2005年04月
2005年04月30日
下北沢X物語(225)〜萩原葉子の面差しは朔太郎を思わせた〜
有為転変、ものごとは始まって終わり、そしてまた始まる。ブログは人の生を刻一刻と伝える。
詩人の萩原朔太郎が下北沢のどこに住んでいたかが分かった。それは感動であった。そのあまりMTビルを何枚もデジカメで撮った。ところが、そうしていると二階の一室の窓が急に開いた。
「おまえはなんで写真を撮っているのだ。おまえは誰だ」
詩人の萩原朔太郎が下北沢のどこに住んでいたかが分かった。それは感動であった。そのあまりMTビルを何枚もデジカメで撮った。ところが、そうしていると二階の一室の窓が急に開いた。
「おまえはなんで写真を撮っているのだ。おまえは誰だ」
そう聞かれた。あいにく情報機関に籍を置くものではない。こういう場合、正直に言う方がいいだろうと思った。
「かつてここに詩人の萩原朔太郎が住んでいたということが分かって、ああ、ここなんだと思って写真を撮らせてもらっています」
男はそれを聞いて窓を閉めた。跡地が駐車場か空き地であればあまり問題はない。が、人は今を生きている。今居る不審者は怪しい、会社乗っ取りの手先、秘密組織の内偵、だれも好意的には解釈しない。生きているプライバシーは考えるべきだ、とも思った。けれども不審者扱いには心が傷つく。
そんな自分であったが、今日は萩原葉子氏に質問をしていた。
「かつてここに詩人の萩原朔太郎が住んでいたということが分かって、ああ、ここなんだと思って写真を撮らせてもらっています」
男はそれを聞いて窓を閉めた。跡地が駐車場か空き地であればあまり問題はない。が、人は今を生きている。今居る不審者は怪しい、会社乗っ取りの手先、秘密組織の内偵、だれも好意的には解釈しない。生きているプライバシーは考えるべきだ、とも思った。けれども不審者扱いには心が傷つく。
そんな自分であったが、今日は萩原葉子氏に質問をしていた。
「昨日、宇野千代さんのいた淡島の家の跡に行ってきました。世田谷山崎から東郷青児と越してこられて新しいお家を建てました。まっ白なコルビジェ風の家です。その後に、代田二丁目にお父さんはとても斬新なデザインの家を建てられました。それは大きな発信だったように思います。そこには宇野千代さんのモダンな家が意識されていなかったのでしょうか?」
自分の質問も唐突だったし、うまくなかったと思った。
今日は世田谷文学館で「宇野千代を語る」という対談があった。それに出かけた。いつもは自転車だが、今日は電車で京王線の芦花公園まで行った。
萩原葉子氏と佐伯彰一氏の「宇野千代」を巡る対談だった。その中の質問コーナーで、萩原葉子氏に聞いた。
「そうだわね、淡島の家は、いまはなにもないわね。代田の家を建てたのはね、ええっと、昭和十何年だったかな、でもわたしはそんなところまで考えてはいなかったわ」
彼女は自分の唐突な質問にちゃんと答えてくれた。
今日は世田谷文学館で「宇野千代を語る」という対談があった。それに出かけた。いつもは自転車だが、今日は電車で京王線の芦花公園まで行った。
萩原葉子氏と佐伯彰一氏の「宇野千代」を巡る対談だった。その中の質問コーナーで、萩原葉子氏に聞いた。
「そうだわね、淡島の家は、いまはなにもないわね。代田の家を建てたのはね、ええっと、昭和十何年だったかな、でもわたしはそんなところまで考えてはいなかったわ」
彼女は自分の唐突な質問にちゃんと答えてくれた。
宇野千代は昭和六年に淡島に家を建てた。萩原朔太郎はその昭和六年に下北沢に越してきた。その翌々年に彼は代田二丁目の丘の麓に和洋折衷の斬新なデザインの家を建てた。淡島の家を知らないわけはなかったと自分では思う。
下北沢新屋敷からぶらりと散歩に出ることはあった。当時は小川が流れていた。森厳寺川だ。それに沿っていくと代沢小学校のところで本流、北沢川にぶつかる。下手に行けば宇野千代の家はすぐである。近隣中の評判であった家である。情死事件を起こして世を騒がせた西欧帰りの画家と著名な女流作家とが愛を営んでいる家であった。近隣に嫁に来た人はこの家の前で記念撮影をした。
女性の上半身の半裸体をイメージしてもらいたい。その女性の乳房の右下、代沢の丘のふもとにコルビジェ風の家、もう一方の左の乳房の下、代田の丘のふもとに和洋折衷のとんがった三角の家ができた。左右対をなすものだと思う。朔太郎が家を建てたのは二年遅れである。
宇野千代と朔太郎、一つの因果律である。馬込での断髪事件はあまりにも有名だ。葉子氏は今日もそれについて語った。
「わたしが小学校から帰ったら母(稲子)が日本髪をばっさりと切っていたんですよ。それが新聞紙の上に、こんなにばさっとあったのですね」
モガ、モダンガールは宇野千代だった。彼女は日本髪を断髪して洋装にした。それを真似たのが萩原朔太郎夫人、それに川端康成夫人だった。そのことに対して室生犀星は怒ったという話しも知られた話だ。朔太郎の父、密蔵も勘当ものだと腹を立てた。
「母が、断髪に洋装で学校にきたらもう同級生は大騒ぎで授業になりませんでした」
萩原稲子はその後、若い画学生と駆け落ちしてしまう。
母のいない子どもを抱えた朔太郎は馬込を引き揚げて前橋に帰る。そして、再び東京に出てくる。牛込、東北沢、下北沢、そして、代田二丁目に来る。そこに朔太郎は自ら卜して家を建てた。宇野千代の断髪は単なる一事件に過ぎない。が、それが家の屋根をとがらせたことになりはしないだろうかと思う。そういう妄想をつい現実の場面で言葉に出して萩原葉子氏に質問してしまった。信じた人はいないだろうが、一人ぐらいは共感した人がいたかもしれない。(写真は萩原葉子氏である。なお、藤江淳子さんは宇野千代の秘書である。会場で対話のサポートをされた方だ)
下北沢新屋敷からぶらりと散歩に出ることはあった。当時は小川が流れていた。森厳寺川だ。それに沿っていくと代沢小学校のところで本流、北沢川にぶつかる。下手に行けば宇野千代の家はすぐである。近隣中の評判であった家である。情死事件を起こして世を騒がせた西欧帰りの画家と著名な女流作家とが愛を営んでいる家であった。近隣に嫁に来た人はこの家の前で記念撮影をした。
女性の上半身の半裸体をイメージしてもらいたい。その女性の乳房の右下、代沢の丘のふもとにコルビジェ風の家、もう一方の左の乳房の下、代田の丘のふもとに和洋折衷のとんがった三角の家ができた。左右対をなすものだと思う。朔太郎が家を建てたのは二年遅れである。
宇野千代と朔太郎、一つの因果律である。馬込での断髪事件はあまりにも有名だ。葉子氏は今日もそれについて語った。
「わたしが小学校から帰ったら母(稲子)が日本髪をばっさりと切っていたんですよ。それが新聞紙の上に、こんなにばさっとあったのですね」
モガ、モダンガールは宇野千代だった。彼女は日本髪を断髪して洋装にした。それを真似たのが萩原朔太郎夫人、それに川端康成夫人だった。そのことに対して室生犀星は怒ったという話しも知られた話だ。朔太郎の父、密蔵も勘当ものだと腹を立てた。
「母が、断髪に洋装で学校にきたらもう同級生は大騒ぎで授業になりませんでした」
萩原稲子はその後、若い画学生と駆け落ちしてしまう。
母のいない子どもを抱えた朔太郎は馬込を引き揚げて前橋に帰る。そして、再び東京に出てくる。牛込、東北沢、下北沢、そして、代田二丁目に来る。そこに朔太郎は自ら卜して家を建てた。宇野千代の断髪は単なる一事件に過ぎない。が、それが家の屋根をとがらせたことになりはしないだろうかと思う。そういう妄想をつい現実の場面で言葉に出して萩原葉子氏に質問してしまった。信じた人はいないだろうが、一人ぐらいは共感した人がいたかもしれない。(写真は萩原葉子氏である。なお、藤江淳子さんは宇野千代の秘書である。会場で対話のサポートをされた方だ)
2005年04月29日
下北沢X物語(224)〜下北沢休日探索行1〜
自転車による下北沢探索は果てもない。日々スリリングな展開である。
ペダルを踏む、そのことによってドラマは生まれる。時として踏切に止められて一日の生活のリズムが狂ってしまうこともある。が、トラブルや障害はつきものだ。そんな中で接する人の優しさは格別なものである。
じつは今日、ゴールデンウィークの始まりの日に、下北沢の宗教文化の探索に出かけた。そのきっかけとなったのが清水博子の「街の座標」である。
ペダルを踏む、そのことによってドラマは生まれる。時として踏切に止められて一日の生活のリズムが狂ってしまうこともある。が、トラブルや障害はつきものだ。そんな中で接する人の優しさは格別なものである。
じつは今日、ゴールデンウィークの始まりの日に、下北沢の宗教文化の探索に出かけた。そのきっかけとなったのが清水博子の「街の座標」である。
この酒場は駅から右上、第一象限のY軸沿いに位置し、似たような酒場の軒をかいくぐってバス通りを渡ると教会があり、さらに足を延ばせば渋谷に至る。「街の座標」集英社文庫 2001年刊
彼女の描写に沿って昨日、そこを実際に自転車で通ってみた。そのときにふと気付いた。下北沢には教会が多いということにである。北沢八幡宮の奥もお稲荷さんが五つもあって神が混み合っている。そこだけではなくお稲荷様は下北沢周辺には多い。そのお稲荷さまはほとんど探索した。庚申塔、地蔵様、神社などはほとんどめぐった。
が、昨夜、スズナリ裏手の二つの教会の存在を知り、そして、第二象限に行った。小町通りからおしゃれストリートを抜け鎌倉街道に出た。清水博子が言う、「私立学園の前によじれた四つ角、そこで大原、北沢、代田と番地がふり分けられる。」というところだ。
成徳学園の前の四つ角、一番街大通りと鎌倉街道が接する地点だ。昨日はなぜかそこに警官が二人立って警戒していた。清水博子という女性の足取りを追う男性を張っている。と、そんな妄想が湧いてきて不安になった。彼らに呼び込まれるようにその脇に立って「よじれた四つ角」を眺めて味わった。けれども彼らは追跡者を無視した。
追跡者は空しく鎌倉街道を下北沢西口へとハンドルを向けた。ところがすぐに北沢郵便局の前の右手の路地に十字架があるのを見つけた。「ナザレン教会」だ。
いつしか追跡者は十字架を探していた。すると、下北沢駅西口の踏切を渡り、第三象限に入ると、やがて、右手に十字架が見えてきた。右折して行くと、そこは「日本キリスト教団 東京都民教会」だった。薄青い空にすくっと立った白い塔の上に十字架があった。
家に帰って地図を調べた。すると下北沢鉄道交点には七つも八つも教会があることを知った。外来教会文化の密集地帯である。なぜこんなに教会が多いのだろうか。
下北沢駅井の頭線ホームには歯科医院の広告が多かった。ちょっと下りて歯を治療する。それと同じように、ちょっと下りて宗教する、と考えたがあまり真実味がない。
続きを読むが、昨夜、スズナリ裏手の二つの教会の存在を知り、そして、第二象限に行った。小町通りからおしゃれストリートを抜け鎌倉街道に出た。清水博子が言う、「私立学園の前によじれた四つ角、そこで大原、北沢、代田と番地がふり分けられる。」というところだ。
成徳学園の前の四つ角、一番街大通りと鎌倉街道が接する地点だ。昨日はなぜかそこに警官が二人立って警戒していた。清水博子という女性の足取りを追う男性を張っている。と、そんな妄想が湧いてきて不安になった。彼らに呼び込まれるようにその脇に立って「よじれた四つ角」を眺めて味わった。けれども彼らは追跡者を無視した。
追跡者は空しく鎌倉街道を下北沢西口へとハンドルを向けた。ところがすぐに北沢郵便局の前の右手の路地に十字架があるのを見つけた。「ナザレン教会」だ。
いつしか追跡者は十字架を探していた。すると、下北沢駅西口の踏切を渡り、第三象限に入ると、やがて、右手に十字架が見えてきた。右折して行くと、そこは「日本キリスト教団 東京都民教会」だった。薄青い空にすくっと立った白い塔の上に十字架があった。
家に帰って地図を調べた。すると下北沢鉄道交点には七つも八つも教会があることを知った。外来教会文化の密集地帯である。なぜこんなに教会が多いのだろうか。
下北沢駅井の頭線ホームには歯科医院の広告が多かった。ちょっと下りて歯を治療する。それと同じように、ちょっと下りて宗教する、と考えたがあまり真実味がない。
2005年04月28日
下北沢X物語(223)〜猫町犬町不思議町3〜
ブログ文学はある。悩ましいときはあまりないが、生々しいという場合はよくある。
いまここにこうやって、今月今夜この時間に記事をまとめている。が、今日の因果と直接に結びついているのは小田急電車の遅れである。いつもよりもブログのアップが遅れてしまったのはそのためである。今宵、小田急電車の運行ダイヤはだいぶ乱れていた。
今日、勤め帰りに清水博子「街の座標」にある下北沢街描写、それをたどる紀行を予定していた。まず東北沢2号踏切までは予定通りだった。が、東北沢駅そばのその踏切で立ち往生してしまった。それは自分だけではない。歩行者、自転車、バイク、車などで、踏切が開かないのでこちらもむこうも一杯になってしまった。下北沢から来る電車が、25パーミルの勾配の途中で止まって動かない。踏切の警報機は点滅して警報を鳴らしている。あっちにいるセブンイレブンの袋下げたおじさんも、こちらにいるミニスカートの女性もイライラしている。踏切が開かないからだ。多摩急行が悠然と通り、そして、快速急行が来る、と、またしばらくしてエクセのホームライナーがゆっくりと目前を通っていく。後部乗客の美人がおもむろにメールを打っている、「メールなんか打つなよ」とそばにいる若者がつい口に出した。同感だ。バイクに乗った兄ちゃんだ。ときおりエンジンの空ぶかしするけれども無駄である。
「夕方のこの時間はいつもこうなんですか」
その兄ちゃんは敬語を使って質問してくる。
「下北沢まで、四つか、五つの踏切があるけどね。小田急ダイヤは、その踏切を塞がないように作ってあるはずだけども、運行が遅れているからいつ開くかわかんないですね」
つい知ったかぶりして答えたら、彼は妙に感心していた。
各停が行ってああ、これで開くなと思ったら、こんどは急行だ。東北沢2号踏切近辺には不穏な空気が漂い始めた。ゲリラというのはこういう雰囲気の中から湧いて出てくるのではないかと思ったほどだ。拳銃を持っていればぶっ放すのではないかと思われたほどだ。
ところがだ、唐木田行きの各停の八両目が過ぎたとたんに踏切警報機の矢印が消えた。そして、ポールがひょいと上がった。自分と、バイクの彼はいっさんに飛び出した。そして、すぐに矢印が点いたときにはもう踏切を半分過ぎていた。もちろんバイクの兄ちゃんの方がが速い。渡って、微かな左カーブを描いて道の向こうに消えた。
「グッバイ、気を付けていけよな」
おれと彼だけが夕方の6時23分43秒に踏切を渡った。戦友を見送るようにこちらは自転車に立ち乗りしてやつの姿を追った。後ろを振り返るともう踏切は閉まっていて、羨望の眼がこちらをにらんでいた。
踏切を渡ってしばらく池ノ上方向に走ってから右折した。日影山を下りて、昨日の教会を改めて見に行った。カマボコ形兵舎を使った教会があった。その背後には北沢タウンホールが高々とそびえ立っていた。インターネットで「カトリック世田谷教会」を検索してみた。すると、「カトリック世田谷教会の沿革」という記事にこういう紹介があった。
いまここにこうやって、今月今夜この時間に記事をまとめている。が、今日の因果と直接に結びついているのは小田急電車の遅れである。いつもよりもブログのアップが遅れてしまったのはそのためである。今宵、小田急電車の運行ダイヤはだいぶ乱れていた。
今日、勤め帰りに清水博子「街の座標」にある下北沢街描写、それをたどる紀行を予定していた。まず東北沢2号踏切までは予定通りだった。が、東北沢駅そばのその踏切で立ち往生してしまった。それは自分だけではない。歩行者、自転車、バイク、車などで、踏切が開かないのでこちらもむこうも一杯になってしまった。下北沢から来る電車が、25パーミルの勾配の途中で止まって動かない。踏切の警報機は点滅して警報を鳴らしている。あっちにいるセブンイレブンの袋下げたおじさんも、こちらにいるミニスカートの女性もイライラしている。踏切が開かないからだ。多摩急行が悠然と通り、そして、快速急行が来る、と、またしばらくしてエクセのホームライナーがゆっくりと目前を通っていく。後部乗客の美人がおもむろにメールを打っている、「メールなんか打つなよ」とそばにいる若者がつい口に出した。同感だ。バイクに乗った兄ちゃんだ。ときおりエンジンの空ぶかしするけれども無駄である。
「夕方のこの時間はいつもこうなんですか」
その兄ちゃんは敬語を使って質問してくる。
「下北沢まで、四つか、五つの踏切があるけどね。小田急ダイヤは、その踏切を塞がないように作ってあるはずだけども、運行が遅れているからいつ開くかわかんないですね」
つい知ったかぶりして答えたら、彼は妙に感心していた。
各停が行ってああ、これで開くなと思ったら、こんどは急行だ。東北沢2号踏切近辺には不穏な空気が漂い始めた。ゲリラというのはこういう雰囲気の中から湧いて出てくるのではないかと思ったほどだ。拳銃を持っていればぶっ放すのではないかと思われたほどだ。
ところがだ、唐木田行きの各停の八両目が過ぎたとたんに踏切警報機の矢印が消えた。そして、ポールがひょいと上がった。自分と、バイクの彼はいっさんに飛び出した。そして、すぐに矢印が点いたときにはもう踏切を半分過ぎていた。もちろんバイクの兄ちゃんの方がが速い。渡って、微かな左カーブを描いて道の向こうに消えた。
「グッバイ、気を付けていけよな」
おれと彼だけが夕方の6時23分43秒に踏切を渡った。戦友を見送るようにこちらは自転車に立ち乗りしてやつの姿を追った。後ろを振り返るともう踏切は閉まっていて、羨望の眼がこちらをにらんでいた。
踏切を渡ってしばらく池ノ上方向に走ってから右折した。日影山を下りて、昨日の教会を改めて見に行った。カマボコ形兵舎を使った教会があった。その背後には北沢タウンホールが高々とそびえ立っていた。インターネットで「カトリック世田谷教会」を検索してみた。すると、「カトリック世田谷教会の沿革」という記事にこういう紹介があった。
聖堂の建物は、むかしフランスから輸入された鉄パイプの骨組みを使っており、古い建物で少し手狭ですが緑の木々にかこまれ、春はうぐいすが、夏はせみが聖歌に声をあわせます。
信徒会館のかまぼこ兵舎は、戦後の米軍放質物資という歴史的記念物です。信徒一同、この由緒ある教会を心から大切にしております。
http://www.catholic-setagaya.jp/archives/church/history.html
信徒会館のかまぼこ兵舎は、戦後の米軍放質物資という歴史的記念物です。信徒一同、この由緒ある教会を心から大切にしております。
http://www.catholic-setagaya.jp/archives/church/history.html
下北沢第二象限にカマボコ兵舎はある。住所は北沢一丁目45−12である。庭には白い薔薇が咲いていた。古い建物がいまだに大切に使われている。過去のものがあっさりと潰され壊されていく中で出会った心慰められる風景だった。
2005年04月27日
下北沢X物語(222)〜猫町犬町不思議町2〜
かつてネジの頭は「−」、マイナスネジだった。けれどもいまはほとんどが「+」、プラスネジである。それを思いついた人のパテント料は莫大なものになる。そう聞いたことがある。マイナスよりもプラスがよい。それは下北沢の鉄道の姿、形でもある。
小田急線一本だったらたいして面白い街にはならなかったろう。新宿から南西に延びた斜線に、渋谷から北西を目指した斜線がクロスした。
