2006年01月
2006年01月31日
下北沢Ｘ物語（４８７）〜宇野千代と三好達治３〜
月末晦日のきょうは、雨に濡れての自転車行だった。例年の暖冬傾向から今年は一転して厳冬である。それでも欅の小枝を見ると芽がぽつぽつと出ていてそれが雨滴に濡れていた。確実な季節の訪れである。
寒ければ寒いなりの季節願望というのはある。冷雨を浴びた分、温かい春を待ち望むとうのはある。が、季節が巡ってきた分、我々は齢を重ねる。恋女の宇野千代は代田の達治の死に顔に出会って己の老いを知った。
宇野千代が三好達治に会ったのは伊豆湯が島である。
私はまた、しばしば湯ヶ島へ出掛けるやうになりました。梶井を中心にして、三好達治、淀野隆三などが来てゐました。その頃の三好には、晩年の頃の彼のやうな気難しさはなく、梶井の言ふことには何でも従ってゐるやうに見える、素直な少年と言ふ印象でした。その頃から凡そ四十年もの長い間、三好とは途絶えたり、また出会ったりの長いつきあひでしたが、一人の男が、或る素直な魂を持ったまま老いて行く道程を見たように思われ、それはそのまま、この私自身の老いて行く姿でもあると思へました。
「私の文学的回想記」宇野千代 中央公論社 昭和四十七年
他者は自分の鏡である。三好達治の老いの道程は自分の老いでもある。折々、湯が島時代の記念写真を見ては往事を彼女は懐かしんだのだろうか。
湯ヶ島で撮った写真が一枚、今でも残ってゐますが、宿のドテラを着て、それでも軍隊式に直立不動の姿勢で立ってゐる三好、少ししなを作って、帯を胸一杯に高くしめ、黒縮緬の羽織を着てゐる私、私に睡眠薬のベロナールを呉れた紳士と、宿の犬と女中と言ふ一行でしたが、何故か梶井の姿はありません。陸軍幼年学校を中退して、東大に進んだ三好には、それから後も、どこか軍隊式の肩を張ったやうな姿勢があったのです。書き忘れましたが、彼らの湯が島時代は、何れもまだ東大に在学中であったと思ひます。
「私の文学的回想記」宇野千代 中央公論社 昭和四十七年
2006年01月30日
下北沢Ｘ物語（４８６）〜宇野千代と三好達治２〜
もう一月も月末だ。日が長くなって、夕暮れ時、西の空の薄紅色が家並みを縁取るようになった。が、今年は寒い。紅梅はまだ蕾を固く閉じたままだ。
今朝も、淡島通りを横切り、河野電気店の脇の路地に入って達治旧居跡のそばを通った。文学ドラマの館跡であるのに、そこには何食わぬ顔をして車が駐車しているだけだった。
この三好達治の死の知らせは、私と北原武夫を吃驚（びつくり）させた。わたしたちが駆けつけたときには、もう、そこに、佐多稲子、今日出海、小林秀雄、井伏鱒二などが集まっていた。私にとっては見慣れたその部屋の中に、三好達治は眠っていた。
宇野千代「生きて行く私」 角川文庫 平成八年
三好達治は昭和３９年４月５日、搬送先の田園調布中央病院で亡くなった。６３歳である。
去年の春その病院まで行ってみた。その帰途に駒沢線の鉄塔にぶつかった。三好達治の家の脇にある鉄塔は駒沢線５７号だった。６１号の下に住んだのは萩原朔太郎だった。思いがけない駒沢線との出会いだった。出くわした鉄塔番号は十幾つだった。番号一番は遠くない。それで鉄塔ＮＯ１を求めて南下した。すると東急池上線洗足池駅わきにたどり着いた。
その洗足池のそばには名馬池月の碑があった。萩原朔太郎の馬込の家のすぐそばには生食という名馬の碑を見つけた。馬込と洗足池は近い。この近辺で産出された二頭は宇治川の先陣をつかさどった歴史上の名馬である。
馬と詩人はなんの因縁因果もない。が、朔太郎と達治は詩界の名馬、詩の分野の新しい道を切り開いていった二人だ。いわば詩の世界の名馬だとも言える。それが代田サラダボールの北と南に住んでいて、詩を思索し、そして、亡くなくなった。鉄塔６１−鉄塔５７＝４、至近距離の四であり、詩である。
三好達治のお通夜は宇野千代が「見慣れたその部屋に」亡骸は眠っていたとあるから代田の家で行われたことがわかる。駆けつけた人々の名前の一部が「生きていく私」に載せられているが当時の文壇の粒ぞろいである。
続きを読む2006年01月29日
下北沢Ｘ物語（４８５）〜宇野千代と三好達治〜
宇野千代は東郷青児と別れて代沢赤門の近くの淡島を去った。そこを流れる北沢川とも縁がそれで切れたのかと思うとそうではない。昭和十七年五月代田の丘上で萩原朔太郎が亡くなったときに彼女はお通夜に来ている。また戦後になって折々この地域を訪れている。それは三好達治との関係である。
昭和元年の暮れ、肺結核を患った梶井基次郎を伊豆湯が島に転地療養させたのは三好達治である。翌、昭和二年尾崎士郎と宇野千代がこの温泉にやってくる。このときに多くの出会いが生まれた。三好達治が生涯師として慕った萩原朔太郎と出会ったのもここである。彼が宇野千代と顔見知りになった地点でもある
私と三好達治とは、私たちの湯ヶ島時代に、梶井基次郎たちと一緒のグループで、仲よくなってから、殆ど四十年もの間、断続したつき合いをしていたのであるから、友だちとしては、こんな我が儘の出来る間柄はなかった。
宇野千代「生きて行く私」 角川文庫 平成八年
こういう機縁から三好達治の東京の住まいは決まった。疎開先の福井県三国から引き揚げて来るとき彼は東京の寄留先を宇野千代に託した。同書にこうある。「『東京へ行きたいから、どこか小さい部家を見つけておいてくれ』と言う手紙が三好から来たときに、私は郊外の或る家の離れを借りて置いのであった」それが代田一丁目一番地の岩崎方だった。
三好達治は家族と一緒ではなく、たった一人で越してきた。どう言う訳で、一人で来たのか、と訊くことさえ、私はしなかった。この頃の二、三年、或いはそれが最後で、三好とのつき合いは、途切れたのであったかと思うが、わたしはその頃、しばしば、この三好の離れの家を訪ねたものであった。
生きて行く私 角川文庫 平成八年
淡島の地を去った宇野千代は、そのすぐ近くの三好達治の家を何度も訪れたという。渋谷から若林折り返し所行きのバスかタクシーかで行ったのだろう。そのバスや車が通るのは淡島通りである。渋谷方向から来て富士見坂を下る。そのすぐそばに淡島の白いコルビジェ風の家はあった。小説「色ざんげ」のもとになる話を東郷青児から聞き取った場所だ。内容は彼の情死事件の顛末だった。作中の「つゆ子」は情死事件の相手だ。その彼女が現実の本名、盈子となって宇野千代から東郷青児を奪い返す。千代に取っては悔しい恋敵であった。が、それはとおの昔のことだ。
2006年01月28日
下北沢Ｘ物語（４８４）〜松濤園、大山園、清風園（２）〜
駒場の松見坂に二、二六事件の首謀者の一人栗原安秀がいた。彼らが起こした軍事クーデターは失敗に終わり。捕らえられて陸軍刑務所に収監された。そして、処刑された。渋谷区役所脇の二、二六事件の慰霊塔がある。陸軍刑務所の跡である。駒場とそこの中間に松濤がある。「松濤園」があった。
そこには都知事公館、戸栗美術館、松濤美術館、観世能楽堂などがある。オーチャードホールのある東急Bunkamuraも松濤である。公園もある。鍋島松濤公園である。この一帯は佐賀藩鍋島家の所有によるものだ。かつて一帯は鍋島侯爵家が所持していた「松濤園」という茶畑だった。そこが後に分譲地として売り出されたようだ。
一帯の住宅地を自転車で巡ってみる。家々には監視カメラが設置されている。警備会社と契約した印の赤いマークのラベルがほとんどの家についている。回りをすべて石でかこった要塞のような家が目についた。緑が多く邸宅の一戸一戸の広さ、スケールが違うと思った。この松濤園は戦時中、空襲で焼けたようである。
松濤町と同じ渋谷区の北西に大山町がある。ここは焼け残った。ここも超のつく邸宅街である。区画が明確に区切られていて、静かである。ここは地形的に言うと「清風園」と同じ台地上にある。大山園は北沢との関連は深い。北沢の側から向こうを堀向こうと言った。玉川上水を隔てた向こう、そこが大山町である。現在の北沢五丁目はかつては大山谷と呼ばれた。谷を抜いて大山と名付けたと言われる。そこに「大山園」があった。その由来は所有者である鈴木善助が遊園地として敷地の一部を解放したことによるものであるようだ。
大山町は米占領軍が焼け残った邸宅を広範囲に接収した。戦後作られた進駐軍の地図には大山町に三桁のアラビア数字が多数書き込まれている。接収家屋の多さを表している。その広さから米軍の将校用住宅として使われた。
渋谷区の戦災地図を見ると大山町はすっぽと焼け残っている。Ｂ２９の絨毯爆撃から意図的に外されてでもいたかのようにも思える。一帯が爆撃を受けたのは昭和２０年５月２４日と２５日だ。その時点では太平洋戦争終結を米軍は既に見通していて爆撃しなかったのではないのか。そう疑っているほどである。あるいは千歳船橋の高射砲が打ち落としたクックチャーリーがこの一帯を爆撃するはずだったのだろうか。
2006年01月27日
下北沢Ｘ物語（４８３）〜北北因縁・北杜夫に北沢川〜
紀行作家の宮脇俊三は、小田急線も、帝都線も眺められる、見晴らしの良い北沢の丘にに住んでいた。日影山斜面である。戦後やむなくそこを手放さざるを得なくなり売り払った。その日本風家屋は「晴光園」という旅館になった。けれどもそれも壊され今はビルが建っている。
編集者だった彼は家を建てることになり土地を探した。北沢の丘上の生活の快適さから、彼の母親は井の頭沿線にぜひとも住みたいと言ったという。彼の願いでもあったろう。それが叶って東松原に住む。そして、その隣に北杜夫が引っ越してくることになる。
