2009年02月

2009年02月28日

下北沢X物語(1278)〜鉛筆部隊と武剋隊4〜

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    武剋隊は関東軍で急遽編成された部隊のようだ。西満州の白城子早台飛行場に集結した。昭和20年2月13日のことだ。翌、14日に「5個編隊15機に各々整備員同乗」して平壌に着いた。17日に平壌を発って大刀洗飛行場、宇佐飛行場に着陸した。18日に各務原飛行場に向かって飛び立ち、全機が無事に着いた。

 ところがちょうどこの2月15日にB29による空襲が行われている。「三菱発動機工場」が標的となって二万発の焼夷弾が落とされていた。名古屋に近い各務原飛行場は空襲の危険があった。それで武剋隊は2月20日に松本へ移動し、ここで特攻機用として「爆装改修」を行った。この間に、武剋隊の隊員の六人は浅間温泉の旅館に出発までの間滞在した。そこに疎開していたのが千代の湯の代沢小児童だった。

 それは一月ほど前、まだ山の北側には雲が残つてゐる二月のある日疎開学寮になつてゐるこの千代の湯に六人の兵隊さんが宿泊しました。一人だけが二十五歳ぐらゐで、後の五人は二十歳前後の若い航空隊の下士官でした。兵隊さんでなくては夜も日も明けない学童たちは、その日のうちにもう兵隊さんと仲よしになり、お湯へもいっしょに入れば手をつないで散歩もする。学童たちが前に習ひ覚えたマライの歌を合唱すると、兵隊さんは満州の歌を学童に教えたりして、この学寮では兵隊さんと遊ぶのがまるで日課の一つのやうになりました。(「神鷲と鉛筆部隊」昭和20年5月6日号、「週間小国民」)

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2009年02月27日

下北沢X物語(1277)〜鉛筆部隊と武剋隊3〜

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  「あの戦争の時代、特攻隊の人たちは青春をああいうふうに燃やすしかなかったんですよね。死んでいった人たちの思いは大切にしなくてはいけないと思うのですよ。立川裕子さんはそんなことを手紙に書いていましたね。病気の方もよくなって、退院して親戚のいる岐阜のほうに行かれるとか。手紙を公表することについては本人が了承してくれましたよ。」
 田中幸子さんから昨日電話があった。矢花克己さんを通して手に入れることのできた立川裕子さんの手紙、この公表許可を田中さんを通してお願いしていた。立川さんは「かまわない」とのことだ。わたしはそれを聞いて安堵したことだ。手に入れた手紙が幾ら貴重なものだと言っても私信である。部分的に引用していたが、心苦しいものがあった。

 立川裕子さんの貴重な手紙がある。昭和二十一年一月六日夜に書かれたものである。彼女は十三歳になっていた。とくに手紙の最後の方で、敗戦について本人の率直な気持ちが綴られている。現代に生きている我々はこれに耳を傾けるべきだと思ったことである。

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2009年02月25日

下北沢X物語(1276)〜鉛筆部隊と武剋隊2〜

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  インターネットでの偶然的な出会いから一つの真実が分かった。そればかりかたまたま鉛筆部隊の書簡を手に入れられた山梨の矢花克己さんからはそれらの資料のすべてのコピーが送られてきた。それを一枚一枚めくっていくときは戦慄が走ることがある。

 立川裕子さんが昭和19年11月28日に出した葉書の中に不思議なものがあった。前四行は子どもの字で書いてあるが後半は大人が書いたものである。

 二十八日点呼前に書す。大変長らく御無沙汰申し何とも申し訳ありません。どうかお許しを願います。ネジ氏益々元気にして居りますから御安心下さい。敵機いよいよ来襲!。
 頑張って下さい。小生実にくやしくてくやしくて。然し如何ともするあたはず。早くあの特攻隊の精神を‥‥‥。遙か信州の地より皆様の御奮闘をお祈り申します。奥様にくれぐれも宜しくお伝え下さい。 浅間千代の湯 修

 「修」というのは誰か、ひょんなことから分かった。山花克己さんが送ってくださった「聖丘学寮のうた」のコピーを松本明美さんに送ったところ、こう返事ががあった。

 コピーの右上に書かれている「小林修」という名は浅間温泉千代の湯の今の当主の方です。私達がいた時は「若旦那」現在八十三歳の人です。平成十九年十一月に田中さんの発案で三軒茶屋でお逢いしました。

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2009年02月24日

下北沢X物語(1275)〜鉛筆部隊と武剋隊

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  わたしたちの記憶から戦争は遠ざかっている。惨たらしく、惨めで、辛い、戦争だった。が、今でも人びとの記憶の中に生きている。一昨年のことだった、広島で新谷ヨシ子さんに会った。かつて広島電鉄家政女学校にいた人だ。彼女は電車に乗っていて鷹野橋で被爆した。他に仲間がいたが今に至るまでその安否は知らない。恐くて聞けないからだという。

 戦争からもう64年が経過している。が、それでも往時のことを覚えている人が何人もいる。ところがそれも消え失せつつある。聞いておかなければ消え失せてしまうという話は幾らでもある。戦争を経験した人が老齢化してその記憶も薄れつつある。聞くのなら今のうちではないかと思う。

「ここの三菱電機があったところは戦時中は、落下傘作っていたといいます。特殊羽二重を作っていたんですね。20年5月25日の空襲でこの池尻は焼けてしまうんですよね。工場内にあった羽二重は下の方は焼け残っていますから無事ですよね。それを近隣の奥さんたちが競って持っていったということですよ。」
 この間の駒場の戦跡歩きで地元の上田さんから聞いた話である。 

 惨たらしい話、惨めな話、辛い話、いい話もひっくるめてわたしたちは記憶して置こう。鉛筆部隊の疎開児童たちも年々歳を重ねている。もうあのときから遠ざかって65年になろうとしている。これもやはり忘れがたい出来事で今でも鮮明に覚えいる人がいる。

