2007年07月

2007年07月30日

下北沢X物語(910)〜ダイダラボッチ探索行7〜

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    ダイダラボッチ、調べれば調べるほど興味が深くなる。それは単に伝説にとどまらないからである。長い間に形成された土地の文化と繋がっていて、それは石器時代とも、さらには北方民族の言語とも関わっていくからである。さらには代田半島の南端にある代田八幡神社、こことも関連してくる。ここには石棒が祀られている。これも石器時代との関わりがあるはずである。
 
   「後人のためには、それが今日の代田何丁目何番地であるか明記しておく必要がある。」と研究者が述べているダイダラボッチである。この場所のことは初めは皆目分からなかった。が、土地のフィールドワークを通して、また、古くから住んでいる人への聞き込みを通して分かってきた。そのダイダラボッチの跡地は、守山小学校の裏手となる。柳田国男の記述にはこうある。

 ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研(やげん)になって居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建ってその傍に湧き水の池があった。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。  
 柳田国男 定本 5 111〜340(316) 全集(文庫版) 6 213〜516(470・471)

 われわれはいよいよそこへと向かった。羽根木道から環七に出てそこの信号を渡る。青信号になる間その道路を眺める。目の前から下り勾配である。ちょっと先へ行って上る。そこに川があったからである。U字形の底を川が東へ流れ、北から流れてきたダイダラボッチ川へと合流する。その辺りに湿地帯が形成されていた。そこがダイダラボッチである。その地盤の悪いところを避けるためにであろう。南から来ていた鉄塔駒沢線は北東に向きを変えて環七を跨いでいる。

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2007年07月29日

下北沢X物語(909)〜ダイダラボッチ探索行6〜

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「東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地といふことができる」と柳田国男は言い切った。代田のダイダラ坊伝説を脳裏に刻み込んでそう言ったものであろう。大正時代のことである。が、こう言いはするもののこの地名伝説は、民俗学的な見地から学術的にも着目されているものである。中島利一郎の「武蔵野の地名」(新人物往来社、昭和51年)にはこうある。

 世田ヶ谷の代田にはダイダラボッチの足跡という大きな窪地のあったのを、鈴木氏から現地で教えられた記憶がある。今は、前の地点がどこであったか、まったく見当がつかない。後人のためには、それが今日の代田何丁目何番地であるか明記しておく必要がある。

 「世田ヶ谷地名考」という論考に載った記述だ。執筆月日が末尾に記されている。「昭和十一年五月十六日稿」とある。ここにも「ダイダラボッチ伝説」が記されている。思った通り、土地の文化と密接に結びついたことであるようだ。

 わたし自身の自転車巡遊行からこの代田一帯が淀橋台から突き出た半島の形をしていると考えついた。「代田半島」である。その半島ラインには石器、縄文、弥生の遺跡が数多く存在する。どうもそれら古代と「ダイダラボッチ」が結びついているようである。

 ダイダラボッチは古代文化と深く結びついている。幾つかの問題がある。語源についての問題、代田という土地の文化との繋がり、それと人々の生活との関連というような問題である。

 ダイダラボッチは人の暮らしと密接に結びついていたと言える。生活水、農業用水としての水源であった。ハケである。そして、高地の窪地、しかも古代からの歴史があったところから口承説話が生まれたはずである。

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2007年07月27日

下北沢X物語(908)〜ダイダラボッチ探索行5〜

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   「下北沢店員道場」、伝説的な建物である。アントニオ・ガウディを広く日本に紹介した今井兼次がその設計に携わっている。この道場を、ヒットラーユーゲントが視察に訪れている。ドイツから来た彼らがなぜここを訪問したのか。それについては興味深く思っている。それは建築家の今井兼次が関わっていることと関係するはずだ。

 今井兼介氏が持参してきた設計図の青焼きは道場の由来を考える上で貴重である。が、そればかりか添付資料もあった。それを見せられて胸を衝かれる思いがした。昭和十三年六月に提出された「建築届」である。これを見ると、今井兼次がこれに関わった先進性の一端がかいま見える。

 兼介氏は道場の建築に関わる書簡も持っていた。建築主と設計者とのやりとりが記されたものだ。
「封筒がないんですよ。だからきっと手渡しで書簡を交わしていたと思うのですよ。お互いに家は近かったから」
 「建築届」の「建築主ノ住所氏名」には「東京市世田谷區北澤三丁目九九○番地 東京北澤通商店街商業組合理事長 藤野一之」とある。これは和菓子屋「玉泉堂」の主人である。宮内庁ご用達の高級和菓子を製造していた。今の下北沢一番街の十字路「かどや」のはす向かいにあった菓子店である。昭和9年の地図にはこの店が「菓子店」として載っている。彼が理事長として活躍していたことは店が本通り商店街の草分けだったからであろう。この商店街は昭和2年の小田急開通をきっかけにして繁栄しはじめた。多分、店は昭和2,3年から営業を開始していたものと思われる。

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rail777 at 20:48|PermalinkComments(3)││学術&芸術 | 地域文化

2007年07月26日

下北沢X物語(907)〜ダイダラボッチ探索行4〜

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   時は折り畳まれゆく。が、われらは当面する時間を生きている、時をめくって生きている。一昨日のページはダイダラボッチであり、昨日はアントニオガウディであった。前者は巨人であり、後者は巨匠である。

