2006年10月
2006年10月31日
下北沢X物語(718)〜坂と家と楸邨と(中)〜
坂とは傾斜のことを言う。大地の傾きである。平坦であるよりも傾いている方が面白い。物語、いや、文化の根源であるような気もする。昨日だったか、寝に就こうとしてふと思ったことがある。メモ書きにしたのがつぎである。
せせらぎのひみつ
川は偉大だ
ミクロン単位の傾斜を
長々と
海まで持ち堪えさせている
桜橋の上流の川底が
下流に向かって
「おい、そこ五六ミクロンほど
出っ張っているよ」と
あちらでもこちらでも
絶えず叱責する声
三ミクロン 四ミクロン
川の音は傾斜調整の
かけ声だった
絶えざる傾斜が水を押し流している。ミリ単位の傾斜が何万年という期間をかけて作られた。そこを水が流れていく。楽しい想像であった。空気も情緒も坂を転げて海へと流れていくのかもしれない。
2006年10月30日
下北沢X物語(717)〜坂と家と楸邨と(上)〜
先日、代沢小で「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」の公演が行われた。この劇が終わった後に一人の女性が話しかけてきた。
「この間の、お話しとても面白かったです。地域を見直すきっかけになりました。わたしのところは代沢赤門よりも低い位置にあるのでがっかりしてしまったんですけどね…」
自分の講演を聴きに来てくれていた数少ない一人だった。坂口安吾生誕百年を記念して代沢小で講演をした。出席者は三十名を越える程度だった。
「安吾さん、あなたの生誕百年を記念して分教場で講演をしたんですよ。教育委員会の後援まで取り付けてやったんですけど、パイプ椅子ががら空きでしたよ。」
こう言えば、きっと坂口安吾だったら笑ってくれるに違いない。ともあれ、そういう状況の中の講演会が良かったですよ、と言われたので嬉しくなった。落胆は希望を生む。墜ちてがっかりすることから希望も生まれる。落胆する方がよいと思った。
講演で北沢川の地形を話した。そのとき、古くからの在住の人々の家は水には浸からないという話をした。左岸だと代沢「赤門」ライン、右岸だと「柳下家」ラインである。古くから住んでいる人は川辺には住まない。川が溢れることを知っているから、溢れないところに住むということを話した。
北沢川に近い代田の家に住んだ斎籐茂吉は水害に遭っている。
代田の家のあたりは、その頃よく歩きまわった筈だが、一面水田であったように記憶する。したがって地盤は軟らかく、水が出易かった。
その小川に向かって、大量の雨水が一度に高いところから奔流となって殺到してきたのだからたまらなかった。私共は、縁側に立って、雨足をながめていたが、それはほんとにあっという間であった。たちまち庭が池となり、そのみずはたちまちかさを増し、殆ど床すれすれになった。
庭先の濁流の中にいろいろの物体が浮き沈みして流れて行った。火鉢が流れていくのが見えた。そのうちに糞便のようなものがプカプカ浮いて流れて行った。これは伝染病の心配をしなければなどと私は心の中で考え、他の家族も「すごいわぁ」などと感嘆の声をあげていた。「茂吉の体臭」 斎籐茂太 岩波書店 昭和39年刊
2006年10月28日
下北沢X物語(716)〜「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」代沢小公演(下)〜
「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」の公演が終わった後に、劇を演じた蒔村さんとの対談をした。参加者は観劇した保護者である。
蒔村さんとわたしがそれぞれ「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」を語った。彼女は今年の原爆忌には銀座で公演をしている。毎年、自分も原爆忌には彼女の劇を見るのが恒例となっている。彼女は、去年と比べたら話題になることが少なくなったと夏には言っていた。
去年は戦後六十年ということで戦争関連の大型番組も組まれたり、新聞報道などもシリーズものを出したりもしていた。が、今年になったとたん静かになった。ところが最近になって核問題が大きな問題として我々の前に立ちはだかってきた。北朝鮮による核実験の実施である。
ニュース解説などを聞いていると、諸外国では東南アジアに核のドミノ現象が起こるだろうと指摘している。北朝鮮に対抗して台湾、韓国、日本が核武装をするようになるのではないかということだ。実際、日本でも核の封印を解いて、議論すべきだという方向も出てきている。核には核をという方向である。
この際わたし個人の考えを述べておきたい。
核は持つべきではない。持ってはならないと言う意見だ。それを学んだのが広島での調査や聞き取りからである。
核はそれ一つで、千万単位の人間を殺傷する。発生した放射能は後々まで生存者の命を脅かす。人類の生への希望を根こそぎ破壊する。そういう傷ましい経験を唯一実体験してきたのが我々の国である。それで、「二度と同じ過ちは犯しません」と誓った。主体者が誰だという議論はあるが、人類の英知に対しての強い希求であるとわたしは考える。
1945年8月6日の広島、9日の長崎への原子爆弾投下による被害は決して忘れてはならないことだ。たった一発の核爆弾によって人の生存は根こそぎ破壊された。その時の様子を広島の被爆者から聞き書きしてわたしはこう書いた。
無念累々/内蔵赤赤/肉塊黒黒/瓦礫延々/遠く見晴るかす安芸小富士まで/茫漠と広がるのは宇宙人類の屠殺場
核兵器による被害である。地獄を超えた修羅場であった。人間の尊厳威厳人権など皆無だった。宇宙人類の屠殺場である。なのに力の論理が台頭してきている。あっちが使ったから、こっちも使う。そうなると共に滅んで人類は死滅してしまう。人間の英知は人間の動物性を客観化してそこから希望を見出すところにある。
2006年10月27日
下北沢X物語(715)〜「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」代沢小公演(上)〜
「北沢川文学」の中心点にある学校が代沢小である。これは妄想的な持論である。が、校長室に入ったとたん、直ぐにそれを裏付けるような文学末裔の話になった。
「わたしは垳利一さんの息子とここで同級でしてね、彼のお父さんが桜新町に土地を持っていて確か、そこに今でも住んでいると思いますよ。」
小学校に疎開経験を語りに来ていた人がそう言う。持参の写真まで見せてくれた。
「わたしは加藤楸邨の息子さんといっしょでした。疎開していたときに妻になってくれと言われて、その意味が分からなくて先生に聞いたのですよ。それで意味がようやっと分かりましたよ………。お家ですか、豆腐屋さんのところではなくSさんの家の下ですよ」
彼女はわたしの求めに応じて地図を書いてくれた。柳下家の旧大欅の真ん前だった。なるほどそうだったかと思った。居住地が分かると、文学理解も認識が変わってくる。また新たな課題ができた。
