2009年07月

2009年07月31日

「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」公演案内

ラ・ぺジブル公演案内

「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」
 

                                                                                    原作 きむら けん

公演日時 2009年

  8月6日(木) 8月7日(金) 8月8日(土)
       

8月6日(木)15時

8月7日(金)15時 19時30分

8月8日(土)15時 

開催場所    銀座小劇場

料金 一般  2500円  高校生以下 1000円 

小学生の浩作の夢はチンチン電車の運転士になることだった。
その、憧れの運転士に女学生の姉の郁恵がなったという・・・・・
昭和20年、広島の街を走るチンチン電車を運転する少女達がいた。
「広島電鉄家政女学校」の女生徒達はそろいの鉢巻きを頭に巻いて
軍都広島を、運転士として車掌として懸命に守りぬいた
8月6日、一発の原子爆弾が、人を、街を、電車を、殺してしまった。
希望をなくした人々が彷徨う廃墟・・・・・・・遠くチンチン電車の鐘が響いてきた!

演 出  鷲田 照幸  構 成  佐方  希  舞台監督  須子田峰雄
制 作  安田 洋子  照 明  佐方  旬  音 響  井出比呂之
     

      出 演     蒔村三枝子

 2000年の初演以来、毎年公演を重ねてきた『チンチン電車』10年目を迎えました。
 平和への祈りを込めた、蒔村三枝子の一人芝居をご覧下さい。

 家族といっしょに暮らせる幸せ、明日もまた友達に会える幸せ、
 そんな当たり前の事が、当たり前で無くなくなる戦争の日々
 自分の命を慈しむように、他人の命も慈しむ事が出来たら
 殺し合いは無くなるはずなのに

ラ・ぺジブルホームページ http://www5a.biglobe.ne.jp/~paisible/index.htm

問い合わせ 03−3811−5675



2009年07月30日

下北沢X物語(1374)〜丘影の若き貴公子の物語2〜

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  時々刻々と時の砂は終わることなく落ちていく。その間に、人は生まれ、そして、老いては死んでいく。社会の事象もあるものが生まれたり、また、潰え去ったりもする。

 ダンディな若き貴公子の死は多くの女性の涙を誘った。「仰徳集」には殿下同期の軍人、それに当時の高女らが哀しみに暮れたさまを詩語に託して詠んでいる。

 同輩の軍人たちが寄せた短歌には生前の貴公子の姿が詠まれている。

芝御殿運動会のパン喰ひに声援賜ひしうれしさ忘れず 陸軍大尉 田中 耕二

 品川にあった北白川宮邸のことであろう。先だって三田用水の末流を求めて旧邸あたりを歩いた。邸内にもその流れがきていたのではないかと聞いた。そこは今は「グランドプリンスホテル新高輪」となっている。かつてここにあった明治末期のフランス風木造住宅北白川宮邸洋館は移築されて今も現存しているようだ。先だって、川口信氏が写真を持ってこられたがこの芝御殿での記念写真であった。彼の父親がそこに写っていた。

品川にうちゑませせつヽたちましヽ温顔すでに拝むよしなし 陸軍大尉 糸賀公一

 貴公子は、芝御殿の下の品川駅から見送りを受けて出征していったようだ。昭和十九年三月のことであった。そのときのことを貴公子の妹多恵子が長詩で書き残している。その一部を引用する。

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2009年07月29日

下北沢X物語(1373)〜丘影の若き貴公子の物語〜

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     国木田独歩は「武蔵野」の中で土地の文化の断面を、「大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにうずを巻いているようにも思われる」と切り取って示している。味わい深い一節である。

 自身の探査行も都会と田舎の間に人知れず渦を巻いている物語を探し求めての旅である。思いがけないことから物語が見つかったり、あるいは物語同士が目に見えない線で結ばれているのを発見したりもする。

 先日、駒沢練兵場、そして、野砲兵兵舎跡を巡った。その後、代田の「邪宗門」まで歩いて行った。途中、ほんの少し脇道に逸れて三好達治旧居を通りがてら見ていった。その敷地そのものは駐車場として残っている。片隅に小さな畑があって、いつもそこには胡瓜が植えられている。何本かが実をつけていた。

 後で気付いたことであるが、練兵場巡りをしているときに参加された川口信氏から「仰徳集」という和綴じの歌集を頂いた。(写真)そこに詩人佐藤惣之助の詩が載っていた。

 三好達治と佐藤惣之助、この二人は因縁浅からぬものがある。三好達治が代田の仮寓に亡くなるまで過ごしたことも、とある女性を巡っての因果からきている。その女性は萩原朔太郎の妹である。惣之助が急死した後、未亡人となった萩原アイと結婚する。若いときからの想い人である。疎開先の福井県三国港での二人の生活は萩原葉子「天上の花」に詳しく描かれている。が、詩人と美人はうまくはいかなかった。離婚した後に上京した三好達治はこの代田の仮寓で暮らした。

 三好達治が代田に住んだのは宇野千代の紹介である。彼女のファンが代田に住んでいてそこに空き部屋があったことから当地に住んだ。そこは師と仰いだ萩原朔太郎の家の近くだった。ここに萩原アイは住み、結婚が決まって、三国に行くときは世田谷中原駅を発って行ったようだ。

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2009年07月27日

下北沢X物語(1372)〜駒沢練兵場を巡る夏4〜

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 駒沢練兵場の痕跡を求めての旅は馬の臭いを求めての旅である。練兵場一帯の音の文化史で言うとまずはひずめの音だった。馬のいななきが聞こえ、馬が糞尿を道路に垂らす音も聞こえた。が、それは次第になくなり、キャタピラの音に変わって行った。軍馬から戦車へとである。が、後者の臭いは一切残っていない。今もなお痕跡を残しているのは馬である。それが馬頭観音であり、馬魂碑であり、馬糧倉庫跡である。

 去年、初めて駒沢練兵場を歩いた。そのときに食糧学院そばに住むお婆さんから東京空襲の話を聞いた。「三階建てすれすれにB29は飛んできて焼夷弾を投下した」と彼女は語っていた。超低空で下町を襲った空襲がリアルに想像できた。が、今回たまたま通りかかったそのお宅には遺骨が飾ってあるのが見えた。同行の米澤さんが言っていた。そのお婆さんであろう。

 戦争の記憶が一つ、二つと日々消えて行く。辛く、苦しい戦争であった。その太平洋戦争に敗北したことで日本は変わった。明治維新につぐ大変革であった。
「川という川、水面が見えないのです。浮いているのは男、女、子ども、それに牛や馬でした。それだけじゃないんですよ。道路沿いに髑髏がずっと並んでいるんですよ。それがどこまでも続いているんですよ」
 当時、十四歳だった新谷ヨシ子さんがわたしに話してくれたことである。被爆三日後の広島の惨状である。大勢の戦争犠牲者を出して戦争は終わった。何時までも記憶しておかなくてはいけないことだ。

