2005年07月
2005年07月31日
下北沢Ｘ物語（３１７）〜節穴から覗いた米軍小田急軍用列車（下）
自動小銃が林立する無蓋貨車がこってん、こったん、とったんと、ゆっくりと下北沢３号踏切から２号踏切へ抜けていったという話はスリリングだ。それを雨戸の節穴から少年が見ていたというのも興味深いことである。厚木から首都へ侵攻する駐留米軍が小田急の貨物列車を使ったというのも初めて聞く話である。
兵隊のヘルメットには馬のマークがついていたという。八月二十八日に厚木飛行場に下り立ったのは第八軍第一騎兵師団である。騎兵と馬のマークは一致する。が、侵攻してきたのは何時なのだろうか。東京湾上のミズーリー号での降伏調印式で東京進駐が申しわたされた。それを終えて、厚木に待機していた第一騎兵師団が小田急線経由で侵攻してきたものと思われる。
人のことばは情報を伝える。ちょっとしたことばにかなりの情報が載っていることもある。例えばこういう例だ。北沢川近辺に住んでいた人は子どもの頃よく言われたのは「上流に精神病院の松沢病院があるから川に入っちゃいけない、入ると気が触れるよ、気が違っちゃうよ」ということだ。大人はそう言って子どもを脅した。それは子どもがよく川にはまっていたからである。柵もなにもない時代である、が、小魚のいる川は魅力である。つい川に入って溺れたなどというのはいくらでもあったはずだ。それで親は脅す必要が生じて、「気が触れるよ」と言った。
佐山春男さんの言う、兵隊はみんな銃を構えて警戒していたと言う。その言葉によっていくつかの情報が読み取れる。沿線の治安が十分に定まっていないことによる警戒である。つい数日前までは日本の戦闘機が上空を飛んで、日本の敗戦は嘘だとか女子どもは暴行を受けるから山へ逃げろというビラを撒いていたとある。昭和二十年八月末は混乱の最中にあった。それから間もないときに進駐軍首都侵攻列車はやってきた。彼らは、自分たちが狙撃される危険があったから銃を構えていた。彼らも恐かったが、沿線の住人はもっと恐ろしかったに違いない。鬼畜米兵は女子どもを襲ってくるという噂が流れていたからだ。
小田急の無蓋貨車は少し車体を曲線の内側に傾けながら走った。ゆっくりとである。一両目が過ぎ、二両目、三両目と過ぎていく。少年は息を止めてじっと見守っていた。初めて目にする敵だった。兵隊の首や顔、そして袖口が白い。友だちが言っていた通りだ。
豪徳寺に豪徳寺にＢ２９が墜ちたのを見に行ったものがいて、落下傘で下りてきたアメリカ軍の兵隊の肌が妙に白かったという。今目の前を通っている兵隊もほんとにそうである。いつもは爆撃機や艦載機で知っていた敵とはまるで違う。肌色の違う敵はよけいに白く見えた。
小銃の林は途切れることがなかった。いつも目にしていた小田急の砂利運搬貨車はせいぜい十数両程度だ。それが通るとき家が揺れるが、今度は揺れない。レールの継ぎ目を、かたん、かたんと踏みながら走っていく。兵隊が大勢乗っているのに静かだ。十二両目ぐらいまで来たときだった。こちらに銃口を向けている兵隊と目が合った。青い目に眉が金色だった、春男少年は目が凍り付いた。その瞬間初めて相手の殺気を感じた。撃たれると思って目をつぶった、蝉が鳴いていた。けれども何も起こらない。目を開けると今度はつぎの車両に乗った機銃が見えた。
「いやぁ、長かったですよ。二十両ぐらいあったように思うのですよ。もう終わるかもう終わるかと思ってのぞき見していたけどなかなかしっぽがこないのですよ。」
佐山少年が眺めた小田急築堤、そこは、「東京空襲」を描いた一色次郎と縁が深いところである。彼はそこに立って何度も空襲の場面を眺めた。夜、空襲警報が鳴った後、小田急の線路上を非常電車が要員を乗せてフルスピードで走った。その音を佐山少年とは反対側の土手下のアパート「静仙閣」で聞いていた。次郎と春男はどこかで必ずクロスしているはずである。
佐山少年が眺めた小田急築堤、そこは、「東京空襲」を描いた一色次郎と縁が深いところである。彼はそこに立って何度も空襲の場面を眺めた。夜、空襲警報が鳴った後、小田急の線路上を非常電車が要員を乗せてフルスピードで走った。その音を佐山少年とは反対側の土手下のアパート「静仙閣」で聞いていた。次郎と春男はどこかで必ずクロスしているはずである。
小田急築堤は意義深い地点だ。戦争中に鯨（Ｂ２９）と小魚が大空で戦っていたさまを見た一色次郎、戦後すぐに目前を過ぎる敵兵の白い肌を見た佐山春男、近代史の影がひっそりとめくられていった。そこが小田急築堤曲線であるように思われる。(写真は小田急下北沢２号踏切、ここは築堤となっていて一段高くなっている。左が世田谷代田方向）
2005年07月30日
下北沢Ｘ物語（３１６）〜節穴から覗いた米軍小田急軍用列車（中）
記憶をどう語り伝えるのか、それを考えさせられた一日だった。
自転車による探査は思いがけない事実を拾い始めた。文字事実を、土地事実に照らし合わせると思いがけず納得するものがある。
自転車による探査は思いがけない事実を拾い始めた。文字事実を、土地事実に照らし合わせると思いがけず納得するものがある。
金子静枝さんが知覧へ向かう特攻機を見送った地点の松原２丁目に行ってみると、そこは丘上で空が広く見えた。「ここなら見える」と納得した。が、事実は具体を求める。東京山の手空襲は２５日だったが、２４日にもあった。戦災誌を見ると、例えば、北沢五丁目は２４日に焼けている。全焼した松原国民小学校も被災は２４日とある。
今日は世田谷区中町にある「せたがや平和資料室」に自転車で行った。いくつかの疑問があって、それが分かるだろうかと思って行った。小田急を走った軍用列車のこと、豪徳寺に落ちたＢ２９のこと、空襲地点地図‥‥などを期待していた。
胸打たれたのは実物の焼夷弾の筒である。「触ってもいい」「写真を撮ってもいい」「明るいところで撮ってもいい」という許しを係の方に受けて、鉄製の筒を手に持ってみた。自分の皮膚に戦争が滲みてくるように思った。
胸打たれたのは実物の焼夷弾の筒である。「触ってもいい」「写真を撮ってもいい」「明るいところで撮ってもいい」という許しを係の方に受けて、鉄製の筒を手に持ってみた。自分の皮膚に戦争が滲みてくるように思った。
筒には記録用紙が貼ってある。
焼夷弾（Ｍ６９型）
昭和二十年五月二十四日
昭和二十年五月二十四日
空襲警報発令 午前一時三十六分
空襲 午前一時三十六分
解除 午前三時五十分
焼夷弾落下地点 世田谷区松原三丁目一一二五番地（現在 松原町四丁目二ー六 ）
空襲 午前一時三十六分
解除 午前三時五十分
焼夷弾落下地点 世田谷区松原三丁目一一二五番地（現在 松原町四丁目二ー六 ）
記録にある時刻は、「東京大空襲・戦災誌」第三巻と符合する。当日の戦災を受けた地点に「松原１〜３丁目」が入っている。戦災誌には「松原国民学校（全焼）」との記述もある。が、戦災誌には翌日二十五日の被災地点として、「松原町・北沢‥‥」ともある。
多くの人が口にする山の手空襲の日付は２５日である。細かく調べていくとそこがいつどのようにどう焼けたのかはよく分からない。
「総合学習でここへ子どもたちが勉強にくるんですけどね、今の子どもたちに『ひもじい』ということばが通じませんからね」、「体系立てて記録をしていくというところまではいっていませんね。そういうふうにした方がいい、専門の人がきちんと記録を取っていくといいと思っていますけどね」と係の方が言われた。空襲による焼失地図が壁に貼ってあった。が、今まで見てきた海野十三、三好達治、またその他の著作から得た感触からするとその焼失地点の朱が小さいように思えた。
せたがや平和資料室開設１０周年記念特別展「太平洋戦争の終結と新しい日本のあゆみ」が戦後６０年特別企画で行われるそうだ。八月一杯、弦巻にある「世田谷区立教育センター」１階エントランスホールで開かれる。（問い合わせ先０３−３７０３−８１００：せたがや平和資料室）
せたがや平和資料室開設１０周年記念特別展「太平洋戦争の終結と新しい日本のあゆみ」が戦後６０年特別企画で行われるそうだ。八月一杯、弦巻にある「世田谷区立教育センター」１階エントランスホールで開かれる。（問い合わせ先０３−３７０３−８１００：せたがや平和資料室）
首都侵攻小田急軍用第一列車は歴史的な事実としてはまだよく分からない。が、佐山春男少年が見たのは間違いないことである。
厚木基地に米兵がいつ下り立ったのか、それは本で調べた。陸軍の先発隊（第八軍）が厚木に下りたのは確かである。「米軍第一陣の受け入れ」に当たった人が有末精三氏である。そのいきさつは著書に記されている。彼が市ヶ谷台を立って厚木に向かうのが八月二十四日である。佐山少年の記憶とそこは異なってくる。
雨上がりの甲州街道から厚木街道への移動、空から飛行機でビラが舞い落ちる。拾ってみれば、「徹底抗戦！」「マッカーサー機への体当たり！」などと降伏を肯じないビラや、中には「鬼畜米軍の進駐、婦女子は山へ逃げろ！」というビラなど、いろとりどりのものが散布されてくる。
「ザ★進駐軍」有末精三 芙蓉書房 昭和５９年刊
「ザ★進駐軍」有末精三 芙蓉書房 昭和５９年刊
不穏な動きがある中での進駐軍受け入れである。二十四日には米軍はまだ到着していない。臨時列車の運転はもっと後であろう。米軍先遣隊が厚木に下り立ったのは八月二十八日、朝である。
八時頃だったろう、西南方空の一点から爆音が聞こえて来た。振り向いて仰ぎ見ると一機、二機、三機とつづく、しかも大型旅客機（Ｃ４６？）らしい。アレヨアレヨという間にわれわれが予定していた着陸方向とは正反対、追い風に乗って次々と着陸を始めた。
「ザ★進駐軍」有末精三 芙蓉書房 昭和５９年刊
「ザ★進駐軍」有末精三 芙蓉書房 昭和５９年刊
米国陸軍先遣隊の厚木飛行場への到着風景だ。マッカーサー元帥の厚木到着は八月三十日である。鉄道の場合はスジ屋がスジを入れる。と、同時に、機関車や貨車の手配もしなくてはいけない。飛行機で到着してすぐに軍用列車を動かすというのは難しい。
連合軍の日本占領は、一九四五年八月二十八日、先遣隊の厚木到着から始まった。三○にはマッカーサー元帥と第八司令官アイケルバーガー中将らも厚木に到着した。
日本政府は連合軍の東京進駐を認めたくなかったが、降伏調印のあと、東京進駐が申し渡された。
マッカーサーの見た焼け跡 ジェターノ・フェーレイス 文藝春秋 １９８３年刊
日本政府は連合軍の東京進駐を認めたくなかったが、降伏調印のあと、東京進駐が申し渡された。
マッカーサーの見た焼け跡 ジェターノ・フェーレイス 文藝春秋 １９８３年刊
ミズーリー号での降伏調印式が行われたのは昭和二十年九月二日である。その申し渡しを受けて、米軍首都侵攻小田急第一列車は動いたものと思われる。佐山少年が見たそれは九月早々のことだったように思われる。
貨物列車に乗っていた米兵のヘルメットが印象的だったと佐山さんは言った。ドイツ軍のヘルメットのように後ろの縁が深く、もっとも目立ったのは馬のマークだったと彼は話した。厚木に進駐してきたのは第八軍第一騎兵師団である。その事実と佐山さんの証言は一致する。
米軍の第八軍第一騎兵師団は精鋭部隊である。「黒人兵は一人も見かけませんでした」と彼は言い切った。
佐山春男少年は、首都侵攻小田急第一列車を目撃した。米軍が上陸してくると婦女子は暴行されるという噂があって、沿線住民は皆みつからないように隠れた。全部の雨戸を閉め切ってしまった。残暑が残るさなか息を殺して彼は、その米軍軍用貨物列車を見送った。
2005年07月29日
下北沢Ｘ物語（３１５）〜節穴から覗いた米軍小田急軍用列車（上）
朝、小田急ワーストワン踏切に引っかかって渡るまで２０分もかかってしまった。待っている間、あたりを見回す。スーパー「オオゼキ」のコンクリート打ちが進んで建物が高くなっている。向こう側の踏切脇の花壇のヒマワリはいつのまにか大きくなっていた。北口駅前市場の但馬屋の大田原さんがジョウロで水をやっているのが見えた。
新宿行きの電車が下北沢駅を出て踏切を過ぎる。が、矢印ランプは消えない。西を見るともうつぎの電車が来ている。これではいつまで経っても開かない。世田谷代田と代々木上原の間は武蔵野の台地の上をもとの地形のままに線路が走っている。そこが小田急線のネックとなっている。踏み切りがあり、勾配があり、カーブがある。これらの障害を取り除くために今地下化工事が進んでいる。工事が完成すれば上下二線の複々線となって問題は解決する。
けれども、昭和二年（１９２７）の小田急開通以来、７８年間存在しつづけた線、そのカーブ、勾配、踏み切りには一つ一つ歴史が刻まれている。佐山五郎さんの姉は弟をおぶって不安な面持で小田急鎌倉通踏切を越えた。五郎さんの兄、佐山春雄さんの経験も忘れがたい小田急曲線エピソードである。
「終戦直後のことです。マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立つ一週間ほど前ですよ。米軍が厚木から小田急で進駐してくるという話を聞きました。」
日本占領連合国軍最高司令官マッカーサーが神奈川県厚木飛行場に降り立ったのは１９４５（昭和２０）年８月３０日である。となると、佐山さんが目撃したのは八月の二十日過ぎということなる。
「そうですね、まだ治安が安定していないときでした。だから私が見たのは、小田急による首都侵攻第一陣だったと思うのですよね。それをこの家の二階の雨戸の節間からのぞき見しました。目と目が合うと銃で撃たれると噂されていましたから昼間なのに雨戸立てていたんですね。鬼畜といわれていた米兵と初めて接するわけで、恐かったですね。向こうも恐かったでしょうね。命を捨てて襲ってくる特攻隊の話はよく知っていましたから」
佐山春男さんがそれを目撃したのは東大原国民小学校六年のときだった。彼は五年生のときに建物疎開で壊された材木をリヤカーで運んだと言う。新宿から学校までだ、その材木は燃料として使うためである。春男さんの証言を物語に整理してみた。
雨戸を締め切った二階の部屋は暑かった。外ではじぃじりぃと蝉が鳴いている。それを聞いていると汗が流れてくる。そんなときに、ひぃひょっという音がした。春男は気になって、雨戸にぽつんと開いている節穴から外をのぞき見た。
いつもと変わらない景色がある。土手の上には手前から下り、そして、向こうは上り、四本の線路がじぃっとうずくまっているように見えた。
「ぴぃひょっ！」
右手、代田の丘から汽笛が聞こえた。右目を左目に変えてそちらを見た。すると茶色い箱が見えた。電気機関車だ。ヘッドライトを昼間なのにこうこうと点している。それがゆっくりと代田の坂のカーブを下りながら走ってくる。機関車側面の窓と小田急の白い車紋が過ぎて、その後ろに連結されている貨車が目に入ってくる。
「ぎょうへぇ、みんな銃を構えて居るぞ」
かてん、こてん、機関車が過ぎる。そして、目の前に無蓋貨車がきた。濃緑色のヘルメット被った十数人ほどの兵隊、それが四周を警戒して銃を構えている。やがて、自分の目の前を完全武装した兵隊が過ぎていく。銃口が全部自分の目に当てられているように春男には思えた。
（写真は今日の代田カーブ、下北沢２号踏切から撮った。佐山さんの家はこの線路の右脇である。米軍小田急軍用列車は右の線を新宿へと向かった。なお、この地点は一色次郎が度々立って空襲を観察した小田急築堤でもある。）
いつもと変わらない景色がある。土手の上には手前から下り、そして、向こうは上り、四本の線路がじぃっとうずくまっているように見えた。
「ぴぃひょっ！」
右手、代田の丘から汽笛が聞こえた。右目を左目に変えてそちらを見た。すると茶色い箱が見えた。電気機関車だ。ヘッドライトを昼間なのにこうこうと点している。それがゆっくりと代田の坂のカーブを下りながら走ってくる。機関車側面の窓と小田急の白い車紋が過ぎて、その後ろに連結されている貨車が目に入ってくる。
「ぎょうへぇ、みんな銃を構えて居るぞ」
かてん、こてん、機関車が過ぎる。そして、目の前に無蓋貨車がきた。濃緑色のヘルメット被った十数人ほどの兵隊、それが四周を警戒して銃を構えている。やがて、自分の目の前を完全武装した兵隊が過ぎていく。銃口が全部自分の目に当てられているように春男には思えた。
（写真は今日の代田カーブ、下北沢２号踏切から撮った。佐山さんの家はこの線路の右脇である。米軍小田急軍用列車は右の線を新宿へと向かった。なお、この地点は一色次郎が度々立って空襲を観察した小田急築堤でもある。）
2005年07月28日
下北沢Ｘ物語（３１４）〜もんぺを引き裂いた姉〜
時間は出来事を並べていく。そのときそのときの思いというものは熱い。どうなることやらと思うが、それが過去になってしまうと、物事は秩序正しく平板に並べられてしまう。それでも一つを取り出して眺めてみると、その時の人の思いが伝わってくる。
「川にたどりついとたんに、姉は自分のもんぺを引き裂いたのですよ‥‥」
佐山五郎さんの話である。五歳頃の戦争の記憶である。恐い経験だったのだろう。その日は記録から特定できる。昭和２０年５月２５日の夜である。
この日は昼に艦載機Ｐ５１「ムスタング」三十機が低空で東京上空を通り抜けた。そして、午後１０時２分警戒警報が出た。そして、午後１０時２２分空襲警報に切り替わった。
佐山五郎さんの話である。五歳頃の戦争の記憶である。恐い経験だったのだろう。その日は記録から特定できる。昭和２０年５月２５日の夜である。
この日は昼に艦載機Ｐ５１「ムスタング」三十機が低空で東京上空を通り抜けた。そして、午後１０時２分警戒警報が出た。そして、午後１０時２２分空襲警報に切り替わった。
