2005年12月
2005年12月31日
下北沢X物語(456)〜荏原の里晦日輪行(下)〜
晦日の時は逝き、逝く、生きてきた時間が目に見える如く去来して‥‥
和菓子「香風」という店の物語を聞いているうちに長居してしまった。ご主人は得意先の汀女宅によく配達したという。彼からの聞き書きは改めて載せることにする。
店の前は堀之内道である。その坂を登ると世田谷代田駅だ。線路を渡らないで駅前を抜けていく。萩原朔太郎の母親とその娘アイがおめかしをして都心に買い物や観劇に行く、それを往事の駅員が定期便と呼んでいた。萩原葉子が書いていたように思う。
東に向かうと鎌倉通りにぶつかる。その道に沿って北に向かう。次郎桜と自分では言っている桜の樹がある。そのそばにかつて静仙閣があった。物語が埋まっているアパートだ。佐山さんは下北沢先駆けのアパートだったと言う。
下北沢2号踏切脇の佐山さん、何度も訪ねて、その度に発見があった。あいさつがてら立ち寄る。幸いなことに在宅だった。いつものように縁側で話を聞く。するとすぐ脇の土手上を小田急電車が走り抜けていく。下りの青帯を巻いたステンレスカーは唐木田行きの各停だろうか。
御歳80歳である、昭和10年代、下北沢エグザスにあったローラースケート場でさっそうと滑っていたのが佐山少年である。そのころふらふらと萩原朔太郎が通ったはずだ。「着流し姿の詩人、飄々と歩いている萩原朔太郎みかけませんでしたか?」と聞いたが、「いやあ」と言って手を頭に当てるだけだった。彼の少年時代と朔太郎はクロスする。姿を見かけているはずである。が、彼の記憶の引き出しに朔太郎はいなかった。
けれどももう一つの引き出しにはまた一つの物語が眠っていた。わくわくし、そして、せつなく思う一つのエピソードである。佐山一雄さんの記憶の引き出しは話の宝石箱である。
佐山さんから聞いたエピソードを確かめようと鎌倉通りを直進し、下北沢一番街大通りとぶつかる四つ辻で右に曲がる。エピソード中に出てきた肉屋はいまもあるのか半信半疑である。が、右手に「肉の三吉」とある。昭和初期からの開業である。
「オオゼキの開店ね、影響あるよ。大きいね、ピーコック、ダイエー、忠実屋できたときもしばらくはだめだったからね、でもね、今度のオオゼキは世田谷にある本社が出店してきているんだよね」
ご主人は、世田谷の谷を知っているオオゼキの登場にひるんでいる。一番街に沢山あった肉屋は廃業していくばかりだという。エピソードにまつわるお店だ。佐山さんの話をまとめてこの店に一人でも客が増えればいい。
2005年12月30日
下北沢X物語(455)〜荏原の里晦日輪行(上)〜
年の終わりの暮色をペダルを踏んであちらへこちらへと乗り歩くのもいい。それで荏原の里の気ままな巡回に出かけた。
晴天である、透明な青い寒天に梅の枝が刺さっている、詩のフレーズを産み出すほどに空が青い。この年末、例年以上の冷え込みだ。去年だとこの時期もう紅梅が咲いていた。厳冬である。もう一つの異変は欅の紅葉がひどく汚かった。枝についたまま枯死してしまった。これは全国的な現象らしい。駒沢公園のポプラも枯れた葉がまだぶら下がっていた。
まずは弦巻にある世田谷中央図書館に向かう。駒沢公園通り、弦巻通り、そして蛇崩川へと入る。この緑道は上流から下流まで走った。小さな崖のわきから今にも蛇が出てきそうだと思うことである。名前にこめられた川の不思議さが思われる。
加藤楸邨全集を見たいと思っていた。が、図書館は休館していた。急ぐことはない。おもむろに北に進路を取る。世田谷通りに出て、ふと一つの目的を見いだす。若林三丁目の北原白秋旧居跡だ。写真を撮ったはずなのがみつからない。写真を撮りに行く。三軒茶屋方向に行くとすぐにみつかる。マンションの下に「北原白秋住居跡」という世田谷区教育委員会が建てた碑がある。
白秋の息子さんだったかが、目の前の世田谷通りをおわいを積んだ馬がパカパカ通ってうるさかった、そのような記憶を話していた。人糞は郊外の農家の肥料であった。今は蛇崩れ川や烏山川の暗渠に流れていく。
白秋は馬込からここに昭和3年に越してくる。その碑には、「世田谷風塵抄」と題された四首が記されている。そのうちの一首である。
霾(つちふ)らし嵐吹き立つ春先は代々木野かけて朱(あけ)の風空
白秋を離れ、北に向かう。すると見なれた欅が目に付く。ああ、そうかここだったかと表札を見ると「佐野」とある。海野十三が住んでいた地だ。61年前の12月27日、「墜ちかかる敵機は冬陽を照らしけり」(「海野十三敗戦日記」)と彼は俳句を詠んだ。
若林の丘を下ると、幅広の軌道にぶつかる。世田谷線だ。待っていると、旧塗色の電車が走ってきた。慌ててカメラを向ける。いつしか鉄道ファン少年になっていた。
若林から代田を抜ける途中、滝坂道をたどる。道の曲がり具合と広さからすぐにその古道はわかる。しばらく行くと代田だ。また北上する。そのうちに一つ確認しておこうと思うことがあった。斎籐茂吉が院長をしていた青山脳病院、今の都立梅ヶ丘病院は北沢川とどの程度離れていたかである。行ってみると川は至近であった。
小川が大層のどかに流れている。そこを渡っても見えるものは青い麦畑のみ、はるかぽつんぽつんと農家の藁屋根が散在している。(「楡家の人々」北杜夫 新潮社 昭和三十九年)
小川は、北沢川である。青山脳病院が梅ヶ丘に転居してくるときの土地の実踏場面である。土地の測量中に楡病院の創始者は倒れ不帰の人となる。後を継ぐのは徹吉、斎籐茂吉である。
2005年12月29日
下北沢X物語(454)〜年輪に畳まれた過去物語(3)〜
ふとした出会いからふとした物語が始まる。小さなきっかけから文学の小さなドラマがみつかる。北沢川一本橋の近くの大欅が一人の俳人を旅へと誘った。それはとおに倒されてしまっていた。が、ささいなきっかけからその大欅の輪切が見つかった。寒風に吹き荒れている大欅の幹を支えていたのがこれだった。眠っていた物語が掘り起こされた。眼に見える文化遺産発掘である。
がぁうがぁうと鳴る木立を揺らす音、それに松籟が加藤楸邨を旅へと導いた。隠岐の島である。これも詩歌の旅に他ならない。田川飛旅子は加藤の「隠岐」と題された文章を引く。
隠岐は海にかこまれている。この島の風土は海にかこまれながら、後鳥羽院を抱きたてまつった。後鳥羽院は、島でひとりごごろとなられてから、わたしの恭慕たえざる御作を遺された。わたしはここを訪れてみたい。そして後鳥羽院の、あの運命そのもののごとく生き抜かれた偉大さを、この激しさを求めた心で感じ取ってみたい。
日本海に浮かぶその島は後鳥羽天皇が配流されたところである。鎌倉時代の和歌の巧みな詠み手である。流された島で詩歌を棄てることなく、ここで孤絶した中で「ひとりごごろ」となった。それでも詩歌への思いを保ち続けた。それが「隠岐本新古今集」であり、「遠島御百首」である。隠岐は日本の詩人の心の故郷であった。
隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな
加藤楸邨が生涯の句作から選んだ「自選百句」(現代の俳人「加藤楸邨」国書刊行会)に入っているものだ。
ひとりごころを持って生き抜いた後鳥羽院、彼が住まいした風土が十七音に綴られている。日本海の荒れ狂う海に囲まれてある島、頃は三月だが春まだきである。それでも木々は芽吹いて春を待っている。怒濤が芽吹きといういのちを囲んでいる。はぐくんでいる。院のいのちも、院のひとりごころを囲んでいたものである。怒濤、壮大な交響詩が彼を育んだのかもしれない。詩の故郷にたどり着いて確かに得た実感・感懐がこの句に歌われている。大欅が奏でる序章、怒濤が演奏する交響曲。
隠岐から帰った加藤楸邨は斎籐茂吉を訪ねている。「寂しいところでしたよ、四海あおい海に囲まれていて、荒れ狂っていましたね」と加藤が言うと、「うん、そうかい」と言って茂吉は髭をしごいたのかもしれない。
2005年12月28日
下北沢X物語(453)〜年輪に畳まれた過去物語(2)
物は物を言わないが、物証として事実を明確に証明するものである。それは年輪の輪切りである。人がそして樹木が生きていた時が刻まれている。
田川飛旅子の「加藤楸邨」には彼が下代田に越してきた場所の様子が書いてあった。この本を手に入れて読んだとき、イメージが腑に落ちなかった。が、この文章に記されている大欅の場所が分かると、彼の家のおおよその位置が分かる。つぎの文である。
昭和十六年(三十六歳)丁度父健吉の忌日に当る二月七日に坂下町四十番地の寓居から世田ヶ谷区下代田二二八に転居した
父の忌の凩を聴くや住みかはり
家の前は、道を隔てて五十坪ほどの赤土の空き地になっていて、その先に松林があった。家の右手は崖で、その上に大欅と赤松が一本づつ、ごうごうと吹かれていた。裏は櫟の木立で、武蔵野が感ぜられた。 (田川飛旅子「加藤楸邨」桜楓社 昭和60年)
地図上から推察すると現在の代沢4−30ー14だと思われる。家の前の赤土の空き地は柳下さん所有のものだったのだろう。「家の右手」はすぐ斜め前である。そこに大欅がすっくと立ち、そして赤松があった。松籟、松の木を渡る風だ。季節風が欅と松を抜けていく。武蔵野の樹木の二重奏である。ちょうど父の命日であった。
年輪の輪切りから一つの物語が紡ぎだせそうだ。加藤楸邨は赤松と大欅の二重奏、それに近隣の緑の多さから武蔵野を実感した。樹木の彩り、樹が奏でる音楽、それが彼を漂泊へと誘う。
「さて私であるが、私は今度の転居で新しい家の風物に接している中に、旅心を誘われてしまったようである。見なれぬものの中に身を置いて、その中から激しいものを感じとる気持ちが呼びさまされてしまった。心ひそかに、前の欅を仰ぎ、裏の櫟を見る朝夕に、この心の向きどころが定まりかけていた。
旅おもふ欅を春の露はしり」
(田川飛旅子「加藤楸邨」桜楓社 昭和60年)
