2012年01月
2012年01月31日
下北沢X新聞(2007) 〜X都市風景を複眼で読み解く6〜

変わらない 膳場のばばさま:冬景色
(一)
玉しきのX都市の中に棟を並べ甍を争う、高き卑しき人の人の住まいは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
鴨長明「方丈記」の一文を剽窃したが、街は瞬く間に変転していく。かつてあった店の名もその建物の佇まいとともに消えてゆく。
「この間、駅前にあったラーメン屋の名前が出てこなかったんですよ」
世田谷パブリックシアターの稽古場で行われたワークショップは地域の昔の話をしたが、ここが思い出せなかった。
「ラーメン屋は代一元、それとあそこではトンカツ太郎でした。地元の人もみんなよく行っていました」
喫茶「邪宗門」の慶子さんの答えだ。
「不思議なものですけどね、その店の名前が思い出されると、その辺りの風景が思い出されますね。記憶は名前だけではなく周辺情報まで覚えているんですね。人間の記憶というのは目印が必要ですね。先だって見ていたテレビで面白いと思ったことがありました。樹上生活を送っている原住民の話でした。家は古びるとまた別の木に家をこさえる。引っ越しは二三十年経つと行われると言っていました。文字は持っていないのです。記憶に頼っているんです。それで、人に話すときは、第一の家ではとか、第二の家ではとかいうふうに記憶の家単位で覚えているんですね」
私は、番組のことを手短に話した。それを説明しながら思い出した。彼等は喰ったものの骨を屋根裏の桁に吊したり、挟んだりしていた。「これがみんなで〇〇を祝ったときのもの」とか言っていた。食した残骸に記憶を託している。
我らは、壊したら壊したままだ。それと同時に街の記憶もごっそりとなくなってしまう。
「昔、『定食と下宿は下北沢』と言われていた時代があったのですね。沢沿いの家などは下が家族の住まいで上が貸間というのが多かったですね。高度成長経済期東京遊学組を受け入れていたのはこの一帯であった。
下宿に付随するのが銭湯だった。数多くあったこれがすっかりなくなった。続きを読む
2012年01月29日
下北沢X新聞(2006) 〜X都市風景を複眼で読み解く5〜

帝都線:危うし築堤
(一)
物事の最初は、全体がよく分からずにとまどうものだ。が、その場をくぐり抜けると分かってくる。昨日参加した会合のことだ。分かってみるとワークショップを通して地域の物語を創って劇を演じるという試みだった。その聞き書きの段階だった。
オリンピックを境にして世田谷から消えた???というのがテーマだった。受講生がグループに分かれてインタビューをする。世田谷の昔について質問を受けた。
「大きな違いは風景、音、臭いが消えたことです。特には私は鉄道に深い関心を持っています。電車が音を刻まなくなったことは大きいと思います」
玉電の走っていた街、小田急が駆け下りていた代田の坂などの話もしたことだ。玉電の下高井戸への専用軌道などにも線路工夫がいたように思う。
トコシャンター
コラションテー
三茶のそこ行くねえちゃん
トコションター
どうせ乗るなら玉電で玉の腰
コラサンター
彼等は即興的に歌を作っては歌っていた。似たような歌がうたわれていたのかもしれない。消えた音の一つではある。ワークショップは三茶のキャロットタワー、世田谷シアターの稽古場で行われた。
終わったときに受講生が感想を述べ、インタビューを受けた人がまた話をするというものだった。
「昭和二十年五月の山手空襲に遭ったときの話ですよ。辺り一帯は焼夷弾を落とされて燃えているんですよ。おやじは映画館に敷かれていた絨毯(じゅうたん)を慌てて丸めて、外にそれを放り出したところ、ボッと火が点(つ)いて燃えてしまったというんですからね…」
三軒茶屋中央劇場の主人の話だった。参加者の語りは往古の世田谷をあぶり出していた。自身でも寸評を言った。すると、お礼のメールがきた。
「木村様がおっしゃられた『演劇でやるだけでなく、語りべになって伝えてほしい』という言葉を胸に刻んでまいりたいと思います。」
自身のメッセージが届いたことで参加した甲斐(かい)があると思った。続きを読む
2012年01月28日
下北沢X新聞(2005) 〜X都市風景を複眼で読み解く4〜

大谷石:昭和の屋敷町の記憶
(一)
日々一帯を逍遙し、歩いていて郷愁を喚起されるのは大谷石の石垣、門柱、土止め石、石塀である。特にはこれを巡らした生け垣である。敷地の土台をこの石で巡らし、その上の土盛りにはジンチョウゲやドウダンツツジが植えてある。
昭和期になって一帯に私鉄電車が開通し、急速に宅地開発が進んでいった。武蔵野の台地を削り、そこに大谷石を据えて宅地を造成した。そのときの代表的な材である。
建材として現在でも用いられてはいるようだが、新しく造成されるところにこれが使われることは皆無だ。今残っているもののほとんどは宅地造成時のものである。
軽石凝灰岩は柔らかく加工がしやすい、それで多く用いられた。が、長い風雪に耐えられるというものではなかったようだ。表面が剥げ掛かった石塀にはしばしば出会うことがある。先の大地震で亀裂が入ったものも多い。
この石酸性雨には弱い。そのために溶けかかったものもある。門柱の表札部分の角がなくなっているものをよく見かける。往往にしてそんな家は一間だけ洋風の造りの文化住宅であることも少なくない。
大きな邸宅が壊され、そこが駐車場になる。礎石だけは大谷石のそれが残っている。裏玄関の階段だけが残っていて、その角がすり切れている。「ちわ、クリーニン屋ですが」、「こんにちは、魚屋ですが」と御用聞きの者たちが削ったあとに違いない。家政婦や女中と交わしたであろう会話が想像される。
続きを読む
2012年01月26日
下北沢X新聞(2004) 〜X都市風景を複眼で読み解く3〜

猫町:すきま通り
(一)
街とは何か?、その本質は隙間にこそシンボライズされるものだ。そう知ったことだ。
今回の街歩きの中で「猫町:すきま通り」というのがもっとも目新しい発見だった。複眼で街を読み解いた成果である。
一時間程度の街歩きを終えてそれぞれが撮った写真を提出した。そのときに他とは違ったものに目を向けて撮った人がいた。建築家の青野達司さんだ。彼は家と家とが接する隙間を狙って撮っていた。建物と建物との間に何かがある。誰もが目をつけない、その異視点は意外であった。そのことから彼が撮った一連のシリーズ写真から一枚を選んだ。
街歩きベスト5は、撮影者の了解を取って自身のSDカードに入れてもらったはずだったが入っていなかった。昨日、たまたま北沢総合支所にいくついでがあったことから不足する二枚を撮ってきた。他者の視点をまねたものだ。
隙間には空が見える。何本ものパイプが通してある、生活排水や屎尿(しにょう)汚水などを流すものだろう。電線が張りめぐらしてあったり、シャツやジーンズが干してあったり、まさに街の裏側である。混とんとしたものがそこにある。
拡大してみるとどうも人が写っている。マンションか何かの建築が行われていて、その作業に携わっている人のようだ。新たな街の隙間が作られている。見えない部分に人々の生活の裏側が透けてみえる。
続きを読む
2012年01月25日
下北沢X新聞(2003) 〜X都市風景を複眼で読み解く2〜