代沢小で「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」の公演が昨日行われた。劇の後に女優の蒔村さんとの対談をしてほしいと前々から頼まれていた。それで午後小学校を訪れた。そのときに小林校長から古い卒業生を紹介された。そこでの話だった。
劇は体育館で行われた。全校生徒が対象で、小さな一年生からいる。床にそのまま座っての観劇である。こういう子どもたちに伝わるのかとも思った。が、そんな心配をよそに劇は進行していった。蒔村さんが一人で何人もの人物を仕草や台詞で演じ分けていく。自分が書いた物語を原作にして、彼女は一人芝居をもう七年も演じている。継続はやはり命だ。場面、場面の雰囲気が子どもたちの息づかいを通して伝わってくる。暗転して、スライドに8月6日の字が映ると、「いよいよ来た」というざわめきが起こった。
彼女が演じている台詞は、カットはしてあるが、自分が書いた言葉がそのままが語られる。いつも奇妙な感じがする。自分から離れた言葉が力を持つ。初めはそれが信じられなかった。けれども幾つかの経験を通して、言葉は作者の手を離れたとたん、勝手に命を持って生きていくものだと知るようになった。
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2006年10月25日
下北沢X物語(714)〜水路漂泊小さなスタンドバイミー(下)〜
辿ることによって分かってくることがある。「八幡湯」、「山の湯」、「石川湯」という銭湯をおれたちはつぶさに見た。入湯ではなく見湯だったが……
銭湯の多くが廃業の憂き目に遭って居る中でこの三つの銭湯は健闘している。生き残って銭湯トライアングルゾーンを形成している。八幡湯から山ノ湯までは505,9mだ。山の湯から石川湯までは257,5m、石川湯から八幡湯まで293,1mある。いずれも直線距離だ。それにしてもかなり近い距離に銭湯が残っている。
この銭湯トライアングルゾーンは地理文化史的にも興味ある地点だ。三田用水や森厳寺川に沿った谷のひだにある。そこに住宅が密集している。そこに住んでいる人々が銭湯に行く。何れの銭湯も小田急開通からの昭和の初頭から営業している。森厳寺川に住むとある人に聞くと、日本橋から移ってきたという。多かれ少なかれ旧市街からの引越組が多い。一つには関東大震災の影響がある。川沿いの土地比較的安く求められたという事情もあってのことだろう。そういう点では事情は太子堂銭湯密集地帯と共通している部分がある。が、太子堂ほどには密集していない。家々の建て替えの進行が銭湯客を少なくしている現状は北沢地区にはある。
森厳寺川沿いには「寿湯」、「第一淡島湯」、「北沢湯」があったがこれらはもう廃業している。北沢銭湯トライアングルゾーンと南の太子堂銭湯トライアングルゾーンの間にある銭湯は廃業してしまった。文化地理的にも、生活空間的にも面白い現象である。
ピアニストフジ子さんの家のそばの東北沢3号踏切は一帯の地形を俯瞰できるところにある。踏切3号と茶沢通りの4号踏切の間は小田急の築堤になっている。この間に森厳寺川をカルバートで越えているはずだ。
おれたちはフジ子さん傍聴音楽会の参加を途中で切り上げた。金子ボクシングジムと小田急築堤の間の狭い私道を抜けていった。やがて、左側にトーアセントラルフィットネスクラブが見えてきた。この裏手に川が流れていてかつては付近で収穫していた大根を洗っていたと地元に生まれたとき以来住んでいる秋元長治郎氏に聞いたことがある。
フィットネスクラブはかつてのオデヲン座である。人気作品が上映されるときはこの映画館をぐるりと見物の客が取り囲んだと言う。外国映画上映館である。美人女優美男俳優の演じる映画を見て多くの若者が胸をときめかせた。映画「スタンドバイミー」も上映されたに違いない。オレゴン州の小さな田舎町キャッスルロックが舞台だ。そこに住む、それぞれ心に心の傷を持った四人の少年たち。彼らが好奇心から、線路づたいに死体を探しの旅に出る。ひと夏の冒険を描いた作品だ。「スタンドバイミー」の主題曲は忘れがたい。
ゴーディ、クリス、テディ、バーン、それが今回の参加者の誰に当てはまるかは分からない。が、おれたちはレール伝いではなく、水路沿いに銭湯探索をして歩いた。
2006年10月24日
下北沢X物語(713)〜水路漂泊小さなスタンドバイミー(中)〜
年暦を積み重ねてきた銭湯「山の湯」、その裏側の雑然とした所に古色蒼然とした時間が渦を巻いていた。が、そこから銀色に塗られた煙突が生えていた。視線を下から上に這わせると眩しい青空が見えた。
ささやかな冒険行、その果てのささやかな発見、それがおれたち4人には気持ちのいい時間であった。空想をほしいまままにさせた。おれたちが水路探検をしていくうちに、とある茂みで少年の死体を発見する。それを「FM世田谷」に通報して世田谷的におれたちが有名になる。そんな小さな空想をAは巡らした。
「この『山の湯』の裏手の通路が面白いんだ。ほら、コンクリートの路地が斜めにこちらに下りて来ているよね、壁のL字の隅にうっすら苔が生えているし、こういうところになんかがあるんだよ」
「なにかあるのかしら」
DはAの説明を聞いて興味を持ったようだ。
「これはね、三田用水からの分水流だね、目の前にあるのは北沢小学校、その表側には用水が流れていたみたいだ。昔は覆いがなくて清流がながれていて、それで蛍が飛んでいた。尾根筋の川の蛍は感動を呼ぶんだ。この辺だってすぅいすぅいって光の線がてんでに飛んでいたはずだよ。で、この分水がさっきの森厳寺川に流れこんでいたんだ」
Aの話から、用水が川へと向かう流路をたどることにした。「山の湯」の敷地に沿って歩く。
「あれ、あそこに立っているのはレールじゃない?」
Bが見つけた。かつて鉄道少年だったAがそこに駆け寄る。太いレール、幹線系のものだ。それが「山の湯」の住居部分の庭に直立している。解釈不能だが錆びたレールはAに鉄路への郷愁を目覚めさせた。
森厳寺川の谷に鉄橋がかかっていておれたちはそこを渡る。すると軽便機関車が煙を吐いて追ってくる。ここで立ちはだかって勇気を見せなくてはならない。が、俺たちはもう若くない。懸命に逃げるだけだ。それでも機関車は追ってきた。間に合わない。飛び降りるしかない。いっせいに川に飛び込んだはずだがドブである。不格好で、そして、また臭いスタンドバイミーだ。
そんなことを考えていたら頬にピンクが当たった。萩が咲いていた。枝が垂れた向こうに古びた「山の湯」の日本家屋、それは絵であった。(写真)
2006年10月23日
下北沢X物語(712)〜水路探検小さなスタンドバイミー(上)〜
「残念ながら、レールはありません。でも水路があります。今日のキーワードは川です」
Aはそう言って歩き始めた。Bだけは自転車だ、この頃足を痛めたという。CとDはドブを分け入る旅と聞かされて、よしよしという頷き顔をしていた。
「北の文化ステーションに寄って行きましょう」
いつもAが行っている大月商店に立ち寄った。おばちゃんが店番だった。
「えっ、わたしがするの?、そんな聞いていないわ、ええっと、ちょっと向こうを見てください。あそこの三階建てのビルです。八幡湯はこのあたりで一番古いお湯です。三階建てにしたのももっとも早いですね。代田橋でお湯屋をやってきた人がこちらに移って来て営業しているみたいです…」