加藤楸邨全集に当たらなくてはならないが、とりあえずは田川氏の世話にならざるを得ない。彼の生涯を描いた労作である。
2005年12月27日
下北沢X物語(452)〜年輪に畳まれた過去物語(1)
時が押し迫ってゆっくりと流れていく。そのときどきで考えさせられることがある。異なった人に出会うと、異なった見方をする。
自分の行っているものは何かと問われた。答えに窮した。が、整理してみるとこういうことだろうと思う。科学的な調査ではない。現地へ自転車で「行って」、「調べて」、そして、「推理する」、「想像する」というものである。最後の、想像するというところは抒情であり、物語である。だから物語と称している。自分が参加する文化、文学痕跡めぐりだとも言えようか。物語的文化論とも言えるものかもしれない。
年の瀬、時間がめぐりゆく。時間も年輪を重ねている。一枚一枚の日輪が年輪に畳まれていく。今日の一ページ、昨日の一ページである。
昨日、三人でフィールドワークをした。文化遺産保存の会の東さん、「邪宗門」の作道さんの奥さん、貴久枝さん、それにわたしである。
森茉莉も使っていた「代沢湯」が店を閉じてしまった。いずれ壊されるのではないか。今うちに風呂屋の内部を見ておこうということで行った。
途中、代田七人衆の末裔である柳下政治さんのところに久しぶりに寄った。加藤楸邨の住まいを確認したかったからである。前に伺ったときに欅のことについては聞いていた。
終戦後、青森の騎兵連隊で除籍解除なった柳下さんは帰京してくる。渋谷から玉電に乗り換え池尻で下りた。そして、北沢川沿いをたどって帰った。池尻近辺はほとんどが焼け野原だった。それで自分の家も焼けたかもしれないと思った。ところが近づいてみると家の大欅が残っていた。家も無事であった。
その目印の欅は代沢4丁目30番地の清水さんところにあるものだと思っていた。それは区の保存樹木となっていて背も高く、幹も太いからである。
「あれはね、うちにあったものの子どもだよ」
柳下さんはそういう。親となる欅は別にあったということである。
「親の木はまだあるよ」
思いがけないことを彼は言った。信じられないことに思った。彼はわれわれを先導し、家の裏手へと案内した、そこには幾つかの小屋があった。政治さんは一番奥の小屋まで行って、戸をあけた。そして、奥に入って、これだと言って欅の木の輪切りを見せてくれた。それを何の苦もなく持ち上げてみせた。一帯を見守り続けていた大欅がひっそりと小屋の隅に隠れていた。写真を撮ろうとそれを自分で持った。年輪がぎっしりと詰まったそれは腰にずきりと来るほどの重さがあった。
2005年12月26日
下北沢X物語(451)〜下北沢の宮柊二〜
われわれの人生は後ろ時間決定性を持っている。物事の結果は後に判明してくる。それで今という時間に染められている頭脳は、今を話題にしてしまう。結論は簡単だ、今日は酔った。ただそれだけだ‥‥
今朝は、森厳寺の裏を通っていった。富士塚が朝日を浴びてその形がくっきりと見えた。見事な富士山である。が、墓石はほとんどが掘り返されている。無惨な姿である。その価値を知る者は誰もが残念がっている。
「富士塚」を思いから振り払って池の上から東北沢に向かった。駅のそばの東北沢二号踏切を渡って二本目の路地を左に入る。ここが「北沢四丁目五二三」だったところである。路地が西に下って森厳川へところげているのが見える。ここに彼は住んでいたのだろうか。
宮柊二は下北沢にいっとき住んでいた。彼の年譜(「宮柊二集」別巻 一九九一年、岩波書店)にあたる。1935(昭和10)年、二三歳、「小田急線の代々木八幡駅の近くに下宿」、成城砧の「北原白秋宅へ秘書として毎日通」っていたようだ。そして、その二年後北沢に引っ越してくる。
年譜にはこうある。「夏頃、世田谷区北沢四丁目五二三笹塚荘に転居。まもなく同区北沢一丁目一一三六北沢会館に転居。」。そして、二年後、1938(昭和13年)「この年、北沢三丁目一○一六すみれ荘に転居。」とあり、翌年、1939(昭和14年)「横浜市鶴見区佃野六三三番地の両親の許に戻る」とある。
宮柊二は1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)までの三、四年間下北沢近辺のアパートを転々としていることがわかる。ここから透けて見えることがある。この時代、下北沢周辺に多くのアパートがあったことが分かる。
昭和8年に、渋谷と吉祥寺を結ぶ帝都線が開通し、下北沢は渋谷に出るにも新宿に出るにも便利だということで急速に開けていった。駅近辺にアパートや下宿屋がつぎつぎに建っていった。そこに地方から上京した学生などが集まった。詩人、文学志望の青年は多かった。
2005年12月25日
下北沢X物語(450)〜森厳寺の「富士塚」(2)〜
森厳寺の「富士塚」は文政四年(一八二一)にもともとあった築山を盛土して築きあげたものだと知った。今日、関係者に当たって聞いた。するとこれは歴史と規模からして国指定有形民俗文化財級のものだと言う。が、社会的認知が行き渡らずに今まさに壊されかけているというのが現実だ。
昨日は幾つもの富士を廻った。
一つ目はグランドメゾン三軒茶屋という高層マンション、その一階には「大丸ピーコック三軒茶屋の杜」というスーパーが入っている。建物裏、世田谷通りから少し入った路地の横にひっそりとその富士登山記念碑がある。
縦に長い三角形の石に文字が彫り込まれている。一番上に富士をかたどった絵、つぎに「冨」とあって、「平」、これは○で囲ってある。その下に横に「先達」とある。メインは「三十三度大願成就」という文字だ。その右に「扶桑教会教導職 根山政行碑」とある。裏にも碑文があると思われるが塀ぎりぎりに建てられいるので確認はできない。碑は南向きだ。記念碑は富士が見える丘に山を背にして建てられる。多分、移築されたものだと推察される。
三軒茶屋からは路地を経由して淡島通りにでた。渋谷方向へ自転車を走らせる。代沢十字路を過ぎて、しばらくすると道は下る。北沢川がえぐり取った凹みである。下りきって上りとなる。富士見坂である。反対側の松見坂から上ってきた連中は、坂を登り切って下りにかかると富士が見える。
「導師、あんなところまでいくんですかい。わしにはむりですわ」
「焦らなくともよいんだよ。一歩一歩あるいていけば富士は近づいてくる。しまいにはな、のしかかってくるぐらいだ。」
冨士講の導師と講の一人とがそんな会話を交わした過去を思った。
坂の途中で左に折れた。右手には富士中が見える。北沢川文化遺産の会の重鎮、広島文武氏宅に伺う。自宅でしばらく話し込んだ後、すぐそばの井の頭線との間にある境界柵を案内してもらう。「帝大」と記されたものが三つあった。
広島氏宅を辞して、北沢1−45に向かう。池ノ上から東北沢方向への道だ。冨士講記念碑と延命地蔵尊が向かい合っている地だ。講の碑は東向きだ。かつては背後に富士が見えたに違いない。日影山の稜線上に碑は建っている。表面には、まず、「冨」とあって、「平」、これも○で囲ってある。その下に「登山五十度」とあり、右に「補少講義四代目先達鈴木金太郎」とある。左には「講社中」とある。
続きを読む2005年12月24日
下北沢X物語(449)〜国登録文化財「富士見丘教会」〜
聖夜に点るシグナルが
北沢の丘から流れ出る
銀のレールの踏み面に
ブルーの光を滲ませる
下北沢の鉄道X交点、小田急線と井の頭線が交わるところ、その近辺には教会が多い。クロスにはクリスが集まってくる。代沢の東京聖三一教会には周辺の教会が記された地図がある。間違って訪ねて来る人のために作ったと教会の人は言っていた。
クルスが青空に突きささる丘の街、下北沢である。代田教会の人は、「なぜでしょうか?」と逆に質問してきた。代田都民教会の牧師はなにもかもが「ふきだまる」ところだと言った。彼は鉄道の交差は大きな影響があるとも述べた。下北沢には十字架が似合う。
かの丘にクルスのつける館建ちてその黄なる壁朝夕親し
「下北沢」と題された堀内通孝の歌一首である。昭和23年作である。戦後に建ったものもあるが戦前からの教会もある。富士見丘教会の建築由来については「国登録文化財」の登録文書に、つぎのようにある。
富士見丘教会 は、日本組合基督教会に属する教会として昭和11年(1936)に献堂され、昭和12年11月12日に認可、正式に設立された。当初の教会員は、神田淡路町で礼拝を守っていた信愛教会の有志十数名、及び番町教会の有志十数名が中心であり、そのころ大阪から上京して伝道を開始していた山本忠美牧師の下で合流して教会新設を計画し、昭和10年9月、現在地に会堂建設することを決定した。
神田淡路町にあったものが富士が望める当地、代沢2−32−2に引っ越してきたものである。なぜこの地に来たのかとても興味あるところだ。それについては教会のホームページに記されている。
富士見丘と言う教会の名称は,文字通り当時そこから富士山を見ることができることから付けられた。その頃教会の多くは都心部にあり、一方教会員には郊外に住むという不便さがあり,小田急線と新設された井の頭線(1934年開通)が交叉する便利な地点を選ぶことで、教会員が遠方の教会に通う不便さを解消したいとの考えであった。
下北沢の鉄道クロスが教会を惹きつけたということになる。「線が交叉する便利な地点」は信者が集まりやすいということである。この近くに教会が集まって来た理由がここにある。が、それだけではないだろう。丘にあるクルスは絵になる。ポジションとしての丘は重要である。谷陰では見えない。丘にあって存在アピールできる。意匠にも当然気をつける。ここも単なる会堂ではなく、会堂そのものがプロテスタントの思想を示している。
富士見丘教会がなぜ「国登録の文化財」になったのか。登録文書にはこうある。
2005年12月23日
下北沢X物語(448)〜森厳寺の「富士塚」(1)〜
