2009年09月
2009年09月29日
下北沢X物語(1415)〜踏切文化を検証する7〜
文明は直線であり、文化は曲線である。前者は停滞局面に入った。このまま直線で突っ走れば破綻することが目に見えてきた。今こそ後者の曲線を大事にすべきときだ。ここにたゆたったり、憩ったりすことで、人は安らぐことができる。
下北沢二号踏切から曲線が始まる。流れの淀みであり、停滞する場所であった。電車はここで速度を緩める。隘路であり、関門だった。800Rという急カーブ、25パーミルという急勾配である。多くのエピソードが眠っているところだ。
米軍の東京進駐は昭和二十年九月のことである。米軍の第八軍第一騎兵師団は小田急貨物に乗って厚木から入京してきた。カーブゆえに列車は速度を落として通る。銃を構えた米兵を満載した無蓋車がかっとん、こったんと通って行く。それを二号踏切脇の佐山春男さんは雨戸の節穴が覗いた。米兵の目とぶつかって凍りつくような恐怖を覚えたという。
下北沢二号踏切脇の佐山さんからは多くの話を聞いた。ちょうど踏切見学ツアーで通りかかったとき家に立ち寄ると当主の佐山一雄さんがおられた。久し振りだったが元気でおられた。家から出てこられると、みんなの質問攻めに遭った。
「シャケが食べられなくなったのは追突事故のときじゃないくて、人が轢かれてぐちゃぐちゃになったのを見たからです」
昭和七年からずっと踏切を見つめている生き証人である。
面白いことが分かった。同行しておられた北小卒業生の岩田さんが話してくれた。
「わたしはね、追突事故があったときにここに写真を撮りに来たのですよ。親父が新聞記者をやっていて、撮りに行ってこいといわれて来たのですよ。その写真は社に持って行かれて自分の手元にはありませんね」
この追突事故は昭和二十七年七月二十二日に起こっている。当時の「朝日新聞」見出しには「小田急線で電車追突」、小見出しには「ラッシュアワー重軽傷者百二余名出す」とある。記事にはこうある。
二十二日八時二十分ごろ、世田谷区代田二ノ六八八小田急線(鎌倉踏切り)で、停車のため上り準急小田原発新宿行二0八電車=運転士大井悦郎君(二一)=が停車中、後ろから来た成城学園行発六二二電車=運転士宮口進(二三)=が追突、両電車とも一部を大破、乗客中重傷十一名、軽傷百十三名(下北沢駅調べ)を出した。
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下北沢X物語(1414)〜踏切文化を検証する6〜
踏切は時代時代を映して来た。映画のシーンにも出てくる踏切は懐かしい。
鷺澤萠がすっかり「うらさびれ」たという駅前北口市場である。が、賑わって居る頃を背景にしてここで映画が撮られている。昭和三十二年(1957)封切りの東宝映画「大当たり三色娘」の冒頭シーンがここだ。若々しい三色娘、美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみが品物が溢れかえるこの市場に現れる。ロケはこの市場で敢行された。名だたるスターが出てきて撮影が行われたことは評判にもなった。
東北沢六号踏切をバックにしたシーンもある。栄通に「コットン」という木綿屋が踏切の手前にあった。この店で江利チエミが端布を見ている。新宿側からやってきた焦げ茶の単行の一両がブレーキをくきゅくきゅと軋らせて駅に進入していく。そのときに見知らぬ女がやってきて江利チエミに顔を貸せと言い、東北沢五号踏切そばの長栄稲荷のところに連れていく。人通りの少ない、何かの悪さをする雰囲気を持った場として使われているところが面白い。辺りには木々がこんもり茂っていて薄気味の悪い踏切だったと地元に人はいう。ここで鉄道往生を遂げた者もいた。
長栄稲荷でのシーンには二両編成の上りがまず通って行く。鋼製車輌が重々しい靴を引き摺っていくように、ガタシャンガタシャンと通っていく。つぎには警笛を鳴らして下りが通っていく。遮断機がないから電車はこれで通過を予告して通っていた。踏切をつぎつぎに渡っていくゆえに連続して警笛を鳴らしていた。付近住民はうるさかったろう。
「前にここ踏み切り番のおじさんがいたわね。ハンドルをぐるぐる回して遮断機を開けたり閉めたりしていたでしょう。それで、電車が通るときは白い旗を振っていた……」
東北沢6号踏切の思い出を鈴木さんは話していた。連想ゲームのようである。踏切のおじさんを思い浮かべると、つぎには巻き上げハンドル、そして白い旗を思い出す。
「ああ、白い旗ってありましたね。だけどあれはただ振るんじゃなくて、年季が入ってくると、格好良く回せるようになるんですよ。八の字を描くように振ると蝶が舞っているように綺麗で、運転士もそれを見て警笛を高く鳴らしたらしいんですよ」
これは自分で言ったことだ。鉄道開業後の面白いエピソードがある。いつも通りかかる踏切の親父さんは旗の振り方が人とはまるで違う。運転士は気になった。それで調べて見ると士族出身の武士だったという。
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2009年09月26日
下北沢X物語(1413)〜踏切文化を検証する5〜
武蔵野郊外地に新しい鉄道が切り開かれることによって沿線は大きく変貌していく。小田急線東北沢の尾根筋の丘には赤い瓦の文化住宅が建ちそれが青い空と緑の木々に映えていた。その様子を描いた高須画伯の「下北沢風景」には拓けゆく郊外地の希望が映って見える。
この絵には鉄道は描かれていない。が、風景の右手には坂を上る線路が敷設されている。森厳寺川左崖を上っていく急坂である。往時を想像するにその景観は土地の彫りが深いだけに眺めが良かった。絵に描かれた赤い文化住宅のすぐ右脇には東北沢2号踏切がある。ここからは下北沢の駅構内が俯瞰的に見下ろせる。夜などはサラダボールの底に光の水が溜まっているように見えた。
しがらみもなく自由で明るい新開地も時代とともに古びていった。単行でのんびりと走っていた茶色の電車は今では長大な十両編成となって引きも切らず通っていく。ついこの間まで開通八十周年のロゴをつけて小田急の電車は走っていた。
時間の経過、時代の変遷、それらを経て今という時はある。多くの踏切群も数知れないエピソードを刻んで今日まで来た。拓かれた希望の土地は古びて来て今は哀愁さえ漂うようになった。
昔の自分をワクワクさせてくれた場所が、今はこんなにうらさびれて見える。不意に泣き出しそうになる。
交差する線路に寄り添うような形になっている市場の中を通り抜けると、駅の西側に出る。出たところに通称「開かずの踏切」がある。
鷺澤萠が書いた「遮断機」である。主人公をわくわくさせた場所は下北沢北口駅前市場である。かつては「世田谷のアメ横」と言われたほどに賑わった場所だが今ではすっかりさびれてしまった。ここを出たところにあるのが「東北沢6号踏切」である。
彼女の描いた「遮断機」は一般化された踏切ではない。これは小田急の「東北沢6号踏切」でなくてはならない。書き手はこの踏切のことをよく知っている。
