2010年03月

2010年03月31日

下北沢X新聞(1538)〜特攻兵は戦争を語らない3〜

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 語られない戦争に真実が潜んでいる。

 我らは語ってこそわかる、伝わると言う。が、「戦争のことは言いたくないよ」という元特攻兵に出会って、それを言わないでいる自由もあると思った。永遠にわからない真実があってもいいではないか。むしろその無言の背景にある問題への想像力を持つことの方が大事ではないだろうか。

 戦争体験者の無言に潜む真実の追究は完全に欠いている視点だ。「ジャーナリズムはコマーシャリズムだ」と批評している人がいたが、今日の報道はいくら儲かるかが基準になっている。想像力は儲からない。とすれば、そこへの批評をわたしたちが持つ、そしてネットで発信するというのも一つの手法であるように思える。

「おれは戦争のことは言いたくない。名前もいいたくない。けれども、自分の戦争関係のものは中町の資料室に寄付した。自決用の短剣とか履歴書も行けば分かる。それをあなたが調べるのはかまわない。公表していることだから……」
 「せたがや平和資料室」のことを言っているようだった。その彼の言っていることは本当だった。資料室に陳列がしてあった。名前もはっきりと記されていた。ここには何度も訪れている。展示品そのものは知っていた。が、おかしなものだ。知らないときは展示品として見ていたが、当人の声を聴き、姿を知った上で行くと、短剣や襟章、肩章などが生々しく見えてくる。

 調べて名前が分かったから記す。それも安易だ。わたしも同じにしよう。知りたければ資料館に足を運べばいいと言っておこう。わたしは今まで通り元特攻兵のXさんとする。
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2010年03月30日

下北沢X新聞(1537)〜特攻兵は戦争を語らない2〜

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  戦争から65年も経過した。が、特別攻撃隊のことは人の記憶に今も生きている。

 3月27日、代沢小安吾文学碑の前で「下北沢文士町文化地図」を配布した。そのときに偶然、元海軍特攻兵だった人に出会った。彼は戦争のことは語りたくないと言った。特攻兵として出撃するはずだったが終戦を迎えて任務は解かれた。その時以来65年間今日まで暮らしてきた。死ぬはずだったのに生きている、そして童顔を宿したまま逝ってしまった戦友が忘れられないでいる。彼は特攻兵の霊を祀った世田谷観音に毎月ひっそりとお参りを続けている。

 27日、当日、家に帰ると葉書が来ていた。田中幸子さんからだった。かつて浅間温泉千代の湯に疎開していた人である。

 今年の靖国神社慰霊祭は奇しくも誠第三十二飛行隊の皆様が散華された三月二十七日に催行されます。武剋隊の皆様のご冥福を祈って特攻饅頭を送らせていただきます。どうぞご自愛の上お過ごしくださいませ。
 
代沢小の疎開児童生徒と偶然的に交流を重ねた武剋隊兵士は、昭和20年3月陸軍松本飛行場を発った。そして、沖縄に向かい、3月27日に中飛行場を飛び立って沖合の米軍艦船に特攻攻撃をした。浅間温泉千代の湯で疎開児童たちと同宿していた五名の若者だった。27日は彼らの命日だった。その浅間温泉の千代の湯に調査に同行してくれたのが田中さんだった。

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2010年03月28日

下北沢X物語(1536)〜特攻兵は戦争を語らない〜

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  「おまえらが特攻に行かなかったから日本は負けたんだよ!」
  このことを言われもし、そういう目で見られたと言う。X氏は予科練に志願した特攻兵士だった。名前も言いたくない、戦争も語りたくないと言われる。それでも断片的に話を聞き出すことができた。メモは取っていない。記憶にある範囲のことを記しておきたい。

「毎月18日に特攻兵を慰霊する法要が世田谷観音で行われているんだ。おれはそのときには行かないで朝、お参りするんだ。自分の仲間が亡くなったからね。あのときは十七八歳だよ。あれからおれはもう何十年と生きている……いつまで行けるかわからないが行けるまでは行く……」
 彼は目に涙を浮かべていた。

「回天や震洋の訓練はしたんだ。それに乗っていくはずだったけど行けなかった……」
 いわゆる人間魚雷のことだ。それに乗って出撃するはずだったが終戦を迎えて、作戦は取りやめになった。彼の深い思いが額の皺に刻まれているように思った。意志の人である。

 彼は池の上の海外植民学校で牛乳配達のアルバイトをしていた。
「代沢小学校五六年のときと中学の一二年のときだった。四五年間ぐらいしたよ。新聞配達するのに使うようながっしりした自転車だった。ハンドルに牛乳配達バックを振り分けにして運ぶんだ。ハンドルは重くて切りにくかったよ。よく転んでね、割れるとまた一苦労なんだ。学校まで戻っていかなくてはならないからな。北は中野、南は目黒あたりまで牛乳を配達していた。とくに雪が降ったときなんか大変だった……」
 
 桜の咲くこの時期、いつも坂口安吾文学碑前で「下北沢文士町文化地図」を配布している。昨日それを行った。地図を渡しながら人と話をする。楽しいひとときだ。が、面白い話ばかりではない、悲しくてつらい話もある。

 Xさんの話はそうであった。彼の口は重い、特攻兵は戦争を語らずに生きてきた。生きて帰ってきた彼らを社会は温かくは受け入れなかった。
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2010年03月27日

下北沢X物語(1535)〜「贅沢をば早や積み果てつ」3〜

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  異文化が居住できる、紛れることができるのが下北沢鉄道X交点ではないかと思う。その総体、時間や歴史を把握できないでいる。人脈もよく分からない。あの人も、この人もいた。そのことは分かれば分かるが解らなければ解らない。

 昨日のことだった。前から約束をしていた下北沢野屋敷の篠山さんのお宅に伺った。かつて中村草田男が住んでいたところである。

「ここに記録がありますね。この人は陸軍軍人ですよ。多分当時は佐官級だったと思うのですよ……ここに住んでおられたんですよ」
 下北沢野屋敷に住んでいる篠山利生さんが言われた。出された分厚い「家賃控」を見ると、そこには栗林忠道とあった。昭和八年十一月から翌年昭和九年五月までの約半年間、篠山さんの貸家を借りて住んでいた。硫黄島の戦いで日本側の総指揮官を務めた軍人である。