 日々の時間めくりは休むいとまがなく、慌ただしい。
 時間はめくるのか、めくられるのか分からない。が、言えることは新時間は新情報との出会いであると言える。ところが、その情報を整理しようとすると時間が足りなくなる。もうお手上げだ。「あ、これは重要だ」と思うことも、全部覚えていたら記憶の倉庫は破綻してしまう。いい加減に忘れるようにしないと情報は整理できない。

 昨日は前からの約束があって大月商店でその人と待ち合わせをした。が、当人がなかなか来ないので隣の「下北沢ストロボカフェ」に先に入ることにしてドアを開けた。すると若い三人の女性客が居た。その彼女等が不思議なことにこちらに視線を向けてくる。どうも見知った顔だ。
「なぜ、ここに居るのですか?」
 彼女らは一様に声を合わせて聞いた。
「きみらこそ、なぜここにいるの?」
 こちらが聞きたいところだった。が、分かってみるとなんのこともない。
「南口はなんだか人が多いでしょう。だからこっちの方に来ていま、ここでお昼ご飯を食べているのですよ」
 前の勤め先に在籍していた顔見知りの学生であった。思いがけないページめくりである。ついこの間開店したばかりのカフェでの出会いだ。日々波乱含みだ。そう思っていると、やっと待ち人が現れた。

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2007年07月25日

下北沢X物語(906)〜ダイダラボッチ探索行3〜

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 ダイダラボッチの伝説の出所、それは土地の文化と関係する。その特徴に挙げられることは標高が高いということである。かつて代田村の一部であった大原には和田堀給水所があり、玉川上水がある。それは標高が高く水を供給したり通水するのに好都合だからである。大原の玉川上水は約45メートルの高さがある。

 その高さは眺望と関連する。高いゆえに遠くが見える。富士はもちろんのこと、筑波、日光連山、浅間などである。「男体山と浅間山の頂きに、棹をかけてモメンの着物で北風をふせいでいるのがだれにでも見える」(「改訂 世田谷の民話」)という発想はそれらの山々が見えないと生まれてこない。代田の高台の眺めとダイダラボッチ伝説は土地の文化としての連関性はあるだろう。

「美術の時間ですけどね、東大原小学校からよく西の方に行きましたよ。あのお堂のあるあたりです。寂しいところで、そこにお地蔵さんみたいなものがあって恐かったですよ。でも、そこは絵を描くのには都合がいいと先生はおっしゃっていました。土地が下の方に下っていて俯瞰図を描くのにいいと……」
 会に参加していた富安好恵さんがそう教えてくれた。その場所は、ダイダラボッチの北側である。今もお堂があってそこに地蔵尊と庚申塔が祀られている。

「川がずっと下流の方に流れているんですけどね、その川の両脇が田圃でしたね」
 代田橋の玩具屋の子安さんも大原から見下ろした川の下流の風景のことを言っていた。これも右手のダイダラボッチを思い描いての説明である。この二人が言っていた地点の標高は42メートルである。ダイダラボッチも40メートルぐらいの高さはある。そこは窪地ではある。しかし、標高はそれでも高い。高見の見物が可能な地点である。そこに巨人伝説は生まれるはずだ。

 玉川上水に架かる代田橋は巨人の仕業だと言う。十数メートルの幅の人工河川に橋を架けた。それは柳田国男が言うとおり、「巨人の偉績としては甚だ振はぬもの」である。

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2007年07月23日

下北沢X物語(905)〜ダイダラボッチ探索行2〜

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    柳田国男は「東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地といふことができる」(「ダイダラ坊の足跡」)と述べている。田舎ではなく都会、市中にそういう伝説が存在することには深い興味を覚える。しかもその場所が常に自分がペダル巡遊しているところであるだけになおさら心惹かれる。その「巨人伝説の一箇の中心地」は世田谷代田である。

 7月21日の土曜日、午後1時に京王線代田橋駅で皆と待ち合わせた。「都市物語を旅する会」の例会である。集まったのはわたしを含めて9人だ。頃合いの人数だ。もう今回で14回目となる。下北沢鉄道交点周辺の文化探査である。これによって自ずと経験則も積まれてきた。
 下北沢鉄道交点周辺の文化探査は十名程度が最適である、ということも一つである。一帯の道は路地が多く、幅が狭い。十名を超えると車や人の通行の邪魔となり、交通事故の危険もある。

「今日のポイントは三箇所です。まず、この駅名の由来となった代田橋、ダイダラ坊が架けたと言われる橋です。つぎにはダイダラボッチの源流です。そして、最後はだいだらぼっち跡です。現在は何も残っていません。が、唯一手がかりがあります。それは『傾き』です。土地の傾斜です。それは手がかりですね……」

 柳田国男は世田谷代田のダイダラボッチの実地検分をしている。そのときのことが「ダイダラ坊の足跡」という文章に書き記されている。これによると彼は「日を卜してこれを尋ねて見た」とある。われらにはそんな余裕はない。が、「ダイダラ坊」は土地の神でもある。身を清めて、日を卜して来るぐらいの気構えは必要なのかもしれない。念のためと思って調べると21日は「先勝」であった。「先んずれば勝つ」という日だ。「午前が吉、午後が凶の日」だ。あいにく出足は遅れた、午後の集合である。雨の予報だったのでもしかしたらその「凶」は大雨になるのかもしれない。このフィールドワークは水の神様との出会いでもある。