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2009年09月25日
下北沢X物語(1412)〜踏切文化を検証する4〜
わたしの個人的な感懐である。高須画伯が描いた「下北沢風景」は近代文学を絵解きする一枚の油絵なのではなかろうかと……。
森厳寺川左岸崖線が下北沢の風景を彫り取っていた。崖が深く谷に切れ込んでいて景色に深みがあった。この尾根筋は高いゆえに富士がよく見えた。いわゆる富士見ラインの丘で、富士講碑、富士見丘教会、富士塚、富士中学、富士見坂へと続いた。この崖も開発が進むに連れてだいぶ削られたようだ。
大きな坂としましては、現在の北沢四丁目五番にあたりから北沢公園のあたりまでの通称馬場坂といわれた坂で、現在は大変勾配がゆるやかになっていますが、往時は農家の人達が野菜等を出荷する際、大変苦労した坂でした。
「ふるさと 世田谷を語る」代田・北沢他 世田谷区生活文化部文化課
左岸崖線の坂の険しかったことを証言しているのは田中次郎さんという方である。下北沢駅のすぐ北側に住んでいた。そこは「大字新屋敷と称し、戸数十五戸ばかりの農家を大半とする地域でした。交通機関として何もなく」と言う。採れた野菜を出荷するには東側の都心へ行くことになる。すると左岸の崖は越えなくてはならない。牛車に大八車を牽かせて馬場坂を上る。体に応える坂だ。それゆえに深い傾斜はよく記憶された。
この坂の斜度は自分でもよく覚えている。かつて通勤の途次にこの坂を自転車で登っていた。上り切る直前のあたりが一番きつい。かつて野菜を満載した牛車が難儀したというのはよくわかる。雨の降った翌日などは車輪を泥に取られて大変だった。立ち往生した牛が充血した目を剥いてもぉあうと鳴いていたと想像がつく。絵には泥土の坂が描かれている。「馬場坂の絵」だが、彼の感覚では「下北沢風景」である。
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2009年09月23日
下北沢X物語(1411)〜踏切文化を検証する3〜
神なき結界が踏切なのかもしれない。下北沢鉄道X交点は線路によって四つに区切られていた。地域が独自の領域を作っていた。その出入り口は踏切だ。が、「踏切の向こうへは絶対に行くな」とかつて一帯に居住する親は子どもに口を酸っぱくして言い聞かせたものだ。レールによって遮断された向こうは彼岸である。踏切を渡るには、踏み切らなくてはならない。冷静な判断が必要だった。下りの陰に上りが隠れていると判断するのは子どもには難しいことだった。踏切の向こうで人が呼ぶという幻覚にも危ういものがあった。
「踏切文化を検証する」というわれわれ一行は代々木上原3号踏切から、世田谷代田1号踏切まで歩いた。それぞれの踏切には多くの警備員がついていた。結界を守る番人のようだった。最初の踏切、代々木上原3号で「踏切ツアー」の話をしたらつぎの踏切に行ったときに彼らは我等の正体を知っていた。連絡が回っていたようである。とある踏切の警備員はシールドマシンの様子まで話してくれた。
「この鉄板下はぐちゃぐちゃだよ。シールドは使えないから手掘りでやっているんだよ」
辺り一帯は森厳寺川の河床に近く、相当地盤が軟弱である。
「昔はね、小田急の排水口が小さくて、大雨が降ると土手に塞がれて水が溜まってここらへん一帯はよく水に浸かってしまったのよ」
同行していた鈴木さんが話してくれた。東北沢4号と東北沢3号の間に小さな鉄橋があった。森厳寺川の水を流すためのものだ。開通当初、上流は緑が豊かで保水性もあった。が、郊外鉄道の開通で付近一帯が急速に開けていって武蔵野の木々は伐採された。宅地開発である。それによって保水性を失った沿岸から一気に水が流れ込むようになって当初作った排水溝では間に合わなくなった。それで土手の北側一帯は度々浸水した。
小田原急行鉄道の開通による変化、その当時の街の様子を表しているのが高須画伯が描いた「下北沢風景」である。一帯の開発の原初風景だと言える。続きを読む
2009年09月22日
下北沢X物語(1410)〜踏切文化を検証する2〜
「ふみきりっていうのはなんだか不思議な言葉ですよね?」
町歩きをした後に、参加された方にいつも一言コメントしてもらっている。われらの仲間の米澤邦頼さんがそんなことを感想として洩らした。
確かに踏切という言葉は不思議である。これは「踏み切る」という動詞からきている。「思い切って物事を行う」という意味がある。つまりは、横たわっている線路を思い切って越えていくということであろう。
こう書いてきて思い出したエピソードがある。「坂の上の雲」に秋山真之が松山から上京してくる場面がある。そこに同行していた従兄の内山直枝が初めて鉄道馬車の線路にぶつかる。
レールのそばに立った内山直枝は兄貴株らしくもなく、青くなってしまった。かれらにすればこのレール敷きの道路をこえてむこう側へゆきたいのだが踏みまたいで横切っていいのものかどうか判断に迷ってしまったのである。
「坂の上の雲」一 司馬遼太郎 文藝春秋刊 昭和44年
都会に立った彼らはためらったが剛胆にも秋山真之は「レールをまたぎ、そのまますらすらとむこう側に渡った」という。「文明開化のシンボル」である鉄道、またぐには勇気が要った。踏み切って行かないと渡れないのが踏切だった。
しかし、踏み越える線の安全性は保証されない。もともと踏切は自らの判断で、「横たわる鉄路を意志的に越えていくところ」であったと言える。つい近年まで多くの踏切には遮断機などなかった。自らが左右を確認して自らの意志で渡っていくところであった。が、十分な判断力の育っていない子どもたちの多くがここで犠牲になっている。わたしたちが巡っていくすべての踏切には子どもの悲しい事故が染みついている。
「下北沢近辺に踏切が多いのは、線路に並行して道がないからよ」
踏切巡りをしながら参加者の一人がそう下北沢の踏切批評をしていた。沢、ザワの地形の特色を巧く表現した批評である。
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2009年09月20日
下北沢X物語(1409)〜踏切文化を検証する1〜
下北沢を中心とした小田急地下化の工事は急速に進捗している。これが完成すればこれまで地域を遮断していた踏切群がすべてなくなってしまう。が、その除去される遮断ラインは地域の文化を醸成してきたものでもある。これらをフィールドワークによって検証するツアーを行った。昨日、19日のことである。
この試みは最初にして最後だと宣言していた。なぜなら地下化工事が始まったとたん往昔の風景は切り崩され、かつてを偲びようもなくなったからだ。今回、地下化される部分の沿線を巡ってみて、再認識したことは、やはり沿線、とくには踏切風景が大きく変わってしまったことである。
下北沢を貫く小田急線の面白みは曲線や勾配にある。武蔵野の丘陵を地形に沿って忠実に辿っていく点にある。ゆえに勾配や曲線の具合がポイントとなる。ところが線路の付け替えによって、勾配の数値、パーミルやカーブの半径までもが既に変わっていた。代田800Rのカーブも緩和されて、その曲線美が失われていた。
