2007年08月

2007年08月31日

下北沢X物語(930)〜代田風景批評史小考4〜

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   世田谷代田の雑木林や畑地を貫いた駒沢線は近代の新しい風景であった。代田太子堂境から代田に入って、花見堂から丘に上り、北西方向に進路を取って代田橋へと向かっている。敷設当初は雑木林や畑だったところである。

 たまたま今日代沢小学校に行く用事があって、3階の資料展示室を見る機会があった。そこに創立120周年誌「だいざわ」が残っていたので頂いた。得難いのはそこに載っていた地図である。「東京府武蔵國荏原郡下北澤村」と記された明治13年の地図だ。

 うねうねと続く等高線、色分けされた林や田や畑、眺めていると国木田独歩の「武蔵野」世界が思い浮かんでくる。駒沢線はもっと後に敷設されるが、地図を見ると代田鉄塔ラインはほとんどが雑木林や農耕地である。面白いことは現代田二丁目に当たるところは薄く茶色に塗られ「茶」と記されている。大齋田家が切り開いた茶畑である。そのど真ん中に三角点がある。42,76と記されている。

 当初、駒沢線は太子堂の真ん中を通って北上するはずだった。が、三茶、太子堂一帯は世田谷でもっとも早くに近代化したところである。権利意識の芽生えもあって彼等が中心となって果敢に抵抗した。その結果、電力線は西へぶれた。そのラインを地図上で辿ると太子堂は避けて若林、代田の尾根ラインを通っている。その理由は農耕地だということで土地の取得が容易かったこと、それと、地盤の強固さである。
 

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2007年08月30日

下北沢X物語(929)〜代田風景批評史小考3〜

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 代田における古代の巨人はダイダラボッチであり、近代の巨人は駒沢線鉄塔である。そういう想像的風景のなんと楽しいことか。この二つ、鉄塔とダイダラボッチは連関性がある。それはともに代田本村を外して村の縁辺にある。

   風景批評史、それは古代から近代にかけて人々が風景をどのように受容していたかということである。代田風景を子細に記した資料は持ち合わせていない。文字断片、絵画、地図などから想像して物語的に書き述べていることだ。

 「当村ノ開墾ハ天正十八年世田ヶ谷ノ吉良氏没落ノ後家人共流浪ノ身トナリ此ノ地ニ止マリ新墾セシ」(「東京府志料」明治七年)、これが代田七人衆である。その彼等の本拠地が本村並びに花見堂である。北沢川の北のり面である。南のり面と違い、傾斜がゆるやかで耕作するにはこちらが適していたからであろう。

 風景は人々の目にどう映るかである。当然のことであるが居住するところから風景は捉えられる。U字形の代田サラダボールの風景は抉られた地形の方に目は行く。それは緑と山と空とが景観を作っている北沢川崖線である。ここに沿って右から左へと小高い山々が連なっている。深い谷と山と川である。自分たちの居住するところからのその風景に土地の名をつけた。崖は、砂利場であり、その上の山は本山、吹上、あるいは上ノ山である。

 代田における古代風景は北沢川の南から北を俯瞰したものである。本村が中心であれば自ずとそうなる。そのことを証明するものがある。代田児童館のジオラマ、そして今手元にある「昭和初年ノ代田ノ田園風景」と題された絵である。

 その田園風景はやはり本村から眺めた北沢川沿いの風景である。東西を流れる川に沿って水田が広がっている。現在の代田一丁目は薄茶に塗られている。それは畑である。

 砂利場、上ノ山は緑に覆い尽くされている。本村から眺めた一帯の風景がどれほど美しかったか、ということがこの絵には描かれている。代田のジオラマもそうである。かつての代田田園風景への熱い郷愁である。

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2007年08月28日

下北沢X物語(928)〜代田風景批評史小考2〜

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     国木田独歩の「武蔵野」は消えた。それからそれへと続く丘陵のうねり、その間の細流、そして丘を彩っていた緑、あらかた消え果てた。が、風景はプロセスを経て作り替えられている。現在の人工的な町にもかつての土の匂いは残っている。それを探し当てることも興味深いことだ。

 風景は人の生活と密接に結びついている。まずは生きるための風景がある。水と土である。作物を土地に植えて水を与えて育てる。農耕から生活は始まった。川辺は暮らしの出発点であった。代田だと北沢川である。

 景色は観望地点によって変わる。そこを想像できる言葉が残っていればその観望地点が推測できる。

 元禄10年12月の「武蔵国荏原郡世田ヶ谷領代田村検地水帳」(「世田谷旧村古地名集」1983 世田谷区教育委員会)には「花見堂」の名称はある。「砂利場耕地」というのが「砂利場」であろう。が、これには「吹上」はなく「上の山」とある。どうも「吹上」というのは新しい字名であるようだ。

 「古地名集」の中の 文政13年の「田畑高ノ譯帳」には「上ノ山・六次郎山・五輪山・森山(守山)」と「山」のついた名が連ねて書き記されている。「六次郎山」は「根津山」、今の羽根木公園である。「五輪山」は、「いつわやま」と読むのであろう。これは代田児童館のジオラマでは円乗院の裏手のところを指したようだ。森山は今の「守山」であろう。今でも「もりやま」、「まもりやま」の混同は多い。森があったことから付いたものであれば「もりやま」という読みも考えられることだ。が、この森山は代田本村からは最も遠い。景観としては見えるか見えないかぐらいではないだろうか。

 代田村は代田七人衆の本拠地である、本村が中心であった。そこが里であった。里から見える北の高地が山々、連山である。西から順に言うと、まず「六郎次山」、つぎが「五輪山」、その奥が「守山」だ。一番東が「上ノ山」である。舞台で言えば右、「上手」そこから名前がついたのだろうか。