小田急線開通は昭和二年だ。北沢川文学物語もじつはこの年に始まっている。面白い符合である。六年後の昭和八年に井の頭線が開通し鉄道のクロスが完成した。下北沢X物語はそこから始まった。鉄剣ならぬ鉄道がクロスして火花が散った。青い火花が咲いて物語も始まった。ミステリーロマン、「スパイク」も舞台がそこである。異質な電車があっちとこっちから来て空気を微妙にかき混ぜると平行世界の壁が薄くなる。下北沢でないと成り立たない話である。
小田急線一本だったらたいして面白い街にはならなかったろう。新宿から南西に延びた斜線に、渋谷から北西を目指した斜線がクロスした。
小田急線開通は昭和二年だ。北沢川文学物語もじつはこの年に始まっている。面白い符合である。六年後の昭和八年に井の頭線が開通し鉄道のクロスが完成した。下北沢X物語はそこから始まった。鉄剣ならぬ鉄道がクロスして火花が散った。青い火花が咲いて物語も始まった。ミステリーロマン、「スパイク」も舞台がそこである。異質な電車があっちとこっちから来て空気を微妙にかき混ぜると平行世界の壁が薄くなる。下北沢でないと成り立たない話である。
井の頭線と小田急線が交差し、渋谷にも新宿にもたやすく出られる下北沢は、閑静な住宅地と若者文化の町という二つの要素が混じりあい、独特の雰囲気を発散させている場所だ。当然住みたがる人も多く、アパートやマンションの家賃は概して高い。
「スパイク」松尾由美 光文社 2002年刊
「スパイク」松尾由美 光文社 2002年刊
鉄道がクロスしていることには様々な意義がある。逃げ道が多様であるとも言える。とすると、場合によっては交点近くのマンションの一室に窃盗団が潜んでいる可能性もないわけではない。ネットオークションで非合法のDVDを販売している秘密組織もあるのかもしれない。警察のガサ入れに遭ったら非常階段から逃げて迷路に逃げ込む。そして、そ知らぬ顔をして東北沢駅から新宿駅行き各停、その後ろから二両目に乗り込む。
マイナス思考ばかりではなくプラス思考でも考えたい。交通の便がいいということは、逢い引きが簡単だとも言える。渋谷方面からの大学生と新宿方面からの大学生が集まってきて合コンというのは充分ありうる。が、下北沢は適当に田舎、適度にローカルである。それを加味するとあちらでもこちらでも大学の合コンが開かれているとも思えない。渋谷や新宿あたりでやってちょっと意気投合した二人がひっそりと降りるぐらいではないだろうか。ついいまし方お下げ髪のジーンズと帽子を小粋にかぶった優男が南口の改札を出ると互いに眼と眼を見合ってひっそりと笑っていた。
JR山手線恵比寿辺りでむらむらときた河原卓治(43歳)は下北沢静仙閣に住まわせている淑子(28歳)に会いたくなった。そんなときは渋谷で下りて井の頭線に乗り換えればすぐである。もちろん静仙閣はいまはもうない。けれども戦時では下北沢のアパートには2号さんが多かったという。そういうひそやかな文化伝統は意外に強かに生きているものである。新大久保辺りで、亜里砂の顔を見たくなったのは今出川敏夫(38歳)である。彼は女を代沢の2DKに囲っていた。彼は新宿から小田急の多摩急行で下北沢に降り立った。
気軽に降りて治療ということも下北沢にはある。下北沢井の頭線ホームの医院の看板は尋常な数ではない。ほとんどすべての診療科の看板がかかげてある。ちょうど新緑の季節だ。緑をみてふと恐怖に駆られる。神経が繊細な人も少なくはない。木の芽時である。と、ふと思いついて心療内科に駆け込むという人もいるかもしれない。
続きを読むマイナス思考ばかりではなくプラス思考でも考えたい。交通の便がいいということは、逢い引きが簡単だとも言える。渋谷方面からの大学生と新宿方面からの大学生が集まってきて合コンというのは充分ありうる。が、下北沢は適当に田舎、適度にローカルである。それを加味するとあちらでもこちらでも大学の合コンが開かれているとも思えない。渋谷や新宿あたりでやってちょっと意気投合した二人がひっそりと降りるぐらいではないだろうか。ついいまし方お下げ髪のジーンズと帽子を小粋にかぶった優男が南口の改札を出ると互いに眼と眼を見合ってひっそりと笑っていた。
JR山手線恵比寿辺りでむらむらときた河原卓治(43歳)は下北沢静仙閣に住まわせている淑子(28歳)に会いたくなった。そんなときは渋谷で下りて井の頭線に乗り換えればすぐである。もちろん静仙閣はいまはもうない。けれども戦時では下北沢のアパートには2号さんが多かったという。そういうひそやかな文化伝統は意外に強かに生きているものである。新大久保辺りで、亜里砂の顔を見たくなったのは今出川敏夫(38歳)である。彼は女を代沢の2DKに囲っていた。彼は新宿から小田急の多摩急行で下北沢に降り立った。
気軽に降りて治療ということも下北沢にはある。下北沢井の頭線ホームの医院の看板は尋常な数ではない。ほとんどすべての診療科の看板がかかげてある。ちょうど新緑の季節だ。緑をみてふと恐怖に駆られる。神経が繊細な人も少なくはない。木の芽時である。と、ふと思いついて心療内科に駆け込むという人もいるかもしれない。
2005年04月26日
下北沢X物語(221)〜猫町犬町不思議町〜
何かが起こりそうなスリリングな街だ、と思うと、確かに下北沢はミステリアスな街だ。
このブログももともとはXのヒミツを探るところから始まった。
ミステリー作家、松尾由美は「二種類の電車がああいうふうに交差して通っているせいかもしれない」と言う。異文化が絶えず衝突して、空気をかき混ぜている。小田急線と井の頭線はそれぞれからそれぞれの空気を運ぶ。湘南の空気と武蔵野の空気がぶつかる地点。駿河湾の空気もそこにまざる。小田急特急「あさぎり」は沼津から駿河路の空気も運んできている。そういう鉄道交点が下北沢だ。
が、ただクロスしていればいいというものでもない。井の頭線と京王本線はやはり交差している。同じ社線同士のむすびつきだから無理なく交差している。例えば、井の頭線は新代田過ぎた辺りから本線とのクロスを意識して下りはゆるゆると右にカーブし始める。つぎの東松原を過ぎると大きくカーブをとってそして、明大前では十字クロスで交差している。穏やかな赤十字クロスとも言える。
ところが下北沢は斜め交差である。南西に行きたい小田急と北西に行きたい井の頭線、主張を譲らないでそのままの形で交差している。まずはそこからミステリーが生まれる。線の形そのものがXである。このクロスを見事に文学的に表現しているのが清水博子だ。
このブログももともとはXのヒミツを探るところから始まった。
ミステリー作家、松尾由美は「二種類の電車がああいうふうに交差して通っているせいかもしれない」と言う。異文化が絶えず衝突して、空気をかき混ぜている。小田急線と井の頭線はそれぞれからそれぞれの空気を運ぶ。湘南の空気と武蔵野の空気がぶつかる地点。駿河湾の空気もそこにまざる。小田急特急「あさぎり」は沼津から駿河路の空気も運んできている。そういう鉄道交点が下北沢だ。
が、ただクロスしていればいいというものでもない。井の頭線と京王本線はやはり交差している。同じ社線同士のむすびつきだから無理なく交差している。例えば、井の頭線は新代田過ぎた辺りから本線とのクロスを意識して下りはゆるゆると右にカーブし始める。つぎの東松原を過ぎると大きくカーブをとってそして、明大前では十字クロスで交差している。穏やかな赤十字クロスとも言える。
ところが下北沢は斜め交差である。南西に行きたい小田急と北西に行きたい井の頭線、主張を譲らないでそのままの形で交差している。まずはそこからミステリーが生まれる。線の形そのものがXである。このクロスを見事に文学的に表現しているのが清水博子だ。
散歩の際には、新宿から南へ下る小田急をY軸、吉祥寺へゆらゆら延びる井の頭線をX軸に取った、ひしゃげた座標軸に手足を拘束されるから、あてどなく彷徨うということが、ここではできない。(「街の座標軸」清水博子 集英社文庫 2001年刊)
「ひしゃげた座標軸」という言い方は巧みである。じっさいはXというよりもバッテン、「×」に近い。この頃、自転車で街中をぶらついているとインターネットから引き出した地図を手に持って歩いている人を見かける。角角で立ち止まってはそれで確認をする。その地図には黒々としたXのマークが見える。誰もがそれを持っていると、アラビアンナイトの「アリババと四十人の盗賊」を思い出してしまう。
Xが方向感覚を狂わせるということはある。井の頭線下北沢駅で降りて、南口に行く間、大仏の胎内廻りをするような感覚がある。南口に着いたときにはもう羅針盤を失ってしまう。どうでもいいやというあきらめがさきに立つこともある。
「ひしゃげた座標軸」としての鉄道交点が一番ミステリアスだ。交点はターゲットでもある。そこには何かがある。徳川埋蔵金は埋まっていないが、薩摩藩の埋蔵金は埋まっている可能性はある。下北沢野屋敷は薩摩藩の抱え屋敷があったところだ。
続きを読む「ひしゃげた座標軸」という言い方は巧みである。じっさいはXというよりもバッテン、「×」に近い。この頃、自転車で街中をぶらついているとインターネットから引き出した地図を手に持って歩いている人を見かける。角角で立ち止まってはそれで確認をする。その地図には黒々としたXのマークが見える。誰もがそれを持っていると、アラビアンナイトの「アリババと四十人の盗賊」を思い出してしまう。
Xが方向感覚を狂わせるということはある。井の頭線下北沢駅で降りて、南口に行く間、大仏の胎内廻りをするような感覚がある。南口に着いたときにはもう羅針盤を失ってしまう。どうでもいいやというあきらめがさきに立つこともある。
「ひしゃげた座標軸」としての鉄道交点が一番ミステリアスだ。交点はターゲットでもある。そこには何かがある。徳川埋蔵金は埋まっていないが、薩摩藩の埋蔵金は埋まっている可能性はある。下北沢野屋敷は薩摩藩の抱え屋敷があったところだ。
2005年04月25日
下北沢X物語(220)〜猫町犬町下北沢2〜
「スパイク」の女主人公は二十代ぎりぎりだ。失恋して落ち込んでいるときふと旧友を思い出す。池ノ上に住んでいる小さな会社の社長令嬢、彼女に電話する。すると気分転換に芝居見物行かないかと誘われて、下北沢で落ち合う。そして若手劇団の芝居を観る。その後に二人は台湾料理の店に行く。台湾料理の「小皿の数より盛大に」愚痴を令嬢に彼女は「繰り広げた」と。このくだりを読みながら、本多劇場の前にある台湾小皿料理の店を思い出した。
人間は連れ合いの動物だ。やはり孤独は耐えがたいものだ。「ひとりでいるのはさびしい。さびしくてたまらない」と彼女は言う。すると令嬢が犬を飼えと勧める。
「犬はいいよ。さびしくないよ。男なんかよりずっと誠実だし、裏切らないよ」
忠臣と忠犬、後者がはるかに忠実だ。主人には耳を寝せて恭順の意を表す。が、忠臣はたいがいが裏切るものだ。殿に尽くしますといいながら脇にいる奥方に色目を使う。令嬢の意見はまっとうだ。
下北で酔っ払った彼女は電柱に寄りかかって気分を鎮めているとふと目についた不動産屋の広告。「アパート 下北沢十二分 六帖 DK六 ペット可」を見つける。そこから下北沢生活が始まる。もちろん令嬢から譲られたビーグル犬といっしょの生活だ。
が、とあるとき、下北沢の街を犬と散歩しているときに飼い犬「スパイク」とそっくりの犬を連れた男に出会う。しかも驚いたことに相手の犬の名も同じだと言う。
男の印象は悪くない。東北沢のマンションに住んでいるという。街のカフェテラスの脚にリードをしばって男女は言葉を交わした。そして互いに関心を深めた。ところがここで意外な展開が待っている。
そっくりな犬同士が入れ替わっていたのだ。このことは単純なことではない。異世界存在とかかわってくる。これを通してパラレル世界の存在が明らかにされる。どうやら下北沢はパラレルワールドの壁の薄い部分があるようだ。全く同じ色合いのビーグル犬とここで出会って、入れ替わってしまう。愛と恋をからめたミステリアスな話だ。ぜひ一読されたい。鉄道交点のミステリアスをさりげなく彼女はこう語っている。
人間は連れ合いの動物だ。やはり孤独は耐えがたいものだ。「ひとりでいるのはさびしい。さびしくてたまらない」と彼女は言う。すると令嬢が犬を飼えと勧める。
「犬はいいよ。さびしくないよ。男なんかよりずっと誠実だし、裏切らないよ」
忠臣と忠犬、後者がはるかに忠実だ。主人には耳を寝せて恭順の意を表す。が、忠臣はたいがいが裏切るものだ。殿に尽くしますといいながら脇にいる奥方に色目を使う。令嬢の意見はまっとうだ。
下北で酔っ払った彼女は電柱に寄りかかって気分を鎮めているとふと目についた不動産屋の広告。「アパート 下北沢十二分 六帖 DK六 ペット可」を見つける。そこから下北沢生活が始まる。もちろん令嬢から譲られたビーグル犬といっしょの生活だ。
が、とあるとき、下北沢の街を犬と散歩しているときに飼い犬「スパイク」とそっくりの犬を連れた男に出会う。しかも驚いたことに相手の犬の名も同じだと言う。
男の印象は悪くない。東北沢のマンションに住んでいるという。街のカフェテラスの脚にリードをしばって男女は言葉を交わした。そして互いに関心を深めた。ところがここで意外な展開が待っている。
そっくりな犬同士が入れ替わっていたのだ。このことは単純なことではない。異世界存在とかかわってくる。これを通してパラレル世界の存在が明らかにされる。どうやら下北沢はパラレルワールドの壁の薄い部分があるようだ。全く同じ色合いのビーグル犬とここで出会って、入れ替わってしまう。愛と恋をからめたミステリアスな話だ。ぜひ一読されたい。鉄道交点のミステリアスをさりげなく彼女はこう語っている。
「おそらくきみが住むこの町、下北沢というんだっけ、ここは二つの世界の間の壁がもともと薄いところなんだよ。
たぶん無数にある平行世界の、その中の二つ‥‥‥ぼくが生まれた時からつい先週までいた世界と、今いるこの世界に関する限りは、それ以外の世界についてはまた別の、壁の薄いポイントがどこかにあるのかもしれない、また、今問題になっている二つの世界に関してもそういうポイントがあるのかもしれないけれども」
「下北沢がそういう場所だって、どうしてわかるの?」
「スパイク」 松尾由美 2002年 光文社刊
続きを読むたぶん無数にある平行世界の、その中の二つ‥‥‥ぼくが生まれた時からつい先週までいた世界と、今いるこの世界に関する限りは、それ以外の世界についてはまた別の、壁の薄いポイントがどこかにあるのかもしれない、また、今問題になっている二つの世界に関してもそういうポイントがあるのかもしれないけれども」
「下北沢がそういう場所だって、どうしてわかるの?」
「スパイク」 松尾由美 2002年 光文社刊
2005年04月24日
下北沢X物語(219)〜猫町犬町下北沢1〜
「下北沢X物語」は一つの世界である。その土地の匂いや色に影響されている。猫的か、犬的かというと前者である。猫伝説が豊富だからだ。
ああ このおほきな都会の夜に眠れるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語るねこのかげだ。
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
萩原朔太郎 日本詩人全集14 新潮社 昭和四十一年刊
かなしい人類の歴史を語るねこのかげだ。
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
萩原朔太郎 日本詩人全集14 新潮社 昭和四十一年刊
萩原朔太郎「青猫」に収められた「青猫」の詩の一節だ。彼は故郷前橋にいたとき都会を枯渇した。青猫は都会の象徴でもある。上京して下北沢にも彼は住んだ。北口のいまのスタバの近くだ。
その彼はそこから引っ越して、隣の代田に住んだ。そこで唯一の小説「猫町」を書いた。昭和十年頃の下北沢が舞台である。今の下北沢一番街の様子がそれを読むと朧気に浮かび上がってくる。下北沢猫町伝説はここから生まれた。下北沢のシャッターに猫が描かれるのはそこからの影響である。
北沢川文学の下流、淡島、倉運荘の住人も猫をかわいがった。
その彼はそこから引っ越して、隣の代田に住んだ。そこで唯一の小説「猫町」を書いた。昭和十年頃の下北沢が舞台である。今の下北沢一番街の様子がそれを読むと朧気に浮かび上がってくる。下北沢猫町伝説はここから生まれた。下北沢のシャッターに猫が描かれるのはそこからの影響である。
北沢川文学の下流、淡島、倉運荘の住人も猫をかわいがった。
我が輩は黒猫ジュリエット。全身艶のある黒毛で、びろうどの觸感があるそうだ。眼は薄緑の所へ、名状すべからざる深さと濃度を持つ藍色の瞳。
森茉莉、「黒猫ジュリエット」の書き出しだ。」(「贅沢貧乏」新潮社 1963年刊)
下北はブルージーンズのたむろする街、夜半の路地には朔太郎の青猫がうごめき、その下手に流れる川をスモールテムズと呼んだ茉莉、彼女の飼い猫は黒猫ジュリエット。言葉が作り出した伝説であり、口碑である。下北沢猫伝説だ。けれども犬も悪くないと思った。犬町伝説だ。
はじめてヒミツを明かすとしよう。じつは我が家には犬がいる。日々、猫町伝説を通り過ぎて行って帰ってくる。すると、どうもにおいがつくらしい。家に帰り着くと彼女はかならず自分のにおいを嗅ぐ。そして、全身をぶるっと震わせる。そうして猫町の霊気を振り払う。近辺の町、例えば大岡山に焼き鳥を買いに行って帰ってきても彼女はそんなことはしない。
ブログを書いているときに、犬町も悪くないよなと、彼女に聞いてみた。すると、首を傾げてこちらを見るばかりだ。一種のポーズに過ぎないが犬もかわいいと思う。
下北沢のカフェテラスで珈琲を飲む。そこに侍らせる犬は何がいいか。ゴールデンレトリバーはでかすぎて路地には似合わない。ブルドックはとりあえずはよいか。眼を開けているのか閉じているのか分からない柴犬も踏切で待っているときは絵になる。だが、カフェテラスだと毛色が生きない。
ミステリー作家、松尾由美は下北沢にビーグル犬を持ってきた。それも「白に薄茶の檸檬カラー」である。その名が「スパイク」(光文社刊 2002年)本のタイトルでもある。」なんでもスヌーピーの兄の名前がそうらしい。「スパイク」はそれから取ったようだ。それについてはこう記してある。知らないことだった。
続きを読む下北はブルージーンズのたむろする街、夜半の路地には朔太郎の青猫がうごめき、その下手に流れる川をスモールテムズと呼んだ茉莉、彼女の飼い猫は黒猫ジュリエット。言葉が作り出した伝説であり、口碑である。下北沢猫伝説だ。けれども犬も悪くないと思った。犬町伝説だ。
はじめてヒミツを明かすとしよう。じつは我が家には犬がいる。日々、猫町伝説を通り過ぎて行って帰ってくる。すると、どうもにおいがつくらしい。家に帰り着くと彼女はかならず自分のにおいを嗅ぐ。そして、全身をぶるっと震わせる。そうして猫町の霊気を振り払う。近辺の町、例えば大岡山に焼き鳥を買いに行って帰ってきても彼女はそんなことはしない。
ブログを書いているときに、犬町も悪くないよなと、彼女に聞いてみた。すると、首を傾げてこちらを見るばかりだ。一種のポーズに過ぎないが犬もかわいいと思う。
下北沢のカフェテラスで珈琲を飲む。そこに侍らせる犬は何がいいか。ゴールデンレトリバーはでかすぎて路地には似合わない。ブルドックはとりあえずはよいか。眼を開けているのか閉じているのか分からない柴犬も踏切で待っているときは絵になる。だが、カフェテラスだと毛色が生きない。