(一)
近代機械文明は人類に幸福をもたらした。この根幹は絶えざる拡大であり、成長である。それによって人々は快感を得ることができていた。ところが、資源の払底、人口の飽和などで右肩上がりの成長が望めなくなった。しかし、機械運動がつけた弾みはいまだ停まることはない。あれもこれも便利にしようとして都会はいまだ変貌を続けている。
この間新聞記事でダニエル・コーエン氏の言葉に出会った。「快感は成長が加速するときに得られるだけだ。新しいカメラを買った初日みたいなものだ。1年は続くかもしれないが、そのうち飽きてしまう。人を幸せな気分にするのは成長であって、豊かさそのものではない」。建物や施設ができて便利になると幸せな気分にはなる、が、一年も経つとそれはすっかり消え失せる。その代わり心をとめた風景はすっかりなくなってしまう。
「ビジュアルなXがなくなることで街は指標を失う、代わりになるものをどうみつけていくのかが大きな課題ではないだろうか」
北沢の「おもしろい」を探そうのまとめのプレゼンテーションではこう述べた。小田急の地下化が完成すると地表にあったビジュアルな路線は消えてしまう。それがもう迫ってきている。踏切警報音、電車の走行音、駅構内のアナンスも一気に消える。街を形づくっていたものがある日忽然と消えてしまう。
「いやね、駅が地下化したものだから方向が分からなくなって反対方向にどんどん行ってしまっていたんですよ」
久し振りに訪ねてきた人が道迷ったという。これは西小山駅の話だ。が、ここは将来地下化される下北沢駅と構造がよく似ている。
ビジュアルXは目標物だった。X交点の近傍に母親に別れを告げるために陸軍調布飛行場から特攻機が飛来してきた。上空を数回旋回して飛び去っていった。その場合、鉄道の交差が目印になったはずだと説明にはつけくわえた。続きを読む
2012年01月23日
下北沢X新聞(2002) 〜複眼的X都市風景批評1〜

(一)
この土日、風景づけの二日間だった。「風景づくりフェスタ」〜みんなで創ろう!せたがやの風景〜が北沢タウンホールで開催され、街歩きのフィールドワーク、風景資産についてのプレゼンテーションなどに参加した。
風景をつくるという視点はわたしたち人生の中で欠いているものである。二日目午後の基調講演では、「人はほとんどが風景を作ることもなく一生を終える」との指摘があった。これを聞いたとき、瞬時に「ああ、そうだったか」とどぎまぎした。ところが、ふと思い出したのは北海道のど真ん中に自身の発案がきっかけとなって赤松やとど松など千本もの樹木が植えられたことである。自分には一つはあると安堵したものだ。
しかし、思うに、日常の風景観察行動からすると、有用な風景資産は、つくろうとする前にどんどん消滅しているのが実情だ。その消失のスピードが作るに追いつかなくなっている。理由は簡単だ、機械文明が根こそぎ自然風景を破壊しているからだ。誰が何のために、それを行っているのかは見えない。機械文明は人知ではもう制御できないほどになっていると感ずるときがある、恐怖である。
一昨日、01/21のワークショップはフィールドワークを通しての街発見の試みを行った。〜北沢の『面白い』を探そう〜である。親子づれ、一般参加、活動人に別れて、実際の街を歩き、街の実像を捉えようとするものだ。
地図を片手に歩き、�,�もしろい! ��気になる! ��グループミッションを見つけようとするものだ。ミッションは、坂、赤、もう一つは冬である。自身は活動人グループに入りこれを見つけることとなった。
歩きながらカメラで気になる、あるいは面白いを撮ることとした。わずか一時間ばかりのまちあるきで数百枚のショットが集まった。この小さなツアーから帰ってからはベストファイブを選び、順位をつけて結果をプレゼンテーションするというものだ。
多くの目で見て、街の風景を捉えるという試みだ。結果として多視点で捉えたところに意外性があって面白かった。そしてまた、選んだベストファイブが街の背景や歴史や文化を象徴していた。話し合ってそれに気づいたことである。続きを読む
2012年01月22日
下北沢X新聞(2001) 〜Xcrossing saladbowl railroad(断章)下〜

「まあ、そういうことだな、クロッシングの近くにあるフミキリゴッドも知っている。レッドのよだれかけをつけてんだ」
「中尉、そのフミキリゴッドというのはなんですか?」
「駅のすぐそばの下北沢の踏切で、幼い姉が電車にはねられて死んだ。三年後の同じ七月にその弟がまた死んでしまった。おれも子どもの親だ、その悲しみはわかる。それで、二度と事故が起きないようにと踏切のそばに神をまつった。フミキリジゾウ。つまり、レールウェイクロッシングのゴッドだな。エッキス地点の近くだ。交点は男の子が見守っていて、そして神もバリアを作っている。だから油断するなよな」
「一万メートル上空でエッキス地点のディテールな話をしているなんて、地上のやつら知らないだろうな」
「そうだな、まったく及びもしないイマジネーションだろうな」
「中尉、何だか話を聞いてしまうと、投下ボタン押す指が鈍ってきますよ」
「戦争は非情なもんだ。敵を思いやったらボタンを押せない。リメンバーパールハーバーだ。やつらは通告なしにわれわれを攻撃してきたではないか」
「まもなくカワサキ上空です。高度は9986メートル、風向は、南南東、推測風速5,1メートル。雲量67パーセント」
ジョンストン少尉が棒読みするように情報を伝えた。
「先発隊が焼夷弾落として建物が燃え上がっているから、風はかなり強いと見た方がいいな。いいか南のオオタシティから回り込んでターゲットに向かう。左右の友軍機にはそう伝えるんだ。雲量は多いけれども視界は下降すればもっとクリアーに見えてくるだろう。いいかおれはトウキョウの地図は頭の中にインプットしている。ダンスしながらでもいけるんだ。こうやってな回り込んでいくんだ。右、旋回、おお地上はまっ赤だ。先発隊が派手にやったんだな」
機長は肩でちいさくダンスしながらいった。続きを読む
2012年01月20日
下北沢X新聞(2000) 〜Xcrossing saladbowl railroad(断章)中〜

「ノウノウ、レィルウェイのクロッシングは重要な攻撃拠点だ。線路がクロスして交わる地点は、人間がクロスするところだ,ピープルが入り乱れて交わると、そのタウンは活気を帯びてくる。ジャパンのシティの特徴だ。だからそのカナメであるポイントを攻撃で破壊する、古典的ともいえる戦略のワンツースリーだな」
「中尉、もしかして、それは、戦略のイロハっていうことですか」
「イエス、イエス、その通り、いいか戦略は研究から始まる。昭和四年のセタガヤビレッジの地図を見るとオダキュウラインだけが斜めに延びていて,シモキタザワは単なる,寒駅だ。わかるかロンリーな駅だ。ところが,昭和十五年の地図見るとテイトラインができていて,クロッシング地点には家々が湧いてきている、みごとなタウンになっている。エッキスにはエネルギーがあるんだ」
「ゲロメステイン大佐,相当な日本研究していますね。わたしなんか舌を巻いちゃいますよ」
「ドノバン少尉,おまえさんも大したもんだよ」
「どうしてですか?」
「ええっと,今日は何日だっけ?」
「イエス、サー,ええっと,1945年5月25日、ええっと、時間は22時ですね」
爆撃手は時計をのぞき込んで言う。
「おお,ジャパンの年歴では昭和20年だな,きょうび,『舌を巻く』という慣用句をちゃんと使えるジャパン人も少なくなっているのにおまえはうまく使ったな」
「イエスサー,このトウキョウ爆撃に備えてジャッカン,ジャパニーズを研究しました」
「それはいい心がけだ。敵のうわっつらを知っていただけでは相手をつぶせない,敵のフトコロを研究しないとうまくいかない。だからエッキス攻撃もしっかりやらないとな」
「中尉,そんなにエッキス攻撃はディフィカルトですか?」
「われらが乗っているB29爆撃機の飛行高度と速度,それに風向,風速,それらをノルデン式照準機にインプットして,爆弾の投下タイムを決める,物理的にはほとんど問題はない。しかし,これは個人的見解だが精神文化史的にはディフィカルトだな」
「な,なにか怖い点でもあるのですか?」続きを読む
2012年01月19日
下北沢X新聞(1999) 〜Xcrossing saladbowl railroad(断章)上〜

