2008年02月
2008年02月28日
下北沢X物語(1047)〜代田の丘の61号鉄塔3〜

風景は主観的なものかもしれない。次元に穴を開けてしまうほどの言葉の達人がいたことによって風景は深みを帯びて見える。昨日、「代田の丘の61号鉄塔」に行ったとき、強い北風に吹かれて電線が鳴っていた。その音を聞いていると詩人父子の物語が思い起こされた。
月刊「ポエム」1977年7月号は「萩原朔太郎」を特集している。その劈頭は「萩原葉子 朔太郎を語る」である。その最初にこう書いてある。
今日を最後にして、朔太郎にまつわる座談会とか、講演会とかいう席には一切出ないことにしようと思うの。ちょうどいい機会だからここで宣言しておくわ。……自分としては「父・萩原朔太郎」で書ききったつもりなの。父のことはあれ一冊でもう書かないことにしているのね。今日はそれを破ってしまったけれど。
著名な詩人はその名が轟いている。ために娘は自己存在がかすれてしまうことあったように思われる。生前、彼女が宇野千代を語る講演会があった。そのときの対談相手は佐伯彰一氏だった。彼はしきりにこの人は大詩人の娘でということを繰り返し説明していた。「それはいいのですよ」というのに氏は詩人の娘に出会った感動を述べていた。
「萩原葉子 朔太郎を語る」はインタビューアーの質問に答える形式をとっている。しょっぱなは「事実と虚構の径庭 『蕁麻の家』と朔太郎」である。インタビューアーの小松郁子氏は「『蕁麻の家』は即萩原家ではなくてフィクションなのだけど」と切り出している。
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2008年02月27日
下北沢X物語(1046)〜代田の丘の61号鉄塔2〜

言葉は新しい世界を創出する。もの皆混沌としてある中に新しい形を見出して、それに言葉を付与する。すると新しい世界が開けてくる。
国木田独歩は「武蔵野」という言葉で一帯の丘陵を捉え、そこに横溢する趣きや美を提示した。その武蔵野は都市化によってあらかたなくなってしまった。が、それでも谷間の窪みなどに武蔵野の残照と言えるものが今もそこかしこに残ってはいる。
世田谷区地域風景資産に選定された「代田の丘の61号鉄塔」も武蔵野風景の一つであった。駒沢線鉄塔60号は北沢川べりにある。つぎの61号は丘上にある。高圧線も傾斜を這うように上っている。谷の上の字名は吹上と言った。風が谷を吹き上げてくるほど急峻であることからその名がついたものだろう。
この駒沢線鉄塔では塗り替え工事が行われていた。くすんだ灰色をしていたが銀色に塗り替えられ青空に映えるようになった。今は後に出来た建物によって鉄塔も取り囲まれてしまった。が、北沢川を底辺とする緑のサラダボールを銀線と白鉄塔が代田の南北を縦断していた。それは都市近代郊外風景である。田園と鉄塔、それは古代と近代が織りなされている風景であった。
萩原葉子の自伝的長編小説「蕁麻の家」の冒頭はこの鉄塔下に彼女の父が土地を定めるところから始まっている。小説は虚構である。従って、この話はどこかまったく見知らぬ土地を思い描いてもいい。ところが、その説明は土地の様子を具体的に描いている。
2008年02月25日
下北沢X物語(1045)〜代田の丘の61号鉄塔1〜
地域風景資産の選定の会が終わった。階下へ降りようとエレベーターに乗ったとたん話しかけられた。
「さっきのプレゼンはおもしろかったですね。世田谷で一番大きい文学碑というのは」
「ああ、あれは、世田谷ではなくて日本一大きいと言ったんですよ。」
「そうでしたか、あっはは……」
「丘の標高が45メートルぐらいで、鉄塔が三十メートルぐらいありますね。だからおおよそ七十メートルほどの高さがあります。こんなに高くて大きい文学碑はありませんから、それで『日本一大きな文学碑』と言ったのですよ」
一分間のプレゼンテーションで何を言ったらいいのか、考えていたときにふっと思いついた言葉だった。言葉が風景を作りもするとそのときに思ったものだ。
「文学碑ですか。わたしは玉川の兵庫島に若山牧水の文学碑を建てましたよ。あれは大変でしたね。」
これはもう一人の人だ。
「ああ、あの牧水碑ですか……」
若山牧水は好きだ。兵庫島の文学碑は何度も行った。大きな自然石に歌が彫られている。「大変だったんですよ。筑波山にある石を掘り出したんですよ。ところが面白いもので地表に転がっている石はだめで、氷山みたいに上は小さくて、下は全部地中に埋まっているものでないといい石じゃないというのですね。それで最初に掘ったのは使わないで、近所の学校になんかに使いましたね。全体の費用が800万円ほどかかりましたね。大変でしたよ。若山牧水の息子さんところに行って、許可をもらって、そして建てたんですよ。しかし、建てると建てたでいろいろありましてね。若山牧水の碑というのは日本全国至るところにありますね。一番多いんですよ。そのつぎが斎籐茂吉ですね。お宅なんかは斎籐茂吉の近くでしょう。茂吉さんのを建てたらいいですよ。」
「斎藤茂吉ですか。こちらが『北沢川文学の小路』に文学碑を建てようと提案していますが、その中に入っていますけどね。一時は全部を建てようという熱い動きはあったようですが、それは消えたようです。建てるのなら萩原朔太郎です。けれども鉄塔が風景資産に選定されたのでいいかなと。これは日本一大きい文学碑ですから……」
2008年02月24日
下北沢X物語(1044)〜代田新線を潜り、代田連絡線を探す1〜