気味の悪いサイレン音が北沢地区にも鳴り響いていた。
「なんだか昨日と様子がちがうわ」
五郎の姉はそう言った。
昨日、２４日も空襲はあった。けれども北沢二丁目一帯はやられなかった。
「五郎、五郎、おいで」
姉のところにいくと耳に手を当てている。そのうちに五郎にも空からのうなり声が聞こえてきた。どでかい機械がこちらにだんだんに近づいてくるように思われた。
「大変よ、飛行機の大編隊よ。やられちゃうわ、逃げよう」
姉が五郎を呼んだ。彼女はもう防空頭巾を被っていた。五郎が行くとすぐさま頭巾がかぶせられた。
「背中につかまりなさい」
そういわれた五郎は姉の背にしがみついた。とたんに姉は家を出た。燈火管制をしている家の中よりも外の方がずっと明るい。探照灯が広い空にいくつも交差しているのが見えた。月も出ている。それで鎌倉通が白く浮かんで見えた。人の影がそこを右往左往している。「根津山の横穴式防空壕だ」という人もいれば、「根津山は遠いから北沢川だ」と言う人もいる。人は思い思いの方向に逃げていた。けれども姉は迷うことなく南の丘に向かった。鎌倉通の小田急の踏切を渡った。五郎はいっしんに姉の肩上からあたりの様子を見ていた。すると桜の樹の下のお地蔵様が見えてきた。そこでだれかが「なんまいだぁなんまいだぁ」と祈りを唱えている。お婆さんの声だ。
姉はそのわきをたったったと足音を立てて走りぬけた。爆撃機の音はだんだんに高くなってそれが、お腹に響いて聞こえてくる。
「五郎、いいか、つかまっているんだよ」
肩越しに前を見ると白い帯が谷に向かって転げ落ちていた。川へ行くときの坂道が探照灯の明かりに照り映えて見えた。そのうちに、「ひゅうひゅう」という、今まで聞いたこともなかった音が聞こえるようになった。上を見ると幾つもの明かりを点けたホオヅキ提灯が落ちてくる。ずっと向こうの空は探照灯に照らされた飛行機で埋まってみえた。
「五郎、五郎、北沢川よ。ほら、鎌倉橋に着いたのよ」
姉は川の土手から、くぼみに下りた。そして五郎を下ろした。ふわふわの地面がたよりなく思われた。けれども姉は息をつく間もなく、背中を丸めて自分の足に腕をやった。びりぃりと着物を裂く音がした。やがて、姉は、長い紐を川の流れにつけた。それが探照灯と月明かりを通しておぼろげに見えた。
「五郎、爆弾の光が眼に入ったら、眼がやられるから」
姉はそういって五郎の両目に水で濡らした帯を巻いた。自分の履いていたもんぺを切り裂いて帯を作ったようだ。それをあてがわれたとき目が冷たく感じられた。そのときに頭上でゴゥという音がした。五郎はこわごわと片目の帯を指で引っ張って、空を見上げた。すると、とんでもなく大きなヤモリ、翼をつけたそれが頭上におおいかぶさっている。その白い腹が赤い色に染まっていた。と、そのお腹が真っ二つにぱかんと割れて、米粒のようなものが中から湧くように落ちてくる。探照灯に映し出されたそれはみるみる大きくなってくる。ヤモリはＢ２９だ、それが焼夷弾を落としていた。地上の火炎が機体のジュラルミンを赤く染めていた。
五郎の姉はそう言った。
昨日、２４日も空襲はあった。けれども北沢二丁目一帯はやられなかった。
「五郎、五郎、おいで」
姉のところにいくと耳に手を当てている。そのうちに五郎にも空からのうなり声が聞こえてきた。どでかい機械がこちらにだんだんに近づいてくるように思われた。
「大変よ、飛行機の大編隊よ。やられちゃうわ、逃げよう」
姉が五郎を呼んだ。彼女はもう防空頭巾を被っていた。五郎が行くとすぐさま頭巾がかぶせられた。
「背中につかまりなさい」
そういわれた五郎は姉の背にしがみついた。とたんに姉は家を出た。燈火管制をしている家の中よりも外の方がずっと明るい。探照灯が広い空にいくつも交差しているのが見えた。月も出ている。それで鎌倉通が白く浮かんで見えた。人の影がそこを右往左往している。「根津山の横穴式防空壕だ」という人もいれば、「根津山は遠いから北沢川だ」と言う人もいる。人は思い思いの方向に逃げていた。けれども姉は迷うことなく南の丘に向かった。鎌倉通の小田急の踏切を渡った。五郎はいっしんに姉の肩上からあたりの様子を見ていた。すると桜の樹の下のお地蔵様が見えてきた。そこでだれかが「なんまいだぁなんまいだぁ」と祈りを唱えている。お婆さんの声だ。
姉はそのわきをたったったと足音を立てて走りぬけた。爆撃機の音はだんだんに高くなってそれが、お腹に響いて聞こえてくる。
「五郎、いいか、つかまっているんだよ」
肩越しに前を見ると白い帯が谷に向かって転げ落ちていた。川へ行くときの坂道が探照灯の明かりに照り映えて見えた。そのうちに、「ひゅうひゅう」という、今まで聞いたこともなかった音が聞こえるようになった。上を見ると幾つもの明かりを点けたホオヅキ提灯が落ちてくる。ずっと向こうの空は探照灯に照らされた飛行機で埋まってみえた。
「五郎、五郎、北沢川よ。ほら、鎌倉橋に着いたのよ」
姉は川の土手から、くぼみに下りた。そして五郎を下ろした。ふわふわの地面がたよりなく思われた。けれども姉は息をつく間もなく、背中を丸めて自分の足に腕をやった。びりぃりと着物を裂く音がした。やがて、姉は、長い紐を川の流れにつけた。それが探照灯と月明かりを通しておぼろげに見えた。
「五郎、爆弾の光が眼に入ったら、眼がやられるから」
姉はそういって五郎の両目に水で濡らした帯を巻いた。自分の履いていたもんぺを切り裂いて帯を作ったようだ。それをあてがわれたとき目が冷たく感じられた。そのときに頭上でゴゥという音がした。五郎はこわごわと片目の帯を指で引っ張って、空を見上げた。すると、とんでもなく大きなヤモリ、翼をつけたそれが頭上におおいかぶさっている。その白い腹が赤い色に染まっていた。と、そのお腹が真っ二つにぱかんと割れて、米粒のようなものが中から湧くように落ちてくる。探照灯に映し出されたそれはみるみる大きくなってくる。ヤモリはＢ２９だ、それが焼夷弾を落としていた。地上の火炎が機体のジュラルミンを赤く染めていた。
当日、５月２５日は南からの強い風が吹いていた。落とされた爆弾は大原や笹塚の方に流されて一帯を火の海にしてしまったのだろうか。五郎さんの記憶を自分でたどった物語である。姉の弟に対する心やりが印象に深く残っている。
気になることがあった。「東京大空襲・戦災誌」第３巻によると北沢五丁目は２４日の被災となっている。特攻機を見送った金子静枝さんの話は２４日の被災となる。細部に入るとわからなくなることがある。
気になることがあった。「東京大空襲・戦災誌」第３巻によると北沢五丁目は２４日の被災となっている。特攻機を見送った金子静枝さんの話は２４日の被災となる。細部に入るとわからなくなることがある。
佐山五郎さんの話はエピソードとして記録にとどめておきたい。北沢川に逃げて助かったという話でもある。川が臨時の防空壕となっていたという例だ。
2005年07月27日
下北沢Ｘ物語（３１３）〜帝都線下北沢駅肥だめ物語〜
井の頭線の前身、「帝都電鉄」の開業は昭和８年である。前年の昭和７年１０月１日に「大東京市」が成立して荏原郡は「東京市」に編入され、大田区、目黒区、世田谷区などができた。走行線路の大部分が帝都に入っていた、それを受けての社名変更だ。「帝都電鉄」の前は「東京郊外電気鉄道」であった。沿線の帝都編入を機に「帝都電鉄」と名乗った。
北沢２丁目の佐山一雄さん（８０歳）からおもしろい話を聞いた。
「今の井の頭線のホームのあるところはミニゴルフ場だった。パターゴルフ場というのかな」
「それは帝都線が開通する前ですか？」
びっくりして聞くと、そうだという。少しでこぼこだけど、斜面を生かした小さなゴルフ場があったと言う。そういえば、駅はフラットな丘上にある。西行きの線路は急勾配で新代田駅へと下っている。東の渋谷へと向かう線路は高架となっている。森厳寺川が削った谷に築堤築かれたり、陸橋が架けられたりして、そして隣の池ノ上駅に向かっている。（写真は池の上から見た下北沢駅である。築堤と高架部分である）
「それは帝都線が開通する前ですか？」
びっくりして聞くと、そうだという。少しでこぼこだけど、斜面を生かした小さなゴルフ場があったと言う。そういえば、駅はフラットな丘上にある。西行きの線路は急勾配で新代田駅へと下っている。東の渋谷へと向かう線路は高架となっている。森厳寺川が削った谷に築堤築かれたり、陸橋が架けられたりして、そして隣の池ノ上駅に向かっている。（写真は池の上から見た下北沢駅である。築堤と高架部分である）
昭和の初め頃にローラースケートにミニゴルフ場があった。下北沢の話はお洒落である。
「ええっと、昭和何年かな、３，４０年代だったと思うわ。朔太郎さんの近くよ、代田二丁目の丘上ったところに、日活の俳優さんが入るしゃれたアパートありましてね、わたし室内装飾やっていたからカーテンなどちゃんとデザインしましたよ」
「ええっと、昭和何年かな、３，４０年代だったと思うわ。朔太郎さんの近くよ、代田二丁目の丘上ったところに、日活の俳優さんが入るしゃれたアパートありましてね、わたし室内装飾やっていたからカーテンなどちゃんとデザインしましたよ」
代田邪宗門の奥さん貴久枝さんがなんでもないというふうにそう言う。
古くから新しいものがある。ローラースケート場は昭和十年の話である。パターゴルフ場は井の頭線が開通する前だから昭和六、七年のことであろう。
下北沢は文化先端地域でお洒落であった。が、一方でドブ臭い。下北沢エクザスのメンマ工場はにおいがきつかったようだ。鼻がひんまがるほどだったと言う人もいる。肥だめはもっと強烈だ。ザワ文化の源流はお洒落でくさい。ゴルフと肥だめである。
「パターゴルフ場があるとはいってもね、田舎でしたよ。帝都線の北側は山でしたものね」と一雄さん。
「そういえば、兄貴は、肥だめに落ちたことがあったな。帝都線下北沢駅の肥だめですよ。くそだらけになっちゃったんですよ」
春男さんは兄の顔を見ながら笑っている。
「おれはおぼえてないな」と一雄さんが返した。
「そういえば、兄貴は、肥だめに落ちたことがあったな。帝都線下北沢駅の肥だめですよ。くそだらけになっちゃったんですよ」
春男さんは兄の顔を見ながら笑っている。
「おれはおぼえてないな」と一雄さんが返した。
「いや落ちましたよ、わたしはよく覚えていますね。終戦直後の冬のことでした。兄貴はコート着ておりましたから。その頃は帝都線は二両でした。だからホームも短いのですよ。いまのような西口なんかありはしませんよ。ちゃんと改札にいくには東側の階段を下りて、小田急線の方ぐるっとまわっていまの北口の方にでるわけですよ。だけどそんな遠回りなんかしてはいられませんよね。だから柵もなにもないホームから下りて、そして下り線を渡って細い路地を通って帰りましたね。そのほうがよほど近い。で、兄貴はホームの端の下にある肥だめに落ちちゃったんですね。ためといってもそれは乗客のトイレでしたね。ふきさらしですよ。フタはありましたけど、冬でしたからありません。で、表面が氷るかなにかして固くなるでしょう。それで兄貴は肥だめの黒いところに足かけたんですね。固いとおもったらやわらかくてずぼってからだごと肥だめにおっこちたんですよ。頭から下までずぼですよ。なんだか帰ってきたときにはこめかみのあたりに黄色いものついていたんでよく覚えていますね。」
肥だめに落ちたときの話はなぜか思わず笑みがこぼれてしまう。かつての電車の駅のトイレ事情が見えてくる。ホームの端だから男はいいが、女などは困ったろうと思う。
「いまの西口の南側は鉄工所がありましたね。旋盤工場ですよ。旋盤の機械があって、ほら、あのねじくれたぜんまいみたいな金属のけずり屑がいっぱいありましたね。あぶらくさいし、なんだか金属が焼けるようなにおいしていましたね。」
佐山一雄さんはそう言う。戦後のことか、戦中のことか忘れたが、春男さんがけっこう鮮明に覚えているので戦後のことだろう。
佐山一雄さんはそう言う。戦後のことか、戦中のことか忘れたが、春男さんがけっこう鮮明に覚えているので戦後のことだろう。
ゴルフ場の芝が匂ったり、最新電車の警笛が鳴ったり、肥だめがにおったり、旋盤工場の油が鼻にとまったり、男優のオーデコロンも匂う、ドブ臭くてお洒落である。そこにカルチャーの源流がかいま見えてくる。
2005年07月26日
下北沢Ｘ物語（３１２）〜代田連絡線物語（下）〜
武蔵野の谷には無数の物語が眠っている。まず、そこに言葉を当ててみる。すると理解しようとする思いが現地探査を命じる。それでフィールドワークをする。すると思いがけず深い谷を発見する。代田の谷の凹みである。その谷には枕木を橋脚とした鉄橋が工兵隊によって架けられていた。「戦場に架ける橋」で有名な鉄道連隊によってそれが架けられていた。
代田連絡線は北沢川支流文学物語の一片であることも知った。
北沢川支流、森厳寺川の北沢タウンホールのすぐ近くに紀行作家、宮脇俊三は住んでいた。後に松原の丘に移るが、そこにも北沢川に通じるドブがあった。ドブ臭くなるほどの深い関係だ。なんのこともない。彼が監修した「廃線跡を歩く」（�后砲法崑綸掴⇒軅�」のことが詳しく載っていた。自分の本棚に、その本があんたなんか知りませんよという顔をして隠れていた。無理矢理引っ張り出してみると、津田沼の陸軍鉄道連隊の工兵によって敷設されたとある。「大東急」代田連絡線〜戦災破壊の井の頭線を一夜にして救った「戦場にかける橋」〜と題された文にはこうある。
北沢川支流、森厳寺川の北沢タウンホールのすぐ近くに紀行作家、宮脇俊三は住んでいた。後に松原の丘に移るが、そこにも北沢川に通じるドブがあった。ドブ臭くなるほどの深い関係だ。なんのこともない。彼が監修した「廃線跡を歩く」（�后砲法崑綸掴⇒軅�」のことが詳しく載っていた。自分の本棚に、その本があんたなんか知りませんよという顔をして隠れていた。無理矢理引っ張り出してみると、津田沼の陸軍鉄道連隊の工兵によって敷設されたとある。「大東急」代田連絡線〜戦災破壊の井の頭線を一夜にして救った「戦場にかける橋」〜と題された文にはこうある。
昭和２０年（１９４５）６月初旬から、東急全線各所（東横線東白楽〜高島町間他）の復旧に派遣されていた津田沼の鉄道連隊工兵によって超スピード工事が実施され、６月２０日頃には、架空線を残して完成をみている。
全線６４４ｍの連絡線は、寄せ集めの３０ｋｇ古レールで、一ヵ所あったガーター橋は鉄連式の枕木井桁架設の橋台であった。 「鉄道廃線跡を歩く」Ｖ 宮脇俊三編著
全線６４４ｍの連絡線は、寄せ集めの３０ｋｇ古レールで、一ヵ所あったガーター橋は鉄連式の枕木井桁架設の橋台であった。 「鉄道廃線跡を歩く」Ｖ 宮脇俊三編著
ＪＴＢキャンブックス １９９８年刊
井の頭線沿線が空襲を受けたのは５月２５日である。「永福町にあった工場、車庫が直撃を受け、保有車両３１両のうち２４両が全焼、残り７両はかろうじて被害を免れたものの、そのうち５両は他車両と組成ができず、２両のみが当面の輸送に当たった。」（「京王電鉄五十年史」）ここで言う２両というのは渋谷駅そばの神泉トンネルに避難して難を逃れた車両である。
その２両だけの運転で乗客はさばききれない。そこで永福町にある半壊車両まで動かすことにした。それはとりあえず動く車両。屋根も椅子もない被災電車である。「どこにつかまったらいいのかと考えちゃいましたよ。」とその電車に乗ったことがあるという伊藤文学さんは言っていた。その話を聞いて、かつて「読売新聞」に載った広島の被爆電車を思い出した。側面窓のない電車である。（写真）それが１９４５年５月末から６月初旬の短期間に応急的に帝都線に走っていたものと推定される。が、帝都線は、帝都の知を運んでいた。戦争を指揮する側の高級将校や官僚たちが沿線に多く居住していた路線である。
「帝都線は電車がやられて車両が足りない。即座に車両を送り込め、何だって？運びこむ線路がないだと、だったら作ればいいんだよ。帝都線の足が確保できなければ、帝都は守れない。至急に作れ。津田沼の鉄道連隊を差し向ければいいんだよ。やつら線路敷設ははおてのものだよ」
このようなやりとりがあったかどうかわからない。けれども帝都線の復旧は帝都の急務だった。鉄道連隊がすぐさま派遣された。調査するとＶ字谷が一ヵ所あった。が、彼らはそれをものともせずに「戦場に架ける橋」の技法を用いて難なく架けた。が、これはじつはダイダラボッチ川にそそぐ小さなドブ川である。
「ええっとね、この先、家の敷地を抜けて、その先に行く道の低くなっているところ、谷がありましたね。そこに鉄橋がかかっていましたよ。」
代田五丁目の春宮さんもそう言っていた。
代田五丁目の春宮さんもそう言っていた。
付近は、なだらかな丘の連なった地形で、世田谷代田に向かって連続上り勾配になっていた。すでに住宅化は進んではいたが、畑も点在していた。収用に当たっては時局柄、有無を言わせるものではなく、一部家屋の撤去もあった。両端駅の近辺は、空襲による延焼防止対策として、すでに５０ｍ幅で建物疎開（有償による強制取り壊し）が実施されていて、用地確保は容易であった。まさに、一夜にして敷設された連絡線であったと言えよう。
鉄道廃線跡を歩くＶ 宮脇俊三編著 ＪＴＢキャンブックス
鉄道廃線跡を歩くＶ 宮脇俊三編著 ＪＴＢキャンブックス
１９９８年刊
小田急線、帝都線ともに沿線は建物疎開がなされていた。が、５０ｍではない。３０ｍである。正確に言うと、線路の両端の１４ｍ、計２８ｍであった。
続きを読む2005年07月25日
下北沢Ｘ物語（３１１）〜言葉街道浪漫紀行３〜
円乗院裏手の代田教会を出た。そして北沢川北面の坂を上る。一帯は歴史ある土地だ。
