2010年05月
2010年05月31日
下北沢X新聞(1580)〜歩きながらときどき哲学する〜
「ふしぎだと思うんだ。自分が歩いているときは自由なんだけど、一度、立ち止まると不自由になるんだよね」
しばらくぶりに出会った元の同僚が、やはり歩きの士だ。というよりもむしろ彼は走りの士だ。玉川上水の緑道を走っているようだ。
「なるほど、いわれてみるそれはあるな」
彼も同意するようにうなずいた。
気づいてみると、不自由さの中でわれわれは暮らしている。それでも戸外を歩いていると誰にもとがめられずに自由に空気を吸っていられる。歩いたり、動いたりしている者は不自然には思われない。ところが一度立ち止まると、そうではなくなる。
靴紐がほどけたから直すとか、何かを撮るためにカメラを構えるとか、花屋さんでキュウリの苗が一本いくらかかを確かめるとか、そんなときに立ち止まる場合は、自然である。ところが、街角でぼんやりと佇んでいると、人の目が集まってくる。
自由人もわけもなく立ち止まるとたちまち不審者となる。すると、なにげに「さて、こうしてばかりはいられなくて」という顔をして、とくに目的がなくとも、あたかも重大な用事を思いついたようにして動きはじめる。
だいぶ前に、南洋の島の話を読んだことがある。島民が、日本人に、「あなたは何をしている人か」と聞かれて困ったという話だ。
島民は、自由に暮らしている。腹が減ったら飯を食い、食べ物がなくなったら、採りにでかける。海に漁に行ったり、森にタロイモを掘りに行ったりする。また、愛したくなったら、恋人ともに森へ消える。天空に輝く星空を見ながら、抱き合うという。
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2010年05月30日
下北沢X新聞(1579)〜下北沢と戦争5〜
空襲への渇望と、空襲の美しさ、そして、空襲ですっかり燃え尽きてしまった後の解放感。
この感覚は今の人には通じないものだろう。
「わたしはB29の来襲を待ち望んでいる自分に気がついていた」と宮脇俊三は述べている。彼は下北沢の頌栄教会の近くにある家に住んでいた。「家を焼かれた人間には『市民権』があり、焼けない者は『不遇』をかこつような、そんな妙な関係ができつつあった。」(宮脇俊三鉄道紀行全集2)という。これは「戦争経験を聴く会、語る会」でも紹介した。
「曳光弾がきれいでしたね。でも怖かったですよ」
昨日、今井兼介さんから電話があった。彼は思い出したように語った。会は彼の頭の中で今も続いているようだった。当時上空を飛んでいたB29はヤモリの腹のように赤い。地上の火災をジュラルミンの腹に映していた。
「それにしてもあの底抜けの青い空と、百万焼け野原という解放感は何だったのだろう」
今井さんと同級だった福田達夫さんは「運河のある風景」に書いている。「世田谷区大原町一一五四」に詩人福田正夫の息子は住んでいた。焼けたことでせいせいしたという解放感である。もう焼けることはない。助かったということでもある。
空襲への人々の感情、もうすっかり忘れ去ったことである。が、「下北沢の空襲」のことをブログに書き記して発信したところ、さっそく反応があった。野屋敷の空襲証言記録を書き記したが、このすぐそばに住んでおられる大島弘嗣さんからだ。下北沢野屋敷のランドマークとなっている、ヒマラヤスギのあるお宅の人である。自宅に防火用水槽と焼夷弾の筒が残っているというコメントである。
防火用水槽については以前は「懐かしいねぇ」と声をかけて来た人もいたという。物体として昔のものが残っているというだけではない。これが財産を、命を救ってくれた。空襲下においてはつねにこれに満々と水を貯えていた。焼夷弾攻撃があったときにこの水で火を消した。大島さんの家のすぐそばにいて五月二十五日に奮闘した篠山武次郎さんは「水だ水だ水だ消火消火全く死力をつくして消し止めました。」と記録している。防火用水槽の水でもあった。
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2010年05月28日
下北沢X新聞(1578)〜下北沢と戦争4〜

昭和20年3月10日の「東京大空襲」、それに続いたのが5月24日、25日の「山の手空襲」である。武蔵野の台地に広がる都心西部に落とした焼夷弾は、24日が3646トン、25日が3238トン、それぞれ投下された。これによって首都東京は壊滅した。「名古屋と共に東京も焼夷弾攻撃目標リストから抹殺された」(戦略爆撃調査団報告書)実質的に日本は敗北したと言ってよい。
けれども終戦はなかなか決定しなかった。最終判断ができない。ようやくこの三ヶ月半後にいわゆる聖断によって8月15日に終戦を迎えることができた。その間に、広島に、長崎に原子爆弾が投下された。沢の集合体である日本、もろもろを引きずっている。舵取りをせねばならないのに、主体的にそれを為すことができない。土着密着した共生共同体の脆さである。
「下北沢地区の空襲の記録」についてである。
山の手空襲は二日に亘った。それゆえに記録が混乱している。「東京大空襲・戦災史第3巻」には、24日の被害地区として「北沢五丁目」「代田一、二丁目」を記している。翌、25日には再度「北沢」を挙げ、「代田」はない。
「東京大空襲・戦災史第2巻」には「代田二の七二八」に住んでいた杉山杜美子さんの25日の記録がある。「明け方になっていた。薄明かりに見回す周囲は目の届く限り、一夜のうちに無惨な焼け野原に変わっていた」と記している。やはり25日深夜から翌26日未明にかけてである。あたりまえのことであるが焼けた箇所は、二度焼けることはない。
下北沢地区の空襲を記録する手紙が最近になって見つかった。これは太田幸子さんがご自分の手紙のファイルの中から見つけられたものだ。北沢4丁目に住んでおられた彼女の父、篠山武次郎さんが岡山に疎開している妻の京子さんへ手紙を出している。その手紙に当夜のことが詳しく書き記されている。これを「戦争経験を聴く会、語る会」で読み上げてみなさんに紹介したことだ。地区の記録としても大切であるように思ったからだ。
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2010年05月27日
下北沢X新聞(1577)〜下北沢と戦争3〜
「戦後は虚飾、虚偽だと思うのです。時間は何も変わっていないのにころっと価値を変えてすべてそちらに靡いていきました。本質的な時間は何も変わっていないのです。」
一昨日、十数年ぶりに会った老学者は、気炎を吐いた。境涯に亘る論述は数巻の著作集として出されている。が、名誉なるものを拒否している気骨のある学者だ。
教育学者は一つのエピソードを披露した。不登校ぎみの生徒の相談に乗ったときにその当人が言ったそうだ。
「この学校は、自由、自由と言っていますが、せいぜい箱庭の中の自由でしょう」
戦後論と学校批評、何か共通の地盤にあるように思えた。
国体護持の戦時体制が、敗戦によって瓦解した。占領軍によってもたらされた民主主義によって自由を得た。
日本という島国に数千年に亘って住み続けた日本人、体制は崩壊したが本質的な部分は変えられない。自由とはいうが表面上のことで、実は不自由だ。箱庭の中の自由かもしれない。
戦後は虚飾だった。物質本位になってつつましさがなくなった。金の多寡が人の価値基準ともなった。どう飾り立てて儲かるか。そんな観点で時代を見ることもできる。
「下北沢と戦争」、上記の問題は、三つ目のキーワード米軍進駐と関わってくる問題である。が、ここでは二番目のキーワードを取り上げる。空襲である。
時系列的には、昭和17年(1942)4月18日のドーリットル空襲の話となる。これについては参加されていた潮田高雄さんが早稲田鶴巻での具体的経験を語られた。その彼の話は、既に過去ログで書き記したのでここでは省く。
この潮田さんは、昭和19年11月24日のB29による、東京地区初空襲も経験している。これは東京郊外、武蔵野市にあった中島飛行機を襲ったものだ。彼は学徒動員でこの中島飛行機にいて旋盤工をしていた。
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2010年05月25日
下北沢X新聞(1576)〜下北沢と戦争2〜
「下北沢と戦争」ということの重要点は、三つである。それは、学童疎開、空襲、米軍進駐である。
会の冒頭で戦争の話を引き出すために時系列的に、「下北沢と戦争」に関わることを列挙し、若干の説明を加えた。その項目を挙げておく。
1、ヒットラーユーゲント来訪 昭和15年(1940)11月と推定される。
