2008年04月

2008年04月30日

下北沢X物語(1082)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報21号〜

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        「北沢川文化遺産保存の会」会報 第21号
                                                                                                                                                                                    会長 長井邦雄                                        

                                                    2008年4月30日発行
           事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
      155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                              会報編集・発行人:きむらけん

1,「戦争経験を聴く会、語る会」

〜今、聞いて置こう、薄れゆく戦争の記憶を残すために!〜
  
 日時 5月24日(土)1時から 代沢小学校視聴覚教室
 主催 北沢川文化遺産保存の会
 後援 世田谷区教育委員会
    定員80名 参加希望者は事務局「邪宗門」に申し込んでください。
     03−3410−7858
     
 戦争は遠い過去のものとなりつつあります。けれども太平洋戦争はわれわれの歴史の中ではもっとも大きなできごとでした。戦争に負けて日本は無条件降伏しました。この敗戦は一からの出直しでした。そこから出発して、長い苦難の道を歩いた末に、今日の生活が築かれたと言えます。そういう意味では今日の生活の原点を見つめるものでもあります。ところが、戦争の記憶の風化、戦争体験者の高齢化によって戦争経験は人々の記憶から次第に消えつつあります。その薄れ行く記憶を記録して次代に繋げたい、そんな思いからこの会を開くに至りました。これは党派的なものの集まりではありません。記憶を次代に繋げたいと願ってこの会を開くものであります。
 これまで3月10日の東京空襲については語られることが多くありました。が、昭和20年(1945)5月24日、25日「東京山の手空襲」はあまり語られることはありませんでした。この日のことを含めて戦争の記憶を忘れないためにこの会を開くことにしました。できれば若い人もぜひ参加してほしいと思います。

  25日の消火活動をした元消防団員の人の話、赤堤に墜ちたB29を見に行った人の話、兄弟を特攻で亡くした人の話、疎開生徒を引率した先生の話、P51に襲われた人の話、戦災地図作成の苦労話などを予定しています。

2 歩く会情報
 
 都市物語を旅する会 
  「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。 
    この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。
   これまで実施したコースはつぎの通りです。1.代田連絡線の跡を歩く、2.小説猫町を歩く、3.下北沢の大谷藤子を歩く、4.下北沢・淡島の森茉莉を歩く、5.銭湯を歩く、6.下北沢の無頼派を歩く、7。下北沢の教会を歩く、8。坂口安吾が歩いた道を歩く、9.駒沢線鉄塔を歩く 10.下北沢の映画痕跡を歩く、11.茉莉を歩いて茉莉に会う。12.だいだらぼっち川を歩く。13、小説『猫町』 を歩く。14、下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。15「ダイダラ 坊」の痕跡を求めて歩く。16、代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)17.林芙美子から坂口安吾を歩く 18.「下北沢店員道場を検証する」19、池の上の古い町並を歩く  20.「下北沢の教会を歩く」21 「下北沢の詩人痕跡を訪ねる」  22「坂口安吾の通勤ルートを歩く」、23「茉莉を歩いて茉莉に会う」,
24、「森厳寺川の源流を探索する」、25,「代田の歴史を歩く」
 
○今後の予定(変更になることがあります)
  
・第26回 5月17日(土)午後1時 下北沢駅北口集合 
  小説「猫町」を歩く
  萩原朔太郎の小説「猫町」の痕跡を求めて歩く。詩人萩原朔太郎は、唯一の小説「猫町」を書いています。この作品の第一ステージは現在の下北沢一番街ではないかと想定されます。下北沢在住時に一帯の路地については歩き回ったことだと想像されます。迷路としての路地にもヒントを得たように思います。世田谷代田に移った後もこの辺りをさまよっていたと思われます。幻想的な光景を実景としてたどって楽しみます。参考図書小説「猫町」、インターネットの青空文庫に載っています。

・第27回   6月21(土)午後1時 京王線代田橋駅集合
    「再度東京市巨人伝説を検証する」
    ダイダラボッチ伝説を求めて代田橋の跡と足跡をフィールドワークする
      *幻想朗読劇「ダイダラボッチ」〜東京市巨人伝説物語〜
        来年度公演の要望が市民団体からあって現在執筆中である。

