2012年05月

2012年05月31日

下北沢X新聞(2091)〜第5回戦争経験を聴く会、語る会の感想〜

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(一)
 後時間が有利だという永遠の矛盾の中で人間は生きている。後になれば分かる、が、渦中にあるときは分からない。特攻は強制的に生きる時間を終わらせられるものだ。ふっつりと切られる時間が分かっている。それに直面したときに、若い彼らは何をどう考えたのか。そういう新たな見方、観点が提示されたと私は思った。

 今回の戦争経験を聴く会、語る会で、一人の人が証言された特攻兵にまつわる凄惨なエピソードは、人間存在とは何かということを深く問うものであった。

凄惨だったと言った場合、何がどうであったのか。書いたり言ったりした方は、直ちに問われる。それが書き手の立場である。

 が、このことに関しては私は、あちらでもこちらでも、こういうことがありましたよ。というのは言いたくない。問われた重みが軽くなってしまうように思うからだ。

 松本淺間では、多くの特攻兵が言葉を残した。目之湯旅館の引率教員だった中村初子先生が特攻兵のことを聞き知って多くの人が揮毫をしてもらいに来ていたという。が、戦後になっての後日談で出てきたのは、それを燃やしてしまったということだ、何人かの人から聞いた。

 断ち切られる時間、その向こうに人が消えてゆきそうなとき、人は次々に重なって古びていく時間の中で自己存在が忘れ去られる、虚無の中に消えて行く、とてつもない恐れを感じていたのだろう、私は戦争経験を聴く会、語る会の中で加藤さんの話されたエピソードを聞いてそう推量したことだ。

 なぜ丁寧に、遺墨をきちんと書いたのだろうか。それへの謎は、この例からも推し量られる。彼ら一人一人が自分が生きていたことを忘れて欲しくないという思いがあったからだろう。

 多くが言葉でそのことを記している。が、今回の事例、一件は肉体でそれを表した。余りにも酷い。リアルである。が、本当に、それは人間存在とは何か、我等に匕首(あいくち)を突きつけて問うものであった。
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2012年05月30日

下北沢X新聞(2090)〜鉄道クロスシティ:下北沢&松本3〜

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(一)
 比較すれば見えないものが見えてくる。あっちとこっちとを較べることで気づいたことが多くある。

 地形という観点は興味深い。下北沢&松本としたがこれもその一つだ。前者は沢であり、後者は平(松本平)である。形状としてのサラダボールである。深さや広さがまるで違う。しかし、沢や川の抉りが景観を深くしているという共通点はある。

 疎開学童と特攻兵の関わりを調べてきて気づいたのが彼らの松本への深い愛着である。郷愁と言い換えてもよい。松本平への景観の深みがそれを濃くしていたと言える。これは今では残っている。が、しかし下北沢の沢景観は都市化によってすっかり消えてしまった。

 かつての下北沢は沢の深みがあった。それが武蔵野景観として存在していた。端的な例が、高須光治が描いた「下北沢風景」である。歌人尾山篤二郎は画家の出た後に、同じ場所に住む。そして、沢の景観を歌に詠んだ。

 歌が生まれいずるところは松本平である。歌や詩の原点は漂泊と郷愁である。さすらい着いた先の、景観の彫りが深ければ深いほど感銘は深い。淺間温泉から眺められる松本平の風景は多くの歌人によって詠まれている。当地、神宮寺には与謝野晶子の歌碑がある。

たかき山つゝめる雲を前にして紅き灯にそむ浅間の湯かな

  「与謝野晶子先生、昭和11年初秋富貴之湯宿泊中の作真蹟を拡大せり。」とある。歌人が宿泊し、特攻兵も同じ宿に泊まって歌を詠んだ。武揚隊の隊長山本薫中尉、中村敏男少尉、長谷川信少尉である。今回三月に発見された遺墨の中にある。前者二人は「淺間」の地名を短歌に詠み込んでいる。
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2012年05月28日

下北沢X新聞(2089)〜鉄道クロスシティ:下北沢&松本2〜

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(一)
 ネット時代の新しい戦争物語に私たちは遭遇している。

 昨日、会に参加しての感想を静岡県の方からいただいた、「きむらさんもおっしゃっていたように、昨日の会のように大勢の人を結びつけたものはやはりインターネットですね。」と。

 広域的に、個別的に、ネットによって情報が拾えるようになった。また、個別でも発信できるようになった。この点は大きい。それらの情報が結び付いていって歴史の中に埋もれていた事実を掘り起こし得た。多くの人の協同作業、市井人が加わって物語を編んだと言える。

 26日に開いた会でも新しい情報が寄せられた。参加された加藤景さんは当時疎開学童が歌っていた特攻隊の兵士から教わった歌を早速に送ってくださった

 こればかりか他の多く歌も送ってくださった。加藤さんは、かつて同級だった女性に確かめながら歌をすべて書き出されたようだ。許可が得られたらここで紹介したい。

 親元から遠く離れ、慣れない環境の中で過ごすには何かの娯楽がなくてはいけなかった。共に歌うことで互いが繋がり得たことは事実だ。だから、当時の疎開学童に取っては歌は懐かしいものである。せつないほどに懐かしいものがあったとみるべきだ。

 この話のそもそもの発端が、代沢国民学校の疎開学童が郷福寺で歌っていたうたの歌詞探しから始まった。歌があの時代の思いを蘇らせてくれるものであった。
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2012年05月27日

下北沢X新聞(2088)〜鉄道クロスシティ:下北沢&松本〜

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第5回『戦争経験を聴く会・語る会』
  於 北沢タウンホール 3Fミーティングルーム 2012/05/26
(一)
「なんでもそうですけど、やっぱり面白いのはカーブですよ。この駅の構内の線路だって微妙なカーブがあるんですよ。それと小田急は次の世田谷代田に向かってカーブしていくんですよ。いいカーブでしたけどね。みんなこれがなくなってしまうんですよ。なんでもかんでも真っ直ぐになっちゃうでしょう」
 
 下北沢駅南口まで送ってくれた志田歩さんに言った。彼は、下北沢を場とした演劇のシナリオを作っているという。手には『北沢川文学の小路』持っていた。これにヒントを得たという。
「おもしろい場ですよね。価値の重層性というのがある。あっちとこっちとが繋がっているのだけど、そのことに気づかないでいるというところがありますね」
 ついさっきまで北沢タウンホールで行われていた「戦争経験を聴く会、語る会」を思い起こしていた。やはりここに集まった人も異なった文化を抱え持った人々だ。
 会が終わった後に喫茶店に入った。鳴瀬速夫さん、松本明美さんもいっしょだった。志田歩さんは是非話を聞かせていただきたいということで仲間に入った。

「都鄙の間というか、はざまというのはありますね。程よい距離というか、間合いというか、都心との距離ですね。そこの位置は結構重要ではないかなあ」
 鉄道交点文化論はおもしろい。誰が連れてきたというよりも、何が引っ張ってきたかというのが楽しい。私の場合は機械近代の鉄道が主役だったと言っている。

