2009年08月
2009年08月30日
下北沢X物語(1395)〜文学と建築のコンテキスト6〜
緑が多い丘上のステータスというものはある。鉄道交点一帯では南のり面の代沢2丁目や代田2丁目である。が、まっ先に宅地として開けたのは北沢3、4丁目にかかる野屋敷だ。そこに松林の葉の緑と幹の赤を意識した阿蘭陀風の家が建っていた。この斜め後ろに越してきたのが俳人中村草田男である。緑の濃い。丘上で、標高は42メートルある。かつてはどこからでも富士が遠望できたという。
中村草田男第二句集「火の島」の昭和十三年(この夏に野屋敷に転居してきた)とある作品には土地の匂いを感じさせる作品がある。
ニイチエ忌尾輛ゆレイル光つつ去る
ニーチェ忌に俳人は故人を偲んでいる。が、そんなこととは無関係に電車の最後部の車輪は踏面の銀色を光らせながら走って行っていく。この句は好きだ。ニーチェ忌は8月25日である。下北在住時である。これを見つけて下北沢駅をイメージした。小田急線なのか井の頭線なのかと自身では想像する。
が、駅のホームではないだろう。電車最後部の車輪は踏切でないと見えない。自身だと東北沢6号踏切が浮かんでくる。上り電車の床下の車輪がよく見える。下北沢駅を出た電車が次第に速度を上げていって、かててんとんたんとんと消え去る。最後部の車輪がみるみる遠ざかっていく。
若き大工一つ灯冴ゆる鉋屑
昭和十四年の作である。駅からの帰途、見かけた光景であろうか。鉋によって削られた一枚の木の皮の帯が電灯の影に一瞬浮かび上がって見えた。
凌宵(のうぜん)は妻恋ふ真昼のシャンデリア
「来し方行方」の、昭和十六年に詠んだもののの一句だ。駅から歩いて行くと、野屋敷邸宅街に入ると、ノウゼンはどこにでも咲いている。彼の句に「妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る」といものがある。昭和十三年作のもので、「凌宵は」に通ずる色っぽさがある。
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2009年08月29日
下北沢X物語(1394)〜文学と建築のコンテキスト5〜
土地の起伏と樹相とそこに住んでいた人との関係を考えることは楽しいものである。建築家今井兼次は下北沢野屋敷の松林に魅せられてそこに家を建てた。
私の最近の試みとして快活な家、近代感覚の豊かな家、それで日本の住まいを忘れまいとしたものの一つと思います。フラグ・ポールにはブルーとイエローの私の旅行旗が時折翩翻として白壁の前に高く昇ります。前の往来が急に明るくなるように思われます。
「今井兼次 建築創作論」 鹿島出版会 2009年5月30日
建築家は「私の新居」と題したエッセイをこうしめくくっている。これは建築雑誌「住宅」の1930年十一月号に掲載されたものだ。昭和五年である。
野屋敷の松林に建てた「阿蘭陀(おらんだ)風の軽快な中流住宅」は一帯に洒落た空間を作っていた。近隣の評判になっていた家である。
「色といいデザインといい初めは派手だったでしょうね」
今井兼介さんは、わたしの推測をそう電話口で肯った。今朝のことだ。
昭和六年九月、詩人の萩原朔太郎はこの地に近い下北沢新屋敷に越してきた。彼の家の横の坂を下り、角の「かどや」で煙草の「敷島」を買う。そして、たもとから手紙をとりだし、はす向かいの北沢局のポストにそれを投函する。煙草に火をつけた後は、自然と向かいにある湯屋、八幡湯の脇の路地に目が行く。御殿山小路の入り口である。大通りよりも小路を詩人は好んだ。散歩空間が彼の書斎だった。彼を思慕する三好達治は「ああげに あなたはその影のやうに飄々として/いつもうらぶれた淋しい裏町の小路をゆかれる」(「師よ 萩原朔太郎」)と詩人の日々の行動をあたかも跡をつけ回して知ったように書き記している。
八幡湯の脇を曲がってやはり師は御殿山小路へと行かれるんだ。それにしてもみっともない。着流しに女物の下駄だ。ふっと思いついて家を出たに違いない。女中のか自分のものか、それを確かめることもなくふらりと家を出てくる。よくあることだ。前を歩くひょうひょうと歩いて行く師が紫煙を吐き出す。それが赤松の葉の緑に映って見える。「あ、立ち止まった!、あれは高名な建築家の家だ。」
我が師は新屋敷の家を出てどこかに家を建てようと考えている。ふつうはろくろく道もよく見ていない。それで路傍の石ころにつまずいて転ぶこともしょっちゅうだ。阿房がアホリズムを考えながら歩いている様だ。それにしてもよく見ている。真四角の白い箱にまん丸の窓、その上には鋭い三角屋根が載っている。師はよほど気に入っていたようだ。じっと松林に屹立する三角屋根を眺めていた。
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2009年08月27日
下北沢X物語(1393)〜文学と建築のコンテキスト4〜
東京の西郊の私鉄はおおむね西へ向かって延びている。西という方向に需要と供給があったからである。そのほとんどが武蔵野である。丘あり、谷ありという地形も大きく影響している。遙かの西に聳え立つ富士も人を西へと導いた。
昭和二年富士へ向かってまっすぐに路線を持っていった小田原急行電鉄の先見性は見事である。この路線は必ず儲かるという信念に基づいて敷設し、作られている。車両は全部「当時としては珍しい鋼製車であった」「電車線を支持する電柱はすべて鉄柱を使用した」(「小田急五十年史」)とある。それは「当時の私鉄のレベルをはるかに凌駕する設備をつくったのも型破りだった」と創業者「利光鶴松の決断」を「五十年史」は讃えている。
最新の設備を取り入れて新しい線を敷設した。新しい線は新しい風景を作った。北原白秋はその光景を歌に詠んでいる。
架線橋つづきて霧(き)らふ空ながら線路は涼し月明う照り 小田急線
歌集「白南風」砧村雑唱 「白秋全集」第十巻 岩波書店
祖師谷大蔵近くの砧に住んだときの一首である。「架線橋」は鉄製の「架線柱」ではなかろうか。カテナリー式の吊架線が架線柱に支えられて霧の中を見え隠れしながらどこまでも続いている。その下に敷設された線路がおぼろに月影に光ってみえる。近代の新しい鉄道風景である。こういう雰囲気を沿線一帯の建物も実は引き摺っていた。鋼製リベット車両に負けまいとするデザイン感覚が建物の建築設計に働いているはずだ。野屋敷の今井兼次邸もそうである。武蔵野の曲線に直線をもたらし意匠をも凝らした。
白と黒の階調は日本的な伝統精神を持つものと思いまして、屋根と腰廻りの下見板に黒を用い、その他の大部分の壁体はシマンタリーの白亜を粗面に使用しました。日本民家に観る現象を新しい洋風の中に幾分でもとり入れることができたように自分では思っております。二階の出窓の東側下見玻璃のみはスカイブルー色で塗りましたので、黒白の調子の裡に近代性の軽快なテンポを与えることができました。私の新しい試みはまた屋根の瓦にもあることを申し添えましょう。漆のようにしたたる黒さを持つ光沢瓦を採用してみたことであります。これを私は漆黒瓦と呼んでいますが、古い友人、なじみの膳さんに相談して大いに考えてもらったものです。朝夕の色は露をふくむような純黒さに見えますので、壁面の白に対して十分の落ちつきを与えることができました。満月の夜は格別に浮き出てこの住宅地の環境を明るいものにさせているように思われます。
