2012年07月

2012年07月31日

下北沢X新聞(2132)〜「戦争と平和展」への旅立ち2〜

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(一)
 自分は何をしているのだろうか?。よく分からない。けれどもこの頃、少しずつ分かってきた。どうも未知の分野に自分が入り込んでいるらしいと?。

 自分を何と呼ぶか。社会、世間は、人間を測るのに肩書きを利用する。自身の場合も紹介されたりする場合は童話作家となっている。が、この分野はすっかり廃業している。大人向けがほとんどになってしまった。童話作家は仮の姿だ。

 自身の書いた「日本鉄道詩紀行」の書評を書いてくれた人の肩書きが自転車通勤家だった。『ビーパル』らしい名づけ方だと思った。今も印象深く思っている。肩書きは自分で勝手につけてよいということの好例だ。

 前から自分では、文化探査者と称している。童話作家を前にしてこれを後にしていた。次からはこれを前にしようと思う。本当に文化探査をしてきた。その度重なる体験が今になって芽を出してきたように思う。余り人が手につけていなかったことだと最近になって気づいてきた。

 文化探査は人知れず行うことだ。そこが面白い。こっそり、ひっそりと行く。この行くということはもっとも大事だ。文化だからだ。そこにはそこの固有性がある。土地に行かずして文化を語ることなかれ。

 つい数日前、これもこっそりと取材に行った。「代田連絡線」跡だ。何かしら何かがある。ちょうど鉄連橋辺りで水道管工事をやっていた。警備の人と話をした。
「管を取り替えているんだけど、腐食がひどいんだよね」
「うんそうそうここは川だったからね、湿気が多いからね」
 専門家でもない自分がそういう。鉄連橋を渡したのは沢を越えるためだ。Vの字の下は水が流れているに決まっている。

「橋が架かっていた?。ああ、そういえば、確かにそんなものもあった……トロッコ、ああ、それもこの上にあった…」
 ちょうど道を通り掛かった人に聞いた。昭和二十二年生まれで代田小に通っていたという。続きを読む

2012年07月30日

下北沢X新聞(2131)〜「戦争と平和展」への旅立ち〜

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(一)
 この三月、信州松本淺間温泉「目之湯」旅館から段ボールで自宅に宅配便を送った。アルバム、色紙、和綴じ帳などが入った一箱である。昨日、29日、それが故郷へ運ばれていった。今度は普通のトラックではない。美術品専用運搬車である。

松本市で今夏「戦争と平和展」が開かれる。8月4日から31日までだ。美術品専用運搬車で運ばれたものがメインとなって展示される。

 私は、昨日、松本から借りてきた資料一切合切をザックに詰めて世田谷中町の「せたがや平和資料室」まで運んだ。トラックはここをベースとして出発する。

 鉛筆部隊の松本明美さんのハガキも展示される。武剋隊の時枝宏軍曹が各務原から彼女宛てに送ったものだ。彼女とは数日前会った。
「私、時枝さんのハガキ持って来たのですが、ちょうどいいわ、これ松本へ持って行ってくださいよ」
 地元松本から来ていた記者の人に頼んでいた。
「いや、それは駄目ですよ。ちゃんと美術運搬車が来て、丁寧に運んで行くことになっていますから」
 事情を知っていた私はそういった。
「なんかね、たった一枚のハガキなのにね……」

 その松本明美さんのハガキは既に車の荷物になっていた。松本市博物館の学芸員の関沢聡さんが資料室に来る前に代沢の自宅に取りに行っていた。一枚ではあってもしっかりと梱包されたものと分かる。専用車には美術品の扱いに慣れた日通の人二人が乗っていた。学芸員を含めて皆、白手袋をしていた。思わず自分の手を後ろに回して手の脂をこっそりと拭いたことだ。和綴じ帳など無造作に手で触っていた。続きを読む

2012年07月28日

下北沢X新聞(2130)〜夏、また再び五度目の駒沢練兵場4〜

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(一)
 私は目黒区民だ。しかし、行動のほとんどが世田谷区民である。事実、目黒区には知り合いはいない。圧倒的に世田谷には多い。取材のベースは世田谷をメインとしている。

 そう、今日も暑かった。が、代田連絡線跡を一人で巡り歩いた。

 居住地の問題というよりも精神風土の問題だと思う。当地の、固有性、文化に興味がある。一つはレジスタンスである。姿勢、知性、感性などを含めて世田谷の方が面白い。

 駒沢線敷設に関して、これへの疑義を農民が持った。荏原の彼らが三軒茶屋、石橋楼に集まって「東京電燈の横暴を許すな!」と、総決起集会を開いた。そして、実力行動に出た。恣意的に高圧線を敷設しようとした東京電燈に糞尿をぶっかけて抵抗した。

 東京行進曲のなかで「……いっそ小田急で逃げませう……」と歌われた一本の鉄道を中心に、若き芸術家たちが集まり、そして「白と黒の会」という美術家の親睦団体を介して酒をくみかわし、親交を深めていたという事実は、当時極めて厳しい縦わり世界の中であった日本の画壇において、少々不思議な感じがする。
      「世田谷の風土と作家たち」 橋本善八

 この筆者が回想していうように「当時の世田谷の姿は、実にほのぼのとした田園風景の広がる農村地帯であった」。都市近郊にあって、自由に振る舞える場があった。都会から落ち延びて、駆け落ちもして、そこで好きなことをする。が、これは外部人の言うことで土着人には異様だった。「ちゃらちゃらした女を連れ込んで」という目差しも忘れてはならない。