ミステリー作家、松尾由美は下北沢にビーグル犬を持ってきた。それも「白に薄茶の檸檬カラー」である。その名が「スパイク」(光文社刊 2002年)本のタイトルでもある。」なんでもスヌーピーの兄の名前がそうらしい。「スパイク」はそれから取ったようだ。それについてはこう記してある。知らないことだった。
2005年04月23日
下北沢X物語(218)〜音の愛を綴った三好達治〜
昨日、「邪宗門」に寄ったら「今朝の朝日新聞の『天声人語』は読んだか」と聞かれた。じゃらんさんと作道さんだ。三好達治のことが載っているということだった。こうあった。
「毎朝向いの家で元気な子供の声がきこえる。食事がすむと『いって参りまあす』というのが聞える」。昼になれば「ただいまあ」が、手にとるように聞こえる。露地一つを隔てて隣接しているからで、親しいつきあいはなくとも様子が分かる。宏壮な邸宅に居ては、この風味は味わえない。「私には大厦(たいか)高楼に住まいたい希望はない」(『月の十日』講談社文芸文庫)。
記事を読んだとたん代田の一丁目の寄寓先の話しだと思った。「邪宗門」からの帰り際、いつものように岩沢邸のあった路地を通った。片隅の菜園は放置されたままだ。仏の座がまだ咲いている。路地に近いところに彼の部屋、応接間はあったようだ。
角の炭屋を目標に横町の路地を入ってゆくと、右側に「岩沢」と表札の出た平屋が見え、足を止めると「三好」と、目立たない表札が出て、ひっそりとしている。
四つ目垣に沿っている部屋の窓は、重たそうなカーテンが引かれ、松の古木と樫の大木が、窓を覆っていた。人の住む気配がないようにしんと静まり返り、三好さんの侘び住まいに相応わしかった。
叔母の慶子と別れ、一人暮らしを始めた三好さんは、この家の応接間を借りて暮らしていた。 萩原葉子 「天上の花」講談社学芸文庫 1996年刊
四つ目垣に沿っている部屋の窓は、重たそうなカーテンが引かれ、松の古木と樫の大木が、窓を覆っていた。人の住む気配がないようにしんと静まり返り、三好さんの侘び住まいに相応わしかった。
叔母の慶子と別れ、一人暮らしを始めた三好さんは、この家の応接間を借りて暮らしていた。 萩原葉子 「天上の花」講談社学芸文庫 1996年刊
角の炭屋さんはいまは電気会社になっている。「ただいま、お帰り」はここの息子さんだったような気もする。この家の裏にお稲荷さんがある。
「お稲荷さんのことは家のおばあちゃんがよく知っているけど今は留守だ」
その三浩電気の息子さんがそう教えてくれたことがあった。花見堂小学校へ通っていたときのことはもうだいぶ昔のことである。
旧岩崎邸前は車がやっと一台通れるぐらいの路地が通っている。近隣、近辺の音はよく響いて聞こえる。今は回りはすっかり建物に囲まれてしまっているが、かつては畑があった。麦畑や野菜畑である。
岩崎邸は緑が多かったようだ。松の古木に樫の大木。裏には柿の木があった。小鳥も多く飛んできた。駒沢線57号鉄塔が近くに聳え立っている。そこにいったん羽を休めた小鳥が岩崎邸の柿の木などにやってきた。
孤高の詩人はとても耳が敏感である。女っ気もない侘び住まいだ。住まいの近辺から聞こえてくる音は人語の語らい。詩人は人恋しくもあった。どんな音でも耳を澄ませた。音感が鋭い。彼は鳴き声でどこから来た鳥か見当がついたほどである。張りのある声でなくのは明治神宮から飛んできた鳥だ、トーンがやや落ちる鳥は東大駒場の森からのものだ、それほどに敏感だ。ましてや人間となると足音で性格や年齢までも言い当ててしまうほどである。
「お稲荷さんのことは家のおばあちゃんがよく知っているけど今は留守だ」
その三浩電気の息子さんがそう教えてくれたことがあった。花見堂小学校へ通っていたときのことはもうだいぶ昔のことである。
旧岩崎邸前は車がやっと一台通れるぐらいの路地が通っている。近隣、近辺の音はよく響いて聞こえる。今は回りはすっかり建物に囲まれてしまっているが、かつては畑があった。麦畑や野菜畑である。
岩崎邸は緑が多かったようだ。松の古木に樫の大木。裏には柿の木があった。小鳥も多く飛んできた。駒沢線57号鉄塔が近くに聳え立っている。そこにいったん羽を休めた小鳥が岩崎邸の柿の木などにやってきた。
孤高の詩人はとても耳が敏感である。女っ気もない侘び住まいだ。住まいの近辺から聞こえてくる音は人語の語らい。詩人は人恋しくもあった。どんな音でも耳を澄ませた。音感が鋭い。彼は鳴き声でどこから来た鳥か見当がついたほどである。張りのある声でなくのは明治神宮から飛んできた鳥だ、トーンがやや落ちる鳥は東大駒場の森からのものだ、それほどに敏感だ。ましてや人間となると足音で性格や年齢までも言い当ててしまうほどである。
わたしの部屋は道に近いので、枕の上で朝早い路上の足音をきくことが多い。仕事の後は寝付きが悪いので、私にはまだ昨夜のつづきである。まず牛乳屋、その後は新聞。牛乳屋は青年らしい物音を残して、この季節にはまだ薄暗い中を去る。新聞の方は窓が白んでから暫くして、いつものゴム靴でやってくる。その足音で、配達さんの年齢がわかる。ゴム底にかかる目方、その体重と、いかさま軽捷なその足どりとでそれがわかる。この方は少年である。きびしい冬が去つて、この頃では、聞く方もほつとしている。
三好達治全集第10巻、筑摩書房 「燈下雑記」「季節の言葉」 昭和38年3月1日「京都放送」に発表。
三好達治旧宅前は坂になっている。新聞配達や牛乳配達は淡島通りから入ってきて、それぞれのものを配る。新聞配達はたっとっとと、てったとっと、長靴の音を立てる。響きが鈍い。「今日は代わりの配達人、四十代だ」と判定する。
続きを読む三好達治全集第10巻、筑摩書房 「燈下雑記」「季節の言葉」 昭和38年3月1日「京都放送」に発表。
三好達治旧宅前は坂になっている。新聞配達や牛乳配達は淡島通りから入ってきて、それぞれのものを配る。新聞配達はたっとっとと、てったとっと、長靴の音を立てる。響きが鈍い。「今日は代わりの配達人、四十代だ」と判定する。
2005年04月22日
下北沢X物語(217)〜東京行進曲物語3〜
「小田急五十年史」は「小田急を高めた東京行進曲」の項をつぎのように締めくくっている。
わが社の電車を駆け落ち電車みたいに書くとはけしからん、と怒った重役もいたそうであるが、その宣伝効果を金額に換算したら膨大な数字になったであろう。はるか後年に至って、会社は西条八十に終身、優待乗車証を贈って当時の恩誼に報いたが、開通早々の東日の記事といい、宮殿下の乗車といい、そして今回の「東京行進曲」といい、はからざるところで絶好の宣伝となり、その点では小田原急行電鉄はまことに運がよかったといえる。
小田急の開通は昭和二年(1927)である。いまその二年前の大正十四年(1924)十一月に発行された「東京附近鉄道線路図」が手元にある。新宿から西北には中央線が延びている。真西には京王帝都電鉄だ。新宿の南の渋谷からは真西に玉川電気鉄道が延びている。が、それは世田谷の砧止まりだ。世田谷には京王帝都と玉電にはさまれた空白域が広がっている。
鉄道敷設というのは相対的なものである。ことに線路が込み合っていればなおさらである。小田急電鉄の創始者利光鶴松は新宿渋谷間西方の空白域、さらには神奈川県中央部の鉄道空白域に目をつけた。南方の東海道本線、北の京王帝都電鉄、中央本線は当然意識されている。
山と海のはざ間を縫って西南に逃げる線を企画立案し、そして実際に線路を敷設した。
小田急の路線はずり落ちていく感覚である。新宿から西南を目指す。世田谷区内はほぼ斜めに突き抜けている。神奈川に渡っても基本的には変わらない、秦野辺りで北東に向かうようなこともあるが、松田を過ぎるともう一気に南西の小田原、海を目指す。
小田急現業の人から聞いたことがある。線路の北側を「山」といい南を「海」という。
「下北沢二号踏み切りの海側に赤いちゃんちゃんこ着た踏切地蔵がある」
右、左よりもわかり易い。
現場の用語はその線の文化を言い表す。北の山とそして南の海が意識される路線、それが小田急である。
「駆け落ち路線などとわが社のことを歌うなどとは許せない」
そのように意気まいた重役がいたそうだがそれは線路敷設の文化認識が不足している。西南に向かって逃げ延びていくのが小田急の魅力である。斜めの美学が小田急である。ひそやかな男女のひそやかな駆け落ちは哀れで美しい。直行よりも斜行がいい。
このブログの開いた当初からいろいろなことをコメントやメールで伺っているのがじゃらんさんである。
鉄道敷設というのは相対的なものである。ことに線路が込み合っていればなおさらである。小田急電鉄の創始者利光鶴松は新宿渋谷間西方の空白域、さらには神奈川県中央部の鉄道空白域に目をつけた。南方の東海道本線、北の京王帝都電鉄、中央本線は当然意識されている。
山と海のはざ間を縫って西南に逃げる線を企画立案し、そして実際に線路を敷設した。
小田急の路線はずり落ちていく感覚である。新宿から西南を目指す。世田谷区内はほぼ斜めに突き抜けている。神奈川に渡っても基本的には変わらない、秦野辺りで北東に向かうようなこともあるが、松田を過ぎるともう一気に南西の小田原、海を目指す。
小田急現業の人から聞いたことがある。線路の北側を「山」といい南を「海」という。
「下北沢二号踏み切りの海側に赤いちゃんちゃんこ着た踏切地蔵がある」
右、左よりもわかり易い。
現場の用語はその線の文化を言い表す。北の山とそして南の海が意識される路線、それが小田急である。
「駆け落ち路線などとわが社のことを歌うなどとは許せない」
そのように意気まいた重役がいたそうだがそれは線路敷設の文化認識が不足している。西南に向かって逃げ延びていくのが小田急の魅力である。斜めの美学が小田急である。ひそやかな男女のひそやかな駆け落ちは哀れで美しい。直行よりも斜行がいい。
このブログの開いた当初からいろいろなことをコメントやメールで伺っているのがじゃらんさんである。
「 私の銀河鉄道はもう今では工事で見られなくなった梅ヶ丘、世田谷代田間の南側の道から見た、急行電車でした。土手の下から見る(昔は障害物が無くよく見えました)夜の電車は、廃止になった踏み切りで亡くなった幼なじみの思い出とともに、私には永遠に残る風景です。いろいろ書きましたが、レィルセブンさんとの運命の巡り合わせ? 不思議なご縁で有ります事に驚いております。」
2005年04月21日
下北沢X物語(216)〜東京行進曲物語2〜
「いっそ小田急で 逃げましょうか」
昭和四年に「東京行進曲」爆発的にヒットした。丸ビル、地下鉄、シネマ、デパート、バスなどという近代の建物、機械がちりばめられている。外来語も多用されている。ジャズ、リキュル、ストップ、ダンサー、ラッシュアワーなどとてもお洒落である。想定される地域も広い東京を網羅している。銀座、浅草、丸の内、新宿である。
昭和の恐慌、ひたひたと押し寄せる軍国主義、そういった中で近代都市での恋を歌った歌。モダンで、お洒落な歌は全国津々浦々に響き渡った。
近代の都市生活をよりリアルに想起させる歌である。が、一方では日本独特の情調を思わせる感性をも秘めている。それが、「いっそ小田急で 逃げましょうか」である。
「いっそ」は外国語にないものと言う。論理の飛躍である。どうにもならないから「いっそのこと死んでしまおう」という風に使われる。念のため辞書で調べてみた「日本国語大辞典」(小学館)だ。
昭和四年に「東京行進曲」爆発的にヒットした。丸ビル、地下鉄、シネマ、デパート、バスなどという近代の建物、機械がちりばめられている。外来語も多用されている。ジャズ、リキュル、ストップ、ダンサー、ラッシュアワーなどとてもお洒落である。想定される地域も広い東京を網羅している。銀座、浅草、丸の内、新宿である。
昭和の恐慌、ひたひたと押し寄せる軍国主義、そういった中で近代都市での恋を歌った歌。モダンで、お洒落な歌は全国津々浦々に響き渡った。
近代の都市生活をよりリアルに想起させる歌である。が、一方では日本独特の情調を思わせる感性をも秘めている。それが、「いっそ小田急で 逃げましょうか」である。
「いっそ」は外国語にないものと言う。論理の飛躍である。どうにもならないから「いっそのこと死んでしまおう」という風に使われる。念のため辞書で調べてみた「日本国語大辞典」(小学館)だ。
いっ−そ 副
1,あれこれと考えた末、それらとは一段違ったことを思い切っ
1,あれこれと考えた末、それらとは一段違ったことを思い切っ
て って運ぶ気持ちを表す。思 い切って、いっそうのこと
2,好ましいものをあきらめて意に染まないものを選ぶときの、
2,好ましいものをあきらめて意に染まないものを選ぶときの、
投げやりな気持ちを表す。どうせだめなら、ままよ。
3,物事の、ある極端な状態を挙げて強調する。または一方を
3,物事の、ある極端な状態を挙げて強調する。または一方を
捨てて他方を選び、それを 強調する意味を表す。本当
に、全く。
言葉を厳密に定義する辞書の解説は分析的である。が、「いっそ小田急」をこれに当てはめようとすると無理がある。
「武蔵野館で映画を見ましょうか、珈琲店『酔月』でお茶飲みましょうか、それとも、この頃できた小田急でいっそのこと駆け落ちするのも面白いかもしれないわね」
「思い切って駆け落ちしよう」1のような深刻さもない。また、2のような「投げやりな気持ち」も感じられない。「東海道線がだめなら、いっそのこと小田急で」というような3の意味合いもない。
どうにもならないから小田急で逃げようというそんな悲壮感はない、道行的感覚である、遊び的な感覚である。その場合の小田急という線区選びがいい。
鉄道路線には線区文化というものがある。いっそ山手線で逃げましょうかでは逃げられない。ぐるっと回ってもとにもどってくる。いっそ東海道線で逃げましょうかは、駆け落ちの王道で重すぎる。いっそ京王帝都で逃げましょうか、終点の高尾山だとすともう行き先が限られる。ロープウェイに乗って高尾山頂の猿山を見るぐらいしかない。
その点小田急の選択肢は多岐にわたる。箱根の温泉や湖、山にも行ける。江ノ島線で海にも古都鎌倉にも行ける。東海道線はまだ御殿場周りである。その東海道線には松田で乗り換えられる。山北で急行に乗り換えて関西方面へも行ける。
できたばかりの新しい線区である。 南西方向に斜めにずり落ちていく、東海道の裏街道であり、そこを行くと温泉、山、湖というリゾート地帯に行ける。青い海への道も魅力的だった。「いっそ小田急で逃げましょうか」は味のきいたフレーズであった。
続きを読む「武蔵野館で映画を見ましょうか、珈琲店『酔月』でお茶飲みましょうか、それとも、この頃できた小田急でいっそのこと駆け落ちするのも面白いかもしれないわね」
「思い切って駆け落ちしよう」1のような深刻さもない。また、2のような「投げやりな気持ち」も感じられない。「東海道線がだめなら、いっそのこと小田急で」というような3の意味合いもない。
どうにもならないから小田急で逃げようというそんな悲壮感はない、道行的感覚である、遊び的な感覚である。その場合の小田急という線区選びがいい。
鉄道路線には線区文化というものがある。いっそ山手線で逃げましょうかでは逃げられない。ぐるっと回ってもとにもどってくる。いっそ東海道線で逃げましょうかは、駆け落ちの王道で重すぎる。いっそ京王帝都で逃げましょうか、終点の高尾山だとすともう行き先が限られる。ロープウェイに乗って高尾山頂の猿山を見るぐらいしかない。
その点小田急の選択肢は多岐にわたる。箱根の温泉や湖、山にも行ける。江ノ島線で海にも古都鎌倉にも行ける。東海道線はまだ御殿場周りである。その東海道線には松田で乗り換えられる。山北で急行に乗り換えて関西方面へも行ける。
できたばかりの新しい線区である。 南西方向に斜めにずり落ちていく、東海道の裏街道であり、そこを行くと温泉、山、湖というリゾート地帯に行ける。青い海への道も魅力的だった。「いっそ小田急で逃げましょうか」は味のきいたフレーズであった。
2005年04月20日
下北沢X物語(215)〜東京行進曲物語〜
「東京行進曲」の歌詞は1番から4番まである。言ってみればそれは当時の東京都市物語である。街の進展と衰亡、そこに勃興してくる新しい文化が見て取れる。
銀座の柳はもうかつてものである。カフェの女給、年増女の艶子も寄る年波には勝てない。化粧の乗りも悪い。ドレスを買い換えたいが実入りが少なく裾が擦り切れたままだ。丸ビルのサアさんはもうちっとも寄り付かない。聞くところによるとエレベーターガールを見初めて、お熱を上げているらしい。
丸ビルの郵船に勤めている船坂次郎は女事務員の歌子に恋をした。が、恋文を送ってもなしのつぶて、思い余って廊下で声を掛けたら「あなたとお付き合いする気などありません」と。もう涙を流すしかなかった。移り気な彼は今度は丸ビルのエレベーターガールに恋をしてしまった。思いをつづった白い封筒は何度か靴に踏みにじられるばかりであったが、水色の封筒に書いたものはなんとか受け取ってくれた。
ところが、実際のデートとなると東京は狭いものだ。銀座の路地をちょっと並んで歩くだけで「サーさんおさかんね」と言うのをみると艶子だった。エレベーターガールと丸ビルサラリーマンのデートもなかなかである。逢引しようとすると東京は狭い。
やっと落ち着いたのは浅草演芸館に行くこと。途中で見られるとまずいので彼女はバスで行く。彼はできたばかりの地下鉄に乗って浅草まで行った。しのび合いである。逢って話をすると思いは募る。次のデート場所はどこにしようか。銀座は知った人が多い。行くのなら新しく流行ってきた街の方がいい。渋谷や新宿である。
武蔵野館、新宿松竹館に続いて映画館が次々にできているらしい。山手線、京王線、中央線、それに小田急線ができて新宿は急速に賑わいはじめた。カフェもつぎつぎにできて可愛い人がいるのでたくさん人がいるらしい。
二人は次の土曜日、新宿駅で待ち合わせた。銀座と違って庶民的だ。けれども街がほこりぽい。それにときどき方言が混ざっている。なんとか「〜ずら」という言い方だ。甲州弁のようだ。
「武蔵野館で洋画をみようね?」
「終わった後は、カフェ、酔月にでも行きましょうね」
「うん、そうだね、それからデパートでお食事というのもいいか」
「そうだわね、でもあなたのところ、わたしとの結婚に反対しているんでしょう。だってあなたは大学出ていて、わたしは高等小学校卒業、身分があまりにも違うわね」
「なかなか親父はいうこと聞いてくれないしな」
次郎は高い建物がそびえたっているのが見えた。デパートだ。その上に昼の月が出いていた。
「ねぇ、いっそうのことさ、小田急で駆け落ちしない」
彼女は男の顔を覗き込んだ。
「小田急か?」
東海道線での駆け落ちは目立ちすぎる。東京駅で見知った顔に合うことは十分にある。新宿から出ている小田急は最近開業したばかりだ。ひっそりと二人で駆け落ちして松田まで行く。そこから東海道線に乗れば誰にも逢わずに大阪まで行ける。けれども、その先の見通しはない。事務職に慣れた自分に他の仕事はできそうにもない。
続きを読む丸ビルの郵船に勤めている船坂次郎は女事務員の歌子に恋をした。が、恋文を送ってもなしのつぶて、思い余って廊下で声を掛けたら「あなたとお付き合いする気などありません」と。もう涙を流すしかなかった。移り気な彼は今度は丸ビルのエレベーターガールに恋をしてしまった。思いをつづった白い封筒は何度か靴に踏みにじられるばかりであったが、水色の封筒に書いたものはなんとか受け取ってくれた。
ところが、実際のデートとなると東京は狭いものだ。銀座の路地をちょっと並んで歩くだけで「サーさんおさかんね」と言うのをみると艶子だった。エレベーターガールと丸ビルサラリーマンのデートもなかなかである。逢引しようとすると東京は狭い。