・第28回 7月19日(土)午後1時 井の頭線 新代田駅
   ・代田連絡線徹底検証 
    小田急地下化工事が進行しています。代田連絡線分岐部分も工事が進行していま   す。いまのうちに再度連絡線の面影を確認しておくというもの。
・第29回、 8月16日(土) 小説駒沢線を歩く
      駒沢鉄塔ラインはドラマに満ちたラインです。そこを辿ります。
  小田実、日野啓三、武林夢想庵、中山義秀、安岡章太郎、帝国音楽院、河口彗海、
萩原朔太郎、三好達治

  *8月以降については検討中です。希望があればお寄せください。
   例、下北沢X惜別物語を歩く、映画痕跡を歩くなど…
  *参加を希望される場合には事務局に必ず連絡をしてください。

3,安吾文学碑建立記念記録集
   昨年、12月3日「安吾文学碑」が代沢小校地内に建立された。建立までの経緯を記した記録集を世田谷まちづくりファンドの基金を活用して作成した。それを事務局の世田谷「邪宗門」、及び、下北沢一番街「大月商店」で配布している。
 

■ 編集後記
 「北沢川文化遺産保存の会」は文化発掘を楽しむ会である。が、発足以来、真面目に熱中し過ぎたように思う。楽しみ方が足りなかった。本来は楽しむはずのものであるのだが、それを忘れて自分の仕事にしてしまっていたように思う。この二年間急ぎすぎたという反省がある。ページのめくりすぎだともいえる。ゆとりをゆとることが人間誰でも必要だ。休みを主体的に獲得することを、「ゆとる」という。自身で作った造語である。
 先日、自身の文章への興味深い批評を述べた人がいる。「言葉では各駅停車で行こうと言いながら、内容を見ると急行列車だ。」と。「なるほど」と得心した。言葉は人間の性向や資質を反映するものだ。のみならず時間をも表すものだ。言葉の速度が速い、鋭い批評である。心したいものだ。ゆえにこの連休中は当分、「ゆとる」ことにしたい。ブログ「東京荏原都市物語資料館」が更新されなくても「ああ、ゆとっているのだ」と思ってほしい。

 当会報への連絡、お問い合わせは、事務局か、編集、発行者の きむらけん へ
 aoisigunal@hotmail.com *鉄道交点周辺の文化情報をお知らせください。 
  (写真は、地域風景資産となった駒沢線61号鉄塔の模型。これは大熊さんの苦心の作だ。寄付箱になっている。鉄塔下部に案内表示板を設置しようと考えている。この模型を見てポンと一万円寄付していった人もいる。小説「猫町」は金子さんが苦労して手に入れた初版本である。値段は誰も言い当てることができなかった。) 



2008年04月28日

下北沢X物語(1081)〜鉄道交点の文学と建築を巡る5〜

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   世田谷代田在住時代の昭和十年、唯一の小説「猫町」を詩人は発刊している。アフォリズム第三集、「絶望の逃走」も刊行している。この中で「文学の憂鬱性」について述べている。末尾はこうだ。

文学には心理があつて生理がなく、表象があつて運動がない。それゆえにこそ文学者は、哲学者と同じやうに憂鬱であり、気質の中に曇暗の月暈(つきがさ)をかけて燻つて居る。
                   日本詩人全集14 新潮社 昭和41年刊

 自己の思考を巡らし、それを言葉に置き換えて行く。頭脳と指は動く。けれども血の巡りをよくする運動にはならない。ひたむきに書いた後は、たいていは戸外に出てほっつき回ることが多かった。
「着流しでふらふらとそこらあたり歩いているのは大概が文士だ」
 本通りのお茶屋住吉園のご主人は娘にそう言っていたという。鉄道交点一帯の人に聞けば覚えている人もいる。大地堂で古本を読んでいた三好達治、ふらふらと伊藤祷一さんの家の前の道を着流しで歩いていた朔太郎、地下足袋履いた色黒の爺さんが北沢川川辺を歩いていた。これは斎藤茂吉である。こういう姿が鉄道交点各所でかいま見られていた。文士は、詩人は町をさまよい歩くというのはごく普通のことだ。小説「猫町」の一節には、そういう姿の一端が書き表されている。