レジスタンスは自由な場で芽生える。日本はどこでも「縦割り」がはびこっている。そういう中で世田谷は、いちゃもんが言える、そういう精神風土があった。と思いたい。

 下馬野砲兵兵営は戦果を免れた。戦後の住宅難の中で戦災を受けた人、それと外地から引き上げた人の収容施設として使われた。しかし、食糧難は厳しい。ここの居住者が立ち上がった。

 1946年5月12日には、東京世田谷区で「米ヨコセ」区民大会が開かれ、宮城へデモ行進し、一部の人々は坂下門までなだれ込む事件が発生しました。さらにその1週間後には、飯米獲得人民大会(食糧メーデー)が大規模に開催され、大会代表が首相官邸に座り込みをかけました。
参考HP

 この「米ヨコセ」区民大会は野砲兵営に居住する人々が中心だったようだ。ついには食糧メーデーに発展し、皇居前では25万人もが集結したという。続きを読む

2012年07月27日

下北沢X新聞(2129)〜夏、また再び五度目の駒沢練兵場3〜

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(一)
私たちが長い間培ってきた価値観が今音を立てて崩れ初めている。

 2005年の終戦記念日に紀伊國屋ホールでシンポジウムが行われた。今でも印象深く覚えているのが妹尾河童さんの発言だ。確かおよそつぎのようなことを言っていた。

 「戦争の始まりは、後ろの方のトタン屋根に何かがぱらぱらと落ちる音がして始まるのですよ」と。初めはそんなものだ。が、本格的になると、ヒュールル、ヒュールルという不気味な音が間断なく聞こえてくる。焼夷弾の落下音だ。

 「君は、ヒトラーユーゲントを見たか」、昨日、雑誌Will9月号が発売になって、近くの八雲堂書店に行ってみた。すると、雑誌は平積みになって売られていた。「下北沢に来たヒトラーユーゲント」は都立大学駅前にもあった。私は、そのヒトラーユーゲントを見てきた。見たか?、聞いたか?。

 「君は、時代が崩壊し始めている音を聞いているか?」、問題の核心だ。

 耳を傾けてもなかなか聞こえない。よほど耳を研ぎ澄ましても聞こえない。思いつく音を思い出してみればこういうのがある。「さようならも言えず泣いていた 私の踊り子よ ああ 船が出る」である。「伊豆の踊子」、一般的には美空ひばりの方が有名だが、私が覚えているのは三浦滉一さんのだ。国民感情のツボに響く歌詞だ。なんとまあ、踊り子はかわいそうなの!。

 この歌手、思いがけず、下北沢、北沢四丁目公園で出会った。ここに憩っておられるときに「下北沢文士町文化地図」を渡したことがある。

 今日は、脱線続きである。本題になかなか入らない。が、初手から言いたいことを言っても伝わらない。枕があっての本題だ。

 私たちは伝統的な思考回路、さようならの美学からのきっぱりとした決別を強いられている。「そのようであるならば、しかたがないでしょう。さようならですね」という考えだ。「花は桜花」、散っていくところに美しさがある。ものみな散ったり、壊れたりするものだ。「さようなら」と別れるしかない。秋にも葉は色づいて散ってしまう。日本ではすべて滅びていく、四季の移ろいの中で醸成された美学だ。続きを読む

2012年07月25日

下北沢X新聞(2128)〜夏、また再び五度目の駒沢練兵場2〜

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(一)
 人間は平和的でありうるのか?。

 戦争で痛い目に遭ったにも関わらず、ロストフは、若いアレクサンドル皇帝を一目見るや感極まって命令されたら火の中へでも飛び込んでもいいと思うようになる。トルストイ『戦争と平和』の中の一エピソードだ。美貌とか形が人間の心をくすぐってやまない。

 筋骨�呂箸靴神椎�達、背が高く、彫りの深い彼らが下北沢『店員道場』前で、右手を高く掲げてナチス式の敬礼をしている。これも美形、美貌に他ならない。人間の本質をくすぐるための技に違いない。

 昨日、Willの編集長花田紀凱氏から、明日発売の9月号を受け取った。「下北沢に来たヒトラーユーゲント」の寄稿を依頼されて原稿を書いた。これには下北沢へ来訪した彼らの写真が数多く使われている。写真家小宮東男さんのお父さん正志さんが撮ったものだ。

 改めて写真を見てみると、理知とかを超えた、人間の獣性美を突き刺してくる何かがある。言えば形式美だ。その彼らに較べると日本兵の出で立ちは、いかにも貧相だ。

 軍隊というものは形式を突きつめたものである。皇族をシンボルに担ぎ上げて兵士を奮起させたというのも戦争中の形であった。

「休んだままで聞け。あそこのヒマラヤ杉(連隊本部前の営庭に、一本の大きなヒマラヤ杉がある。これは北白川宮成久王殿下と、ご結婚遊ばされた、明治天皇の皇女、周宮房子内親王殿下、お手植えのものである)にむかって、あれが、第二中隊の起点……」
「近衛陸軍砲兵二等兵」門屋 古寿 昭和五十三年刊)


 昭和女子大構内には、そのお手植えのヒマラヤ杉だと思われる木が残っている。冬にはこれにイルミネーションが取り付けられる。私たちはそれをじっくりと観察した。続きを読む