 往古は自然のままである。整地されたり、削られたりはしていない。土地が高く、しかも木々が生い茂っている。とすればもうそれは山の姿に違いない。その山裾を流れている川も険しかった。上ノ山の崖が転げ落ちて来ているのが現在の鶴ヶ丘橋辺りである。

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2007年08月27日

下北沢X物語(927)〜代田風景批評史小考1〜

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 人生とは生きていくプロセスにおいて何枚心打つ景色を見たかである。それは量の問題ではない質の問題である。

 今述べたことを講義に通っている研修所で話をした。後になって「旅」というタイトルで小論を書かせた。するとその中に自分のこの言辞が引例として記されてあった。若者に自分の思いが伝わっていたと感じた。

 旅は好きだ。一時、いわゆる完乗、全国の鉄道線を完全に乗りきること、を試みたこともある。決めるとひたむきになるのが自分の性癖だ。北海道周遊券を買って朝から夜まで雪原を眺めての旅をしたこともある。

 どこまで行っても雪、いささかうんざりしてしまった。見たい放題、景色を見ていると飽きてくる。その経験から、乗っていない線は乗らねばならないとは思わなくなった。が、とりとめもなく鉄道に乗って旅をするというのは今でも好きだ。完乗はしていないが、かつての国鉄線、現在のJR線区はあらかた乗っている。

 鉄道に乗っていて楽しいのは「変わる景色の面白さ」だ。目的地に着いての観光よりも車窓に興味があった。列車に乗ったら本は読まない。景色を読む。それが一番の楽しさである。

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2007年08月25日

下北沢X物語(926)〜都会の片隅の小さな事件の余波(下)〜

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   地名はその土地の歴史や文化を映す鏡だ。が、漢字表記は多くが当て字である。自転車でよく通る「弦巻」もツルマキとしてそこから考えると、「ツル」は荒地を意味し、「マキ」は牧場、つまり馬などを放し飼いにしていた荒れ地ということだ。

 宇奈根も面白い名前である。諸説あるようだが、やはり「ウナネ」として考える。古代の稲作用の溝渠を「うなひ」といようだ。それが転訛して「ウナネ」となったようだ。この宇奈根もサイクリングでよく通るところだ。野川と多摩川の間の河川敷である。古代の稲作地と言われたらなるほどと思う。標高は15,6メートルほどだ。

 この宇奈根にある鉄塔になぜ女性が登ろうとしたのだろうか。宇奈根を貫いている鉄塔は「川世線」である。駒沢線と同じく腕が6本あって、頭頂部の避雷針線を入れると13本の高圧線が巡らされている。かなり高い鉄塔だ。成城の柳田国男旧居を調べに行ったときにこの「川世線」に出会い観察した。新聞記事によると高さは54,5メートルあると言う。

「あの高い鉄塔に登り、感電死するのが私の運命のような気がした。」(「蕁麻の家」講談社文芸文庫)と自死を覚悟して鉄塔に登ったのは萩原葉子である。駒沢線鉄塔61号である。こちらはもっと高い。「吹上山」山頂部附近だから標高が39メートルある。「川世線」と同じくアームが六本ある。高さは変わらないだろう。すると90メートルほどになる。が、萩原葉子のこの行動は容易であった。この鉄塔にだけ内階段がついている。昭和十年代、鉄塔は厳重ではなかった。登ろうと思えばだれもが登れた。

 現在の鉄塔は基部の囲いが厳重である。鉄条網が張り巡らされている。ここを突破するだけでも相当な覚悟が要る。囲いを乗り越えてもハシゴはない。鉄塔を登った女性は鉄骨を掴んで登ったようだ。

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2007年08月24日

下北沢X物語(926)〜都会の片隅の小さな事件の余波(上)〜

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    この頃駒沢公園にはよく行く。歩きながら考える。ヒマラヤ杉、欅などの木々の間にゆったりした時間がとぐろを巻いたように隠れ潜んでいる。ここに横たわる時というものは東京中心の賑わいの陰影、余波ではないかと思った。

 芥川龍之介の「羅生門」には「当時京都の町はひととおりならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない」という物語の発端を説き起こす巧みな文がある。都である京都の衰微、その余波が中心から外れたところにきざしとして現れる。巧みな現象把握だ。この物語の舞台、「羅生門」は「羅城門」、都の南端にある楼門であった。

 大都会の隆盛や衰微の影響はその中心から離れたところに余波を及ぼす。東京西南部の荏原都市圏はまさにそうしたところである。都会のざわめきを遠くに聞いて、事をなす。とくに文学という場合は、絶好のポジション、位置取りである。伝え手の気配を感じて書くということは重要だ。

 国木田独歩も都会の喧噪を背後に聞いて西を眺め、そしてそこを散策した。知り合いの田山花袋が現在の渋谷のNHKのすぐ西隣にある独歩の家を訪ねている。そのときの辺りの情景を「地平線は鮮やかに晴れて、武蔵野に特有な林を持った低い丘がそれからそれへと続いて眺められる。」(「東京の三十年」岩波文庫)と描いている。

 地理的関係からするとそれは「それからそれへと続」く丘のうねりは、渋谷から眺めた荏原郡のそれにほかならない。田山花袋自身もそこからほど遠くない代々木山谷にいて、「遠くにきこえる市声、場末の町の乗合馬車のラッパの音」など、新宿の喧噪を耳にしながら「全力を挙げて」作品に取り組んだ。それは「蒲団」という彼の代表作でもある。もっとも渋谷は豊玉郡に属していたが東京西郊である。

 田山花袋、国木田独歩の今記したエピソードは明治時代の話だ。時代は変転し、東京という都市は膨らみ都市近郊は西へ広がった。荏原郡も今は都市である。が、都心から離れた地点である。都心の動きの余波が多々現れる場所だ。

 昨日はこのブログも余波を受けた。トップページ右下に「[08/23]の訪問数: 122」と出ている。このごろは二日書いて、一日休むことにしている。それで昨日は記事を掲出してはいない。それなのに訪問者実数はいつもに増して多かった。なぜだろうか?。

