2007年06月
2007年06月29日
下北沢X物語(889)〜三国から函館へ2〜
流離い人はさすらう。さしあたっての目標点を求めての旅である。地理上の特色ある地点は到達点となる。東尋坊はそれに当たる。屹立した断崖絶壁、眺めのいいそこに立って、はるばるとここまでやってきた自分を人は思う。ある人は人生を思い、ある人は詩を創り、また人生に苦悩する人は自死を思う。
オフシーズンの東尋坊、その断崖に沿って歩いた。歩く度にフナムシが音を立てて逃げていく。そんな道を歩いていると、そこここに看板が立っていた。「早まるな」、「人は独りで生きているわけではない」、「親が悲しむぞ」というものだ。東尋坊は自殺の名所だった。言葉というものは不思議なもので、ふと独りで歩いている自分もその一人ではないかと思ってもくる。
北陸の果て、地が尽きて、海に断崖絶壁となって陸が転げ落ちるところだ。迷妄を携えてやっとたどり着いた人は、崖上からの投身を思いつくのかもしれない。が、それにしても人臭いところだ。国道から名所東尋坊までの道の両脇には数多くの土産物店が並んでいる。売り子が口々に声を掛けてくる。網焼きのサザエの壺焼き、イカの丸焼き、それらの臭いも漂っている。
死のうと思う人間は孤独である。現世のしがらみを断ち切って流離いの旅に出る。そして荒々しい自然の断崖に佇んだとき、死への引力が働くのだろうか。それでも人は人間臭いのするところで死ぬ。それは寂しさの裏返しなのかもしれない。
2007年06月28日
下北沢X物語(888)〜三国から函館へ1〜
旅の時間は新しい。つぎつぎにめくられる車窓に飽きることはない。が、目の生理ということはある。あまりにめくられるページが多いと飽きてしまう。
読める、楽しめるページめくりはおもしろい。景色のページめくりである。
とある谷間に草むしりをしている老婆を見つけて、それを見送る。汽車旅の楽しい場面である。村里にひっそりと生を営んでいる彼女の人生の来歴をあれこれと空想することが楽しい。
新幹線のスピードでは、速度があまりに速すぎて、場面場面のページが読めない。わたしが最も好きなのは在来線の速度である。場面、場面のページめくりが楽しめるからだ。ふと通りかかった谷間に白いホタルブクロの群落が過ぎっていった。一昨日、北陸線の車中からそれをかいま見た。これも同じ日、羽越線の夜汽車の窓に見たことだ。小さな漁港の灯台の赤い灯火が車窓に流星のように流れていった。
今日の鉄道はスピード感に満ち満ちている。恐いと思うほどだ。それで鉄道の旅をするについては新幹線はなるべく避ける。すると自然に足は日本海側に向かう。新幹線のないところだ。
こんどの旅は、三国から函館へと抜けるコースを選んだ。いいルートだ。三好達治から石川啄木へ、詩人の足跡を求めての旅である。
福井駅から三国へは「えちぜん鉄道」が通じている。小一時間のローカル鉄道の旅だ。田圃の中に敷かれたレールの上をことん、ことん、とてこん単行が走って行く。
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2007年06月26日
下北沢X物語(887)〜代田半島幻想行10〜

代田半島には七つもの古代遺跡があった。そのことは土地の生産性が高かったことを証明している。石器時代は近隣に食料となる動物、鹿や猪がいた。森によって育まれた獲物である。その石器時代の生活の片鱗はこうだ。「棒に石の槍先を付けて鹿などを追い、ナイフの石器で肉を切り取り、火にあぶって食し、北澤川の水で渇きをいやしていたのでしょう」と。これは近くの北澤八幡神社のしおりに描かれた記述だ。
縄文時代は恐らく水稲栽培が行われたものだろう。その場合はハケの水が活用されたと考えていいだろう。代田半島には幾つものハケがあった。大原、中原は広葉樹林に覆われていたものだろう。落葉樹によって作られた腐葉土に水が貯まる。それが染み出てくるところがハケであった。それを大事にしてあがめたということはあるはずだ。
代田半島には神々の痕跡が今も残っている。南端には代田八幡宮がある。東端は守山の弁財天、それに、八大龍王である。半島西のり面には松羽稲荷神社(南原稲荷神社)、御嶽神社、半島付け根には羽根木神社(北原稲荷神社)がある。最奥には大原稲荷神社がある。この社は「代田八幡神社の分社として」(「ふるさと世田谷を語る」代田編)建立されたものだ。半島西のり面には稲荷神社が目につく。
ペダル巡遊で近隣の台地を半島に見立てて周遊したことは何度もある。大岡山半島もその一つだった。おおよその傾向で言えば、東のり面には水神系統、西のり面には神社や庚申塔が目についた。
2007年06月25日
下北沢X物語(886)〜代田半島幻想行9〜