2,東京初空襲 昭和17年(1942)4月18日
3,学童疎開 昭和19年(1944)年8月12日 代沢、東大原国民学校
4、B29による初空襲 昭和19年11月24日 中島飛行機
5、小田急沿線 第六次強制疎開の住民への通告 昭和20年3月20日
6、山の手空襲 昭和20年5月25日から翌日にかけてこの一帯が空襲に遭った。
7、代田連絡線の敷設 戦時応急路線 昭和20年6月
8,小田急貨物での米軍第八軍第一騎兵師団の上京 昭和20年9月 目撃談
9,飛行機の墜落
B29 昭和20年4月7日 国領、久我山 5月24日 赤堤
艦載機の下北沢墜落 期日不明 *当時の子どもが見学に行っている
10、戦後のこと
下北沢付近一帯の家屋が米軍将校用宿舎として接収されたり、借り上げられたりした。
米軍PXからの闇物資の流入 米兵目当ての街娼、北口駅前の闇市の様子
11,戦後文化と下北沢 出版社ができる。しもたや改造の旅館 アメリカ文化の流入
大勢の文化人が駅前のmakotoに集っていた 映画監督、俳優、作家、画家、漫画家
まず第一点の学童疎開である。
昭和19年になってサイパンが陥落したことでB29による空襲が予想されたことから学童疎開が行われた。長野の浅間温泉へは4000人ほどの児童が疎開した。昭和19年
8月12日下北沢駅から代沢国民学校、東大原国民学校の学童が出発した。各校、それぞれ500名ほど、これに引率教員、寮母、作業員などが付き添った。これで約1000名、見送りは壮行会の行われた学校までだったが、ほとんどの親が駅までついてきた。疎開していく一千名を見送る親は、その倍以上。下北沢駅はかつてないほどの大混雑だったと聞いている。その当日の様子はどうだったのか。
「わたしは、代沢小だったんですけど、そこにいたはずなんですけど、まったく覚えていないんですよ。しばらく当地にいなかったものですから代沢の同級生たちとも別れていて今日ここに来れば誰かに会えるかと思ってきたんですけどね」
一人の参加者がそう言われた。
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2010年05月24日
下北沢X新聞(1575)〜下北沢と戦争1〜
切り口や観点を提示することで本質は見えてくる。「下北沢と戦争」という主題を設定してみた。これによって地域一帯が戦争の影響を大きく受けて今日にあることが問題、課題として鮮明になった。街の記憶としても覚えておく必要がある。
第3回「戦争経験を聴く会、語る会」を昨日、下北沢の北沢タウンホールで行った。昭和20年5月25日の山の手空襲を忘れないための会である。雨降りだったにもかかわらず出席者は34名もあった。小学校低学年のお子さん二名をわざわざ連れて来られていた方がおられた。しかし、話の内容は、子どもには難しかった。
人が多く集まればいい、そう願うことではある。が、員数の問題ではない。話の質だと思う。そしてまた参加された方の聞こうとする姿勢である。決して面白くはない問題ではある。が、それを聞こうと思って来られた方だ。それだけに聞き手は真摯だった。
先週の土曜日、街歩きの会があって、午後一時に下北沢駅北口に集まった。そのときに元特攻兵士のX氏が来られた。「語る会当日は、近くに建つマンションの説明会があって参加できなくなった。」と、ただそのことをわたしに伝えるためだった。彼は第二回目、代沢小で開いたときも来ていたという。話は聞くが話はしない。
「わたしたちは伝えてこそ真実が伝わるという。現今のマスコミなどはとくにそのように喧伝する。しかし、語られない戦争の真実もあると思うのです。元特攻兵だったX氏は戦争のことは語りたくないと言う。『おまえらが特攻に行かなかったから日本は戦争に負けたんだ』ということを多くの人から言われたといいます。根も葉もないことでいちゃもんをつけたり、いいがかりをつけたりするというようなことは今もあります。……戦争に対して思いはあるが語らないという人もいます。むしろ語られない戦争にこそ真実がある、語られない戦争への想像力を持つことも必要だと思います……」
わたしはこのことを最初に話をした。
「ええっとですね、この地図によると東北沢三号踏切のそば、ここに焼夷弾が落ちて家が焼けましたよ。それからつぎに北沢小のそばの空き地にも落ちました……」
北沢一丁目に住んでおられた方の証言である。昭和二十年五月二十五日深夜から翌二十六日未明にかけて下北沢一帯には焼夷弾が落ちてきた。
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2010年05月22日
下北沢X新聞(1574)〜鉄道から見えるニッポン2〜
窓に不思議な横縞が流れて行ったと思ったら、横浜に着いたと言う。鉄道開業時の乗客の衝撃である。現今の新幹線も、ぼんやりと眺めていると窓には横縞が流れていくだけだ。「時間と空間の抹殺」現象だが、乗客の誰一人としてそういう驚きは持っていない。
窓辺に流れていくその横縞を眺めていて気づいたことがある。日本は沢の国だったんだという再認識である。
トンネルを潜って、鉄橋を渡って、高架を突き抜けて、谷や扇状地や平野を鉄道はあっという間に走り抜けていく。凹みの集合体がこの国を構成していることが新幹線に乗っているとよく分かる。
凹み同士は連絡性が悪い分、そこには固有の文化が発達する。谷独自、平野独自の考えや思考である。その凹みを鉄道が貫いている。そう見ると鉄道が情報、物流、人間をつなげたことがよく分かる。紛れもなく近代の推進の礎となったのが鉄道である。
谷のごちゃまぜ文化を一本の鉄路がつないだ。そして、その中心にすべてを集約した。いわゆる中央集権化である。多様な価値をすべて中央がまとめるということになる。舵取りが問題だが、システムとして機械的に中央にすべてをもってきただけに過ぎないので権力を持った側が都合のいいようにしてしまうということはある。
長州下関はわたしの古里である。幼少時に数年暮らしていた。それゆえに長州人気質などというものは無縁であるように思っていた。が、この頃、その気質には多分に長年に亘って積み上げられた遺伝子の習性なるものがあるのではないかと思うようになった。自身のどこかに巣くっている。
長州は薩摩とともに明治近代化の最大の原動力となった藩である。共通点は陸地の末端であることだ。本州奥地よりも変化が激しい、大きいところである。
本州の東は分け入るといまでも縄文的な時間が流れている。まったり、ゆったり、のんべんだらりという時間である。変化に乏しい。が、長州や薩摩は、異国との関連が深く、時間に変化がある。
典型的なのは関門海峡である。源平合戦の行われた場である。潮流を巧みに捉えた源氏が勝利を手に収めた。源氏に加わった瀬戸内水軍は変化するものの本質を捉えていた。潮流である。
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2010年05月21日
下北沢X新聞(1573)〜鉄道から見えるニッポン〜
愛着の深い思い出鉄道というものがある。それは九州寝台特急だ。現実のこれは昨年に潰え去った。長年愛好していただけに自身の足をもがれたように思ったことだ。
かつて、昭和27年に発行された「日本の鉄道」には、「走る機関車、並ぶ車両、二本のレール…シグナルも、鉄道も…鉄道は一大総合芸術である。絵にもなる。詩にもなる…」とある。芸術的観点で鉄道を語っていたことが素晴しい。ところが、今日の鉄道は、この旅情のツボをすっかり欠落させてしまった。九州寝台特急から眺められる車窓の絵は一級品の絵画であり、詩であった。昼は新幹線が動いていて、夜は寝台特急が走っているところに、日本列島が鉄道で結ばれているという希望があった。それをあっさりと切り捨ててしまった。鉄道の旅の魅力が半減してしまったことだ。
この寝台特急に百回を超えるほどに乗っていることだから分かる。乗客数が減ったから廃止したというのは単なる口実に過ぎない。努力をしなかったからだ。各社に分割されて、取り残されたこの九州寝台特急は各社のシマ意識の犠牲になって潰え去った。
この列車の走行時、食堂はない、各自用意せよといい、編成車両も国鉄時代のものをそのまま使っていた。そのうち走らせていれば乗客はいなくなるはずさ、そんな戦略があったようにも思ったことだ。不便で汚いままにしていたら乗客は乗らなくなって、廃止する理由ができた。九州特急の全廃によって鉄道の旅の味わいはすっかり消えてしまった。少なくともわたしは九州への足をもがれた思いがしていてずっと当地へは足を運んでいなかった。