岡本綺堂の半七捕物帖は江戸時代を舞台にしたシリーズ物の探偵小説である。そのうちの一つに天保年間を背景とした「大阪屋花鳥」という作品がある。この作品の末尾に「 森厳寺に灸を据えに来たのが運の尽き」という決め手の文句がある。
森厳寺淡嶋明神社の灸治は江戸中にその名が知れ渡るほどだった。「江都近郊名勝一覧」には「灸治を求むる輩遠きを厭ハずこゝに群集する事市の如し」(世田谷地誌集 世田谷区教育委員会)とある。門前には灸治客をもてなす茶屋があった。このことは過去にも何回か記事に取り上げた。ところが、まったくもって知らないでいたことがあった。
森厳寺の裏はよく通りかかる。今年の秋にその異変に気づいた。裏手の森の木がすっかり取り払われ、忽然と小山が出現した。切り払ってそれを壊すのかなという程度にしか思っていなかった。調べなくてはいけないなとは考えてはいた。
先日、17日のことである。「北沢川文化遺産保存の会」の立ち上げ集会が終わって、珈琲店「邪宗門」でみなと歓談をした。隣にいたのは世田谷区区議会議員の木下泰之氏だった。地元の話をしているときに森厳寺の話に及んだ。寺の裏手にある「富士塚」が壊されそうだいう話を彼がした。
その富士塚だった、木下氏から聞いて合点がいった。「富士塚」とはかつて隆盛した富士講のシンボルであった。富士を拝み、富士の山霊に帰依して心の願いをかなえるという信仰である。
昨日、保存の会の会員、東氏と代沢近隣を廻った。茶沢通りを通っているときに「富士塚」の西面の建物の間に見えた。ざっくりと削り取られた部分が鮮やかに見えた。写真を撮りたいということで森厳寺に行った。が、裏手に行く道は工事中ということで厳重にふさがれ、立ち入り禁止となっている。
森厳寺の西、敷地に沿って川が流れている。現在は暗渠だ、そこを通って撮影ポイントを探した。が、高い塀に囲まれていて写真を撮るのは難しい。と、歩いていると、左手に前に来たことのある建物が見えてきた。代沢地区会館だ。ここの受付の人にバームクーヘンの工場の跡を聞いたことがある。その建物は三階建てだ富士塚を写すには絶好のポジションにある。が、上に登らせてくれるか心配だった。都立梅ヶ丘病院では言下に断られた経験もある。
「あんた東大の人ですか?」
受付の人はそう聞いてきた。
「いやなんだろう、近隣の文化遺産の調査している者ですが‥‥」
近隣を尋ね回ることが多い、自分をなんと名乗っていいのかわからない。これまで空き巣や痴漢に間違われたことは度々である。刑事ボロンボも同行の東氏についぼやいてしまった。「北沢川文化遺産保存の会専門研究員ということにでもしないと格好がつかないね」と。が、受付氏は聞きたい者には伝えたい、そういう熱い思いを持っていた。
2005年12月22日
下北沢X物語(447)〜松濤園、大山園、清風園(1)〜
(一) 生きているいのちが他人が描いたことばに出会う旅、それが文学の旅ではないだろうか。石川淳、田中光英などの旧居探しをしていて、そんなことを思った。田中英光の「さようなら」という作品の一節をポケットに持っていた。感銘深い言葉だからだ。それはつぎだ。
『さようなら』という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会がある。
「北沢川文化遺産保存の会」の会員、東氏と代沢を巡った。いつもとは異なる。自分が徒歩で東氏は自転車だ。二人で歩いていると自転車が追い越して行く。驚いたことに会員の広島氏である。代沢の古老といっていい、たちどころにすぐそばの魚屋と本屋さんを紹介してくれる。すると、横光利一、佐藤栄作、東條英機、広中平祐などの有名人の名が次から次へと出てくる。この地は、誉れある土地である。
実体は名によって知ることができる。自分の自転車によるフィールドワークによる経験は情報の集積をもたらす。長い説明を聞かなくてもワンフレーズを聞いただけでも思考電流が走る。自転車行路集積回路にである。話はこういうことから始まった。
「北沢川文化遺産保存の会」の立ち上げ会が終わった後、珈琲店「邪宗門」で歓談していた。そのときに会長の長井邦雄氏がふと洩らしたことばがある。
「代沢の佐藤栄作が住んでいたところの近辺はなんとか園とか言ったな」
「へぇ、そうだったのですか、で、何園と言ったのですか」
「ええっと、なんだっけな?」
そこでは分からなかった。けれどもそれにはとても興味を惹かれた。
北沢川淡島の南斜面の上は高級住宅地である。佐藤栄作元首相旧邸があったところだ。そこの近くには竹下登元首相も住んでいた。東条英機元首相邸も近くだ。文化人、著名人、芸能人も住むところだ。そこは調べてみると「清風園」と呼ばれていたところであることがわかった。代沢一丁目、二丁目、三丁目にかかる一帯が箱根土地株式会社によって昭和初期に分譲されたようである。
先日、東條由布子さんとこの一帯を歩いた。東に向かうと丘は下る。下りたところに南北に幅広の道路が走っていて、右手の崖は大谷石の綺麗な壁面だ。一帯は区画がきっちりと整理されていた。彼女によると政界、財界の重鎮の家があったと教えてくれた。亡くなった松尾和子の家の跡も教えてもらった。
東京西部で住宅地に「園」がつくところは格段上の超がつく高級住宅街である。その数は少ない。代沢の「清風園」がそれに当たるとすれば三つである。後は、「松濤園」、「大山園」である。現在の渋谷区松濤町、渋谷区大山町である。
駒場の二、二六事件密議場所を訪ね探したことがある。そのことの関係から、渋谷区役所脇にある二、二六事件慰霊塔まで行った。そこにはかつて陸軍刑務所があった。事件の首謀者らはここで処刑された。それで慰霊塔がある。そこにあった説明版を見て一つ分かったことがある。
2005年12月21日
下北沢X物語(446)〜高架橋と築堤が織りなす近代〜
ブログの旅、自転車の旅、人と出会う旅、文字と出会う旅、そういうことを通して次第に透けて見えてくるものがある。昭和十年代に下北沢で詩歌がはじけ飛んだ。そういう感触を濃くしてきている。
単一南西に向かう小田急線に北西に向かう帝都線がクロスした。そのことは大きなことである。時は昭和8年8月1日であった。渋谷と井の頭公園間が開通した。吉祥寺まで繋がったのは翌年の昭和9年の4月1日である。
帝都線は後発組となる。すでに存在する小田原急行電鉄をどのように越えていくかということがあった。小田急は北沢川支流の二本の川に挟まれた丘にあった。それを横切るには地下か地上かである。どうやりすごすか方法は一つである。池ノ上と下北沢の間の谷に築堤を築く。地下は莫大な費用がかかって無理だ。それで池ノ上と下北沢の間に築堤が築かれた。道路に当たるところには鉄橋を架けた。現在の茶沢通り、あずま通り、そして、小田急沿の小道の上の三箇所である。
かつての帝都線の築堤は見上げる高さにあった。写真に掲げたものは茶沢通りから撮ったものだ。現在はビルなどに囲まれていて目立たない。が、この角度だと往事がよく偲ばれる。このどっしりした築堤と陸橋が堂々と谷を埋めていた。近代の空間である。
ウィリアム・ワーズワースは彼の詩の一節でこう述べている。
「移動」と「利便」よ、なんじらは、いま陸で
海で古来の詩情と衝突しているが、そのことで
公正な詩人が間違った判断をすることはないだろう。
「英国鉄道傑作選」 小池滋 ちくま文庫 2000年
ワーズワースのこの詩のタイトルは「汽船、高架橋・鉄道」である。機械文明による利便は、それは受け入れられるだろうと予告している。高架橋は近代の象徴である。高架橋によって電車に乗ったままいながらにして人はまたたく間に森厳寺川を渡れる。Xクロスは北沢川支流を二本苦もなくまたいでいく。後者は下北沢三号踏切の下に流れている川である。仮称としてはだいだらぼっち川と呼んできた。
2005年12月20日
下北沢X物語(445)〜代沢サラダボールの戦争責任(中)〜
下北沢鉄道交点にはきらめく詩歌が眠っている。発掘場所は主に図書館である。鉄道交点詩歌宝石は図書館の至るところに埋まっている。なにげなく図書館を探していたらみつかった。
先日、「北沢川文化遺産保存の会」の立ち上げ会に多聞小学校の校長先生の吉川敏夫氏が来ておられた。質疑応答の中で発言された。
「多聞小学校は丘の上の学校です。南は北沢川、北は烏山川となります。この会の構想が下代田橋で止まっていますが、もう少しこちらまで来てくれたら芹沢光治良先生が入るのですが……」
その多聞小学校の校長先生は「芹沢光治良追悼文集」を持って来ておられた。かつて多聞小学校のPTA会長を作家が務めていたと言う。学校にも写真などが飾ってあるのでぜひ訪ねてきてくださいと言われた。そのことがあって、図書館で「芹沢光治良作品集」を探していた。すぐにはそれが見つからず「宮柊二集」が目に付いた。彼も下北沢に住んでいたことがある。どうだろうかと、探しているともう第一巻目で見つけてしまった。「北沢附近」題された数首の短歌が載っていた。
詩歌、口語自由詩、短歌、俳句が異常なほど集まっている。近代詩歌空間である。ただ集まるだけではなく論争もしている。下北沢鉄道交点のノースブロックに住んでいた生活探究派の中村草田男は、戦争中、サウスブロックに住んでいた加藤楸邨の戦争責任を痛烈に批判した。その批判に対して加藤は応えている。これも田川飛旅子(「加藤楸邨」 桜楓社 昭和六十年)の説明がわかりやすい。