常連や初参加者、今回は顔ぶれは多彩だった。北小同窓生、踏切跡地を考える「あとちの会」の人たちも参加した。多くの目と口が見たり話したりして多くがわかってくる。今まで知らなかった踏切の断面が見えてもきた。
今回、参加者で興味深かったことは小田急の工事に関連して立ち退きに遭った人が三名も加わっていたことである。線路脇に住んでいた人であるだけに話はとてもリアルであった。
「わたしのところは世田谷代田2号踏切脇にあったんですよ。小田急の線路拡幅で引っ越したんですよ。梅が丘に新しい家を建てたのです。その家が出来たので新居に早く移ろうとしたら子どもが反対するんですよ。ずっと住み慣れたところで愛着があったんですね。なにしろ線路際ですからね。いつも音がしていましたからね。何かの加減で音がしなくなるときがあったのですが、それは大概が事故ですね。静かになるとなんだか寂しい感じがしましたね。そうですね、子どもたちもその鉄道の音に愛着があったのだと思います。ちょうど電車が世田谷代田を出て坂を下っていくところですからね」
金子善幸さんはそんな話をしみじみとしていた。わたしはこの話をある歌人を思い浮かべながら興味深く聞いていたことだ。
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2009年09月19日
下北沢X物語(1408)〜鉛筆部隊の痕跡を求めて6〜
戦況が悪化するに連れて多くの児童が疎開していた(注1)浅間温泉も危険になってきた。近隣に航空機関係の疎開工場が移転してきて空襲の恐れが高まってきた。そういう事実を立川裕子さんの手紙は具体的な事実として伝えている。彼女の残した手紙は全体でみると戦時における児童の生活を端的に証す資料となっている。
浅間温泉「千代の湯」から昭和二十年三月二日に出された立川裕子さんの手紙にはこうある。
この間六年生の帰へる日浅間の驛まで送って行く途中に警戒警報から空襲になり送って帰へって来てそれからこたつに入つてゐると敵機の爆音が聞こえて来ました。始めて爆音を聞きました。私達は下の部屋に行きました。が間もなく爆音が聞こえなくなりました。なにも被害はありません。すぐかいじょになりました。雪降なのによく来たものです。でも山に爆弾を落としたさうです。
これは昭和二十年三月二十五日のことである。前日に「田町国民学校で児童の送別式があった」(浜館菊雄「学童集団疎開」)。代沢の代表が答辞で「田町国民学校の諸先生、ならびに児童のみなさま。いよいよお別れする時が参りました。わたくしたち六年生は明日午後五時三十分、松本駅発の汽車で空襲下の東京に帰ります」(同著)と別れを告げた。翌二十五日送って行くときに敵機が来襲した。
浅間駅が近くなるころ突然空襲警報が鳴り渡った。警防団の指示があり、ただちにわたくしたちは行進を止めて軒下などに待避した。ごうごうたる爆音が頭上を通り過ぎる。まさに最初に聞く敵機の爆音であった。雪は霏々と降りそそぎ、視界はまったくきかなかった。わたしたちは降りしきり雪空をにらみ、敵機の爆音を追った。だれも表情が硬ばり、目は光っていた。空襲警報がひと時解除されたので、わたくしたちは駅前に集合し、駅まで見送ってくれた五年生と最後の別れをかわした。(同著)
浅間駅は、廃線となってしまった松本電気鉄道浅間線の終着駅である。浜館先生は「千代の湯」の隣り、「蔦の湯」の引率担当である。そばを電車が走っていたようである。空襲警報で駅で待たされた六年生の乗った電車がやっと出発した。「わたくしの学寮のまうしろを電車が通り過ぎる時、子どもたちの顔が窓に鈴なりなって手を振っていた。」(同著)続きを読む
2009年09月17日
下北沢X物語(1407)〜鉛筆部隊の痕跡を求めて5〜
ネットによる発信は思いがけない情報をもたらす。このブログによる情報発信がキャッチされて、情報を生み出す。そして、新たにネットワークが広がっていく。「鉛筆部隊」関係の痕跡もその箇所がすでに、きむらたかし氏によってグーグルマップに子細にマークされている。また、ネットウオッチャーの米澤邦頼さんからは米軍が調べあげた松本一帯の軍需工場の見取り図情報が寄せられた。
後者の見取り図からすると国鉄「MURAI」駅西方の「MATUMOTO AIRFILD」、陸軍松本飛行場には「格納庫」があったことが記されている。(昨日はないと言ったが間違いである)この見取り図によると航空機関係の工場の疎開が松本一帯で大規模に行われていたことがよくわかる。「名古屋地方の爆撃で大損害を受けた軍需工場、とくに航空機工場が秘密裡にこの土地に移転をおこないつつあった」(浜館菊雄「学童集団疎開」)という記述と符合するものである。浅間温泉に軍人や工員の往来が激しくなったことは工場の疎開移転が急速に進んだことを示している。
しかし、「秘密裡」に行われたはずの疎開は敵によって察知されていた。地下工場の所在地までもが把握されている。この関係の記録は「続しらべる戦争遺跡の事典」(柏書房、2003年刊)に載っている。見出しは「松本市里山辺、中山地下・半地下工場を見る」とある。副題は「三菱重工業名古屋飛行機製作所疎開工場、天主・十字架などの文字の多く残る、強制連行によって掘削された地下壕」となっている。
これらの疎開工場の場所が米軍の見取り図にははっきりとマークされている。驚きである。山岳地帯にある松本は次第に軍都としての様相を帯びてきて、空襲の標的地点になったと思われる。浅間温泉に「警報の発令される回数がしだいに多くな」(同著)ったことも、それを理由としている。このことが再疎開に繋がっていく。
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2009年09月16日
下北沢X物語(1406)〜鉛筆部隊の痕跡を求めて4〜
少年が初めて飛行機に接したときの興奮を、思いがけず広丘郷原の里で聞いたことだ。
「空港の近くに松林がありました。そこに飛行機が隠されているということを聞いたんですよ。それでこっそりとみんなで見に行ったんですよ。怖いですよね、憲兵につかまるかもしれないという恐ろしさはありましたよ。行ってみると本当にあったんですよ。三機が隠されていました。『はやぶさ』だとかいうもののようでした。それで、イタズラしたのですよ。どうしたかというと、飛行機の胴体とか羽とかプロペラとかあちこちを全部さわりまくりましたね。その間にも憲兵が来るんじゃないかとひやひやでしたね。」
清沢恒春さんは64年前の出来事を思い出してこう語った。笹賀の旧陸軍松本飛行場はにわかに作られたものである。充分な格納施設もない。それで附近の松林の中に飛行機を隠していたのだろう。
鉛筆部隊の子どもたちは「荒鷲の歌」を歌っていた。「見たか銀翼この勇姿」に始まるこれは当時流行っていた。清沢さんたちは、「見たよ銀翼その勇姿」、思いがけずそれに出会った。機体のあちこちを触りまくったというのが子どもたちの自然な動作を表している。何時憲兵が現れるかわからない、どきどきしながら子供たちが銀翼に触っている。そんな光景がありありと浮かんできた。