  家の方へ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑やかな往来へ出た。 日本詩人全集14

  小説 「猫町」、虚構である。現実の町と考える必要はない。が、土地の文化の特色が作品の一部に片鱗を見せているのではないかと自分では思っている。「猫町」を読んでは猫町物語を楽しんでいる。

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2008年04月27日

下北沢X物語(1080)〜鉄道交点の文学と建築を巡る4〜

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   下北沢野屋敷、旧字名である。一番街本通りを境として北が野屋敷であり、駅に近い方の南が新屋敷と言った。かつての薩摩藩の抱え屋敷があったところだ。が、その名の通り大きなお屋敷があったわけではない。

 例えば若林の毛利藩の抱え屋敷の場合、「屋敷地の大部分を占めているのは田・畑・林である。」と言い、また、「則ち若林の樹木は時に江戸屋敷の作事に材木として利用されたのである。」とある。(世田谷区立郷土資料館、2008.3、資料館だより、一研究ノートー「長州藩江戸若林抱屋敷について」当館歴史専門調査員 松本剣志郎  )木村孝氏から教示してもらった資料である。

 抱え屋敷は本屋敷が火事に遭った場合などに備えて材を蓄えて置く敷地である。お屋敷で用いる薪や食料用の作物を産出していたと思われる。江戸市中は度々大火に見舞われた。そういう危難に遭った場合、普請するための材木など確保するという意図があったようだ。

 野屋敷は西から東に向かっている舌状台地のようである。ふちをとりまいているのが森厳寺川である。もう一つは東大原小学校を水源として現一番街を通って森厳寺川に合流していた小川だ。

 川筋は商人、庶民の家が連なっている。丘上はお屋敷である。野屋敷は舌状台地の北東端が緑が今でも濃い。御殿山の北のどんづまり辺りだ。赤松が多かったと聞く。建築材としては梁桁などに使われていた。松だけではなく槻もあったようだ。今も何本か残っている。

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2008年04月25日

下北沢X物語(1079)〜鉄道交点の文学と建築を巡る3〜

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   地域の匂いや味わいを作品から見出すのはスリリングな想像冒険である。

 鉄道交点には至る所に路地がある。北沢川支流の枝分かれした川がその路地の形成に関わっている。屈曲した小川、それによって入り組んでいる谷、そこに幾つもの路地がある。自身でもっとも気に入っている路地がある。地域風景資産として推薦してもいいほどのものである。

 野屋敷の南北を貫く路地である。昭和九年の地図にこの路地の名前が載っている。「御殿山小路」である。有賀子爵の家があったこと、深い木々の緑に覆われていたこと、かつて一帯は薩摩藩の抱え屋敷であったこと、そんなことから名づけられたものだろう。

  名は実態や雰囲気を表す。この道には趣きがある。緩やかに下って上っている。南から行って突き当たった所に大島さんのヒマラヤ杉が5本高々と聳え立っている。一帯は緑が濃い。今井兼次設計の家もこの御殿山小路にある。緑を背景にして建築家は家をデザインしたはずである。赤松の緑と幹の赤、それに映えるとんがり屋根である。

 御殿山小路の道沿いの家は敷地面積も広い。それゆえに緑も深い。ここを通ると気持ちが安らぐ。この道を突き抜けて行ったところに劇団「風の子」がある。ゆえに劇団の人は「風の子通り」と言っているようだ。

 御殿山小路の今井兼次設計の家の北東裏手、そこに俳人の中村草田男が住んでいた。昭和13年から昭和20年まで暮らしていた。全集年譜、昭和20年のにはこうある。「大空襲。自宅付近に落ちた焼夷弾を消しとめ、未明まで奮闘し類焼を免れた」(「中村草田男全集」別巻、みすず書房)とある。これは5月25日の山手空襲だ。すぐそばの大島さんの家にはそのときに落ちた焼夷弾の筒が今もあるという。俳人が消し止めたものかもしれない。

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2008年04月24日

下北沢X物語(1078)〜鉄道交点の「寮」文化〜

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  言葉は時代を映す鏡だと言う。この頃思うことは言葉は時間を映す鏡だということだ。