古代伝承は土地の歴史の鏡でもある。代田の地名起源となったダイダラボッチ伝説の初出は「常陸国風土記」である。これは奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂されたものだと言われる。
代田のダイダラボッチ説話がいつ頃生まれたのかは分からない。が、風土記に記述された説話であるところからすればかなり古いものだろう。代田の土地柄そのものも古いものである。
武蔵野の東西に走る台地を淀橋台と呼んでいる。甲州街道や玉川上水を抱いた尾根筋である。そこから南に派生した代田の台地を半島に見立てての幻想行である。が、それは決して間違ったことではない。
仲間の米澤邦頼さんからもらった地図がある。「TOKYO EARTH DIVING MAP」というものだ。簡単に言うと、武蔵野の沢筋、低地に水を流し込んだ地図である。それを見ると見事にこの代田半島が浮かび上がっている。半島自体がヤツデの葉の形をしている。陸地に食い込んでいる水路もよく描かれている。
半島東側のダイダラボッチ川には陸地から流れ込んでいる支流がある。その三本まで見事に描かれている。また半島南部の代田小学校脇の水路までもがくっきりと映っている。半島西部の北沢川支流の陸地への食い込みも興味深いものだ。途中で二股に別れ、太い方は明大前まで達している。もう一方の右手のは細い。これが北沢川羽根木支流だ。前者は、淀橋台を浸食していて台地が最も薄くなっている。地峡だとも言える。
2007年06月23日
下北沢X物語(885)〜代田半島幻想行8〜
代田半島の伝説の中でもっとも興味深いものはなんといってもダイダラボッチ伝説、巨人の足跡伝説である。そのスケールが大きい。が、土地の固有性と結びついているからなお興味深い。
柳田国男はこのダイダラボッチ伝説に深い興味を持っていた。実際にこの代田の地の巨人痕跡を調べに来ている。その彼の著作に「じんだら沼記事」というのがある。
先だって実施した恒例の歩く会にいつもの鈴木夫妻が参加していた。
「家に柳田国男選集があるんですよ。ずっと前に手に入れて放り放しにしていますので、よかったら使ってください。」
ありがたい申し出だった。ついこの間二人して選集全巻を「邪宗門」に届けてくださった。早速に紐解いては読んでいる。その中に載っていたものに興味を惹かれた。相模野にある「じんだら沼」の話だ。
近頃の方言集の中には東国のジンダラを地団太と訳しているものも折々はあるようだが、それをどういうことをするのかと問い返して見ると、恐らくは答えはもう区々であると思われる。
ところが相模野のじんだら沼では現にその痕が沼の形で残っているものだから明らかに古い方の尻餅であったことが知れる。大昔大太良坊という滅法界に巨きな人あり、ここへ来てジンダラを踏んだので尻の跡が窪み、この八町歩余の二つの沼が出来たといい、またその折りに前に垂れていたものを、引き摺った跡がふんどし窪になったともいうのである。私は大沼新田の村人たちが今でもこの言い伝えを保存しているか否かを知りたくて、いろいろの形で話を引出そうとして見たが、もうこの名を口にする者に出逢なかった。
柳田国男 「じんだら沼記事」 柳田国男選集5 修道社刊 昭和47年
ダイダラ坊伝説への柳田への深い興味がここでも窺える。村人から伝承を聞き出して、この巨人伝説の出来した、その本質を彼は探ろうとしたのだろう。柳田はこの「じんだら沼」の巨人伝説を「かつての相模野の荒々しい火山灰農業に僅かな潤いを与えていた笑の伝承の一つ」と意義づけている。これは「かつての武蔵野代田の荒々しい火山灰農業に僅かな潤いを与えていた笑いの伝承の一つ」と言い換えられもする。
2007年06月22日
下北沢X物語(884)〜代田半島幻想行7〜