「今井兼次 建築創作論」 鹿島出版会 2009年5月30日
昭和初年代の小田急線の近代沿線風景である。北原白秋は祖師ヶ谷大蔵付近の小田急線の架線柱の連なりの中に月影に浮かび上がるに線路に魅入った。建築家今井兼次は小田急線下北沢駅から五分の野屋敷のアカマツ林に家を建てた。その三角屋根の光沢瓦が月影に浮かび上がるさまに気持ちを弾ませた。
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2009年08月26日
下北沢X物語(1392)〜文学と建築のコンテキスト3〜
言葉は世界の存在を示唆するものだ。おぼろげな感覚を文字に表していくと見えない世界が見えてくる。繋がりが繋がってくる。「ああ、あれはあれと結びつくんだ」と思いつく、そして、さらに掘り起こしていくとまた別のものに辿り着く。目が眩んで来そうである。建築と文学に端を発した物語は、東宝撮影所脇の白秋旧居まで繋がった。そしてまたおかしなことに北原白秋の世界観に鉄塔と白い雲というシンメトリーを見つけて自身で驚いている。都市物語には果てがない。
下北沢野屋敷における文学と建築の脈絡というのが今のテーマである。野屋敷の緑とそこに建つ建築物、そして文学の表現、文学者の感覚に陰影を与えている。おもしろい野屋敷ドラマである。
この野屋敷に家を建てて住んだのは今井兼次だ。なぜ当地に住んだか、「御殿山の松林の四季を通じて清新な情景を展開していることもわたしがこの場所を選んだ動機の一つ 」と述べている。緑の多い環境が気に入ったことが動機の一つだった。この一帯には松が多く生えていた。これはアカマツである。
野屋敷はかつての字名である。その前は「薩摩舗敷」と言われていた。(「世田谷の地名」)下北沢新屋敷とともに、「松平薩摩守の抱屋敷」であった。この抱屋敷は居住区というよりは建築材や用材確保のためであったようだ。江戸時代、度々火事があったことはよく知られている。市中の本屋敷が燃えた場合に備えて抱屋敷ではその用材を貯めていたようだ。アカマツは耐久性に優れていた。家の梁に用いられたようだ。
この野屋敷は、淀橋台から伸びてきたものでいわゆる舌状台地となっている。裾を洗っているのは森厳寺川である。この台地の北東端はことに緑が多い。緑が少なくなった今でもここには多く残っていて静寂環境を作っている。そこを御殿山と称したのは子爵や伯爵の邸宅があったからだろうと思われる。ここを南北に突き抜ける路地を「御殿山小路」と称した。それは昭和九年の北沢の地図に書き込んである。今井邸はこの通りに面している。
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2009年08月24日
下北沢X物語(1391)〜文学と建築のコンテキスト2〜
鉄道交点物語は興味が尽きない。下北沢における文学と建築の脈絡について調べようと昨日、野屋敷を訪れた。「今井兼次」と表札のかかっているお宅を訪ねたが兼介氏は留守だった。ミサに行っているから教会に行けば会えますよと奥さんが教えてくれた。それでカトリック世田谷教会へ行った。茶沢通りの、東北沢4号踏切を渡っていく。小田急の地下化工事によって踏切一帯の風景がすっかり変わってしまった。
教会に着くと、ちょうどミサを終えて教会堂から出てくる今井兼介氏と出会えた。
「いい機会だから神父さんにご紹介しましょう」ということで教会に入って行った。が、関根神父さんには来客があった。しばらく待っているうちに話が広がってきてそこに居合わせた方々との文化談義が始まった。建築論、言語論などに始まって果ては鉄道交点論にまで及んでしまった。
「教会というものの建築は器ではなく、空間が大事なんですよ。教会に入ってみて、母親の胎内にいるという感覚が持てる。それが教会の建物としての評価のように思う」
そのようなことを関根英雄神父は言われた。
「建築というのを皆さんは数値と考えておられますが、そうじゃないんですよ。考えですよね。当座のものではなく作った建物が長い時間をどう生きるかということを考えて作るものなんですよ。建物を外面の形式でみているからいけないんですよ」
今井兼介氏は建てる側の魂のことを言っていたように思う。
下北沢には教会が多いという話になった。持論として丘上の十字架は小田急線からも井の頭線からもよく見えた。それを見て来るという人もいたのではと述べた。
「そう言えば、信者の臼井さん、井の頭線から教会の十字架が見えたので来られて、それ以来信者ですね」
この話を聞いてつい笑ってしまった。自身の考えは妄想ではなかったと知った。
「昔は、井の頭線の電車の先頭のところは窓が開いたのですよね」
弦巻から来られておられる昭和四年生まれの百鳥という女性の信者が言われた。そのことからがぜん話が盛り上がった。
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2009年08月23日
下北沢X物語(1390)〜文学と建築のコンテキスト1〜

下北沢野屋敷における建築と文学には何かの結びつきがあるに違いない。そんな感触を持っていて、取材がてら久し振りに自転車で下北沢鉄道交点付近を巡ってみた。
更地に家が建っていたり、新しいマンションができていたり、それは何も驚くことではなかった。が、とある新しいビルのその名前を見て驚いてしまった。南のり面のステータスを謳った名称、そして、位置取りが端的に分かるレリーフに目を瞠った。当ブログ「東京荏原都市物語資料館」的発想がそこに端的ににじみ出ていたからである。これまでの地形探査、文化探査の成果が一帯の建物の名称となっている。自身の誤解かもしれないが、多分合っているように思われる。これはいちゃもんをつけているわけではない。土地の文化が反映されていることへの評価を自身は言っているつもりだ。
今年五月に「今井兼次 建築創作論」が上梓され、これをご子息の兼介氏から頂いた。この中に「今井兼次自邸」という項目があって、下北沢に建築家自らが建てた家のことについて書き記している。その冒頭の見出しが「私の新居」である。つぎのような書き出しで始まっている。
この秋を迎えて郊外生活の有り難さを覚えたのは、この新居に移ってからです。場所は山の手の繁栄を奪う新宿駅から小田急線にのって十分間、七つめの下北沢駅で降りて北方約四五分下北沢の住宅地の中心をなすところです。御殿山の松林の四季を通じて清新な情景を展開していることもわたしがこの場所を選んだ動機の一つでありました。
鹿島出版会 2009年5月30日
下北沢の野屋敷に「今井兼次自邸」が建てられた。今日、今井兼介さんに取材したところ起工は昭和四年秋、完工は昭和五年だったと言われた。したがってここでいう「この秋」というのは昭和5年のことである。