 志田歩さんと話していて気づいたことがある。そうだ松本も本当は鉄道交点だったのだと。淺間温泉への路線が廃線になったことで明確なクロスは空からは見えなくなった。

 昨日北沢タウンホールで第五回「戦争経験を聴く会、語る会」が行われた。「世田谷の疎開学童と特攻兵」というのが主題だ。参加者は約五十名ほどだった。分かってみると熱い思いを持った人が何人もきておられた。ここにも個別が個別の思い、それと文化とを持って参加されていた。

「何か感想を言うと、松本で話を聞いているみたいでした。淺間温泉の話が普通にでてきますからね。地元松本ではこういう話はまったくなされていません。地元でもこういう話が聞きたいものです。」
 下北沢タウンホールで開かれた第五回戦争経験を聴く会語る会で松本から参加された人が言われた。松本市議会議員の阿部功祐さんだ。松本では、この特攻隊の話はほとんど知られていないという。

「松本にやってきた特攻隊は、二月、まだ完成していない陸軍松本飛行場に飛んできたのですね。にわかに作られた飛行場で一帯から大勢を動員して作ったものです。五月になってようやっと完成したものです……この飛行場についての資料はほとんどが焼却されたりして残っていないのです」
 やはりこれも松本からこられた空港図書館長の川村修さんである。
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2012年05月25日

下北沢X新聞(2087)〜猫町散策変幻的都市論4〜

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(一)

荏原都市は変貌する。今日、柿の木坂一丁目を通り掛かった。緑が鬱蒼としていたお屋敷の一角が素っ裸になって赭土を見せていた。目に愛しい緑の垣根もごっそり伐られていた。そして、そこには不動産会社の旗が翩翻とひるがえっていた。売りつけるには緑は邪魔のようだ。

 近代は自然を駆逐していく。その変貌ぶりは激しい。恐ろしい魔物を抱え持っているようだ。しかし、我々はもうこれをコントロールできなくなっているのではないかと思えてくる。

 小説『猫町』は、都鄙物語である。前段では「一体こんな町が、東京の何所にあつたのだらう。」と「情趣の深い町」との遭遇を語っている。が、気づいてみると「近所の詰まらない、有り触れた郊外の町」であった。代田在住時のことゆえ、現実に当てはめると下北沢本通りがこれに当てはまる。一方、後段の町は鄙にある。「或る部落の住民は犬神に憑かれて居り、或部落の住民は猫神に憑かれて居る。」、「憑き村」である。土俗的なにおいのする場でのドラマが描かれる。都市近代と古代土俗との衝突でもある。

 意識の屈折を描いた『猫町』は、妄念をも屈折させる。この第一ステージの舞台は、下北沢と代田との往復逍遙で生まれたものと言える。彼が歩いていたときのちょうど中間点あたりに境がある。代田村と下北沢村の境だ。そこに小田急線が通っていて踏切もある。この個所に土俗的なものがあった。

 このことを知ったのは一色次郎の『東京空襲』を読んでいたときだ。昭和十九年十二月二十二日にはつぎのような記述があった。

 ゲートルを巻き鉄カブトをかぶり、すっかり仕度をおえて、アパート正面の坂をのぼっていった。のぼりつめたところの左側が一号館の入口になっている。右角にはサクラの木が一本あって、その下に小さな地蔵が立っている。私は朝夕その前を通るたびに、ぺこっ、とおじぎをするのであるが、今夜からはここを拝借して、夜の空をながめることに決めた。 

 アパートは下北沢静仙閣である。小田急線の下北沢2号踏切と3号踏切の間の南手にあったものだ。この坂は元の鎌倉通である。小田急築堤ができたために道を付け替えて、ここだけが路地となって残ってしまったものだ。

 このサクラの木は今も残っている。この樹の「下に小さな地蔵」があったのはこの記述によってである。
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rail777 at 20:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2012年05月24日

下北沢X新聞(2086)〜猫町散策変幻的都市論3〜

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(一)
 荏原郡的都市論というのは見過ごされた観点だ。この区域意識は今ではほとんど残っていない。代表的な名称は、「荏原町駅」であり、「荏原病院」である。前者は荏原郡荏原町であったことからの命名だ。後者はもともとが隔離病院だった。大岡山半島の尾根筋の人気の無いところにひっそりと建てられた。今日近代も、この荏原という固有の地名をすっかり隔離してしまってごく一部に使われている。

 しかし、我等文化を探し歩くものはこの語に必ず行き当たる。四つ辻の道標にあったり、道の辺の庚申塔や地蔵尊に刻まれているのを見つけたりする。古代人には一続きの繋がった地域として深く認識されていた。

 荏原は土地の固有性、文化を表現している。独特のにおいを持っていた。

 『世田谷の地名』はつとに知られた書誌だ。地名の起源を解いた物語が興味深い。地名起源、「荏原」では、吉田東伍『大日本地名辞書』を引いている。すなわち、荏原とは文字のごとく、荏草の野なるべし。荏胡麻の生えている里だ。

 しそ科の一年生草木、インド、中国原産。高さ一メートル。茎は方形、葉、茎は浅緑色、卵は卵円系で、一種の臭気がある。花は白色、果実は小鳥の飼料とし、炒って胡麻に代用し、採った油は、「えのあぶら」といい、灯用・印肉用とし、また雨衣・傘に塗る。油を絞った滓を荏滓という。

 荏原一帯、土地が肥沃で農作物が豊富に採れたわけではない。アクの強い荏胡麻の栽培に適していたのだろう。独特の臭気のある植物だ。これが土地の匂いであった。

 電気のない時代、灯火の代用をする油は貴重だった。痩せた土地でこれを栽培し油を絞っていた。その絞りかすは畠の肥料になった。

 荏胡麻油で作った灯用は、道で運ばれる。馬車にこれを積んで、尻を叩けば。馬は歩き出し、自然と宿駅の品川に着いてしまう。荏胡麻の燈が遊女の顔を照らし、男が女を選ぶ。遊女と荏胡麻と荏原物語だ。
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2012年05月22日

下北沢X新聞(2085)〜猫町散策変幻的都市論2〜

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(一)
 何気なく聴いている放送の中で、「近代とは不安定ものなのです」と誰かが言った。なるほどそうだ。いつなんどき高速度で巡る進歩や発展は破綻するか分からない。安定を求めてひたすら走っている。

 近代は新奇さを追い求める。人間は無為でいることはできない。購い求め、消費する。常に求めるのが新しさだ。眼を瞠るものが人を躍らせてきた。しかし今は踊らされている。

 武蔵野を南西方向に斜めにぶったぎっていく高速度鉄道は心躍るものだった。この沿線に家を建てて住む、夢であった。

 小田急が開通して間もない頃の郊外風景を描いたのが高須光治の「下北沢風景」である。際だっているのが三色だ。空のセルリアンブルー、その下の丘の尾根筋には武蔵野のグリーン、そして、屋根のスカーレット、赤土のヴァーミリオンである。降り注ぐ太陽の光が武蔵野を照らしている。そこに建った建物群は赤い。

