2008年01月

2008年01月31日

下北沢X物語(1029)〜文学詩歌はなぜ鉄道交点に集うのか8〜

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「ついこの間生まれた人がみんな五十歳になっているっていうんだからね……」
 大月のおばあちゃんの実感をおばちゃんがそう言っていた。何かの拍子に人の記憶というのは抜け落ちることがあるのかもしれない。気づいてみるとあっという間に半世紀が経っていた。「一期は夢よ」である。  

 鉄道の交差の利便性が人を集めたことは事実だ。時代によっては食料確保のための利便性という場合もあった。戦後はPX流れの豊富な品物を求めて人々が近隣から集まった。戦中の食料難の時代は逆に散って行った。とくに相模一帯の農村地帯を抜けていく小田急線は買い出し路線として重宝されていた。

 「いっそ小田急で逃げましょう」は、「いっそ小田急で買い出しに」へと変わった。が、その心理の本質は変わらない。裏東海道線の小田急は恋路駆け落ち路線、それが転用される。密かな買い出し路線でもあったようだ。官設鉄道だと官憲の目がうるさいが、裏だとそれが甘いのではないかという計算もあったかもしれない。

 渡辺順三は買い出しの折のエピソードを伝えている。

 当時相模原には陸軍士官学校だかがあって、その中将はそこの校長だということであった。だから彼が帰る時間には、彼のために車を一輌連結し、そして駅に座布団が備えてあるのであろう。彼は毎日、重い荷物を背負って、つり革にぶら下がっている人々を尻目にかけて、二人分以上の座席をとって、平然とふんぞり返っているのである。厚顔無恥というか、無神経というか、私はその中将の顔を穴のあくほど眺めていた。しかしこれが当時の大部分の高級軍人の態度であった。国民の苦しみなど彼らの眼中にはなかったのである。国民は南瓜ばかり食って黄色い顔しているとき、彼らは何不自由なく暖衣飽食し、わが世の春とばかり、肩で風を切って威張り散らしていたのである。高級官僚も同様だったと思う。                          「烈風の中を」渡辺順三  東邦出版社

   裏東海道線としての小田急は軍事的にも重要だったのではないだろうか。市ヶ谷台と相武台を繋ぐ路線、また厚木海軍飛行場も沿線にはあった。昭和二十年の第六次強制疎開は小田急線だけだったとの指摘を地元の 黄金井達夫氏がされておられるが、それは軍事的な意味合いの重要さからではないかと思われる。

 

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2008年01月29日

下北沢X物語(1028)〜文学詩歌はなぜ鉄道交点に集うのか7〜

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 坂には個性がある。まっすぐの坂、くの字型に曲がっている坂、朝日が当たって黄金色に輝く坂もある。それが生活の歴史の中に彩りを添えている。

 南口の古書店「大地堂」前の坂を、戦時中悲しい足音が通って行ったようだ。

 ある日の夜、私の店の前をぞろぞろと小学生の列が通った。燈火管制で町はまっくらであった。先生は提灯で道を照らしながら引率してゆくのである。子供たちは黙々と暗い道をのろのろ歩いて行く姿はあわれであった。

列なして疎開児童の行くさまをあわれと見つつ涙ぐみたり

集団疎開の学童の列がこの町を通りてゆけり夜の十時頃

提灯に道照らされて行く今日を君等は永く忘れざるべし

 その頃私は日記のつもりでときどき二、三首歌を作っていた。この疎開の歌は十九年八月十二日である。   「烈風の中を」渡辺順三  東邦出版社

 歌人は居宅のある二階で休んでいた。が、店の前の通りを多くの足音が上って行く。誰だろうかと思って窓からのぞき見る。すると提灯が見えた。その後を人の列が続いている。燈火管制で真っ暗になった中を黙々と駅方向に向かって歩いていく。足巾が小さくさわさわと後に心を残した歩き方だ。それは子供達だった。先生に引率されてこれから駅まで行くところのようだ。親元を離れてのやむない集団疎開である。
 ぽつんと点った提灯それに先導されて歩く。が、力がはいらない。遠い遠い山の向こうへ行くと言う。どんな生活が待っているかわからない。連れて行かれた彼等はきっとこのときのことを「永く忘れ」ないで、覚えていることだろう。

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2008年01月28日

下北沢X物語(1027)〜文学詩歌はなぜ鉄道交点に集うのか6〜

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    移ろいゆく日々は時間は船である。さまよい漂う船に乗って人は旅を続けている。自身もさまよっている。ときに自転車で路地を踏み分けて行くことがある。また、ときに言語の林に路を見つけては探査をすることもある。そういうプロセスの中で思うことはある。人が生きた痕跡、それは必ずしも分かる必要はないのではないか。そんなことをも思った。

 鉄道交点の詩人痕跡を訪ねたことがきっかけとなって言語作品資料を見直している。その一冊が「渡辺順三全歌集」である。これを読んでいて、つぎの短歌に出会った。

ポストまで一丁ほどの道のりを息あえぎつつわれは行くなり
 雑詠 「新日本歌人」68年1月号 「渡辺順三全歌集」

  七十五歳晩年の作である。歌人が一番街の裏に住んでいたとすればこのポストは北沢局、つまり、大月商店の隣りにあるものに違いない。ポストまで一丁、約110メートルほどである。「息あえぎつつ」というところには実感がある。一番街大月商店へは案外な上りとなる。「来々軒」の前辺りは思いがけず傾斜がある。

 この短歌でいう距離も旧居探しの一つの材料だ。そこで推定旧居としていたところからポストまでどのくらいの距離があるのか「マップウェア住宅地図ソフト」で測ってみた。すると160メートルほどある。一丁半だ。距離が長すぎる。先だっての実踏でも旧居については異論があった。確かに渡辺という人はそこに住んでいた。それは同じ渡辺でも短歌ではなく音楽の先生だった、そう同行していた地元の富安さんがいう。音違いである。

 このことは気になっていた。それで大月商店に行ったときその話をしたらおばちゃんが確かめに行こうという。この頃はかつてのような突撃精神が薄れかけている。分からなければ分からなくてもいいではないかという思いが芽生えても来ていた。が、おばちゃんの情熱に負けて二人で行った。Fさんのところである。