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2007年07月22日

下北沢X物語(904)〜ダイダラボッチ探索行1〜

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  日は折り重なっていくものである。文章は現実には追いつけない。午前中に下書きを書いて午後はフィールドワークに行くことが多い。時々刻々変転していく新しい時間では新しい情報に接する。ブログ文章の上塗りである。

 荏原の谷の東のり面はアプローチが長い。だからそこにハケが出来、水路が形作られる。代田のダイダラボッチもやはり東のり面である。そんなことから谷の東のり面水路説を唱えようかと思っているほどである。

 そういう問題意識を持っているだけに深沢八丁目の「無原罪聖母宣教女会庭園」には興味を持っていた。7月21日、22日公開日である。それで出かけた。ここは呑川の東のり面である。木々の緑が鬱蒼と茂ったところに湧水池がある。そんなことから「世田谷トラストまちづくり」の活動の拠点として、特別保護区に指定されている。

 よく通るところだが中に入るのは初めてだ。目に着いたのは大木だ。欅、赤松、白樫などだ。木々の繁茂によって森が湿気ている。
「ヤブ蚊が多いですよ…。ああ、湧水はありますけどね、この頃は以前と比べて少なくなりましたよ。それでカルガモも数減りましたよ。付近の開発によってなんでしょうね」
 ボランティアの人が教えてくれた。その湧水地点に行ってみるが水が湧き出ているようには思えなかった。が、ハケの趣ははっきりと分かる。木々が鬱蒼と生い茂った中の池に清水がこんこんと湧いている様がである。広葉樹の落葉によって形成された土地には至るところに水が湧いていたはずだ。池は思いがけず広いし、深くもあった。

 深沢八丁目の「無原罪特別保護区」はかつての武蔵野がそのまま残っていた。呑川東のり面である。ひそかに居住するにはいい場所だ。この同じのり面、東南400mぐらいのところには都立深沢高校がある。ここには茶室が残っている。

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2007年07月20日

下北沢X物語(903)〜鉄道交点の文学探訪6〜

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 近郊鉄道の交差がさまざまな価値を集めた。利便性が高いことからである。が、ただ鉄道がクロスすれば価値が集まるというものでもない。人口集中都市圏からの距離が下北沢の場合ものをいった。いうまでもなくそれは新宿、渋谷である。そこからの程よい距離が命運を決めたと言ってもよい。

 気分次第で渋谷にも新宿にも出られるというところは魅力である。別離の方向が四つあるというのも一つの見方である。さよならの方向が四つある町である。いっそ小田急で箱根に逃げるのもよし、とりあえず帝都線で渋谷へキネマに行くのもよし。それは自由である。それは近代の漂泊と言っていい。いずこから来ることも出来たが逃げられもした。

 無頼派の田中英光が下北沢北口駅前の屋台で水上勉と酒を飲んでいる。ところがどうも屋台の親爺が気にくわない。戦後のことである。カストリ焼酎をコップに注ぐときケチったのかもしれない。それを咎めて文句を言ったら、やり返したのかもしれない。元オリンピック選手は怒ったのだろう。彼はコップの酒を飲みながら駅の方にチラチラと視線を送る。今と違って駅の電車はよく見える。ちょうど茶色の箱の新宿行きが入ってきた。それを見た彼は、電車がブレーキを掛けて止まったとたん、屋台の下に手をかけて、車ごとひっくり返してしまった。棚に載った一升瓶だとかコップだとかが地面にひっくり返って割れる。近隣に居た人が何事が起こったかと見る。すかさず、「おい、行くぞ」と英光が水上勉に声をかける。駅北口の階段はもうすぐ側にあった。そこを勢いよく駆け上る。即座に駅出札で「新宿二枚」と言って切符をもらうなり、改札を急いで通り抜ける。そして、また階段を下って、ちょうど発車しようとした新宿行きに乗り込む。

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2007年07月19日

下北沢X物語(902)〜鉄道交点の文学探訪5〜

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 鉄道交点周辺で終焉を迎えたのは萩原朔太郎、垳利一、福田正夫、三好達治などが挙げられる。彼らは詩歌や小説世界で大きな業績を残した者たちである。これら壮年の文学の存在は、この地域にとっては大きな価値存在である。

   例えば、中山義秀は垳利一への恋慕から大原、北沢、代田に住んだ。北沢にあった下北沢静仙閣から代田にあるアパート、現在の代田変電所脇にあったという翠月荘に移り住んだ。このアパートでの生活の一端が描かれている。

 垳は表して、中山の梁山泊といったそうだが、彼の門下生とか教わった学生とか、多少とも垳とかかりあいのある若者たちばかりであった。このようにそもそもの始まりからして、垳と私との関係は文学を通じ、また私が文壇の人となってからも、そのつながりは絶えない。中山義秀 「台上の月」 新潮社 昭和38年刊

 中山義秀のこの部分を読むと、垳への共鳴者が若者にも少なからずいて近隣に集まっていたということが言える。下北沢本通りの喫茶店で文学談義をしていたのはそういう彼らであろう。垳への名声はとみに聞こえていた。昭和十年代のことである。

 垳は当時、文壇を独走していた。彼の書くものは創作であれ評論、感想の類であれ、諸誌からひっぱりだこにされ、それ等が発表されると忽ち衆評の的となり、すこし誇張した言い方をすれば、他の諸作家はあれども無きがごとき現象であった。
             中山義秀 「台上の月」 新潮社 昭和38年刊