これらの飛行機は沖縄に飛んで、米艦船に突撃した武剋隊のものであったかもしれない。この飛行機を何時目撃したのかは聞き忘れてしまった。昭和20年の春であれば間違いなく、「誠第三十二飛行隊」のものであったはずだ。
自身は時間の旅をしている。それは夜闇に杖を突いて歩いているようなものである。知らないことばかりだ。この武剋隊の顛末についてもよく知らないでいた。笹賀の陸軍飛行場から各務原に飛んで、そこから九州へ行き、沖縄特攻へ行ったものと思っていた。ところがそれは違っていた。「台湾の第八飛行師団に転属途中沖縄の中飛行場に補給のため着陸」した。折も折、沖縄は米軍の烈しい艦砲射撃にさらされていた。それで急遽、その敵艦船への突撃が決まって、「広森達郎ひきいる誠三十二飛行隊(武剋隊)」は「昭和二十年三月二十七日、嘉手納西方海面の敵艦船群に特攻攻撃」をした。そして、「大型艦五隻を轟沈」させた。それは「首里台上から」見守っていた味方の将校たちによってしっかりと目撃されたという。「沖縄軍参謀部付きだった画人」、西野少佐が「沖縄戦の航空特攻」という題で絵として描いて残されてもいた。これらは田中幸子さんから頂いた資料を改めて読んで知ったことだ。
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2009年09月14日
下北沢X物語(1405)〜鉛筆部隊の痕跡を求めて3〜

北国西街道沿いに郷原宿は整然とした街並みを残していた。「郷原の区画割」というものはこの宿場の特徴であった。「市史跡」となっていてその由来が路傍に記されていた。
郷原宿は、北国脇往還西街道の中継宿として、慶長十九年(1614)に生まれた機能である。屋敷割、治水割、耕地割がはっきりと現存している。宿の形は他宿のように鍵の手など屈曲はないが、南端には奈良井川から上げた用水路が屈曲して、宿の真中と東西の町裏を灌漑用水として、計五筋が北流している。
街道沿いの一軒一軒の玄関に屋号がかかっている。
「名前ではわからないのですよ。みんなここらは屋号で言いますね」
かつては旅籠だったという「住吉屋」の奥さんがそう教えてくれた。この街並みのもう一つの特徴は、「家の前と街道の間に庭があり、そこに樹木が植え込まれた特殊の趣を添えている」ことだ。垣根の緑が麗しい。が、国道294号線となっている北国西街道はひっきりなしに車が通っていく。
街道の奥に神社が見えた。脇道に入ってそこに行くと、驚いたことに日露戦争当時の「戦利兵器」があった。そう記された大砲の弾が四つ台座に載せられて「奉納」されていた。疎開生徒たちもこれを見に来たにであろう。この稲荷社の名をすぐ側の家の人に聞いた。
「諏訪神社といいますね。ああ、郷福寺はすぐそこですね。疎開児童がその寺にいたんですか。わたしはここにお嫁に来たからわからないですけど主人は知っていますよ。」
彼女は主人を呼んでくれた。
「ええ、広丘国民学校の六年生でした。代沢小の生徒のことですかよく覚えていますよ。郷福寺には遊びに行きましたよ。あそこの本堂の床下にもぐり込んでみんなとよく遊んでいましたね。ええ、そうです、あっちの方が勉強がよくできたっていうのはありますね。ケンカすると、こっちのことを田舎ぺといって馬鹿にしていましたからね。そう女の子はさばけているというか、ませているというか、そんな印象はありますね。こっちの男の子たちと遊んでいましたからね。」
清沢恒春さんは昭和七年生まれの七十七歳だった。
「郷福寺で歌われていた歌ですか、それは覚えていませんね。代沢小の生徒で仲のいい子がいたんですけどね、その名前が出て来ませんね。ああ、飛行場の整地ですか行きましたよ。」
清沢さんはそう言った。そういえば松本明美さんも陸軍飛行場への勤労奉仕の話をしていたことを思い出した。それで今日、彼女に電話してみた。
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2009年09月13日
下北沢X物語(1404)〜鉛筆部隊の痕跡を求めて2〜
鉛筆部隊の面影を求めての旅は戦争の痕跡を発見していく徒歩行となった。
当地の土や風や光がどう匂ったり、光ったりするのかは、歩いてみないと分からない。塩尻から広丘までは北国西街道を歩く。自然風物ばかりだろうと思っていた。ところが思いがけないことに高圧線鉄塔が眼についたことだ。地図で見ると「中信変電所」「塩尻配電所」とあった。そこには数十本の鉄塔が林立していた。高山に囲まれた一帯は水が豊かだ。それを活用して電気を作っていた。なるほど電源地帯だったのだと気づいた。
「わたしたちはニッパツと言っていました。これは戦前からありましたよ」
土地の人がそう言っていた。調べると、「日発」だった。日本発送電株式会社である。電力国家管理政策によって昭和十四年にできた半官半民の会社だった。恐らくは名古屋の軍需工業地帯に電力を送っていたものだろう。ここの電力が軍需産業の首根っこだったのではないかと思った。
歩く足は直感する。この電気こそが鉛筆部隊の再疎開に結びついたのではないかと思った。調べるとその推理は当たっているようだ。代沢小疎開児童の引率教員だった浜館菊雄はつぎのように書いている。
再疎開の理由は、この土地もまた、わたくしたちに安住の場所でなくなったためである。名古屋地方の爆撃で大損害を受けた軍需工場、とくに航空機工場が秘密裡にこの土地に移転をおこないつつあるとのことであった。
「学童集団疎開」 太平洋出版社 1971年刊
昭和19年12月13日、航空機工場の拠点のあった名古屋は空襲を受けた。これによって内陸部に航空機関係の工場がひそかに移転してきた。この名古屋空襲は予想されていたことのようだ。それで前年の18年に陸軍の飛行場が広丘の近くの笹賀に開設工事を始めていた。飛行場があって、電気というエネルギーが豊富な松本平に航空機工場が移転してきた。
代沢小疎開児童生徒の疎開先は松本の浅間温泉であった。この内陸部の温泉は戦況が悪化するにつれ、児童には逆に環境が悪化した。「戦況の不利とは逆比例的に、軍人の往来が激しくなり、何工場慰安会なるものが、連日の宴会でどんちゃん騒ぎを演ずることが、目に余るようになってきた」と同著では述べられている。戦争中の飲めや歌えという大人の傍若無人の振る舞いである。そのことを書き記したものがあるからわれわれは過去の愚かさを知ることができる。記録というものは本当に貴重である。
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2009年09月11日
下北沢X物語(1403)〜鉛筆部隊の痕跡を求めて1〜

「下北沢X物語」を書き始めて、およそもう五年になる。これまで多くの人に出会い、多くの物語を聞いてきた。楽しいこと、悲しいこと、辛いこと、物語を記した数だけ興奮したり、悲しんだり、喜んだり、落胆したりもしてきた。