「確かに渡辺という姓の人が住んでいました。けれどもそういう歌人とかではありませんでしたよ。音楽の先生だったようですね。」
 出てこられた奥さん、それにご主人がこもごもにそう答えられた。富安さんの言っていたことは合っていた。これでまた分からなくなってしまった。

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2008年01月26日

下北沢X物語(1026)〜文学詩歌はなぜ鉄道交点に集うのか5〜

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     木々の緑がたたなづく武蔵野の痕跡はすっかり消えてしまった。が、複雑に入り組んだ谷の様相は都市化した荏原地域でも痕跡が随所に残っている。丘のスロープを上って下りると家の陰に窪みに沿って薄暗い水路が覗き見えることはよくある。かつてのハケ跡である。

 丘を上りきって後ろを振り返ると暗渠部分の凹みを中心にしたサラダボールの形状が見事に見えることがある。武蔵野景観の残映である。そういうボールの凹みには折々坂から下りてきた匂いが漂っていることもある。

 武蔵野のスロープは各所に残っている。その丘の斜度は文化である。向きによって光の当たり方が違う、斜度によって音が明らかに違う。自転車のギアの切り替えも違ってくる。世田谷城続きの台地に上る若林二丁目の坂は30回漕いでようやく坂上に達する。すると駒沢線鉄塔56号が向こうに見えて、その下に紅梅の赤い点を見ることもある。この鉄塔はようやく西半分の塗装が終わったようだ。

 詩の検証、これはしなくてもいいことである。詩は言語芸術である。それだけで完結するものである。が、当人の好みでその場所を想像したり、調べたりするのは一向に構わない。自由である。わたしは好奇心から昨日南口へ行った。道は緩やかに右に雁行していた。斜度がおもむろにきつくなっていく。上から下りてくるとき旧大地堂前あたりまではその力を引き摺ってくるのではないかと思った。詩語の源を確かめたように感じた。

 

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2008年01月25日

下北沢X物語(1025)〜文学詩歌はなぜ鉄道交点に集うのか4〜

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 詩歌はリズムである。その切っ先が鋭いと人に伝わりもする。鉄道交点一帯は谷がある、スロープが多い。教会のオルガンの音が丘上から転がって来て響く、あるいは坂の上り下りに人の音が響きもする。

 言葉というものは面白いものだ。ふいととあることを思いついて言葉にしてしまう。すると見えないものが見えてきもする。それは「坂の響きの抒情詩に及ぼす影響」である。思いつきにしては説得力があるようにも思う。実感、直感である。が、妄想かもしれない。

 渡辺順三の短歌集「烈風の街」を読んだ。この風は激しく吹き荒れる時代の風である。弾圧の嵐である。

 昭和十六年十二月九日早朝、すなはち太平洋戦争の起こつた翌朝、私は警視庁特高課員数名に襲はれて、厳重な家宅捜査を受けた上、世田谷署に連行された。米英との戦争が始まれば、反戦的な傾向の連中が検挙されることは予想してゐたが、私なんかの所までそれが及ぼうとは考へなかつた。あの無茶な戦争を強行するために、彼等軍閥政府は、私のやうな吹けば飛ぶほどの人間をも自由にしておけなかつたのである。
 「渡辺順三全歌集」 短歌新聞社 平成8年刊

 家宅捜査を受けたのは店舗兼居宅であろう。「下北沢南口通りに新築の二階家で、間口二間の店舗」に在住していた時代である。開戦によって詩人に逮捕の手が及んだ。思想弾圧の烈風が吹き始めた。鉄道交点にである。

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2008年01月23日

下北沢X物語(1024)〜文学詩歌はなぜ鉄道交点に集うのか3〜

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   近代は細分化の歴史でもある。時代のうねりとともに様々な思考や思想が生まれて行った。文学の傾向も同じである。鉄道交点の文芸参集は鉄道開通と機を一にしている。昭和十年代前後から参集しはじめている。様々な文芸ジャンルと系統……新感覚派、無頼派、プロレタリア文学、四季派、民衆派、人間探求派などなどである。そういう網羅的な混在、混交が却って面白い。

 鉄道交点の詩人巡りは「八幡湯」常連だった民衆派詩人福田正夫からだった。つぎはプロレタリア文学である。プロレタリア短歌の先駆けとされている渡辺順三旧居を巡った。旧番地は北沢三丁目九五三番地である。近くの米屋さんであらかじめ確かめていた所に行った。が、異論があった。
「これは確かに渡辺さんですけど、音楽の先生でしたよ。」
 かつてこの近所に住んでいた富安さんがそう言う。
「旧番地的には合っていて、米屋さんもそう言うし、どうなんだろうか?」
「もしかしてここの一室に住んでいたということもあるかもしれませんね」
 確定旧居が不確定旧居となってしまった。地元の富安さんに改めて調べてもらうことになった。が、旧番地からすると訪ねた先あたりであることは間違いない。
「ここら辺りは2号さんが、多くおられたんですよ。」
 彼女は表通りに住んでいた。ここはその裏通り、これも密かな真実である。プロレタリア文学と2号さん、思想的には結びつかないが居住空間としては想像的には結びつく。野屋敷の丘の西のり面である。

 「現代日本文学大事典」(明治書院)で渡辺順三を調べた。「困難な時代の流れのなかでプロレタリア短歌運動に積極的に働き、この運動の忘れられぬ存在となった」とあり、「歌風は現実的な生活感情にあふれていて、啄木以来の生活派の正統を受け継いでいる。」とある。この渡辺順三を対象とした研究書は多い。

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2008年01月22日

下北沢X物語(1023)〜文学詩歌はなぜ鉄道交点に集うのか2〜

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 人間はふれ合いの動物だ。他者との関わりで生きている。
 友人知己がいれば来る。土地に固有の特色があってそこに文芸詩歌、詩人、歌人、俳人、あるいは小説家が集まる。とすれば詩人がいるから詩人が来る。小説家がいるから小説家が来る。これはごく当たり前のことであろう。

 固有の特色、鉄道交点になぜ文学詩歌は集まるのか。一つの理由として如上のことは当てはまる。詩人の福田正夫がいたから詩人の白鳥省吾が見舞いに来た。が、それだけではなぜ詩人が参集するのかの答えとはならない。

 「父福田正夫 雷雨の日まで」、詩人の父のことを書き記したエッセイ、これは娘の福田美鈴さんが書いたものだ。昭和二十年代後半の野屋敷、北沢三丁目の町の様子がこれを通して透けて見えもする。旧番地九二五辺りの土地の文化である。