即席案内人のおばちゃんにお礼を行って、大月商店のはす向かいの「八幡湯」へ入湯ではなく見湯に行った。
「このお湯屋の前はかつて川でした。今でもビルなどを建てる水が出るのですよ。……それで、この銭湯に関して一つ調べていることがあります。森茉莉が男湯と女湯を間違えたという風呂があるのです。『贅沢貧乏』という本に風月堂の横の銭湯と書いてあります。その場合の候補は二つ、5号踏み切り向こうの寿湯かここかですね。この頃こちらではないかと思い始めました。こないだ近所の人に聞いたら面白いことが分かりました。昭和の三十年代ごろのことです。ここは湯船の施設が男湯と女湯で違っていたというのです。それで公平を期すために曜日を決めて男湯と女湯を入れ替えていたそうです。目立つようには書いてあったと言うのですよ。でも、魔利の場合は、道々、想像世界でギドウとかパウロとかのイケメンと戯れていますから看板など見てないのですよね。それでいつもの習慣から右に入る。すると、『硝子戸越しに動いてゐる入浴中の人々が、みな黄色く痩せてゐる。』のですよ。この人間批評は味がある。男の悲哀が感じられますね」
「あはは、わたしたちは黄色人種ですからね」
CがAの言葉を拾って応答した。
「男と女では洗い流した後にたまる分量が違う、女湯から出るものが多いみたいですね。それで男湯を上手に、女湯を下手に持ってくるとか聞きましたね。髪の毛の分量とか違いますよね、男と女では……」
大久保彦左衛門の末裔というBが教えてくれた。(彼からもらった新聞記事によってそれは知ったことだ。「大言海」の編纂者の大槻文彦をサポートしていた大久保初男の孫であると知ってびっくりしたことである)
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2006年10月21日
下北沢X物語(711)〜武蔵野秋日ペダル行(下)〜
昨日のことだ。銀座に向かうときに目黒の権野助坂に差し掛かった。勾配がきつく、しかもそれが長々と続く。このところここを通ることが多い。足が嫌がるところだ。
わたしは権野助坂を上りながら考えた。なぜこんなに急なのだろうと。考えて、辿り着くところは目黒川だ。深い谷を削り取ったのはこの川だ。この一帯では最も大きい川だ。自分のフィールドワークの拠点下北沢鉄道交点は目黒川の上流にあたる。下北沢という駅を挟んだ川が目黒川に流れているとはなかなか分からないが、そうである。
北沢川、烏山川、空川、蛇崩川などを一手に集めて、それが目黒川となって品川で東京湾に注いでいる。たいしたものである。支流である北沢川、烏山川、空川、それぞれに文化を育んできた川である。わが国の近現代の歴史に関わる川である。所謂、二・二六事件の謀議などは空川の段丘の隅でなされた。とある重大な政治的決断が北沢川河畔の段丘でもなされた。もちろんそこは南面のり面誉れの丘である。ここでは悲惨なこともあった。第一軍司令官杉山元帥の妻は夫が市ヶ谷台で自決したことを確認して自宅で短刀で自裁した。そんな話が無数に転がっている支流領域である。
V字谷の急坂を上りながらそんなことを思い出した。そんなときに前からミニスカートの自転車がぶつかってきた。それをひょいと避けた、そのとたんに脚の脳髄が反応した。わけもなく池上本門寺の坂を思い起こした。それがヒントになった。今自分が苦しんでいる坂とあそことは同じだったと。石段九十六段の此経難持坂である。勾配がきつくて長い、ところがそう思う割には標高はそう高くはなかった。それは地表面がもともと低いからであった。
目黒川の水面は低い。海から船が中目黒辺りまで来ていたはずだ。干満の差を受けるほどのところにあったはずだ。とすれば海面より幾らか高いだけである。川によって深く抉られた谷は思うほどには高くはないのではないか。そんなことを思っていると頂上に着いた。
そこには陸橋があって、下を山手線とかつての貨物線が走っている。この切り通しを作るのは難工事だった。そのことは明治四十年十二月の「新小説」に掲載された「駅夫日記」に詳しい。(デジタル化された作品がインターネットでも見られる。検索語句「駅夫日記」)
2006年10月20日
下北沢X物語(710)〜武蔵野秋日ペダル行(中)〜
武蔵野ペダル巡行は、自分にとっての一つの仕事でもあり、趣味でもある。今日は珍しくロイヤルポジションを目指した。銀座である。林義彦氏の写真展を見に行った。
昨年のことだ。「北沢川文学の小路物語」という案内冊子を作るために準備をしていた。
が、大きな障害があった。写真版権の問題である。世田谷区からの支援を受けてそれを作り始めたが、限られた予算の中で作るには版権所持者に協力を得ることが不可欠となった。ことに無頼派の写真は数が多かった。東盛太郎氏が林義彦氏の写真展の開催を知って、そこへ赴いて氏の父親の忠彦氏の写真を使わせてもらえるよう頼みに行こうと誘いを受けた。それで写真展に行った。義彦氏は快諾してくれた。それで坂口安吾、田中英光、田村泰次郎の写真を使うことができた。一年経って、氏から今回の写真展の案内を頂いた。それでお礼を兼ねて銀座まで行った。
月日の巡りの早さよ、銀座の雑踏を眺めて、去年のことを思い出した。東氏と写真展を見た後、無頼派がたむろしたバー「ルパン」をともに確認して、そしてカフェでお茶を飲んだ。昨日のことのように思われる。その彼は急逝した。彼はわたしの身を案じてくれていた。根を詰めてやっているさまを見て、私を心配してくれていた。
路地をさまよい漂うということの面白さにおいて彼とは一致していた。今も路地から路地へ自転車で巡り歩く日々が続いている。あっち行っては話を聞き、こっち行っても話を聴く。あんなことがあった、こんなことがあった、それを彼はよく聞いてくれた。寂しいというのは聴き手がいないことを言う。そういう意味ではさびしくなった。
この間、代田橋近くの人に声を掛けて昔のことを聞いた。近辺がかつては植木だめだったと教えてくれた。そのことを聞いただけで嬉しそうにするわたしの様子を見て、「へぇ、昔のことをあちこち聞いて回っているんですか」と感心していた。太子堂でもかつての銭湯のことを地元の親爺さんに聞いたら、「道楽でやってんのかい?」と羨ましそうだった。
このペダル巡行を続けて何人ぐらいの人に出会ったろうか。何人と数を数えたことはない。が、優に三、四百人は超えているはずである。これも経験だが、昔話は出し惜しみしないということを知った。むしろ話をしているうちに話している本人が感激することすらある。
2006年10月19日
下北沢X物語(709)〜武蔵野秋日ペダル行(上)〜
坂口安吾が「風と光と二十の私と」を書き記した舞台で話をすること、それは自分にとってはハードルだった。全集を読み、関係文献に当たり、そして関係箇所に行った。それでもでも自転車でのフィールドワークは面白かった。誰にも分からないことが苦労してそこに行くことによって分かった。
巨大な車の川、環状七号線、これを危険を冒してまで渡ったのは「風と光と二十の私と」の中に出てくる「目がさめるほど美しい」女性のイメージがあったからだ。滝坂道を行く安吾と月村さんところの娘を想像して、そのツーショットを幻影的に追尾するのは楽しいことでもあった。