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2007年08月22日

下北沢X物語(925)〜物語的地形文化論3〜

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 代田における近代と古代の衝突は電気からであろう。
 

 代田の北端に大正2年京王電車が開通した。南端の滝坂道には大正14年、日東乗合自動車が通るようになった。近代の新しい乗り物の開通は大字代田(明治22年世田ヶ谷村に編入)でも評判になったであろう。が、具体物としての近代は高圧線鉄塔駒沢線である。

 代田をこれが縦断した。緑の田野、丘陵に高々と聳え立つ鉄塔群が南北を貫いた。往時のその様をリアルに再現したジオラマが代田児童館に展示されている。昭和初期、一帯は緑に包まれた田園である。立体絵の屋敷林が、そして、また吹上の自然林が当時を彷彿とさせる。そこを銀色の鉄塔群が南北に貫いている。作り手の気持ちが映えて見える。緑の中を南北に貫いている近代風景としての鉄塔群である。

 代田サラダボールの昔が視覚的に理解できるジオラマだ。難を言えば地形の高低があまり明確ではない。等高線の入った模型が再現されれば往時がもっとリアルに再現されるだろうと思う。

 このジオラマは昭和初期を再現したものだ。現在建っている鉄塔の銘には大正15年とあるようだ。一連の鉄塔が大正末から存在したことは確かであろう。この点に関してわたしはかねてから興味を持っている。花見堂、砂利場、吹上を少しずつ北西方向にずれながら鉄塔は代田の地を縦断している。それはなぜかということだ。

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2007年08月21日

下北沢X物語(924)〜物語的地形文化論2〜

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 地名は土地の文化を類推する手がかりだ。

 フィールドワークをしたのは代田の地である。かつての字名では北から順に言うと「吹上」、「砂利場」、「花見堂」である。それぞれに土地の匂いを言い表している。「砂利場」は写実的な名である。が、他はいい名である。柳田国男は「地名の由来」(角川文庫)の中でつぎのように述べている。

 われわれの祖先は、はやくから好字を用いよ、嘉名をつけよという勅命を遵奉して、二字につながった漢字、仮名で数えても三音節、ないし五、六音節までの地名をつけねばならなかった。

 土地には魂がある。名をつける場合には極力誉めよという考えである。風が吹き上げ舞う「吹上」、花を眺めるお堂、「花見堂」、なるほど詩的である。砂利場は即物的だ。じっさいに道普請用の赤砂利が出たからそう名がついたと言う。

 この字名、三つ並べると、人の臭いがするものは三番目「花見堂」である。「吹上」は「風の吹き上げる高み」である。「砂利場」は崖下にそれがあったと言う。「花見堂」は諸説ある。が、人の臭いのする名前だ。

「いや、そうだね、この秋元の森が一番大きいね、あとはここらへん一帯、竹藪でね、竹の子の名産地だったんだ。」
 ちょうど花見堂小学校の側を歩いているときに地元の古老柳下さんと出会った。
「ええ、小学校の地所はわたしの家の地所でした。もとは畑ですね。ああ、学校の隅のところにあるお稲荷さんですか、あれは板橋さんところの屋敷稲荷でしたね。この一帯の家には方々に屋敷稲荷がありましたよ」
 柳下さんは代田七人衆の末裔である。家は花見堂小学校のすぐ側だ。字花見堂にはかつての風景について話しをしてくれる人がいる。人の臭いがするところだ。それも地名に即して考えるとよく分かる。

 

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2007年08月19日

下北沢X物語(923)〜物語的地形文化論1〜

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  歩窓から車窓への変転における衝撃に興味を持っている。それはわたしの物語の源泉でもある。例えば、東北沢4号踏切で東北沢からの急坂を蒸気機関車が下りて来た、そういう飯田勝さんの目撃情報は聞いただけでわたしは興奮する。

 自分の足を用いて移動する。それが古代の旅だった。ところが明治期になって鉄道が開通した。そのことによって移動は「歩く」から「乗る」へと変わった。それは衝撃的な変化である。西欧近代諸国では「時間と空間の抹殺」という言い方でそれは表現されていた。

 汽車の出現によって日本も近代に突入した。この端境期は文学的に面白い。小池滋氏はこの端境期が楽しくて英文学の道に進まれたのではないだろうか。古代と近代の出会いの境における物語、それが氏が記した「英国鉄道物語」であるように思える。「イギリス鉄道の発達と文学」という項目がこの本の目次にある。それだけ見ても心惹かれる。機械文明がもたらした変化、それを文学がどのように取り上げられているかが描かれている。

 「日本の鉄道の発達と文学」に、わたしは興味深く思っている。ところが物語的面白さに欠ける。新しい文明の機械に対する憎しみがあまり描かれていないからだ。漱石、龍之介、緑雨などによって汽車批評はなされてはいる。が、「英国鉄道物語」におけるディケンズほどの面白さはない。日本における鉄道出来の衝撃が薄いとも言える。その原因は日本の地形と文化、さらには軌道幅にあるのではないかとも推理している。

 この頃のわたしは移動手段において変化してきている。日々の移動は自転車での回遊、巡遊が主であった。が、このところ歩くことが多くなった。自転車から歩行へとだ。もちろん自転車をやめたわけではない。

 自転車から下りて歩くと、風景が違って見える。歩いて地勢見学をするとまた新たな発見もある。ゆっくりと歩きながら残された木々の緑、崖、水路跡などを見ていくと、かつての丘や谷がもっと深いことが分かる。

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2007年08月18日

下北沢X物語(922)〜荏原の里から戦争を考える3〜

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 帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。