「やっぱり私のところも屋根は赤でしたよ」
 下北沢の隣り代田に住む古老から、昭和一桁時代の郊外風景の様子をそう述べていた。

「思うにこういう風景の中に詩人は越して来たのですね。絵そのものに武蔵野の詩情が漂っていますね。一番最初に越してきたのが東北沢、この絵はその東北沢にほかなりません」
 私は「下北沢風景」を見せながら説明をした。御殿山小路の入り口ところに一本松公園がある。そこからはずっと向こうに続く路地奥が見通せた。

「赤松林の中にこの家はありました。今はこんなに緑に覆われてしまっていますが、かつてはこの真っ白な壁は際だっていましたね。壁にぽっかりと開いた丸い穴などは、人を立ち止まらせますよね。朔太郎が下北沢にいた時代にはもう建っていましたから、彼もこの奇妙な穴はのぞいたに違いないのですよ」
 今井兼次邸の前で説明をした。今はその穴はない。
野屋敷に洋館を建てたパイオニアである。早大の建築家教授である。同僚の多くが西武新宿線に家持ったのにそういうのが嫌でここへ来たと息子さんから聴いている。一刻者、漂泊者が流れてくるところである。続きを読む

2012年05月21日

下北沢X新聞(2084)〜猫町散策変幻的都市論〜

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(一)
 毎年五月、「猫町」をふらりとさるき歩いている。19日にこれを開催した。73回目の街歩きだ。ここ数年同じコースを歩いている。それでも歩く度に新たな発見がある。
『そうそう、そうだった、今回初参加の女性二人は、猫好きだった、そういうきっかけの参加もあるなあ』
 書きながら思い起こした。

「なぜ、萩原朔太郎はここに来たのでしょうか?」
 下北沢駅北口で初っぱなに質問をした。
「住みやすかったのではないでしょうか。」
 参加者の一人の声だ。彼女は代沢に家を建てている、今は柏市にいるそうだ。あらかじめ地域の文化について触れてみたいと参加された。
「確かにそれはありますね。しかし、どう住みやすいのか、こうすっかり建物に覆われてしまうとわかりませんね。最近分かったことで、びっくりしたのはこれですね……」
 一枚の写真を取り出した。彫刻家菊池一雄邸である。先頃世田谷文学館で開かれた『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』展でこの写真を目にした。カタログには「1931年頃」と記してある。昭和六年、真っ白な四角いアトリエがここにはあった。

 彫刻家は家を建てた当時の、付近の略図を描いている。家の前は麦畑だった。はす向かいの文化住宅には、「仔犬」が飼われているとか「ピアノ」があるとかのことが記されている。そして近くの麦畑には「肥ツボアリ 御用心」と書かれている。

 昭和六年当時の土地の文化を略図がくっきりと浮かび上がらせる。『北沢の文化はモダニズムと肥だめだった』と批評的には言える。目の覚めるような洋館、とびっきり糞が臭うところ。そこに詩人は引っ越してきた。

「萩原朔太郎の年譜にこの年七月に彼は越して来ています。場所はこの東北沢です。こういう家が建っていたところに彼は越して来たという事実は重みがあります」

 この彫刻家のアトリエに遠からぬところに、東郷青児が宇野千代とともに建てたコルビジェ風のアトリエがあった。今回の発見は目の覚めるような洋館が点在する地域だったことだ。

「この下北沢の旧居は、木造の二階建てでした。ここに住んでいた人からは、この前の家、大野さんところは大きな家で洋館だったそうです」
 新屋敷1008番地の、詩人の家があったところで説明した。

昭和2年に小田原急行鉄道が開通した。それから四年経過して沿線一帯の宅地開発が進み、洋館が多く建った。続きを読む

2012年05月19日

下北沢X新聞(2083)〜下北沢交点文化の語り部の死を悼む2〜

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(一)
 国木田独歩、『武蔵野』でもっとも好きな言い回しがある。

 大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とが此処で落ちあって、緩やかにうずを巻いているようにも思われる。

 都鄙の間にある隠れ潜んだ物語、それがそこかしこの沢に転がっている。そしらぬふりをして存在や価値が転がっている。それが鉄道クロスだ。
 
『渡辺順三と最初に云われた時に「誰?それ!」という感じでしたが、隣の「下田家」の名前が出たとたん、急にあれこれ思い出しました。
渡辺順三夫妻に子供はなく男の子を養子にもらいその子がよく出来た子で両親のめんどうを最後迄きちんとみたそうです。』
 プロレタリア歌人、渡辺順三のことである。富安好恵さんは、彼の家のすぐ側で育っていた。

『清水乙女について
 現在住んでいる方が乙女さんの一人娘さんでその一人息子さんが私の長女と幼稚園小学校が一緒でした。
 北原白秋の弟子で白秋も清水家に何回か来ているそうで宮柊二も来ていたそうです。

 乙女さんのご主人はアメリカのバークレー大学を出て帰国し朝日新聞の記者となり、後半は翻訳家として活躍したそうで。「白鯨」を日本で始めて翻訳紹介した方で、その他に「子鹿物語」なども彼の翻訳だそうです』
 
 清水乙女は短歌結社「篁」(たかむら)の主宰者だ。ご主人は清水暉吉である。次版、改訂五版「下北沢文士町文化地図」にこの旧居は入れたいと考えている。
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2012年05月18日

下北沢X新聞(2082)〜下北沢交点文化の語り部の死を悼む〜

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(一)
 下北沢本通り商店街のお茶の「住吉園」の娘さんだった、富安好恵さんから一帯の昔について多くのことを学んだ。お父さんが横光利一と昵懇でよく見えていたと。下北沢で一時期女流が集まって会合をしていたが、ここの二階で行われていたと聞いた。

 今朝、戦争経験を聴く会、語る会のことでメール連絡をしていた東大原小同窓会の白井良雄さんから連絡があった。「一緒に行く予定だった富安好恵さんが4月18日に亡くなり、行けなくなったことはご存知ですね? 元気だったのに残念です。」と。この訃報については全く承知していなかった。

 街の記憶を丹念に調べていた彼女は記録者としても大切な人だった。彼女の証言に基づいた記録が「Web東京荏原都市物語資料館」にも多く掲載されている。改めてここで、富安好恵さんのご冥福をお祈りしたい。