安吾の居住痕跡にはローカル時間が流れていた。彼の拠って立つところはローカルポジションである。優等生が居座るところには決していなかった。丘上ではなく、丘下である。そこは地盤が脆いところである。洪水原である。軟弱な地盤の上には大衆、庶民時間が流れている。最も端的な例は蒲田安方町である。「堕落論」、「日本文化私観」、「白痴」、「風と光と二十の私と」などが書き記されたところだ。土地としては傍流だ。が、そこであるからロイヤルポジションがよく見える。精神の反骨精神ではなく、居住の反骨精神だ。傍流ポジションに身を置くことで言葉の刃はいっそうに磨かれた。銀座の鍛冶屋よりも蒲田のそれである。後者の技術は寄せ集めれば宇宙ロケットさえ作れるはずだ。蒲田洪水源のスリリングなポジションだ。地霊の力を借りた批評は切れ味が違う。
「人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでね。」と「風と光と二十の私と」の中で主人公は自分に言い聞かせている。そう、人はケダモノだ、動物である。その人間は満足を好む。旨いものを食い、いい生活をして満足したい。誰でも思うことだ。が、その地点に到達したら、人間は本当に堕落する。ぶくぶく太ってそして仕舞いには死ぬ。飽食して死にたい人は死ぬがいい。けれども、やはり、自分を苦しめて努力するところに人間の良さはある。
自分の自転車行も相変わらず続いている。坂を上っているとき自分が難行僧苦行僧のように思えることがある。
世田谷「邪宗門」のマスターに言わせると、わたしは「神出鬼没」ということになっている。確かにそうだ。代田橋七号踏切の側のお稲荷様を見に行ったと思えば、次に蒲田文化会館のテアトル蒲田で上映されている「すけばん警部」の看板を横目で見ては通りすぎる。昨日は、目黒の権之助坂を上って、山手線沿いに北へ向かった。「目黒区三田」という地名にぶつかって「三田用水」が流れて来ていた地点だと知った。武蔵野の起伏をたどってビール工場に水はたどり着いていた。ふと空の向こうを見るとビール工場の跡地に建てられたエビスガーデンプレイスが至近距離に見える。
2006年10月17日
下北沢X物語(708)〜「風と光と二十の私と」(下)〜
「風と光と二十の私と」は、そこだけを取り出して提示しても名言として通じるフレーズが幾つもあることだ。例えば、「人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね。」と記されている。随所さりげなくこういう噛めば味の出る一節がちりばめられている。
「風と光と二十の私と」は昭和二十二年一月に発表された作品である。その前の年には「白痴」「堕落論」などを出し終えている。そういう精神の高揚の中で書かれた作品である。二十年前を回想して書いたものである。が、彼は過去再現能力に優れている。代用教員時代を回想的でなく現実的に記している。
今回の講演をするに当たって、極めて貴重な証言を得たことは幸いだった。森栄晃氏との出会いだ。彼は坂口安吾がいなければ自分の人生はあり得なかったと語った。話を聞いてみてなるほどとそれを納得した。
坂口安吾は豊山中学の先輩として世話になったと言う。森栄晃氏はマラソン選手だった。全国大会などのときに坂口安吾は応援に来ていた。そこで知り合ったという。森栄晃氏は文武両道であった。中学時代に新聞社主催の文芸コンクールに応募して入賞した。「伽藍」という題だったと言う。それで文章修業をしたいと安吾に相談したら垳利一を紹介してくれたと言う。そのことから「雨過山房」の水曜会に通うようになった。川端康成、今日出海、林芙美子などが来ていたという。その中での一つのエピソードは胸を打つものだった。
水曜会の席上でふとしたことが起こった。それを即座に捉えて垳利一が文学作法の一例にして、一座をうならせる名言を述べた。森栄晃氏もよくその往時のことを覚えていたものである。もっと驚いたのは、垳作品にそのときの場面が小説展開に実際に使われていると聞いた。全集で調べるとそれはちゃんと載っていた。
坂口安吾に垳利一を紹介されて「雨過山房」で行われる水曜会に出席していた。その縁で森栄晃氏は映画界に入った。「坂口君はあれはあれで文章で苦労している。これから先文学よりも映画だね」と垳利一から示唆を受けた。すると側にいた川端康成が大船撮影所を知っているので紹介をしてやるというので森栄晃は松竹の試験を受けた。相当数受けたのだが選ばれた5人の中に自分入っていたと言う。川端先生のお陰だと彼は言う。日本近代文学ゴールデンラインの示唆によって、森栄晃氏は映画界で生きた。御年九十歳である。「雨過山房」の生証人だ。
2006年10月16日
下北沢X物語(707)〜「風と光と二十の私と」(中)〜
「北沢川文学」について書いたり、話したりするときに「凄い」とか「きれい」とかは使えない言葉だと講演では言った。川の沿岸に居住した文学の熟達たちは使い古された形容語では考えが伝わらない、そのことを前提にそれぞれが苦心惨憺してきた。講演として話す場合も、伝わるように話すことが自ずと求められる。北沢川文学は苦難の文学だ。
「風と光と二十の私と」とには坂口安吾の素が詰まったものだとも述べた。思考の原点、動物の本質、立脚点の表明など他作品に繋がるものがちりばめられているからである。女性観も興味尽きない点である。
「安吾の小説には若林本校の目の覚めるような美人教師が出てきます。それはすぐ近くの月村さんところの娘さんだったのではないか?」
これは地元ネタの物語である。一般的には分からない話だ。
大正十四年三月三十一日、坂口安吾は若林本校に着任の挨拶に行った。玉電「若林駅」で下りて丘上の本校に行ったはずだ。行くと、あなたはここではなくて分校の方だと教えられた。「これが驚くべき美しい人」だった。その彼女は分校の近くに住んでいるからと言って安吾を案内してくれる。
話の種になると思ってその道をたどったことがある。驚くべき美しい人の香気を嗅ぎながら歩いた道である。ルートは分かる。若林小学校の横の滝坂道を東に向かい。途中、左に折れる二子道を行けば分校にたどり着く。いずれも古道である。
本校から分校までどの位の距離があるのか自転車のメーターを使って測ってみた。遊び心があってのことだ。が、それでも思い始めると真剣になるのが性分だ。それゆえにハムレットになってしまった。
古道である滝坂道は環状七号線で分断されている。信号のあるところまで回って行くと正確な距離が測れない。まっすぐ行くには環七を渡らなくてはならない。六車線もある川だ。何れを辿るか相当に迷った。真剣に悩んだ。結論は環七川を渡ることだ。無謀である。上下線ともに絶え間なく車が高速で走っている。ちょうどその箇所は縦の環七が横の淡島通りの下を潜って行くところだ。かつてバイクに乗ってよく通ったところだから知っている。障害物がないから最高にスピードが出せるところだ。
2006年10月15日
下北沢X物語(706)〜「風と光と二十の私と」(上)〜
安吾文学をどう伝えるのか。ここ十数日の悩みであった。が、代沢小での安吾の講演は始まり、そして、瞬く間に終わった。会場に大月商店のおばぁちゃんが来ていて、彼女が泣きやまないのを見てほっと一息ついた。