 駒沢練兵場跡は空間だけは残っている。が、戦争の深い爪痕はどこにも残っていない。食糧学院のあたりには旧軍の馬糧倉庫があった。その建物の一部がいまもなお残っていて運送会社の施設として使われている。その屋根の上に大きな換気塔がある。馬糧の保存のためのものだったのではないかと推理している。

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2009年07月26日

下北沢X物語(1371)〜駒沢練兵場を巡る夏3〜

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   駒沢練兵場という名前は付近の土地の名称に引っ張られてついた。

 練兵場は、世田谷村の池尻、目黒区宿山、駒澤村下引沢の三か村にまたがり、数万坪の原である。もとはこの一帯が畑と山林であり、全面積の三分の一が下馬引沢であったので、駒沢練兵場と名づけられた。「しもうま」下馬史跡保存会刊 昭和四十五年間

 大山街道に面した大橋、池尻、三宿、三軒茶屋を表通りとするなら下馬引沢は裏通りとなる。物事のエピソードは表通りより裏通りに落ちていることが多い。

 下馬の裏通りを通っているときに野砲兵兵舎の裏手から戦車が出ていたことを教えてくれた。戦争も末期になるとひずめよりもキャタピラの音が響いていた。以下の話は昭和十七年頃の話だという。

「大砲も馬からトラックやキャタピラのついた牽引車が引っぱるようになり、外の道をゴトゴトすごい音を立てて走っていきました」
   「『「世田谷』見聞録 池尻・三宿からの昔話」(2009年3月刊)

 旧駒沢練兵場の中を歩いても、その痕跡はみられない。一帯が敷地の広い公団住宅、官舎、自衛隊駐屯地、公園、学校などとして使われているところから、かつては何かの敷地だったのだろうという推測はできる。が、そこに住む人達はそこに何があったかは知らない。往時の子どもたちはよく覚えていた。

 私の近くのそれはそれは広い練兵場も男の子たちの遊び場になっておりました。こっそりしのびこんでは、壕にもぐってかくれんぼ。あらあら、どうしましょうか、壕の中で、時々とんでもない大人の男女の営みを見てしまったりもします。騎兵山のほうには実弾射撃場があり、射撃訓練のあとに忍びこんでは真鍮の薬莢を土の中から掘り出したりします。
  「『「世田谷』見聞録 池尻・三宿からの昔話」(2009年3月刊)

 往時、駒沢練兵場の、塹壕は近隣の男女の逢瀬の場、仮のラブホテルだったようだ。子どもの時のこういう経験は一層忘れないものだ。

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2009年07月24日

下北沢X物語(1370)〜駒沢練兵場を巡る夏2〜

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    駒沢練兵場を巡る旅は馬の臭いを求めての旅である。名称そのものが馬に因んでいるところも興味深い。この駒沢という地名も馬に引っ張られてついた名前である。

 駒沢町は世田谷の南にある。上下馬引沢、弦巻、世田谷新町、野沢、深沢等の各旧村より成る。蛇崩川が村の北部弦巻、馬引沢辺を流れ、其左右に狭き水田を開き、南深沢辺にも若干の低地があり、水田が開けて居れど、大体は陸田の地である。
 「武蔵野歴史地理」第二冊 高橋源一郎編 明治書院 昭和四年刊
         (旧漢字は新漢字に直した)

    明治になって市制・町村制が公布されたことにより明治二十二年、合併によって駒沢町ができた。「駒沢」はいわゆる合成地名である。が、土地の文化を反映した地名である。地名に多く使われている頻度の高い漢字を二つ用いて作ったものだ。「馬」と「沢」である。馬は、「馬引沢」から採られたものだ。練兵場も兵営も南半分は下馬引沢に属する地域だ。

 馬引沢といふ名は本来蛇崩川の低地を呼んだのであるが、やがてそれが附近の原野をも称する名になつたのである。一説には元此所に牧場があつたから、此の名を得たのだといふ。しかし、必ずしも然りと断定するわけにも行かぬ。
   「武蔵野歴史地理」第二冊 高橋源一郎編 明治書院 昭和四年刊

 おもしろいのはこの書は「俗伝には昔源頼朝が奥州征伐の時乗馬が此処の沢に落ちたのを引上げたとか色々に伝ふれど、何れも一顧の価値だにない挿話である」と述べていることだ。下馬五丁目に「葦毛塚」が祀られているがこれをきっぱりと否定している。

  荏原一帯には「源頼朝による奥州藤原氏の討伐」関連の伝説が至る所に存在する。このことを解説した説明版も多く見受けられる。麗々しく看板が建っているとそのことがあたかも真実であったかのようでもある。我々の歴史観は科学的ではなく、伝説をありがたがる風潮がある。また、ありがたがらせるところもある。そこへの批判はあってよい。昭和四年刊のこの書物が伝説を一蹴している点については耳を傾けるべきではないだろうか。

 

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2009年07月23日

下北沢X物語(1369)〜駒沢練兵場を巡る夏〜

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    言葉に置き換えられるものは残っていく。が、言葉に記すことが困難なものは我々の記憶から遠ざかっていく。かつての匂いや響きは時が経つとほとんど消えてしまう。まして、近代は消音や消臭への技術開発にしのぎを削っている。

 今朝の新聞を見ていたら一頁が消臭剤の広告として使われていた。「体臭や口臭」は駆逐されるべきものとして扱われている。人間は人間ゆえに臭うと思う。「わてはあんさんの体の臭いが好きや」というのは何かの物語で読んだが、体臭は人間本来の恋愛衝動とも結びつくものだ。体臭を敵視する近代は、無味無臭なロボットに人間を改造しようとしているのかもしれない。

 駒沢練兵場の痕跡を求めての旅は消え去った臭いや音を求めての旅でもある。もっと言えば、兵士たちの思いの痕跡を求めての流浪でもある。
「池尻、三宿は兵隊の町でした。駒沢練兵場には大勢の兵士が訓練したところですけどね、その彼らがどんな思いを持っていたろうかということは思いますね。何も残っていませんからね」
 当日、参加された世田谷道楽会の上田暁氏がそんな感想を述べておられた。彼は、つい
最近発行した「『「世田谷』見聞録 池尻・三宿からの昔話」につぎのように記している。

 武蔵野の田園風景そのものだった池尻・三宿が変化し始めたのは、明治二十四年に幕府の薬園だった北の丘に、赤坂から軍隊がきてからです。南は畑が練兵場に変わり、続いて明治三十一〜三十二年には三宿に陸軍の三つの砲兵隊と司令部が来ました。明治四十年には大山街道沿いに玉電が開通し、東京とつながりました。池尻の目黒川沿いが世田ヶ谷最大の工業地帯になったこともあり、いろいろの職種の人が集まり人口も一挙に増え、大山道沿いは商店が並び住宅が増え、市街化がどんどん進んでいきました。
 警察署も、郵便局も、さらに青物市場も世田ヶ谷の中で最初に出来た場所は池尻でした。ちなみに昭和十六年の池尻の宅地価格はハイカラで売っていた成城の一・五倍でした。

