2009年04月

2009年04月29日

下北沢X物語(1315)〜鉄道交点自転車巡遊行1〜

4028beda.JPG

   荏原は都会と都市のはざまにある。
 東京駅を出た列車が品川を過ぎ八山陸橋を潜り抜けると、直線区間に入って速度を増す。すると夜行の乗客は、空気枕の口金に口をつけてぴぃぷうとやり出す。都会の緊張から解き放たれて、弛緩する。その一息つける空間帯に入っての所作である。ちょうど目黒川の鉄橋を渡って荏原区域を抜けていくときである。

 時間が温んでいる、緊張が解けている、時間が腐りかけている地域である。その縁辺を行くという楽しさはある。ここを南北に通過するラインは隠れた文化である。例えば、鎌倉通り、堀之内道などの消えかかった古道ラインである。大田、目黒、世田谷を貫くダイダラボッチ通過ラインでもある。鉄塔駒沢ラインも密やかな存在である。そんなラインをあれこれと想像しながら行く道は楽しい。文化探訪の旅である。

 昨日は、久し振りに鉄道交点への自転車旅に出かけた。まずは、代田の信濃屋に立ち寄った。好天気だったので鉄塔の写真を撮ろうと思い立った。北沢川文化遺産の会の会長の店舗の屋上はこれを写すのに最適な場所である。二階の事務室に立ち寄ると会長には来客があった。が、手話で通じた。左手の人差し指で上をさす。右手の人差し指でシャッターを押す所作をする。
『わたしは、貴殿の社屋の屋上で、世田谷区風景資産になっている代田の丘の61号鉄塔を撮りたいのです』
   手話の意味である。それはすぐに通じて、社員が屋上の鍵を渡してくれた。早速に屋上に行った。そこに立つと真っ正面に「代田の丘の61号鉄塔」が見える。

続きを読む

2009年04月28日

下北沢X物語(1314)〜随想的荏原都市論〜

9a261e0b.JPG

 郷愁の曲というものはあるものだ。その曲を聴くと頭脳の中に潜んでいる昔がつうんと刺激される。いつだったか渋谷のNHKにラジオの収録で行ったことがある。ちょうど昼時で、スタジオには「ひるのいこい」のテーマ曲が流れていた。これを聴くとたちまちに人っ子一人いない田舎の昼下がりを思い出してしまう。太陽は輝いていて、白い田舎道が走っている。その脇の一軒の農家の縁側からこの曲が聞こえてくる。

 「ひるのいこい」は中央時間ではない。ローカル時間である。およそ五六秒、いやもっと、七八秒ほど遅れた時間である。何時だったか、富安好恵さんから聞いた話だ。
「下北沢の一番街の裏の野屋敷のお屋敷に行くと、どこからも昼の憩いが聞こえてくるんですよね。なんか憑かれたみたいに、ああ、ここもそうだ、ああ、あそこもそうだと、そのラジオが流れているおうちを数えて廻ったことがありますよ。」
 彼女が若かったころの話である。

 荏原地域には至る所にすがれた時間が潜伏している。分かり易く言うと朽ちかけた時間と言ってよい。都会ではなく、都市である。滅びつつある都市の陰影である。

 井の頭線下北沢2号踏切近くに住んでいた近代作家がいる。彼はその2号踏切が気に入っていた。下北沢近辺には至る所に踏切があるがここはその中でもベストワン踏切だと言ってよい。

 昨日のことだ。本棚からひょいと取り出した「都市の風景学」という本に彼の都市論が載っていて、ついそこは読んでしまった。川本三郎との対談である。日野啓三がこう言っている。

続きを読む

2009年04月26日

下北沢X物語(1313)〜続森茉莉の手紙から2〜

6399b78e.JPG

   森茉莉の手紙の文面からするとマリとヨーコの関係性において言葉の測量士は存在していたように思われる。「玉音」エピソードに続く文章である。編集者へ宛てた私信であるだけによけいに面白い。

 そしてマリとヨーコーは絶対家の前まで送るとがんばるのはうれしいやうだけれど、毎回二時か三時になる。すつかり自説をいひおはりつくしてからあと又すつかり料理やごはんもすんだあと、又めしを一膳もらひ、又あじをとくべつに焼かせる、その又あとでナントカの注射を肌ぬぎになつて、石原さんの奥さんにやらせる。明治生まれの男性の半ストリップはあまりいただけないが、ぬぐ前から半分帯はずりおちきものは半ばあいてゐるのである。どういう締め方をするのか、藤見に遠足にいつてもかへりは駅の階段の上を長い尻尾のやうに帯をたらして歩き、つまづけば打ちどころによつては死ぬから、ヨーコトマリがとんでいつておしへるまで気がつかない。

「いや、これは一人では無理よね、わたしたちが絶対送って行ってあげるから」
 マリとヨーコは代田の寓居まで送って行くと言う。
「いやあ、それは、ありがとう、ありがとう」
 そう言っては酒を飲んでついつい午前の二時か三時頃までにはなってしまう。そして、「腹減ったな、アジを焼いて飯をくれないかな」と言う。マリとヨーコは目を見合わせる。
 マリはワンマン三好達治に距離を置きながらつぶさに観察している。帯の締め具合に注意を払っているところは面白い。

 「藤見に遠足に」というのは詩集「ひゃくたびののち」に出てくる「牛島古藤歌」のことではないかと思われる。

 葛飾の野の臥龍梅/龍うせて もも すもも/あんずも青き実となりぬ/何をうしじまちとせ藤/はんなりはんなり
  三好達治詩集 岩波文庫

続きを読む

2009年04月25日

下北沢X物語(1312)〜続森茉莉の手紙から〜

a50e358e.JPG

  鉄道交点一帯には党派的な集まりが個別的に行われていた。福田正夫の「どんぐり会」もそうであったように思う。また、「文章会」もその一つだったと言える。

 文章会での三好さんは、決まって機嫌良かった。当主の石原八束さんが頃合いを見て車で迎えに行くと、三好さんは下宿で身支度を済ませて、待っている。忘れたり、すっぽかしたりしたことは一度もない正確さであった。
  「天上の花」萩原葉子 講談社文芸文庫