「あの鉄道交差がなくなってしまうのは残念ですよね」
突然に振られた話だったのでびっくりした。
「そ、そうですね、ビジュアルなエックスがなくなると何かターゲットを失いますね。」
代沢小出身だった彼にはXに交差する鉄道線路が街を捉える指標だった。自身でもそうだったゆえに同感したことだ。
「文学の源泉でもあったんですよ。交差したXが目的地だった。現実地表へのとっかかりですよね。交差認識とそこから始まる街並、場が生まれて物語ができていく。」
『小田急線と井の頭線が交差するひしゃげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわと締め付けてくる』と描いたのは「街の座標」の清水博子だ。Xを思惟した哲学だ。これも小田急が地下化すればできなくなる。
「とらえ所のない街になってしまいそうですね」
「ほんとそうです。物語が生まれなくなりますね。前にね、エックス交差は面白かったんですよ。物語の源でしたね。空想を存分に巡らすことができました。そうそう、前に書いた話がありました。」
………………………………………………………………………………
タマゴの形をした風防ドームに三人の男がいて、座席にすわっていた。ゴーグルにをつけた男がトップにいて、その左後ろと右後ろに飛行服を着た男がいる。みなたすきがけのベルトをしている。ライフジャケットを着ているようだ。
「ドノバン少尉、スコープ担当のウィリアム少尉から航路指標のアタミをいま通過したという連絡を受けました。爆弾格納庫のドアをオープンします」
耳にレシーバーをつけた右の男が言った。副操縦士のようだ。
「ジョンストン少尉、了解だ」
ドームの先端で前を見張っているドノバン、彼が右手をあげた。
「機長、エンジン出力と、電力出力を上げます」
ジョンストンがスイッチを押すと、タマゴ形のドームの電気が明るくなった。三人の影が濃くなった。ブゥルルン、ブゥルルン、プロペラが回る重低音がまた大きくなった。エンジン音も高くなる。
「いよいよ敵陣、トウキョウだな、おお、前方の空が明るくなってきたぞ、サーチライトだな、よし行くぞ」
続きを読む
2012年01月18日
2012 風景づくりフェスタのおしらせ

風景づくりフェスタのおしらせ
〜みんなでつくろう!せたがや風景〜
1月21日(土)
1月22日(日)
北沢タウンホール 12F スカイサロン
北沢川文化遺産保存の会は、常設企画展示でポスターを展示しています。
また地域風景資産の種も二点応募しています。
21日、午前は展示準備で、10時から会場のセッティングです。これは事前に「代田の丘の61号鉄塔」についての写真だとかパンフだとかをA1用紙に貼って持って行ってつけるだけです。
午後は、親子で、みんなでフィールドワーク
〜北沢の「面白い」を探そう〜に参加して歩きます
22日は 午前はポスターセッションがあります。短時間のプレゼンがあります。
午後はパネルディスカッションがあります。
終わった後、五時から懇親会があるそうです。1000円で食べ放題、食い放題?
興味のある方ぜひ参加してくださいとのこと。おいでなさい。暇なおりにおいでください。
2012年01月17日
下北沢X新聞(1998) 〜近代史の裏街道品鶴線をゆく6〜

(一)
トコシャンター コラションテー
多摩の川風 摘み草姉ちゃんの裾揺らす
トコションター
赤いお腰は目にいたい
コラサンター
かつての時代、重量機関車が頻繁に通った品鶴線、固くなった道床の砂利を線路工夫がツルハシを振るってほぐした。共同作業では歌は欠かせない。音頭取りがそのときどきに近辺で目にした光景を即興的に取り入れて歌った。
もうすっかりなくなってしまった歌だ。人々の心の撓(たわ)み、締めたり緩めたりして、仕事する場合の効率化を図った。
もっと昔、多摩川をゆく上流からの筏(いかだ)流しの船頭も歌をうたいながら、川に棹(さお)さして下流へと下っていった。
多摩川左岸には多くの工場があった。掛け声をかけては、作業をやっていた。その労働者の歌う歌も、時代とともに変わっていった。軍歌からインターナショナルである。続きを読む
2012年01月16日
下北沢X新聞(1997) 〜近代史の裏街道品鶴線をゆく5〜

(一)
この国の
ありとあらゆる物は
日ならずして
消えうせてしまうだろう
わたしはその日のために
日本の民具を収集しておきたい
BSのテレビでエドワード・S・モースの事績を紹介する番組が放映された。「にっぽん 微笑みの国の物語〜海の向こうに遺された江戸」というものだ。この中で彼が残した言葉が紹介されていた。
この言葉、痛烈な歴史批評である。彼は江戸のことを念頭に置いて述べているが、今日現代の日本も全く同じではないかと思う。「この国のありとあらゆるものは日ならずして消えうせてしまった」と言ってもいい。生活史、文化史など、そういうものの事象変化は顧みられることなくはかなく消えつつある。
大田区の多摩川左岸には大きな工場があった。それらが近代日本を支えていた。軍需工場として兵器を製造していた。その跡地には高層マンションが聳(そび)え建っている。ここにどのような歴史があったのか知りたい。そう思って地域の図書館に行くと、その資料はない。記されたものが全くないわけではない。「重工東京製作所50年史」や「ふそうの歩み」という社史がある。ところが、地元の図書館にはない。国会図書館か都立図書館に行かないと見られない。
思うに、地域にあるものを調べようとすると多くのことが記録に残っていない。一帯をさるき歩いて、土地の人に聞くと大きく変わったという。どう変わったのか、よくわからない。地域資料のところに行って古老対談みたいなものを読むと、断片的はわかる。
掬(すく)った砂が指の間から抜けていくように私たちの生きた歴史はどんどん消えていきつつある。往事の記憶を持っている人に聞いて残しておくしかないのだろうか。続きを読む
2012年01月14日
下北沢X新聞(1996) 〜近代史の裏街道品鶴線をゆく4〜