およそ三十四、五名ぐらいの聴講者であった。PTAの方々が用意してくれたパイプ椅子がそこかしこで空いている。まことにローカルな間延びした時間であった。が、それでも自分では真摯に時に向かいあった。参加していた伊藤文学さんが「一時間で終わるかと思っていたけど二時間話ちゃったね」と。そう、「自分がしゃべる話はいつも少ない」という不安があって、分量多く下準備していく。つい目一杯話をしてしまった。
自分の自転車年暦は誇れる。当日も、現段階の積算距離が九千を越えていて間もなくしたら9999になる。そして、次は0になると誇らしげに言った。が、北沢川近辺に住まいする文学についての年暦は誇れるものではない。安吾にしても接し始めたのは一昨年ぐらいからで全集を買ったのは今年になってからである。
文学の発掘は、文層発掘である。何年何月に発行された作品にこうあるからこのようなことが言える、と。文学なのに資料として眺めている。そう見なければ全部を消化できないという現実はある。
「北沢川文学」、それは、すなわち、北沢川沿岸に住んだ文学者の作品である。それも文学の特級一級、粒ぞろいだ。それを全部読み終えるには何回か生き直さなければならない。それは不可能だ。それで漁り急ぐことになってしまう。が、人に文学を伝えるとなると漁り読みでは不十分だ。ことに安吾となると壁は高い。ここ数ヶ月はひたすら読み、そして、安吾を求めてひたすら走った。多分その走行距離は200キロを優に超えているだろう。
「北沢川文化遺産保存の会」会報4号
「北沢川文化遺産保存の会」会報
会長 長井邦雄
2006年10月15日発行
会報第4号 事務局:世田谷「邪宗門」代田1-31-1 3410−7858
「北沢川文化遺産の会」は毎月テーマを決めて下北沢鉄道交点近辺のそぞろ歩きをしています。毎月、第三土曜日の午後1時に出発しています。集合地点はそのコースごとに多少違ってきます。基本的には少人数、十名以内ということにしています。参加希望については事務局の世田谷「邪宗門」で受け付けております。なお、「北沢川文化遺産の会」に関わる情報については喫茶室になっている世田谷「邪宗門」で聞いてみてください。案内はインターネットブログ「東京荏原都市物語資料館」(http://blog.livedoor.jp/rail777/)で随時行っています。これまでのコースは、「代田連絡線の跡を歩く」「小説猫町を歩く」「下北沢の大谷藤子を歩く」「下北沢・淡島の森茉莉を歩く」です。
○今後の予定
・10月21日(土)午後一時 下北沢駅北口集合
「銭湯を歩く(1)」 受付中
八幡湯、山の湯 、石川湯、寿湯(廃業)、北沢湯(廃業)、第一淡島湯(廃業)、代沢湯(廃業)、第三淡島湯(廃業)、宮前湯(廃業)
地域文化と文学と銭湯
・11月18日(土)午後一時 下北沢駅北口集合
「下北沢の無頼派を歩く」。受付中
北口に集合、田中英光、石川淳、坂口安吾などの関係箇所を歩き回る。
(急逝した東盛太郎氏が企画したものでした。彼を偲んで歩くことにします)
・12月16日(土)午後一時 下北沢駅北口集合 受付中
「下北沢の教会を歩く(1)」大久保良三担当。
四つほどの教会を巡った後、世田谷「邪宗門」にて懇談。
カトリック世田谷教会、日本キリスト教団頌栄教会、日本キリスト教団富士見丘教会、 日本聖公東京聖三一教会などを予定している。
・1月20日(土) 午後一時 京王線代田橋駅 集合 受付中
「坂口安吾が歩いた道を歩く」
代田橋から代沢小学校まで安吾が徒歩通勤していた道を歩く
・2月17日(土) 午後一時 下北沢駅北口集合 受付中
「下北沢の教会を歩く(2)」
・3月24日(土)午後一時 下北沢駅北口集合 受付中
「下北沢・淡島」の森茉莉を歩く 「邪宗門」店主作道明担当
「北沢川文学の小路物語」という冊子を通して田端、馬込、阿佐ヶ谷のつぎの第四の文士村として口コミで、その存在が伝わっています。10人、20人という単位での文学散歩がひそやかに行われはじめているようです。
当会でも10名程度の少人数での来訪は受け付けます。事務局に連絡をください。
○当会主催の「北沢川文学の小路物語における坂口安吾」は昨日、代沢小学校で開催され、無事終了しました。宣伝が行き届かず、参加者三十数名ほどでした。が、二時間たっぷり使っての講演でした。会場の準備をしてくださった。代沢小PTAの皆さんには感謝いたします。
2006年10月13日
下北沢X物語(705)〜荏原南部をさすらい走る(下)〜
机上思考よりも階段思考の方がおもしろい。お会式見物にでかけた。そして、池上本門寺の「比経難持坂」の階段に佇んで下から登ってくる万灯を眺めていた。講の人々の行列が途切れる、つぎを待つ間、様々な思いが巡ってきた。
万灯会は明かりと音のシンフォニーだ。坂の石段から見下ろす。各講中の灯火が間隔を置いてぼぉっと点っている。そして下からは団扇太鼓、鉦、笛の音が響いてくる。「どんつく、どんつく、どんつく」、これは我々のどこかに眠っている古代魂を呼び覚ます効果がある。信仰の歴史の中で培われたノウハウだろう。
「団扇太鼓を大きくすることによって、見物客が一万人も増えたそうだ」
そんな話を想像してしまった。
「おい、石段は九十六段だから、もうすぐだぜ、頑張れ」
提灯を持った講の総代らしい男が万灯を抱え持って階段を上る若い衆に声をかけていた。加藤清正寄進による石段由来は総代の必須学習項目であるようだ。九十六の詩句も暗唱しているのかもしれない。
纏振りが一番の見せ場のようだ。若い衆が代わる代わるその役をやる。纏は重いようだ。それを体を駆使して巧みに廻す。大勢に見られて演じるものは輝く。見ていると、模範青年のものよりもワルっぽい少年が振り回すと様になる。格好つけているのだろう。巧みに纏を振ればいい女ができる。かつてはそんな俚諺が生きていたように思う。
纏の上のところに「衾」と記されている。普通には何を意味するかは分からない。が、わたしは知っている。自分が住まいするところだからだ。かつては「衾(ふすま)村」と呼ばれていた。各地区の講が集ってくるときにこう評したのかもしれない。
「衾村、常円寺の若衆の纏振りは天下一品だった。馬簾(ばれん)が花開いたように綺麗だった」
お会式を見た後、夜店を見ていった。ほとんどが食べ物屋だ。あるかもしれないと思った「因果ものの見せ物小屋」はなかった。それでもさまよい歩いた。人、人、人だ。不思議なものである。「ステッキを持った大男」(「クラクラ日記」)をいつの間にか探していた。生きているはずはないが生きている。
2006年10月12日
下北沢X物語(704)〜荏原南部をさすらい走る(中)〜
自転車による回遊巡行をずっとつづけていると地形が読めてくる。武蔵野は千枚谷、実際は一万を超すだろうと思う。が、分かっていても分からないことがある。ペダル巡行はそれを発見する旅だ。
池上本門寺の見上げるような階段を上って行った。当然のことながら石段を数えながらだ。が、途中でこれは数に何かあるなという勘が働いた。その段数は96段であった。上りきったところに坂の謂われが記されていた。予感は当たっていた。