円乗院には弥生時代の遺跡「円乗院遺跡」（「世田谷城下史話」）がある。古くから人が住んでいた。弥生人にとって北沢川の水は欠かせないものであったろう。この水は円乗院も関係する。
円乗院には弥生時代の遺跡「円乗院遺跡」（「世田谷城下史話」）がある。古くから人が住んでいた。弥生人にとって北沢川の水は欠かせないものであったろう。この水は円乗院も関係する。
北沢川は、現在の京王線上北沢付近に水源を持つ細流です。
今からおよそ四百年前、世田谷城は無念にも豊臣・徳川の連合軍により落城の憂き目をみました。主人を失った家臣達は、生活の道を農業に求めたのです。その開拓者の一団が「代田七人衆」といわれたひとびとです。
細流に命を託し、刀を持つ手に鍬を握った開拓の苦労が想像されます。それからおよそ六十年後、水に生き水を求めた農民に、朗報がもたらされました。それは玉川上水からの分水が幕府から許可されたからです。倍以上に増えた水は、田の面積を広め数倍の米の取れ高を約束しました。
この豊かになった農民の手によって建てられたのが「円乗院」です。
世田谷城史話 人見輝久 平成十二年刊 （株）プロセス
今からおよそ四百年前、世田谷城は無念にも豊臣・徳川の連合軍により落城の憂き目をみました。主人を失った家臣達は、生活の道を農業に求めたのです。その開拓者の一団が「代田七人衆」といわれたひとびとです。
細流に命を託し、刀を持つ手に鍬を握った開拓の苦労が想像されます。それからおよそ六十年後、水に生き水を求めた農民に、朗報がもたらされました。それは玉川上水からの分水が幕府から許可されたからです。倍以上に増えた水は、田の面積を広め数倍の米の取れ高を約束しました。
この豊かになった農民の手によって建てられたのが「円乗院」です。
世田谷城史話 人見輝久 平成十二年刊 （株）プロセス
本文には細流とあるが、この流れが谷を削り取る力は驚くべきものだ。それぞれの谷に文化を宿らせるほどのものであるからだ。
川によって削られた代田南面の坂を上る。環七と分かれて駅方向に向かう道がある。世田谷代田商店街である。坂の途中に目についた店があった。和菓子屋だ、それは土地の風合いをよく反映する。
北沢五丁目、北五は町自体が庶民的な町である。そんな町にある和菓子「亀泉堂」は通行人に直接的に味を訴えてくる。通りかかりに眺めたショウウインドウの栗饅頭の表面、そのテカリが客を惹きつける。
川によって削られた代田南面の坂を上る。環七と分かれて駅方向に向かう道がある。世田谷代田商店街である。坂の途中に目についた店があった。和菓子屋だ、それは土地の風合いをよく反映する。
北沢五丁目、北五は町自体が庶民的な町である。そんな町にある和菓子「亀泉堂」は通行人に直接的に味を訴えてくる。通りかかりに眺めたショウウインドウの栗饅頭の表面、そのテカリが客を惹きつける。
港区高輪の丘にある「虎屋」は店構えがどっしりしている。時折、自転車で通りかかったときなどに「最中」を買う。すぐ近くには高松宮邸がある。皇族御用達という風格がある。暖簾がその存在感を言い表している。いつも同じ主人が出てくるが話しかけたことはない。ベンツではなく自転車で虎屋に乗り付ける男に主人はうさんくささを感じているののかもしれない。品は値段が高い。けれどもぱりっとした最中皮に舌でとろけるあんこは手間隙かけた手作りだと感じる。
代田「香風本舗」は初めて入った。「代田教会」の上である。土地の風合いが店構えに出ていた。ショウウインドウは直接のぞけない。玄関の青い笹の葉がまず人を惹きつける。代田の丘の間接ワザである。二階の格子窓のニスのはげ具合も味をほのめかしている。
白い前掛けをつけたご主人は品物を点検している男を見て、決まったら声かけてくださいと言って奥に引っ込んでしまった。練り物は小ぶりだが形と色がうまみを現している。最初の手合わせだ、上生菓子はつぎにまわすことにする。最中とそば饅頭と水羊羹にした。
菓子は小ぶりだが丁寧に造られてある。味が舌に転ぶ、あんこ、皮、寒天、それぞれが生かされた味である。
「世田谷団十郎」とあだ名されたのは山岡荘八である。芸達者な彼をここの和菓子が惹きつけた。彼は、梅ヶ丘三丁目の自宅から散歩がてらやってきてここでお菓子を買った。それをおやつに食べてお茶を呑んだ。そんなときに、フレーズが湧いてくる。「光圀は渋茶をすすった。そして、饅頭を口にしたとたん陰謀の臭いをかぎつけた。」などと書いたかもしれない。「水戸黄門」は彼のベストセラーである。その小説のとある行間に「香風」の練り物の味が生きているのかもしれない。
代田和菓子物語はつぎの機会に聞くことにして、主人に代田連絡線のことを聞いた。彼は詳しく覚えていて、持参の地図に路線を書いてくれた。ダイダラボッチから流れてくる川沿いに敷設されたものだろうと推測していた。けれどもそれは違っていた。自分のイメージと違う円弧をそれに描いて見せた。（写真は世田谷代田駅裏手に今も残る代田連絡線の跡）
2005年07月24日
下北沢Ｘ物語（３１０）〜言葉街道浪漫紀行２〜
ブログは時間文学だ。時間をどう調理し、さばくかである。けれども今の一瞬に物語はない。過去から引きつづいた今という時の断層に新鮮な物語がある。今という時間に映った過去が自分をときめかせる。
代田「齋田記念館」の前の坂を環七に沿って下った。信号がある。かつての臨時滑走路を梅ヶ丘通が斜めにクロスしている。そこの横断歩道で環七を渡る。そして、今度は道路対岸の歩道をゆく。すると北沢川を渡る宮前橋に行き当たる。そこからまた坂だ。右手上ったところに教会があった。「代田教会」だ。門が閉まっている。立ち止まって見ていたら中年の女の人が出てきた。これも不思議な機縁である。
「この教会はけっこう、古いですよ。昭和の初め頃からありますよ。東隣は円乗院、西隣、環七の向こうは代田八幡様ですね。」
彼女は門を開けて教会を案内してくれた。奥へ入ると、円乗院の裏手の墓と卒塔婆の林立が見下ろせる。代田七人衆の菩提寺だ。江戸末期の女流歌人齋田小枝子もここに眠っている。仏と十字架と神様の混交は不思議である。神道、キリスト教、仏教、神が吹きだまっている地である。
「代田教会」のホームページにはつぎのようにあった。「日本キリスト教団代田教会は、伝統的なキリスト教プロテスタント教会で、長老派の流れを汲んでおります。」と。また、歴史についてはこうある。
現在の代田教会は、1938年2月20日に日本基督教会世田谷伝道教会（1931年に三原一生牧師が現在の世田谷代田の地に伝道を開始）と日本基督教会明智伝道所（1931年に小川治郎牧師が渋谷区明智に伝道を開始）とが合併して、現在地に設立されました。
現在の地での伝道の開始は中原教会よりも古い。１９３１年（昭和六年）からだという。
「このお墓ね、もう見なれてしまいましたね。この教会の敷地の一部がこの円乗院の土地で借地料を払っていますよ」
階段を上っていくと広場があった。附属幼稚園の運動場だ。
階段を上っていくと広場があった。附属幼稚園の運動場だ。
「萩原葉子さんね、亡くなられましたね。お孫さんがこの幼稚園に通っておられますよ。息子の朔美さん、看病するために梅ヶ丘のお母さんのところに帰って来られて、それでお子さんをここに通わせておられるのですよ」
その言葉を聞いて後ろを振り返った。円乗院の墓石群がいっそうよく見える。この墓地の裏手を萩原葉子は父を捜して通った。文字の糸をたどると人間の運命の赤い糸が見えてくる。
その言葉を聞いて後ろを振り返った。円乗院の墓石群がいっそうよく見える。この墓地の裏手を萩原葉子は父を捜して通った。文字の糸をたどると人間の運命の赤い糸が見えてくる。
夜、「梟のような鳥の声」を聞いて萩原葉子は父の身に何かあったのではと思った。それで、こっそりと家を出てこの墓地の裏手を通っていって、父を捜した。「父・萩原朔太郎」の一節はこう続く。
冷たい星空に寒い北風が強く、闇に私の吐く息が、白い霧になっては、すぐに消えていった。
大きな家ばかりが不気味に続いて、すっかり寝静まった代田の夜道に私の足音だけが、異様に高く響いた。
黒々とした家の続きから、つと、左に曲り、墓地の横の細いじめじめとした道を、恐しさに息もつかずに通り抜け、見上げるほど高い石垣の続く道に出た。 萩原葉子 「父・萩原朔太郎」 昭和三十四年 筑摩書房刊
大きな家ばかりが不気味に続いて、すっかり寝静まった代田の夜道に私の足音だけが、異様に高く響いた。
黒々とした家の続きから、つと、左に曲り、墓地の横の細いじめじめとした道を、恐しさに息もつかずに通り抜け、見上げるほど高い石垣の続く道に出た。 萩原葉子 「父・萩原朔太郎」 昭和三十四年 筑摩書房刊
墓地はこの円乗院のものである。かつての萩原邸はすぐ近くだ。不安な思いで父を捜し回った地のすぐそばに幼稚園があって、そこに今は彼女の孫が通ってきている。ここに来て教会の人に会わなければそんなことは分からなかった。神の縁が小さな事実を発見させたのだろうか。
ここまできて、ふと、思いついて、朔太郎の詩集を繰ってみた。代田時代に書いた「宿命」という詩の中に「父と子供」というものがある。知恵遅れだった次女のことを記している。「子供は日曜学校へ行き、賛美歌を覚えてよく歌つてゐた」とある。「宿命」の発刊が昭和十四年である。教会と家の距離は五分くらいのものだ。あるいは次女もこの「代田教会」に通っていたのかもしれない。とすれば葉子も同じであろう。不思議な因縁が自分を導いているような気がする。
「日曜礼拝にいらっしゃればいいですよ。ここらあたりの古い方が通ってこられますからね。」
案内の彼女が別れ際にそう言った。信者がいるから教会も建つ。鉄道交点の周囲には七つも八つも教会がある。それほどに信者が多い。武蔵野の丘の襞にはクリスが密かに眠っている。日曜日ごとに信者は教会に通って賛美歌を歌い、牧師の説教に耳を傾ける。
2005年07月23日
下北沢Ｘ物語（３０９）〜言葉街道浪漫紀行１〜
ブログの順序性は当てにならない。時間系列でいうと後に聞いた言葉が新鮮に響くからである。思いはあちこちと浮遊する。代田連絡線の歴史をひもといていくうちに、自然と足がうずいてくる。するともう自分の意志よりも先に足がペダルをこぎ始める。
小さな自転車旅行だ。が、短距離であっても旅だ。三木清の「人生論ノート」の一節が思い起こされる。
短い距離であっても、一日彼が旅に出るとなると、彼はその遠さを味わうのである。旅の心ははるかであり、このはるけさが旅を旅にするのである。
たかだか十数キロの自転車紀行だった。けれども振り返ってみると、はるけさが思われる。言葉を拾う旅だった。
環状七号線を若林方から北に向かう。かなりの勾配だ。淡島通りを越え、そして滝坂道を横切る。そのあたりは丘の頂上だ。下り始めると強い風が吹いて帽子が飛ばされた。もうこれで四度目だ。下北沢一番街の「かどや」の女主人が言うとおりだ。丘の上では風が舞う。武蔵野の丘の特徴だ。その風を避けるように、やや下ったところに齋田家はある。（写真は門）記念館は門前にある。だいぶ前に帽子を飛ばされてこの記念館の所在を知った。そこに立ち寄ってみる。
「近代数寄者の茶湯〜大正期名器鑑を中心に〜」というものを開催していた。
齋田家と茶と代田、興味深い地域文化である。
「齋田記念館」でもらったパンフレットには「わが国の茶文化の振興に寄与することを願い、平成六年、財団法人齋田茶文化振興財団が設立された。」とある。代田七人衆の一家系、大齋田家は明治年間に入って茶の本格的に生産に取り組み、「齋田茶は、各種の万国博覧会や内国勧業博覧会で入賞するなど、品質には定評があり、輸出も盛んに行った」という。齋田家はいまの代田二丁目一帯を開墾し、その作付け面積は「三町五反三畝四歩」に上ったという。現在の二丁目の丘をほとんど占めるほどのものである。
「齋田記念館」でもらったパンフレットには「わが国の茶文化の振興に寄与することを願い、平成六年、財団法人齋田茶文化振興財団が設立された。」とある。代田七人衆の一家系、大齋田家は明治年間に入って茶の本格的に生産に取り組み、「齋田茶は、各種の万国博覧会や内国勧業博覧会で入賞するなど、品質には定評があり、輸出も盛んに行った」という。齋田家はいまの代田二丁目一帯を開墾し、その作付け面積は「三町五反三畝四歩」に上ったという。現在の二丁目の丘をほとんど占めるほどのものである。
その隆盛期は明治二十年頃である。明治年間の終わりにはもう菜園などに変わっていた。その茶畑は昭和二年になって小田急が開通して住宅地として供給されるようになる。アメリカに輸出するほどの高級茶を生産していた土地は、お屋敷、高級住宅地となった。かつての茶畑からは歌が、小説が、詩が生まれた。文人、詩人などが住んだ。渋みの効いた味、丘を吹き抜ける風は土地の文化のひそかな味わいだ。駒沢６１号鉄塔のすぐそばには著名な作詞家が今も住んでいる。朔太郎旧邸はその下である。
「齋田記念館」の展示から日本近代の資本主義は数寄者を産み出したことを知った。工業生産による利潤を得た財界人は「モノ数寄を不可避として、美術品や道具の蒐集から茶湯を始めた」と館内の説明にはあった。
数寄者とは好事家のことだ。風流人である。主には茶道をさす。この道は金がかかる。が、古代の数寄者は物好きのことであった。鴨長明「無名抄」に出てくる登蓮法師はその代表である。雑談中に「ますほの薄」のいわれを知っている老人がいると聞いて、すぐに雨の降る中、蓑笠をつけて出かける。他の連中が雨の中いくこともないだろうと言うと、「命は、我も人も、雨の晴れ間などを待つものかは」と言ってでかける。彼は「いみじかりける数寄者」である。いわば自分も、古代の数寄者だ、登蓮は徒歩で行った。自分は自転車で「代田線連絡線」のいわれを聞きに行く。武蔵野の過去物語を夢見ているのかもしれない。
記念館見学者は一人だ。代田の茶畑の地図があった。空間認識は空想を刺激する。茶畑が一面に広がっている。右下に蛇行した川がある。北沢川だ。霧が湧いている。この霧が齋田茶を育んだのだなと思う。が、たちまちに夢は覚める。
「代田の地と近代の数寄者の関係は直接的にはありませんね。製茶製造の関係から資料が残っていたということでしょうか」と、記念館の人は答えてくれた。当方のブログは知っているとのこと。帰り際、招待券を三枚くれた。記念館の門を出ると六車線の環七である。この道にいわれがあった。
後でわかったことだが、代田五丁目の春宮さんはこう言っていた。
「環状七号線道路は東京オリンピックを前にしてできたんだけど、大齋田家の前あたりはずっと前、戦争中のときからもともと広く道路を造ってあったよ。宮前橋あたりから坂になっているでしょう。戦闘機が緊急的に着陸できるようにということでそうなったと聞いているよ。臨時的な飛行場だね。実際に使われたところはみたことはないけどね‥‥」
環状七号はかつての街道堀之内道を広げて作った。けれどもそこだけはだいぶ前から道が広かった。近くの調布には近衛飛行隊もあった。陸軍の戦闘機「飛燕」が飛び立ったとたんエンジン故障を起こした。それで緊急着陸したなどという話がひょいと出てくるかもしれない。
「環状七号線道路は東京オリンピックを前にしてできたんだけど、大齋田家の前あたりはずっと前、戦争中のときからもともと広く道路を造ってあったよ。宮前橋あたりから坂になっているでしょう。戦闘機が緊急的に着陸できるようにということでそうなったと聞いているよ。臨時的な飛行場だね。実際に使われたところはみたことはないけどね‥‥」
環状七号はかつての街道堀之内道を広げて作った。けれどもそこだけはだいぶ前から道が広かった。近くの調布には近衛飛行隊もあった。陸軍の戦闘機「飛燕」が飛び立ったとたんエンジン故障を起こした。それで緊急着陸したなどという話がひょいと出てくるかもしれない。
2005年07月22日
下北沢Ｘ物語（３０８）〜代田連絡線物語（中）〜
代田連絡線の旅は「香風」（写真）から始まった。世田谷代田駅前の和菓子屋である。たまたま通りかかって店の佇まいに味を感じた。昭和四年創業というお店は代田の土地の味わいを水羊羹に載せていた。すっきりした歯触り、甘味が舌をなでていく感覚があった。聞くともなく聞いていると山岡荘八、小関裕而なども通って来たという。
品のいいご主人は跡継がいないのであと四年ぐらいで閉店するという。歴史をぜひ聞きたいと思った。その「香風」の主人が持参の地図に連絡線の跡を記してくれた。再会を約して代田連絡線へと向かった。
今日、代田連絡線の跡をたどった。なにも残ってはいない。けれども人の言葉は歴史の断面を鮮やかに切り取って見せてくれる。
「代田連絡線かい、線路ね、うちの敷地のまん中通っていたよ。だからいまでも土掘ると線路に使っていた砂利ごろごろ出てくるよ。でね、だからこの土地は京王帝都から買ったんだ。確か権利書にそう書いてあったな」
今日、代田五丁目の春宮さん（６８歳）に行き会った。「ここんところをね、電車が単行でことんことんて通って行ったよ」、敷地を指さしながら言った。
代田連絡線の歴史について、「京王帝都」も「小田急」も社史で触れている。京王帝都は事務的に述べている。が、小田急のそれには思いがこもっている。横取りされた帝都線への執着である。
このような相次ぐ空襲で、東京急行電鉄全体で六二両の車両が焼失した。そこで余裕のある路線から被害の大きい路線へ車両を転用して輸送の復旧に努めた。また車両不足に悩む他社線へも戦中から戦後にかけて合計十八両を譲渡した。