やっと落ち着いたのは浅草演芸館に行くこと。途中で見られるとまずいので彼女はバスで行く。彼はできたばかりの地下鉄に乗って浅草まで行った。しのび合いである。逢って話をすると思いは募る。次のデート場所はどこにしようか。銀座は知った人が多い。行くのなら新しく流行ってきた街の方がいい。渋谷や新宿である。
武蔵野館、新宿松竹館に続いて映画館が次々にできているらしい。山手線、京王線、中央線、それに小田急線ができて新宿は急速に賑わいはじめた。カフェもつぎつぎにできて可愛い人がいるのでたくさん人がいるらしい。
二人は次の土曜日、新宿駅で待ち合わせた。銀座と違って庶民的だ。けれども街がほこりぽい。それにときどき方言が混ざっている。なんとか「〜ずら」という言い方だ。甲州弁のようだ。
「武蔵野館で洋画をみようね?」
「終わった後は、カフェ、酔月にでも行きましょうね」
「うん、そうだね、それからデパートでお食事というのもいいか」
「そうだわね、でもあなたのところ、わたしとの結婚に反対しているんでしょう。だってあなたは大学出ていて、わたしは高等小学校卒業、身分があまりにも違うわね」
「なかなか親父はいうこと聞いてくれないしな」
次郎は高い建物がそびえたっているのが見えた。デパートだ。その上に昼の月が出いていた。
「ねぇ、いっそうのことさ、小田急で駆け落ちしない」
彼女は男の顔を覗き込んだ。
「小田急か?」
東海道線での駆け落ちは目立ちすぎる。東京駅で見知った顔に合うことは十分にある。新宿から出ている小田急は最近開業したばかりだ。ひっそりと二人で駆け落ちして松田まで行く。そこから東海道線に乗れば誰にも逢わずに大阪まで行ける。けれども、その先の見通しはない。事務職に慣れた自分に他の仕事はできそうにもない。
2005年04月18日
下北沢X物語(213)〜下北沢の色の物語〜
新緑の季節は刻一刻と色が変化していく。木々の薄緑が黄緑になっていく。北沢川鎌倉橋の八重桜が咲き始めた。ツツジの赤や白も存在を主張し始めた。
彩りは文化である。けれでもその彩りはどこもここも均質化しつつある。セブンイレブンがあってマクドナルドがあり、ドトールコーヒーがある。その土地固有の色合いは薄れつつあるものだと思う。が、しかし、彩りは同じであったとしてもその店の屋根の下で交わされる物語はそれぞれに違うものである。
今朝は街を自転車で走行しながら色合いを考え、そして、考察した。
北沢川遊歩道の橋場橋から鎌倉橋までは改修工事が完了した。シックな舗石の間に蛇行した小川、その両岸に咲いている八重桜は色が映える。とはいっても暗渠の上に造られたのは模造の川である。汚泥や汚水が流れている本物の川はその下に流れている。下水道である。羽根木公園の遺跡に振った雨、代田八幡の裏手を走る新型ロマンスカーVSEから跳ね飛ばされた冷房機の水などはみな見えない部分に流れる。都市の川は暗黒だと思った。
代沢五差路は餃子の「王将」の赤である。世田谷では明大前、三軒茶屋にもある。チェーン店だが下北沢王将は若者の間ではかなりよく知られた名前だ。自由が丘、亀屋万年堂のはす向かいにあった「王将」はとおに滅びた。が、下北の「王将」は存在し続けている。需要と供給のバランスがいいのかもしれない。懐と味である。明大前に三茶に下北、なにやらつながりがありそうだ。鉄道の分岐点である。「王将」は鉄でつながる。古レールは鉄板に再生されるとも言う。確かに炒飯の味は違う。古レールで造られた中華なべが味の秘訣なのかもしれない。ともあれ鉄道線上の王将は庶民の街にある。
「学生時代さ、下北来るとここのチャーハンよく食ったもんだよ。味が変わらないもんな」
同窓会帰りのサラリーマンがご飯粒をほっぺくっつけて大声で言っていたのを聞いたことがある。ここの餃子や炒飯やラーメン、それが楽器の音色となり、小劇場の役者の声となる。赤い声や音色である。
ここでは庚申塔の小さなお堂も見逃せない。目立たない茶色ではある。が、古代信仰の継続の証である。お堂を覗くとリンゴやミカンなどのお供え物がある。茶色は下北沢の南の護神である。北の守護神は、交番前の踏切を渡って右に折れる、その道は茶沢通りだ。直進してぶつかった所に赤い屋根のお堂が見える。隣の村田履物店の女主人が菊の花を絶やさないで守っている。夏の暑い日には、お花を店に入れて枯れないように心がけている。下北沢の南の守り神は茶、北の守り神は赤である。
南口を駅へと向かった。駅はTUTAYAの青色、ドトールコーヒーの黄色の二本線、ブルーに白地の「小田急」マーク、マクドナルドの黄色のMと赤帯、アーチには「下北沢南口商店街」と赤文字。
続きを読む彩りは文化である。けれでもその彩りはどこもここも均質化しつつある。セブンイレブンがあってマクドナルドがあり、ドトールコーヒーがある。その土地固有の色合いは薄れつつあるものだと思う。が、しかし、彩りは同じであったとしてもその店の屋根の下で交わされる物語はそれぞれに違うものである。
今朝は街を自転車で走行しながら色合いを考え、そして、考察した。
北沢川遊歩道の橋場橋から鎌倉橋までは改修工事が完了した。シックな舗石の間に蛇行した小川、その両岸に咲いている八重桜は色が映える。とはいっても暗渠の上に造られたのは模造の川である。汚泥や汚水が流れている本物の川はその下に流れている。下水道である。羽根木公園の遺跡に振った雨、代田八幡の裏手を走る新型ロマンスカーVSEから跳ね飛ばされた冷房機の水などはみな見えない部分に流れる。都市の川は暗黒だと思った。
代沢五差路は餃子の「王将」の赤である。世田谷では明大前、三軒茶屋にもある。チェーン店だが下北沢王将は若者の間ではかなりよく知られた名前だ。自由が丘、亀屋万年堂のはす向かいにあった「王将」はとおに滅びた。が、下北の「王将」は存在し続けている。需要と供給のバランスがいいのかもしれない。懐と味である。明大前に三茶に下北、なにやらつながりがありそうだ。鉄道の分岐点である。「王将」は鉄でつながる。古レールは鉄板に再生されるとも言う。確かに炒飯の味は違う。古レールで造られた中華なべが味の秘訣なのかもしれない。ともあれ鉄道線上の王将は庶民の街にある。
「学生時代さ、下北来るとここのチャーハンよく食ったもんだよ。味が変わらないもんな」
同窓会帰りのサラリーマンがご飯粒をほっぺくっつけて大声で言っていたのを聞いたことがある。ここの餃子や炒飯やラーメン、それが楽器の音色となり、小劇場の役者の声となる。赤い声や音色である。
ここでは庚申塔の小さなお堂も見逃せない。目立たない茶色ではある。が、古代信仰の継続の証である。お堂を覗くとリンゴやミカンなどのお供え物がある。茶色は下北沢の南の護神である。北の守護神は、交番前の踏切を渡って右に折れる、その道は茶沢通りだ。直進してぶつかった所に赤い屋根のお堂が見える。隣の村田履物店の女主人が菊の花を絶やさないで守っている。夏の暑い日には、お花を店に入れて枯れないように心がけている。下北沢の南の守り神は茶、北の守り神は赤である。
南口を駅へと向かった。駅はTUTAYAの青色、ドトールコーヒーの黄色の二本線、ブルーに白地の「小田急」マーク、マクドナルドの黄色のMと赤帯、アーチには「下北沢南口商店街」と赤文字。
2005年04月17日
下北沢X物語(212)〜お灸の街からジーンズの街へ〜
淡嶋の北沢村の荷つけ馬あしに灸のあとハミえけり 実のり
下北沢の淡島のお灸はかつては有名であった。近郷近在から病を治そうと多くの人が集まってきた。「下北詣でかつては病人いまはブルージーンズ」狂歌風に言えばそうなろうか。
頭に振った狂歌は「狂歌江都名所」十五編十六編(「世田谷地誌集」昭和六十三年刊 世田谷区立郷土資料館編集)に載っているものである。
かつての北沢村の荷馬車を引く馬、栗毛色の脚にはみなお灸の跡があった。お灸の御利益が馬にまで行き届いていたということだ。お灸の治療を終えた馬は元気になって、馬場坂は楽々越えていく。膳場作衛門さんは「淡島の灸は馬にも効くよ」と向こうから来た月村平作さんに得意顔で言った。
下北沢の淡島のお灸はかつては有名であった。近郷近在から病を治そうと多くの人が集まってきた。「下北詣でかつては病人いまはブルージーンズ」狂歌風に言えばそうなろうか。
頭に振った狂歌は「狂歌江都名所」十五編十六編(「世田谷地誌集」昭和六十三年刊 世田谷区立郷土資料館編集)に載っているものである。
かつての北沢村の荷馬車を引く馬、栗毛色の脚にはみなお灸の跡があった。お灸の御利益が馬にまで行き届いていたということだ。お灸の治療を終えた馬は元気になって、馬場坂は楽々越えていく。膳場作衛門さんは「淡島の灸は馬にも効くよ」と向こうから来た月村平作さんに得意顔で言った。
灸すゑに来る参詣を目当てにけふりをたつる北沢の茶や
有信亭
淡島様の門前には茶店があった。灸治客が大勢押しかけた。熱い灸を据えられた後の茶はことに旨い。灸据えて茶を飲む。すると大八車の寝台でやってきた田子作さんが荷車から降りてきて「もう一杯茶をくれ」と茶屋のお上にいいつけた。立てない病人が立った、またその噂は広まる。そんな話がいくつもあった。
北沢の茶屋のお茶はすぐそばで採れたものだ。淡島神社のすぐ裏手あたりは茶畑だった。それを代沢茶といった。そこに作家の横光利一は昭和三年に新居を建てた。廻りは茶畑だったそうだ。
北沢の茶屋のお茶はすぐそばで採れたものだ。淡島神社のすぐ裏手あたりは茶畑だった。それを代沢茶といった。そこに作家の横光利一は昭和三年に新居を建てた。廻りは茶畑だったそうだ。
淡島の灸のもくさハかまやにて小性を愛す僧の据ゑけり
有信亭
「かまや」は「釜屋」である。かつては釜で煮炊きした。台所で小性、住職に仕えるかわいい少年である。その子を捕まえて、坊さんは、な、なと言って、頬ずりしたり、抱きしめたりした、精力回復のためのお灸である。こういう僧にはお灸を据えてやりたい。
稚児愛、同性愛である。淡島の灸と同性愛、なかなか面白い文化の接近だ。この淡島様と第二書房は目と鼻の先である。下北沢で生まれた同性愛雑誌「薔薇族」は終刊した。が、この4月21日に6月号が復刊発売される。
その日、北口大丸ピーコック3Fの三省堂をうろうろしている僧がいたら注意してみるがよい。灸の跡があればなおさらだ。「薔薇族」を手に取る前に必ず横目で誰か居ないか見るはずである。
続きを読む稚児愛、同性愛である。淡島の灸と同性愛、なかなか面白い文化の接近だ。この淡島様と第二書房は目と鼻の先である。下北沢で生まれた同性愛雑誌「薔薇族」は終刊した。が、この4月21日に6月号が復刊発売される。
その日、北口大丸ピーコック3Fの三省堂をうろうろしている僧がいたら注意してみるがよい。灸の跡があればなおさらだ。「薔薇族」を手に取る前に必ず横目で誰か居ないか見るはずである。
2005年04月16日
下北沢X物語(211)〜都市論としてのブルージーンズ〜
日野啓三は下北沢に住んで、街の特徴を色で捉えた。それは白と黒だ。まず建物が白いという。「新築、建て替え、塗り直しの住宅の、これがほとんどが、白いのである。コンクリート建て、木造モルタルを問わず、白い壁、白い塀。玄関のドアだけが部厚い褐色の木製」という具体的な記述の後に、「この町は日ごとに白くなってゆく」と述べている。もちろん、この町とは下北沢である。そしてこう続ける。
「同時にこの町に移って男が強く気付いたこと。若者たちの着るものが、男女を問わず、急速に黒くなっていることだ。」(「都市の感触」 日野啓三 講談)
彼の本の刊行年が昭和六十三年二月である。もうかれこれ十七年前である。今はどうなのだろうか。
建物の色合いを傾向として見分けるのは難しい。日野啓三の頃立て替えられたモルタル塗りの家はまだそこここに建っている。森厳寺川を四丁目から三丁目にかけて自転車で走るとよく分かる。支流沿いの庶民一般階級の家は白が主流である。が、アッパーミドルになると様相を異にする。壁面はタイル張りである。茶褐色、黄土色様々である。地中海風のコテージを模したものもある。特定の色に限定するのは困難だ。
昨日、下北沢「ともえや」の蔵が壊されてコンクリート打ちっ放しのビルが忽然と駅のそばに表れた。灰色という色合いの表情でもある。
が、それにしても街の色合いは路地毎に違う。スタバ近辺の色の緑やブルー、北口駅前市場の薄暗い影、南口アドニスのピンクのネオンサイン、餃子の王将の赤というのもなにやら象徴的だ。王将の真向かいの膳場八百屋のハッサクの黄色も案外に目立つ。下北の建物の色は何かつかみかねている。
若者の服装はどうなのだろうか。日野啓三に触発されて色を考えていた。日々町を通りながら観察しもしていた。
下北沢の朝はローカル色はあまり出ない。南口の坂を上っていく通勤客のスーツにしても女子高生の制服にしても地味である。それから各ビル受け持ちの掃除のおじさん、おばさんは、ビルから湧いてくる人の服は作業服である。唯一派手なのは夜明かししたロック系の連中だ。銀の鎖をじゃらじゃら言わせ、革ジャンをまとっている。まっ赤なタイトスカートから網目の太股がむっちり出ている女の子もいる。が、それは例外だ。
このところ、あずま通りで実験を重ねている。下北沢交番前から代沢十字路まで走るときジーンズの数を数えている。平均して五十は超える。僅かな距離、行き交う人のジーンズを数えてそんな数になる。街全体からすると相当な数に上るのは間違いない。多くの若者がジーンズを履いている。そればかりかジーンズ地のスカート、ジャケットも多い。ふわふわしたスカートの下からジーンズが伸びているという女の子も多い。が、これは味気ない。
若者の色はブルーである。ブルージーンズのブルーだ。インフォーマルな労働着である。反逆の証しなのかもしれない。
続きを読む「同時にこの町に移って男が強く気付いたこと。若者たちの着るものが、男女を問わず、急速に黒くなっていることだ。」(「都市の感触」 日野啓三 講談)
彼の本の刊行年が昭和六十三年二月である。もうかれこれ十七年前である。今はどうなのだろうか。
建物の色合いを傾向として見分けるのは難しい。日野啓三の頃立て替えられたモルタル塗りの家はまだそこここに建っている。森厳寺川を四丁目から三丁目にかけて自転車で走るとよく分かる。支流沿いの庶民一般階級の家は白が主流である。が、アッパーミドルになると様相を異にする。壁面はタイル張りである。茶褐色、黄土色様々である。地中海風のコテージを模したものもある。特定の色に限定するのは困難だ。
昨日、下北沢「ともえや」の蔵が壊されてコンクリート打ちっ放しのビルが忽然と駅のそばに表れた。灰色という色合いの表情でもある。
が、それにしても街の色合いは路地毎に違う。スタバ近辺の色の緑やブルー、北口駅前市場の薄暗い影、南口アドニスのピンクのネオンサイン、餃子の王将の赤というのもなにやら象徴的だ。王将の真向かいの膳場八百屋のハッサクの黄色も案外に目立つ。下北の建物の色は何かつかみかねている。
若者の服装はどうなのだろうか。日野啓三に触発されて色を考えていた。日々町を通りながら観察しもしていた。
下北沢の朝はローカル色はあまり出ない。南口の坂を上っていく通勤客のスーツにしても女子高生の制服にしても地味である。それから各ビル受け持ちの掃除のおじさん、おばさんは、ビルから湧いてくる人の服は作業服である。唯一派手なのは夜明かししたロック系の連中だ。銀の鎖をじゃらじゃら言わせ、革ジャンをまとっている。まっ赤なタイトスカートから網目の太股がむっちり出ている女の子もいる。が、それは例外だ。
このところ、あずま通りで実験を重ねている。下北沢交番前から代沢十字路まで走るときジーンズの数を数えている。平均して五十は超える。僅かな距離、行き交う人のジーンズを数えてそんな数になる。街全体からすると相当な数に上るのは間違いない。多くの若者がジーンズを履いている。そればかりかジーンズ地のスカート、ジャケットも多い。ふわふわしたスカートの下からジーンズが伸びているという女の子も多い。が、これは味気ない。
若者の色はブルーである。ブルージーンズのブルーだ。インフォーマルな労働着である。反逆の証しなのかもしれない。
2005年04月15日
下北沢X物語(210)〜新緑に染まる街、変わりゆく街〜
今朝は自転車日和、暖かく、気持ちがいい、のんびりと通勤行を楽しんだ。
ついこの間、代沢の自転車屋さんと話をした。
「パンクの原因は、いろいろありますけどね、例えば、画鋲、ホッチキスの針、それからつまようじっていうのもありますね。」
「自転車はいいですよね。車やバイクと違って発見がありますよね」
パンクの原因がつまようじというのは面白い。代沢近辺は坂が多いのでギアの故障かなにかあるのかと思ったが、「そんなことありませんね」と一蹴された。「いやあ、ギアの歯車はかなりガンジョウにできていますね」と。
自転車には発見がある。その通りである。今朝の通勤時もその発見、彩りを楽しめた。春の芽吹き、息吹が肌で感じられた。薄緑の新芽の間に白い花、近づいてみるとハナミズキである。桜は終わったがよく見ていくと色とりどりの花が楽しめる。紫色の蘇芳、山吹色といわれる山吹、黄色のレンギョウ、白い枝垂桜などである。けれども一番の彩りは欅の新緑である。やわらかい緑が日の光を浴びている。それを見ながら走ると気持ちもその色に染まっていくような気がする。
いつもは、代沢五差路からあずま通りを通って4号踏切へ、そうして北に抜ける。今日は久々に下北沢南口の駅前通りの坂を上ってみた。駅方向からはマスクをつけた人が降りてくる。数えたら五人もいた。花粉が例年よりも数倍多く、マスクをしている人が異様に多い。
駅への坂を上っていく通勤通学の風景も南口の通りの光景である。ゆるやかな坂を人の列が這い進んでいく。その列に坂の段差が見える。だから女子高校生のミニスカートはよく目立つ。隠れた文化なのかもしれない。
音で気づくのは、ハイヒールである。左右の商店はシャッターが下りていてコンクリートを打ち付ける音が、かっかっと響き渡る。坂道を上りながらこう考えた。「ハイヒールの音は女性のセックスアピールではないのか」と。
南口駅前ではとある政党の議員らしき男が一人で演説していた。その脇を通り抜けて井の頭線ガードを潜る。自転車整理のおじさんが手持ち無沙汰で突っ立っている。
駅脇の東北沢六号踏み切りはもちろん閉まっている。下りホームのベンチに座っている女性の服が薄紅のジャケットにスカート、それが春らしい。
下りの各駅停車と、上りの急行見送るとようやっと踏み切りが開いた。渡るときに必ず東北沢方向を見る。線路はゆるやかに下って、4号踏切からぐっと上る。25パーミルの勾配が東北沢まで続く。小田急勾配風景である。ところが、いつもとは違うことに気づいた。線路左手がずっと向こうまで見通せる。線路に沿った建物がすっかりがなくなっていた。質、ともえやの大谷石の蔵ももう壊されていた。小田急地下化工事による劇的変化だ。そのことが近辺の風景を大きく変えてしまいつつある。
北口へ渡り、一番街大通りに出る、「かどや」煙草店の十字路から野屋敷、北沢三丁目、四丁目方向へ走る。すると屋並みの向こうにヒマラヤスギが三、四本、堂々とそびえている。区の保存樹木となっている木である。かつての野屋敷には古木が多い。幹周りの太い桜、松、欅などがいまも残っている。
帰り、下北沢交番前で蔵の跡を覗いた。大谷石の残骸が防音シートの陰に見えた。取り払われた蔵の向こうにコンクリート打ちっ放しの四階建てのビルが見えた。その壁面に「質」という浮き彫りの文字が見えた。駅の周辺の下北の顔が新しく塗り直された、そう実感した一瞬だった。
「パンクの原因は、いろいろありますけどね、例えば、画鋲、ホッチキスの針、それからつまようじっていうのもありますね。」