土地の起伏はその地域固有のものだ。傾斜地、湿地、丘上、かつてはそれぞれ鍬の入れ方、耕し方も違っていたはずだ。が、起伏を示す等高線は今は地図からは失われている。都市開発によってその等高線は均されてしまった。指標の喪失である。
昭和4年の地図を持って昨日は代田半島を巡った。「代田の昔」に挟まっているものだ。それには等高線がくっきりと書き込まれている。まずはダイダラボッチ一帯から見て行った。この南にある「出頭山」は等高線からすると平坦な丘だったようだ。が、およそここら辺りだろうという見当はついたが山跡らしきものは全く残っていない。
一帯は代田半島の付け根近くである。分水嶺の東に位置する。自転車を降りてかがみ込んで土地の傾斜を見る。自己の観察理論があてはまる。右岸は緩いである。そこは、ダイダラボッチ右岸にあたる。地図でみると代田半島の左岸は等高線が混み合っている。そこに興味を惹かれて半島付け根の尾根を確認に行った。
環七を渡り、古道の羽根木道を行く。南西方向にずり落ちていく道である。これが下り始めたところで左折して南に向かう。旧宇田川湯がある。この道が分水嶺だ。この道を境にして降った雨は左は、ダイダラボッチ川に流れ、右は北沢川羽根木支流に流れる。
ゆくうちに右手に鳥居が見えてきた。御嶽神社だ。土地の一角を占めた小さな社だ。ここを右に行こうか、左に行こうかと立ち止まっていると人が話し掛けてきた。
続きを読む2007年06月20日
下北沢X物語(883)〜代田半島幻想行6〜

土地によってものの見方が変わることはある。大原に長く住んでいる人は自分たちが高いところに住んでいるという感覚を持っている。南へ行けば土地は下る。大風のときは風が強い。昔は至るところから富士の嶺が見えた。
大原や北沢を東西に貫いている井の頭通りは水道管が走っている水道道路だ。和田堀給水所から代々木練兵場へ一直線に道は延びている。尾根筋で見晴らしがよい。地元の人は富士を眺める散歩コースだったと言う。関東一円の山が見えたはずだ。富士山、丹沢連峰、日光連山、筑波嶺などである。
標高の高い大原と代田が接するところに「ダイダラボッチ」があった。一段下がったところであるがそれでも標高は高い。地域の伝説は土地の映す鏡である。
その日は、しばらくぶりに富士も浅間も日光の山脈も見える雲一つない日でした。が、不思議なことに、男体山と浅間山の頂きに、棹をかけて、大きなモメンの着物で北風をふせいでいるのがだれにでも見えるのです。
「改訂世田谷の民話」代田村に巨人がのっしのし
ここに出てくる関東一円の著名な山々、富士山、男体山、浅間山などは、かつて大原や代田からはよく見えていたはずだ。遠くの山々の認知は自己存在の確認でもある。視覚的に自分たちの住む位置を確認していたということが言える。この説話を古代の話と考えると空気の透明度は抜群であったはずだ。夜、星明かりや月明かりでそれらの山々は確認ができた。われわれの場合は高いビルと空気の汚染によって遠方景色はもうとおに喪失している。地域文化というのはその地域だけのことではない。その場所からどんなものが遠くに見えたかというのは大事だ。富士講や大山講が盛んだったのは江戸時代だ。当時、その時代の人々は常日頃眼にする山としての親しみがあったから講も栄えたものだ、と思う。
2007年06月19日
下北沢X物語(882)〜代田半島幻想行5〜

稲荷社、庚申塔、地蔵尊、馬頭観などの小さな神々を巡った。土俗的な神々である。土地の文化と密接に結びついて今日まで生きながらえている神である。が、時代が経るに連れ、これらの神との結びつきは希薄になっていくものであろう。
「わたしが丈夫なうちはお花を供えたり、お掃除をしたりはしますけどね。わたしが居なくなったら、この庚申堂のお世話をしてくれる人はいなくなりますね。」
歩く会の前日、村田屋履き物店に立ち寄った。奥さんは、そんな話をして寂しそうに笑った。彼女はずっとお堂の世話を奉仕的に続けている。
「いやね、あの村田屋さんの庚申堂は別の思い出があるので懐かしくなりました。茶沢通りを通って新宿行くバスがあってね、お堂の前にバスの交換所があってよく停まっていたわ。それでね、道がくねくねと曲がっている上に狭いでしょう。あそこを運転手が右に左にとハンドル廻して、軒先すれすれにバスを走らせるのね。」
会に参加した藤岡さんが女学生時代の話をする。彼女が通っていたのは自分が勤めていた学校である。これも因縁である。
小さな神々は土地の因縁と結びついている。庚申塔や地蔵尊は辻に建っている。乾湿という点でいうと湿地は避け、神々は乾いた土地に住む。古道である二子道は極力湿地を避けて北沢地区を通っている。当然、それに寄り添う道沿いの神も一段と高いところに場所を占めている。
土地の乾湿と神々は面白いテーマである。既に何度も巡遊した大岡山半島では面白い差異があった。東のり面には水の神様がいて西のり面には庚申塔が数多くあった。このことについて代田半島で言えば、南のり面に代田八幡宮、円乗院があり、西のり面には松羽稲荷神社がある。
2007年06月17日
下北沢X物語(881)〜代田半島幻想行4〜

