という表札が埋め込んである。その二つの門を辛夷の木の枝が被っている。折りしも白い花が咲いている。古樹辛夷、主は古武士かもしれないと思った。家の中に庭と畑と屋敷神がある、広壮広大なお宅である。梅や桃、そして、庭には菜の花や水仙が咲いている。
「一つはお稲荷さんだな。もう一つは御嶽山(みたけさん)だな。そうね、お稲荷さんは二月初午には神主さんに来てもらって祭礼をするな。お稲荷さんは自分ところと近くの久保稲荷にも行くから、初午は二回お参りするんだよな、ははは」
 宇田川さんに許可をもらってその屋敷神を見学する。敷地の西南片隅に「御嶽山」はあった。大谷石で三段の土台を築き、四段目が石盤だ。その上に一メートル四方のお社がある。棟にはしめ縄が飾られている。片手間に祀る屋敷神という感じではない。
「世田谷地域は青梅の御嶽山の講がありまして。御師(おし)が山から下りて来て祈祷をしていたのですよね」
 御嶽信仰分からないことがある。木曾の御嶽山かとも思った。それで、今日、世田谷郷土資料館に電話で問い合わせた。すると、そんな答えが返ってきた。
  厄除け、延命、長寿、子孫繁栄を願う神のようである。武将たちの信仰を集めていたようである。そういえば代田八幡宮境内にもひっそりとこれがあった。
 もう一つのお稲荷さんは敷地の東にあった。これも立派なお稲荷さんである。(写真掲載)二月初午からそう時間は経っていない。幣が真新しくそれが風に揺られていた。
   宇田川さんのところは梅ヶ丘二丁目である。かつての字名でいうと「久保」である。「世田谷の地名(上)」(世田谷区教育委員会、昭和59年刊)には「窪」の当て字だとある。
「云い伝えによると世田谷城下の中以下の家臣の住居集落で、敵の攻撃に備えた道路構造なのであろう」ともある。城下、武将、御嶽山、宇田川さんは吉良家の家臣の末裔なのだろうか。
「この土地っていうのは城続きで、それなりの風格とか、品格があったのじゃあないですか。」と聞いてみた。すると、「そんなことはないだろう」と言って笑っておられた。
 宇田川さんは土地のことに詳しい。小堀杏奴と萩原葉子の家も地図を書いて教えてくれた。すぐに自転車にまたがって小堀邸をめざした。そこはすぐに見つかった。画家の小堀四郎とその妻杏奴はここに住んだ。森茉莉の妹である。家は烏山川に南面した丘にあった。道路拡幅で昭和8年に建てられたアトリエは壊された。当時、近隣の農家に来た嫁はモダンな家の前で記念写真を撮る習わしがあったという。
 一帯ははかつて「世田谷町山崎」と称した。地名については諸説ある。城から見て山の崎にあるからという説、烏山川を挟んだ向こう側に大夫山があるから山前(やまさき)という説などである。「世田谷の地名」に詳しい。
 この世田谷町山崎に東郷青児が住んでいた。一四○五番地である。
 昭和五年四月「罌粟はなぜ赤い」という新聞小説を宇野千代は書いていた。その作品中に男女がガス中毒死するシーンが出てきた。執筆の必要から彼女は東郷青児に取材を申し入れた。彼は情死未遂事件を起こして新聞沙汰になていた。その東郷と宇野は大森で出会い、そのまま車でこの山崎まできた。そして、情死事件のときの血のついた布団、その上で男女は性を交わった。二人は後に北沢川河畔、淡島に人目を惹くアトリエを建てた。
 北沢川文学物語で述べてきた部分だ。詳しくは述べてないが馬込、湯が島、北沢川という地名が物語りでつながる、人脈でもそうだ。宇野千代、梶井基次郎、三好達治、萩原朔太郎、そして、朔太郎邸を訪れた横光利一、そう文学の人間関係が地下水脈文学を形成している。萩原葉子、森茉莉、月に吠える舞姫たちも関係してくる。斉藤茂吉、北杜夫も川ではつながる。近現代日本文学である。
 月に吠える女などと言ってはいけない。萩原葉子は存命である。宇田川さんの地図を頼りに家を探す。付近を三回ほどぐるりと廻っもわからない。それで庭にいた主婦に聞いてみた。「通りかかるだけでいいので萩原葉子さんの家教えてくれますか」と言ったら彼女は笑いなが教えてくれた。
「そこの二階建ての家ですよ。ええ、表札はかかっていませんね。静かに暮らしておられるみたいですよ」
 月にはもう吠えていない。こぶしの花の咲く梅ヶ丘でひっそりと暮らしているようだ。
  故・小堀杏奴、萩原葉子、ともに烏山川を南面にした梅が丘に住んでいる。画家は川向こうの大夫山が風景として良かったのだろうと思う。それでその地を選んだ。葉子は父やまた父代わりだった三好達治の近くに住もうとしてそこに住んだのだろう。葉子が書き表した「天上の花〜三好達治抄」には「家から歩いて十五分の三好達治さんの下宿」とある。
 萩原朔太郎は代田二丁目に住んだ。師であるその朔太郎を慕って三好達治は代田一丁目に寄寓した。萩原葉子は父代わりである三好達治に近いところ、代田の隣梅ヶ丘に住んだ。丘続きの地所だ。また一つ代田の丘の物語春の宵。
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2005年03月23日

下北沢X物語(187)〜北沢川文学流域紀行�◆�

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  武蔵野の川の多くがハケ、湧水を源流としている。広葉樹林に降った雨は時間をかけて沢から滲み出す。森厳寺川もだいだらぼっち川も、大昔はハケであったろうと思う。
 北沢川も、もともとは自然の川で源流はハケであった。去年夏、源流をさかのぼった。すると川は都立松沢病院の一角にある看護専門学校のところで消えた。そこが源流であった。後になって玉川上水からの分水を許されて用水路となり、水量は倍に増えた。それによって下流域に恵みがもたらされた。
 川は文化の源だ。代田七人衆の末裔柳下さんは子ども時代豪徳寺まで遊びに行った、梅ヶ丘の小田急線路まで行って釘をつぶしたという。復員して帰ってきたときは渋谷から乗った玉電で大橋まできて川をさかのぼって帰ってきた。川は水路であると同時に通路だった。風や匂いも谷川を通ったであろう。川をさかのぼれば見えないものが見えてくるはずだ。それで北沢川文学流域紀行を思い立った。
 
  春の陽気は皮膚にむずがゆい。ペダルを踏む度に全身に杉花粉がまつわりついてくるようにも思った。それでも自転車は北を目指した。丘を上って川を渡る、蛇崩川、そして、烏山川だ。川といっても暗渠だ。今は遊歩道になっている。そこに入り込んで蛇行した道に沿って遡上する。すると右手奥にこんもりと茂った森が見えてきた。進路をそちらに取る。木々の生えた小高い山があった。そこが城跡だった。都指定旧跡の「世田谷城跡」だ。区教育委員会が建てた看板があった。
  世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し西、南、東の三面に烏山川が蛇行し、北に小支谷が入る。十四世紀吉良氏が居住したことに始まると伝えられる。
  城と川、深い因果関係がある。が、武蔵野の舌状台地の先端を流れているのは烏山川である。北沢川ではなかった。代田川文学は途切れそうである。それでも希望は失わない。サイクリストは世田谷城続きの豪徳寺を目指した。
 北に数分行くともう伽藍が見えてきた。豪徳寺だ。この寺も城跡である。紅梅の色鮮やかな寺に眠る直弼に詣でる。吉良氏没落後、世田谷は彦根藩領となった。大老井伊直弼は、井伊家菩提寺のこの豪徳寺に葬られた。
  歴史の細流は頭がくらくらしてしまう。現実の細流を探す。それは寺の裏だ。豪徳寺二丁目二十六番地はすぐに見つかった。寺の裏だ。そこには「豪徳寺裏門」という石碑があった。プロレタリア文学の重鎮、中野重治の家はこの付近にあった。そこで「斉藤茂吉ノォト」をまとめた。
 日本鉄道文学の最高峰を極めている作品が散文と詩にある。散文は中野重治の「汽車の罐焚き」であり、韻文は萩原朔太郎の「夜汽車」だ。夜汽車の弟子が三好達治である。豪徳寺裏で酒を酌み交わした重治と達治はともに「機関車」という題の詩を書いている。朔太郎、達治、重治の汽車つながりはひそやかな真実である。近代文学の根源には汽車があることをひっそりと教えてくれる。豪徳寺裏の想像空間鉄道である。
 福井産の銘酒「黒龍」を飲みながら、機関車論を交わしたかもしれない。それがどの家だったかは分からない。自転車機関車で二周ほどしてみた。たまたま路地に出てきた男の人にこれ幸いと聞く。が、にべもなく「知らん」と言い放って去った。
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2005年03月22日

下北沢X物語(186)〜下北沢の出版文化・第二書房〜

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  下北沢交点周辺には詩人、歌人が多い。ノースアングルには野屋敷の中村草田男、イーストアングルには中村汀女、サウスアングルには萩原朔太郎、齋藤茂吉、三好達治、加藤楸邨が住んでいた。吉増剛造も下北沢に下宿していたように思う。萩原朔太郎の家には辻潤、草野心平も出入りしていた。また、下北沢3号踏切脇にあった静仙閣にも名前は分からないが詩人が住んでいた。それは戦前のことである。
  昨日、代田「邪宗門」に行った。この頃では「下北沢X物語」の情報キーステーションになっている。店主の作道さん自体が下北沢の文化探索をおもしろがっておられる。それでわたしに情報を伝えてくれる。かつての戦争に関わった枢要な人物の孫との面会まで取り持って下さった。先行きが楽しみだ。
 店に行くと、作道さんが伊藤さんに連絡を取ってくださった。伊藤文学さんが来られた。お孫さんを連れてである。中学2年の彼は紙袋を下げていた。その中にびっくりするようなものが入っていた。物故した著名な詩人の書簡である。手紙そのものの内容がその詩人らしい。新資料発見である。
 「薔薇族」編集主幹の伊藤文学さんは時の人だ。同性愛雑誌として名の知られた「薔薇族」は平成16年11月号で廃刊した。が、来月4月21日6月号が発売される。復刊されることになった。それでマスコミの取材が数多くあったようだ。
 ご自身はゲイではないと言う。が、長年の経験が眼光鋭く人を捉える。前回お会いしたとき、「邪宗門」に取材に来ていた女性を見て、貴方は長女でしょうと指摘すると彼女は頷いた。
「長女っていうのは男っぽいんですよ。一目見ただけで分かりますね。ゲイっていうのは末っ子が多いですね」
 「邪宗門」の近くにはレンズ研磨の町工場がある。長年の手練れは磨き終わった製品を眼で見ただけでコンマの誤差が分かる。熟練の業師だ、伊藤さんもゲイ判定士、その眼に狂いはない。たまたま出てきた写真を見てこう見立てた。
「川端康成ね。あっちの気もありますよ。疑いないですね。」
 復刊第一号は伊藤文学さんと三輪明宏さんとの対談が載っている。「薔薇族」が創刊されたときロールスロイスに乗って買いに来たのは彼である。それ以来のつきあいだそうだ。ゲイは趣味として見られがちだがそうではない。人間の生き様,生き方のスタイルでもある。が,偏見も少なくない。そういうゲイに悩む人々に光明を与えたのも「薔薇族」である。
 寺山修司も「薔薇族に」献辞を贈った。「世界はおとうとのために」というオマージュだ。それは巧みな詩である。
 