鉄道交点周辺には次元の穴が開いていると信じられている。それは言語空間の穴だと言える。実際、そのトラップに引っ掛かると、穴に引き摺り込まれて、どこまでも落ちていってしまうことがある。
世田谷代田1号踏切脇には地下深くへ通ずる穴が開いている。ガシガシと鳴る工事用の仮設階段を伝って下りていく。すると冷気が肌を刺す。とたんに空想力が刺激される。下に潜っていくと氷の壁にぶつかる。それをライトで照らすと凍てついた透明の氷の中に人が眠っている。その彼の紫色の唇が動いている。耳を澄ますと言葉が洩れ聞こえてくる。
「ああ、汝、ヘルメットをかぶりたる漂泊者よ、いずこへか行かむ。地下深く潜りたりとも、汝の求めし貝殻はあらざるべし。」
本当に聞こえたようでもあり、聞こえなかったようでもある。詩人が乗り降りしたという世田谷代田駅の地下は詩の言葉に弱い者を、ついどきどきさせてしまう。
「ここが環七の下ですね。今皆さんは将来下りの急行線が走るところに立っています。隣の緩行線との間は等間隔に鉄柱が建っています。隙間を通して向こうが見えますね。たまたま急行と緩行が併走して走る場合には互いの明かりが見えますね。下りロマンスカーに乗って地下で併走している隣の線路がチラチラ見えるところに来たら、環七の下だと思ってください。わずか四十メートルの区間ですけどね」
世田谷代田の地下工事現場の責任者はなかなか詩的である。小田急線地下化完成時の車窓風景まで再現してみせてくれた。
「この箱形ルーフは梅ヶ丘側に向かって34パーミルの勾配がついています。世田谷代田側に向かっては急行線は勾配のまま下っていきます。緩行線はフラットで行きます。ですから急行線に乗っていれば、隣の各停は上の方に見えるはずですね……」
理解の難しいことをさらりといってのける。各停は上、急行は下、地下工事の隧道構造は二階建てである。代々木上原、東北沢の間で地下に入った電車は、世田谷代田、環七の下へ来て急行線と緩行線はやっと併走する形になる。
2008年02月22日
下北沢X物語(1043)〜「風と光と二十の私と」を歩く4〜

代田は民俗学的に興味深い土地である。それは土地の形状、地勢からくるものである。新編武蔵国風土記稿、巻五十二に「代田村」の記述がある。そこには「東より北のかたへ釣はりの如くに横たはれり」とある。これは代田の地勢のことを形容している。
代田は台地から成り立っている。代田橋のある淀橋台から半島状の地形が南へと伸びている。その様を「釣はりの如く」と述べたものだ。自身はこれを代田半島と述べているが、実際それが釣り針の形をしている。多分これは尾根筋の形を言い表しているのだと思う。釣り針の左のRは羽根木公園近辺である。その尾根筋が代田吹上に伸びて現在の代沢五丁目辺りのなだらかな丘に繋がっている。かつて麦畑だったところだ。この釣り針の先端のすぐ東に分教場、代沢小学校はあった。わたしの直感であるが、「風と光と二十の私と」の情景描写はこの釣り針の先端部分の光景を述べたものと思われる。分教場の木造校舎の二階から西を望んだ風景である。午後の日射しを受けての武蔵野の光り輝く情景である。
私はそのころ太陽というものに生命を感じていた。私はふりそそぐ陽射しの中に無数の光りかがやく泡、エーテルの波を見ることができたものだ。私は青空と光を眺めるだけで、もう幸福であった。麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた。
「風と光と二十の私と」 坂口安吾全集 ちくま文庫04
「あんこ先生」がこの風景を見ていたのは大正十五年だ。後に、この風景の中の一角に家を建てたのは萩原朔太郎である。それは昭和八年のことである。昭和二年の小田急開通によって付近は宅地造成が進む。ところが土地の人の話によると昭和八年ぐらいは一帯はただの野っぱらだったと言う。
2008年02月21日
下北沢X物語(1042)〜「風と光と二十の私と」を歩く3〜

代田橋は地勢的に興味深いところだ。標高は47メートルほどある。一帯では一番高いところにある。代田橋駅の側に和田堀給水所がある。この施設は標高が高いところからここに設置されたものである。往時、この高さから水を流すと丸ビルの上まで水は上がって行ったという。
安吾の代田橋旧居探索は今回で二度目だが、前回は丸ビルのオフィスレディだったお婆さんと出会った。「東京行進曲」の陰影である。「恋の丸ビル あの窓あたり」、若いオフィスレディだった彼女は多くの男から持てたのだろう。その彼女が上役に淹れるお茶は和田堀給水所から送られて来た水であったはずだ。
坂口安吾は代田橋の主任の家に下宿していた。ローカルポジションである。東どなりの駅が笹塚である。こちらは賑やかな町であった。映画館や演芸場があって下北沢近辺の人は娯楽というとこの笹塚に行くのがならわしだった。ここと較べるとずっと代田橋は地味である。地勢的には山の手だが一帯の雰囲気は川の手、下町的である。玉川上水が流れているから川の手的であるとも言える。代田橋までは電車賃が八銭だった。そのつぎは十二銭に跳ね上がる。その経済的な面から分教場の主任はここに下宿屋を建てたのではないだろうか。
代田橋の下宿先は「荏原郡松沢松原一七八三」である。松の字が多くつくところだが一帯は松が多かった。開墾されて畑地になった。そこに京王線が通って、下宿屋、貸間、アパートが多く建った。今でも古い門が玉川上水に面してある。そこには「御下宿 代田荘」とある。往時を偲ばせるものである。一帯を歩くとアパートが多く目につく。メゾン、ビラ、ハイツなどとつけられた木造二階屋も目立つ。地味で、質素だと言える。
昨日、巡遊の途中代田橋をぐるりを巡った。近代版の「あんこ先生」物語を想像しながらである。
2008年02月19日
下北沢X物語(1041)〜「風と光と二十の私と」を歩く2〜