ことには戦争経験をした人の記憶には忘れがたいものがある。「現地民から湧き水のありかを教えてもらって助かったんですよ」とサイパン島生き残りの兵士、谷本貞男さんの話、「トラックで広電本社に行くとき荷台から見た景色、どこまでも髑髏が並んでいる様子は忘れられませんね」と広電元家政女学校の新谷ヨシ子さんの話、「洋上で敵機に襲われて甲板の鉄板にミシン目状の弾痕が開いたんですよ」とつい先だって亡くなられた松林宗恵監督の話、挙げればきりがないほどある。これらの逸話の中でも忘れがたいのはなんといっても鉛筆部隊の物語である。
この「下北沢X物語」に端を発して、そしてその結末までをも見とどけることができた話だからである。鉛筆部隊と称された代沢小児童たち、その彼らは疎開先の広丘村郷福寺で寮歌を歌っていた。寺の本堂から響き渡るその歌は近所に住んでいる子どもに深い印象を残していた。その一人である旭正章さんからたまたまこのブログに寮歌の歌詞がわからないかとコメントがあった。これがきっかけになってこの物語は始まった。
物語のフィナーレは旭さんと、94歳になられるお母さん、そして鉛筆部隊の二人、都合四人による合唱で締めくくられた。代沢小視聴覚教室に響き渡ったその歌声を耳にして涙が止まらなかった。恥ずかしくなるほどに涙が湧いてきた。
物語の発端となった場所「長野県東筑摩郡廣丘村郷福寺」はどんなところだろうか。前々から行ってみたいと思っていた。「休日は高速道が1000円なりましたよ。中央高速で行けばすぐですよ」と仲間の米澤邦頼さんから何度も誘われていた。が、車だとその行程が見られない。疎開児童生徒たちは中央本線の汽車に乗って長野へ疎開していた。鉄道で行かないと彼らの心は見えて来ないのではないかと思っていた。それで新宿から各駅停車に乗って広丘を訪ねた。
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2009年09月10日
下北沢X物語(1402)〜帝都線・井の頭線の思い出〜
戦争中、男子の鉄道従業員がつぎつぎに出征していって、その穴埋めをしたのが女子である。車掌業務のみか運転まで任されるようになった。その典型例が「広島電鉄家政女学校」の生徒である。十五歳の乙女が見よう見まねでコントローラーを懸命に回していた。
帝都線も戦争中女子に運転をさせようと訓練をしていたようだ。「男子乗務員は次々と入隊してしまい、その不足を補うために女子社員のほかに国から派遣された女子挺身隊(国の命令で軍需工場および輸送機関に動員される要員)の人々が配属されてきたので、車掌は女子が半数を占めるようになってきた。昭和20年の前半には女子の運転士第一号が誕生したそうだが、20年5月の空襲で車輌の過半数が焼失してしまったためにその後運転する機会がなかったそうである。)(「帝都100形の運転」新見善太郎 鉄道ピクトリアル 9月臨時増刊号 昭和58年8月)
この記事を書いた新見氏は、帝都線開業時のモハ「100系との出会い」として同著につぎのように記している。
100系に出会ったのは昭和10年頃のことだったと思う。父に連れられて浅草に行った折に下北沢のホームで、入ってきた電車を見てなんとスマートな電車だなーと子ども心に思ったものだ。当時の電車はヘッドライトが屋根の箇所にあるものが多かった時代に100系は窓の上部(オデコライト)にあり、その上、運転台の正面の上部に小さいながらもヒサシまでついていて、スマートさに一段と花を添えているような感じを受けたものである。外見だけでなく車内に入ってからも乗客が運転士の横の最前部までゆくことができ、さながら自分が運転しているような気分になり、その日一日が爽快な気分でいられたことを思い出す。また、運転台の横に座席があり、そのシートが今のシルバーシートの色と同色の色を使っているため、車内が一層広く感じさせているようだった。また、窓が大きく、さながら展望車に乗っているようで、かえりにまた最前部に乗ってみたいと思ったものである。
昭和八年に開通した帝都線にモハ100系が入ってきた。そのかっこいい車体に子どもたちはたちまちに惚れ込んだ。東松原に住んでいた百鳥育子さんもその一人だった。彼女はつぎのように「帝都線の思い出」を記している。
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2009年09月08日
下北沢X物語(1401)〜鉄道X交点の謎5〜
小田急線沿線に居住した二人の詩人は奇しくも鉄塔が風景の中にあった。ちょうど時を同じくして北原白秋は歌集「白南風」の序を昭和九年四月に、萩原朔太郎は詩集「氷島」の序を昭和九年二月に書き記している。が、ここにかいま見られるのはそれぞれの世界の違いである。
『白南風』一巻、もとより屑々の歌集にして、何らの気に負ふべきものなし。日光・月色・風塵・草卉・魚・鳥の諸相、季節と生活、単にただ一々の歌品を以て、偶ま同好にして渾厚の士の清鍳に供へむとするのみ、言説すべきにあらず。
「白秋全集」10巻 歌集5 岩波書店
「白南風」、序の末尾の部分である。日々目前に繰り広げられる武蔵野の自然のその諸相を白秋は描いたものだという。砧村西山谷の眼前、目前風景だと言い換えられる。その彼の視野には鉄塔が聳え立っていて、白雲を突き刺している。それでこれを「砧村の雲と鉄塔の下にて」と締めくくっている。
著者の過去の生活は、北海の極地を漂ひ流れる、侘しい氷山の生活だつた。その氷山の嶋嶋から、幻像(まぼろし)のやうなオーロラを見て、著者はあこがれ、惱み、悦び、悲しみ、且つ自ら怒りつつ、空しく潮流のままに漂泊して來た。著者は「永遠の漂泊者」であり、何所に宿るべき家郷も持たない。著者の心の上には、常に極地の侘しい曇天があり、魂を切り裂く氷島の風が鳴り叫んで居る。さうした痛ましい人生と、その實生活の日記とを、著者はすべて此等の詩篇に書いたのである。讀者よろしく、卷尾の小解と參照して讀まれたい。 日本詩人全集14 萩原朔太郎 新潮社
萩原朔太郎の場合は、心象風景である。寒々と凍りついた世界、その想念においてオーロラが妖しい光を放つ、彼自身の荒涼とした精神世界が描出される。彼はこの文章を代田の鉄塔の下で書き記した。かつては絶縁も十分でなく、絶えずじぃじぃりじぃじりと高圧線が音を鳴らしていた。が、彼はほとんどそれが聞こえない。想念世界に耽っていたからだ。馬込在住時は土地の風光を描いたが、代田時代で土地のことを書いたものは皆無といっていい。承知しているのが新築した家から見える景色を手紙に一言書いて人に送ったものぐらいである。ともに生活していた萩原葉子はこの家のそばにある鉄塔については子細に描いている。が、彼女の父親の書いたものの中にはまったく出てこない。
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2009年09月07日
下北沢X物語(1400)〜鉄道X交点の謎4〜
小田急沿線に住んだ萩原朔太郎と北原白秋の交流という点には何かの文脈、人間関係というようなものだけでなく、地域文化や沿線文化の繋がりのようなものが強く感じられる。
白秋の砧村生活を「評伝」はつぎのように述べている。