 「硫黄島からの手紙」は記憶に新しい。平成18年(2006年)に、クリント・イーストウッド監督のこの映画は公開された。陸軍大将栗林忠道を渡辺謙が演じている。

 この町の至るところにこんな話が眠っている。が、そのことを知っていたとしても当事者は取り立てて吹聴することはない。さりげなく、ごくごく普通に、エピソードが眠っている町である。どんな人が住んでいても驚くことではない。誰もが紛れて住むことができた。森茉莉もそういう町の風土に紛れて住んでいた。奇人変人有名人が普通に住んでいる。

 だって本当に変なバアさんだったんだもの。私は時々、下北沢で森茉莉を見かけた。
 商店街をかごをぶら下げて、森茉莉はフワフワ歩いていた。森茉莉のまわりには五センチ幅ぐらいのぼぉっとした霧がかぶさっていて、森茉莉は霧ごと移動していた。
 「隣に住みたい」佐野洋子 森茉莉全集7月報7 1993年11月
 

 この文章を読んでつい笑ってしまった。即座に萩原朔太郎を思い出した。地表数十センチのところを女物の下駄を履いて歩いている姿が連想された。小説「猫町」第一ステージは下北沢スズラン通りであると自身では言い続けている。幻想的、幻影的な町だ。
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2010年03月25日

下北沢X物語(1534)〜「贅沢をば早や積み果てつ」2〜

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 地域文化的な森茉莉論というのも面白い文学論である。

 彼女の日々の、淡島から「下北澤」への「おでかけ」ルートを辿ると、至る所に彼女の姿を彷彿とさせるその場所があちこちに残っている。

「ええ、よくここを通っていかれましたね。わたしのお店にも靴を修理に出されました。そうですね、靴は大事に使っておられましたよ。質素なものでしたけどね……」
 彼女のアパルトマンのすぐそば、かつてのお魚屋さんだった泉寿司、その隣の石黒靴店のご主人がそう言われた。さりげない証言にはさりげない真実が眠っている。

 茉莉の靴のかかとが安定していることは重要だ。歩きの中で思いついたり考えついたりというのは数え切れないほどあるはずだ。足下に気を取られてしまうと考えの安全運転はできないものだ。かかとの摩耗を補修して、彼女のひらめきを妨げないようにしたとも言える。

「この焼き鳥屋さんのところを通っていくとき、萩原葉子と一緒だったらしく、ここで焼き鳥を買って行こうか買っていくまいかとためらったとエッセイにありますが、その焼鳥屋がその『さかえ』です」
 南口庚申塔前でそう説明した。
「ああ、その人その人、焼鳥屋のご主人ですよ」
 参加者の作道慶子さんが前を通りかかった人を指さした。

「この北沢八幡宮の前には砂利置き場がありまして、その向こうに菓子工場がありました。それはユーハイムです。『恋人たちの森』に出てくる『ロオゼンシュタインという銀座の菓子屋の配達所兼菓子焼場』というのはここがモデルだったんです」
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2010年03月24日

下北沢X物語(1533)〜瓢箪から駒、講演会から古道2〜

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 この頃は歩いてばかりだ。自身が古代人になったように思えてくる。徐々に変化していく景色を眺めながら思索をするのも悪くない。郊外の漫歩生活を送っている。

「古代人の風景観というのと現代人の風景観は根本的なところで違っているように思います。歩いていって風景を獲得することの充足感というものはあったと思います。」
講演会でこんな話をした。その例としてあげたのが万葉集だ。

「万葉集の山部赤人の歌はよく知られています。

 田子の浦ゆ うち出でてみれば真白にそ 富士の高嶺に雪は降りける

 旅人は歩行の旅をしてきて田子の浦に差し掛かりました。とある岩をまわりこんだとたんに高々と聳え立つ富士の峰がいまにものしかからんばかりに頭上に聳えていた、そんな感動を歌は言い表していると思います。この当時、景色は自分で歩いていってめくっていくものでした。が、今日近代は、景色は機械によってめくれていくのです。室内と外の景色との交渉性がなくなっています
 古代人は景色の中にいる自分を感じていたと思います。一方われわれは自然との交渉は極めて少なくなっています。窓によって遮られています。明治近代になって汽車に乗った人が横に縞が流れて行くのを不思議に思っていたら横浜に着いたと聞く。大ショックだった。これは自然と人間とが隔離されはじめたことによるものともいえます……」
 汽車の出現と景色は面白い問題で、これには深い興味を持っている。この話もしたことだ。

 日曜日、講演会場の梅ヶ丘地区会館まで歩いた。一時間弱だった。自身には近く思えた。が、会場まで歩いてきたと言ったら多くが驚いていた。
 
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2010年03月22日

下北沢X物語(1532)〜瓢箪から駒、講演会から古道〜

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 日々変転していく。が、過ぎゆく時間はおもしろみがない。近代現今の風景を人が干からびさせているからだろうと思う。風景に潤いがない。かつての武蔵野にはそれからそれへと続く丘陵の向こうに富士が見えた。が、それもほとんど望めなくなった。

「今日は、自宅のある目黒区八雲からここまで歩いてきたんですよ。まず、呑川駒沢支流をさかのぼるのです。そうすると国道246号にぶつかります。大山厚木街道ですね。この尾根では品川用水を渡ります。この尾根筋を降りるとこんどは蛇崩川です。これを渡ってだらだら坂を上ると代官屋敷のあるフラットなところに出ます。そして区役所を通ると国士舘大の脇の坂道に、太夫山の斜面に出ます。これを下ると烏山川、渡って上ると滝坂道、わたしは北上してくるわけですよ。そうすると尾根や川が東に向かって流れているんです。朝から文化散歩ですね…」
 講演会の枕に振ったのが朝の徒歩行だ。そして、結末はつぎのように述べた。

「人生とは何か?、どれだけいい風景を見たかではないでしょうか。世界風景資産ではなく、自分が発見した風景資産です。それを何枚貯められるかだと思います。自分風景資産をみつけよう……」