   昭和16年12月8日6時30分、ラジオは臨時ニュースを流した。歴史上に残るフレーズである。この練られた短文はあらかじめ準備されていたものに違いない。

「真珠湾攻撃はもう六日には分かっていました。わたしが搭乗して攻撃に加わったのは二式大艇です。この機体そのものは水上機母艦に搭載されて横須賀をもう10月に出航していました。艦船の名前は『神威』だと記憶しております。その船でマーシャル群島、ウオッゼ島まで行きました。島といっても珊瑚環礁の島でしたね。陸には密林というか、ジャングルみたいなものはありません。椰子の木がまばらに生えている島でしたね。砂が白く、海が透き通っていて、綺麗な島でしたよ。宿舎は海岸べたにあって、波の音が聞こえてきましたね。そこに木造建築の兵舎がありました。その板の間で待機していました。上官には近々出撃があるので準備をしておけと言われていました。それでもう一週間前から準備はできていました。七日は慌ただしかったですね。この日に出撃命令が出たのですよ。沖合に、二式大艇が十八機ほど待機している様は壮観でしたよ。四発の大型飛行艇が一斉にエンジンをかけるわけですから、物凄い音です。今まで静かだった海が急にうるさくなっていよいよという感じでした。わたしが乗った艇の搭乗員は十四名です。わたしは航法担当です。それで六分儀で計算するわけですよ。それと、前方銃座を担当しました。つまり、機関銃を撃つという役割です。準備が完了して、いよいよ出撃です。生きては帰れないとは思いませんでした。きっとここに生きて帰って来る、そう思いましたよ……」

 渡辺國之助さんの話である。断片的なメモをもとにして言葉は補ってある。彼の証言から見えてくることは周到な下準備がなされていたということだ。

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2007年08月16日

下北沢X物語(921)〜荏原の里から戦争を考える2〜

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  昨日、8月15日の夜、ぼんやりしているときにふと思いついた。自身、鉄道と戦争には拘ってきた。その二つはそれぞれに別個のものであると思っていた。が、この二つともに近代の物語の根源であることを思った。真夏の夜の夢である。

 明治期鉄道の出現によって時間と空間が抹殺された。汽車への初乗りは多くの逸話を生んだ。新橋で汽車に乗ったとたん窓に横縞が流れた。何だろうと思う間もなく汽車は停まった。なぜ止まったのだ?、人々は怪訝に思った。と、「降りろ」という声、「なぜなんだ?」、「横浜に着いたんだと」、乗客は乗ったと思ったら横浜に着いていた。信じられないことで人々は大騒ぎをした。

 昭和16年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃にによって戦争は始まった。が、敵の圧倒的な軍事力によって日本の主要都市は重爆撃機B29によって壊滅的な被害を受けた。そして、広島、長崎への原子爆弾投下によって甚大な被害を受けた。それでポツダム宣言を受諾し、昭和20年8月15日に戦争は終結した。

 日本はアメリカに降伏し、主権、自治権は敵の手に渡ることになる。ポツダム宣言受諾を伝える玉音放送を聞いて人は涙し、自決した者もいた。敗戦の報は時を止めた。にも拘わらず米坂線今泉駅では玉音放送が終了し、蝉時雨が降る中、「いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。」(「増補版 時刻表昭和史」宮脇俊三鉄道紀行全集2)と鉄道紀行作家の宮脇俊三は書き記した。時は止まったが汽車は生きていたという名フレーズである。彼は北沢の丘、今の頌栄教会近くにある家を出ての旅路の途中だった。
 
 鉄道の出現、大国との闘いとその終結、それは近代日本が被った大波であった。異文化との衝突であり、出会いである。これら鉄道がもたらした文化、戦争がもたらした文化は今日生きている我々と密接に繋がっていることである。

 下北沢鉄道X交点一つとっても鉄道と戦争は興味深い観点だ。町の進展は鉄道から始まっている。そして、この近辺に集まった文学というのも実は鉄道の遺伝子を受け継いでいる。それは明らかにできないほどに興味深いことだ。
 

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2007年08月15日

下北沢X物語(920)〜荏原の里から戦争を考える1〜

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  下北沢「静仙閣」は伝説的なアパートである。昭和11年、詩人、映画監督、小説家などが住んでいた。満州国皇帝の弟も居住していたとも中山義秀は述べている。ここには戦争中、一色次郎が住んでいた。

 その「静仙閣」は小田急、下北沢2号踏切と3号踏切の間にある築堤のすぐ南側にあった。彼は鉄道線路わきの二号館に住んでいた。が、線路に沿って防火帯を作るための建物疎開にひっかかった。それで昭和20年3月26日に「代田二ノ八二三、西の丸荘に移転」した。

 その一色次郎は「東京空襲」を書き記している。これには下北沢静仙閣、代田西の丸荘などから目撃した空襲の有様が克明に描かれている。ところが、つい最近になって「東京空襲」の他に彼は「日本空襲記」も上梓していることを知った。

 一色次郎が書いた「東京空襲」は空戦や空爆の様子が巧みに描かれている。「日本空襲記」には一帯の様子がもっと克明に書かれているのではないかと思った。どうしても欲しかった。古書検索で調べるとあった。ためらうこともなく発注した。それが、昨日、家に帰ったら届いていた。かなり分厚いものだ。

 昨日は、下北沢の「ザ・スズナリ」で下北沢を巡る問題のシンポジウムが開かれた。13日,14日,15日の三日間続けての六コマのシンポジウムである。昨日の二コマ目の「文化と生活と街と・下北沢」〜歴史が生む磁場〜というタイトルのセッションにパネリストとして参加し、発言した。

 下北沢には様々な価値が参集した。その根幹は鉄道クロスの利便性からだ。それによって多くの価値が集まった。その一例として女色も集まったということを述べた。正月に警報が出て防空壕に入ったら女ばかりでそれが2号さんだった、一色次郎が「東京空襲」で書いていることを紹介した。