2012年07月24日

下北沢X新聞(2127)〜夏、また再び五度目の駒沢練兵場〜

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(一)
 雨降りの中、馬の臭いを求めて野砲兵営跡、駒沢練兵場跡を巡った。参加者の天羽大器さん、「今回で五回目だ」と。執念の戦跡歩きだ。実施したのは、2012年7月21日だ。

 昨年、参加者は三人だった。一二回歩けば、大体様子が分かることから人気ではない。が、それでもしつこく歩いている。「たった一人でも開催する」と言ったら会員の田村さん、「俺必ず行くから」と。そして、三軒茶屋で集まってみたら、私も含めて9人も集まっていた。

 都内各地の戦跡を何度も歩いて来て知ったことがある。「負けた戦争の遺跡は残さないようにしよう」という密約だ。これはわが国に流れている考えである。そういうことで言えば、毎年の「終戦記念日」も形骸化したセレモニーであるように思える。本当は「敗戦記念日」なのに「終戦記念日」と飾っている。

「いいか、日本はな、アメリカにこてんぱんにやっつけられて負けたんだ。その日を忘れないためにこの日を設けたんだ」と子どもには話さなくてはいけないことだ。

 言いたいことは何か?、私たちは足もとの戦争をみないで飾られた形を見ているだけではないか?。日常的には戦争遺跡も顧みないで放置している。いや、消そうとしている。

 戦時体制における軍部の行動は非難されるべきだ。が、いわゆる市民は、彼らのもとで営々と励んできた。そのことは事実だ。肉体に鞭打ってノミで洞窟を穿ったり、オンボロ飛行機に爆弾を抱えたまま敵艦に突っこんだり、ろくろく食べるものもなく斥候に行って撃たれて死んだり……などなど数え上げたらきりがない。

 戦争遺跡は、当時人々が苦労した場所である。今回訪れたのは野砲兵第一連隊跡、近衛野砲兵連隊営跡、野戦重砲兵第八連隊跡だ。「飼い葉のやりかたが悪い!」、「襟章が曲がっている」、「敬礼の仕方が悪い」などと言って、何千回も兵士がぶん殴られたその跡である。そういう中で兵士たちは黙々とここで生活をしてきた。

 しかし、その跡を明示するものはほとんど残っていない。わざと消そうとしている。負けた戦争は残してはいけない。そういう意図への憎しみが、自身の執念となって毎夏ここを歩かせている。それでも戦争痕跡はわずかに馬の臭いとして残っている。続きを読む

2012年07月22日

下北沢X新聞(2126)〜鉛筆部隊と特攻隊:刊行エピソード2〜

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(一)
 本が届いて、反響が続々と寄せられている。読んだ人の生の声だ。

「もう私も着いたとたん一気に読んでしまいした。先生とのちょっとした出会いからこんな形になって戻ってくるとは思いもしませんでした。ほんと不思議ね!」
 鉛筆部隊の、ふしぎの田中幸子さん、何かというとふしぎね、ふしぎねと言うことで彼女をそういう風に呼ぶようになった。この台詞、何度聞いたか分からない。最後になって武揚隊の遺墨が発見された。それを私は「武揚隊が暴れ出した」と述べた。彼女はそれを受けて「なにしろ武揚隊が暴れ初めましたからね」と、それを鎮めなくてはならない、彼女は一つの使命を帯びたようである。それでかけずり回ってくれた。
 
 田中幸子さんは、この物語のふしぎな展開を「英霊の導きだ」と信じている。他の人も何かの魂が私に乗り移ったともいう。とすれば総本山の知覧などは恐くて行けない。実際、本当である恐いから行っていない。

 幸い彼女は知覧特攻平和会館に人脈がある。知覧担当係を当然のことのようにして引き受けてくれて、武揚隊関係の資料やら写真やらを取り寄せてもらった。

「大変でしたね。本を見て、あっちこっちを行かれていたんですね。初めて知りました。でも、感激です。何しろ一切合切のことが書かれているのですもの…」
 これはやはり鉛筆部隊の松本明美さんである。彼女に関するエピソードは感銘深いものだ。彼女を主人公にした童話を書いてくれと児童書出版社から注文があった。そのときは本編の出版化は決まっていなかった。メインの物語も出していないのにそこだけを先には書けない。その話は断った。

「最後に加藤景さんの話、入れたんだね」
 昨日、街歩きの最後三宿の「まんまるの木」でお茶を飲んだ。そのときに代沢小卒業生の田村さんが言った。
「あれは、第五回の戦争経験を聴く会、語る会での話しですよね。肉体を毀損して自分の思いを伝えようとした話は何か心にぐさっと突き刺さる話でした。なんとか入れなくてはと思って入れてしまいました。本人の加藤さんと何度もメールのやりとりをしてそのときのことを再現したつもりです。」
 その加藤景さんからはメールがあった。

 ご労作ご刊行の運び、真におめでとうございます。小生まで、ご恵送にあずかり恐縮のかぎりですが、ご著書のご立派な出来映えを拝見した時、光栄に存じております。とり急ぎ祝意とお礼を申し述べます。   