楸邨はまづ戦争責任追求の点に答えて、戦争の中で死んで行った友人に対し、生き残った自分のすまないと思う気持ちが精神的な傷痕となっている事をのべた後、戦争中はやはり勝ちぬきたい気持ちー勝てないかも知れぬし、叉自己弁護的の宣伝も感じたがー然し、一旦始まってしまった以上、負ければ滅亡する外はないと信じた上は、やはり日本の永遠のために、日本民族の滅亡しないために勝てないまでも敗れないで欲しいと祈り続けてきた。戦の実相の見抜けられなかったのは不明だが、多くの日本人の言いのがれ難い不明であったと戦時中の根本的の自分の生活態度を明らかにしている。俳句に立ち向かう希いとして真実であることを念頭としてきた自分も、真実をねがい乍ら、それに裏切られたりする弱い人間であることを認め、草田男の戦時中の軍部勢力への結びつきの批難に対しては、元来多少小児病的だと思われるくらい権力には頭を下げられぬ性質であり、その為に過去にも処世において何度も失敗したことを述べて、戦時中の幾人かの「寒雷」の同志の軍人との交わりとその経過についてのべて、決して便乗等の意図のなかった事、叉そういう器用なことの出来る人間でないことを力説した。
続きを読む2005年12月19日
下北沢X物語(444)〜北沢川という呼称について〜
おととい、12月17日の土曜日、「北沢川文化遺産保存の会」の立ち上げの会が「代田信濃屋」二階会議室で催された。地元の人を中心とした三十数名が参集した。この会をもってして「北沢川文化遺産保存の会」は正式に発足した。次回は、一月二十七日、現地見学会に開くことを決定して、そして散会した。
会の方からは担当者が出て、会の意図、また、文学碑建立の趣旨説明がなされた。その後で質疑応答を行った。その中で次のような質問があった。
「わたしらは子供のときから北沢用水と言っていて、北沢川とは言わなかったが」
呼称についての疑義が出された。会の方は、玉川上水の例を引いてつぎのように説明をした。
玉川上水は京王線の笹塚駅南で急に南西に向きを変えて大山方向に向かい、そしてまた今度は笹塚のとなりの幡ヶ谷駅方向をめざす。人工的につくられたのになぜそう屈曲するかというと水を一定の高度を保って流すために尾根筋に作られている。北沢川も用水ではあるが、玉川上水のような人工的なものではなく自然的な川を利用している。
「世田谷の河川と用水」(東京都世田谷区教育委員会、昭和52年発行)には北沢川については次のような説明がある。
北沢川(北沢用水)
北沢川は、旧上北沢村の山谷・殿竹(松沢病院の構内)あたりの凹地に僅かばかり湧出していたであろう水が途中の湧水を集めて東南流し、赤堤村、松原村、代田村、下北沢村などからの細流と合したものが原姿である。従って上北沢村あたりでは極めて水量の少ない細流であったものであろう。
この説明からすると、つぎのように考えてよいだろう。北沢川は、いわゆる武蔵野のハケが源流である。往古は落葉樹林に覆われていたものでその腐植土に蓄えられた水が谷の間で湧きだしていた。それがハケである。細流のハケから湧きだした水が集まって川を形成し、それが土地を削っていき川の形ができた。
「世田谷の河川と用水」ではつぎのように述べている。
玉川上水が完成(承応3年‥‥1564)してから4年後の万治元年(1658)上北沢村の地頭(旗本領主)中根壱岐守平十郎の家老長谷川団左衛門が、同村の富農鈴木左内・榎本文左右衛門と図って、村民の飲料水確保のため玉川上水の分水を出願して許可されたものであるが、多分寛文10年(1670)玉川上水路拡張工事の時点で農業用水にも転用できるようになったものである。
用水が田畑の灌漑用水に使用できるようになって生産高は当然増える。正保年間(1644-1648)の武蔵田圃簿によると用水開通前と後とでは生産量に大幅な違いがある。
代田 村高 75,000 田方 32,000 畑方 43.000(単位、石)であったが、代田は文政13年(1830)には田高 69石2斗四升一合(9町8反9畝14歩)となり、畑高は464石445升7合となった。
文久2年(1862)の下北沢村は 田高83石0升5合2勺 畑高227石0斗0合1勺となった。生産性が格段に増えたわけである。(「世田谷の河川と用水」による)
北沢川はもとは自然のハケが流れる川であった。それが玉川上水からの分水の許可が下りて水量が増え、米や野菜の生産高が飛躍的に増えた。それが生活を潤した。
2005年12月18日
下北沢X物語(443)〜荏原の里のマーケット戦争9〜
鉄道交点のマーケット戦争は盛衰の物語である。
自由が丘で「伊勢丹ストアー」は敗退した。目黒区八雲にある伊勢丹ストアーに伊勢丹カラーの鮮魚陳列ケースをお土産に置いて潰えてしまった。九月のことだ。
一方、下北沢に「オオゼキ」が進出してきて下北の人の流れを変え始めた。夕暮れどき店の前を通るとNO11まであるレジはすべてが埋まっている。店の前で若夫婦が「オオゼキ」のレジ袋を下げて通るのを見た。また、ゴミ捨て場に「オオゼキ」と名の記されたゴミが出るようになった。気づいてみると、岩手純情ブタを近隣の人が知らず知らずのうちに口にしていた。が、「オオゼキ」による張り手に従来の個人商店はやや苦心しているようにも思える。
スーパーの盛衰はドラマである。おもしろいことが起こった。自由が丘「伊勢丹ストアー」の跡に、新しいスーパーが開店した。12月15日のことである。その名を「キミサワ」と言う。荏原の里では知られていない店である。神奈川や静岡を中心としてドラッグストアーを展開している会社である。スーパーの展開は静岡県東部地域が中心のようだ。神奈川には横浜港南台、厚木、秦野に店がある。
荏原の里では無名である。それだけに興味がある。敗退した場所にまた開店する、何かの戦略を持ってこないと同じことになる。違いはなんだろうか、「ハックドラッグ自由が丘奥沢店・キミサワ自由が丘奥沢店12/15(木)同時オープン」とある。そして、「私たちは健康の総合提案です」とある。それはどういうことなのか、インターネット会社のホームページを開いてみた。そこにはこうあった。
近年、医療費の自己負担増、少子高齢化、医薬分業等の流れの中で、今後、予防医療にとどまらず、自らの健康維持、増進に関して、お客様の健康に対する市場ニーズは更に高まっていくと考えられ、このようなニーズを踏まえながら、平成17年度(第59期)より「健康維持・増進に関するソリューション」を確立するため、「業態特性」「人財特性」「販売特性」を中核とする新中期経営計画をスタートする予定であります。
少子高齢化社会の中で健康に対するニーズが高まっていく、それへの市場原理的な対応なのだろうか。その戦略がよく分からない。行って確かめるに限る。
開店四日目である。もうあたかも前から店があったかのように人は店に入っていく。伊勢丹時代は一階は総菜売り場だった。が、そのデリカはドラッグに変わっていた。その階下がスーパーである。肉や野菜を買った客は一安心して一階に戻ると腰痛、頭痛、眼のかすみを思い出す。湿布薬と目薬は買っておいた方がいいなと高齢の夫婦はそれぞれに持病関連コーナーに別れていくのだろうか。
2005年12月17日
下北沢X物語(442)〜下北沢一番街の詩の闘争2〜
萩原朔太郎の「氷島」は議論を呼んだ詩集である。この詩の自序の末尾には「昭和九年二月」とある。これは代田在住時である。代田の丘で編まれた作品である。
この詩に対する三好達治の批評、論調は鋭い。この詩集を批判している。「詩集『氷島』に就て」〜萩原朔太郎氏への私信〜、これは、昭和九年十一月号「四季」に掲載された。そこに「新年」を具体的な例として述べている。
仮に「新年」と題する一篇に就て、卑見を申し上げます。
新年
新年来り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凛然たる寒気の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔いて恨みず
百度もまた昨日の弾劾を新たにせむ。
なほ、一篇の途中ですが一言します。「われは尚悔いて恨みず」といふ一行にさしかかつて、読者は果たして容易に明瞭な表象を捕へうるでせうか、小生はここでまづ一度躓きます、そうして繰返し考へ直してみますが、どうも判きりとした貴家の詩感に触れ得ません。或は貴家は、言語の音声的触感に詩心を託してゐられるのかとも推察してみますが、詩句の意味の上で、無責任に読者をはぐらかすことはそれだからといつて濫りに許されようとも思はれません。(*旧漢字は新漢字に置き換えた)
三好達治全集 5 昭和三十九年 筑摩書房
下北沢一番街大通り、路地からひょいと出たとたん、凍結した路面が陽光を受けてまばゆく輝いていた。新年の到来をあらわす門松も反射光を受けて白く輝いていた。小田急踏切へと下る道路も霜で凍っている。肌を寒気が刺す、冬の朝の凛然とした寒気の中、この我らが居住している地球はその暦を新たにしたのだろうか。いやまさにしたに違いない。けれどもわたしは後悔して、不満や悲しみを持ちつづけることはしない‥‥。
町の現実情景から朔太郎は自己の悔恨について述べ至る。問題の箇所は「われは悔いて恨みず」のところである。三好達治はそこを批判する。「読者は果たして容易に明瞭な表象を捕へうるでせうか」、象徴的に言い表されたことが読み手に伝わるかということであろう。言われてみると確かにそこは忽然の変転ではある。
2005年12月16日
下北沢X物語(441)〜下北沢一番街の詩の闘争1〜
朝の、いつもの経路は二子通から、あずま通り、そして交番前踏切へと至るコースである。今日は、鎌倉通りを直進した。下北沢駅西口、井の頭線踏切では電車通過を5本待った。5両編成が濃密なダイヤで走っている綱渡りである。
下北沢2号踏切は車も人も含めて通行量が多い。遮断機を開ける時間まで考慮してダイヤは作られているはずである。今朝の冷え込みでたまたま布団から出るのを億劫がった通勤客がいた。久我山駅でそれが15人、たまたま3号車2扉に集中した。それで電車は10秒遅れた。そのことが原因して下北沢2号踏切はなかなか開かなかったのかもしれない。実際今日は路面には霜が降りていた。