「場所は山の手繁栄を奪う新宿」と言う。これからすぐに想起されるのは、昭和四年に大ヒットした西条八十作詞・中山晋平作曲の「東京行進曲」、その四番である。
「シネマ見ましょうか お茶のみましょうか いっそ小田急で 逃げましょうか 変る新宿 あの武蔵野の 月もデパートの 屋根に出る」
震災後の復興で大きく繁栄したのが新宿である。大正十五年にデパート第一号「ほていや」が建ち、それを皮切りにつぎつぎに高層階を持つデパートが建った。変貌する新宿のリアルな表現が「月も五階建てのデパートの上に出る」というものだった。
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2009年08月21日
下北沢X物語(1389)〜夜汽車慕情、夏の夜の音4〜
近代文学の始原は蒸気機関にある。「時間と空間の抹殺」を汽車がもたらした。見ている間に景色が瞬く間に折り畳まれ、たちまちに後じさって行く。それをどう描くか、苦心惨憺した。子規は開通したばかりの東海道線に乗って、まさにその様を、「火車竜の如く 岨岠を渉り 樹逃れ家走り 山舞はんと欲す」(「汽車にて東海道過ぎ壮快甚だし 乃ち 長篇を賦す」(別館「鉄道文学館」に記してある)と描いている。
山紫水明な景色を一歩一歩踏みしめながら旅をしていく。それが古来の旅の形態であった。が、近代蒸気機関の出現によってそれは変革を余儀なくさせられた。鉄道は文学の敵であった。正岡子規はそれを紀行「総武鐵道」の冒頭でつぎのように描いている。
鐵道は風雅の敵ながら新しき鐵道に依りて発句枕を探るこそ興あらめと二人して朝疾く出で立つ 「子規全集」第十三巻 小説 紀行 講談社刊
新しく巡ってきた時代である。鉄道が拡充されつぎつぎに新線が開通していった。風情をぶちこわすのが鉄道だ。俺は乗らないとは言えなくなった。鉄道は一つ一つの景色が持っている優美さや味わいをたたきつぶして進むものゆえに、文学の敵である。が、時代の流れである。新しく出来(しゅったい)してきた汽車に乗って新たな風雅を求めていくしかなかった。風雅の敵をどうやっつけるのか。情報量の多い敵をかわすには写生というのも一つの方法だったように思える。
紀行「総武鐵道」では建てられたばかりの本所停車場の様子を描いている。現在の錦糸町駅だと思われる。
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2009年08月20日
下北沢X物語(1388)〜夜汽車慕情、夏の夜の音3〜
文学の発信者がどんな位置取りをするのかは興味深いテーマだ。正岡子規は根岸の「旧加賀藩前田家下屋敷の侍長屋」の一軒に住んだ。「根岸の里の侘び住まい」、ローカルポジションである。都会の残響音が聞こえる位置である。
ちようど寓居の向かひの家があつて誰か確かな人に下宿させたいとのことであつたから早速そのことを報じてやつたら、すぐにやつて来てやがて引つ越してきた、是から隣同士となつて、毎日往来する間に俳句の味が少し分かりかけて来た、其のころ新聞紙上に十七字の句を出す者は其角堂永機の輩か左もなくば角田竹冷の徒で、それも至つて少ない方であつた。どうだ何か『日本』へ出してみたらばと云つたら、かねて書いてある紀行でも出そうとのことで、それからそれと俳句まじりの紀行などは出た、これがそもそも正岡子規の初陣である。
上野根岸になぜ移ってきたかということが記されている。これは陸 羯南の「子規言行録」に記されている。「陸は徳富蘇峰と共に、明治中期を代表する新聞記者」である。新聞「日本」の社主である。子規はこの新聞社の社員である。自身の墓の「墓碑銘」に「月給四十円」と刻まれていることはよく知られていることだ。
一刻者のジャーナリストが根岸に住んでいてその縁から子規は当地に住むようになった。文学や社会批評に関わるものはローカルポジションの根岸を好んだと言える。
根岸の「旧加賀藩前田家下屋敷の侍長屋」面白い位置にある。近くには鉄道が通っていてそこを通る機関車の音が聞こえる。それだけではない、「吉原の太鼓聞こえて更くる夜にひとり俳句を分類するわれは」や「吉原の太鼓聞こゆる夜寒哉」という作品もある。遊郭吉原の太鼓の響きが聞こえてくる地点である。色街の残響、近代の機関車の聞こえるところというのは位置取りとしてはなお一層興味深いものがある。
続きを読む2009年08月18日
下北沢X物語(1387)〜続「水車が教える環境学」〜
水車は単独にその場所にあるのではないということを知った。主たる動力装置の材は近隣から得られたものだ、地域の環境と相まって存在し、地域の自然とも密接に結びついていた。
「かつては水車はあちこちにありました。でも、大工さんはこの水車専属だったんですね。ここの水車のことを知り尽くしていたんですよ。水車本体はマツですね。水に浸かっても腐りにくいからでしょう。杵はケヤキですね。水車の歯車は本体はケヤキですが、歯の部分は固い材質のカシが使われています。木の特徴をちゃんと見極めて作られているんですね。杵は使っているうちにどうしても部材がすり減ってくるんですよ。そうするとそこのところに柔らかいマツを切ったものをあてがうんですよ。」
訪れたときに「『東京都指定有形民俗文化財』武蔵野(野川流域)の水車経営農家水車装置」と題されたパンフレットを頂いた。その冒頭にはこうあった。
武蔵野地域の水車は、江戸期以降新田開発に伴って数多く設置され、明治末期から大正期にかけて産業技術近代化の中で最盛期を迎えました。その後昭和に入ると急激に減少していきましたが、その中で峰岸家は文化14(1817)年以来、5代にわたり水車経営に携わってきました。
明治時代になって近代化の大波が打ち寄せてきた。西欧の機械が入ってくることによって我々の生活は大きく変わった。石炭を燃やして走る蒸気機関車が交通革命をもたらした。水力や火力による発電によって動力の機械化も行われた。ところが、それは農業分野までは及ばなかった。旧来の水車が明治末から大正期にかけて最盛期を迎えたというのがそのことを端的に表している。
パンフレットの「水車装置」ではこんな説明がある。
大正8年に改造されています。水車の直径4、6m、幅約0,97mの胸掛け式の水車です。水輪の軸に直結した「大万力」と呼ぶ大型の木製歯車が作動し、それが「繰り出し万力」と呼ぶ中型の木製歯車を連動させ、「繰出し万力」が「横軸」を廻転して杵を上下させます。
非常に興味深く思ったことはこの大きな装置のほとんどが木製であったことだった。説明の中にある「横軸」は太いケヤキである。これが廻転すると突起が杵に当たって、上下に杵が動く。
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2009年08月17日
下北沢X物語(1386)〜水車が教える環境学〜
進歩発展至上主義は行き詰まっている。それは居住する地球の有限性が明確になってきたからだ。資源の払底、そして、なによりも大きいのは地球規模での環境の悪化、劣化である。