 代田の三好達治寓居の前の路地は狭い。詩人を迎えた車は表通りの淡島通りに止めていたのではないだろうか。この軍事道路は他より広い。路肩には駐車スペースとして使われていたのではないかと思う。(写真は、現在の寓居跡である)

 森茉莉がこの文章会の様子を手紙に描いている。このエピソードが面白い。

 石原八束氏の家の月一回の集まりでは吉田茂を上廻ること十廻り位のワンマンで、自分の意見に一寸違うこといふとぜつたい小さな目をキラキラ光らせて自説を通し、茉莉が室生さいせい崇拝のためと、あまり好かないオーガイの娘なのとのため一寸だけいやで、「森先生」と呼び、持って来た原こうをよむときに「きん聴きん聴」といひ、声が小さいので代読しやうといふ人があると「玉音でなくてはだめ」といふ。
 「ぼやきと怒りのマリア  森茉莉  ある編集者への手紙」 小島千加子編 筑摩書房

  この文章会では自作を読み上げることが決まりだったようだ。読み上げた作品を耳で聴いて批評するという会である。もっぱら音の測量士がそのよしあしを批評したようだ。森茉莉の場合はワンマン達治に対してあまり好意は持っていなかったように思う。この詩人の場合は、どこに句読点が打ってあるかということは大きな問題である。が、森茉莉の場合は、そのことはさほど気にしていなかったように思う。なんとなくためらわれるのか、ワンマン先生の前ではついつい緊張してしまう。それで彼女は声が小さくなってしまったのだろうか。それを見かねてそばの人が助け船を出す。

続きを読む

2009年04月23日

下北沢X物語(1311) 〜ある放浪女人の話〜

c8717518.JPG

  武蔵野の谷の皺には思いがけないエピソードが畳まれていることがある。様々な人がいて様々な人生を歩いて来た。なにかの折に、思いがけず面白い話を聞くことがある。今の武蔵野には言葉の森がある。そこを分け入って行くと、驚くような話が幾つも転がっている。とある女放浪人の話もその一つである。

「なにか、行った先々で、思いを言葉にするというようなことはしませんでしたか?」
「ああ、それはありませんでした。」
「そのときどきのことを書いて置けば良かったですね。惜しいことをしましたね」
「大体、全国ほとんど行きましたよ。北海道も行ったし、あれ、青函連絡船に乗って、函館に渡って、函館山に行きました。あの山の上から函館を見てみたかったんですよ。」
 「函館の海の色こそ悲しいけれ」とか折々に手帳に書き記して置けば物語ができたのだが、彼女はそんなことは考えもしなかったらしい。
「岡山に行ったときはカバヤ製菓で働きましたよ。キャラメルの箱詰めですね。それから門司に行って、福岡へも行きました。長くはいませんでしたね。ヘンなことはしないでちゃんと働いていましたからね。」
「そうそうこの人ね、きちんと働いていたというところが立派ですよ。ラーメン屋女店員をやったりしていたんですよ。」
 側にいた事情をよく知る人が言った。体を売り物にはしなかったということである。
「流れ流れて、あそこまで行きましたよ。ほら砂の温泉」
「ああ、鹿児島の指宿だね。じゃあ、砂を掘って人にかけたりしたんですか」
「いや、あれは、専門の人じゃないとできないんですよ。素人ができるようなものではなくてね、うまくかけないと砂風呂に入った気がしないらしいのですよ。」
「指宿か、北は北海道から、南は九州、本当に放浪したんですね。」
「そうそう、別府から船に乗って四国にも行きましたからね。土佐の高知はちょっと長くいましたね。」
 若いときの放浪の話である。二十歳前後のときのことだ。ぐれてしまって親と喧嘩して家を飛び出してしまったらしい。
「ずべ公ね、あははは」
 彼女はきさくである。話が開放的で気持ちいいほどだ。若いときの戦歴を誇示するように袖をまくってみせる。注射痕が鮮やかに残っている。ヒロポンをやっていたという。

続きを読む

2009年04月22日

下北沢X物語(1310) 〜鉄道と文学雑感〜

ebc93b97.JPG

 鉄道と文学というのが自身が携えている課題である。鉄道が文学にどのような影響を与えたかということである。これには深い興味を持っている。

 先だって、滝坂道を歩いていたときこんな話を別宮さんがしてくれた。
「去年の秋頃から立川飛行場の上空を航空機が通れるようになったのですよ。それで世田谷上空にも福岡に行く飛行機がしばしば飛ぶようになったんですよ。何かあの音が気になるんですよね。そちらでは聞こえませんか?」
「いや、とくには気にしていませんね」
 そんなふうに答えた。

 ところが、この頃、暑くなってきて窓を開けるようになった。ふっと気づくと、確かに高空を飛んでいく飛行機の音が聞こえてくる。天空のどこかで雲の割れ目を機械が縫っているような感じがする。気にすると確かに気になる。やっぱりそうだったんだと思った。

 人は時間を追い求めてついには飛行機を発明した。もっと速く、もっと速く、というのはとどまるところを知らない。

 古代おける移動は歩行が中心だった。足で歩いていくにつれ、目に見えている風景がゆっくりと変わっていく。たおやかな和語的な世界でもある。その古代的な旅、つまり、時と風景とがうつろっていく旅、これは文明の機械が出現することで革命的に変わる。その大きな違いは二つある。一つは全円的な景色が12号程度の額縁、車窓に狭まったことだ。もう一つはその額縁の景色がめくられるようになったことだ。つまり、機関車や汽船という機械によって、狭く切り取られた景色が自動的にめくりめくられるようになった。車窓の出現である。動いていく風景、走っていく窓、それは今まで経験することのない衝撃であった。謂わば近代というのは日本語が車窓に出会ってびっくりした時代だと言える。