井の頭線はステンレスカーである。が、それぞれの電車の前面は違った色の覆面をつけている。やっと藤色の電車をやり過ごして鎌倉通りを直進した。が、しばらくして右折した。目的地は下北沢新屋敷100八番地である。今はビルになっていて当時を偲ばせるものはなにもない。それでもわたしはしばらく自転車をその前に止めた。
昭和七年一月一日、萩原朔太郎はこの地で正月を迎えた。そのときの心境を「新年」という詩に託して述べている。詩集「氷島」に載ったそれには作者自注がある。つぎがそれである。
新年 新年来り、新年去り、地球は百度廻転すれども、宇宙に新しきものあることなし。年々歳々、我れは昨日の悔恨を繰返して、しかも自ら悔恨せず。よし人生は過失なるも、我が浴場するものは過失に非ず。いかんぞ一切を弾劾するも、昨日の悔恨を悔恨せん。新年来たり、百度過失を新たにするも、我は尚悲壮に耐え、決して、決して、悔いざるべし。昭和七年一月一日。これを新しき日記に書す。
萩原朔太郎 日本詩人全集14 新潮社 昭和四十一年
萩原朔太郎は昭和六年九月、「府下世田谷町下北沢新屋敷一○○八番地」へ越してきた。とすれば、昭和七年一月一日はここでの迎春となる。朔太郎が日記に記したそのときのことが物語的に思い起こされた。
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2005年12月15日
下北沢X物語(440)〜異文学衝突混在空間〜
北沢川は詩歌がきらめく川である。支流の森厳寺川、だいだらぼっち川まで含めると詩歌で染まった煌めき水が時としてあふれてしまいそうになる。
詩歌の創り手が居住していてそこで作品が創られたり編まれたりしただけではない。作詩方や作歌方も考え出された。下代田に住んでいた加藤楸邨は「真実感合」という俳句の奥義を北沢川河畔で掴んだ。「実相観入」という短歌詠方の核心をつかんだ斎藤茂吉も川辺にやってきた。
北沢川支流森厳寺川上流の北沢四丁目に住んでいた中村草田男も「万緑」という言葉を創った。「万緑の中吾子の歯生え初むる」という句から生まれた新しい季語である。これは北沢在住時代の昭和14年に出版出された「火の鳥」という句集に載ったもの、それから採られたものである。
伊藤文学さんの父親は伊藤祷一さんである。代田在住時代、斎藤茂吉がこの祷一さんを度々訪ねている。が、留守の時が多かったようだ。カメラ片手にあちこちと文学散歩していて不在だったのかもしれないと想像してしまった。
「世田谷の文学」は昭和四十四年に世田谷区教育委員会が発行している。そこに載っている「ふるさと世田谷文学地図」は彼の手になるものだ。世田谷区全部を巡る文学散歩案内だ。記事中に「代沢・北沢・代田付近」とあるがその北沢の記事を見ただけでも頭が混乱してくる。
北沢へはいりますと、ここには往年の白樺派の作家、『青銅の基督』の長与善郎、漱石門下で『夏目漱石』の小宮豊隆、『若い日』の網野菊、『別れも愉し』の宇野千代、『青い果実』の大谷藤子、『密猟者』の芥川賞作家、寒川光太郎『蕃界の女』の中村治平、『俘虜記』の大岡昇平、直木賞作家で『雲南守備隊』の木村荘十、『贋きりすと』の丸岡明、『田螺のうた』の岩倉政治、評論家の浅野晃飯島正らとこの付近は枚挙にいとまがありません。 特に、ここで忘れられない異色作家は『オリムポスの果実』の田中英光で、松沢病院をテーマにした晩年の作品には鬼気迫るものがあります。
詩人では、雑誌「時間」の北川冬彦、伊藤信吉、永瀬清子、別所梅之助ら、歌人では、雑誌『芸林』主宰の尾山篤二郎、『アララギ』同人で歌集『丘綾』の堀内通孝も北沢の住人だったのです。また、『近代短歌史』の渡辺順三、、雑誌『篁』の清水乙女に、『コスモス』の宮柊二も若き日に住んでいたと言っています。俳人では『ホトトギス』の大岡竜男に『万緑』の中村草田男、『山火』の福田蓼汀、一茶研究の川島つゆ、上甲平谷ら、多士済々のようである。
2005年12月14日
下北沢X物語(439)〜代沢サラダボールの戦争責任(上)〜
鉄道交点の街の衣をはがしてみたい。恋慕である。が、時に人は心変わりをする。他の街にちょっと心を移してみる。それは東横線と大井町線が交差している自由が丘である。自由が丘と下北沢の文化比較はおもしろい。
クリスマスイルミネーションは自由が丘の方が華やかであると思った。去年から点り出した青色のイルミネーションがここでも多く使われている。写真は駅前ローターリーの自由の女神像を撮ったものだ。この近くに洋菓子の老舗「モンブラン」がある。店の壁面いっぱいに東郷青児の絵が飾られている。優美でロマンチックな東郷独特の女性画である。これを宇野千代は売り歩いた。彼女の淡島物語とそれは繋がる。
「この壁面の絵、写真に撮ってもいいでしょうか」
「ああ、写真ですか、ダメですね」
モンブランの女店員からは言下に断られた。まず街の衣には振られてしまった。
東郷青児と宇野千代が住んでいたところは代沢サラダボールである。その東西を貫流しているのが北沢川である。南北は丘である。南のサミットには陸軍衛戍病院があった。その丘の中程あたりに俳人加藤集村は住んでいた。向かいの谷には軍関係の枢要人物の家々があった。杉山元帥邸、東条英機邸他である。横光利一もその一角に居住していた。
戦争は大きな価値転換であった。戦中から戦後にかけて生き延びた文芸人は多くが戦争責任を問われた。加藤楸邨もその一人である。下北沢鉄道交点のノースブロックに住んでいた中村草田男がその鉾先をサウスブロックに住んでいた彼に向けている。田川飛旅子の労作「加藤楸邨」(桜楓社 昭和六十年)では、そのことを次のようにまとめている。
草田男は、まず楸邨の主宰する「寒雷」が戦時中、軍部の勢力者と結びつき、それに便乗することによって勢力の拡大をはかったとし、楸邨の文芸人、社会人らしからぬ、世俗的汚穢をなじり、戦後の楸邨の出発がこれら過誤への深い払拭がなければ信用がおけないことをのべた。つぎに、草田男は日本伝統の定型短詩から現実性を失わせないためには、対象に忠実な「眼」がなくてはならぬ。その「眼」が「写生」であることをのべ、茂吉の「実相観入」には「眼」があるが、楸邨の「真実感合」には「眼」がない。この「眼」と季題が有機的に生かされれば、十七音は片言隻語めいていても暗示の範囲で真意が伝えられるといった。
2005年12月13日
下北沢X物語(438)〜池の上と池の下〜
小説「静」は著、「細東佐多夫」とあるが、ペンネームである。奥付に本名が記されている。斎籐定男氏である。荏原第一尋常小学校分教場、現在の代沢小学校で坂口安吾に教わった人だ。そのときのエピソードが載っているので廣島氏はこの本を貸してくれた。が、拾い読みをしていくと鉄道交点周辺の古い昔のことが鮮明に言い表されている。そこにはとても興味を惹かれた。
主人公である静弥は大正十三年埼玉の深谷近郊から東京世田谷に一家で引っ越してくる。十一歳のときのようである。まずは現在の松蔭女学校の近くに居住する。学校は「大きな農家でした。そのまわりは真っ暗な雑木林で生家の深谷市より暗い」とあった。池の上の有り様はつぎのように記されている。
当時、駅−−今の池ノ上駅−−近くには、ぼつぼつと七軒の商店がありましたが、六時になると商店は火を消し、八時になると真っ暗になりました。今と違って、下北沢の方が暗くて何もない所でした。下北沢に住んでいる人も、買い物には池ノ上までやってきていました。三角橋乗合バス自動車株式会社という、バスの本社があり、同級生の女性がそこに勤め、バスの衝突事故で亡くなったということもありました。
大正十三年頃と言えば、帝都線はまだ開通していない。この頃はむしろ下北沢よりも池ノ上や世田谷中原の方が開けていた。映画館や演芸館はない。下北沢2号踏切わきの佐山さんは笹塚まで歩いて映画を見に行ったと言う。池の上の人たちも同じだったろう。
横光利一は昭和3年にこの池ノ上、旧住所北沢二丁目一四五に新居を建てて、阿佐ヶ谷から引っ越してきた。北沢川に面した丘の南面中腹に越してきたのは風光のよさを選んでのことだろう。それと、この当時、下北沢よりも池ノ上の方が開けていた。下北沢から買い物にくるほど商店もこちらが充実していた。
淡島通り富士見坂の麓から池ノ上へと向かう通りがある。この道の正式名称は「東京都道420号鮫洲大山線」である。品川区から板橋区に至る路線である。淡島交差点から池ノ上駅を経て、三角橋へと通じる路線は狭隘区間で北からへの一方通行区間である。
2005年12月12日
下北沢X物語(437)〜下北沢の満州レッドカラー〜
いびつなXの街の衣を引き剥がしてみたい。そんな深層心理が自分にあるのではないかとふと思った。地図上ではないリアルな交点が目で見られる。線がクロスした地点にはヒミツがある、それをめくってみたい、そんな欲望が湧いてくるのではと思った。帰り道自転車を漕ぎならが下北沢を通りかかったときだ。
淡島で長年獣医をされてきた廣島文武氏には深い人脈がある。
動物好きの文化人の犬猫を診ている。森茉莉、中村汀女、尾崎士郎、長谷川町子など、ちょっと聞いただけでも著名な人物がつぎからつぎへと話から出てくる。覚えきれないほどだ。
その廣島氏が赤い表紙の本を貸してくれた。小説「静」とある。著者は細東佐多夫である。発行は平成七年である。「創業五十周年記念誌」とある。紅弥不動産株式会社、最高顧問とその略歴が記されてある。紅屋不動産は下北沢を営業地盤とした不動産屋である。小説はその創業者、満州引揚者の一代記であった。
下北沢は満州と繋がるということを前々から思っていた。先日、代田「邪宗門」で伊藤文学さんに会ったとき、彼からおもしろい話を聞いた。
「うちで昔出した本に『日本人馬賊王』っていうのがあってね、小日向白朗という人が書いたんだね。その話が映画化されるみたいだよ。北京オリンピックに合わせて撮るみたいなこといっていたね、タイトルは『赤い大地』とかにするらしいよ」
下北沢の出版文化には興味がある。第二書房、斎籐書店、文潮社などである。焼け跡で興された会社はほとんどが潰れた。