今日我々は文明の恩恵に与って生活をしてきた。が、これらの生活を見直すべきところに来ている。便利さをずっと享受してきたが、それが非常に脆くなってきている。ときに科学文明の暴走すら実感されるようになった。
便利になったことを人は忘れる。そのことからもっと便利に、もっと便利にと際限なく欲望を追い求める。それに呼応して科学技術が進展する。が、瞬時にしてどこそこまで行ける、たちまちにものはできるということ、そのことが高く評価される。それらの方向ははっきり言って間違っていると思う。基本は身の丈に合った生活をしていくことだと思う。そこに心という価値尺度が生まれてくる。すべてを機械に頼った進歩は人間を一層に愚かにするだけではないだろうか。
もう十数年も前だった。東南アジアの熱帯雨林で暮らしている人々の生活の様子が描かれている「アエラ」の記事を読んだ。彼らは森から応分の恵みを得て生活をしていた。ヤシの葉で葺いた屋根、柱は森から頂いてくる。食糧はタロイモや果実、そして、森の動物である。すべてが自給自足だった。必要な量を森から得て生活をしていた。
ところがそこへ開発の手が伸びてきた。豊かな熱帯雨林はたちまちにブルドーザーでなぎ倒されてしまった。極楽鳥の住んでいた森は丸裸にされて、そこに住んでいた人達はやむなくそこを離れ都市のスラム街に住まざるを得なかった。都会人が棄てたゴミの山から金目のものを拾ってかろうじて生活の糧を得る。悲しい生活だった。
森の樹木がなぎ倒されたのは日本に用材を送るためだった。建築用、パルプ原料にするためのものだ。われらの快適な生活は、アジアからの搾取によって成り立っている。この記事を見たことがきっかけで本を書いた。自身の処女作である、「トロッコ少年ペドロ」(汐文社)だ。この作品の中で、破壊された森への郷愁をつぎのようにわたしは書いた。
続きを読む2009年08月15日
下北沢X物語(1385) 〜夜汽車慕情、夏の夜の音2〜
ラブホテルが林立する中に文学の発信地、子規庵はひっそりとあった。文学というものの発信地の位置取りが興味深い。その場所は江戸期から既に「根岸の里の侘び住まい」とされた土地である。中心地から離れた侘びしいところ、さびしいところであった。
子規は、故郷松山から母と妹を呼び寄せ、明治二十七年二月にこの家に移り住み真下。当時の地番は、下谷区上根岸町八十二番地(現、台東区根岸二丁目)です。子規はこの家に病臥しながら、文学の近代化のために、精力的に発信し続けました。
「子規庵」発行パンフレットより
上野の山の北東にあたる根岸のその地には前田藩の下屋敷があった。子規庵も「前田家下屋敷の侍長屋」であったという。明治になってのその地には庶民が日常を営んでいて、近隣には生活音が満ち満ちていた。共用釣瓶の滑車のくきゅきゅという軋み、子どもらがうち興じている鼠花火のちゅうちゅちゅうちゅ、しゅぱぁ、しゅぱぁと言う音、あああん、うううんという赤ん坊の泣き声だ。
それらの生活音をことごとく打ち消す機械音が決まって聞こえてきた。即ちそれは「南へ一町ばかり隔てたる日本鐵道の汽車」である。それが「衆聲を圧して囂々と通り過ぎた。」
これは上りか、下りか、考えることはおもしろい。最初読んだときに働いた自分の勘は下りではないかということだ。自身の経験的な感覚として上りへは憧憬、下りには郷愁が思われる。ずじゅぽっぽ、ずじゅぽっぽとという機関音を響かせて蒸気機関車が過ぎていく。後ろに牽かれた客車には北の国へ向かう人々が数多く乗っている。人を故郷に運ぶという使命を思って、懸命に走っていた。その音を聞きつけたのではないかと思った。
日本鉄道名所「勾配・曲線の旅」という小学館発行の本がある。重宝している。これで調べるとおもしろいことが分かる。上野を出た線路は(列車の間違いではない)、すぐに連続して曲線にかかる。まずは330R、つぎに310R、そして、600Rの急曲線である。そこは鶯谷の駅あたりである。これらの曲線は左手から押しよせて来ている上野の山を回り込んでいくからである。勾配も3,9パーミルの上りである。つまり、千メートル走ると3,9メートル上がるというものだ。これが鶯谷を過ぎる辺りまで続く。そのサミット近くに子規庵はある。
続きを読む2009年08月14日
下北沢X物語(1384) 〜夜汽車慕情、夏の夜の音〜
分け入っても分け入ってもラブホテル。そこはラブホテルの森の片隅に、ひっそりと建っていた。上野根岸の子規庵である。
上野駅を出た列車は左手に上野の山の緑を、右手に鶯谷の五彩の看板を掲げたホテルを見てゆく。上野発の旅路で見慣れているゆえにこのホテル群のことは知っていたが、実際にそこに行くと生々しい。ホテルの数も尋常ではない。路地の角を曲がっても曲がってもラブホばかりだった。
根岸には上野公園から散歩がてら入って行った。公園とホテル群との関連は考えてもいなかったことだ。が、歩きながら、上野公園あってのラブホテルではないだろうかと思った。ラブホテル文化論である。
思い出されたのは「東京行進曲」である。昭和四年の大ヒット曲である。その三番は「広い東京 恋ゆえせまい/いきな浅草 忍び逢い/あなた地下鉄 私はバスよ/恋のストップ ままならぬ」だった。
大都市東京といっても自由恋愛はまなならない。愛し合った二人はとりあえず浅草でデートをする。お茶したり、お参りしたりして、つぎは人目を忍んで移動だ。男は地下鉄で、女はバスで行く。その目的地は上野である。この当時ここまでしか開通していなかった。
恋する男女は木々の多い上野公園への散策をする。時間も経ってそぞろ歩きの末に思いは高まる。性愛への欲望である。東京性愛行進曲「恋のストップはままならない」それで、上野の森から跨線橋を渡って向こう岸の根岸へ足は向かう。故郷へ帰る汽車の煙が臭う。よけいに思いを掻き立てたのかもしれない。もう一気に連れ込み宿になだれ込む。上野お山の向こうには二人になれるところがある。これを商魂が嗅ぎつけないはずはない。それが鶯谷のラブホテル群ではないのかと思った。東京の性欲が渦巻く町だ。
「ああ、残念でしたねえ。休館なんですよ。九月から『子規遺品展』があるんですよ。その準備をやっているのですよ。ああ、『夏の夜の音』ですか。あれはいいですね、朗読劇として読まれていますよ。……そうなんですか、それでわざわざ音を聞きにいらしたんですか。ええ、ここにいらしたときにお書きになったんですよ。そうですね、時間によってですけど一人になれる場合もありますよ。何時間いてもかまいませんからね。ええ、鉄道の音は聞こえますね。すぐ向こうが線路ですからね。昔の鉄道の時刻表で調べるとその汽車が何時のものだったかわかると言われた人もいましたよ。」
ちょうどその子規庵から出てこられた方が話してくれた。ボランティアとして運営に携わっておられる女の人だった。
2009年08月12日
下北沢X物語 (1383)〜「仰徳集」の歌姫たち4〜
「戦時におけるジェンダーとはどういうものだったのですか?」