風景資産の講演での締めくくりとしてこんなことを述べた。が、昨日、瓢箪から駒、講演会から古道、胸躍る風景資産を見つけたことだ。

講演の中で梅ヶ丘地区会館の近くにある宇田川家のケヤキの話をした。
「三年ぐらい前だったでしょうか、ちょうど宇田川家の欅の枝おろしをしているところに行き会ったのです。それを見ていたら、『この欅の枝を前は品川や大森の漁民が買いにきていたもんだよ。海苔粗朶に使うんだな』とご主人が自慢していました。」
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2010年03月21日

下北沢X物語(1531)〜「贅沢をば早や積み果てつ」1〜

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 今日近代は、物質的には豊かだが精神は貧しい。心は行き場を、よりどころを失ってうろうろするばかりだ。が、森茉莉は敢然と言ってのける。

 だいたい贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである。容れものの着物や車より、中身の人間が贅沢でなくては駄目である。
「贅沢貧乏」 講談社学芸文庫 森茉莉
 

 昨日、森茉莉「贅沢貧乏」に書き記しているところの「魔利が殆ど毎日のように歩く、淡島から下北沢の駅の先の北沢二丁目の通りまでの繁華な街すじ」、言い換えれば「贅沢貧乏」街道、そこを歩いた。
 
 下北沢駅北口に午後一時に集まっての出発だった。

 この頃は、小田急バス下61を利用することが多い。自宅のある八雲から野沢龍雲寺まで歩き、ここで北沢タウンホール行きに乗る。20分ほどで下北沢に着く。が、うっかりして日曜日に行き会わせると悲惨な目に遭うことがある。ついこの間、乗ろうと思ってバス停に着いたら、時刻表は真っ白だった。三軒茶屋の茶沢通りが歩行者天国となって、バスは動いていない。それで代沢の海外植民学校跡まで歩いていく羽目になった。

 ところが、昨日は土曜日、バスは時間通りに来た。窓の外をぼんやりと眺めながら考え事をすることができた。贅沢な時間である。歩いたり、漕いだりしなくていいからだ。その乗車中に思いついたのが「贅沢をば早や積みはてつ」である。

「森鴎外は『舞姫』の冒頭を『石炭をば早や積みはてつ』と書きました。船は石炭をいっぱいに詰め込んでもう出発だ、と、はやる出発の気持ちを言っているのかと思うと、そうではありません。これは洋行の官命からの帰途です。想いを深く通じ合わせたエリスを残しての帰国です。港はサイゴン、ドイツへの思いを残しての出発ですから後ろ髪を引かれる思いです。気持ちはたわんでいる。ゆるみたわみですね。自我の彷徨、ここのところが文学としてうまいと思うのです。一方娘はどうかというと、贅沢貧乏ということを言っているわけです。彼女は鴎外の娘ということで大事に育てられた。『贅沢貧乏』の中にも確かそういう描写がありましたね……

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2010年03月19日

下北沢X物語(1530)〜「海外植民学校」の記憶と記録3〜

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  この頃新聞を読もうとしなくなった。見出しだけ読んでおしまいだ。大きく世の中は変化しつつあるのにそれは伝えていない。核心を衝いた記事は見あたらない。テレビも同じだ。見応えのあるドキュメンタリーはない。上っ面の虚飾のみを伝えるテレビ番組はいっそうによそよそしく見える。

 そんな中で3月17日の夕刊に載った文化欄の宮地尚子氏の記事はつい二度読んでしまった。「人の価値が下がる時代」〜張りつく薄い寂しさ〜には共感を持った。

 剥がしても剥がしても張りついてくる薄い寂しさのようなものを、わたしたちは今抱えている気がする。人の価値が下がっている。

 便利さ、効率、能率をひたすら求めてきて、今の社会がある。それが壁にぶち当たってよりどころを失っている。旧来の手法が通じない。どんなに努力してもリストラされるかもしれないという不安、ひたひたと押し寄せるどうしようもない寂しさというものはある。言葉も豊かさを失っている。「伝える」ことも効率化されて、気づいてみると、言葉の潤いもなくしている。わたしたちは、文化というものをないがしろにしてきた。そのしっぺ返しを受けているのだとわたしは思う。

 池ノ上の「海外植民学校」について、桑井いねさんが「おばあさんの知恵袋」に記している。それを、きむらたかし氏が紹介してくれた。このいねさん、「世田谷代田」に震災後に移転してきたようだ。サラリーマン家庭の細々としたエピソードが綴られていると知って読みたくなった。オークションで検索に掛けると、正続二冊がセットで売られていた。それで早速に入札した。応札はなく落札できた。昨日、これが送られてきた。奥付を見ると初版は昭和五十一年で、到着した本は「三一刷」であった。多くの人に読まれていたことが分かる。

 高度経済成長の中で遮二無二家庭で働いてきた主婦が、おばあちゃんの知恵に温もりを見いだしたのかもしれない。体験者の知恵や経験がこの時代のよりどころとなっていたことを証すものだろう。おばあさんの語り口が優しい。

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2010年03月18日

下北沢X物語(1529)〜「海外植民学校」の記憶と記録2〜

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  首都東京が膨張するに連れて近郊の土地の利用法が変化していく。明治になっての殖産振興、桑茶政策で西郊の武蔵野の雑木林は茶畑となる。明治13年の地図を見るとちょうど「海外植民学校」のすぐ西は一面に茶畑となっている。

 が、これも明治22年に東海道線が開通することによって衰退する。低廉な宇治茶がこれによって運ばれるようになって採算が取れなくなったからだ。そういう土地の変遷が興味深い。近郊の土地は時代時代に応じて変化する。

 昭和三年に作家横光利一は、ちょうどこの茶畑のあったあたりに居を構える。その土地選定の経緯が簡潔に述べられている。「睡蓮」という作品の冒頭の描写の一節だ。

 秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇の中に際立って白く見えていた。
「ここですよ。どうですかね」
 大工は別に良いところでもないがといった顔つきで、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植っている平凡な畑だったが、周囲に欅や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。


 土地の使われ方が描かれていて面白い。「茶の花」は辺りが茶畑だったときの名残である。恐らく家庭用に使うために農道沿いに残していたものだろう。農民の慎ましさが偲ばれる。その茶畑だったところには芋が植えられている。茶畑から芋畑、牧場へ。その一角を写した絵はがきがある。