「のたれ死にする様を見てきたからね頑張ったんだよ」
伊藤文学さんがそう言うのを前に聞いたことがある。小出版社の生き残る道は険しい。それで詩歌から性愛へと路線を変えて今日まで生き残った。その紆余曲折のドラマはそのまま日本の文化裏面史である。出版した本のタイトルを年代順に並べると我々の生活の歴史、文化史が覗き見えてくる。
第二書房で出した本が機縁になって映画ができる。それも満州と繋がってそれが赤となる。興味深い展開だ。小説「静」の赤い表紙も実は満州の赤であった。紅屋不動産創業時のエピソードが「静」で語られている。
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2005年12月11日
下北沢X物語(437)〜下北沢の中村汀女(2)〜
ぱぁうぅぅぅ、と機関車の汽笛が前方で鳴った。たとたって、ととたって、と列車は車輪の音を立て走っている。夜もすっかり更けて子供らは座席に折り重なって寝ている。煤が臭く列車が揺れてなかなか寝に就けない。わたしは目を閉じた。するとがぁがぁうと音がして客車が震えた。自分の乗った上野行きの夜行列車と下りの列車が轟然とすれ違った。つい今し方別れた人々の方に行く列車もあるのだった。秋の闇を行く窓に灯りが過ぎる。
中村汀女は昭和十二年十月仙台から夜行に乗って上京した。夫の転任に伴うものだ。これは、彼女のつぎの句をもとにした物語的解釈である。
目をとぢて秋の夜汽車はすれちがふ(「汀女句集」)
転居は彼女三十七歳のときだ、仙台から北沢に越してきた。「中村汀女俳句集成 全一巻」(東京新聞出版局 昭和四十九年)の年譜にはこうある。
秋、東京税務監督局長に転任の主人につきて、仙台を発ち、世田谷区北沢一丁目の家に入る。濤美子三輪田高女に転入、男の子たちもそれぞれ小学校をかわる。
北沢の家に引っ越してきたときのことについては「汀女句集」に作品が載っている。
十月末北沢の家に入る
まだ犬もつながれしまま夕時雨
遮断機のあがれば子供夕時雨、
時雨るるや水をゆたかに井戸ポンプ
子等のものからりと乾き草枯るる
第一句、犬はシェパードのジンである。仙台では遊びに来た男の子のすねにがぶりと噛みついた犬だ。穴を掘る癖もある。それで鎖につないである。まだ慣れない土地で、犬はどこに行くか分からない。汀女は犬や猫が好きだ。その関係で淡島の獣医の廣島文武氏によく診てもらったようだ。
2005年12月10日
下北沢X物語(436)〜下北沢の中村汀女(1)〜
下北沢近辺の丘巡りをしていてたどり着いたのが代田珈琲店「邪宗門」である。ご主人はマジシャン、奥さんはひばりファンである。森茉莉の書斎代わりの店だったことで文学も関係はしていた。が、ここで存在が小さかったものが大きくなりつつある。文学である。
仕事の帰りに折々立ち寄っては文学好きの人と話をするようになった。そうしているうちにふと出た話は文学碑を建てたらどうだろかということだった。当初はちょっと思い描いた夢みたいなものだった。が、その文学の存在を一つ一つ調べていくうちに一帯が尋常ではない文芸文学空間であることに気づき始めた。「文学が圧縮され、凝縮されている地域、場である」ことが次第にあきらかになってきた。自分も驚き、人も目を瞠った。
「文学碑を建てよう」という話は、思いつき話から飛び出てしまった。次第に現実味を帯びてきた。あれあれと思う間にとうとうその準備会までできてしまった。「北沢川文化遺産を守る会」である。文化としたのは文学だけでは収容しきれない地域遺産があるからである。その準備会は二度ほど会合を持った。それで、年内に立ち上げ人会を開き、会を正式に発足させることに決定した。この情報は代田、代沢の町内会へも伝えられている。また、区の教育委員会や世田谷文学館までも伝わっているようだ。
立ち上げ人会は12月17日(土)2時から、代田信濃屋食品2階の会議室で開かれることになった。会が当面目指していることは、宮前橋から下代田橋までの間を「文学の小路」と名づけ、その間にある橋のたもとに案内板や文学碑を設置したいというものである。
代沢淡島で長く獣医をされていた廣島文武氏とは会の立ち上げの過程で出会った。ちょうど「文学の小路」、この区間を流れる人工河川のせせらぎに尽力された方である。代沢せせらぎ公園協議会代表である。
その廣島氏から中村汀女の北沢川の桜を詠んだ句があると聞いた。彼女の長女である小川濤美子氏の連絡先も教えてもらった。代田5丁目である。中村汀女が居住していた家である。何度か電話をしているが通じない。それで句集を調べてみた。「中村汀女俳句集成 全一巻」東京新聞出版局 昭和49年刊である。その中の「汀女句集」に「世田谷」と題された一文があり、北沢に越してきたばかりのときのことが載っていた。
世田谷で、初め北沢に四年、玄関脇に年々の石蕗の花。婢のゆきさんがよく働きよく夜濯もしてくれた。あちこちを一緒に暮らした飼い犬は可愛くて、夜も雨戸の外に寝てゐるヂンのけはひを聞くと何か安心をしたものだつた。やがてほど近い代田緑ヶ丘に居を定めたが越して来てもつと嬉しかつたことは先の隣組の方々が組長をつとめた私共に美しいお人形を届けて下さったこと。
子供達やうやう大きく、母をしのぐ背丈となつた。庭に一本好きな紅梅を植ゑた。蕾はことにに紅い。「紅梅の枝のしんまでまつ赤だ」と、小枝を折つて植木屋の小河原さんが私に教えてくれた。
2005年12月09日
下北沢X物語(435)〜荏原の里の開戦記念日〜
自分が乗っている自転車のサイクルコンピューターはいま5291,5キロを示している。日々荏原の里を巡り回って、その折々の印象、感想を記している。アナログの旅をデジタルに置き換えての発信である。こういうことも、とある瞬間に思いつく、今夕は若林の青い電飾のイルミネーションを見ながら思いついた言葉である。
きのうは12月8日、開戦記念日のことを話題にするつもりであった。が、6日に開店した下北沢のスーパーマーケット「オオゼキ」の話になった。荏原の里のスーパーマーケット戦争に気を取られてしまった。
情報は生きている現実が優先される。このブログなるものも生きている時間を書いている。が、このいまのの時間も過去を通過し、そこを潜り抜けて今にある。ことに太平洋戦争は大きな事件だった。敗戦は日本の命運、われわれの運命をも変えた。
戦後60年ということで報道ジャーナリズムは戦争関連の特集を組んで放送した。その中で「TBSテレビ放送50周年〜戦後60年特別企画〜『“ヒロシマ”…あの時、原爆投下は止められた…いま、明らかになる悲劇の真実』」は話題になった番組だ。ことに原爆を作った側の物理学者と被爆者の対話は息詰まるシーンだった。
被爆者の一人は藤井照子さんである。彼女は広島駅の手前で被爆した。運転している最中にとてつもない大きな光が走って音が爆発した。真っ暗な中を後部へ走っているときにすとんと穴に落ち込んでしまった。電車のモーターカバーが吹き飛ばされていて気づかずにそこに落ちた。が、逃げる途中、大切にしていた広電のマークを染め抜いた鉢巻きを忘れたこと気づいてそれを取りにもどった。方々が燃えさかる中を逃げた。その途中、家の下敷きになっている子供の声を聞いた。が、助けられなかった。そのことが今でも辛い、苦しいと前々から聞いていた。そのことが番組の中で再現されていた。
原爆の製造、投下、観測に関わったアメリカ人物理学者と藤井さんともう一人の被爆者が対峙した。被爆者がが謝罪を求めたことに対して博士は「リメンバー・パールハーバー?」と答えて、謝罪には応じなかった。一度のみならず二度、彼の口から「リメンバー・パールハーバー」という言葉が出てきた。
真珠湾奇襲攻撃に対する報復だという考えである。宣戦布告なく日本がアメリカを奇襲したことは紳士的にも許せないということだ。そのことのみならず広島・長崎への原爆投下が戦争を終結させたという考えに続く。番組のキャスターである筑紫哲也氏もアメリカ人の多くが今もそう考えていると述べていた。
一瞬にして十数万人を殺戮する兵器は使うべきではない。八月六日当日、爆心地周辺には大勢の学徒が建物疎開作業するために動員されていた。自己の生を振り返る間もなく一帯にいる市井人、女、子供を含めての何十万人の命を焼き殺す。生き残ったものも放射線被害を終生受ける。人が使ってはならない兵器である。原爆投下は許されないことだ。が、真珠湾攻撃が原爆投下の機縁を作ったことは確かである。
アメリカは敵国ドイツが原爆開発をしているのではないかという情報を得た。それに対してアメリカは膨大な予算をそそぎ込んで原爆開発をした。が、ヒットラー率いるドイツは日本より先に敗退した。莫大な開発費を使って作った原子爆弾は大義を求めてさまよい、結局はそれは日本に向かった。「リメンバー・パールハーバー」へとだ。アメリカの日本に対する憎悪が原子爆弾へと繋がった。奇襲攻撃に対する報復だと言う。
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2005年12月08日
下北沢X物語(434)〜荏原の町のマーケット戦争8〜
今日12月8日は開戦記念日だ。が、この言葉は風化しつつある。日々時間が過ぎて、それは歴史の彼方に埋もれつつある。今を生きていると現実の市場競争の方がおもしろいのかもしれない。
下北沢に進出してきた大関はついに土俵を張った。12月6日のことである。荏原の里のマーケット戦争の新たな展開である。ピーコックやとうきゅうストアのある自由が丘に伊勢丹ストアーが新たに開店したが、今秋早々に敗退してしまった。
そのあおりを受けて八雲にある伊勢丹ストアー目黒店が伊勢丹ファンで一時込み合った。が、魚類冷蔵陳列ケースのみがその名残となった。ダークグリーンの腰回りのそれは自由が丘店閉店の余波である。目ざとい客がそれをみつけて、「あれはね、自由が丘店にあったものよと」うわさしていた。目黒店も土日はそこそこ混むがふだんは比較的空いている。自由が丘店閉店のあおりもたちまちに消えた。