 代沢小は塩尻町を中心とした地域に再疎開をする。そのうちの広丘村の郷福寺で歌われていた寮歌の歌詞が知りたい、そんな旭正章さんのコメントがこのブログにあった。彼は当時郷福寺に住む村の子供だった。歌をうろ覚えに覚えていてできればその正確な歌詞が知りたいということだった。

 「聖丘寮歌のうた」は彼には熱い郷愁を催させるものだった。終章の四番などを口ずさむときっとたまらない思いが湧いてきたろうと思う。64年前の故郷へ気持ちが飛んでいったろうと思う。彼の母親もこの歌詞が分かって、往時の記憶が蘇ってきたと言う。長い長い日記を書いていると聞いている。どんな思い出だろうか。

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2009年02月22日

下北沢X物語(1274)〜駒場の戦跡を巡る小さな旅〜

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     比較戦跡論という視点もあり得ることを駒場の戦跡を巡って思ったことだ。どこと比較するか。それは「駒沢練兵場」である。

 駒場地区には西から「輜重兵第一大隊」、「近衛輜重兵大隊」、「騎兵第一連隊」があった。輜重兵とは軍需物資を輸送する兵員のことである。輜重兵にせよ、騎兵にしろ馬が必須のものである。ゆえにコースの随所で馬が匂った。「騎兵山」の「馬神」碑、「陸軍獣医学校跡」の「軍馬碑」にはニンジンが供え物として置いてあった。

 駒沢練兵場と駒場の軍事施設は近い。大山厚木街道を挟んで南に駒沢練兵場はある。その北が駒場の各施設である。

 駒沢と駒場、この周辺にあった軍事施設は丹念に探さないと分からない。二つの戦跡を巡って思ったことはこの国家は歴史をしっかり刻む意志がないということである。公的な案内表示は皆無である。多くの将兵がこれらの地区で鍛錬し、訓練し、そして戦場に送られた。無事帰還したものもいるが多くは戦死している。

 負けた戦争の記憶は残さない。そういう思想や考えがこの国家にはある。臭い物には蓋をという考えである。広大な軍事施設があったことを記憶しようとしないというのも原因はそこにある。馬神碑、馬頭観音、天覧台碑などもかろうじてある。が、これは部隊で生き残った者たちが後世に記録を残そうと補修したり、残したり、運動して今にあるものだ。

  比較戦跡論という観点を先に提示した。駒沢軍事施設と駒場軍事施設の比較である。前者は目黒川右岸である。後者は左岸である。自身ではなるほどと納得のいくものがあった。わたしの文化探査周遊から学び得たことは荏原では左岸高い説が通用する。駒場の場合は左岸で崖になっている。騎兵山からは富士の眺望がいい。

 駒沢練兵場は西隣に野砲兵軍団の兵営があった。野砲兵は大砲を馬で運ぶものである。坂道登坂訓練は行われていたがどこもここも勾配がきつすぎると訓練に支障をきたす。それで右岸の地形がフラットな地点を選んだのかもしれない。

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2009年02月21日

下北沢X物語(1273)〜「鉛筆部隊」の64年の軌跡6〜

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 「鉛筆部隊」の逸話は果てることのない物語である。わたしが一番嬉しく思うのはこの話が静かに、そしてひそかに伝わりつつあることである。

 一連の記事に触れて、当時の子どもたちの親への思い、友だちへの思い、これが熱くあったこと、また、特攻隊の青年が子どもたちに残していった言葉が今も人の運命の中に生きていること、これらのことを知って心を動かされたという人が幾人かいるという事実は大切なことである。

 山梨の矢花克己さんは偶然に骨董市に出ていた古手紙の束を手に入れられた。それは長野県の疎開先から世田谷北沢の親元へ出された手紙だった。奇しくもこの中に「聖丘学寮のうた」が残っていた。当初、「鉛筆部隊」と記された手紙の正体が分からず、矢花さんはネット検索にこの語をかけた、そうしたところわたしのブログにひっかかった。

 わたしは武剋隊の一人、今野軍曹が子どもたちに宛てた手紙をブログで引用していた。「鉛筆部隊の諸君、お元気にお暮らしのことでしょう」という箇所である。岐阜の各務原か、熊本の健軍かで書かれた、鉛筆部隊への最期の書き残しである。これを書いたのちに彼らは沖縄に飛び立った。そして、「三月二十七日、沖縄慶良間列島沖の敵機動部隊に突入」した。

 これらの経緯をブログで知って、矢花さんは学寮歌と手紙の十数枚のコピーを送ってくださった。このことがまたきっかけとなって鉛筆部隊の日常がどんなものか解ってきた。随時そのことはブログで記していた。

 これらの記事を読んだり、立川さんの手紙改めて見たりするうちに、矢花さんは疎開先の現場を見てみたいという気持ちになったのだろうと思う。児童たちが通っていた広丘小学校、浜館菊雄氏が学寮長を務めていた真正寺、そして、柳内達雄氏が学寮長だった郷福寺に行かれたようだ。

 

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2009年02月19日

下北沢X物語(1272)〜「鉛筆部隊」の64年の軌跡5〜

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 私たちの使っている言葉というものの重みが薄れて来ている。その分人と人の関係性も一層に薄くなっている。しかし、鉛筆部隊の子どもたちが64年前に出会った人、その人びとが発した言葉は未だに生きていて人を熱くしている。

 鉛筆部隊の一人だった田中さんから昨日は電話があった。
「ええ、64年も前のことですけどね、覚えていますよ。『お嫁さんになってほしい』という武剋隊の、その方の言葉ははっきり覚えていますよ。」
 
