2011年03月
2011年03月31日
下北沢X新聞(1790)―勇気、希望、元気・「言葉は命」2―

□ Re: 栞 2011/ 3/23 20:20 投稿者 :yamabato05
しおりは気覚え
あの山の形、あの川の流れ
だれもが一つ一つの思い出を
目のうちに止めていた
こつぜん、とつぜん、海が呑み込んだ
しおりを返せ、戻せと叫ぶが
返っても、戻ってもこない
それでもあの懐かしい風景を
とりもどそう
潮に浸かった菜の花が
一輪咲き始めた
記憶のしおりを
忘れないで、忘れないでおこう
○言葉での元気づけ勇気づけが通じたことに、ともしびがともった思いがしました。人も温められて、自分も温もる、カンバセーション
□夜明け 2011/ 3/25 6:03 投稿者 : suteppatu
怯える夜を幾日も
過ごしてみれば
欲するものは
心の安らぎ
夜明けの窓の
冴えた輝き
雀の声
言葉以上の
励ましの言葉
□Re: 夜明け 2011/ 3/25 21:00 投稿者 :yamabato05
「わたしはねどんな津波が来ても引っ越さないですよ。
何度津波が来ても、わたしは住み続けますよ」
頭に手拭いを巻いた老漁師
テレビのインタビューに
敢然と言ってのける
「どんな不幸が来ても、諦めないですよ
どんな不幸に出会っても、わたしは
希望を持ちますよ」
そんなふうに読み換えて
自分でそっと呟いた
何や知らない
全身に血が流れていくよう
日に焼けたおいさんに
勇気を分けてもらった
○ゆっくり休んでください
でも日常が始まりましたね…雀の声、和らぎますね
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2011年03月30日
下北沢X新聞(1789)―勇気、希望、元気・「言葉は命」1―

○「東北関東大震災」が起こって以来、言葉を交わし続けている。 相手も元気を得て、わたしも勇気をもらっている。飾ることなく、それをここでも伝えたい。転載掲載としたい。 きむらけん
□人へ 2011/ 3/12 13:27 投稿者 : yamabato05
どんなに
悲しくても
辛くても
希望こそ命
か細くても
切れそうになっても
やっぱり希望
何にもできないけれど
言葉は伝えられる
キボウトイウコトバヲ
希望という明日を伝えたい
□Re: 「風曜日」の理髪店 2011/3/13 13:12
投稿者 :yamabato05
風が吹く
めくれたとたん屋根が
くわらん、かわらん
響きが悲しい
それでも音に色をつけよう
わずかな紅でもいい
描いた糸が
明日へと繋がっていく
○suteppatuさんはお元気ですか?
□浮玉 2011/ 3/14 14:05 投稿者 :suteppatu
納屋の片隅
古い魚網のそばに
硝子の浮玉は転がっている
ラムネ色の海風を閉じ込めて
褪せてほつれた大漁旗と
春の浜の賑わいを
静かに聴いている
>yamabato05さん
命だけは助かりました。この浜も津波が襲いました。落ち着くまで休みますm(_ _)m
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2011年03月29日
下北沢X新聞(1788)―帝国音楽学校と「下北沢風景」―

(一)
「帝国音楽学校」、この学校の詳しい歴史は分からない。世田谷中原駅のすぐ北側に昭和二年十二月に創設された。古関裕而は、奥さんがここへの入学を強く希望していたところから、通学の便を考えて当地に新居を構えた。それが「昭和六年(1931)年四月」だという。
学校は、戦時下にあって歌舞音曲は禁止され昭和十九年に廃校となった。翌二十年(1945)五月二十四日、二十五日日に一帯は空襲を受けた。高圧鉄塔、駒沢線六四号下にあったこの学校は焼失した。十八年間、ここにあって、多くの音楽志望者を育てた。
帝音年表
1927 12「帝国音楽学校」創立
1928 4 11 開校(校長:福井直秋)
12 校長辞職(校長代理:高井マキ)
1930 10 再開(校長有馬頼寧/北玲吉)
1935 2 日本大学芸術学部と合併騒動の末、廃校
「帝国高等音楽院」開校
1939 6 「帝国高等音楽学校」設立(校長:田村虎蔵)
1943 11 7 田村虎蔵没(校長代理:會則道)
1944.3 「帝国音楽学校」廃校
下北沢文士町文化地図(改訂7版) 世田谷代田の音楽学校〜「帝音」の歴史〜
芸術学博士 久保絵里麻
ウィキには、著名な出身者 として伊藤久男、深井史郎、下総皖一、菅原明朗、松本善三、田村虎蔵、津川主一、柳兼子、高木東六を挙げている。
昭和二年四月に、世田谷代田に音楽学校が設立されたのは地域文化を考える上では非常に興味深いことである。
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2011年03月28日
下北沢X新聞(1787)―駒沢線文化ライン考―

(一)
駒沢鉄塔線沿いの文化ラインという観点は興味深い。映画「太子堂物語」では安直に駒沢線を敷設しようとする「東京電灯」への実力闘争を紹介していた。そのためなのかこの線は太子堂には建たず、ここに隣接する西隣の若林側に敷設され真っ直ぐに北上する。そしてつぎの代田村に入って、北西に進路を取る。
駒沢線の進路の背景には大正デモクラシーの影響がある。が、代田村での進路変更はなぜなのかつかめない。ただ昭和初期の代田村のジオラマを見ると、田園を突っ切っていく近代鉄塔ラインが鮮やかな斜線を描いている。これにも何かの理由があるはずだがそこがよく分からない。一つの想像推理は、代田橋に向かったからではないかと思う。
今回これを辿って一つ分かったのは52号鉄塔が建て替えられていたことだ。かつてはこの脇に、駒沢線分岐鉄塔「代田線NO1」があって、変電所があった。ここから立ち上がった代田線が北へ向かって併架されていた。その施設はともに撤去されていた。
52号を見上げると南側は六本だが、北側は十二本になっている。地下から立ち上がった代田線が今も駒沢線に繋がっている。この代田線は北上して京王線代田橋駅の鉄塔72号まで続いている。
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2011年03月27日
下北沢X新聞(1786)―代田・下北沢文士町文学散歩2―

(一)
高圧鉄塔駒沢線に沿って歩いた。野沢から三軒茶屋に向かっていた線が、野沢公園の付近で急に進路を変えて北西方向へと向かう。民衆の運動の影響を受けてのことだ。東京電灯が町の真ん中に高圧線を敷設しようとしたときに荏原一帯の農民が立ち上がってこれを阻止した。それが功を奏し、三茶を避けた。映画「太子堂物語」に出てくる逸話だ。
わたしは原電問題を思い浮かべた。この問題に市民は当面している。すべてを原電に頼るのか、あるいは原電からの脱却を目ざすのか、このことは真剣に考えていかなくてはならない問題だ。蒸気機関車による文明到来を第一文明と捉えるなら、原発での利便享受は第二文明だと言える。地震津波による原電破壊は大きな問題を我々に突きつけている。民主主義の基本は見張ることだ。放置しておくといいようにされてしまう。
歩いていて気づいたのは、高圧鉄塔に沿って歩けないということだ。回り回って、あっちへいき、こっちへいきしてやっと辿れる。高圧線電流は直線で流れていく。人間はジグザグに進んでいく。エネルギーは直線、人間は曲線、少々遠回りすることも悪くない。一つの発見である。
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2011年03月26日
下北沢X新聞(1785)―代田・下北沢文士町文学散歩―