初めてこの地を訪れた……とそのときは思った……のは、旅行作家の宮脇俊三さんのおかげである。当時、宮脇さんは中央公論社の社員で、私の「どくとるマンボウ航海記」を作ってくだされ、一度遊びに来ませんかと言ってくれたのである。そこで宮脇さんと一緒に深夜タクシーに乗ったが、いざ松原界隈に差しかかると、なんだか細い道をずいぶん長いこと走ったような印象で、ひどく遠隔の地だと感じたものだ。なにしろ、その頃私は新宿御苑のそばの兄の家に居候しており、便利すぎる場所に住んでいたからだ。
（「東京セレクション」 花の巻 暮らしたまち 暮らしたいまち 住まいの図書館出版局 １９８８年刊 「松原」 北杜夫）
北杜夫がいう兄とは斎藤茂太である。世田谷代田から新宿御苑わきの四谷大京町に移っていった。茂太と杜夫の父の茂吉も代田からこの家に引っ越し、最晩年を送った。北杜夫はその兄の家に同居していた。が、妻帯していて家が必要だったようだ。宮脇俊三に誘われるままに彼の家の隣に家を新築した。
近くには、梅の名所として知られている羽根木公園もある。広大な梅園の他に、野球場やテニスコートも揃っており、犬を連れて散歩している人やジョギングをしている人も多い。
もっと驚いたことは、遠からぬ場所に梅ヶ丘病院があり、これは昔の私の家、青山能病院の本院の跡地なのだ。戦争末期、私立の精神病院は公立に併合され、松沢病院の分院となった後身である。ここにはしょっちゅう遊びに行って、患者さんの運動会に加わったりしたもので、「楡家の人びと」に出てくる病院なのである。それを知らずして、私は偶然にこの因縁のある松原に住むようになったのである。
そうして考えてみると、羽根木公園は昔の根津山の跡なのであった。かつての根津山は一面楢や櫟の林で、子供の私はここでカブトムシやカナブンを捕らえて愉しんだものだ。こうしてみると、青山の次にわたしにとって懐かしい地に住んでいるわけでおそらく一生住みつづけることになろう。
（「東京セレクション」 花の巻 暮らしたまち 暮らしたいまち 住まいの図書館出版局 １９８８年刊 「松原」 北杜夫）
2006年01月26日
下北沢Ｘ物語（４８２）〜狭霧立つ下北沢：吉増剛造世界２〜
「狭霧たつ下北沢」と吉増剛造は言う。sagiritatuの音の響きはいい。五音で、まるで下北沢にかぶせる枕詞のようである。「さぎり」の「さ」は接頭語である。サ行清音のリズムがよい。が、彼の詩は難解である。けれども彼の詩語はイメージを膨らませる。言葉が、跳ねて、飛んで、ぶつかって、また跳ねる。ふと気づくと意想外の世界に迷い込んでいる自分を発見する。
吉増剛造世界は虚像の中に実像の地名が織り込まれる。それは下北沢である。「狭霧たつ下北沢」は池の上視点に立ってのことではないかと思う。池の上と東北沢は南北に直交する一車線で結ばれている。日影山稜線上の道である。
狭霧たつ谷の様子が見事に眺められる地点である。が、下北沢が見下ろせる斜面はすべて建物でふさがっている。唯一眺望がきくところは小田急線が走っている斜面である。東北沢駅構内跨線橋や東北沢２号踏切はビューポイントである。下北沢盆地の底に光の水が溜まっている様が眺められる。それを見ては吉増剛造詩「頭脳の塔」を思い起こす。
朝霧たちこめ
狭霧たつ
地獄の扉へむかう
一九六九年八月十一日
不可解な、星に関する呪文をとなえつつ
歌を求めて
地獄へくだる
アンタレス！アンタレス！
恐るべき青色から薄紫へ
触角をもって色彩と直交する
踏切で、なぜ死骸を踏み渡ってゆくか
わずか数秒の、恐るべき生死境だ
狭霧たつ
下北沢あり
直立する原罪あり
いたるところに光が彫り込んだ罪の痕跡があり、いたる
ところに名前があり、地名があり、苗字があり、命名
された故に原罪化した地名の絶叫がある。一つ一つ数
えあげつつ道をゆけば、犬すべて凶暴なる表情にみ
る、恐るべきオデオン座あり、シリウスあり、オリオ
ンあり、となりに駒場あり
現代詩文庫４１ 吉増剛造詩集 思潮社 １９７１年発行
引用したのは「頭脳の塔」の一部である。この頭脳の塔は池の上的視点、日影山丘上的観点からのものだと思われる。下北沢盆地にかかる霧が遠望できる地点がこれらであるからだ。詩中にある一九六九年は昭和四十四年である。あるいはその頃は下北沢の街を南北に貫く森厳寺川はまだ暗渠化されないでいたのかもしれない。それで秋口にはその川面から霧が立っていた。その様子が日影山、今の東北沢や池の上方向から見えたのかもしれない。それが「狭霧たつ下北沢」だとすれば詩的に素敵だ。
2006年01月25日
下北沢Ｘ物語（４８１）〜 銀河Ｘ鉄道星雲団〜
円海稲荷が、
路地に潜む丘。
その東北沢から、
四本のレールの帯が、
サラダボールの底へと、
２５パーミルの斜度を、
金子ボクシングジムと、
元のオデヲン座を左手にして、
ビームを放って流れている。
レッドシグナルは、
潤むように流れて、
そして、街は赤く狭霧立つ。
東北沢４号踏切では、
ハーレーダビットソン１２００ｃｃの
銀のホイールが、
ゲイのジーンズの裾を揺らめかせる。
東北沢５号はよいどれ踏切、
レールにアンモニアの臭みと、
オニオンの切れっ端がこびりついて、
くわんくわんと踏切が鳴る。
すると、横町のバーでは、
２８歳のバンドマンが
サラミを食らう。
東北沢６号踏切は閉まりっぱなしで
小田急ワーストワン踏切
スーパーオオゼキ横目に
待ったばかりをかける遮断棒
それでも駅前北口市場行くために
大文豪の娘の森茉莉が
サナトリウム歩きをしていた
おもしろおかしいベストワン踏切
３１８９人を乗せた箱根湯本行き急行は
十両編成
住友金属製の車輪を４０個
ぐんぐる回して疾駆してくる
小田急運転士の心得
かつては質の巴屋の赤い看板が見えたところで
制御ハンドルコントローラー
きつめに一旦締めて
小指一本戻せば
連れ込み旅館のカタバミ荘の脇の
ホームの停止線柱にかっちり止まったもの
2006年01月24日
下北沢Ｘ物語（４８０）〜狭霧立つ下北沢：吉増剛造世界１〜
昭和七年、萩原朔太郎は下北沢新屋敷で「新年」を迎えた。そのときの心境を同名のタイトルでつぎのように書き記している。
新年來り／門松は白く光れり。／道路みな霜に凍りて／冬の凜烈たる寒氣の中／地球はその週暦を新たにするか。／われは尚悔いて恨みず
日本詩人全集１４ 萩原朔太郎 新潮社 昭和四十一年
下北沢一番街の元旦の様子である。この詩に弟子の三好達治が噛みついた。「地球はその週暦を新たにするか。」から「われは尚悔いて恨みず」という大転換が読み手に伝わらない。詩の「表象」とはなにかという問題を突きつけた。
その「新年」という詩が掲載された詩集は「氷島」である。代田の鉄塔６１号下の家で編まれ、そして昭和９年に発行されたものだ。その朔太郎を慕って「下北沢あたりを、朔太郎詩集を持って徘徊したことがたびたびあった。」（文芸読本「萩原朔太郎」河出書房新社 昭和５１年）と言うのは吉増剛造である。彼は同書で「朔太郎はいまもなお生きている、わたしにとっては『氷島』の朔太郎が、前橋と代田、下北沢を旅し」とも言う。
その吉増剛造は下北沢という地名を入れ込んだり、題材にした詩を多く創っている。行と行の連関と響きを問題にする三好達治が吉増剛造の詩を読んだらなんというだろうか。
吉増剛造の詩は読む者を圧倒する。「ああ／下北沢裂くべし、下北沢不吉、日常久しく恐怖が芽生え／る、なぜ下北沢、なぜ」（吉増剛造詩集「黄金詩編」思潮社）と言う。彼は下北沢X交点の秘密を知っているからそんなことを言うのだろうか。
引っ越した二つの住居の新屋敷寄りの中間点に、この踏切はある。不思議な傷口の様な、地底に通ずる目を、わたしはここに見た。あるいはあの隠密の目もここを過ぎて。（吉増剛造「猫町界隈」 イメージの冒険 １ 地図不思議な旅 河出書房新社 昭和５３年）
吉増剛蔵は小田急線下北沢２号踏切のことをこう述べている。萩原朔太郎は新屋敷から代田に移った。その中間点に下北沢２号踏切がある。実際、今もその踏切のそばに地蔵があって線路脇にひっそりと立っている。同じ家の子どもが踏みきりで続けて亡くなったことが石碑に刻んである。多くの犠牲者が出した踏切である。が、それは２号ではない。この踏切の西にある下北沢３号踏切での事故である。ちょうどカーブになっていて見通しが悪い。勾配もきついそこのことから電車が障害物を見つけてもすぐに停まらずに何人もが大人を含めて犠牲になった。英文学者の愛犬ジローもここで電車に轢かれて亡くなった。
けれども下北沢２号踏切不吉伝説はある。戦前の電車はドアエンジンがついていなかった。手動である。ドアは開いている場合もある。下北沢駅を出た下り電車は、下北沢２号踏切から始まるカーブにさしかかる。するとここらで遠心力が働く、乗客が振り落とされることがあった。また、この踏切脇にあったニコヨン労務者の用具置き場ではつぎつぎに首つり人が出た。これは戦後のことである。
2006年01月23日
下北沢Ｘ物語（４７９）〜代澤小学校開校記念日（１２６周年）〜
先日、廣島文武氏から「代澤」と題された見開き一枚の印刷物をもらった。世田谷区立代沢小学校が出している学校だより・１月号である。そこにはつぎのように書き記されている。
本校は来る１月２３日、１２６歳の誕生日を迎えます。開校記念日で学校はお休みです。この日にちなんで、学校の歴史を振り返ってみます。