 まずは、明治二十四年(1891)に、騎兵第一大隊の兵営が池尻の北部、駒場にかけて造られた。そして翌年には近衛輜重兵第一中隊が移転してきた。馬のひづめと荷車、そして軍靴の音だ。つぎに明治三十年に、池尻の南に駒沢練兵場ができた。野砲兵が放つ大砲の音である。また、塹壕での闘いを想定した訓練での鬨の声である。さらには三つの野砲兵のの隊舎が駒沢練兵場の西側に建った。馬がいななき、ラッパが響く町となった。

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2009年07月21日

下北沢X物語(1368)〜東京市巨人伝説「ダイダラボッチ」2〜

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 「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」の練習会場へ自転車を走らせているとき梅が丘で奇妙な行列に出会った。袋をかぶった大人や子どもが象のはりぼてを曳きながら行進していた。これがなんなのか見当もつかなかった。が、一人の女の人がチラシをくれた。

 そこには「羽根木プレーパークおめでとう30周年パレード」とあった。「原始村まつりを開催」しているとあった。「遊びは原始の本能だ」ともある。袋は原始人の格好であり、象はナウマン象をかたどったもである。羽根木プレーパークは公園の斜面の雑木林を活用した子どもの遊び場だ。自らが遊びを誂えるプレイパークである。この公園の一帯からは旧石器時代の遺跡が出土している。そのイメージを踏襲したパレードかと思った。

 玉川上水を頂いた台地が淀橋台である。そこから南へ伸びているのが代田半島だ。この縁辺に羽根木公園も代田八幡宮もある。旧石器、縄文、弥生の七つの遺蹟がこの半島に沿って存在する。八幡神社の社宝の「石剣」は縄文時代前期のものだとされる。遺蹟に繋がる出土品である。

 荏原一帯に存在するダイダラボッチ痕跡の近辺には遺蹟がある。そのことはダイダラボッチが古代遺蹟に結びついていることを意味する。古くから伝えられてきた伝説だと言える。このダイダラボッチには不思議な魅力がある。取り憑かれると取り憑かれてしまう。それでこの「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」自体、長い物語となってしまった。

 ダイダラボッチとは何かというときに、手がかりは多くはない。が、世田谷代田にその痕跡が残っている時に柳田国男は当地を訪ねて、その足跡の大きさを計測している。調べると「長さ百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深くふみつけてあ」ったと彼は記している。そして、三点に亘る重要点を記している。まずは窪地があったこと、つぎに湧水があったこと、そして、そこに小さな堂があったことである。

 このことが「代田のダイダラボッチ」として言い伝えられていた。そこから世田谷代田の名前は生まれた。ダイダラボッチ跡が残っていたことによって地名伝説は確かなものとして今日まで伝わっている。その点から彼は「東京市は我が日本の巨人伝説の一箇の中心地」と述べた。

 

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2009年07月20日

下北沢X物語(1367)〜東京市巨人伝説「ダイダラボッチ」〜

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 世田谷代田、代田八幡宮の境内で「ダイダラボッチ!」と大きい声で叫んだ。すると、強い風が吹きつけてきてご神木の大銀杏の葉っぱがじゃわるるじゃわらりと騒いだ。そして、樹に留まっているカラスが、「くわぁ、くわぁ」と啼いた。「ダイダラボッチ」という言葉に秘められている響きが古代の神に届いて、葉擦れの音を起こし、カラスを刺激したのかもしれない。

 昨日、「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」の練習を代田八幡宮境内で行った。先週に引きつづいて二度目の練習である。前回は、喫茶「邪宗門」で行った。二回目は「ダイダラボッチ」ゆかりの八幡宮境内で行った。10名が集まり、さながら奉納劇「ダイダラボッチ」となった。

 代田八幡宮の「社宝」は「石剣」である。神社が出しているしおりには「縄文時代前期、代田から出土」とある。「ダイダラボッチ」を考える上で、このことは重要な点である。

 ダイダラボッチというのは単なる伝説ではない。古代から連綿と受け継がれて来た言葉である。世田谷代田という地名もここからきている。「ダイダラボッチ」という音、ここから代田という地名は生まれた。

 「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」の副題は「東京市巨人伝説」である。こういう呼称を代田のダイダラボッチに与えたのは民族学者柳田国男である。彼は、当地に深い興味を持ってここにあったダイダラボッチ跡を調査に来て、その痕跡の重要性からこう名づけた。

 この劇はある意図を持って作られたものだ。近隣にある学校が節目となる周年を迎えることから、去年、何かの記念になるイベントを考えられないかと関係者からの打診があった。候補としては萩原朔太郎「猫町」があった。が、内容が難しい。そのことから地域との結びつきが濃厚であるダイダラボッチとなった。自分でも深く調べていたゆえに熱意を持って取り組んだ。ちょうど、当該学校が地形的に言うと、ダイダラボッチ伝説を持った土地の先端に位置した。代田半島、長靴の形をした地形の先っぽだ。だから、学校の西側は標高25メートルであり、東側は23メートルである。物語の面白さは端末に潜むものだ。その点からも具合が良かった。

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2009年07月18日

下北沢X物語(1366)〜夏再び、戦跡を巡る2〜

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 駒沢練兵場の西隣に近衛野砲兵連隊はあった。玉電が通る大山街道に近かった。夜になると電車の走行音が聞こえる。塀を一つ隔てただけだったがそこは娑婆世界だった。
「玉電が表通りを、グゥゥンってモーターを響かせて通るんですよ。無性に娑婆が恋しかったものですよ」
 今の昭和女子大のところにあった兵営に寝起きしていた田中良輔さんから聞いたことがある。その彼も亡くなってしまった。

 兵隊は休みに外出することが唯一の楽しみだった。

 正門歩哨に「第十中隊外出証、第○○号」と外出証の木札を見せて、一ッ星の肩章も誇らしげに街へ出る。しかし、どうみても二等兵はどことなく、やぼったい。二、三年兵のようにすっきりとしていない。隊列はくまないで、ただ一かたまりになって渋谷に出るために、三宿の電車通りの方へゆく。入営のときにはわからなかったが、電車通りの近くには、何軒かの員数屋(われわれは、そうよんでいたが、これとても、れっきとした○○商店、××商会である)がある。員数屋というのは、われわれが隊内で持っている物品を員数といい、各人の員数は、きまっている。針一本といえども員数で、員数検査のとき、なにか一つでもなければ、ビンタの対象となる。員数確保は、われわれに課せられた至上命令だ。各人誰も同じ員数を支給されているのに、朝、洗濯して、物干場へほしておいた襦袢が夕方、演習後にとりにゆくとない。やむをえず、被服係上等兵に申しでる。ところが、
「馬鹿野郎、ボヤボヤしているから、ぬすまれるんだ。一中隊へ行ってとりかえしてこい。」と、どなりビンタの二三発をもらうことになる。
      「近衛陸軍砲兵二等兵」門屋 古寿 昭和五十三年刊)