以前に、広島の物語を書いたことで、外国人女性に取材を受けて、まっ先に聞かれたことがこの質問である。面食らってしまった。
「銃後にあって、その持ち場を一生懸命守るしかなかったように思います。広島電鉄家政女学校の女生徒は、男性社員がつぎつぎに出征していって電車の運行に支障をきたしました。代わって登場したのが年端もいかない女生徒でした。」
男性の多くが戦争に駆り出された。鉄道現場では男性がいなくなり、女性が駅員、車掌、あるいは運転士として代わりを務めたというのは全国的なものだった。
前線に出ることはなく後方に控え、銃後を守る。田畑を耕し、家を守ることを強いられたのが女性である。また、一方では生めや増やせの国家的大号令の中で、人口を増やす、人手を増やすことを強いられてもいた。
「仰徳集」の背後には、戦時における女性の役割が垣間見える。ここに収められている詩歌の大半は「全国女学校奉悼歌」である。全国津々浦々の高等女学校の生徒がこぞって若き貴公子の死を悼む三十一文字を寄せた。そのトップは「東京女子高等師範学校・附属高等女学校」の生徒たちが詠んだものだ。この学校からは八十首も採録されている。ご内室の出身学校だったからであろう。
まずは東京に始まり、かつての都だった京都がつぎにくる。そして、最後は、朝鮮、台湾、関東州、満州国ときて、最後は「失名」でおわる。多すぎて名前がわからなくなった高女生の作品であろう。が、全国を網羅する生え抜きの女学校からのこれらは、集中でも圧巻である。雄々しい、かしこし、おいたはし、かなし、などの哀しみを表現する形容詞が延々と続いていく。
最も多いのは「散る」である。散華のイメージが貴公子にぴったりだったのだろう。それを女高生はこぞって歌いあげている。銃後にあって、第一線で散った誇り高い武人にはなむけの言葉を贈る。それを課せられた知性ある女性達だったと言える。
2009年08月11日
下北沢X物語 (1382)〜「仰徳集」の歌姫たち3〜
言葉には発した人の魂が籠もっている。言霊である。「仰徳集」には一人の貴公子の死を悼む多くの詩歌が収められている。が、その時から時代が転変しその言葉も次第に歴史の中に消えつつある。それでも言霊は今も生きている。わたしは「仰徳集」の言葉の森に分け入ってとうとう道に踏み迷ってしまった。言霊に憑かれたのかもしれない。
「仰徳集」に収められた言葉の旅をしていくうちにこの詩歌集に関わる写真と出会った。 旧近衛野砲兵聯隊跡で撮られた一枚の集合写真である。昭和三十一年十月七日に撮られたものだ。「青雲会 第五回懇話会記念」とある。
この集合写真のまん中に女性が写っている。写真の名簿には「北白川祥子様」とある。北白川宮永久王の内室である。写真を拡大してみるとなるほど見目麗しい顔立ちである。三島由紀夫は十七歳のときにこの女性に片思いをしたという。その経緯が書かれたのが「玉刻春」という小説だという。この彼女をどう描いたのか知りたくなって調べてみた。
たとしへなく謐(しづ)かなその貌はなにかをじつと堪へてゐるやうにおもはれた。そんな切ないやうな表情が冷たさや気強さを装はうとするために、あだかも月にてらされた海のおもての波といふ波が煌めくやうに、ふしぎな美しさが漲つてゆく。そういふ気強さのうらにかくれしかもそれを形づくつてゐる、心のふかい場所にひそむやさしさに、某ははげしく博(う)たれた。さうしてそんな美しさには神のやうなつよかつたその神の女性(によしよう)の姿にかよふものがあつた。おほらかなもののみがもつてゐるさびしさやひややかさがあつた。(「三島由紀夫全集」第15巻 新潮社)
一人の女性の面差しが延々と語られる。が、言葉にして言い表すとすればこうなるのかもしれない。三島由紀夫の文章家としての存在が見えるようにも思った。
関心は愛である。主人公が、この女性に深く惹かれたゆえにかくも長く描いたのだろう。顔立ちに現れている美しさというのは内面の反映だ、そういう認識に立って彼女を描いている。「玉刻春」、たまきはるは命、魂にかかる枕詞である。そのたましいが発する美を言葉に紡いでいるように思われる。
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2009年08月09日
下北沢X物語 (1381)〜「仰徳集」の歌姫たち2〜
人は行為の動物である。何かをなしながら生きている。ひたすらに壁に錐で穴を開けていくようなものである。年を重ねて次第に気づいてくるのはその開けた穴がみなどこかで繋がっていることである。
駒沢練兵場を巡る会を行ったときに川口信氏から「仰徳集」を頂いた。が、その詩歌集が何であるのかは自分でもよく分かっていなかった。ところが、次第に、これを紐解いていくうちに、隠れたエピソードが数多く埋まっているものだと知るようになった。
頂いた詩歌集は北白川宮永久王の遺徳を偲ぶものだった。駒沢練兵場も殿下ゆかりの地である。ここに隣接する近衛野砲兵連隊の中隊長だった。この近衛野砲兵連隊跡を訪ねて回るときに氏は一枚の集合写真を携えていた。それは彼によるとつぎのようなものだ。
駒沢聯兵場の元兵舎前で集い、北白川宮永久王を偲んだもので、昭和十五年九月に御戦死なされましたので、多分十七回忌(祭)だと考えられますが、その記念にゆかりの兵舎をバックに撮影したものと、推察しております。
その写真には「晴雲会 第五回 懇話会記念」とあり、日付は「昭和三十一年十月七日」となっている。場所は「旧近衛野砲兵聯隊跡」だと記されている。
115名の人が集まっての記念集合写真である。これを撮った場所がどこであったのか、それを探し当てたらいいと思っていたが、そのときは見つからなかった。この写真は大きなヒマラヤ杉をバックにして撮られている。後になって気づいたのはこのヒマラヤ杉こそが大事な背景であるということである。
この写真には門屋古寿という人が写っている。「近衛陸軍二等兵」という本を書かれた人である。この著作の記述の中に、近衛野砲兵連隊の施設の説明があった。
2009年08月08日
下北沢X物語 (1380)〜「仰徳集」の歌姫たち1〜
都市のはざま、時間のあわいに呑み込まれてゆきつつある事象を言葉に刻んで、ささやかな記述の旅を続けている。心温まる話もあれば、哀れ深い話もある。
先だって駒沢練兵場跡を巡った。そのときに参加された川口信氏に「仰徳集」をいただいた。これは若くして戦死した北白川宮永久王の遺徳を忍ぶ詩歌集である。戦時中の昭和十九年一月四日発行となっている。後記には「時局柄紙数に限りもありて、全部を之に収録し難く、多くは一人一首とし」たとある。「御霊前近くに山をなす短冊詠草又は詩歌」を編んだものだという。
貴公子の死を悼む詠草は全国から集まった。多くが乙女たちの嘆き、哀しみである。津々浦々の高女生から寄せられた作品群は圧巻である。貴公子の死を悼む思いを三十一文字に託して競って詠んだ。
北白川宮永久王の父、成久王も大正十二年にパリ郊外で自動車事故に遭い、三十七歳で薨去している。それに引きつづいての不慮の戦死だった故にその哀しみも大きかったのであろう。(写真は大正十二年のパリ郊外での事故を記録したもの)