 書かなくとも/それはたしかに存在している/たとえば 少年航空兵の片目をかくした/眼帯のうらがわに(「薔薇族」ホームページから。一部のみである)
 
「いや、それはね、続けるっていうことは大変ですよ。『薔薇族』は発禁(発売禁止処分)四回、それに始末書は二十四回取られましたよ」
「戦後、親爺が昭和二十三年に、この下北沢の地で出版社を起こしました。そうですね、空襲でやられなかったということは関係しますね。当時出版社ってたくさんできましたからね。それではわたしも見ているんですよ。その出版起こしていた人がのたれ死にするのをね、ああはなりたくないと思いましたね。まあ、長い道のりでしたね。」
「親爺が第二書房を興しました。詩や歌集を主に出版する会社ですね。長谷川巳之吉の風格ある第一書房に対する第二書房という気概でしょう。あそこは堀口大学とか萩原朔太郎とかの著名詩人の美装本を出していましたからね。それで、親爺は短歌とか詩関係の本を出していましたね。だから家には昔の著名な文人の手紙とか原稿があるんですよ。それが整理できていなくてね。」
 お孫さんが持ってきた紙袋にはそれが入っていた。詩人や歌人の原稿や書簡である。
「だけど、詩歌の出版というのは難しくてね、潰さないためには売れるものを考えていくしかなかったですね」
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2005年03月21日

下北沢X物語(185)〜北沢川文学流域紀行� �

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  流域の面白さが分かってきた。さかのぼることによって見えないものが見えてくる。北沢川を少し遡ると齋藤茂吉がいた。調べてみると、とある有名な詩人もいた。川でつながるのだろうか。そのエピソードは本でみつけた。浮遊物語として紹介する。
 
  戦後のことだ。ある時、自分のところに上等なお酒が入った。酒好きの友に知らせると早速に彼はやってきた。メチルではない、本当の日本酒だった。
「いやぁ、これはうまい。」
 大男はむさぼるように小さな盃を何度も差し出した。ついでは飲み、ついでは飲みするうちにすっかり二人ともいい気分になってしまった。
「あの鳴き声はなんですか」
「ああ、隣が豪徳寺でふくろうが住み着いているんですよ」
 プロレタリア詩人がこたえた。
「猪口は小さいけれどこの夕べの友は、だんだんに自分を化かしますからね。ふくろうじゃなくて狐かもしれませんね」
 抒情派詩人は自分の詩を踏まえたようなことを言った。
「狐か、ここらへん出るからなあ」
「そうだ、君はうまいこといったね、犀星と朔太郎の出会いを『いみじき出会い』と言ったね。」
「そんなこと言ったかな」
「いったんだよ。」
 言った言わないで、二人はケンカしながらも酒を酌み交わした。国元から送ってきた「味付けタラ」もたちまちになくなった。三国産のそれを彼は懐かしがった。ふくろうがまた鳴いた。すると彼は、急に立ち上がった。足袋が踊った。
「おいおい、だいじょうぶか、泊まっていけよ」
「いや、帰る。」
「送ってやるよ。」
「いいよ、おれ一人で帰れるから」
 大男はふらふらと歩いていく。
「大丈夫か」
「だいじょうぶだよ。なんだこれは赤のまんまじゃないか。中野これを歌っていいか」
「ばかなことをいうなよ」
 がっしりとした男は三好達治だ。たしなめているのは中野重治である。豪徳寺二丁目二十六番(旧番地、世田谷2−1172)に中野は住んでいた。その家を三好達治は辞した。中野重治の追憶を膨らませた話だ。彼はその後をこう書いている。
 
  とにかくひどく酔ったことは覚えている。そして三好が帰るというので、彼の酔ったのが心配だから送って行くといつて私が送り出した。これはどこかその辺りまでということで、彼の家ということではなかったが、その送り方がひどくみっともなかつたことを家で聞いて知った。つまりいちばん前を三好がひよろひよろと歩いて行く。その後から、私がひよろひよろと歩いてついていく。夏だったにちがいない。私が尻からげをして、痩せて色のきたない脚を太股のへんまで出して、前の三好にそこはドブだから気をつけろとか何とか大声をかけながらよろついていく。そこでわたしの女房が、心配でそのまた後ろからついて行く。 「あわただしく」中野重治 本の手帖 三好達治追悼号 
        昭和39年6月1日発行
 
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2005年03月20日

下北沢X物語(184)〜現代詩人にとっての下北沢� �

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下北沢はまがまがしい。
二本の血塗られた剣がクロスして魔力が地下に流れる。染みこんだ悪が沼を溜め込んでいる。小田急地下化の建設作業員が東北沢4号踏切わき、矢島精米店横の土をスコップで掘ったら唖然、紫色の温泉が噴き出した。
下北沢はまがまがしい。
インテルサット衛星が上空を通過したとき小田急と井の頭線のXの交点が青く光っていた。朔太郎のマジックの魔法だ。猫町は青くて、夜になると商店のシャッターに描かれた猫が飛び出してジャズダンス。線路はエックスクロス。そこを守り続けているのは下北沢2号踏切の脇の鉄道地蔵、何があってもいつも素知らぬふりしている。小田急特急エクセ、箱根行きが銀の光を地蔵の前垂れに振り撒いて駆けていく。ムソルグスキーの禿げ山の一夜を奏でてながら。
ああ、下北沢はまがまがしい。
 
    宇宙的視野から現代詩を描いている詩人に吉増剛造がいる。彼は「下北沢」という地名を特異な詩語としてしばしば用いる。
 吉増剛造詩集を読むと想像力が刺激される。熱いリズムと想像力に興奮してしまう。つい影響されてしまい、自分でもわけのわからないものを作ってしまった。
 彼の詩集には度々下北沢が出てくる。ことに長編詩「黄金詩篇」には何度も引かれている。下北沢の言霊を高らかに歌い上げている。
 
おれは署名した/夢‥‥と/ペンで額に彫り込むように/後は純白 透明/あとは純白/完璧な自由/ああ/下北沢裂くべし、下北沢不吉、日常久しく恐怖が芽生える、なぜ、なぜ、下北沢/早朝はモーツアルト‥‥‥中略‥‥‥ゆるい坂道をゆっくりくだってゆく/言葉の波をゆっくりはねのけながらくだってゆく/ああ/下北沢裂くべし、下北沢不吉、下、北、沢、不吉な文字の一行だ/ここには湖がない‥‥中略‥‥思惟、何処へゆくか/思惟、何処へゆくか/ここ下北沢、下北沢不吉/ここ湖底であろうか、古代の/霧/ゆっくり/みおろすと/やがて夕暮れ/鏡のような夕焼のなか、人々が歩いている‥‥
  黄金詩篇 現代詩文庫41 吉増剛造詩集   思潮社 一九七一年刊
 
   下北沢には詩人が多く集まった。それら詩人の言葉は吉増に比べると穏やかである。朧気ながら言葉の実像が頭の中で結ばれていく。茂吉の短歌などは彼の息づかいまでが三十一文字から聞こえてくる程だ。代田八幡のコウモリ、庭に跳んできたヒヨドリ、代田の二階から見える富士の山、それらはリアルだ。けれども吉増のはそれらを現実に思い浮かべることは困難だ。
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2005年03月19日

下北沢X物語(183)〜代田川文学物語�◆�

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    この頃は代田珈琲店「邪宗門」がキーステーションになっている。ここに集まった情報をもらっては、それを自分の目で確かめる。するとまた新たな鉱脈に行き当たる。
 昨日の夕暮れ、店を訪れて珈琲を飲んでいると作道さんが大きな封筒を持ってきた。中を見てびっくりした。
「これはすごいですね。文豪がごろごろのびっくり箱ですね」
 中に数十枚、A4サイズの写真が入っていた。名前が書いてないが一目見てわかるものばかりだ。著名な作家の写真である。齋藤茂吉、萩原朔太郎、横光利一、永井荷風、泉鏡花、吉田弦次郎、徳田秋声、安藤鶴夫、吉川英治、山本周五郎などだ。他は齋藤茂吉旧居、萩原朔太郎旧居、横光利一旧居、北原白秋旧居、志賀直哉旧居、竹久夢二旧居などの古い写真である。裏には「第二書房」の判が捺してある。伊藤文学さんがもってきてくれたものだった。
 伊藤文学さんのお父さんは世田谷文学散歩を主宰されておられたようだ。旧居はお父さんが歩き回って撮った写真である。未公開の貴重なものだ。使ってよいということで全部借りてきた。文豪を背負って自転車で帰る春の宵。文の豪気が押し寄せてくるようで荷はひどく重く感じられた。
 借りてきた写真は、デジカメで再生して使わせていただくことにする。が、写真が大きく過ぎてアマのカメラマンには手に負えない。反射がどうしても消せない。今日掲示したものはその一枚、齋藤茂吉である。
「わたしの自慢は齋藤茂吉に診てもらったことですよ」
  伊藤文学さん笑ってそう言われた。腹膜炎だったがそれは分からなかったそうだ。ムリもない、茂吉は精神科医だ。
  代田川文学物語を続けよう。文学の伏流水が北沢川には流れている。ひっそりと近代文学が眠っている。そればかりかすぐそばに江戸期末期の女流歌人もひっそりといたようだ。彼女は茂吉と朔太郎を結ぶ線の中間に永眠している。代田円乗院である。
   昭和二十二年の秋、齋藤茂吉は疎開先の山形県大石田から、二年半ぶりに上京してくる。茂吉六十三歳のときだ。当日のことは日記にきちんと残っている。
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2005年03月18日