 石井さんという老医はあの頃七十歳に近かった。我が家から二三分の立派な家で開業する、軍医あがりの、小がらな、実にやさしいお医者さんだった。短歌をやっていた。
 父が主宰した「北沢どんぐり句会」に、満岡照子さんという北海道出身の歌人がいた。この人を中心に「月代(つきしろ)」という小さな歌会ができた。主に、句会と同じ顔ぶれの人たちでやりはじめ、母も加わった。石井さんは句会には入っていなかったが「月代」に入ったのは、もともと短歌を長くやっていたかららしい。父とは、こんな関係で知り合った人であった。
           「父福田正夫 雷雨の日まで」福田美鈴著 教育出版センター

  近辺の人々の趣向であるとかどんな人が住んでいたかが垣間見える。軍医上がりの医者が野屋敷で開業している。一帯は屋敷町である。彼の焼け残った家は自分の持ち家であろう。敗戦によって軍役を解除された軍医はここで開業した。その彼は和歌をたしなんだ。趣味趣向である。それは各人各様だ。が、一帯の土壌として短歌や俳句をたしなむ人が居たということは言える。手慰みである。それを求める人がいる、楽しみが他になかったということも言える。そういうことから結社が出来た。

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rail777 at 20:44|Permalink│Comments(2)││学術&芸術 | 地域文化

2008年01月20日

下北沢X物語(1022)〜文学詩歌はなぜ鉄道交点に集うのか〜

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「なぜ文学詩歌がこの鉄道交点に集まるのか、それは謎ですね、その理由はどうしてなんでしょうか、そういう疑問を持って歩いてみるといいですね?」
 昨日の午後のことだ。下北沢駅北口に集まった人にそう伝えた。自分にもよく分からないことである。

 詩歌の参集は一つの面白い現象である。鉄道交点は多くの方向からさまざまな価値が吹き溜まってくる場所である。詩歌が集まって来たとしても不思議ではない。が、詩や歌が集まるというのは格別に面白くかつ興味深いことだ。具体的には短歌、俳句、連句、自由詩である。響きのいい言葉の群れだ。これに加えて作詞というジャンルもある。詩人のみならず作詞家も少なくない。丘から谷に転げ落ちて行く言葉は切れ味がいいのだろうか。あるいは谷間に転げ落ちてよく反響するのだろうか。

 下北沢一帯の詩人旧居を巡る小さな旅である。渡辺順三、中村草田男、福田正夫、清水乙女、萩原朔太郎(下北沢)、堀内通孝、中村汀女(2)、北川冬彦(伝旧居跡)、中村汀女(1)、萩原朔太郎(代田)の順序である。三好達治、加藤楸邨も加えたかったがこれだと一日がかりとなるのでコースには組み込まなかった。

 まずは、一番街の大月商店に立ち寄った。そして、はす向かいの「八幡湯」の前に行った。民衆詩人は住まいからこの銭湯が近かった。ここにそれでよく通っていたようだ。そこで、持って来ていた本の一節を紹介した。

 鈴蘭通りの「やはた湯」、そこで父は、おそらくずっと年長の人ばかりの、ご隠居さん達と親しくなった。隣家の二階家は、わが家の家主の家で、老夫婦で下宿屋を営んでいた。七十歳を過ぎていた主人も一番湯通いの常連で、急速に父と親しくなっていった。父は、風呂屋の開く時間が近づくと、「まだ早すぎるのに」という母や私の声を後に、出かけて行ってしまう。しびれた左手に風呂道具をかかえ、右手でステッキをつき、膝のあたりがおぼつかない足どりの、背が低くなった、父の姿。
 「父福田正夫 雷雨の日まで」福田美鈴著 教育出版センター

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2008年01月19日

下北沢X物語(1021)〜文化の営みの痕跡をどう残すか〜

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 鉄道近代は鉄道交点に人を多く集めた。文化は人が多く集まってくれば濃厚なものが出来上がってくる。が、濃すぎてしまうとその価値は希薄になってしまう。荏原地域で亡くなるとその生はよほどでないと顕彰されはしない。痕跡すらも留められない。不幸なことである。

   大阪市に生まれ育った三好達治は詩人としての「功績を顕彰するために」大阪市は文学碑を建立している。幼少の頃育った兵庫県三田市、疎開した福井県坂井市三国にも文学碑はある。一時寄留していた小田原市にもその旧居跡が石碑で遺されている。

 三好達治の文学碑はこれらの地域にとどまらず、岩手県、長野県、三重県、広島県などにもあるようだ。全国区レベルの展開である。岩波文庫の「三好達治詩集」表紙解説には「昭和期を代表する最大の抒情詩人と評される」と記されている。名だたる詩人である。

 大阪市はこの詩人としての功績を顕彰するために文学碑を建立した。世田谷区は詩人が最晩年を送った地には関心がない。現在地にはなにもない。それは抒情詩人の師匠についても当てはまる。世田谷代田鉄塔61号下に居住していた萩原朔太郎である。日本の口語自由詩を確立した詩人である。彼の場合は故郷に「萩原朔太郎記念水と緑と詩のまち前橋文学館」が設けられている。萩原朔太郎の文学碑はこの群馬県内に十基もある。

 文学碑を残すことがベストだとは私自身思わない。それよりもむしろ居住痕跡の方が大事であるように思える。一例を挙げる。下代田に住んでいた加藤楸邨に「崖下の家」という一連の作品がある。(「雪後の天」)その中に「北風(きた)の丘坂なりにわが庭となる」という一句がある。実際のその場に行ってみるとなるほど北風が吹いて、壁に当たって吹き返したところが俳人の庭だったんだと納得できる。そういう痕跡は小さくてもいいから標に刻んで残して置きたいと思う。

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2008年01月17日

下北沢X物語(1020)〜ペダル巡遊地形文化論2〜

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  文学のドラマはど真ん中よりもその縁辺にある。詩人最晩年の地にはなにもない。が、その外の地方には至る所に詩人の痕跡は刻まれている。

 淡島通りから北に延びる細い路地の途中に三好達治寓居跡はある。表通りから入った路地裏である。北のり面で緩やかな下りとなっている。その途中の右手に空き地がある。詩人が最晩年を送った地である。駐車場である。敷地の片隅に小さな畑があるのみだ。