 疎開先の浅間温泉の旅館「千代の湯」に兵隊たちがやってきた。飛行機の装備を付け替えるまで彼らはしばらく滞在した。その間に疎開児童たちと仲よくなった。

 「自分のお嫁さんになってほしい」と田中さんは武剋隊の一人に言われた。が、彼らは松本空港を飛び立っていった。鉛筆部隊がいる「千代の湯」の上に飛んできて、上空を旋回し、両翼を左右に振って空の彼方に消えて行ってしまった。それは忘れようにも忘れられないことだ。彼女は特攻戦没者慰霊平和記念教会に入会し、松本を飛び立った武剋隊の人びとの慰霊を今も続けている。
「立川さん、まだ入院しておられるんですよ。ええ、でもね、偶然から手紙が出てきたといえ、彼女はそうやって手紙が残されていることを喜んでいると思いますよ。」
 このところ、山梨の矢花さんから送っていただいた手紙を公表していることにためらいがあった。貴重な資料として公表しているが本人の同意を得ていないということが気にかかっていた。その田中さんの言葉を聞いてわたしは少し安心した。

 「聖丘寮歌のうた」が分かったことからまたエピソードが生まれはじめている。
この話のきっかけを作られた旭正章さんは広丘の郷福寺についこの間行ってこられたそうである。当時使っていたオルガンが残っていたという。一つだけ鳴らないものがあるが他はなんとか鳴るとのことだ。「お寺は改築されて当時とは違った雰囲気ではありましたが、門と樫の木だけはそのままに、懐かしく触れてきました。」とメールにはあった。

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2009年02月18日

下北沢X物語(1271)〜「鉛筆部隊」の64年の軌跡4〜

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 このブログへの一つのコメントから戦争物語は始まった。時間冒険旅行だとも言える。が、これには終わりがない。筋を持たない、日々の時間の展開の中で、話は、あっちに行き、こっちに飛びして、自身でもこの話の落ち着き先はわからない。もう一月以上この話題にこだわっている。スリリングな展開に惹き付けられるからだ。

 ここでいう鉛筆部隊、彼らの疎開は昭和二十年八月十二日に始まった。五百名近い人数が小田急線下北沢駅から電車に乗った。往時の短編成では収まり切れない。恐らく経堂の車庫から臨時電車が出て、この人数をさばいたのではなかろうか。

 その時からもう65年が経過しようとしている。ところがその時に起こった出来事はいまだに関係者の記憶に生々しく生きている。このことを考えていくと、この経過の背景には大きなものが潜んでいる。そのことに次第に気づいてくる。抽象的に言うと、それは時間論であり、言葉論であり、戦争論である。具体的にいうと言葉、互いに交わした言葉の記憶である。それがいつまでも、ことに女性には忘れられないものとして残っている。

 昭和十九年十一月二十八日づけで「信州浅間温泉千代の湯」から出された手紙がある。戦況の変化がこれによって分かる。立川裕子さんの葉書である。

 お父様、お母様お變りありませんか。こちらはこの絵のとほり元気に暮らしております。東京はこのごろはちょいちょい空襲があるそうですね。大變でせう。でも米英撃めつです。さいわい私達は信州にそかいして来て仕合わせです。お父様もお母様もしっかり働いてください。いつかのお手紙にあったやうにお父様は羽田で、お母様は家庭で米英をやっつけて下さい。それからこの絵をみてください。まき拾いの絵です。こんなに元気です。日曜と水曜はまき拾いになりました。きのふは映画を見に行きました。フクチャンのせん水艦も見ました。

 

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2009年02月16日

下北沢X物語(1270)〜「鉛筆部隊」の64年の軌跡3〜

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    鉛筆は身を助けるものだ。言葉で現象を捉え、それを文字化する。繰り返しその訓練を行うことで書く力、他者へ訴える力がついてくる。それが自分を助けることになる。

  時は経巡る、昭和19年も夏から秋へと変わっていく。が、日に日に戦況は悪化していった。疎開児童は鉛筆ばかりを握ってはいられない。鍬を、カマを握り畑を耕したり、農家の手伝いをしたりした。

 昭和十九年8月22日、世田谷区北沢四丁目に宛てられた葉書には「鉛筆部隊」の四角いハンコが捺されている。立川裕子さんの葉書である。(これらの手紙は矢花克己さんがコピーして当方へ送ってくださったものである。)

 お父様、私は毎日元気で暮らしてゐます。
 私たちは九月一日から学校が始まります。それですからカバンを送ってください。それといっしょに(バイニクエキス)をなんかに入れて送ってください。毎日おふろに入ってゐるのでとてもきれいなからだです。なんだかからだがふとったやうな気がします。毎日勉強をします。美千子ちゃんにも田島のさんのをばちゃんにもよろしく言ってください。私は家のことなんか朝がた思ふきりです。でも米英げきめつですからさびしくありません。お国のためにそかいして来たのですもの。うんと体をきたへて見ちがへるやうにします。さやうなら。

 矢花克己さんから送っていただいた手紙類は戦時の疎開児童の生活状況を証す資料である。往時の生活、それのみならず子どもたちの思考までもがよく分かる。小国民として米英撃滅までなんとしてでも頑張らなくてはならないという気持ちである。「うんと体をきたへてみちがへるように」するという決意、そこには「鉛筆部隊」としての使命が自覚されている。

 立川さんの葉書には「毎日おふろに入ってゐる」とあるが、温泉旅館にたまたま疎開できたからである。他の学校の児童は沸かし湯だけにお風呂にはなかなか入れなかった。シラミ取りにそれで苦労したという。

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2009年02月15日

下北沢X物語(1269)〜「鉛筆部隊」の64年の軌跡2〜

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 古い過去を探し当てようとする人はパイオニアである。
 昨日、昼には三田用水跡を探索し、夜には下北沢タウンホールで東京大空襲をテーマとした演劇を観た。下北沢から家に帰るまで、三田用水と東京大空襲、この二つの共通点は何だろうかと考えた。思いついたことは、これらのことは人の記憶として、残るか残らないかぎりぎりの瀬戸際に来ているということだ。ゆえにこれを記憶として留めようとする人は間違いなく新しい開拓者である。