下北沢X物語(182)〜代田川文学物語� �

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  今日は朝っぱらから文学散歩だ。通勤途次のそれは慌ただしい。けれども回り道で時間がかかった分を加えても十分もかからなかった。
 旧居探しは苦労だ。けれども今日は偶然的な出会いで歌聖の旧居が分かった。ここらへんではないかと見当をつけて住宅街で自転車を止めた。そのとたんまるで待ち合わせでもしていたかのように目の前の裏木戸からお婆さんが出てきた。
「斎藤茂吉さんが住んでいた家はここら辺にないでしょうか?」
 とつぜんの質問にも相手は動じない。
「ここですよ」
 こともなげに彼女は前の家を指さす。
「ここですか?」
 疑問の、たちまちの氷解に質問者は半信半疑だ。
「ええ,こことこの向こうの二軒分が,その家でしたけどね」
「そうでしたか」
「よかったわね」と彼女は喜色を顔に浮かべた。本当にそうだ。しぃんとした住宅街で人に聞きようもなかった。幸運の女婆神さまさまだ。
  代田三丁目五十番地と記された地番,その通りの一本向こう,南側には北沢川が流れている。
 三好達治旧居探しは半年かかったが,歌聖,斎藤茂吉の旧居は三日目に見つかった。いきさつはこうである。一昨日,代田「邪宗門」を訪れた。
 ご主人も奥さんも居なかった。それで店にある資料をのんびり見ていた。世田谷文学館が出している「ぶんげい世田谷」である。それには近隣の文学散歩コースが載っていた。代田八幡神社から斉藤茂吉旧宅へというのがある。それによると八幡神社の南一分のところに茂吉旧宅があったと記されていた。北沢川の河畔である。「近い」,自転車でいけば「邪宗門」から五分で行ける距離だ。
 居宅は北沢川上流にある梅丘病院だと思っていたが,そうではなかった。地図だと代田3丁目52辺りだ。萩原朔太郎旧邸までは近い。地図で測ってみると300メートルほどだ。歌聖と詩聖は隣合わせだった。が,代田の家での生活は戦後のことのようだ。
 現代日本文学大系,「斉藤茂吉集」(筑摩書房)の年譜で調べてみた。山形に疎開していた斎藤茂吉は昭和二十二年世田谷代田一の四○○の家に落ち着く。そこは前年に長男茂太が求めた家のようである。
 朔太郎は昭和17年に亡くなっている。代田での直接の接触はなかった。けれども二人は無関係だったかというとそうではない。萩原朔太郎年譜(「萩原朔太郎全集第十五巻」筑摩書房 昭和五十三年刊)を見ると大正6年(1917)にこういう記述がある。
 
 3月5日 森鴎外を訪問し『月に吠える』を贈る。同じ頃,斎藤茂吉を巣鴨の病院に訪ねて同詩集を贈る。*鴎外は正宗敦夫あての手紙に「今日萩原朔太郎ト云フ詩人初對面イタシ候 衒気ナドナキ好キ人ト存候」と書いている。
  当時,朔太郎は新進の詩人,詩の星だ。詩星は歌聖,斎藤茂吉と文豪,森鴎外に既に出会っていた。後の昭和になって茂吉は北沢川の朔太郎旧邸のすぐ上手に住んだ。鴎外の娘,森茉莉も旧邸の下流、代沢のぼろアパート創運荘に住んだ。彼女は北沢川をスモールテムズに見立て,そこに着古しのスエットをこっそり捨てていた。
 詩の星だった朔太郎は後に大成して詩聖となった。詩聖と文豪の娘同士が出会って北沢川のほとりを喧嘩しながら歩くというのもリアルである。
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2005年03月17日

下北沢X物語(181)〜JAZZ MASAKO〜

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  小田急線下北沢駅,世田谷代田寄り下りホームの向かいはラブホテルだ。性が密かに営まれるところだ。ゆきずりの恋,なさぬ仲の恋,あるいは通勤途中,思いついてちょっとラブということあるのかもしれない。性の営みは隠微である。こっそりとひっそりとラブホテルはある。が,下北沢だ。スリリングな場所にある。南口下っていくところの左手に小さなラブホテルがある。人通りも多いはずなのにちゃんとある。かつてのように入口で「行こう」「いやよ」という儀式をやらない。手をつないだままラブホにラブしにいくのかもしれない。
 下北沢活字紀行ではだいぶ書籍も漁ってきた。かつて下北沢の住宅街に民家を改造した宿があった。連れ込み宿「名月」だ。そこで宇野浩二や正宗白鳥が口述筆記をした。
 下北沢には民家文化というのが厳然とある。戦後からの伝統だ。下北沢地域が戦災でやられずに残ったことが大きな理由である。都心はほとんどが焼けた。新宿,渋谷もだ。が,そこからたかだか数分のところに焼け残った家々がある。敏感な人だったら家の活用を考える。宿屋に衣替えするのもいい考えだ。
 下北沢にかつてあった連れ込み旅館「名月」は民家を改造したものだ。宮脇俊三が住んでいた家も「晴光園」という旅館になった。文潮社という出版社も焼け残った民家だった。「薔薇族」を発行していた第二書房も同じであろうか。焼け跡活用文化だ。
  民家文化は今も下北にはある。一つのスタイルである。外から見ると民家,が,実はブティック,実は飲み屋,実はカフェというのがいまでも多い。ジャズ マサコはその典型である。冒頭に述べたラブホテルのそばにひっそりとある。民家を改造してそのまま喫茶室として使っている。創業は昭和二十八年である。
 喫茶室に入ったとたん昭和の昔にタイムスリップできる。薄暗い店内は創業以来のものという。くすんだ天井,はげかかった壁,煙草のヤニが染みついた黒い柱,ビニール張りの椅子があったり,応接間風クッションがあったりもする。壁には,ジャズメンの写真がいくつも掛かっている。すり切れた赤い絨毯も薄暗い店内では一つの雰囲気を醸している。昭和の時間が煙草の煙に燻されて漂っている。そこにサックスが響き,トロンボーンが鳴る。渋い声がジャズを歌い歌う。
 創業者は奥田政子さんという人だ。19年前に他界されたようだ。店は元常連だった今の店長が継いだ。彼も往事の雰囲気を大事にして今日に至っているようだ。
 行ったときは昼間だった。客はいなかった。サックスだけが響いている。そのうちに長い髪の女性が一人店に入ってきた。席に就くなり,バックから煙草を取り出し,ふぅっと吹いた。ルィアームストロングの声が響く。店の本棚には「ゴルゴ13」が列んでいる。音楽雑誌もぎっしりと詰まっている。
 モカコーヒーを飲みながら,壁のメニューを眺めた。ウィスキーホワイト500円,オールド600円,えびせん200円,チョコレート250円とある。
 ホワイトを飲みながら,チョコをつまむ。その場合の相手は男だろう。
「久しぶりだな。ここ来たの。十何年ぶりだよ,南口駅前すっかり変わったな。だけどなんだあれ,ジーンズにスニーカーをはいた連中がうようよいてさ。なんかなよなよしていない,あの連中,おれたちが下北来たときはさ,もっと思想性あったよな。」
  もみあげが少し白くなった男が喋っている。
「うん,なにもかも変わったけどさ,ここだけは変わらないな。なんかよ,時間の色が違うな。いまおれらの周りにはさ,リストラの風吹いているものな……」
  昭和二十八年,一気に入り込んできた外来文化が,心を捉えた。戦時下北沢の夜に響いていた重低音,B29の不気味な音は,戦後になってジャズに変わった。それはB29の贈り物かもしれない。この下北沢を遺しておくと,本当の文化が日本に根付くはずだ,焼夷弾投下は遅らせよ,そんなことがあって大原や笹塚に爆弾は落ちた,浮遊的妄想である。

 
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2005年03月16日

下北沢X物語(180)〜「猫町」の煙草屋さん��〜

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    朝,風は冷たかった。が,昨日よりも温かい。ゆっくりと自転車を走らせた。代田の丘に上るとき坂の左手に辛夷のつぼみを見つけた。杏は咲いていた。
 「かどや」の北村さんの話を続ける。
「お婆さん,生きていればね,昔の話よく知っていましたから聞くことできたでしょうね。そうですね,この向かいに萩原朔太郎という詩人が住んでおられたとすればここへ買いに来たでしょうね。今は煙草屋さんあちこちありますけど,当時ではこの近辺ではうち一軒でしたからね」
「下北沢新屋敷1008番地というのが,三十七番地に当たるのですか。その番地自体広いですよね。向かいの家は同じ番地ですけど,この坂を上ったところも同じ番地ですよ。北側に下っている斜面ですね。そうねぇ、あんまり見晴らしはよくないですね。」
  萩原朔太郎は下北沢の駅に近いので一時はここに住もうと思った。が,結局は代田の地に土地を見つけてそこに家を建てた。眺めははるかにここよりもよい。
「ここは向こうから夕日,西日が射してきましたね。商品のノートとか封筒が日焼けしてしまいましたね。いまは建物が高くなって昔ほどではありませんけど‥‥」
「そうね,ちょうどここは谷と谷の間だから,小川が流れていましたね。大雨のときは水があふれて店の中も水浸しになったこと,よくありましたね。ここの下,小田急東北沢4号踏切の辺りも水浸しになったこと覚えてますね。その左,矢島米店よりももっと奥まで水があふれていましたね。」
「この店の前の道は,今は広がっているんですけどね,昔は狭かったですよ。人通りですか,戦後でしたかね,一時はすごかったですよ。通りの向こうの方が人で見えないほどでしたよ。今はすっかり寂れてしまいましたけどね」
  南口のような賑やかさはない。人が三々五々通り,また,ときおり車やトラックも走り抜ける。その後に訪れる静けさがまた一つの味わいなのかもしれない。
「ここの道は鎌倉通りの方へ上っているでしょう。それでね,東大原小学校辺りはね,てっぺんになっているの。だから上までいくと強い風がいつも吹いているの。それでね,その風がまわるのね。木の葉とか紙屑が風に吸い上げられてくるくる回るのね。ところがこちらまで下りてくると風が吹いていないのね。不思議だわよ」
「ああ,中央市場ね,この大通り上って行くと道が鎌倉通にぶつかる。そこの左角にありましたね。お肉屋さん,八百屋さん,魚屋さん,雑貨店などがありましたね。わたしは大原に住んでいて,そこへ買い物によく行きましたけど,ほとんどそこで間に合いましたね。今はもうなくなって駐車場になっていますね。そうですか,そのお店が昭和八年の地図に載っていましたか」
  帰り道、野屋敷を通りながら浮遊物語を思い浮かべた。
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2005年03月15日