明治１３年（１８８１）、代沢小学校は、東京府荏原郡下北沢村伊藤伝吉宅に代沢小学校として開校しました。この代沢小学校の前身は、江戸時代末・安政年間から続いている寺子屋であったと伝えられています。この寺子屋は、代田の「代」と下北沢の「沢」を採って「代沢塾」と称したそうです。明治になってから世の変遷とともに、ここに学ぶ子どもの数が増え、寺子屋の一室では手狭となりました。そこで、代田村・下北沢村の有志の方達が「公立学校伺」を提出して認可され、「代沢小学校」が開業したと言われています。その後、時の行政上の要請により、荏原尋常小学校（元若林小）、第二荏原尋常小学校（現三宿小）の分教場となった時代もありました。この間の大正１４年、小説家坂口安吾氏が代用教員として赴任し、下北沢分教場（代沢小）に１年間勤務して、５年生を担任したそうです。この時の話は、坂口安吾撰集の「風と光と二十の私と」という短編に描かれています。
昭和に入って、分校では不便があることを感じ、町当局に懇請して、昭和２年７月７日東京府荏原郡代沢尋常小学校設立が認可されて独立しました。設立当時は児童数は４２５名８学級でした。その後、小田急線、京王井の頭線の開通により下北沢の町が発展するとともに児童数が急増していきました。昭和１５年には児童数１８０３人、３０学級という大規模校の時代もありました。昭和１６年、代沢国民学校に校名変更し、戦時中は長野県への学童集団疎開も行われました。昭和２０年５月２５日から２６日にかけて、新宿・渋谷・世田谷方面は空襲を受け、近隣校は多く校舎を焼失しましたが、代沢小学校は幸いにも被害を免れたそうです。
昭和２２年、世田谷区立代沢小学校に校名変更。現在にいたっています。
学校の歴史は町のそれである。学校はちょうど森厳寺脇の支流と北沢川本流が合する地点にある。学校のすぐ北にその森厳寺があり、北澤八幡宮がある。かつての村の中心地だったところだ。その好位置を選びとったのは地域が子どもに未来を託したからであろう。それは名前への拘りからも分かる。「代田」と「北澤」から一字ずつ採って命名した。代沢は「だいだらぼっちの丘」と「澤筋谷筋の地」という意味合いである。
2006年01月22日
下北沢Ｘ物語（４７８）〜北原武夫・井上友一郎・田村泰次郎２〜
北沢川文学物語は人間の因縁物語だ。小河小説が思いがけず大河小説への可能性を持ってきた。昭和二年宇野千代は、伊豆湯が島に避暑がてら滞在する。そのときに梶井基次郎と出会う。その前年の暮れに「しばしば喀血する同宿の梶井基次郎をすすめて伊豆湯ヶ島に転地療養せしめ」（三好達治年譜）たのは三好達治である。
湯が島で宇野千代はこの梶井基次郎と知り合った。が、「湯ヶ島における千代と梶井の噂が馬込の評判となり、この正月から士郎は家を出て、カフェ・ライオンの少女古賀清子と、友人宅をやホテルを転々とし」（宇野千代年譜）と尾崎士郎と宇野千代の仲は冷めていく。そういう過程の中で梶井基次郎に名づけてもらった「罌粟はなぜ紅い」という新聞連載小説を宇野千代は書き始める。そのときに情死事件の取材に迫られて、それを起こした東郷青児に連絡を取る。するとすぐ来いとのことで出会う。たちまちに恋に落ちた二人である。が、男女の出会いははかない。たちまちに別れることになる。東郷青児が心中事件の相手盈子と縒りを戻したからだ。
宇野千代はその彼女を「色ざんげ」では「つゆ子」として登場させ、彼女の心の襞まで分け入って物語上で動かしていた。この小説のフィナーレ部分では湯浅穣二が渋谷駅で回想する。「そう言えばすぐそこの窓から見える白いプラットフォームで僕は幾度もつゆ子を待ったものである。」と。物語を過去形で終わらせている。けれどもそのつゆ子は書き手の思惑とは別に小説から飛び出した。そして、本名の盈子となって宇野千代から東郷青児を奪い返す。それは物語ではなく現実ドラマである。
宇野千代にとっては相当なショックである。「生きていく私」という回想記にも「盈子のことでぐしゃっとなった」、この「ぐしゃ」っとなるという動詞が二回も使われている。精神的に相当応えたことの証しだ。が、彼女は頭の切り替えが早い。次の恋人を見つけ果敢にアタックしていく。四谷に住む彼女を取材に来た都新聞の記者に惚れ込む。
私が最初の一面識から、この北原に対して異常な印象を受けたことは、信じ難いほどであった。それからあとわたしは、毎日のように北原の勤めている都新聞社の受付に行き、「北原さんはいらっしゃるでしょうか」と言って、呼び出しに行ったものであった。「あの女に会うのは危険だ。会うのをやめた方が好い」と北原の上司が頻りにとめたと言うことをあとで聞いた。私の悪名はとどろいていたからである。
宇野千代 「生きていく私」角川文庫 平成八年
危ない女の恋の距離は長い。岩国、札幌、そして、馬込・尾崎士郎、湯が島・梶井基次郎、世田谷山崎、淡島・東郷青児、四谷・北原武夫である。日本を駆け巡る恋である。
2006年01月21日
下北沢Ｘ物語（４７７）〜北原武夫・井上友一郎・田村泰次郎〜
機械文明は日々生活を便利にする。ことに情報伝達の進歩発展は、人の心が追いつかないほどの速達性と即時性を持ってきた。情報の発信先は見えない。いわば虚構世界だ。ネットや携帯の進歩は実生活をますます虚構のものへと変えていく。在りもしない架空空間があたかも本当にあるかのように錯覚してしまう。
ときたま電車に乗ることがある。するとほとんどの人がポケットやバックから「くの字」を取りだし夢中になって覗いたり、ボタンをいじってメールを発信したりしている。現実空間よりも画面空間が刺激的であるようだ。
機械が単純に並べた文字列は清潔である。いま書いている文章も見た目を意識して字体やフォントなどが工夫されている。ところが、現実は乱雑だ。自分の机のまわりは資料が散乱していて積み上げられている。情報が悲鳴を上げている。人間の記憶の資料棚もほんとうはめちゃくちゃでその中に情報が雑魚寝している。整然とはしていない。でこぼこがあったり、まがりくねっていたり、それが人間である。パソコンや携帯を通してみるとあたかも整然と並んでいるように見える。が、それは嘘である。
生臭い人間というのが本当だ。脂ぎった顔が神経質にキーを叩いている。キーボードの「Ｆ」のに下についている横棒には微かに手あかの跡がある。それが打ち手の歴戦を物語る。ネット上の高層楼閣はそのキータッチによって築き上げられた。その電脳楼閣の虚構がいま次々に暴かれはじめている。
事件に対する批判や批評は、道義や倫理をを持ち出して声高にそれを叫んでいる。が、人間が人間の首を絞め始めている機械文明への警鐘はない。機械スピードが人の精神スピードを遙かに上回っている。それを許容し、容認してきたのはわれわれである。情報が高速で行き交うとき、ネットの情報は瞬時で変化する。瞬間判断が求められる。が、その際には欲望や・獣性が優先する。どう儲けるかというカンである。一発勝負のキータッチが勝敗を分けるとすれば倫理よりも利益である。利益優先社会、競争社会は道義、倫理を既に喪失している。まともに働いて、生活を築き上げるという感覚の喪失でもある。表面上の取り繕いがあたかも真実であるかのような情報の喧伝は見た目の美しさのみに人をひきずっていく。
ネットの難点を述べているわけである。が、利点はある。このブログ自体そうである。情報の速達性はある。ここで発信した情報がネット上にすぐに伝わる。「森厳寺」で検索（グーグル）するとここで取り上げた富士塚の記事がトップに来るようになった。
2006年01月20日
下北沢Ｘ物語（４７６）〜「色ざんげ」と「肉体の門」の至近距離２〜
イケメンの色懺悔が語られた淡島のコルビジェ風の家だった。その話をもとに宇野千代は小説「色ざんげ」を書き上げた。が、かつての痕跡もすべてがなくなろうとしている。
「コルビジェ風のアトリエの前にあった芝生は綺麗だった」、「近隣の欅などの緑に囲まれたまっ白な家は素敵でしたよ」などという人々の記憶すらもやがて消え去るだろう。そう思って青いビニールシートがかけられたその龍村旧邸跡を離れた。その時に、サイクルコンピューターの距離計を零にした。思い当たる点があったからだ。
「龍村」邸に面した裏路地を東にたどる。すぐに右手丘下から登ってきた道路にぶつかる。都道４２０号大山鮫洲線だ。と言っても双方向に行き交う車がやっとすれ違えるほどの道だ。それを左にたどる。するとすぐに丘の中腹に豪壮なマンションが見えてくる。そこで立ち止まって距離を確認する。龍村邸跡から１２０メートルほどの距離だ。
大理石の太い門柱には金色の四角いプレートが貼り付けてある。「ＴＡＭＵＲＡ ＡＰＡＲＴＭＥＮＴ」とある。田村泰次郎邸に建ったマンションであると言われている。彼の代表作は「肉体の門」である。「色ざんげ」と「肉体の門」の距離はわずか百二十メートルである。
戦前の性と戦後の性の至近距離である。が、「肉体の門」はここで書かれたわけではない。田村泰次郎が最晩年を過ごしたところだ。けれども性は人間の根源、赤裸々な様である。それが時代は異なるとは言え文学で近接していた。