(一)
震災後、頭が靄に包まれ始めた。考えると、どうしても暗くなる。こういうときには歩くに限る。今日は、代田地区会館で「代田・下北沢文士町文学散歩」の講演があって、その後に文士町を参加者と巡る会があった。
都立大から新代田へ、たいしたことはない。駒沢線を歩いて辿ってみようと思った。調べたいこともあった。
駒沢線沿いは詩歌ラインである。鉄塔57号は三好達治旧居、61号は萩原朔太郎旧居、62号は河口彗海旧居、64号は帝国音楽学校だった。
そしてまたふと気づいた。55号の下の変電所を裏手に控えた家の門柱に、大村能章とある。「同期の桜」の作曲者である。軍歌繋がりでいうと63号近くに古関裕而の表札がやはりいまもかかっている。そしてまた北上していく駒沢線は大原方向に行く、ここには福田正夫が居住していた。「愛国の母」の作詞者だ。駒沢線は軍歌ラインか?。
ネット検索で福島に「古関裕而記念館」があることを知った。それで、代田の居住地が戦前からのものだったのか問い合わせた。館員の方は調べてみますとの返答だった。翌日に電話をいただいた。
「ご質問の件に関して、三鷹に住んでおられる娘さんに電話をして聞いてみたのですね。そうすると、代田二丁目の今の自宅は、昭和二十四年に買われたということです。娘さんの学校に通うに便利だからということがあったようです。その前は、娘さんがおっしゃるには今の梅ヶ丘と世田谷代田の間に住んでいたというのです。近くに神社があると言っておられました……」
「それは代田八幡宮のことだと思うのです。」
「帝国音楽学校には関係はしていないようですね。ええ、奥さんがここに通っていたことは事実ですね」
お名前は伺わなかったが「古関裕而記念館」の学芸員の人だろうと思うが、以上のような回答があった。
自身も図書館へ行って調べてみると、「古関裕而物語」(斎藤秀隆 歴史春秋社)という本があった。これによると、古関裕而は、日本コロムビア専属作曲家となり、昭和五年に福島から上京してくる。
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2011年03月25日
下北沢X新聞(1784)―古関裕而と世田谷代田―

(一)
「ざわざわ下北沢」という市川準監督の映画がある。この擬態語の巧みさに改めて気づいたことだ。
よしもとばなな著の「もしもし下北沢」は、この映画の台詞を枕に振って小説の導入としていた。この街は、なにかしらざわざわしていて蠱惑的である。それへの親しみをこめた呼びかけなのかもしれないと思った。
音がざわざわしている点、街に価値が錯綜しているという点でのとらえ方もできる。
先だって、「森茉莉の足跡を歩く」会を催した。そのときに久し振りに北口駅前市場の高村園のご主人と会った。もう何十年と通路を歩いている人の足音を聞きつけている人だ。前に若者がストレスを溜めた歩き方をしていると聞いたことがある。シモキタではお茶屋のご主人までもが音に敏感だ。
「そうね、ここも長くないね。短くて一年、長くて二年かな」
北口駅前市場は再開発によって壊される。今後を聞いたときに、そう言われた。
あらゆる商品を扱う店々が、ぎっちりと肩を寄せあい、まるでお互いがお互いにもたれかかることでやっと建っていられる、というような風情で林立している。市場の中をごちゃごちゃと走る路地はヒビ割れだらけの石畳で、はじめてここを訪れる人はきっと、東京都内にもまだこんな場所があったのかと驚くかもしれない。
鷺沢萌が「遮断機」(角川文庫)という作品で下北沢駅前市場をこう描いている。このかつての賑わいはなく、奥の多くの店のシャッターは閉まったままだ。この石畳の響きも、今はさみしい。かつてはカ行だった。カラコロ、カッコンカッコン、ガンザガンザなどだったのが、今はサ行で、スポーツシューズが、ときおり、サッ、シュ、ショと路地を響かせて通っていく。
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2011年03月24日
下北沢X新聞(1783)―この大きな歴史のうねりをみつめる7―

(一)
近代は新しい文明の利器の出現によって始まった。それは衝撃的だった。歩かずとも乗った車がひとりでに動いて、遠くへ連れていってくれる。蒸気機関車による交通革命を西欧では「時間と空間の抹殺」と呼んだ。現象の本質を捉えた鋭く批評的な言葉である。
旧来の古代時間と近代時間の衝突が日本でどうであったかということにわたしは深い興味を持っている。西欧では批評的であった。例えば、ワーズワースは「なんじらは汽笛を聞いたか? 長い列車が 突進してきたとき、その光景を目にしたか?そう愕然としたはずだ…」(「英国鉄道文学傑作選」ちくま文庫)と詠んだ。文明到来に対して批評的、論理的な論調が多く見受けられる。
一方、汽車出現に対する日本での批評は極めて少ない。自身が調べて知っている範囲では、夏目漱石、芥川龍之介、斎藤緑雨がいる。他、多くは文明に対しては受容的、同意的である。
今回の震災以後、新たな生活づくりが問題になる。強固な堤防を作ろうとかの話も聞く。また土建的な話かと思う。酷いのは強固な防災施設に逃げ込んだらそこすらもやられて多くが犠牲になったと聞く。自然に打ち勝つという発想よりも、これとどう調和して生きていくかということが大事だ。
同意的な文明論ではなく、批判的な文明論の中から復旧思想や計画が生まれてほしい、機械優先ではなく、人間の文化を基軸にした議論が必要だとわたしは、思う。
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2011年03月23日
下北沢X新聞(1782)―この大きな歴史のうねりをみつめる6―

(一)
「原発なんてもう要らないんじゃないの」
昨日、高圧鉄塔都南線の老番終点を見に行く途中、五六人の作業員が立ち話をしていた。そこを通りかかったときに一人の男がそう言ったのを聞いた。
原発の溶融の危険、そして、放射能騒ぎ、気を落ち着けて仕事ができないのだろう。多くの人々の思いの一例を聞いたように思った。
しかし、これは一筋縄ではいかない問題だ。原発に頼った生活をわたしたちは築いてきている。原発をなくすためには、わたしたちの生活のスタイルを根本的に変える必要がある。ところがそういう生活の見直しを含めた議論はほとんどなされていない。
「いやね、ふだん歩くということをしないでしょう。歩くなんてことはまったく考えていなかったんですよ。だけどもう逃げていく車で道が詰まっているんですよ。そんなときにずっと後ろの方から消防団員の人が津波が来るぞと叫んでいるのが聞こえたんですよ。それで慌てて乗せている親と一緒にそのすぐそばの木立へ走っていったんですよ。そしたらもうぎりぎりのところを津波が掠めていきました。」
津波で助かった人の談話をテレビで放送していた。およそそのようなことを言っていた。そういえば、津波で破壊された町にはそこかしこに車がひっくり返っていた。うち捨てて逃げた人の車ばかりではない。「一家全員が乗っていた車もありましたね」と、消防団員。
日々歩きつけているゆえに「ふだん歩くことがない」ということに引っかかった。歩かない理由は簡単だ。地方では通勤、買い物、何をするにしても車が必要だ。が、誰もがこれで逃げた。渋滞が発生し、にっちもさっちもいかないでいるときに津波に呑み込まれたという人も少なくない。
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2011年03月22日
下北沢X新聞(1781)―この大きな歴史のうねりをみつめる5―

(一)
わたしたちは今経験したことのない危難に遭遇している。息つく暇もなく、新しいニュースが飛び込んでくる。気を休めている暇もない。しかもその情報が暗いものばかりだ。それを受信し続けていると落ち込んでくる。誰もがストレスを貯め込んでいる。
わたしたちはどうしたらいいのだろう。めまぐるしくかつ圧倒的な情報に呑み込まれて自分を失っている。津波ですべてを失った人が「頑張らなくてはいけないと思うが内容が見えない」と言っていた。頑張ろうとするときに内容が見えるというのは大事だと気づかされた。そう人は頭に形を描いて生きている。このことから連想されたのは一つの成句、「論語」にある孔子の言葉である。
学びて思はざれば、すなわち罔し。思ひて学ばざれば、すなはち殆し。
いま起こっていることをよく知って、そしてよく考えること、そうしないと先行きはみえなくなる。考えただけで学ばないと、おぼつかなくなるばかりだ。
含蓄のある言葉だ。わたしたちにとって大事なのは、今起こっている現象を知って、よく考えることである。知ることによって、方向が、希望が、見えてくる。
とくには原発の事故である。原発とは何か、放射能とは何か、シーベルトとは何か。このことについては知る必要がある。要らぬ風評にまどわされないためである。
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2011年03月21日
下北沢X新聞(1780)―この大きな歴史のうねりをみつめる4―