 自身の書類、資料の山から彼女からのものがある。記録のためにそれをここに記したい。
まず、平成18年7月31日の日付のあるものだ。

 下北沢、曹洞宗大雄山真龍寺の玉垣に「カフェ エビス」の名が刻み込まれている。戦前のものだろう。カフェはどこにあったのか、仲間内で話題になっていた。
 萩原朔太郎は下北沢本通り、すずらん通りの裏手に住んでいた。『氷島』には「珈琲店 酔月」という詩がある。新宿のカフェのことだろうが、場末のカフェということで我等は「カフェ エビス」を連想したものだ。彼女の手紙は、『 』で示す。

『カフェ エビス 地図に赤印つけておきました。
 現在横山畳店になっています。
 向かいの八百重という八百屋さんがあり、そのお嬢さんが幼い頃、着物姿の女給さんにだっこされて写真を写したそうで、しかし、数度の引っ越しでなくしてしまったそうです。』
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2012年05月17日

下北沢X新聞(2081)〜2012年第5回戦争経験を聴く会、語る会〜

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第5回「戦争経験を聴く会、語る会」(2012年)
〜今、聞いて置こう、薄れゆく戦争の記憶を残すために!〜

テーマ「世田谷の疎開学童と特攻隊」

  日時 5月26日(土)1時30分から4時30分まで(13時開場)
  場所 北沢タウンホール 2F 集会室 定員60名 参加費無料 
主催 「北沢川文化遺産保存の会」 会長 長井邦雄
  後援 世田谷区教育委員会 北沢3、4丁目まちづくり協議会

 

 戦争は遠い過去のものとなりつつあります。けれども太平洋戦争はわれわれの歴史の中ではもっとも大きなできごとでした。戦争に負けて日本は無条件降伏しました。この敗戦は一からの出直しでした。そこから出発して、長い苦難の道を歩いた末に、今日の生活が築かれました。ところがあの惨たらしい戦争は、戦争体験者の高齢化、時間の経過によって人々の記憶から次第に消えつつあります。戦争は二度と起こしてはなりません。この薄れ行く記憶を次代に繋げて平和を持続させていく。そのための活動です。

 「戦争経験を聴く会、語る会」は、2008年から始めました。この一帯が大空襲に襲われたのが1945年5月24日、25日です。その山手空襲から67年目を迎えます。風化する戦争の記憶を今のうちに、しっかりと聞いてそれを次代に繋げたいという思いから四年前からこの会を5月に開催してきました。今年は、その五回目に当たります。
 昨年は、出陣学徒、海軍第十四期飛行予備学生お話を伺いました。今年は、「世田谷の疎開学童と特攻隊」というタイトルを設け会を開催します。

 昭和十九年(1944)年八月、信州松本淺間温泉に世田谷からの疎開学童がやってきます。その数2600人ほどです。

 翌、昭和二十年二月、満州で編成された特攻二隊が名古屋空襲のあおりを受けて陸軍松本飛行場に飛来してきます。武剋隊と武揚隊です。淺間温泉に滞在しました。前者は旅館、千代の湯、富貴の湯、またこの隊の幹部は目の湯に宿泊します。後者武揚隊は富貴の湯に宿泊しました。

 千代の湯には代沢小、富貴の湯には東大原小、目の湯には駒繋小の学童が疎開していました。今回判明したことはそれぞれの旅館において学童が特攻隊とふれ合っていたことです。初代知覧特攻平和会館館長の板津忠正氏は特攻隊と子どもが写った写真を三十年間に渡って調べておられた。ようやっとこれが代沢小の疎開学童と知ったそうです。
「特攻隊と学童のふれ合いというのは極めて希ですよ」
 その板津氏から聞いた話です。

 この世田谷の疎開学童と特攻隊については当事者から話を聞くことにしています。代沢小は松本明美さん、鳴瀬速夫さんです。

 東大原小はお二人を予定していたが、都合がつかないとの連絡がありました。駒繋小は当初から参加の都合がつかないとのことでした。東大原、駒繋についてはきむらけんが取材した範囲のことを報告します。

 この話の発掘は、「北沢川文化遺産保存の会」の活動過程でなされたことす。下北沢鉄道交点文化は価値の参集、クロスだ、これが背景に密接にからんだものだといえます。つまりは、文化の交差が他の地方都市に反映していた、そういう都市論的側面から考えると興味深いものがあります。しかし、この点は主題からずれますので、当日触れることはありません。問題の指摘だけにとどめておきます。

 この物語の取材過程で、たまたま新資料が発見されました。一つは、和綴じ帳です。(写真、小宮東男氏撮影)、もう一つは、写真です。

 前者は、松本淺間温泉に滞在していた武揚隊の遺墨です。十五名いるうちの十一名が特攻出撃に際して残した言葉が書かれています。

 後者は、十数葉の写真です。東大原国民学校の生徒と特攻隊員が写っているもの、特攻隊員の複数が写っているもの、あるいは単独で写っているものがあります。

 時間があれば、この新資料につていの自身の考察について少し触れてみようと思っています。

  この長年に亘る調査記録については「鉛筆部隊と特攻隊 ―もうひとつの戦史」という題で七月に彩流社から刊行されます。

 今回の参加申し込みは愛知、静岡、茨城、山梨、長野からもありました。定員は六十名です。残余は十数人のみとなりました。希望される場合には、きむらけんに問い合わせてみてください。aoisigunal@hotmail.comに。


2012年05月16日

下北沢X新聞(2080)〜鉛筆部隊と特攻隊―もうひとつの戦史2〜

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(一)
「一枚一枚、墨の濃さが違います。だからそれぞれが書いた文字のそれに合わせて撮影するんです。強く書くとか、軽いタッチで描くとか人によって違うでしょう」
 筆で描いた字は、その人の個性がより強く滲み出るようだ。写真家の小宮東男さんに教わったことである。
 常日頃、職業のことは仲間内では話題にはしない。が、分かってみると陰影を掴み取るプロだった。

「みなさんきちんとした字を描いていますね」
「そうそう、今の我々だったら書けませんね…こうしてみると長谷部良平の字というはとても綺麗ですね。彼は絽刺しをしていたというのですが、そういう手つきで描いていますね。」
 筆にどう力を加えるのか、彼は加減して描いている。柔らかく、細く、流麗に描いている。女性の手つきが思い浮かべられるほどだ。
 他は身分を武揚隊としているのに彼は「少飛生」としている。少年飛行兵だ。十八歳である。感心させられるのは名前の配列だ。四文字が誠に見事である。

 この遺墨を見ていると一人の少年飛行兵の物語が見えてくる。

 出身は岐阜である。各務原飛行場のある県だ。よって彼は、満州新京から飛んで本土に向かったとき嬉しかったに相違ない。各務原で爆装改修を行うと聞いたからである。

 ところが残念ながらちょうどここに飛来してきたとき名古屋空襲に遭って、陸軍松本飛行場へ飛んだ。出撃前の肉親訪問は三月上旬に行われているが、中央線で帰ったのだろうか。