ところが、時代のうねりはさらに大きく北白川宮家を変えた。敗戦によって皇室の財産は、占領軍GHQによって国庫に組み入れられた。そのことから傍系皇族は皇籍離脱を余儀なくさせられた。北白川宮家もその一つだった。
「仰徳集」を見るにつけ、歴史の哀れ深さがひとしおに感じられる。乙女たちの熱い思いも今となっては行き所を失って宙空をさまよっているように思える。わずかにこの書に載せられている詩歌が往時の思いを伝えるのみとなってしまった。うち捨てられてしまった「仰徳集」である。
続きを読む2009年08月06日
下北沢X物語(1379)〜髑髏延々被爆地獄絵巻〜
叡智が欲望をどうコントロールできるか、われわれは文明の行く先へのブレーキを求められている。核兵器はその端的な例である。敵対する者へ壊滅的打撃を与える核兵器はあまりにも酷い。一瞬の閃光が人を溶かし、焦がし、吹き飛ばし、万単位の人間いともあっけなくぽろぽろ死んでしまう。
その核兵器によるダメージはその時だけで終わらない。浴びせられた放射能が人間を後々まで蝕み、苦しめる。精神的な苦痛も計り知れない。
四年前、60回目の原爆忌のときにテレビでの特集番組が組まれた。この中で原爆の製造に関わった物理学者と被爆者とが対峙する場面があった。その被爆者の一人は藤井照子さんだった。「謝れ」という被爆者の声に、物理学者は「リメンバーパールハーバー」とのみ言うだけで謝罪はしなかった。
あれほどに惨たらしい核兵器を使用した米国は許せないという国民感情はある。それに対して米国民は、「おまえらが真珠湾攻撃をしかけて戦争のきっかけを作った。しかも、不意打ちだった」ということを理由として挙げる。あまりにも酷い故に、それは到底受け入れられるものではない。が、敵に核兵器を使わせる口実を与えたことも事実である。
先日、テレビを見ていたとき、我々の民主主義なるものが「お任せ民主主義だ」とある人が言っていた。お偉方に任せてそれっきりであとはなすままされるがままという趣旨である。確かにそういう点はある。
叡智とは、個々が左右を見渡した上で、為されていることに対して点検をすることである。戦争を起こさせないような点検が必要である。島国という地理環境から閉鎖的になりがちだということは認めなくてはいけない。盲動的な点もあることは否めない。北朝鮮の核開発に対して、日本も核をという議論すらある。極めて危険な考えである。
一昨年、元広島電鉄家政女学校の生徒だった藤井照子さんと新谷ヨシ子さんと会った。もうお二人とも八十を超えられた。そのときに新谷さんから聞いた話だ。
続きを読む2009年08月05日
下北沢X物語 (1378)〜「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」3〜
ダイダラボッチは和語ではない。異民族言語だと言われている。それが代々代田に伝わってきたということは非常に興味深いことだ。
自分たちは先づ第一に、伝説の旧話を保存する力といふものを考える。足跡がある以上は本当の話だらうといふことは、論理の誤りでもあらうし、また最初からの観察法ではなかつたらうが、兎に角にこんなをかしな名称と足跡とがなかつたならば、如何に誠実に個人の信じてゐた物語でも、そう永くは我々のあひだに、留まゐなかつた筈である。
「ダイダラ坊の足跡」 柳田国男
ダイダラボッチ伝説というものが遙かな昔から語り伝えられてきた。が、それを保存してきた継続的なエネルギーがあっての話である。その背景には「こんなをかしな名称と足跡」があったからである。柳田国男もそこに惹かれて実際に代田のダイダラボッチ跡を訪ねて来ている。妙ちきりんな名のついた凹み探訪である。
このダイダラボッチという音は、不思議であり、奇妙でおかしく、またおもしろい。名称比較論という観点からも注目される。青森県の新?村の「ナニャドヤラ」伝説は、このことばの繰り返しで踊りを舞う。「ナニャドヤラ/ナナドサレノ/ナニャドヤラ」というものだ。キリスト祭で、キリストの墓に奉納する踊りである。
これら伝承言葉の比較がおもしろい。「ナニャドヤラ」を聞いていて、巨大なものは想像しない。この響きには哀調がある。そこに哀れっぽい姿、細身の姿すら浮かんでくる。が、「ダイダラボッチ」の場合は、その正反対である。力強さがある。濁点の多い言葉だけに口でいうと強く響いてくる。大きな声で言うと、自身が大きな人物になり、急にその足音までもが高くなってくる。ダイダラボッチの音韻の秘密だ。
ダイダラボッチは口移しで古くから伝えられてきた。継続して伝えられてきたこの名称は実体を形容していたように思われる。言葉から想像されるものを言い表してきたのではないだろうか。
柳田国男は、その代田の現場を訪ね、「ダイダの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であつた道路の左手に接して、長さ百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深くふみつけてある、と言ってもよいやうな窪地があつた。」(「ダイダラ坊の足跡」)と述べている。
続きを読む2009年08月04日
下北沢X物語 (1377)〜「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」2〜
ダイダラボッチは口承の言語である。口伝えに伝えられ、それが今日残っているものである。この口承の言葉には不思議な秘密がある。
われわれは文字であるとか平均律とかを創り出し、それを文字や音符に当てはめて記録し、必要なときに再現したり、読んだりしている。が、そのことはたまたまの約束事に基づいているだけである。絶対的な意味や音を示すものではない。すべてを再現しきれるものではない。
世界各地では口承説話は今も残っているようだ。アフリカにはそれが楽器による音として伝えられているそうだ。その場合の音はふくよかであると聞いた。奏者によって生きている風が、あるいは神の声が再現されるという。約束事によって再現される音符や文字とは比較にならないほどに情報の質が高いようだ。
ダイダラボッチという言葉も、音として伝えられてきた言葉である。これも不思議なリズム性を持っている。これを複数回となえると何やら拍子が生まれてくる。この秘密に行き会ってダイダラボッチの虜になって劇を創ってしまった。
先だって、NHKの新日本紀行アーカイブで青森県新郷村の「ナニャドラヤ」が紹介されていた。伝説として残っているのがこの不思議な言葉である。ただただこれを繰り返して踊っている。それは何ですか?と聞くと、お婆さんが「ヘビライ語らしい」という。根本のところその意味は良く分からないらしい。が、キリストが青森の新郷村に逃れてきて百六歳まで生き延びてここで往生を遂げたという伝説があるそうだ。丘には十字架が祀られている。それがキリストの墓とされているようだ。