親戚に不幸があって急遽九州に行く用事が生じた。新幹線か飛行機、このどちらかの選択だ。飛行機の往復割引だと驚くほど低廉だ。が、地の神に経緯を払って、かの地に着く方がよい、ということで新幹線を選んだ。
鉄道出現時の衝撃は、「時間と空間の抹殺」という言葉で表現されている。東海道、山陽を下る「のぞみ」の車窓に展開されるのはまさにこれにほかならない。瞬時に風景をなぎ倒して進んでいく。それが常識化しているところに近代文明の怖さがある。車窓は、芸術性、文学性を失ってしまった。
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2010年05月18日
下北沢X新聞(1572)〜雑駁的東京方位論〜
遷都しないで京都に都があったならば太平洋戦争は早くに終っていたに違いない。条里制によって造営された古都は方位が明確である。立っている地点が明確だ。町並み、遠方に聳え立つ山々から容易に判断できる。
「方違え」という風習があった。用事にゆく方角を占って、凶と出れば、一旦別の方角へ行って、そこから目的地に向かった。都人は常々、自身の立ち位置を生活習慣として知らねばならなかった。風水は生活の基盤だった。
が、新都東京は、そういう慣習、過去を捨て去った。明治近代はそういうものをうっちゃった。機械コンパスで対処した。が、方位方向を知るために近代人はそれぞれ磁石を以ていたかというとよほど奇特な人でないとこれは持たない。
東京は方位を失わせるところだ。立ち位置が分からない。判断をも狂わせるところだ。条里的な町並み配置ではない。ゆがんだ地軸の上に建設された。建て増しに建て増しを重ねた温泉旅館と同じだといえる。とくに東京西部の丘陵は迷路のようである。
駒場の輜重兵、三宿の野砲兵たちは、近隣に演習に出て、方位がわからずに迷っていたことは間違いない。近代になっても、世田谷だけは勘弁してください、あそこに入ると方向が狂うんですよ。わたしは苦手です。タクシーの運転手泣かせだった。GPSが普及してほとんど困ることもなくなったがそれでも細い路地はよく分からない。袋小路に迷い込んでしまうときもある。
京都では山の存在が、方位の目印だった。高い山がどこからでも見える。が、関東東京はそれがない。富士の嶺、丹沢、筑波、男体山とか方位を見定められる山はあるにはある。が、それらは遠い。現在ではビル群が邪魔をしてほとんど見えない。
国木田独歩は「武蔵野」を賞揚している。「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。」という。丘があり、小川があり、沢がある。どこもここも同じような景色が続く。かろうじて丘上で富士の姿を見つけて自分の立脚点を知る。が、そこをくだれば屈曲した道が続いている。たちまちに迷ってしまう。
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2010年05月17日
下北沢X新聞(1571)〜鉄道交点文化論〜
「下北沢文士町文化地図」なるものを三版作り、今四版目の編集にかかっている。しかし、鉄道交点の文学や文化とはいったい何だったのか、よくは分からないでいる。
言えることはごった煮だった、価値がやたらと交錯していた。るつぼである。文化の関係性と無関性とが至る所にエピソードとして転がっている。
松林宗恵監督は南口の大地堂という古書店で、特徴的な髪型をした三好達治を見たことがあると言っていた。この店は、もともとはプロレタリア歌人の渡辺順三が開いたものだ。ここにやってきた井上光晴が歌人の姿を見て驚いたとエッセイに書いてもいる。
下北沢北口駅前に東宝の映画監督のほとんどがきていたという珈琲店「マコト」があった。松林宗恵監督にその場所を教わったことだ。その店の経営を手伝っていたという潮田高雄さんからは映画関係者のみならず、作家、画家、漫画家などがよく来ていたという。
「マコト」で飲めたおいしい珈琲が目当てだった。それは潮田さん自身がリュックをかついで米軍の兵隊から仕入れたものだった。昭和二十一年からのことである。
敗戦によって日本帝国は瓦解し、がんじがらめの束縛から解放された。それは抑えていた欲望の開栓でもあった。活字に飢えていた人々がこぞって本を求める。それで戦後すぐに出版ブームが起こる。鉄道交点にもその影響が及んでいる。
鉄道交点は燃えなかった。焼夷弾が落ちなかったということではない。昭和二十年五月二十五日に山手空襲があった。このときは集中的に落ちなかっただけで、一帯には散在して落ちている。あまり知られていないことだが、ここの住民は、敢然とこれに立ち向かっていた。
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2010年05月15日
下北沢X新聞(1570)〜映画監督が遺したまことのマコト3〜
「一年に一回だけ、ゲートが一般市民に開放されていましたね。キャンプの中を見学できるんですよ。楽しみでしたね、ともかくハンバーガーとかでかかったですね。肉も本物でね、一人前が大きくて、もうたらふく食ったものですよ」
先だって、かつてのキャンプドレイク跡に作られた公務員研修施設に行くのに、駅でタクシー拾った。その運転手が話してくれた。このキャンプドレイクに駐屯していたのがアメリカ陸軍第八軍第一騎兵師団だ。
戦争中、日本は食料不足で人々は飢えていた。疎開学童のエピソードとして、お手玉の中に入っていた豆を食べたという話があった。戦っている相手への合い言葉は、「米英撃滅」だった。が、敵の、とくにアメリカ軍の物資は潤沢だった。墜落したB29には紅茶も珈琲も選べる給茶機があったという。
「そうそう、肩章に馬のマークがついていましたよ。その兵隊から闇物資を買うのです。目黒の日の丸自動車のところにあったキャンプにはよく行きました。金網でかこまれているのですよ。見つからないように朝早く行くのです。金網に穴が開いていているところがあってそこから忍び込むのです。顔見知りの兵隊から闇物資を買うのです。戦争も終って携行食が要らなくなったのでしょう。それはよく買いました。蝋びきの箱に入っているのです。これがね、みな違うのですね。ブレックファースト、ランチ、ディナー、入っているものが違うのですよ。煙草数本とチョコとかそんなものまで入っているんですよ。びっくりですよね。そうそうコーヒーは彼らから仕入れました。後はタバコ、缶詰めとかチョコとか砂糖、薬とか、あれ、あれ、ミルクというか、コンデンスミルクですね。リュックに入れて帰ってくるんですよ。でも、ときどきMPに見つかって逃げましたよ。……ああ、そうそうそこにはどぶみたいな川が流れていましたね」
第一騎兵師団のキャンプ地がそこにあったのだろうか。日の丸自動車の脇のどぶだと三田用水になる。
東京に進駐してきた米軍が都区内にどのように布陣していたのか、それを知る資料は少ない。旧軍や進駐米軍が公的施設として使われていてもそのことは案内表示では無視している。我と我らの国の愚かさである。戦争に対する歴史認識は、われわれは総じて希薄である。恥とすら思っている。負けた戦争に対する総括ができていない。ゆえに核兵器反対に対する主張も弱い。迫力に欠ける。被爆国なのにである。
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2010年05月14日
下北沢X新聞(1569)〜映画監督が遺したまことのマコト2〜

都市の形はどのようにしてできたのか。街の形成過程を調べるときに川や道や線路は大きな手がかりとなる。とくには近代化を推進させた鉄道、その線形は重要だ。
下北沢鉄道交点の場合、交差した鉄道の周辺に街が発展、発達していったことからクロスが大きな手がかりとなる。あちらからもこちらからも来られるという利便性があって街が賑わったことは確かである。が、交差だけの問題ではない。
鉄道クロスがゆがんだ、いびつなものであったことも見逃せない。これが街の文化に大きな影響を与えている。単純なクロス、つまり例えば、横と縦とのクロス、形状としての+だとまっとう過ぎて人の印象に残らない。街の表象としてのゆがんだ座標軸には特異性がある。それはとっかかりでありひっかかりである。鉄道交差を座標軸と捉え、このゆがんだ座標軸が街を意識するときに羅針盤として浮かび上がってくる。それを清水博子は「街の座標」と捉えている、街の記号論、表象論である。
多くの文化人、それは映画監督であり、映画俳優であり、画家であり、漫画家であり、そして、作家たちである。戦後の文化史に名を残している彼らが、この座標軸の付け根、「マコト」に集まっていたことは非常に興味深いことである。