加藤景さん自身も何かの形でこのエピソードを残して置きたいという気持ちを持っておられた。図らずもこの機会に載ることになって喜んでおられる。続きを読む

2012年07月21日

下北沢X新聞(2125)〜鉛筆部隊と特攻隊:刊行エピソード〜

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(一)
「いやあ、なんかもう夢中になって、一日で全部読んでしまいましたよ!」
 北沢川文化遺産保存の会事務局、「邪宗門」のマスター作道明さんからの電話だ。長編物語を一気に読んでしまったという。
「断片的には知っていたんですけど、全部がこうなっているとは思いもしませんで、ついつい読んでしまったんですよ……」
 確かにそれはある。断片的なエピソードは私たちの関係者ならほとんどが知っている。当方が開いていた「戦争経験を聴く会、語る会」に深く関わる話だからだ。しかし、全貌を知っている人はいない。作品になってみて形ができたと言ってよい。

 取材関係者への献本が届いて、昨日今日と関係者の多くからの電話やメールがあった。
「いやあ、びっくりした。こんなものとは思ってもいなかったもので……できるだけあちこちに宣伝するよ…」
 一番最初に伊藤文学さんから電話がかかってきた。出版社を紹介してくれたのはこの文学さんである。彼も驚いていた。

「いやあ、ヤマト運輸が昼頃来て荷物を届けにきて空けたところびっくり、こんなものとは予想もしていなかったんですよ……」
 これは武揚隊の遺墨発見に繋がる安曇野市の丸山修さんだ。

「こういう本になって、立川裕子もきっと喜んでいると思います。」
 これはこの本の中で重要な役割を果たしている立川さんだ。亡くなられたことからご遺族の各務原市の鈴木美津子さんに送っていた。立川さんはこの話が出版化されるのを楽しみに待っていた人だ。

「拾い読みをしたんですけど、自分のところがとてもよく書かれているんで感激しました。松本から各務原に着いて『さくら弾機』の試験飛行して墜落したでしょう。死んだ機長のことを思い出しましたよ。」
「前村さんは、二回特攻に行かれて三回目も行こうとされていましたね。聴いてびっくりです。来年戦争経験を聴く会でぜひお話してもらいたいと思っていたのですよ」
「ああ、生きていれば行きますよ」
「ぜひ生きていてお話ください」
  重爆撃機飛龍の航法士だった前村弘さんは快く引き受けてくださった。これで決まりだ。来年も第六回戦争経験を聴く会、語る会は続けよう。続きを読む

2012年07月19日

下北沢X新聞(2124)〜地名としての「花見堂」を考える2〜

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(一)
 世田谷代田は民俗学的に興味深いところだ。随所に古代遺跡があり、神社、仏閣、祠や堂宇、地蔵尊や庚申塔などもあちこちに散在する。

 一つの理由として考えられるのは古くからの交通ルートであったことによるものだろう。「東京府志料」にはこの土地の「形勢」について「高燥ナリ、南ハ高ク北ハ低シ」とある。土地の形状をいう。まず、北は低いとある。字名でいえば「荻久保」である。東西に横たわる淀橋台地が下ったところの低みだ。淀橋台地から南は高燥、フラットで、大原とか中原という字名で現されている。

 北の淀橋台地には甲州街道が東西に走っている。この台地から派生した半島状の形状が南へと伸びている。自身ではこれを代田半島と呼んでいる。この尾根筋に古道堀之内道が通っている。これは南に一旦下って、川を渡る。北沢川だ。ここを過ぎるとまた東西をよぎる道がある。古道滝坂道だ。代田に縦横に道が走っていることがわかる。

 交通の要衝であったことは土地の文化に深く影響する。南北ルートである堀之内道は川を渡ってまた上ると述べた。ちょうどそのあたりが舌状台地になっていた。この「台地突端は、世田谷城防衛の重要地点の一つであったと判断されるところから考えて、吉良氏はここに小砦的番所を設け、斉田氏以下後に代田七人衆と呼ばれる家臣を常住させていた」(「世田谷の地名 上」(世田谷区教育委員会 昭和五十九年刊)とある。この歴史と地名とは深い関わりがある。

 歴史は転変する。「旧代田村は、天正18年(1590)小田原の北条氏の滅亡に伴った世田谷吉良氏の没落後に、その旧家臣で代田七人衆といわれた斉田(2家)・清水・秋元・柳下・山田・大場の諸氏が新墾したと伝えられる。(同著)続きを読む

2012年07月18日

下北沢X新聞(2123)〜地名としての「花見堂」を考える1〜

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(一)
文化はその地の固有性を言う。固い土、柔らかい土、それを知った上で、耕し方を変え、鍬の形も改良を重ねてきた。そこに住まう人の生き方の方法であった。耕している場はどんなところか。それは言葉、その土地の名を言う字に托されて表現されてきた。いわゆる字名である。

 字、ウ冠は家を現す。その家では人々は神を信奉して暮らす。日々の暮らしの基本は天候と直結していた。恵みの雨が欲しい、程よい日照りも欲しい。が、それはなかなか都合のいいようにはならない。人々は祈るしかなかった。

 家々には神を祀り大切にした。子どもを授かった場合には出生を報告し、「幸多かれと幸子としました」といい、その子の健康を祈った。子が生まれることで居住地の末永い繁栄がもたらされる。

 字は古代人が暮らすための基盤となる場であった。大字があり、小字がある。後者は古代の字を明治になって分合し、編み直したものだが、その一つ一つには土地固有の情報が言い表されている。字を紐解くことで土地の文化が見えてくる。