下北沢X物語(179)〜「猫町」の煙草屋さん�◆�

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   ゆるみかけた寒さもまたぶり返してこのところ寒い。手がかじかんで自転車も辛い。けれども春は目に見えて近づきつつある。折り重なった桜の枝の間が日ごとにが狭くなっていく。芽吹いた桜の芽で穴がふさがれていく。
 朝は朝な、自転車測量船で詩人の旧居脇に十秒間ストップして過去に思いをはせる。三好達治の寄寓先だったところだ。駐車場の片隅の菜園で春の雀鳥が土と戯れていた。
 夕は夕な、「猫町」メインストリートを通り抜けた。北沢村の果て、今は北沢五丁目、そこを南に下る。すると井の頭通りにぶつかる。まっすぐに行って坂を下る。下りきったところでまた坂になる。野屋敷の丘である。上りきるとフラットになっている。薩摩藩抱え屋敷があったところは一等地だったろう。いまでもお屋敷街である。北沢四丁目から三丁目へと南下する。するとまた坂は下っている。住宅地の中に明かりが見える。一番街大通りである。下北沢猫町だ。
  何度も通ううちに分かってきた。下北沢でもっとも古い商店街、一番街大通りは沢の跡にできた町だ。野屋敷と新屋敷の間にある沢筋に沿って町並みが形成された。通りを走り抜けていくとピーナツがにおった。そういえば昨日は大月さんにピーナッツをひと袋もらった。こりりと噛んだら昭和の味がした。
  立ち寄ったのは「かどや」である。昨夜から気になっていることがあったからだ。奥さんはおられた。ちょうど煙草の販売機に煙草を補充しているところだった。
「ああ、昨日のはなしのことね。このお店の、先代のお婆さんね、ええ、お子さんはいなかったですね。それで養女をもらわれたんですよ。うん、だからお嫁にきてからずっと煙草屋の店番していたんですよね。そういうことでいうとあなたのいうようにこの町を見続けた人だったのでしょうね」
 疑問はたちどころに解けた。ここにお嫁にきた人は、嫁いで以来ずっとこの煙草屋の店先に座り煙草を売り続けてきた。正座して坐って、人がくればにこやかに応対した。日が過ぎる。そして、一日の終わりには彼女の顔に西日が射した。敷島と朝日が売れた。それでいまの「かどや」の北村さんのようにカートンの袋を破ってそれを補充した。もちろん煙草ケースにである。
  話が飛んでしまった。もとに戻すことにしよう。
 下北沢一番街大通り,まん中ほどの角に店がある。四つ辻の煙草やさんは「かどや」として知られている。下北沢の町の草分け,昭和の初めに創業された煙草屋である。文房具「すずらん堂」であるが「かどや」の方がはるかに通りがいい。その女店主は北村富子(72歳)さんである。ご主人は十年ほど前に亡くなられたそうである。が,彼女はきさくで明るい方だった。北村さんの話もとても興味深かった。
「この煙草屋は古いですよ。先代の、おじいさんお婆さんは下北沢の草分けだと聞いています。昭和の初期からあったと聞いていますね。お婆さんは5年ぐらい前に亡くなりました。96歳でしたね。今は自動販売機になりましたけれど昔はずっとここに坐って煙草を売っておられましたね。丸顔で若いときはきれいだったようですね。お客さんには愛想がよくて笑顔で応対していました。背中丸くしてお店には正座して坐っていましたね。ここはね,そのお婆さんの養女から借りているんですよ。うちの主人は家族同様の扱いで親戚みたいなもんですから,いまもよくしてもらっているんですよ。ああ,そのお婆さんの名前ね,小島むめ,といいましたね。そうね昭和の8年ぐらいには嫁にきて煙草売っていらしたでしょうね」
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2005年03月14日

下北沢X物語(178)〜「猫町」の煙草屋さん� �

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   今日の帰りは下北沢一番街のお菓子屋さんと煙草屋さんに寄ってきた。まずはポスト脇の大月さんだ。昨日の記事を彼女に持っていった。「こんばんは」というと怪訝な顔をされた。話をうかがってからもうだいぶ時間が経っていた。忘れもするはずだ。
 それでもこんなことを書きましたよと言ったら、「まあ、恥ずかしい」と。でも嬉しかったようだ。店先にある売り物のピーナツをくれた。おまけに真竜寺まで連れて行ってくださった。稲荷や寺のことについて前々から知りたいと思っていたと言ったことがきっかけだ。ところがあいにく住職は留守であった。けれども奥さんに紹介してもらった。お彼岸過ぎたら住職の手も空くでしょうということで、また訪ねていくことにした。大月文江(76)さんには礼を言って別れた。
 もう一軒、大月さんを紹介してくれた「すずらん堂」さんにも行ってみた。ここの奥さんから聞いたことを整理しているうちに、「あれこれはもしかしたら‥‥‥」と思ったことがあった。それは「猫町」の煙草屋はここがモデルではないかということだ。
  萩原朔太郎の「猫町」は、雑誌「セルバン」昭和10年(1935)8月号に掲載されたものである。「散文詩風な小説」という副題がついている。これが掲載された時期、彼は世田谷代田に住んでいる。小説には「毎日家から十四、五町の附近を散歩してゐた」とあるが、それは恐らく昭和八、九年頃のことであろう。
  彼は屋敷町をぐるぐる廻った後に「美しい町」にたどりつく。そこの「四つ辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店に居る娘さへも、杏のように明るくて可憐であった。」とある。が、それは幻影であった。「気が付いてみれば、それは私のよく知ってゐる、近所の詰らない、ありふれた郊外の町なのである。いつものように、四つ辻にはポストが立つて、煙草屋には胃病の娘が坐つてゐる」(日本詩人全集14 萩原朔太郎 昭和四十一年刊)
 ありふれた郊外の町は下北沢である。その町は、今の一番街である。そこのポストはかつてと変わらない位置にまだある。もう実測済みである。朔太郎の代田の家から大月商店の脇のポストまでは1270メートルである。煙草屋さんの「すずらん堂」までだと1250メートルぐらいであろう。
 小説「猫町」には商店や珈琲店も出てくる。昭和の八、九年だと南口ではない。北口、一番街本通りである。ここが一番にぎわっていた。カフェ『エビス』他二軒、都合三軒のカフェがあった。
 大月商店の横にあるポストは四つ辻にはない。煙草屋の「すずらん堂」さんのところにあれば、そこは四つ辻だから具合がよい。が、それはこちらの都合である。現実とまったく同じでなくてよい。むしろ食い違っている方がおもしろい。
  一番街のポスト移動説を提唱したのは折々この「浮遊ブログ」にコメントを寄せてくれる「じゃらん」さんである。ところが、これは大月さんによると動いていないという。ずっと昔のままだと言う。四つ辻にはないが、彼の印象にあるポストはこのポストに違いないであろう。
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2005年03月13日

下北沢X物語(177)〜大月さんは下北生まれの下北育ち〜

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   下北沢一番街大通りの大月商店の大月文江(76)さんからお話を伺った。彼女は下北生まれの下北育ちである。彼女の戸籍は「荏原郡世田谷字下北沢」となっているそうだ。
「この隣が昔郵便局でね、昭和四年に出来たというようなことを聞いています。三代目の岸田局長さんが、ここでは手狭だからと鎌倉通りのほうに引っ越していかれました。それでポストだけが残ったのですね。ええ、ポストは昔からこの位置ですよ。動いてはいませんね。円いポストがあったのですが、いまは四角の大きなものに変わりましたね。」
 萩原朔太郎も利用した郵便局であり、郵便ポストだ。少しいったところが新屋敷100八番地となる。北沢二丁目三十七番だ。そこに萩原朔太郎はわずかな期間住んでいた。
「わたしは戦前勤労奉仕で隣にあった北沢郵便局勤めておりましたよ。戦争が終わってから、この大月へ嫁いできましてね。それ以来かごの鳥ですよ。」
 籠の鳥、下北沢から出ないでずっとここで育ち、結婚し、子どもさんを育てたということだろうか。
「ここらへん一帯は古い土地で、岸田一族、田中一族、飯田一族とかいういい方しますね。岸田さんも多い。古い家柄で土地持ちじゃないですか」
 大月さんの店の前は一番街大通りだ。こちら側が新屋敷、向こう側が野屋敷である。薩摩藩の抱え屋敷があったところだ。そのときから続いている家系なのだろうか。
「わたしが産まれたのは今の下北沢駅西口近くですかね。夏休みのラジオ体操はまもりやま、守山の雑木林の中でしましたね」
「ああ、俳人の中村汀女さんね、あの人のところは西口の井の頭線踏切をわたるでしょう。わたって二つ目の路地を入って突き当たりのところあたりじゃないかしら、近所の人に聞いてみるといいですよ」
 確かに行ってみると二本目の路地がある。そしてそこを右に曲がって西に行くと路地はぶつかる。左に折れている。ここらあたりかなと思った。
「私の実家は麹町から追われてきたのですよね。大正時代、道路作るというので強制立ち退きにあってそれでこの下北沢に来たのよ。下北沢の町ができかける頃だね」
「戦前でしたかね、道了尊に七日と十七日には縁日が立ちました。ここらへん一帯の人がやってきましたね。境内には芝居小屋もたちましたからね。今の住職さんは覚えておいでですよ。聞いてみたらいいですよ。ああ、お稲荷さんね、あれは境内の本堂の右側にありましたね。そこに建物を造るんでいまの位置に動かしたんですよ。」
「旧字名でいうと、こちらは新屋敷、向かいは野屋敷。向こうには偉いさんが住んでいましたね。大学の先生とか、博士とか、会社の社長とか、わたしらは士農工商、でいうと一番下のあきんど。向こうの野屋敷は偉いさん、こちらは商人、だから誰が通っても頭下げるのだよと教え込まれましたよ。(笑)」
「この前の野屋敷にね、前田青邨画伯の娘さんが秋山さんところに嫁いで来られたのですよ。ところがお嬢さんでしょう。買い物とかは全部お女中さんがやっていたから、ここへ越してきて買い物にくるんだけどお金の使い方がわからないのですよね(笑)」
  大月さんのお話はおもしろかった。一番街大通りの店は裏の住宅地に支えられている。野屋敷と新屋敷では気風が違うようだ。両方とも丘だ、野屋敷の丘はゆったりとした地勢のうねりだが、新屋敷は感触としてはいびつである。丘に醸されている風合いが違うように思う。
  一番街大通りは下北沢のもっとも古い商店街である。一つ一つの店にエピソードが眠っている。文房具・煙草屋の「すずらん堂」の奥さんにも話を伺っていた。この話もおもしろい。(写真は大月商店のそばのポスト、「猫町」の「赤いポスト」はここのポストがイメージされている)
 