 電停三宿近辺には「員数屋」が数多く店を出していたようである。新兵は、外出時になくなった物品をここで買い求め員数を揃えていた。軍隊内で人の持ち物をかっさらうということが横行していた。古参兵は、襦袢がすり切れると新兵のそれをかっぱらっていた。員数がないと殴られる。それで員数を揃える。員数屋というのは「盗品被害者救済所」である。堂々と店を出していたというところはおもしろい。

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2009年07月17日

下北沢X物語(1365)〜夏再び、戦跡を巡る1〜

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   再びまた夏が巡りきた。思いの深い夏、戦争の夏である。

 先日、広島の新谷さんから電話があった。つい、この間、心臓の手術をされてやっと退院してきたところだと言う話だった。彼女はかつて広島電鉄家政女学校の女生徒だった。そのときは三期生の十四歳、その彼女は8月6日、爆心地近い紙屋町へ切符を売りに行くところであったが、友だちから電鉄本社に戻ろうといわれた。それで電車で帰る途中、鷹野橋で被爆した。

   九月半ばまで広島電鉄に留まって同僚の介抱をしたり、焼け跡の片付けを手伝ったりした。原爆投下後の凄惨な様子は、あまりにも凄まじくて人には言えなかったと語った。一昨年、彼女からそのときの様子を直に聞くことができた。そのレコーダーを取り出してついこの間聞いた。録音された声から無数の遺体が放つ死臭が臭ってくるように思った。

 昭和20年8月9日、部分開業だが、原爆投下三日後に広電は動き始めた。死んだと思われた町に懐かしいフットゴングの音が響いた。そのチンチン電車の鳴らす鐘が絶望の淵にいた人々を勇気づけた。

 新谷さんたちは、この当日、避難先の鈴峯の実践女学校から千田町の広電本社へ軍用トラックで行き、原爆によって破壊された本社の後片付けをした。ガラスの破片の片付けだったという。その彼女の証言を聞いて思ったことがある。

 原爆投下後、三日目にして電車が動いた。これは投下直後から始まった電車運転に向けての地道な作業の結果であった。それが実を結んだ。が、新谷さんたちがトラックで広電本社に片付けにいったのはこのことと無関係ではなかった。社を挙げての復旧への本格的な胎動だったのだと気づいた。家政女学校の女生徒たちは社員として駆り出され、本社の機能回復のための後片付けを手伝った。電車が動くようになった背景にはそんなことがあったと知った。

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2009年07月15日

下北沢X物語(1364)〜ネット繋がりの不思議な話(下)〜

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    ネット検索の速報性の高さには目を見張るものがある。昨日の記事に「クリックから数時間後には、ブログに書いたフレーズがグーグルの検索でヒットする。」と書いた。昨日、試みに、「ネット繋がりの不思議な話」を検索したところ一時間経たないうちに引っ掛かった。今日は、昨日の手紙の続きである。

 帰ってからもパソコンや本で沖縄戦や彼がいた部隊について調べました。もっと彼のことを知りたい・・次に思いついたのは彼の生まれ故郷の金沢に行く事でした。身内の人に会うなんて全く無謀な考えですが、せめて何かの手がかりがあるのでは。ただそれだけの思いでした。そしてとうとう金沢滞在3時間というバスツアーを利用し昨年7月、金沢へ向かいました。3時間という限られた時間内でどこを回るか、行く場所をいくつか絞りました。一つは平和会館内の手紙から知った栄吉さんの実家のある場所です。行ってみるとそこには家はなくて現在は観光バスの駐車場に変わっていました。それから戦時中に出征した兵士の写真が納めてあるお寺にも行きましたが残念ながら栄吉さんらしき写真は見当たりませんでした。最後に行った場所は護国神社です。行った時はちょうど「みたままつり」が行われていて入口から道の左右にあんどんがずらりと飾られていました。その中を歩き大きな戦没者の慰霊碑にたどり着きました。この中に栄吉さんの名前を探しましたが、どこにも見当たりません。ただ仮に名前を見つけてもそれ以上の手がかりを見つけることはできません。終わった・・・そう心に呟いて帰る決心をしました。(その弐に続きます。)

 

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2009年07月14日

下北沢X物語(1363)〜ネット繋がりの不思議な話(上)〜

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    インターネットでの情報発信はグローバルである。自身の乱雑な机の上にあるマウスをクリックすると、今日の記事がたちまちに世界に散っていく。すると米国のグーグルの検索サイトが早速に感知し、情報をコンピューターに取り込む。クリックから数時間後には、ブログに書いたフレーズがグーグルの検索でヒットする。

 このブログは2004年8月に始めた。間もなくで、丸五年目を迎える。ささやかな発信であった。が、五年という歳月は長い。原稿用紙換算七千枚以上の厖大な情報をネット上に流したことになる。そこから最新記事、過去記事などを含め多くのエピソードが検索で拾われているようだ。

 知らない誰かが検索で記事を拾う。それを目にした人がこちらへ具体的な応答を寄せてくる。それがこのブログへのコメントである。そればかりか、発信に対して、折々問い合わせや情報が寄せられることがある。今回はその一つを紹介したいと思う。

 代沢小学校の疎開についてはブログで度々記事を載せてきた。長野の浅間温泉「千代の湯」に児童たちは疎開生活を送っていた。昭和二十年二月末、そこへ六人の若い兵隊がやってきた。やがては沖縄へ特攻出撃する武剋隊の飛行士だった。このメンバーの中に出戸栄吉軍曹がいた。この彼に関わる情報を見知らぬ方からいただいた。

 ブログのメッセージメールに送ってこられた。ネット繋がりの不思議な話である。

 これはだいぶ前にいただいたものである。が、間もなくボックスからこれは消えてなくなる。「メッセージの保存対象期間は受信、送信をおこなった日付より3ヶ月間です」と記されているからである。

 自身のブログはあらゆる事象を記してきた。その発信への一つの応答である。このまま消してしまうのも惜しい。記録として残して置こうと思った。その旨をメールに書いて書かれた方に送ったら、つぎのような返事をいただいた。

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2009年07月12日

下北沢X物語(1362) 〜荏原南西東海道線徒歩紀行6〜

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      鉄道路線による文化の違いはある。そればかりかその路線の駅毎に文化が異なる。駅は地盤、地形を映し出している。蒲田は、沖積層に作られた工場街を背景としている。ここに住んでいた坂口安吾は、終戦時の一帯の特徴を、「蒲田は安サラリーマンと銀座勤めの女給のアパート地帯」(「安吾巷談」東京ジャングル探検)と述べている。

 蒲田のつぎは大森だ。駅前には天祖神社へと上る急坂がある。一帯が丘陵地だったことがわかる。芥川龍之介は「私を乗せた人力車は、何度も大森界隈の険しい坂を上ったり下りたりして、やっと竹藪に囲まれた、小さな西洋館の前に梶棒を下しました」と「魔術」の冒頭で描いた。帝都郊外の別荘地の片鱗を文章に描いている。

 大森の次は大井町だ。萩原朔太郎は「大井町」と題した詩の冒頭で「おれは泥靴を曳きずりながら/ネギや ハキダメのごたごたする/運命の露地をよろけあるいた。」と立会川沿の工場街である土地の雰囲気の一端を描いた。