(一)
貨物線、品鶴線は、1980年(昭和55年)10月1日、、横須賀線電車が乗り入れ、旅客営業開始する。これに先だって、大田区住民は、区内に駅の設置を要望していた。
昭和五〇年九月二十二日に大田区議会に提出された請願には具体的な場所が記されている。
一、御嶽山神社前、私鉄の交差点付近。
二、上池台学研付近、通勤、通学客の一番不便な所。
三、馬込橋付近、第二京浜国道と環状七号線三角橋付近。
横須賀線が品鶴線に乗り入れる、これを巡って区民から多く要望が出されていたようである。昭和四十九年二月九日に出された「品鶴貨物線客車乗り入れ計画に対する要望書」には、「大田区内に駅舎を設置すること」と記されている。ここでの要望している内容は、興味深いものがある。
国鉄は第三次長期計画に基づき品鶴貨物線への横須賀客車線の乗り入れを計画しているが、それは「大都市通勤輸送増強の名で本区内をノンストップで通過して横浜以南の通勤客の輸送を図ろうとするものである。しかし、この中長距離通勤輸送計画は、東京都心への企業、労働力人口の集中による弊害を拡大、激化するばかりであり、本区地域住民の交通の利便や、区内勤労者などが直面している通勤、通学ラッシュの解決は全く図られてはいず、公共輸送機関としての国鉄の立場に反するものである。
しかも、その計画が実施されれば、ダイヤの過密化に伴い騒音、震動、電波障害等の増大便所つき電車の運行よるふん尿放散のため、地域住民の生活環境はますます悪化することは必定である。
地域地域の人は、主張する権利を持つ。今まで貨物だけしか走っていなかったところに通勤電車が走る。ダイヤが過密化して騒音公害などの激化が予想される。地域に恩恵があるならまだしも、ノンストップで走るのならそれはない。負担だけを押しつけられる大田区民にしては当然の要求である。
そういえば、かつての客車はふん尿を垂れ流していた。線路脇に黄色い現物が落ちているのが沿線風景でもあった。保線の人たちはこれに苦労していた。今は貯留式汚物処理装置がついている。新幹線などには真空式トイレが装備されているが、呑川上流域の目黒区中根の会社でこれを作っている。
横須賀線が品鶴線を通るようになったが、大田区内には駅はできなかった。1986年(昭和61年)4月2日 に品川区内にある西大井駅開業のみが開業した。財政状況が苦しかった国鉄は、駅が欲しいのなら地元で負担して作ってほしいという考えだった。大田区はそれに応じなかったものと思われる。続きを読む
2012年01月13日
下北沢X新聞(1995) 〜近代史の裏街道品鶴線をゆく3〜

(一)
鉄道開通は地域史には必ず記載される。この敷設が契機となって暮らしや歴史がどう変わったかと説き起こされる。しかし、品鶴線の場合、大田区の歴史の中にこれは記されていない。ただ通過するだけで利益がほとんどなかったからだといえる。むしろ、不利益の方が多かったようだ。
品鶴貨物線(新幹線)沿線の住民は、車輌通行時の騒音、震動、電波障害により、営業上、あるいは日常生活上の多大な損失を受け、深甚な肉体的、精神的苦痛を被り、これに長年にわたり堪えてきたところである。
昭和四十九年二月九日に大田区区議会議長名で運輸大臣と日本国有鉄道総裁あてに出された要望書の一部だ。「品鶴貨物線客車乗り入れ計画に関する要望書」である。
「長年にわたり堪えてきたところ」というのは開通以来の恨みつらみである。その堪えてきたものは騒音や震動である。ここにこの線の使われ方が反映されている。1929年(昭和4年)8月21日 開業したとたん東海道を走っていた貨物がすべてここを走るようになった。日中戦争へ向かう兵員輸送列車もここを通った。伊藤公墓所前の村田米店の主人は小学校のときに日章旗を持って見送ったと聞いている。
品鶴線は、日本の近代化とともに肥え太った。ダイヤが過密になった。通過頻度が高くなればなるほど騒音や震動公害は大きくなる。重量級の貨物は客車の比ではない。ゆっさゆっさ揺れた。が、戦争中は、地図にも掲載されない軍事路線である。人々は苦情を言えなかった。続きを読む
2012年01月11日
下北沢X新聞(1994) 〜近代史の裏街道品鶴線をゆく2〜

(一)
荏原領域学、地域学というジャンルは成立しうる。首都東京との頃合いの距離ゆえに近現代史に関わるエピソードがそこかしこに埋もれている。見慣れた風景の中にひっそりと眠っているから驚きもする。
「品鶴線下丸子三菱重工引き込み線」も近代史に関係する。これも全く知らない話だった。が、この場所はよく知っている。もう数え切れないほど通った。ちょうどそこは多摩川サイクリングコースに並行しているところだ。自転車で既に何千回と通っている。分かってみると思い出す。土手に沿って空き地があって、その終端の土地には何かの工場があった。それが取り壊されて長い間、更地として放置されていた。今はそこに高層マンションが建っている。
その引き込み線を求めての探索である。池上線御嶽山駅から旧品鶴線に沿って多摩川方向に歩く。一旦下ってまた登る。道の途中に神社があった。社に祀った石に家紋が彫ってある。境内の一角に「開運七福稲荷神社」と彫られた石碑もあった。
「丸に三つ引きは、新田の家紋のように思われます」
同行の川口信さんが言う。そういえば近くに新田神社もある。歩いていてふとこういうものに行き会う、街歩きの楽しさだ。
坂を上りきると左手に田園調布高校がある。この脇の陸橋は「美富橋」だ。国分寺崖線の頂上部で眺めがよい。西の方を眺めると富士が見えた。ここには先客の見物人が二組いた。お父さんに連れられた男の子、電車が通るたびに声を上げている。もう一人は望遠レンズを持った若い人だ。走行する新幹線を捉える、撮鉄の名所だった。
田園調布高校の裏手に、大田図書館がある。「品鶴線」で検索して二件が出てきたところだ。ここに寄ってそれを調べた。続きを読む
2012年01月10日
下北沢X新聞(1993) 〜近代史の裏街道品鶴線をゆく〜

品鶴線下丸子三菱重工引き込み線
(一)
日本の近代化のけん引役は鉄道である。その始まりとなる新橋、横浜間の鉄道は荏原南部を横断している。今の東海道本線である。一号機関車が走り、「はと」や「つばめ」も疾走した日本屈指の王道本線である。
一方、昭和初期に開通した第二東海道線、品鶴線も荏原南部を横断している。現在、横須賀線と東海道新幹線が通っている。この品鶴線、昭和期の近代化の立て役者だがそれらは歴史からもすっかり忘れ去られている。
歴史は人間の都合で決定する、人を支えてきたはずなのにその記録がない。人を運ばなかった線路は、人の記憶から抜け落ちる。そうであるゆえに一層に興味を持つものだ。
昨日、(2012/01/08)朝起きて、洗足池図書館に行こうと思った。品鶴線の資料がネット検索で引っ掛かったからだ。
自身の居住地は呑川のやや上流域に位置する。ちょうど駒沢からの支流がこれに合したところにある。かつては湿地帯だった。木造の二階家屋は大きな地震がきたら潰れるか倒れるか、どちらかだろうと思う。ところが地質はよくないが地の利はよい。荏原中央部にあって何かを調べようという場合は便利だ。目黒、大田、世田谷の図書館にさして遠くない。
品鶴線は、目黒、世田谷では引っ掛からないが大田区の図書館では出てくる。地元だから当然のことではある。しかし、件数はわずか二件である。
図書館に行く途中、洗足池を通る。新しく塗り直された弁財天の鳥居と社が水面に映った日に輝いていた。その近くに犬を連れた人がいた。われらの仲間川口信さんである。新年の挨拶もそこそこに計画を話すと一緒に行くという。それでたちどころに、街歩きが始まった。「品鶴線下丸子三菱重工引き込み線」への探訪行である。続きを読む
2012年01月08日
下北沢X新聞(1992) 〜目交い的交通文化論4〜