 前者は、長年、興味を持って調査を続けてきた、きむらたかし氏が案内をしてくれた。この水路の目黒駅までのルートはおおよそであるが当てずっぽうの見当はつけていた。が、目黒駅以東はほとんど知らなかった。彼の案内によって初めてそのルートを知った。水先案内人がいなければ分かりもしない。これほど子細に知っている人もいないと思われた。
「いや、もう三田用水のことなんかほとんどの人は知りませんよ。ここらじゃあわたしぐらいなもんだよ」ということばを探査途中で二人ぐらいの地元民から聞いた。人びとの記憶から近代水道の思い出の記録が消え果てつつある。

 後者は、脚本演出の千田恵子さんである。東京大空襲をテーマとした芝居「おもいできらきら」を書いた人である。自身も監修者として加わった劇である。彼女自身戦争経験者ではない。わたしもそうである。ゆえに戦争体験を残そうとすることには困難を伴うものだと感じている。
「物語は作ってみてその世界が見通せるように思います。その形が劇を実際に演じることで見えてきたように思います。東京大空襲を浮かび上がらせることはできた。これは貴重な経験です。ぜひ戦争経験を今後とも伝えてほしい。協力しますから‥‥」
 劇が終わった後に、そのような感想をわたしは千田さんに伝えた。
 時間が経過するにつれ戦争経験は伝えることが難しくなっている。経験した人がもうどんどんいなくなりつつある。今まさに人の記憶からごっそりと消えつつある。そうであるゆえに伝えていく必要があると思う。伝えて行ってくれる人が育っていってほしいと思う。

 三田用水の跡を歩いたり、東京大空襲の劇を観たりして家に着いた。すると一通の封筒が届いていた。「財団法人:特攻隊戦没者慰霊平和記念教会」からのものである。なぜ、自分にここから手紙が来るのだろうか?。とても不思議だった。封を切ると、中から「あヽ特攻」〜私たちは決してあなたたちを忘れない〜と題されたCDが出てきた。

 

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2009年02月13日

下北沢X物語(1268)〜ドンガラ様への遙かな旅〜

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   この頃は自転車には乗らない。歩いて各所を探訪している。この日常での行動、動きは文章にも反映するものである。前の自転車での文化探査は速度がはやい分、多くのものが発見できた。が、その分せわしない、めまぐるしい。観察した対象を熟成できないうちに記事をまとめて発信してしまうことがあった。

 ところがこの頃は、一つのテーマに時間がかかるようになった。文章が歩行速度で書かれているからかもしれない。歩行では深い観察ができる。

 昨日は、前々から気になっていた池上警察署脇の胴殻様まで歩いて行った。家からだと呑川を下ることになる。前はよく左岸の大岡山半島を下っていた。が、この頃は右岸の久が原台地を行くことにしている。多少の起伏はあるが、ほとんどがここはフラットである。どこまでも続く平坦な道のずっと向こうに高層ビルが見える。西の方だからかつての鶴見操車場の跡にできたビル群ではないかと思う。

 久が原台地は全体が弥生時代の集落跡である。今は区画整理された道が縦横に走っている。いずこの交差点でも立ち止まって四方を眺める。やはりフラットだ。更に行って道が下りかかると台地の終端に近づいたと実感できる。

 どこまでも続く平坦な台地を歩いていると不思議な感懐が湧いてくる。遙か大昔からここに人が生活を営んでいたことが足裏にじかに伝わってくるような気がする。古代への旅である。

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2009年02月12日

下北沢X物語(1267)〜「鉛筆部隊」の64年の軌跡〜

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  気づいてみると文学詩歌の痕跡が鉄道交点近辺に集まっていた。それはなぜなのかという記事を書いていた。過去ログの、「下北沢X物語(1028)〜文学詩歌はなぜ鉄道交点に集うのか7〜」である。この記事に「聖丘学寮のうた」への深い愛着を感じておられた旭正章さんが、歌の歌詞全部が分からないかとコメントしてきた。物語はそこから始まった。

 わたしはつぎの記事をここで書いていた。 

 プロレタリア歌人の渡辺順三は下北沢南口の「大地堂」という古書店を営んでいた。
彼は自伝「烈風の中を」で「ある日の夜、私の店の前をぞろぞろと小学生の列が通った。燈火管制で町はまっくらであった。先生は提灯で道を照らしながら引卒してゆくのである。子供たちは黙々と暗い町をのろのろ歩いて行く姿はあわれだった。」と書いている。そして三首の歌を詠んでいる。うち一首である。

集団疎開の学童の列がこの町を通りてゆけり夜の十時頃

 実際の期日は昭和19年8月12日のことだった。店の前は上りのだらだら坂が駅方向へと続いている。下北沢特有の路地道である。人が歩けばその足音が響き渡る。黙々と歩いていく児童の列は、たるたっと、とてたっとと音がするばかりで不思議であった。

 路地道には響きがある。その響きを歌にするような歌人が住んでいた。入り組んだ路地道はあるいは特高に追われたとき逃げやすいということがあったのかもしれない。こういう詩歌の陰影が、巡り巡って、「聖丘寮歌のうた」へと結びついたと考えるとおもしろい。

 

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2009年02月10日

下北沢X物語(1266)〜蘇生した学寮歌への静かな反響5〜

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     疎開先のお寺で歌われていた寮歌探しは、往時に深い郷愁を持つ人びとに深く静かに伝わっている。自身の知らない意外なところにそれが伝わっていて驚きもする。

 喫茶店「邪宗門」を訪れた男女が「聖丘学寮のうた」の歌詞を持っていて、男の人がその歌をうたったという逸話にもびっくりしたものだ。どうやら女の人は、「学童集団疎開」を書かれた浜館菊雄さんのお嬢さんのようである。そして、歌をうたった人は川田明義さんと言ってやはり広丘村に疎開されていた人のようだ。

 学寮歌探しを去年の暮れに松本明美さんにお願いしていた。歌の二番を諳んじていた彼女も他の歌詞を知りたいということで作曲者の浜館菊雄さん、そして、作詞者の柳内達雄さんのところを訪ねると言っていた。年明けて、行ったところ残念ながら当時の資料はないと言われ、がっかりして帰って来られたようだ。