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2005年03月12日

下北沢X物語(176)〜東京大空襲目撃地点としての下北沢�◆�

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  宮脇俊三は北沢四丁目三五四に住んでいた。現在の番地では北沢一丁目四十番である。北沢タウンホールは目と鼻の先だ。西斜面の丘の中腹に広い邸宅があった。
「この邸が建ったのは昭和十年六月,売りに出たのが敗戦直後の二十年十月,買い主が旅館を開業したのは同年の暮れだった……。」「東京セレクション」〜暮らしたまち・暮らしたいまち〜 住まい学大系014「花の巻」一九八八年刊 住まいの図書館出版局
 売りに出したのは宮脇俊三の父である。売られてそこは旅館となった。「晴光園」といった。が,今は建て替えられていてコンクリート造りの邸宅となっている。屋上にひっそりとお稲荷さんが祀られている。古くからあった屋敷神であろう。
 3月10日,大空襲の夜,下北沢の上空を次のように描いている。
  
  頭上にはB29の群れが、これまでにない低空で、つぎつぎに現れ、探照灯を浴びながら東へゆっくりと旋回していた。低空を飛ぶB29は、冬空を高々度で飛んでいた銀一点のそれとはちがって、怪鳥のように大きかった。しかも、あとからあとから絶え間なく、轟々とやって来た。ちょっと途切れてホッとすると、すぐまた新しいB29が続々と現れた。それはもはや「お客さん」ではなかった。やっぱり東京を焼く気か、と私は思った。
   「増補版 時刻表昭和史」宮脇俊三鉄道紀行全集 第2巻 平成十一年刊 
  
  宮脇俊三が住んでいたそこは今はビルが空を奪っている。が,往事下北沢の丘の中腹からは西の空が広く見えた。日影山の斜面に突き刺ささりでもするようにB29は飛んでくる。交差した光りのクロッシングに飛行機の機体が浮かび上がる。飛んで来た飛行機は三百三十四機である。見事な編隊を作って怪鳥が頭上をすり抜けていく。山の向こうの駒場の陣地から高射砲がつぎつぎと発射されるがほとんど当たらない。敵機はこれまでにない数である。東京を全滅させる魂胆かと彼は震え上がった。
  彼の旧居の東側は山になっていて見通しは悪い。それで下町が炎上する場面は観察できなかった。その場面は描かれていない。翌朝のことは次のように記されている。
 
  眠られぬ夜が明けると、庭のあちこちに紙屑や小枝が散乱していた。東の空は黒い煙霧が厚く被い、天気は晴れなのに朝日はさしてこなかった。
     「増補版 時刻表昭和史」宮脇俊三鉄道紀行全集 第2巻 平成十一年刊 
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2005年03月10日

下北沢X物語(175)〜東京大空襲目撃地点としての下北沢� �

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  今日夕暮れ下北沢駅西方の下北沢3号踏切に立った。ちょうどエクセが下ってくるところだ。長く連なった車両がまん中で心持ちへこんで見える。線路の凹みを表している。そこの下に川がある。それを横切るために築堤が築かれている。下北沢小田急築堤である。
「ああ、あそこの土手のことね。よくね土筆を取りにいきましたよ」
 邪宗門の女主人は、そう言っていた。北面は土手というほどのことはない。南面に回り込むと雑草の生えた斜面が家の庭まで転がり落ちている。南面にはかつて静仙閣というアパートがあった。
 
 わたしのいたアパートは木造の二階建てであったが、著名な詩人や映画監督、留学中の満州皇帝の弟などもいる、この付近では随一の高級下宿であった。
 「台上の月」 中山義秀 新潮社 昭和三十八年刊
 
  昭和十一年のことである。中山義秀がいたアパートは静仙閣である。満州国の皇帝の弟もいたというのは驚きである。交点文化は戦前からひそやかに存在していた。小田急線路の斜面の下のアパートで詩論、映画論がなされていた。太平洋戦争末期にこのアパートに一色次郎が越してくる。もうそのときは高級アパートではなくなったようだ。密やかな真実は静かに眠る。じつは2号さんが多く住んでいた。
 
 アパートは小田急の南側に丁字形にくっついている。線路の上を五分も歩くと下北沢の駅がある。静仙閣というのがその名前で、位置はもっと正確に書くと世田谷区北沢一丁目の一一一三番地である。線路の土手と西側の台地に囲まれた窪地にあるし、おまけに庭木がずいぶんと多いので、アパートからは空を広く見ることはほどんど出来ない。
 「東京空襲」  一色次郎 河出書房 昭和42年刊
 
  窪地からは何も見えない。それで彼は土手に上がって空をみた。ここからは空が広く望める。ところが今は回りにビルなどができてあまり空は広くは望めない。先ほどのエクセが北沢タウンホールの高いビルを背景にしてこちらへやってくる。ホームライナー一号、箱根行きだった。目の前を車両が通過していく。メールを覗いている若い女、老眼鏡をかけた男はスポーツ紙を読んでいる。60年前にここで目撃された光景など知りようがない。
 
 今日は三月十日である。朝日新聞の夕刊一面にはこういう記事がある。
 
 米軍の攻撃で一夜にして約10万人の命が奪われた1945(昭和20)年3月の東京大空襲から10日で60年になった。現在の墨田、江東、台東区など東京の下町一帯は焦土となり、人々は猛火の中を逃げまどった。60年を経たこの日、惨劇を思い、平和を祈る法要や追悼式、集会が都内各地で行われる。
 
 東京の下町を壊滅させた東京大空襲、下北沢でもこの爆撃の様子が目撃され,今日記録として残っている。ちょうど下北沢駅の東側と西側でそれが目撃されている。
 東の丘で見ていたのが紀行作家,宮脇俊三である。西の小田急築堤で見ていたのが小説家一色次郎であった。
  東京大空襲は風化しつつある。ちょうどこの機会に取り上げてみたい。戦争と下北沢大いに関係のある話である。
(写真は小田急築堤を撮ったものだ。手前が下北沢2号踏切、向こうが3号踏切だ。これから小田急築堤というのが何度も出てくるが、2号と3号の間のことを言うものだ。三日前に撮った写真だ。右手白くなっているところが地下化工事の始まったところだ。)


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2005年03月09日

下北沢X物語(174)〜測量自転車で猫町を測量する� �

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   はえ(南風)の風が吹いて首筋がむずがゆくなる、そんな陽気であった。
 昨日の興奮も一時の夢、目が覚めると朝がくる。るるるん毎日楽しく自転車で、というわけではない。また起きてペダルを踏んで行くのかという人生への懐疑がときどき湧いてくる。が、人生の天気予報は曇り後ときどき晴れである。昨日晴れていても今日は曇りだ。
 それでも嬉しい。半年以来ずっと探し続けていた詩人の旧居が分かっからだ。旅は終わってまた始まる。下北沢を見下ろす丘にかつて住んでいたこともある紀行作家、宮脇俊三は言った。「終着駅は始発駅」だと。わが測量自転車も思いを新たにして再出発だ。
 心が重いとモチベーションは下がる。それでもペダルを漕いでいくと気持ちが軽くなる。楽しい考えもそこから湧いて来ようというもの。人は「する」ことで救われる。
「そうだ、自転車実証学だ」
 考えがひらめいた。世田谷線西太子堂四号踏切を渡っているときに思いついた。面白い考えは苦難をものともしない。若林から代田へと通じる急坂を力強く上った。
 代田一丁目一番地路地に着いた。今は駐車場の旧岩沢邸、そこでいったん停車した。サイクルコンピューター、距離計をリセットする。ゼロが出たところで発進だ。路地を北二十メートルも走ると建物にぶつかる。そこが代田一丁目十六番だ、ここにこそ旧居はあるのだと固く信奉していた場所だ。が、たかがだ数十メートルの差だ、自分のカンピューターも悪くないとほめてやる。
 鉄塔に沿って北上する。距離計の数字が刻まれる。実証文学である。
 三好達治は宇野千代の紹介で岩沢家に住むことに決める。が、そこは下北沢の駅から遠かった。不便だったが幸いなことがある。彼の師である萩原朔太郎の旧居に「近いから」だった。が,近いという形容詞では漠然としている。その近さとはどれほどのものだろうか具体的な距離だ。それは地図で測れば簡単に分かる。だが、それでは面白くない。代田の空気を吸って実距離を測る方が面白い、それを我が愛車が証明してくれるはずだ。
  鉄塔伝いに行く、梅ヶ丘通りの代田一丁目バス停を右に折れると鉄塔60号だ。北沢川を渡って路地に入る。もう自転車はまったく迷わない。河岸段丘を勢いよく上る。そして、目的地にたどり着く。そっと覗いてみた。すると、距離計は690とあった。歩行距離での690メートル、確かに近い。折々散歩で訪れて達治は師を偲んだものであろう。高圧鉄塔は昔のままにいまもある。
 さて、出発だ。が、せっかくだ。面白いアイディアは応用するとまた楽しくなる。再びサイクルコンピューターをゼロにセットして猫町キーステーションを発進した。代田の急坂がのしかかるがびくともしない。すぐに61号鉄塔だ。物語性を埋め込んでいる鉄塔である。北沢川文学物語のキーワードの一つでもある。
  鎌倉街道に出て、小田急下北沢3号踏切ぶち当たる。案の定閉まっている。前にいた三人は踏切のポールの先端を次々にバトンタッチして渡っていく。朝の通勤時の儀式だ。下北沢3号踏切特有の文化である。東北沢4号踏切では決して見られない光景だ。その下北沢駅方向を見る。手前から向こうに土手が延びている。下北沢小田急築堤、「東京大空襲観望地点」、記念すべき地点である。
「ああ、あしたは三月十日だ。この築堤の上で一色次郎は東京大空襲を眺めたんだ。もう六十年も前だ。」
 思いは巡る。が、いまは自分は七十三年も前をめざしている。
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2005年03月08日

下北沢X物語(173)〜旅の終わりの春の丘〜

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    「測量船」ならぬ測量自転車での測量は終了した。三好達治の旧居跡がわかった。
 