(一)
「誰か必ず見てるゾ 犯罪のない街」
この惹句が描かれた大きな目のイラスト画は街角でよく見かける。いつ頃からこれは現れたのだろうか。出現した当時、これを見て嫌な感覚が走ったことは覚えている。
つい最近になってこれが思いつきのものでなかったことを知った。これを掲示すれば人注意力は喚起される。怖いまな差しに人は緊張するという。
テレビを見ていたら、このまな差しの問題が話題になった。これについては、おおよそつぎのようなことを研究者は言っていた。
「他者の眼(まな)差しに敏感になったのは祖先達の長い暮らしの中に原因がある。人間が進化してきた環境は比較的少人数の顔なじみの相手と常に一緒にいる環境であった。そうした小さな社会において何か小さなずるをして他人に見つかった場合一切の社会的な繋がりからはじかれてしまう。大きなリスクを背負うということになる。その意味で集団の決まりに従うということは、長い目でみるとかえって得になる。こうした進化的理由から、私たちの心には他人の目に対して非常に敏感な仕組みが備わった。」
竪穴式住居で暮らしていた縄文人、集落内ではまな差しは穏やかだ。ところが、人々が拾ってきて大事にしているドングリがなくなった。誰かが食べたようだ。共同体の危機だ。眼光鋭くして彼等は犯人を突き止めた。射すくめるような強いまなこが犯人に注がれる。本人はもうその共同体にいることはできない。出ていくしなかい、が、単独での生活はほとんど無理である。待っているのは死である。
眼(まな)差しをきつくして生きることが共同体を助けることになる。眼光を磨くことによって人々は生き延びられる。続きを読む
2012年01月07日
下北沢X新聞(1991) 〜目交い的交通文化論3〜

(一)
まなかいとは、目と目が交わってできる空間の意だ。視線が合わさる、交差する場だ。人が多ければ多いほど、また、異質な目があればあるほどその緊張は高まる。
人間の目は他人の眼差しに対して鋭敏になる仕組みをもともとも持っているという。確かにそうだ。若い頃の経験で、ガンを飛ばされると、反射的に返した覚えがある。眼光鋭くにらみ付けられるとついにらみ返す。喧嘩が起こるわけである。
日々荏原近傍をさすらい歩いている。人や風光と出会って認識を新たにすることがある。いつもの年だと梅が咲いている。ところが今年は紅梅、白梅ともに見かけない。寒さが原因だろうと思う。
目黒、大田、世田谷、さるき歩いていて面白いことに気づいている。広大な土地が塀で囲われているところが散在する。驚くのは武蔵野当時そのままの地形や緑がそっくり残っているところもある。削平されていないので付近より土地が高い。立ち止まって感心することがある。
駒沢に世田谷トラストまちづくりが管理する「松之木都市林」がある。逍遙領域範囲にあってよく通る。往事の武蔵野を想起させる林である。小路が整備されて見学もできる。
ところが上述の敷地は厳重な塀に囲まれて入ることはできない。のぞき見ることすらも難しい。人々の視線を遮っている。「立ち入り禁止」、「売らない」など拒絶する言葉が書いてある。同じ会社所有のものである。その箇所だけ時が止まって存在する。武蔵野の自然をかたくなに守って将来に残す哲学を持っているのかもしれない。そう勘ぐっているほどだ。続きを読む
2012年01月05日
下北沢X新聞(1990) 〜目交い的交通文化論2〜

(一)
「渋谷が変われば、この国はもっと面白くなる。」
今朝の新聞には4ページを使った全面広告が載っていた。「地上34階、地下4階からなる」高層ビルがこの4月に渋谷にオープンする、「Shibya Hikarie」だ。
かつての東急文化会館の跡地に建てられたビルだ。この開館を予告するのキャッチコピーは大胆に打って出た。「渋谷が新しく変貌すれば日本は一層に面白い国家となる」と。
きらめく、ときめく
新たな渋谷が動き出す
冒頭に掲げられたうたい文句だ。惹句、人々を惹き付けようと考え出されたフレーズだ。ビル名の由来に基づいたものだ。すなわち、「『渋谷から未来を照らし、世の中を変える光になる』という意味を名称に込め、流行だけではなく、日本や世界に優れた文化を発信していく。」と。日本全国諸都市の希望の灯台を目指すというものだ。
現今、世界経済は手詰まりになってきている。背負いに背負った借財、負債に、どの国も青息吐息である。にっちもさっちもいかず、希望を見いだすことは困難になってきている。
それでも新基軸で動いていかねばならない。そういったときに光に着目してこれを中心にコンセプトを仕立て上げた。面白い文化発信だ。
予感としては社会なり、経済なり、文化なり、光は衰退していくことが目に見えている。そうなった場合、何が何でも光輝かせて抜きんでていかなければ衰退する。そういった危機感に立っての発信だと考えてもいい。
同じ新聞、朝日の記事では、「都心ビル続々、『12年問題』、「オフィスビル 開発ラッシュ、空室増」と見出しは伝えている。不動産会社の幹部の談話に、「客数や使うお金が増えているわけでもないのに建設ラッシュは止まらない。攻め続けなければ負けてしまうチキンレースのようだ」とあった。
諸都市への発信よりも都内での他地域へのアピールだ。副都心間のいわばポジション争いである。過酷なレースだ。
続きを読む
2012年01月04日
下北沢X新聞(1989) 〜目交い的交通文化論〜