代田橋は文化が濃厚である。一帯が境界だったからだとも言える。豊玉郡と荏原郡の境に位置する。分水嶺ということもある。代田橋の東西を走る淀橋台の丘を境にして水は北へは神田川に、南へは北沢川に注ぎ込む。
運賃境界という点もある。かつての話である。新宿から代田橋駅までの電車賃は八銭だたった。つぎの駅の松原になると十二銭となる。この差額の四銭は大きい。それでこの駅の薬屋、伊東薬局は卸のような存在で代田橋以遠の薬屋の小僧さんがここまで歩いて仕入れに来たという。この運賃境界というのも文化である。当然それは下宿を設置する場合にも影響を及ぼしたと考えられる。
「風と光と二十の私と」には「分教場の主任は教師の誰かを下宿させるのが内職の一つで」、安吾は代田橋のこの主任の家の二階に下宿する。運賃境界のことは当然、主任も念頭にあったろう。新宿から電車に乗って八銭で行けるリミットのところ。新宿から遠い分、地所も比較的安く手に入れられる。電車利用者は新宿へ八銭で行けてお得である。そういう経済原理が働いていたのではなかろうか。
濁点が二つつく「だいだばし」界隈は庶民的な匂いがする。一帯を歩くと、アパートが目につく、そこから楽器を抱えた若者が出て来たりもする。京王沿線には大学が多い。学生が多く入居しているのだろう。
ついこの間、自転車巡遊に出かけるときに梅ヶ丘の都立明正高校の敷地跡を通った。そこに大きなビルが完成している。何かと思って警備員に聞くと、国士舘大学の新校舎だと言う。そういえばよく通る駒澤大学も駒沢公園通りに面した三越の地所を買い取ってそこに新校舎を建てた。少子化時代なのになぜ大学は増築するのだろうか。それは東京一局集中の影響である。企業の多くは東京にある。地方だと就職活動をするのに不利だと言う。それで東京の大学に皆集まってくるということを聞いた。
2008年02月18日
下北沢X物語(1040)〜「風と光と二十の私と」を歩く1〜
言葉というものは橋である。人と人とを繋ぐ架け橋である。代沢小に建てられた安吾文学碑を見に柏から来られた人がいた。偶然、出会って聞くと、一帯の小学校で教壇に立っていた人、井出先生だった。奇縁因縁である。そのことから思いがけず芋づる式に様々な事柄に繋がって行った。昨日の、このブログへのコメントにも「わたしもその井出先生が担任でした」という春宮さんの奥さんから驚きの情報がもたらされた。代田連絡線のことをたまたま聞いたことから出会った春宮さんである。代田の文化繋がりは深いものがある。
「あんこ先生の通勤ルート」を訪ねるというのも言葉によって切り開かれた道である。「風と光と二十の私と」は安吾作品である。これには赴任した当初は学校のそばに下宿したとある。が、若いあんこ先生はその家の娘に猛烈に惚れられ辟易して、代田橋に引越した。そこから分教場まで歩いて通っていたという。そのルートを辿る小さな旅だ。
私が引越したのは分教場の主任の家の二階であった。代田橋にあって、一里余の道だ。けれども分教場の子供達の半数はそれぐらい歩いて通っていて、私が学校へくるまでには生徒が三十人ぐらい一緒になってしまう。私は時に遅刻したが、無理もねえよ、若いんだからな、ゆうべはどこへ泊ってきたかね、などとニヤニヤしながら言うのがいる。みんな家へ帰ると百姓の手伝いをする子供だから、片仮名も書けないけれども、ませていた。
「風と光と二十の私と」 坂口安吾全集 ちくま文庫04
分教場時代のことをテーマにしたのが「風と光と二十の私と」である。この小説中の登場人物はほとんどが実名である。また舞台もほとんどが実在するものだ。「アサリムキミ屋」の子供などが出てくるがわれわれが辿った道沿いにかつてあった。ツアーコンダクターの米澤さんが聞き出してきていた。
今回の参加者は全員で六名だった。ところが、こぢんまりした分、いつもより人の輪が近く感じられた。そこここで立ち止まっては皆でおしゃべりをしたからであろう。
2008年02月16日
下北沢X物語(1039)〜奇縁因縁汽車物語5〜
鉄道交点一帯の小学校は文化の宝庫である。近辺に居住する様々な職業を持った人々の子弟が通っていた所である。教育レベルの高い親の二世である。ませていたということはあるだろう。文学少年や文学少女がいてもおかしくない。
「大原小卒業した後に、大原の仲間同士で同人誌作ったことありますよ。それがまだ残っていますからね。」
今井兼介さんからその同人誌の現物を見せてもらったことがある。
一帯の学校は沢や谷にある。その学校、その学校で趣き、雰囲気が異なる。
「代田小の運動場の北東角に湧き水が湧いていて、そこにシジミがいたでしょう?」
「それは、知らないわね。でも昔はほんとうにのどかでしたね」
代田小出身の米澤さんと代田小で教鞭を執った井出先生の対話である。
「学校の校歌のはじまりが、武蔵野のおか日をうけて、でしょう。わたしは、武蔵農家日をうけて、と思っていました。」
米澤さんのこの話は面白い。先に音から入った言葉は誤って理解することはよくある。先入観である。一帯ののどかさを言い表すエピソードである。
「代田小の校歌の歌詞は、誇りは高し、わが代田とありましたけど、昔はほんと埃がよく舞ってましたね……そういえば思い出しました。代田小の校歌を作るというときにわたしはその先生のところに頼みに行きましたよ。ええ、近くにおうちはありましたよ。」
井出先生はそう言う。「誰だったのだろう?」と聞くと、「有名な人ですよ」と米澤さんが答えた。
家に帰って調べた。井上康文だった。手元にある現代日本文学大事典には「大正七、二○歳のとき三年年長の福田正夫の創刊主宰する『民衆』に同人として参加した。」とある。民衆派の詩人である。彼は詩作、作詞、随筆などを手がけたようだ。「征くぞ空の決戦場」という軍歌の作詞をもしている。
代田小の開設は昭和27年である。校歌依頼はその頃の話であろう。近隣に詩人が住んでいて作詞を依頼した。鉄道交点は教会と詩人、そしてミュージシャンが多いところだ。
2008年02月15日
下北沢X物語(1038)〜奇縁因縁汽車物語4〜