田村泰次郎が敗戦後肉体作家として爆発的な人気を獲得したのは、復員の年に「世界文化」という雑誌に発表した「肉体の悪魔」と、それにつづけて、翌年の二十二年に「群像」に発表した「肉体の門」からである。殊に「肉体の門」キッカケになって爆発的人気を生んだのである。当時の「群像」の記者だった大久保房男の「田村泰次郎と『肉体の門』という一文を読むと、その人気の凄さがよくわかる。”それ（「肉体の門」）が昭和二十二年の三月号に発表されると大変な評判になり、空気座が新宿で上演してからますます評判になった。編集部全員がその芝居を見せてもらったが、客は超満員だったけれども私は感心しなかった。その芝居は大変受けたのであちこちに贋物が出まわった。空気座が九州へ巡業したとき、その前に既に贋物が興行した後だったので客が入らず、そのため解散の憂き目にあったともいわれたりした。私は「肉体の裏門」という題をどこかで見たことがある。「肉体の閂」という外題の芝居もあったらしく、その閂の中は見えないように細く書いてあったという話も聞いた。”（浅見淵による「田村泰次郎」解説：旧漢字は新漢字にしたＫ）
日本現代文学全集 ９４「北原武夫 井上友一郎 田村泰次郎」 昭和四十三年
2006年01月19日
下北沢Ｘ物語（４７５）〜「色ざんげ」と「肉体の門」の至近距離〜
ペダルを漕いでいく経路はその折々で異なる。気まぐれなときもある。と、ふとあれはどうなったのだという思いが湧いてくると、ハンドルはそちらへ向かう。すると「あれあれこうなってしまったのか」と思う場合がある。それでここ二三日は、淡島方面を通っていくことにしている。宇野千代「色ざんげ」の跡がもうすっかり消えてしまったからだ。
京都の織元だという「龍村」家所有の家が淡島にあった。東郷青児と宇野千代が建てた白いコルビジェ風の家を所有していと聞いていた。が、その家は壊され、跡は分割、分売されて、新しい家が何軒も建った。隣にあった「龍村」と表札のある家も、すっかり壊されてしまい。「分譲中」と書かれた幟が立っているのを見かけた。
画家の東郷青児と宇野千代が住んでいた家は昭和六年に建った。
世田谷の淡島に、四五百坪の土地を借りました。忽ち、家の柱が建ちました。屋根ができました。見る見る、そのコルビジェ風のハイカラな家が出来上がりさうなのを見て、流石に私たちは狼狽てました。
宇野千代 「私の文学的回想記」中央公論社 昭和四十七年
当時のモダンボーイとモダンガールの愛の巣であった。代沢、かつての下代田の南面の丘に出来上がった。周囲の緑に鮮やかに映える白だった。すぐ近くに駒場野に鷹狩りに来た将軍が休憩したという阿川家がある。今も紅殻塗りの大きな赤門が残っている。その朱赤に対照する白である。色合いが明確に意識されていたように思う。
近隣は欅の多い地域だ。さして遠くないところには北沢川を挟んで柳下家の大欅があった。その樹木を吹き抜ける音は俳人を隠岐への旅、漂泊へと誘った。下代田の樹木のざわめきは一面では悩ましくもあった。
モダンガールとモダンボーイは南面する川の瀬音、それに欅の間を吹く風音を聞きながら寝物語にふける。千代が青児に甘えた声で「ねぇ、どうだったの？」と聞く。彼の情事の顛末である。
どこから話したら好いいのかな、と暫く考えてから彼はゆっくりと語り始めた。外国から帰って間もなく蒲田に二階二間階下三間くらいの小さな家を借りて、僕は二階、女房と子供は階下でまるで別々の生活を始めた‥‥‥
宇野千代 色ざんげ 昭和五十五年 新潮文庫
2006年01月18日
下北沢Ｘ物語（４７４）〜再び「代田川」考〜
今朝は環状７号線を北上し、代田宮前橋から緑道沿いを淡島まで下った。
すぐに代田円乗院だ、寺の参道のお地蔵さんの前掛けと頭巾が色鮮やかだった。（写真）代田の女流歌人斎田小枝子はここに眠っているという。彼女の歌碑の文字選びが難しい。辞世の歌があるが、歌碑となると生が断ち切られるものよりも次代に生きるものがいいのかもしれないと寺の山門に立って考えた。
円乗院から寺前橋を通って、鶴ヶ丘橋に向かう。この辺りでのことを斎藤茂吉は歌に詠んだのではないかと想像している。
代田川のほとりにわれをいこはしむ柳の花もほほけそめつつ
斎藤茂吉の最終歌集「つきかげ」に載った歌である。散歩途中の歌人に安らぎを覚えさせてくれる花は猫柳の花である。ここに使われている言葉に前からひっかかっている。「ほほけそめつつ」である。一番ひっかかるのは「ほほけ」である。文法的には「そめ（初め）にかかっていく動詞の連用形だろう。終止形は、「ほほく」か「ほほける」だ。日本国語大辞典（小学館）には「ぼぼける」がある。ほぐれ乱れる、毛羽立つ、という動詞だ。けれども「ぼぼけそめつつ」だと音律が濁ってしまう点が気になる、そうであっても、意味上は通じる。
猫柳は早春に咲く花である。春の訪れとともに芽吹いてそれが次第に変化していく。まず、花芽は赤っぽい。それがしだいしだいにほぐれて銀色になっていく。その時分が一番美しい。「そめ」は、なになにし始める様である。銀白色の花が芽吹いてくる頃を言ったものであろう。そうすると、「代田川のほとりにわたしの心をやわらげてくれる銀白色の猫柳の花がほぐれ、咲き初めつつあることよ」というふうになるのであろうか。
早春の頃だ、代田川のほとりをわたしは散歩していた。すると銀白色の猫柳がちょうど芽吹いてほぐれ始めた頃で、折しも春の日に点点と輝くその様を見て心をほのぼのとさせたことよ。
意訳するとこうなろうか。が、「ぼぼく」は音韻的にひっかかるところだ。「ほほえむ」という動詞には「花が開く」という意味もある。猫柳の銀白色の花芽は、赤からオレンジに変化する。そのときのことを言ったものだろうかとも想像した。
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2006年01月17日
下北沢Ｘ物語（４７３）〜鉄道Ｘクロッシングの美学〜
住友金属工業製の電車の鉄輪
Ｘ形に交わった剣の研磨を怠らない。
斜めに交差した煌めくレール。
東北沢５号踏切から下北沢駅方向を眺めると
青信号が線路の踏面に滲んでいる。
地上を這ってゆくそれは小田急線。
その真上の高架を光の車列が
左手前から右奥に
斜めに過ぎって走っていく。
それは井の頭線、
ビジュアルなXクロッシング光景だ。
作家の石川淳は昭和２２年から２４年にかけて北沢に住んでいた。無頼派と称されるがその中でも異色である。独特の境地を切り開いた文芸家、知的感覚の鋭い作家である。北沢時代に上梓した作品に「無尽燈」というものがある。その小説のフレーズが目に留まった。
人間精神がいかに美しい働きをするか、まのあたりに知ろうとすれば、精神が物質とたたかつてつひにそれを征服したところの形式に於いて見とどけるほかはない。精神の運動はいつも物質の運動よりも速いだろう。また精神の達すべき目的は、物質の達すべき目的よりも、かならずや高次の世界にあるだろう。われわれは精神に依つて征服された物質の実例を機械一般に於て見てゐる。飛行機を美しいと見るのは精神と物質とがあい撲つところの形式をそこにみることに他ならない。
「無尽燈」現代日本文学７６ 筑摩書房 昭和四十四年
眼前の現象世界の大本を探ろうと常に目を光らせている作家のように思える。土着性とかは縁遠い。北沢地区でも二度転居している。代沢の丘の麓から丘上へである。漂泊性を持った作家ではないかというカンが働いた。そう思っていたら「東京での放浪的生活に入る。住居は、神楽坂、高円寺、深川富川町、本郷弓町などを転々とし」と「石川淳研究」（渡辺喜一郎 明治書院）にあった。およそ土着性を持たない作家のように思えた。北沢時代のものに居住地のことを書いたものはないか調べているが見つからない。恐らくないであろう。
高次元からの現象把握は巧みである。「白頭吟」と題された小説に「日本にゐるかぎり、どうしても日本語の壁にぶつかるね」と登場人物に言わせているが石川淳の風土批評である。下北沢の自分で述べるところのXの美学も彼の言葉を借りるとうまく説明できる。
「鉄道がX形に交差するのを美しいと見るのは精神と物質とがあい撲つところの形式をそこに見ることに他ならない。」と述べてみる。物質の形式性に自分の精神をそこに預けているから、美しいと思えるのだろう。物質と精神とが合い撲てばその魅力に惹かれるということになる。ということからすると、わたしはX美学の信奉者である。
折々である、いつもではない、断っておくがときどきである、用もないのに、ｍｓｎのインターネット地図を開いて下北沢を見ることがある。Ｘ交点にカーソルを合わせて、１／３１２５の縮尺で見るとみごとなクロッシングが現れる。エックス浪漫の根源はここにある。自分一人の妄想ではないと思う
2006年01月16日
下北沢Ｘ物語（４７２）〜三好達治と横光利一（下）〜
横光利一全集、第二十巻の月報に載った三好達治文章についてである。それは「會寧の虎」と題されている。
「何でも大正初年頃の咄である。朝鮮咸鏡北道會寧府に會寧館といふ看板をかかげた旅館があつた。」という書き出しで始まっている。この旅館の主人がとあるとき仔猫を拾ってきて育てていた。するとみるみる毛並みの立派な親猫に育った。普通の三倍もあるほどだ。ところが、それはじつは虎だったという。あまりの立派さに恐れをなした主人は座敷牢閉じこめて飼っていた。が、猛虎は手に負えず京城府の動物園に寄進したと言う。
三好達治はその會寧府に後に赴いて、「會寧館の虎」と題された絵葉書を手にいれた。それに興味を持って人に聞いてみて、そのエピソードを知ったと言う。以下は三好達治の文章である。
奇談だから私はこれをある時友人の佐藤正彰君に語つた。佐藤正彰君はある時辰野隆先生に語つた。辰野博士は辯舌家であるからこれを方々でお話しになつた。話はかくして方方を轉々してゐる間に、北鮮地方の高梁畑で猫の仔を拾つたのは、會寧館の親爺ではなく私自身となつてしまつた。
「君は朝鮮で虎の子を拾つたさうですね。」
横光さんはある時私の顔を見ると突然さういはれた。