「自転車はいいですよね。車やバイクと違って発見がありますよね」
パンクの原因がつまようじというのは面白い。代沢近辺は坂が多いのでギアの故障かなにかあるのかと思ったが、「そんなことありませんね」と一蹴された。「いやあ、ギアの歯車はかなりガンジョウにできていますね」と。
自転車には発見がある。その通りである。今朝の通勤時もその発見、彩りを楽しめた。春の芽吹き、息吹が肌で感じられた。薄緑の新芽の間に白い花、近づいてみるとハナミズキである。桜は終わったがよく見ていくと色とりどりの花が楽しめる。紫色の蘇芳、山吹色といわれる山吹、黄色のレンギョウ、白い枝垂桜などである。けれども一番の彩りは欅の新緑である。やわらかい緑が日の光を浴びている。それを見ながら走ると気持ちもその色に染まっていくような気がする。
いつもは、代沢五差路からあずま通りを通って4号踏切へ、そうして北に抜ける。今日は久々に下北沢南口の駅前通りの坂を上ってみた。駅方向からはマスクをつけた人が降りてくる。数えたら五人もいた。花粉が例年よりも数倍多く、マスクをしている人が異様に多い。
駅への坂を上っていく通勤通学の風景も南口の通りの光景である。ゆるやかな坂を人の列が這い進んでいく。その列に坂の段差が見える。だから女子高校生のミニスカートはよく目立つ。隠れた文化なのかもしれない。
音で気づくのは、ハイヒールである。左右の商店はシャッターが下りていてコンクリートを打ち付ける音が、かっかっと響き渡る。坂道を上りながらこう考えた。「ハイヒールの音は女性のセックスアピールではないのか」と。
南口駅前ではとある政党の議員らしき男が一人で演説していた。その脇を通り抜けて井の頭線ガードを潜る。自転車整理のおじさんが手持ち無沙汰で突っ立っている。
駅脇の東北沢六号踏み切りはもちろん閉まっている。下りホームのベンチに座っている女性の服が薄紅のジャケットにスカート、それが春らしい。
下りの各駅停車と、上りの急行見送るとようやっと踏み切りが開いた。渡るときに必ず東北沢方向を見る。線路はゆるやかに下って、4号踏切からぐっと上る。25パーミルの勾配が東北沢まで続く。小田急勾配風景である。ところが、いつもとは違うことに気づいた。線路左手がずっと向こうまで見通せる。線路に沿った建物がすっかりがなくなっていた。質、ともえやの大谷石の蔵ももう壊されていた。小田急地下化工事による劇的変化だ。そのことが近辺の風景を大きく変えてしまいつつある。
北口へ渡り、一番街大通りに出る、「かどや」煙草店の十字路から野屋敷、北沢三丁目、四丁目方向へ走る。すると屋並みの向こうにヒマラヤスギが三、四本、堂々とそびえている。区の保存樹木となっている木である。かつての野屋敷には古木が多い。幹周りの太い桜、松、欅などがいまも残っている。
帰り、下北沢交番前で蔵の跡を覗いた。大谷石の残骸が防音シートの陰に見えた。取り払われた蔵の向こうにコンクリート打ちっ放しの四階建てのビルが見えた。その壁面に「質」という浮き彫りの文字が見えた。駅の周辺の下北の顔が新しく塗り直された、そう実感した一瞬だった。
2005年04月14日
下北沢X物語(209)〜萩原朔太郎と鉄道と下北沢〜
今は武蔵野国になりぬ。ことにをかしき所もみえず。浜も砂子白くなどもなく、こひじのやうにて、むらさき生ふと聞く野も、蘆荻のみ高く生ひて、馬に乗りて弓持たる末見えぬまで高く生ひしげりて、中をわけ行くに、竹芝寺といふ寺あり。
「更級日記」新潮日本古典集成 昭和五十五年刊
「更級日記」新潮日本古典集成 昭和五十五年刊
寛仁四年(一○二○)更級日記の作者は父考標の上総介の任期満了にともない帰京する。今から984年前だ。彼女はその途中、期待していた武蔵の国にさしかかる。が、辺り一帯には泥土に丈の高い蘆や葦が密生している原野があるだけだった。歩行(かち)の旅の味わいも失せて、ただもう西を目指して歩くだけである。
馬に乗っている者が持つ弓の先すら見えないほど蘆や葦が生い茂っていた原野、そこはやがて拓かれた。そして、孝標の娘が落胆してから852年後、明治五年(一八七二)、に銀色に輝くレールが寺の近くに敷かれた。陸蒸気が走り始めた。竹芝寺は芝三田の済海寺である。その南百数十メートル先には今は何本もの線が通っている。山手線、京浜東北線、東海道線、新幹線、それぞれの電車がひきもきらない。
古代から近代への激変である。「更級日記」的世界から「青猫」的世界への断絶はその谷が深すぎる。自己の感懐である。
徒歩旅情に鉄路抒情、近代日本の大きな変化だ。その鉄路抒情を記したのは萩原朔太郎である。「定本青猫」には挿絵が施されている。その図の第一番目は「停車場之図」である。鉄柵に囲まれた駅とホームがある。そこには一台の無蓋車と三台の有蓋車が止まっている。駅舎の上には広々とした空、そして、そこには屈曲した白雲が描かれている。その駅舎は新橋ステーションである。朔太郎の解説にはこうある。
馬に乗っている者が持つ弓の先すら見えないほど蘆や葦が生い茂っていた原野、そこはやがて拓かれた。そして、孝標の娘が落胆してから852年後、明治五年(一八七二)、に銀色に輝くレールが寺の近くに敷かれた。陸蒸気が走り始めた。竹芝寺は芝三田の済海寺である。その南百数十メートル先には今は何本もの線が通っている。山手線、京浜東北線、東海道線、新幹線、それぞれの電車がひきもきらない。
古代から近代への激変である。「更級日記」的世界から「青猫」的世界への断絶はその谷が深すぎる。自己の感懐である。
徒歩旅情に鉄路抒情、近代日本の大きな変化だ。その鉄路抒情を記したのは萩原朔太郎である。「定本青猫」には挿絵が施されている。その図の第一番目は「停車場之図」である。鉄柵に囲まれた駅とホームがある。そこには一台の無蓋車と三台の有蓋車が止まっている。駅舎の上には広々とした空、そして、そこには屈曲した白雲が描かれている。その駅舎は新橋ステーションである。朔太郎の解説にはこうある。
無限に遠くまで續いてゐる、この長い長い柵の寂しさ。人氣のない構内では、貨車が靜かに眠つて居るし、屋根を越えて空の向うに、遠いパノラマの郷愁がひろがつて居る。これこそ詩人の出發する、最初の悲しい停車場である。
萩原朔太郎 定本青猫 日本詩人全集14 新潮社 昭和四十一年刊
萩原朔太郎 定本青猫 日本詩人全集14 新潮社 昭和四十一年刊
機械近代と人間抒情が巧みに描かれた詩である。機械が人間の生活を変えた。近代文明の大きな要素だ。感情を持たない機械に、感情を持たせて、そこにポエジーを見いだした。見事な表象である。「青猫」も単なるブルーキャットではない。都会そのものである。彼は「定本青猫」序を1934年(昭和9年)代田二丁目の高圧鉄塔の下で書いている。「青猫」の意味を解説している。
「物憂げなる猫」と言ふ意味である。も一つ他の別の意味は、集中の詩「青猫」にも現れてる如く、都會の空に映る電線の青白いスパークを、大きな青猫のイメーヂに見てゐるので、當時田舍にゐて詩を書いてた私が、都會への切ない郷愁を表象してゐる。
萩原朔太郎 定本青猫 日本詩人全集14 新潮社 昭和四十一年刊
萩原朔太郎 定本青猫 日本詩人全集14 新潮社 昭和四十一年刊
鉄道近代が気だるさ、物憂さ、寂しさ、そういう抒情を運ぶ、それの最たるものが「抒情小曲集」の愛隣詩編冒頭の「夜汽車」である。人妻との夜汽車の駆け落ち行は近代鉄道文学の最高峰である。
萩原朔太郎には優れた鉄道詩が多い。「新前橋駅」(抒情小曲集)、「告別」(氷島)、」「帰郷」(氷島)。とくに「帰郷」は彼の絶唱である。妻稲子との離縁、成長も十分ではない娘二人、長女と次女、ことに下の子の成長への気がかり。父、密造の病気、極北の氷が魂までも氷らせる。が、詩はそういう日常を飛び越えていく。人間存在の絶望の谷間に汽車は驀進していく。世界暗黒の谷に導かれいく。蕭条と広がる漠とした絶望的な世界。近代文明の行き先を暗示しているように思う。朔太郎文学は鉄道に際だっている。
鉄道交点としての下北沢は鉄道の町である。近郊郊外電車がクロスする街としての下北沢、また鉄塔駒沢線と小田急線が交わりあう世田谷代田、そういう機械設備もなにやら詩の遺伝子の中に微妙な影響を与えているのではないかとも思う。
萩原朔太郎には優れた鉄道詩が多い。「新前橋駅」(抒情小曲集)、「告別」(氷島)、」「帰郷」(氷島)。とくに「帰郷」は彼の絶唱である。妻稲子との離縁、成長も十分ではない娘二人、長女と次女、ことに下の子の成長への気がかり。父、密造の病気、極北の氷が魂までも氷らせる。が、詩はそういう日常を飛び越えていく。人間存在の絶望の谷間に汽車は驀進していく。世界暗黒の谷に導かれいく。蕭条と広がる漠とした絶望的な世界。近代文明の行き先を暗示しているように思う。朔太郎文学は鉄道に際だっている。
鉄道交点としての下北沢は鉄道の町である。近郊郊外電車がクロスする街としての下北沢、また鉄塔駒沢線と小田急線が交わりあう世田谷代田、そういう機械設備もなにやら詩の遺伝子の中に微妙な影響を与えているのではないかとも思う。
(北沢川から見た鉄塔61号)
2005年04月13日
下北沢X物語(208)〜「白と黒」の町・下北沢1〜
「ぶんげい世田谷」(17号)を読んでエッセイを知った。それは日野啓三の「白と黒」という小文である。下北沢の町が白」、その中を歩く若者を「黒」だという。そのエッセイは「都市の感触」(講談社、昭和六十三年刊)にあった。都市文化論である。それが下北沢から始まる。
男は戦後間もない頃、友人が住んでいたのでこの町を少し知っていた。何もとくに特徴のないゴミゴミとした入り組んだ町で、道路が狭く曲がりくねっていたことが印象に残っていた。それから戦前、山の手の文化住宅と呼ばれた小住宅が多く残っていたこと。瓦ぶきの木造平屋で壁は褐色の板張り、南向きの縁側の前に形ばかりの庭があって、塀は生垣が多く、春先には沈丁花が、秋には金木犀がにおってきたりするが、何よりの特徴は玄関脇に一室だけ洋風の応接間ないし書斎があることで、そこだけ木の壁にセメントが吹きつけられていて、窓枠が白いペンキ塗りだったりする。
日野啓三の都市文化論は面白い。殊に下北沢という町の具体的な批評には興味が惹かれる。迷路状の路地と街中の乱雑さは今も変わりがない。
下北沢近辺の町、大原、笹塚、三軒茶屋などは空襲で焼けた。けれども下北沢近辺はほとんどが焼け残った。そのことが今の街の有り様につながっている。
焼け残った山の手の文化住宅が鞍替えして店になった。そういう例は少なくない。今もそういう店が散在する。住宅のようなお店のような喫茶店、カフェ、古着屋がある。駅近隣にはそういう雰囲気がまだ残っている。ジャズ喫茶マサコはその好例であろう。この近辺は道が面白い。駅南口グルメシティ裏手である。駅から二分ほどの距離のところである。その喫茶店の前の路地を奥に入ると普通の住宅地である。小田急線南側の北沢2丁目や代沢5丁目である。下北沢でも一番道がわかりにくい。ずんずん行くと行き止まりだ。青草が生えている。斜面にはつくしんぼがにょくにょくと出ている。小田急土手である。 この下を川が流れている。守山小学校辺りを水源とする北沢川の支流である。(だいだらぼっち川と仮称していた川だ)その川は実は昨日話題にした井の頭線下北沢2号踏切の下を流れてきてこの小田急土手の下に流れ込んでいる。
続きを読む下北沢近辺の町、大原、笹塚、三軒茶屋などは空襲で焼けた。けれども下北沢近辺はほとんどが焼け残った。そのことが今の街の有り様につながっている。
焼け残った山の手の文化住宅が鞍替えして店になった。そういう例は少なくない。今もそういう店が散在する。住宅のようなお店のような喫茶店、カフェ、古着屋がある。駅近隣にはそういう雰囲気がまだ残っている。ジャズ喫茶マサコはその好例であろう。この近辺は道が面白い。駅南口グルメシティ裏手である。駅から二分ほどの距離のところである。その喫茶店の前の路地を奥に入ると普通の住宅地である。小田急線南側の北沢2丁目や代沢5丁目である。下北沢でも一番道がわかりにくい。ずんずん行くと行き止まりだ。青草が生えている。斜面にはつくしんぼがにょくにょくと出ている。小田急土手である。 この下を川が流れている。守山小学校辺りを水源とする北沢川の支流である。(だいだらぼっち川と仮称していた川だ)その川は実は昨日話題にした井の頭線下北沢2号踏切の下を流れてきてこの小田急土手の下に流れ込んでいる。
2005年04月12日
下北沢X物語(207)〜井の頭線下北沢2号踏切〜
今朝、自転車は寒かった。途中から小雨が降ってきた。下北交番前の小田急踏切ではいつも待たされる。が、地下化工事が始まり、踏切風景、沿線風景が日に日に変化しつつある。町の裏を走っていた線路、草木豊かな丘へと上る線路、それらの周りが工事現場と化していく。小田急の踏み切りは日に日によそよそしくなっていく。
下北沢周辺には踏み切りが多い。なんでもない踏切であるが一つ一つ違う。例えば、小田急線3号踏切である。内藤さんが「死人が多い踏切」と言った。実感がこもっていた。彼女の家のすぐそばに小田急線が走っている。代田側から600Rの急カーブ、25パーミルの急勾配で電車は下ってくる。踏切上に子供がいたり車が止まっていたりすると非常汽笛を電車は鳴らす。彼女はその音を何度か聞いているのだと思う。電車が軋み音を立てて止まる。誰かが声を挙げて騒ぐ。しばらくして救急車のサイレン音。「ああ、また死人か」、付近に住んでいる人にはそういうことが身に染みているのではないかと思う。それは鎌倉通を渡る小田急下北沢3号踏切のエピソードだ。
近隣の一つ一つの踏切にはそれぞれにエピソードがある。井の頭線、池ノ上2号踏切のそばにひっそりと馬頭観音が祀ってある。小田急線下北沢2号踏み切りのすぐ南にはお地蔵様が祀ってある。そこの石版には悲しい踏切事故の物語が刻まれている。
何度か通ったり、通ったりするうちに愛着の湧く踏み切りが生まれる。東北沢3号は多分農道が昇格して踏み切りになったのだと思う。日影山を降りていくと家の陰に踏み切りがあって、それがひょいと線路をまたいでいる。そこを渡る時勾配の上手、東北沢側を見るとオシロイバナが咲いている。
井の頭線2号踏切も好きだ。下北沢駅から線路がぐっと勾配を下って環七下の世田谷代田駅に潜り込んで行く。その途中にある踏み切りだ。山形の築堤を上って下る狭い踏切である。日常生活踏み切り、郵便屋さん、新聞配達人がよく通る。野花が咲いていたり猫が遊んでいたりする踏み切りだ。「文芸せたがや」(第17号)を読んでいて自分の他にこの踏切が好きな人がいることを知った。
近隣の一つ一つの踏切にはそれぞれにエピソードがある。井の頭線、池ノ上2号踏切のそばにひっそりと馬頭観音が祀ってある。小田急線下北沢2号踏み切りのすぐ南にはお地蔵様が祀ってある。そこの石版には悲しい踏切事故の物語が刻まれている。
何度か通ったり、通ったりするうちに愛着の湧く踏み切りが生まれる。東北沢3号は多分農道が昇格して踏み切りになったのだと思う。日影山を降りていくと家の陰に踏み切りがあって、それがひょいと線路をまたいでいる。そこを渡る時勾配の上手、東北沢側を見るとオシロイバナが咲いている。
井の頭線2号踏切も好きだ。下北沢駅から線路がぐっと勾配を下って環七下の世田谷代田駅に潜り込んで行く。その途中にある踏み切りだ。山形の築堤を上って下る狭い踏切である。日常生活踏み切り、郵便屋さん、新聞配達人がよく通る。野花が咲いていたり猫が遊んでいたりする踏み切りだ。「文芸せたがや」(第17号)を読んでいて自分の他にこの踏切が好きな人がいることを知った。
日野さんが好きな場所は、自宅近くの小さな踏切。終電後この踏切に立つと、闇の中でレールが銀色に光る。そして時折人影がそこを横切る。
続きを読む2005年04月11日
下北沢X物語(206)〜伝説のアパート下北沢静仙閣3〜
今朝は雨が降っていた。行く路地に桜の花びらが散り敷いていた。走ると自転車のタイヤに花びらがくっついてたちまちに紅車。
鎌倉橋を通りかかった。朝方まで花見をしていた若者の一団が酒瓶や残飯を車に乗せていた。花見名残に朝の雨だ。先に行くと散りそうな建物があった。東北沢5号踏切脇に大谷石で組まれた蔵だけが建っている。質、巴屋の蔵だ。過去の遺物が雨に濡れていた。数日中に壊されるはずだ。
鎌倉橋を通りかかった。朝方まで花見をしていた若者の一団が酒瓶や残飯を車に乗せていた。花見名残に朝の雨だ。先に行くと散りそうな建物があった。東北沢5号踏切脇に大谷石で組まれた蔵だけが建っている。質、巴屋の蔵だ。過去の遺物が雨に濡れていた。数日中に壊されるはずだ。
「東北沢4号踏切過ぎて右に蔵が見える。締めておいたブレーキをちょいゆるめて下北の下りホームすれすれでまたブレーキかけると、ピタリ停止ラインに止まるな。4号過ぎると上っているんだ。その勾配をうまく使って下北に電車を止める、ワザだな」
小田急の教導運転士が新参に教え込む。本当に小田急電車を動かすときにそう言っていたかはわからない。が、古い蔵には物語が詰まっている。静仙閣に住んでいた宮家筋の娘がいた。彼女は生活に困って母の加賀友禅、浅紫色の地に桜花をあしらった質草にした。それが長い間ここに保管されていた。そういえばその隣に野屋敷の言語学者の奥さんの黄八丈もあった、などと廃墟を見ながら思った。行きがけのことである。
さて、伝説の下北沢静仙閣のことである。小説家一色次郎は「東京大空襲」の中でそのアパートことをつぎのように説明している。
アパートは小田急の南側に丁字型にくっついている。線路の上五分も歩くと下北沢の駅がある。静仙閣というのがその名前で、位置はもっと正確に書くと世田谷区北沢一丁目一一一三番地。線路の土手と西側の台地に囲まれた窪地にあるし、おまけに庭木がずいぶん多いので、アパートからは空を広く見ることはほどんど出来ない。「東京空襲」一色次郎 河出書房 昭和42年刊
小田急2号踏切、3号踏切の間の土手、その南側に丁字形にくっついているのはイメージできる。横棒に当たるとことろに今もアパートが建っている。が、縦棒がわからない。今は横棒北側に私道がある。その南は数メートルの崖で、上に広い駐車場がある。そこに静仙閣のアパートがあったようだ。窪地のアパートと丘の上のにそれとが二つあったはずだ。多分、皇帝の弟や映画監督は上の方に住んだと思われる。
昭和二十年前後の話である。駅に行くには線路上を歩いて行く。今はそれではできない。電車が数珠繋ぎで歩いていると轢かれてしまう。駅には確かに近い場所だが、駅に行くには少し不便である。西口はまだしも南口や北口は大回りする。かなり時間がかかる。
一色次郎は昭和十九年十一月三十日の夜間空襲のことを記している。そこにアパートの住人の様子が浮かんで見える。
続きを読む昭和二十年前後の話である。駅に行くには線路上を歩いて行く。今はそれではできない。電車が数珠繋ぎで歩いていると轢かれてしまう。駅には確かに近い場所だが、駅に行くには少し不便である。西口はまだしも南口や北口は大回りする。かなり時間がかかる。
一色次郎は昭和十九年十一月三十日の夜間空襲のことを記している。そこにアパートの住人の様子が浮かんで見える。
2005年04月10日
下北沢X物語(205)〜伝説のアパート下北沢静仙閣�◆�
伝説の「静仙閣」の実像が少しずつ分かってきた。下北沢3号踏切のすぐ近くにそのアパートはあった。
「この三号踏切には、こちら側(北側)に踏み切り番いましたね。うちは上の子も下の子も電車見せるためによく連れていきましたからね。踏み切り番のおじさんともよく話しましたよ。でもね、死人の多い踏切でしたね。よく事故があったんですよ。そうそう2号踏切のところにあるお地蔵さまのお話はほんとはここでの話ね。ここに置けないから向こうに持っていっちゃったの。」