(一)
交わるということは人の基本だ。ここには格助詞の「と」が介在してくる、AとB、男と女、下北沢で言えば小田急線と井の頭線が交わっている。
交易や交流は交通通路がふれ合うところで始まる。が、往古のそれは穏やかであった。あっちとこっちの道が次第に近づいてきて合わさる。数頭の馬や牛を追いながら行くと道が分岐する。そこで振り分けをする。追分である。
古代の交差部は多くはY字型である。それも段々に寄り添っていって柔らかく合わさる。のどかであり風雅でもあった。
機械近代の合流部は先鋭的だ。YがXとなった。しかも土ではなく鉄である。強引に力ずくで合わせてそして別れる。鉄道交差である。
しかし、このX型の鉄道交差部というのは地方では少ない。折尾、新津、郡山、旭川などが思い浮かぶ。しかし都会近郊では多い。特には首都圏だ。これも西部に多い。典型的な例は南部線だ。私鉄線路を串刺して北上している。武蔵小杉、溝の口、登戸などは典型的な十字クロスである。それなりの固有性が感じられるところが興味深い。
全国的にみれば交通交差分岐はY字がほとんどでX字は多くない。横に長いという国土の形状、政治統治体制・中央集権制が大きく影響している。日本の人の交流は横に靡くのが主流である。このことが人々の考え、文化にも大きく影響しているように思われる。
続きを読む
2012年01月01日
下北沢X新聞(1988)〜「北沢川文化遺産保存の会」会報第66号〜
……………………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第66号
2012年1月1日発行(毎月一回発行) WEB版
会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
……………………………………………………………………………………………………………………
1、文化元年再出発、文化、文学を掘り起こそう!
新年はけじめであり、節目である。ゆえに新しい年を迎えて、「おめでとう」と言いたいところである。が、去年の、3,11はあまりにも強烈だった。生きようという意欲すら欠いてしまいそうな惨状をわれらに見せつけた。
掛け声だけの、「がんばろう」、「おめでとう」では済まされない事態が今もなお続いている。津波災害、原発事故はいまだ終息せず、困難な、厳しい状況は続いている。
どう何を乗り切るのか、誰にも分からない時代を迎えた。が、確かなことがある。わたしたちは、地表の上に立って生きていることだ。この感触や感覚は大事である。わたしたちが居して住んでいる場こそが立脚点である。
その立脚点の歴史こそ大事なものである。が、あまりにも時代の進行が速く、場の記憶は留められる前に消失しつつある。なにもかもが雪崩を打って崩壊し、消滅し、ただあるのは見知らぬ街である。
壊され、潰されつつある街、が、例えば、そこはかとなく雁行する道に、物陰にひっそりと隠れた富士講碑に、やや傾いた大谷石の門柱に、人々の暮らしの面影が残っている。そういうわずかな手がかりをもとにそこであったことを調べると、とんでもないほどの物語が潜んでいる。その土地に眠る文化を掘り起こすことの面白さはたとえようがない。
先だって、下北沢の東京都民教会で元鉛筆部隊の隊員の一人だった鳴瀬速夫さんのクリスマスコンサートが行われた。そのときに亀田牧師に久し振りにお目に掛かった。
「メンマ工場をよく知っている台湾から来ている人と会いましてね……」と話された。都民教会の前にあったものだ。この土地変遷史は近代の物語そのものだ。
小田急線と井の頭線(帝都線)が交差した昭和八年過ぎに、かつては田圃だったところに中原百貨店が開店した。が、流行らずに閉店した。つぎにはその基礎部を利用したローラースケート場ができた。戦中に入ってそこは陸軍のオート三輪置き場になった。その後は、千倉書店の倉庫となり、つぎにはメンマ工場ができた。多くの人が、ここで発せられる強烈な臭いを覚えている。それも壊されフィットネスクラブ、エグザズスポーツクラブになった。ここも組織変更でコナミスポーツクラブとなった。が、ここも小田急地下化で下水道施設を作る必要から壊されてしまった。
街の進展とその場の変遷である。ローラースケート場だったとき、近くに住んでいた佐山少年は、通い詰めてかっこいいスケート少年になった。このときに代田に住んでいた萩原朔太郎は「猫町」によると、この脇を通っていたはずだ。
佐山少年は、千倉書店の社長の車に見ほれた。テールがかっこよく決まった外車デソートがここに置いてあって、こっそりしのびこんではこれを触りまくっていた。戦後に襲ったカスリーン台風のときにここにあった経済書が溢水によって流れてしまった。書店の人が池尻あたりまで拾いにいった。戦後の物資不足の時代だった。カバーはダメだが、中身は大丈夫だったという。
わたしは、この佐山一雄さんの話が面白く通い詰めて話を聞いた。飼っていたセパードが軍用犬として徴用されたという。代わりに十円もらったというが腹が立って川に棄てたという。そういえば、森茉莉も夜中に同じ川に着古したセーターを棄てている。
今でも、池尻辺りの川を奥深くドブをさらうと上流文化の片片が遺跡のように積もっているのではないかと想像する。
そういう想像の中に文化が潜んでいる。言わば人々の生活のにおいの残片だ。こういうものこそ面白い、また、こういうことこそが人々の歴史をリアルに物語ってもくれる。
わたしたちは、文明の進歩に追いまくられて、ときめく、スリリングな物語をすっかり棄ててしまった。そうであるゆえに今さ迷っている。ただただ機械に導かれる道を、これに引っ張られて歩いているだけである。どこに面白みがあろうか?。
大事なことは、ためである、小さな溜りになにかがあって、人々の生き様をそこに残している。そういうささやかなものを掘って残すことこそが人間の文化ではないだろうか。
文化とは、その土地その土地ににおうものである。それを自らが掘って楽しむことだ。わたしたちの会の活動は、そういうことを為している。
混迷を迎えた今という時代、ポジション、立脚点を改めることで、自分の位置が見えてくるように思う。掘ってみる、掘れなくても、心で掘ることはできる。想像力である。何層にも積もった地層にどんなできごとがあったろうかと想像を膨らませるだけでも面白い。個々が文化を掘る、掘ることで自分が見えてくる。楽しく文化を掘ろう!。
2、「北沢川文学の小路」への提案への行政からの回答
わたしたちの会は、2004年12月に発足し、七年が経った。これまでに多くのことを行ってきた。最初から「北沢川文学の小路」を提唱している。沿岸に眠る文化資源を活用しようと発信してきた。
先月、12月5日、この提唱への行政からの回答をいただいた。生活文化部やみどりとみず政策担当の方々が丁寧に対応していただいた。項目ごとの回答である。
北沢川文学の小路について
1、「北沢川文学の小路」の認知度を高める発信について
(1)ホームページの活用
区のホームページに「下北沢文士町文化地図」を載せる。
(2)マップ配置
区役所に500部、世田谷文学館に500部置く。
2 「代田の丘の61号鉄塔」の案内看板の設置 」
(1)民間資金の活用 (2)各種補助金の活用
来年度のきずな再生事業(世田谷区)、 地域の底力再生事業助成(東京都)
これらに応募すれば可能性は高い
3 森茉莉文学碑、横光利一文学碑
世田谷区としても観光方面にスポットを当てるアクチュアルプランがあるので、それ が具体化すれば可能性はあるのではないか。
〇昨年は、区役所に三度訪問した。部署を横断しての対応があった。また、とくには文化行政を一手に担う生活文化部から具体的な回答があったことは高く評価できる。
3、風景づくりフェスタ 2012
期日 1月21日(土)・22日(日)場所 北沢タウンホール 12Fスカイホール
土曜日は午後、日曜日は全日、「世田谷の気になる風景づくり」の常設展示が行われ る。北沢川文化遺産保存の会もこの展示に参加します。
22日は、10時から12時まで、風景づくりdeフォト&ポスターセッション
14時〜16時は、みんなでつくろう!せたがやの風景!パネルディスカッション