武蔵野は複雑に地形が入り組んでいる。その組成は火山が関係する。箱根の火山群、それに富士山である。これらの噴火による降灰、それが偏西風に乗って飛んできて武蔵野の降り積もった。それで丘陵地帯が形成された。
荏原をペダルで巡遊しているうちに今述べたことを足で実感するようになった。なるほど偏西風に乗ってきた火山灰によってこの谷筋できたものなのかと、とある地点に立ち止まって太古の昔を想像することがある。ペダル行によって地形の記憶が自分の足に貯め込まれている。それを手がかりにして、そう地形物語を考える。それは浮き浮きすることである。
代田半島の秘密は面白い。が、文化は近隣との関係において成り立つものである。隣接する圏域との対照から見ていくとさらに興味深くなる。
昨日は、恒例となった「文化散歩」の会を催した。代田半島の東に隣接したところを歩いた。下北沢半島から北沢半島へと回った。これらの半島も淀橋台が付け根となっている。前者はだいだらぼっち川と森厳寺川に囲まれた地域だ。後者は森厳寺川、北沢川本流、溝ヶ谷支流に囲繞された区域である。
自身の足の記憶が貯め込んだものからの発見は、「半島の左岸は高い、傾斜がきつい」ということである。代田半島では、根津山(羽根木公園)、吹上だ。下北沢半島ではかつての守山公園である。坂口安吾が「ただの原始林」(「風と光と二十の私と」)だと言っていたところだ。
「わたしが行っている範囲で、坂がもっとも急なのは、そうそう守山公園のあった代田6丁目の6番あたりだわね。」
近隣をバイクですっ飛ばしている大月商店のおばちゃんの証言である。
2007年06月16日
下北沢X物語(880)〜代田半島幻想行3〜

ことばはものさしだ。あてがって初めてわかる。
世田谷代田をその土地の起伏から半島と名づけてみた。名は形状を明確にさせもする。「あそこが突き出ていて、こっちは凹んでいる」などと考えるようになる。すると半島が浮かび上がってくる。その形状はやや太ったスリランカのセイロン島である。洋ナシの形にも似ている。お尻が代田二丁目の坂が転げ落ちる北沢川左岸ラインである。
洋ナシの頭が井の頭線辺りだ。台地がすぼまっていると思ったのは半島を思い描くようになって発見したものである。その部分に鉄道線が敷設されたことは興味深いことだ。
先に引いた「昔の代田」では「代田の帝都電鉄」とされて、その工事についても詳しく触れている。
線路用地の工事が始まった。今日のような大型土木機械が有る時代ではない。専ら人力で、用具はツルハシ・シャベルの類い。掘った土はトロッコを用い下北沢から池の上の間の嵩上げ用に運ぶのであるが、このトロッコの台上に高さ約五○cmの板枠をおき、これがいっぱいになると10台位を連結し、気動車で繋引して行く。
現在の新代田駅の主には東松原寄りは深い切り通しとなっている。そこを堀り取った土はトロッコで運ばれて、下北沢と池の上間の築堤に使われた。初めてこれを読んだときになるほどと思った。
井の頭線のその築堤は、建物にすっかり取り囲まれてしまって現在は目立たない。が、かつて、その高い土手は大きくて存在感があった。上を二輌の最新式の電車が走っていく様は洒落た近代の光景であった。子供たちは「上の電車下の電車」と言って帝都線と小田急線を比較していた。かっこよさの軍配は帝都線に上がったようだが、空を走り抜ける電車ということも加点要因だった。もちろんそれは築堤だ。かつてこの築堤のすぐ近くに住んでいたのは宮脇俊三である。彼は1945年3月10日の東京大空襲の翌日ここを電車がいつもと変わらず走っている様を見て心強く思っている。(増補版「時刻表昭和史」)
2007年06月14日
下北沢X物語(879)〜代田半島幻想行2〜