「下北沢X惜別物語」などという存在はほとんどの人は知らない。区の助成を受けて200部発行したものだ。われらは第一弾として「北沢川文学の小路」を発刊したが、これは朝日新聞、毎日新聞で取り上げられ、たちどころになくなってしまった。第二弾が「下北沢X惜別物語」だ。第一弾が下北沢文士町の文壇史とすれば、第二弾は下北沢の地域文化史である。わたしはむしろこの後者に深い愛着を持つものだ。この方は新聞などで取り上げられることはなかった。それでも口コミで伝わって、とうとうなくなってしまった。折々再版はしないのかと尋ねられることがある。
下北沢の小田急線の地下化工事が進行している。いずれは地下に潜って、電車は地表から姿を消してしまう。この地表線にある東北沢駅、下北沢駅、世田谷代田駅、そして、九つの踏切群、これらにまつわるエピソードを丹念に集めて、それらを書き記したのが「下北沢X惜別物語」だ。哀惜するに足りるものゆえの命名である。
この地下化工事を推進する側がパンフを出していて、そこには「9箇所の開かずの踏切が除去されます」とある。この言い方にわたしはゴキブリ除去を連想したものだ。どっこい、「一つの踏切にも五分の魂がある」、それぞれの踏切には人が知らない歴史があった。少々邪魔でも、人が立ち止まって考える場であった。句作すらできた。下北沢野屋敷在住時代中村草田男は、「ニイチエ忌尾輛ゆレイル光つつ去る」と詠んだ。地表を去りゆく電車には詩情がある。
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2010年05月12日
下北沢X新聞(1568)〜映画監督が遺したまことのマコト〜
情報の一つ一つが積もり積もって、とあるときに、この一つがまったく別の情報と結びついて、疑問が氷解する場合がある。つまりは、「東京荏原都市物語資料館」、ここでのわれわれの情報の蓄積が、あるとき、突然開花する、このごろそんなことが度々起こるようになった。
偶然といえば偶然である。が、複層的、重層的に集まった情報をネットに流していることから必然的に、起こる確率が高くなってきたように思われる。
昨日も、ずっと抱いていた疑問が忽然と氷解した。それは昨年、亡くなられた松林宗恵監督が遺していた言葉である。監督は、常々言っておられたことは「記録を大事にしなさい」ということだった。
生前、監督自らが「下北沢の映画痕跡を歩く」というコースを案内してくださった。そのときに文化人が大勢集まっていたという「マコト」の跡に行った。下北沢北口、井の頭線に沿ったところにあった店の跡だ。東宝の映画監督のほとんどがここへ来ていたと監督は説明された。
「マコト」に多ジャンルの著名文化人が集まっていたことは、下北沢という街の、戦後史の一ページを証明する事例である。監督は、この街の歴史の記録として大事だと思って我々を案内したはずである。これの裏を取れば客観的な記録として残せる。それで、この「マコト」のことは機会あるごとに地元の人に聞き回っていた。ところがこれを覚えている人はいなかった。
今井兼介さんから、下北沢駅前で戦後店をやっていた同級生がいるので会ってみないかと前々から誘われていた。なかなか実現しなかったが昨日、今井兼介さんといっしょに会うことができた。
下北沢駅で待ち合わせをした。三人集まったところで、その店のあった場所に行ってみた。現在の北口駅前、みずほ銀行があるところだ。そこに店はあったという。十坪ほどの店で、カウンター形式のものだったという。
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2010年05月10日
下北沢X新聞(1567)〜独歩独立、若者大同団結〜

いつも東都西部の荏原地域をさ迷い歩いているが、10日、土曜日、久しぶりに都心に近い豊島郡の渋谷を歩いた。渋谷原宿の戦争遺跡を巡る街歩きである。
ふだん老齢人口の多い荏原裏町からすると、若者の多さには目を見張った。原宿、渋谷は晴れ着を着て通行する場、晴れやかな都会である。その彼らの姿を見て国木田独歩を思い出した。
国木田君は今から二十一年程前、渋谷の停車場から少し西北へ入った処の丘の陰に住んで居て、閑さえあれば東京と反対の方向へばかり散歩して居つた。
独歩の日常の一こまを柳田国男は「武蔵野の昔」に描いている。彼は都心とは反対に向かう独歩の姿を見ていたのではないだろうか。独歩は、このときに「豊島郡渋谷村上渋谷一五四」、今のNHK放送センターの筋向かいに住んでいた。
散策途中で宮益坂にかかったときに確かこの辺りに柳田国男は住んでいたはずだと思って案内の天羽大器さんに聞いた。彼は知らなかったが早速に「渋谷区郷土博物館・文学館」に聞いてくれた。その結果、「柳田国男の件ですが、昨日、行った御嶽神社の裏に明治34年1月16日から同年5月29日まで居住していました。」という。
独歩の居住は明治二十九年から三十年にかけてだ。居住時期はずれるが独歩が都心とは反対方向の荏原方面へ度々出掛けている後ろ姿を見ていたに違いない。独歩文学は、都心に背を向けることで成り立っている。つまりは、武蔵野逍遙である。
柳田国男がいう、独歩は「東京と反対の方向へばかり散歩して居つた。」というのは面白い。独立独歩、多くが都心へ靡くのに背を向けていた。「武蔵野」という世界のあることを広く社会に知らしめたのは独歩だった。「近年の所謂武蔵野趣味は、自分の知る限りに於いては故人国木田独歩君を以て元祖と為すべきものである」と柳田国男は言う。
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2010年05月09日
下北沢X新聞(1566)〜陸軍松本飛行場の特攻隊(了)〜

戦争中、誰も彼もが戦時色に染まっていた。子どもたちは皆軍国少年であり、皇国少女であった。疎開中の浅間温泉にやってきた特攻隊に児童はみな憧れた。
「大平伍長さんがわたしに言葉を書いてくれた白い布はパイロットが首に巻くマフラーだったんですよ」
昨年春、渋谷日赤病院に入院しておられた立川裕子さんを見舞った。彼女は浅間温泉にいたときにこれをもらっている。この言葉の裏には、誰もがもらえないものをもらったという喜びがあった。それについ気づいたことだ。
特攻隊の若い兵士と学童とのふれあいのエピソードは数え切れないほどあった。
下北沢鉄道交点はさまざまな感性や知性や感覚がぶつかったところだ。東大原や代沢の児童たちはそういう陰影を何かしら所持していた。音楽的感性はその一例だ。学校の先生は、バンドの楽器を敢えて疎開先へ持ち込んで音楽隊を作っていたり、寮歌を作って児童に歌わせていたりしている。これは浜館菊雄先生や柳内達雄先生である。
この頃になって気づいたことは、この寮歌の音程がきっちりあっていて、そのハーモニーが聞き惚れるほどだったということだ。聞いていた村の子どもが一層に胸を熱くしたというのはよくわかる。
おしゃまで、かわいくて、勉強もできて、歌もうまい。特攻隊の彼らが浅間温泉への思いを深く残したのも鉄道交点的感性や知性に惹かれたからであろう。
さらば富貴乃湯よ
又くる日まで
しばしわかれの涙にくれる
こひし松本山々見れば
雪のアルプス日がしずむ
東大原国民学校の疎開児童だった太田幸子さんが、昭和20年2月9日に下北沢野屋敷の実家に送った手紙に記している。兵隊たちが歌っていた替え歌であろう。百数十名の女児のいる宿への恋歌だとも言える。
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2010年05月07日
下北沢X新聞(1565)〜陸軍松本飛行場の特攻隊7〜
特別攻撃隊を求めての旅路は長いものだった。調べれば調べるほど深みにはまっていく。そして、悪いことに興味が高まってくる。
一つは、松本でのできごとだが鉄道交点文化との因縁、あるいは関係が認められるからだ。もう一つは、特攻には日本固有の文化が端的に反映されているからでもある。
松本飛行場へ飛来してきて、松本温泉で待機していた武剋隊や武揚隊、彼らには日本本土で過ごす最後の休養の場であった。前線では緩みは許されないが、ここでは唯一寛げた。
松本から各務原へ飛び、そして、九州健軍飛行場へ着いた武剋隊の今西修軍曹はここで父への遺書をしたためている。その末尾にはこうある。
皇国必勝、皇道無窮ヲ信ジマス。九州デハ早ヤ桜モ咲キ、ウグイスノ声モ聞キマシタ。
大君に仕へまつれと吾を生みし 吾たらちねぞ尊かりけり
三月二十五日二十二時五十分 父上様
新編「知覧特別攻撃隊」 高岡修編 ジャブラン 2009年刊
今西軍曹は、このときに浅間温泉千代の湯で一緒に過ごした疎開学童たちにも手紙を書いた。