 一人黙々と絽刺しを縫う少年、今回発見された遺墨を見ていると寂しい一人の少年が浮かんでくる。

 しかし、柔らかさの奥には何か優しさが感じられる。彼は、「人を安らかにせん」と述べている。自分が征くことによって平安を得たいと願った。
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2012年05月15日

下北沢X新聞(2079)〜鉛筆部隊と特攻隊―もうひとつの戦史〜

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(一)
 私は恐がりである。これが自身の感性の大半を占めているように思うほどだ。

 幼少時を思い出す。父を早くに亡くした。赤煉瓦で作られた火葬場は怖くて怖くてたまらなかった。泣きわめいて、抵抗して中には入らなかった。

 因縁因果が巡って、特攻兵のことを調べることになった。これにも怖さがつきまとった。一つのきっかけから彼らの群像が次第に浮かび上がってくる。分かることは怖いことでもある。因縁の糸が思いがけない方に結び付いていていく。霊魂が乗り移ったのかもしれない。そう考えることはしばしばあった。

 言霊が憑くということはある。これは不思議だった。今回三月、松本武揚隊の遺墨が見つかった。一人一人の言葉を丹念に吟味した。字体、書き順、内容、そうしていると見えないものが見えてくる。例えば、少年飛行兵の長谷部良平伍長の手などは優しくて、まるで女の人が書いたのではないかと思われた。

 この彼、別の本を読んでいてこんなところにいたのかと思った。知覧三角兵舎の外の松林の中で一生懸命絽刺しをしていた。知覧高女生が興味を持って声を掛けるという場面があった。絽刺しする少年と彼の手跡は符合すると思った。

 インターネットを介しての新資料発見は大きい。松本に武揚隊がいたこと、これを証明する第一次資料の発見は大きい。遺墨だけではなく、つい最近になって分かったのは彼らの写真もあったことだ。

 今回の物語は、戦争中松本陸軍飛行場が戦略上どういう位置づけがなされたいたかを知るものとなった。故に地元から出てきた資料は極力地元で保存してほしいと思っていた。今回発見された遺墨や写真などは市民が自由に閲覧できたらいい。当地松本博物館、あるいは旧陸軍飛行場跡地に建つ松本空港図書館でも今夏、企画展を開こうとの動きもあるようだ。是非実現してほしい。
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2012年05月13日

下北沢X新聞(2078)〜代田の古老と代田を巡る5〜

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(一)
 社会や世界、今のところ、とりあえずは日々平穏ではある。が、時代の大きなうねりがいつ何時襲ってくるかわからない。そういう予感がある。

 何かが変わりつつある。何かが忍び寄ってくる気配がある。数日前の新聞記事が印象に深く残っている。

 泣きたいほど帰りたい日があります。帰りゃ安心するけえ、一日だけでいいけえ連れて帰ってくれいうて、夕方には早う帰りーと言われ、何ともいえん、涙がぼろぼろ出ます。集落が消えるというのは自分の手足を切られるようです。 5月10日「朝日新聞」夕刊

 新聞の「消えるむら看取るひと」という記事の一節だ。島根県の限界集落の実情を扱った記事である。過疎化の進行がいっそうに早まり集落が消えつつある。

 我等の国家は均衡を欠いている。それがいっそう顕著になってきている。都会には人が大勢集まり、地方はその都会に人を吸い上げられる。高速道、新幹線、地方はそれを望むが、いざできるとそれらは人を吸い上げるポンプの役割を果たす。

 住まいの近所の、中堅私大も学生数が増えた。人口減の中での増加は地方から若者を吸い上げているということを示す。地方では職を得るチャンスはない。それで若者は東京を目ざす。

 過疎と過密が国家の空洞化を招く。原発問題もこれを抜きには語れない。
 「このままでは村が消滅する。ならば原発へ」というのは論理ではなく情である。

 ネットの掲示板で見た覚えがある。原発を誘致する首長が、「数年後に少々かたわがでてきたとしてもしょうがない」というような意見を述べたとあった。このままいけば村はなくなる。せめてそうならないように危険であっても原発を誘致する。近代文明が抱えたいびつな社会構造である。
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2012年05月12日

下北沢X新聞(2077)〜代田の古老と代田を巡る4〜

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(一)
 代田を含めた鉄道交点一帯は膨張する都市の受け皿となって人口が急増する。単なる人口移動ではない。鉄道Xにどんな夢を見たかということはある。

 昭和二年に小田急が開業し、昭和八年に帝都線も開通し、下北沢は鉄道がクロスする街となった。この時分どんな時代だったのだろうと思う。

 先だって世田谷文学館で『都市から郊外へ―一九三〇年代の東京』展が開かれた。当時の東京という都市がどういうものだったのか、それを象徴する一枚の写真があった。

 桑原甲子雄「日比谷帝国ホテル前」と名づけられた写真だ。1934年(昭和九年)のものだ。図録によると帝国ホテル前の「群衆は、国葬として日比谷公園執り行われた、東郷平八郎の葬列を見物する人々で、背広にネクタイ、帽子姿で日露戦争の英雄を見送る様子」を写したものだという。カンカン帽やソフト帽の群れは時代を写していて見事である。人々の連帯感を感じる。多くが同じ夢を見ていたのではないかと思われる。男達の夢である。

 昭和九年は帝都線が開通した翌年だ。近隣の学校の生徒数が増えて対応できなくなるほどの子どもが東大原に守山に入ってくる。ソフト帽やカンカン帽の夢の一端である。東京西郊の丘に赤い屋根の家を建て、庭には芝生を敷き、そこに白いブランコを置く。子どもだけは空気の汚いところで育てるよりも郊外のオゾン豊かなところでのびのびと育てる。

 「帝国ホテル前」の群衆は同一的な夢を持っていたように思われる。続きを読む

2012年05月10日

下北沢X新聞(2076)〜代田の古老と代田を巡る3〜

P1020780
(一)
 関東大震災と武蔵野の開発は密接な関係がある。東日本大震災と武蔵野再開発というのも大きな影響があるように思える。地盤堅牢な場所が見直されている。逍遙途中で見かける、荏原随所で住宅建設、マンション改築などが行われている。東から西へじわりと人口が移動しているのではないかと思う。

 代田南北ライン学校開学物語というのも、この地震、そして鉄道が絡んでいる。

 関東震災以後、私鉄の開通に伴う郊外住宅地の開発が進むと、代田北部の人口が急増したので、昭和二年に大原に第三荏原尋常小学校(現東大原小学校)が開設した。しかし人口増のピッチは更に早まり、たちまちに教室が不足になって、低学年の二部授業が始まった。 「昔の代田」 今津博  

関東大震災によって東京都心部から人々が郊外に移ってきた。復興需要を見越して地方から人が集まってきたことはある。代沢小の坂口安吾の教え子の一人は地方から来た瓦屋さんの子どもだった。