 家の近くに都立大学跡地がある。そこはホールや図書館のある区の総合施設に衣替えした。一角は公園にもなっている。その片隅に万葉歌碑がある。九州筑紫の国境防御に向かった防人の夫を恋い慕う妻の歌である。荏原の在住の若妻、椋椅部刀自売(くらはしべのとじめ)が詠んだ歌である。碑文には万葉仮名が記されている。

久佐麻久良多比由苦世奈我麻流祢世婆伊波奈流和礼波比毛等加受祢牟
草枕旅行く背なが丸寝せば家なる我は紐解かず寝む

 紐を解かずに寝る、若妻のけなげな思いは一晩だけのことではない。夫が九州の国境警備に赴任して、その任が果てて帰郷するまでの数年間のことである。夫は旅の途次、崖から転落して死ぬかもしれない、病気に罹って命を落とすかもしれない。遙か遠くの九州筑紫は想像できないほどに遠い道である。それが寂しさの距離であると同時に思いの強さでもある。

 一方今日の言葉は何か、一拍置くことなく、脳に浮かんだ言葉を、ネットに書き込んでは発信する。瞬時に飛んだ「死ね」や「うざい」という言葉の短刀はたちまちに携帯の画面に届く。受けた方は目が読んだ文字の意味を額面通り受け取って、怒りや恨みを発生させる。言葉の力の瞬時性である。感情に直接結びついて、時に受けた怒りは復讐という現実の行動に結びつくことがある。機械が人間を駆り立て凶行へと走らせる。近代の言葉の虚偽性でもある。が、その根底には子どもの言葉力の低下がある。

 万葉時間に置ける悠久の時の流れ、互いに結びついているのは気脈の携帯電話である。「夫もこう思っているだろう」、「妻はこう思っているだろう」という気の交流である。

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2008年04月22日

下北沢X物語(1077)〜鉄道交点の文学と建築を巡る2〜

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 文学と建築、鉄道交点の文化を探る上で興味深い観点である。自身でも新しいものの見方が生まれたように思う。これまでは自転車で鉄道交点一帯を何度も通っていて、古い建物は見てはいた。が、細部の造りについては見ていたわけではない。

「これは面白いですよ。ほら、上の瓦屋根は膨らんでいるでしょう。『むくり』っていうんですね。その下はこんどは凹んでいる。『てり』っていうんですよ。極めてめずらしい例ですね。」
 青野達司氏が代田二丁目に残る日本家屋の屋根をそう説明した。古い家屋を一つ一つ見ながら行く。屋根や柱の突き出しにちょっとした工夫がしてある。デザイン感覚が生きている。それは創り手の存在証明であり、遊び心でもあるのではないかと思った。

 多くの建物群を巡った後思ったことがある。「下北沢一帯は家屋建築におけるデザインの実験場ではなかったのか」ということだ。それを青野氏に問うたら彼は悪くない考えだと肯った。その彼の共感は文化の新しい切り口へと自分を誘う。

 鉄道交点一帯が開けたのは鉄道開通以後である。昭和二年の小田原急行電鉄、昭和八年の帝都線開通が契機となっている。これら鉄道の違いは郊外高速鉄道である。軌道巾からすると北の京王電軌鉄道や南の玉川電気鉄道は市内線系統の鉄道である。が、前者は丘は切り通しで抜ける、谷は築堤で越えるという方式だ。モダンでかっこいい。

 近代郊外鉄道の格好良さがデザインに反映されている。鉄道交点一帯のモダンな建築物は、新しいレールの反映である。芝生が植えてあったり、屋根に工夫が凝らされていたりという点である。

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2008年04月21日

下北沢X物語(1076)〜鉄道交点の文学と建築を巡る〜

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 文化は衝突することによって新たな観点や、創造性を産み出す。

 いつも同じ顔ぶれだとその中の価値観に染まってしまうことがある。時に異なった価値を持っている人と出会うと考え方、感じ方も違ってくる。

 鉄道交点の利便性は様々な価値を集めた。昭和の新開地は建築デザインの実験場ではなかったのか。また、鉄道の利便性は一帯に発展途上人を集めた。それは寮である。会社の、学校の、自治体の「寮」である。