「なかなか面白い話だから、この間小説の中に書いておきましたよ‥‥」
私はその小説のそこの條りを、その頃連載されてゐた新聞の夕刊で讀んでゐたから先刻承知はしてゐたが、返答に窮して苦が笑をしてゐると、
「あの虎を、どうしました、君は‥‥」
いつもむつつりと不機嫌な顔で酒を飲んでゐた横光さんにもなかなかユーモラスな一面があつた。會寧府以外で拾われた虎の仔も、昭和初頭の新文學に何かの因縁があつたといふものである。 （横光利一全集月報 第十五号 改造社）
三好達治を虎と知らずに猫を拾った詩人とでも紹介しているのだろうか。
2006年01月15日
下北沢Ｘ物語（４７１）〜三好達治と横光利一（上）〜
帝都電鉄の文学を調べるため資料を探していた。当てがあった。横光利一である。彼の作品「夜の靴」にその記述があったのを覚えている。それでしまっておいた全集を取り出してみた。ネットオークションで購入したものである。本体価格よりも送料の方が高くついたものだ。「夜の靴」はその全集の第二十巻に載っていた。改造社版のそれは古色蒼然としている。開いた本から黄ばんだ月報がひらりと一枚こぼれ出てきた。見ると昭和二十四年六月とある。全集月報１５号である。
その巻頭には「友横光利一の霊に」と題された稲垣足穂の文章があった。「今や未来派も新感覚派も悲しく、横光君！死に近き頃、神秘精神の君の道徳、独自の限定と構成、君は戦ひすぎた。異神を追ひて世界性の喪失、日本インテリゲンチャの悲劇だった。宇宙霊の目に見えざる波長は、君を選んだのだろうか。」（旧漢字は新漢字にした）とある。
横光利一は昭和二十二年十二月三十日に亡くなった。四十九歳であった。医学的には胃潰瘍であったが、戦後になって彼が戦中にみそぎなどをしたことに対しての批判が起こった、戦争責任である、それを問われたことで彼は精神的に疲労し、そのことが命を縮めた。稲垣のは新感覚派の頭領の早世を悼んだものである。
稲垣足穂のつぎに載っているのが三好達治である。全集の月報の類は興味深いものがある。本体が本流なら月報、付録は傍流である。気を緩めて書いているとも思えないが、しばしば該人物のリアルな人間像が見えてくる。月報は人間臭いものが載っていることがある。三好達治が書いたものも横光との人間関係が見えて面白い。少なくとも旧知の間柄であったことはここから分かる。
横光利一は北川冬彦との深い親交があった。北川冬彦も一時は下北沢に住んでいた。しばしば作家の私宅を訪れている。この北川冬彦と三好達治は親交があった。萩原朔太郎の個人雑誌「生理」に書かれている北川冬彦の記事を読むとそれがよく分かる。が、冬彦と達治との関係は後に疎遠になったようだ。
時代は違うが、下北沢を中心とする地域に横光利一、北川冬彦、萩原朔太郎、三好達治は居住していた。北沢、今は代沢の丘の横光は代田の丘の萩原邸を散歩の折りなどに訪れていたようだ。
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2006年01月14日
下北沢Ｘ物語（４７０）〜小田原急行鉄道の文学と帝都電鉄の文学（下の３）
小田急は歌謡曲に、井の頭線は文学に、それぞれ描かれた。前者は駆け落ち路線、後者は犯人逃避行路線、メジャーを外しているところが面白い。東海道線での駆け落ちは正統的である。萩原朔太郎の「夜汽車」は駆け落ちの王道を行っている。が、東京から遠く晴れて山科辺りにさしかかると古典文学の匂いがしてくる。そこを攻めた詩人はさすが第一級である。
中央線での逃亡行は危険度が高い、新宿は公安上のチェックポイントである。中央線沿いの阿佐ヶ谷、荻窪、中野は知名度が高い。井の頭線沿いの久我山、浜田山、東松原はローカルである。文学は王道を外れたところに存在する。そういうポジション取りが文学だ。東松原を利用していたのは紀行作家、宮脇俊三である。その隣には北杜夫が住んでいる。宮脇俊三は井の頭線に深い愛着を持っていてここに移り住んできた。彼の家は下北沢のすぐそばにあった。「池ノ上」について書いた文章がつぎである。
井の頭線で渋谷から三つ目の池ノ上で下車し、線路の北側を西へ三分ほど歩くと、下北沢の繁華街を見下ろす斜面に出る。
そこに樹木の鬱蒼と茂った二千平米の一角があり、「旅館・晴光園」の表札がかかっている。門内の砂利は右へと曲っているので玄関は見えない。ひっそりと静まりかえっているし、入りにくい旅館だ。
茂みのなかに避雷針を立てた二階建ての古びた西洋館と、それにつづく日本建築の長い瓦屋根がわずかに見える。一見して戦前に建てられたものとわかる邸宅で、建坪は五百三十平米もあるが、旅館のつくりではない。
この邸が建ったのは昭和十年六月、売りに出たのが敗戦直後の二十年十月、買い主が旅館を開業したのは同年暮れであった‥‥
宮脇俊三 「池ノ上」。（「東京セレクション」 花の巻 暮らしたまち 暮らしたいまち 住まいの図書館出版局 １９８８年刊）
下北沢を見下ろす高台にある邸宅は彼の住まいだった。いまこの「旅館・晴光園」はない。個人所有のビルが建っている。特徴的なことはその家の屋上に赤い鳥居が見えることだ。かつて屋敷神として祭られていたものがどこにも置きようがなくそこに持っていかれたのだろう。近隣はすっかりビルが建ち、かつては宮脇俊三の家から見えていた鉄道線路は見えない。
2006年01月13日
下北沢Ｘ物語（４６９）〜小田原急行鉄道の文学と帝都電鉄の文学（下の２）
「帝都電鉄文学」についても触れておきたい。思いがけずこれは言葉の響きがいい。あたかもそんなものがありそうに思えてくる。今日は久しぶりに電車だった。帰り道はX交点経由とした。京王帝都電鉄から井の頭線への乗り換えが頭脳ではうまくいかない。あっちがこっちなる、明大前で方向感覚が狂う。三半規管の疾患だろうか。
歌人の堀内通孝は下北沢に住んでいた。「代田時代は、下北沢の河瀬さんという歯科医によく通った。その近所に堀内通孝さんが住んでいたので、父は歯科のかえりにたびたび訪れた」（斎籐茂太「茂吉の体臭｝）とあるように彼は「アララギ」同人で、斎籐茂吉と親しかった。その堀内通孝につぎのような作品がある。帝都電鉄が歌語となっている。
帝都電鉄の夜の電車に年を経て遇ひたる人はいまだに痩せゐき
堀内通孝・歌集「丘陵」
昭和九年の作である。帝都線が開通したのは昭和八年、その翌年である。思いがけず出会った旧知の姿、かつて遇ったときと同じだったと言うのだろう。当時は二両編成だった。夜の郊外電車の一こまである。「帝都電鉄夜の電車に」というえぐり方が良い。
その帝都線は戦時の大併合で「東京急行電鉄」、いわゆる「大東急」に組み入れられ、「井の頭線」と改称される。昭和１７年のことだ。「東京急行文学」はまっとうすぎて話にならない。文学は言語文化である。第一級よりもその陰に隠れているところに文学が眠っているように思える。
昭和２３年に発表された太宰治の作品に「犯人」という短編がある。恋仲になった女と暮らすためには部屋が必要だ。主人公は三鷹の肉屋に嫁いでいる姉の所に行く。そして、二階の空いている部屋を貸してくれと頼み込む。が、貸せないと言う。収入で不足する分は、女に出させると言うと、姉は「鏡を見たことがある？ 女にみつがせる顔かね。」と応酬する。この言葉に逆上した彼は、店の肉切り包丁で姉を「いきなりやっ」てしまった。そして、店の手文庫から「数千円をわしずかみにして」出た。
店に主人公が訪れているのを肉屋の小僧が目撃している。犯人は明白だ。が、彼の寮にかかってきた電話は姉の連れ合いの義兄からだ。主人公は訝るが、ともあれ高飛びする。
2006年01月12日
下北沢Ｘ物語（４６８）〜小田原急行鉄道の文学と帝都電鉄の文学（下の１）
小田急は昭和２年（１９２７）に開通した。玉電と京王帝都に挟まれた武蔵丘陵を南西に向かって小田原まで向かう路線である。四年前の大正１２年（１９２３）に起こった大震災は旧市街から西の市街へ多くの住民を移動させた。開通２年後の昭和４年（1929）製作の日活映画「東京行進曲」の主題歌のヒットは小田急の名を高めた。丘陵を縫っていく山手湘南ラインとしての線のイメージ響きよく、またしゃれたものにした。作詞：西条八十、作曲：中山晋平である。
シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょうか
かわる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る
近代は、新鮮さを求める。文学も同じだ。が、文の芸は高級であるが、それでの生活となると難しい。文学は常に貧困と同居していた。文学を志すものは貧しい。かつては旧市街の長屋やアパートに住んでいた。けれども昭和になって西の郊外に路線ができることによって武蔵野の沿線に住むようになった。二十歳の林芙美子が修行時代に住んでいたのは太子堂の貧しい長屋だった。玉電沿線である。下北沢のアパートも文学志望の青年たちが大勢住んでいた。ことに昭和８年に帝都線が開通してからはよりいっそう多く人が集まった。
友人知人を頼っての居住だろう。下北沢は学生アパートが多かった。大学に通うのに都合がいいということもあった。日大、明大、東大などがあったものでその連中向けのアパートが多かったとこの間、世耕さんという人に聞いたばかりだった。
2006年01月11日
下北沢Ｘ物語（４６７）〜小田原急行鉄道の文学と帝都電鉄の文学（中）