 「睡蓮」に出てくる土地の東に、池ノ上の「海外植民学校」はあった。インターネット上にこの学校の絵はがきが二枚掲載されていた。「植民学園全景」「海外植民学校労働部実習」というものだ。前者は緩やかな起伏がある中に洋風の二階建ての学校がぽつんと建っている。周囲はほとんどが畑である。これをみつけた人は北海道ではないかと思っていたようだが池の上であった。後者は壮観だ。二階建ての学校を背景として横一列に自転車と学生とが三十名ほど並んでいる。その荷台には「牛乳」と大きく描かれた箱が見える。牛乳配達に出掛けようとする学校の生徒を写したものである。小倉服に帽子をかぶっている。足はゲートルを巻いているように見える。
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2010年03月16日

下北沢X物語(1528)〜「海外植民学校」の記憶と記録1〜

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 「風と光と二十歳の私」は坂口安吾が描いた青春小説である。代沢小学校を舞台としたこの作品は、青年教師時代の体験を描いている。

 小説は虚飾だ。が、この小説はノンフィクションに近い。最初はわからなかったが、調べていくうちにここに出てくる登場人物は実名だったと知った。エピソードも本当のことが書かれている。今風に言えば、「表現に不穏当な箇所がありますが…」と注釈が必要なのかもしれない。
 
 例えば、「この主任は六十ぐらいだが、精力絶倫で」と描かれていることは、他の描かれてあることからすると飾りなくそうであったかもしれない。見た目には老けて見えるが色気も食い気も権勢欲も盛んだった。授業を放り出して、人に押しつけて「村の有力者の家へ茶のみに行って」いた。

 安吾が代用教員をしていた大正十四年は、ちょうど東大原小学校が設立される準備が行われていた。翌、大正十五年にこの学校は創立されるが主任は訓導としてこの学校に赴任している。代田橋よりも東大原の方が近い、実際は猟官運動をしていたのかもしれない。

 大正十四年坂口安吾は当時、分教場だった代沢小に代用教員として赴任してくる。当初は、品川大井にある自宅から通っていた。学校から渋谷までは歩いていたという証言を教え子の一人が記録に書いていたことから分かった。

 しばらくして学校のそばの下宿屋に移った。ここで海外植民学校に通っている生徒と同宿している。これも事実に基づいていると考えていい。この学校のことを知ったのはこれがきっかけだった。

 私は始め学校の近くのこの辺でたった一軒の下宿屋へ住んだが、部屋数がいくつもないので、同宿だ。このへんに海外殖民の実習的の学校があって、東北の田舎まるだしの農家出の生徒と同宿したが、奇妙な男で、あたたかい御飯は食べない。子供の時から野良仕事で冷飯ばかり食って育ったので、あたたかい御飯はどうしても食べる気にならないと云って、さましてから食っている。 「風と光と二十歳の私」 ちくま文庫 

 安吾の「風と光と二十歳の私」、これと漱石の「坊っちゃん」は好対照である。前者は中学を卒業した不良少年が都会の外れの分教場の教師になるというもの、落ち零れである。後者は東京の大学を出た優等生が田舎の中学の先生になるというもの、エリートである。坂口安吾は「坊ちゃん」を強く意識して書いている。

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2010年03月15日

下北沢X物語(1527)〜失われた時と景を求めて(了)〜

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 中央集権という国家の形態が東京という都市を膨張させた。すべてを首都に集約し、全体を統治するという手法は因習を中心とした古い国を近代化するためには欠かせなかった。

 都市の膨張、拡張は、その時代、その時代で未来を予測できなかった。居住人は旧来の伝統的な考えを持って居を定めたり、土地を購入したりしていた。

 「根柄」というのは古代的な発想、考えである。丘上の地盤の強固なところに集落を作って、互いに助け合って生きていく。丘上は居住地で、その斜面は畑とし、低地は田圃とした。

 高須光治「下北沢風景」は根柄の様子をよく描いている。丘上に豊かな緑が描かれている。広葉樹、ケヤキのようである。尾根筋の緑である。いわゆる屋敷林でもあろう。そこにすっくと建った小池材木店の長尺材木小屋はひときわ抜きんでている。

 小田原急行鉄道が開業し、沿線の宅地化が急速に進んでいく。建物を建てるための材木への需要が高かった。それを象徴するように真新しいそれが辺りを見下ろすように聳えている。

 根柄の縁から上に五六棟、赤い屋根の新しい家が建っている。周囲は生け垣で囲ってある。都会生活者が郊外に越してきて生活を営んでいる。その幸せが見えるようでもある。

 斜面は畑である。その持ち主は安野さんかもしれない。近隣にある代々の農家の一つである。この畑は、斜面にある。そういう点でいうと根柄の境界は守られていたと言える。が、これも崩壊寸前の様子だったようだ。

 高須光治「下北沢風景」と近代文学というテーマで一帯を歩いた後に、たどり着いた「邪宗門」で参加者の感想を聞いた。金子善幸さんの話が面白かった。

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2010年03月13日

下北沢X物語(1526)〜失われた時と景を求めて13〜

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 地域語というものがある。「根柄」はその一つだ。わたしの居住地の近隣には中根、東根と「根」のつく地名が多い。この語に関係している。民俗学的にも興味深い事柄だ。

 小さな仕事は、近くの家同士で、大きな仕事は、もっと多くの家どうしで、力を合わせて助け合いました。
 うれしいとき、悲しいときも、力を合わせて助け合いました。村の中で、家と家、人とひととのおつきあいを「根柄のつきあい」といいました。心の底から、互いに手に手をとり助け合いました。いまも、おとしよりから、「根柄のつきあい」の言葉が聞かれます。
(「めぐろ むかしばなし ひもんや」金澤十郎著 昭和五十六年刊)
 

 集団、共同体としてのつきあいの形を「根柄のつきあい」と言い表していたようだ。この話そのものは「麦打ち唄」から説き起こされている。したがって助け合うということの具体的なことは農作業を助け合って行うということなろう。

 「麦打ち唄」は労働歌である。歌を歌って、調子を合わせると、能率良く仕事がはかどる。もうすっかり忘れ去られてしまったことだが線路工夫たちは、数人で組になって線路路盤の突き固め作業を行った。拍子、調子を合わせて互いに労働に励む、歌は仕事をするために必要だった。ともに歌うことで連帯感も深められた。