 この地を探すのに半年以上かかった。旧番地「世田谷区代田一ノ三一三岩沢方」というのはなかなか分からなかった。分かってみると自身が通勤の途中いつも通っていた路地である。もちろんここには標も何もない。

 三好達治は小田原にいたことがある。そこには詩人旧居を示す石碑が建っていた。福井三国も詩人が戦時中疎開していたところだ。昨年その跡を訪ねて行った。そこには詩碑とともに旧居を示す表示もあった。

 大阪市高槻市は三好達治の故郷である。ここにある本澄寺に彼は眠っている。住職は甥に当たる人のようだ。その方が達治の遺品などを集めて「三好達治記念館」を作られたそうである。大阪市は「北区中之島一丁目中之島公園内」に「三好達治文学碑」を建てている。
   大阪市に生まれ大阪市に育った詩人三好達治は、戦前戦後を通じて日本の近代詩史に偉大な功績を残し、昭和を代表する詩人である。大阪市では、三好達治の功績を顕彰するため、昭和56年に中之島に文学碑「乳母車」建立しており、広く市民に親しまれている。

 水上勉は三好達治の詩集「測量船」に青年期に「酩酊した」と述べている。彼がたまたま兵庫県三田市を訪れたときのことが「醍醐の桜」というエッセイに描かれている。通りかかったとある寺の門の脇に「三好達治幼少時住居」と記されているのを見つけてそっと中を窺ったと記している。

 福井の三国に三好達治は疎開して住んでいた。その時のことに関連する話を水上勉がつぎのように書き記している。

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2008年01月16日

下北沢X物語(1019)〜ペダル巡遊地形文化論1〜

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 自転車での巡遊はゆっくり行くに限る。坂をのんびりと上ったり、下ったりしているうちに傾斜を足が記憶する。それが文化発掘へのヒントに繋がることがある。

 自宅から北へ向かうとき、二通りのコースがある。
 一つはまずは呑川柿ノ木坂支流を遡る。が、昨日だった。この上流部を数日ぶりに通ったときに驚いた。いつも鋭い目を光らせている警備の警官がすっかりいなくなっていた。ついこの間までは一帯の路地の出入り口のすべてに警官が立っていた。相当な数の警官である。こちらは特にやましい点はない。が、通る度に眼光を向けられるのは気持ちのいいものではない。この変化は日本国の枢要人物が私邸から官邸に転居したことによるものだ。

    国道246号と環七の交わる上馬の交差点を渡って、ここからは環七の東側の路地道を行く。十数年通っていてこの間気づいたことがある。路地道が蛇崩川の暗渠を渡るところがある。そこに金属製のポールが立っていて「鎌倉山」と記してあった。「鎌倉山橋」の跡ということだろう。その道をまっすぐにだらだら坂を上って行くと世田谷通りにぶつかる。その少し手前の左にお堂があって庚申塔が祀られている。すぐそばには富士講記念碑も建っている。丘のサミットであることからこの一帯を鎌倉山というのだろう。あるいはこの道が鎌倉通なのかもしれないと思った。

 若林一丁目の丘上は世田谷若葉幼稚園を左に見ていく。すると右手に大欅が現れる。敷地がかなり広い。Kという古くからの地主の家である。そこから北へは下りになって某電力会社の寮の脇の道を抜ける。下りきると一帯の趣が異なる。敷地割りがかなり小さくて雑然とした感じで建物がある。かつての畑、あるいは田の跡ではないかと思われる。

 すぐに「世田谷線」の太子堂四号踏切にかかる。若林方向へ線路は左にカーブしている。時に朝日が、時に夕日がその踏面に当たって光っている。馬車軌道の曲線はサラブレッドのお尻のような優美さがある。

 やがて烏山川遊歩道を突っ切る。そこに「耕整橋跡」と記された石碑が建っている。恐らく田畑の耕地整理を行ったときに架けられた橋であろう。橋跡を過ぎると若林二丁目の急坂にかかる。この坂と平行して鉄塔駒沢線がある。これも昨日のことだ。ずっと先に見える鉄塔56号がすっぽりと工事用のシートで覆われていた。「ついに来たかと思った。」世田谷通りを渡る駒沢線は環境調和型の単管鉄塔に建て替えられている。56号とその向こうの57号は淡島通りを跨ぐ鉄塔である。世田谷通りを跨ぐ鉄塔と同じように建て替えられるのかもしれない。そう直感した。

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2008年01月14日

下北沢X物語(1018)〜言葉を巡る果てしない旅〜

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 時や時間は言葉と出会う、巡り会う旅である。いい言葉に出会って安堵したり、面白い言葉にめぐり会って感銘を受けたりする。時に悲しい言葉にも会うこともある。
「広島になんで原爆を落としたんじゃろうか?」
 この間、広島に聞き書きに行って出会った言葉である。六十二年振りに被爆経験を語られた広島電鉄家政女学校の三期生のIさんがぽつりとそう洩らされた。後遺症に悩みながら生きて来られた人である。被爆して二日目に再度市内にトラックで入ったそうだ。そのときに彼女が沿道で目撃したという光景は忘れることのできない証言だ。行っても行っても髑髏が並んでいる、道沿いに続くおぞましくかつ残酷な眺めである。

 「原爆神話の五十年」(中公新書)を読んでいたら、「一部の人々は、アメリカ人にとってはアジア人を爆撃する方が�倏鮨有瓩鯒�撃するよりずっと簡単だったから、ドイツには決して原爆を落とさなかったろうと主張している」という見方が記されていた。人種偏見的な見方からの原爆投下は一つの要素としてあったとの指摘をしている。B29による通常爆撃でほとんど壊滅的な被害を受けていた日本の諸都市である。その上の原爆投下である。それが今なお被爆者を苦しめている。

 真珠湾奇襲攻撃は素早かった。が、ポツダム宣言の受諾は遅かった。そのことは原爆投下に何らかの影響を及ぼしていることは確かだろう。が、日本の戦争責任は曖昧なままだ。前に東條由布子さんが言っておられた。祖父は天皇の命を受けて不戦の方向で持っていくつもりだったが開戦という流れはもはや止める術もなかったと。

 大きな流れは止められない。結局のところ中庸か、折衷、そこのところを選んで、そして進んでいく。それが我々の民族性なのかもしれない。遠藤周作は「日本人の道徳意識」で次のように述べている。