(二)
 地名には壮大な物語が潜んでいる。小字、大字……これら地名の源泉は、はるかな宇宙まで遡っていく。天体運行、地球自転に関連してくるからだ。もっと具体的に言うと海流とか、ジェット気流などが深く関わってくる。黒潮の流れ込みによる寒暖の差の影響、富士箱根火山群の噴火によって運ばれてきた火山灰による影響、それらは土地の形成に大きな影響を与えている。

 改めて地名を考えてみようと思ったのは一通のメールが舞い込んだからである。
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2012年07月16日

下北沢X新聞(2122)〜いじめと地形と文化と〜

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(一)
 日本文学の源流はさすらいにある。その土地に固着していると感性や感覚は土地にすっかり馴染んでしまって文学は生まれにくくなる。何とかして旅に出て新しい感覚を得たい。そして自由になりたい。芭蕉はその旅への切望を、「片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず」と述べた。その願望から「奥の細道」への行脚へと向かった。「古人も多く旅に死せるあり」、自身も旅において死にたいと……。

 旅へ旅へと人を誘ったのはなぜだろうか。旅において唯一自由が得られるからだ。手甲脚絆を身につけて歩いていれば旅の人だ。人はその姿は不自然には思わない。ゆえに旅人は旅人風情で、折々に立ち止まり風光を眺め、勝手な瞑想を巡らせた。「おお、行き交うあの姉ちゃんは綺麗だ」、「おお、あの山はなんと形の麗しいことだ」など、何考えても誰にも邪魔されることはない。

 言えば固着生活の苦しさの反面がこの背景にはある。人と人との濃厚で抜き差しならない関係があって、どうにもならないものだ。それは束縛と不自由である。そこで生まれて、育って、暮らしていると、それ以下でもそれ以上でもなくなる。自由に羽ばたくことの困難さがある。

「私ね、膝上十センチのスカートはくのは初めは恥ずかしかったけど、慣れちゃった。でもね、『おめえが男に見せつけて歩いているから触ってやったんだという痴漢の捨て台詞を聞いて、心底恐くなっちゃった。私、明日から膝下スカートにするわ」
 正しい気づきだ。が、明日からはそれはなかなか実行できない。お色気デモンストレーション女子高生には、目に見えない暗黙のルールがあって、一人の異端児も許されない、そんな風土がある。続きを読む

2012年07月15日

下北沢X新聞(2121)〜雨だれは天の悲鳴か?〜

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(一)
 立て続けに二回、夜中に目覚めることがあった。雨だ、激しい雨音によってだ。
 以前の夏だったらクーラーを入れていて寝ればよかった。外の騒音に邪魔されることはなかった。ところか、原発過酷事故によってエネルギーが潤沢ではないと知った。それで今夏扇風機でなんとか凌いでいる。そんなときに遭遇した雨音だ。

 緊急災害メールでチェックすると、「豪雨予報 東京都目黒区 非常に激しい雨(53mm/h)」とあった。なるほどこれだった。屋根を叩きつけるような音が鳴り響いて、これに起こされたのだ。ついこの梅雨に入っての九州豪雨では、「今まで体験したことのない雨」という報道がなされた。当地、目黒区の53mm/hもこの事象と繋がるものだ。

 「雨に歌えば」という古いフレーズがあった。かつては雨に詩あった。ところが、今日近代では、雨に向かって口でも開けようものなら溺れてしまいそうに降る。

 歴史経過の中で時代時代の雨音はレコードされているのだろうか?。あれば聞き比べられる。自身の記憶にある経過雨音は激変している印象だ。

 私は自転車通勤を長く続けていた。そのときに気づいたのは雨の降り方がまったく違ってきていたということだ。激しいスコールに度々遭うようになった。ところが今は降り方が尋常ではない。激しい雨音が途切れることなく続く。これでもか、これでもかと天が怒って雨を降らせているように思う。

 このところ天候異変がずっと続いている、この五月、街歩きをしている最中に雹まじりの豪雨に襲われた。雨を恐ろしいと思ったのは初めてだ。

 つい先だっては竜巻、そしてこの梅雨での、「体験したことのない激しい豪雨」。原因は何か、地球温暖化である。天は雨音に托してそれを警告しているのではないか。続きを読む

2012年07月13日

下北沢X新聞(2120)〜小田急軍事輸送団臨2〜

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(一)
 戦時下において軍事輸送はどうであったのか。特には小田急は沿線に重要な軍事施設があったことからこれに深く関わっている。この辺りのことについて「小田急五十年史」も触れている。

戦争末期になって戦争末期資材不足は深刻になり「政府は不要不急路線を指定してその営業を休止させ、鉄鋼資材を回収して軍事工場あるいは他の軍事路線に転用した」という。

 このとき、小田急小田原〜新松田間も単線化する計画であったが、陸軍士官学校から、両線は頻繁に行われる演習輸送のためには現在の輸送力でも十分とは言い難く、また東海道線が空襲その他の事故で不通になった際の代行線として、東部八十部隊の輸送上からも複線の確保を切望する、との要望が提出され、単線化は見送られた。(同著)

これによると演習。富士裾野演習場などへは度々演習輸送が行われていたようだ。道とて十分ではなく輸送は鉄道に頼っていた。とすると、相武台の陸軍士官学校の疎開にはやはり団臨を出しているはずである。