 土地と作家の感性、その呼応がこれらに顕著に見られる。彼らの立ち位置を象徴しているように思える。その背後には地形がある。呑川、大森山王、立会川、順次東海道線は鉄橋で渡ったり、片切り通しで抜けたり、カルバートで突き抜けたりしていた。

 安吾は蒲田的な無秩序性を好んだ、龍之介は丘上の洋館を舞台とする作品を好んだ、朔太郎は「亭主のしゃべるが光る」、鉄道工廠のある町を好んだ。そこに彼らの文学の風土があったと言える。鉄道路線が醸し出す文化の反映という文学論である。恐らく新橋横浜間だけでもこの観点で捜すといくらでも資料があるはずだ。

 東海道本線は今は複々線である。当初は単線だったようだ。順次、線路は増設された。山側から海側へと次第に増やしていったのではないかと想像していた。

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2009年07月11日

下北沢X物語(1361) 〜荏原南西東海道線徒歩紀行5〜

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    武蔵野西南端の丘陵を歩いたり、地域資料を調べたりすることで一帯の文化の興隆、興亡などが分かってくる。思いがけない発見があるだけに面白い。

 一つの観点でいうと「音の文化史」というのもある。時代とともに様々な音が生じては、消えていった。その時代時代特有の音があって、時代が経つにつれ無くなって、忘れ去られていくものもある。「線路工手の唄」もそれである。踏切の警報音もなくなりつつある。東北沢3号踏切ではピアノ音と警報音の「くぁんくぁんくぁん」とがコラボレートして響いている。が、それも小田急が地下化すればなくなる。人の記憶からも消えてしまう。今また新手が出現した。荏原上空を航路として通るジェット機の騒音である。

 先だって、「深沢・桜新町さくらフォーラム」の稲垣道子さんから「昔思い起こすまま 桜新町深沢あたり」という本のあることを教えていただいた。(ほんのついついさっきその本人から電話をいただいてびっくりしてしまった)。昨年、亡くなられた荒木進さんの書かれたものであるということだった。これを深沢図書館から借りて一気に読んだ。開発される前の新町の自然風景がさわやかな筆致で描かれている。往時の記憶が丹念に記されている。この中にわたしたちが忘れ去った音が記されていた。

 桜新町を通る大山街道は「お汁粉街道」だったという、昭和十年ごろの話である。

 その頃のこの街道の主役は下肥取りの牛車の列だった。街道沿いや更に奥地の農村から青山、赤坂方面にかけて下肥取りに行く牛車の数が大変なものだった。
 やや小ぶりな朝鮮牛飴(黄色い毛並みの牛、今は全く見かけない)に曳かせ、夜が明けない真暗なうちから早朝まで、その行列が絶えない。その轍の音は街道から一粁も離れた私の家あたりにも、暁闇の空を伝わってきた。耳敏い私はいつも暁の夢をやぶられたもので、枕に通う下肥車の音では詩にもならないが、今となっては懐かしい音として蘇る。
 「昔思い起こすまま 桜新町深沢あたり」荒木進 平成元年刊行

 往古の街道の様子がありありと浮かんでくる、味のある記述である。都会で排泄された糞尿が街道を通っていた。それが下肥となって野菜、蔬菜を育み、また再び都会の青果市場に出荷されていた。汚穢を運ぶ牛車の音は時代の様相を反映していた。

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2009年07月09日

下北沢X物語(1360) 〜荏原南西東海道線徒歩紀行4〜

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   蒲田から大森に着いた。土地の趣が異なる。蒲田は平坦だが大森は土地に屈曲がある。

 大森驛からは右窓に近く八景園の梅林が見えるが、今は私人の別荘となつてしまつた。驛付近大森、入新井の地は帝都の近郊住宅地として田園都市を形造りつゝあるのである。
 
 谷口梨花の「汽車の窓から」にこう出ている。大正七年に初版が出ている。手元にあるのは大正十一年発行の四十六版である。大正期のベストセラーだったのだろう。「汽車の窓から」のぞき見える風景は人々を旅へ旅へと駆り立てた。

 この谷口梨花の記述から大森の様子が見えてくる。駅付近は「帝都の近郊住宅地」だった。それは大正初期に造成された世田谷「新町分譲地」と同じであったろうと思う。先だって開かれた「深沢・桜新町さくらフォーラム」の「昔思い起こすまま 桜新町深沢あたり」と題された古老によるお話し会があった。「帝都の近郊住宅地」という点で、桜新町と大森は共通点がある。が、いわゆる住宅地とは異なる。大正年間、都心に通うには遠かった。

 桜新町も大森も帝都近郊の別荘地であった。第一線を退いた商人、軍人、あるいは病人などが住んでいた。オゾンは豊かで、眺めもいい。駅前の八景坂の上から大森海岸より遠く房総半島まで望めた。

 瀬田の畑地や森を越えて、溝の口方面の多摩丘陵が緑濃く見え、その先はるかに丹沢から秩父に連なる山脈が一望できた。よく晴れた冬の日には箱根から遠く天城山も見えた。丹沢連峰が甲州街道に落ちこむ肩のあたりに、南アルプスの白雪が僅かに顔をのぞかせる日もあった。「昔思い起こすまま 桜新町深沢あたり」荒木進 平成元年刊

 これは桜新町「分譲地」の丘上からの景色である。大正年間、「帝都近郊」に家を求めた人は眺めをも買った。財政的に余力のある人であった。ゆえに新町にも大森にも洋館が多く立っていた。眺望景観のよさ、地盤の安定性、都会とほどよく離れた距離というところが近郊住宅地として発展していった。

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2009年07月08日

下北沢X物語(1359) 〜荏原南西東海道線徒歩紀行3〜

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   荏原南西部の鉄道線を巡る旅はふと思いついて始まった。が、新橋という鉄道の中心から逸れた官設鉄道の途中、ローカルポジションには鉄道文化という鉱床が連なって眠っている。ツルハシを一振りすると金の鉱床に行き当たって、エメラルドの火花が散ってくるほどだ。鉄道時代旅行は、はまるとはまってしまう。

 大森駅への上り進入線は右へとカーブしている。この意味を想像することの楽しさはある。恐らく鉄道敷設時の事情まで遡るであろうと思われる。

 鉄道史に踏み込むと泥沼である。蒲田近辺の地盤どころではない。一歩足を突っ込むと日本近代史にまでずぶずぶと遡ってしまう。例えば、当初は新橋横浜間は支線として敷設されたということなどだ。その辺りは早く抜け出すとしよう。

 新橋横浜間の鉄道開通は近代史のエポックである。これが日本を変えた。今日の礎を作った。が、この敷設は外国からの借款でまかなわれた。英国系の「オリエンタル銀行から」「五十五万ドル」の借款を受けて敷設した。発足したばかりの明治新政府は貧乏だった。鉄道建設推進派の大隈重信が「元来が貧乏な国であるから軌幅は狭い方が宣」いということで狭軌鉄道に決まったのは有名な話だ。