 ところが、この「日本空襲記」(文和書房)では昭和19年11月30日のこととしてそれは描かれていた。もちろん言うまでもなく「静仙閣」での出来事だ。

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2007年08月13日

下北沢X物語(919)〜郷愁的随想的文化論補遺〜

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  昨日、読んでいた本にこうあった。

 詰る所は人間生存上の必要上何かの仕事をしなければならないのを、なろう事ならしないで用を足してそうして満足に生きていたいという我儘な料簡、と申しましょうかまたはそうそう身を粉にしてまで働いて生きているんじゃ割に合わない、馬鹿にするない冗談じゃねえという発憤の結果が怪物のように辣腕な器械力と豹変したのだと見れば差支えないでしょう。

 「現代日本の開化」と題されたもので、「明治四十四年八月和歌山において述」と副題が付けられている。講演を稿に起こしたものである。その本のタイトルは「漱石文明論集」(岩波文庫)である。

    利便ということの大本を鋭く衝いた批評である。なろうことなら楽して生きたい、行きたいということでもある。歩くよりも器械に乗って旅する方がはるかに楽である。市電ができて楽になった。が、その楽さ加減は慣れるにつれ我儘が増長する。「もっと速く」という欲望である。

 今、わたしは目の前に写真を置いて眺めている。手前から向こうへ左に緩くカーブしながらどっしりとした築堤が向こうへ伸びている。新しく築かれた築堤は丘にぶつかっている。そこは切り通しで抜けてもっと奥へと続いている。切り通しを挟んだ左右は木々の生い茂る尾根筋の丘だ。樹影から松や杉だということが推察できる。佐山一雄さんが自分の家の前の小田急築堤だと言った写真である。

 眺めているとこれも利便を求めるプロセスだと考えついた。武蔵野の原野を切り開いて鉄道は敷設されようとしている。この路線の北と南には既に鉄道路線が敷設されていた。京王電気軌道であり、玉川電気鉄道である。これらは甲州街道や大山厚木街道に沿った市電タイプの路線だった。駅間距離も短く遅い。それで甲州街道と大山厚木街道の間に郊外型の電車専用路線が新たに切り開かれた。それが小田原急行鉄道であり帝都電鉄だった。速達性がウリである。人々のもっと速くという欲望が満たされたものだった。
 

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2007年08月12日

下北沢X物語(918)〜郷愁的随想的文化論(下)〜

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    荏原一帯をペダルで何度も巡遊していると次第に地形が目に見えてくる。ことに南北を縦断するとよく分かる。丘がうねるような山波として足にも意識されてくる。国木田独歩は「武蔵野」でこう述べている。

 (a)武蔵野には決して禿山はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏している。それも外見には一面平原のようで、むしろ高台の処々が低く窪んで小さな浅い谷をなしているといった方が適当であろう。この谷の底は大概水田である。畑は重に高台にある。高台は林と畑とで様々の区画をなしている。畑は即ち野である。(「岩波文庫」)

 (b)かつて武蔵野と称された一帯は都市開発によって家やビルが建った。丘はすっかり禿げ山となっている。自転車でその地勢を観察しながら行くと、大洋のうねりのように丘が起伏していることがわかる。それも見た目には一面平原であるように見える。が、丘の高低は今でもはっきりと残っている。しかしながら、かつての高台は整地されてかなり削られている。低く窪んだ小さな浅い谷は今もあるが残土やコークスの燃えがらなどで埋められている。高台の多くはアッパーミドルの住む住宅地となっている。所々に赤松や欅が残ってはいる。が、多くは碁盤の目状の舗装道路で区切られている。かつて麦や竹の子が採れたところは中産階級の規格化された家々が建っている。

 国木田独歩が「武蔵野」で書いた(a)をかつての風景として、それを今に当てはめて書き換えてみた。それが後者の(b)である。

 独歩の言う「武蔵野」はなくなりはした。ところが「大洋のうねりのように起伏している」丘波はそのまま残っている。それでも「あの坂はもっと急だった」。「あの丘はもっと高かった」と聞くことがある。近代の進歩発展は丘を削り取り谷を埋めたように思う。

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2007年08月10日

下北沢X物語(917)〜郷愁的随想的文化論(中)〜

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    文化とはその地域独自のものを言う。土地固有のものが地域に独特のものを生んだ。下北沢一番街の八幡湯の男女の出入り口は外とは違っていた。後になってそれではまずいということになって他と同様にした。土地独自のものだった。このことには訳があるに違いない。

 銭湯の数と地域文化というのは結びつく。太子堂地域には今も三つ銭湯がある。北沢にも三つある。八幡湯、石川湯、山の湯である。その一帯を歩き回るとやはりアパートが多い。下北沢周辺にはかつて銭湯はもっと多くあった。宝湯、寿湯、北沢湯などである。下宿屋屋やアパートが多かったからである。一帯の川筋に学生や勤労者が住んでいた。発展途上にあった若者たちは学校を卒業したり、結婚したりして外へ移り住んだ。その彼等にとってはここは懐かしいところである。大釜で茹でられる代一元のラーメン、とんかつ太郎のキャベツの千切りの大盛り、映画館、オデオン座のそばの東北沢四号踏切、映画世界から抜け出ると古びた茶色の小田急電車がキィキィ音を立てて通っていた。映画夢幻が現実とぶつかっていたところだ。

 かつて銭湯が多くあったことは庶民層が多かったからでもある。下北沢に下宿していた井上光晴はこの町を下宿と定食の街と形容していた。谷筋にある下宿やアパートには大勢の若者が住んでいた。それで定食屋が多かった。

 自伝「安藤昇」(ぶんか社 2001年刊)には「朝起きると、下北沢の外食券食堂まで、野田と歩いて食べに行った。客は独身サラリーマン、運転手、勤労者、それに学生がほとんどだった。」と記されている。時は戦後のことである。焼け残った街は代替機能を果たしていた。しもた屋が連れ込み旅館に、出版社に、下宿屋に、飲食店になった。いまでも不思議と数が多いものがある。教会や医院である。これも土地の文化である。

 