「比経難持坂」 この石段坂は、慶長年間(1596〜1615)加藤清正の寄進によるものと伝えられる。「法華経」 宝塔品の詩句九十六文字にちなんで石段を九十六段とし、詩句の文頭の文字「比経難持」をとって坂名とした。
池上本門寺は日蓮上人終焉の地である。10月13日に没した。お会式は命日に合わせての信仰行事であろう。近郷近在から多くの宗徒が集まった。近隣にある南北を縦断する堀之内道は「池上本門寺から堀之内妙法寺へ通じる道として、お会式や参詣の人々が往来する道」であった。若林や世田谷中原は、その縦の堀之内道と横の鉄道、前者は玉電、後者は小田原急行鉄道とが合わさって町は賑わった。が、東京オリンピック開催に伴って堀之内道は大幅に拡幅され、環状七号線となった。若林、中原などの商店街はそれで急速に衰退していった。参詣ルートから産業交通ルートへの変遷である。
近隣の文化の隆盛と衰退に関係する寺である。境内は一山を占めている。視覚的にはかなり高い山という印象を受ける。96段の石段は息が切れるほどである。が、調べてみると意外に低い。26,4メートルだった。そのことから平地そのものが低いことに気づいた。寺からさほど遠くない坂口安吾旧居は、かつての洪水原でもともと標高が低い。
池上本門寺のお会式の晩、「一貫三百どうでもいい」、という信徒のたいこの音が聞こえて来ると、私を散歩にさそった。本門寺のお会式を案内してくれるというのである。
坂口三千代「クラクラ日記」 ちくま文庫 1989年刊
安方町の家はフラットな地形である。西北の方から「いっかんさんびゃくどうでもいい」という太鼓の音が聞こえて来ると、安吾は原稿用紙に向かってペンで書いていた文字、「人間は墜ち」でやめた。「お〜い、三千代、お会式だ、お寺に行くぞ」と言って二階からの階段を駆け下りる。
2006年10月11日
下北沢X物語(703)〜荏原南部をさすらい走る(上)〜
日々ペダル巡行している武蔵野の谷は海の入り江だった。それを知ったことで想像浪漫がいっそう掻き立てられた。
かつての青山脳病院は北杜夫の「楡家の人々」の舞台となったところでもある。現在の都立梅ヶ丘病院だ。この敷地から「約一四○○年ぐらい前のものと思われる漁師の遠網の重りが発掘され、かつてはこの辺まで入り江だったのではないかと想像される」と「ふるさと世田谷を語る」(世田谷区生活文化部、平成8年刊)にあった。東京は百万年ほど前は海だったということを本で読んでいた。それがたかだか千数百年前だと知って、潮の匂いが急に近くなったように思った。
連想は飛躍した。こちらは烏山川南のり面になるが、そこも住居表示は梅ヶ丘だ。ここの旧家宇田川家の欅を思い起こした。その家には太くて大きい欅の木が数本ある。ちょうど枝おろしをしているところに行き会わせた。その様子を眺めていたら主人が教えてくれた。昔は大森の漁民がこれを買いに来たものだと。海苔ひびに使うためだと彼は言った。そのときは思いがけなく思った。
かつて武蔵野の谷が海だった頃、欅の枝は海苔ひびにいいということが知られていた。海が遠ざかってもそのことは文化として受け継がれて行った。それで大森まで行った海辺から漁民はひびを求めて梅ヶ丘近辺まで来ていた。そう思った。
ペダル巡行はいつもは北の丘をめざす。秋晴れに誘われて南の海の方へと今回は下った。自分が住んでいる目黒八雲の自宅の前は呑川が流れている。遊歩道になっていて桜並木が上流にも下流にもずっと続いている。上ると世田谷深沢、桜新町である。それを下へたどると池上や蒲田にたどり着く。
2006年10月09日
下北沢X物語(702)〜「松林の中の家」を求めて(下)〜
下北沢を南北に貫いているのが北沢サラダボールだ。谷の底を川が流れている。それは北沢川支流の森厳寺川(仮称)である。その川の東側の斜面は急峻だ。小田急電鉄の線路はそこを25パーミルの勾配で上る。かつてその斜面は日影山と言った。赤松に覆われた一帯だった。大岡昇平がかつて居住していたというその屋敷は日影山斜面の延長部分に当たる。そこに赤松がいまだに残っていた。
若い彼はこの家を出ていったん坂をくだり、角を西へ曲がって池ノ上方向へと足を向けることがあった。「家の横のゆるい坂を登り切ったあたりを、右側へ入ったところが垳さんの家だった。」(「下北沢の思い出」大岡昇平)。作家志望の男は、小説作法の伝授を求めて日影山の緩い斜面を上った。一方、池ノ上に住んでいてその緩い坂を下北沢へと下っていた詩人もいる。吉増剛造である。彼の詩「黄金詩篇」の一節にはつぎのようにある。
ゆるい坂道をゆっくりくだってゆく
言葉の波をゆっくりはねのけながらくだってゆく
ああ
下北沢裂くべし、下北沢不吉、下、北、沢、不吉な文字
の一行だ
ここには湖がない 吉増剛造詩集 現代詩文庫41 思潮社 1971年刊
若い小説家と詩人が言う「ゆるい坂道」同じである。それは日影山斜面だと直感する。そこを大岡昇平は上り、吉増剛造は下った。
吉増剛造は北沢サラダボールに貯まっている言葉の海を想像している。彼の意識には下北沢の朔太郎のイメージがある。彼は詩人が当地に住んでいたことを知った、それで「朔太郎詩集」を携えて下北沢の町をうろついた、そうどこかに書いていた。
古代語に敏感な彼は日影山斜面から転がり出た新感覚派の言葉も意識していたのかもしれない。それは分からない。が、丘へ上るゆるい路を、多くは昭和信用金庫の脇の道である、垳宅へと小説家や詩人たちが通っていったことは事実だ。文学への通い路であった。丘上で交わされた言霊は坂を転げ落ちて北沢サラダボールに溜まっていたのかもしれない。言葉の海である。
2006年10月08日
下北沢X物語(701)〜「松林の中の家」を求めて(中)〜
旧番地探しは路地奥の秘宝探しをするようなものだ。一筋縄ではいかない。三筋縄、四筋縄は普通である。探し当てるまで数ヶ月かかる。分からないままそれっきりというのも幾つもある。それでも僥倖というものは稀にある。かつてこんなことがあった。多分代田のこの辺りではないかと思って立ち止まる。するとそこにちょうど家からお婆さんが出てきた。すかさず聞くと、「ああ、茂吉さんね、ここですよ」と家の前を指さした。今回はそのときと劣らないほどの偶然の幸いだ。
代沢小の児童の保護者Sさんがちょうど出かけるところで出会った。それも自分が関わる劇の打ち合わせで学校に行くところだった。劇的である。その彼女が指さす方を見るとすぐそばの丘の上に古びた趣のある瓦屋根が見えた。手前が広い駐車場になっていて丘の斜面の全貌がつぶさに見られるところだった。丘の上に大きな瓦葺きの家があって、その西斜面には松林があった。「下北沢の思い出」というエッセイでは「斜面の松林の中に私の家があった。」とある。文章に書かれていた松林がそのまま残っている。あり得ないことがあり得る。
都市近代は「方丈記」に述べられるところとまさに同じだ。鴨長明は「昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。」と言う。鎌倉時代のことを述べているが現代の都市事情の批評としても充分当てはまる。