人や物、すべてが首都に集まって来る。東京一極集中、価値の参集である。文学というのも同じだ。文学の書き手の一極集中である。が、人間の心の陰影を描く文学はど真ん中を嫌うという傾向はある。とすると縁辺に集まることになる。とくに首都の西部である荏原地域に書き手は集中している。近代文学の一極集中は荏原にある。それは現地探査、資料調査から断言できることである。一極集中による格差は大きい。集中した地点ではその痕跡はほとんど記録されない。地方だと当人が三日程滞在しても文学碑が建つことがある。地方では崇められる。ところがどんな大家であっても荏原地域ではその多くは痕跡としては何も残されない。もちろん、大田区「馬込文士村」は別格で、居住痕跡がきちんと残されている。一方、当方の「下北沢文士町」は新参で、いまだ発掘中である。今日は尾山篤二郎旧居を当たったが分からなかった。
文士たちが多く居住した北沢川沿いの遊歩道を「北沢川文学の小路」とし、その川沿いに文学碑を建てよう、そういうことを「北沢川文化遺産保存の会」では提案してきた。それに対し議会答弁で行政は「ご提案がございました文学碑につきましては、今後の課題として考えさせていただきたいと思います。」と述べている。が、最近聞いたニュースは「ふれあいの水辺」という案内板が川辺に設置されるということだ。その一部に「北沢川文学の小路」の案内が記されることになった。ところが本命の文学碑は建たないようだ。北沢川沿岸の著名な文人の参集は大きな発信ともなるものである。が、北沢・代田地区の文化という宝は埋もれたままにしておくようだ。金鉱は掘り出さないでそっとしておく。金鉱掘削は鉱害をもたらすこともある。なるほど、秘やかな物語はひそやかである方がいい。脚光を浴びると不自由になる。
その文士、文学の参集である。首都中央に近い、交通の利便性が高い。かつての武蔵野で風趣がある。それが理由として考えられる。何かの本に世田谷に住んだ文士は一千人は居ると書いてあった。それは決してオーバーなことではない。鉄道交点辺りをもうだいぶ調べ回ったが、歌人、俳人、詩人、作家などは一時居留などを入れると百人は軽く超えるはずだ。そこにもここにもいてこの頃はあまり驚かなくなった。
鉄道交点近辺はことに文学参集の密度が濃い。そこが興味深いことだ。理由は明らかである。鉄道が交差していたからである。が、それだけでは捉えられないところに探求する面白さがある。なぜ集まったのだろうか。それは案外に一帯に長年に亘って勤めていた小学校の先生の方がよく知っているのではないか。そういう推理が成り立つように思える。
2008年02月13日
下北沢X物語(1037)〜随想的鉄道文学論〜

汽車道寄り道線路道。汽車は脱線するものだ。ときに追っているテーマを踏み外してみるのもよいことだ。乞われて書いているわけでもない。自分の思いにまかせて楽しんで書く方がよい。わたしが好きなのは鉄道である、それも鉄道文学である。
汽車が近代の礎を創った。紛れもない事実である。機械が人間生活を革命的に便利にした。それによって産み出された時間がある。従来は自分の足で移動していた。が、機械の出現によって自ら歩く必要はなくなった。汽車に乗ってぼんやりと景色を眺めるか、居眠りをするか、あるいは本を読むか、である。内省する暇を汽車は我々に与えた。自分を見つめる時間である。
現在の鉄道はあらかたロングレールになってしまった。それで列車が線路の継ぎ目を踏んで行く、ジョイント音はなくなった。かつてはあの音が時間を刻んでいた。レールの長さが決まっていたので一分間に何回ジョイントを踏んだかで速度が計算できた。ジョイント音は詩情だった。旅に出てその音をぼんやりと考えて冥想に耽った。人によって聞こえ方が違った。種田山頭火は「残った、残った」と聞こえたようだ。残余の命の残りを感慨深く聞いている。汽車のレールを踏む音を通して人は哲学をしていた。自分とは何か自我の芽生えは鉄道が与えたものだ。
文章とは面白いものだ。自分が書いたことがヒントになって新しい見方が生まれる。今思い浮かんだことは「汽車と漂泊と文学と」というフレーズだ。石川啄木の文学などはこれに当てはまる。石川啄木の最期を看取ったのは若山牧水である。この漂泊の詩人も「汽車と漂泊と文学と」に入ってしまう。わたしはそれを「牧啄鉄道」と称している。「汽車詩牧啄木鉄道」である。こういう文学に限りない憧憬を覚えるものである。鉄道文学の揺曳の仄めき、その片鱗が鉄道交点の文学にちらほらと影を見せていることがたまらなく興をそそる。
2008年02月12日
下北沢X物語(1036)〜奇縁因縁汽車物語3〜