続きを読む

2009年04月20日

下北沢X物語(1309) 〜「鉛筆部隊」のその後2〜

934fa0cd.JPG

    古道の弓なりの曲線は人を心地よくさせる。先だって滝坂道を歩いた。方向としては南東へと向かっている。川も道も武蔵野はそちらへ向かう。こっちからあっちへ、歩きながら遙か昔の台地形成期まで思いは遡っていく。

 近代の道にはない雁行、それが楽しくもある。目を置く場所である。ゆるゆると景色はめくれていく。その曲線は心の置き所、郷愁の在処でもある。

 鉛筆部隊の話も歴史のたわみの、曲線の中に潜んでいたものである。極めて人間的な話である。個々の思いが還っていく場所でもあり、懐かしい時間でもある。そうであるだけにわたしもそうであるが、人の関心も深い。昨日のこの記事にお二人から即座にコメント反応があった。コメントのみならず、全く見知らぬ、遠方の方からもメールをいただいた。鉛筆部隊の話は時間次元の入り口のように思えたほどだ。

 先だって地図を配布しているときに鳴瀬速夫さんの奥さんに出会った。鉛筆部隊でのラッパの名手だったのがご主人である。「疎開時の思い出を松本明美さんに頼んでありますが、ご主人にもできればしていただきたい」と伝えて置いた。鳴瀬速夫さんは「歴史と人物」、昭和49年8月号に「欠食児童集団の一年間」という手記を書いて発表されている。その記事の一節である。

 すべてが軍隊式である疎開学童の宿は、ラッパ隊員の私のラッパで一日が始まる。冬の寒い朝は、ラッパが冷えて音が出ないので、温泉で口を暖めてから吹いた。そのために他の子より早く起きねばならなかったが、空腹では吹けぬというので、特別のおやつをもらう「特権」を楽しめた。

続きを読む

2009年04月19日

下北沢X物語(1308) 〜「鉛筆部隊」のその後1〜

dbe1bc20.JPG

「あれは、いい話ですね。映画にでもなりそうな話ですよねえ‥‥」
 北沢川文学の小路で地図を配っていたときに思いがけず声を掛けられた。鉛筆部隊にまつわるエピソードのことを彼は言っていた。ネットに書いたわたしの記事のことを読んで知っていた。若手のミュージシャンであり作曲家だった。

「なるほど、映画ですか」
  確かに人の胸を衝く話だ。自身でも何度も熱くなった。
  冒頭、カメラはどこから写し出すだろうか。始まりのシーンはどこなんだろうか?。脳裏にその場面を思い浮かべてみたことだ。

 手紙の持ち主である立川裕子さんが救急車で運ばれるシーンからだろうか。赤色灯が廻転している。救急隊員が駆け付ける。そんな慌ただしい場面から始まる。

 晴れ渡った松本平の空に機影が現れる。黒い豆粒がみるみる降下してくる。飛行機だった。その五機はゆっくりと千代の湯の上空を旋回する。疎開児童、鉛筆部隊の面々がそれを見上げる。女児のアップが映る。そして、武剋隊の特攻機は三回転した後に、尾翼を振って、雪の残るアルプスを越えて、各務原方向に飛んでいって、消えてしまう‥

 古物売買市場で、セリにかけられた古い手紙類。仲介人が「はい、これひとまとめで‥‥」と声をかける。手紙のアップが映る。剥げかかった古切手、それに値段をつけた人がいる。古物商の矢花さんである。

 プロレタリア歌人が横になって寝ている。と、そのときに、ずっく、ざっく、ずっくざっくと下北沢駅南口の通りを上っていく靴音が聞こえてきた。彼がなんだろうと思って外を覗くと疎開児童たちが無言で大きなリュックを背負って歩いていく。

 幾つかの冒頭シーンを思い浮かべたことである。
「確かに、映画になりますし、話題を呼びますね。が、表舞台に躍り出ると、なにかこの話の本当のよさがなくなってしまうような気がします。」
 そんなことを答えたように記憶している。檜舞台に出ると何か危うくなりそうだ。

 

続きを読む

2009年04月17日

下北沢X物語(1307) 〜尾山篤二郎旧居判明2〜

f6e2e79c.JPG

   言葉とは、視覚的に捉えたものを記号化したものである。ゆえにその言葉には景色が映って見える。巧緻であればあるほどその景色は鮮明になってくる。

 表現者が表現者たりうるのは記号化の巧みさである。が、表現する場合のポジションというものがある。それをどこで詠んだか、その場所がどこかということである。文学は場所を優先するものではない。虚飾化、虚構化されたものであるからだ。それでもその場所が分かってみるとなるほどと思う。異なった感動がある。

 中村汀女は夫の転勤に伴って仙台から東京にやってくる。それで北沢に住んだ。年譜ではその場所は明らかにされていない。二番目に移った場所ははっきりしている。今も彼女が主宰していた俳句結社の事務所がそこにある。

 第一番目の場所については家を貸していた人から教わった。北沢川左岸、崖線の上だった。彼女は転居してきて洗濯物の乾きがいい、水がよく出たということを句に詠んでいた。教えられた場所は、南向きの日当たりのいい場所で、深井戸があっていい水が出たところだ。土地と文学については納得したことである。

 尾山篤二郎旧居もなるほどそうだと思う。彼の歌集「雲を描く」に地の臭いが描かれた作品が幾つもある。

 北澤の澤に落ちこむ岡なだり木立は赤く青く芽ぐみぬ

 澤をサラダボールに見立てよう。真ん中の東西に小川が流れている。北沢川支流森厳寺川である。尾山篤二郎は南の斜面の上辺りに住んでいる。サラダボールを眺め下ろす形である。ちょうど対岸の丘がなだれ落ちて来ている。綿谷さんの森の辺りである。その丘上が屋敷街である。朔太郎が「猫町」で言うところの「樹木の多い郊外の屋敷町」ではないか。そう自身が幻影として信じているところだ。この緑が気に入って今井兼次は洋館をその地に建て今も残っている。