新宿管理部では小田原・江ノ島線から延べ１０両を井ノ頭線に転用した。しかし新宿管理部としても、直接空襲による車両の被害はほとんどなかったとはいえ、在籍八七両中、可動車両は五○そこそこしかかなかったのであるから、この応援提供は非常に過酷なことで、満足なダイヤを組むべくもなかった。
「小田急五十年史」 昭和五十五年 発行小田急電鉄株式会社
新宿管理部では小田原・江ノ島線から延べ１０両を井ノ頭線に転用した。しかし新宿管理部としても、直接空襲による車両の被害はほとんどなかったとはいえ、在籍八七両中、可動車両は五○そこそこしかかなかったのであるから、この応援提供は非常に過酷なことで、満足なダイヤを組むべくもなかった。
「小田急五十年史」 昭和五十五年 発行小田急電鉄株式会社
旧小田急線は新宿管理部が統括していた。その小田急は郊外に車庫があったことから空襲の被害は小さかった。が、そのために虎の子である車両を他社線に譲渡せざるを得なかった。中でも井之頭線へ小田原・江ノ島線から１０両もの応援提供させられたことには身を削られる思いだった。社史にいう「過酷」には物語が詰まっている。
戦争中、東急、京急、小田急、京王が統合して東京急行電鉄、いわゆる「大東急」となった。が、戦争が終わって元の会社に戻ることになった。そのときになって、帝都線の所属を巡る問題が起こった。小田急所属であった帝都線は京王電鉄に取られてしまった。先の「過酷」、むごい仕打ちというのはその無念さの反映である。社史はこう続ける。
ここで付記しておきたいのは、分離三社の事業規模はほぼ合併前の姿に戻ったが、前に小田急電鉄の所属であった井ノ頭線（旧帝都電鉄線）だけは、第一会社（旧京王電気鉄道）の所属に編入されたことである。
東急電鉄の再編成計画は、交通系統の整備、独立採算性の確立、合併前の沿革の尊重の三点を基本原則として、検討された。沿革の点では井ノ頭線は第二会社（旧小田急電鉄）の所属になるべきであるが、第一会社は以前と異なり電燈電力事業を失っているから京王線のみでは採算がとれない。このため井ノ頭線を第一会社に編入して経営基盤の安定をはかったのである。
しかし、これには当然ながら新宿支社や井ノ頭線所属員の全体が反対した。経営的にもさることながら、いままで一つ釜の飯を食べてきた仲間が別の会社に別れなければならないのであるから、社員の心情としては忍びえないものがあった。五島慶太もこれには苦慮したが、再編成計画の事実上の作成者である大川博が最も苦心したのはこの点だった。
大川博は、第二会社には井ノ頭線の代わりに、当時東京急行電鉄の子会社であった箱根登山鉄道と神奈川中央乗り合い自動車（現神奈川中央交通）を移譲する案を作り、五島慶太の承認を得た。大川博はこの再編成案を作成するのに、三日間ほとんど一睡もしなかったという。 小田急五十年史 昭和五十五年 発行小田急電鉄株式会社
東急電鉄の再編成計画は、交通系統の整備、独立採算性の確立、合併前の沿革の尊重の三点を基本原則として、検討された。沿革の点では井ノ頭線は第二会社（旧小田急電鉄）の所属になるべきであるが、第一会社は以前と異なり電燈電力事業を失っているから京王線のみでは採算がとれない。このため井ノ頭線を第一会社に編入して経営基盤の安定をはかったのである。
しかし、これには当然ながら新宿支社や井ノ頭線所属員の全体が反対した。経営的にもさることながら、いままで一つ釜の飯を食べてきた仲間が別の会社に別れなければならないのであるから、社員の心情としては忍びえないものがあった。五島慶太もこれには苦慮したが、再編成計画の事実上の作成者である大川博が最も苦心したのはこの点だった。
大川博は、第二会社には井ノ頭線の代わりに、当時東京急行電鉄の子会社であった箱根登山鉄道と神奈川中央乗り合い自動車（現神奈川中央交通）を移譲する案を作り、五島慶太の承認を得た。大川博はこの再編成案を作成するのに、三日間ほとんど一睡もしなかったという。 小田急五十年史 昭和五十五年 発行小田急電鉄株式会社
昭和２３年の大東急分離劇においては井の頭線はキーラインであった。渋谷から吉祥寺へと抜ける短い線だがドル箱路線だった。京王は電力供給で利潤を上げていた。けれども電力の国家統制でたちまちに貧窮した。本線だけでは採算が取れない。大川博は、やむなく帝都線を小田急に戻さずに、京王帝都にくっつけてしまった。世田谷北部の枢要路線を取られた小田急のその悔しさが社史の文面に透けて見える。
続きを読む2005年07月21日
下北沢Ｘ物語（３０７）〜代田連絡線物語（上）〜
かつて小田急線と井の頭線を結ぶ線路が代田にあった。
「線路の上は遊び場でした。そこを電車が通るところは見たことはありませんね。回りは野っぱらでした。線路はすっかりさび付いていましたね。この先ぐっと回ってかつてあったプールの下を通っていました」
佐山五郎さんは代田連絡線のことを言っていた。それは戦争中の空襲と関係する。この一帯が空襲を受けたのは昭和２０年（1945）５月２５日のことだ。帝都線はＢ２９による爆撃を受け、それによって車両の多くを失った。
井の頭線も５月の空襲で壊滅的な被害を受けた。永福町にあった工場、車庫が直撃を受け、保有車両３１両のうち２４両が全焼、残り７両はかろうじて被害を免れたものの、そのうち５両は他車両と組成ができず、２両のみが当面の輸送に当たった。この時、渋谷駅も被災し手が付けられない状況であったという。渋谷にあった当時の本社も被災、戦前の貴重な資料が多数失われたことは、非常に残念なことであった。
「京王電鉄五十年史」 発行 京王電鉄株式会社 平成１０年１２月
「京王電鉄五十年史」 発行 京王電鉄株式会社 平成１０年１２月
屋根も椅子もない帝都線の電車が動いていてそれに乗った覚えがある。そう語ってくれたのは「薔薇族」編集主幹の伊藤文学さんだった。一応動きはするものの空襲の被害は大きかった。無蓋貨車のような電車がかろうじて動いてる状況だった。社史はつぎのように記述している。
井の頭線の輸送状況は悲惨の極みあった。井の頭線は他線と線路でつながっていないため、応援車両を送ろうにも手だてがなかった。そこで急遽、小田原線の世田谷中原（現世田谷代田）と井の頭線代田二丁目（現新代田）間に、戦災車両の復旧が行われた。さらに、昭和２１年から翌年にかけて東横線・湘南線（現京浜急行電鉄）用に新造された車両１２両を入線させ、損傷した車両の復旧に努めるなど井の頭線の車両体制を整えるとともに、応援にやってきた大部分は返却された。
下北沢Ｘ交点の左側に小田急と帝都線を結ぶカーブ、「）」が応急的に作られた。はじめは電力供給の架線もなく、「電車をロープで引いて搬入した」とある。小田急からの分岐線は代田カーブがそのまま半円を描いて帝都線につながった。２５パーミルで谷に下りてはそしてゆるゆると上る形だ。まずは、後部連結器に縛ったロープを多くの人数で引っ張って、そしてダイダラボッチの沿った谷に落とした。下り切ったところで、今度はロープを前の連結器に結び、それを引いて本線にひき揚げた。一両一両を人海戦術で帝都線に送り込んだと推測される。
戦争中、輸送力増強を名目にして、東急、京急、小田急、京王が統合して東京急行電鉄、いわゆる「大東急」となった。統合はしたもののそれぞれの線にはそれぞれの社風が根強く残っていた。この代田連絡線も小田急社史から見るとまた違ってみえる。
（写真は新代田を出る上り井の頭線電車。代田連絡線は左手のカーブあたりでつながっていた。運転席に「５」という番号が見える）
（写真は新代田を出る上り井の頭線電車。代田連絡線は左手のカーブあたりでつながっていた。運転席に「５」という番号が見える）
2005年07月20日
下北沢Ｘ物語（３０６）〜百貨店からフィットネスクラブへ（下）〜
倉庫に満ちていた油の臭いは紙の匂いへと変わった。書籍倉庫である。
「確か千倉書房といいました、そこの倉庫となりましたね。経済関係の本が多かったように思います。本はみなちゃんと箱の中に入っていましたね」と一雄さん。
「いやぁ、中をのぞいて見たことあるけどね、本がぎっしり詰まっていましたね。本を取り出してみても漢字ばかりだから、わけわからなかったな」、これは五郎さんだ。
「書店の社長が、デソートというアメリカ製の高級車に乗っていてそこに格納していましたね。運転手つきですよ。その運転手がいなくなると倉庫は無人になりますね。裏側から入り込んでその車、さんざんいじりまわしましたね。」
春雄さんはそう言う。外車は珍しかったに違いない。彼の外来文化に対する憧れはこの経験から始まったのかもしれない。
当時、運転手つきの外車を持っていたというのまれである。かなりのステータスである。車庫は丘の底にあるが、社長は丘の上に住んでいただろう。
「オデオン座には通いつめましたね。字幕に日本語が現れるのがもどかしいぐらいでしたね。」 春雄さんの思いの洋画館、下北沢オデオン座はトーアセントラルフィットネスクラブになった。と、こう書いて来て、思いついたことがある。二つあれば三つある。それは経験的な予感である。インターネット検索で調べると、やはりあった。ティップネス下北沢である。フィットネスクラブも吹き溜まる街だと知った。
分からないことがあればインターネットで検索する。千倉書店も調べた。が、ヒットしない。千倉書房はあった。そのホームページには昭和四年創業とある。出版ジャンルは「会計・商業・経営・経済・法律・他」とある。箱に入った堅実な経済書はどうやらこの千倉書房のものであったようだ。
「ええっとね、戦後のことでしたね、キテイ台風とかキャサリン台風とか大きな台風来ましたね。それで倉庫の裏の川があふれちゃったんですよ。千倉書房の倉庫にあった本が流されてしまったんですよ。そこの会社の人が下流の池尻あたりまでそれを拾いに行きましたね。」
前に来たときもこの話は佐川さんから聞いていた。水に浸かった本は商品としての価値はないだろうにと思っていた。が、ほとんどが箱入りだったと聞いて、納得できるものがあった。紙のない時代である。箱を取り去って中を出せばそれだけでも売れる。食欲も知識欲も旺盛な時代だった。
戦後は物資不足であった。幸いにして倉庫は焼けなかった。残っていた経済書は貴重だったのだろう。台風で流された本を拾いに行ったというのも物資不足を背景としている。人々は活字に飢えていた。三好達治はこの地点からさほど遠くない三軒茶屋の古本市場の活況を記録している。三茶は焼けた、が、焼け跡に古本屋が驚くほどあったと。
変転は続く、パルプから竹繊維に変わる。戦後の人々の知識欲を満たした倉庫は一定の役割を終えた。そして、こんどは食欲を満たすものに変わる。が、人々の胃袋を直接満たすものではなくトッピング食品というところが面白い。
「書籍倉庫のつぎは、メンマ工場です。支那竹工場ですね。」と一雄さん。
これは聞いたことがある。臭いが相当きつかったようだ。
麺に添えるものの需要が増えて当地に工場ができた。飢餓を脱した都会人はラーメンが食べられるようになった。メンマや鳴門やほうれん草の入ったラーメンである。都市の戦後世代は下北沢産のメンマを食っては微笑んだ。
麺に添えるものの需要が増えて当地に工場ができた。飢餓を脱した都会人はラーメンが食べられるようになった。メンマや鳴門やほうれん草の入ったラーメンである。都市の戦後世代は下北沢産のメンマを食っては微笑んだ。
下北沢鉄道交点近辺は昭和三十年代、食品工場があちこちにあった。モヤシ、あんこ、メンマ、ソースなどである。近隣の住宅化とともに工場は郊外へと移転していった。
時代は転変する、経済大国になって飽食の時代を迎える。交点附近の住民や下北沢を通りかかる乗客が、とある日、「おや、なんだか肉がついたな」と気づいた。脂肪のつきすぎである。「フィットネスクラブに行かなくては」と思い始める。
時代は転変する、経済大国になって飽食の時代を迎える。交点附近の住民や下北沢を通りかかる乗客が、とある日、「おや、なんだか肉がついたな」と気づいた。脂肪のつきすぎである。「フィットネスクラブに行かなくては」と思い始める。
需要に敏感な土地にはスポーツクラブが建った。エクザス下北沢である。
田んぼ、百貨店、ローラースケート場、軍用オート三輪車置き場、書籍倉庫、メンマ工場、フィットネスクラブ、近代という時代の移り変わりを建物が象徴している。
が、そういう歴史は忘れ去られている。今は、インストラクターの指示に従って代田５丁目の田島さんの若奥さんがエクササイズしながら言う。「今度入ったムキムキマンのステップはさすがね」、その彼女の額に湧いた汗が一筋流れて床に滴った。そこはローラケートに乗った佐山少年がバックスピンして、かっこよくそれを止めたところである。
2005年07月19日
下北沢Ｘ物語（３０５）〜百貨店からフィットネスクラブへ（中）〜
スポーツ総合クラブ、エクザス下北沢、そこにかつてローラースケート場があった。昭和十年から十三年頃であると言う。そのスケート場をスマートに滑る少年は人の目に留まった。運命もクロスするものである。その頃萩原朔太郎もスケート場のわきの道を度々通っていた。
私は医師の指定してくれた注意によって、毎日家から十四、五町（三十分から一時間位）の附近を散歩してゐた。その日もやはり何時も通りに、ふだんの散歩地域を歩いて居た。私の通る道筋は、いつも同じやうに決まって居た。（「猫町」日本詩人全集１４ 萩原朔太郎 新潮社）
小説「猫町」が発刊されたのは昭和十年の十一月である。朔太郎は昭和八年には代田に引っ越して来ていた。本文の「家」は代田の家だと仮定できる。下北沢へは約一キロ程度である。日課の散歩はコースがほぼ決まっていた。彼は商店や珈琲店や煙草屋のある町へ決まった経路をたどって散歩でやってきていた。彼が一時住んでいた下北沢である。
代田の朔太郎の家から下北沢へ行くには鎌倉通へ出るのが一番だ。道なりに行って丘の上で右に曲がれば駅へも一番街本通へも行ける。鉄塔下の家から下北沢へ行く途中にスケート場はある。「道を歩きながら瞑想に耽る癖があ」（猫町）った彼もふと立ち止まっては佐山少年を見て、「スポーツや律動行為は、それ自ら精神を解放して陽快にする」（「絶望の逃走」より）ものだと羨んだかもしれない。巧みにスケートを操る十一歳の佐山少年の笑顔が彼のアフォリズムを刺激して何かの言葉になったのかもしれない。過去探訪はそのように想像するのが楽しい。
「スケート場は三年ぐらいでなくなりましたね。そして、そこには倉庫が建ちました。で、運ばれてきたのはオート三輪車ですよ。色はみなカーキ色です、だから軍用ですね。そのオート三輪車の保管倉庫となったのですね。完成品がどっどっどっとやってきて、そして、しばらく保管されてからまた出て行く。マツダとかクロガネ製のものだったと思うのですよ。きっと戦地に送られたのでしょうね‥‥」
「世田谷の地名」には「ダイダラボッチを水源とする水田谷の西側と認識」したのが「中原」だとある。エクザス一帯は窪地である。ここにダイダラボッチを水源とする川が流れていた。おそらくそこが「水田谷」であったろう。その西が、中原である。その中原という地名をつけた百貨店は帝都線の開通後にできたものであろう。新線が昭和八年に渋谷から通じて鎌倉通の人通りが多くなった。そこで田圃を潰して「中原百貨店」を作った。けれども客足はそんなに伸びない。
「百貨店も、スケート場も短期間でしたね」と佐川一雄さん。水田、百貨店、そして、ローラースケート場となった。戦時色が濃くなって、遊ぶというのは冷たい目で見られるようになる。遊び場はつぶれて。国防色が押し寄せてきた。戦争の色はＸ交点にもひたひたと忍び寄ってきていた。軍用オート三輪置き場はその象徴であろう。
続きを読む2005年07月18日
下北沢Ｘ物語（３０４）〜百貨店からフィットネスクラブへ（上）〜
土地の建物の移り変わりは土地の歴史を物語る。総合スポーツ施設、エクザス下北沢のある地は時代とともに転変してきた。それは地域の歴史だけではなく、近代史の側面をも現しているようにも思える。
下北沢２号踏切わきの佐山さんからはたびたび話をうかがっていた。今度訪ねていったら三人の兄弟がおられた。法事だったという。邪魔だと思って帰ろうとしたら上がっていけという。その言葉に甘えて座敷に上がった。３時間にも及ぶ聞き書きだ。その話は聞いていて飽きることがなかった。三人の男によって下北沢の過去が丸裸になっていくように思えるほどスリリングだった。
佐山一雄さん（８０歳）、佐山春男さん（７１歳）、佐山五郎さん（６５歳）の兄弟である。口々に出てくる話は一つ一つが歴史を物語るものである。話が前後しないようにテーマ別としたい。まずは佐山家の目の前にある建物の話から始める
佐山さん宅は北沢２丁目だ。道路隔てた南は小田急線が通っている。玄関は西にあって鎌倉通に面している。その前にエクザス下北沢という、総合スポーツクラブがある。ここは代田５丁目である。下北沢２号踏切と３号踏切の北側にあって電車からもよく見える。車窓からは見下ろすことになる。その建物が北沢の丘と代田の丘のはざまにあるからだ。
谷と谷の間には川がある。それは守山小学校を水源とするどぶ川である。何度も出てきたダイダラボッチ川（仮称）である。線路は谷を築堤で渡っている。川は暗渠になっていていまはもうない。下北沢エクザスはその川によって抉られた低いところにある。
「一番、最初、そこには中原百貨店というものがありましたね。昭和一桁の頃ですね。藤沢という米屋さんがやっていて、中に入るといろんなお店がありましたね。中原というのは地名ですね。下北沢の隣の世田谷代田駅は、昔は世田谷中原と言いました。井の頭線の上を渡っている環七の橋は中原橋と言います。その環七を渡ったところの代田四丁目に中原教会がありますね、これも古いですよ」