 「麦打ち唄」は荏原各地に多く残っている。「代田に名所が三つある 鶴塚にだいだらぼっちに花見堂…」というのは代田で歌われていたものだ。世田谷吉良氏没落後、武士から降農して地域を開いた代田七人衆の共同体も「根柄のつきあい」と同じものだ。
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2010年03月12日

下北沢X物語(1525)〜大学街盛衰記〜

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  都市の興隆と衰亡の物語は、その境目に見られる。国木田独歩は、そこを「大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とが此処で落ち合って、緩やかにうずを巻いている」(「武蔵野」)と形容した。人の営為と自然の営みがぶつかる場に物語がある。

 ISBNが刻印されていない地域歴史書ほど面白いものはない。この頃は、図書館に行くと、必ず地域資料の書棚にいくことにしている。

 「めぐろ むかしばなし ひもんや」(金澤十郎著:昭和56年)という本があって、狐が出たという話が書かれていた。それは「目蒲線の工事が始まったばかりの」大正のころのようだ。「場所は、目蒲線の近くで、大岡山駅と環七通りの中間ぐらいの所」だという。北千束の清水窪小学校近辺のことだろう。この南手はかつて狢窪と言われた場所で、狐狸の住む原だったようだ。

 買い物は、半日がかりで、武蔵小山(その頃は小山といいました。)か、八雲(八雲小学校の近く)へ行くし、野菜だけは、近くのお百姓さんからわけてもらっていたんですから、大変だったんです。

 この八雲は八雲通り商店街のことだ。もとは氷川神社や東光寺などの門前町だった。この通りはわたしの家のすぐそばにあってよく知っている。じつはここに一時国木田独歩は居住していた。作品の中に氷川神社境内に建った小学校、八雲小学校のことを描いている。

 八雲通り商店街も、「大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とが此処で落ち合って」いるところだった。氷川神社の前からガタクリ馬車が二子道を通って目黒停車場のある長峰へ運行されていた。もっとも権之助坂の急坂は上れなくてその麓までだったようだ。

 この商店街もすっかり廃れてしまった。商店が激減してしまって寂しくなった。一方狐が出たというそこのすぐそばには大岡山商店街が今はある。狐話の冒頭には、「大岡山の北口商店街は、いつも、いつも、お祭りか縁日のようににぎやかです」と書かれている。この賑やかな商店街のすぐ近くには狐が出たのだよと昔話は伝えている。

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2010年03月10日

下北沢X物語(1524)〜失われた時と景を求めて12〜

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 「東京行進曲」のタイトルは、その比喩が巧みだ。東京が主語で述語が行進だ。東京というどん欲な都市が、ずっしんどっしんと行進して外延的な拡大をしていく、その様が描かれている。昭和四年のこの大ヒット曲は、都市交通論的問題を示唆している。都心地下を貫通する東京地下鉄道から、郊外武蔵野を切り開いて行く小田原急行鉄道までをも描いている。

 人口の膨張は地表だけの設備では賄いきれず、東京地下鉄道が開通する。昭和二年のことだ。「あなたは地下鉄/わたしはバスよ」は、近代化する東京を巧みに捉え、歌曲に詠み込んでいる。日本で初めての地下鉄は気概を持って作られた。

 省線のように切符ではなく、ターン・スタイルのボックスに十銭玉を落し込むとオープンとなって、ドアを押せば回転扉が四分の一廻って後はしまるといった仕掛け。この扉は米国並に作ってあるから体の小さいものなら二人が一人前で御免蒙る不心得者が続出しそうだが、会社側では使用人員の制限と紳士的主張を試みるという。どこまで成功するかみものでしょう。「今井兼次 建築創作論」鹿島出版会 2009年刊

 この地下鉄のデザインや意匠などに携わった建築家の今井兼次が記者に答えたものである。何から何までがモダンだった。
「改札に人はいねえんだよ。ボックスに十銭玉入れて、改札で通せんぼしている鍬の取っ手みたいなものを押すとよ。中に入れるんだよ…何たって最新式だ」
 初めて地下鉄に乗った男が、そう自慢げに話したろう。

 この建築家今井兼次も「いっそ小田急で逃げましょう」で、ちょうど東京行進曲がヒットした頃に小田急線沿線に逃げてくる。

 この辺りの物語は都市文化論的に非常に興味深い。昭和三年、新感覚派の担い手横光利一が、画家高須光治が、昭和四年、建築家今井兼次が、昭和六年、宇野千代・東郷青児が、詩人萩原朔太郎が、下北沢鉄道交点地域に越してくる。
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2010年03月09日

下北沢X物語(1523)〜失われた時と景を求めて11〜

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  詩人萩原朔太郎の下北沢鉄道交点近辺への居住は今もなお少なからず、詩を愛する人に影響を与えている。詩人吉増剛造は仲間に会うと「話題は当然のように?猫町?にゆく。するともう二人で幻の本を書くか、薄い同人誌を出しているような気分になって、下北沢の次元の穴に引き込まれてゆくのだ。」(月刊ポエム1977年7月号)と述べている。

 彼が下北沢交点近辺に住んだことによって、この町をより一層幻想的な町にした。まずは昭和六年に東北沢に住み、そして、下北沢に移り、つぎに世田谷代田に新居を建てた。そこには高圧鉄塔駒沢線61号鉄塔が高々と聳え立っている。鉄塔から放たれる微妙なエネルギーが彼のクリエーティブな精神により一層影響を与えたのかもしれない。

 彼は山手線の内側、市ヶ谷台町から外側の東北沢に越してきた。昭和5年、「市ヶ谷台町十三番地」に妹と住んでいた。ここ、市ヶ谷台町も何度か調べに行ってみたことがある。青峰観音の裏手だった。
「戦争中にはね、このあたり気球がいっぱい浮かんでいたよ。市ヶ谷台には陸軍の参謀本部があったからね、飛行機で飛んで来る敵を妨害するためでなかったのかな」
 観音様の隣の八百屋の主人が教えてくれた。朔太郎居住時は市ヶ谷台は陸軍士官学校だった。詩人が住んだそこは硝煙のにおい、軍靴の響きに近いと思った。