われわれも命令により只今より沖縄に向かって出撃します。○○では道ばたにれんげや菜の花が美しく咲き、桜も咲いてゐます。桜をひとひら同封しました。
「週間少国民」昭和20年五月六日号
○○は健軍であろう。死に往く若者の目に、咲き競う蓮華や菜の花や桜花はいっそうに目に鮮やかに見えたに違いない。文学的感性の鋭い彼が花々に魅入っている姿が思われる。
古里に最後の手紙を送ると同時に、浅間温泉へも手紙を書いた。それは懐かしいからにほかならない。今野軍曹も松本から各務原への飛行機の中で、「雲の上は実に愉快でした」と思ったそうだ。そして、「あの懐かしき浅間温泉を後に」と後ろ髪引かれる思いを記している。
これらの手紙、資料、証言などを総合すると浅間温泉で彼ら兵士は熱い思い出を作っていたと言える。とくには子どもたちとのふれ合いだ。とりわけ女児に対しては熱い思いを抱いた。
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2010年05月06日
下北沢X新聞(1564)〜陸軍松本飛行場の特攻隊6〜
満州で編成された第二航空軍は、昭和二十年二月十日に、新京で特攻隊四隊の編成を行い。それを終えて、隊員たちはただちに満州国皇帝に謁見した。このときの盛大な壮行会が行われた。翌、十一日、新京飛行場で特攻隊の命名式が行われた。各隊十五名からなる四隊だ。扶揺隊、蒼龍隊、武剋隊、武揚隊である。このうち武剋隊と武揚隊とが遠路はるばる大陸から日本列島を飛び石伝いに飛んできて各務原に着いた。ここで特攻用の飛行機に爆装改修をするはずだったが、名古屋周辺はB29による空襲攻撃を受けていた。それでこの危険から脱するために陸軍松本飛行場高女へと飛んだ。
爆装改修修了までは約二週間ほどあった。この間どのような生活をしていたのか。将校五人が泊まっていたのは目の湯旅館である。ここのお上さんがつぎのように証言している。
「毎日規則正しい生活でねぇ、朝七時半にはここを出て、夕方暗くなってからお帰りになって、お酒も飲まず、歌も歌わず、みなさん夜も早くお休みになったんですよ」
特攻に散った朝鮮人 桐原久 講談社 1988年刊
他の兵隊たちも同じ生活だったろう。時間通りに旅館を出て、軍のトラックで笹賀の松本飛行場へ行き、上官からの指示を受けて訓練飛行もしたように思われる。が、この頃米軍に目をつけられていた。そのため飛行機は一帯の松林の中に隠してあった。これを引き出して整備したり、また、搭乗して飛行訓練することも簡単なことではなかったようだ。
松本を発つと決まったとき、「二日間ほどの休暇があり、肉親の方々が面会にやってみえたんです」(「目の湯旅館のお上さんの言)」とある。今野軍曹の親は仙台から駆けつけ、また、古屋伍長の母親と長男が北海道から面会に見えたと聞いた。時枝軍曹はこの期間中に東京に行って疎開児童松本明美さんの下代田の家を訪ねている。
武剋隊や武揚隊は思いがけず浅間温泉に滞在することになって、当地の旅館に分散宿泊した。そこにいたのは東京からやってきていた疎開児童たちだった。死地に赴く彼らには子どもたちとのふれあいが大きな慰めとなったようだ。
東大原国民学校の疎開児童の太田幸子さんの三月二十八日の日記に「午後吉原さんが飛行機で富貴の湯の上を飛んだ。ちゅうかえりもした」とあった。この吉原さんの名は田中幸子さんから送られてきた武揚隊の記録にはきちんとあった。吉原香軍曹(航養14)と載っていた。この顔見知りの吉原さんが宙返り飛行をみせたようだ。
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2010年05月04日
下北沢X新聞(1563)〜陸軍松本飛行場の特攻隊5〜
浅間温泉の富貴の湯で65年前に撮られた写真がどんなものかが次第に分かってきた。そこには六名の特攻隊員と三十数名の東大原国民学校の女子学童が写っていた。
まずこれを見て抱いた疑問は、誰が?、どの隊が?写っているのかである。
この旅館富貴の湯には複数の特攻隊が宿泊していたことは分かっている。それは、誠32飛行隊・武剋隊であり、誠31飛行隊・武揚隊である。この写真はどちらの隊を撮ったものだろうか?。
東大原国民学校の疎開児童だった太田幸子さんから借りたこの写真は関係者に見てもらっている。同じ、浅間温泉の千代の湯に疎開していて武剋隊兵士と関わりのあった田中幸子さんにも複写を渡した。遺族に送ったところ、まずわかったのは古屋伍長が写っていたことである。このことからこれは武剋隊第二班の六名ではないかと推察された。
その後、田中幸子さんは大阪に居られる時枝軍曹の遺族にも送られた。そうしたところやはり同じく写真の中に写っていることがわかった。六名のうち二人が武剋隊である。とすれば、後発隊の武剋隊に違いない。誠三十二部隊は昭和20年4月3日に沖縄嘉手納沖に展開中の米艦船への突入を敢行した。この武剋隊第二班は六名である。
武剋隊は十五人編成である。これを二つに分けたのははっきりとした理由がある。陸軍松本飛行場での爆装改修が手間取ったからだ。もともとは岐阜の各務原でこれを行う予定だったが折しも名古屋一帯が空襲を受けていて、被弾する可能性があったことから奥地の松本飛行場に飛来してきたものだ。ところが「なかなか全機の改造が進まな」かったようだ。待てば待つほど機会が失われる。それで隊長は判断したようだ。
三月中旬、ついに広森隊長は武剋隊を二つのグループに分割し、機体改造の終った機と乗員(操縦士と整備兵)を率いて、先に出発する決意を固めた。
特攻に散った朝鮮人 桐原久 講談社 1988年刊
広森隊長率いる先発隊九機は三月十八日に、そして、結城隊長率いる後発隊は三月二十八日に松本空港を発ったようである。出発が近づいたときに富貴の湯では、急遽記念写真を撮ることになったようだ。それで、とりあえずそこらあたりにいる疎開児童を集めて撮ったようだ。この後に慌ただしく出て行ったと思われる。続きを読む
2010年05月03日
下北沢X新聞(1562)〜荏原都市さすらい紀行4〜
時間的、地形的な観点から荏原都市を考えるというのも面白い。
前者は都会中心時間より明らかに数秒遅れている。都心辺りで稲妻が光って数秒遅れて音声が届く、それと同じだ。都心時間から一二拍遠ざかったところに地域は存在する。最速の都会時間から一歩距離を置いた地点だ。時間にたわみがあり淀んでいる。
後者の地形には大きな特色がある。沢の集合体だと言える。北沢八幡宮の別称として七沢八社随一という言い方がある。世田谷のことだが、東京西南部の特徴だと言える。沢の多さである。これは音の響きを主にした形容だ。が、この沢は、七十七とも、七百七十とも、七千七百あるとも言える。七万七千あると言ってもいい。これが小さな固有世界を作っている。南向き、北向き、斜度の鈍角鋭角など言い出すと、その数は果て知れない。
都会時間がわだかまっている地域だと言える。この旧武蔵野の沢の森には近代史に関わる事象が多く眠っている。都心を公的な場とすれば、こちらは私的な場である。
「きみ、あれはああしたまえ」
私邸で指示したことがもとになって決まったことは無数にあるはずだ。が、プライベート空間だけにそれがなんであるのかは分からない。
『桜新町近辺に党首二人と、某党の幹事長が住んでいるんだ。』
さくらフォーラムの一員からついこの間聞いたばかりだ。」
*「災害用土のう、水害時に自由にお使いください」
駒沢公園わきの区の土地にボックスが置いてあってそう記されている。その脇を、人が不思議にも思わずに通り過ぎていく。が、一人、二人は、なぜ何もない平らなところにこんなものが準備されているのだろうかと思ったはずだ。
わかればなんのこともない。そこのすぐそばの地下には呑川駒沢支流が暗渠として流れている。大雨の場合溢れる危険性があってのことだが、地下の川まで人は分からない。
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2010年05月01日
下北沢X新聞(1561)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報第46号〜
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第46号 2010年5月1日発行(毎月一回発行)
会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、第3回「戦争経験を聴く会、語る会」(2010年)
〜今、聞いて置こう、薄れゆく戦争の記憶を残すために!〜
テーマ「下北沢と戦争」