佐山一雄さんが言われたことを調べてみた。「中原教会」はプロテスタントのキリスト教会で昭和七年創立であった。また、「中原」については「中央の原という意味」、「ダイダラボッチを水源とする水田谷の西側」と「世田谷の地名」にはあった。
「その中原百貨店も長くは続きませんでしたね。その建物は壊されてしまいました。するとそこはコンクリートを打ってあるんですね。米屋さんは遊ばせておくのはもったいないということなんでしょうかね。そこはローラースケート場になりました。靴の下に四つの車がついていて滑るやつですね。わたしのところは顔なじみなのでタダで入れてくれましたよ。もう面白くって毎日滑っていましたね。かなりうまくなりましてね、後ろ向きで滑れるようになりましたよ。こうなんというか、きゅっと止まるのが巧くてね、見ている連中もうらやましがっていましたよ。ええっと、それは昭和１０，２，３年ぐらいです。スケート場があったのも短かったですね。」
続きを読む2005年07月17日
下北沢Ｘ物語（３０３）〜代田カーブ物語（２）〜
地図上で見る下北沢X交点の左足のひねりが代田カーブである。それは小田急線路が北沢川本流を渡るための前準備であった。西南から西南西に進路を変えて代田の谷を駆け下りる。長いスロープを電車は車輪の響きを立てて下ってくる。下りきって北沢川の短い鉄橋をガァウと渡り、そして豪徳寺へのゆるやかな勾配を上る。
疾走する電車、軽快なジョイント音、夜には、連なった蜜柑色の光が鋭角の上辺を駈け抜けていく。子どもにとってはかっこいい場面だ。小田原急行電鉄が素晴らしい走りを見せる舞台であった。そんなかつての風景を誰か教えてくれないだろうかと、豪徳寺まで自転車で行った。途中、広い敷地に欅が何本も植わっている家があった。旧家である。表札には大場とあった。吉良氏から続く家系である。城続きの誉れある台地の北辺を電車は走っていた。それは確認できたが昔の話は聞けなかった。
豪徳寺からは小田急線の北側を北沢川沿いに戻った。すぐに梅ヶ丘病院に行き会った。齋藤茂吉の長男茂太が「私はひまさえあれば電車の疾走するさまを眺め、車輪のひびきを楽しんだ」と言ったのはここからの景色である。つまり、この病院は、齋藤茂吉が院長をしていた青山脳病院、北杜夫の「楡家」でもあった。そこに立ち寄った。四階建ての上から小田急線が見えるかどうか知りたかった。
「ああ、昔はね、この前に建物がなかったからよく見えたけどね、いまはこの前にビルが建って、そして、小田急も高架化したでしょう。昔のようには見えませんね」
帽子のつばに手を当てて一つ聞いていいですかと受付の警備員にやってみたが効き目はさっぱりだった。むしろうさんくさい目で見られた。医療事故の調査に来た男とでも思ったのだろうか。
代田の坂を下ってくる電車、それを写真に撮りたい。それで、かつては根津山と言っていた高台に登ってみた。羽根木公園である。が、樹や建物が邪魔していて撮れない。結局は坂を登り切ったところにある世田谷代田２号踏切から下り勾配を撮るしかなかった。その踏切は駅のそばにある。世田谷代田駅、かつての世田谷中原である。萩原朔太郎が新宿のカフェや明治大学に時間講師として教えに行くときここから乗った。彼の母と妹もいそいそと連れ立ってここを通った。
萩原葉子「蕁麻の家」にはこうある。「麗子がいた頃、判で押したように母娘二人が連れ立って歩くのを、駅員にまで『往復葉書の定期便』と噂された程だ」（講談社文芸文庫 一九九七年刊）駅員というのは世田谷中原駅のそれである。麗子とはアイのことである。三好達治が恋い焦がれた朔太郎の妹だ。駅前に佇んでいると、しびんを手にした髭の男がやってくる。東京裁判を傍聴に行く齋藤茂吉である。代田時代、茂吉もこの駅を使った。
妄想を捨てて代田二丁目の路地を東に向かった。そこを抜け出ると鎌倉通に出る。下北沢３号踏切を渡って、坂を下った。すると左手はスポーツジムの下北沢エクザスである。その向かいに佐山さんの家はある。法事で兄弟が集まっていた。
「昔は、ドアは手動だったでしょう。それでドア締めないと開いているんですね。それでね、なにげなく電車見ていたら、人がころんと落ちたんですよ。たちまち車輪に巻き込まれて血潮が飛びましたね。ちょうどここの家の前からカーブが始まるでしょう。振り落とされるんでしょうかね」
佐山春男さん（７１歳）が、そう話された。代田カーブ物語の序章である。
（写真は世田谷代田駅構内、下り各駅停車の電車）
（写真は世田谷代田駅構内、下り各駅停車の電車）
2005年07月16日
下北沢Ｘ物語（３０２）〜代田カーブ物語（１）〜
言葉が秘密をかぎ当てる。おおよそこんなことではないだろうかと、言葉で表現してみる。すると、世界の向こう側が少しずつ見えてくる。ペダルでのフィールドワークをするとわからなかったことがもっと具体的にわかってくる。今日は小田急線に沿って豪徳寺まで輪行した。
行きは小田急の南を通り、帰りは北を通って、下北沢２号踏切まで来た。そのすぐそばの佐山さんのお宅にお邪魔したら法事ということで兄弟が集まっておられた。邪魔だなと思って帰ろうとしたらぜひ上がっていけと勧められた。昭和６年に建った家はほとんどが昔のままだと言う。昭和が匂う家で、それぞれの口から思いがけないドラマが次々に語られた。カーブの秘密は佐山家にあると思えるほどの話を聞いてしまった。街の過去が三人の男によって裸にされるていくように思った。気づいてみるともう夕暮れである、三時間話を聞いても飽きることはなかった。それはいっぺんにはまとめきれない。少しずつ整理みたい。
代田カーブの物語である。下北沢を出た電車は２号踏切にさしかかって右にカーブする。６００Ｒの曲線である。しかも２５パーミルという上り勾配である。鉄道にとっては不都合なカーブと勾配である。小田急の最新型ロマンスカーもここではスピードを抑えてゆっくりと走る。下北沢３号踏切で特急エクセを眺めているとアエラを読んでいる眼鏡の男、女性セブンを読んでいる茶髪の女性が視認できる。
スピードを妨げる曲線と勾配を設定した、それには理由があるだろうと思った。カーブしないで直線で行くと代田の丘陵を上って、そして、北沢川の谷に転げ落ちる。おまけに代田七人衆の菩提寺である円乗院をつっきることになる。代田七人衆を避けるための曲線だったのだろうか？。
なぜだろうか、と思いを巡らしていくうちに、ふと、齋藤茂太の文章を思い出した。彼が書いた、父茂吉についての文章である。そこに小田急線建設時のエピソードが載っている。それにはこうある。
そのうちに、小田急ができ、沢山の人夫が、架線の鉄柱を立てている情景を私は覚えている。梅ヶ丘という駅ができたのはずっとあとのことで、世田谷代田の方からかなりの勾配で下って来て、また上り坂になって線路は豪徳寺駅の方へつづいていた。いまの梅ヶ丘の駅になっているあたりは、ちょうどその底部にあたっていて、電車の速度が最高に達するところであった。病院と線路の間には畑のほか何もなかったから、私はひまさえあれば電車の疾走するさまを眺め、車輪のひびきを楽しんだ。
「茂吉の体臭」 代田時代 昭和三十九年刊 岩波書店
そのうちに、小田急ができ、沢山の人夫が、架線の鉄柱を立てている情景を私は覚えている。梅ヶ丘という駅ができたのはずっとあとのことで、世田谷代田の方からかなりの勾配で下って来て、また上り坂になって線路は豪徳寺駅の方へつづいていた。いまの梅ヶ丘の駅になっているあたりは、ちょうどその底部にあたっていて、電車の速度が最高に達するところであった。病院と線路の間には畑のほか何もなかったから、私はひまさえあれば電車の疾走するさまを眺め、車輪のひびきを楽しんだ。
「茂吉の体臭」 代田時代 昭和三十九年刊 岩波書店
小田急線は昭和二年に完成する。その往事の記憶である。架線を巡らす柱は木柱が普通であった。が、小田急は鉄柱にした。新線への期待がそこにはこめられている。線路設計も当然丁寧だったと思われる。
代田から急勾配で下って、そしてまた勾配を上るとある。それを実地に今日は見聞してきた。谷の凹みが梅ヶ丘駅と齋藤茂太は言う。行ってみるとそれは北沢川だった。今は高架になっているが、かつては地形に沿って走っていた。代田の台地から豪徳寺の台地へどう渡るか、というよりも、北沢川をどう渡るかの問題だった。
下北沢から南西にカーブを設けないで直線で行くと北沢川にほぼ直角にぶつかる。が、現在のルートは川にそっと寄り添って、そしてさりげなく別れる。西南西へ向かう線路が、北東へ向かう川を抱き込むように交わっている。北沢川を軽くいなして越えている。線路設計者の見事な腕だ。その北沢川のいなし初めが佐山さん宅の前から始まる。ドラマの起点である。（写真は代田の丘を下る小田急ロマンスカー）
2005年07月15日
下北沢X物語（３０１）〜宇宙的視野から見たＸ交点〜
言語記号との類似が街を特徴づける。それはＸである。
下北沢を回遊しているときに、紙切れを覗きながら歩いている人に出会うことがある。すれ違ったとき、あるいは後ろから追い越したときにのぞき込むと、決まってそこにはＸが描かれている。それは下北沢の鉄道交点Ｘである。
Ｘは数学で、未知数や、変数・座標などを表す記号である。意味的にも未知の物事や未知数を言い表すものとしてよく使われる。言葉は現象を説明するために創られたものだ。現実の鉄道交点も未知数に満ちている。
Ｘという記号が記された暗号書か指令書を持っている。それを携えて誰もが街を徘徊しまわる。そんな風に考えれば楽しい。が、現実はそうではない。単なる地図である。インターネットの地図をアウトプットして、持ってくる。するとそこには当然のことながら鉄道交点が明確な線として印字されて出てくる。例えば、インターネット地図閲覧の「マピオン」の三千分の一の地図だとそのＸ点がくっきりと映って見える。
空から見た場合にはどう見えるのだろうか。気になるところである。昭和二十年五月末松原に飛来してきた特攻へ旅立つ飛行機は鉄道のＸ点と＋点を目印にやってきた。Ｘ点は小田急線と帝都線の交わる下北沢である。＋点は京王線と帝都線が交わる明大前駅である。ちょうどその中間を狙って行けば松原２丁目上空に達することができる。
線が交わっている地点は目印、ターゲットとなる。その場合、他者の目にターゲットとしてより魅力的なのは＋よりもＸである。宇宙戦争があって、未確認飛行物体が現れる。彼ら異性からの使者はどちらを目標地点にするだろうか。明大前をポイントにするのか、下北沢をポイントにするのか。
マピオンの地図を見ていると、＋記号よりもいびつなＸが魅力的に目に映る。Ｘ交点の左下の小田急線の６００ＲがそのＸにリアリティを与えている。サンバを踊るＸである。その部分には秘密がある。ちょうどそこには下北沢３号踏切がある。鎌倉通を渡る踏切だ。もう一つ下北沢寄りに下北沢２号踏切がある。そこの北隣に地蔵様が祀られている。踏切地蔵とも言う。なぜなら踏切で亡くなった人の霊を鎮めるためのものであるからだ。
が、地元の二人の人の話ではもともと３号踏切にそれを建てるはずだったが、十分な地所がないということで２号踏切に祀られたそうである。歪んだカーブには物語が潜んでいる。小田原急行電鉄の路線設計責任者はこのカーブ設定にかなり時間をかけたように思う。できればもっとカーブが緩いほうがいい。けれども地形からするとここで線路にサンバを踊らせて乗り切るほかないと判断して、地図に線を引いた。それが現実の人間に影響を与える。踊るサンバの足が宇宙視野的な魅力を与えている。じっさい衛星写真からみたＸ交点は言語表象に近似する魅力、そして、その形のいびつさが、よりリアティを与えている。
現在、小田急の地下化工事が行われている。それが完成すればＸは単なる斜線になる。井の頭線だけが延びているだけである。宇宙的な視野からの魅力は喪失してしまう。
2005年07月13日
下北沢Ｘ物語（３００）〜下北沢に現れたハーケンクロイツ〜
下北沢一番街の歴史の断面をくっきりと示す写真、それを見せられて息を呑んだ。
新しく就任したローマ法王はかつてはヒットラーユーゲントに所属していたということで話題になった。ヒットラーの青年組織、そのヒットラーユーゲントが来日していた。そして下北沢をその一部が正式訪問していた。昭和１６年のことだ。
下北沢、一番街の「大月商店」に立ち寄ったとき、その写真を見せられびっくりした。「下北沢一番街商店振興会」創立３０周年記念のパンフレットに載っている写真である。
歴史をひもといてみた。日独防共協定が１９３６(昭和１１)年１１月２５日締結された。それを受けて、日独が友好を深めようと相互に青少年を派遣した。日本から行ったのは「大日本青少年独逸派遣団」である。独逸からは「ヒットラーユーゲント」が昭和十三年に訪日した。背が高く彫の深いゲルマン民族の彼等は歓待を受けた。
北原白秋は、「万歳ヒツトラ・ユーゲント」という歌謡を作った。
燦たり、輝く
ハーケン クロイツ
ようこそ遥々。西なる盟友。
いざ今見えん、朝日に迎えて、
我等ぞ東亜の青年日本。
万歳、ヒットラ ユーゲント
万歳 ナチス
「北原白秋全集」３１巻 歌謡集３ 岩波書店刊 一九八七年刊
歌詞は四番までで、ここでは一番のみを記した。全集の解説には「初出未詳 昭和十三年七月十三日の作」とある。このとき白秋は世田谷成城に住んでいた。小田急線沿線である。新宿へ行った帰り、電車に揺られながら乗っていると夏の日射しが東北沢から下北沢へ下りる勾配で、きるりと輝いた。彼はすぐに「燦たり輝く」と手帳に書いたのかもしれない。彼の知人の萩原朔太郎は代田に住み、若い女性と再婚し熱々であった。
ナチズムの象徴である、ヒットラーユーゲントが下北沢を訪れたのは昭和十六年である。彼ら六名は平屋建て瓦屋根の下北沢駅舎の庇の下に横一列に並んだ。制服制帽にマントを羽織っていた。彼らのリーダーが号令をかける。するとマントの下から右手がすくっと伸びて、足元で軍靴が広場の砂利をざりりと鳴らした。そのとたん「ハィルヒットラー」という声が一斉に駅前広場の秋の空気を震わせた。六本の腕にかかって開かれたマントが微かに揺れる。
広場の片隅で見ていた石黒屋風呂店の丁稚がそれを真似して右手を上げた。にきび面の彼の腕は綿入れがほころんでいた。
「かっこいいのぅ。足も手も長いし、顔の彫が深い」
駅前タニヤ洋品店の店員が見とれている。
「すてきねぇ、かっこいいわぁ、ほんとに目が青いわね、色がまっしろで背丈もすっとのびているし、ああ、恋してみたいわぁ」
洋品店の縫い子が胸を押さえている。
やがて、彼ら一行は、北沢通商店街商業組合長に導かれて歩き出した。駅前広場の砂利ががっしがっしと小気味よく鳴る。ヒットラーユーゲント一行は、下北沢の商店街と店員道場へ視察にやってきていた。
新しく就任したローマ法王はかつてはヒットラーユーゲントに所属していたということで話題になった。ヒットラーの青年組織、そのヒットラーユーゲントが来日していた。そして下北沢をその一部が正式訪問していた。昭和１６年のことだ。
下北沢、一番街の「大月商店」に立ち寄ったとき、その写真を見せられびっくりした。「下北沢一番街商店振興会」創立３０周年記念のパンフレットに載っている写真である。
歴史をひもといてみた。日独防共協定が１９３６(昭和１１)年１１月２５日締結された。それを受けて、日独が友好を深めようと相互に青少年を派遣した。日本から行ったのは「大日本青少年独逸派遣団」である。独逸からは「ヒットラーユーゲント」が昭和十三年に訪日した。背が高く彫の深いゲルマン民族の彼等は歓待を受けた。
北原白秋は、「万歳ヒツトラ・ユーゲント」という歌謡を作った。
燦たり、輝く
ハーケン クロイツ
ようこそ遥々。西なる盟友。
いざ今見えん、朝日に迎えて、
我等ぞ東亜の青年日本。
万歳、ヒットラ ユーゲント
万歳 ナチス
「北原白秋全集」３１巻 歌謡集３ 岩波書店刊 一九八七年刊
歌詞は四番までで、ここでは一番のみを記した。全集の解説には「初出未詳 昭和十三年七月十三日の作」とある。このとき白秋は世田谷成城に住んでいた。小田急線沿線である。新宿へ行った帰り、電車に揺られながら乗っていると夏の日射しが東北沢から下北沢へ下りる勾配で、きるりと輝いた。彼はすぐに「燦たり輝く」と手帳に書いたのかもしれない。彼の知人の萩原朔太郎は代田に住み、若い女性と再婚し熱々であった。
ナチズムの象徴である、ヒットラーユーゲントが下北沢を訪れたのは昭和十六年である。彼ら六名は平屋建て瓦屋根の下北沢駅舎の庇の下に横一列に並んだ。制服制帽にマントを羽織っていた。彼らのリーダーが号令をかける。するとマントの下から右手がすくっと伸びて、足元で軍靴が広場の砂利をざりりと鳴らした。そのとたん「ハィルヒットラー」という声が一斉に駅前広場の秋の空気を震わせた。六本の腕にかかって開かれたマントが微かに揺れる。
広場の片隅で見ていた石黒屋風呂店の丁稚がそれを真似して右手を上げた。にきび面の彼の腕は綿入れがほころんでいた。
「かっこいいのぅ。足も手も長いし、顔の彫が深い」
駅前タニヤ洋品店の店員が見とれている。
「すてきねぇ、かっこいいわぁ、ほんとに目が青いわね、色がまっしろで背丈もすっとのびているし、ああ、恋してみたいわぁ」
洋品店の縫い子が胸を押さえている。
やがて、彼ら一行は、北沢通商店街商業組合長に導かれて歩き出した。駅前広場の砂利ががっしがっしと小気味よく鳴る。ヒットラーユーゲント一行は、下北沢の商店街と店員道場へ視察にやってきていた。