ものには形がある。その形に名前をつけると、そのものがはっきりと見えてくる。世田谷代田を半島に見立てるとおよその形状が理解できる。が、そうはいってもまだ全体像を掴めてはいない。
「代田の昔」はおもしろい。書き手の言葉の切り込みが鋭い。言葉は形である。それが決まっているといっそうに想像を刺激するものだ。「代田の帝都電鉄」という記事が第一節にある。その始まりが楽しい。
昭和七年の初め頃我々子供の間でもこの辺を電車が通るんだって…ということが話題になり出した。渋谷から吉祥寺迄で、渋谷急行って言うんだって…。そうだよな むこうの電車は小田原急行だもんな…他愛ない話である。
他愛ないとは思えない。当時の子供達の目の輝きが見て取れるエピソードである。渋谷急行は短区間なのに急行という。が、それでも一方の先行した線との呼び方の釣り合いはとれている。子供なりの解釈、認識が見えるところが面白い。
書き手の今津博氏は続いてこう記している。
環状七号線を北から来ると下り気味の道が都民銀行の付近からやや昇りになる。そして駅の辺りで平坦になり、少し過ぎてほんの気持ち昇り気味になり、再び平坦になるのをお気づきだろうか?。
疑問が出されているから質問である。これは難解な問である。地元の人もこれはわからない。常日頃首を傾げて土地の傾きを観察されていた方だとお見受けする。わたし自身も似たようなものだ。自転車には傾斜計を装着している。ゆえに「ええ、そうそう気づいています」と答えられる。
2007年06月13日
下北沢X物語(878)〜代田半島幻想行1〜

日々のペダル行は足に記憶を蓄積していく。すると次第にそこから地形図が浮かびあがってくる。その全貌は掴めていない。が、おぼろながらあそこはこう、ここはこうと思い浮かんでくる。谷と谷の繋がり具合である。その興味はよほど深いと見えて、あの谷はこういって、こう行くと淀橋台に繋がるなどと夢に出てくることもある。
おぼろげに浮かんだ地形図に海水を入れる。するとあちらにこちらに半島が浮かび上がってくる。そういったものの一つを現実にフィールドワークすると地形はもっと鮮明になってくる。既に大岡山半島は何度も巡ってきてイメージの半島として自分の足に記憶されている。のり面の向きによってその半島の文化が違うことも学んできたことだ。
この頃は代田半島を思い浮かべている。淀橋台から南へ突き出た半島である。イメージとしてはUの字である。東側はだいだらぼっち川であり、西側は北沢川羽根木支流である。南側は北沢川である。
大原や中原を上に載せた台地が南端で北沢川に転がり落ちる。それが代田の吹上であり、砂利場だ。字名は端的に土地柄を語っている。吹上は風が吹き上げてくるところであり、砂利場は砂利を採取したところだ。後者については「赤い山砂利が採取され、村道の普請等に使われていて、その砂利の採石場が左岸崖下にあったことに由来する」と世田谷の地名にはある。関東ローム層と砂利が交ざったところだ。ちょうどここが代田半島の先端にあたる。ここに萩原朔太郎が新居を構えて住んでいた。鋭い感性である。せり出した岬の一端に瀟洒な居を構えて住んだ。その脇に高圧鉄塔61号が聳えていた。
2007年06月11日
下北沢X物語(877)〜文学舞台としての東北沢6号踏切5〜

小田急地表線ラインは文化ラインである。線路による遮蔽が此方と彼岸とを分けてきた。
分離されたそれぞれの地域は特色がある。その出入り口は踏切だ。それらは号数を付与されて区別されている。ただ単に番号が異なるばかりではなくその踏切柄、趣きも違う。踏切一つ一つにも固有の文化がある。
九日早朝の事故はどこの踏切で起きたのだろうかと気になっていた。ところが、それが難無く分かった。その日の夜、メールをY氏からもらった。そこに情報が記されていた。東北沢3号踏切で起こった事故だったという。
東北沢3号は大きな特色がある。下北沢から東北沢へ上る勾配、それは25パーミルである、その坂の途中にある。また、線路と踏切の交差が斜めクロスで見通しが悪い。下り坂の見通しの悪いところで線路と交わる。それで坂を駆け下りて来た新聞配達や電報配達が電車に轢かれている。が、これはかつての第4種踏切の時代のことである。今は、警報機も遮断機もある。
日影山から斜めに下りてきた道が線路と交差する寂しい踏切だ。それだけに意外だった。急いでいたのだろうか。あるいは閉まった踏切の向こうに幻影を見て、呼び込まれでもしたのだろうか。
鷺沢萠の「遮断機」の場合も主人公は北口駅前市場側にいた。引き留められた踏切の向こう側に「おじい」の幻影を見ている。主人公に取っては懐かしい人影である。母子家庭だった彼女の家を支えてくれていた「情の太い男」だ。キャリアウーマンとして「変えられない日常を抱えて歳月を浪費していた自分」と自省している孤独な彼女である。それはせつなくなるほどに懐かしい姿である。
2007年06月10日
下北沢X物語(876)〜文学舞台としての東北沢6号踏切4〜