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2008年01月13日

下北沢X物語(1017)〜Xクロスを巡る初春の旅6〜

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   一軒の古本屋から始まった一人の作家の人生、それが鉄道交点の「白樺書院」から始まった。遠藤周作である。書店の書棚から手にした一冊の本、それが機縁となって、一人の著者と出会った。が、人間の一生というのは波乱はつきものだ。一筋縄ではいかない。この著者を師として大学で学びたいと彼は思った。ところが佐藤朔講師は病休で一年間休講だと知る。

 思い切って佐藤講師に手紙を書いた。自分の気持をのべ、先生のお宅に伺ってご指導いただきたいという内容だった。先生から親切な御返事を頂き、いつでもたずねて来いというお言葉だった。
 その日から一週に一度、永福町にある先生のお宅に伺った。本のぎっしり並んだ応接間で、先生は私に、二十世紀のカトリック文学を勉強してはどうか、と奨めてくださった。
                        (「我が師・佐藤朔先生」集英社文庫)

 一冊の本から一人の著書。一通の手紙から一本の線路へと結びついた。永福町は帝都線の途中駅である。往時、既に井の頭線と呼称は変えられているが帝都線の方が名前として面白い。下北沢の「白樺書院」から、永福町の佐藤朔講師宅へは帝都線が取り持つことになった。「本のぎっしり並んだ応接間」というのも帝都線ラインの一つの表象かもしれない。

 遠藤周作の知的好奇心は師によって導かれた「カトリック文学を勉強してはどうか」という方向の示唆である。それは後に「沈黙」に代表されるように日本の風土にキリスト教が浸透していく過程で起こったドラマへとなっていく。

 戦後、カトリック世田谷教会には北沢の「丘にそびえる十字架が神の国の到来のしるしとして、とらえられたようで、多くの人びとが入信のため当教会に訪れてきた。主日のミサでは200人ほどの信者が集まった」と信徒の今井兼介氏は記している。が、現今往時の賑わいはない。遠藤周作も先のエッセイ「お茶をのみながら」でも「カトリック教会から神父がやめ、その数が減っていく話はあちこちで耳にした」と記し、「日本の基督教界は衰弱の一途をたどりつつある」と述べている。彼はこう締めくくっている。

 

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2008年01月11日

下北沢X物語(1016)〜Xクロスを巡る初春の旅5〜

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   鉄道交点の古書店のエピソードは土地の文化と結びついている。
 立ち寄った古本屋の主人がプロレタリア歌人だったと書いていたのは井上光晴である。「大地堂」のことだ。松林宗恵監督はこの店で本を眺めている三好達治の姿を見たとも言っていた。が、なんといっても逸話が多く眠る古書店は「白樺書院」である。遠藤周作も折々にここを覗きに来ていた。それによって彼の進路を決定づける書物に出会ったようだ。その逸話は「お茶を飲みながら」というエッセイに書き記されていた。
 昭和二十年、彼は慶応の仏文科に進学した。

 慶應の仏文科には佐藤朔という先生がいる。その先生について勉強したいと思ったからである。
 佐藤先生の名を知ったのは偶然だった。勤労動員でくたびれたある日、私は下北沢の白樺書店という古本屋でたまたま一冊の本をみつけた。当時の古本屋には読みたいような書物はほとんど姿を消して、駄本ばかりが棚に並べていたものだが、その一冊の本が偶然あったということが私のそれからには大きな影響を与えるとは、その時は夢にも考えなかったのである。
 「フランス文学素描」という本をぱらぱらとめくり、そして、その著書紹介の小さな活字を見てやがて進学する三田の講師の著作だと知ると、私はすぐにそれを買い求めた。その夜、一気に読了し、私は仏文科に進もうと決心した。それほどその本は面白く、充実していたのである。(「我が師・佐藤朔先生」集英社文庫)

   作家の略年譜を見て推察したことだ。彼は経堂に住んでいて、川崎の工場に勤労動員で行っていたようだ。渋谷から帝都線で来て、下北沢で小田急に乗り換えていたのだろうか。彼は日々の勤労動員で疲れていて、途中の下北沢で降りて気晴らしをしようとした。北口へ出て栄通を通り、まっすぐ行くと本通りだ。下北沢を訪れたヒットラーユーゲントの一行はここで左に折れた。本通りをデモンストレーションをするためだ。が、彼はその必要はない。右手に意志的に曲がって東北沢四号踏切方向へ行く。目当てがあったからだ。鬱積した気を散じたい知性は活字を求める。「白樺書院」への道である。

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2008年01月10日

下北沢X物語(1015)〜Xクロスを巡る初春の旅4〜

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 鉄道クロスはちょっと下車して用を足すということにおいて便利である。井の頭線ホームの看板はそのことを象徴的に表しているように思える。ちょっと下車して治療をする。そういう需要があるから看板を出しているのだろう。医院、診療所、病院など、ほとんどの診療科が看板広告に出ている。親不知らずが痛み出したときに、気分のひどい落ち込みに悩んでいるときに、歯科の看板や心療内科の広告が出ていれば自然に目に付く。その広告効果は抜群である。

 ちょっと下車して歯を治すなどということはよくあることだろう。ちょっと下車して古本屋に立ち寄ることもあることだろう。前に遠藤周作のことを教えてくれた人がいた。「狐狸庵蔵書録」である。「思いがけぬ本を、下北沢とか三軒茶屋とか荻窪あたりの小さな古本屋で見つけた時の嬉しさは、今でも忘れられぬ。」というくだりだ。

 古本屋がどこに何軒あるかというのも都市文化を考察する上での観点だ。ゆえに狐狸庵先生いうところの下北沢、三軒茶屋、荻窪の古本屋も気になる。活字を求める知性が集まる所という見方もできる。彼が立ち寄った下北沢の小さな古本屋というのはどこだったのだろうか。候補として挙がるのは南口の幻游社や大地堂、北口本通りでは白樺書院である。

「雨過山房の水曜会に出た後、本通りに立ち寄って本を漁るのが楽しみでしたね。わたしが住んでいた下町には古本屋はなかったのですよ。昭和十年代のことですが、今と違って本通りには二軒ありましたね。」
 映画プロデューサーだった森栄晃氏はかつてそんな話をしていた。それを思い出して自分の部屋の壁に貼ってある昭和三十二年の街路図を見ると、本通り十字路、「かどや」のはす向かいに本屋があった。「荻生書店」とある。ここであろうか。