「木造二階建ての店員道場は、今の成徳学園の裏手にあったのね。下北沢の北沢商店街には女中とか丁稚とかそのころは大勢いたみたいね。その若い男女のしつけをしたのよね。そのための学校だわね」
下北沢一番街の大月商店の大月さんはそう教えてくれた。そんな話をしているときに下北沢一番街商店振興会の会長が通りかかった。用向きがあるということで詳しくは伺えなかったが道場建設に際しては東京府からの援助があったと彼の口から聞いた。
下北沢一番街の大月商店の大月さんはそう教えてくれた。そんな話をしているときに下北沢一番街商店振興会の会長が通りかかった。用向きがあるということで詳しくは伺えなかったが道場建設に際しては東京府からの援助があったと彼の口から聞いた。
写真を見ると道場の二階の側壁に大きな社紋がかかげてある。「小田急電鉄」のマークようでもある。小田急の開通、帝都線の開通、それによって下北沢の町は急速に賑わってきた。それにともなって商店は人を必要とした。けれども学校出たばかりの青少年は言葉遣いも知らない、計算もうまくない。それで自前で店員道場という教育機関を作った。全国的にも珍しく各地から視察者がやってきた。ヒットラーユーゲントも、青少年教育ということで視察にやってきたのであろうか。「店員道場」には小田急も出資し、小田急関連の施設で道場出身者を使っていたのだろうか。
相寄る魂：言葉が生まれる街にはハーケンクロイツも吹き溜まってきた。美的な極右である。Ｘ交点は坩堝である。クロスにはクリスもクロイツもみんな集まってくる。文化が吹きだまる、現在進行形である。あらゆる思想や芸術や文化が吹きだまっている。
（写真は「下北沢一番街商店振興会」創立３０周年記念のパンフレット載っていた写真である。今日は３００回目、一区切りだ。明日は一休みする）
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rail777 at 03:09｜Permalink│Comments(2)│
2005年07月12日
下北沢X物語（２９９）〜特攻機飛来通過地点探査行〜
武蔵野の谷のハケ・湧水はとおに枯れた。が、ところが谷のページをめくると言葉の泉がまだある。ハケから清水が湧くようにつぎつぎと言葉が湧いて出てくる。それが予想もしない支流にひっそりと眠っている。まったく思いもかけないことから湧いてきた言葉が別の言葉へと発展する。鉛だと思っていた鉱脈がじつは金の鉱脈だったということもある。そんな鉱床に行き会うと矢も楯もたまらずそれを掘ってみたくなる。シャベルは自転車である。それでぐるぐる現地を巡回するとまた新たな発見がある。果てもない武蔵野の谷巡りの旅だ。
武蔵野の谷では幕府の隠密も迷ったという。言葉の谷も同じことだ。言葉の迷路は果てがない。潜り抜けたと思ったら別の道に迷い込むということもある。
数日前、米軍のフリゲート艦で佐世保軍港にいち早く中国から引き揚げてきた兵隊の話をした。その奥さんが昭和２０年５月２５日、北沢で空襲を受けていたことを知った。笹塚に近い北五、北沢五丁目だったので家は全焼した。焼け出されて困っているところへ世田谷松原へ来ませんかと親切な申し出があった。それで松原に越していった。ところが彼女はそこでとある事件を目撃する。六十年経ってもいまだに忘れられない話である。それを聞いていてこちらも胸が苦しくなってきた。あまりにもリアルな話だった。聴き終わったとたん、もう足はペダルを漕いでいた。
数日前、米軍のフリゲート艦で佐世保軍港にいち早く中国から引き揚げてきた兵隊の話をした。その奥さんが昭和２０年５月２５日、北沢で空襲を受けていたことを知った。笹塚に近い北五、北沢五丁目だったので家は全焼した。焼け出されて困っているところへ世田谷松原へ来ませんかと親切な申し出があった。それで松原に越していった。ところが彼女はそこでとある事件を目撃する。六十年経ってもいまだに忘れられない話である。それを聞いていてこちらも胸が苦しくなってきた。あまりにもリアルな話だった。聴き終わったとたん、もう足はペダルを漕いでいた。
大きな手がかりとなる松原二丁目の日本学園へ行ってみた。武蔵野台地の丘の上に学校はあった。明治十八年創立で、この地に移転してきたのは昭和十一年である。その隣近所で話を聞いた。
「ここか、ここの日本学園の裏の通りはここらで一番高いな。そうな、空襲か、こうなんていうのかな、全部は焼けなかったけど、虫食いみたいにして点々と焼けたな。おれんところの隣のばあさん、二階でお経上げていたら、そこに、ぞぼんよ。焼夷弾の直撃だ、そのまま一階へ転げ落ちて、もう丸焼けだわな。そこの松原小学校も丸焼けだ。警防団がいたけどもうまっさきに逃げたのがあいつらだからな。」
ビール瓶の出し入れをしながら酒屋三河屋の息子さんが生々しい話をしてくれた。
ビール瓶の出し入れをしながら酒屋三河屋の息子さんが生々しい話をしてくれた。
「ああ、交番か、それはな、この日本学園の北側の角、大山街道のところに昔はあったよ。」
事件目撃者の彼女の証言と一致した。教えられたとおりのものがあった。彼女は、日本学園に平行する路地から、思いがけず飛んできた飛行機を隣組の人と見送ったという。そんな路地から空が見えるのかと疑問に思っていた。が、行ってみてわかった。大山街道に平行して南北に延びているその路地は台地の上にあって、空がよく見通せた。
「その飛行機は北西からやってきて、そして、翼をふりながら南西に飛んでいって、しまいにはごま粒になって見えなくなりました」
金子静枝さんは話し始めてしばらくすると涙声に変わった。当時は二十の娘だった。空に繰り広げられた場面がいまに思い返されるからだろう。
金子静枝さんは話し始めてしばらくすると涙声に変わった。当時は二十の娘だった。空に繰り広げられた場面がいまに思い返されるからだろう。
台地の上にしばし佇んでいると、老人が通りかかった、レインコートは着ていないけど、野球帽をわたしは被っている。「あのう、一つだけ聞いてよろしいでしょうか？」と言って帽子のつばに手をあてる。おもむろに腕を動かすというところがミソだ。すると大概の人は何かを言ってくれる。刑事コロンボ、ピーターフォークの額に手をやる所作は伊達ではない。聞き込みの必須技術だ。
「ここの坂道下ったところに、そうドブはあるわよ。名前はついてないな。そうだわね、ずっと南にいって北沢川につながっているわね。」
やっぱりそうだった。北沢川支流物語だ。地図を取りだしてみると一色次郎の住んでいた代田西の丸荘は坂を下ったところにあるドブ、そのすぐ南だ。
日本学園続きの台地を南下すると、見なれた角に行き会った。左手の路地を見ると北沢川支流文学の宮脇旧邸と北杜夫邸のある路地だった。見えないものでみなが繋がっている。過去の戦争の操り糸があって自分を導いているのかもしれないと思った。
飛行機が沖縄へと特攻に旅立つ話である。北沢から沖縄、島唄だけでなく戦争も繋がっている。（なお、この話は時間をとって調べてみたい。写真は白芙蓉）
2005年07月11日
下北沢X物語（２９８）〜武蔵どぶ川幻想行（下）〜
「沖縄タウン」で取材の女性と行き会った。「町おこしは成功ですね」と。
確かにそうとは思う。けれども人は熱しやすく冷めやすい。文化の移植はそう簡単ではない。どう継続するのかということことがある。カップルが通る、親子連れが通る、けれどもその街の断面だけ見ていては分からない。川という曲線をたどってきてあった町、そこに自分はどきりとした。アンモニアの匂いの果てに、島特産ラッキョウの匂いがあったことにひどく感心した。桃源郷に迷い込んだのではと思いもしたほどだ。
南北に横たわる路地町にはじつは東西に流れる小川がある。そんな秘密を発見したことが自分には楽しいことであった。どぶ川には上流があって、下流がある。ハケから本流へと向かうのが武蔵野の谷の特徴である。その谷谷は一枚一枚色が異なる。そんな谷、かつての湧水、ウチナーグチで言う「カー」が流れていたところに町は生まれた。そんな武蔵野の秘密を知っているのと知らないのとでは大違いだ。
とあるスーパーマーケットは武蔵野の源がハケであることを知っている。谷毎に違いに工夫を凝らしていて人気を集めている店である。谷や支流の匂いをかぎつけ、そして、そこに合った装いを工夫する。アンテナを磨いていて、谷の奥さんたちがサクランボの酸味に惹かれはじめたなと思ったら、即座に１９８円の値段をつけてそれを入口の目玉商品にする。そのエサにかみついた客をすかさず肉売り場に誘導する。谷の住人の酸味、食味をつかんでいるところはたくみだ。それはスーパー「オオゼキ」である。
和泉明店街も路地と川の十字路に展開している。道と川がゆんたくしている地点だ。そこに人と人が出会ってゆんたくする度合いが増えればもっと面白くなる。「ドブユンタク」、言い直そう。「カーユンタク」から都市の人間物語が始まる。独特の土臭さは、「こんなの初めて」である。いままで欠けていたものがあったということに温もりを感じた。むしろこれからがスリリングである。
「沖縄タウン」のある和泉明店街は最寄り駅は京王線代田橋である。ここにかつて坂口安吾は下宿していた。分教場、いまの代沢小学校まで「一里余の道だ。けれども分教場の子供達の半数はそれぐらい歩いて通っていて、私が学校へくるまでには生徒が三十人ぐらい一緒になってしまう。」とあるのは彼の作品「風と光と二十の私と」だ。（坂口安吾 坂口安吾全集４ ちくま文庫 １９９０年刊 筑摩書房）
代田橋が下北沢の徒歩通勤圏だったというのが面白い。なんでも繋がるから楽しい。驚きを通り越してしまう。
「このあいだ、七月七日の下北沢に行って来ましたよ。北沢音楽祭で沖縄のイベントが中心だったのね。それで頼まれてね、サーターアンダギーとおにぎりカマボコ、それぞれ五十個ずつ持っていったんだけどね、あっという間に売り切れましたね。泡盛飲み放題、ミミガー食べ放題だったのよ」と、米田さんはそう言って隣からパンフレットをもらってきてくれた。
それには「海人七夕祭」とあるった。「うみんちゅーしちぐわちさい」と読む。北沢タウンホールで行われたようだ。三線の響きは下北沢には似合う。武蔵野の谷の皺が町にいくつも残っていて、その皺に音がよく響く。三線は曲線時間を彩る。かつての丘陵にそれはよく合う。そういえば七月七日、ホールの下のあずま通りを自転車で走り抜けた。かすかな音色、あれは、「ミヤギマモル」の三線の音（ね）だったのかと思う。
石垣ラッキョウとジーマミー豆腐（ピーナツ豆腐）、それに沖縄そばの生麺とスープを買った。家に帰って食べたが独特の味と匂いとうまみがあった。島唄を聞いたせいか、島味が舌におどった。
2005年07月10日
下北沢X物語（２９７）〜武蔵どぶ川幻想行（中）〜
どぶ川をさかのぼったら桃源境にたどり着いてしまった。経験のない味わいだ。時がゆっくりと青く流れている。肩の力が自然に抜けていく。
市場の奥の左手に女主人がいる。目と目が合ってもそらすことはない、顔がもう笑っている。隣の楽器屋の三線が市場の中に響き渡って、それが時間を緩くさせている。
「石垣行ったことありますか？」
沖縄タウン、沖縄石垣島ちゅら館のおかみさんだ。
「いや、行ったことはないですね。一度は行ってみたいなとは思ってますけどね」
沖縄タウン、沖縄石垣島ちゅら館のおかみさんだ。
「いや、行ったことはないですね。一度は行ってみたいなとは思ってますけどね」
沖縄民謡の音色は景色まで想像させる。珊瑚礁の白い砂浜に透明な青がずっと続いている海、沖には白い雲がむうむくと湧いている。
「飛行機で羽田から三時間ほどですよ。ドアが開くと潮の香りがにおってきますよ」
タラップの向こうに海が見える、心洗われる風景である。
「どうしてこんなところができたのでしょうか？」
米田加代子さん（写真）に聞いてみた。
「さっきも取材の人が来ていたわよ、あっちこっちの町の人がね、視察にくるのよ。日テレでもね、放送されたの。消防庁の広報誌の人も取材していったわ。うん、これね、町おこしだわね。この杉並には案外沖縄の人多くてね、それで、どうせなら小さな沖縄作ってしまえって言って作ったのよ。仕掛け人は渡嘉敷奈緒美さんだけど、こないだの都議選立候補したけど落ちちゃった」
「どうしてこんなところができたのでしょうか？」
米田加代子さん（写真）に聞いてみた。
「さっきも取材の人が来ていたわよ、あっちこっちの町の人がね、視察にくるのよ。日テレでもね、放送されたの。消防庁の広報誌の人も取材していったわ。うん、これね、町おこしだわね。この杉並には案外沖縄の人多くてね、それで、どうせなら小さな沖縄作ってしまえって言って作ったのよ。仕掛け人は渡嘉敷奈緒美さんだけど、こないだの都議選立候補したけど落ちちゃった」
米田さんは小さく笑う。苦笑の裏にきっと物語があるのだろうと思った。
探査してきたどぶ川は左手、南が台地だ。そこに国道２０号線、甲州街道、その上には首都高速四号線も走っている。そのすぐ南には平行して京王線が西に延びている。
探査してきたどぶ川は左手、南が台地だ。そこに国道２０号線、甲州街道、その上には首都高速四号線も走っている。そのすぐ南には平行して京王線が西に延びている。
この和泉明店街の最寄り駅は京王線代田橋駅だ。その駅を起点として北に向かうと甲州街道にぶつかる。右手角はスーパーマーケットの「京王ストア」がある。車線の大河を渡るには歩道橋しかない。車の流れる道路が駅前からの道を分断している。階段を上って、歩いて、下りて、そして、やっとその商店街の入口に着く。坂道は下の川、暗渠へと下っている。路地の左右のお店はかつては賑やかだった。生活が臭う街だった。
けれども、新宿のデパ地下や代田橋駅そばの京王ストアなどで買い物を済ませる人が多くなり。しだいに衰退していく、八百屋が消え、魚屋もなくなった。錆び付いたシャッター街には野良猫がネコ手をゆっくり振って通る町となった。けれども、とある日、三線が響くようになって町は息を吹き返した。小路に芽生えた沖縄、そんな物語を想像した。
けれども、新宿のデパ地下や代田橋駅そばの京王ストアなどで買い物を済ませる人が多くなり。しだいに衰退していく、八百屋が消え、魚屋もなくなった。錆び付いたシャッター街には野良猫がネコ手をゆっくり振って通る町となった。けれども、とある日、三線が響くようになって町は息を吹き返した。小路に芽生えた沖縄、そんな物語を想像した。
米田さんが小さなパンフレットをくれた。そこにはこうあった。
小さい沖縄 生まれタウン おさいふ片手に、サンダル履きで お出かけしましょ。
ご近所感覚の”沖縄”です。お野菜、おやつ、お食事もできる こんなの初めてでしょ。
「ちゅら館」の案内はこう記されている。「都内唯一、石垣島の作りたてのカマボコが味わえるお店。”もずく”や”ゴーヤー”の入ったカマボコ、黒米入りの”おにぎりカマボコ”は絶品です！。石垣のサンゴ礁の海水で作った「石垣の塩」「にがり・海のミネラル」、沖縄の特産品もあります。
「沖縄好きの人にはとても魅力で、なんども来るおなじみさんいますよ。そうね、土日は結構遠くから人が来ますね、カップルなんかね、よく来ますよ。だからね、来るんだったら、平日が一番ね。面白いもので、向こうというか、沖縄の島で出会った人が、ここの噂を聞きつけて来るっていうのはありますね。都会では知り合えないのに向こうに行くと知り合えるのでしょうか」
都会は人を孤独にさせる。が、向こうに行くと出会いがある。島時間は人の心を解放するのかもしれない。
続きを読む2005年07月09日
下北沢X物語（２９６）〜武蔵どぶ川幻想行（上）〜
武蔵野のとあるどぶ川をさかのぼった。すると、突然思いもかけない町に行き会った。そこの空間は時間が青く停止していた。ドブ川幻想行である。
幅三メートルほどの道は家並みの裏を走っていた。ときどき自転車のタイヤがマンホールの蓋を踏みつけて、かてん、かとんと鳴った。陰気な音が、暗い路地に響いた。左右両脇の家からは下水のビニールパイプが道の端にL字形に折れ曲がってもぐり込んでいる。かすかなアンモニア臭も漂っている。
暗渠の上の道は微妙な曲線を描いてずっと続いている。ところどころ道の端に角ばった黒い石がコンクリートからはみ出て顔をのぞかせている。かつての流路の名残である。その道が金網や塀の脇をすりぬける。家の庭からアジサイやキョウチクトウが暗渠にはみ出している。純白のムクゲがみどりの苔が生えたブロック塀から顔をのぞかせている。
川跡の道は路地と交差する。そんなところには古いコンクリートの角柱がある。欄干である。自転車を止めて、それを眺めると字の彫り込みが見える。橋の名が刻んであるが、月日の雨風が記された名を削っている。ただ凹みがあるだけで読めない。かつて橋が生きていた頃、家族間の話題にもなったはずだ。男の子がこう言った。
「あのね、柳橋のところに、大きな青大将いてさ、赤い舌をちょろちょろと口から出しながら、ぬりゅにゅるってドブの奥へ消えていったんだよ」
暗渠はこつぜんと消える。角が幼稚園になっているところで道路に吸い込まれていた。辺りをぐるりと回った。すると大きな車の流れにぶつかった。環七である。大河の向こうにドブはあるのか？、探査意欲がなくなりかけているときに歩道の信号が青になった。
対岸に渡った。すると訳もなくドブ跡はみつかった。車の大河を渡ったせいか、その幅はやせ細っていた。連続してマンホールが続く、そのフタを踏む音が路地の壁に響く。ドブは西南へ斜めに向かう。が、しばらく走ったところでいきなり店の前に出た。なにやら趣が違う。空気が黒から赤に変わった。赤字に白の文字が目に入った。「めんそ〜れ大都市場」とある。面白い匂いがした。