田園風景のうち展けた環境は快適であり、健康そのものだった。坐ながらにして南の空に雲の去来が仰がれ、野の果て、夜の星座までがひろびろと眼界にはいってくる……そうした明け暮れを、そのまま作歌に託した恵まれた田園の生活であった。これらの作品は歌集『白南風(しらはえ)』の後半を占める「砧村雑唱」になっているが、短歌六百二十一首・長歌十篇という数量である。
「評伝 北原白秋」 藪田義雄 昭和四十八年刊 玉川大学出版部
この白秋の「白南風」には、武蔵野の自然に醸される風情が短歌に数多く描かれている。歌集の『序』に強く興味を惹かれる表現があった。末尾の「昭和九年四月 砧村の雲と鉄塔の下にて 白秋識」という記述だ。
砧村西山谷の地からは「南の空に雲の去来が仰がれ、野の果て」まで見えたという。広々とした武蔵野の空に浮かぶ雲、そこに眺め見えた鉄塔、それは近代都市の郊外風景である。白秋の情景の中に鉄塔が存在感を持ってあるということに新鮮な驚きを持った。それは同じく小田急線沿線に住んだ朔太郎の場合にも通ずるものがある。
成城や砧には何度か訪れている。成城の柳田国男旧居のすぐそばにやはり鉄塔が聳え立っていた。多摩川の宇奈根から北東方向に向かっている「川世線」である。かつてこれは「群馬線」と言っていたと東京電力の人に聞いてびっくりしたことがある。が、近代化の始まりにおいての電力は水力だ。電源地帯は皆利根川の上流部にあった。送電線が群馬に繋がっていることは不思議でもなんでもないことだった。
武蔵野風景における鉄塔ということが小田急沿線に住む二人の詩人によって捉えられていた。このことにわたしには非常に深い興味を抱いた。昭和九年に書かれた「白南風」の序を「砧村の雲と鉄塔の下にて」と結んでいる。一方、朔太郎は昭和八年に、世田谷代田の鉄塔のすぐ下に家を新築して越してきた。この「鉄塔下」というのは偶然のことではないだろう。近代郊外風景としての鉄塔というのは、白秋の目前情景、朔太郎の心象風景として捉えられていたといえないだろうか。都市論の新しい切り口のようにも思える。
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2009年09月05日
下北沢X物語(1399)〜鉄道X交点の謎3〜
鉄道交点一帯は起伏に富むところだ。「まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。」(「風と光と二十の私と」)と描いた原野に郊外鉄道が走った。丘は削られて切り通しとなり、谷にはその削り取った土で築堤が築かれた。郊外鉄道専用軌道である。そこに当時としては最新の15メートルの鋼製車輌が高速で走った。新聞記事では「小田急高速度電車」、「小田原高速鉄道」とも書かれている。(社史)
それからそれへと連なる谷にリベットを打ち込んだ近代車輌が走る。駅では、クックックックッと車輪が軋みカキと音をたててチョコレート色の電車が停まった。そこには爽やかな風が吹いていた。たちまちに沿線は居住地としてあこがれの地となった。武蔵野の緑の中を高速郊外鉄道が走る様は人を惹き付けた。下北沢野屋敷は新宿という都会の喧噪から程よい距離をおいたベストポジションだった。遠からず近からずというところは魅力だった。
野屋敷の赤松林に中産階級の住宅がつぎつぎに建った。そこに商店が出来ていった。この繁栄する郊外の町には学生も集まってきて、沢沿いの畑地には下宿屋が建っていった。そういう中に文学志望の者も少なからずいた。これが北原白秋と繋がっているところが非常に興味深い。詩歌参集の一つのラインかもしれない。
その後、私は小田急線下北沢に閑静な下宿をみつけ、横浜から引き移っていた。そしてある日、新聞広告で、祖師谷大蔵付近にてごろな貸家があることを知り下検分にでかけた(白秋邸はまたいろいろの都合で小田急沿線に移転先を探していたのである)駅の南側に降りて、少しいって左に折れると、やがて馬頭観音の石の像につきあたる。また左に曲がると植木屋の植え込みがあり、その先隣り、道路よりやや小高い檜葉垣に囲まれた二階屋をそれと認めて眉があがった。直感的にこれは先生が気にいると悟ったからだった。かつて貴族院を牛耳っていた研究会の領袖青木信光子爵の妹の君が女あるじと知って、これはと思った。長男がこの春、旧制松江高等学校に進学することになったが、すでに姉娘が松江に嫁いでいるので、卒業するまでの三年間、親子もろとも娘の許に身を寄せたい。その間たしかな方にこの家をお貸ししたいのだが……というお話しだった。借受人が北原白秋だと知ると、二つ返事で話はばたばたと決まってしまった。
昭和六年の五月、東京市外砧村西山谷一八六九(現世田谷区砧六ー十三ー十八)
「評伝 北原白秋」 藪田義雄 昭和四十八年刊 玉川大学出版部
北原白秋に師事した詩人が描いた白秋の評伝である。その彼が下北沢に下宿していて、白秋の家のある祖師ヶ谷大蔵まで通っていたという。白秋の砧村への転居は、世田谷若林からのものである。
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2009年09月04日
下北沢X物語(1398)〜鉄道X交点の謎2〜

下北沢は鉄道によって開けた街である。鉄道が交差した当地には、その利便性から人々が多く集まってきた。その中には近代文学の、著名な書き手たちも大勢いた。なぜ集まったのか?、ことに大きな疑問は詩歌人が著しく多いことだ。理由は謎である。鉄道が交差していて便利だったということだけの理由ではないように思えてきている。
小田原急行鉄道は武蔵野に新しい情景を切り開いた。車窓に映りゆくパノラマが郊外に幸福を求める人々を惹き付けた。こう考えたのは昨日、かかってきた一本の電話からである。
「下北沢の小田急沿いの松林のことなんですよ。あれは沿線の景色として目立っていましたね。」
野屋敷の今井兼介さんからである。折々に、野屋敷の昔のことがわからなくて電話で聞くことがある。そんなことがきっかけで往時をふと思い出しては向こうから電話をかけてこられることがよくある。ついさっきもあって、「江田島」が「枝島」になっているというこちらのネット記事の間違いを指摘してこられた。友人のパソコンでこちらの記述を読まれたようだ。
「ええっとね、一つ言い忘れていたことがあるんですよ。わたしの家が建った当時、この一帯はほとんどが平屋だったですね。裏の中村草田男さんのところもそうだったのですよ。だから父が建てた二階家は目立ったと思うのですよ。あなたがおっしゃるように尖った三角屋根はよく見えたでしょうね」
今井兼次邸ができたころの昭和六年に萩原朔太郎はこの近くに引っ越してきていた。この後、昭和八年に自身の設計による家を代田に建てている。下北沢に越してきたとき、新しい家の構想があったはずだ。詩人の家の近くで緑の多い、瀟洒な建築物の建つ野屋敷に来なかったわけはない。兼次邸の鋭角屋根は代田に新築した家でも見られる。
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2009年09月02日