この墓に奉納される踊りが「ナニャドラヤ」である。繰り返し唱えながら拍子を取って女性達が踊っていた。その根本の由来はよく分からないのに、「ナニャドラヤ」を繰り返し唱えて踊っている。奇妙で不思議である。伝承の言葉には人を突き動かす何かがあるのだろう。
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2009年08月02日
下北沢X物語 (1376)〜「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」〜
つごもりからついたちへ、「月籠もり」から「月立ち」である。 印象感覚的にいうと時間が次第にすぼまっていって、閉塞し、こらえきれずに、時間に穴が空き、また新しい時間が始まっていく、というイメージである。七月三十一日から八月一日へは、自分で綱渡りをするような思いをした。
この月末は慌ただしかった。絶えざる自分の挑戦、それは文章を書くことである。自身のイメージに合致する公募があってこのところずっと苦闘していた。その締め切りだった。その上、公務員養成所での講義も重なった。時間が本当にすぼまっていくようだった。
そして、つぎに迎えた、昨日の八月一日である。新しい劇のデモンストレーションの日である。すなわち、「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」〜東京市巨人伝説〜のプレ公演である。
この作品を書いたのは去年だった。あらかたできていたものがUSBの故障で、忽然と消えてしまった。微かな記憶を頼りにまた再現してようやっと出来上がった。
プロ劇団の手での公演も決まっていた。スポンサーもついていた。が、一時間という制約があった。そのことがどうしても自分ではひっかかっていて、削ることについては大きな抵抗があった。削れないということを言った。自分の我が儘である。契約があったわけではないが、恐らく関係当事者には、ドタキャンと映ったろうと思う。
作品を記した方としては、他者に預けて後は控え居るというのが一番楽である。が、今述べた経緯によって取り残された原作になってしまった。ところが意外にも、これが別の形で蘇った。プロではない市民が、彼らの手によってこの劇をプレ公演まで持っていった。それは演出監督の木村圭子さんの手腕である。
市民の手になる朗読劇の上演だった。みなが持っていた台本は、台本として使われて、角が黒ずんでしまっていた。みんなが汗したことを証明するものだ。その様が小さな舞台でかいま見られた。ジワリと湧いてくる感動、これまで味わったことのないものだった。
2009年08月01日
下北沢X物語(1375)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報 第37号〜
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第37号
会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
2009年8月1日発行(毎月一回発行)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
1、夏休みの自由研究
夏休みとなりました。長い休み中に何かのきっかけを子どもが掴むといいと思います。勉強の中で一番大切なことは自分で興味を持つことだと思います。おもしろがればおもしろくなるというのが勉強です。
人から言われて行う勉強はおもしろくありません。自らが行う勉強は伸びます。興味を持って行う勉強はどんどん力がついていきます。老若男女を問わず、何かに興味を持っている人は目の輝きが違います。興味は明日への活力、そして、希望です。
自由研究をするのであればこの機会です。近隣におもしろいものを見つけてください。いい機会ではないでしょうか。例をあげてみましょう。守山小学校の裏手にあったとされるダイダラボッチの足跡伝説は非常におもしろいものです。これは遙か昔、縄文時代にまで遡っていく伝説です。
旧郡荏原、品川区、大田区、目黒区、世田谷区にはダイダラボッチと言われるところが幾つかあります。その近辺には必ずと言っていいほど古墳があります。代田のダイダラボッチも例外ではありません。幾つもの古墳があります。
小田急線の世田谷代田と東北沢の間の地下化工事が行われています。これによって幾つもの踏切が廃止となります。それぞれの踏切には多くの話が眠っています。世田谷区の図書館に置いてある「下北沢X惜別物語」を参考にしてください。
昭和九年に北沢3,4丁目のすべての通りには名前がつけられていました。中には御殿山小路とか、緑小路とか、檜小路とかついた路地もあります。なぜそんな名前をつけたのだろうかということもおもしろい問題です。
下北沢一帯には、多くの作家が集まってきています。なぜこんなに集まってきたのだろうか、これを調べるのもおもしろいと思います。「下北沢文士町文化地図」を事務局の「邪宗門」で配布していますので参考にしてください。
戦争中、井の頭線の永福町が戦災で焼けて多くの電車が燃えてしまいました。井の頭線は運行できなくなりました。それで、世田谷代田から新代田へ臨時に線路が敷かれました。これを「代田連絡線」といいます。この線を使って小田急側から井の頭線に電車車両を送り込み、これによって井の頭線に電車を動かすことができました。
戦後しばらくの間、この線は残っていました。子どものときに、そこに置いてあった、トロッコで遊んだそうです。道をまたぐ鉄橋もあって、渡るのが恐かったそうです。
下北沢近辺には多くの歴史が埋まっています。そのことに気づいて調べると、自分の立っている位置が見えてきます。この機会に、自由研究をしてみませんか。わたしたち「北沢川文化遺産の会」には色んな人がいます。そういう人を紹介してあげられます。ぜひ、地域のことを勉強してください。
2、下北沢の古い通り名の復活を
一つの要望が寄せられました。下北沢の古い通り名を地図に復活させてほしいとの要望です。下北沢の北ブロックで行われたまちづくりの会で古い通りの名が話題になり、そこで当会が発行して「下北沢文士町文化地図」のことが出たそうです。
「昭和九年の地図には、北沢3,4丁目の道にはみんな名前がついていましたね。あれは大事にしなくてはいけないという話が出たのですよ。それで文化地図のことが話題になり、今度発行するものに載せてもらったらいいという話が出ましたね」
北沢四丁目在住の今井兼介さんからの連絡だった。今年の四月に出した「下北沢文士町文化地図」には「御殿山小路」だけは校正段階で入れていた。
現在の地図は改訂3版である。5000部発行し、これがなくなり次第、改定4版を発行することにしている。現在のものは北沢4丁目辺りで切れているところからこれを井の頭通りまで上げて、その間にある作家旧居を入れたいと考えている。地図が北沢四丁目までカバーできれば旧通り名は入れることができる。これらも文学と無関係ではない。