自転車を止めて、市場の中に入った。するととたんに時の動きが緩やかになる。流れている音楽の色が体の五感に響いてくる。時が止まった眼に、ブタの角煮が見えた。そして、らっきょう漬けの匂いもした。野菜と肉と総菜、懐かしい市場の香りがする。
音響と匂いと色、それが自分を包み込む。笑顔のおじさんが声をかけてくる。
「どうぞ、どうぞ、この楽器自分で弾いてみるといいですよ」
その笑顔は三線（さんしん）を持っている。そして、巧みにそれを鳴らしている。指の動きが滑らかで、音も耳に心地よい。異空間にまぎれこんでしまった。桃源郷か？、若い女性が二人、見よう見まねで楽器をはじいていた。スカートからこぼれた白い足がまばゆい。彼女らのぽっつんぽっつんと響かせる音もまた耳の味である。（写真はどぶ川支流）
2005年07月08日
下北沢Ｘ物語（２９５）〜萩原葉子と駒沢線鉄塔６１号（７）〜
萩原葉子氏追悼に始まった物語は終わらなくなった。彼女の言葉が自分を引き込むからである。一区切りつけようと今日の帰りは、下北沢新屋敷一○○八番地から代田一の六三五まで自転車を走らせた。スタート地点から数十メートル行ったところに紅殻色の赤門がある。時代がかった古いものだ。朔太郎も見たに違いないと思われる門だ。（写真）
６１号鉄塔のわきから道は急勾配で下る。その路地は突き当たって左に折れる。ハンドルを切って回り込んだとたん黒い縞模様の猫が目前を横切った。青猫ではなく黒猫に驚いた。
代田珈琲店「邪宗門」から借りてきた古い昔の写真を見ているときに三角の屋根が目に入った。もしやと思って拡大鏡を取り出して、覗き見た。その瞬間息が止まった。埋もれていた文学が目に見えたからだ。
代田珈琲店「邪宗門」から借りてきた古い昔の写真を見ているときに三角の屋根が目に入った。もしやと思って拡大鏡を取り出して、覗き見た。その瞬間息が止まった。埋もれていた文学が目に見えたからだ。
洋之助設計の家は、東ヨーロッパ風の新鮮な感覚であった。南側から見ると中世の白と寺院とを取りまぜたような急勾配の屋根が高く見え、遠くの方からもすぐそれと分かった。京都の紅殻塗りの濃茶を家全体の色彩にし、洋風と和風を取りまぜた独特な様式の家だった。 「蕁麻の家」萩原葉子 講談社学芸文庫 １９９７年刊
その写真はまさに葉子の表現にある南側から見たものだった。鋭く尖った三角屋根の右手には高々とそびえ立つ駒沢線６１号鉄塔も映っている。
丘上の鋭くとがった特異な屋根と聳え立つ高圧鉄塔は代田の谷への発信となった。「鉄塔６１号下のあの三角の屋根は『月に吠える』を書いた有名な詩人の家なんだって」と地元の人がうわさした。鋭い三角と塔は対の景でもあった。そこには詩人の想像力も働いているはずだ。それが、詩人の娘、嫩の幼い目には不吉に見えた。鉄塔と三角屋根という近代の構図は彼女に違和感を与えた。線形の直線はとがっている。曲線のない構図に不安を覚えたのかもしれない。
丘上の鋭くとがった特異な屋根と聳え立つ高圧鉄塔は代田の谷への発信となった。「鉄塔６１号下のあの三角の屋根は『月に吠える』を書いた有名な詩人の家なんだって」と地元の人がうわさした。鋭い三角と塔は対の景でもあった。そこには詩人の想像力も働いているはずだ。それが、詩人の娘、嫩の幼い目には不吉に見えた。鉄塔と三角屋根という近代の構図は彼女に違和感を与えた。線形の直線はとがっている。曲線のない構図に不安を覚えたのかもしれない。
代田の住宅地は世田谷成城につぐお屋敷町である。が、それは昭和二年に小田急線が開通して以後の話である。朔太郎が代田に家を建てたのは昭和八年である。住宅ができて五、六年が経ったにすぎない。土地にまだ充分根づいていない新興住宅地である。
鋭い三角と鉄塔は丘に描かれた近代である。が、新築の家や鉄塔は土地にはまだ根づいていない。近代の形はあっても営巣形式は古典的である。その家の新築資金の出所は祖母である。家のすべてを握っていたのはその彼女である。
祖父が亡くなったあと、勝が思い切った発想で東京に家を建てる事を提案したのは、洋之助の仕事のためというよりも、荷厄介な子供達を洋之助の手に渡してしまいたい一念からであった。それに、東京に出れば芝居見物やデパートめぐりも思う存分にできる。唯一の生き甲斐とばかりに溺愛している末娘の麗子と何不自由なく暮らせるものを、勝は夫の遺産を満鉄の株に変えるなどして用意してあったのだ。
「蕁麻の家」萩原葉子 講談社学芸文庫 １９９７年刊
「蕁麻の家」萩原葉子 講談社学芸文庫 １９９７年刊
祖父は医師であった。その遺産を持って祖母は群馬の前橋から上京してきた。女丈夫である。下北沢新屋敷では一番街に買い物にも出かけ、八百屋や魚屋の親爺さんやお上さんと無駄話をした。新興の商店街だったが、下町的気さくさはあった。けれども一家はそこを選択せずに代田に新居を建てた。
代田に住むようになった。が、隣近所のお屋敷のお上さんはつんと澄ましている。コミュニケーションを欠いた都市近代の家は我が専横する。「家長の権力を持つ勝の命令には、絶対に逆らえない。」（「蕁麻の家」）、祖母、勝は絶対君主である。群れの長は自分の末娘、麗子を溺愛していたが、孫娘二人を憎んでいた。けれども幼い嫩は「いつも大柄な勝の傍にいないと寂しく、ダニと嫌がられても夜眠るまで離れられなかった」、いじめられても彼女には母である。が、孫娘二人は疎んじられた。「揃いも揃って不具や疵もの、淫乱娘の極めつけ」「淫乱女の捨てて行った屑」と勝の娘たちも言ってはばからない。
庭先から見える「世田谷の平野」も彼女には所詮まがい物だ。上州三山の比ではない。家長の精神エネルギーは内に居る生き物にぶつけられる。嫌いな孫娘である。無駄飯を食わせている居候と決めている孫娘が発散の対象となる。「淫乱娘、屑」と言って罵倒する。都市近代空間の隔離された人間はほしいままに振舞う。自己の言動が他者の心を傷つけるという認識はまったくない。自由にデザインされて出来た瀟洒な家に自由はなかった。
言語を自由に操る詩人は想念世界どのようにでもデザインできる。けれども現実の生活には手も足も出ない。むしろ詩人は現実が自分の世界に侵入してくることを恐れ怯えた。
洋之助の魂は、書斎の中の空間と、うつ向き加減の背中にもない。第四次元の世界を遊泳しているのだった。いま私が舌をかんで自殺を計り、血にまみれたところで、赤い色さえ洋之助の眼には見えないに違いない。
「蕁麻の家」萩原葉子 講談社学芸文庫 １９９７年刊
「蕁麻の家」萩原葉子 講談社学芸文庫 １９９７年刊
彼女を陵辱し、しかも子どもを孕ませた岡が、養子にせよと理不尽ことを言ってきていた。父は博打打ちと付き合っている双葉のことを知って叱った、が、その後、父は怯え始めた。彼女はそれを見て父を「守りたい一心」で男に断りを入れようと決心した。
詩人と娘、そして詩人の祖母がからまる代田の鉄塔下のドラマである。一面は動物物語であり、もう一面は人間物語である。愛と憎悪と本能、性が見事に抉られている物語である。（語れば続く、が、ひとまず終わりとする）
2005年07月07日
下北沢Ｘ物語（２９４）〜萩原葉子と駒沢線鉄塔６１号（６）〜
今日の夕暮れ、東北沢４号踏切でまた待たされた。
「交番の前の踏切で足止めや、飲み放題いうのんやな、まあ、まっとれ、これから行くからの」
「交番の前の踏切で足止めや、飲み放題いうのんやな、まあ、まっとれ、これから行くからの」
男が携帯に向かって話している。踏切遮断機の向こうを坂を下ってきた唐木田行きの小田急の急行がレールの上を走り去る。ロングレールにはジョイントがない。しゃらんしゃらんと軽やかに滑っていく。
代田から若林に抜ける。路地に蝉の音が掠める七夕の宵。ペダルで漕いでいくうちにその音が段々遠くなっていった。夕暮れの蝉は寂しい。
代田から若林に抜ける。路地に蝉の音が掠める七夕の宵。ペダルで漕いでいくうちにその音が段々遠くなっていった。夕暮れの蝉は寂しい。
世田谷代田、駒沢線６１号鉄塔下に詩人の屋敷はあった。彼女の祖母が財布を握って取り仕切っていた。自分の孫である嫩を、淫乱の娘と言って憚らない。若い男と駆け落ちした彼女の実母のことにひっかけて祖母はそう言う。
「お前のような醜娘が唇を赤く塗ったって黒豚のサカリがついたようにしか見えないんだよ」と彼女の自尊心をかぎ裂きにするようなことを平気で言う。言葉による虐待だ。
父親は詩作をなりわいとして生きている。常に想像の世界に浸っていて思考をそこに巡らせている。煙草をせわしげに吸っては考え込む。想像世界に生生流転する事象を詩的言語で捉えようともがいた。そのときに現実は捨て去られている。
思いに囚われた彼は、自宅で酒を飲んでいる最中にふっと思いついて出かける。玄関から出るとき履物がありさえすればなんでもいい、祖母のであろうと女中のであろうと、赤い鼻緒の下駄を履いて外に出る。そして円乗院脇の三峯神社の脇を通りかかる。例えその暗がりにお化けがいても驚きはしない。彼の心は地上三十センチを歩いていたからだ。
代田に住んでいたはずであるが、詩人はその足跡をあまり残していない。小説「猫町」に暗示的に下北沢の町を述べてはいる。けれども具体的にはほとんど止めていない。作家萩原葉子とは正反対である。詩人の空想浪漫は濃厚だが現実の代田は見えてこない。が、新潮日本文学アルバム「萩原朔太郎」の解説にこういう文章を見つけた。『「庭前一円、世田谷の平野が展開していますので、東京としては飛騨の郊外の感じです」（昭和８．６．９）』とある。代田新居のことが記され、その新居から見た風景を知人に知らせているものである。けれども新居ができて嬉しさのあまり彼は地域の特徴をつい漏らしてしまった。
朔太郎の尻尾が掴めたように思う。彼の庭からの景色は見ごたえがある。深く切れ込んだ川が家の下にあって、その向こうには「へ」の字を逆さにした平野が見える。対面の丘は緑に覆われている。斎田家、大場家、秋元家の森である。それは代田七人衆の屋敷である。飛騨の郊外の感じは家屋敷や森が点在するありさまを述べたものである。今でも秋元家には太い欅の樹があってかつての面影をかろうじて残している。彼らが北沢川北面斜面にこだわって家を存続させてきたのはその丘が世田谷城続きの土地の誉れだったからである。今でもある斎田家はかつての世田谷城の出城だったと言われる。
高圧鉄塔があるから家の東には家が建たないということ、それが土地選定の決め手になった。が、それは一つであってすべてではない。家から見下ろせる景観も大きな理由であった。それは斎田七人衆によって育まれてきた土地であった。
高圧鉄塔６０号は代田の丘下、北沢川沿いの低地にある。つぎの６１号は、川を越え、上ノ山と言われた丘上にある。今は家が建て込んでいるがかつては緑の山でそこに高々と聳え立っていた。たまたま代田「邪宗門」から出てきた古い写真、戦時中の集合写真の片隅に萩原朔太郎の家と高圧鉄塔が映っていた。南面から萩原朔太郎の家を撮った写真はない。貴重な資料である。それで所有者の許可を得て前橋文学館に複写を送った。
（写真は代田南地区会館にあるジオラマ。「松沢水車」と書かれた下から二番目の鉄塔が６１号である。手前が「世田谷の平野」にあたる）
（写真は代田南地区会館にあるジオラマ。「松沢水車」と書かれた下から二番目の鉄塔が６１号である。手前が「世田谷の平野」にあたる）
2005年07月06日
下北沢Ｘ物語（２９３）〜萩原葉子と駒沢線鉄塔６１号（５）〜
「こんな会社辞めてやる」と背中に白地で染めた黒のTシャツを着た若い男が歩いていた。後ろから追いついてひょいと見ると彼はカップラーメンのみそ味を手に抱えていた。はがれたフタからは白い湯気がかすかに立ち昇っているのが見えた。きょうの夕暮れあずま通りでのことだ。彼は会社を辞めて下北沢を歩いているのか。辞表も歩く町ということにしておこう。
下北沢は猫町とも言われる。萩原朔太郎が書いた小説「猫町」の舞台に下北沢がなっているからである。「気が付いて見れば、それは私のよく知つてる、近所の詰らない、有りふれた郊外の町なのである」（「猫町」日本詩人全集１４ 萩原朔太郎 昭和四十一年 新潮社刊）この小説は代田在住時に書かれたものだ。近所の町は今の一番街である。いまは少し廃れてしまったがかつてはこちらが町の中心だった。昭和十六年、来日したヒットラーユーゲントもこの町を視察している。彼らが下北沢駅前で右腕を高々と挙げて整列している姿が写真として残っている。息を呑む写真だ。大月さんが見せてくれた。卍、ハーケンクロイツもやって来た町であった。
下北沢は猫町とも言われる。萩原朔太郎が書いた小説「猫町」の舞台に下北沢がなっているからである。「気が付いて見れば、それは私のよく知つてる、近所の詰らない、有りふれた郊外の町なのである」（「猫町」日本詩人全集１４ 萩原朔太郎 昭和四十一年 新潮社刊）この小説は代田在住時に書かれたものだ。近所の町は今の一番街である。いまは少し廃れてしまったがかつてはこちらが町の中心だった。昭和十六年、来日したヒットラーユーゲントもこの町を視察している。彼らが下北沢駅前で右腕を高々と挙げて整列している姿が写真として残っている。息を呑む写真だ。大月さんが見せてくれた。卍、ハーケンクロイツもやって来た町であった。
別名猫町とも言うが、猫はあまりいない。犬にはよく会う。さっきもシーズがあずま通りを歩いていた。北沢三丁目の森厳寺川の暗渠の側にはいつもしっぽ振ってくれる犬がる。
本物の猫には出会わないがシャッター猫にはよく見る。夜更けにその猫が散歩するという怪談も面白いかもしれない。青い猫の後を紅い鼻緒の下駄履いた萩原朔太郎が地表面を浮き上がりながらひょろひょろとついている。そんな伝説も荒唐無稽とも言えない。彼が代田に住んでさまざまな伝説を残したことで後の文学に影響を与えている。吉増剛造の「黄金詩編」という詩。あるいは、清岡卓行「萩原朔太郎『猫町』私論」などである。
萩原朔太郎の猫の秘密は彼自身が「定本青猫」で明かしている。青猫の由来を解説している。それは、「物憂げなる猫」であると同時に「都会の空に映る電線の青白いスパークを大きな青猫のイメージに見てゐるので、当時田舎にゐて詩を書いていた私が、都会への切ない郷愁を表象している。」（「定本青猫」萩原朔太郎 日本詩人全集１４ 新潮社 昭和四十一年刊）と自ら述べている。
電線の青白いスパークは都会への憧れ。それは嫩の父の生活来歴にあった。彼のイメージには青白く輝く電光の下に輝く黒く尖った屋根が想像されていたのだろうか。けれども娘にはその鉄塔が不吉なものとして捉えられていた。「こわい線」である。
あの高い鉄塔に登り、感電死するのが私の運命のような気がした。この土地を洋之助と見に来た時、私はまだ小学生だったのに何となく暗い予感のようなものが、私の頭をかすめたのを覚えている。いまはその予感の正体が何であったのか分かったのだ。
「蕁麻の家」萩原葉子 講談社学芸文庫 １９９７年刊
「蕁麻の家」萩原葉子 講談社学芸文庫 １９９７年刊
嫩の予感が的中した。暗い予感、置き去りにされ、疎外された挙げ句、駒沢高圧鉄塔６１号に登って、感電死することだった。かの高圧鉄塔は「蕁麻の家」を象徴しているように思われる。（鉄塔６１号、丘の下から見上げたものだ）
2005年07月05日
下北沢Ｘ物語（２９２）〜萩原葉子と駒沢線鉄塔６１号（４）〜
朝から文学舞台探訪としゃれてみる。一石二鳥、一車二鳥である。通勤と調査の両方が得られるというのも自転車ならではの機動性である。
環七を北上し代田宮前橋から北沢川遊歩道に入った。すぐ左手は円乗院である。その寺の向こうに６１号鉄塔が見えた。山門そばのお地蔵さんを入れて塔を撮ろうとしたが無理であった。引き返して、路地に入った。ゆっくりと萩原旧邸前を過ぎる。今は他人の所有になる個人の家である。「竹藪の空地を見つけ、一五○坪借りた」（「父・萩原朔太郎」）とあるところからすると。当該番地の西隣の三階建てのマンションも敷地だったと考えられる。マンションに名に邸宅と同じ苗字がついている。その推測は当たっていると思う。
丘上に建つ鉄塔６１号には他の塔にはない特徴があった。Ｚ形の階段がついていて上に登ることができるようになっている。嫩はここを登って高圧電線に触れようとした。物語の一場面がリアルに浮かんできた。が、それは想像世界だけのことであって今はただ鉄塔がそびえ立っているだけである。「ひまわり公園」と言われた児童公園もない。
新しい家ができたことは私もうれしかったが、下北沢の小学校はかなり遠くなり、女学校へ入学のための居残りで、毎日帰りはまっ暗になった。おまけに家は高圧線の通った遊園地のすぐ隣りなので、片側は家がなく、どうしてもこわい遊園地の中を通らなければ帰れないのだ。
「父・萩原朔太郎」 萩原葉子 筑摩書房刊 昭和三十四年刊
「父・萩原朔太郎」 萩原葉子 筑摩書房刊 昭和三十四年刊
下北沢の小学校は東大原小学校であろう。新居はむしろ代沢小学校の方が近い。けれども進学を控えて転校は得策でないと考え東大原まで通ったのだろう。学校からは鎌倉通を南下する。帝都線下北沢１号踏切、そして、小田急線下北沢３号踏切を通る。代田の丘上にきて路地に入る。角の小谷さんところに小さな赤いお稲荷さんがあった。シンクロナイズスイミングの小谷 実可子さんの実家である。その脇のはしご段を下りて暗い公園に着く。上には高圧線がじりじり音を立てる。ときには青い火花が散る。こあつせんは、こわい線であった。
丘上の現在の代田二丁目は今でも閑静な屋敷街である。今日もこの住宅街を通ったが、どの家にも防犯装置がついていた。朔太郎旧邸に居住する奥さんも、「最近何があるかわからないでしょう。」と番地公開をしないでほしいと頼まれた。もうそれも去年のことになる。