 昨日、「北沢川文学散歩」の講師に招かれた。土日連続の散歩はきつい、土曜日は「代田の歴史を歩く会」だ。これは谷亀さんにお願いして、昨日の「歩く会」には参加した。「特定非営利法人」の「せたがや街並保存再生の会」主催の、第93回街歩き見学会である。この会の青野達司氏とは「世田谷地域風景資産」の会で知り合った。こちらが文学を解説しながら、青野氏が地域一帯に残る古建築についてその現場で説明する。文学と建築の融合である。面白い観点からの切り口となった。

  青野氏は建築家だ。古建築を訪ねて行く途中、たまたま彼が建築したという家に行き着いた。なんだか覚えのあるところだと思った。小田実が住んでいたアパートの前の家だった。参加者は「へぇ、こんなところに住んでいたのですか」と驚いていた。

 詩人の居住跡から、こんどは古建築の一つ一つを見て回る。新屋敷萩原朔太郎旧邸から野屋敷に向かった。北沢4丁目の加藤邸を見学する。一帯は緑の濃いところだ。配られた資料に解説がある。これは貴重な情報である。

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2008年04月19日

下北沢X物語(1075)〜荏原地域文学論〜

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    自身は人々が生きてきた痕跡、また、人が築いてきたもの、それに興味を覚えて、人に話を聴いたり、その現場に行ったり、書物資料を漁ったりしては往時への想像を巡らしている。楽しいから、面白いからそれをしている。

 とりわけ興味深く思うことは土地の文化である。武蔵野には今も独特の趣きがある。複雑に交差した谷の一つ一つに固有の物語が埋まっている。土地の文化を拾って開いては楽しんでいる。それへの観察は自己の感性に基づいている。

  このところ大井町的観点から荏原の文化を眺めていた。荏原の文化的特色は首都と距離を置いていることである。中心地から離れたローカルポジションにこそ文化は眠っている。東海道五十三次、出発地の日本橋のつぎは品川宿である。大井町に近いところだ。

 この品川宿には寺院が多い。軍備防衛上の意味もあると聞いた。西から攻めてきた敵軍を前線の品川で迎え撃つ。寺の本堂などは即刻兵営となったという。

 荏胡麻の取れたところから「荏原」と言われた。現在の区名だと、品川、大田、目黒、世田谷である。いわゆる城南地域である。大部分を武蔵丘陵が占めている。西の縦のラインは多摩川である。この左岸の国分寺崖線に古代の墳墓が連綿と連なっている。東は目黒川ラインでである。左岸はやはり高く、富士のビューポイントとなっている。旧来華族系のお屋敷がある。荏原最南端は東京湾だ。大森、羽田は海苔養殖が行われていた。海中に立てる海苔粗朶には内陸部、世田谷山崎辺りの欅の切り落とし枝が使われていた。北の境界は甲州街道が通り、そして、玉川上水が通水している。飲料水ライフラインである。後に京王電車が走るようになる。

 荏原全体の縁の南北は東西に走る重要街道にはさまれている。東西を南北に流れる多摩川と目黒川は水運に使われていたが鉄道交通の発達によってそれは役割を終えた。

 交通路的には先進的な地域であった。それも新旧入り交じっての線区開通である。荏原南端を走る東海道線はその中でももっとも古い。東京という首都が膨れあがるにつれ鉄道が荏原内陸部を中心に敷設されていった。東京市内との連絡線であったのは玉川電気鉄道と京王電軌鉄道である。明治末期の敷設だ。昭和になって小田原急行電鉄、帝都線、池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄などが相次いで開業した。

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2008年04月18日

下北沢X物語(1074)〜たぬき鉄道文学鉄道妄想旅行5〜

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    汽車の出現は交通において革命的な変化をもたらした。「歩く」から「乗る」へである。身体的運動から精神運動への変化である。夏目漱石の「草枕」での汽車論はこう述べる。

  汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。

 鋭い文捌きの文明批評である。かつては主体的に移動することが旅であったが、汽車はそうではない。狭い箱に人は押し詰められて情け容赦なく轟々と音を立てて人を運んでいく。茶屋へ休んでちょっと一杯などということはできない。人間は人間でない、荷物である。物として運ばれるだけである。