(一)
東日本大震災は、戦後最大の被害だと言う。「戦後」という言葉はもうあまり聞かれることはなくなっていた。今回の災害をきっかけに復活したが、実感の湧かない言葉ではないかと思う。戦争からあまりにも遠く隔たってしまった。
終戦を迎えたとき多くの人々が時が止まったように感じたという。いよいよ「本土決戦」というときに忽然と終戦を迎えた。竹槍を持っていざというときに気勢を削がれた。
今回の、東北太平洋沖地震でも時が止まった。戦後に続いて、また再び時間が止まった。時間論的観点から現今の社会現象を捉えることも大事だと思う。事実、この地震で時間速度に急ブレーキがかかった。
昨日、一昨日と田園都市線に乗ったがすべて各駅停車である。駅構内も節電で暗い。三軒茶屋で地表に出ると店先の自動販売機が止めてあった。国道246も空いていていつもの喧噪はない。
慌ただしく、せわしく動いていた近代時間が止まった。都会に流れる時が緩やかに、穏やかになった。
時が止まれば見えないものが見えてくる。玉音放送を聞いた後の夜、厠に行くと、せせらぎの音が聞こえ、中天かかった月が見えた。染み入るような静けさを感じたという。長野伊那山中に疎開していた学童が東京の親に手紙で知らせていた。
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2011年03月20日
下北沢X新聞(1779)―この大きな歴史のうねりをみつめる3―

(一)
ゆるやかに流れている時間に、忽然と大きな亀裂が入った。人は戸惑い、慌て、そして逃げた。
「地震の直後は、その駅前のピーコックのところは大混雑でしたよ。店の中から人が逃げてきたんでしょうね」
北口駅前市場の高村園のご主人が言っていた。昨日ここを通ったときに聞いた。
震災後は街の空気が張り詰めていた。スーパーのレジは大混雑、ものがどんどんなくなっていく。電池、水、米、カップ麺などだ。そして、朝の開店前にはドラッグストアにはどこもここも長蛇の列ができた。
医療関係従事者の内部情報で、原発が危ないと話があったようで、毎日歩いているわたしに外出を控え、マスクを着用するようにとのメールもあった。が、構わずに、わたしはこの際だということであちこち街を巡り歩いた。もちろんマスクはつけない。「しねばもろとも」と思ったものだ。
激烈な震災から一週間経った。被害の全貌は見えない。が、ともかくも動き出した。救援のヘリが飛んだ。ようやくがれきを片付け始めたなどのニュースは安堵させるものだ。とりわけ原発への放水が始まったことは、大きな朗報だ。メルトダウンとなると東京も含めて大混乱に陥る。予断は許さないが、放水によって一定の安定状態ができてきたことは希望である。
(二)
時間の亀裂断層は、時間を置くことによって眺め見る余裕もでてきた。スーパーの売り場も、ひところのように一時間も待つということもなくなった。商品もものによっては手に入れにくい状況は続いているが、「お一人さま一点」と断り書きがついた品物もあるが多くのものは買えるようになってきた。
昨日は、道路は空いていた。が、車の行列があちこちでできていた。ガソリンスタンドでの給油待ちの車の列だ。下北沢に行くのに「下61北沢タウンホール」行きに乗っていった。停留所には燃料不足で間引き運転をするとの張り紙があった。燃料不足が深刻である。
鉄道の被害状況も気になる。が、秋田新幹線が動き出したと聞いて嬉しかった。思ったことは高架橋新幹線は地震には弱い。崩れたらおしまいだ。が、秋田新幹線は在来線を活用した路線で地盤が安定している。これで助かったのだろうと思う。こぞってフル規格の新幹線を作ろうとしているが、在来線活用の新幹線は強みを発揮したように思える。
在来線は貨物運搬の重要ルートである。今朝のニュースだと、裏日本経由で青森に出て、盛岡まで燃料用のタンク車が動いたと聞いてこれも嬉しかった。芥川龍之介は憂鬱なものとして、「電車の通らない線路の錆び」を挙げている。同感だ。
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2011年03月19日
下北沢X新聞(1778)―この大きな歴史のうねりをみつめる2―

(一)
2011年3月18日14時、テレビが望遠で捉えた建物を映し出した。福島第一原発3号機の建屋に一本の細い放物線が見えた。ようやく始まった放水である。頼りなくはかない、たちまちに終わる。もどかしい思いで待っていると一本の白い希望が見えてくる。が、残念ながら続くことはなかった。それでも放水は希望の灯だった。
われわれを覆っているのは目に見えないものへの恐怖である。原発による放射能汚染が広がるのではないかという懸念が今なお消えないでいる。
LIVE中継の画面には、30キロ離れたところから撮っているとの断り書きがある。取材陣も近づけない。テレビに揺れ動く大地の陽炎が現今の危機を象徴しているように思った。わたしはこれを見ながらダイダラ坊を連想した。
福島原発のある南は、茨城県だ。大洗海岸もさほど遠くない。かつてこの内陸の大串にダイダラ坊がいた。「常陸国風土記」に載っている。彼は丘の上に居ながらにして海岸へ手を伸ばし大ハマグリを獲って食した。巨人が食べた貝の殻が積って丘になったという。貝塚が今も残っていて、そこは「大串貝塚ふれあい公園」となっている。公園には大きなダイダラ坊の像がある。彼に加勢を頼めないかと。
ダイダラ坊は人に優しい。「男体山と浅間山の頂きに、棹をかけて、大きなモメンの着物で北風をふせ」ぐことは易々とやってのける。彼に加勢を頼んで、大きなバケツで何回か海の水を汲んで貰って原発にぶっかけてやればたちまちに問題は解決する。
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2011年03月18日
下北沢X新聞(1777)―この大きな歴史のうねりをみつめる―

(一)
2011,3,11に起こった地震、津波、原発事故は衝撃的だった。近代日本が遭遇した巨大災害だ。機械近代、文明が築いてきた日本に最大の危機が訪れている。自身、これまで生きてきてこのような災害に遭うのは初めてだ。
災害復旧、それと原発事故への手当は最も望まれるところだ。が、これに関わる一連の情報を聞いていて思うことは、従来の価値尺度では捉えられないようなものがあるということだ。
国家の体質が問われている。体裁をとりあえず繕うという旧来の思考回路では間に合わない事態が生じている。とくには原発事故である。これへの情報が極めて曖昧で国民の不信、不安を掻き立てている。放射能汚染は、自国だけの問題ではない。飛散すれば外国の空も汚しかねない。その影響は計り知れない。
今朝の新聞は、諸外国で日本の情報への不信が高まっていることを伝えている。「朝日新聞」の記事である。
福島第一原子力発電所からの待避勧告の範囲が日米両政府間で大きく食い違ったことをきっかけに、日本政府や東京電力の情報に対する不信感が欧米で強まっている。
米国は、「原発80キロ圏外へ 自国民避難勧告」を出した。30キロと80キロでは大きく違う。この判断は難しいと思う。米国からすれば、対岸の火事である、安全性のみを基準にすれば80キロということになるだろう。が、われらは日本国内に住んでいる。ぎりぎりの瀬戸際にあって、社会混乱を予測しながらこの範囲にとどめたと信じたい。そこには政治的判断があるはずだ。
国家を統率する政府は責任を持たなくてはならない。判断の土台としての情報を明確に開示すべきである。とりあえず情報を発表して体裁を繕うということでは誰も納得しない。
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2011年03月17日
下北沢X新聞(1776)―地震、災害、民主主義―