時の積み重なりは物語の積み重なりである。それはさながら時層のようなものだ。一刻一刻が時の層の上に積もり、また新しい層を築いていく。そのときどきのことが記憶されたり、記憶されなかったりする。
昨日のことだ。大月商店に立ち寄った。するとおばちゃんが言った。
「今朝ね、踏切で事故があったみたいなの。七時ぐらいだわね、若い女の人が遮断機潜り抜けて轢かれちゃったらしいのね。どこの踏切かは分からないの。それでちょっと気になって見にいってみたけどどこだかわからなかったわね」
下北沢一番街の大月商店へはいつもの習慣で行った。そのときは「遮断機」のことはすっかり忘れていた。が、それを聞いたとたん思い出した。
「踏切って恐いわね。人を呼び込むっていうことがあるから……」
彼女はそんなことを言った。それを聞いたとき「呼び込む」ということについてとくに気を留めることもなかった。が、その後に彼女から聞いた話は意外なことであった。踏切が人を呼び込むということの意味を初めて知ったように思った。それは彼女が高校生時代に体験したことであるようだった。
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2007年06月08日
下北沢X物語(875)〜文学舞台としての東北沢6号踏切3〜

鷺沢萠の「遮断機」は東北沢6号踏切という固有性を持った遮断機、それを背景とした作品である。ここは一時間のうち六分しか開かない「開かずの踏切」である。小田急ワーストワン踏切である。それが彼岸へ行こうとする主人公を邪魔する、遮る。
主人公、笑子にとって下北沢は馴染みの町である。彼女の父親は「下北沢の工務店」に勤めていた。ところが交通事故に遭って亡くなってしまう。この父親がよく行きつけていたのが飲み屋「菊屋」である。そこの「おじい」が残された母子の苦境を見かねて、笑子の母親を系列の店に雇ってくれる。
母が働いていたのは、三男のシイちゃんが任されていた揚げもの屋である。例の市場の中にあって、路地とガラスケースで仕切られただけの店は二坪もなかった。シイちゃんと母、二人が立てば窮屈なくらいの調理場で、母は毎日毎日油まみれになりながら朝から晩までイカ天や唐揚げを揚げ続けて笑子を育ててくれたのだ。
鷺沢萠 「さいはての二人」 角川文庫 平成十七年刊
駅前北口市場の「揚げ物屋」はあったのだろうか。「遮断機」の記述からモデル的な店を思った。それで大月菓子店のおばぁちゃんに聞いたら、「あった」という。「どこに?」と聞いて地図を書いてもらったが、うまくのみこめない。それでおばぁちゃんと二人で北口市場へ実地検分に行くことにした。その途中で富安好恵さんに出会った。
「ここのね、路地の角が下駄屋さんだったわ。その向こうどなりが天ぷら屋さんでした。わたし覚えていることがあるのですよ。そこで働いていた女の人、白い割烹着を着ていて、その人、手だけが忙しく動いていくの。揚げ物にころもつけて、そして、鍋にいれて、それで上がったものがザルに並べられるのね、箸だけが行き来するの。その人は決してお客さんを見ませんでしたね。とても綺麗な人でしたよ。……この通路の左手にも天ぷら屋さんがありました。そこはお年寄りの夫婦でやっておられましたけどね」
駅前北口市場の豆屋「但馬屋」さんの前で富安さんは説明してくれた。彼女はその隣の洋品店の主人とその揚げ物屋さんの兄弟関係がああだこうだと話していた。
2007年06月07日
下北沢X物語(874)〜文学舞台としての東北沢6号踏切2〜