 「疎開」�◆嵋招遒了隆嘘惺察廚呂弔�のように述べる。

 陸軍士官学校の士官候補生が佐久市望月地区に向け、本校(神奈川県座間、相模原両市)を出発した1945年(昭和20年)6月6日、相武台は曇りだった。
 候補生は小田急相武台前駅(座間市)から東京を経由し、軍用列車で同7,8日に着いた。(読売記事)


 広野へ疎開させたのは「地上兵科の59期生900人」だ。専用の団臨が相武台駅から出ているはずだ。旧式のデハ1000だと定員は157名だ。三両編成で当日と翌日に新宿までの団臨を出したように思う。

 新宿からは山手貨物線を使っての軍用列車を仕立てたのだろう。この疎開、人が行けばいいものではない。大荷物がある。
続きを読む

2012年07月12日

下北沢X新聞(2119)〜小田急軍事輸送団臨〜

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(一)
 また再び戦争の夏が巡ってくる。暑い夏だ。戦争については掘り起こしを続けてきた。が、全貌というのはよく分からない。今でも、あれ、そんなこともあったのかと思うことはしばしばだ。

 今日も、朝霞の国家公務員研修所に講義に行った。話し好きが運転するタクシーに乗り合わせた。
「朝霞という名が、浅香の宮から来ているのは何十年と運転していますが、初めて知りました……」
 
 朝霞の研修所は、かつての振武台の跡に建っている。自身は陸軍予科士官学校の薪炭庫の跡で三十数年も講義をしてきた。つい最近になって気づいたことだ。

 これまた偶然である。数日前にもらった新聞記事を見ていたら、こういう記述に出会った。「士官学校予科で過ごした朝霞(埼玉県)、本科の座間(神奈川県)、そしてこの望月が僕の心のよりどころです」
 これは「西村博さん(88)(東京都練馬区)」の言である。この記事は、2011年8月14日読売新聞長野版に載ったものだ。
 
 朝霞は振武台であり、座間は相武台である。振武台から相武台へというのは陸士エリートが辿るコースだった。では望月とは何か?。この記事冒頭はこう始まる。小見出しは「望月の士官学校」だ。

 終戦直前の1945年(昭和20年)6月、将校を養成する陸軍士官学校が神奈川県から現在の佐久市望月地区に移転し、終戦とともに、この地で歴史を閉じたことを知る人は今では少ない。15日は66回目の終戦記念日。戦況悪化に伴い、望月地区に疎開して3か月で消えた「望月の士官学校」の歴史をたどる。

 つまりは陸軍士官学校が長野に疎開していたということだ。この記事を書いたのは、読売新聞東京本社松本支局 前田 啓介さんだ。戦争取材には深い興味を持っている記者だ。続きを読む

2012年07月10日

下北沢X新聞(2118)〜「鉛筆部隊と特攻隊」:校了2〜

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(一)
 手応えなのか目応えなのか、書籍の世界は揺れている。黒船電子書籍の到来によってである。この問題、人間のこれからの生き様を問うものだ。そういう側面では捉えられていない。言えば人間の文化のこれからの有り様を決定するものだ。

文化は Cultureである。耕すという意味だ。土地の固有性をいうものだ。人は土地土地によって生きている。その土地に鍬を入れて生きてきた。硬い土、柔らかい土、石交じりの土地、傾斜のきつい土地すらある。

 四国祖谷の急傾斜の段々畑はよく知られている。
「耕すときに土を上に持っていくようにするのです。そうでないと雨で土が下に落ちてしまいますからね」
 畑を耕している老婆が言っていた。なるほど祖谷の土を耕す文化だ。

 いずれにせよ鍬を入れたときに手応えは土地によって違うものだ。重みがあったり、軽かったり、土地の特徴は鍬を持つ手応えに現れる。大地を掴んでいるという感触だ。つまりは、それが人間である。手に当たる重量感は、耕す人の世界認識でもある。

 本、書籍についても同じようなことが言える。手に持つ手応えである。重要な感覚である。辞書などはその典型例だ。言葉全体を所持しているという感覚だ。使い慣れると「あのあたりにあれはある」という感覚が形成される。本でもそうだ。自身は、いつも本は拾い読みをしている。例示、証左の必要があって本棚から本を取り出す。

 森茉莉の「贅沢貧乏」はよく取り出す。居住地倉運荘が湿地帯あったところを言い表す文章がある。「ああ、あのあたりにあったはずだがな」という感覚で、そこを探す。手でめくる。極めて重要なものだ。人間がずっと持ち続けていた重要な五官の一つだ。それが今欠落していきそうだ。人間、本当に大丈夫か?、本当にやっていけんのか?。

 思うに、人は手応えや目応えで生きてきた。それによって世界が捉えらた。電子書籍は便利ではあるが、それは目応えだけの世界ではないだろうか?。

 人はその世界を掴み取って生きる。目で確かめ、手で握る。そういう世界認識だ。考えてみると、安全だ、安全だと言われてきた原発などは甘い耳応えではなかったか?。空から毒性の強い放射能が忽然と降ってきた。 今、当該地域の農民は耕すことすらできなくなっている。重い重い現実だ。続きを読む

2012年07月09日

下北沢X新聞(2117)〜「鉛筆部隊と特攻隊」:校了〜

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(一)
 とんでもなく長い旅だった。歴史の旅でもあり、言葉の旅でもあった。それが今朝方終了した。再校個所を指摘した文章をメールで送った。これで作品は自分の手をもう離れた。