 「邪宗門」で寮歌を唄った話の細かい経緯については、マスターの作道さんが調べてくれることになっている。が、自身はおおよその想像をしている。川田さんが、多分、ネットで「聖丘学寮のうた」を探していると知って、同級で知り合いの浜館さんの娘さんに電話をして聞いたのではないだろうか。彼女は松本明美さんに言われて、探していた。それがひょっこりと出てきたのかもしれない。

 

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2009年02月09日

下北沢X物語(1265)〜蘇生した学寮歌への静かな反響4〜

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   「聖丘学寮のうた」は64年前の広丘村の郷福寺で響いていた歌である。この思い出の歌は、奇縁奇遇が重なって奇跡的に見つかった。ところが話は終わらない。この背後には幾つものエピソードが隠されていた。それは人びとの心に刻みつけられていていまだに生きている。

 今日も驚くべきことを聞いた。「邪宗門」の店主の作道さんからである。
「この間、お二人の方がお見えになりました。女性の方が、『聖丘学寮のうた』の歌詞を持っておられて、男性の方はそれを見て、『おれ、この歌うたえるよ』と言われてお歌いになったんですよ。それで、『これおれ覚えているから楽譜作ってくるよ』と男の方が言われたんですよ。代沢小の疎開児童の方たちだったんですね」
 この歌詞はどこから出たのだろうか?。また新たなミステリーが増えた。

 一昨日のことだ。田中幸子さんから資料が送られてきた。昭和二十年五月六日号の「週間小国民」である。タイトルは、「神鷲と鉛筆部隊」である。特攻兵士、武剋隊と鉛筆部隊との交流のことが書き記してある。代沢国民学校の児童が疎開していた千代の湯にたまたま兵士たちがやってきた。

 二月の末のある日、疎開学寮になつてゐる千代の湯へ六人の兵隊さんが宿泊しました。一人だけが二十五歳ぐらゐで、あとの五人は二十歳前後の若い航空隊の下士官でした。兵隊さんでなくては夜も日も明けない学童たちは、その日のうちにもう兵隊さんと仲良しになり、お湯へもいつしょに入れば手をつないで散歩もする。学童たちがマライの歌を合唱すると、兵隊さんは満州の歌を学童に教へたりして、この学寮では兵隊さんと遊ぶのがまるで日課の一つのやうになりました。

 この彼らは大陸から飛来してきた特攻部隊、「誠第32飛行隊(武剋隊)」であった。彼らは各務原飛行場に飛んできた。昭和20年2月18日のことである。が、この一帯は飛行場やそれに関連する軍需工場も多い、B29による空襲の危険があった。そのことから2月20日松本へ移動した。ここで「爆装改修実施」を行った。それを終えて、3月18日に各務原飛行場へ飛び立った。沖縄への特攻に向かうためにである。(この資料も田中幸子さんからもらったものを参考にしている)

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2009年02月07日

下北沢X物語(1264)〜蘇生した学寮歌への静かな反響3〜

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 わたしたちは時間の船に乗って人生という旅を続けている。時は刻々と過ぎて今の一瞬もたちまちに過去となる。そのときそのときの思い出をどれだけ貯め得たかというのが人生であるように思う。郷愁の場面をどれだけ貯め得たかということだ。

 「学寮歌」探しで行き会ったのはかつての疎開児童だった三人の女性である。分かってみると、なるほどそうだったかと思う。浅間温泉での、広丘村で疎開経験が今も彼女らの心のうちに強く印象づけられていた。とくに特攻の兵士たちとの出会いは終生忘れられないできごとのようであった。

「あのときの特別展に出品されたものは、世田谷資料室に寄付したんですよ。わたしはいっしょにそのときいましたからね」
 電話で田中幸子さんがそんなことを言われた。平成10年8月15日に教育センターで「せたがや平和資料室・特別展」が開かれた。「還らざる青春」と題された戦争記録展である。そのときのことを伝える広報「せたがや」の記事にはこうある。

 立川さんのもとには特攻隊員たちの形見が残っています。いよいよ出撃前の3月5日、絹の布に達筆で、国のために死ぬ男の勇ましい決意や、立川さんたちの健やかな成長を願う言葉を書いたものです。「ときどき取り出して見るたびに、国を守って命を燃やした彼らのことを思い出しますね」(立川さん)

「あのとき、今西さん(陸軍軍曹)は絹のマフラーを二つに切り裂いて、立川さんとわたしにお別れの言葉を書いてくださったのよ。特別展にはそれが展示されているんですよ。彼女は大平さん(陸軍伍長)からもサインをもらってそれを大事にとっておいたのね。その特別展が終わったときにその遺品は世田谷区に寄付したんですよ。‥‥わたしもずっと持ってはいたんですけどね、実は燃やしてしまったのですよ。だから立川さんのしか残っていません。確か、平和資料室にあるはずよ」

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2009年02月06日

下北沢X物語(1263)〜蘇生した学寮歌への静かな反響2〜

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 一つのエピソードは地中から出た植物のようなものだ。この下には数え切れないほどのエピソードの根が生えている。

 ネットでの偶然から蘇った学寮歌、「聖丘学寮のうた」、この歌への記憶を持っている人には熱い郷愁を呼び起こしている。

  先ず、問いかけという発端を作られた旭正章さんからいただいたメールである。

  きむらけん様
 歌詞と楽譜のコピーをご郵送いただき感激しております。
 楽譜がないので思い出すことができるメロディーで、音を拾って何とか音符だけは作りました。やはり興範和尚の娘さんで二女の方がピアノの先生をしていることがわかり、この寮歌が縁となりまして、当時の思い出と音符を作ろうという機運が高まり、一気に対話がひろがりました。
 自分の母は、この歌のルーツと、きむら様とのやり取りを当時の思い出に重ねて文書に残したいと、長い長い日記を書いています。今週中にお送りいただいた楽譜を全員に送り、みんなで合唱したいと話しています。
 当時、引率の先生が弾いたオルガンがまだ広丘に住む末娘の家にあることも判明いたしました。音が出るかどうかまだ不明ですが、このオルガンでこの歌を歌いたい、とすでに心は広丘に飛んでおります。
 山梨にお住まいの矢花様にも感謝しております。なんという運命をもった歌なんだろうと、のど元にこみ上げるものがあります。
 いつの日にかお目にかかれることを願っております。ありがとうございました。
旭 正章