「小田急の文学」というのは、物語としては成り立ちにくい。急行がつくからであろうか。「小田急哀切物語」とかいう作品があったとする。「いっそ小田急で逃げましょう」と相思相愛の男女がこっそりと小田急で駆け落ちしていく。渋沢を過ぎて線が山峡に入ったあたりでと、ふと白い花を見つける。「あれなにかしら？」と女が聞く。が、最新式の小田急ＶＳＥだとなんの花か確かめるいとまはない。あっという間に過ぎてしまう。白い清楚なオダマキの花を山科あたりで見つけるというのは、これは萩原朔太郎の「夜汽車」である。列車がゆっくりと走っていた時代の話である。今ではもう窓も開かない。
二等車に乗り込んできた田舎娘、着ている着物も垢じみている。間違って車室に乗り込んできたに違いない。その彼女がトンネルに差し掛かろうとするときにわざわざ窓を開ける。汽車に乗っていた男はいぶかりもするし腹も立てる。が、トンネルを出たところに子供らが立っていてその彼らに彼女が蜜柑を放り投げる。彼女の行動の真意が分かって芥川龍之介は汚らしい小娘の行為一切を了解して感銘を受ける。彼の好短編「蜜柑」の場面である。が、窓も開かない、速度も速い電車ではそんな場面にでくわすことはない。
汽車、駅、機関車、かつては旅情を誘ったものであるが、スピードが速くなるにつてそれを失いつつある。最新型の真っ白なＶＳＥでは感動的な人生のとある断面に接しようもない。スピードが速くなった分、鉄道は文学性を失いつつある。小田急文学論はこんにちでは難しい。
例えば、かつての幹線だった東海道本線だったら充分に論ぜられる。夏目漱石、泉鏡花、内田百�痢∪飢�子規、若山牧水などは物語や作品に車中風景や車内ドラマを書いているので述べられる。けれども小田原急行電鉄にはそういう車内ドラマ、あるいは車窓描写はあまりない。むしろ帝都線文学の方があるのではと思っていた。
2006年01月10日
下北沢Ｘ物語（４６６）〜森厳寺冨士塚は１８５年前に築かれたもの〜
富士塚のことについて調べていたら文化遺産保存の会の東氏が彼の知人が所持している資料を貸してくれた。首都圏一円の富士塚を巡っての写真アルバムは子細を極めている。その中に１９７９年３月３日朝日新聞の記事に目がとまった。見出しにはこうある。
三つの富士塚 重要有形民族文化財に指定答申 江戸の風俗形で残す
下谷坂本・豊島長崎・江古田
都内三箇所にある富士塚への文化財指定答申である。その記事の中に「このほかにも昭和四十年代の土地ブームでいくつかの富士塚がビルや駐車場、宅地に変わり、いま四十数基が残っているが、江戸時代の築造は十余基。残りは明治、大正、昭和初期のものだ。」とある。それと、先日、世田谷郷土博物館で得た資料をつきあわせると改めてこの冨士塚が貴重なもであることが分かる。すなわち、「江戸時代の築造は十余基」の一つが下北沢森厳寺の富士塚にあてはまるということである。造立年代は相当古いことが記してあった。
郷土博物館で手にいれたのは「社寺参詣と代参講」（世田谷区立郷土資料館 平成４年１０月２０日発行）という資料である。平成４年１０月から１１月にかけて標記の資料展が博物館で開催された。そのときのパンフレットである。
「世田谷の富士塚」という見出しでつぎの説明があった。
明和二年（１７６５）、食行身禄の三十三回忌にあたって、その弟子高田藤四郎が江戸に模造冨士を造立したいと発願し、戸塚村（現、新宿区）の水稲荷神社に冨士山を築いた。これが模造冨士の第一号である。以後、これに倣って、冨士塚が各地に造立された。
世田谷でも、文政四年（一八二一）に、三軒茶屋山吉講の新兵衛が願主となって淡島森厳寺の境内に冨士塚を造立している。この冨士塚はもともと同寺にあった鍋島山と呼ばれる筑山に盛土して築き上げたもので、見苦しくない様、その手入れ方を山吉講中が下北沢村名主・半蔵に約している。
また、この冨士塚については上野毛名主・田中幾太郎も「淡島へ参詣坪并森厳寺新冨士へ上り遠見いたし申し候。」と「御用状留記」文政四年八月の条に書き記している。
冨士塚は、冨士に出掛ける事のできない老人や女人禁制の山へ登ることの許されない婦女が江戸に居ながらにして冨士詣が出来るようにと考案されたもので、人々からは「お冨士さん」の呼称で親しまれた。
森厳寺の冨士塚の文化的価値を知っている人がこの塚の貴重さを何度も述べていた。壊されることへの嘆きをも聞いた。この記述を見るとそれがよく分かる。江戸時代に造立されたものは数基と少なく、森厳寺のものは文政四年（一八二一）に造立された。今から１８５年前に作られたものである。国指定有形民俗文化財級のものだと言える。
2006年01月09日
下北沢Ｘ物語（４６５）〜森厳寺の「富士塚」（３）〜
昨年、北原白秋を訪ねて福岡県柳川市に行った。そのとき白秋の生家に写真が展示されていた。北原白秋、萩原朔太郎、尾山篤二郎の三人が映っていた。朔太郎が前橋に居たときに白秋が彼を訪ねて来た、そのときのものであった。
この三人は東京では線で繋がる。昭和十一年小田急線で繋がるところに住んでいた。白秋は成城学園、朔太郎は世田谷代田、尾山篤二郎は下北沢である。
尾山篤二郎が下北沢にいたことは伊藤祷一さんの「世田谷の文学」という冊子で知り得た。そこに「北沢」で詠んだ歌を紹介していた。それでネットの古書店で尾山篤二郎「雲を描く」を買い求めた。そこに彼が昭和十一年「北沢」に越してきたことが書かれている。歌集を見ていたら同じ年に「白秋君に招かれてゆく」という詞書きのある歌がある。恐らく成城の家に行ったものだろうと思われる。
尾山篤二郎の歌集を昭和十二年の項の初めに「裏の家の柿の木の間から富士が見える。その折々の歌」として富士を詠んだ連作が五首ある。そのうちの一首である。
柿の木の枯枝が上に富士の山曇らぬかぎり必ず浮かぶ
北沢の丘から眺めた風景であろう。往事、当時、冬は必ず富士は浮かんで見えた。が、いまは見えない。富士への信仰心は薄れるはずだ。
自転車で通い始めて十四五年になる。ちょうど帰り際、「森厳寺」の裏手を通って帰っていた。ここに富士塚かがあることは知らなかった。が、裏から眺めるここの桜が近隣では一番美しいと思っていた。夕暮れどきちょうどそこを通りかかる。花の盛りには自転車を止める。静寂の中に花びらが夕日に照り映えている。それを飽かず眺めていたものだ。死者の上に見事に花を咲かせる桜であった。が、その墓はすべて取り払われた。
森厳寺の寺のパンフレットが手に入った。そこにはこう書いてある。
森厳寺４００年記念行事として、平成２０年３月までに
○平成１９年 ３月 墓地造成 墓石の移動
○平成１９年１２月 開山堂完成と墓地整備の完成
○平成２０年 ３月 開創４００年奉修
地図が載せられている。「現在」→「整備後」
「富士塚」は「築山」と記されている。整備後の地図にその「富士塚」はない。潰されるということである。パンフレットには続けてこう述べている。
将来のお寺のあり方：森厳寺を檀徒や地域のみなさんに開かれた、心の拠り所となるようなお寺にいたいます。開山道（葬祭場）の新設（２００７年竣工）
2006年01月08日
下北沢Ｘ物語（４６４）〜小田原急行鉄道の文学と帝都電鉄の文学（上）
彩りの異なった鉄道線が交差する、そのことで下北沢は独特の文化が育まれてきた。
鉄道のクロスが下北沢の活力の源であった。それぞれに趣の異なった線が交わったところから、街がそれによって色づけされた。その線が昭和２年開通の小田原急行鉄道、小田急電鉄であり、昭和８年開通の、帝都電鉄、現在の京王帝都電鉄井の頭線である。
こういう観点で見てみよう。文学的な観点からそれぞれの線を考察してみるというものである。まず、言葉を当てはめてみる。「小田急電鉄文学」ではどうだろうか。なにやら語呂合わせが悪い。「いっそ小田急で逃げましょうか」という名フレーズは巧みである。けれども、文学は各停を欲するのか「小田原急行鉄道文学」とするともっと似合わない。
横光利一、大岡昇平の小田急線出会いエピソードは既に記したことだ。下北沢に住んでいた大岡昇平が新宿行きの電車で横光利一と乗り合わせる。その車両が東北沢を過ぎて人を轢く。若輩の昇平は小説家はこういう場合どうするか、横光の動きをじっと観察していたという話だった。
小田急線の車内のことをよく書いているのは宮本百合子である。進駐軍の兵士に日本語を教えている女性が辺り憚ることなく彼らが砂糖やチョコを豊富にくれること、そのチョコレートが飛びっきり甘いことを吹聴している場面、それを宮本百合子が「その源」というエッセイで書いている。また、彼女は人から聞いた話として「小田急の電車の中で、パーマネントの若い女の髪をつかんで罵りながら引っぱっている男を、ぐるりから止めることもできないような雰囲気で、実にこわかったということをもきいた。」ことを「私の感想」というこれもエッセイに書き記している。彼女は小田急沿線に住んでいたのだろう。書いたものの中に小田急のことがよく出てくる。英語が堪能でおしゃま、他を憚らない傲慢な女性が住んでいた。また百合子のように知的な文芸人も沿線に住んでいただろう。
寺田寅彦が先ほど出てきた東北沢駅のことを記している。
小田急東北沢の駅員は片道切符には格段注意を払わないが、往復切符となると「特別念入りに検査する」という。そうして、「小田急線の往復切符は一種特別な比較的稀有な刺激としてそれに応ずる特別の動作を誘発するに過ぎないかもしれない。」（寺田寅彦「破片」）と考察している。往復の場合、切符の地紋が特殊だったのだろうか。