下北沢X物語(1397)〜鉄道X交点の謎1〜
「何か感触としては、今、世界というか、社会というか、時代の流れが変わってきつつあるように思います。ひたすらに一直線に前へ前へと向かっていた文明が、停滞してきたように思うのです。一旦停まって、ちょっとじっくり考えないかという時代に入ってきたように思うのです。しゃにむに進むことも必要ですが、物事にじっくり向かい合うということも必要ですね」
ひたすらまっすぐに進む文明から、一旦スピードを落として、ゆっくり進んでいく。時代は曲線に差し掛かってきているのではないかということを今日の公務員養成所での授業の枕に振った。
じっくり考えなくてはいけないことは数多くある。下北沢への文士参集もその一つである。なぜ大勢が集まってきたのだろうか。そのことについては鉄道の交差によるところが大きいと述べてきた。つまり、昭和八年に帝都線、今の井の頭線が開通し、下北沢で小田急線と交差するようになった。その利便性から大勢が集まってきたというふうに説明をしてきた。が、段々にわかってくるにつれこの認識は改めなくてはならないのではないかと思い始めている。
私が代用教員をしたところは、世田ヶ谷の下北沢というところで、その頃は荏原郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹藪だらけであった。
「風と光と二十の私と」 坂口安吾全集4 ちくま文庫
坂口安吾が下北沢の分校(現代沢小)にやってきたのは大正十四年。小田急が開通する直前のことだ。「その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。」と述べている。これが一帯の原初風景である。
昭和二年に小田原急行鉄道が開通する。これによって沿線は次第次第に変化していく。昭和八年の帝都電鉄開業までを第一期として捉えて、その間の変化を捉えていく必要があるように思われる。
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2009年09月01日
下北沢X物語(1396)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報 第38号〜

「北沢川文化遺産保存の会」会報 第38号
会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
2009年9月1日発行(毎月一回発行)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
1、「下北沢X惜別物語」公開出版企画書
下北沢を中心とした小田急線が地下化されるに伴い三つの駅、世田谷代田、下北沢、東北沢、及び九つの踏切が2013年度には地表から消えてなくなる。これら地表線の駅や踏切は思いがけない物語を刻んでいた。それは隠れた逸話である。悲しい話、戦慄的な話、驚嘆する話、これは近現代史、交通史、文学史などにつながる興味深い記録でもある。これらを地元住人の証言によって拾い集めたものである。われらの活動の一端を活字化したいということでここに公開出版企画書を掲げるものである。以下要点四つを訴えたい。
●地域を超えての発信性
「下北沢X惜別物語」に書き記した駅や踏切の逸話は地域だけの話では終わらないものだ。近現代史、文学史に直結するものである。
米軍が東京に進駐する際に銃を構えた兵士を運ぶ小田急貨物の目撃談、下北沢駅前に整列したヒットラーユーゲントの話、その北口駅前での文学のエピソードもある。田中英光と水上勉とが屋台で酒を飲んでいるときに、親父が気に入らないということで英光がそれをひっくり返し二人して小田急で逃げた。そのすぐ側にある東北沢六号踏切は鷺澤萠が小説の舞台とした「遮断機」である。
●記録としての価値性
近現代史、交通論、文学史、文化史、芸術史など刻まれた記録は多岐に亘るものである。歴史の記録として残しておくべき貴重なものである。それぞれの踏切の写真や電車の走行シーンも思い出深いものとなるものだ。
●読み物としての手応え
「下北沢X惜別物語」は世田谷区の助成を受けて冊子として2000部発行された。これらは瞬く間になくなった。多くの人から「こんな話は知らなかった」という声が寄せられている。いまだに「ありませんか」といってくる人がいる。
「小田急の砂利貨物の車輪の音が『ぎゃ、ぎゅ、ぎょ』と書かれていましたが、本当にそう聞こえましたよ」と言う人もいた。
この話は事実を書き留めただけのものではなく、生きた人びとのナマの証言をもとに読み物としてこれらを書き纏めたものである。読む楽しさを考えてまとめたものだ。面白く読めるということをねらいにしているものだ。
今回のものは、新たにわかった逸話を加えての増補版の企画である。多くの人々が期待しているものである。そのことから書籍化をねらいとしてこれを公開するものである。
「下北沢X惜別物語」あとがきより
秋元さん、齋田さん、大月さんなど大勢の人から話を聞いた。それぞれの思いにある踏切を一言で形容すると「悲しい」である。安全に渡った人のことは覚えていない。安全に渡れなかった人のことは記憶にある。踏切での悲しい事故の話である。
「踏切は悲しい」である。が、それは「踏切は楽しい」の裏返しである。つまり、渡った人の分の喜怒哀楽があったということである。悲しみもあれば、喜びもあった。日々の生活の中に踏切があった。
遮断と解放を繰り返して来たそれには間違いなく生活があったことを教えてくれた。それは電車線の交差する、街並みの、人々の歴史でもある。近現代の庶民史である。そういう目で見ると、踏切は間違いなく文化を形成してきた。人を立ち止まらせ、そして、人を解放してきた。踏切は文化境界ラインでもあった。線路によって分かたれたそれぞれの地域が独自の文化を育んできた。
下北沢の街は鉄道によって形成されたものである。小田急と帝都電鉄がここでクロスしたことによって下北沢は進展し、発展し、今の街が創られたものである。このXという交点は街を捉えるシンボルであったと言える。その端的なものが清水博子氏が描いた「街の座標」である。「新宿から南へ下る小田急線をY軸、吉祥寺へゆらゆらと延びる井の頭線をX軸に取」り、その様を彼女は「ひしゃげた座標軸」と形容した。
街を「ひしゃげた座標軸」と捉えているところは見事だ。ひしゃげているゆえにエピソードが多く眠っている。XとYで捉えた町の面白さだ。が、その記号は目に見える存在としてあることで把握される。ところがそのシンボルも間もなく消え果てる。「下北沢X惜別物語」は、街の象徴との惜別を言い表したものである。
目次概要はつぎのとおりである。
プロローグ 鉄道X交点物語
第一章 代田曲線物語(800R)
第1話 節穴から覗いた進駐米軍列車
第2話 空戦目撃地点としての小田急築堤
第3話 踏切地蔵物語〜下北沢2号踏切〜
第4話 詩人が通う路〜下北沢3号踏切〜
第5話 追突事故以来シャケの切り身が食べられない
第二章 下北沢駅物語