4、定例会:歩く会について
都市物語を旅する会
わたしたちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地のにおいを嗅いで楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日としています。第二は、会員の希望によって、特番を設けることがあります。
・第69回 1月14日(土) 午後1時 豪徳寺駅改札前
新春言祝ぎ紀行〜神社を巡って手と脚の健康を祈る〜 会費100円
案内者 天羽大器 今年の歩きぞめです。ご馳走で太った身体をスリムに!
豪徳寺駅スタート→世田谷八幡宮→烏山川緑道→松陰神社→若林天満宮→若林稲荷神社→若林稲荷神社→太子堂八幡神社→鎌倉通り→北沢八幡神社→邪宗門ゴール
軽い足慣らしと終わってお茶でも飲もうというもの 四キロ弱
・第70回 2月18日(土) 午後一時 世田谷線下高井戸駅
世田谷線を歩く 下高井戸から三軒茶屋まで 廃駅、踏切などを見る
案内者 別宮通孝氏 会費300円
・第71回 3月17日(土) 午後一時 経堂駅改札前
滝坂道の森茉莉(新コース。変更があるかもしれない)
経堂フミハウス、(経堂から梅ヶ丘は電車)→梅ヶ丘下車、小堀杏奴邸、萩原葉子旧居→恋人たちの森の住まいのモデル(若林)→三好達治旧居→裏道から倉運荘、代沢ハウス、北沢川緑道→旧代沢湯→代田邪宗門
〇特番 墓地をぼちぼち巡る 4月14日(土)染井墓地を巡る 巣鴨駅13時
・第72回 4月21日(土)午後一時 渋谷ハチ公前
駒場鷹狩コースを歩く 池尻道楽会 上田暁氏案内 会費300円
鷹狩は滝坂道を通っていきました。わたしたちは、将軍が鷹狩に行くために
通った滝坂道をのんびりと歩きながら駒場に入っていきます。最後は「まんまるの木」
・第73回 5月19日(土) 午後一時 下北沢駅北口
幻影の下北沢「猫町」小路をさすらう 萩原朔太郎の「猫町」を歩きます。
・第74回 6月16日(土)午後10時 代田橋駅改札前
下北沢地形学入門 外縁の水路を巡って下北沢へ 去年、笹塚「福寿」を通ったとき
ここのラーメン屋で来年は食おうねという話から、昼はラーメンをここで食べる。
・第75回 7月14日(土)午後一時 池尻大橋駅改札前
恒例「駒沢練兵場を巡る」 熱暑行軍、一人参加催行。
◎申し込み方法、参加希望について
参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com
■ 編集後記
▲新しい年がはじまりました。また今年も文化を耕して一年を遊びましょう。月々の街歩きは一つの場だと思います。趣味や考えが合えば、それが繋がりになることもあります。歩く会をしたり、劇をやってみたり、朗読でもいい、ちょっとした何かを調べたり、そういうことができる会です。自分が関わることで世界は開けてきます。
▲「下北沢文士町文化地図」を世田谷区に1000部提供したことから残りが二千ほどとなった。今春桜祭りで配布するとなくなる。改訂5版は、一万部発行を予定している。裏面の古地図が好評だ。次版は「中野図」と「世田谷図」を接合させて淀橋台を入れ込むつもりだ。版が違うと地図も違ってくる。それぞれの版が保存版となってきた。発行枚数二万八千、次版を入れると三万八千。宣伝効果はかなり期待ができる。四版程度の広告スペースは考えている。この地図発行の協賛を募りたい。
▲「日本水大賞」に応募しました。「この度は、第14回日本水大賞へ御応募下さいまして
誠に有難うございます。お送り頂いた資料は、しっかり受付致しました事をお知らせ致します。各賞の発表は来春3月末を予定しております。暫く時間がございますが、結果を楽しみにお待ち頂けたらと思います。」というメールを事務局から受け取りました。
▲年末の「代田半島地形学入門」は、取材が二つ重なり人数が二十数名と大勢になってしまいました。多くなると交通事故への危険が増します。会の最初に、必ず、交通安全について徹底する。通行の邪魔にならない。住宅街では静かに。互いの声かけをと。
▲街歩きがきついとの声も、途中離脱、参加可、ご自分の体力に合わせてください。
▲Facebookページに「北沢川文化遺産保存の会」を作成しました。記入もできます。
・当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしています。「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。入会費なし。年会費1000円。事務局の世田谷「邪宗門」で受け付けております。年が変わりますので、会費の納入をしてください。これの方もよろしくお願いします。
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第66号
2012年1月1日発行(毎月一回発行) WEB版
会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
……………………………………………………………………………………………………………………
1、文化元年再出発、文化、文学を掘り起こそう!
新年はけじめであり、節目である。ゆえに新しい年を迎えて、「おめでとう」と言いたいところである。が、去年の、3,11はあまりにも強烈だった。生きようという意欲すら欠いてしまいそうな惨状をわれらに見せつけた。
掛け声だけの、「がんばろう」、「おめでとう」では済まされない事態が今もなお続いている。津波災害、原発事故はいまだ終息せず、困難な、厳しい状況は続いている。
どう何を乗り切るのか、誰にも分からない時代を迎えた。が、確かなことがある。わたしたちは、地表の上に立って生きていることだ。この感触や感覚は大事である。わたしたちが居して住んでいる場こそが立脚点である。
その立脚点の歴史こそ大事なものである。が、あまりにも時代の進行が速く、場の記憶は留められる前に消失しつつある。なにもかもが雪崩を打って崩壊し、消滅し、ただあるのは見知らぬ街である。
壊され、潰されつつある街、が、例えば、そこはかとなく雁行する道に、物陰にひっそりと隠れた富士講碑に、やや傾いた大谷石の門柱に、人々の暮らしの面影が残っている。そういうわずかな手がかりをもとにそこであったことを調べると、とんでもないほどの物語が潜んでいる。その土地に眠る文化を掘り起こすことの面白さはたとえようがない。
先だって、下北沢の東京都民教会で元鉛筆部隊の隊員の一人だった鳴瀬速夫さんのクリスマスコンサートが行われた。そのときに亀田牧師に久し振りにお目に掛かった。
「メンマ工場をよく知っている台湾から来ている人と会いましてね……」と話された。都民教会の前にあったものだ。この土地変遷史は近代の物語そのものだ。
小田急線と井の頭線(帝都線)が交差した昭和八年過ぎに、かつては田圃だったところに中原百貨店が開店した。が、流行らずに閉店した。つぎにはその基礎部を利用したローラースケート場ができた。戦中に入ってそこは陸軍のオート三輪置き場になった。その後は、千倉書店の倉庫となり、つぎにはメンマ工場ができた。多くの人が、ここで発せられる強烈な臭いを覚えている。それも壊されフィットネスクラブ、エグザズスポーツクラブになった。ここも組織変更でコナミスポーツクラブとなった。が、ここも小田急地下化で下水道施設を作る必要から壊されてしまった。
街の進展とその場の変遷である。ローラースケート場だったとき、近くに住んでいた佐山少年は、通い詰めてかっこいいスケート少年になった。このときに代田に住んでいた萩原朔太郎は「猫町」によると、この脇を通っていたはずだ。
佐山少年は、千倉書店の社長の車に見ほれた。テールがかっこよく決まった外車デソートがここに置いてあって、こっそりしのびこんではこれを触りまくっていた。戦後に襲ったカスリーン台風のときにここにあった経済書が溢水によって流れてしまった。書店の人が池尻あたりまで拾いにいった。戦後の物資不足の時代だった。カバーはダメだが、中身は大丈夫だったという。