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2007年08月09日

下北沢X物語(916)〜郷愁的随想的文化論(上)〜

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  カルチャーという語は響きがいい。が、「Culture」の原義は耕すことで、もともとは土臭い、泥臭いものだ。土地が違えば鍬の入れ方も違う、土地によってそれぞれだ。その地域で営まれている人間的営為が文化だと言える。

 ところが、都市にほとんど農耕民はいない。うちの近所では白子さんがいる。ここでは今も胡瓜やトマトを作っているようだ。
「この黒土は柔らかいのよ、鍬に手応えがないわね、だからね、腰を入れてざっくり掘るのよ。」
 もしも本当にそんな耕し方をしているのならば、まさに文化である。

 荏原一帯と言っていいだろう。ここに住む一般的な都市住民は畑を所持していない。耕しようがない。文化は存立しないのだろうか。

   カルチャーの原義的な「耕す」はなくなった。が、精神的な営為としての鍬入れはある。言葉を耕すことだ。多くの記憶が人の数だけそこかしこに耕されないである。日々自分が日々していることは人の言葉を耕すことである。都市には言葉の畑が至るところにある。言葉の畑から掘り出す発見は格別である。

 昨日、久しぶりに北の文化ステーションに立ち寄った。大月商店である。
「あら、ついさっき今井先生がこられて、帰られたばかりなのよ」
 大月のおばぁちゃんがそう言う。そこに向かいの飯田さんのご主人がアイスを買いに来た。それで彼を交えてしばし雑談をする。この飯田さんの家は古い。大正末期の下北沢略図には載っている。
「八幡湯のこと、うん、そうだね、いまは女が右で、男が左だけど、昔は逆だったな」
「昭和30年代に建て替えられたのよ、下北沢では一番最初の高層ビルよ。今となってはたいしたことはないけどね、昔はここだけにょっきりだったのよ。ああ、それから湯船が男湯の方が大きかったわね」と、おばちゃん。
「新潟の人だよね、風呂屋っていうのは新潟の人って多いよね。」
 飯田さんはアイスを食べながらそんな話をする。
「豆腐屋さんというのも新潟の人って多いですよね。あちらは寒いから、暖かさというのは希望だったのかもしれないね。豆腐屋にしても風呂屋にしても薪を焚きますね。薪を焚いていつでも暖まれるというのは雪国の人には魅力だったのかなぁ?」
 わたしはそんなことを言った。こういうやりとりが言葉の耕しである。

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2007年08月07日

下北沢X物語(915)〜被爆から再起動への挑戦(下)〜

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   広島電鉄千田町変電所は爆心地から二キロ弱のところにあった。建物は倒壊することなく辛うじて残った。そのことが幸いした。瓦礫に埋まった発電機を掘り起こして、それをたった二人の技師が修理しようとした。なんとかして動かそう、それは広島の電車の動力の心臓部であったからだろう。これを動かせばもっと多くの電車も動く。そういう使命感もあってのことだろう。が、放射能の影響を受けて体は思うようには動かなかった。

「放射能の関係があったと思うのですが、体に発疹が出るんですよね。直径二センチか三センチぐらいのものがぽんぽんと体中に何十と出るのです。発疹ですね。それともう一つは下痢、これが止まらないのですよ。そんな中で、食べ物はない、発疹は出とる、下痢はする。」

「そんなどうしようもない状況の中で発電機の分解、修理、絶縁を直してみたりして組み立てるいうようなことをやってみたわけです。が、あのときのことを思い出すと、三十分仕事をしたら、三十分ぐらい寝ころんで、そのようなことの繰り返しであったように思います。そういう状況でしたが、一週間ぐらい経ってようやっと、八月十七日夜にはやっと機械の方は直りました。」

「それから中国電力の方に交渉に行きまして、『直しましたので、線路ももうだいじょうぶですから送電してくださいと』ということをお願いしまして、これは三キロ四キロほど離れたところにあって、電話がないわけですから、四キロ先の中電の変電所まで歩いて行きました。そして、だいたい修理できましたから試験送電してくださいと頼んだのですよ。帰るのにまた一時間かかりますので一時間後に送電してくださいと頼んだんですよ。」

「そうやって送電をやってもらったら、送電を受け付るじゃあありませんか。」
 生き返った発電機の音を石田さんは聞いて、彼も元気になったのではないだろうか。

「それからまた四キロほど歩いて行って、試送電は良好でしたから継続運転に入ってください、と頼んだんですよ。そして、一時間後、十八日の朝からですね、電鉄前から、宇品まで電車が動くようになったんですよ」
  その時の気持ちはメモには記されてはいない。が、宇品線の復旧一番電車が動き始めたときは嬉しかったであろう。二人の電鉄の技師は涙をうっすらと流したのではないかとわたしは思った。

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2007年08月06日

下北沢X物語(914)〜被爆から再起動への挑戦(上)〜

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  人間は忘却する動物である。ゆえに苦しいこと、辛いこと、それを忘れないでいることは難しい。が、被爆経験は忘れてはいけない。原爆のことを書き記すために多くの資料を読んだり、被爆者からの話を聞いたり、その現場を訪れたりした。たった一発の原爆が一瞬にして一帯を破壊し尽くしてしまう。後には炭化した人の群れ、地の果てまでも瓦礫が続く、死体が匂い、煙が燻る、しばらくして大量のハエが発生し、死体にたかった。おぞましい光景だ。思い出したくないことだ、が、それは記憶に留めて伝えなくてはならない。

 今朝は家の近くの「常円寺」に参った。ここに「子育地蔵尊」が祀られている。爆心地から百メートル足らずのところ、広島市細工町西蓮寺に安置されていたものだ。原爆の爆風で倒れた塀の下敷きになったがその顔だけは残った。(写真)それが目黒「常円寺」に祀られ、毎年この被爆地蔵の法要が「原爆忌」に合わせて催されている。
  