 「歩く」から「乗る」への変化は単に動詞が変わるだけではない。人の営為そのものが根底的に変わるということである。歩くというのは五体的なものであろう。足、手、頭脳などが駆使される。自らが動くことによって距離は獲得される。主体的な運動である。が、一方、汽車に「乗る」ことは言わば受動的な静止である。車室に閉じこめられて待っているだけである。出来ることは移り行く車窓を眺めること、新聞や本を読むこと、弁当を食べたり酒を飲んだりすること、ぼんやりと自分を見つめて思考することなどである。つまりは暇つぶしである。

 古代の文学は主体的な運動によってもたらされる場合が多かった。芭蕉の文学はその芸術的な短詩が称賛される。が、自らの足で獲得した景色ゆえに感銘や感動も深い。「荒海や佐渡によこたふ天河」も詩人自らが長い旅の道のりを歩いた末に獲得した感慨である。それだけに読み手の感銘や共感も深い。

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2008年04月16日

下北沢X物語(1073)〜たぬき鉄道文学鉄道妄想旅行4〜

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  国家研修施設での講義が今年もまた始まった。「わたしたちが過ごしている近代時間というものの根源は辿って行くと鉄道開通に行き着く。」という話をした。若い研修生はたぬきに化かされたような顔をしていた。近代のたぬきおやじは自分なのかもしれないと思った。

 「時間と空間の抹殺、これが鉄道の働きを言い表す十九世紀初期の共通表現であった。」
W・シヴェルブシュの「鉄道旅行の歴史」の第三章は「鉄道の空間と鉄道の時間」という見出しで始まる。その冒頭である。

 この本を初めて読んだとき、少なからず衝撃を受けた。鉄道開通が社会を激変させたということが論理的、哲学的に記されていたからである。日本の文献には見られない切り口である。ことに汽車の出現によって「時間と空間の抹殺」が行われたというのはなるほどそうだったのかと驚嘆したものだ。

 日本に鉄道が開通してどう変化したかについては興味を持っている。鉄道開通によって巣穴を壊された「たぬき」が蜂起したこともその一つである。

 鉄道開業エピソードは多くの書物にまとめられている。「新橋を発車した汽車が横浜へ着いたところ、客が誰も降りようとしなかった」(「明治の汽車」交通日本社)新橋横浜間に試運転列車が走り始めたころそれを見ようと大勢が大森辺りまでやってきたそうだ。「侍のような人物が『火竜のようだ』というと、みんなが『火竜のようだ、火竜のようだ』と同調した」(「汽車・電車の社会史」講談社新書)などとある。明治五年五月、品川横浜間の仮開業でも人々が多く集まった。「陸蒸気見物のため沿線にむらがったひとびとが、はじめて見る異様な文明の利器に驚異の目をみはった。」(「日本の鉄道」100年の話 築地書館)

 

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2008年04月15日

下北沢X物語(1072)〜たぬき鉄道文学鉄道妄想旅行3〜

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  鉄道開通は明治五年のことだ。今となっては大昔のことになる。が、歴史的には136年前のことである。そんなに遠い昔のこととは思えない。

 去年、広島を訪れ取材をした。自分にとって驚くべき証言を二つ得た。その一つが生まれて初めて鉄道に乗った人の話である。福塩線の列車に乗ったときの驚きを彼女は語ってくれた。十四歳のときのことである。駅やホームがなんのためにあるのか分からない。みんなが何かを待っている。

 彼女は駅から遠く離れた中国山地に住んでいた。広島電鉄家政女学校に入学するために山奥から駅まで出てきた。「広島まで汽車で行く」ということは聞いて知っていた。が、その汽車というものの正体は分からない。みんなが待っているから自分もホームに待っていた。すると得体の知れない真っ黒な機械がやってきた。みんなは恐がりもせず箱に乗るから乗った。するとそれが動き出す。立ったままの彼女は不安定だ。しかも隣の車両に友だちが乗っているからと誘われ、その彼女についていく。すると連結器にさしかかる。ところがそこには幌も何もない。鉄製のむき出しの連結器があるだけだ。彼女の友人は慣れているようでひょいとそこに足をかけてつぎの車両に移って行った。

 ところが彼女は立ち竦んでしまった。地面には縞模様が流れていた。空間が縦に流れている。その上には連結器の橋がある。迫られているのは空間を流れている鉄の橋を渡ることだった。「恐くて、恐くて仕方がなかったんじゃけど、渡っていくしかなかったですね」と彼女は言った。意を決して足を前に踏み出し、そこを飛び越えた。