  このメールをいただいて、すぐに山梨の矢花克己さんに転送した。すると、こんな返事をいただいた。

  きむら様 
 旭様からのメールの転送ありがとうございました。凄惨な事件が新聞やテレビを賑わしている昨今これは感動の物語ですね。お寺の境内で女先生の弾くオルガンを囲んで疎開児童らが一心に歌う姿それを遠巻きにしている村の人たち、モノクロの映画のワンシーンを観ている様な気がします。私もこのドラマに参加できたことに感謝いたします。皆さんの合唱聴きたいです。

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2009年02月04日

下北沢X物語(1262)〜蘇生した学寮歌への静かな反響1〜

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 「音楽は人びとの心に愛情の火をともすものだ。」
 浜館菊雄「学童集団疎開」の一節に書かれてある言葉だ。戦争中代沢小児童は長野県に疎開した。そのときの記録である。当初は浅間温泉に、つぎに再疎開して広丘村に移った。ここではお寺に分散疎開した。著者の浜館菊雄氏は真正寺の、その同僚の柳内達雄氏は郷福寺の学寮長だった。共に音楽に深い造詣を持っていた。それで疎開生徒たちの心を慰めようと前者は、「真正寺学寮歌」を、後者は、「聖丘学寮のうた」を作った。

 「真正寺学寮歌」は著作に載っていた。が、「聖丘学寮のうた」は不明であった。これを一昨年から今年にかけて探し回っていた。人から人への情報リレー、そうしているうちに人びとの記憶が戻って歌詞の断片が段々に分かってきた。ところが、思いがけないことが起こった。この歌曲の歌詞と楽譜が偶然に見つかった。山梨県の骨董市に出ていたという。

 骨董市で矢花克己さんは古い手紙類を買い求めたそうだ。その中に「鉛筆部隊」というハンコが捺されたハガキが入っていた。不思議な名前だと思って彼はネット検索をかけた、そうしたところ当ブログに行き当たったと言う。わたしは先に、「学童集団疎開」に記してある手紙を記事で引用していた。つぎである。

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2009年02月03日

下北沢X物語(1261)〜雑感的時間論〜

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 時間は時代状況を反映するものである。東京の西郊に位置する荏原は都心からやや距離をおいたところにあって、中心時間の動きの「きざはし」がしばしばかいま見られる。このところ感じていることはその時間スピードが鈍っていることだ。時間が確実に停滞しはじめているように思う。

 その変化のきざはしを三つ記してみる。
 一つ目である。このところ一帯の町を歩いて巡り巡っている。歩行巡遊文化探査だ。そのときにしばしば目にするのは街角の店に貼ってある貼り紙だ。「長年のご愛顧ありがとうございました。」という個人商店の閉店を知らせる貼り紙である。錆び付いたシャッターに真っ白の紙切れは哀れでもある。「38年間もの」とか、「60年のご愛顧」などと書かれていればいっそうに寂しく思われる。

 二つめである。世田谷ボロ市の名物「代官餅」を買うために行列に並んだ。そのときに販売所のテントから出て来た人が段ボールに山盛りになったダイコンの葉を出してきて、どうぞお持ち下さいと言った。そのための袋まで用意してある。並んでいた人はそれをつぎつぎに袋に入れてていた。「おろし大根」のお余りだ。バブル時では見向きもしなかったものではないかと思った。

 三つめである。ついこの間、目黒駅から都営三田線の電車に乗った。気づいたのは広告が少ないことである。あるにはあるがそれも異様である。自身の目に入る範囲のそれを勘定してみた。六枚もあった。「債務整理」を扱っている事務所の案内広告だ。他の広告を圧倒していた。

 金融恐慌による不況の波が街角で目で見えるようになった。景気が悪化している。その経済の回復をという願望が度々語られる。確かに労働者の首切りなどという不都合な事態がつぎつぎに起こっていて、のんびりしたことは言っておられないのかもしれない。が、経済が元に戻るだけでいいのかと思う。

 

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2009年02月01日

下北沢X物語(1260)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報 第30号〜

「北沢川文化遺産保存の会」会報 第30号
                           
                                   会長 長井 邦雄
                                                  2009年2月1日発行
                      事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
                     155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                     会報編集・発行人   きむらけん

1、「北沢川文学の小路」を風景資産に

 松尾芭蕉が歌枕を求めて「奥の細道」へ旅をしたことはよく知られている。これは古歌に詠まれた名所めぐりである。その場所に趣いて風情を懐かしむということでもある。歌枕があるからこそ人は行く。言葉に託された情景を求めての旅である。

 「北沢川文学の小路」と称されている道がある。下北沢の南を流れていた北沢川、その跡に沿ってせせらぎの流れが再現されている。その緑道の環七宮前橋から大石橋までのことをわたしたちはそう名づけた。行政もそれを認知して二つの橋近くに大きな看板を設置して「北沢川文学の小路」の解説を掲げている。

 しかし、解説はあってもそれを形として表したものは一つしかない。代沢小坂口安吾文学碑だけである。ところがこれも案内板に地図が掲げられているわけではない。

 言葉は形を与えることによって成り立つものだ。それで「北沢川文学の小路」に形を与えたい。近代の歌枕である。

 「北沢川文学の小路」には三つの見所がある。一つは、鶴が丘橋から見える「代田の丘の61号鉄塔」である。言葉の巨匠萩原朔太郎がこの鉄塔の下に自ら設計した家を建てた。山田醇設計の家を参考にして鋭角的な屋根を持った建物とした。丘に聳える鉄塔とのバランスを考えて創られた。鉄塔を見上げることで晩年の詩集「氷島」を偲ぶこともできる。彼はこの鉄塔の下で「氷島」の序を書いている。また、小説「猫町」もここで書き上げられたものだ。