 この市ヶ谷台町から新宿には意外に近い。市ヶ谷台町の坂を西に降りていけば新宿だった。このときに新宿の町に慣れ親しんだようだ。ちょうど「東京行進曲」がはやった頃である。隆盛する新しい街は、「変る新宿/あの武蔵野の/月もデパートの/屋根に出る」と歌われた。詩集「氷島」の詩の一つに「珈琲店 酔月」がある。新宿裏町にあったカフェではないだろうか。

昭和九年、世田谷代田の61号鉄塔の下で、鉄塔の碍子から発せられる「じじじじじじ」という音を聴きながら彼は「氷島」の詩の序を書いた。その一節にこうある。

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2010年03月07日

下北沢X物語(1522)〜失われた時と景を求めて10〜

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 高須光治が描いた「下北沢風景」は都市の伸展、膨張のプロセスを見事に切り取った作品である。都市工学、民俗学、そういった観点からしても重要な絵である。

 描かれたのは昭和初期である。小田原急行鉄道が開通したことから宅地開発が急速に進んで行った。この絵は、画家が下北沢に在住していた時代に描かれた。昭和3年(1928)31歳から、 昭和6年(1931)34歳までの間である。

 都市生活者が赤い屋根の家を建てた。多くは平屋建てだ。この絵を見た金子善幸さんが右手前に見えているのは数寄屋作りですよと教えてくれた。切妻よりも高級なものだと初めて知ったことだ。

 高須光治が描いた「下北沢風景」は自身にとってなじみの深いものだ。この絵の下の縁を通って、左の下から上に登る道、二子道を通って自転車で十数年通勤していた。前に、この丘下のところで地元の人に話を聞いたことがある。
「家は、どこから建つって、それは上からですよ。順に上から建って下へと向かうのですよ」
 地形、地理もまだよく分かっていない時期であった。が、今になってみるとその順序は当然の流れだと思う。この絵にはその原初的風景が描かれている。

 「下北沢風景」が描かれて間もない頃、萩原朔太郎は、この絵に描かれたところに市ヶ谷台町から越してくる。それが昭和6年7月のことだ。
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2010年03月06日

下北沢X物語(1521)〜失われた時と景を求めて9〜

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玉川上水の文学

 都市と近郊の間に芸術や文学は位置取りをした。そのポジションは交通網が次第に整備されていくにつれ順次外縁部へと移動していった。代々木山谷は、甲武鉄道に電車が運行されたことがきっかけとなって開発がなされるようになった。その切り開かれつつある武蔵野を描いたのが岸田劉生だった。

 代々木山谷は武蔵野の縁辺であることが魅力であった。が、実際にここを訪れてみると当地を横断していた水路も詩情を醸していて、居住人はこの水路に沿った散策をし、絵を描いたり、詩を詠んだりしていた。玉川上水は芸術的感性を刺激していた。

 田山花袋は、「玉川上水は美しい水彩画のような光景」を眼に見せてくれたという。都市生活者の塵労を和らげてくれる眺めだった。花袋と親交のあった独歩もこの玉川上水の詩情を描いている。代々木山谷のずっと上流の「小金井の堤」を上手へと散策したときのことを描いている。

 水上を遠く眺めると、一直線に流れてくる水道の末は銀粉を撒たような一種の陰影のうちに消え、間近くなるにつれてぎらぎら輝て矢のごとく走てくる。自分たちはある橋の上に立て、流れの上と流れのすそと見比べていた。光線の具合で流の趣が絶えず変化している。水上が突然薄暗くなるかとみると、雲の影が流れ共に、瞬く間に走ってきて自分たちの上まで来て、ふと止まって、きゅうに横にそれてしまうことがある。暫くすると水上がまばゆく煌てきて、両側の林、堤上の桜、あたかも雨後の春草のように鮮かに緑の光を放ってくる。「武蔵野」(岩波文庫)

川は蛇行して流れる。が、上水は一直線に流れれてくる。そこに現出する光の乱舞、そしてその明暗は上水ならではのものである。木々の緑の中、そこを貫いている水路、その水面を照らす陽の輝き、そして、両岸に咲き競う桜花の錦、詩であり絵画である。日本画というよりも西洋画が浮かびあがってくる。
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2010年03月04日

下北沢X物語(1520)〜失われた時と景を求めて8〜

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 書物の中の文字をさまよい、地形の中の道を彷徨し、ふらりふらふらと流浪を繰り返してきた。絵画に描かれた風景に惹かれて今度はまた浮かれ出るように劉生の「切通しの坂」を訪れた。現場に行けば見えないものも見えてくる。

 「切通しの坂」へ行くために初台駅に集まった。駅からは玉川上水跡の遊歩道を辿った。緑の木々や草花が植えてある。今はグリーンラインだ。が、かつてはここを水が滔々と流れていた。東京西郊のこのライン沿いに住んだ画家や文人たちに大きな影響を与えていたのではないかと思った。

 岸田劉生の日記にもしばしばこの上水が出てくる。大正五年(1916)四月三日の冒頭にはこうある。

 頭がぼんやりして居るので庭の土と草の写生を続けたが描けず。少しいらいらして居る。それでひるねして頭をなほすつもり。蓁は今日はモデルが休みなので上水の方へ散歩に行く。 「岸田劉生全集」(第五巻)岩波書店 1979刊

 このとき劉生は奥さんをモデルにして「蓁の橙を持つた肖像」を描いていたようだ。が、そのモデルを務めるのも楽ではないようだ。ダイダイを手にしてずっと同じ姿勢でいるのは辛いことだろう。それで休みを作る。すると彼女は気晴らしに上水へ行く。本人もこの日「夕方上水へ写生に行くつもり」と言い、実際に友人を誘って行っている。気分を和らげたり、和ませたり、ときに創作意欲を掻き立てられたりする場合もあったろう。

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2010年03月03日

下北沢X物語(1519)〜失われた時と景を求めて7〜 

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  おもしろがればおもしろくなる。自身の勘が当たっていた。
 師匠岸田劉生の「切通しの坂」、その弟子高須光治の「下北沢風景」、ともに左岸崖線を描いたものだと言った。その代々木山谷の坂へ行ってみたところまさにその通りであった。河骨川源流域の左岸の崖である。