俳人中村草田男は野屋敷の自宅から勤め先に行くために帝都線下北沢駅まで南中通、北中通を通っていた。萩原朔太郎も新屋敷の自宅から南中通へ出て、左折し、これが本通と交差するところにある「かどや」で煙草を買っていた。福田正夫も戦後のことだが「いなり通」に住んでいた。野屋敷稲荷に通じる道をこう呼んでいた。
「北沢川文化遺産保存の会」はボランティア団体として活動している。「下北沢文士町文化地図」は市民からの寄金で作成している。つぎの地図を作るための「改定4版寄金」の呼びかけをし、現在の処45439円が集まっている。これは地図の作成費用だけに当てるものだ。現在お金はきむら自身が預かって管理をしいる。ご協力くださる場合には、封筒に「地図基金」と書いてお名前とご住所をそれに書いて邪宗門か、きむらにお渡しください。
3、下北沢と戦争
八月になりました。間もなく64目の夏が巡ってくる。この五月、消えゆく戦争経験を残そうと第二回目の「戦争経験を聴く会、語る会」を代沢小学校で開いた。そこで来年も行いたいということを参加者に伝えた。戦争経験者がいなくなりはじめている。今のうちに聞いておかないとそれらが無くなってしまうという危惧からである。参加者が少なくなってもなんとか続けていきたい。幸いなことに北沢3,4丁目の人達も賛同され、来年度は北沢タウンホールの集会室で開いたらどうかという話が持ち上がっている。
若い人達に知ってもらいたいということから「下北沢と戦争」というタイトルで来年は開催したいと考えている。第六次強制疎開で、下北沢の小田急線沿線の家々が壊された。戦車が出動し、大黒柱に結びつけたロープをこれが引く、ゴッタンと大きな音がして土埃が立つ、一瞬にして家が壊れた。そんなことを我々は記憶しておくべきだと思う。
4、歩く会について
都市物語を旅する会
「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。事故のないよう各自で責任を持ってください。
この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。個々人が文化を楽しむというのがねらいです。
これまで実施したコースはつぎの通りです。
・代田連絡線の跡を歩く(3回)・小説「猫町」を歩く(3回)・下北沢の大谷藤子を歩く・「森茉莉」足跡を歩く(5回)・下北沢の銭湯跡を歩く・下北沢の無頼派を歩く・下北沢の教会を歩く(3回)・坂口安吾の通勤ルートを歩く(2回)・駒沢線詩歌文学ラインを歩く(2回)・下北沢の映画痕跡を歩く・ダイダラボッチ川を歩く。・下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。・代田のダイダラボッチ痕跡を訪ねる(3回)・代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)・林芙美子から坂口安吾を歩く・.「下北沢店員道場を検証する」・池の上の古い町並を歩く ・下北沢の詩人痕跡を訪ねる・「森厳寺川の源流を探索する」(3回)・「代田の歴史を歩く」・駒沢練兵場を歩く(2回)・滝坂道を歩く(2回)・駒場の戦跡を歩く
・第40回 9月19日(土)午後一時 東北沢駅
下北沢の踏切文化を検証する(地下化する小田急線踏切を走破する:予定)
代々木上原3号踏切から世田谷代田1号踏切まで9つの踏切がなくなります。工事によって原形が崩れつつあります。いまのうちに見ておこうという企画です。
・第41回 10月19日(土)午後一時 経堂駅改札前 案内者 別宮通孝氏
滝坂道を歩く(掘 世田谷城、豪徳寺などを巡りながら行きます。
・第42回 11月21日(土)午後一時 世田谷代田駅
代田の詩人子弟を歩く、萩原朔太郎、三好達治
・第41回 12月19日(土)午後一時 下北沢駅南口
「下北沢の教会を歩く」
カトリック世田谷教会、頌栄教会、富士見教会 聖三一教会
・第42回 1月16日(土)午後一時 池尻大橋駅
駒場の戦跡跡を歩く
◎申し込み方法、参加希望について(実施一週間前までに)
参加申し込みについては当会の米澤邦頼まで必ず連絡をください。
米澤邦頼 090−3501−7278
メールアドレスyonezawa-.-v1961@ezweb.ne.jp
■ 編集後記
「北沢川文化遺産保存の会」は、何かおもしろいことをやろうよという会です。「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」の朗読会をしようというのもそんな中から出てきました。わたしの予想では三四人も参加してくれればいいのではないかと思っていましたが練習会場に現れたのは十名ほどでした。驚きでした。通し稽古を四回行いました。二回目は代田八幡宮境内、三回目は北沢八幡神社境内で行いました。両方ともに「代田」ゆかりの神社です。この地元の二つの神社に伝説のダイダラボッチを口上で奉納したとも言えます。
北沢八幡宮の禰宜さんから伺ったのは御子舞の練習で形がピタリと決まると神社境内のケヤキが風で揺れて騒ぐそうです。わたしたちもおもしろい経験をしました。「ダイダラボッチ」と唱えると同じようなことが起こりました。南風が急に強くなって境内の銀杏の木が、わっさわっさと揺れて大きな音をたてました。わたしたちも「やっぱり」と思いました。「ダイダラボッチ」という言葉には遙か昔、縄文時代からの口承のリズムが隠されていて、それを唱えると古代の神々が騒ぎ出す。そんなヒミツがあることから「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」を作りました。地域の文化を端的に言い表した伝説だと思います。
「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」~東京市巨人伝説〜は今日8月1日に代田南地区会館でデモンストレーションとして公演をします。全編一時間半ほどかかるものです。今日は「ちょっと納涼会でもやろうよ」ということですので、第一幕、第二幕までを行います。全部の発表をどのような形でやるのか今後検討したいと思います。代田南地区会館で行う。北沢タウンホールの集会室で開催する。あるいは来年度の世田谷百華で区からの助成を受けて行うなどのことが挙がっています。「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」は地域だけのものではありません。東京の巨人伝説の一箇の中心地だ代田だと民族学者の柳田国男が言っています。他の地域の人も面白がってくれるストーリーだと思います。(K)
当会報への連絡、お問い合わせは、編集、発行者の きむらけん へ aoisigunal@hotmail.com
○「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。年会費1000円です。会員の方にはこの会報を自宅に郵送しています。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。



