 垳利一が息づいている下北沢に行ってみたいと思っていた連中は多くいたに相違ない。彼にあやかってあわよくば文名を高めたいなどと考えていた連中もいたはずだ。そういう手合いが夜になると北沢や代田を徘徊し、「垳利一」、「萩原朔太郎」と書かれた家の表札を戦利品として持ち帰った。

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2007年07月17日

下北沢X物語(901)〜鉄道交点の文学探訪4〜

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  人間は時間を生きている。時の階梯を上り詰めて行く。青年、壮年、老年という順序である。下北沢がマチ社会的な文士町だったというのはその年齢にも関係する。

 馬込村では萩原朔太郎邸でダンス会が催された。そこには宇野千代も来ていた。この詩人と小説家は鉄道交点に移って来る。けれどもここで近隣に住む文士を呼んでダンス会が開かれたという話は聞かない。
「私はね、齋田茶園の茶摘みをしていたことがありますよ。ああ、宇野千代さんところの家は知っていますよ。白い四角な家で、広い芝生がありましたね。『ここでダンスするんだってね』とみんなでそのときは噂をしていましたよ」
 90幾つかの人がそんな話をしてくれた。馬込では朔太郎邸に「宇野さん、それに佐藤惣之助、衣巻省三夫妻、黒田辰雄夫妻、着物に角帯の広津和郎氏などが見えた。」と「父・萩原朔太郎」に萩原葉子は書いている。

 妍を競う、ダンスの技量を競う、それには年齢も関係するであろう。年齢は容赦なく人を老いさせる。美貌の女性宇野千代も老いていく。美術家と小説家の恋は鉄道交点では短いものだった。宇野千代が北沢に住んだのは4年ほどである。

  昭和の初頭、馬込では萩原朔太郎邸でダンス会が開かれた。その時の印象を萩原葉子は記しているが、「室生さんと三好さんは、ダンスにはけっして見えなかった。」(「父・萩原朔太郎」)と言う。室生犀星と三好達治のことだ。

 宇野千代の存在は下北沢鉄道交点文学に少なからず影響を与えている。戦後になって三好達治は疎開先の福井三国から代田に引っ越してくる。これは宇野千代の紹介によるものである。

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2007年07月16日

下北沢X物語(900)〜鉄道交点の文学探訪3〜

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 未知の世界は、知悉への飽くなき希求である。が、対象がすべて詳らかになってしまったら面白くない。そういうことで言えば鉄道交点の文学は未知である。全貌がよく分からない。それだけに興味深いものがある。

 下北沢鉄道X交点の文学は解明過程にある。が、このプロセスにおいて掴んできたことは人的要素よりも、物理的な要素がより多いということである。ムラ社会的な文士参集ではなくマチ社会的なそれである。

 鉄道交点近辺には作家が多く居住していた。文士村と言っていいほどである。が、いわゆるムラ社会があったわけではない。誰か中心になる人物がいてその彼の呼び掛けによって大勢が集まってきたものではない。個別的な事情で集まっていたと言える。

 中山義秀は「私はふたたび、垳の住んでいる世田谷へ、帰ろうと決心した。」と自伝小説「台上の月」に書き記している。彼は垳利一を慕っていた。北沢の丘上にいる彼を中心点において代田、大原とそこを巡る衛星のように近辺を転々としていた。新感覚派の頭領がいたらばこそである。

 映画プロジューサーの森栄晃氏は垳利一の「雨過山房」で開かれていた水曜会に出ていた。彼の言によるとこれへの参加は坂口安吾からの紹介を受けてのことだと言う。森栄晃氏も文学青年だった。学生文芸コンクールで賞をもらっていた。が、彼は映画界に進んだ。それは垳利一の勧めによるものである。「これからは映画の時代だ」という意見を容れてのことである。

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2007年07月14日

下北沢X物語(899)〜鉄道交点の文学探訪2〜

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 昭和10年代初頭、下北沢には「作家や詩人志望の青年たちが、近隣のアパートや下宿に数多くたむろしていた」と中山義秀は言っている。その彼らに「まじって酒場へゆき麻雀をやり、しだいに土地になじむようになった」と書いている。

 当時、繁華だったところは本通りである。現在の一番街である。昭和8年時においてここにはカフェが三軒あった。
「いやぁ、中に入ったことはないな。まだ小学生だったからね」
 現在の喫茶店とはちがい女性が侍っていてお酒も飲めた。萩原朔太郎は詩集「氷島」の「珈琲店 酔月」という詩で「女群がりて卓を囲み/我の酔態見て憫(あわれ)みしが/たちまち罵りて財布を奪ひ/残りなく銭を数へて盗み去れり。」と往時のカフェの有様を描いている。「酔月の如き珈琲店は、行くところの侘びしき場末に実在すべし。」と詩人は自注で記している。「珈琲店 酔月」のつぎの「新年」という詩は「昭和七年一月一日」に詠んだものだ。下北沢新屋敷在住時である。「酔月」はあるいは下北沢のカフェだったかとも思いもする。が、彼が一番よく出入りしていたのは新宿のカフェである。そこでのことであろうと想像される。