(一)
「トタン屋根に、なにかこうパラパラッと降ってきた感じで戦争は始まったんですよ」
何年か前の終戦記念日、紀伊國屋ホールで開かれたシンポジウムで妹尾河童さんが言っていた。戦争の始まりのことである。今、それと似たような状況だ。
忽然と起こった「東北地方太平洋沖地震」、それに続く、大津波、加えての原発事故である。信じられない情報がつぎつぎに飛び込んできて、事態が急変していく、あれよあれよという間に、計画停電となり、店から商品がなくなり、そして、今は原発事故による放射能汚染が危惧されている。
何が変わったか。まずは街の空気である。都心から離れた荏原地域は、普段は静かだ。お年寄りがノンキに散歩していたり、保育園の子どもが手を繋いで歩いていたりする。が、一変して空気がぴりぴりと張り詰め始めた。目黒区の災害放送も度々空気を震わせる。
駅へ急ぐ人のマスク姿が多く目に付くようになった。朝、開店前のドラッグストアでは長い行列ができている。開店してしばらく経つと何個もテッシュやトイレットペーパーを持った人が帰っていく。
店頭から多くの品物が消えている。電池がもうどこにもない。米もなくなった。パン粉や小麦粉もなくなった。うどん粉までもなくなった。家でうどんを作るのだろうか?。
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2011年03月16日
下北沢X新聞(1775)―みんな、苦境を生きよう大丈夫だ2―

(一)
喜びは拡散である。が、悲しみはその正反対の集中である。喜びは喜ぶことによって全身が解放される、血の巡りもよくなる。が、悲しみや憂いの霧を浴び続けると、自身がそのバリアに包まれて暗くなっていく一方だ。
「東北地方太平洋沖地震」が起こって以来、街中で立ち話をしている人、送られてきたメール、家族から聞いた話、そんな言葉の断片から、今多くの人が、心配で、不安で、たまらない気持ちでいることがよく分かる。人間は弱く、はかないものだ。飛び交う、行き交ううわさに既に死ぬ思いをしている人もいる。
未だ肉親の安否が知れずにいる人、物資もままならないままに寒い避難所で生活している人、なにもかにも財産を失って途方にくれている人も大勢いる。
激甚災害である。これを悔やんでも元には戻らない。どう考えてもどうなることでもない、むしろそれを考えることによって、気力が衰えてくる。気の不健康は、体に決していいものではない。敢えて言いたい、気を散じる努力をすることも大事だ。
続きを読む
2011年03月15日
下北沢X新聞(1774)―みんな、苦境を生きよう大丈夫だ―

(一)
「東北地方太平洋沖地震」によってわたしたちは体験したことのない被害に遭遇した。地方でも、テレビなどを通して固唾を呑んで様子を見守っている。福岡、宮崎、広島の人から安否を問う連絡があった。
宮崎の人は、津波警報が出て高台に避難したという。互いにやりとりをしてこの災害がどれだけ甚大かということが一層に分かってくる。
広島からかかってきた安否確認は藤井照子さんだった。昭和二十年八月六日、広島電鉄家政女学校の専攻科だった彼女は、広島駅前を、ノッチを入れて電車を発車させた瞬間に被爆した。青白い光が走って真っ暗になったという。
「電車のブレーカーが落ちたん思うたんですけどね……」
彼女は真っ暗な中を後部へと行くときに身が浮いた。モーターカバーが吹き飛んでいてそこに落ちてしまったという。もうその彼女も八十一歳である。
「去年、東京で先生にお会いしましたでしょう。孫の結婚式で、この子の家がオール電化で、コンロが使えないというのですよ。買いに行ったら一つもありもしない。それでこちらに連絡があって母親が買いに行って、娘に送ったんですよ。東京は大変ことになっているようで…ない食糧があったら言ってください。送りますから…」
東京で起こっている買い占め騒ぎを知っておられた。
「体の調子ですか、あんまりよくないんですよ。甲状腺ホルモンがなんかうまくいかないみたいで、なかなかお医者さんもわからない言われるんですよ……」
彼女は被爆者である。その後遺症にずっと苦しんできた。それから逃れることができない。いつも感じることは、そこは慰めようがない。原爆被害は瞬間だけのものではない。その恐ろしさは人々にあまり認識されていないようだ。永久に体を蝕んでいくものである。
続きを読む
2011年03月13日
下北沢X新聞(1773)―震災、津波、人間2―

(一)
「東北地方太平洋沖地震」によって引き起こされた被害は想像をはるかに超えるものだ。
未曾有の災害である。つぎつぎに流されるリアルタイムの映像は恐ろしい。津波が一呑みに街を襲っていくさまは酷く、凄まじい、強烈である。高台からそれを見ている人が、あっ、おっ、とかの嘆声をあげる。たちまちに大波は、家々を破壊し、街中に大きな船が飛び込んできて建物と衝突し、土煙を上げる。この世のものとは思えない。
人知を尽くして築いてきたものが一瞬に崩壊、崩落していく。なんともあっけないものである。人は、ただ手をこまねいて見ているしかない。が、その渦中にいる人はそんなことを考えるいとまもない。
人間とは何か。深く考えさせられたことだ。現世の風景も人の生活も、あっけなく、はかないものだということだ。たまたま自身がそこに居ないだけの話であって、いつ何時そういう災難に出会うかわからない。
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2011年03月12日
下北沢X新聞(1772)―震災、津波、人間―

東北地方太平洋沖地震 2011年3月11日発生
(一)
自宅で仕事をしているときに、地震に遭遇した。これまでにない大きな揺れだ。右に左に大きく揺れる。あれよあれよと言う間に、書棚からつぎつぎに本などが落下していく。テレビを点けた。速報が流されている、震源域は東北のようだった。それにしても揺れが大きい、しかもそれが長い。ああ、こうやって潰されて死んでいくんだとも思った。
何とか持ちこたえた。が、テレビは、刻々と進行していく時間を映し出していく。津波が押し寄せ、つぎつぎに陸地を食べていく。がれきを呑み込んだ津波が国道へと向かう。が、縦に襲う大波と、横方向に進む車の流れが見える、ああっと思っているとやがてくさびを刺すように津波が国道を呑み込む。
デジタル化したテレビは、ヘリコプターからの映像をリアルタイムで映していく。現場に居る者、空撮している者、そして、またそれをニュースとして見ている者、あまりにも立場が違う。
続きを読む
2011年03月10日
下北沢X新聞(1771)―駒沢線は軍歌ラインか?―

(一)
人間の情感と音楽は密接に結び付いている。遙か遠い昔から生活の中に生きていた。共に労働するときに歌う、すると調子を合わせられる、辛い仕事もはかどる。共同体の中では欠かせないものだった。
古代の歌垣もうただ。歌掛き、歌懸きだという。歌を掛け合う。男女が川や浜辺などの境界ラインに集って歌を互いに歌う。
わたしは空が真っ青に晴れたときには筑波嶺に向かって歌をうたいます。
「嶺にまとわりついている柔らかい白雲よ、わたしを抱きしめておくれ。」
おれは稲を刈るときに筑波嶺に目をときどきやるんだ。
「愛しいお前、わたしはあの優しい筑波嶺の雲だ、きっとお前を強く抱きしめてやる。」
野原で交わされる歌垣である。ここで男女が結び合わさって歴史が築かれてきた。景色の中にある目の溜は、多くは山々だった。そこには神々が住んでいた。
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2011年03月09日
下北沢X新聞(1770)―「下北沢文士町」探訪ツアー総集編―