 苦しい経験、悲惨な体験は時が経てば間違いなく風化していく。被爆経験がそうである。原子爆弾という兵器の、その惨たらしさが忘れ去られつつある。原爆投下時には5000度から7000度にもなる熱線が発生する。炸裂した瞬間に生じる大爆風が襲い、そればかりか目に見えない放射能が人の体を次第に蝕む。人間に禍々しい被害をもたらす兵器である。それを食らった瞬間、地表にあるすべてが熱線で焼き滅ぼされ、爆風は人を建物を粉みじんに破壊する。しかも後々までも放射能が人を苦しめる。人間性、人権、倫理、道徳などというものは全く通用しない。人間存在を否定する兵器である。
 「やっちゃあいけんことです」と今朝テレビのインタビューに被爆者の一人が応えていた。核兵器は人類にとっては禁じ手である。

 一瞬にして何十万の人々のさりげない日常を奪ってしまうものである。原子爆弾が落とされた後の風景は暗澹たるものだ。宇宙人類の堵殺場である。肉塊黒々、内蔵赤々、とんでもない数の死体がどこまでも続いている。髪は焼けこげ、手足も炭化し、人間であることすら分からない。黒炭だと思っていたら踏みつけるとぐにゃりとした感触がして人の内臓が飛び出てくる。地獄とも言うが地獄を超えている。地獄だと人の形状が分かるが、原爆被害は人間という形状すらとどめない。

 唯一の被爆国とはよく言われることだ。が、それは言葉だけのことであって中身を現していない。爆心地では砂が溶けた。建物疎開に動員された子どもたちは焼けただれて個体の見分けもつかなかった。紙屋町で広電の切符売りをしていた女学校の二人の生徒は、同僚である広島電鉄家政女学校の生徒が何度も探した。が、それは分からずじまいだったと聞いた。実際に人間が溶けて、その人影が僅かに建物に映っていたというのも知られた話だ。

 核は動物の欲望が持つものだ。支配欲だ。欲望を制御して生きることができるのが人間である。が、核に関してはコントロールできないでいる。廃棄とは言う。が、きれい事だけだ。核を棄てる勇気を持てたときに人間は、人間となる。本当に尊厳ということを語ることができる。核は棄てなくてはならない。が、世界の趨勢は全く逆である。核を持つ国が増えている。
 

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2007年08月05日

下北沢X物語(914)〜ダイダラボッチ探索行11〜

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 今日は8月5日だ。62年前の昭和20年8月5日も日曜日だった。
 お昼前後に空襲があった。「P51百六十機飛来、ちょうど午前の前後也。」とこの日のことを柳田国男は「炭焼日記」に記している。P51はアメリカの戦闘機である。硫黄島から飛来したものであろう。

 敵機来襲のことを記した後、「暑くて何もせず、けふも『古事類苑』を読みてくらす」と締めくくっている。民族学者は空襲の不安に怯えながらも資料読みに怠りはなかった。

 代田2の823,北沢川羽根木支流の西のり面のアパート、「西の丸荘」には一色次郎が住んでいた。彼も8月5日のことを書いている。戦闘機ムスタングの飛来は「百五十機ばかり」だと記している。この日の爆撃については事前に予告のビラが撒かれていたようで市民は戦々恐々としていた。

 日々それぞれだ。62年前の今日、代田住まいのサラリーマン作家の彼は浦和まで米の買い出しに行っている。成城住まいの民俗学者は空襲の不安に怯えながらも資料読みを怠ることはなかった。

 今日は暑い日だった。世田谷地域風景資産の「全体交流会」が午後、世田谷区役所第三庁舎「ブライトホール」行われた。ところが全体会で突然にスピーチを振られた。

「かつて国木田独歩が『武蔵野』というエッセイを書いた。彼は現在の渋谷のNHKの並びの西のり面に住んでいた。そこから見える武蔵野は世田谷だった。緑に覆われていた山波だった。ところだがもうそれはなくなった。が、自分は地球二三周分ぐらいひたすら自転車に乗っているので土地の傾きがよくわかる。この一帯を南北に往来していると波のようなうねりが残っている。緑はないけれど、なお地形としての武蔵野は残っている。それぞれの谷底には蛇崩れ川、烏山川、北沢川が流れている。それぞれの谷ののり面、南向き、東向き、それによっても文化が違う。今回推薦された風景は昔の武蔵野の面影というものが多い。森、神社、道などはかつての武蔵野時代の名残だ。個別的にあるのでなくてそれらは実は文化的に繋がっていると思う。ことに国分寺崖線を含め緑が次第に失われている。それは大事にしなくてはいけない……」
 この通りに言ってはいないが。およそこういうことを述べたつもりである。わたしの8月5日だった。

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2007年08月04日

下北沢X物語(913)〜ダイダラボッチ探索行10〜

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  ダイダラボッチとは何か、ますます興味は深まるばかりだ。文献を調べたり、土地の人から話を聞いたりして、それが少しずつ分かりかけてもきた。ところが、分かれば分かるほど問題は単純ではなくなる。むしろ、調べれば調べるほど問題や課題は深遠に、複雑になっていくばかりだ。単なる巨人伝説にとどまらないからである。

 柳田国男は「ダイダラボッチの足跡」という論考で「巨人来往の衝」と見出しを掲げ、その冒頭で「東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地といふことが出来る。」と述べている。それに続けて、「我の前住者は、大昔かつてこの都の青空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去った巨人のあることを想像してゐたのである。」と、その巨人が来往する様の驚嘆を述べている。彼は独りよがりの感動に終わらないように、つぎに「而うして何人が記憶してゐたかは知らぬが、その巨人の名はダイダラ坊であった。」と具体的に述べる。それは代田のダイダラ坊のことである。