下北沢にはダイエーとピーコックがある。そこへ「オオゼキ」が進出してきた、かの力士の張り手は案外に強い。下北沢一番街の大月さんは客を持って行かれるのではないかと心配していた。下北沢駅前市場の店主の一人は客足の流れが変わって店が潤うかもしれないと期待をしていた。北口から南口への人の流れができて市場の中を多く人が通ると考えたようだ。
昨日帰りがけに「オオゼキ」に寄ってみた。もちろん自転車である。
下北沢のスーパーのウィークポイントは駐輪場である。ピーコックもダイエーも自転車が置けない。ピーコックの上の三省堂に行きたいと思うことがあるが、自転車の置き場がないのでそれもあきらめることが多い。駐輪場が心配だった。
あずま通りから店に入っていくと、おもいがけなくスーパー一階の北の壁際に自転車置き場があった。ミドル階級をターゲットにしているスーパーは自転車置き場は必須のものだ。荏原の里に進出して好成績を挙げているスーパーはチャリでの来訪を戦略に組み込んでいるようだ。
オオゼキ側は期待をこめての下北沢進出である。それで自転車置き場や出入り口あたりに大勢の人を配置してことに備えているようだった。入り口はジャンクなバザール感覚がオオゼキの特徴だ。青空市場的な果物配置である。野菜や果物がラップにくるまれることなくそのまま売られている。野菜の匂いで惹きつける。トマトやミカンは箱入りでの破格の値段での販売だ。大きな柿は一個50円である。白菜も半分で50円だ。野菜の匂いで釣って、特売の岩手純情ブタへと導く手法である。武蔵野の谷の攻略法を知っている。匂いが動物を導くことを。
下北沢南口方向から人が大勢やってくる。あずま通りへ抜ける道も混んでいた。ご祝儀来店、冷やかしなどもあるのだろう。それにしてもかなりの数の買い物客だ。
レジの番号は11まである。それぞれのレジにはピンクのカードが相当枚数おかれていた。「キャッシュバックカード」である。ポイントが貯まるとそれを現金にしてくれる。へそくり応援カードだ。自分でも実際に現金でもらったことがある。5000円ほどであったが、生で戻ってくる現金には生つばが出る。
2005年12月07日
下北沢X物語(433)〜のすたるぢや〜
「のすたるぢや」(新潮社 一九九四年)と題された写真集がある。萩原朔太郎写真作品、朔太郎自身が撮った写真のアルバムである。巻頭には萩原葉子の「父と立体写真」と題された文章が載っている。中心は萩原朔太郎自身が撮った写真作品である。巻末には萩原朔美のエッセイがある。朔太郎の孫である。
詩と写真、趣が異なるものだ。が、対象をどう見るかというとき、その目線や視点という点で同じであるように思える。萩原朔太郎の目のポエジーが収められた写真からも感じられるからだ。
本のサブタイトルには「詩人が撮ったもう一つの原風景」とある。詩語で切り取った風景とビジュアルな写真で切り取った風景とがあるということだ。そういうことで言えば興味深いものがある。
その写真というのも普通の写真ではない。立体写真である。萩原葉子はアルバムの巻頭文で、それをつぎのように説明している。
立体写真機はレンズが二つあり、それで撮った二枚同じ写真を横長の板に並べてステレオスコープで覗くと、立体に浮き上がって見えるのである。
四百字詰原稿用紙大くらいの大きさで、厚みは十センチ余りの箱形で(寸法は、はっきりとは覚えていないが)、覗いて見ると、風景や人物が浮き上がって見える。普通に見ると、何の変哲もない写真なのだが流れる滝はごうごうと音を立て、人間は生きてそこに立っているような摩訶不思議な第三次元の世界が現れた。
「のすたるぢや」(新潮社 一九九四年)
朔太郎を師と仰ぐ三好達治は彼を、「旅行嫌いの漂泊者/夢遊病者」と言い表している。 詩人は代田の家に閉じこもってはさすらいの旅に出ていた。ステレオスコープ世界を夢遊病者のようにさまよっていた。
書斎でこっそりとステレオスコープを覗いた。彼は自分が撮った「丘の道」の立体写真を見ていた。杉林の中を丘へとゆるゆると登っていくS字カーブが見えている。焦点が合って杉林の一本一本が浮き上がって見える。木の間を縫っている小道の両脇の雑草がゆるやかに風にそよいでいる。と、ある瞬間、詩人は気づくとその道を歩いていた。杉の木の香りがつぅんと匂った、そのときに頭上で四十雀が啼いた。林の向こうからは瀬音が聞こえる。が、辺りには人の気配はまったくない。歩きはじめると自分の足音だけがこだまする。
「ああ、足音のみがわずかばかりの命、索漠寂寥の道が続いていくのみだ……」
彼はとつぶやく。単色の灰色世界は行っても行っても果てがない。と、だれかが後ろから声を掛けた。詩人はぎくっとした。振り返ると人がいた。どこかで見かけた顔である。
「お父さま、お茶を淹れてもってきたの」
「ああ、そうか、おまえか」
詩人は娘の葉子が書斎に入ってきたことにやっと気づいた。
2005年12月06日
下北沢X物語(432)〜忘れていた開戦記念日〜
荏原の里自転車巡りはどのくらいの距離になったのか、いまさっき確かめに行ったら5222.6となっていた。なぜ懐中電灯を持ち出してサイクルコンピューターの数字を確認しにいったのか、それは明後日が開戦記念日であることにふと気づいたからである。
戦後六十年目の今年、あの戦争とはなんであったのか自分で調べ回った。千歳船橋の高射砲陣地、赤堤のB29墜落現場、特攻機見送り地点、靖国神社、荏原の里の軍事施設跡、それらを自転車でめぐりめぐった。用賀の谷の東條英機旧邸、その丘続きの近衛文麿の隠れ家の跡、そして、東條由布子さんと、北沢の東條英機邸跡を経めぐりもした。
8月15日には新宿紀伊國屋ホールで「六十年目の夏、今、そして未来‥‥」というシンポジウムを傍聴し、その後に上演された朗読劇「月光の夏」を観劇した。そこで劇の原作者毛利恒之氏と出会って、調布飛行場や成増飛行場にあった帝都防衛隊の話を知った。
戦争の痕跡は至る所にあった。下北沢鉄道交点も大きくその影響を受けている。が、この地域が焼け残ったことが町の運命を変えた。渋谷新宿は焼けて、その代替空間となったのが下北沢近辺だった。
けれども、戦争が勃発する前、下北沢は小田急線に帝都線が接続して利便性が格段によくなり大勢の人々が集まった。詩歌の発信者も多く集まった。下代田二二八、現在の代沢4丁目31番地、北沢川一本橋近くに越してきた俳人加藤楸邨もその一人だった。
ちょうどこの代沢在住時代に彼は開戦を迎える。自選百句の一句としているものの中に次の作品がある。
十二月八日霜の屋根幾万
中嶋鬼谷(「加藤楸邨」蝸牛俳句文庫34 蝸牛社 1999年)はこの句を次のように解している。
2005年12月05日
下北沢X物語(431)〜鉄道Xを面白がれば面白くなる〜
不思議である。日々こうやって文章を書いていると思いがけない発見をすることがある。鎌倉通りを自分はたどっている。具体的な道のイメージを思い浮かべながら書いている。そうしていると不思議な思いがしてくる。対象を怪しい、おもしろいと思う気持ちである。
自分の長い間の自転車紀行で拾った言葉がある。「よくすればよくなる」という言葉をくれたのは代田七人衆の末裔、柳下政治さんである。お稲荷さまに対する考えである。お稲荷様に尽くすと尽くしただけの甲斐がある、よくしなかったら報いがあるという考えである。
よくすればよくなる、それはおもしろく思えば面白くなるということだ。
韻律がなぜクロスするのだろうか。おもしろいなとそう思ったとたん、ミステリアスな興味が湧いてきた。なぜだろうと考えはじめた。
詩歌の発信者が北沢川沿岸、そして、鎌倉通り沿線に多く居住していた。
「おいみんな北沢川沿岸に行こう、鎌倉通り沿いに住もうよ」
そう言って集まってきたわけではない。それにはなにか理由があるはずだ。
古道と川には共通点がある。何であろうか。それは曲線である。川は湾曲し、屈曲する。古道も同じである。滝坂道などを自転車で走っていると弓のように曲がっていることに気づくことがある。鎌倉道も古い道の趣がある。地形に沿って道が走っている。鎌倉通りは鎌倉橋を過ぎると代田の丘にかかる。ゆるゆると曲がっている。頂点を越えてまた下る。下北沢3号踏切を渡って下って、北沢の丘を上るとき鍵形に道はまがっていく。が、地形を考えればそれもやむを得ないことだったのではないかと思う。
道や川の曲線は自然的なものである。獣道が大きくなって道になり、低い方を求めて水は流れを作った。古代的なものの継承である。川に沿って神社仏閣がある。道に沿って庚申塔や地蔵様がある。文化がそれらの川や道に沿って形成されてきた。古代は曲線である、それに対して近代は直線である。鉄道は後者である。
摩擦で走る鉄道は勾配や曲線を嫌う。なるべくまっすぐに走りたい。曲線や勾配はやむを得ないときに作られる。
下北沢を走っている鉄道はエックス形にクロスしている。直線と直線の交わりである。いわば近代の象徴だとも言える。ことにそれぞれ趣の異なった路線がぶつかっているということが特徴である。湘南裏道路線の小田急線、武蔵野短絡線の京王帝都、それが下北沢で斜めに交わっている。
2005年12月04日
下北沢X物語(430)〜韻律がクロスする川と道(上)〜
北沢川に架かる鎌倉橋、かつてはその下は深い淀みがあった。そのときの橋はない。が、遊歩道に流れている人工河川のせせらぎには名前が記された欄干がある。
「むかし、ここのたもとで七夕流しみたいなことをしましたよ。お線香を焚いて、おがんで、盆の飾りを川に流すというようなことしていましたね」
東條由布子さんからそう教えてもらった。