わたしは、この佐山一雄さんの話が面白く通い詰めて話を聞いた。飼っていたセパードが軍用犬として徴用されたという。代わりに十円もらったというが腹が立って川に棄てたという。そういえば、森茉莉も夜中に同じ川に着古したセーターを棄てている。
今でも、池尻辺りの川を奥深くドブをさらうと上流文化の片片が遺跡のように積もっているのではないかと想像する。
そういう想像の中に文化が潜んでいる。言わば人々の生活のにおいの残片だ。こういうものこそ面白い、また、こういうことこそが人々の歴史をリアルに物語ってもくれる。
わたしたちは、文明の進歩に追いまくられて、ときめく、スリリングな物語をすっかり棄ててしまった。そうであるゆえに今さ迷っている。ただただ機械に導かれる道を、これに引っ張られて歩いているだけである。どこに面白みがあろうか?。
大事なことは、ためである、小さな溜りになにかがあって、人々の生き様をそこに残している。そういうささやかなものを掘って残すことこそが人間の文化ではないだろうか。
文化とは、その土地その土地ににおうものである。それを自らが掘って楽しむことだ。わたしたちの会の活動は、そういうことを為している。
混迷を迎えた今という時代、ポジション、立脚点を改めることで、自分の位置が見えてくるように思う。掘ってみる、掘れなくても、心で掘ることはできる。想像力である。何層にも積もった地層にどんなできごとがあったろうかと想像を膨らませるだけでも面白い。個々が文化を掘る、掘ることで自分が見えてくる。楽しく文化を掘ろう!。
2、「北沢川文学の小路」への提案への行政からの回答
わたしたちの会は、2004年12月に発足し、七年が経った。これまでに多くのことを行ってきた。最初から「北沢川文学の小路」を提唱している。沿岸に眠る文化資源を活用しようと発信してきた。
先月、12月5日、この提唱への行政からの回答をいただいた。生活文化部やみどりとみず政策担当の方々が丁寧に対応していただいた。項目ごとの回答である。
北沢川文学の小路について
1、「北沢川文学の小路」の認知度を高める発信について
(1)ホームページの活用
区のホームページに「下北沢文士町文化地図」を載せる。
(2)マップ配置
区役所に500部、世田谷文学館に500部置く。
2 「代田の丘の61号鉄塔」の案内看板の設置 」
(1)民間資金の活用 (2)各種補助金の活用
来年度のきずな再生事業(世田谷区)、 地域の底力再生事業助成(東京都)
これらに応募すれば可能性は高い
3 森茉莉文学碑、横光利一文学碑
世田谷区としても観光方面にスポットを当てるアクチュアルプランがあるので、それ が具体化すれば可能性はあるのではないか。
〇昨年は、区役所に三度訪問した。部署を横断しての対応があった。また、とくには文化行政を一手に担う生活文化部から具体的な回答があったことは高く評価できる。
3、風景づくりフェスタ 2012
期日 1月21日(土)・22日(日)場所 北沢タウンホール 12Fスカイホール
土曜日は午後、日曜日は全日、「世田谷の気になる風景づくり」の常設展示が行われ る。北沢川文化遺産保存の会もこの展示に参加します。
22日は、10時から12時まで、風景づくりdeフォト&ポスターセッション
14時〜16時は、みんなでつくろう!せたがやの風景!パネルディスカッション
4、定例会:歩く会について
都市物語を旅する会
わたしたちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地のにおいを嗅いで楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日としています。第二は、会員の希望によって、特番を設けることがあります。
・第69回 1月14日(土) 午後1時 豪徳寺駅改札前
新春言祝ぎ紀行〜神社を巡って手と脚の健康を祈る〜 会費100円
案内者 天羽大器 今年の歩きぞめです。ご馳走で太った身体をスリムに!
豪徳寺駅スタート→世田谷八幡宮→烏山川緑道→松陰神社→若林天満宮→若林稲荷神社→若林稲荷神社→太子堂八幡神社→鎌倉通り→北沢八幡神社→邪宗門ゴール
軽い足慣らしと終わってお茶でも飲もうというもの 四キロ弱
・第70回 2月18日(土) 午後一時 世田谷線下高井戸駅
世田谷線を歩く 下高井戸から三軒茶屋まで 廃駅、踏切などを見る
案内者 別宮通孝氏 会費300円
・第71回 3月17日(土) 午後一時 経堂駅改札前
滝坂道の森茉莉(新コース。変更があるかもしれない)
経堂フミハウス、(経堂から梅ヶ丘は電車)→梅ヶ丘下車、小堀杏奴邸、萩原葉子旧居→恋人たちの森の住まいのモデル(若林)→三好達治旧居→裏道から倉運荘、代沢ハウス、北沢川緑道→旧代沢湯→代田邪宗門
〇特番 墓地をぼちぼち巡る 4月14日(土)染井墓地を巡る 巣鴨駅13時
・第72回 4月21日(土)午後一時 渋谷ハチ公前
駒場鷹狩コースを歩く 池尻道楽会 上田暁氏案内 会費300円
鷹狩は滝坂道を通っていきました。わたしたちは、将軍が鷹狩に行くために
通った滝坂道をのんびりと歩きながら駒場に入っていきます。最後は「まんまるの木」
・第73回 5月19日(土) 午後一時 下北沢駅北口
幻影の下北沢「猫町」小路をさすらう 萩原朔太郎の「猫町」を歩きます。
・第74回 6月16日(土)午後10時 代田橋駅改札前
下北沢地形学入門 外縁の水路を巡って下北沢へ 去年、笹塚「福寿」を通ったとき
ここのラーメン屋で来年は食おうねという話から、昼はラーメンをここで食べる。
・第75回 7月14日(土)午後一時 池尻大橋駅改札前
恒例「駒沢練兵場を巡る」 熱暑行軍、一人参加催行。
◎申し込み方法、参加希望について
参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com
■ 編集後記
▲新しい年がはじまりました。また今年も文化を耕して一年を遊びましょう。月々の街歩きは一つの場だと思います。趣味や考えが合えば、それが繋がりになることもあります。歩く会をしたり、劇をやってみたり、朗読でもいい、ちょっとした何かを調べたり、そういうことができる会です。自分が関わることで世界は開けてきます。
▲「下北沢文士町文化地図」を世田谷区に1000部提供したことから残りが二千ほどとなった。今春桜祭りで配布するとなくなる。改訂5版は、一万部発行を予定している。裏面の古地図が好評だ。次版は「中野図」と「世田谷図」を接合させて淀橋台を入れ込むつもりだ。版が違うと地図も違ってくる。それぞれの版が保存版となってきた。発行枚数二万八千、次版を入れると三万八千。宣伝効果はかなり期待ができる。四版程度の広告スペースは考えている。この地図発行の協賛を募りたい。
▲「日本水大賞」に応募しました。「この度は、第14回日本水大賞へ御応募下さいまして
誠に有難うございます。お送り頂いた資料は、しっかり受付致しました事をお知らせ致します。各賞の発表は来春3月末を予定しております。暫く時間がございますが、結果を楽しみにお待ち頂けたらと思います。」というメールを事務局から受け取りました。
▲年末の「代田半島地形学入門」は、取材が二つ重なり人数が二十数名と大勢になってしまいました。多くなると交通事故への危険が増します。会の最初に、必ず、交通安全について徹底する。通行の邪魔にならない。住宅街では静かに。互いの声かけをと。
▲街歩きがきついとの声も、途中離脱、参加可、ご自分の体力に合わせてください。
▲Facebookページに「北沢川文化遺産保存の会」を作成しました。記入もできます。
・当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしています。「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。入会費なし。年会費1000円。事務局の世田谷「邪宗門」で受け付けております。年が変わりますので、会費の納入をしてください。これの方もよろしくお願いします。



