 その次に至ってはその伝説の歴史性を説く。つまり、「二百五十年前の著書『紫の一本』によれば、甲州街道は四谷新町のさき、笹塚の手前にダイダ橋がある。大多ぼっちが架けたる橋のよしいひ伝ふ云々とある。」と天和三年(1683)に書かれた戸田茂睡撰の「紫の一本」に触れる。が、子細は語らず「云々」と述べる。実際にはこう記されている。

 だいた橋 たいたほつちか掛たる橋のよしいひ伝ふか、四谷新町先笹塚手前也、肥後国八代領の内に百合若塚といふも有、塚の上に大木有、所の者の云ふ百合若ハ賤しき者なり、大臣といふは大人也、大た共いふ大人にて大力有て強弓を引、よくつふてを打、今大だほつちと云ふハ百合若の事、ほつちとハ礫の事也とぞ、一とせ大風にて右の塚の上の大木倒れて塚倒れて塚崩れたる中に石のかろうと有、内をミるに常の人の首四ツ五ツ合わせたる程の首有、不思議を立ち見るうちに雪霜のことく消えぬ……(中略)……此外にも大たほつちか足跡、大たほつちか力わさの跡爰かしこにあり。

 「紫の一本」のこの箇所はよく引例として使われる。代田橋の所在を「四谷新町先笹塚手前」と書いてあることにいつも引っ掛かっていた。笹塚の手前だから、幡ヶ谷近辺を想像していた。が、「手前」という言葉の意味には「目標とするものの前」という意味がある。「笹塚のほんのちょっと先」という意味であるならば地理的にはよく理解できる。周知のことであろうが、今の京王線の笹塚駅のつぎが代田橋駅だ。

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2007年08月02日

下北沢X物語(912)〜ダイダラボッチ探索行9〜

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  ダイダラボッチには物語が潜んでいる。単なる巨人伝説ではない。このことについて調べたり、考えたりしていくと日本文化の根源といったような問題まで繋がっていくように思える。

 ダイダラボッチという言葉に出会ったのは若いときである。山登りをするために購入した2万5000分の1の地図に、片仮名でその名が地名として記されていた。和名と異なるその音には不思議さを覚えた記憶がある。

 三年前の暮れのことだった。代田「信濃屋」の会議室で「北沢川文化遺産保存の会」立ち上げの準備会を行った。そのときに、出席していた地元の人が「デェダラボッチ」と発音していた。そのアクセントも非常に深く印象に残った。

 「ダイダラボッチ」、不思議な言葉である。表記が片仮名であり、その音も和語にはないものである。この奇妙な言葉への説明がつぎのようになされている。

 国語は原則的に濁音をもって始まることはない、というたてまえからすれば……濁音をもって始まることばは漢字音でなければ、外来語、すなわち異民族語である。……このダイダラボッチということばも異民族のことばでなければならぬ。異民族のことばとしての濁音初発のことばは、前述の国語原則上のわくの外にあるもので、あるいは有史以前からあったと考えてもさしつかえない。これをツングース系のオロッコ語をもって考えると、思い半ばに過ぎるものがある。オロッコ語Dai-nareは巨人の意であるが、これを国語化すればダイダラとなることは言語学上何ら怪しむべきでではない。
「武蔵野の地名」所収 ダイダラボッチ伝説 中島利一郎 新人物往来社 昭和51年刊
 
  ダイダラボッチの音の違和感は異民族言語からくるもの、そう考えればなるほどと思いもする。この論考ではダイダラボッチはオロッコ語に起因することから北方民族との関連が説かれている。歴史的にはそれを「有史以前からの」ものとしている。その根拠としては代田に旧石器時代の遺跡があること、そして、代田八幡に石棒が祀られていることなどが挙げられている。壮大な古代浪漫である。

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2007年08月01日

下北沢X物語(911)〜ダイダラボッチ探索行8〜

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    ダイダラボッチは水路合流点にできた窪地であった。羽根木からの細流と大原からの小川とがぶつかった地点である。そこに池ができた。附近の丘から染み出る湧き水もあってのことだ。人々はそこに水の神様の弁財天を祀った。農業用水、飲料水は貴重であった。ダイダラボッチの流域を潤す水源地帯であった。農民は大切にしたはずだ。

 このダイダラボッチ川の水路沿いには細長く水田があった。そして、代田半島の東のり面からは幾つかの細流がこの川に流れ込んでいた。半島の中程のくびれからも細流がダイダラボッチ川に流れ込みその合流点には池があった。現在の井の頭線下北沢2号踏切の南側である。その池のほとりにはこれも水の神様である「八大龍王」が祀られていた。田畑を潤す水が生活に欠かせなかったからである。

 先だっての「歩く会」では、庭に龍王の痕跡があると言われる家の脇を通った。それで家の呼び鈴を押してみた。ところが応答はなかった。家人はあいにく不在であった。が、その家の奥を見ると確かに石碑が建っている。八大龍王の謂われが彫り込んであったとしたら大きな発見となる。

 この「八大龍王」の下流域を、「守山田圃」と称していたのではないだろうか。代田半島と下北沢半島に挟まれたところだ。そこに今もフラットな地面が形成されている。

 ダイダラボッチ川は代田半島の東のり面の出っ張りにぶつかって方向を南から南東に流れを変えて小田急線にぶつかる。ここも代田半島の東のり面から流れてきた細流があって本流と合流していたところである。やはり池があった。現在のスポーツクラブ、エグザスのあるところだ。その池はかつては田圃だったろう。小田急が開通して一帯が開け、人が住むようになった。それで中原百貨店がここにできた。

 開業時、この屋上には楽隊を置いて。そして鳴り物入りの華々しいセレモニーを行った。ところが下北沢本通りに次第に客を取られたようだ。ついには、ここは廃業し、その跡地はローラースケート場になった。戦争中は軍のオート三輪の倉庫だった。その後は経済書発行の千倉書店の倉庫、それからメンマ製造工場、そして今はフィットネスクラブである。この土地にあった建物の変遷は地域文化の歴史を物語っている。

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