続きを読む

2009年04月16日

下北沢X物語(1306) 〜尾山篤二郎旧居判明1〜

cc614ceb.JPG

    鉄道交点ノースブロックの情報は下北沢一番街の大月商店が閉店して、そのルートが閉ざされた。ところが思わぬ援軍が現れた。それは北沢小の同窓生である。

 この奇縁というのもネットである。東京荏原都市物語資料館をたまたま検索で見つけられて、長谷川慎一さんが連絡を取ってこられた。そのことから接触は始まった。が、同窓会は最強の情報集積基地だ。彼らの持っている同窓会ネットワークによる情報収集力の高さには驚いた。

 先だって、長谷川慎一さんとお会いして、依頼をしたことが一つあった。北沢小近くに住む歌人の旧居が分からなくてずっと探していた。地元なので何かの手づるが掴めるかもしれないと思って調査の依頼をしていた。「北澤五ノ六八四」に住んでいた尾山篤二郎である。

 前に九州柳河の「北原白秋記念館」に行ったことがある。そのときに展示写真の一枚に目が留まった。北原白秋、萩原朔太郎、尾山篤二郎の三人が写っていた。みな彼らは小田急線沿線居住人でもある。後者二人は下北沢である。鉄道沿線での接点はあるのかもしれないなと思ったことがあった。

   実は、作家旧居の旧番地探しは非常に困難である。三好達治の場合は探し出すのに半年もかかった。ところがこんどの場合は最速、たった三日で分かった。

続きを読む

2009年04月14日

下北沢X物語(1305) 〜鉄道交点学校開学物語〜

19fde037.JPG

   鉄道交点は機械近代の交差部である。来る方向と、行く方向が四つある。その利便性から人がより多く集った。下北沢文士町も機械の偶然性が創り上げたという要因があるゆえに文化的には一層に興味深いものがある。都市文士町という観点である。

 この交点近辺には知られざる物語が眠っている。そこに様々な物差しを当てて考えると新たな発見がある。鉄道X交点一帯には小学校が多くある。これも鉄道交差と関わる話である。鉄道の開通、交差に関係して小学校も順次増えていっている。

 先だって、北沢小学校の同窓会の長谷川慎一さんから「北沢小学校70周年記念写真集」を戴いた。この学校の沿革を見ると昭和12年に開校している。この一帯の土地の歴史の大きな節目は昭和8年である。帝都電鉄が小田急と交差したのがこの年である。それ以後、利便性が増して一帯に人が多く集まるようになった。北沢小もその影響を受けているようだ。

 近隣の小学校の開校は鉄道開通に由来する。東大原小学校もそうだ。これも戴いた東大原小学校創立80周年記念誌「故きを温ねて」には「これら二つの私鉄路線の結節点となる下北沢は、新興住宅地の拠点として将来性が高く評価され、東京市内からの移住を希望する人が急増したと考えられます。」とある。結節点は言うまでもなく小田急電鉄と帝都電鉄の交差である。この東大原の開校も鉄道敷設と直結している。

   人口の増加はすなわち学齢児童の増加を意味します。
 母校の沿革史に記録されている、年度毎の在籍児童数を昭和二年の開校以後、五年間についてその推移を見ると、このことが歴然と現れています。上の表がこれですが、毎年三00名以上の増加が続き、昭和六年度は遂に二000名の大台を突破してしまいました。
 「故きを温ねて」〜第三荏原から東大原へ〜

 

続きを読む

2009年04月13日

下北沢X物語(1304) 〜都市古道考現学を遊ぶ〜

59d63a02.JPG

 古道、青山に通ずるところから青山道とも言われる滝坂道を歩いた。日和が良くて歩いて行くと心持ちが晴れ晴れとしてきた。それは天気がいいばかりではない。古道そのものが心をも和らげてくれるからである。

 道は物差しである。ことに古道の場合は物差しの精度が高い。古くからあるものだけにかつての残痕が至る所に転がっていて、道を通して過去が想像できるからである。

 見た目には都市の中を横切る道にしか見えない。が、極めて大きな特徴がある。近代の味気ない道と比べるとそれがよく分かる。そこはかとなく曲線を描いてどこまでも続いていく。道の曲線美は歩く人の心を和らげてくれる。
「女性のお尻の曲線と同じようなものですね、曲がり具合がなんとも言えませんね。」
 歩いているのは色気のない男五人である。あるいは古道は女性で、神秘なそれを求めて男は旅をしているのかもしれない。

 近代、現代の直線道路は味がない。ドラマがない。ことに歩いていてそれを痛感する。先々がどこまでも見通せる。見えすぎてつまらない。あんなところまで歩いて行くのかと肉体的な労力の苦痛が思われる。古道の場合は、そんなことはない。見えつつ、隠れつつ、さりげなく先行きを見せてくれる。そこはかとなく曲がっていて景色が徐々に見えてくる。

 三歩歩いて、欅の新緑の横に赤い布がはためいている。もう四五歩進むと、それが鯉幟だということが分かる。木々の緑の中にそれはそよいでいた。懐かしい風景である。

 この滝坂道は厳密に言うと、「古道青山道の経路の確証は困難である」(「世田谷の古道」)。が、我々は学術研究を目的に歩いているわけではない。古道を歩いて楽しむためのものである。その面影を訪ね歩いて行くことに楽しみを感じているものだ。その点別宮さんは別格だ、彼は何度も歩いていて我等よりも詳しい道筋を知っている。