 新橋横浜間は官の手によって始められた。官設鉄道である。が、借金で賄うゆえに建設費は潤沢ではなかった。そのことと大森上り線カーブは関係してくる。想像的推理が楽しめるカーブである。
 
 東海道線は荏原南端の武蔵台地の端を路盤にして走っている。固い地盤は建設費が安くつく。大森は丘陵終末部の端である。固い路盤を確保しつつ大森までやって来る、それから先は呑川や多摩川の沖積層に入る。固い地盤から軟弱地盤に入る。そこで丘陵と分かれる時になって、ようやっと踏ん切りがつく。しぶしぶ進路を横浜方向に振った。それが大森カーブという想像である。多摩川や鶴見川をなるべく早く渡って、多摩丘陵南端の固い地盤に辿りつきたい。が、川崎過ぎてまっすぐ行きたいが鶴見総持寺にぶつかるから回り込む形のカーブになったなどという推理がつぎつぎに湧いてくる。

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2009年07月06日

下北沢X物語(1358) 〜荏原南西東海道線徒歩紀行2〜

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  鉄道線路は線ごとに響く音色が異なるということはある。
     官設鉄道の場合は国家的なプロジェクトである。隧道、橋梁、切り通しに金をかけることができた。が、私鉄の場合、資金は潤沢ではない。効率的な資金運用をしなくてはならない。ことに山陽鉄道は、瀬戸内航路との競合があった。そのためにはスピードが命である。勾配を極力抑えて線路を敷設する必要があった。ところが建設資金は豊富ではない。とすると山峡は縫って走ることになる。

 夜行寝台は好きで何度も乗った。九州行きは夜中を過ぎて山陽路に入る。ふと目覚めると山陽路に入ったことが音でわかる。奏でている音楽が東海道線とは違う。山陽路の石灰岩質の山峡を巡りながら走っていく列車は響きが異なる。いつだったか、寝台の乗務員に東海道線と山陽本線に音の違いはないかと質問したことがある。が、返ってきたことばは「ない」の一言だった。ところが、このことを言っているのは自分だけではないと知った。

 線路の音響学的考察という論考があれば読んでみたい。人によってその列車の走行音の聞こえ方は異なる。鉄道趣味道楽人の内田百�里賄豎て史楡�車中での経験をこう語っている。

 大船を出て、線路の真直い、汽車が速くなる辺りへかかっている。線路の継ぎ目を刻んで走る歯切れのいい音が、たッたッたッと云っていると思う内に、その儘の拍子で、「ちッとやそッとの、ちッとやそっとの」と云いだした。
  第一阿房列車 内田百�痢/慶�文庫

 昨今の線路は継ぎ目がない。蒲田から大森へ東海道線脇を歩いていると頻繁に電車が行き交う。が、その音に情緒は全くない。金属が線路を擦りつける、ばぁうばぁうばぁうという嫌な擦過音が聞こえるばかりだ。が、かつてはこの継ぎ目を踏む音は響きでありリズムであった。内田百�里呂修離献腑ぅ鵐箸鯑Г牴擦鯏�確に言い表している。東海道官設鉄道は路盤がしっかりしている。安定した速度になると心地よく車輪は響いた。「ちッとやそッとの、ちッとやそっとの」である。往時の鉄道旅の音楽を想起させる、彼の作家の尋常でない技である。

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2009年07月05日

下北沢X物語(1357) 〜荏原南西東海道線徒歩紀行〜

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  文学の陰影を鉄道線路に眺めてみよう。そんなことを思い立って小さな旅に出た。東海道本線の蒲田から、大森を経て大井町まで歩いてみた。日本で最初に鉄道が敷設された区間である。エピソードは掘れば掘るほど出てくる。 

  蒲田へは東急多摩川線で行った。この呼称にはとまどいがある。かつての目蒲線という名の方が沿線の雰囲気も佇まいもぴったりする。駅名はその線の文化を表す。沼部、鵜木、新丸子、武蔵新田、矢口渡、蒲田‥‥多摩川の下手へと走っていく。最後は矢口の渡し、そして終点が蒲田だ。水に関係する漢字が一帯の土地の特色を言い表している。

 この沿線、アーク溶接の火花が散っていたり、ぐっどんどんと機械音が響いていたり、焼けた油が臭っていたり、工場街独特の雰囲気があった。が、多摩川沿いの工場は多くが立ち退きそこには高層マンション群が聳え立っている。それでも矢口渡近辺の路地には赤錆びたドラム缶の中に紫色に光る螺旋状の針金が入っているのを今でも見かける。旋盤の削りクズだ。

 蒲田近辺は人間がひしめく町だ。坂口安吾の代表作「白痴」はここを舞台とした小説である。人々の生きるエネルギーが充満しているところだった。

 このへんは安アパートが林立し、それらの部屋の何分の一かは妾と淫売が住んでいる。それらの女達には子どもがなく、又、各々の部屋を綺麗にするという共通の性質をもっているので、そのために管理人に喜ばれて、その私生活の乱脈さ背徳性などは問題になったことが一度もない。「坂口安吾全集4」 ちくま書房

 戦争中の町の様子を描いたものだ。一帯には中小の工場がひしめいていた。脂ぎった生活とそして動物の性の営みが生々しく描かれる。が、この土地の文化をぐさりと描いたことばはさりげない。「このあたりは一尺掘ると水が出るので、防空壕の作りようもない」と記している。多摩川と呑川に挟まれた沖積層で地盤は軟弱だ。地名もそれを匂わせる。蒲の生えた田圃、低湿地だった。ここに工場が出来、下請け工場が建ち、工場労働者が住んだ。その風土を小説は見事に描いている。体制の規範に対して、新興工場町の背徳性の論理は土地の文化をシンボライズしたものとも言える。

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2009年07月03日

下北沢X物語(1356) 〜色恋行路、鹿島谷、山崎、淡島〜

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    交通論的な文学論という観点はおもしろい。宇野千代の恋路行路は交通の路線がからんでいる。その彼女は、馬込から、大井鹿島谷、そして、世田谷山崎、さらには下北沢の淡島へと移り住んでいく。ここには交通網の発達と進展が絡んでいるはずだ。

 宇野千代は馬込文士村の住人だった。彼女の色恋行路は馬込から下北沢へと結びついている。かつての馬込住人で後に下北沢に越してきたのは他にもいる。萩原朔太郎とその娘葉子、そして三好達治である。後者の詩人は宇野千代の手引きによるものである。

 馬込文士村から、下北沢文士町へ四人も移って来ていることはすこぶる興味深いことである。このことを考えることで下北沢への文士参集の理由の一端が見えてくるのではないだろうか。

 「その夜、私が世田谷の東郷の家に住みついて、そのまま、馬込には帰って来なかった」と宇野千代は「生きて行く私」で述べている。東郷青児と同衾したところが世田谷山崎の家であるような書き方をしているが実は、その家は大井鹿島谷にある家だった。つまり、そこは馬込とは目と鼻の先であった。「鹿島谷光福寺の東海道線の見える家から馬込には帰って来なかった」ではドラマがみみっちくなる。それで、文学装飾的にその辺りを世田谷山崎と記したものであろうか。