 今日は珈琲のはしごである。まずはジャズ喫茶マサコである。下北沢駅南口グルメシティ、小田急線路に沿った路地を西へ行くとT字路にぶつかる、右手がラブホテル「レフア」、そして左の角が[JAZZ MASAKO]である。
  住宅街の入口にひっそりとある店。前から気になっていたが入る機会はなかった。昭和二十八年創業という下北沢では知られたジャズ喫茶だ。薄暗い店内にはジャズが静かに流れていた。サックスに耳を傾けながらカフェオレを飲む、時間がゆるやかに燃えて過ぎていく。むき出しの昭和が気持ちに滲みてくる。
 つぎはいつもの「邪宗門」である。店に入ると作道さんがいる。他にお客さんはいなかった。が、マジックの練習をしているようでもなかった。
 誰もいないのをこれ幸いと、先だっての「猫の降る町」(「下北沢X物語」170回に掲載)という詩を聞いてもらった。読んでいる間中、うんうんと頷いている。読み終えた後、「いやぁ、うれしい」と顔をほころばせる。小さなプレゼントである。
 すると、しばらくして奥さんが出てきた。今度は大きなプレゼントをくれた。
「三好達治さんところわかりましたよ」
  半年ほど探し回っていて分からなかったところだ。その場所が彼女の口から出てくる。つい胸に手を当てて固唾を呑んだ。
「まずね、炭屋さんというのは淡島通りの三浩電気さんところですよ。ほら裏にお稲荷さんのある家、あそこの坂になっている路地を下るでしょう。すると、左が菅外科、その前が伊藤さんち、その人から聞いたのよ。で、伊藤さんところをちょっといくと大きな駐車場があるでしょう。片隅にちょっとした畑がある‥‥‥」
  代田一丁目一番のことだとそれを聞いて知った。そう言えばじゃらんさんのコメントにもあった。「三好達治の旧居ですが私の持っている世田谷の地図(昭和二十三年発行)に照らし合わせますと代田一丁目一番になっております。」と。
「待てよ、そこはいつも自転車で通る道じゃないか」
 自分で独り言をつぶやいた。
 南から来て淡島通りにぶつかる。車が通っているときは少し渋谷よりの信号を渡る。すると「パンの杜 代田木村屋」がある。そこは代田一丁目一番一号だ。
 この信号で車が止まっているときは車の間を抜けて路地を北へ直進する。その路地である。何年も通っていた路地だ。自転車で下っていくと、右手に駐車場がある。その端には菜園がある。夏にはキュウリやトマトがなっていた。
 お尻に火がついたように落ち着きを失った。気もそぞろである。いっときも早くそこを見たかった。「邪宗門」を出てすぐにそこに向かった。行ってみると、ただ駐車場があるだけである。佇んでそこを眺めていると隣の奥さんが出てきた。
「ここがかつての岩沢さん宅ですか」
「そうそう、昔、詩人の三好達治さんが住んでおられたところです」
  聞いてみればなんのこともない。事実はさりげなくて転がっている。奥さんとやりとりしているとご主人も出てこられた。北川昭さんである。旧居も三好達治も知っているという。旧居が分かって,そして案内人にも出会う,まるで小説の舞台に自分がいるように思った。
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2005年03月07日

下北沢X物語(172)〜三好達治の旧居をめぐって�Α�

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    萩原葉子「天上の花」(講談社文芸文庫)は人間三好達治を描いた好著だ。三好達治の人物像が行間にリアルに浮かび上がってくる。この小説の中にも三好達治の下宿先のことがしばしば出てくる。
 
  小田急線下北沢駅から南へ三十分歩いた地点に,三好さんの最期の住まいとなった下宿がある。後には渋谷までバスが通るようになったが,初めて尋ねた頃は,舗装の無いでこぼこの道を,歩いたのである。
 角の炭屋を目標に横町の路地を入っていくと,右側に「岩沢」と表札の出た平屋が見え,足を止めると「三好」と,目立たない表札が出て,ひっそりとしている。
 四つ目垣に沿っている部屋の窓は,重たそうなカーテンが引かれ,松の古木と樫の大木が,窓を覆っていた。人の住む気配がないようにしんと静まり返り,三好さんの侘び住まいに相応しかった。
 
  下北沢から南へ三十分、女性の足だとしたらそうだろう。南口商店街を下って庚申塔脇に出る。下北沢の外れの代沢五差路だ。南端の花屋の前を通って南下する。かつての二子道だ。ゆるい坂を上って下ると北沢川がある。道の名と同じ二子橋がかかっている。橋を渡ってどう行ったのだろうか。角の炭屋というのはヒントだ。練炭、たどんはもう今は使わない。「邪宗門」の奥さんは近辺には何軒か「炭屋」さんはあったと言う。
 萩原葉子の言う「後にはバスも通るようになった」という言い方は、そちらの方が渋谷に行くには便利だという意味がこもっている。それは多分淡島通りのことを言うのだろう。
 
   昭和二十五年のことだ。下北沢の町はずれ庚申塔前を女が歩いていた。
 筆太の文字で書かれた一枚の便せんを女は持っている。墨で略図が認められてあった。それを頼りに駅から彼女は歩いてきた。道は轍跡のでこぼこで歩きにくい。ヒールが道の凹みに取られる。バックからハンカチを取りだして彼女は汗を拭いた。
 緩い坂を下ると橋があった。欄干には二子橋とある。覚えのある橋だ。この一つ上は鎌倉橋だ。その方向を見ると両岸から延びた桜の葉が川面を覆っている。焼夷弾で焼けたかつての家はもう目と鼻の先だ。
「三好さん、やっぱり父の家の近くに住んで居るんだわ」
 北沢川は分かった。だが、住まいは道が入り組んでいて探し当てられない。それで、人に聞いては炭屋をまず尋ね当てた。「練炭・たどん」と看板には大きな黒い字で書いてある。その角を曲がるが心許ない。一軒一軒の表札を確かめていく。すると「岩沢」という表札がやっと見つかった。平屋建ての家が松の古木と樫の大木の陰にひっそりとあった。まるで畑の中の一軒家のようだった。きぃきぃと樫の木に止まった鳥が鳴いている。尾長だ。不安になってくる。
 玄関に立って彼女は、「ごめんください」と呼ばわった。が、しんとしているばかりで誰も現れない。留守かと思って、これを最後だと思って、大きな声で言った。すると、玄関の右手のドアがゆっくりと開いた。浴衣の前をはだけた大男が立っている。寝起きそのままでまるで病人のようだ。やや膨らんだ頬には深い皺、不機嫌そうなしかめっ面が彼女をじっと見ている。懐かしい顔であった。が、額の皺、もみ上げの白髪、わずか五六年会わないうちに三好さんはすっかり年とっていた。わたしはあまりの距離の隔たりにどうしていいかわからなかった。ところがしばらく経って、男の口がようやっと開いた。
「葉ちゃん?、葉ちゃんか?」
 その甲高い声は三好さんに間違いなかった。
「うん、葉子よ」
 いつしか自分は子どものようになっていた。
「葉ちゃんか、驚いたなぁ、ほんと驚いた、姿が先生そっくりだもん。萩原先生が現れたかと思ったよ」
 玄関に入った彼女は後ろから外の光を受けていた。表情よりも姿格好が先に見えたようだ。昭和十九年五月二十二日鉄塔下、代田の家の玄関で見送って以来であった。ついこの間のことだったのに前にいる三好さんは別人のように老けていた。三国で叔母と別れた後の生活が見えるように思った。苦悩の一つ一つが顔の皺に刻まれているように思われた。
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2005年03月06日

下北沢X物語(171)〜三好達治の旧居をめぐって�ァ�

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   ネットの即時性というのは怖いものである。クリックして自分が情報を発信したとたん返答が戻ってくるということもある。現実空間と電脳空間が接触してスパークする。一昨日、「邪宗門」に立ち寄った。その後、昨日、じゃらんさんが訪れたようだ。すれ違いだ。因縁無念、だが、そこからまた新たな情報がもたらされる。彼からはつぎのメールが送られてきた。
「先ほど邪宗門へ行ってきた所です。そこで目にした本、小島千加子の『作家の風景』にも森茉莉はもちろん、三好達治を訪ねていった時の家や庭などの様子も書いてありました。なにか手がかりが、、、。近づきつつある予感!」
  メールをもらってどきどきしてしまった。それで今朝は起きて一番に近くの図書館に行った。館内のパソコンで検索すると、書名がヒットし館内の書庫に所蔵されていることがわかった。すぐにカウンターに行って貸し出し依頼をした。数分後に司書が書籍を手にして現れた。さっそくに立ち読みする。
 
    寄寓先は淡島通りの、若林より少し渋谷寄りの静かな横道にあった。戦時に疎開していた福井県三国からの上京に際し、詩人は年来の友人、宇野千代に家探しを頼んだ。宇野氏が「仕事場求む」と雑誌に出して、応じたのがI家の女主人が宇野千代のファンであった。宇野氏は自分で家の見に来て契約した。太い石柱のある門、がっしりした木組みの和洋折衷の平屋、戦災を逃れた家で、ヒマラヤ杉、もみじ等の植え込みが多いのも詩人にふさわし。その玄関脇の八畳の洋間が、昭和二十四年以降十六年間、詩人の終の棲家となった。当時、I家当主が入院の末ほぼ一年後に亡くなり、「僕はこの家の玄関番」と詩人はふざけて言ったというが、呼び鈴の音も聞こえない屈強な密室である。I家には電話もない。女主人の他は女子大に上がる位の娘が一人。詩人は家族と離れての単身上京であり、世の中のモノサシと相容れない詩神が支配するにはお誂え向きの環境であった。
「作家の風景」小島千加子 1990年刊  毎日新聞社
 
  新潮社の編集者である著者は達治の寄寓先を度々訪れている。原稿を依頼したり原稿を取りに来たりしている。この文章から旧宅の様子は伺える。ヒマラヤ杉ともみじ、萩原葉子の「天上の花」には松と樫もあったと書いてある。ヒマラヤ杉は目立つ樹木だ。北沢三丁目、野屋敷にはこれが四五本生えている家がある。世田谷区の保存樹木にもなっている。際だって高い樹木だ。ヒマラヤ杉と松と樫、今もあればかなり目立つはずだ。が、そんな心当たりはない。少なくとも代田一丁目十六番地にはない。
 プライバシーのことを考えてのことだろう。所在地の説明はあっけないほどだ。「寄寓先は淡島通りの、若林より少し渋谷寄りの静かな横道にあった。」とあるだけだ。が、このわずかな言葉に手がかりはある。それは彼女の視点である。
 彼女はバスの通る、淡島通りを中心に道案内をしている。バス停の若林までは行かない、もっと手前の渋谷寄りということだ。具体的に言うと代田中筋バス停が当てはまろうか。三好達治のところへは渋谷から電車でいくよりもバスで行く方が楽でいい。下北沢から2,30分も歩かなくて済む。それで彼女はバスで行っていた。そういう経験から通りを中心に道順を描いたのだと思う。
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2005年03月05日