 この「切通しの坂」は以前に何度か訪れた。崖の傾斜を調べるためだ。坂下で、矯めつ眇めつ傾斜を眺めていたら、通りかかった女の人が、「こんなところで何をしているのですか!」と言われた。元の勤め先の学校の生徒の親だった。「切通しの坂の斜度を調べているのです」と答えたら、もっと驚いていた。

 28日の日曜日、思いついてこの坂へ行った。そのとき同行した四人に話をしていたら同じく女の人が通りかかって声を掛けられた。「切通しの坂だと知っていたのですが、なぜここを描いたのか常々疑問に思っていた」と。それで知っている範囲のことを答えたら頷いて帰って行かれた。男坂では女に縁がある。

 切通しの坂は典型的な左岸崖線だと思った。逆「へ」の字形をしている。左岸が急峻で右岸が緩やかだ。淀橋台から延びた台地が都心方向の景色を遮っている。この尾根筋には明治神宮へ向かう広い道、西参道が通っている。

 岸田劉生の日記を見ていたらこの道路のことが記されていた。大正五年(1916)四月八日のことだ。このときは「四月一日より十日まで続けて第二回展を銀座玉木屋美術店において開催した。この時『切通しの写生』が出品され」(「父 岸田劉生」(岸田麗子)中公文庫)ていた、草土社展が開かれている最中だったようだ。

 寝不足で頭がつかれてイライラした。今日中駄目かと思つたが、起きて見たら少しはよかつた。しかし労れて居る事は居た。しかし十二時頃に上水の方へ写生に行く事にした。何しろあまりいヽ天気で、暖かで春らしいので、春光といふ感じがした。
「岸田劉生全集」(第五巻)岩波書店 1979刊


 上水というのは玉川上水のことだろう。この頃は、肖像を書いたり、風景画を描いたりしていたようだ。この前日「四月七日」には「今日も晴れて居るのだが、今日は肖像の方をかきたかつたので、土の方は止めた。」とある。切り取る世界を肖像と土とに分けているところが面白い。八日は「土」の方だった。
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2010年03月01日

下北沢X物語(1518)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報第44号〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第44号 2010年3月1日発行(毎月一回発行)


               会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
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1、歩いて文化を掘り起こそう     きむらけん

 
 歩きは健康にいい。その歩きを提唱し、提案したい。
 わたし自身は年来、ずっと自転車に乗っていた。が、このところこれをやめてもっぱら歩くことにしている。それによって何に気づき、何が変わったか。
 まず、第一点は、歩くことは治癒に繋がることに気づいた。自転車は運動をしているようだが、全身運動ではない。腰回りは固定していている。ところが歩くことはこの辺りにある消化器系統に刺激を及ぼすようだ。
 人間も重力の影響を当然受ける。血は下半身に滞留する。が、これは歩いて動くことによって刺激され間違いなく循環がよくなる。
「何か運動しましたか?」
 昨年、健康診断に行ったときに医師に言われた。コレステロール値が下がっていたからだ。即座に歩き始めましたと答えた。
 年を重ねると消化器系統が不活性化してくる。歩くことはこれに刺激を与え、体全体の血の循環がよくなる。歩くことは最善の薬だ。歩きは治癒である。
 つぎに歩きの良さは、思考を活性化することである。わたしは常々、書いて歩いてということを行っている。自転車時代は、書いたものを脳裏に浮かべて、これを推敲することはできなかった。が、歩くときにはそれができる。「ああ、あそこはこういうふうに書かないと」などとふっと浮かんでくる。
 書くことをしない人でも、変化する景色を眺めたり、道行く人に出会ったりすることはだいじだ。他物との出会いは刺激である。思考の活性化と繋がってくる。
 
 歩きのおもしろさは発見にある。雁行する道をゆくときには期待が高まる。カーブのつぎに見えてくる景色はどんなものだろう?。森を見つけたり、庚申様を見つけたりすると喜びは格別だ。
 直線道路だっていい、坂があれば水路がある。下って凹みのある箇所で脇を眺めるとちゃんと溝跡がある。いっひっひと笑って過ぎる。

 歩きは文化だ。歩けば何かが耕せる。発見ができる。車にはないおもしろさだ。移動手段として自転車や車を使っていると、これをどこに置いたり、停めたりしたらいいかを考えて、気が散る。が、歩きは身一つを心配すればいい。まったく自由そのものだ。
 歩いて、歩いて、文化を掘り起こそう!。

2、代々木練兵場と渋谷の戦争遺跡を巡る街歩き      天羽大器
    

 東京には5ヶ所の練兵場があった。日比谷、青山、代々木、駒場、駒沢である。
 北沢川文化遺産保存の会では、駒場と駒沢の練兵場を中心に巡る街歩きは実施している。
そうすると、残りは3ヶ所である。このうち、日比谷練兵場は現在、日比谷公園・霞ヶ関の官庁街になったため、何も残っていない。
 という事で、残っている2ヶ所のうち、代々木練兵場を中心とした渋谷の戦争遺跡を歩く事にした。
 2月20日、朝から、生憎の雪まじりの雨であった。米澤さんから電話を頂き、相談した結果、私を含めて7人の兵揃いの人間がいるという事で行軍を実行した。
 憲兵隊渋谷分隊境界石、明治天皇御嶽神社小休所址、東京陸軍衛戍刑務所境界石、二・二六事件慰霊像、北谷稲荷神社にある上渋谷村原氏子訣別の碑、代々木公園(旧代々木練兵場)にある昭憲皇太后大喪儀葬場殿跡・閲兵式の松・日本航空発始の碑・十四烈士の碑、福泉寺にある大東亜戦争戦没者慰霊塔、代々木八幡宮にある代々木深町住民訣別の碑・表忠碑を見た。
 憲兵隊渋谷分隊境界石は、マークシティの脇の路地にある。正に、こんな場所にという所である。
 同じ意味で行くと東京陸軍衛戍刑務所境界石もこんな場所にという所にある。東急ハンズの反対側のバイク置き場の片隅にある。
 青山、駒場、駒沢の練兵場にない史跡がこの代々木練兵場にはある。「訣別の碑」である。それだけ、この地域の住民は土地に対する想いが強かった事を意味するものである。
代々木練兵場にある日本航空発始の碑は今井兼次さんが設計された代表作の一つである。
代々木八幡駅の近くの喫茶店に入って、温かい飲み物を飲んで、7人による行軍は終った。
その後、中川さん、川端さんと供に、渋谷駅近くまで商店街を私の解説付で行軍した。
今度、春になって、季節が良くなったら、青山練兵場を中心とした赤坂・青山の戦争遺跡を巡る街歩きをしたいと思っていますので、その時は是非、行軍に参加して下さい。