日時 5月23日(日)1時30分から4時30分まで(13時開場)
場所 北沢タウンホール2F第一集会室 定員60名 参加費無料
主催 「北沢川文化遺産保存の会」 会長 長井邦雄
後援 北沢3、4丁目まちづくり協議会
戦争は遠い過去のものとなりつつあります。けれども太平洋戦争はわれわれの歴史の中ではもっとも大きなできごとでした。戦争に負けて日本は無条件降伏しました。この敗戦は一からの出直しでした。そこから出発して、長い苦難の道を歩いた末に、今日の生活が築かれました。そういう意味では今日の生活の原点を見つめるものでもあります。ところが、あの惨たらしい戦争は、戦争体験者の高齢化、時間の経過によって人々の記憶から次第に消えつつあります。戦争は二度と起こしてはなりません。そのためには薄れ行く記憶を次代に繋げていく必要があります。会は党派的なものの集まりではありません。記憶を次代に繋げ、平和を持続させていきたいと願って開く一般市民の集いであります。
「戦争経験を聴く会、語る会」は、2008年から始めました。この一帯が大空襲に襲われたのが1945年5月24日、25日です。その山手空襲から65年目を迎えます。風化する戦争の記憶を今のうちに、しっかりと聞いてそれを次代に繋げたいという思いから三年前からこの会を5月に開催してきました。今年は、その三回目に当たります。前回二回目において、もっと若い人に伝えたいということから、「下北沢と戦争」を次回のテーマにしてはどうかと提案したところ大方了承されたことからこれを中心テーマにして、下北沢に関わる戦争の記憶を出席された方に話をしていただきます。
若い人、そして、つぎのことについて記憶されている方はぜひ出席してください。
山の手空襲(昭和20年5月25日)の体験、第六次強制疎開(下北沢駅周辺の強制立ち退き)、下北沢駅からの出征、学童疎開、ヒットラーユーゲントの下北沢訪問、B29経堂墜落の目撃談、小田急線を使っての米軍東京進駐、周辺の接収家屋の様子、戦後のやみ市の様子、成り立ち。などなど、戦争と下北沢に関わること
この他、下北沢という地域に関わらず広く、戦争体験をされた方にその場で、話をしていただきます。(「広報せたがや」5月1日号にも掲載されている)
参加希望者は事務局「邪宗門」に申し込んでください。
03−3410−7858
またインターネットでは専用メールに申し込んでください。
aoisigunal@hotmail.com(きむらけん)
北沢まちづくり関係者の申し込みは 荒金紀雄(3467)6511へ
2、初台・西原・大山町・元代々木界隈を歩く(報告記事) 4月10日実施
天羽大器
代々木八幡駅に9名の街歩きが大好きな人間が集った。配布資料を配りながら、今日の街歩きの見どころを話す。
代々木八幡駅は『Wikipedia』によると、「1945年(昭和20年)5月20日ー太平洋戦争による空襲に遭い、被災。だが、周辺住民と下北沢駅から線路上を走って来た駅員による消火活動により、焼失は免れる」と書かれている。因みに下北沢駅から代々木八幡駅までは2.9kmある。
駅から山手通りに出て、標高32,33メートルの代々木八幡宮・福泉寺の森を目指す。
福泉寺入口には1682年、1709年、1755年、1794年の庚申塔が並んでいる。ここの墓地に入り、地形の話をする。代々木半島と幡ヶ谷半島の境目にこの森はある。それを分けるように河骨川が脈々と流れている。この森の南側で宇田川初台支流(初台川)と宇田川上原支流が合流して宇田川本流に流れ込む。
代々木八幡宮・福泉寺の森の隣にはこの地の旧家である秋本家の墓地がある。渋谷にはこのような里墓が3ヶ所ある。原宿のど真中にある飯尾家、西原の福田家である。
初台坂を少し上った所に今井兼次さんが設計した昭和5年建築の三宅雪嶺邸の書斎と書庫が曳家されて残っている。
初台橋という欄干があり、初台川を歩く。川の両側はサラダボールのように標高40メートルの高台が存在している。田端橋という欄干もあり、そこの坂を上った所に戸田建設の社長をやっていた戸田順之助氏の豪邸がある。
標高40メートルの玉川上水旧水路に出る。橋の所で古写真を見せながら、代々幡橋まで歩く。桜が鮮やかに咲き誇っていた。
新装なった西原図書館で休憩する。
代々幡斎場の脇の道(宇田川上原支流跡)を歩き、代々木大山公園に入る。東京消防庁消防学校、JICA東京国際研修センターを見ながら、製品評価技術基盤機構内にある宇田川の源流である湧水池を見学する。参加者の一人である米澤さんも知らなかったようである。ここを代々木大山公園と繋げて開放すべきであるという声も聞かれた。
相生橋で再び玉川上水旧水路にもどり、北沢橋まで歩く。途中要塞であるユニクロの社長邸、徳川恒孝(徳川将軍家第18代)邸を見ながら、代々木上原駅入口に来た。
代々木上原駅の商店街の所で昭和31年の古写真を見せていたら、米澤さんが近くにいた年輩の人に取材したら、そこでよもやま話が始った。街歩きの醍醐味である。
宇田川上原支流を歩きながら、二宮尊徳像、田中地蔵、庚申塔・地蔵尊像を見る。
小田急線を越して、水路は続く。その痕跡を探しながら、代々木八幡駅に戻ってきた。
ドンキーという1階がパン屋で2階が喫茶店になっている所に入って話をしていたら、そこのママが実家がお万の方所縁の家である事が解り、又そこでもよもやま話が始った。
会報や市民活動団体の活動情報に掲載された所要時間2時間30分を大きく超える4時間の行程街歩きであった。
3、朗読劇:仮題「代田の不思議・だいだらぼっち」の第3回上演に向けて
演劇部 総監督 木村圭狸
昨年8月の暑気払いと12月の忘年会で上演いたしました、きむらけん作「幻想朗読劇 ダイダラボッチ〜東京市巨人伝説〜」の今後についてです。
その折いただいた、観衆の皆様からのご意見を踏まえ、総監督:木村圭狸、脚本助手:MITACO/ゆう・やまもとの許で脚本第3稿の脚色作業を進めておりましたが、4月29日に、「世田谷 邪宗門」で、その第3回上演に向けた関係者の意見交換を行い、スタッフ構成、出演者の決定方法、上演までのスケジュールなどを検討いたしました(詳細は次号の会報でお知らせいたします)。
なお、現在、出演者と上演スタッフを募集中ですので(いずれも、応募者多数の場合は、オーディションを行う予定です)、参加をご希望の方は、当会の米澤宛ご連絡をお願いいたします。米澤邦頼へ:yonezawa-.-v1961@ezweb.ne.jp
4、第二週土曜日、特別編町歩き 案内者 天羽 大器
5月の街歩き 山の手大空襲・代々木練兵場・渋谷の戦争遺跡を歩く
日時:5月8日
集合:東京メトロ表参道駅B4出口 13時
コース:表参道石灯籠、区政60周年記念碑、表参道、代々木公園(十四烈士の碑、日本航空発始の碑、閲兵式の松、昭憲皇太后大喪儀葬場殿跡)、北谷稲荷神社の訣別の碑、NHK放送センター(トイレ休憩)、二・二六事件慰霊像、東京陸軍衛戍刑務所境界石、明治天皇御嶽神社小休所阯、憲兵隊渋谷分隊境界石
解散:渋谷駅マークシティ
所要時間:2時間30分くらい
5、定例会:歩く会について
都市物語を旅する会
「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10数名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。事故のないよう各自で責任を持ってください。
この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。個々人が文化を楽しむというのがねらいです。
これまで実施したコースはつぎの通りです。
・代田連絡線の跡を歩く(3回)・小説「猫町」を歩く(3回)・下北沢の大谷藤子を歩く・「森茉莉」足跡を歩く(5回)・下北沢の銭湯跡を歩く・下北沢の無頼派を歩く・下北沢の教会を歩く(3回)・坂口安吾の通勤ルートを歩く(2回)・駒沢線詩歌文学ラインを歩く(2回)・下北沢の映画痕跡を歩く・ダイダラボッチ川を歩く。・下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。・代田のダイダラボッチ痕跡を訪ねる(3回)・代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)・林芙美子から坂口安吾を歩く・.「下北沢店員道場を検証する」・池の上の古い町並を歩く ・下北沢の詩人痕跡を訪ねる(2回)・「森厳寺川の源流を探索する」(3回)・「代田の歴史を歩く」・駒沢練兵場を歩く(2回)・滝坂道を歩く(3回)・駒場の戦跡を歩く(2回) ・下北沢の踏切文化を検証する