(一)
他者から見て町がどう見えたのか、そして、また、実際に行って得られたものをどう生かすのか、大事なことである。主題は、「下北沢文士町」見学である。
「鉄塔沿いに、色んなエピソードが埋まっていることは初めて知りました。」
河口湖町の図書館、生涯学習館の主催で来られた文士町見学の人が洩していた。
「電気は目に見えないものですが、この一帯を南北に縦断している高圧線には多くのエピソードがあります。これは駒沢線といいます。これに沿って音のエピソードが眠っています。鉄塔には番号が振られています。萩原朔太郎は61号鉄塔です、三好達治は57号鉄塔です。詩の師弟は高圧線で結ばれています。64号の下には帝国音楽院という学校がありました。また、55号の下には今でも表札がかかっています。大村能章とあります。『貴様と俺とは同期の桜〜』を作曲した人です。このほか、著名な作詞者、作曲家もこの鉄塔沿いに居住していました」
バスの駐車場として「天理教本月分教会」を借りた。そのすぐ隣が代田南地区会館である。このジオラマが鉄塔を説明する場合には一番役立つ。
「確かに近代郊外風景ですね……」
一人の参加者が言っていた。
われらの文士町、町並みがのっぺりとあるだけだ。
「三好達治さんところって、何もないんですけど何か建てられないんですか?」
参加者の感想だ。
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2011年03月07日
下北沢X新聞(1769)―「下北沢文士町」観光案内ツアー4―

(一)
富士河口湖町の図書館、生涯学習館の活動の一環としての「下北沢文士町」訪問について早速に反応があった。「おかげさまで、充実した一日を過ごすことができました。みなさん、とても大喜びで大変感謝しています。」という御礼の言葉である。これに関わった私たちとしては嬉しい反応である。
とくには「下北沢文士町」が地域だけのものではないということは大事であろう。他所から見て、別の新たな価値を持つというものだ。全国区たりうるという認識を持っていい。
読書の啓蒙活動としての当地訪問というのは自分には想定外だった。が、あらかじめここへ行くから当該文学作品を読んで置くようにして、実際にそこを訪れる。それが可能だということが今回の例から分かったことだ。
来訪の意図が明確に見えていなかったゆえに参考図書の例示はしなかった。しかし、「北沢川文学の小路」を皆さん持っておられたことから、これで情報を得られたように思う。
初めてのことだけに私もよく分かっていなかった。先方も、どの程度のものなのかは不明だったように思う。当初は、文士町を見て、もう一箇所との計画だったようだ。が、それはやめて当地一本に絞った。
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2011年03月06日
下北沢X新聞(1768)―「下北沢文士町」観光案内ツアー3―

(一)
文化は文化と出会ってにおいを放つ。そんな実感を得たことだ。富士である。朝、八時半に河口湖町を発って、当地、文士町を見学に来られた方々である。
標高が八、九百あるようで、寒いという、こちらは温かく感じられるそうだった。
「富士は、いつもわたしは背中に感じて暮らしていますね。生まれたときからずっと住んでいますからね。」
「わたしは、いつも見つけるのですよ。あああそこにあるんだなと確認しますよ。もともとは世田谷用賀に住んでいたんですよ。富士が好きで移り住んでいったんですけどね、やっぱりいいですよ……」
三月五日、山梨県富士河口湖町の、二十名ほどの人々がバスに乗って我が文士町を来訪された。町の図書館の読書啓蒙活動の一環としてでである。「シモキタザワ猫町」のパンフレットを手に入れて今年の文学散歩はこれだと決めておられたそうだ。
印象的なことは、普段案内する年齢層よりも一段と若い方が多かったことである。図書司書の方は、見学に関連する作品文学書を選んで、紹介をされたという。とくに「蕁麻の家」と「父の帽子」は極力読んでくるようにと伝えたそうである。
もう一つ、驚いたことは、参加者が「北沢川文学の小路物語」の複写を持っておられたことである。それを読んでこられたようだ。確かにこれを読めば、一帯の文士たちのエピソードがおおよそは分かる。とおに無くなったものだが、意外なところで生きていた。
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2011年03月04日
下北沢X新聞(1767)―「下北沢文士町」観光案内ツアー2―

(一)
遠来の来訪者は河口湖町からである。図書館活動の一環としての「文士町」見学である。彼の地の文学エピソードは知っておく方がいい。調べると太宰治と谷崎潤一郎とがあった。
太宰治の作品に「富岳百景」がある。高校の教科書教材として何度も接した覚えがある。
御坂峠、海抜千三百米。この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。私は、それを知つてここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。 「富岳百景」
この天下茶屋が河口湖町にある。太宰治はここに滞在して小説を執筆していた。この作品に出てくるのが「富士には、月見草がよく似合ふ。」というフレーズだ。
「当日、天気がよければ、ぜひ代田円乗院の裏手に行きましょうよ。」
ツアーを手伝ってくれる米澤邦頼さんが言った。寺の裏の高台からは富士がよく見える。
「方向、方位、自分がどこに居るのか、分かることは大事だね。」
こう自分で言って同意した。そこは萩原朔太郎旧居のすぐ近くだ。ここから、富岳を望むというのも悪くない。詩人と小説家、生きることにおいて不器用だったという共通項があるように思える。……「鉄塔には、朔太郎がよく似合ふ」
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2011年03月03日
下北沢X新聞(1766)―「下北沢文士町」観光案内ツアー―