3、催しのお知らせ

1.ワークショップ 《地形と風景》二つの地域風景資産  
豪徳寺駅周辺風景づくりの会では「歩いて楽しい北沢川緑道(豪徳寺1丁目)」と「古道・瀧坂道」の二つの地域風景資産の風景づくり活動をしています。
今回のワークショップでは「北沢川文化遺産保存の会」のきむらけんさんのお話をお聞きし、その後二つの地域風景資産の街歩きをします。こぞってご参加ください。
日 時 2010年3月21日(日)
10:00〜12:30
場 所  梅丘地区会館会議室(梅丘1−2−1 8)
参加費無料・雨天決行
主 催 豪徳寺駅周辺風景づくりの会
連絡先 03−5799−6158

2.第3回 「戦争経験を聴く会、語る会」 

 今回で三回目を迎える継続行事です。戦争経験が年々薄れていく中、今のうちにこれを経験者から聞いて、これを次代に受け継いでいくというものです。
期日 2010年5月23日(日)1時30分〜4時30分
 *山手空襲から65年目(1945年5月24日)
場所 北沢タウンホール 二階集会室 定員60名
テーマ  下北沢と戦争 
*この会の開催については区報などに掲載申請をしようと思っています。現段階では仮受付ということで、三月末までつぎの専用メールアドレスで受け付けています。aoisigunal@hotmail.com
 
4、定例会:歩く会について 

 都市物語を旅する会
  「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10数名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。事故のないよう各自で責任を持ってください。
この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。個々人が文化を楽しむというのがねらいです。
これまで実施したコースはつぎの通りです。
・代田連絡線の跡を歩く(3回)・小説「猫町」を歩く(3回)・下北沢の大谷藤子を歩く・「森茉莉」足跡を歩く(5回)・下北沢の銭湯跡を歩く・下北沢の無頼派を歩く・下北沢の教会を歩く(3回)・坂口安吾の通勤ルートを歩く(2回)・駒沢線詩歌文学ラインを歩く(2回)・下北沢の映画痕跡を歩く・ダイダラボッチ川を歩く。・下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。・代田のダイダラボッチ痕跡を訪ねる(3回)・代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)・林芙美子から坂口安吾を歩く・.「下北沢店員道場を検証する」・池の上の古い町並を歩く ・下北沢の詩人痕跡を訪ねる(2回)・「森厳寺川の源流を探索する」(3回)・「代田の歴史を歩く」・駒沢練兵場を歩く(2回)・滝坂道を歩く(3回)・駒場の戦跡を歩く(2回) 下北沢の踏切文化を検証する
高須光治「下北沢風景」と近代日本文学

・第46回 3月20日(土)午後1時 下北沢駅北口
   森茉莉の足跡を歩く コース案内 喫茶「邪宗門」店主 作道 明
  「魔利が殆ど毎日のやうに歩く、淡島から下北澤の驛の先の北澤二丁目の通りまでの繁華な街すぢ」(「贅沢貧乏」)を辿る定番コースです。彼女がよく利用していた「邪宗門」が終着地点で、ここで彼女の生前の声を聞きます。


・第47回 4月17日(土)午後1時 明大前改札口 
  (新企画)東京山手急行の痕跡を尋ねる  案内者 別宮通孝
・第48回 5月15日(土) 午後1時 下北沢駅北口
  小説「猫町」を歩く
・第49回 6月19日(土)午後1時 代田橋駅南口
  下北沢地形学入門(森厳寺川を歩く)
・第50回 7月17日(土) 午後1時 池尻大橋駅改札口
  駒沢練兵場を歩く
・第51回 9月18日(土) 午後1時 八幡山駅改札口
北沢川を源流から歩く(代田まで) 案内者 米沢邦頼 
◎申し込み方法、参加希望について
  参加申し込みについては当会の米澤邦頼まで必ず連絡をください。
  米澤邦頼 090−3501−7278
   メールアドレスyonezawa-.-v1961@ezweb.ne.jp

■ 編集後記
▲この会報、なんとなく書いていたら、もう44号になってしまった。これは印刷物として会員の人には郵送している。その事務を担ってくれているのが事務局の「邪宗門」である。マスターの作道さんによるとこれを待ち遠しく思っておられる方がいるという。嬉しいことである。これはネットにも掲載して発信している。ときに遠方からこれを見て歩く会に参加される方もおられる。会報が情報発信となってきていることは手応えとして感じている。他団体の催しを広報することもできるように思う。文化的なことであれば、他団体の催しも積極的に宣伝したい。記事掲載や投稿は歓迎したい。
▲自身が書き記した「65年目のヒロシマを考える一視点」〜広電現業職員の被爆下の死闘から〜は、かつて広島の電車を動かしていた人、少女運転士からもっと欲しいという連絡があって250部抜き刷りを作った。それを広島方面には100部送った。誰彼配ろうとは思わないが、欲しい人にはぜひ読んでもらいたいと思っている。原爆関係の集い、あるいは教育関係で欲しいという場合にも数がある限り対応したい。当方に連絡をください。「邪宗門」にも何部か置いてある。
▲毎月歩く会を実施している。テーマは当方が決めて実施している。が、この指止まれ方式の会も第二土曜日にできるようにしている。もう既に天羽大器さんが三回実施している。主体的な会だ。希望があれば、さまざまなコースが設定できる。これも連絡をください。
▲「東京荏原都市物語資料館」は、消え去りつつある都市の物語や事象を文章化して載せております。そういう情報をお寄せください。聞き書きなどもできる範囲で対応しようと思います。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ k1poem@yahoo.co.jp
○「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。年会費1000円です。会員の方にはこの会報を自宅に郵送しています。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。

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