因縁のページはめくられる。人間のドラマ、物語である。
千葉県柏市から坂口安吾の文学碑を見に来られた人がいた。それは井出先生である。彼女とわたしはばったりと世田谷「邪宗門」で出会った。代沢小に安吾文学碑を建った顛末を彼女は新聞記事で読んでいた。それによってわたしのことを知ったようだ。たまたまの奇縁から因縁の物語は始まった。そこから彼女の一代記を聴くに及んだ。
その翌日に、たまたま「邪宗門」を訪れたお客さんがいたようだ。これが井出先生に教わったという人だった。
「こんな奇遇なことってあるんですか。昨日見えたんですか。その井出先生は女先生ですか、男先生ですか。あ、女先生ね、それが代沢小時代に教わった先生ですよ。会いたかったなあ。それじゃあ早速に今日手紙を書きますよ」
奇縁因縁人間物語である。その人は当時小学校の時に書いた絵を持っているという。
谷の文学の秘密を紐解く、時と言葉の旅をわたしはしている。詩情を解き明かす旅である。一つの手がかりは坂にあった。その上り下りをする際に足音が響いた。
集団疎開の学童の列がこの町を通りてゆけり夜の十時頃
「駅南口の大地堂の主人が歌人の渡辺順三で昭和十九年八月十二日の十時ごろ、集団疎開する生徒が店の前をぞろぞろと通って行ったのですが、これは代沢小の生徒ですか?」
「ああ、大地堂、わたし知っています。よく行きましたよ。細面の長身の方がその歌人だったのでしょうかね。ええ、それは代沢小の生徒ですよ。大地堂の前を通って、下北沢駅まで行って新宿まで行ったんですね。新宿から中央線の夜行に乗って行ったのですよ。」
話を共に聞いていた米澤さんが一冊の本を取り出した。そこに次のようにあった。
2008年02月10日
下北沢X物語(1035)〜奇縁因縁汽車物語2〜

時の物語は歴史の禍根を引き摺っていた。戦争の影である。奇縁因縁汽車電車物語である。
わたしは一人の女性の昭和年代記、放浪記を聞いたように思った。初めは懸命にメモを取っていた。が、そのうちに井出さんの口から出てくる物語に聞き惚れて、あとはもう夢心地で耳を傾けているばかりだった。
ストーブは黄金色に燃えていた。マスターも奥さんも来て話を聴いていた。
「戦時中でした。国民学校教員養成所っていうのができたんですよ。わたしは行けるのであれば女子大では一番の御茶ノ水に行きたかったのですよ。でも折良くというのか養成所に入ったのですよ。そこは天現寺にありましたね。短期間でしたけど集中的に勉強させられましたね。戦争中だったので繰り上げ卒業みたいな形で教員になったのですね。戦時の応急的な学校ですから短期間しかなかったと思うのです。昭和19年と昭和20年ぐらいではなかったでしょうか。応急的な教員養成所ですね。」
戦争も末期になって男子には赤紙が来てつぎつぎに出征して行った。恐らく国民小学校の男子教員も居なくなったのであろう。それで教員を応急的に養成する必要が出てきたのに違いない。
「広島電鉄家政女学校」も人手不足を補うために応急的に創られた学校である。男性の車掌や運転士がつぎつぎに応召されていなくなった。電車を動かす職員がいなくなって電車の運行すら危うくなった。それで人手不足を補うために女学校が設立された。働きながら女学校卒業の資格が取れるという触れ込みだった。
広島は西日本最大の、陸軍中心の軍都だった。デルタ地帯に張り巡らされた市電は生命線であった。市内各所にある軍事施設、あるいは宇品港に人を運ぶ、また江波あたりの軍需工場地帯に工員、及び動員学徒を運ぶ、そのための重要路線だった。ところが男がいなくなって運行に穴が開くようになった。応急的に若い女生徒がそこを担うことになった。昭和二十年段階で女生徒300余名、それに女子挺身隊員が5,60名余り、彼女らの働きによって軍都の足はようやっと確保されていた。十五歳の彼女らがしまいには運転をも担当していた。その彼女らは8月6日、原子爆弾に被爆してしまった。電車の運転をしていて広島駅前で被爆した藤井照子さんをわたしはよく知っている。その彼女は福山に住んでいる。
2008年02月09日
下北沢X物語(1034)〜奇縁因縁汽車物語1〜

自身は時と言葉の旅人である。時から時へと、言葉から言葉へと旅をしている。ふと出会った言葉にときめいて、時空を超えてまた新たな旅をしてしまう。が、その旅もあてどのないものであっても絶えず漂泊の根源を求めている。なぜ詩歌が鉄道交点に根を下ろしていたかということである。それを思い浮かべながらの旅である。
そう昨日のことだった。一番街十字路の坂を自転車で上った。上り切るところは膨らみが大きい。それで腰を一回浮かしてペダルを漕ぎ上った。
某詩人は十字路の「かどや」で敷島を買った後、この坂を上って家に戻っていた。坂の終末は想念を膨らませるところだ。彼は懐に手を入れてマッチを取り出し、敷島の封を切ってここで煙草に火を点けたのではないか。そう思った。坂は思いを喚起させる場である。
「守山小学校の裏手に池があったかどうかっていうことですか。そういうのは憶えていませんね。なにしろ若いときっていうのは景色よりも人を見ているものでしょう。うふふふ……」
聞きたがる景色は聞き出せない。そんなことを思った。
自我の形成過程で風景はそれぞれの時代で違った様相を見せるものである。自身が教員だった頃、五月になると遠足で近郊ハイキングにはよく行った。新緑に覆われた山々は季節の生命力が漲っていて自身も生き返るように思ったものだった。ところが、生徒たちはそういう景色を見ていない。特に彼女らはおしゃべりに夢中だった。景色よりも異性への関心が深かったのだろうと思う。もしやと思って、J・アプルトンの「風景の経験」を取り出して目次を見た。が、青少年の発達過程における風景の獲得という項目はなかった。
彼女、井出さんは柏市から安吾文学碑を見に来られた方である。が、話を伺っているうちに一帯の小学校の多くでの教員経験を積んで来られた方だということが分かった。時の物語が詰まった宝箱を持っていた人だった。
2008年02月07日
下北沢X物語(1033)〜詩霊土壌的地域物語4〜