坂口安吾は代田橋から分教場(代沢小)へは歩いて通った。下宿先は主任の家である。教員時代を描いた彼の作品『風と光と二十の私と』にはこの彼のことをこっぴどく批評している。

 小使だの生徒には特別あたりちらすが、学務委員だの村の有力者にはお世辞たらたらで、癇癪を起すと授業を一年受持の老人に押しつけて、有力者の家へ茶のみ話に行ってしまう。          ちくま文庫 坂口安吾全集4
 
この地元「有力者の家へ茶のみ話」というのは実は暇つぶしではなかった。主任は第三荏原開校に向けて奔走していたようだ。この主任が東大原開学時の訓導だったことを突き止めたのは、きむらたかし氏だった。『故きを温ねて』―第三荏原から東大原へ―東大原小学校同窓会発行にも「大正十五年四月一日荏原尋常高等小学校大原分教場開校」時の八名の教員の名が載っている。そのうちの一人「訓導 石野 則虎」は、この主任にほかならない。続きを読む

2012年05月09日

下北沢X新聞(2075)〜代田の古老と代田を巡る2〜

P1020781
(一)
 都鄙の境目にこそ物語が渦巻いている。独歩「武蔵野」の核心部分だ。東京郊外、代田にはこの境界ラインがビジュアルに存在していたことに気づいた。東京内輪線を形成する駒沢線である。

「私が初めてこの世田谷中原に降り立ったとき高々と高圧鉄塔が聳えていましたよ。ずいぶんの田舎に来たと思いました……」
 この話は当時をイメージしないと分からない。今津さんは昭和六年に新宿角筈から当地に越してこられた。「昔の代田」にも書いておられる。

ひ弱な兄弟の生育に不安を持っていた両親は、郊外住宅地への移転を考え開通後間もない小田急沿線に目をつけたのだろう。連れて行かれた世田谷中原駅(現世田谷代田)で下車して見た周りの景色には驚いた。駅前、そして道の両側にはぼちぼち商店はあるものの、畠…竹藪…こんもりとした林。それより巨大な鉄塔が建ち、線路の上空をまたいで通る高圧線。こんな物は山の中にあるものと思っていたのに。
 僕はこんな田舎に住むの!


 「場末のささやかな盛り場」新宿角筈から転居してきた。親は、オゾンのたっぷりと降り注ぐ世田谷中原は子どもの健康にはいいと思った。ところが、そこは肥だめの臭う田舎だった。特には高圧鉄塔線だ、これが高々と聳え立っていた。「巨大」という表現には着目すべきだ。何もないところに銀色の鉄塔が青空をぶすりと突き刺している。

 内輪線は東京をぐるっと取り囲む電気供給ラインである。当初は都鄙の、鄙側にあったが、東京が膨張し攻めてきたことによって境目になってしまった。駒沢ラインは物語の渦巻く地点となった。ところが個々個別の物語が生まれはしたものの、電気は目に見えないものだ。文化ラインとして意識されずに今日まできてしまった。
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2012年05月07日

下北沢X新聞(2074)〜代田の古老と代田を巡る〜

P1020782
(一)
 「東京府は我が日本の巨人伝説の一箇の中心地」と述べたのは柳田国男である。その中心地こそ世田谷代田に他ならない。昨日、その伝説の地を御年九十一歳の代田の古老、今津博さんの案内で巡り歩いた。

 ところが終盤でそのダイダラボッチに一撃を食らってしまった。

 河口湖を丸ごと両手でひっつかんで、そして世田谷代田の上でぶちまけた。突風が吹き荒れ、雹がびしばしと落ち、大粒の雨が我等を襲った。ほんの数瞬で濡れ鼠になってしまった。降雨に恐怖を感じたのは初めてだ。

 ダイダラボッチはもともとは人間には優しい存在だった。「男体山と浅間山の頂きに、棹をかけて、大きな木綿の着物で北風をふせいでいる」、そういう存在だった。

 どうもこのダイダラボッチ、このところ人間への意趣返しに転じたらしい。敵意を持ち始めたようだ。それはなぜだろうか。

 「言挙げ」という言葉がある。自分の考えや意志をはっきりと声に出していうことだ。ところがこれが慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされる。

 言霊思想はここからきている。言葉には霊魂が宿っているみだりに言挙げをしてはならない。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が伊吹山中で誤った言挙げをしたことが原因で神の祟りを受け殺されてしまったことは有名だ。

「代田連絡線の枕木井桁組の鉄連橋はここなり」
 かつて地元に住んでいた岩田さんがそのように言挙げしてしまった。ところがそれは違っていた。街並みが激変していて、記憶すら当てにならなくなってしまった。まさかこの祟りではあるまい。続きを読む

2012年05月06日

下北沢X新聞(2073)〜子どもの日にどんな文化を語るのか?〜

P1020778
帝都線席取り物語

(一)
「おい、いいか、あのな。一番の特等席は、真ん中だよ。あそこじゃなかったらだめなんんだよ。」
「兄ちゃん、あそこの右はじでいいんじゃないの。だってさ、隅っこでこっそり楽しめるじゃなない」
「だ、だめだよ。真ん中が一番いいんだよ……いいか、こっそり聞くんだぞ。こ、このドアがあくときに下の方で、きゅう、くぃという棒が何かを引っ張る音が聞こえるんだ、これがしたら、構えるんだ」
「構えるって?」
「電車に突っこむ準備をするっていうことだよ。ぐわぁらとドアが開いたとたん、身体を斜めにして隙間に潜らせる、そして、入ったら真っ直ぐに特等席を奪取だ。」
「あんちゃん、あたいは?」
 妹が口をはさむ。
「俺らに続けばいいんだよ。特等席は三人分だからな。まっ先にたどりついたやつが、両手を窓のところにしっかりと置いて、俺の領分だというふうに仁王立ちになるんだよ」
「兄ちゃん、隣の二人組が盗み聞きしているよ。」
 帽子を被った兄弟は、やっぱり特等席を狙っているようだった。
「あ、それとな、注意しろよ。床に油が塗ってあるからな、滑るんだよ。俺は一回滑って転んで負けたことがあるんだ。そろそろ時間だ……」
 帝都線渋谷駅ホームでは、席取り合戦がまた始まろうとしている。一番前の展望席に陣取って前から襲ってくる景色を存分に楽しむ。子どもには空気のご馳走だった。一度経験したら、もう止められない。
「兄ちゃん、大分集まってきたよ」
 二両編成、永福町行きの一番先頭のドアの回りにはもう十名ほどの子どもが集まっていた。その彼らの一人一人の目の輝きが違う、互いが互いを牽制していた。特に運転席側のドアの前に陣取った耕作には鋭い視線が注がれた。続きを読む

2012年05月04日

下北沢X新聞(2072)〜代田の古老が記録した都市変遷2〜

P1010985
(一)
 人間に取って風景は欠かせないものだ。目のやり場であり、気持ちの落ち着かせどころである。これとのふれ合いから郷愁という感情が生まれてくる。