今自分が立っている代沢地区は緑の多いお屋敷町だった。が、まさに「大家ほろびて小家となる」、広い敷地は小分けされて、そこに建て売り住宅がつぎつぎに建つ。それでかつての面影はなくなりつつある。が、「斜面の松林の中に私の家があった」というそのままに情景が残っていた。
2006年10月07日
下北沢X物語(700)〜「松林の中の家」を求めて(上)〜
書物の中に自分で気に入った一文を見つけるとその本が欲しくなる。インターネットで検索し、自転車で行ける書店を見つけだす。そして、買いに行く。この間は、文学ペダル行のついでだったが神田古書街の八木書店で、田村泰次郎の「わが文壇青春記」を求めた。
数日前は、川崎市中原区新丸子の「甘露書房」へ、多摩川を渡って行った。「垳利一の文学と生涯」を買いにである。つぎの文をみかけたからだ。
小田急線は、下北沢と東北沢の間で、狭い谷を越す。現在は人家の屋根で埋め尽くされているが、その頃は両側とも田圃で、その東北沢側の斜面の松林の中に私の家があった。家の横のゆるい坂を登り切ったあたりを、右側へ入ったところが垳さんの家だった。
「垳利一の文学と生涯」ー没後三十年記念集ー 昭和52年刊 桜楓社
だいぶ前にこの文章は読んだことがある。が、鉄道交点一帯の丘を何度も上り下りして来た今は、その具体的なイメージが湧く。「ゆるい坂」とは茶沢通りから池ノ上へ向かう道だろうと直感した。(写真)
この文章の記述の冒頭には次のように番地が記されている。
垳さん(「先生」と書くべきだが、生前お心易だてに呼ばせていただいていたまま呼ぶ)の風貌に初めて接したのは、一九三○年(昭和五年)家が下北沢二四六番地に引越してからである。垳さんのお家は同一四七番地で、歩いて五分とかからない距離であった。
ここには「下北沢二四六番地」とあるが、正確には「北沢二丁目二四六番地」である。そこは手元にある地図でおおよその見当はつく。が、せっかく本を買ったことでもあり、きちんと調べてみようと思った。
まずは、北沢タウンホール内にある区役所出張所に行った。そこで「住居表示情報提供書」に必要事項を書き記して窓口に出した。この事務手続きは何度もしている。が、こういう情報開示を求める人は少ないようだ。担当によって応対が異なる。今回の場合は情報を開示していいものかどうか窓口に立った男性は上司に伺いを立てていた。
2006年10月05日
下北沢X物語(699)〜荏原を駆けめぐって9000キロ(下)〜
土地が居住者の生活に与える影響、それはかつてはより一層大きかった。地域の特徴が信仰とも結びつき、道もそれと関わりがあった。武蔵野の千枚谷という土地の特徴がここに住む人の行動にも結びついている。
昨日は代替自転車で代田橋まで行った。そこでまた土地の人と出会った。
「ここら辺りは昔は植木を多く作っていたと言いますよ。明治神宮の森を作るときはここからだいぶ樹木を運んだと聞いています。そうね、昔は松ありましたね」
かつては松沢松原と呼ばれていたが今は松原一丁目となっている。和田堀給水所と同じ高さのところにある土地だ。標高五十メートルの台地である。
松原は赤松が多く群生していたところか名づけられた名前のようだ。武蔵野台地の上にある松原は水が乏しかった。それで日照りになると大山阿夫利神社へ雨ごいに行った。大山は別名「雨降山」と言う。灌漑、耕作地に水を潤す、それを叶えてくれる神がいた。
丘陵がたたなづく武蔵野一帯は谷間の低いところは別にしても、台地上の多くは水が乏しかった。天候頼みだった。日照りは作物にすぐに影響し、それが長く続けば生活が困窮した。雨への渇望が大山阿夫利への信仰を厚くした。武蔵野各地に大山講があったのはそのためだろう。
現在の国道246号は大山街道と言う。神奈川県中部にある大山、その山にある阿夫利神社への参詣街道である。この街道には幾つもの枝線がある。代々木山谷でも見かけた。松原にもある。甲州街道と大山街道を結ぶ道があって、それを、「松原大山通り」という。
雨が降るようにと神に願う。一方、水路を整備して水を確保した。品川用水、玉川上水、三田用水である。北沢川や烏山川はそれぞれ今でも用水と呼ばれる。上流で玉川上水からの分水を受けているからである。川ではなく用水なのは命脈だったからであろう。
2006年10月04日
下北沢X物語(698)〜荏原を駆けめぐって9000キロ(中)〜
自転車に長く乗っていると脚が地形を記憶する。
昨日今乗っている自転車を修理に出した。そのときにサイクリストの若い店主と話をした。彼もよく自転車に乗っている。
「そうですね、玉川の高島屋の北側を通って帰ろうとするときついですね」
野川、千川、丸子川が多摩川の流れに集まってくるところだ。それら三本の河が川の字を描いて南へと流れている。自転車で東西に横切ろうとすると丘を三つも越えなくてはならない。その斜度がいずれもきつい。頭よりも脚がそれを覚えている。体験者と話をするとすぐに意味は通ずる。
我々現代都市人は地形については余り深い興味は抱かない。が、古代人にとっては必要不可欠なものであった。日当たり、水はけは生活に直結していた。それは土地の生産性とも結びついている。武蔵野の谷谷は広さ、深さによって米の取れ具合が異なる。水路があって低いところが多い場合は米の生産高は高い。が、丘が多いとそれは低くなる。千枚谷は農民が苦労したところである。
豊穣を祈って神社に参ることは大事な行いだった。祈る場は大事にされた。社殿は大概が南か南西を向いている。建っているところは南のり面である。丘の斜面を利用して階段つきの参道がある。日当たりのよい、水に浸からない場所を選んでいる。多分、今でも神社並びの土地は他よりも高いはずである。
寺と神社は違うようである。大きなお寺の本殿はやはり南のり面が意識されている。が、中小のお寺となるとどこにでもある。川の側の洪水原にもある。墓が水に浸かるのは仕方ない。高いところを選ぶよりも生活した場所を選ぶのかもしれない。
この間、目黒の碑文谷八幡宮を通った。その社殿は真東を向いていた。参道は緩やかに下ってそのままずっと東へと続いている。その道は遊歩道になっている。川である。立会川である。川の源流が神社になっていた。川が流れる方を向いているところが興味深かった。かつては源流一帯がハケで、そこから清水が湧いていたものと思われる。神聖な場所としてそこに八幡様を祀ったもののようだ。
2006年10月03日
下北沢X物語(697)〜荏原を駆けめぐって9000キロ(上)〜
我々は言葉や数字をモノサシとして生活している。昨日、これまでのペダルによる行程を数字が表してくれた。自転車に取り付けたサイクルコンピューターが、その小窓に「9000,0」を映し出した。荏原の里を駆けめぐった積算距離である。
サイクルコンピューターは「9999,9」までしか測れない。つぎに巡ってくる数字は零である。一万以上計測できるものはないかと自転車屋の親爺さんに聞いたことがある。言下に「ない」と言われた。一万を何度もクリアーするサイクリストはそう多くはない。需要のないところに製品は生まれない。いっそ車にしましょうか、車用のメーターが装着できるのならそうしてみたいと思う。