内藤さんは道々そんな話をしてくれた。その彼女が干場さんを紹介してくれた。次郎桜をすぐそばの家である。が、干場さんもあまり記憶にないという。
「うん、静仙閣か、昔にしては高級なアパートだったな。あんまり覚えていなんだよな。古い写真整理すればアパートの写真でてくるだろうけどな。満州国皇帝の弟が住んでいたのか。それは知らないな」
「この三号踏切には、こちら側(北側)に踏み切り番いましたね。うちは上の子も下の子も電車見せるためによく連れていきましたからね。踏み切り番のおじさんともよく話しましたよ。でもね、死人の多い踏切でしたね。よく事故があったんですよ。そうそう2号踏切のところにあるお地蔵さまのお話はほんとはここでの話ね。ここに置けないから向こうに持っていっちゃったの。」
内藤さんは道々そんな話をしてくれた。その彼女が干場さんを紹介してくれた。次郎桜をすぐそばの家である。が、干場さんもあまり記憶にないという。
「うん、静仙閣か、昔にしては高級なアパートだったな。あんまり覚えていなんだよな。古い写真整理すればアパートの写真でてくるだろうけどな。満州国皇帝の弟が住んでいたのか。それは知らないな」
満州国皇帝溥儀の弟は溥傑である。このことについて触れているのは中山義秀である。自伝である。「台上の月」と題された書籍に載っている。(新潮社 昭和三十八年刊)
私のいたアパートは木造の二階建てであったが、著名な詩人や映画監督、留学中の満州国皇帝の弟などもいる。この付近では随一の高級下宿であった。
中山義秀が静仙閣に住んでいたのはいつ頃のころか?、年譜を見る。昭和十一年(一九三六)三十六歳「世田谷下北沢の静仙閣、同代田の翠月荘と転々。」(現代日本文学大系68 尾崎一雄・中山義秀集 昭和四十四年刊)ということで昭和十一年だ。
満州国皇帝溥傑も調べてみる。彼は昭和八年(1933)に陸軍士官学校に入学し、昭和十年(1935)年にそこを卒業している。士官学校は市ヶ谷にあったようだ。同年、満州国歩兵中尉に任官されている。そして、昭和十二年(1937)年、嵯峨公爵の長女,嵯峨浩と見合いをし、そして結婚している。「流転の王妃・最後の皇弟」などと言って語り継がれている話である。昭和十一年、その皇弟は日本にいた。ひそかに静仙閣に隠れ住んでいたのだろうか。
中山義秀が言う、「著名な詩人や映画監督」も誰であるかが分かった。伊藤文学さんの父、伊藤祷一さんが書き残した文章にはっきりと述べられている。(この文章は後日ここで全文を掲載したい。)詩人は北川冬彦であり、映画監督は成瀬巳喜男である。
小田急土手の向こうの佐山さんは、アパートが火事になったとき自宅からバケツを持って消火作業を手伝ったと言っていた。そのアパートには著名人が住んで文学論、映画論、果ては国際情勢まで議論していた。
中山義秀はこうも述べている。
続きを読む満州国皇帝溥傑も調べてみる。彼は昭和八年(1933)に陸軍士官学校に入学し、昭和十年(1935)年にそこを卒業している。士官学校は市ヶ谷にあったようだ。同年、満州国歩兵中尉に任官されている。そして、昭和十二年(1937)年、嵯峨公爵の長女,嵯峨浩と見合いをし、そして結婚している。「流転の王妃・最後の皇弟」などと言って語り継がれている話である。昭和十一年、その皇弟は日本にいた。ひそかに静仙閣に隠れ住んでいたのだろうか。
中山義秀が言う、「著名な詩人や映画監督」も誰であるかが分かった。伊藤文学さんの父、伊藤祷一さんが書き残した文章にはっきりと述べられている。(この文章は後日ここで全文を掲載したい。)詩人は北川冬彦であり、映画監督は成瀬巳喜男である。
小田急土手の向こうの佐山さんは、アパートが火事になったとき自宅からバケツを持って消火作業を手伝ったと言っていた。そのアパートには著名人が住んで文学論、映画論、果ては国際情勢まで議論していた。
中山義秀はこうも述べている。
2005年04月09日
下北沢X物語(204)〜伝説のアパート下北沢静仙閣� �
下北沢静仙閣は伝説に満ちたアパートである。かつてここには詩人、小説家、映画監督、それに留学中の満州国皇帝の弟なども住んで居たという。今日は花見がてら自転車で伝説紀行に出かけた。
どこもここも桜が満開である。松陰神社では石の参道に白い花びらが散り敷いていた。羽根木公園では花見客の焼き鳥に花びらがへたりとくっついていた。北沢川緑道では蛇味線の音に合わせて皮に花が降りかかった。
下北沢2号踏切そばの佐山さんところにも行った。海棠ほぼ満開だ。濃い紅色がひときわ鮮やかだ。通りかかった箱根号の乗客がこちらを見ている。卵焼きを食べている彼女の目に海棠の花が見えたに違いない。
海棠を見る、そして、静仙閣のことを聞く。それが目当てだった。ところが呼び鈴を押しても誰も出てこない。留守のようだ。がっかりである。が、救いの女神がいた。だいぶ頭に白髪がありはする。海棠の花の前のテントに二人の婦人が座っている。交通安全週間の見張り役である。小田急土手を背にして鎌倉通を行き来する車を見張っているようだ。土手の向こう側に静仙閣はかつてあった。万が一の可能性を賭けて聞いてみた。
「『静仙閣』ね、聞いたことはあるわね。ううんとね、内藤さんだったら知っているかも。その三号踏切渡ったところのすぐ近くよ。交通安全の白石から聞いてきましたっていえばいいからね」
白髪交じりの女神は微笑んだ。それですぐにその内藤さんを尋ねた。すると奥さんが出てこられた。
「静仙閣ですか、いや、ちょっと分からないですね。家の主人なら分かるかも知れません」「静仙閣か、うん、あったね。駐車場のところに二階建てのアパートが二軒あったな。あんまり詳しくは覚えてないな。そこの桜の樹の下にあったお地蔵さんか、ありゃな、この裏の清水さんところの庭に置いてあるよ」
昭和四年生まれのご主人がこともなげにそう言う。なんだか胸を衝かれて、息苦しくなった。
戦争中、作家の一色次郎はこの静仙閣に住んでいて空襲の様子を、アパートの玄関や小田急の土手から目撃し、それを詳しく記した。それが「東京大空襲」(河出書房 昭和四十二年刊)である。
昭和二十年三月二十日、「管理人から、強制疎開の立退を宣告される。私鉄の線路に密接しているので、第六次建物疎開に該当したのである。」それで、彼は世田谷区代田二ノ八二三に引っ越す。最寄り駅は井の頭線東松原駅であった。
彼はその後、二十七日にお別れの挨拶に下北沢「静仙閣」を訪れている。
続きを読むどこもここも桜が満開である。松陰神社では石の参道に白い花びらが散り敷いていた。羽根木公園では花見客の焼き鳥に花びらがへたりとくっついていた。北沢川緑道では蛇味線の音に合わせて皮に花が降りかかった。
下北沢2号踏切そばの佐山さんところにも行った。海棠ほぼ満開だ。濃い紅色がひときわ鮮やかだ。通りかかった箱根号の乗客がこちらを見ている。卵焼きを食べている彼女の目に海棠の花が見えたに違いない。
海棠を見る、そして、静仙閣のことを聞く。それが目当てだった。ところが呼び鈴を押しても誰も出てこない。留守のようだ。がっかりである。が、救いの女神がいた。だいぶ頭に白髪がありはする。海棠の花の前のテントに二人の婦人が座っている。交通安全週間の見張り役である。小田急土手を背にして鎌倉通を行き来する車を見張っているようだ。土手の向こう側に静仙閣はかつてあった。万が一の可能性を賭けて聞いてみた。
「『静仙閣』ね、聞いたことはあるわね。ううんとね、内藤さんだったら知っているかも。その三号踏切渡ったところのすぐ近くよ。交通安全の白石から聞いてきましたっていえばいいからね」
白髪交じりの女神は微笑んだ。それですぐにその内藤さんを尋ねた。すると奥さんが出てこられた。
「静仙閣ですか、いや、ちょっと分からないですね。家の主人なら分かるかも知れません」「静仙閣か、うん、あったね。駐車場のところに二階建てのアパートが二軒あったな。あんまり詳しくは覚えてないな。そこの桜の樹の下にあったお地蔵さんか、ありゃな、この裏の清水さんところの庭に置いてあるよ」
昭和四年生まれのご主人がこともなげにそう言う。なんだか胸を衝かれて、息苦しくなった。
戦争中、作家の一色次郎はこの静仙閣に住んでいて空襲の様子を、アパートの玄関や小田急の土手から目撃し、それを詳しく記した。それが「東京大空襲」(河出書房 昭和四十二年刊)である。
昭和二十年三月二十日、「管理人から、強制疎開の立退を宣告される。私鉄の線路に密接しているので、第六次建物疎開に該当したのである。」それで、彼は世田谷区代田二ノ八二三に引っ越す。最寄り駅は井の頭線東松原駅であった。
彼はその後、二十七日にお別れの挨拶に下北沢「静仙閣」を訪れている。
2005年04月08日
下北沢X物語(203)〜下北沢桜花紀行〜
花が咲いた。咲くと散る、桜花無常である。それで、今朝、早めに出て花の名所を回った。が、花より団子。代田一丁目、木村屋でメープルパンを買う。焼き立てで湯気が出ている。昼の楽しみを手に入れて西に向かう。一つ目の路地を回り込むとすぐに三好達治旧居跡だ。野花、「仏の座」が朝日を浴びてひっそりと咲いている。
詩人の庭にはすぐに別れを告げて花見堂に向かう。代田名所の一つでもあるし歌にもある。「鶴塚にだいだらぼっちに花見堂」(「麦打ち歌)」。その花見堂に向かう。字面も響きもいい詩的な地名である。鉄塔駒沢線57号を左に見てしばらく行くともう花見堂小学校だ。
道の左手に森、秋元家の大けや木がすくっと立っている。芽吹いたばかりの薄緑が朝日にやわらかい。右手には花見堂小学校の桜、塀に沿って続いている。子供が登校してくる前の桜はしとやかである。やわらかい萌黄と淡い紅が静けさを引き立てている。
小学校の片隅に赤い鳥居、それを後に北に向かう。代田の上に鉄塔61号がそびえている。近隣に何もなかった当時、朔太郎が居を定めたこにはよほど目立った存在だったと思う。周り近辺にあるのは田や畑に雑木林である。丘上にそそり立つ鉄の塔は都会、近代の象徴ではなかったかと思う。下にあるお稲荷さまや三峰さま、すぐ近くには円乗院のお地蔵さま群、そういう土俗的なものをはるかに凌ぐ近代の構築物ではなかったか?。その高圧線は、かつてはじぃじぃりりと鳴り、雨の降る夜は青白い火花が飛んだ。
北沢川にたどり着く。遊歩道の桜が白く艶やかに咲いている。円乗院の前まで行って引き返す。途中、青いビニールシートが敷いてある。下北沢近辺で第一の桜の名所だ。今夜の宴の場所取りがもう始まっていた。
ゆるやかに蛇行している川、斎藤茂吉、萩原朔太郎、横光利一、中村汀女、三好達治などが散策をした桜並木である。そこをゆっくり走る。
鎌倉橋まで来て直進しようか左折するか迷った。まっすぐ行って森厳寺の裏手に行く、坂上から見る寺の桜は悲しいほどに美しい。が、次郎桜も捨てがたい。結局左折する。とたんに急坂にかかる。自転車には肉体的な負荷がかかる。
苦難も、逢いたいという思いがあれば苦にはならない。坂を上りきると下りになる。そこに桜が咲いている。自分で勝手に名前をつけた「次郎桜」だ。樹下の鎌倉通の上に大きく薄い紅色の羽を広げている。
かつてこの木のそばに静仙閣というアパートがあった。昭和十年代。中山義秀はここに住んだ。「著名な詩人や映画監督、留学中の満州国皇帝などもいる」と書いている。その著名な詩人や映画監督は最近手にした伊藤文学さんから得た資料で、それが誰であるか分かった。それは別の機会に紹介したい。
この静仙閣には秘められたエピソードがいくつも眠っている。小説家の中山義秀、一色次郎が住んでいた。かつて住んでいた誰もがこの桜に思いを持ったはずだ。桜の根元にはお地蔵さんがあったが、それはもういまはない。地蔵ではなく自動、飲料水の自動販売機がおいてある。
続きを読む詩人の庭にはすぐに別れを告げて花見堂に向かう。代田名所の一つでもあるし歌にもある。「鶴塚にだいだらぼっちに花見堂」(「麦打ち歌)」。その花見堂に向かう。字面も響きもいい詩的な地名である。鉄塔駒沢線57号を左に見てしばらく行くともう花見堂小学校だ。
道の左手に森、秋元家の大けや木がすくっと立っている。芽吹いたばかりの薄緑が朝日にやわらかい。右手には花見堂小学校の桜、塀に沿って続いている。子供が登校してくる前の桜はしとやかである。やわらかい萌黄と淡い紅が静けさを引き立てている。
小学校の片隅に赤い鳥居、それを後に北に向かう。代田の上に鉄塔61号がそびえている。近隣に何もなかった当時、朔太郎が居を定めたこにはよほど目立った存在だったと思う。周り近辺にあるのは田や畑に雑木林である。丘上にそそり立つ鉄の塔は都会、近代の象徴ではなかったかと思う。下にあるお稲荷さまや三峰さま、すぐ近くには円乗院のお地蔵さま群、そういう土俗的なものをはるかに凌ぐ近代の構築物ではなかったか?。その高圧線は、かつてはじぃじぃりりと鳴り、雨の降る夜は青白い火花が飛んだ。
北沢川にたどり着く。遊歩道の桜が白く艶やかに咲いている。円乗院の前まで行って引き返す。途中、青いビニールシートが敷いてある。下北沢近辺で第一の桜の名所だ。今夜の宴の場所取りがもう始まっていた。
ゆるやかに蛇行している川、斎藤茂吉、萩原朔太郎、横光利一、中村汀女、三好達治などが散策をした桜並木である。そこをゆっくり走る。
鎌倉橋まで来て直進しようか左折するか迷った。まっすぐ行って森厳寺の裏手に行く、坂上から見る寺の桜は悲しいほどに美しい。が、次郎桜も捨てがたい。結局左折する。とたんに急坂にかかる。自転車には肉体的な負荷がかかる。
苦難も、逢いたいという思いがあれば苦にはならない。坂を上りきると下りになる。そこに桜が咲いている。自分で勝手に名前をつけた「次郎桜」だ。樹下の鎌倉通の上に大きく薄い紅色の羽を広げている。
かつてこの木のそばに静仙閣というアパートがあった。昭和十年代。中山義秀はここに住んだ。「著名な詩人や映画監督、留学中の満州国皇帝などもいる」と書いている。その著名な詩人や映画監督は最近手にした伊藤文学さんから得た資料で、それが誰であるか分かった。それは別の機会に紹介したい。
この静仙閣には秘められたエピソードがいくつも眠っている。小説家の中山義秀、一色次郎が住んでいた。かつて住んでいた誰もがこの桜に思いを持ったはずだ。桜の根元にはお地蔵さんがあったが、それはもういまはない。地蔵ではなく自動、飲料水の自動販売機がおいてある。
2005年04月07日
下北沢X物語(202)〜朔太郎の帰郷と上京、下北沢へ�ァ�
帰り際、日の入り時、北沢川遊歩道を通った。桜は夕日に白く輝いていた、駒沢線61号のたたずまいは写真の昔と変わらずにあった。
たまたま手にした写真の片隅に駒沢61号鉄塔、そしてかの家が映っていた。萩原朔太郎が自ら設計した家である。「新潮日本文学アルバム」にある詩人の家と比べ見ると全体のデザインがはっきりと分かる。
母屋のとんがり屋根の上には、もう一つ角度のゆるい天蓋のような屋根が被さっている。鷲が飛び去っていくさまをイメージしたようでもある。想像が膨らんでくる。
萩原朔太郎の代田の家は昭和二十年五月二十五日の空襲で焼けた。すぐ隣の円乗院もそのときに焼けている。
太平洋戦争は昭和十六年十二月八日に始まって、昭和二十年八月十五日に終わった。写真は昭和十八年頃のものと聞いている。萩原朔太郎は昭和十七年五月十一日に五十七歳で代田で亡くなり、自宅で葬儀を行っている。とすれば、写真に見える家は主を失った家である。が、この写真から具体的なイメージが湧いてくる。
たまたま手にした写真の片隅に駒沢61号鉄塔、そしてかの家が映っていた。萩原朔太郎が自ら設計した家である。「新潮日本文学アルバム」にある詩人の家と比べ見ると全体のデザインがはっきりと分かる。
母屋のとんがり屋根の上には、もう一つ角度のゆるい天蓋のような屋根が被さっている。鷲が飛び去っていくさまをイメージしたようでもある。想像が膨らんでくる。
萩原朔太郎の代田の家は昭和二十年五月二十五日の空襲で焼けた。すぐ隣の円乗院もそのときに焼けている。
太平洋戦争は昭和十六年十二月八日に始まって、昭和二十年八月十五日に終わった。写真は昭和十八年頃のものと聞いている。萩原朔太郎は昭和十七年五月十一日に五十七歳で代田で亡くなり、自宅で葬儀を行っている。とすれば、写真に見える家は主を失った家である。が、この写真から具体的なイメージが湧いてくる。
外見も部屋の中も和洋折衷で、父はそれを自慢していた。特に応接間には凝って、父の好きな、東洋風のランプを取り入れ、古道具屋でやっと探して来たという、赤い支那風の壺などを置き『猫町』の表紙の額を吊した。
外廻りや塀は柿の渋で作るというエンジと茶の混じったようなべにがらいろで、白壁との映りは効果的だった。尖った家に不似合いな和風の門が変わった見なれない格好なので、来る人はひどく感心した。
「父・萩原朔太郎」萩原葉子 筑摩書房 昭和五十一年刊
外廻りや塀は柿の渋で作るというエンジと茶の混じったようなべにがらいろで、白壁との映りは効果的だった。尖った家に不似合いな和風の門が変わった見なれない格好なので、来る人はひどく感心した。
「父・萩原朔太郎」萩原葉子 筑摩書房 昭和五十一年刊
特異なデザインである。今と違って丘上には家が建ってはいない。「下北沢に住む加藤という古い大工の手」によってつくられたその家は目立ったに違いない。「あそこが朔太郎っていう人の家よ」と通りかかる人は噂し合っただろう。
今日掲載した写真は昨日のを拡大したものだ。一番左側の女性は綺麗な人だ。その黒髪の左手に白壁に映える窓が見える。東窓である。萩原朔太郎は晩年、この東窓のある屋根裏の三畳に寝起きしていた。
今日掲載した写真は昨日のを拡大したものだ。一番左側の女性は綺麗な人だ。その黒髪の左手に白壁に映える窓が見える。東窓である。萩原朔太郎は晩年、この東窓のある屋根裏の三畳に寝起きしていた。
屋根が高く、その屋根裏の二階は父の書斎だが、広い書斎に比べてこの部屋は家中でも一番質素な和室だった。それに風通しは全く悪く、たった一つの高窓は東向きなので、朝は早くから朝日が射し込み、冬は陽が射さないで寒く、一日中陽の目を見ないような牢のような感じのへやだった。それでも父は、このへやがとても気に入っているらしく、書斎で書きものをしないときや、体の具合の悪いときは階下にも降りてこないで、一日中ここで寝ていることが多かった。
「父・萩原朔太郎」萩原葉子 筑摩書房 昭和五十一年刊
「父・萩原朔太郎」萩原葉子 筑摩書房 昭和五十一年刊
2005年04月06日
下北沢X物語(201)〜朔太郎の帰郷と上京、下北沢へ�ぁ�
「下北沢X物語」にとって自転車は命だ。昨日、淡島の坂を上っているときにチェーンが外れた。見るとブレーキワィヤーが切れかかっている。家まで持つかと心配しながら帰った。「達治忌」だったので途中、代田一丁目一番地にの旧居の「仏の座」にはあいさつしてきた。その祈りがきいたのか、なんとか自転車は持った。そのまま懇意にしている自転車屋さんに持っていった。
ワイヤー以外にもだいぶあちこち傷んでいた。リニューアルした自転車が今日戻ってきた。4410円かかったが惜しくはない。これで物語の旅が続けられそうだ。
ワイヤー以外にもだいぶあちこち傷んでいた。リニューアルした自転車が今日戻ってきた。4410円かかったが惜しくはない。これで物語の旅が続けられそうだ。
陽気が良くなり、たちまちに花が咲き始めた。冬は去って、春だ。ときめき花色、桜色である。とんでもない写真がみつかった。それで今日は寄り道である。
ブログは毎日であるが、気ままに綴れるところがこの楽しさだ。昨日決めたテーマは今日になると変わる、変転は人生というもの、寄り道、道草も必要だ。ひたむきの一直線もいいが、横道にそれて戯れるのもいい。