鎌倉通りが川を渡る。そのことから名がついたのだろう。川は北沢川である。古来の川と古道が交差する地点である。川辺を散策したのは齋藤茂吉、萩原朔太郎、下手に行って一本橋あたりにも短詩作家が住んでいた。俳人の加藤楸邨である。川の瀬音、川辺の鳥、沿岸の桜が作品に影を落としたことはないとは言えない。
三好達治は川からやや離れてはいるが彼の家に降った雨は北沢川に流れ注ぐ。北沢川水系である。晩年に書いた随筆にはもう一つ向こうの烏山川のドブのことを書き記している。が、北沢川の方が近い。彼も散策しては鶴ヶ丘橋のたもとで丘上の鉄塔61号を眺めたに違いない。終世師として慕ってやまない萩原朔太郎が住んでいたからである。
駒沢線鉄塔57号近くに住んでいた三好達治は他界した。宇野千代の紹介で代田一丁目一番地の岩崎方に越してきた。昭和24年のことだ。そこで一番最初に気づいたのはそばに鉄塔があることだ。57号である。かつて師匠宅に行ったときに何度も見た鉄塔だ。彼は引っ越してすぐに鉄塔をたどった。57,58,59、60号は北沢川のそばにあった。そこからはつぎの61号が見えた。が、師の家はなかった。空襲で焼けていた。
昭和17年、朔太郎が亡くなったとき、彼は心底悲嘆にくれた。師の死を悼む達治の「師よ、萩原朔太郎」と題された詩は痛恨に満ちている。彼の詩語よって朔太郎像が見事に彫り抜かれている。忘れ得ぬ師である。朔太郎を追慕しながらこの北沢川に沿った道を歩いたことが想起される。
東西をつっきる横軸が「韻律が響く川」としての北沢川である。齋藤茂吉、萩原朔太郎、加藤楸邨が行き交った。南北を貫く古道、鎌倉街道は詩歌街道である。
代田一丁目一番、淡島通り「パンの杜 木村屋」の角から北に延びる道がある。鎌倉通という表示がある。このパン屋のすぐ裏手に三好達治は住んでいた。岩波文庫の「三好達治詩集」の表紙には「昭和期を代表する最大の抒情詩人」とある。その彼が住んでいた代田一丁目一番が詩歌街道の始まりだ。まっすぐいくとすぐに鎌倉橋だ。
橋を渡って丘を上る。左手は代田二丁目だ。いまもここには著名な作詞家の白い家がある。その家のすぐ下は朔太郎旧居跡である。左方向に逸れないでまっすぐいくと踏切にぶつかる。小田急下北沢3号踏切だ。手前の右手に桜の樹が一本ある。
2005年12月03日
下北沢X物語(429)〜代田が匂う斎藤茂吉の短歌〜
齋藤茂吉の代田時代に詠まれた短歌は「つきかげ」と名づけられた歌集に載っている。彼の最終歌集である。齋藤茂吉全集3巻(「岩波書店」昭和49年)の後記に土屋文明が名の由来について記している。
「つきかげ」は、「白き山」につづくべき歌集で、齋藤先生の二十三年から、逝去までの短歌九百七十四首を収めたものである。二十八年の作品を缺くのは、一に先生の健康によるものである。「つきかげ」は先生自ら、歌集の題として善い名であると、佐藤佐太郎君に告げられたことがあるので、此の部分の作品集に名づけられる心持であつたか否かは明らかでないが、編集者等が、取つて此の集に題することにしたのである。
齋藤茂吉の代田への居住は昭和二十二年十一月四日からである。そして、昭和二十五年十一月三日十四日、新宿区大京町二二の新居に移った。二十八年二月二十五日に死去する。代田での生活は三年ほどであった。その後四谷大京町に移るが程なく病臥に伏す。そういうことでいえば、歌詠み人、齋藤茂吉として晩年の生命を燃やしたのは代田の地に他ならない。
代田が匂う短歌を「つきかげ」から拾っておく。旧漢字は都合上新漢字とした
帰京の歌
東北の町よりわれは帰り来りてあゝ東京の秋の夜の月
残年はあるか無きかの如くにて二階へのぼり真昼間も寝ぬ
猫柳の花
界隈にをん鳥をればあかつきの声あげむとしてその身はばたく
とほくより近づきたるごとく啼く冬あかつきの鵯鳥ひとつ
代田川のほとりにわれをいこはしむ柳の花もほほけそめつつ
二階にてきけば野球の放送す老懶の耳飽くや飽くやと
東京の春ゆかむとしてあらがねのせまきところに麦そよぎけり
東京
ひくく出でし東京の月まどかにて吾のこころのゆくへ知らずも
金の五月
この世界歎じわびたる冬過ぎてわれをおほはむ五月の金の光ひかり
うつくしき顔がにほひてまぢかくをとほりて行けりわれはまたたく
鴬
かしの実のひとり心をはぐくみてせまき二階に老いつつぞゐる
いやさらに老いしがごとく出でくれば三月尽の道氷りけり
冴えかへる
われの住む代田の家の二階より白糖のごとき富士山が見ゆ
鍵
わが家に隣れる家に或る一夜やむに止まれぬ野犬を生む
いつしかもサンマ・タイムになりゐたる代田の森空のありあけの月
静心
代田に住みて月のかがやきをふりさけしその一たびもおぼろになりぬ
戦後派の一首の歌に角砂糖の如き甘きもの少しありたり
無題
代田なる八幡宮の境内にわれは来りてまどろみゐたり
2005年12月02日
下北沢X物語(428)〜代田が匂う斎藤茂吉の短歌〜
齋藤茂吉の代田の土地の匂いがする作品を歌集「つきかげ」から拾ってみる。
きこえくる代田小路の紙芝居たたかひすぎてみとせといへば
齋藤茂吉は二階の自室で端座して考え事をしていた。と、遠くで拍子木が鳴った。そのうちに「そこに現れたいでたるは鞍馬天狗‥」という紙芝居屋の甲高いせりふが聞こえてきた。家々が軒を接した代田の路地に響くその声は深まった春ののどけさを思わせた。すると思い浮かんできたのはあの戦だった。そうか、もうあれが終わって三年も経つのか、三年といえばもう遠い昔、思いもしないうちに月日は過ぎて立ち去ってしまったことだ。
隣家より英語のこゑす生垣をへだてたるのみ富貴者の位置
孫の茂一をあやしているときにだった。聞きなれない言葉がお隣から聞こえてきた。耳を澄ますと誰かが聞き慣れない言葉をしゃべっている。日本語ではない、アクセントがシャープな語だった。きれいな発音の英語だ。大工を呼んでは折々修理させている古い我が家だった。けれどもお隣の家は新しくてしゃれている。背の低い生垣を巡らして隔てているだけだった。外国人もやってくる富貴者の家、それはほんの隣に位置してあるのだった。
東京にかへり来たりて川のべの梅が香しるきほとりにぞ居る
疎開先の山形から東京に引き上げてきて代田にやってきた。そこは川の辺、北沢川という細い川が家の向こうに流れていた。近くには赤や白の梅の樹が数多くあった。すぐそばの根津山は梅の名所としても名高いところだ。花が咲くとその香りが一帯に芳しく匂ってくる。荒々しい川面が時として逆巻く様が眺められる最上川辺の家とは全く違う。気候は温暖で穏やかで付近も静かである。そんなところにわたしは今は住まいしていることよ。
界隈に啼くうぐひすを飼鳥と錯まり聞きしこの三朝四朝
それは思いがけないことだった。ここ三四日の朝方、この代田界隈でしきりとウグイスの音色がする。「ホーホケキョ」というその鳴き声はとても懐かしいものだった。が、郊外と言っても東京である。野山にいるウグイスが鳴いているとは思えない。数軒先の秋元さんとか大場さんとか古くからある家で誰かが飼っているのだろうと思っていた。ところが注意して聞いているとあっちで啼いたと思うとこっちでも鳴く。本物の鶯だったのだ。
斎藤茂吉の代田生活を書き記しているのは長男の斎藤茂太である。歌人の生活の一こまが次のように描かれている。
2005年12月01日
下北沢X物語(427)〜代田鉄道音物語〜
土地の色合いというものが言葉につくということはある。土地独特のものである。例えば次のようなことである。
近所を通る小田急の音を孫共が、マネして、「デンゴロン、デンゴロン」と抑揚をつけて電車遊びをするのをみて、「フゥん、デンゴロンか、うまいな、デンゴロンは」と妙なところで感心するのであった。 「茂吉の体臭」 斎藤茂太 昭和三十九年 岩波書店
もちろんその擬声語に感じ入っているのは斎藤茂吉である。子供らが巧みに電車の音を捉えているからである。けれども現在はこういうことの中身がさっぱりわからない。なぜならその音源が消滅してしまったからである。
きょうの帰りがけの夕方に東北沢4号踏切にさしかかったとき遮断機が下りた。ぼんやりと線路を見ていると表面が急に明るくなって輝いた。下北沢駅方向を見ると鼻先の尖った白い車体が見える。その先に点った銀色光輝のヘッドライトがレールを照らしていた。シルキーホワイトの新型特急だ。踏切をゆっくりと通る。静かである。やがて、それを見送ると今度は東北沢方向からまたロマンスカーが下りてくる。レッドトレイン、従来型のロマンスカーである。
それが25パーミルの勾配を下ってくるが、ほとんど音がしない。住友金属工業製の車輪がぐぅるんぐぅるんとレールをこする音が聞こえるだけである。走行音が静かだ。かつては電車のモーター音、ジョイントを刻む音が電車の特徴だった。「デンゴロン、デンゴロン」はそれを表している。吊り掛けモーターという電車特有の音、ぐぅいんとそれが鳴って、車輪がごろんごろんと転がって、かたんかたんと走る。それらをひとまとめにして子供らが口で言う、巧みな形容だ、大人には思い付かない。
代田八幡神社の裏を走る音が、「デンゴロン、デンゴロン」であろう。それも上りではない。下りである。世田谷代田を出た下り電車は代田の丘をごろんごろんと急角度で下っていく。北沢川にえぐり取られた谷へ落ち込んでいく。「デンゴロン、デンゴロン」の速度を速めるには口の回転を早くする。すると八幡様の裏を勢いよく転がっていく小田原行きの電車が目に浮かんでくる。代田の坂を颯爽と下っていく電車の姿は近隣の子どもの鉄道ロマンだった。
小田急下北沢駅を出た電車は下北沢2号踏切にかかってカーブした勾配を上る、ここも25パーミルだ。カーブのRは600である。(小田急の車掌から聞いた)地図上でみると、鉄道交点の左足がうまいぐあいに跳ねている。それがこの曲線である。かつてドアが手動だった時代にはドアが開いていてそこから人が転げ落ちたこともあった。
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