改札の駅員の動作を通して人間観察に及んでいる。が、これとても小田急固有のものというにはもの足りない。けれども、東北沢というところが面白い。下北沢鉄道交点を外した駅である。萩原朔太郎が一時住んだところが年譜では「東北沢」となっている。
2006年01月07日
下北沢X物語（４６３）〜下北沢２号・下北沢３号踏切〜
下北沢の鉄道X交点はターゲット、目標地点である。宇宙を飛び交う衛星からも明確に認知できる地点である。攻撃の焦点性を所持している。地上人も折々、ネットのマピオンなどから落とした地図を持ってこの街をうろうろしている。そこにみなバッテンがついているから楽しい。
鉄道は近代である。利便は直線を求める。Ａ点とＢ点は直線で結ぶ方が早くたどり着く。が、やむなく地形の関係などでそれはゆがめられる。小田急下北沢２号踏切から隣の世田谷代田にかけて６００Ｒのカーブになっている。いまはそれがネックとなっているが当時の鉄道工法としてはベストだった。まっすぐに敷くと北沢川のある谷に線路は転げ落ちる。ちょうど代田七人衆の菩提寺の円乗院を乗り越えて谷に転げ落ちる。
七人衆は吉良家に仕える武士だった帰農して代田地区を切り開いた。切り通しで直行すればその侍衆の亡霊と戦うことになる。それは冗談である。線路敷設に際して北沢川をどう渡るかが小田急線路敷設のときに問題であった。その川をどう巧くいなすか、かわすかという問題があったと推測している。それはペダルによる検証から考えたものだ。
下北沢を出てだいだらぼっち川（仮称）を築堤で乗り越えて６００Ｒで右に線路を振る、斜度も２５パーミルとなる。そして、代田の尾根を越えて、今度はまた谷を急傾斜で下る。それはやむをえない設計だった。代田八幡裏の坂を下ると北西から川が寄り添ってくる。来たね、来ましたねということで軽く斜めにクロスして川を越え、今度は世田谷城続きの丘へと上っていくことになる。
カーブには必ず物語がある。小田急線２号踏切わきの佐山家はその物語を見続けてきた。終戦後厚木から貨物列車を仕立てて米兵が小田急線で入京してきた。カーブではその軍用列車も徐行する。世田谷代田方向からくる貨物列車には銃を構えた米兵が乗っていた。ヘルメットには馬のマーク、米陸軍に第一騎兵師団である。その彼らの一人と雨戸の節穴から覗いてた佐山春男少年は目が合って震え上がった。
ドアエンジンがない時代があった。扉が開いたまま電車は走っていた。下北沢を出た電車は２号踏切にかかってカーブする。遠心力に振られた乗客が開いているドアから転げ落ちる。「あ、落ちるな、と思っていると」落ちるのですよと佐山さん、そんな場面も目撃された地点である。電車の追突もあった。死人を何度も見てきた佐山さんは塩ジャケが嫌いだと言っていた。人間の切り身を連想するからだ。
６００Ｒのところにある下北沢３号踏切は事故が多く起こった。大人、子どもが亡くなった。その名は下北沢２号踏切脇の地蔵様の脇の碑に刻まれている。人のみならず犬も敷かれて亡くなった。英文学者奈倉次郎氏の飼っていたジローである。犬がいれば馬もいる。鎌倉通り踏切の南の道は上りである。荷馬車は下ってくると勢いがつく。踏切に遮断機はあったがそれをへし折って軌道内に入り、そこに新宿行きの電車が来てぶつかった。記録はない、が、それはあったに違いない。
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2006年01月06日
下北沢X物語（４６２）〜下北沢の名犬アニーハクウン物語（補遺編）〜
恋すれば思われる、正月休みは犬への恋慕であった。
暮れに思い立って荏原の里のペダル巡回に出た。世田谷代田和菓子の「香風」に寄って昔話を聞いた。「近隣のお屋敷の人が死ぬ度に売り上げが落ちる」と。悲しい物語を聞き終えて鎌倉通りに出た。小田急３号踏切を通って道なりに行くと佐山さんの家がある。何度も伺って下北沢の昔話を聞いた家である。「良い年を」と挨拶だけしようと思って行ったら犬の話がひょろっと佐山さんの口から出てきた。アニーハクウンの話である。
暮れから正月にかけてアニーが自分の頭を占めた。犬はいい、自分のところでも飼っている。シェパードの血が混じっている雑種である。主人には忠実である。が、ネズミには滅法弱い。「ネズミだ、ネズミだ」と報せるだけで前足で床をひっかくだけである。自分の所にいる犬を眺めながら、佐山さんに聞いたことを物語に組み立てた。
四日の日にほとんどが出来た。それで、出来た物語を持って佐山家へお邪魔した。大筋は聞いているが、まとめるとなると細かいところが分からなくなる。その部分は自分の想像で補っている。聞いたときには分からなかったことだが佐山さんの父親が相当な犬好きで、だいぶ入れ込んでいた。しつけなどは佐山少年にはできないなと思って親爺さんのことを話の中に強調して書いた。それが合っているかどうかは分からない。それに、「肉の三吉」はあったけどアニーハクウンの話は知らないと言われた。細部で気になる点を確かめたかった。
訪ねると家はひっそりとしていた。帰ろうとすると奥さんが縁側に顔を覗かせた。佐山さんは在宅だった。家に上がってまとめたものを読み上げた。奥さんも聞いている。原稿用紙３０枚分ぐらいある。ときにはうなずき、ときには目をつぶった。それで、アニーハクウンの話を聞いてもらった。
親爺さんが犬に相当入れ込んでいたことは間違っていないと言うことだった。その親爺さんがしつけをしたようだ。ジローとアニーハクウンは別の時期ではなく同時にいたととのことだった。名倉次郎さんはこちらが調べた通りで著名な英文学者であった。佐山さんところに外国から手紙が来てびっくりしたらその名倉次郎さんだったと言う。丘上の住人だったというのも間違いなかった。中村汀女さんのもう一本裏手の道に住んでいたと言う。
「肉の三吉」があったことに佐山さんは驚いていた。店の主人がアニーのことはわからないと言ったということについてはこう言った。
「昔の話だからね、６６年も前の話だものね。それはね、きっとお孫さんぐらいじゃないかな。アニーが通っていたのは初代のご主人だったからね、明治生まれの人だったな」
調べたり、考えたり、想像したりして作った話は、犬を飼っていた佐山さんが納得するものになっていた。喜ばしいことだった。正月をほっぽって犬に恋をした甲斐があった。佐山さんは昭和２年に一番街大通りに来た。そして、昭和７年に、下北沢２号踏切の現在地に移って来た。帝都線の駅がすぐそばにできると思って移転したという。が、当てははずれた。けれども絶好のポジションに家を建てたと思う。下北沢の歴史をかいま見る位置にある。丘上から物語が転がって佐山家のそばで停まる。
2006年01月05日
下北沢X物語（４６１）〜下北沢の名犬アニーハクウン物語（最終回）〜
犬の寿命は短い。動物を可愛がった分、哀しい終末を人は見届けることになる。
「アニーハクウンは、雌でしたよ。成犬になって孕んだんですよ。血統のいい犬を選んで種付けにいかせましたよ。それがうまくいってね、いっぺんに九匹も生まれたのですよ。おっぱいが十もあるから、十分それで間に合うなと思っていたんですよ。でもね、乳首が十あっても、子犬九匹はとてもまかないきれるもんじゃないですね。そういう場合には犬の乳母をつけるんだということを後で教わったのです。それも後の祭りです、その子犬は全部死んでしまいました‥‥‥。冷たくなった子犬をアニーハクウンはいつまでも舐めていましたね。」
アニーハクウンの悲劇である。が、それは終わらない。下北沢の町をお使いするシェパードは軍関係者の目に留まることとなった。
「あるとき、陸軍の人が家を訪ねてきましてね、『いい犬がいるそうだがそれを見せてくれ』と言ってきたんですよ。隠すわけにはいかないので、アニーハクウンを見せたのです。そしたら、一目見るなり、『これはいい犬だ』というんですね。それでとうとう、『御国のために働いてもらいましょう』ということになったんですよ。軍用犬としての徴発ですよ、昭和１５年のことだったと覚えています。日中戦争がはじまって兵隊や馬やらが徴発されて大陸に渡っていったんですよ。」
調べてみると、日中戦争が始まってすぐに、「徴発令」が発布された。軍隊が必要とする民間の物資、並びに牛馬、犬などを、強制的に低価格で買収できるという法律であった。
所有者の思いなどは関係のないことであった。
「それが、たったの十円ですよ。ひどいもんですよね。自分ところでずっと可愛がっていたアニーを一枚の紙幣と交換にして置いて持っていってしまうんだから。とても悔しい思いがしましたよ。やつは連れていかれるときはしっぽ畳んでいましたね。軍用車に乗せられました。一回だけわたしの方を振り返って見ました。目の輝きがないのですよね、うつろっていうのかな、遙かに遠い中国に連れて行かれるっていうことが本能的にわかったと思うのですよ。」
「‥‥‥」
「アニーハクウンを載せた車はたちまちに見えなくなりましたね。手元に残ったのが十円札一枚ですよ。それを見て憎しみと、アニーに対する思いがこみ上げてきて涙がでてきましたね。それでね、そこのところのドブにもらった十円は棄ててしまいましたよ。お札は紙ですから浮いていて、それも、流れに乗っていってしまいましたね。いまでいえば中学生ぐらいの自分でしたけど、人生はむごいもんだと思いましたよ‥‥」
「アニーハクウンが連れて行かれた後はどうなったんですか？」
「いや、それっきりだよ、中国に渡ったまんまだと思うよ。戦後になって人間は引き揚げてきたけど、軍用馬や軍用犬は置き去りにされてしまいましたからね。アニーは、海の向こうの国で死んだんだと思いますね‥‥」