ブログは毎日であるが、気ままに綴れるところがこの楽しさだ。昨日決めたテーマは今日になると変わる、変転は人生というもの、寄り道、道草も必要だ。ひたむきの一直線もいいが、横道にそれて戯れるのもいい。
数日前に借りた写真を見ていた。そろそろ返さなくてはと思って何げなく見ていた。
「あ、これってもしかたら!」
勘が働いた。さっそくに天眼鏡で調べてみた。
「やっぱり、そうだ。間違いない」
つい息を飲んでしまった。写真に思いがけないものが映っていたからである。
この間、代田の「邪宗門」行ったとき、ご主人が二枚の写真を見せてくれた。代田地区の古い写真である。近隣の風景が映っている古い写真があればと伝えていたこともあった。それが作道さんのところから出てきた。戦争中のときのものだ。
一枚は、いまの梅ヶ丘通りの鎌倉橋南交差点そば、「かんかん」のところで撮ったものだと言う。そこにはアジア、アフリカのプリミティブアートを扱う「東京かんかん」という会社があって、ギャラリー風のウインドウには南洋の不思議な彫刻物や像などが展示されている。このブログでも取り上げたことがある。
まず一枚目の写真だ。
バックには「洗い張り仕立て、わた打ち直し」と板張りの白い壁面に大きく書かれた文字が見える。布団屋さんのようだ。代田一丁目三五五という地番も、そこに書いてある。 ゲートルに国防服、それに戦闘帽を被った男、一人は旗を持っている。そこには「隣組 代田一丁目町会 第四部 第一組」とある。男は三人だけだ。後はすべて女子供である。全員で30名ほどが道に沿って並んでいる。女性はみなもんぺに防空頭巾を被っている。左端の女の子、四人ほどはスカートをはいている。全員がたすきを掛けている。その字は読めない。女性のは「国防婦人会」などと書かれたものだろう。
みな厚着だ、冬である。防空演習で集まったときの記念写真である。表情に硬さがある。戦時の代田の様子を現す写真である。
次の二枚目も貴重である。(掲載写真)
一枚目と同じ旗を一人の男が携えている。だから隣組の集まりである。が、みな正装をしている。男も女も子供も紋付き袴に羽織を身につけている。隣組でお正月に集まったときに撮ったものに違いない。もんぺや国民服着ているときよりも人々の顔に表情がある。戦争は人々から表情を奪うものだと思った。
場所は代田一丁目である。後ろには代田二丁目の丘が見える。ひときわ高いのは松の木である。貴久枝さんによると赤松だったという。拡大鏡で見ると丘には緑が多い。家の敷地が広く庭木が存分に植えられている。谷から下りてきた平地にはほとんど何もない。畑が広がっているのだろうと思う。
続きを読む「あ、これってもしかたら!」
勘が働いた。さっそくに天眼鏡で調べてみた。
「やっぱり、そうだ。間違いない」
つい息を飲んでしまった。写真に思いがけないものが映っていたからである。
この間、代田の「邪宗門」行ったとき、ご主人が二枚の写真を見せてくれた。代田地区の古い写真である。近隣の風景が映っている古い写真があればと伝えていたこともあった。それが作道さんのところから出てきた。戦争中のときのものだ。
一枚は、いまの梅ヶ丘通りの鎌倉橋南交差点そば、「かんかん」のところで撮ったものだと言う。そこにはアジア、アフリカのプリミティブアートを扱う「東京かんかん」という会社があって、ギャラリー風のウインドウには南洋の不思議な彫刻物や像などが展示されている。このブログでも取り上げたことがある。
まず一枚目の写真だ。
バックには「洗い張り仕立て、わた打ち直し」と板張りの白い壁面に大きく書かれた文字が見える。布団屋さんのようだ。代田一丁目三五五という地番も、そこに書いてある。 ゲートルに国防服、それに戦闘帽を被った男、一人は旗を持っている。そこには「隣組 代田一丁目町会 第四部 第一組」とある。男は三人だけだ。後はすべて女子供である。全員で30名ほどが道に沿って並んでいる。女性はみなもんぺに防空頭巾を被っている。左端の女の子、四人ほどはスカートをはいている。全員がたすきを掛けている。その字は読めない。女性のは「国防婦人会」などと書かれたものだろう。
みな厚着だ、冬である。防空演習で集まったときの記念写真である。表情に硬さがある。戦時の代田の様子を現す写真である。
次の二枚目も貴重である。(掲載写真)
一枚目と同じ旗を一人の男が携えている。だから隣組の集まりである。が、みな正装をしている。男も女も子供も紋付き袴に羽織を身につけている。隣組でお正月に集まったときに撮ったものに違いない。もんぺや国民服着ているときよりも人々の顔に表情がある。戦争は人々から表情を奪うものだと思った。
場所は代田一丁目である。後ろには代田二丁目の丘が見える。ひときわ高いのは松の木である。貴久枝さんによると赤松だったという。拡大鏡で見ると丘には緑が多い。家の敷地が広く庭木が存分に植えられている。谷から下りてきた平地にはほとんど何もない。畑が広がっているのだろうと思う。
2005年04月05日
下北沢X物語(200)〜「達治忌」に寄せて〜
佐々木四郎が給はったる御馬は、黒栗毛なる馬の、きはめてふとうたくましゐが、馬をも人をもあたりをはらってくひければ、いけずきとつけられたり。八寸の馬とぞきこえし。梶原が給はったるする墨も、きはめてふとうたくましきが、まことに黒かりければ、する墨とつけられたり。いづれもおとらぬ名馬也。
平家物語巻第八「宇治川先陣」 日本古典文学大系 平家物語下 岩波書店
平家物語巻第八「宇治川先陣」 日本古典文学大系 平家物語下 岩波書店
今日,四月五日は「達治忌」である。半年間彼の旧居を探し回ってやっと見つけた。忌日は、喜日のへのきっかけ、今日で、このブログもちょうど200回目を迎える。
かつて三好達治が住んでいた代田一丁目一番地、そこの小さな菜園にはいま野花が咲いている。それを教えてくれたのは邪宗門の奥さん、貴久枝さんである。載せた写真は,奇遇先の旧岩崎方の跡地に咲いているそれである。
達治忌に レィルセブン
達治の庭には
御仏(みほとけ)がまします
そは仏の座
花の台(うてな)に
こびとの軍楽隊
むらさき色の
ちいさなラッパで
ひっそりと春を
奏でている
御仏(みほとけ)がまします
そは仏の座
花の台(うてな)に
こびとの軍楽隊
むらさき色の
ちいさなラッパで
ひっそりと春を
奏でている
「三好達治詩集」(岩波文庫 1971年刊)の年譜には昭和三十九年四月「四日、田園調布中央病院に入院、五日朝八時半絶命。」とある。詩人は六十四歳だった。
おととい日曜日、わが測量自転車はふらりと家を出た。散歩がてらのサイクリングだ。そこが目当てというのではなく通りすがりに「田園調布中央病院」を見ておきたかった。
田園調布駅に行くまでの途中、桜の木々があった。もう一二分ほどに咲き初めている。詩人の最期を見届けた石原八束「三好達治」(筑摩書房、昭和五十四年刊)は克明にその時のことを記している。そして、最後はこう結んでいた。
おととい日曜日、わが測量自転車はふらりと家を出た。散歩がてらのサイクリングだ。そこが目当てというのではなく通りすがりに「田園調布中央病院」を見ておきたかった。
田園調布駅に行くまでの途中、桜の木々があった。もう一二分ほどに咲き初めている。詩人の最期を見届けた石原八束「三好達治」(筑摩書房、昭和五十四年刊)は克明にその時のことを記している。そして、最後はこう結んでいた。
−−やがて、東の窓を紫に染めて夜が明けてかけてきた。その紫色の窓ガラスに写った三好詩人の顔は、次第に死色を濃くしつつ、外の明るさの中に消えていった。消えた窓の向こうに、満開の桜の花が浮かびあがるように鮮やかに咲き誇っていた。
その病院は東急東横線田園調布駅のすぐそばにあった。緑色の文字で「田園調布中央病院」と書かれた看板が目に付いた。四階建てだ。達治の病室は三階だったとある。だが、もう四十一年前のことである。駅はすっかり変わった。地上駅は地下化してしまった。駅前はビルが建ち、駅も瀟洒なビルに立て替えられ、そこにカフェ、レストラン、スーパーマーケットがある。いずれもシックな赤香色である。ここは高級住宅地田園調布の表玄関である。
病院は休日で閉まっていた。回りを見回しても桜の樹などどこにもない。昔日の面影はほとんどない。
測量自転車はとりあえずの役目を終えて、ふらりと東に向かった。すると川に出くわした。呑川だ。見上げると鉄塔がある。駒沢線NO14である。振り返るとNO13が見えた。先だって馬込に行ったときに確認した鉄塔だ。北からきた電線は、その鉄塔で直角に曲がって東へ向かっていた。
萩原朔太郎の旧居は駒沢線61号である。南下した鉄塔の四つ先に57号がある。そのすぐ近くに三好達治は住んでいた。鉄塔で繋がった師弟である。達治は師の終焉の地に近いということで不便だったが喜んでそこに住んだ。
測量自転車はその鉄塔の下手、14の側にいる。むくもくと湧いてきたのは少年の心だ。NO1を目指す旅だ。ペダルは弾んだ。東京工業大学の縁に沿って東に向かった。急坂だった。丘の背にくると再び鉄塔は南下する。当たり前だが次第に数字が減っていく。少年はずっと先、鉄塔1番には恋しい人が待っているように思ってどきどきしてきた。
中原街道を越えていく。このまま行くと馬込の方だ。やがて東急池上線石川台駅の東にたどり着く。鉄塔は坂の上だ。急角度の坂を上る。すると左手に鉄塔、近寄って見ると、4号である。そこから伸びた線はすぐ南の池上線の上にある鉄塔に繋がっている。そして、そのまま東に向かっている。
橋の上に立った。V字に切れ込んだ谷の底に池上線が走っている。斜面には白い大根の花が絹のハンカチを被せたように咲いている。池上線を代表する景観だ。左右の土手上の桜が咲くとカメラマンが押し寄せるところだ。
駒沢線NO1鉄塔はもうすぐだ。思い人が待っている。急ごう。すぐに線路をまたぐ笹丸橋にかかる。そこに女性が立っている。思わしげである。この人かと見ると、彼女は携帯でそばに咲いている山桜を撮っていた。こちらには眼もくれない。思い人への花のプレゼントだなと少年は嫉妬した。
続きを読む病院は休日で閉まっていた。回りを見回しても桜の樹などどこにもない。昔日の面影はほとんどない。
測量自転車はとりあえずの役目を終えて、ふらりと東に向かった。すると川に出くわした。呑川だ。見上げると鉄塔がある。駒沢線NO14である。振り返るとNO13が見えた。先だって馬込に行ったときに確認した鉄塔だ。北からきた電線は、その鉄塔で直角に曲がって東へ向かっていた。
萩原朔太郎の旧居は駒沢線61号である。南下した鉄塔の四つ先に57号がある。そのすぐ近くに三好達治は住んでいた。鉄塔で繋がった師弟である。達治は師の終焉の地に近いということで不便だったが喜んでそこに住んだ。
測量自転車はその鉄塔の下手、14の側にいる。むくもくと湧いてきたのは少年の心だ。NO1を目指す旅だ。ペダルは弾んだ。東京工業大学の縁に沿って東に向かった。急坂だった。丘の背にくると再び鉄塔は南下する。当たり前だが次第に数字が減っていく。少年はずっと先、鉄塔1番には恋しい人が待っているように思ってどきどきしてきた。
中原街道を越えていく。このまま行くと馬込の方だ。やがて東急池上線石川台駅の東にたどり着く。鉄塔は坂の上だ。急角度の坂を上る。すると左手に鉄塔、近寄って見ると、4号である。そこから伸びた線はすぐ南の池上線の上にある鉄塔に繋がっている。そして、そのまま東に向かっている。
橋の上に立った。V字に切れ込んだ谷の底に池上線が走っている。斜面には白い大根の花が絹のハンカチを被せたように咲いている。池上線を代表する景観だ。左右の土手上の桜が咲くとカメラマンが押し寄せるところだ。
駒沢線NO1鉄塔はもうすぐだ。思い人が待っている。急ごう。すぐに線路をまたぐ笹丸橋にかかる。そこに女性が立っている。思わしげである。この人かと見ると、彼女は携帯でそばに咲いている山桜を撮っていた。こちらには眼もくれない。思い人への花のプレゼントだなと少年は嫉妬した。
2005年04月04日
下北沢X物語(199)〜朔太郎の帰郷と上京、下北沢へ��〜
昭和五年十月、前橋から上京した萩原朔太郎は牛込台町の家に住んだ。が、そこは仮の宿りであったろう。軍靴が響く、ラッパの鳴る、キャタピラの音がする牛込台町は詩人には住みにくい。閑雅なところにできれば引っ越したい。昭和六年四月、犀星宛てに出した手紙に朔太郎は住まい探しを頼んでいる。
報知新聞の広告で見たところ、馬込に賣家がある。馬込東交番ワキ、資生堂薬局の持ち家にて、同家に問い合わせれば解る。驛九分位のところだとのこと。散歩のついでにでも、一寸下見してきてくれないか。よさそうなれば、すぐにでも出かけるつもり。たのみます。
萩原朔太郎全集 第十三巻 筑摩書房 昭和52年刊
萩原朔太郎全集 第十三巻 筑摩書房 昭和52年刊
メールとかではない。手紙で互いがふれ合っていることがよく分かる。朔太郎と犀星無二の親友だった。ところが、書簡を追っていくと五ヶ月後に犀星宛てに転居通知を出している。九月二十一日の日付だ。
「東京府下世田ヶ谷町下北澤新屋敷100八番地」となっている。
全集の年譜を参照する。すると、「7月(推定)このころ府下世田谷町東北澤に移る」とある。これは萩原葉子「父・萩原朔太郎」 筑摩書房 昭和三十四年刊によったものだろう。
「東京府下世田ヶ谷町下北澤新屋敷100八番地」となっている。
全集の年譜を参照する。すると、「7月(推定)このころ府下世田谷町東北澤に移る」とある。これは萩原葉子「父・萩原朔太郎」 筑摩書房 昭和三十四年刊によったものだろう。
父は祖父の亡くなった翌年の夏に、しばらくの間祖父に私たちをあずけて、東北沢に叔母と住んだのだった。そして夏休みにわたしが遊びに行った時のことだった。私は銭湯が何よりも嫌いで、叔母が入る間じゆういつも暑い外で待っていたのだが、ある時、父と一緒に男湯に入った。一緒に入ることなぞ珍しいので、嬉しくて私はそこらじゅうをかけまわって喜び、父が困ってとめてもとまらず、あげくの果てに小桶の上にのってはしゃいで底を抜いてしまったのである。
東北沢という地名はない。駅ならば今でもちゃんとある。駅付近だったと考えるより他はない。近くに銭湯は今も二つある。北沢三丁目の「石川湯」と四丁目の「山の湯」だ。
自転車はまずはその東北沢を目指した。新宿駅までは遠くない、駅でメーターは2キロを指した。新宿の歓楽街に牛込は近かった。それは記憶に止めて置くべきことだ。朔太郎は独身である。重要なキーだ。
ペダルを踏み続けるビル群の背が高くなる。新宿西口高層ビル群を右に見て甲州街道をひたすら西に向かう。やがて中野通りにぶつかる。そこを左折してまっすぐ行くと小田急代々木上原3号踏切に着く。そこが東北沢駅だ。駅前を到着点としよう。6,86キロメートルだ。
小田急東北沢駅は丘の上の駅だ。隣の下北沢駅へは急角度で下る。底には踏切もある。運転士泣かせの坂である。昭和四年の地図を見る、駅近辺には何もない。が、近くに口碑はある。円海稲荷は地域の氏神様で古くからあった。
東北沢では住みにくいだろう。買い物は下北沢一番街に行くしかない。わずか二ヶ月の生活である。坂を下りてまた上るというのは不便である。それで、下北沢新屋敷に引っ越したのだろう。年譜にはこうある。
自転車はまずはその東北沢を目指した。新宿駅までは遠くない、駅でメーターは2キロを指した。新宿の歓楽街に牛込は近かった。それは記憶に止めて置くべきことだ。朔太郎は独身である。重要なキーだ。
ペダルを踏み続けるビル群の背が高くなる。新宿西口高層ビル群を右に見て甲州街道をひたすら西に向かう。やがて中野通りにぶつかる。そこを左折してまっすぐ行くと小田急代々木上原3号踏切に着く。そこが東北沢駅だ。駅前を到着点としよう。6,86キロメートルだ。
小田急東北沢駅は丘の上の駅だ。隣の下北沢駅へは急角度で下る。底には踏切もある。運転士泣かせの坂である。昭和四年の地図を見る、駅近辺には何もない。が、近くに口碑はある。円海稲荷は地域の氏神様で古くからあった。
東北沢では住みにくいだろう。買い物は下北沢一番街に行くしかない。わずか二ヶ月の生活である。坂を下りてまた上るというのは不便である。それで、下北沢新屋敷に引っ越したのだろう。年譜にはこうある。
9月中旬 世田谷町下北澤新屋敷100八番地(現在の世田谷区北澤二丁目三十七番)へ移り、母ケイ、二兒、妹アイと一緒に住む。
牛込,東北沢,下北沢,西へ西へと越している。なぜだろうか?。
続きを読むrail777 at 20:30|Permalink│Comments(1)│
2005年04月03日
下北沢X物語(198)〜朔太郎の帰郷と上京、下北沢へ�◆�
生糸の町前橋から木綿の町、下北沢へなぜ朔太郎は引っ越したのか。それを確かめようと朔太郎全集十三巻を背中にしょって自転車にまたがった。が、最初から波乱気味である。
「御来訪の道順は、自転車なれば市ヶ谷台町十六、観音八百屋と指定して尋ねられたし」
朔太郎の手紙を今風に書き換えるとこうなろうか。が、当今、みな車だ。遠くからわざわざ自転車で尋ねるやつはよほどの酔狂である。が、そんな手合いにもかかわらず野村長八さんはていねいに話をしてくれた。
「御来訪の道順は、自転車なれば市ヶ谷台町十六、観音八百屋と指定して尋ねられたし」
朔太郎の手紙を今風に書き換えるとこうなろうか。が、当今、みな車だ。遠くからわざわざ自転車で尋ねるやつはよほどの酔狂である。が、そんな手合いにもかかわらず野村長八さんはていねいに話をしてくれた。
「わしはね台町生まれの台町育ちだね。戦争もここで経験したしね。昭和二十年五月二十四十日、二十五日の空襲でここらはいったいは焼け野原になったよ。そうね、陸軍戸山学校とか近辺には軍関係のものが多かったからここも軍人さんが多かったね。‥‥戦争中ね、この前のところ、監獄があったところだけどそこに兵隊が駐留していてね。風船に乗っているんだよ。小さな飛行船を、いくつぐらいだったかな、ぐるうっと七つか八つぐらいだったかな。浮かべているんだよ。係留された風船だね、その上に兵隊が乗っていて、機関銃構えているんだよ。なんのためって、あんた、ほらこの向こうには大本営があっただよ。低空で襲ってくる飛行機をそれで邪魔するんだな。」
まったく聞いたこともない話だった。風船浮かべて大本営を守る。そうだ、さっきの地図では自衛隊市ヶ谷駐屯地が広大な敷地をしめていた。そこが大本営のあったところだ。ものものしいところだ。
長八さんはレジの下にある資料を見せてくれた。興味を惹く記事が載っている。さっそくに借りて向かいにあるコンビニでコピーさせてもらった。市ヶ谷台町商店振興会の沿革という記事だ。市ヶ谷台町商工振興会が創立二十周年記念事業として冊子をまとめた。平成四年十二月吉日に発刊したようだ。その記事の「市ヶ谷台町の誕生」を引用する。
長八さんはレジの下にある資料を見せてくれた。興味を惹く記事が載っている。さっそくに借りて向かいにあるコンビニでコピーさせてもらった。市ヶ谷台町商店振興会の沿革という記事だ。市ヶ谷台町商工振興会が創立二十周年記念事業として冊子をまとめた。平成四年十二月吉日に発刊したようだ。その記事の「市ヶ谷台町の誕生」を引用する。
市谷監獄が移転した跡地一帯の土地を、廣部清兵衛氏の廣部銀行、箱根土地会社(現、国土開発)が払い下げを受け、宅地に整地して、分譲売り出した。その頃、刑場跡に慰霊のため、等身大の立派な観音様(高村光雲作)を建て、供養した。