 南口の「大地堂」は今はもうない。プロレタリア歌人の渡辺順三が営んでいた古本屋だ。後に人に譲って北沢三丁目に住んでいたと聞いていた。ついこの間、この歌人の消息を知っている同三丁目の矢島精米店の脇を通った。そのときにこの作家の居住場所を主人に尋ねたらいともたやすく分かった。息子さんが近所に住んでおられるとも教わった。いい機会だと思って他の居住者を知らないかと聞いてみた。
「文学の関係は知りませんね。軍人は知っていますよ。確かかなり階級は上でした。海軍のTさんは少尉だったかな、その三号踏切の上、陸軍のOさんは茶沢通り入ったところのすぐですね」

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2008年01月08日

下北沢X物語(1014)〜Xクロスを巡る初春の旅3〜

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 インターネットはあおりを食らうことがよくある。昨日の当ブログへの来訪者数が右下に出ている。89名である。いつもよりも多い。理由の一つは新年明けで社会が動き出し、職場でのパソコンが稼働しはじめたからである。もう一つは踏切事故の影響だ。東海道本線の鎌倉道踏切で人身事故が起こった。これによって電車の運休も出た模様である。

 一般的なインターネット検索が増えたこと、そして、起こった事故への好奇心から「鎌倉道踏切」がネットで調べられたことによるものだ。後者は当方の誤りである。下北沢三号踏切のことを過去記事に記している。これは「鎌倉通踏切」と書き記すべきなのに「鎌倉道踏切」と書き記してしまった。そのことから検索者は藤沢の当該踏切だと錯誤して当ブログを開いたものだろう。鉄道Xクロスに不慣れな時代の記述である。

 かつて自転車通勤していた時、小田急踏切は日常的に渡っていた。この頃は北の文化ステーションの大月商店に行く時に渡る程度だ。それでも下北沢の小田急踏切は地下化工事が進行していて景色が日々変化している。昨日、東北沢三号踏切を渡ろうとしてひょいと下北沢駅方向を眺めた。すると線路の山側に新しい軌道敷きができていた。

 鉄道交点の街も日々刻々変化している。昨日、当ブログにコメントがあって一番街の「八百幸」が年末に閉店してしまったとあった。これで下北沢一番街から生鮮三品を商う店は消えた。かつては近隣から多くの人を集めていた栄光の商店街である。今は東京オリンピックを招致する赤い旗が通りに揺らめいている。東京都商店街連合会の名が入ったこの旗は荏原一帯のあちこちの商店街で掲げられている。

 わたしはオリンピックを東京で二度開催する理由が分からない。首都東京は繁栄して一方で地方は没落している。一極集中の弊害である。地方へ活力をということで福岡で五輪が開催されるのならまだ分かる。世界の国々の中でもまだ一度も開催されていない都市も多くあるだろうのに、なぜ東京で五輪を再度開催する必要があるのだろうか。わたしにはそこが納得できない。

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2008年01月07日

下北沢X物語(1013)〜地球温暖化と武蔵野逍遙〜

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 日々大して遠出もせず、家より自転車か徒歩で一二時間ぐらいの半径をもって包摂されるところのいわゆる武蔵野に、かつての町の賑わいや野の閑雅さを探るなどをするのは、この上ない身心の充養といわなくてはならない。武蔵野の面影を微かに宿した丘や谷の膨らみを自転車で静かに巡遊する。そして、わずかばかり残った緑の木々や謂われのある石塔や石像、社などを眺め、そこに伝えられる歴史と民族とを探り、清澄な眼と謙虚な心と、そしてしみ出るような郷愁の味わいを噛みしめることは現世の至幸というべきである。

   先日図書館から題名に興味を惹かれて「武蔵野随筆」という本を借りてきた。昭和十七年発行のものである。巻頭エッセイが逗子八郎の「山野逍遙について」である。

 言葉は時代を映す鏡だ。逗子八郎は遠くの観光地に行くよりも身近な自然、武蔵野を見直せと述べている。つまり、戦争中のことで交通機関は輸送力が窮屈になっている。だから無駄な遠出を避けるべきである。そのことから武蔵野の面白さを説いている。

  昭和十七年(1943)は戦争という危難の時代だった。今年、平成二十年(2008)はもっと規模が拡大した危難の年である。テレビ、新聞などのマスコミはこの新年から地球環境問題を一斉に取り上げている。地球温暖化問題である。
 我々がこれまで薄々気づいてきたことがある。わたし自身もこの十数年自転車で職場までの往復二十キロを毎日自転車で通っていた。日々肌身で天候を感じていた。前は今頃であれば凍りついた路面で度々スリップをしていた。冬の朝は手袋三枚していても手がかじかんだ。が、痛いと感じる寒気はなくなった。顕著なのは雨の降り方である。季節かまわずに激しい雨が襲って来るようになった。激しく叩きつける雨だ。まるで熱帯のスコールである。瞬く間に道が川となるという場面に度々遭遇した。いつまでも妙に暖かいというのも不自然だった。ところが今年は珍しく寒い。ここ二三年の現象で言えばこの時期梅がもう開花していた。暖かい時には十二月に既に咲いていた。

 情報化社会は我々に世界の隅々で起こっている酷い出来事を知らせてくれる。気候の温暖化がぬきさしならない状況に陥っている。戦争難民よりも環境難民が遙かに多くなっていることは驚きだ。干ばつによる被害、巨大モンスーン、台風、ハリケーンの来襲による被害、氷河の溶解によって起こる洪水被害、海水面上昇による耕作地の浸食被害、海水温度上昇による生態系の変化、それによる漁獲の低下などなど、数え上げられないほどの具体的な被害を伝えている。

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2008年01月05日

下北沢X物語(1012)〜Xクロスを巡る初春の旅2〜

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  Xクロスを巡る小さな旅である。途中寄り道をして「世田谷山崎1405」を探訪した。
 「生きた、書いた、恋した」、これは宇野千代の生き様を表す言葉である。奔放な性と生、東郷青児との衝動的な恋愛行動は彼女の境涯の一断面を言い表す典型的なエピソードである。