続きを読む

2009年04月11日

下北沢X物語(1303) 〜続随想的時間論〜

1ffa2391.JPG

  競争原理を主とした時間は若者を疎外してしまう。生き方のノウハウを形成する間にも時間が高速で過ぎていき、置いてきぼりをくってしまう。

 一昨日だったか、久し振りで自転車で北上した。梅が丘では大学で健康診断を終えた学生たちが駅へと向かっていた。彼らを背後から眺めて行く形となった。その腰つきがへにゃりと緩い。梅が丘の駅前通りを歩いていく学生のそれに近代時間が映って見えた。締まりがない。モチベーションを欠いている。それが彼らが置かれている状況だろうと考えた。

「世の中の流れが速すぎて、僕の将来の可能性が、知らないうちに狭くなっている気がするんです。実は良い就職をするためのステップを踏めていないじゃないかって‥‥」
 今朝の新聞に就職活動をしている若者の談話が載っていた。高速で過ぎていく時間に乗ろうと思っても、時間に乗れない。深刻な悩みである。

 自分がこの時代に若くしていたらどうだろうと考えた。すねたに違いないと思う。実際、自身はすねていた。が、今の彼らはすねようにもすねられない。すねると確実に時間に置いていかれる。近代時間は若者に羽目を外す時間を与えない。

 ジェィ・グリフィスは言う。「われわれの最も初期の先祖は、闘争や逃走のために加速の必要を感じた。それとは対照的に、われわれの子孫の生存は、いまの世代の賢明で迅速なブレーキの使用にかかっている。」と。直線的に、ひたすらに進む時間にどうブレーキをかけるのか。最大の難題である。

 自身では、この頃はめくる旅をよくしている。つまりは歩くことだ。去年の十月に買ってもらった万歩計を付けている。リミットに達すると9が一列に並び、0にリセットされる。もうこれを二回も繰り返している。

 歩いて行く場合は時間と空間は調和している。体感的な距離が掴める。どこそこまではどのくらいあるという認識がされて来る。谷の高低も自宅を中心とした範囲は自分地図が立体的に出来つつある。

続きを読む

2009年04月10日

下北沢X物語(1302) 〜随想的時間論〜

2d5b527e.JPG

   先行きが見えない不透明な時代である。われわれはどこからどこへ行くのだろうか。それは分からない。自身の興味の源泉は「時間と空間の抹殺」にある。そこでどのようなショックを受けたかである。我々が生きている近代はそこから始まっている。どこからどこへの始発点でもある。

 めくるからめくられるへ変わったのが近代だという認識である。古代的な旅はめくるである。歩いていくことによって風景を自身がめくって行くものだった。明治になって機械が出現し、風景はめくられるようになった。

 自身の関心の切っ先はめくられるようになった時代の文学である。その驚きを誰がどのように表現していたかということである。

 が、今日では速度性を追求するあまりめくられる景色は意味をほとんど失い始めている。高速で走る場合の風景は単なる縞模様が動いていくだけになってしまった。

 時間論は、かつては郷愁的なものであった。産業革命による時間と空間の抹殺が始まったのは英国である。機関車の出現によって大きな時間変化が起こる。それに対しての批判としてこういうのがあった。
「せいぜい一二台の郵便馬車が走る程度の変化でよかったのだ」
 牧歌的で長閑な時間への郷愁である。

 めくられる時間も理解できているうちはいいが、理解を超えてしまうと絶望的になってしまう。文学的にも価値が見出せなくなる。明治期の文豪たちの時代ではめくられる絵というのは大きな価値を持っていた。これをどう描くかということに対して腐心をしていた。

続きを読む

2009年04月08日

下北沢X物語(1301) 〜下北沢文士町文化地図の配布4〜

e4165809.JPG

   どこからどこへ行くのかというのは人生という旅における大きな疑問である。それは現実の空間における問題でもある。川の流れも一つである。どこからどこへ流れているのだろうか。
 昨日のことだ。世田谷中町の「せたがや平和資料室」へ行った。「下北沢文士町文化地図」を届けることと「戦争経験を聴く会、語る会」の案内パンフを置かせてもらうためである。もう一つ、これが大きな用事である。会を開くときに展示したいものがあった。これを貸してもらえないかという交渉である。

 今回、5月23日に開催する「戦争経験を聴く会、語る会」は疎開児童生徒の話を中心とすることにした。とくに武剋隊と鉛筆部隊のこと、それと「聖丘寮歌」のことである。この「せたがや平和資料室」には武剋隊が鉛筆部隊に残した二枚の揮毫がある。児童の一人だった立川裕子さんがここに寄贈したものである。これを借りて展示をしたいと申し出に行ったものである。これは大丈夫だという返答を戴いた。

 目黒区八雲の自宅からは歩いて行った。一つ尾根筋の丘を越えると谷底に九品仏川がある。これを遡って行った。途中、尾山台駅そばの泉酒店の奥さんに話を聴いた。
「ああ、これは蓋をかぶせてありますが昔はドブ川でしたね。小さい頃セリを取ったり、ザリガニを捕ったりしましたね。どちらに川が流れているかって?、わたしはここで生まれ育ったのですけど、そんなことは一度も考えたことはありません‥‥ううん、でも、あれですね、ここは東に向かって低くなっているんですから東に流れていたんですよ。」
 九品仏川を遡って西へ辿っているのだから当然といえば当然である。が、一つの疑念があった。ここを西に行くとすぐに谷沢川がある。もしかしたらそちらに流れているのかもしれないということがあったからだ。

続きを読む

2009年04月07日

下北沢X物語(1300) 〜下北沢文士町文化地図の配布3〜

5167b890.JPG

    何処から何処へ行くのだろうか?、古来から人々が抱えている大きな命題である。このことは未曾有の経済危機を迎えた今一層に切実な問題としてある。金銭という価値軸ではなく、心の拠り所をどこにするかということである。

 満開の桜の花の下で、地図を配りながら考えたことである。
『過去の事象を過去にあったこととして捉えるのではなく、それが今という時代にどのように繋がっているのかと考える。そのことを思考したり、認識したりすることで、豊穣な世界に行き着くことができる。過去と今とを繋げて想像するとそこに発見がある。』
  「下北沢文士町文化地図」を眺めながらそんな考えを思ったことだ。この地図にあるのは文学だけではない。様々な価値が片鱗が覗き見えている。それが想像世界のへの入り口である。小世界の実在を喚起する窓口であり、入って行く次元の穴でもある。