 本通りには女性も侍るカフェがあった。小さな歓楽街である。そこには酒場もあり麻雀屋もあった。昭和9年の地図には、うなぎ屋、すし屋、蕎麦屋などが記されている。「金物屋」などもあるがこれは秋元金物店である。昭和十年代初頭、このお店だけで使用人が五人、女中が二人もいた。町が賑やかだったことがわかる。ただ賑やかだっただけではなく、近代性という魅力も備わっていた。

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2007年07月13日

下北沢X物語(898)〜鉄道交点の文学探訪1〜

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  今日は盆の入りだ。大月商店に立ち寄ったらおばちゃんがこんな話をしてくれた。
「今日は迎え火を焚くんだけどね、去年、焚いていたら子どもが寄ってきて、なんでこんな暑いのにたき火なんかするのって聞くのよね」

 月日は百代の過客である。時間はさまざまな物をそれに載せて旅をしている。時が経つとともに故事来歴も次第に記憶の中から薄れていくものだ。

 わたし自身の地域文化の発掘は文学から始まった。自転車による文学者の居住痕跡の探訪である。夢中になってこれまではやってきた。それがもう懐かしく思い起こされる。

 探し回って一つ分かると二つのことが分かる。代沢に居住していた垳利一のことを調べている過程で「台上の月」という中山義秀の小説を知った。新感覚派の垳を恋慕する彼の文学遍歴がそこには詳しく記されていた。

 私はふたたび、垳の住んでいる世田谷へ、帰ろうと決心した。妻の客死した土地の近くへもどってゆくのは、真につらいかぎりではあったが、まったく馴染みのない地にうつって行く気はおこらない。捕われることは分かっていながら、やはり故郷の人をたよってゆく科人同様、人間は弱くて案外臆病にできている。
   中山義秀 「台上の月」 新潮社 昭和38年刊

 芥川賞作家、中山義秀の修業時代のことがこの作品には描かれている。このとき彼は「東銀座裏、木挽町のアパート」に住んでいた。その彼が下北沢に越してくる。下北沢「静仙閣」にである。それは昭和11年のことである。

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2007年07月11日

下北沢X物語(897)〜安吾旧居門柱の移設工事4〜

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 門柱移設工事は、途中発電機の故障があって一時中断した。が、急遽別の発電機に取り替えて、滞りなく終わった。門柱礎石下部は湿気でゆるんでいて、とくに右手は傷みが大きく、基礎と地上部は分離するしかなかった。

 当方は、いつもどおりの自転車で現場へ訪れた。門柱を運ぶ段になって、運搬トラックを追い掛けようかと思ったが代沢小まではかなりの距離である。自転車は門柱と一緒にトラックの荷台に載せてもらった。そして、運転席に便乗させてもらった。

 いよいよ門柱がトラックの荷台に載せられた。そして出発するというときになって地元の三人の人が見送ってくれた。その中に一番最初に当地に訪れたときに門柱のことについて説明してくれた女の人も交ざっていた。その人たちに見送られて門柱は矢口二丁目を離れた。

 門柱を積載したトラックは環七を行った。そして、途中代沢小に向けて淡島通りに入った。それは普通にたどるコースではあるが自分では特別な感懐を抱いた。淡島通りの起点近くには若林小学校がある。ゆえに「風と光と二十の私と」の一節が思い浮かんできた。

 私が辞令をもらって始めて本校を訪ねたとき、あなたの勤めるのは分校の方だからと、分校の方に住んでいる女の先生が送ってくれた。これが驚くべき美しい人なのである。
  「風と光と二十の私と」 坂口安吾全集4 ちくま文庫  1990年刊

 ここでいう本校というのは現在の若林小学校である。そこから分校、現在の代沢小学校へ行くルートはほぼ推測できる。古道の滝坂道を東に行って、途中から二子道へ左折していくコースである。それとほぼ同じコースをトラックはたどっていた。が、「驚くべき美しい人」、マドンナはいない。色気のないおじさん二人に先導されての分校入りである。

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2007年07月10日

下北沢X物語(896)〜安吾旧居門柱の移設工事3〜

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  門柱移転工事を見守りながら思いに耽った。地盤的発想というのはあるだろうと。この「蒲田の家」で「白痴」は書かれた。そこにこの一帯が防空壕を掘るには適していなかったと記されている。このあたりは一尺も掘ると水が出る。坂口安吾はそういう場所、ローカルポジションに好んで住んだからである。

 彼が住んでいた場所を列挙すると面白い。蒲田、取手、小田原、伊東、そして、桐生である。いずれもローカルポジションである。作家として名を挙げても、決してロイヤルポジションには住まなかった。彼の文学の古里がローカルポジションだった。体裁よりも実質が彼には大事だった。

 美は、特に美を意識して成されたところからは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからず必要にのみ応じて、書きつくさねばならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それはたわいもない細工物になってしまう。これが、散文の精神であり、小説の真骨頂である。
        「日本文化私観」 坂口安吾全集 第七巻 冬樹社 昭和42年刊

 小説を執筆するという姿勢においてもかれは実質を尊んだ。居住場所も同じである。その人情においても飾らない場所である。

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2007年07月08日

下北沢X物語(895)〜安吾旧居門柱の移設工事2〜

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   坂口安吾旧居門柱のあったところの旧住所は「荏原郡矢口町字安方一二七」である。代沢小も同じく荏原郡であった。その点からすると郡内移動である。地縁的なものの繋がりはある。とんでもなく懸け隔たった地への移動でもない。