(一)
この間うちから落ち着かないで、そわそわしている。第一声で何を話したらいいのか?、どんな枕を振って話したらいいのか?……。
「下北沢文士町に遠くからよくいらっしゃいました。かつて多くの文学者たちが住んでいました。ここを文士村と呼ばず、文士町と言っているのはいくつかの理由があります。一つにはいまだ現役であるということです。文学の舞台であり続けているということです。『街の座標』という清水博子さんの小説がありますが、これは下北沢での鉄道交差をシンボライズしたものです。下北沢ならではというものです。最近では、吉本ばななさんの『もしもし下北沢』という作品があります。この冒頭に映画『ざわざわ下北沢』のことが書かれています。なんとなく雑然とした、多くの何かが入り交じっている予感がしますが、実はこのあたりは文士町の端っこで雰囲気的には『しずしず下北沢』的な場ですね……」
「かつてそうですね、昭和十年あたりは田園地帯ですね。このすぐ北側に萩原朔太郎が住んでいましたが、彼の家から眺めは、『庭前一円、世田谷の平野』と述べていますが、ここはその平野のまっただ中です。家々が建て込んでいて想像もできませんね。近くの施設に一帯のジオラマがあるのでそこへ行きましょう……」
自分のイメージトレーニングである。施設は、代田南地区会館である。
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2011年03月01日
下北沢X新聞(1765)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報第56号〜
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第56号 WEB版
2011年3月1日発行(毎月一回発行)
会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、淡島明神灸治伝説(1)
これはな、もう今から二百年ぐらい前の文化十一年頃の話しじゃ。武州世田谷領北澤村に淡島大明神があっての、ここのお灸がとびっきり効いたんだよ。六斎日と言われる、三と八のつくの日にこのお灸が行われたんだよ。もうその日は、まだ日の明けないうちからお灸が始まって、ずっと一日中この灸治の煙が絶えなかったもんさ。それほどの大人気だったんだよ。
それもそのはずじゃ、「淡島明神より夢想の告によりて名灸の治法を得た」とかで、神様のお告げを得たお灸ということでそれはそれは知らない人もないほどじゃった。
人気の理由はなんと言っても効き目だ。普通のところで施すものよりも、もぐさが三倍でっかくてな、それをしかも三灸ずつも据えるんだからな。効き目も三倍あると信じられたんだろうな。
あっちあっちとその灸治を受けると必ずその跡から腫れ物のようにいぼができてそこから膿がどんどん出てくるんじゃ。「かくの如くなる時ハ惣身の凝血毒悉く出尽くして無病壮健」というんだからな。万病に効くというわけさ。だからこの話がちまたに伝わらないわけはない。それでもう大勢の人たちがこれを信じて三八の日ともなればもう山のように人が集まってくるんだ、それがみんな「灸治をしてくれ」「お灸を!」と来るんだ。
頻繁に来る人は講中と号して、ここに加わるんだな。そうすると一番より五十番まではその順番を優先的にもらえるんだよ。 ところがこれに入っていない一般庶民は、お灸に預かれるかどうかわからない。それでもう前の晩から並ぶとかするんだな。まあ、施し順順が一番から三百何番までと決まっているんだがな、これにあぶれる人もでるというのでもう朝から晩まで灸治の人でごった返していたというんだからな。
これは「遊歴雑記」に書かれたものをもとにして、書き改めてみたものである。いわゆる逐語訳ではなく、おおよそこんなことが書いてあるだろうということでまとめたものである。それでも当時の雰囲気が、ここから伝わってくる。
この著者は、江戸小日向水道端の廓然寺四世・十方庵津田大浄敬順である。「文化九年隠居して郊外に花月を求める日々を送ったが、その折々の見聞を纏めたものが本書」(「世田谷地誌集」世田谷郷土博物館編集、解題)だという。
2、三月、四月、五月の特別行事
(一)桜祭りでの地図配布活動
恒例の桜祭りでの地図配布です。「下北沢文士町文化地図」改訂四版の配布を花見見物の人に配ります。土地の記憶、歴史の記憶、その聞き書き活動でもあります。老若男女大勢の人が通りかかりますが、とくには人生を長く生きてきた人は、一冊の書物です。通りかかった人から、自己人生の何ページかを聞かせてもらいます。
こんな活動から新たな情報が集まって、隠れた文化遺産を掘り起こすこともできます。人の記憶に埋もれている金鉱脈を皆さん、参加して掘り起こしましょう。
楽しんで参加してください。
予定 4月2日(土)、3日(日) 場所 代沢小安吾文学碑前
時間 午前十時ぐらいから午後四時ぐらいまで
飲み物は用意します。マイカップ、マイ箸持参、差し入れや手作りのもの大歓迎
一日地図を配って楽しみましょう。見知らぬ人との交流が面白い!
参加歓迎します。差し入れも歓迎します。どうぞおいでください。
*桜の開花時期によって期日が移動する場合があることに注意
(二)三田用水跡見学ツアー
昨年暮れ、代官山ヒルサイドテラスで三田用水についての研究発表会が行われた。この水路跡が水利史、産業史、文化史的にも貴重だという発表があった。その場での質疑応答で、ぜひ地図上の案内看板を作ってほしいと提案もしたものだ。
現今、この跡はほとんど残っていない。ところどころにその痕跡があるのみである。この三田用水の関心が高まっている折であることから今回、三田用水ゴールデンルートの街歩きツアーを企画した。長年、この水路に関心を持って調査されてこられた、きむらたかし氏を特別講師として招いての催しである。
実施期日 4月9日(土) 集合地点、時間 笹塚駅改札前 10時
参加費用 500円 案内人、特別講師 きむらたかし氏
昼食については各自持参(西郷山公園を予定)
定員 30名(先着順) *小雨程度なら決行
*基本的には各自持参の弁当を食べる。酒食はかまわない。「北沢川文化遺産」会合方式の、一品持参は強要はしないが、手作り漬け物、手作りなんとかの振る舞いは歓迎する。
コース 笹塚取水口跡…亀泉堂和菓子(芋羊羹食味自由)…水路の橋の痕跡…(推定・山下口)水路跡…三角橋…駒場橋…二ツ橋…東大裏純粋階段…西郷山公園…猿楽塚・旧朝倉家水車跡…新田道上手口水車堀跡…田道のポンプ小屋跡…日の丸自動車前…新・銭瓶(噛)窪経由…旧白金分水(=旧・銭瓶(噛)窪左岸分水)など…恵比寿ガーデンプレイス。16時頃到着、ビアホールでの一杯打ち上げはありか?
申し込み受付は広報で知らせた段階から行いたい。資料の準備があるので必ず連絡してほしい。メールでの申し込み、aoisigunal@hotmail.com(きむらけん)へ、電話での申し込み 090−3501−7278 米澤邦頼へ
他団体からの参加も予想されるので極力早めに連絡を。
(三)第4回「戦争経験を聴く会、語る会」
期日 5月22日(日) 午後一時半から四時半まで
主催 北沢川文化遺産保存の会
後援 北沢3、4丁目まちづくり協議会
「海軍第14期飛行予備学生」の話を聴く
数名の方が話してくださいます
場所 北沢タウンホール 12F スカイサロン 無料
四月末日までは、aoisigunal@hotmail.comメールで受付ける。
3、定例会:歩く会について
都市物語を旅する会
「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺及び荏原の文化探査をしている。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっている。集合地点はそのつど変わる。基本的には少人数で10数名ぐらいというものである。それぞれが歩く会に参加して楽しむというものだ。最後は世田谷「邪宗門」か、他の場所の喫茶店で、お茶を飲みながら歓談している。参加費は依頼講師の場合は数百円円、それ以外は数十円の資料代を徴収している。なお、保険には加入していない。事故のないよう各自で責任を持ってほしい。
この会は参加の義務はない。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりだ。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する。個々人が歩いて文化を発見し楽しむというのがねらいである。歩きは文化だ、健康保持の上でもベストなものだと考える。
これまで実施したコースはつぎの通りだ。