 駒沢線62号の河口彗海旧居を見つけてはチベット探検ならぬ、鉄道交点地底探検にも行ける。階段を降りていくと吉増剛蔵が上総層のところで貝の化石を見つけては、「下北沢裂くべし」と歌っている。そのわきを地上28センチのところを女物の下駄を履いた萩原朔太郎が通りかかる。すると東京電力地下ケーブル保守グループの作業員が、「あんたはこのさきの61号鉄塔だぜ!」と教えてくれる。この地図は過去の遺物群を記した配布物ではない、迷宮への入り口を描いた地図である。お楽しみ地図である。

続きを読む

2009年04月05日

下北沢X物語(1299) 〜下北沢文士町文化地図の配布2〜

a6fa5076.JPG

    文化とは土の匂いのするものである。その地域固有のものだ。とくに地域に流れている川はそれとの関係は深い。蛇行した淀みに上流から流れてきた芥が澱む。「流れゆく大根の葉のはやさかな」は九品仏川だったと思われる。辺り一帯が大根畠だったころのものだ。

 北沢川も固有のにおいがしていた。深い川で流れも速かった。「川に入って遊んではだめだよ。○ち○いになるから」と親は川に子どもがはまることを恐れてきつくたしなめた。源流部にある病院のことを知ってのことだ。

 「文士が大勢いたんですよ」というのは一つの話ではある。が、そのことだけではつまらない話だ。わたし自身が一番興味を惹かれる点は、その者たちが土地の固有性にどう影響されて、どんな思考をしたか、あるいは土地のにおいをどう書いたかということである。

 例えばこういう話は面白い。斎藤茂吉は地下足袋を履いてすたこらと歩いていた。萩原朔太郎は着流し姿でひょうひょうとふらついていた、横光利一はおうおうおうと声を上げながら通っていた。いずれも北沢川沿岸で地元民に目撃された姿である。「文士町」とするなら、その物語がなくてはならない。

「ここら辺はみんな竹藪、雑木林でしたよ。そうそう、おっしゃる通り、大場の森とか秋元の森ですね。戦争中は近隣の陸軍の馬が来て草をはんでいたといいますからね」
 地図配布はコミュニケーションである。当会の米澤が拡大図をも作ってくれた。それを見てもらって昔の様子を話してもらう。それをポストイットに書き込んで貼り付ける。
 竹藪、雑木林と地図には書き込んだ。これも興味深い情報である。ちょうどその辺りは代田の詩人から眺められる緑の風景を作っていた。飛騨の山中のようなと詩人は書き記しているがそれは点在する代田七人衆の屋敷の森のことを言っているものだ。土地の文化と結びついた知られざる事実である。

続きを読む

2009年04月04日

下北沢X物語(1298) 〜下北沢文士町文化地図の配布1〜

795e1085.JPG

 知ろうとする世界は分かってくる。その世界は至るところに転がっている。所在なげに路傍に佇んでいる人に話しかけるとその一端が見えてくることもある。

「そうですね、変わりましたよ。昔はもっと緑が豊かだったんですよ。木々がいっぱい生えていましてね、のどかでしたよ。その谷のところでは花を栽培していましたね。ええ、都心に出荷する花ですね。こう代替わりすると段々に土地が分割されていくんですよ。二つになったり、三つになったり、場合によっては四つになったりします。相続税が高いから売らないと、相続できないんですね」
「建物と庭の維持が難しいんですよ。植木なんか放置できないんですね。手入れをしなくてはいけないんですよ。住民の協定があるんですよ。まあ、でもほとんど住民は入れ替わっていますね。」
 昨日、田園調布の住宅街で出会った人に聞いた話だ。前者は、男の人である。国分寺崖線のところは都心に出荷する花卉を栽培していたようだ。
 後者は女の人である。田園調布に住むというのはステータスではあるが、そこに住み続けることの難しさもあるとのことだった。
 日々のこういう徒歩旅行に面白さを見出している。

  この頃わたしは壮大な浪漫鉄道に乗って、この世界に浸りきっている。とある人物の全集を取り出して片端から鉄道場面を見つけてはそれに乗って楽しんでいる。行きつ戻りつすることがあり、この全集が黒ずんだり、表紙が取れかけたりしてきた。自身が買った中でこれほどに使った全集はない。

 文字を通して捉えた風景なり、事象なりを考えていると迷妄世界にはまり込んでしまって苦しくなることがある。外に出るとそこから抜け出られる。自身の足で大地を踏みしめて景色を移動させていくと気持ちが晴れ晴れしてくる。歩くと思考が熟成してくることもしばしばである。それでもっぱら歩くことにしている。欠かせない小旅行である。

続きを読む

2009年04月02日

下北沢X物語(1297)〜森茉莉の手紙から6〜

f542783f.JPG

   下北沢鉄道X交点では文学の炎が密かに燃えていたようだ。それは上甲平谷主宰の俳誌「火焔」であり、福田正夫の詩誌「焔」である。共に北沢三丁目に居住していた。後者は若いときの同人誌らしく、土地と直接結びついているわけではない。が、当地では「どんぐり句会」を催していた。

 表現というのは煙の中から焔を上げることである。煙は茫漠としていて認知されないが、火の手が上がると人は一斉に目を向ける。文学表現というのは炎の上げ方の工夫だと言える。

 個別の党派的集まりの中で言うと、「文章会」である。こちらは案外にメジャーだったと言える。この文章会での様子が、森茉莉が書いた「昭和三十九年一月六日夜」付けの手紙に忽然と出て来る。その部分を引用する。