 この門柱移動工事に一日立ち会った。その感想でいうと門柱移転というものはアモラルなものであるということだ。安吾文学の古里の門柱は虫歯を抜くようなものだった。

 門柱の四周を掘って、そして、最後にベルトをかけてクレーンでつり上げる。歯槽膿漏を患った歯を引っこ抜くようなものである。ひき抜いたとたん、大地がうめいたなどということはない。ただ物体が大地から離れて宙空に浮いただけである。それはアモラルであった。安吾旧居保存というのは救いの手であった。が「救いがないということ、それだけが唯一の救いなのであります」(「文学のふるさと」)という安吾の言によりかからなければならないほどのあっけなさであった。 
 
 大田区東矢口二丁目の坂口安吾の旧居の門柱は「新潟日報」が保存してきたものである。現在、そこは駐車場になっている。門柱だけがぽつりと建っている状態だった。坂口安吾旧居を示す表示も何もない。知らなければ分からない。それで人間にはこれといって役に経つものではなかった。が、近所の犬たちにとってはなくてはならないものだった。「おれさまは今日来たぞ」ということで多くの犬が小水を引っ掛けて行った。犬たちが自己存在をアピールする場であった。

 門柱移転のための工事をしているときに数人の見物客が現れた。そういう人は門柱のいわれを知っている人である。
「ここにね、左手の門柱のそばに大きな松の木があったのですけどね、それは伐ってしまいましたね。ついこの間までは、誰かが『坂口安吾』と書いた紙を表札の入れる凹みのところに貼っていましたけどね。ええ、ときどき安吾が住んでいたところだというので写真を撮りに来ていましたよ。そうですか、文学碑にするんで世田谷に持っていくんですか。ここにこのままあるよりもいいかもしれませんね。」
 何度も工事の進行状況を確かめに来た近所の親爺さんがそう言った。

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2007年07月07日

下北沢X物語(894)〜;「北沢川文化遺産保存の会」会報第13号〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報
                                             会長 長井 邦雄
   会報第13号  

              2007年7月7日発行
    事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)

   155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858

1,冊子「あんこ先生が帰って来た」の発行について

 坂口安吾旧居門柱は代沢小への移転が完了した。これを活用した文学碑を建立することにしている。そこに代沢小を舞台にした小説「風と光と二十の私と」の一節を刻むことにしている。
 

 安吾旧居門柱を活用した文学碑建立、この計画については「世田谷まちづくりファンド」に申請していた。が、所有者の同意のないものについてのサポートは難しいという結果であった。先だって送られてきたファンドのコメントにも「旧安吾宅の門柱移設については、まちづくりファンドがお墨付きを与えた訳ではないので、移設交渉には利用しないでください」とあった。

 この件についていえば「世田谷まちづくりファンド」の指示の通り移設交渉には使わなかった。むしろ、所有者の同意を得てないことから支援は難しいということになったと正直に所有者に伝えた。すると先方から当方で手順を踏んで要望を出せば難しいことはないという思いがけない回答を得た。「ファンド」で否という返答が出たことからむしろ活路が開けたと言ってよい。

  ファンド側のコメントには「ファンドの支援団体であることを大いに利用していただき、ネットワークを広げてください。下北沢付近全体が『文学ミュージアム』となることを、期待しております」との応援メッセージが書かれていた。ソフト面についての予算は下りているのでこれを活用して冊子を作りたい。「文学ミュージアム」は面白い形容である。その文学ミュージアムの一端を紹介する「あんこ先生が帰って来た」という冊子を代沢小PTAと協力して作りたい。

2、新地図の発行について

 地図の第2版となる「下北沢文士町文化地図」は現在配布中です。5000部発行しましたが好評でもうだいぶなくなってきました。「下北沢文士町」という呼称は現在も生きている文士町ということも指します。文学舞台で有り続けているという意味もあります。清水博子「街の座標」、鷺沢萠の「遮断機」などはその好例だと言えます。
 今になっての多くの文士居住の発見は、活動が個別的だったからだと言えます。そういう意味で言うと新たな都市型の文士町だったということになります。ムラ社会ではなくマチ社会の文士町ということです。それは郊外都市鉄道X交点、鉄道と鉄道がクロスしたところのひそやかな真実です。

3,「下北沢X惜別物語」の配布

 小田急線は世田谷代田、東北沢の間の地下化工事が進んでいます。いずれ現在の駅や線路、踏切は地下化によって、地表から姿を消してしまいます。それはビジュアルなXが地表上からなくなることです。それへの惜別ということで名づけました。
 
 現在の地表線の個別の踏切に一つ一つに秘められたエピソードがあるということです。眠っている話はこれ以外にもあると思います。いよいよ地下化されるというときにお別れをこめての再版ができればいいと思っています。踏切エピソード、古い写真など集めております。ご協力ください。「下北沢X惜別物語」についてはテレビや雑誌などで紹介され、個別口コミで評判が伝わっています。2000部発行して1150部ほどがなくなりました。後850部ほどとなりました。事務局の「邪宗門」、一番街「大月商店」で配布しています。