下北沢X物語(170)〜三好達治の旧居をめぐって�ぁ�

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   雪が創った白世界はたちまち融けて黒世界、日常だ。が、昨日の雪中行は無謀だったと反省している。代田の谷ではブレーキが効かなかった。環七では大型トラックがレインスーツの裾を掠めて行った。危険と楽しみは紙一重だ。吹雪に煙る地点探索も、今日の日曜日の青空を見ているとなにやら懐かしい。
 三好達治の旧居の三つのキーワード探索,そのきっかけとなったのが「渋谷と私」というエッセイだ。全集解題によると昭和三十八年九月に発表されたものである。
  
  私の住居はこの森林から四キロばかりを隔ててゐるが、それでもなほその恩恵を被つてゐるといつていい。町工場や、小學校や、バスの車庫の間にはさまつた貧弱なそこらの木立にも、やはり季節々々の小鳥は姿を見せる。さうしてあるものは暫くの間だが美しい
聲で歌つてきかせさえもするのである。わたしの経験でいふと、日本の他の大都會ではこのような情景、−−野鳥と人間の親密な關係は珍しかろうかと思へる。東京都内の他の部分でもたぶんやはり珍しからうかと思へる。
 「渋谷と私」三好達治全集第十二巻 昭和五十一年刊 筑摩書房
 
  土地の風合いが文学に影響をする。三好達治は土地独特の色合いを飛来してくる小鳥に感じ取った。詩人ならではの感性である。文中の「この森林」とは明治神宮の森である。代田の地はその森の恩恵に浴しているという。思ってもみない意外な指摘である。
 地図を開いてみる。すると代田の北東に四キロあまりのところに明治神宮がある。隣は広大な代々木公園だ。斜め下に緑色に塗られている地域がある。東京大学教養学部や駒場公園である。つがいのキジバトが明治神宮を飛び立った。駒場の近代文学館で一休み。そして、ひらり飛び立っていくと北沢八幡の森、ボーイスカウトの連中が食い残したポテトチップをご馳走になる。風に乗って南東へ行くと鉄塔が見える。二羽は駒沢線57鉄塔の桟に留まった。下を見ると「松の古木と樫の大木」がある。二羽はそっと下りて、くぅくばぁうぱぁうと愛の囁きあいをする。すると音響判定士の詩人が、耳を傾ける。各県の木の実を食べた鳩は神宮からと即座に判定した。その神宮の「樹木は日本全国津々浦々から寄せ集められたもの」(「渋谷と私」)である。
 三つのキーワードはもう確認済みだ。町工場は代田珈琲店「邪宗門」一帯が工場街だったと言う。
「この角はプラスチック屋、プラモデル屋さん、この前はプレス屋さん、かっちゃんかっちゃん音がうるさかったですよ。戦前からずっとここらへん鎌倉通り一帯工場でしたよ。今も少し残っていますよね」と邪宗門の店主、作道さん。
 小学校は花見堂小学校だ。じゃらんさんが早速に昭和34年創立だとコメントで教えてくれた。達治の発表が昭和三十八年であるから花見堂であることは間違いないであろう。「貧弱なそこらの木立は」今もある。
 問題は「バスの車庫」だ。「東急バス若林折返所」ではないかと思ってその前をうろうろしていたら警備員に見とがめられた。じゃらんさんも折返所は比較的新しいという。とすると「小田急バス営業所」ということになる。住所を調べると、世田谷区若林2−37−3とある。このバス車庫の裏側は旧家の秋元家がある。今でも欅の保存樹木が数多く残っている。
  三つのキーワードは三好達治住まいにかかるものではない。文脈は「そこらの木立」にかかっている。彼の家の近くにあるそこらの木立ということだろう。とするならば、実際的に納得がいく。今も桜があり、欅がある。都会にしては珍しく緑が残っている。かつてそこで迷った。緑と花と稲荷様のある区域で迷ったのは自分である。花の季節は花見堂‥‥(写真は代田一丁目十六番地の路地、昨日)
  浮遊的な下北沢X物語だ。昨日は閉店ぎりぎりに邪宗門に行った。ドアを開けようと中をのぞき込んだら作道さんのマジシャンとしての姿が見えた。ふと詩を思いついた。いつもお世話になっている作道さんに言葉のプレゼントをしようと。
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2005年03月04日

下北沢X物語(169)〜三好達治の旧居をめぐって��〜

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  思いは移ろう、気持ちも千変万化する。ことに日々の天候は気分に影響する。今日は雪だった。それが気持ちを白く染めもする。
 服部さんのメールがきっかけとなって想像の三好達治は渋谷に行ったことになっている。渋谷と三好達治深い関わりがあったようだ。ゆうべ寝しなに彼の著書を見ていたら、偶然「渋谷と私」というエッセイが見つかった。そこに住まいのことが触れてあった。「町工場」と「バスの車庫」と「小学校」という語句が目についた。彼が住んでいた所のキーワードである。
 それらの語を寝しなのミルクと一緒に飲み込んで寝た。睡眠薬となったのかよく寝られた。目覚ましでやっと目が覚める。雨戸を繰ると外が白い。雪が降っていた。この雪が太郎も次郎も眠らせた。ついでに私をもを眠らせたのだろうと思った。
 雪は相当に降っている。やめようかと思いもした。が、三つのキーワードが自分を誘ってやまない。それで思い切って愛車にまたがった。ところが難儀な雪中行だ。武蔵野の丘を七つ八つ越えての雪中行だ。その間に川を数本渡る。呑川駒沢支流,呑川柿の木坂支流,蛇崩川,烏山川,北沢川,ダイダラボッチ川(仮称),森厳寺川(仮称),玉川上水,そして,幡ヶ谷の名もない川,十もの川を渡っていく。丘があって谷,アップダウンが激しい。北に行けばいくほど雪が深くなる。海岸との距離の関係だ。丘一枚で降り方が違う。世田谷の丘の面白さでもある。
 路地は雪が深い,それで環七沿いに北上した。代田の丘にさしかかったらさらに雪が深くなった。若林陸橋を右折して淡島通りに入った。代田丘陵のサミットを走る路線だ。別名,滝坂道という古道だ。雪の積もった歩道を黒いミニスカートを穿いた娘が先を歩いている。デジカメが足取りのおぼつかない雪道女の後ろ姿を欲している。が,ストーカーのようでためらわれる。なによりも手袋を取りだして作業をするのが面倒だ。彼女の脇をすり抜ける。
 東急バス若林折返所にたどり着いた。そこの様子を見ていたら警備員が向こうから声をかけてきた。バスジャック犯の可能性ありと見たのだろうか。
「なんか探しているんですか」
「ここは昔は,バスの車庫じゃなかったですか」
「バスの車庫は,あっち,小田急の若林営業所があるよ」
 交通信号の旗で西の方を指す。
「あっちだとちょっと遠いな,ここがバスの車庫だったと思うのですよ。ここ古くからあるんですか」
「昔からあるけどね……」
 要領を得ない応答に警備員ももてあまし気味だ。折しも渋谷側からバスがきて,彼は手信号を取り出してバスに合図を送った。
 バスの車庫、キーワードの一つをカメラを取り出して写した。それを終えて左方向の路地に入る。三好達治旧居とおぼしき一丁目十六番だ。朝から雪中文学散歩だ。「天上の花」にあった樹木がないか探した。見越しの松は一本あったが樫はない。「松の古木と樫の大木」のある家は見つからない。
  西方はとりあえず見て確認,雪の降る道の向こうに学校が霞んで見える。そこは何度も通っているので問題ない。二つ目のキーワードはクリアーだ。
 雪中行軍のキーワード,「バスの車庫」,「小学校」,そして,三つ目が「工場」だ。鎌倉通りに工場らしきものはいくつかあった。それからサウス、イースト、ノースをなんとか走り抜け職場にたどり着いた。もう雪だるまになっていた。
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2005年03月03日

下北沢X物語(168)〜三好達治の旧居をめぐって�◆�

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   「腰越通信」の服部さんにメールをした。するとすぐに返事があった。つぎのメールである。服部さんの私信をネットに公開することの了解は得てある。
 
   メ−ルを拝見しました。失礼どころか小生の腰越通信を愛読されて嬉しく思います。中でも三好達治に関して熱心に調査なさっておられるようで、感心しました。三好達治死して40年、こうしてあなたのような愛読者がおられることは、詩の力であり、達治の詩の永遠性です。三好達治もって瞑すべしです。
 小生が、三好達治の終焉の地の代田の仮寓を訪れたのは、達治の死後直後でした。当時小生は、代田6丁目にト居しておりましたので、それほど遠くはなかったので岩沢邸の門を叩いたのでした。勿論生前の三好達治にも、岩沢さんにも一面識もありませんでした。
 でも岩沢夫人は心よく、三好達治が生活していた応接間に案内して下さいました。部屋の中央に遺影が飾られてありました。岩沢さんは当時、既に60過ぎの上品な老婦人でした。岩沢さんには、詩人の令嬢がおり、大阪に住んでおられましたので、閑静な屋敷に猫と静かに一人で暮らしておられました。
 ご存命であれは、100歳を超えておられるに違いません。三好達治と同じ屋根の下で長い間一緒に生活をしたので、岩沢さんだけしか知らないエピソ−ドが多くありましたが、三好達治死後の追悼号などにもついに、お書きになられることなく終わりました。
 三好達治のことを岩沢夫人は、先生と呼びいつも勉強しておられましたとのこと。三好達治は、詩だけでは口を糊することは出来なかったので、評論や随筆などを書くことによって生計をたてておりました。
 定収入というものがなかったために、必ずしも生活が安定していたとは言えません。それだけに、予期せぬ時に出版社から稿料が入ると、どんなに寒くとも、マントを翻して渋谷駅近くの線路沿いにあった「とん平」と言う居酒屋に行ったそうです。この居酒屋は、文学関係、演劇関係、ジャ−ナリストの溜り場になっていました。でもこうした独特の雰囲気のあった居酒屋もとうに姿を消して久しい年月が経ちました。
 その岩沢邸は、下北沢駅を下車して商店街を三軒茶屋方面に行きますと、代沢小学校があります。それを過ぎると、渋谷から来るバス等が通っている広い大通りがあります。それを通過して、右折した住宅街にありました。その頃は石の門柱に嵌め込みで岩沢と表札が目印でしたが、当時から高名な詩人が岩沢邸に仮寓しているとは余り知られていませんでした。三好達治宅を初めて訪ねた人はわかりにくく、夜でも一回位訪れたのではわからないとと書いてあったのをかすかに覚えています。
 鎌倉や藤沢の一部では、まだ昔の住所で通用しておりますが、東京の代田あたりは恐らく住所変更になっていると思われますから、代田の区役所出張所にでも問い合わせて、事情を話して照合してもらえば、わかるかと思います。
 実は、あなたのメ−ルに接する前日、松山善三監督、高峰秀子、小林圭樹主演の「名もなく貧しく美しく」の回想談を読みました。この映画の中で代沢小学校の横を流れている代田川の両岸の満開の桜並木が出て来るのですが、封切り当時見ているだけに、小生の40年前の世田谷時代をふと思い出していたところでした。その小川も暗渠と化してかっての俤はありませんが、あの美しさは忘じ難いものがあります。その上手のところに萩原朔太郎終焉の地があるのです。
 そんな訳ですから、あなたのメ−ルが未見の方からのように思えなく旧知のような親しさを感じながら拝見しました。                         服部清一
 