 みよしたつじワンマン先生(じつに本ものの、にせのまじり気がない上に、一寸の詩人感覚にうけつけないことばもうけつけず、そのためヨーコサンがのかいた文章の中の自分が言ったことになつてる言葉を怒ると次の機会までゼツタイ待てずにチクマの人々や
伊藤信(吉)さん、ダン一雄異常ぎらひ氏等の面前で大いに叱り、罵倒し、ヨーコさん哀しみにうちひしがれる。
    「ぼやきと怒りのマリア  森茉莉  ある編集者への手紙」 小島千加子編 筑摩書房
 
 長々と続くので一旦切る。文中の「ヨーコサン」は萩原葉子である。彼女が書いた文章中で三好達治自身が言ったことになっている表現に痛くお冠だったことは「天上の花」にもエピソードとして記されている。

続きを読む

2009年04月01日

下北沢X物語(1297)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報 第33号〜

50ac90c7.JPG

 「北沢川文化遺産保存の会」会報 第33号
                           
                     会長 長井 邦雄
                                 2009年4月1日発行(毎月一回発行)
                 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
            155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                  会報編集・発行人   きむらけん

1、「下北沢文士町文化地図」大改訂三版の発行、配布

  改訂版が待たれていた「下北沢文士町文化地図」、これが今日付で発行された。
 大きなポイントが三つある。
 まず、もっとも大きな改訂点は「被災地域」が入ったことである。地域一帯の歴史文化という点でいうと、どこが焼けてどこが残ったかということは重要なことである。戦争からもう64年が経ってしまってその辺りの記憶は次第に薄れつつある。いまのうちにそれは聴いて遺して置きたいというのがわたしたちにはある。
 昭和20年5月25日、下北沢鉄道交点一帯にはB29が飛来してきて空襲を受けた。下北沢の中心の被害は少なかったが代田や大原、あるいは南部の太子堂は大きな被害を受けた。今回は公表されている資料、及び聞き書きによって得られた戦災地区を地図に落としたものである。ビジュアルにそれが見られる点では貴重な資料となった。
 つぎに、調べによって新たに分かった文士旧居を追加したことである。安岡章太郎、小田実、武林無想庵、渡辺順三、上甲平谷である。代沢小そばの安吾下宿先も、同小創立記念誌の資料から分かって付け加えた。
 三番目は、説明項目として「文学碑及び風景資産」を付け加えたことである。
 「北沢川文学の小路」沿いに文学碑を建てようと私達は提唱している。その声に応えて行政側は由来を記した看板を二箇所設置した。文学碑関係については当会が中心となって運動を推進して来た。その結果、坂口安吾文学碑が建ち、また、朔太郎ゆかりの鉄塔ということで「代田の丘の61号鉄塔」が世田谷区風景資産に選定された。
 物事の説明として三つほしいということから今回は「森茉莉文学碑」を地図上に建立したものである。これらの説明を地図に載せた。
 その他としては、下北沢にあった四つの映画館跡、下北沢店員道場跡、代田の帝国音楽院跡などを加えた。従来のものに多くの過去痕跡をまた加えた。このことによって地域文化を知る上での必須の資料となったと自負できる。間違いのない「大改訂」である。
なお、今回から原図作成者に従来の東盛太郎、きむらけんに加えて米澤邦頼を入れた。戦災関係の聞き込みをぎりぎりまで彼はしていた。
 この配布については4月4日から事務局の「邪宗門」で行う。また、4月4日、5日の土日は10時から代沢小坂口安吾文学碑前で配布する。

2,第2回「戦争経験を聴く会、語る会」
     日時 5月23日(土)1時から 代沢小学校視聴覚教室
                  主催 「北沢川文化遺産保存の会」

〜今、聞いて置こう、薄れゆく戦争の記憶を残すために!〜
   
 戦争は遠い過去のものとなりつつあります。けれども太平洋戦争はわれわれの歴史の中ではもっとも大きなできごとでした。戦争に負けて日本は無条件降伏しました。この敗戦は一からの出直しでした。そこから出発して、長い苦難の道を歩いた末に、今日の生活が築かれたと言えます。そういう意味では今日の生活の原点を見つめるものでもあります。ところが、戦争の記憶の風化、戦争体験者の高齢化によって戦争経験は人々の記憶から次第に消えつつあります。その薄れ行く記憶を記録して次代に繋げたい、そんな思いからこの会を去年に続いて、その第二回目を開くに至りました。これは党派的なものの集まりではありません。記憶を次代に繋げたいと願って開くものであります。
 昭和20年五月5月24日、25日、この辺り一帯はB29による空襲を受けて大きな被害を受けました。そういうことも次第に薄れて行きつつあります。が、語られることによって話はつぎに伝わって行きます。戦争の記憶を忘れないためにこの会を開くことにしました。できれば若い人もぜひ参加してほしいと思います。
 今年は代沢小が創立130周年を迎えます。代沢小と戦争ということで言えば、疎開のことがあります。戦争の証言シリーズの一冊として「学童集団疎開」(浜館菊雄)というものがあります。これは「代沢小の疎開」を記録したものです。
 驚くような話があります。代沢小の疎開生徒が歌っていた寮歌がありました。広丘村の郷福寺で歌われていたものです。ちょうどそのときにお寺の子どもだった人が過去の思い出ととともにこの歌を懐かしく思ってずっと歌詞を探していました。ところがひょんなことが起こりました。疎開児童だった人がこの一月に病気になり救急車で運ばれました。自宅の処分をする間もなかったことです。結局は古道具屋さんに後事は託されました。彼女の家には書簡が多く残っていました。それが古道具屋さんを通して骨董市に出ました。その書簡類を買った骨董屋さんが資料の中に寮歌の歌詞が入っていることに気づき、インターネットを通して、その歌詞の全貌を知らせてくれました。
 疎開児童の一人だった松本明美さんは今もその歌を覚えています。松本さんには疎開時代の話をしてもらいます。疎開児童が宿泊していた浅間温泉に特攻隊の武剋隊が一月ほど逗留して沖縄へ旅立っていきます。この武剋隊と疎開児童である鉛筆部隊というのは戦争秘話となってもいます。その話などをしてもらった後に、64年ぶりに日の目を見た「聖丘寮歌」を彼女に歌ってもらいます。この話を皮切りに戦争経験をされた方に覚えている話をしてもらいます。みなさんどうか戦争経験を聴く会、語る会に参加してください。
○参加費無料 カンパ箱を置きますのでお気持ちのある方はカンパしてください。
参加希望者は事務局「邪宗門」に申し込んでください。03−3410−7858