4.都市物語を旅する会
 「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢鉄道交点近辺の文化探査をしています。毎月、第三土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、十名程度ということにしています。それぞれがこの歩く会に主体的に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。
 これまで実施したコースはつぎの通りです。1.代田連絡線の跡を歩く、2.小説猫町を歩く、3.下北沢の大谷藤子を歩く、4.下北沢・淡島の森茉莉を歩く、5.銭湯を歩く、6.下北沢の無頼派を歩く、7。下北沢の教会を歩く、8。坂口安吾が歩いた道を歩く、9.駒沢線鉄塔を歩く(1)、10.下北沢の映画痕跡を歩く、11.茉莉を歩いて茉莉に会う。12.だいだらぼっち川を歩く。13、「小説『猫町』を歩く」。14、「下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く」。毎回の参加希望は事務局で受け付けています。

○今後の予定(変更になることがあります)
第十四回 7月21日(土) 午後1時 京王線代田橋駅集合
  「ダイダラ坊の痕跡を求めて歩く」 
   柳田国男が探査した 代田橋 「だいだらぼっち跡」の探検、探査 
     1,甲州街道の「代田橋跡」 2,「だいだらぼっち」の源流探査
   3,出頭山跡  4,ダイダラ坊の足跡 (多少の雨ならば実施します)
          参考文献 「ダイダラ坊の足跡」柳田國男

・第十五回 8月18日(土)  午後1時 世田谷代田駅南口集合
    「駒沢線鉄塔を歩く(2)」
    萩原朔太郎から三好達治まで 
・第十六回 9月15日(土) 午後1時 三軒茶屋 大山道道標前 カラオケボックス BIG ECHO『ビッグエコー』前 国道246と世田谷通りの合流点
 林芙美子の「放浪記」から坂口安吾「風と光と二十の私と」までを歩く。 
     参考文献「風と光と二十の私と」「放浪記」
・第十七回 10月20日(土)午後1時 京王線笹塚駅集合 
  「森厳寺川」の源流から下流まで歩く
・第十八回 11月17日(土)  午後1時 東北沢駅北口集合
   池の上の古い町並を歩く
   古い建物を探しながら歩く 東北沢から池の上へ
     イラストレーターの木村圭子氏に案内をお願いしています。
・第十九回 12月15日(土)  午後1時 下北沢駅北口集合
   「下北沢の教会を歩く」
    去年の教会巡りはいまだに心に残るものです。下北沢の教会巡りをして一年の締めく  くりとするものです。(大久保良三担当) 
・第二十回 1月19日(土)  午後1時 下北沢駅北口集合
      「下北沢の詩人痕跡を訪ねる」 
   福田正夫、中村草田男、堀内通孝、中村汀女、北川冬彦、渡辺順三、加藤楸邨
・第二十一回 2月15(土) 午後1時 代田橋駅集合
  「坂口安吾の通勤ルートを歩く」
   代田橋の下宿跡から代沢小学校まで、安吾が通勤していたルートを歩く
  コースについては希望があれば申し出てください。臨時的に催したり、計画に組み込んだりします。参加を希望される場合には事務局に必ず連絡をしてください。

○付記 8月13日、14日、15日に「下北沢商業者協議会」主催のシンポジウムが三日連続「ザ・スズナリ」で開催されます。そのうち14日には「文化と生活と・下北沢」と題されたシンポジウムが開かれます。
  吉見俊哉(東京大学大学院情報学環境科長)、きむらけん(「北沢川文化遺産保存の会」文化探査者)、廣木隆一(映画監督)、岩本光弘(「シネマアートン下北沢」支配人)、大木雄高(下北沢商業者協議会代表)
 このシンポジウムには当会のきむらは個人として出席します。

(写真は函館海岸倉庫群にて)

 



2007年07月05日

下北沢X物語(893)〜安吾旧居門柱の移設工事1〜

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 地霊の存在を信じる者である。長くそこに存在するものはそこにあってこそ生きるものである。とくに作家が居住したその痕跡を示すものはその場所にあって意味を持つものだと思う。が、その場所に置くことが困難である、難しいというのであれば、他に方法が考えられる。移転しての保存である。朽ち果てるよりも良いと考えるものである。

 まず誤解があるようなので断っておきたい。坂口安吾旧居の門柱をやみくもに移転、移築しようとしていたという訳ではないことだ。現地での保存が難しい状況にあった。このままでは風化する一方である。朽ち果てる可能性があった。そうしないよう、そうならないようにということから挙手をしたものである。このことはぜひ伝えておきたい。

 大田区東矢口二丁目には坂口安吾旧居の門柱が「新潟日報」の手によって永く保存されてきた。文化財として残されてきたものである。ところが、そこにはそこに門柱が残っているだけであった。それが風化していく一方の状況にあった。たまたまそのことを知った。そのことから北沢川文化遺産保存の会としては、その門柱が朽ち果てるこのないようになんとかできないかと考えていた。そこでこれの保存を兼ねた文学碑建立を呼び掛けることにした。

  坂口安吾は、かつて代用教員として代沢小に勤務した。大正14年のことだ。そのときのことをまとめたのが「風と光と二十の私と」という小説である。安吾独自の警句がちりばめられたこの作品は青春文学の名作と言ってよい。そのことからこの作品に描かれた一節を抜き出して文学碑を建立することを提案してきた。

 今回、門柱所有者の「新潟日報」の厚意によって、門柱の移築が認められた。幸いにして文学碑建立についても賛同する企業もあって、実現の見通しがついた。建立に際してのデザインであるとか碑文選定には時間がかかることから、とりあえずは許可を得て移築を先にすることにした。

 