 長い長い時間の積み重ねがあった。ところがこの時間はくせ者だ。時間が経ったことにはなかなか気づかない。昨日、この戦争近代の歴史物語の発端を作った旭正章さんからメールをいただいた。母は「97歳になりました。代沢小学校の出来事を昨日のように話します。貴重な思い出をありがとうございました。」とあった。

 物語の中で、機縁因縁の綾がどんどんと編まれ、そして、ついには探しに探していた疎開寮歌が見つかった。60数年ぶりに、それが鉛筆部隊の母校である代沢小学校で、関係者によって歌われた。旭正章さん、そのお母さん、そして鉛筆部隊の松本明美さんと鳴瀬速夫さんの四人がピアノに合わせて「聖が丘のうた」を歌った。第一番目の大きな山場である。

  この場面で深く印象的だったことがある。信州塩尻郷原広丘の郷福寺に息子の旭正章さんと縁故疎開をしていたお母さん。「あのときは三十歳だったのにたちまち九十四歳になりました」と言われた。彼女から送られてきた手紙も作品では記した。末尾にご自身で九十四歳と書かれていた。この年齢がイメージには固着して自分には深く認識されている。

 ところが旭正章さんから母は九十七歳になったと知らされた。もうあれから三年も経つのかと思った。廻り行く時間の恐ろしさだ。三十歳がたちまちに九十四歳になって、そしてほんの少ししか経っていないと思ったらもう三年も過ぎていた。ふっと思い出したのは「方丈記」だ。

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  

 川の流れのように時間は流れて行く。今という時間はどんどんと消えて過去になっていく。自身が取材した人も亡くなったり、行方が分からなくなったりしている。

 淺間温泉目之湯には駒繋国民学校の学童が疎開していた。そのの引率だった中村初子先生からは貴重な話を取材することができた。ところが先だって戦争経験を聞く会の案内を出したところ宛先不明で手紙は戻ってきてしまった。続きを読む

2012年07月07日

下北沢X新聞(2116)〜本と言葉と時代と2〜

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私たちはどこへ行こうとしているのか?、その先行きが見えない。思うに、人間存在が善であるようには思えなくなった。『きけ わだつみのこえ』の中で長谷川信少尉は、「人間の獣性というか、そんなものの深く深く人間性の中に根を張っていることを沁々と思う」と記している。欲望の限りを尽くそうとする獣性はますますひどくなっているのではないか。そういうことを思う。当座便利であれば後はどうなっても構わないという獣性が一層露わになっているように思えてならない。

(一)
「私は思います。どこまで便利にするかということですね。全部便利にしたら人間ってすることがなくなりますよね。おかしなもので人間というのはする動物、行う動物ですよ。何もしないでじっとしていることはできないのです。負荷というのは必要だと思います。自分にストレスを与えるということです…」
 もちろん限度はあるに決まっている。

「……言葉というものは生きていく上で基礎となるものです。ところが今、国語力が低下しています。会社によっては新人研修で国語を改めてやり直すところもあるのです。社員がきちんと言葉を使って仕事をすることが望まれます。言葉が基本だからです」

どうしてか。
○仕事を教えようにも言葉がわからなきゃどうにもならない。
○仕事で企画したり、提案したりするっといっても言葉が基礎である。
○自分というものを組織の中で訴えていかなければならない。

 その再教育のポイントが四つある。
「一つは、音読ですね。意外と思うでしょうがこれは大事ですね。言葉の基本は響きです。響きがいいか悪いかということは大切です。言葉の響きに慣れることです。国語の時間に音読させられたでしょう。あれは教材という世界をみなで共有することなんです。終わった後に、主人公の〇〇はどんな考えを持っていたかを聞かれたでしょう。音読によって現れた世界をみなで共有し、考えるものなのです。音読すれば言葉の世界が再現されます」

「音読することで響き、リズムを確認できる。言葉の基本は伝えですよね。『いい響きはよく伝わる』ものです」
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2012年07月06日

下北沢X新聞(2115)〜本と言葉と時代と〜

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(一)
「僕は本になりたい」
 内紛で銃声がやまない国の子どもが洩らした言葉だ。自身が本になって図書館の棚に置かれれば、流れ弾に当たって死ぬことはない。ひっそりと棚に置かれ、それを誰かが手にとって見てくれる。死の恐怖に怯えながら想像した幸せへのイメージである。

 このエピソードには感銘を受けた。自分の処女作が図書館の本棚の隅にひっそりと置かれているのを見て、少年の幸福と重ね合わせてみたことがある。

 しかし、この本もずっと蔵書として、仕舞われているわけではない。それを知って落胆したことがある。本も古びたり、借り手がいなくなると処分される。

 いつだったか自身の処女作がオークションで売られていた。表紙を見て懐かしくなった。が、その隅に「除籍本」という判が捺されていた。彼の少年が思い描いたようではなかった。書棚にずっと存在し続けるわけではないと知った。

 自分の書いた童話はもう絶版になっている。アマゾンなどではその古本「トロッコ少年ペドロ」が400円から売られている。

 絶版になった本では愛着の深いものがある。「出発進行!ぼくらのレィルウェイ」である。が、この書へのこだわりは自分だけのものではないようだ。アマゾン古本では三冊売られているが、いずれも定価以上となっている。2000円の値のついているものがある。自分では内容への価値評価だろうと密かに思っている。

 とある山村の廃屋にドイツ製軽便機関車コッペルが眠っていた。それを大人の手を借りながら修理し、復活させる。それを子ども鉄道として皆が動かしていくというものだ。自身の浪漫でもあった。