 東郷青児と宇野千代が一時住んだという世田谷山崎、その当該番地らしきところをぐるぐる巡った。が、その旧番地を特定することはできなかった。それでも見えてくるものがあった。その場所が旧堀之内道に近いことだった。そのことから大森から世田谷山崎へのドライブ駆け落ち行に興味を持った。昭和四年のことだ。

 宇野千代は尾崎士郎と馬込に暮らしていた。「罌粟はなぜ朱い」、これは梶井基次郎につけてもらった新聞小説の題である。それを彼女は書いていた。この小説の展開の中で「一組の男女がガス情死する場面を設定していた」。そのことからつい最近情死事件を起こして話題になっていた東郷青児に取材できないかと電話をかけた。

 宜かった。あれこれと考えたりしないで、東郷に電話して宜かった、と私は思った「白夜」という酒場はすぐに分かった。緑色のペンキを塗った、小さな店であった。扉をあけると、一目でそれを分かる東郷青児が、首に白い繃帯を巻いたままで出て来た。「仲間が大勢いるんですよ。どうですか、一緒にこれから、僕の家に来ませんか」と言ったと思うと、そのまま、通りかかった車に私を乗せて、走り出したではないか。
  「生きていく私」宇野千代 角川文庫

 「東郷青児と宇野千代の恋の逃避行における荏原地域の交通網の発達」という論文が書けそうである。大森から世田谷山崎へ行くには常套的な手段からすれば鉄道である。大森停車場から品川まで行き、ここで山手線に乗り換える。渋谷まで行って玉電で若林までか、日東乗合自動車で世田谷町役場までか。あるいは新宿まで行って小田急か、しかし現在の最寄り駅の梅ヶ丘駅はない。一つ手前の世田谷中原駅が最寄り駅だったのかもしれない。ここで堀之内道と交差していた。

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2008年01月04日

下北沢X物語(1011)〜Xクロスを巡る初春の旅1〜

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 今日、四日は仕事始めだ。わたしには文化探査事始めだ。それで鉄道クロスを巡る自転車巡遊に出た。低炭素時代の幕開けにふさわしい乗り物だ。

 クロスを巡る旅には幾つかのコースがある。今日は、世田谷区役所、国士舘の脇を北へ通り抜ける道を行った。行政機関や大学は丘上にある。かつては大夫山と呼ばれた地域だ。それを下ると、「山の崎」、世田谷山崎である。この辺りで前々から気になっている旧番地がある。「世田谷山崎1405番地」である。

 ひたむきに恋に生きた女流作家は、「ともあれ、わたしはその時、車で東郷の家へ着いた。木立の深い邸だった。」と記している。「木立の深い邸」が「世田谷山崎1405番地」である。

 男と女とは大森駅前の「白夜」という酒場で出会って意気投合した。男の誘いに応じて女は車に乗った。昭和四年のことである。とすれば車は堀之内道を北上し、滝坂道にぶつかって左折した。そしてしばらく西へ行くと家に着いた。男は東郷青児であり、女は宇野千代である。夜が更けて寝る段になって「こんな蒲団しかないが」と言って「血痕がこびりついて、がりがりになった」夜具を取り出した。西欧帰りの画家は心中事件を起こしたばかりである。その生々しい跡の残る蒲団に同衾した。

 現在の世田谷山崎中学西隣の二筋目の路地の一角が1405番地に当たるようだ。それで一帯をぐるりと回った。丘の南のり面である。ところが人は誰もいない。かつては構わずにチャイムを鳴らして聞いていたが、今、そういう無謀なことはしない。たまたま玄関にいる人とか、のんびりと歩いている人とかに、何気なく、それとなく、「ここらへんの旧番地のことを覚えていらっしゃいますか」と聞く。ところが、正月四日、皆寝正月を決め込んでいるのか辺りに人影はない。退散しかかかっているうちに滝坂道に面したマンションの出入り口に人の良さそうな女性がいた。それで話し掛けてみた。

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2008年01月01日

下北沢X物語(1010)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報 第18号〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報18号                                                                                      会長 長井 邦雄  
                                    2008年1月1日発行                                                                  事務局世田谷「邪宗門」(木曜定休)                            

                    155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                    会報編集・発行人:きむらけん


                        

     あけまして おめでとう ございます

        今年もどうかよろしくお願いします


1。地図改訂三版の発行予告

 「下北沢文士町文化地図」は昨年、6月6日に改訂二版を5000部発行しました。現時点でもう在庫が尽きかけています。間もなくすればなくなるはずです。
 地図の発行は発信でもあります。発すれば返答が戻ってきます。こんなものもあった、あんなものもあったと、間違いの指摘もあります。そういう返答を受けて直せるところは直していくつもりです。
 改訂三版の発行は準備を続けています。新たに旧居跡を付け加えたり、新たな文化的事象に印をつけたりします。

 今回は安吾文学碑が完成したこともあって「安吾文学碑完成記念」としたいと思います。昨年、十二月三日に文学碑の除幕式を行いました。その折りに、東洋大学の校友会の方々が参加されました。何か記念になるものに使ってくださいということでお祝いを頂きました。そういう申し出がありましたので今回費用の一部にこれを当てることにしました。
春の桜祭りで配布できるようにと準備を進めております。


2,安吾文学碑完成記念パンフレットの発行

 「あんこ先生が帰って来た」というタイトルで安吾文学碑の建立を記念するパンフレットを発行します。すでに世田谷まちづくりファンドからのこれへの支援費用が出ています。主には記録的なものを掲載しようと考えています。

 門柱のいわれ、門柱移転の経過、除幕式を報じる新聞記事。また、除幕式当日見えた安吾の教え子の息子さんから頂いたメモ。これには代用教員時代の安吾のことが書き記されています。貴重な資料となると思います。

 近代文学研究者の木村友彦氏に「代沢時代の安吾」というタイトルで書いてもらえませんかとお願いしたところ快く引き受けてもらえました。これも掲載する予定です。


3,代田の丘の61号鉄塔

 世田谷区は、風景づくり条例に基づき区内の各所に埋もれている風景を「地域風景資産」として認定し、保護して行こうとしています。わたしたちは「 駒沢鉄塔61号を地域風景資産に推薦しています。それが「代田の丘の61号鉄塔です」。