 この風景、荏原では急速に均質化しつつある。2006年に道路交通法が改正され、駐車違反強化のため民間に駐車監視員を委託しての取り締まりが始まった。これによって駐車場が急激に増えた。畑地が、宅地が、空き地がコンクリートで蔽われ。区分線が引かれ時間貸しの駐車場になった。どういうわけかそこにはどこもここも自動販売機が置いてある。

 それ以来緑が極端に少なくなった。そしてまた今ひどいのは樹木の強せん定するである。そこまでやらなくてもいいだろうと思うほどにやってしまう。ひどい場合には欅(けやき)の屋敷林がことごとくこれにやられ丸裸になってしまっている。都市人は緑を嫌う。

 緑は目のやり場である。それすらも痛め付け、切り落とし、人間に取って都合のいい風景が作り出されている。

 私たちにつきつけられているのは自然の克服ではなく共存である。が、経済の拡大膨張は、依然として自然を破壊し、潰し、壊している。きっとまた大きなしっぺ返しを受けるだろう。続きを読む

2012年05月03日

下北沢X新聞(2071)〜代田の古老が記録した都市変遷〜

P1010496
(一)
 鉄道開通は人々の時間認識を改めさせた。コケコッコー時間から、コッチンカッチン時計計測時間に変わった。それ以来、文明は遮二無二速度を追い続けている。もうそろそろ速度を落としていいのではないか?。速度追求は限界を迎えはじめている。

 多くのインフラ、例えば、橋や橋桁、高架橋、水道管などが耐用年数を過ぎてきていてる。崩壊や破損の可能性が出て来ている。何時壊れるか分からない、なのに新設道路、新幹線、かてて加えてリニアまでが着々と作られようとしている。新設よりももう保守整備の時代だ。人口もどんどん減り始めているのに転換ができないでいる。

 もっと速く、もっと速く、もっと便利には停まらない。その過程で、人々が暮らした、泣き笑いの時間は、日々ゴミのように棄て去られている。

 つい先だって茨城県まで行ってきた。九死に一生を得て特攻から帰還された久貫兼資さんにインタビューをするためだ。彼は特攻で死んだ仲間の記録を丹念に調べてきた人だ。「きちんとした記録を残さないと、死んだ仲間に申し訳ない」と言われた。

 市民の歴史、市井の出来事なども実は同じことが言える。何がどこでどうあったのか。過去を展望することで未来が見えてくる。が、めまぐるしい時間回転は、記録を捨ててつぎのステップに行くばかりだ。

 私は元特攻兵の久貫兼資さんと代田の古老今津博さんには共通点があるように思った。前者は個別の部隊の行動を仔細に記したカードを持っておられた。後者は、「昔の代田」を書かれて、街の記録を残されている。

 中でも付録となっている「中原商店街」(戦災前)のすべての商店名を書き記した地図は圧巻である。彼の労作である。この街の歴史がこれを見れば一目でわかる。
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2012年05月01日

下北沢X新聞(2070)〜第70号「北沢川文化遺産保存の会」会報〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第70号  Web版
                2012年5月1日発行(毎月1回発行)

               会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
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1、第5回「戦争経験を聴く会、語る会」(2012年)

〜今、聞いて置こう、薄れゆく戦争の記憶を残すために!〜
テーマ「世田谷の疎開学童と特攻隊」
  日時 5月26日(土)1時30分から4時30分まで(13時開場)
  場所 北沢タウンホール 2F 集会室 定員60名 参加費無料
主催 「北沢川文化遺産保存の会」 会長 長井邦雄
  後援 世田谷区教育委員会  北沢3、4丁目まちづくり協議会


 「戦争経験を聴く会、語る会」は、2008年から始めました。この一帯が大空襲に襲われたのが1945年5月24日、25日です。その山手空襲から67年目を迎えます。風化する戦争の記憶を今のうちに、しっかりと聞いてそれを次代に繋げたいという思いから四年前からこの会を5月に開催してきました。今年は、その五回目に当たります。
 昨年は、出陣学徒、海軍第十四期飛行予備学生お話を伺いました。今年は、「世田谷の疎開学童と特攻隊」というタイトルを設け会を開催します。
 昭和十九年(1944)年八月、世田谷の多くの学童は信州松本浅間温泉に疎開をしました。昭和二十年二月、満州で編成された特攻二隊が名古屋空襲のあおりを受けて陸軍松本飛行場に飛来してきます。武剋隊と武揚隊です。前者は旅館、千代の湯、富貴の湯、またこの隊の幹部は目之湯に宿泊します。後者武揚隊は富貴の湯に宿泊しました。
 千代の湯には代沢小、富貴の湯には東大原小、目の湯には駒繋小の学童が疎開していました。今回判明したことはそれぞれの旅館において学童が特攻隊とふれ合っていたことです。初代知覧特攻平和会館館長の板津忠正氏は特攻隊と子どもが写った写真を三十年間に渡って調べておられた。ようやっとこれが代沢小の疎開学童と知ったそうだ。
「特攻隊と学童のふれ合いというのは極めて希ですよ」
 その板津氏から聞いた話である。この世田谷の疎開学童と特攻隊については大体全貌が分かってきた。このことの基本的なあらまし。それと当事者から話を聴くことにしている。
 申し込みに関しては全国レベルの反響がある。既に二十数名の申し込みがあるところから、参加希望をされる方は必ず申し込みをしてください。定員になり次第締め切ります。インターネットでは aoisigunal@hotmail.comに。電話の場合は、03-3718-6498きむらけんに連絡してください。 世田谷区広報については5月1日号に開催情報が掲載されます。例年にない反響があって、定員オーバーを心配しているところです。人によっては、二度目を開けとも、が、そこまではできません。
 なお、ボランティアで運営を手伝ってくださる方は、当日、午後一時に会場にお集まりください。「せたがや平和資料館」からは、立川裕子さんが武剋隊今西軍曹、大平伍長からもらったという遺墨を借りて展示します。今西軍曹のは満州国皇帝溥儀に謁見したときに下賜されたという恩賜の煙草を包んだ布だという。見ものである。

2、地域のチカラを掘り起こそう

 東京都は、「地域の底力再生事業助成」を行なっている。この趣旨はこうだ。

 地域の課題や住民のニーズが多様化する中、行政だけでなく多様な主体(町会・自治会・企業・NPOなど)と連携し、公共的な課題を解決していくことが求められています。
 この「地域の底力再生事業助成」では、地域において多様な主体が連携し、積極的に課題を解決していく力を「地域力」とよんでいます。
 この助成金は、地域活動の担い手である町会・自治会の皆さんが行う地域の課題を解決するための取組を推進し、「地域力」の向上を図る事業に対して、東京都が助成を行うものです。