昭和二年に小田急が開通して便利になり、見晴らしがよく新宿にも近いこの地は人気があった。萩原朔太郎は東北沢、下北沢、そして、世田谷代田（当時は世田谷中原）と小田急線を下ってこの地に居を定めた。高圧鉄塔があるから家の東側には家が建たないと言われた。そのことが土地選定の決め手となった。（写真は鉄塔６１号、今日撮ったものだ）
2005年07月04日
下北沢Ｘ物語（２９１）〜萩原葉子と駒沢線鉄塔６１号（３）〜
きょうは一日中、雨だった。それでもゆるぎなく自転車でいく、夏の紅花が濡れていた。ノウゼンカズラに、ヒメヒオウギズイセンに、キョウチクトウだ。
けさ、下北沢南口庚申塔前に、小豆色のパラソルが一つ咲いていた。通りかかりにのぞくと中年の女性が一心に手を合わせている。それを見てふと思い起こした。駅からこの南口の外れのお堂まで来ると焼き鳥がの香ばしい匂いがした。それを嗅いで萩原葉子がそれを買おうか買うまいかと通るたびに迷ったと森茉莉が書いていた。そのお店はこの庚申塔わきの路地を入ったとところの焼き鳥「さかえ」のことである。
萩原葉子氏の代表作とされる小説作品「蕁麻の家」の家は、彼女の不遇な青春時代をあけすけに丸裸にして描いたドラマである。いらくさは棘のある草である。棘のある家、自分が疎外されていた家という比喩である。
その冒頭は代田の丘の土地選びの話から始まる。頭上に延びる高圧線が父とその娘の心に微妙に照り映えている。駒沢線鉄塔６１号が作品に影を落としている。この小説はもちろん物語である。父親はドラマの登場人物である。だから朔太郎ではなく洋之助である。彼女は嫩（ふたば）という名である。
その冒頭は代田の丘の土地選びの話から始まる。頭上に延びる高圧線が父とその娘の心に微妙に照り映えている。駒沢線鉄塔６１号が作品に影を落としている。この小説はもちろん物語である。父親はドラマの登場人物である。だから朔太郎ではなく洋之助である。彼女は嫩（ふたば）という名である。
この辺りは閑静な屋敷町で、Ｓ区では成城町に次ぐ高級住宅地であると、男は説明した。新宿から小田原までの小田急線も三年前に開通したばかりでまだ発展の見込みがあり、決して悪い所ではない、と言った。私は、竹の子を見ていた眼を今度は外に向けると、すぐ眼の前に高圧線の高い鉄塔が見えた。竹藪の地所は角地になっていて、北西の方は少し隔たった家並みにつづく平地にあるが、東側は高圧線の塔が聳え、その裏が公園のような空き地になって、ブランコが一台雨に濡れていた。南側の斜面は坂道が川までつづき雨のため量が増しているのか、川音が賑わい、誰かが喋っているような気がした。
「高圧線があるので、東側に家は建ちません」と地主が言い、その理由が最後の決め手になったように洋之助は、この土地に家を建てる決心がついた、と言った。
「蕁麻の家」萩原葉子 講談社学芸文庫 １９９７年刊
小田急線の開通が昭和二年である。それから三年後というと昭和五年ということになる。朔太郎の父の密蔵が亡くなった年だ。その十月に、前橋から上京して牛込台町に妹アイと朔太郎は住む。母ケイ、妹アイそして二児が共に生活を始めるのは昭和六年である。場所は下北沢新屋敷１００８番地である。
「高圧線があるので、東側に家は建ちません」と地主が言い、その理由が最後の決め手になったように洋之助は、この土地に家を建てる決心がついた、と言った。
「蕁麻の家」萩原葉子 講談社学芸文庫 １９９７年刊
小田急線の開通が昭和二年である。それから三年後というと昭和五年ということになる。朔太郎の父の密蔵が亡くなった年だ。その十月に、前橋から上京して牛込台町に妹アイと朔太郎は住む。母ケイ、妹アイそして二児が共に生活を始めるのは昭和六年である。場所は下北沢新屋敷１００８番地である。
新屋敷１００８番地は長い間捜していたが下北沢一番街の大月さんのおかげで分かった。北沢２丁目３７番地のその土地にはいまはビルが建っている。向かいの大野さんが、かつての家が壊されるときに葉子さんらしい人がやってきて写真を何枚も撮って行ったと聞いた。下北沢西口に続くそのビルはお洒落な建物で近くの角の雑貨屋には若い女のたむろしていて小物の商品をためつすがめつ眺めているさまが見られる。
下北沢駅に近い交通の便がいいその家を買い取る考えもあったようだ。
下北沢は近く井の頭線も開通されるし、もっと便利になるので、初めはこの家を買おうかという案もあったが、もう少し静かな郊外の方がよいだろうということで、父が小田急線沿線では一番好きな成城学園前と、世田谷中原（現在は世田谷代田）をさがした。そして中原のほうに、駅から七分の小高い所に竹藪の空地を見つけ、一五○坪借りたのだった。中原は屋敷町で静かな環境に恵まれていた。
「父・萩原朔太郎」萩原葉子 筑摩書房 昭和三十四年刊
「父・萩原朔太郎」萩原葉子 筑摩書房 昭和三十四年刊
下北沢は便利ではあった。けれども井の頭線ができるともっと発展して静かでなくなる。大野さんの話しによると眺めはよくないと言う。代田の方がはるかに景色は良かった。自然が豊かで、しかも新宿に近い。
朔太郎が「竹藪の空き地」を見つけたというのはリアルである。下北沢新屋敷からその竹藪は遠くはない。朔太郎が散歩がてら見つけたように思う。小高いというのは川から見ての景観である。もちろんそれは北沢川である。屈曲したその川は「誰かが喋っているような」川音を立てるほどだった。朔太郎は、故郷の広瀬川を想起したのかもしれない。
2005年07月03日
下北沢Ｘ物語（２９０）〜萩原葉子と駒沢線鉄塔６１号（２）〜
今日日曜日、「蕁麻の家」を読み直す。すると、行間や文字肌に戦争が強く臭っていた。
洋之助は、返事をしないでラジオの前に坐っていた。突然振り向いて私を叱るのではないかと、私は怯えたが、遂に戦争を始めた軍部に批判の眼を向けているようなむずかしい顔にも見える。日本がアメリカ相手に戦争を起せば負けるに決まっている、と洋之助は言い、政治家と軍人を、話の分からない人間だといつも嘆いていた。
「蕁麻の家」萩原葉子 講談社学芸文庫 １９９７年刊
「蕁麻の家」萩原葉子 講談社学芸文庫 １９９７年刊
ラジオから流れていたのは大本営陸海軍部発表の「帝国陸海軍は本八日未明西太平洋に於て、米英軍と戦闘状態に入れり」という開戦を告げるニュースだ。洋之助は、朔太郎である。物語ゆえの改変である。
読書の合間にテレビを点けた。すると、今度話を伺うことになっている東条由布子氏がテレビに映っていた。彼女は祖父、東条英機の遺品だと言って箱から草草の小さな品物を取り出した。祖父が最後に吸ったという煙草、その他、箱からはお守りも出てきた。彼女はそれを「近くの氏神様の北沢八幡宮のものです」と言った。戦争の最高責任者が北沢八幡宮のお守りを持っていた。気持ちがひぃやりとした。鉄道交点の秘密の一端を覗き見たように思ったからだ。小物の真実はリアルである。常日頃尋ね歩いている領域の神社のお札が遺品からさりげなく出てきたときには息を呑んだ。日本の戦争物語を自分が読んでいるように思った。画面に食い入るようにして対談を見た。
サンデープロジェクトに出演していた彼女は、田原総一郎氏から質問を受けた。
「アメリカと戦争しても勝つ見込みはない。東条さんだったら戦争をやめさせられるろうという期待を受けて首相になった。けれどもそれを止められなかったのはなぜでしょう？」
「大きな流れの中の戦争だったので、それを止めるということはなかなか難しいことだったのではないでしょうか」
メモをしたわけではなく、ほぼこういった内容だったと思う。戦争と決まったとき、その夜、彼の寝室から忍び泣く声が聞こえてくる。祖母がふすまを開けると東条英機首相は布団の上に正座して泣いていたという。その声は次第次第に高まり、ついには号泣に変わったという。戦争を止められなかった。陛下の期待に応えることができなかったという無念の涙である。
「アメリカと戦争しても勝つ見込みはない。東条さんだったら戦争をやめさせられるろうという期待を受けて首相になった。けれどもそれを止められなかったのはなぜでしょう？」
「大きな流れの中の戦争だったので、それを止めるということはなかなか難しいことだったのではないでしょうか」
メモをしたわけではなく、ほぼこういった内容だったと思う。戦争と決まったとき、その夜、彼の寝室から忍び泣く声が聞こえてくる。祖母がふすまを開けると東条英機首相は布団の上に正座して泣いていたという。その声は次第次第に高まり、ついには号泣に変わったという。戦争を止められなかった。陛下の期待に応えることができなかったという無念の涙である。
東条英機は北沢の丘、池の上の自宅で悲痛な思いでいた。もう一方の代田の丘で、萩原朔太郎も苦しんでいた。下北沢乳房物語である。南北に流れる森厳寺川を挟んで、左右の乳房がある。東の丘の上に東条英機の私邸はあった。一方の西の丘の中腹にあったのが詩人の家だ。
北沢川の本流がその二つの丘の縁を洗って流れていた。その二つの丘の間に流れていた森厳寺川は逆T字形に本流に交わる。その合流点近くに森厳寺はある。東隣は文明年間創立の「七澤八社随一正八幡宮」と言われた北沢八幡神社である。祭神は応神天皇、比売神、神宮皇后、仁徳天皇である。戦勝祈願に訪れたかどうかはわからないが、ここのお札を持っていたとすれば東条首相は八幡神社にお参りしたことがあるはずだ。
北沢川の本流がその二つの丘の縁を洗って流れていた。その二つの丘の間に流れていた森厳寺川は逆T字形に本流に交わる。その合流点近くに森厳寺はある。東隣は文明年間創立の「七澤八社随一正八幡宮」と言われた北沢八幡神社である。祭神は応神天皇、比売神、神宮皇后、仁徳天皇である。戦勝祈願に訪れたかどうかはわからないが、ここのお札を持っていたとすれば東条首相は八幡神社にお参りしたことがあるはずだ。
昭和１６年末、北沢の丘の首相は国家の苦難を抱えていた。代田の丘の詩人は、娘の不行跡による妊娠問題、それと、自己の神経衰弱という問題を抱えていた。
政治と文学は極めて狭い範囲で相克していた。北沢川はそ知らぬふりをして瀬音を建てて二つの丘の縁を流れていた。
（写真は今年４月３０日、世田谷文学館の宇野千代を語る、萩原葉子氏）
（写真は今年４月３０日、世田谷文学館の宇野千代を語る、萩原葉子氏）
2005年07月02日
下北沢Ｘ物語（２８９）〜萩原葉子と駒沢線鉄塔６１号（1）〜
昨日、萩原葉子氏が亡くなった。北沢川文学物語の生き証人の突然の訃報には悲しみを覚えた。つい先日、代田「邪宗門」で森茉莉の命日に関わる集まりがあった。葉子氏も出席するかもしれないということで参加しもした。ところが体調がすぐれず当人は現れなかった。が、彼女から電話が入った。自分の隣に坐っていた森鴎外の孫、五百さんが葉子氏と電話で話をしていた。その声を漏れ聞いていもした。
また、四月末日に行われた世田谷文学館の宇野千代展で葉子氏は千代の思い出を語った。その彼女に直接質問をぶつけもした。また、北沢川文学を求めて彼女の梅ヶ丘の家を見に行ったり、かつての居住地だった馬込を訪れたり、さらには朔太郎の故郷前橋まで足を延ばしたりもしていた。
不世出の詩人の娘、そう言われることを彼女は嫌っていた。けれども、どの新聞も朔太郎の娘で、小説家であった萩原葉子の死を報じている。やはり萩原朔太郎の名は大きい。彼女の人生はその父の影との闘いだった。が、詩人としての父、また、その父を慕う詩人三好達治の人物像は彼女なくしては理解しえなかった。文学遺産、文化遺産を残した８４歳だった。彼女の生涯そのものが文壇側面史であった。例えば、こういう一文を見てもそれは明らかだ。
馬込村の家の近くに住む、室生犀星さん、三好さん、宇野さんをはじめとして、そのほか尾碕士郎、川端康成、広津和郎、衣巻省三、志賀直哉、芥川龍之介、北原白秋の諸氏も見え、それに若い詩人がだんだん家に集まるようになった。
「父・萩原朔太郎」 萩原葉子 筑摩書房 昭和三十四年刊
「父・萩原朔太郎」 萩原葉子 筑摩書房 昭和三十四年刊
文壇オールスターキャストが集まってきて、その様を見ていたというのを想像すると胸におもしろ波が押し寄せる。物語は楽しむことである。それを提供した彼女がいて読者は楽しむことができた。詩語や散文が飛び交う馬込村のダイコン畑が思われた。丘の下には肥だめがあって彼女も落ちたと聞く。すぐそばの家にはやはり稲荷様が屋敷に祭ってあった。それは自分の目で確かめたことである。
彼女にからめた「武蔵野代田鉄塔文学物語」を追悼としたい。
世田谷代田一丁目、二丁目の住民にとってこの地域を南北に横切る鉄塔群と電線、駒沢線は固有の風景である。
世田谷代田一丁目、二丁目の住民にとってこの地域を南北に横切る鉄塔群と電線、駒沢線は固有の風景である。
「わたしらはね、子どものとき高圧線と呼ばれた線は、こあつせんって聞こえたのね。そして、そのこあつせんは、こわい線だとばかり思っていたわよ。下を通ると、上でじりじりじりじり言うでしょう。それに雨が降ると青白く光るし、恐かったわ」
代田邪宗門の大奥さんがそんな話をしてくれたことがあった。この高圧線はかなり古いものである。昭和四年の世田谷古地図にはその線がもう載っている。地元のじゃらんさんは世田谷線など電車線への電力供給線だと聞いていると言っていた。
代田児童館には代田地域が開発される前のジオラマが展示してある。鉄塔６０号は、丘の下の北沢川にある。つぎの６１号は緑に覆われた山の上ある。そのためひときわ高くそびえ立っている。萩原朔太郎がこの代田二丁目に家を建てるとき、この高圧鉄塔駒沢線が土地選定の判断材料となっている。そのことは興味深いことだ。（写真は駒沢線鉄塔６１号）
2005年07月01日
下北沢Ｘ物語（２８８）〜北沢川支流文学物語（６）〜
宮脇俊三は昭和十年当時の帝都線、井の頭線のエピソードをつぎのように記している。
戦前の乗客は、いまのように押し黙っていなかった。何かと他の乗客に指示を与える人が多かった。「押すな」とか、「もっと奥へつめろ」とか、すぐ大声を出した。学生が座り年寄りが立っていれば、かならず誰かが「君譲り給え」と注意した。
宮脇俊三鉄道紀行全集 ２ 増補版昭和時刻表史 平成十一年刊 角川書店
宮脇俊三鉄道紀行全集 ２ 増補版昭和時刻表史 平成十一年刊 角川書店
きょう下北沢交番前踏切で小田急ホームライナーを見送った。乗客の多くが携帯電話の画面を覗き込んでいた。本や週刊誌に見ている者もいる。その窓辺にはペットボトルがある。赤い活字で印刷された「馬」が目前を通った。競馬新聞を読んでいたのだろうか。
車中コミュニケーションはほとんどなくなった。乗客は孤立した集団である。近くのあなたではなく遠くのあなたへと携帯のボタン操作で自分の心を送りつづけている。体は電車に乗っていても心は乗っていないのかもしれない。が、１９４５年８月１５日米坂線今泉駅で玉音放送聞いた人々は駅前に自分の心を置いていた。
時は止まっていたが汽車は走っていた。
まもなく女子の改札係が坂町行きが来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行きが入ってくるのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。
けれども、坂町行き１０９列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受け取っていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか、あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。
米坂線１０９列車 昭和２０年 宮脇俊三 「鉄道愛」 ２００５年６月刊
まもなく女子の改札係が坂町行きが来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行きが入ってくるのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。
けれども、坂町行き１０９列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受け取っていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか、あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。
米坂線１０９列車 昭和２０年 宮脇俊三 「鉄道愛」 ２００５年６月刊
終戦を迎えて深い感懐に耽っている一人の男の感動が読み手に伝わってくる。聴き取りにくい雑音混じりのラジオの音、真夏の日差し、蝉時雨、戦争が終わって、時が止まった。が、「まもなく坂町行きが参ります」という女性の声が時を動かす。炎天下に長く延びたコンクリートのホーム、鈍い銀色の二本の線が向こうへと続いている。やがて、そこへ黒い物体が見えた。それがみるみる太ってくる。間違いなく機関車だった。しゅるしゅるるると音を立ててボイラーが自分のわきをすり抜けた。
すべてが終わり、時も止まっていた、その中で動いていた蒸気機関車は希望であった。
青い菜っ葉服の機関助士が、キャビンから顔を出してタブレットを渡した。何でもない光景が宮脇俊三の心を熱くたぎらせた。昭和時刻表史の古びない新鮮なスジである。
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