 二つめの見所は、橋場橋脇、代沢小南手の「坂口安吾文学碑」である。風景の名称は「安吾文学碑と代沢小」としよう。作家は、「風と光と二十の私」という小説を書いている。これはこの学校での教員経験を元に書き記されたものである。文中次のような一節がある。子どもたちと接する中で感じた武蔵野の「光と風」である。

 私はそのころ太陽というものに生命を感じていた。私はふりそそぐ陽射しの中に無数の光りかがやく泡、エーテルの波を見ることができたものだ。私は青空と光を眺めるだけで、もう幸福であった。麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた。

 安吾文学碑に佇むとこの一節が思い起こされる。背景に代沢小の校舎が見え、文学碑の上には夏みかんが実っている。文学碑は安吾旧居にあった門柱を移転してきたものだ。右の門には山茶花が赤い花をつける。これは蒲田にあったときのことを考えて再現したものだ。門柱は風が通り抜けられるように広く開けている。光景風景としても楽しめるものだ。

 三つ目はせせらぎ公園である。ここからは文豪森鴎外の愛娘が暮らしていた家の跡が望める。彼女の主要作品はほとんどがここで書かれたものだ。公園は彼女を偲ぶにはふさわし場所だ。「森茉莉思い出のせせらぎ公園」である。彼女は「贅沢貧乏」の中で「夜更けの十一時四十分の頃に」川に着古したセーターを捨てに行く「怪しげな女の影」を描いているがこの川こそ北沢川であり、女こそ森茉莉自身である。

 「北沢川文学の小路」には名所が三つあると書いた。現在のところ、鉄塔は地域風景資産として「代田の丘の61号」鉄塔が選定されているだけである。後者二つは、「安吾文学碑と代沢小」と「森茉莉思い出のせせらぎ公園」はまだである。これか地域風景資産として提唱していきた。そのことを通して、森茉莉、萩原朔太郎の地域への居住の意味合いを訴えたい。このことが地域により深く認識されて文学碑なり、解説版設置に結びつくとよい。

 今回のこの提案は、29号で提案したことをもっと具体化したものである。じつは、先号での提案に思いがけない反応があったことからこれを再度、企画として、提案し、発信するものである。

2,戦争経験を聴く会、語る会

 今年は、戦後64年目となる。戦争からますます遠ざかっている。人の記憶はどんどん消えかかって、そしてまた薄れかかっている。が、おもしろいことが起こった。「東京荏原都市物語資料館」に書いてある記事にあるときコメントがあった。代沢小児童が長野県広丘村の郷福寺に疎開していたときにそこで寮歌が歌われていたが知らないかというものだった。これがきっかけとなって寮歌探しが始まった。調査、探査、聞き取りである。ところがその最中に、つい二三日前の骨董市で出た手紙書簡類の中に該当する寮歌の歌詞と楽譜が載っていると知らせて来た人がいた。わたしもそうだが多くが慄然とした。こうして64年振りに埋もれていた代沢小疎開児童の「聖丘学寮のうた」が発掘された。
  
 今回は、一人三十分程度で戦争経験を五六人の人に語ってもらおうと考えている。一人は代沢小の疎開児童だった松本明美さんを予定している。できたら歌をうたってもらいたいものだ。話してもらう人はまだ全部は決めていない。こういう人がおられますよという情報がありましたお知らせください。
 日時 5月23日 1時から
 場所 代沢小 視聴覚教室
 会費無料 (話してくださった方に若干のお礼を出そうと考えています。カンパしてくだされば幸いです)*記録としてのビデオを撮ってくれる方のボランティアを募ります。
 
3,海外殖民学校の新資料発見

 坂口安吾の小説「風と光と二十の私と」の中に、「このへんに海外殖民の実習的の学校があって、東北の田舎まるだしの農家出の生徒と同宿した」とある。赴任当初、代沢小のすぐそばに下宿した。そのときのことだ「海外殖民学校」の生徒だ。海外雄飛を夢見て全国から池の上にあったこの学校に多くが集まってきた。が、その歴史はあまり知られていない。
 当会の廣島文武氏が学校の歴史に関わる写真を見つけた。海外殖民学校の二階建ての家の前で撮った記念写真だ。総勢百名ほどが写っている。ほとんどが軍帽をかぶっている。「世田谷警防団 弟三分団第二支部」という看板が出ていることから警防団の訓練後の記念撮影のようでもある。「大日本国防婦人会」のタスキをかけた割烹着姿の女性が六人写っている。殖民学校が警防団に訓練の場として提供されていたのではないか。
 この写真に、東條英機首相、杉山元帥が写っている。撮影年月日が分からないのでこのときの位階は明確ではない。が、東條英機も杉山元も殖民学校のすぐそばに住んでいた。そのときのものであろう。地域の歴史を証す資料である。

4、「三田用水水路跡」を探訪する会(�供�

 昨年、三田用水水路跡を巡りたいという希望があって急遽、年末に開催した。滅びゆく、忘れ去られつつあるこの用水跡は近代産業史、文化史的に貴重なものである。第一回目は笹塚の取水口から目黒別所坂までフィールドワークを行った。長年、三田用水を調べたり、研究したりしてきた、きむらたかし氏に講師をお願いした。詳細な資料に基づいての丁寧な案内は好評であった。参加者から二回目を希望する声が強く聞かれたことから「三田用水水路跡」を探訪する会(�供砲魍�くことにした。
  日時 2月14日(土) 午後1時、恵比寿駅東口(ガーデンプレイス側出口)
  申し込みは当会の米澤まで、受付締切、2月10日まで。必ず連絡してください。下記の申し込みアドレスと同じです。
    参加費用(500円) これは講師の先生の資料代などに使ってもらいます。