第1話 駅頭に整列したヒットラーユーゲント
第2話 子どもの電車批評〜上の電車下の電車〜
第3話「風物歌集」が捉えた下北沢
第4話 南北境界の穴蔵通路
第5話 疎開児童を送った駅
第三章 世田谷代田駅物語
第1話 朔太郎の陰影が漂う駅
第2話 代田連絡線 〜戦時応急救援線
第四章 東北沢駅物語
第1話 記憶の破片にある駅
第2話 新幹線に転用された通過方式
下北沢鉄道X交点周辺マップ
第五章 踏切物語
第1話 映画監督も褒めた踏切〜世田谷代田4号踏切〜
第2話 踏切安全の礎となった小さな踏切〜世田谷代田2号踏切〜
第3話 富士が見える踏切〜世田谷代田1号踏切〜
第4話 キャンディーズ・ミキちゃん踏切〜下北沢5号踏切
第5話 ワーストワン踏切はベストワン踏切〜東北沢6号踏切〜
第6話 鷺澤萠「遮断機」の舞台となった6号踏切
第7話 猫道路地道踏切〜東北沢5号踏切
第8話 電車の胴体が凹む大踏切〜東北沢4号踏切〜
第9話 ピアノと猫と踏切と〜 東北沢3号踏切
第10話 北沢鉄道峠の踏切の花〜 東北沢2号踏切
第11話 ビール製造用の水も渡った踏切〜代々木上原3号踏切
エピローグ
2、エフエム世田谷でのラジオ放送の案内
番組名 「語り継ぐ 世田谷のお話 」(世田谷区提供)
出演 「北沢川文化遺産保存の会」 きむらけん
放送日時 両日とも午前10時〜10時15分
2009年9月6日(日) タイトル「下北沢文士町(前編)」
2009年9月13日(日)タイトル「下北沢文士町(後編)」
3,「北沢川文化遺産保存の会」 定例外企画第一弾のおしらせ
毎月の定例以外に、興味ある人が集まって「歩く会」をしたらどうだろうと会報で呼びかけていました。その反応が早速ありました。要項はつぎの通りです。
第1回 大山街道界隈街歩き (二子新地駅〜梶が谷駅まで)
開催日時:2009年9月12日(土曜日)
集合時間:午後1時
集合場所:東急田園都市線・大井町線 二子新地駅東口改札口
二子橋の旧欄干・二子の渡し場入口・二子神社と岡本かの子の碑、光明寺・飯島商店の大釜・国木田独歩の碑・タナカヤ呉服店、灰吹屋薬局本部・大山小径・大山街道ふるさと館・濱田庄司の家、岩崎酒店と糀ホール・溝口 二子の問屋跡・大石橋・溝口神社・宗隆寺
庚申塔 大山道標・ねもじり坂・笹の原の子育て地蔵 戦災地蔵等を訪ねます。
(レク保険に加入していません。事故のないよう各自で気をつけてください)
○主催、引率責任者 天羽大器
※参加希望の方は・・・・9月10日(木)までに
北沢川文化遺産保存の会、米澤 090-3501-7278 まで連絡下さい。
4、歩く会について
都市物語を旅する会
「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。事故のないよう各自で責任を持ってください。
この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。個々人が文化を楽しむというのがねらいです。
これまで実施したコースはつぎの通りです。
・代田連絡線の跡を歩く(3回)・小説「猫町」を歩く(3回)・下北沢の大谷藤子を歩く・「森茉莉」足跡を歩く(5回)・下北沢の銭湯跡を歩く・下北沢の無頼派を歩く・下北沢の教会を歩く(3回)・坂口安吾の通勤ルートを歩く(2回)・駒沢線詩歌文学ラインを歩く(2回)・下北沢の映画痕跡を歩く・ダイダラボッチ川を歩く。・下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。・代田のダイダラボッチ痕跡を訪ねる(3回)・代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)・林芙美子から坂口安吾を歩く・.「下北沢店員道場を検証する」・池の上の古い町並を歩く ・下北沢の詩人痕跡を訪ねる・「森厳寺川の源流を探索する」(3回)・「代田の歴史を歩く」・駒沢練兵場を歩く(2回)・滝坂道を歩く(2回)・駒場の戦跡を歩く
・第40回 9月19日(土)午後一時 東北沢駅
下北沢の踏切文化を検証する。「下北沢X惜別物語」で書き記しましたが地下化によってなくなる小田急線踏切にはそれぞれにエピソードがあります。その痕跡を求めての歩く旅です。東北沢駅そばにある代々木上原3号踏切から世田谷代田1号踏切までの9つの踏切を歩いて訪ねます。工事によってもうだいぶ原形が崩れてしまいました。よって、この小田急線の踏切を一つ一つ訪ねていくというのは、最初で最後の試みとなります。
なお、高須画伯が「下北沢風景」という絵の書かれた地点を知っておられる方が今回は参加されます。小田急開通と「下北沢風景」というのは大きな関連があります。
・第41回 10月17日(土)午後一時 経堂駅改札前 案内者 天羽大器氏 滝坂道を歩く(?) 世田谷城、豪徳寺などを巡りながら行きます。
・第42回 11月21日(土)午後一時 世田谷代田駅
代田の詩人子弟を歩く、萩原朔太郎、三好達治
・第41回 12月19日(土)午後一時 下北沢駅南口
「下北沢の教会を歩く」
カトリック世田谷教会、頌栄教会、富士見教会 聖三一教会
・第42回 1月16日(土)午後一時 池尻大橋駅
駒場の戦跡跡を歩く
◎申し込み方法、参加希望について(実施一週間前までに)
参加申し込みについては当会の米澤邦頼まで必ず連絡をください。
米澤邦頼 090−3501−7278
メールアドレスyonezawa-.-v1961@ezweb.ne.jp
■ 編集後記
「下北沢X惜別物語」の公開出版企画書を掲載しました。踏切文化を記した記録を残したいという思いからです。公開掲載がきっかけとなって出版化に結びつけば良いと思います。当、ブログのみに公開するものです。
先だって8月1日に「花見堂夕涼み会」を開催し、「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」~東京市巨人伝説〜」をプレ公演ということで披露しました。「これって本当ですか?」「はい」と答えました。この我等の手になる「幻想朗読劇 ダイダラボッチ」は来年の区の文化祭で演じてみようという話になっています。当日の懇親会は、一人一品面白いものを持ってくるというのは大当たりの企画でした。手作りあり、余り物あり、わけのわからないものありで皆興奮しました。それで12月19日(土)町歩きの後、同じ企画の忘年会を行うことにしました。いまから何を持っていくか考えておいてください。当会報への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ k1poem@yahoo.co.jp (メルアド変更)
○「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。年会費1000円です。会員の方にはこの会報を自宅に郵送しています。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。



