邂逅と別離の利便性から詩人が集まって来た。都市近郊鉄道のクロスがもたらしたものである。昭和八年に開通した帝都線の電車は運転台の窓の上部に遮光庇がついていた。それが子どもたちに格好良く見えた。が、それは飾りではない。築堤高架上を北西方向に走る電車は真向かいから照りつけて来る西日が障害だった。
が、武蔵野の西日は詩歌の源泉でもあった。坂口安吾の処女作は「木枯の酒倉から」である。これには、「聖なる酔っぱらいは神々の魔手に誘惑された話」という副題がついている。その書き出しは「木枯の荒れ狂う一日、僕は今度武蔵野に居を卜そうとただ一人、村から村を歩いていたのです。」と始まる。その主人公が「見はるかす武蔵野が真紅に焼けるという時分に途方もなく気に入った一つの村落を」発見する。この話は「さ迷え魂」の話である。
異世界への導入に武蔵野の夕景が使われている。さもありなんである。今は緑がすっかりなくなっておどろおどろしい夕景を見ることもなくなった。が、かつては至るところで見られた。木の葉がすっかり落ちた林、楢や欅、その間がまっ赤に色づけられる。木々の枝枝の間が鮮烈な血の色に染まる。やがて、それはどす黒い赤に変わっていく。武蔵野という風土か醸す風景である。
この坂口安吾の発想はリアルなものである。彼の境涯を考えると分校からの帰りに体験したことではないかと自分では思っている。尾根筋の鎌倉通りを北上しそれから西北の堀之内道方向へ向かうときそれからそれへと続く丘の上は皆血の色に染まっていた。妖しく、異様な眺めである。
武蔵野の詩趣の源泉は都会の騒音の間接的な響きにもある。都心からの音が頭上の雲にはね返って微かに降ってくる。都市を、大勢の人の息づかいを感じて独自の言葉を編み出していく。筆運びの頭脳は喧噪を感じて詩作したり、創作したりしていたように思う。
2008年02月06日
下北沢X物語(1032)〜詩霊土壌的地域物語3〜

もしも詩というものが植物であったなら詩の根の根が地中に伸びているはずだ。鉄道交点一帯は詩霊土壌的な地域である。詩人が多く集った。居住した。参集していた。そういう土壌が形成されていた。その土壌、つまり土を掘っていくと詩霊に結びつくものが出てくるかもしれない。
小田急地下化工事が現在行われている。地表線を地下に通すために深く掘っている。上部は関東ローム層である。その下部は上総層といわれる部分だ。かつて一帯が海だったときの層である。
「その上総層にぶちあたりましてね、いやあ、驚きましたよ。ざくざく出てきましたよ。珊瑚に二枚貝に、アンモナイト……」
工事関係者からそんな話を聞けるのではないかと期待していた。それで世田谷代田SPA主催の地下見学会に参加した。そして世田谷代田の工事現場に潜ってみた。ところが残念ながら貝殻のようなものは出て来ていないと現場監督者から聞いた。その上総層はお土産にもらって来たがなんのことはないただの砂礫である。
が、工事は終わったわけではない。本格的にはこれからだシールドマシンが稼働し始めるという。世田谷代田から出て下北沢4号踏切まで行って今度はまた戻ってくるそうだ。そのうちにダイダラボッチ川の下部から漁船の錘が発見されるかもしれない。距離的には遠くない梅ヶ丘病院の敷地内から千四百年ぐらい前のものと推定される遠網の重りが発掘されている。(このことはもう五回ぐらい引用している)そういうことから目新しいものが発掘されないとも限らない。
2008年02月04日
下北沢X物語(1032)〜詩霊土壌的地域物語2〜

古い居酒屋がよかれと思って改装する、するととたんに常連が寄りつかなくなるという話を聞いたことがある。飲み助は小汚いカウンターに座って飲むことで気持ちが安らぐ。そういうことでいうと人は淀みに淀む動物である。カーブや曲線に宿っては、一杯ひっかけたり、一杯食わされたりもする、たわんだところには必ず人間の物語がある。
小田急の下北沢2号踏切、そして3号踏切は下りに向かって右カーブしている。800Rのカーブである。ちょうどここに接してスポーツクラブ「エグザス下北沢」が北側にある。かつて「中原百貨店」があったところだ。昭和十年代である。
「そうですね、昔は、下北沢の南口などは何もありませんでした。当時、今の南口方面に行く場合は下北沢2号踏切を通って行っていましたね。むしろこの通り沿いの方に家があったように思うのですよ。」
黄金井達夫さんはそう言った。「中原百貨店」がなぜそこにあったのか解き明かす証言である。鎌倉通りの3号踏切、そして、2号踏切の向こうから客がやってくる。その需要を当て込んでマーケットができたのだと思った。
「下北沢1号踏切は寂しいくらでしたよ。むしろ2号の方が人通りは多かったですね」
黄金井さんのこの話を聞いて思ったことがあった。大正14年の坂口安吾の代沢小への通勤ルートは古道地図を見て下北沢1号踏切経由にしていた。が、どうも下北沢2号踏切の方が正しいようにも思える。下北沢2号踏切経由だと川沿いになってぬかるむはずだということで丘上ルートを考えて1号踏切経由にしていた。推理する楽しみがまた一つ増えた。
「中原百貨店」があったところの建物の変遷は面白い。百貨店は鳴り物入りで開店した。そのときの写真を見ると屋上に楽隊が居て賑々しく演奏している。ちょうど北沢と代田の間の谷間である。楽隊の鳴らす器楽演奏は一帯に響き渡ったことだ。
「じゃんばん、ぶーすか、どんどん」という音に混じって、二両編成の茶色塗装の小田急電車が、「きゃきゅきょ、ぐぅいん」などと音を立てて800Rを通っていった。
ところが「中原百貨店」は長くはもたなかった。潰れてローラースケート場になった。戦争中は軍用オートバイ置き場、戦後は千倉書店倉庫、そしてメンマ工場となった。
2008年02月03日
下北沢X物語(1031)〜詩霊土壌的地域物語1〜