5,歩く会について 
 都市物語を旅する会 
  「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。事故のないよう各自で責任を持ってください。
    この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。
  これまで実施したコースはつぎの通りです。1.代田連絡線の跡を歩く、2.小説猫町を歩く、3.下北沢の大谷藤子を歩く、4.下北沢・淡島の森茉莉を歩く、5.銭湯を歩く、6.下北沢の無頼派を歩く、7。下北沢の教会を歩く、8。坂口安吾が歩いた道を歩く、9.駒沢線鉄塔を歩く 10.下北沢の映画痕跡を歩く、11.茉莉を歩いて茉莉に会う。12.だいだらぼっち川を歩く。13、小説『猫町』 を歩く。14、下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。15「ダイダラ 坊」の痕跡を求めて歩く。16、代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)17.林芙美子から坂口安吾を歩く 18.「下北沢店員道場を検証する」19、池の上の古い町並を歩く  20.「下北沢の教会を歩く」21 「下北沢の詩人痕跡を訪ねる」  22「坂口安吾の通勤ルートを歩く」、23「茉莉を歩いて茉莉に会う」、24、「森厳寺川の源流を探索する」、25,「代田の歴史を歩く」  26、小説「猫町」を歩く27、再度東京市巨人伝説を検証する 28、「戦争戦跡を巡る(�機法�29「代田連絡線徹底検証」30,「滝坂道を歩く�機�31、「駒沢線詩歌文学ラインを歩く」32、「下北沢の教会を歩く」33、巨人伝説「ダイダラボッチの跡」を訪ねる

・第34回     2月21日(土)午後1時 池尻大橋駅改札口集合
      「戦争戦跡を巡る(�供法�   駒場天覧台、陸軍皆行社住宅跡、射撃練習場跡、馬神碑、忠魂碑、陸軍獣医学校跡、陸軍病院跡‥代田「邪宗門へ」
  駒場の輜重兵連隊などの戦跡を巡る旅です。約5キロほど歩きます。
*陸軍獣医学校については卒業生の広島文武氏に現地で説明してもらうつもりでいます。

・第35回     3月21日(土)午後1時 下北沢駅北口集合
        「茉莉を歩いて茉莉に会う」     「邪宗門」マスター作道明が先導します
           定番コースです   下北沢から淡島へ

・第36回 4月18日(土) 午後一時 京王線つつじヶ丘駅集合
   「滝坂道を歩く(�供法�   街道の達人 別宮通孝氏にお願いしてあります。
   甲州街道滝坂から代田まで(前回、渋谷から代田まで、残り半分を歩く)

・第37回 5月16日(土) 午後一時 下北沢駅北口集合
   「小説『猫町』を歩く」 

・第38回 6月20日(土)午後一時 代田橋駅南口
    森厳寺川を歩く、下北沢という町を地形的に作り上げている水路を探検する 
     水路ですから雨天決行です
  ◎申し込み方法、参加希望について(実施一週間前までに)
  参加申し込みについては当会の米澤邦頼まで必ず連絡をください。
  米澤邦頼 090−3501−7278
   メールアドレスyonezawa-.-v1961@ezweb.ne.jp
 ■ 編集後記
  今回会報は30号です。継続は力、今までの蓄積からの発信を通して会報が影響を持ち始めたと感じています。新年号に書いた記事、せせらぎ公園に森茉莉文学碑をという記事は人に伝わったようで、できればせせらぎ公園にそれを建てて、実現したい。そんな反響がありました。この会報を通しての発信も様々なところに伝わり始めました。
 一月には、世田谷区地域整備課で出している「風景づくり通信」28号に、「北沢川文化遺産保存の会」の活動が網羅的に紹介されました。
 先月、12月に取材のあった雑誌「のんびる」の記事は、今年三月号に掲載されます。われわれの地道な活動がだんだんに実を結んできているようです。
 今年になって新しい動きも出てきました。学校の生徒たちの研究をサポートするというものです。中学生のグループが安吾のことで調べに来る。それの手助けをするというものです。そんな話も舞い込んできています。
 北沢川文化遺産保存の会として、学校の行事に協力するということはできるだろうと思います。人材がまだ揃ってはいませんが、いくつかのことに関しては、きむらだけではなく、他の人が出て行って、案内することもできるように思います。
 自身の構想には、人材バンクがあります。文化遺産の会の活動を通して多くの人と知り合いになりました。知性と見識を備えた素晴らしい方々も多くおられます。発信として、例えば、何々方面に詳しい人がいて、その人であれば、○○という分野について生徒や学生に講話や講演ができますと案内するものです。
 少しずつそういうシステムが構築できればよいと考えます。が、現時点では学校からの要請があればその都度考えていくことにしたいと思います。
 当会報への連絡、お問い合わせは、編集、発行者の きむらけん へ
 aoisigunal@hotmail.com  
○お願い 年度が切れましたので「北沢川文化遺産保存の会」の会費をよろしくお願いします。年会費1000円です。会員の方にはこの会報を自宅に郵送しています。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。


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第19回下北沢演劇祭参加
 ○音楽朗読劇「おもいできらきら」
〜東京大空襲を忘れない〜
 
北沢タウンホール 2009年2月14日(土)
  16:00時開演   18:30開演
 前売 大人2000円 小人  1000
 親子ペアチケット 2800円
 当日 大人2200円 小人1200円
出演者
鎌田 義之 橋爪 健一郎 浅野 哲 鈴木 貴子 阿部 光子 蒔村 三枝子 阿部 有希 小泉 みち 平岩 美佐子 磯部 歌織 

スタッフ
脚本・演出 千田恵子(劇団青年座)
音楽 今井由美子
監修 きむらけん(児童文学作家)
装置 本郷友美
照明 池田圭子
音響 土屋由紀
舞台監督 星野真広(劇団東演)
宣伝美術 荒井めぐみ
制作 江草晴美・古土井洋子
企画・製作 ぱっちわーく☆prj