観音様の回りは、うっそうと木が繁り、広場もあり、子供達の格好の遊び場でもあった。ここに井戸があり、今もきれいな水が湧き出ている。終戦まで、兵隊さんが、戸山ヶ原の演習、射撃場の行き帰り、ここで小休止するのが常であった。また、陸軍士官学校をはじめ陸軍関係の学校や役所が近いので、この町には、軍隊関係の品物を扱う店が多く、軍人も、将官をはじめ佐官級も大勢住んでいた。大正十二年の関東大震災での新宿一帯の被害は、下町のそれと比べてゼロといってよい。牛込では、二百五十ほど被害はあっても、ほとんど火災を免れたのは幸運であった。
戸塚、落合の住宅地、早稲田の学生街、淀橋、新宿の歓楽街、小田急、京王、西武電車の発着駅のホームは人であふれ、牛込の軍隊の町とともに、新宿は年々栄えてきたが、昭和十六年十二月八日、太平洋戦争がはじまり、昭和十七年以来、日本の戦局が悪化すると共に、日本で一番はじめに空襲に見舞われたのが早稲田鶴巻町、馬場下の付近であった。その後日増しに、無差別都市爆撃が猛威を振るようになった。
戦争たけなわの十八年、町のシンボル観音様も兵器となるべく献納された。昭和二十年五月二十五日の空襲で、中之町、余丁町、台町、富久町、若松町一帯が焼失し、台町もすべて焦土と化してしまった。そして、八月十五日の終戦をむかえ、徐々に疎開先から戻ってきた台町住人のなかに、再び観音様建立の話が持ち上がり、町の信友会有志が奔走し、二十九年一月、中国五台山から渡ってきた四寸ほどの水打たれ観音を早稲田大学の福井教授からいただき、元の場所に建立した。
観音様の回りは、うっそうと木が繁り、広場もあり、子供達の格好の遊び場でもあった。ここに井戸があり、今もきれいな水が湧き出ている。終戦まで、兵隊さんが、戸山ヶ原の演習、射撃場の行き帰り、ここで小休止するのが常であった。また、陸軍士官学校をはじめ陸軍関係の学校や役所が近いので、この町には、軍隊関係の品物を扱う店が多く、軍人も、将官をはじめ佐官級も大勢住んでいた。大正十二年の関東大震災での新宿一帯の被害は、下町のそれと比べてゼロといってよい。牛込では、二百五十ほど被害はあっても、ほとんど火災を免れたのは幸運であった。
戸塚、落合の住宅地、早稲田の学生街、淀橋、新宿の歓楽街、小田急、京王、西武電車の発着駅のホームは人であふれ、牛込の軍隊の町とともに、新宿は年々栄えてきたが、昭和十六年十二月八日、太平洋戦争がはじまり、昭和十七年以来、日本の戦局が悪化すると共に、日本で一番はじめに空襲に見舞われたのが早稲田鶴巻町、馬場下の付近であった。その後日増しに、無差別都市爆撃が猛威を振るようになった。
戦争たけなわの十八年、町のシンボル観音様も兵器となるべく献納された。昭和二十年五月二十五日の空襲で、中之町、余丁町、台町、富久町、若松町一帯が焼失し、台町もすべて焦土と化してしまった。そして、八月十五日の終戦をむかえ、徐々に疎開先から戻ってきた台町住人のなかに、再び観音様建立の話が持ち上がり、町の信友会有志が奔走し、二十九年一月、中国五台山から渡ってきた四寸ほどの水打たれ観音を早稲田大学の福井教授からいただき、元の場所に建立した。
市ヶ谷刑場では大逆事件の幸徳秋水らがここで処刑されている。それらを慰霊するために観音様が建立された。自転車紀行は近代の歴史をたどる旅でもあった。
続きを読む2005年04月02日
下北沢X物語(197)〜朔太郎の帰郷と上京、下北沢へ� �
卯月四月、桜の花もほころび始めた。気もそぞろで、花の気配に浮かれ自転車にまたがる。背中のバックには、東京市外道路地図帖とともに萩原朔太郎全集第十三巻が入っていた。ちっと重いが後で役に立つだろうと思って持ってきた。
行き先は「東京市牛込區市ヶ谷臺町十三番地」である。昭和五年十月、萩原朔太郎は前橋から再度上京し、十月二十八日より妹アイとここに住んだ。(十三巻、324頁)
牛込、東北沢、下北沢、転々と越してきて、最後が代田だ。そのルートを自転車でたどることを思いついた。楽しいサイクリングである。その間の距離も測定できる。
朔太郎の故郷、前橋は生糸の町だ。そこから上京し、最後は、木綿の町、下北沢の近くに住む。じっさいに牛込から代田をたどることによってわかるかもしれない。なぜ朔太郎が代田の地を居住地に選んだのか。それでふと思い立った自転車散歩だ。
出発進行、わが自転車は進路を東に取った。、いわゆる旧市街、都心方向である。薄曇りで少し肌寒い、が、自転車に乗るには頃合いだ。桜も一二分咲き、ちらほらと咲き始めている。
渋谷、青山を抜けていく、この頃は高層ビルがあちこちに建っていて目印としてはいい。けれども人間という眼から見ると不自然である。威圧感を感じる。地方なども忽然と高いビルがあったりする。それが県庁や市庁舎であることも多い。市民的な視線からすると高すぎると思う。空に突出した景観を自然に受け入れる文化を我々は持っていない。進歩はより高くということなのだろうが地平の人間との調和が必要だ。都市にも表情が必要である。なのにいまはどこへいっても景観が同じだ。
都市批判を思ったり、景観批評をしているうちに案外に早く着いた、一時間ちょっとである。地図で確認する。曙橋に自分は居る。見ると、「あけぼのばし」と書かれたアーチが見える。そこが商店街の入口のようだ。めざす台町へは、左斜めに坂を上っていく。朔太郎は坂上が好きだ。どこへいっても坂の上に住んでいる。
1丁目、3丁目、と番地の数が増えていく。このままいけば13番地にたどり着く。が、疑問点があった。台町は丁目はない、番地だけだ。その番地が昔と同じなのかどうか不安であった。坂の上からお年寄りが下りてきた。杖をついておられる。おじいさんだ。
「うん、そうね、むかしと番地は違うのじゃないか。え、市ヶ谷観音そんなの聞いたことないよ。抜け弁天はあるよ。この坂の上だもの。ええっとね、坪内逍遙とか永井荷風のいたところもあるな。永井荷風はうちのすぐそばに住んでたんだもん。家は余丁町だな。まあ、区画割りしていくうちに番地が余ったんだな。それで下級武士が住んでいたんじゃないかな」
道のまん中で背負ったバックから全集を取りだして確認した。昭和五年、十一月、萩原朔太郎が室生犀星宛てに書いた手紙だ。市ヶ谷台町の家の道案内がそこに書かれている。
行き先は「東京市牛込區市ヶ谷臺町十三番地」である。昭和五年十月、萩原朔太郎は前橋から再度上京し、十月二十八日より妹アイとここに住んだ。(十三巻、324頁)
牛込、東北沢、下北沢、転々と越してきて、最後が代田だ。そのルートを自転車でたどることを思いついた。楽しいサイクリングである。その間の距離も測定できる。
朔太郎の故郷、前橋は生糸の町だ。そこから上京し、最後は、木綿の町、下北沢の近くに住む。じっさいに牛込から代田をたどることによってわかるかもしれない。なぜ朔太郎が代田の地を居住地に選んだのか。それでふと思い立った自転車散歩だ。
出発進行、わが自転車は進路を東に取った。、いわゆる旧市街、都心方向である。薄曇りで少し肌寒い、が、自転車に乗るには頃合いだ。桜も一二分咲き、ちらほらと咲き始めている。
渋谷、青山を抜けていく、この頃は高層ビルがあちこちに建っていて目印としてはいい。けれども人間という眼から見ると不自然である。威圧感を感じる。地方なども忽然と高いビルがあったりする。それが県庁や市庁舎であることも多い。市民的な視線からすると高すぎると思う。空に突出した景観を自然に受け入れる文化を我々は持っていない。進歩はより高くということなのだろうが地平の人間との調和が必要だ。都市にも表情が必要である。なのにいまはどこへいっても景観が同じだ。
都市批判を思ったり、景観批評をしているうちに案外に早く着いた、一時間ちょっとである。地図で確認する。曙橋に自分は居る。見ると、「あけぼのばし」と書かれたアーチが見える。そこが商店街の入口のようだ。めざす台町へは、左斜めに坂を上っていく。朔太郎は坂上が好きだ。どこへいっても坂の上に住んでいる。
1丁目、3丁目、と番地の数が増えていく。このままいけば13番地にたどり着く。が、疑問点があった。台町は丁目はない、番地だけだ。その番地が昔と同じなのかどうか不安であった。坂の上からお年寄りが下りてきた。杖をついておられる。おじいさんだ。
「うん、そうね、むかしと番地は違うのじゃないか。え、市ヶ谷観音そんなの聞いたことないよ。抜け弁天はあるよ。この坂の上だもの。ええっとね、坪内逍遙とか永井荷風のいたところもあるな。永井荷風はうちのすぐそばに住んでたんだもん。家は余丁町だな。まあ、区画割りしていくうちに番地が余ったんだな。それで下級武士が住んでいたんじゃないかな」
道のまん中で背負ったバックから全集を取りだして確認した。昭和五年、十一月、萩原朔太郎が室生犀星宛てに書いた手紙だ。市ヶ谷台町の家の道案内がそこに書かれている。
御来訪の道順は、タクシイなれば、市ヶ谷谷町坂上、市ヶ谷観音と指定して尋ねられたし。
市電なれば東大久保(ヌケ辯天前)停留所下車、スグ左に入りて美髪学校前、同じく市ヶ谷観音を尋ねて来られたし。境内に入れば直ちにわかる。(325頁、筑摩書房。昭和五十二年刊)
市電なれば東大久保(ヌケ辯天前)停留所下車、スグ左に入りて美髪学校前、同じく市ヶ谷観音を尋ねて来られたし。境内に入れば直ちにわかる。(325頁、筑摩書房。昭和五十二年刊)
舗道で犀星への手紙を読み上げた。
「抜け弁天はここの坂上がったところだよ。だけどやっぱり市ヶ谷観音は分からないな。わしは余丁町だからな、ここらへんの人に聞いてみるといいよ」
杖をついたおじいさんには礼を言ってわかれた。が、それからしばらくして右手にお堂が見えた。ビルとビルの間に挟まれたところに観音様が祀ってあった。台石の上には手の平に載るほどの小さな観音様があった。「青峰観音」と看板にあった。その隣は八百屋さんだ。ご主人がいて野菜や果物を並べていた。
「台町十三ね。うん、ここはそうだよ。昔から変わってないよ。市ヶ谷観音、ほれ、それだよ。昔はでかかったよ、台が三、四メートルもあって、背丈も五、六メートルもあったな。戦争中だよ、昭和18年、大砲の弾作るんで供出されたんだよ」
市ヶ谷観音と台町十六がいっぺんにぜんぶ分かってしまった。
「あれ、このビル観音ビルですね」
「そうだよ、うちは観音八百屋。美髪学校か、向かいにあったよ」
野村長八さん(73)はそう言って笑った。彼の口から昔の風景がぞろぞろ現れる。過去空間がつぎつぎに姿を現してくる。(写真は、ビルとビルに挟まれた青峰観音。驚きのあまりシャッターが震えてぼけている)
「抜け弁天はここの坂上がったところだよ。だけどやっぱり市ヶ谷観音は分からないな。わしは余丁町だからな、ここらへんの人に聞いてみるといいよ」
杖をついたおじいさんには礼を言ってわかれた。が、それからしばらくして右手にお堂が見えた。ビルとビルの間に挟まれたところに観音様が祀ってあった。台石の上には手の平に載るほどの小さな観音様があった。「青峰観音」と看板にあった。その隣は八百屋さんだ。ご主人がいて野菜や果物を並べていた。
「台町十三ね。うん、ここはそうだよ。昔から変わってないよ。市ヶ谷観音、ほれ、それだよ。昔はでかかったよ、台が三、四メートルもあって、背丈も五、六メートルもあったな。戦争中だよ、昭和18年、大砲の弾作るんで供出されたんだよ」
市ヶ谷観音と台町十六がいっぺんにぜんぶ分かってしまった。
「あれ、このビル観音ビルですね」
「そうだよ、うちは観音八百屋。美髪学校か、向かいにあったよ」
野村長八さん(73)はそう言って笑った。彼の口から昔の風景がぞろぞろ現れる。過去空間がつぎつぎに姿を現してくる。(写真は、ビルとビルに挟まれた青峰観音。驚きのあまりシャッターが震えてぼけている)
2005年04月01日
下北沢X物語(196)〜北沢川文学の源流前橋を訪ねて�◆�
文学館を出るとそこはたちまちに前橋風土文学館である。空気と色と匂うを味わう。カメラに地図にメモ帳、ジーンズにトレッキングシューズという出で立ちだ。そんな自分を見てスーパーカブにまたがった出前のおじさん、しきりに興味を持って、「調査かい」と声をかけてきた。「はい、調査です」と答えると彼は笑った。
のんびりとした風土だ。異郷人、エトランゼへの興味も旺盛だ。着流しで、メモ帳にペンを持ってうろうろしている男がいたら何と聞くのだろう。
石塚さんの話しに戻る。
「上野から汽車に乗って、高崎の手前辺りにくると、左手に高崎観音が見えるわね。それで右手に赤城の連山、左手にうねった山並みの榛名、あれみるとうちに帰って来たっていう感じするわね。それで前橋に着いて、赤城の山の一つ一つ、うんと、鍋割山、荒山、地蔵岳、長七郎山、駒ヶ岳、黒桧山が見えてくると、なんかこう安心しちゃうのね。わたしはここに嫁いで来てここに住んでいるのだけども、遠く離れていた人がしばらくぶりに帰ってくると山見て涙出るいうものね。それでね、山の形って場所場所によって違って見えるのね。それでね不思議なことにあるところに来ると決まって子ども時代のことを思い出すっていうことあるみたい。山の形が記憶に残っているみたいだね。でね、佐々木さんいう近所の人がそこに行くと決まって子どものときのことを思い出すので親に聞いてみたら昔そこに家があったというのね‥‥」
山がものを言うものだと思った。気候天候も大事な条件だ。かつては今よりももっと寒かった。夜は暗くて恐かった、星がくっきりと見えて、月も冴え冴えとしていた。建物もこんなに建ってはいなくてどこからでも山が見られたと。
「ここの広瀬川の水ね、利根川の取水口のところに発電所があるわね。これは飲み水には使ってないわね。前橋の水は地下水だわね。美味しいわよ」
路傍で彼女とは小一時間ほど話を交わした。楽しい話しだった。その彼女に近所にお稲荷さんはないかと聞いた。するとあると言う。前工の前に一つ、すぐ近くの岩神様もそうだという。前工は前橋工業高校だ、そこにあるのは観民稲荷と言って「農業、商業、養蚕の神」であるようだ。かつて前橋は生糸(いと)の町だった。稲荷も土地が代われば祀るものも違う。下北沢はもめんの町とも言われた。絹と木綿、街の文化の違いはおもしろい。
岩神稲荷神社に行ってみた。平坦な地平に忽然と大岩があって、そこがお稲荷さんなっていた。国指定の記念物になっている。建っている看板には興味深いことが書いてあった。
のんびりとした風土だ。異郷人、エトランゼへの興味も旺盛だ。着流しで、メモ帳にペンを持ってうろうろしている男がいたら何と聞くのだろう。
石塚さんの話しに戻る。
「上野から汽車に乗って、高崎の手前辺りにくると、左手に高崎観音が見えるわね。それで右手に赤城の連山、左手にうねった山並みの榛名、あれみるとうちに帰って来たっていう感じするわね。それで前橋に着いて、赤城の山の一つ一つ、うんと、鍋割山、荒山、地蔵岳、長七郎山、駒ヶ岳、黒桧山が見えてくると、なんかこう安心しちゃうのね。わたしはここに嫁いで来てここに住んでいるのだけども、遠く離れていた人がしばらくぶりに帰ってくると山見て涙出るいうものね。それでね、山の形って場所場所によって違って見えるのね。それでね不思議なことにあるところに来ると決まって子ども時代のことを思い出すっていうことあるみたい。山の形が記憶に残っているみたいだね。でね、佐々木さんいう近所の人がそこに行くと決まって子どものときのことを思い出すので親に聞いてみたら昔そこに家があったというのね‥‥」
山がものを言うものだと思った。気候天候も大事な条件だ。かつては今よりももっと寒かった。夜は暗くて恐かった、星がくっきりと見えて、月も冴え冴えとしていた。建物もこんなに建ってはいなくてどこからでも山が見られたと。
「ここの広瀬川の水ね、利根川の取水口のところに発電所があるわね。これは飲み水には使ってないわね。前橋の水は地下水だわね。美味しいわよ」
路傍で彼女とは小一時間ほど話を交わした。楽しい話しだった。その彼女に近所にお稲荷さんはないかと聞いた。するとあると言う。前工の前に一つ、すぐ近くの岩神様もそうだという。前工は前橋工業高校だ、そこにあるのは観民稲荷と言って「農業、商業、養蚕の神」であるようだ。かつて前橋は生糸(いと)の町だった。稲荷も土地が代われば祀るものも違う。下北沢はもめんの町とも言われた。絹と木綿、街の文化の違いはおもしろい。
岩神稲荷神社に行ってみた。平坦な地平に忽然と大岩があって、そこがお稲荷さんなっていた。国指定の記念物になっている。建っている看板には興味深いことが書いてあった。
国指定 岩神の飛石 所在地昭和町三丁目29−11 岩神稲荷神社
周囲が60m、高さは地表に露出した部分だけで、9,65m、さらに地表下に数mは埋もれているこの大きな岩は「猿神の飛石」と呼ばれています。昔、石工がノミをあてたところ、血が流れ出したという伝説があります。岩は赤褐色の火山岩で、表面には縞のような構造も見えます。しかし大きさのそろった角ばった火山起源の岩や石の多い部分もあります。この岩は火口から溶岩として流れ出したものではなく、火口から噴出した高温の火山岩や火山灰などが冷えて固まってできたものと考えられます。
この地点より約8km上流の板東橋の近くの利根川ぞいの崖では、10万年以上も前に赤城山の山崩れでできた厚い地層の中に同じ岩が認められます。このことから、この岩は赤城崋山の上半分が無くなるほどの大規模な山崩れに由来することがわかります。さて前橋の街の地下には、「前橋泥流」と呼ばれる地層が厚く堆積しています。これは2万年前に浅間山で起こった山崩れが、水を含んで火山泥流に変化して流れてきた地層です。この地層の中にも、岩神の飛石と同じような石が多く含まれています。またここは火山泥流の堆積後、平安時代以前までの間に、利根川が流れていたところでもあります。
これらのことから、この岩は現在の板東橋のあたりに堆積していた地層の中から、約2万年前の火山泥流によりこの近くまで押し流されてきたものと思われます。さらにその後の利根川の洪水によって、今の場所まで運ばれてきたと考えられます。岩神の飛石は、私たちに前橋とその周辺の自然の歴史とその営みを教えてくれます。
この地点より約8km上流の板東橋の近くの利根川ぞいの崖では、10万年以上も前に赤城山の山崩れでできた厚い地層の中に同じ岩が認められます。このことから、この岩は赤城崋山の上半分が無くなるほどの大規模な山崩れに由来することがわかります。さて前橋の街の地下には、「前橋泥流」と呼ばれる地層が厚く堆積しています。これは2万年前に浅間山で起こった山崩れが、水を含んで火山泥流に変化して流れてきた地層です。この地層の中にも、岩神の飛石と同じような石が多く含まれています。またここは火山泥流の堆積後、平安時代以前までの間に、利根川が流れていたところでもあります。
これらのことから、この岩は現在の板東橋のあたりに堆積していた地層の中から、約2万年前の火山泥流によりこの近くまで押し流されてきたものと思われます。さらにその後の利根川の洪水によって、今の場所まで運ばれてきたと考えられます。岩神の飛石は、私たちに前橋とその周辺の自然の歴史とその営みを教えてくれます。
前橋の稲荷はそんじょそこらの稲荷と違う。壮大な浪漫とポエジーを持っている。石工が大岩にノミを打ち込むと、赤紫の血がどぽどぽどぽと流れ出す。猿神は大地の象徴だ。
地下に眠る「前橋泥流」いつ流れ出すかもわからない。土地を鎮めよ、土地を鎮めよ。稲荷を祀って地霊を慰めよ。祈りを怠ると、広瀬川添いのあちらこちら岩の割れ目から青い光が靄となって染み出てくる。それが人を犬を猫を染める、詩人は二万年前の営みを思って恐怖し、居ても立ってもいられずに町を低回する。すると「おわあ、こんばんは」と発情した猫が声を掛けてくる。才川町の角を曲がると犬が吠えている。青白い犬だ。
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