詩霊が宿るXクロス地域をわたしは旅している。さすらいの旅、彷徨である。自身の想念の物語紀行である。生の現実と想像世界の間を行き交っているともいえる。
「いやあ、わたしが一番感心したことは擬音語ですね。」
昨日、初めてお会いした黄金井達夫さんは開口一番そう言われた。「下北沢X惜別物語」を読んでの感想である。嬉しいことである。
踏切の警報機は「かんかん」とはわたしには聞こえない。いつも「くわんくわんくわん」と聞こえる。そういう響きでないと満足しない。ささいな音も響きは重要である。くわんくわんくわんと警報機が鳴って実物の電気機関車が見えて来もする。
「わたしの頭の中は駅名が決まっているのですよ。世田谷中原駅に代田二丁目駅ですよ。」
この黄金井さんに連絡を取り、その彼を引き合わせてくれたのは米澤さんだった。その米澤さんが話をしているときに「新代田駅」が出てきた。それに対する黄金井さんの応答である。旧駅名でないと認識が受け付けないようだった。それに従うとしよう。
世田谷中原駅から下ってきたのは前面三窓の電気機関車だ。裾に黄色い筋を一本巻いている。それが下り勾配25パーミル、半径800Rのカーブをゆっくりと下って来る。三窓の縁取りの白線がレールのカントに沿ってやや斜めに傾いでいる。
ED10型機関車は砂利を満載したトムに尻をつつかれるように坂を下ってきた。機関車や貨車の鉄輪が軋んで「ぎゃ、ぎゅ、ぎょ」と音を立てる。すると一帯の家々も「ミィシルリ」と柱が悲鳴を上げて泣いた。たまに泊まりに来ている親戚などは何事かと夜中だったら飛び起きる。
この鉄輪の軋みをわたしが「ぎゃ、ぎゅ、ぎょ」と記したことについて黄金井さんは誉めておられた。「そう、その通りに聞こえていたんですからね」とわたしの詩音のよき理解者だと思った。そういえばお父さんは音楽家だったと聞いた。
2008年02月01日
下北沢X物語(1030)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報 第19号〜
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第19号
会長 長井 邦雄
2008年2月1日発行
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人:きむらけん
1,地域文化を楽しんで学んでみませんか
毎月一回、主に代田、代沢、北沢地区をのんびりみんなと散歩しています。一帯には近代の文化痕跡が至る所に眠っています。とりあえずテーマを決めて歩きますが、フィールドワークはドラマです。思いがけない出会いがあって新たな情報が入ることもあります。 今回は「歩く会」は21回目を迎えます。これまではわたしが中心となって歩いてきました。が、それではガイドが育たない。それぞれが興味ある分野でみんなを先導していければ面白いと思います。自分の勉強にもなります。そしてそのことが文化の継承という有意義な活動に繋がります。
テーマはたくさん転がっています。踏切の歴史、古道の歴史、保存樹木を巡る、古建築を辿る、○○の古老の話を聞く、など数え切れないほどのテーマが転がっています。そういうことを通して地域を学んでいくと面白いと思います。
代田、代沢、北沢には近代の歴史や文化の隠れたエピソードが驚くほど多く転がっています。それを掘り起こすのはあなた自身です。
これだったらできるというテーマがありましたらこちらにお伝えください。計画の中に組み込めます。臨時的にも開催できると思います。あなたも地元のガイドになって文化を楽しみませんか。
2,春の企画
今年は珍しく厳冬でした。地球温暖化が言われている中での冷え込みは意外なことにも思われました。寒かったゆえに春の到来が待たれます。
先だって、会の人々が集まったとき、「春には何かしよう」という話が出ました。
「坂口安吾文学碑が出来たのだから、あれをライトアップするといいですね。夜景に映えますね。なんとか工夫してできないものですかね。」
「新しい地図ができていることだと思うのでそれを配布ということにしましょうよ。それと、去年の大判の地図にポストイットを貼ってもらうというのは面白かったですね。静仙閣が女子挺身隊の寮として使われていたとか、今のラブホテルあたりのところに『ごんしゃん』とかいうカフェがあったようなことわかりましたよね。」
「大久保さんの絵もなかなか好評ですね。朔太郎の家とか、宇野千代のコルビジェ風の家のスケッチはとてもビジュアルで具体的に想像できますね。大久保さんの絵を飾ることができたらいいですね」
「どうせなら仮装しませんか、着流しでステッキもって詩人風とか、歌人風とか……」
春の夜の夢の企画である。
3,風景資産の提唱
わたしたちは「代田の丘の61号鉄塔」を風景資産に提唱しています。
世田谷区は、風景づくり条例に基づき区内の各所に埋もれている風景を「地域風景資産」として認定し、保護して行こうとしています。わたしたちは「 駒沢鉄塔61号を地域風景資産に推薦しています。それが「代田の丘の61号鉄塔です」。
代田二丁目に聳えるこの鉄塔は昭和元年からこの地にありました。往時、丘上に聳え立つ鉄塔は近代郊外都市風景でありました。この鉄塔のすぐ下に居住したのが詩人の萩原朔太郎です。彼自身の設計による家はこの鉄塔を意識して造られたものと思います。この鉄塔の陰影が詩人の娘である萩原葉子「刺草の家」に描かれています。萩原朔太郎、その娘、葉子の居住痕跡を表すものは何一つ残っていません。この鉄塔が唯一の面影であります。
鉄塔は順次、北から環境調和型の鉄塔に建て替えられています。現在の鉄骨鉄塔という形態で残して欲しいと東京電力には申し入れております。