 これに応募できるのは町会である。これへの助成申請をしたらどうかと行政からの示唆があったことから、「北沢川文化遺産保存の会」の相談役廣島文武氏が精力的に町会を説得し、代沢中町会、代田自治会の同意を得た。そのことから、今年度「地域の底力再生事業助成」へ申請することを計画している。

 基本的には、地域固有の文化を形あるものとして碑に刻み、地図に起こし、それを地域にアピールして、土地に住む人に地域に埋もれている文化が優れて際立っていることを知らせたい。このことは地域の文化というだけのものではない、日本の文化史の一翼を担っていた、そればかりか、いまもなお担い続けていることを伝えたい。まさに地域の力の掘り起こしである。

 基本的には、当会が従来から主張している「北沢川文学の小路」を形あるものとして具体化することにある。北沢川緑道に横光利一や森茉莉などの文学碑を建て、萩原朔太郎ゆかりの「代田の丘の61号鉄塔」の案内版を置くことである。合わせて「下北沢文士町文化地図」の作成である。この地図については、新たな地域の掘り起こしということから「アートタウン」ということを加え、単に文学だけではなく、芸術を網羅したものにしたいと思っている。ソフト面でも具体的な行事を計画している。芸術の秋には、10月、11月には「アートタウン」を検証するための街歩き、「下北沢アートタウンを歩こう」を二回に亘って行なうことを企画している。
 
 「地域の底力」については、六月に提出することを今のところ計画をしている。行政の方でも好意的で、緑道に碑や案内版の設置については「公園等設置占有許可申請」での対応を考慮してもらえるとのことだ。計画の進行状況などについては順次、会報を通して今後も報告することにしたい。

3、桜祭りでの「下北沢文士町文化地図」の配布活動報告

  4月7日8日両日にわたって「下北沢文士町文化地図」を代沢小安吾文学碑の前で配布した。総数1050部である。このときい行なった地図基金への寄付については、4195円が集まった。これまでに集まっていた40091円を足して44286円となった。
 このお金については、「地図基金」として集めている。地図代に使途を限ったものである。改訂五版地図への基金としたい。
 七日は風の強い日だった。学校から借りた黒板が強風で倒れた。その降りにボランティアで来られた道吉剛さんの足に当たり骨折された。会員が病院への手配をしてくれた。全治二週間とのことであった。
 「北沢川文化遺産保存の会」としてお見舞いの花を贈った。この事故悪天候で不可抗力ではあったにしても細心の注意が必要だと痛感した。今後の課題はレク保険への加入が課題である。
 
4、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地のにおいを嗅いで楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日としています。第二は、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第73回 5月19日(土) 午後1時 下北沢駅北口ピーコック前 

 幻影の下北沢「猫町」小路をさすらう
 萩原朔太郎には「猫町」という小説がある。意識の屈折がストーリーとなっている極めて類まれな小説だ。この小説をどのように読むのかは自由である。地元、地域のことを念頭に入れて読んでいくと、「もしかしてこれって下北沢が舞台?」という思いが湧いてくる。それだったら、「それはどこ?」ということで、該当個所を実際に歩いていくものだ。想像を楽しむ街歩きだ。是非、小説「猫町」を読んで参加してください。
 なお、詩人は1942年(昭和17年)5月11日に「代田の丘の61号鉄塔」の下で亡くなっている。このことから、これを毎年の恒例行事として続けている。
 

◎5月3日(木)の特別行事について(緊急連絡)
 
 「『昔の代田』を古老と歩く」をこの日に予定していた。古老は今津博さん、御年九十一歳でおられる。「昔の代田」を書かれた方である。お年を考え雨天順延としていた。が、3日は雨の予報だ。他の会の幹部とも連絡を取り、やむなく晴れと予想されている5月6日(日)に変更することにした。今津博さんともこの時間で折り合いが付いたところだ。よってこの「『昔の代田』を古老と歩く」はこの日に変更したい。
 通常会報ではこのことを伝えていない。連絡が取れる範囲で連絡をするようにしたい。一応、3日の予定では、既に十五名の応募があった。この経緯から減るかもしれない。若干の余裕がある。是非という人がいればすぐに申し込みを。当日、5月6日(日)代田二丁目駅改札前(現新代田)午後一時 会費300円


六月の予定
〇特番開催  麻布・六本木界隈の坂道と水路を歩く
  6月9日(土曜日) 集合場所:六本木交差点アマンド前(地下鉄六本木駅下車)
 集合時間:13:00  歩く時間:3時間
 歩く距離:約5キロ(坂道を上ったり下りたりする)
案内者 天羽大器 会費100円
・第74回 6月16日(土)午後10時 代田橋駅改札前
  下北沢地形学入門 外縁の水路を巡って下北沢へ 去年、笹塚「福寿」を通ったとき
 ここのラーメン屋で来年は食おうねという話から、昼はラーメンをここで食べる。
・第75回 7月14日(土)午後一時 田園都市線三軒茶屋駅改札前(中央)
恒例「駒沢練兵場を巡る」 熱暑行軍、一人参加催行。
  例年と違って、三軒茶屋に集合します。
・第76回 9月15日(土)午後一時 明大前改札口
  明大前鉄道交点を歩く 明大前鉄道交点を巡って文化を探す。東京山手急行跡、本願寺築地別院、日本中学(今井兼次設計)、竹久夢二の「少年山荘跡」探索など
・第77回 10月20日(土)、下北沢駅南口午後一時集合
 アーティストタウンを歩く1(第一象限、第二象限、第三象限)
・第78回 11月17日(土)、井の頭線池の上駅 午後一時集合
アーティストタウンを歩く2(第四象限)
・第79回 12月15日(土)代田橋駅 午後一時集合
 代田半島地形学入門
◎申し込み方法、参加希望について
  参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします。資料部数と関連)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com

■ 編集後記
▲歩く会の会費について、基本的には会員が案内する場合には100円としてきた。が、考えると、この値段、案内者の奉仕にすっかり頼っていたと思う。下調べも、資料も必要だ。あまりにも低廉である。せめて300円にしたい。歩く会のお知らせを区内のメルマガに載せようと思って原稿を書き記したが、他のを見ると100円などというのはなかった。内容的にはレベルは低くない。率直に言って、100円は安すぎると思った。ただしメルマガで希望があった場合には百円としたい。
▲「北沢川文化遺産保存の会」の活動は、自身のブログ「web東京荏原都市物語資料館」で紹介している。このネットでの資料の蓄積は膨大なものとなっている。実質的にネット上の「都市物語資料館」として機能している。当館を検索で探り当て何かが発見されたという例はずっと続いている。陸軍松本飛行場を飛び発った「武揚隊」の一次資料の発掘もその一つだ。これは静かで大きな反響がある。現時点でこの現物を公的機関が夏の戦争企画展でも使おうという動きがでてきている。計画が決まり次第会報で伝えたい。
・当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしています。「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。入会費なし。年会費1000円。事務局の世田谷「邪宗門」で受け付けております。