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2007年07月04日

下北沢X物語(892)〜三国から函館へ5〜

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  知らなければ暗い。知ろうとすると明るくなる。鉄道線路について暗いのは放ってはおけない。鉄道駅のどこからどこへ行ったかは自分の世界観の原点である。これはつい調べたくなる。「鉄道廃線跡を歩く検廚忙姐餽舛惺圓路線のことが出ていた。

 昭和19年5月の月末に世田ヶ谷中原駅を立った三好達治の恋人の経路である。彼女は北陸線で福井に着いてここから電車で三国港へ行ったと思っていた。が、そうではなかった。萩原葉子の小説「天上の花〜三好達治抄〜」にはこうあった。

 金津に着くと、三国港までの単線の電車に乗る。三好はこの小さな電車が好きだと言うが、荒っぽい言葉の漁師やおっさんがいて、急に田舎の漁師町へ来たという感じがした。
 講談社文芸文庫 1996年刊

 金津とは現在の芦原温泉駅のことである。ここから国鉄三国線が三国港まで出ていた。この線は昭和19年10月に廃止となった。とすれば美人を出迎えた詩人が三国港まで乗ったのはこの国鉄の三国線である。このときは電車ではなく汽車であった。恐らくC11かC12という閑散線区用の機関車が一、二輌の客車を牽引していたはずだ。

 廃止された国鉄の三国、三国港間を電化して、福井からの電車を走らせるようになったのは昭和19年10月以降ことである。

 三国町米ヶ脇の三好達治旧居を探しているときに、たまたま郵便ポストに手紙を入れに来た人と出会った。その人が心当たりを探してくれた。そして、行き着いた二階屋の玄関の壁面いっぱいに三好達治の詩が描かれていた。が、現れたそこの主人はこう言った。

「いや、ここではありませんよ。元の中部電力の保養所だったところですよ。今は三好楼というレストランになっています」
 その返答を聞いて、女の人は納得したようだ。
「わたしの家のすぐそばだ」
 彼女は向こうに見えてきた高い建物を指さした。旅館「荒磯亭」である。その大お上さんが彼女だった。ご主人は三国町観光協会の会長をしているとのことだった。

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2007年07月02日

下北沢X物語(891)〜三国から函館へ4〜

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  土地や風土には独特の空気、におい、音響などが潜んでいる。鋭敏な詩人はそれらをかぎ取って、詩という言葉に置き換える。東尋坊には三好達治の「荒天薄暮」の詩碑が建っていた。黒御影石には越前三国の風土が詠まれている。

  ……景や寂寞を極めたるかな
 帆檣半ば折れ
 舷赤く錆びたるは何の船ならむ
 錨重く河口に投じ
 折ふりしにものうき機關の叫びを放てり
 まことにこれ戦ひやぶれし國のはて
 波浪突堤を没し
 飛沫しきりに揚がれども
 四邊に人語を聞かず
 ただ離々として艸枯れて砂にわななき
 悲歌し感傷をほしいままにす 

   「国破れて山河あり」、戦争に挑んだが敢えなく日本は負けた。その悲歌がこの詩でもある。「景や寂寞を極めたるかな」には悲痛な思いが港の景に託されて詠まれている。九頭竜川河口にある三国港、そこに赤錆びて朽ち果てた船が一艘投錨している。沖合からは波浪が防波堤に押しよせる。風と波という自然語は響いている。が、人間語は一切聞こえない。港町はうちひしがれて押し黙っている。ふぅひゅうという風の音、ざざぶんという波の響きのみが景を支配している。越前三国という古い港町が言葉から浮かんでくる。敗残した国家が景のうちに沈んで見えて来もする。

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2007年07月01日

下北沢X物語(890)〜三国から函館へ3〜

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「いい映画だったよ。見終わった後も席を立つのが惜しいくらいだったな……」
 彼は目にうっすらと涙を浮かべている。
「あんたに見せたいくらいだったね」
 旅から帰って久しぶりに「邪宗門」を訪れた。そこで監督と出会った。

「この間ね、京橋のフィルムセンターで古い映画を見たのですよ。題名は『有りがたうさん』というもので、主演は上原謙でした。昭和11年製作の松竹の映画です。下田から三島だったかな、峠を二つ越えて行くバスの話だね。運転手は上原謙で、これがまたいいんだね。当時としては珍しいオールロケなんだ。伊豆の狭い山道、砂利道ですよ。そこをボンネットバスが行くんだね。それで通りかかりの人と出会うんだ。旅芸人とか、小学生とか、農民とかね、それで運転手の上原謙がそういう出会った人に声を掛けて行く、避けてくれた人に『ありがとさん』って言葉をかけて行くんだね。とりたてて大きなドラマではないんだけど、人間の素朴さみたいなものが滲み出ていて、とってもよかった。時代は苦しい時代だね、乗客には人身売買で東京に売られて行く若い女が乗っていたりしていてね……」

 おおよそのあらすじを監督は話してくれた。映像を脳裏に浮かべて、それに基づいて話をしていると思った。くねくねと曲がった山道を巧みにハンドルを切りながら走って行くおんぼろバスが思い浮かんできた。伊豆山中の杉林の中を走るそれはもうもうと埃を立てていく。旅芸人の一行ともすれ違う。その彼らが路傍に佇んで、バスを避ける。運転手が小窓から顔をのぞかせて「ありがとさん」と手を振る。そんな人情交流の場面が思い浮かんできた。
 

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