・高須光治「下北沢風景」と近代日本文学 ・東京山手急行の痕跡を尋ねる
・第48回 5月15日(土) 午後1時 下北沢駅北口
「シモキタザワ 猫町散歩」 萩原朔太郎には唯一の小説「猫町」がある。この第一ステージは下北沢を舞台としたものであるように思える。このことを検証しながら萩原朔太郎の下北沢や世田谷代田での足跡を辿っていくものである。詩人萩原朔太郎は代田の自宅で昭和昭和十七年五月十一日に亡くなっている。現実と非現実との境目を巧みに描いて、一つの宇宙世界を構築している詩人を偲ぶものでもある。
萩原朔太郎の居住痕跡は今は何も残っていない。わずかに「代田の丘の61号鉄塔」が彼の生きた痕跡を偲ばせるものだ。これはわたしたちが推奨して世田谷区風景資産に選定されている。この鉄塔見学ツアーでもある。
・第49回 6月19日(土)午後1時 代田橋駅南口
下北沢地形学入門(森厳寺川を歩く)*明治時代の鐘のある家で現物を見学。
・第50回 7月17日(土) 午後1時 池尻大橋駅改札口
駒沢練兵場を歩く 夏恒例行事 昭和女子大の近衛野砲兵碑が新たに加わります
・第51回 9月18日(土) 午後1時 八幡山駅改札口
北沢川を源流から歩く(代田まで) 案内者 米沢邦頼、別宮通孝、天羽大器
・第52回 10月16日(土) 午後1時 南新宿駅改札口
代々木山谷芸術村から下北沢文士町へ
・第53回 11月20日(土) 午後1時 下北沢駅北口
下北沢の詩人痕跡を歩く
・第54回 12月18日(土) 午後1時 代田橋駅南口
地形と神社仏閣 代田半島と代沢半島の古寺社教会などを巡る
◎申し込み方法、参加希望について
参加申し込みについては当会の米澤邦頼まで必ず連絡をください。
米澤邦頼 090−3501−7278
メールアドレスyonezawa-.-v1961@ezweb.ne.jp
■ 編集後記
▲今年になって講演依頼や文士町案内の依頼が増えている。風景資産団体では「風景と地形」、代沢のマンションの総会での文化活動では「代沢半島の歴史と文学」を話した。また小学校同窓会では「下北沢文士町」について話すことが決まっている。また馬込文士村関係の方がたも研修でこられるとのこと。広報活動をすることによってわたしたちが行っていること、また、地域の特性に気づいてもらえることはありがたいことだ。
下北沢文士町、戦争、鉄道など自身が調べたり考えたりしていることは人に伝えてもいいと考えている。ボランティア活動の一環として自分でできる範囲で行っていきたい。
▲インターネットのブログ「東京荏原都市物語資料館」宛てに寄贈図書や感想などが寄せられるようになった。感想や批評などについてはこのブログ記事に掲載したい。批評は刺激である。また質をよくするために欠かせないものだ。東京荏原都市物語資料館もグローバルになったか?。
▲夏の納涼会については今年はどうしようかと考えていたがやりましょうという声があったので実施する。期日は八月の第一土曜日7日である。6時から行いたい。集まっておしゃべりして、笑って、泣いて、楽しもう。区内の団体も遊びがてら参加されている。各団体との情報交換の場ともなっている。
▲「日本中学」の見学会は今井兼介さんを通して依頼している。学校の行事の都合があって7月頃になりそうだとのことである。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ k1poem@yahoo.co.jp
○「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。年会費1000円です。会員の方にはこの会報を自宅に郵送しています。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第46号 2010年5月1日発行(毎月一回発行)
会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、第3回「戦争経験を聴く会、語る会」(2010年)
〜今、聞いて置こう、薄れゆく戦争の記憶を残すために!〜
テーマ「下北沢と戦争」
日時 5月23日(日)1時30分から4時30分まで(13時開場)
場所 北沢タウンホール2F第一集会室 定員60名 参加費無料
主催 「北沢川文化遺産保存の会」 会長 長井邦雄
後援 北沢3、4丁目まちづくり協議会
戦争は遠い過去のものとなりつつあります。けれども太平洋戦争はわれわれの歴史の中ではもっとも大きなできごとでした。戦争に負けて日本は無条件降伏しました。この敗戦は一からの出直しでした。そこから出発して、長い苦難の道を歩いた末に、今日の生活が築かれました。そういう意味では今日の生活の原点を見つめるものでもあります。ところが、あの惨たらしい戦争は、戦争体験者の高齢化、時間の経過によって人々の記憶から次第に消えつつあります。戦争は二度と起こしてはなりません。そのためには薄れ行く記憶を次代に繋げていく必要があります。会は党派的なものの集まりではありません。記憶を次代に繋げ、平和を持続させていきたいと願って開く一般市民の集いであります。
「戦争経験を聴く会、語る会」は、2008年から始めました。この一帯が大空襲に襲われたのが1945年5月24日、25日です。その山手空襲から65年目を迎えます。風化する戦争の記憶を今のうちに、しっかりと聞いてそれを次代に繋げたいという思いから三年前からこの会を5月に開催してきました。今年は、その三回目に当たります。前回二回目において、もっと若い人に伝えたいということから、「下北沢と戦争」を次回のテーマにしてはどうかと提案したところ大方了承されたことからこれを中心テーマにして、下北沢に関わる戦争の記憶を出席された方に話をしていただきます。
若い人、そして、つぎのことについて記憶されている方はぜひ出席してください。
山の手空襲(昭和20年5月25日)の体験、第六次強制疎開(下北沢駅周辺の強制立ち退き)、下北沢駅からの出征、学童疎開、ヒットラーユーゲントの下北沢訪問、B29経堂墜落の目撃談、小田急線を使っての米軍東京進駐、周辺の接収家屋の様子、戦後のやみ市の様子、成り立ち。などなど、戦争と下北沢に関わること
この他、下北沢という地域に関わらず広く、戦争体験をされた方にその場で、話をしていただきます。(「広報せたがや」5月1日号にも掲載されている)
参加希望者は事務局「邪宗門」に申し込んでください。
03−3410−7858
またインターネットでは専用メールに申し込んでください。
aoisigunal@hotmail.com(きむらけん)
北沢まちづくり関係者の申し込みは 荒金紀雄(3467)6511へ
2、初台・西原・大山町・元代々木界隈を歩く(報告記事) 4月10日実施
天羽大器
代々木八幡駅に9名の街歩きが大好きな人間が集った。配布資料を配りながら、今日の街歩きの見どころを話す。
代々木八幡駅は『Wikipedia』によると、「1945年(昭和20年)5月20日ー太平洋戦争による空襲に遭い、被災。だが、周辺住民と下北沢駅から線路上を走って来た駅員による消火活動により、焼失は免れる」と書かれている。因みに下北沢駅から代々木八幡駅までは2.9kmある。
駅から山手通りに出て、標高32,33メートルの代々木八幡宮・福泉寺の森を目指す。
福泉寺入口には1682年、1709年、1755年、1794年の庚申塔が並んでいる。ここの墓地に入り、地形の話をする。代々木半島と幡ヶ谷半島の境目にこの森はある。それを分けるように河骨川が脈々と流れている。この森の南側で宇田川初台支流(初台川)と宇田川上原支流が合流して宇田川本流に流れ込む。
代々木八幡宮・福泉寺の森の隣にはこの地の旧家である秋本家の墓地がある。渋谷にはこのような里墓が3ヶ所ある。原宿のど真中にある飯尾家、西原の福田家である。
初台坂を少し上った所に今井兼次さんが設計した昭和5年建築の三宅雪嶺邸の書斎と書庫が曳家されて残っている。
初台橋という欄干があり、初台川を歩く。川の両側はサラダボールのように標高40メートルの高台が存在している。田端橋という欄干もあり、そこの坂を上った所に戸田建設の社長をやっていた戸田順之助氏の豪邸がある。
標高40メートルの玉川上水旧水路に出る。橋の所で古写真を見せながら、代々幡橋まで歩く。桜が鮮やかに咲き誇っていた。
新装なった西原図書館で休憩する。
代々幡斎場の脇の道(宇田川上原支流跡)を歩き、代々木大山公園に入る。東京消防庁消防学校、JICA東京国際研修センターを見ながら、製品評価技術基盤機構内にある宇田川の源流である湧水池を見学する。参加者の一人である米澤さんも知らなかったようである。ここを代々木大山公園と繋げて開放すべきであるという声も聞かれた。