 
   下北沢の交点文化,文学などを探し初めてからさまざまな人に出会った。直接お話を伺う機会だけでなくネット上で知り合うことも希ではない。よくコメントやメールをくださるじゃらんさんとのおつきあいはわたしのブログへのコメントから始まった。
 服部さんとわたしは三好達治のことがきっかけで出会った。服部さんのネットの記事をみかけて,わたしからメールをした。丁寧な返事が返ってきた。記録としても取っておくべきことだと思った。それでここに掲載した。
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2005年03月02日

下北沢X物語(167)〜三好達治の旧居をめぐって� �

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  日々浮遊流転し変化する。朝、出かけようとしたらタイヤの空気が抜けていた。慌てて空気を入れようとしたがうまく入らない。フレンチバルブの空気入れは苦手だ。やっと出陣ということになるが、二十分遅れだ。仕方なく環七を北上する。丘のアップダウンがきつい。下っては上る、下ると川、蛇崩川、烏山川、そして北沢川だ。谷ごとに趣が異なる。 言葉は土地の風合いを反映する。昨日出会った下北沢一番街「すずらん堂」のおかみさんの話は面白かった。
「この上の代田の丘に行くと風が舞っているんですよね。丘の上だから風が強いんですよ」
 北沢近辺の丘は案外に高い。もっとも高いところでは41メートルある。谷谷によって風の吹き方も異なる。丘と丘の間の地域,区域も雰囲気が違う。
 昨日は代田の西方の丘を越え,烏山川を渡り,また丘を越えて蛇崩川の斜面をうろついた。と,斜面に八幡神社があった。奥にはお稲荷さんも見える。その左右には名称の分からない朽ちかけた社がある。不気味に感じた。蛇崩川や烏山川が作った河岸段丘の風合いは代田の谷の雰囲気とも違う。世田谷は一枚谷が違えば趣もがらり変わる。吉増鋼造の「猫町界隈」には幕府の隠密が世田谷の谷で迷ったという謂われを引いていた。さもありなん,迷い込んだら最後,谷の風趣が変わるから経験も役立たない。今も微妙にカラーが違う。
 土地には土地の色合いがある。代田でも一丁目と二丁目では違う。前者は丘で後者は谷間である。冗談に代田一丁目文学,代田二丁目文学があるのではないかと邪宗門の奥さんに言ったら,「あるかもしれません」という答えが返ってきた。
「だって上はお屋敷でしょう,こちらは庶民の町ですから」と。
 代田二丁目の河岸段丘二段目に朔太郎の住まいはあった。代田一丁目の河岸に沿った平地に三好達治は住んでいた。彼は昭和二十四年(1949)「二月上京して東京都世田區代田一ノ三一三,岩澤沢方に移った」(三好達治年譜,筑摩書房、昭和五十一年刊)とある。が,その場所は見つかっていない。
 去年十月北沢タウンホールにある区役所の出張所で「住居表示情報提供書」に必要事項を書き込み情報公開請求をした。一丁目三一三番地が今の何番地に当たるかということをだ。すると,「代田一丁目の5、13,16,19、20となります」という情報が提供された。
 その範囲は広い。この番地近辺は何度も廻った。近所の人にも聞いた。越智さん,山口畳店の山口さん,大平工務店の大平さん,ことに越智さんは家の権利書まで出してきて調べてくださった。そこから16番地が出てきた。13は花見堂小学校の敷地,19,20だと離れすぎ,ということから16が最有力だ。が,ここに岩沢姓の家はない。19に岩佐とあったが,岩沢はない。一帯は建て変わってマンションになったところもある。16番地も数軒マンションになっている。何度も回ったが分からない。
 とある時だった。インターネットを調べていてある人のホームページにたどり着いた。
「Report from Kamakura」と題された中の「腰越通信」である。その中のつぎの記事に惹き付けられた。
 
  三好達治の部屋を知っているので、河盛好蔵の文章によって、通夜の光景が一幅の絵のようになって、脳裏にある。三好達治の終焉の地から程近いところに、代田川があり、その両岸に美しい桜並木が植えられてあって、桜の季節にはお花見には絶好の場所であった。その後、川は埋め立てられてしまい、美景は半減してしまった。30年余りも行っていないので判らないが、今でも美しい桜はあるであろうか。
 その桜並木の近くに、終生の師と仰望した萩原朔太郎の終焉の地がある。朔太郎が代田で死去したのは昭和17年であり、三好達治が他界したのが昭和39年である。従って朔太郎の死後22年にして後を追ったことになる。この下宿の女主人は宇野千代のフアンであったことから、三好達治を世話することになったのである。
  http://www2s.biglobe.ne.jp/~matu-emk/kosigoe.html
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2005年03月01日

下北沢X物語(166)〜駆け落ちは小田急で3〜

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   自転車日々紀行、事件現場に出くわすということもある。つい数時間前のことだ。
 野屋敷稲荷の前を通りかかったとき、社殿の前に灰色の人影が見えた。条件反射としてブレーキをかける。信心深い人の話は聞いてみたい。が、彼の動きがおかしい。賽銭箱前にうずくまっている。と、その時その男と目が合ってしまった。敵対的なぎらぁりとした眼光だった、ほんのわずかの間視線がぶつかり合った。その後の数シーンが今も記憶に残っている。賽銭箱から手を抜いた男、額が黒く焼けたそいつがこちらに向かって来る、目つきが鋭い。やつが襲ってくるかと思って身構えた。が、彼は呆然としている自分の前をさっと脇に逸れてに音も立てず路地に消えた。バッシュを履いた賽銭泥棒だった。
 しばらくは動悸が止まらなかった。野屋敷稲荷、狙われる賽銭箱である、信者が少なくないということだ。
  野屋敷稲荷のある一帯はお屋敷街である。緑が多い。樹齢を重ねた桜、ヒマラヤ杉などの樹木がそこかしこにある。一軒当たりの敷地面積も広い、樹木のある庭に、広い家屋敷、古びた趣もある。
 辺り一帯はかつて薩摩藩の抱え屋敷があったところだ。そこを北に向かうと道は下って一番街本通りに出る。ちょうど四つ辻になっている。角は煙草屋だ。じゃらんさんからのコメントを思い出した。
 
 萩原朔太郎の「猫町」にでてくる「四つ辻の赤いポスト」が一番街の真竜寺を下ってすぐの左に有るポストかもしれません。ここは十年くらい前に北沢郵便局があった所です。ポストの位置は若干移動しています。そして、この道の右先角には昔ながらの煙草屋が有ります。さらに、真竜寺の囲いの石柱の一つにカフェの名(おそらく寄進した印)が刻まれてあるのを発見。小さな四つ辻ですが、多分、いや確かにここではないかと思い始めています。(じゃらんさんのコメント)
 
    じゃらんさんからはこの頃貴重な情報をもらうことが多い。吉増鋼造の「猫町界隈」(イメージの冒険ー1 不思議な夢の旅 河出書房新社 昭和53年刊)を紹介してもらった。ネットで発注していたものが今日届いた。「萩原朔太郎『猫町』私論」清岡卓行と「父・萩原朔太郎」萩原葉子も届いた。「父・萩原朔太郎」は角川文庫を持っていたがあまりに使いすぎてぼろぼろになってしまったから新たに購入した。いつの間にか朔太郎ばかりになってしまった。
 「東京行進曲」の話をするはずが、いつの間にか「朔太郎行進曲」なってしまった。旅は浮き雲流れ雲だ、赴くままに行こう。テーマもなにもあったものではない。これが生なブログ文学かもしれない。
 それで今日は、賽銭泥棒を目撃した後、じつは、じゃらんさんが言う、その「四つ辻の赤いポスト」にふらりとたどり着いてしまった。野屋敷と新屋敷の間が一番街本通りだ。そこに煙草屋とポストはある。
 まずは煙草屋兼文房具店である。この女主人から話が聞けた。一番街本通りは川ではなかったかとぶつけてみたら、「昔は、大雨が降れば小川がよくあふれました」と返ってきた。思わずうなってしまった。「ポストのことは大月さんが詳しいですよ」と教えてくれた。それで斜め向かいの大月さんから話を聞いた。
「郵便局に勤めておられたそうですね」と聞くと、「どうして知っているの」と逆に聞かれた、「煙草屋さんで聞いてきた」というと笑っておられた。
「ポストは昭和四年からあります。動いてはいません」との返答だった。
  四つ辻のポストではない。が、往事、昭和初頭、この一番街本通りが唯一の街だった。「猫町」のポストを想定するならば、今のところこれが最有力であろう。朔太郎が慣れ親しんでいたポストだからでもある。大月商店は北沢二丁目三十六である。西隣の三十七が新屋敷100八番地である。朔太郎が最初に下北沢に住んだところである。
 女物の下駄をつっかけて、ひょろっと路地から出てきた優男、往年の映画スター、前橋のバスターキートンが敷島をふかしながら歩いてくる。ポストの前にたどり着いて、何げなく左右を見回す。そして、青色の封筒を放り込んだ。小夜子という女性の名が書いてあったようだ。ことり、と音がしたとき代田から下りてきた風が敷島の煙を吸い上げ彼の前髪をばらばらにした。この土地にはこの土地独特の風合いがある。
  (写真は、煙草屋の前にある店。北沢二丁目三十七番、新屋敷100八番地)
 


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