小説は虚構である。あたかもそういうことがあったかのように書いてあるものだ。それをいかにリアルに描くか、書き手はそこに腐心するものだ。
が、この小説における場面設定は重要だ。われわれ人間は誰もが場を持っていて、そこで生きている。そういう人間の通常経験値からすると、「その舞台はどこ?」というのは読み手がもっとも知りたいことである。
小説上の舞台は架空空間である。ところが場としては現存する土地の名がしばしば用いられる。その土地固有の匂いが作品をより面白くさせるということがあるからだ。
鷺沢萠作品「遮断機」の舞台は下北沢である。もちろんこれは架空的な町の「下北沢」として読んでもいい。読者の自由である。ところが、作品全体を読むとやはりこれは現実の下北沢に他ならない。都市文化的にも符合するからだ。町のど真ん中にすっかり「うらさびれた」北口駅前市場があり、そのすぐ脇には「開かずの踏切」があり、そして、小田急線と井の頭線によってできた人や価値の「ふきだまり」があるからだ。
短編小説「遮断機」は「『開かずの踏切』の前まで来たとき、笑子はすでに足もとも覚束ないほど酔っ払っていた。」という書き出しから始まる。つぎに「駅前北口食品市場」のことが出てくる。「市場の中をごちゃごちゃと走る路地はヒビ割れだらけの石畳で」と描写される。大月のおばぁちゃんと富安好恵さんと市場を巡ったとき、豆屋の但馬屋さんのところでローアングルで通路の写真を撮った。多くの人の足で磨かれた石畳は天井の蛍光灯を鈍く光らせていた。ひび割れてはいなかったが路面から浮き出た石だたみの角がすり切れていた。その市場は主人公の笑子には馴染みのところだったと記されている。
2007年06月05日
下北沢X物語(873)〜文学舞台としての東北沢6号踏切1〜

ささいな言葉からもそれを使った人の世界が透けて見えてもくる。
鉄道線路と道とが交わるところは踏切である。その鉄道踏切は遮断機とも言う。踏み切って彼岸へ行く。そういう点でいうと踏切は希望的だ。が、遮断機は閉塞的だ。閉じられて身動きが取れなくなるからだ。
踏切を遮断的に見る。すると閉塞ラインの向こうに見える世界は異なったものとなる。手の届かない彼岸世界なのかもしれない。
つい先だって、「朝日新聞」東京版に「物語散歩」という記事が載っていた。その見出しには「鷺沢萠 『遮断機』 下北沢」とあった。それには写真が載っていて「遮断機が下りた小田急線の踏切。正式な名称は『東北沢6号踏切』=世田谷区で)と記されていた。興味深く思ったのは記事の書き手が他の踏切と区別していることだ。「東北沢6号踏切」と注記をつけている。記事の内容からしても、どうやら「遮断機」というものが具体的には「東北沢6号踏切」であるようだった。文学舞台としての6号踏切、それには興味を覚えた。それで作品が収載されている鷺沢萠「さいはての二人」をインターネット書店で注文した。
下北沢は生きている町である。今日大月商店に立ち寄って話しているうちに駅前北口市場に行ってみようということなった。おばぁちゃんとのデートだ。すると歩いていくうちに行く先で手を振っている人がいる。違う人に振っているのかと思ったらそうではない。富安好恵さんだった。彼女は地元生まれで土地については詳しい。にわかに三人での散歩となった。北口へ向かう路地を歩いていると多くの人が声をかけてくる。互いに知り合いだということもあるがいまだに切り結びが出来ている町だと思った。
2007年06月04日
下北沢X物語(872)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報第12号〜
「北沢川文化遺産保存の会」会報第12号
会長 長井 邦雄
2007年6月4日発行
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
1、新地図の発行について
地図の第2版となる「下北沢文士町文化地図」ができました。地図の名称は、「下北沢鉄道X交点周辺文化地図」としていました。これを変更しました。現在になっての多くの文士居住の発見は、活動が個別的だったからだと言えます。そういう意味で言うと都市型の文士町ということになります。ムラ社会ではなくマチ社会の文士町ということです。郊外都市鉄道X交点のひそやかな真実です。
当方の運動に共鳴された田中良輔氏が印刷費を寄付してくださいました。それで5000部発行しました。事務局「邪宗門」、一番街大月商店、世田谷カトリック教会、東京都民教会などにも置いてあります。
2,「下北沢X惜別物語」の配布
小田急線は世田谷代田、東北沢の間の地下化工事が進んでいます。いずれ現在の駅や線路、踏切は地下化によって、地表から姿を消してしまいます。それはビジュアルなXが地表上からなくなることです。それへの惜別ということで名づけました。
昭和2年に小田原急行鉄道が開業して以来、それらの駅や踏切は様々なエピソードを刻んで来ました。そのことを後世への記録として残して置きたいという願望から作成したものです。沿線一帯の大勢の人々から聞き書きをしたり、文献を調べたりしてまとめあげました。原稿用紙換算約250枚ほどの記事が掲載されています。発行部数は2000部です。人々の証言を集めて、それを物語としてまとめたものが「下北沢X惜別物語」です。 発行部数の半分ほどがなくなりました。このところ小田急の跡地を考えている複数の市民団体の人と出会う機会がありました。地表線の歴史が刻まれたこの本に深い関心を示していました。地表線が文化ラインであったこと、そのことへの理解がこれを通して深まれば幸いです。この「下北沢X惜別物語」は事務局「邪宗門」、「大月商店」で配布しています。
3.都市物語を旅する会
「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢鉄道交点近辺の文化探査をしています。毎月、第三土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、十名程度ということにしています。それぞれがこの歩く会に主体的に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。
これまで実施したコースはつぎの通りです。1.代田連絡線の跡を歩く、2.小説猫町を歩く、3.下北沢の大谷藤子を歩く、4.下北沢・淡島の森茉莉を歩く、5.銭湯を歩く、6.下北沢の無頼派を歩く、7。下北沢の教会を歩く、8。坂口安吾が歩いた道を歩く、9.駒沢線鉄塔を歩く(1)、10.下北沢の映画痕跡を歩く、11.茉莉を歩いて茉莉に会う。12.だいだらぼっち川を歩く。13、「小説『猫町』を歩く」。毎回の参加希望は事務局で受け付けています。
○今後の予定(変更になることがあります)
・第十三回 6月16日(土) 午後1時 下北沢駅北口
「下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く」
長栄稲荷跡、村田屋そば庚申堂、野屋敷稲荷、長命地蔵、円海稲荷、延命地蔵、富士講碑、馬頭観音、庚申塔、北沢八幡宮の稲荷社群
参考ホームページ http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/HalfMile/Hokora.htm
2007年06月02日
下北沢X物語(871)〜風景資産としての代田の丘の鉄塔4〜