 汽車も自動車も通らないところで育った彼女にとって、連結器を渡ることは文明の洗礼だったと言える。恐怖である、が、その挑戦をすることで皆とともに広島にたどり着けた。福屋百貨店は見上げるような高さで驚いたと言う。

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2008年04月13日

下北沢X物語(1071)〜たぬき鉄道文学鉄道妄想旅行2〜

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  たぬきの化け話は面白い。機関車に化けて人々を驚かしたというところがほほえましい。こういう民譚は、聞くとつい笑ってしまう。

 今朝、13日の朝刊を読んでいたら「天声人語」の冒頭にこうあった。

 キツネにくらべると、タヌキはどこかとぼけている。ともに「化ける」ようだが、キツネの七変化に対し、タヌキはもっぱら縞柄の着物である。ときおり化けそこなって、しっぽを出しているそうだ。

 キツネも化ける。が、これは恐い。その点、タヌキは安心である。化け損なってドジを踏むことがよくある。鉄道開通時に彼らは、巣穴を壊した憎らしい鉄道に仕返しをしようと機関車に化けて鉄道員を驚かせようとした。ところが機関士は青い目のお雇い外国人であった。これに化け術は通用しない。鈴木さんにはかかるがジョンソンさんには通じない。ところがチャンスが巡ってきた。

 日本の鉄道は明治十二三年頃よりようやく日本人の手によって運転されるようになったのであった。ここに至って狸も狐も昼寝から起ち上り、偽汽車を走らせはじめたのではなかったか。現代民話考�掘‐消�みよ子「偽汽車・船・自動車の笑いと怪談 立風書房

 目黒川左岸の高い山は近代日本にとっては障壁であった。それを突き崩す土木工事、その結果、たぬきの巣穴が壊された。それによって古代のたぬきがlocomotiveに襲いかかった。彼らたぬきたちは果敢にも全国の山野でつぎつぎに汽車に化けて、仕返し作戦に打って出た。ところが、その多くは討ち死にしてタヌキ汁にされてしまった。

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2008年04月12日

下北沢X物語(1070)〜たぬき鉄道文学鉄道妄想旅行〜

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    近代の原点は鉄道である。その牽引役は蒸気機関車である。発祥の地英国では、「locomotive」と言われる。原義は「それからそれへと動く」という意味である。この言葉自体が機械そのものの速度を含み持っている。

 わたしが入院していた大井町の病院の脇には東海道線が走っている。ベットに寝ていると東海道線や京浜東北線の電車が頻繁に通過する音が聞こえてくる。かつてのように趣のある音ではない。ばぁうばぁうばぁうと耳障りな音を立てて過ぎるのは京浜東北線である。そんな音を聞きながら自身は思いに耽った。たぬき鉄道や郷愁文学鉄道を想像した。

 内田百�里痢崑莪谿に捨鷦屐廚砲海Δ△襦E豕�駅を出発した特急「はと」のことである。

 すぐに新橋駅をふっ飛ばし、それから間もなく、品川駅は稍徐行し、暗い歩廊の屋根の陰を車窓にうつしながら通過した。
 品川を出て八ッ山のガアド下を過ぎれば、まずその辺りから汽車は速くなる。座席の椅子のバウンド具合も申し分ない。(新潮文庫)

 八ッ山のガアド下は切り通しになっているところだ。この区間を通り過ぎと直線区間になって速度を増したという。その切り通しはかつては桜の名所として飛鳥山と並び称された御殿山である。今でも深い切り通しとなっている。ここを抜けたとたん、床下が「がぁうがぁう」と鳴る。目黒川を渡る橋梁に差し掛かるからだ。つまりは北沢川下流である。

 前から唱えている自説がある。荏原の川は左岸が高いということだ。ここでもそれが当てはまる。御殿山の切り通しは目黒川左岸の高い崖だ。それを通るために切り通しが設けられた。かつては本当の山だった。切り通しの南手に「権現山公園」がある。東海道線、新幹線、山手線、これらが展望できる公園である。かつて、ここにはたぬきが住んでいた。そのたぬきはかねてから機会を窺っていた。