提案した風景資産についての最終選考会が2月24日(日)正午から午後5時まで
世田谷区役所第三庁舎3階ブライトホールで行われます。結果がどうなるか期待されるところです。
4 歩く会情報
都市物語を旅する会
「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第三土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に主体的に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。
この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。
これまで実施したコースはつぎの通りです。1.代田連絡線の跡を歩く、2.小説猫町を歩く、3.下北沢の大谷藤子を歩く、4.下北沢・淡島の森茉莉を歩く、5.銭湯を歩く、6.下北沢の無頼派を歩く、7。下北沢の教会を歩く、8。坂口安吾が歩いた道を歩く、9.駒沢線鉄塔を歩く 10.下北沢の映画痕跡を歩く、11.茉莉を歩いて茉莉に会う。12.だいだらぼっち川を歩く。13、小説『猫町』 を歩く。14、下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。15「ダイダラ 坊」の痕跡を求めて歩く。16、代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)17.林芙美子から坂口安吾を歩く 18.「下北沢店員道場を検証する」19、池の上の古い町並を歩く 20.「下北沢の教会を歩く」21 「下北沢の詩人痕跡を訪ねる」
○今後の予定(変更になることがあります)
・第21回 2月16日(土) 午後1時 京王線 代田橋駅北口集合
「坂口安吾の通勤経路を歩く」
坂口安吾は若林小学校の分校で代用教員を務めていました。代田橋に下宿していてそこから徒歩で現在の代沢小学校まで通っていました。かつての古道を手がかりにどこをどう通っていったのだろうか、推理をしながら辿ります。目的地は代沢小学校です。ここに「安吾文学碑」が昨年建てられました。それを記念して歩くものです。
地元の文化に詳しい代田在住の米澤邦頼が先導いたします。
・第22回 3月15日(土) 午後1時 下北沢駅北口集合
「茉莉を歩いて茉莉に会う」
森茉莉の作品舞台に関係する箇所を歩いて、「邪宗門」でくつろぐという定番コースです。世田谷「邪宗門」マスターの作道明がご案内します。
・第23回 4月19日(土)午後1時 東北沢駅北口集合
「下北沢X惜別物語」を歩く
代々木上原3号踏切から世田谷代田1号踏切までを歩く。
現在小田急地下化工事が進められている。やがてなくなる踏切、それぞれの踏切のエピソードを検証する。
・第24回 5月17日(土)午後1時 下北沢駅北口集合
小説「猫町」を歩く 萩原朔太郎の小説「猫町」の痕跡を求
めて歩く、これも定番コースです。
・第25五回 6月21(土)午後1時 京王線代田橋駅集合
「再度東京市巨人伝説を検証する」
ダイダラボッチ伝説を求めて代田橋の跡と足跡をフィールドワークする
・第26回 7月19日(土)午後1時 世田谷代田駅
・仮の案ですが、代田一帯を代田の古老と歩くという案が浮上しています。
代田に詳しい人に代田の地を案内してもらうというものです。
*以上の会に参加を希望される場合には事務局に必ず連絡をしてください。
■ 編集後記
寒い冬です。羽根木公園の梅も梅祭りの準備は進んでいるようですがまだ蕾は固いようです。寒いゆえに春の訪れが待たれます。
坂口安吾文学碑前の土木工事は終わったようです。文学碑の下の石組みはこれの存在を考慮して積まれている感じがしました。代沢小の文学碑のある光景はすっかり地域の風景として定着したようです。
小田急の地下化工事が進行していて線路沿いの風景が一変してしまいました。往時の風景を偲ぶこともできないほどです。
当会で去年出した「下北沢X惜別物語」はやがてはなくなる地表線の記録として、地下化してなくなってしまう駅や踏切のエピソードをまとめたものです。2000部印刷しましたがもう残りは少しになってしまいました。
地元に住んでおられる方がとても貴重なものだと持って行かれます。最近になってこの資料の存在を知った黄金井達夫さんが記事に触発されて駅や踏切、そして一帯のエピソードについて詳しく「東京荏原都市物語資料館」のブログに記入してくださっています。非常にリアルなエピソードが記されています。
日々町は変化をしています。かつての町がどうであったかということは我々の記憶から薄れつつあります。が、その記録はしておくべきことだと思います。時間や歴史の上に町が成り立っていて今の街があるということは知っておくべきことだと思います。
ご意見、ご感想などもぜひお寄せください。(K)
「北沢川文化遺産保存の会」
当会報への連絡、お問い合わせは、編集、発行者の きむらけん へ
aoisigunal@hotmail.com *鉄道交点周辺の文化情報をお知らせください。
○「北沢川文化遺産保存の会」からのお知らせ
「北沢川文化遺産保存の会」はボランティア団体です。代田、代沢、北沢に眠る文化を掘り起こして後世に伝えて行こうということを行っております。具体的な活動としては歩く会を催したり、地図を発行したり、ネットでの発信をしたりということを行っております。当会の協力会員を募っております。年会費は1000円です。会報を送ったり、また、資料のコピー代などに使っております。遠方の方は切手代用でもかまいません。



