3、駒沢線61号鉄塔について

 先日「東京電力渋谷支社」から電話があった。送電線保守グループチーフの保科さんからである。「代田の丘の61号鉄塔」を風景資産にするに当たって窓口となって尽力された方である。今度移動があって他部署に移られるとのことだった。風景資産になった61号鉄塔のことについては後任にしっかりと引き継いで下さるとのことだった。
 61号鉄塔は昭和元年に建ったものだ。塔内はしごがついている特殊なものである。丘上に屹立する鉄塔、山田醇設計の鋭角的な家、その絶妙なバランスが詩人の家の特徴だった。近代詩人、萩原朔太郎と鉄塔というのが地域文化の知られざる事実である。日本一大きい文学記念塔だとわたしたちは言っている。現状の鉄骨鉄塔での保存を、北沢川文化遺産保存の会は申し入れている。
 
4、歩く会について 
 都市物語を旅する会 
  「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。事故のないよう各自で責任を持ってください。
    この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。
  これまで実施したコースはつぎの通りです。
・代田連絡線の跡を歩く(3回) ・小説「猫町」を歩く(3回) ・下北沢の大谷藤子を歩く ・「森茉莉」足跡を歩く(5回) ・下北沢の銭湯跡を歩く ・下北沢の無頼派を歩く ・下北沢の教会を歩く(3回) ・坂口安吾の通勤ルートを歩く(2回) ・駒沢線詩歌文学ラインを歩く(2回) ・下北沢の映画痕跡を歩く ・ダイダラボッチ川を歩く。 ・下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。・代田のダイダラボッチ痕跡を訪ねる(3回) ・代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治) ・林芙美子から坂口安吾を歩く ・.「下北沢店員道場を検証する」 ・池の上の古い町並を歩く ・下北沢の詩人痕跡を訪ねる ・「森厳寺川の源流を探索する(2回) ・「代田の歴史を歩く ・駒沢練兵場を歩く ・滝坂道を歩く ・駒場の戦跡を歩く

・第36回 4月18日(土) 午後一時 京王線つつじヶ丘駅集合
  「滝坂道を歩く(�供法� 甲州街道滝坂から代田まで(前回、渋谷から代田まで、残り半分を歩く)*かなりの距離があります。経堂からの途中参加も受付ます。

・第37回 5月16日(土) 午後一時 下北沢駅北口集合
   「小説『猫町』を歩く」 

・第38回 6月20日(土)午後一時 代田橋駅南口
    森厳寺川を歩く、下北沢という町を地形的に作り上げている水路を探検する 
     水路ですから雨天決行です
・第39回 7月18日(土)午後一時 田園都市線池尻大橋駅改札口集合
   駒沢練兵場跡、野砲兵兵舎跡を歩く
・第40回 9月19日(土)午後一時 東北沢駅
  下北沢の踏切文化を検証する(地下化する小田急線踏切を走破する:予定)
  代々木上原3号踏切から世田谷代田1号踏切まで9つの踏切がなくなります。工事によって原形が崩れつつあります。いまのうちに見ておこうという企画です。
 
  ◎申し込み方法、参加希望について(実施一週間前までに)
  参加申し込みについては当会の米澤邦頼まで必ず連絡をください。
  米澤邦頼 090−3501−7278
   メールアドレスyonezawa-.-v1961@ezweb.ne.jp

■ 編集後記
 わたしたちの会は、大人の同好会です。地図を作ったり、配布したり、また、ときに面白い歩きを計画して歩いたり、ときに戦争経験を聴く会を催したりもしています。純粋なボランティア団体です。とくに大きな制約はありません。
 金子善行さんは自発的に安吾文学碑の手入れをしています。龍のひげを植えたり、蔦をコンクリート擁壁に這わせたりしています。そういう人が幾人もいて、何か会合を催すときにはボランティアとして駆け付けてくれます。
 いつだったか代沢小の用務の方が、「こういう人がいるから世の中成り立っているんだよねえ」と一言いってくれたことが大きな励みとなっています。
 そう言えば、思い出したことがあります。下北沢の町を歩く会によく車いすに乗った方が参加されます。矢崎さんと言います。最後の邪宗門での会は参加できないのでお話しを聞いたことがなく、この矢崎さんについて触れることもありませんでした。が、車いすではなかなか難しいのですが非常に興味深く話を聞いておられます。が、何時だったか、連絡がうまくいかず世田谷代田駅で置いてきぼりにしてしまったことがありました。
 月々の歩く会もよく続いています。が、気をつけなくてはいけないことは途中での事故です。先日、桜新町のウオーキングに行ったところ100円の参加料を取られました。それは保健代だそうです。名前を記入して100円払う、ツアーの終わりまでの事故が補償されるようなことらしいのです。このシステムについては勉強していないのですが、100円でできるのなら導入しようかと思っております。
 大月商店が閉店したことはとても残念です。下北沢一番街の情報ステーションでした。ここへ行けばなんでも分かるということで利用していました。また、こちらの案内だとか印刷物をここで配ってもらっていました。今回の地図、一番街では手に入らなくなってしまいました。北の情報ステーションを募集しております。
当会報への連絡、お問い合わせは、編集、発行者の きむらけん へ
 aoisigunal@hotmail.com  
○「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。年会費1000円です。会員の方にはこの会報を自宅に郵送しています。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。