・代田連絡線の跡を歩く(3回)・小説「猫町」を歩く(4回)・下北沢の大谷藤子を歩く・「森茉莉」足跡を歩く(5回)・下北沢の銭湯跡を歩く・下北沢の無頼派を歩く・下北沢の教会を歩く(3回)・坂口安吾の通勤ルートを歩く(2回)・駒沢線詩歌文学ラインを歩く(2回)・下北沢の映画痕跡を歩く・ダイダラボッチ川を歩く。・下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。・代田のダイダラボッチ痕跡を訪ねる(3回)・代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)・林芙美子から坂口安吾を歩く・.「下北沢店員道場を検証する」・池の上の古い町並を歩く ・下北沢の詩人痕跡を訪ねる(3回)・「森厳寺川の源流を探索する」(3回)・「代田の歴史を歩く」・駒沢練兵場を歩く(2回)・滝坂道を歩く(3回)・駒場の戦跡を歩く(2回)・下北沢の踏切文化を検証する ・高須光治「下北沢風景」と近代日本文学 ・東京山手急行の痕跡を尋ねる ・北沢川を源流から歩く ・ 代々木山谷芸術村から下北沢文士町へ 世田谷代田地形学入門 新春言祝ぎ紀行
・陸軍調布飛行場の跡を歩く ・駒場の鷹狩り跡を歩く 三田用水跡を歩く(3回)
・第58回 3月19日(土)午後一時 下北沢駅北口
「森茉莉の足跡を歩く」 下北沢の森茉莉が歩いた、立ち寄った、描いた場所を歩き、
最後は森茉莉ゆかりの「邪宗門」へ シモキタの街角に彼女の姿を想像しながら歩く
・第59回 4月16日(土)午後一時 明大前改札口
東京山手急行の痕跡を尋ねる
特別講師 別宮通孝 資料代300円
・第60回 5月14日(土) 午後一時 下北沢駅北口
シモキタザワ「猫町」散歩
萩原朔太郎の唯一の小説の舞台を歩く(追悼行事)
*注記 五月十一日 代田自宅で亡くなる。この行事は第二週になっている。
・第61回 6月18日(土)午後一時 代田橋駅北口
下北沢地形学入門 淀橋台から森厳寺川崖線を歩く
・第62回 7月16日(土)午後一時 池尻大橋駅
恒例、夏追悼行事 「駒沢練兵場、野砲兵兵営跡を歩く」
・第63回 9月17日(土)午後一時 下北沢駅北口
下北沢の詩人痕跡を歩く 第二書房旧居見学が新たに加わる。
・第64回 10月15日(土)午後一時 京浜急行新馬場駅改札前
大井町の萩原朔太郎
「蛇窪の踏切」シリーズ�“衒乎�踏切、蛇窪踏切、朔太郎旧居
・第65回 11月19日(土)午後一時 池上線 長原駅改札前
ダイダラボッチと東工大
「蛇窪の踏切」シリーズ�⊂�池、大池、狢窪、東工大、擂鉢山
・第66回 12月17日(土)午後一時 代田橋駅前北口
代田半島地形学入門 昨年、好評だったことから第二回を実施する
◎申し込み方法、参加希望について
参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします)
電話の場合、米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com
■ 編集後記
▲「名入りブルゾン構想」、ご意見をください。「北沢川文化遺産保存の会」と背中に文字を入れたブルゾンを作る。ツアーや行事のときに使う。3000円ぐらい?。�〆遒襪里覆虱澆靴ぁ���比較的低廉でできるところを知っている。�J源�デザインなどをしてもよという人�と�注まとめをしてもいいよという人。/基本は�,�分からないと作れない。希望される場合には、「ブルゾン一枚希望」と米澤さんや、わたしや邪宗門に伝えてください。「北沢川文化遺産保存の会」の名が廃る、と、別のことで言われました。考えとして、名を売るな。「名が廃る、作るな!」も意見としてありです。自由な会ゆえにこれは重要視します。ぜひ多くの意見を言ってください。真黄色に赤い文字で「北沢川文化遺産保存の会」と染めたら?。希望が十枚に達すれば着手しようと思います。
▲「北沢川文化遺産保存の会」をウィキに載せよう。会を紹介する記事をこれに記入して登録してください。自身でできないことはないのですが、当事者が書き込むと我田引水になるように思えます。会のことについておよそのことが既にネットに載っています。それを参照して書いていただければ助かります。基本項目ができれば編集は誰でもできます。
▲「納涼会」夏の会の会場が取れました。幹事の金子善高さんが北沢タウンホールに行って取ってくださいました。期日は、8月6日(土)5時30分からです。60人用ですから冒頭に劇もできます。各自一品産品を持参しての自慢は好評です。今から何か楽しいことを考えておいてください。当日の予定も空けておいてください。
▲「下北沢文士町」の案内講義依頼。3月は二回、5日、富士宮市生涯学習課、市民がバスで来訪し、「下北沢文士町」を巡る。都外からの初のツアー。「森茉莉弁当」が用意される。3月26日、世田谷区立代田図書館。講演と散歩、区広報で参加者募集。
・当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com○「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。
年会費1000円です。劇部、研究会など主体的な活動もできます。会員にはこの会報を自宅に郵送しています。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。なお、会費未納の場合納入にはよろしくお願いします。
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第56号 WEB版
2011年3月1日発行(毎月一回発行)
会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、淡島明神灸治伝説(1)
これはな、もう今から二百年ぐらい前の文化十一年頃の話しじゃ。武州世田谷領北澤村に淡島大明神があっての、ここのお灸がとびっきり効いたんだよ。六斎日と言われる、三と八のつくの日にこのお灸が行われたんだよ。もうその日は、まだ日の明けないうちからお灸が始まって、ずっと一日中この灸治の煙が絶えなかったもんさ。それほどの大人気だったんだよ。
それもそのはずじゃ、「淡島明神より夢想の告によりて名灸の治法を得た」とかで、神様のお告げを得たお灸ということでそれはそれは知らない人もないほどじゃった。
人気の理由はなんと言っても効き目だ。普通のところで施すものよりも、もぐさが三倍でっかくてな、それをしかも三灸ずつも据えるんだからな。効き目も三倍あると信じられたんだろうな。
あっちあっちとその灸治を受けると必ずその跡から腫れ物のようにいぼができてそこから膿がどんどん出てくるんじゃ。「かくの如くなる時ハ惣身の凝血毒悉く出尽くして無病壮健」というんだからな。万病に効くというわけさ。だからこの話がちまたに伝わらないわけはない。それでもう大勢の人たちがこれを信じて三八の日ともなればもう山のように人が集まってくるんだ、それがみんな「灸治をしてくれ」「お灸を!」と来るんだ。
頻繁に来る人は講中と号して、ここに加わるんだな。そうすると一番より五十番まではその順番を優先的にもらえるんだよ。 ところがこれに入っていない一般庶民は、お灸に預かれるかどうかわからない。それでもう前の晩から並ぶとかするんだな。まあ、施し順順が一番から三百何番までと決まっているんだがな、これにあぶれる人もでるというのでもう朝から晩まで灸治の人でごった返していたというんだからな。
これは「遊歴雑記」に書かれたものをもとにして、書き改めてみたものである。いわゆる逐語訳ではなく、おおよそこんなことが書いてあるだろうということでまとめたものである。それでも当時の雰囲気が、ここから伝わってくる。
この著者は、江戸小日向水道端の廓然寺四世・十方庵津田大浄敬順である。「文化九年隠居して郊外に花月を求める日々を送ったが、その折々の見聞を纏めたものが本書」(「世田谷地誌集」世田谷郷土博物館編集、解題)だという。
2、三月、四月、五月の特別行事
(一)桜祭りでの地図配布活動
恒例の桜祭りでの地図配布です。「下北沢文士町文化地図」改訂四版の配布を花見見物の人に配ります。土地の記憶、歴史の記憶、その聞き書き活動でもあります。老若男女大勢の人が通りかかりますが、とくには人生を長く生きてきた人は、一冊の書物です。通りかかった人から、自己人生の何ページかを聞かせてもらいます。
こんな活動から新たな情報が集まって、隠れた文化遺産を掘り起こすこともできます。人の記憶に埋もれている金鉱脈を皆さん、参加して掘り起こしましょう。
楽しんで参加してください。
予定 4月2日(土)、3日(日) 場所 代沢小安吾文学碑前
時間 午前十時ぐらいから午後四時ぐらいまで
飲み物は用意します。マイカップ、マイ箸持参、差し入れや手作りのもの大歓迎