相生橋で再び玉川上水旧水路にもどり、北沢橋まで歩く。途中要塞であるユニクロの社長邸、徳川恒孝(徳川将軍家第18代)邸を見ながら、代々木上原駅入口に来た。
代々木上原駅の商店街の所で昭和31年の古写真を見せていたら、米澤さんが近くにいた年輩の人に取材したら、そこでよもやま話が始った。街歩きの醍醐味である。
宇田川上原支流を歩きながら、二宮尊徳像、田中地蔵、庚申塔・地蔵尊像を見る。
小田急線を越して、水路は続く。その痕跡を探しながら、代々木八幡駅に戻ってきた。
ドンキーという1階がパン屋で2階が喫茶店になっている所に入って話をしていたら、そこのママが実家がお万の方所縁の家である事が解り、又そこでもよもやま話が始った。
会報や市民活動団体の活動情報に掲載された所要時間2時間30分を大きく超える4時間の行程街歩きであった。
3、朗読劇:仮題「代田の不思議・だいだらぼっち」の第3回上演に向けて
演劇部 総監督 木村圭狸
昨年8月の暑気払いと12月の忘年会で上演いたしました、きむらけん作「幻想朗読劇 ダイダラボッチ〜東京市巨人伝説〜」の今後についてです。
その折いただいた、観衆の皆様からのご意見を踏まえ、総監督:木村圭狸、脚本助手:MITACO/ゆう・やまもとの許で脚本第3稿の脚色作業を進めておりましたが、4月29日に、「世田谷 邪宗門」で、その第3回上演に向けた関係者の意見交換を行い、スタッフ構成、出演者の決定方法、上演までのスケジュールなどを検討いたしました(詳細は次号の会報でお知らせいたします)。
なお、現在、出演者と上演スタッフを募集中ですので(いずれも、応募者多数の場合は、オーディションを行う予定です)、参加をご希望の方は、当会の米澤宛ご連絡をお願いいたします。米澤邦頼へ:yonezawa-.-v1961@ezweb.ne.jp
4、第二週土曜日、特別編町歩き 案内者 天羽 大器
5月の街歩き 山の手大空襲・代々木練兵場・渋谷の戦争遺跡を歩く
日時:5月8日
集合:東京メトロ表参道駅B4出口 13時
コース:表参道石灯籠、区政60周年記念碑、表参道、代々木公園(十四烈士の碑、日本航空発始の碑、閲兵式の松、昭憲皇太后大喪儀葬場殿跡)、北谷稲荷神社の訣別の碑、NHK放送センター(トイレ休憩)、二・二六事件慰霊像、東京陸軍衛戍刑務所境界石、明治天皇御嶽神社小休所阯、憲兵隊渋谷分隊境界石
解散:渋谷駅マークシティ
所要時間:2時間30分くらい
5、定例会:歩く会について
都市物語を旅する会
「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺の文化探査をしています。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっています。集合地点はそのコースごとに多少違っています。基本的には少人数、10数名程度ということにしていまます。それぞれがこの歩く会に参加して楽しむというものです。最後は世田谷「邪宗門」にたどり着いてお茶を飲みながら歓談します。参加費は徴収しておりません。歓談の際の飲み物は各自でお支払ください。なお、保険には加入しておりません。事故のないよう各自で責任を持ってください。
この会は参加の義務はまったくありません。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりです。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する、そういう自由な会です。個々人が文化を楽しむというのがねらいです。
これまで実施したコースはつぎの通りです。
・代田連絡線の跡を歩く(3回)・小説「猫町」を歩く(3回)・下北沢の大谷藤子を歩く・「森茉莉」足跡を歩く(5回)・下北沢の銭湯跡を歩く・下北沢の無頼派を歩く・下北沢の教会を歩く(3回)・坂口安吾の通勤ルートを歩く(2回)・駒沢線詩歌文学ラインを歩く(2回)・下北沢の映画痕跡を歩く・ダイダラボッチ川を歩く。・下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。・代田のダイダラボッチ痕跡を訪ねる(3回)・代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)・林芙美子から坂口安吾を歩く・.「下北沢店員道場を検証する」・池の上の古い町並を歩く ・下北沢の詩人痕跡を訪ねる(2回)・「森厳寺川の源流を探索する」(3回)・「代田の歴史を歩く」・駒沢練兵場を歩く(2回)・滝坂道を歩く(3回)・駒場の戦跡を歩く(2回) ・下北沢の踏切文化を検証する
・高須光治「下北沢風景」と近代日本文学 ・東京山手急行の痕跡を尋ねる
・第48回 5月15日(土) 午後1時 下北沢駅北口
「シモキタザワ 猫町散歩」 萩原朔太郎には唯一の小説「猫町」がある。この第一ステージは下北沢を舞台としたものであるように思える。このことを検証しながら萩原朔太郎の下北沢や世田谷代田での足跡を辿っていくものである。詩人萩原朔太郎は代田の自宅で昭和昭和十七年五月十一日に亡くなっている。現実と非現実との境目を巧みに描いて、一つの宇宙世界を構築している詩人を偲ぶものでもある。
萩原朔太郎の居住痕跡は今は何も残っていない。わずかに「代田の丘の61号鉄塔」が彼の生きた痕跡を偲ばせるものだ。これはわたしたちが推奨して世田谷区風景資産に選定されている。この鉄塔見学ツアーでもある。
・第49回 6月19日(土)午後1時 代田橋駅南口
下北沢地形学入門(森厳寺川を歩く)*明治時代の鐘のある家で現物を見学。
・第50回 7月17日(土) 午後1時 池尻大橋駅改札口
駒沢練兵場を歩く 夏恒例行事 昭和女子大の近衛野砲兵碑が新たに加わります
・第51回 9月18日(土) 午後1時 八幡山駅改札口
北沢川を源流から歩く(代田まで) 案内者 米沢邦頼、別宮通孝、天羽大器
・第52回 10月16日(土) 午後1時 南新宿駅改札口
代々木山谷芸術村から下北沢文士町へ
・第53回 11月20日(土) 午後1時 下北沢駅北口
下北沢の詩人痕跡を歩く
・第54回 12月18日(土) 午後1時 代田橋駅南口
地形と神社仏閣 代田半島と代沢半島の古寺社教会などを巡る
◎申し込み方法、参加希望について
参加申し込みについては当会の米澤邦頼まで必ず連絡をください。
米澤邦頼 090−3501−7278
メールアドレスyonezawa-.-v1961@ezweb.ne.jp
■ 編集後記
▲今年になって講演依頼や文士町案内の依頼が増えている。風景資産団体では「風景と地形」、代沢のマンションの総会での文化活動では「代沢半島の歴史と文学」を話した。また小学校同窓会では「下北沢文士町」について話すことが決まっている。また馬込文士村関係の方がたも研修でこられるとのこと。広報活動をすることによってわたしたちが行っていること、また、地域の特性に気づいてもらえることはありがたいことだ。
下北沢文士町、戦争、鉄道など自身が調べたり考えたりしていることは人に伝えてもいいと考えている。ボランティア活動の一環として自分でできる範囲で行っていきたい。
▲インターネットのブログ「東京荏原都市物語資料館」宛てに寄贈図書や感想などが寄せられるようになった。感想や批評などについてはこのブログ記事に掲載したい。批評は刺激である。また質をよくするために欠かせないものだ。東京荏原都市物語資料館もグローバルになったか?。
▲夏の納涼会については今年はどうしようかと考えていたがやりましょうという声があったので実施する。期日は八月の第一土曜日7日である。6時から行いたい。集まっておしゃべりして、笑って、泣いて、楽しもう。区内の団体も遊びがてら参加されている。各団体との情報交換の場ともなっている。
▲「日本中学」の見学会は今井兼介さんを通して依頼している。学校の行事の都合があって7月頃になりそうだとのことである。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ k1poem@yahoo.co.jp
○「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。年会費1000円です。会員の方にはこの会報を自宅に郵送しています。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。



