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2008年04月10日

下北沢X物語(1069)〜荏原南端病院滞在記2〜

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 病院時間は流れが緩やかだ。ベットに横たわって考えたり、思ったりする。そんなとき過去情景の様々な場面が思い起こされた。「人間は記憶風景を反芻して生きる動物である」とも思った。また、ふと「日本語は獲得言語ではないのではないか」とも思った。

 日本語は折り合いの言語だ。それゆえに述語が最後に来る。人が共に生きるための言葉である。能動性に欠ける。例えば、「ゆとり」である。状態を表す名詞である。思ったことはこの言葉の動詞がほしいということだ。あるがままの和語では、獲得を主体とする現代では間尺に合わないように思う。そういうことからすると主体的、能動的に、ゆとりを獲得していくという意味の動詞、「ゆとる」がほしい。「疲れ気味だ、ちょっとゆとろう」とか、「おい、お前働き過ぎだよ。ゆとれよ」とかというふうに使われると面白い。肉体的にも精神的にも疲れることの多い現代では必要な語だと思った。ゆとりをゆとろう!。病床で考えついた自分への言い聞かせ標語である。

 富士を眺めてゆとりたいところだが建物の高層化、地球大気の汚れから、その姿は人々の視界から消えつつある。富士の姿を眺めては自己の気付け薬にしていた人もいたことを今回知ったことだ。

 入院していた東芝病院は荏原南端の丘の縁に建っている。ちょうどその縁に沿うように東海道線が西へと走っている。七階から眺めると大森方向へは右手から押しよせる丘を巻くように線路が延びている。つぎの駅は大森で、そのつぎは蒲田である。

 大森の町を離れて蒲田近くになると、田野広闊、一望際無く、唯雲外遙に富士の姿を望む。このあたり関東平野の面影を見る。

 明治四十年発行の「東海道線旅行図絵」に掲載された記事である。わずか二文であるが読み解く面白さがある。

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2008年04月09日

下北沢X物語(1068)〜荏原南端病院滞在記〜

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  時間は自身の精神と肉体とが支えている。コントロールしているのは自分である。高速、中速、低速、いずれの速さにも変えられる。が、平生はそれは分からない。即時性こそが命とばかりに自身の時間を近代高速回転時間にしていた。ところが、病院に入院するとたちまちに低速時間になる。時間はギアチェンジができる、荏原南端の大井にある東芝病院に入院してそう思ったことだ。

  あてがわれた自分のベットにはうずたかく時間が積み上げられていた。その時間をどう調理するか自分次第である。持参してきた本は一冊だけだ。「英国鉄道文学傑作選」である。折々、これに読み耽った。ちょうどすぐ脇を東海道本線と京浜東北線が通っている。この区間は日本で一番最初に鉄道が走り始めたところだ。

 鉄道を読み、鉄道の音を聞きながら、感慨にも耽った。そうしている間に電車が通る。その音から京浜東北線か東海道本線の電車かの区別はつく。前者は、「うばぅうばぅうばう」と聴こえる。せわしない。

 そんなことを思っているときに、「狭軌鉄道は狭隘だった」と思った。機関車にせよ、客車にせよ、小ぶりでせせこましい、スケールが小さい。田山花袋は「東京の三十年」というエッセイでフランス人のピエル・ロチの見た鉄道見聞記を紹介している。それは「日本にも汽車!小さな小さな汽車!がたがたと体も落付けていられない汽車!」というものだ。

 日本の一号機関車の仕様の一つ一つの数値を並べても詩にはならないだろう。が、ウエインが描く英国鉄道のそれは大きさと形、そして美を思わせる。「伝熱面積、二○五○平方フィート。総重量、五十八トン一九○○ポンド。こうした数字は彼の頭の中では、不朽の詩の文句のように輝いていた。」(「おやすみ、かわいいディジー」 ウエイン)

 彼我の差はかなりの懸隔がある。蒸気機関車発祥の地の鉄道は活字からだけでも伝わってくる。大きさ、優美さ、音の深みなどである。コンパートメントの奥は暗がりがあって見えない。そこに凶器のナイフがあったとしても分からない。が、日本の狭軌鉄道の場合だと座席のしたの暗がりには牛乳瓶や日本酒の一合壜転がっていて、列車がカーブに差し掛かる度にそれが足もとを小うるさくあっちにいったりこっちにいったりする。

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