我が自転車の積算距離計も後99キロ走れば零にリセットされる。が、今日愛車は緊急入院してしまった。自転車の主治医はタイヤがすり減りチェーンも交換する必要があるという見立てである。三日間ぐらいの治療修理を要するとのこと。今日からは持ち運び用の自転車に乗っている。代替機には積算計はついていない。距離の貯まらない輪行は寂しい。
自転車に一万キロメートル乗ってのリセットは何度か経験した。当初は距離計を装着していなかった。それでこれまでどの程度走ったのかはよく分からない。が、地球二三周は軽く走っているだろうと思う。
思いがけないトラブルもあった。電池切れだ。五千数キロのところで電池がなくなり、入れ替えたら零になってしまった。人間は当てを目当てにして生活している。それがふっつりと消えてしまう。するとその落胆は大きい。金が貯まるわけではないが、自分の脚で稼いだ距離貯金というものは殊の外愛着がある。貯まった数字を愛おしむ感情、これは距離をひたすら貯めている人にしか分からないだろうと思う。
習い性というのは恐いものである。どこへ行くのにも自転車である。荏原圏内を越えてのペダル行もしばしばだ。つい先日は、早稲田、本郷を巡った。その前は多摩墓地まで行った。墓参ついでに戦争遺跡見学をした。調布飛行場の側に保存されている二基の掩体壕を見つけ、また、三鷹大沢の高射砲陣地跡も見学した。
2006年10月02日
下北沢X物語〜(「お知らせ」)〜
「北沢川文化遺産の会」は毎月テーマを決めて下北沢鉄道交点近辺のそぞろ歩きしています。毎月、第三土曜日の午後1時に出発しています。集合地点はそのコースごとに多少違ってきます。基本的には少人数、十名以内ということにしています。参加希望については事務局の世田谷「邪宗門」で受け付けております。なお、「北沢川文化遺産の会」に関わる情報については喫茶室になっている世田谷「邪宗門」で聞いてみてください。このブログを見たということでの来訪者もいます。ついさっきそういう人に会いました。
○今後の予定
・10月21日(土)午後一時 下北沢駅北口集合
「銭湯を歩く(1)」 受付中
八幡湯、山の湯 、石川湯、寿湯(廃業)、北沢湯(廃業)、第一淡島湯(廃業)、代沢湯(廃業)、第三淡島湯(廃業)、宮前湯(廃業)
地域文化と文学と銭湯
・11月18日(土)午後一時 下北沢駅北口集合
「下北沢の無頼派を歩く」。受付中
北口に集合、田中英光、石川淳、坂口安吾などの関係箇所を歩き回る。
(東盛太郎氏が案内してくれるはずでした。彼を偲んで歩くことにします)
・12月16日(土)午後一時 下北沢駅北口集合 受付中
「下北沢の教会を歩く(1)」大久保良三担当。
四つほどの教会を巡った後、世田谷「邪宗門」にて懇談。
カトリック世田谷教会、日本キリスト教団頌栄教会、日本キリスト教団富士見丘教会、
日本聖公東京聖三一教会などを予定している。
・1月20日(土) 午後一時 京王線代田橋駅 集合 受付中
「坂口安吾が歩いた道を歩く」
代田橋から代沢小学校まで安吾が徒歩通勤していた道を歩く
○講演会などのお知らせ
「北沢川文学の小路物語における坂口安吾」 講師 きむらけん
主催 北沢川文化遺産保存の会 代沢小学校PTA
後援 世田谷区教育委員会
日時 10月14日(土) 午後1時から3時まで
会場 代沢小学校視聴覚教室
(当日直接会場へ。先着80人)
*なお、当日開始時刻まで坂口安吾の教え子たちの証言をビデオで放映する予定。
「芸術の芽を育む」代沢小家庭学級主催
「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」
蒔村三枝子による一人芝居公演
日時 10月26日(木) 午後1時30分より4時まで
公演の後、女優の蒔村三枝子と原作のきむらけんが話をする予定
場所 代沢小学校体育館
(一般の入場希望についての手続きは後日お知らせします)
今日夕暮れ、世田谷「邪宗門」を訪れた。そこへ伊藤文学氏と幻冬舎の編集者が見えた。文学氏の「『薔薇族』編集長」の刷り見本ができたところだと言う。それを一冊頂いた。
「幻冬舎アウトロー文庫」の一冊である。十月六日発売予定だということだ。(写真)
一九七一年に創刊された伝説のゲイ雑誌『薔薇族』。非同性愛者でありながら、日本全国のゲイ読者の悩みや気持ちに応えつづけ、警察からの呼び出しや、発禁、廃刊にもめげず二○○六年には三度目の復刊を果たした。三○年以上闘ってきた編集長の原動力とは?美輪明宏、寺山修司から絶賛されたその魅力に迫る第一級ノンフィクション。
本書の内容については以上のように記されている。
下北沢鉄道交点には様々な価値がふきだまっている。つい最近聞きつけたことは地方城主の末裔が一帯に住んでいるということである。奥州藤原氏直系もいる。クリス、クロイツ、文学、芸術、政治、経済、あらゆる価値が吹きだまっている。「薔薇族」もその一つである。
伊藤文学氏の「第二書房」は、下北沢焼け残り出版文化と繋がっている。焼け残った街に戦後多くの書店ができた。鉄道交点一帯にである。が、ほとんどが潰れた。伊藤文学氏はその彼らがのたれ死にする様をも見てきたと言っていた。そんな中で彼は彼の道を選択して今日にある。生きる闘争、生き残る闘争でもあった。
2006年10月01日
下北沢X物語(696)〜安吾を求めて44キロのペダル行(下)〜
人間は堕落への道をまっしぐらに進んでいる。子が親を殺す、子が人に殺される、強度偽装建物の発覚事件、飲酒運転の続発、後を絶たない詐欺事件など、うんざりするほどの人間の堕落実行である。坂口安吾も冥界で「そんなもんだよ」と言っているのかもしれない。
人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は墜ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。「堕落論」 定本坂口安吾全集 第七巻 冬樹社 昭和42年刊
人間は猛然と堕落に向かってまっしぐらに進んでいる。堕落解禁とでもいうように次々に転落の道を歩き始めている。
安吾が通っていた日大豊山は護国寺の境内に建てられたものだ。その校門の石碑には「坂口安吾」の名が第一番に刻まれていた。学校の豊山の名は寺が真言宗豊山派だからだろう。大きな寺だ。一つの学校を建てても敷地は有り余るほどある。敷地の東半分は皇族墓地である。著名な政治家も眠っている。大隈重信、山縣有朋などだ。
主流の寺の片隅にある傍流の学校、安吾はそこが気に入っていたのかもしれない。「この中学は人力車夫と新聞配達がたくさんいるから馬鹿にマラソンが強いので、特に団体競技、駅伝競走となると人材がそろっている。けれども車夫というものは走り方に隠されぬ特徴があって、手の置き場が妙に変わっており、又、脚のハネ方にもピンと跳ねて押えるようなどこか変ったところがあって、見ているとハラハラする。」と、ユーモアのある愛校心が綴られていて面白い。
メジャーな寺の見学は上っ面だけよい。山門への石段を上って本堂を眺めただけで辞去した。その本堂までの庭が駐車場になっていた。一つの堕落だと思った。
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