 第二回目の地域風景資産の選定がこれから行われます。先日発行された「風景づくり通信」にはつぎのような記事がありました。

 第一回選定にはなかったタイプの風景も
 商店街の賑わいの風景や子どもの遊び場の風景、古道に佇む石像物や丘の上にある鉄塔など、第一回には見られなかったタイプの風景も登場しました。

 わたしたちが推薦した鉄塔が注目されていることがわかります。
 
 代田二丁目に聳えるこの鉄塔は昭和元年からこの地にありました。往時、丘上に聳え立つ鉄塔は近代郊外都市風景でありました。この鉄塔のすぐ下に居住したのが詩人の萩原朔太郎です。彼自身の設計による家はこの鉄塔を意識して造られたものと思います。この鉄塔の陰影が詩人の娘である萩原葉子「刺草の家」に描かれています。萩原朔太郎、その娘、葉子の居住痕跡を表すものは何一つ残っていません。この鉄塔が唯一の面影であります。
 鉄塔は順次、北から環境調和型の鉄塔に建て替えられています。現在の鉄骨鉄塔という形態で残して欲しいと東京電力には申し入れております。
 今回の地域風景資産を推薦するに当たって条件つきながら東京電力の同意を得ています。今年度、第二回地域景資産は、二月二十四日の公開選定で決定するようです。風景資産に選定されるようにこれからも努力したいと思います。


4 歩く会情報
 
 都市物語を旅する会 
  「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第三土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に主体的に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。 
    この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。
   これまで実施したコースはつぎの通りです。1.代田連絡線の跡を歩く、2.小説猫町を歩く、3.下北沢の大谷藤子を歩く、4.下北沢・淡島の森茉莉を歩く、5.銭湯を歩く、6.下北沢の無頼派を歩く、7。下北沢の教会を歩く、8。坂口安吾が歩いた道を歩く、9.駒沢線鉄塔を歩く 10.下北沢の映画痕跡を歩く、11.茉莉を歩いて茉莉に会う。12.だいだらぼっち川を歩く。13、小説『猫町』 を歩く。14、下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。15「ダイダラ 坊」の痕跡を求めて歩く。16、代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)17.林芙美子から坂口安吾を歩く 18.「下北沢店員道場を検証する」19、池の上の古い町並を歩く  20.「下北沢の教会を歩く」
 
○今後の予定(変更になることがあります)
  ・第二十回 1月19日(土)  午後1時 下北沢駅北口集合 
      「下北沢の詩人痕跡を訪ねる」 
   萩原朔太郎(下北沢)、渡辺順三、福田正夫、中村草田男、堀内通孝、中村汀女  北川冬彦、萩原朔太郎(世田谷代田) 
      *下北沢周辺には詩人が多く住んでいました。その旧居跡を巡ります。

・第二十一回 2月15(土) 午後1時 代田橋駅集合
  「坂口安吾の通勤ルートを歩く」〜文学碑完成記念〜
   代田橋の下宿跡から代沢小学校まで、安吾通勤ルートを歩く 
・第二十二回 3月15日(土) 午後1時 下北沢駅北口集合 
  「茉莉を歩いて茉莉に会う」
 森茉莉の作品舞台に関係する箇所を歩いて、「邪宗門」でくつろぐという定番コースです
・第二十三回 4月19日(土)午後1時 東北沢駅北口集合 
  「下北沢X惜別物語」を歩く 
  代々木上原3号踏切から世田谷代田1号踏切までを歩く。
  現在小田急地下化工事が進められている。やがてなくなる踏切、それぞれ       の 踏切のエピソードを検証する。
・第二十四回 5月17日(土)午後1時 下北沢駅北口集合 
  小説「猫町」を歩く  萩原朔太郎の小説「猫町」の痕跡を求
 めて歩く、これも定番コースです。 
 ・第二十五回   6月21(土)午後1時 京王線代田橋駅集合
    「再度東京市巨人伝説を検証する」
    ダイダラボッチ伝説を求めて代田橋の跡と足跡をフィールドワークする
*参加を希望される場合には事務局に必ず電話をしてください。なお、保険には加入していませんので歩く場合事故のないよう留意をしてください。


■ 編集後記
 新しい年が巡って来ました。昨年は文学碑がようやっと一基完成しました。企業、行政、市民の支援を受けてのことです。ひとえに皆様方のお陰だと感謝しております。
 文学碑が建ったことは地道な活動の成果だと思います。行政からの支援を受けたことも大きいものがあります。世田谷区の地域活性化支援補助金はこの三年間で90万円、また、世田谷トラストまちづくりからは17万3千円の費用が出ております。その総額107万3000円にもなります。この他地元企業である「東邦薬品株式会社」からの協賛金はその額をかなり上回ります。市民からの寄付も多くありました。これは坂口安吾旧宅にあった門柱を移転した際に多くは使いました。

  われわれの活動はボランティアです。それは面白いから、楽しいから行っていることです。それ故に共感をしてくださる方も居られます。地図二版は予算面で発行が危ぶまれました。が、窮状を知った田中良輔氏が費用をポンと寄付してくださいました。が、氏はその後、病に倒れて去年不帰の人となられました。

 多くの機縁があって地図や冊子が出来上がりました。文学碑もその延長上にあります。これらの活動が独りよがりでないことは公器が取り上げていることでも分かります。三年という短期間の活動であったにも拘わらず多くのメデイアに載りました。「北沢川文学の小路物語」は朝日新聞、毎日新聞、「代沢小安吾文学碑」は読売新聞、産経新聞、新潟日報が記事として掲載しました。これら五紙では写真入りで大きく取り上げてくれました。また、冊子、ブログについて「NHK第一放送」が話題として放送してくれたことです。「下北沢X惜別物語」については「TBS東京ウォーキングマップ」でも取り上げられています。

 会の存在、また、それに伴う、当ブログの存在の社会的認知が徐々にではありますがなされたものと思います。当ブログもインターネットでの検索頻度が高くなったようで荏原一帯の文化事項では上位にあるということが最近になって分かってきました。

 のんびりゆっくりと文化を遊ぶ、ぜひ続けていきたいと思います。
 ご意見、ご感想などもぜひお寄せください。(K)
「北沢川文化遺産保存の会」
 当会報への連絡、お問い合わせは、編集、発行者の きむらけん へ
 aoisigunal@hotmail.com *鉄道交点周辺の文化情報をお知らせください。


  ○付記 年始の間、このブログはしばらくお休みいたします。