 鹿島谷三一三八番地のすぐ下を東海道線が通っている。ここを西に一キロも行けば大森駅である。馬込の最寄り駅である。この馬込に文士たちが参集したのは大森停車場があったことが大きな理由としては挙げられる。

 九十九谷と称された東京府荏原都馬込村に、多くの文士たち及び文士の卵が住みついたのは、この浪漫的でかつ、のすたるぢやの風趣を喜んだものに違いない。
 文壇資料「馬込文学地図」近藤富枝 講談社

 「馬込文学地図」では朔太郎が詠んだ「坂」の一節、「坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ」を取り上げ、屈曲に富んだ地形が文士を集めたと述べている。武蔵野台地南端の幾重にも丘が重なるそこには風景の奥行きがあった。

 

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2009年07月02日

下北沢X物語(1355)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報 第36号〜

「北沢川文化遺産保存の会」会報 第36号
                           
                                       会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
                                                          2009年7月2日発行(毎月一回発行)
                      事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
                     155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                     会報編集・発行人   きむらけん

1、自身の文化という畑を耕しませんか

 おもしろがればおもしろくなる。生きていく上で、何か自身で興味を持つことは大事だと思います。自身の経験上知り得たことがあります。それは何かに対して、興味を持った子は目つきがまるで他の子と違うということです。当たり前と言えば当たり前です。

 何かに対して面白がると目の輝きが違ってきて生き生きしてきます。何かに興味を持つことは大切なことだと思います。その何かというのを見つけるのは難しいことです。それでも、「よしちょっとなんかやってみようか」と思うだけでもだいぶ違うように思います。人にはそれぞれに自分の興味関心があるはずです。頭の中にそれが眠っているのです。自身で自身の中に眠っている文化を掘り起こす、そんなことができればベストです。何かへの興味関心が湧いてくると日々のハリも出てくるというものです。

 毎月、第三土曜日の午後にフィールドワークをしています。これはこれでわたし自身、皆さんと楽しんでやっています。こちらは会が主宰して行っているものです。これはみなさんの意見を聞きながら年間の計画を立て、そして、実際にみんなで歩いてみる。それを続けています。

 考えたことは人それぞれが考えついた自発的な会があっていいことだと思ったことです。個々人が文化に触れてもっとそれを深めたいというふうになってもらえればとてもいいのではないかと思いました。そのときに活用できるのがこれまでのふれ合いではないかと思います。ある分野に深い興味を持っている方もおられます。そういう人の話を聞くのもいいと思います。どこかに案内してもらうというのもいいと思います。

 第二土曜日の午後、何かこれをやりたいと思う人がいて、それに共鳴する人がいれば行う。そんなことをこの間の歩く会が終わった後に提案したら皆さんが賛成してくれました。個々人が自由にテーマを考え、それへの参加を募って、例え二人でも三人でもいい、それをやってみるということです。
 まず個人がテーマを発案し、参加希望者を募ります。第二土曜日、午後です。邪宗門の奥の部屋は使えるようには頼んであります。例えば、下北沢の北口で集まってめぼしい保存樹木を巡る、そして、最後は邪宗門でお茶を飲むという例です。下北沢に限らなくともよいと思います。小人数で楽しむ、そんな会があってもいいと思います。
 どうでしょうか、やってみませんか、ほんの少数で、どこかを巡る、下北沢、豪徳寺、明大前でもいいと思います。そんな広がりがあって、またネットワークができる。文化の掘り起こしを楽しんでいるわれわれとしては、嬉しいことに違いありません。希望がありましたら、わたしや米澤さんに伝えてください。仲介や広報はいたします。

2、「花見堂夕涼み会」に参加しませんか

 毎月の歩く会で出たのが夏の懇親会をしようということでした。ローカルな地点でローカルなことを行う、これがわれらの会の真骨頂であるように思えます。それで代田南地区会館を借りて行うことになりました。

 つぎのことを計画しております。おおよそのあらましです。
  8月1日(土)6時より 「代田南地区会館」
    第一部、「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」のお披露目
  当初、全部の披露を予定していました。ところが、演出監督をする木村圭子さんから一時間半でも終わらない劇だということで、ここでの披露は、冒頭だけとします。いまのところの予定としては、十月頃に会場を取って、地域の皆さんにも来ていただいて、代田のいわれとなった「ダイダラボッチ」の劇を、わたしたちが素人ながら朗読をしてみたいと考えています。正式名は、「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」〜東京市巨人伝説〜です。
 第二部、懇親会 情報交換や歓談で夏の一夕を過ごしませんかということです。
 
  会費 2500円 お箸、紙コップ持参。一人一品差し入れ持参。
  例、自作有機野菜のサラダ(梶さん)、危ない漢方薬酒(山本さん)
   とくに内容に制限はありません。おもしろがってやっていることです。
   持ってきたものについてそのエピソードを楽しく披露する
   申し込みは、米澤さんにお願いします。準備の都合がありますので、歩く会が行わ
      れる。七月十八日までに出席をお知らせください。

3、戦争経験を聴く会に参加された旭章子さんからのお手紙

 五月二十三日は三十数名お集まりの中の一人に加えていただきありがとうございますた。このようなことは誰かが事を押し立てて立ち上げなければできないことで木村健氏の御熱意に心服いたしました。私ごとき高齢者が出かけましていくらかか枯れ木の賑わいにさせていただいたことを感謝いたします。おかげさまで六十五年間わからなかった歌詞の部分がはっきりいたしました。それは私共の願いはまことに小さなことで広丘村郷原寮歌の柳内先生の作詞が知りたかったのですが、それ以外にあの時代幼かった方々がどんなに心を痛めて戦争時代を過ごしてこられたかを直にお話しを伺って戦争のおろかさを一層思い知ったことでした。その戦争を食い止める事の出来なかったことも大人の責任です。生めよ、殖やせよの時代自分の立場を考えると唯幼い児を空襲から守ることに必死の思いでした。心ある人が反対すれば忽ち獄に入れられたました。
 世田谷代沢小学校がなつかしく思われるのはあの一年近く幼い皆様と一緒に広丘村郷福寺境内ですごした日々があったからだと思います。私自身は下谷根岸小学校を昭和二年に卒業したきり何処へ疎開したか分かりません。代沢小学校へお伺い出来たことはなんと仕合わせなことだろうかとあらためて思いました。
 敗戦後に東京に帰られる皆さんと本堂の座敷で音楽好きの住職旭興範兄の企画で私共一族も加わりお別れ会をしました。皆さんと一緒に広丘寮歌やその他の色々の歌を歌ったも思い出してなつかしんでおります。
 おくればせながら厚く御礼申し上げます。  旭章子  九十四歳