一日地図を配って楽しみましょう。見知らぬ人との交流が面白い!
参加歓迎します。差し入れも歓迎します。どうぞおいでください。
*桜の開花時期によって期日が移動する場合があることに注意
(二)三田用水跡見学ツアー
昨年暮れ、代官山ヒルサイドテラスで三田用水についての研究発表会が行われた。この水路跡が水利史、産業史、文化史的にも貴重だという発表があった。その場での質疑応答で、ぜひ地図上の案内看板を作ってほしいと提案もしたものだ。
現今、この跡はほとんど残っていない。ところどころにその痕跡があるのみである。この三田用水の関心が高まっている折であることから今回、三田用水ゴールデンルートの街歩きツアーを企画した。長年、この水路に関心を持って調査されてこられた、きむらたかし氏を特別講師として招いての催しである。
実施期日 4月9日(土) 集合地点、時間 笹塚駅改札前 10時
参加費用 500円 案内人、特別講師 きむらたかし氏
昼食については各自持参(西郷山公園を予定)
定員 30名(先着順) *小雨程度なら決行
*基本的には各自持参の弁当を食べる。酒食はかまわない。「北沢川文化遺産」会合方式の、一品持参は強要はしないが、手作り漬け物、手作りなんとかの振る舞いは歓迎する。
コース 笹塚取水口跡…亀泉堂和菓子(芋羊羹食味自由)…水路の橋の痕跡…(推定・山下口)水路跡…三角橋…駒場橋…二ツ橋…東大裏純粋階段…西郷山公園…猿楽塚・旧朝倉家水車跡…新田道上手口水車堀跡…田道のポンプ小屋跡…日の丸自動車前…新・銭瓶(噛)窪経由…旧白金分水(=旧・銭瓶(噛)窪左岸分水)など…恵比寿ガーデンプレイス。16時頃到着、ビアホールでの一杯打ち上げはありか?
申し込み受付は広報で知らせた段階から行いたい。資料の準備があるので必ず連絡してほしい。メールでの申し込み、aoisigunal@hotmail.com(きむらけん)へ、電話での申し込み 090−3501−7278 米澤邦頼へ
他団体からの参加も予想されるので極力早めに連絡を。
(三)第4回「戦争経験を聴く会、語る会」
期日 5月22日(日) 午後一時半から四時半まで
主催 北沢川文化遺産保存の会
後援 北沢3、4丁目まちづくり協議会
「海軍第14期飛行予備学生」の話を聴く
数名の方が話してくださいます
場所 北沢タウンホール 12F スカイサロン 無料
四月末日までは、aoisigunal@hotmail.comメールで受付ける。
3、定例会:歩く会について
都市物語を旅する会
「北沢川文化遺産保存の会」は毎月テーマを決めて下北沢周辺及び荏原の文化探査をしている。毎月、第3土曜日の午後1時に集まっている。集合地点はそのつど変わる。基本的には少人数で10数名ぐらいというものである。それぞれが歩く会に参加して楽しむというものだ。最後は世田谷「邪宗門」か、他の場所の喫茶店で、お茶を飲みながら歓談している。参加費は依頼講師の場合は数百円円、それ以外は数十円の資料代を徴収している。なお、保険には加入していない。事故のないよう各自で責任を持ってほしい。
この会は参加の義務はない。ふらりと参加して、歩き、そして、歓談して終わりだ。またいつかテーマで面白いなと思った時に参加する。個々人が歩いて文化を発見し楽しむというのがねらいである。歩きは文化だ、健康保持の上でもベストなものだと考える。
これまで実施したコースはつぎの通りだ。
・代田連絡線の跡を歩く(3回)・小説「猫町」を歩く(4回)・下北沢の大谷藤子を歩く・「森茉莉」足跡を歩く(5回)・下北沢の銭湯跡を歩く・下北沢の無頼派を歩く・下北沢の教会を歩く(3回)・坂口安吾の通勤ルートを歩く(2回)・駒沢線詩歌文学ラインを歩く(2回)・下北沢の映画痕跡を歩く・ダイダラボッチ川を歩く。・下北沢の稲荷社・庚申塔・地蔵尊を歩く。・代田のダイダラボッチ痕跡を訪ねる(3回)・代田の詩人師弟を歩く(萩原朔太郎・三好達治)・林芙美子から坂口安吾を歩く・.「下北沢店員道場を検証する」・池の上の古い町並を歩く ・下北沢の詩人痕跡を訪ねる(3回)・「森厳寺川の源流を探索する」(3回)・「代田の歴史を歩く」・駒沢練兵場を歩く(2回)・滝坂道を歩く(3回)・駒場の戦跡を歩く(2回)・下北沢の踏切文化を検証する ・高須光治「下北沢風景」と近代日本文学 ・東京山手急行の痕跡を尋ねる ・北沢川を源流から歩く ・ 代々木山谷芸術村から下北沢文士町へ 世田谷代田地形学入門 新春言祝ぎ紀行
・陸軍調布飛行場の跡を歩く ・駒場の鷹狩り跡を歩く 三田用水跡を歩く(3回)
・第58回 3月19日(土)午後一時 下北沢駅北口
「森茉莉の足跡を歩く」 下北沢の森茉莉が歩いた、立ち寄った、描いた場所を歩き、
最後は森茉莉ゆかりの「邪宗門」へ シモキタの街角に彼女の姿を想像しながら歩く
・第59回 4月16日(土)午後一時 明大前改札口
東京山手急行の痕跡を尋ねる
特別講師 別宮通孝 資料代300円
・第60回 5月14日(土) 午後一時 下北沢駅北口
シモキタザワ「猫町」散歩
萩原朔太郎の唯一の小説の舞台を歩く(追悼行事)
*注記 五月十一日 代田自宅で亡くなる。この行事は第二週になっている。
・第61回 6月18日(土)午後一時 代田橋駅北口
下北沢地形学入門 淀橋台から森厳寺川崖線を歩く
・第62回 7月16日(土)午後一時 池尻大橋駅
恒例、夏追悼行事 「駒沢練兵場、野砲兵兵営跡を歩く」
・第63回 9月17日(土)午後一時 下北沢駅北口
下北沢の詩人痕跡を歩く 第二書房旧居見学が新たに加わる。
・第64回 10月15日(土)午後一時 京浜急行新馬場駅改札前
大井町の萩原朔太郎
「蛇窪の踏切」シリーズ�“衒乎�踏切、蛇窪踏切、朔太郎旧居
・第65回 11月19日(土)午後一時 池上線 長原駅改札前
ダイダラボッチと東工大
「蛇窪の踏切」シリーズ�⊂�池、大池、狢窪、東工大、擂鉢山
・第66回 12月17日(土)午後一時 代田橋駅前北口
代田半島地形学入門 昨年、好評だったことから第二回を実施する
◎申し込み方法、参加希望について
参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします)
電話の場合、米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com
■ 編集後記
▲「名入りブルゾン構想」、ご意見をください。「北沢川文化遺産保存の会」と背中に文字を入れたブルゾンを作る。ツアーや行事のときに使う。3000円ぐらい?。�〆遒襪里覆虱澆靴ぁ���比較的低廉でできるところを知っている。�J源�デザインなどをしてもよという人�と�注まとめをしてもいいよという人。/基本は�,�分からないと作れない。希望される場合には、「ブルゾン一枚希望」と米澤さんや、わたしや邪宗門に伝えてください。「北沢川文化遺産保存の会」の名が廃る、と、別のことで言われました。考えとして、名を売るな。「名が廃る、作るな!」も意見としてありです。自由な会ゆえにこれは重要視します。ぜひ多くの意見を言ってください。真黄色に赤い文字で「北沢川文化遺産保存の会」と染めたら?。希望が十枚に達すれば着手しようと思います。
▲「北沢川文化遺産保存の会」をウィキに載せよう。会を紹介する記事をこれに記入して登録してください。自身でできないことはないのですが、当事者が書き込むと我田引水になるように思えます。会のことについておよそのことが既にネットに載っています。それを参照して書いていただければ助かります。基本項目ができれば編集は誰でもできます。
▲「納涼会」夏の会の会場が取れました。幹事の金子善高さんが北沢タウンホールに行って取ってくださいました。期日は、8月6日(土)5時30分からです。60人用ですから冒頭に劇もできます。各自一品産品を持参しての自慢は好評です。今から何か楽しいことを考えておいてください。当日の予定も空けておいてください。
▲「下北沢文士町」の案内講義依頼。3月は二回、5日、富士宮市生涯学習課、市民がバスで来訪し、「下北沢文士町」を巡る。都外からの初のツアー。「森茉莉弁当」が用意される。3月26日、世田谷区立代田図書館。講演と散歩、区広報で参加者募集。
・当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com○「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。
年会費1000円です。劇部、研究会など主体的な活動もできます。会員にはこの会報を自宅に郵送しています。入会は随時事務局の「邪宗門」で受け付けております。入会金はありません。年会費だけです。なお、会費未納の場合納入にはよろしくお願いします。



