アニーのことが思い起こされるのか佐山さんはそこで黙ってしまった。小田急線のクリーム色の下り電車通っていく、その音だけが聞こえる。
2006年01月04日
下北沢X物語（４６０）〜下北沢の名犬アニーハクウン物語（４）〜
俳人中村汀女の飼い犬はジンと言った。それが北沢に来たのは昭和１２年である。ちょうどその頃、アニーハクウンの姿を鎌倉通りや下北沢一番街大通りで眼にするようになった。大きなシェパードが首に風呂敷を巻きつけて歩いている姿である。
「当時、犬の餌というのは苦労しましたね。いまだとドックフードがあって、それをやればいいんでしょうけどね、そんなものはありませんでしたからね、普通の飼い犬は人が食べた残りをやってましたね。だけどアニーハクウンは大型のシェパードだし、血統のいい犬でしたからね、肉もちゃんとあげないとね、それで親爺が考えついたんだと思いますよ。主には犬用ですけどね、当時肉は貴重品でしたから自分ところでも食べたと思うのですよ。その肉をアニーハクウンに買ってこさせたんですよ」
佐山さんはそのときのことを思い起こすようにして笑った。
「買いに行くって、一人でっていうか、一匹でですか？」
「そうそう、アニーハクウンは自分でお肉を買いに行っていましたよ」
「ええっ、そうなんですか！」
「ほんとですよ。風呂敷に十銭玉をいれて、犬の首に巻きつけるんですよ。それで、綱を離してやるんです、すると下北沢一番街大通りまで行くんですね。肉屋の『みよし』っていうのがありましたからね、そこまで最初は連れて行って、肉屋の親爺さんに訳を話したのだと思いますよ。
『アニーハクウンを一匹だけでお使いに来させるようにしますから、来たら、小間切れを十銭分この風呂敷につつんでやってくれませんか。お金はこの風呂敷入れて持たせますから』
最初のうちは親爺がついて行って、しつけたのだと思うのですよ。うちの脇を通っている鎌倉通り行って成徳の学校を過ぎると十字路、その右角に市場ありましたからね、『ここで右に曲がるんだぞ』とか言い聞かせたのだと思います。何回かついて行って慣れてからはもう一匹でお使いですね。首に風呂敷を結びつけて、『よし』って言うと、もうさっさかと鎌倉通りの坂を登っていくんですよ。脇目もふらないで行くんですよ。」
「そこの踏切はどうしたのでしょうね？」
鎌倉通りに沿って坂を上っていくと、帝都線の踏切がある。
2006年01月03日
下北沢X物語（４５９）〜下北沢の名犬アニーハクウン物語（３）〜
言葉というものは対象への関心を深める。物語はあらかじめできているわけではない。日々紡ぎながら記している。書いているうちに物語の実像、具体的なアニーハクウンをしだいに愛おしみ始める。すると、萩原朔太郎の「猫町」に彩られた下北沢は「犬町」の様相を呈し始める。そういえば「スパイク」という物語も下北沢を舞台にした犬の話だった。
「そのジローなんですがね、なぐらじろうという大学の先生が近くに住んでました。このジローをね、とても気に入ってなんとしてでも自分の家で飼いたいとおっしゃるのですよ。それで、こちらも根負けしてあげちゃいましたね。でも、主人が次郎で、犬もジロー、区別がつなかいというので呼び名を変えてしまいましたね。」
佐山さんの口から「なぐらじろう」という人物名が出てきた。奈倉次郎と入れてネット検索で調べてみた。すると「ベニスの商人」や「ロメオとジュリエット」などの文学作品を訳している著名な英文学者であった。年代的にも符合している。恐らく丘上に住んでいた人であろうと思われる。
佐山さんの家は丘下に位置する。丘上への憧れがあったと言うほどだ。佐山家のそばで鎌倉通りは北に向きを変えの丘を上っていく。ちょうどその左手の代田５丁目３４，３５番地、そこに中村汀女、森瑶子他の著名人が住んでいたところである。三男の佐山五郎さんが「あの丘の上に住んでいるやつには頭ではかなわなかったよ」と洩らしていたことがある。学校での経験のようだった。
「ところがね‥‥」
佐山一雄さんは言いよどんだ。
「そのジローはね、そこの鎌倉通りの小田急踏切で電車に轢かれて死にました」
ぼんやりと空を見つめるようにして彼は口を止めた。
「むかしは、普通の犬は放し飼いだったでしょう。ご主人が散歩かなんかであっち行ったので、後から探して回ってあそこで轢かれたのかもしれませんね」
鎌倉通りを横切る下北沢３号踏切にまつわる哀しい話は何度も聞いてきた。カーブで見通しが悪いところだ。しかも２５パーミルという、鉄道の勾配としてはかなりきつい。ブレーキが利かない。踏み切り番がいたが当時は通過する電車の本数も多くない。遮断機をかいくぐっていくということもある。
2006年01月02日
下北沢X物語（４５８）〜下北沢の名犬アニーハクウン物語（２）〜
佐山さんは下北沢の昔のことをよく知っている。帝都線開通前の下北沢、現在の井の頭線ホームがあるあたりはパターゴルフ場だったと教わった。進取の風が満ちていた土地であったと言える。
佐山さんの話を聞いていると下北沢という地の利の面白さが見えてくる。小田急線の新宿までは９銭、帝都線の渋谷までは７銭、どちらに行こうか迷うところだ。けれども子ども心には２銭の差というのは大きい、どでかいどら焼きがそれで一つ買える。しかも渋谷だと有名なハチ公をかまうこともできる。
「お小遣い１０銭だってありがたかったですよ。その場合には笹塚まで歩いて行くんですよ。それで大きなどら焼きが２銭、弟の分買って４銭でしょう。で、演芸館の入館料が５銭、弟は小さいからタダ、おかしをむしゃむしゃ食いながら、映画みましたねぇ」
笹塚は佐山さんの家の脇の鎌倉通りを北にたどると着いてしまう。玉川上水を渡るドンドン橋までくると笹塚はすぐだ。弟の春男さんと催し物への期待でそこで少し足が速くなったろう。
佐山一雄さんは八十歳である。記憶の小箱にしまっていたアニーハクウンの話を細い糸を引き出すようにそっと取り出す、思いをたぐりよせるように‥‥
「へぇ、そんな時代に１２０円というのは確かに大金ですね。じゃあ、その犬は大事に育てたんですね。佐山さんが世話したんですね。アニーハクウンは？」
「そうそう、でもしつけたのは親爺ですよ。この踏切の下のところに二坪ほどの犬の運動場を作ってね、そこで飼っていましたね。最初は小さかったんだけど、だんだん大きくなっていきましてね。」
「犬好きの親爺があれこれと訓練させたんですね。それでね、このあたりはまだその当時、武蔵野の面影残っていましてね。とくに成徳の裏あたりですね、井の頭線の線路の向こう側ですよ。まわりはまだ山って感じでしたね。欅、松、櫟などが茂っていましたよ。そこになんだろうな、運動場のような空き地がありましたよ。そこへ連れて行って親爺はしつけていましたね。覚えていることがありますよ。その運動場に立っている人がおりましてね、親爺が、かけ声かけると向こうから走ってきて、人間の上をひょぃと飛び越えて行くんですよ。見ていた人はみんな驚いていましたね。」
大きな洋犬が思いがけない高さを超えていくさまは迫力があったろうと思う。
2006年01月01日
下北沢X物語（４５７）〜下北沢の名犬アニーハクウン物語（1）〜
せつなくもの哀しい話に出会った。犬の物語はいつもそうだ。
その名はアニーハクウンという、犬種の正式名称はジャーマン・シェパード・ドッグである。通称はシェパードという。佐山一雄さんはその犬の話を記憶の小箱から引き出してきた。そして、ゆっくりと語り始めた。
年の瀬の冬の日が縁側をのんびりと照らしていた。そこでわたしはじっと話に耳を傾けた。
「しっぽが黒くて長い犬でした、アニーハクウンという名前の大きなシェパードでしたよ。家へ来たのが昭和十年頃、わたしが十一の時ですね。やつは手の平に載るほどのほんの小さな子犬でしたよ。でね、借金のカタに親爺が飼い主から譲ってもらったものですよ。犬の値段は高かったですね。その頃犬を血統種を飼うなんてことは一般的じゃあなかったからです。でも、血統のいい犬は高い値段で取引されていたのですね」
「そうだったんですか？」
そう言ったとき赤い車体の「箱根号」の上り電車が通っていく。佐山さんの家の道路一つ隔てた向こうには小田急線の線路がある。その特急が通り過ぎてから彼は話を続けた。
「親はガロって言ってましたね。親爺が犬好きだったんで、その犬は自分のものじゃなかったんだけど、下高井戸あたりまで自転車で連れて行って運動させていましたよ。で、その犬に子どもができたんですよ。ちょうど飼い主に１２０円の貸しがあったのですね。親爺は借金のカタにそれをもらい受けたんですよ。当時、シェパードの純血種は目の玉が飛び出るほど高価だったんですよ。」
「そうか、そうか、お金の価値が違っていたんですね？」
「ええ、そうですよ。だってね、１２０円なんて大金ですよ。その頃は５０銭もらって大喜びしていましたよ。電車賃だって下北沢から新宿までは９銭、渋谷までは７銭でしたよ。それで、５銭で映画見られたんですよ。新宿行ったら武蔵野館行きましたね。映画見て帰りに買い食いができるんですよ。渋谷なんか行くと映画見て、それで屋台の焼き鳥食べて、残ったものを駅前にいるハチ公に上げましたよ。秋田犬は喜んで食っていましたけどね。」
佐山さんは５０銭の内訳を話しているが、５０銭もらって大喜びというのは複数のことを言っていることに気づいた。兄弟である、二人で映画見て、そして帰りに買い食いする。お金と人間の単位が分割を前提とされている、かつてはそういう物の考え方である。