4,「東京荏原都市物語資料館」へのコメント

 「北沢川文化遺産保存の会」の広報を担っているのがブログ「東京荏原都市物語資料館」です。これへのコメントが1000件を超えました。その内容の濃いもので、気楽に書くわけにもいきません。そこで、ちょっとした話題提供、あるいは雑談が出来る「東京荏原都市物語資料館:雑談、掲示板コーナー」を開設します。「どこそこに行きますが仲間募集とか」「不発弾は三号踏切近辺」とか、情報雑談を気軽に載せられるものにしたいと思います。ご利用ください。

5、「下北沢文士町文化地図」改定4版基金

 この間うちから、この地図を作成するための「改定4版寄金」の呼びかけをしています。定額給付金をこれに使ってほしいということでお金をくださった方もおられます。現在の処45439円が集まりました。不況下でもこうして寄付をくださるというのはありがたいことです。これは地図の作成費用だけに当てるものです。このお金はきむら自身が預かって管理をしております。これに協力くださる場合には、封筒に「地図基金」と書いてお名前とご住所をそれに書いて邪宗門か、きむらにお渡しください。

6、歩く会について 
 都市物語を旅する会 
  「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。事故のないよう各自で責任を持ってください。
    この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。個々人が文化を楽しむというのがねらいです。
  これまで実施したコースはつぎの通りです。
・代田連絡線の跡を歩く(3回)・小説「猫町」を歩く(3回)・下北沢の大谷藤子を歩く・「森茉莉」足跡を歩く(5回)・下北沢の銭湯跡を歩く・下北沢の無頼派を歩く・下北沢の教会を歩く(3回)・坂口安吾の通勤ルートを歩く(2回)・駒沢線詩歌文学ラインを歩く(2回)・下北沢の映画痕跡を歩く・ダイダラボッチ川を歩く。・下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。・代田のダイダラボッチ痕跡を訪ねる(3回)・代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)・林芙美子から坂口安吾を歩く・.「下北沢店員道場を検証する」・池の上の古い町並を歩く ・下北沢の詩人痕跡を訪ねる・「森厳寺川の源流を探索する」(3回)・「代田の歴史を歩く」・駒沢練兵場を歩く・滝坂道を歩く(2回)・駒場の戦跡を歩く

・第39回 7月18日(土)午後一時 田園都市線池尻大橋駅改札口集合
   駒沢練兵場跡、野砲兵兵舎跡を歩く    かなりの距離、五六キロほど歩くことになると思います。帽子、水筒を忘れないように。三軒茶屋からはバスも使えます。去年に続いて二度目の会です。その痕跡はほんのわずかしか残っていません。戦争の記憶を忘れないための夏、恒例の行事です。広大な土地が練兵場として、また、野砲兵兵営、厩として使われていました。それらを記したものはその跡地に皆無といっていいほどです。それを目で確かめるというものです。

・第40回 9月19日(土)午後一時 東北沢駅
  下北沢の踏切文化を検証する(地下化する小田急線踏切を走破する:予定)
  代々木上原3号踏切から世田谷代田1号踏切まで9つの踏切がなくなります。工事によって原形が崩れつつあります。いまのうちに見ておこうという企画です。
・第41回 10月19日(土)午後一時 経堂駅改札前 案内者 別宮通孝氏
  滝坂道を歩く(�掘�  世田谷城、豪徳寺などを巡りながら行きます。
・第42回 11月21日(土)午後一時 世田谷代田駅
      代田の詩人子弟を歩く、萩原朔太郎、三好達治
・第41回  12月19日(土)午後一時 下北沢駅南口
     「下北沢の教会を歩く」
  カトリック世田谷教会、頌栄教会、富士見教会 聖三一教会    

 ◎申し込み方法、参加希望について(一週間前までに)
  参加申し込みについては当会の米澤邦頼まで必ず連絡をください。
  米澤邦頼 090−3501−7278
   メールアドレスyonezawa-.-v1961@ezweb.ne.jp
■ 編集後記
 わたしたちが集めた記録をどのように残すのかということ遠からず問題になってくると思います。本当は資料館などができて、そこで活用されるというのが一番いいと思います。電子媒体など、自分で全部を保存しているわけではないので震災などがあって消えたらそれでお終いということになりかねません。公的なものというのは、そこで仕事をしている人が行っているもので代が変われば方針も変わってきます。わたしたちの手で文化を記録するというNPO法人みたいなものを作って、組織として記録を保存していくということも考えられると思います。これは今後の大きな課題だと思います。
   「東京荏原都市物語資料館」別館、「鉄道文学館」tetudobungaku.web.fc2.com/ を開館しました。鉄道関係のエッセーなどはこちらへ移動しています。

 当会報への連絡、お問い合わせは、編集、発行者の きむらけん へ aoisigunal@hotmail.com  
○「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。年会費1000円です。会員の方にはこの会報を自宅に郵送しています。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。



2009年07月01日

「東京荏原都市物語資料館」雑談、情報、独り言 掲示板

「東京荏原都市物語資料館」

雑談、情報、独り言 掲示板

 ブログコメントが1000件を超えました。その内容は、かなり重厚なものです。会を立ち上げたときの仲間の東さんが「コメントするのは勇気が要るよな」と洩らしていたことがあります。書き込みをされる方が単なる感想ではなくて、記録、解釈、批評という観点から書いておられるからです。その東さん、それから野屋敷ヒマラヤ杉の由来を記してくださった大島さんも亡くなられました。しかし、今もこのブログの中にあって情報を必要とした誰かが検索で引いて、何かに役立てるということはあると思います。
 このブログを見ておられる方で、なにかちょっとした話題を提供したり、町中の店が閉店したという情報を伝えたり、あるいは質問を出したりという「雑談、情報、掲示板」があるといいなあと思いました。

 あまり気負わずに書き込める場があるといいのではないかと思って作りました。ノンジャンルとしたいと思います。気軽に、楽しんで活用してください。他の板でもそうですが、[○○について]とすると分かりやすいですね。

□各掲示板への行き方
 この板は記事が更新されていくにつれ順次下へ行きます。が、このブログの右上に各掲示板へのリンクが貼ってあります。そこをクリックすれば各掲示板へいけます。順番は次のようになっています。
 ・「東京荏原都市物語資料館」雑談、情報、独り言 掲示板
 ・ 鉄道X交点(下北沢)。街の記憶書き込み掲示板
 ・[三田用水]情報交換所�供岨暗塚竸紊鮟笋詁さ帖У�録:情報など〜
 ・[三田用水]情報交換所〜三田用水を巡る討議:記録:情報など〜
 ・ 大岡山鉄道交点情報掲示板
 ・疎開先での寮歌・愛唱歌:情報掲示板

 [文潮社の具体的な所在地についての質問] 
   水上勉が修業時代に勤めていたのが「世田谷区北沢二ノ一七三」の文潮社です。著名な作家が関わっています。「下北沢文士町」の意義づけ、価値づけに関わってくるものだと思います。池沢丈雄さんが発行者となっています。北沢八幡神社の近くのようです。自分でも調べますが、何か情報がございましたらコメントください。(きむらけん)