ブログなるものも過客である。現在時間に生まれ、そして、たちまちに古びて過去時間への旅を続けていく。とおに過ぎ去った記事は言の葉の海にさまよっている。何かの折りに検索をかけてみると覚えのある文章が現れることがある。自分が書き記した記事である。それらの中に詩人を探し始めたときのこともある。「鉄塔」と「児童遊園」がキーだった。
「世田谷区代田一丁目六三五番地の二」という番地探しである。旧番地を探し当てる手法も知らずにひたすら自転車で走ったり、資料で調べたりした。しまいには前橋文学館に電話をかけて聞いたこともある。が、そのとき学芸員の人が、葉子さんから聞いた話として鉄塔のそばに児童遊園が下にあるということを聞きつけた。詩人旧居探しはランドマークから始まった。鉄塔である。が、分からなければ暗い。鉄塔に番号が施されていることも、鉄塔によっては形状が違うことも知らなかった。ひたすら代田二丁目を回って探したものだ。62号鉄塔の下に児童遊園を見つけたときは小躍りしたものだ。が、それは違っていた。後にその児童遊園は探検家、冒険家の河口彗海の家跡だったことを知る。
詩人ゆかりの鉄塔はもう一つ南の61号だった。当該場所はそれを背負う形になっていた。丘上に聳え立つ鉄塔を見て当地に建てられた家屋はそれを意識して作られたものに違いないとも思った。
2007年06月01日
下北沢X物語(870)〜風景資産としての代田の丘の鉄塔3〜

風景は人によって見え方が違うものだ。
風景を構成するものの名を知っていれば風景はより深く、より立体的に見えるものだ。
例えば、樹木の名を知っている。欅、櫟、楠などだ。するとあの高い樹は何だろう?と興味を覚える。星座の名を知っていれば空を見上げては「ああ、小熊座だ」などと星空への思いを深めもする。風景に浮かび上がる個体の名を知ったり、覚えたりすれば風景は自分とより親しくなる。言葉は風景をのぞき見る手がかりとなるものでもある。
昨日は研修所での講義があって聴き手の若者にはそんな話をした。書き方の講座である。以前は語法的なことが中心だったがこの頃では言葉そのものが背負っている文化について話をすることが多くなった。言葉は土地を背負っている。日本語は日本という風土を反映している言語である。
居住している土地も居住者に影響を与える。代田の丘の鉄塔のある風景もここに住んだ詩人、そしてその娘の心象風景に陰影を与えているように思う。萩原葉子の「蕁麻の家」は小説である。が、代田の家がモデルとなっている。



