「うちの子はほとんど暗唱しているんですよ。もう場面場面を諳んじて言うのですからね」
 やや不登校気味の男の子だったらしい。その子のお母さんから長い手紙を戴いたことがある。本人の所持している本は手垢で真っ黒だったという。続きを読む

2012年07月04日

下北沢X新聞(2114)〜歌おう!原発音頭ではなくエレジーを〜

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(一)
 とある地方自治体の長が言った言葉、メッセージは強烈だった。自分たちは、何も手の施しを受けないでうち捨てられている。「棄民」だと述べたことだ。

 福島県双葉町の井戸川克隆町長はの言葉だ。五月十一日、東京・永田町の全国町村会館で全国原子力発電所所在市町村協議会の総会が開かれた。原発立地自治体の市町村長が集まっての協議会だ。

 井戸川町長は、挨拶だけしてそそくさと立ち去った大臣席に背を向け語った。
 
「細野大臣は、『しっかり責任をとる』なんて簡単にやさしい言葉を皆さんの前でいってますけれど、我々にとってはとんでもない、今置かれている姿は、棄民であります。棄てられた国民であります…」
 
彼は切々と訴える。
「私たちの今の生活を知っていますか?。職も収入も失って日々の生活に苦しんでいる町民に、政府は『賠償は東電の仕事だ』と知らんふり。その東電からの賠償は全く進んでいない。本来は避難、除染、復興の手順で取り組むべきなのに、耳当たりのいい復興の掛け声だけで避難や除染も棚ざらし。

 しかも全県に振りまかれた放射能について、政府は『無主物』という。持ち主がいないから、責任者もいない、市町村の責任で除染してくれという言い方です。政府も東電も被災者を救済する気がないことの証です。これが棄民じゃなくてなんでしょう!」
 

 事故後の対応について政府や東電の対処について彼は鋭く本質を衝いている。結局自分たちは、国家に捨て去れた棄民であるという。

 原発が稼働しているときはちやほやして、事故を起こすとしらんぷりだ。根本的には国家の体質である。為政者の答弁をみていると当座言葉でだまくらかせておけばいいのだというのがその表情に見える。
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2012年07月03日

下北沢X新聞(2113)〜ころころと言葉を瞑想する旅〜

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(一)
 このところずっと明けても暮れても言葉と格闘している。自分の文章を校正したり、学校に出かけて行って若者に言葉とは何かと話しかけたりしている。

「言葉は仮のものですね、自分が思ったり、考えたりしたことを言葉という記号に託して言い表すものです……私たちの頭脳世界は混沌としています。それを整理するのが言葉ですね。言葉は形だと言えます。ごちゃごちゃになっているものを形にして表すものです。だから何が大事かというとごちゃごちゃを形にする訓練が必要です。心掛けることが必要です。ものを一つ取り上げて、言葉に言い表すのです。この黒板消しでもいいのです。凹凸のある青いフェルト生地で包まれている。片隅が破けていてスポンジがはみ出している。あまり目立たないものだがなくては困るものだ。こういうふうにできるだけ具体的に描いて、その特徴を最後に言い表す。一分でできるでしょう。とりあげるのは何でも構わない、鉛筆だって、消しゴミだっていいのです、まわりじゅうに転がっているものを題材にして頭の中で一分作文をする。こういう繰り返しをすれば言葉力が必ずつきます……」
 教壇に立って若い人々に向かってしゃべったことだ。

「言葉は動物の欲望と関連してきますよね。伝えたい思いが強くあったから言葉ができたのですね。大陸で言葉ができたというのは面白いですね。辺境ではできない。大陸の真ん中でできたといいます。そこではあらゆる敵に曝される。四方八方からの敵を意識していなくてはならない。仲間の動物に敵が来たなどと教えなくてはならない。鳴き声ではもどかしくなっていったのでしょう。何とか伝えたい、何とか伝えたいという思いが脳に皺を作ったのでしょう。その皺に記号が貯め込まれた。あるとき、誰かが、山に何かがいるというこをを察知して鳴き声で吠えた。が、通じない、おうおうおう、山、おうおうおう山、山、山だ。山?、別の者が言う。ああ山、おお山というふうな具合になって言葉はできたのではないかと想像する。どこから敵が来るか解らない、恐怖にさらされてやっと人間の言葉はできた。他者がいることによって言葉はできたのです。だから自分が身につける言葉も他者視線を意識しないと向上しません」
 言葉は人間の欲望が原動力となっている。ゆえに言葉そのものが欲望的だ。ときに言葉が人の手から離れて力を持つことがある。続きを読む

2012年07月01日

下北沢X新聞(2112)〜第72号「北沢川文化遺産保存の会」会報〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第72号  WEB版
                2012年7月1日発行(毎月1回発行)

               会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
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1、「鉛筆部隊」に端を発した博物館展覧会

 「北沢川文化遺産保存の会」の広報活動を担っているのが「Web東京荏原都市物語資料館」である。埋もれていた鉛筆部隊の話が、ここで発掘された。戦争中、鉛筆を手に握って懸命に戦っていた子どもたちがいた、それが代沢国民学校の引率教員によって引率された学童である。この発見に端を発した物語は、近代戦争史の隠れた事実を次々にあぶりだした。機縁が機縁を生み、とうとう新資料発掘まで行き着き、ついにはその展覧会も開かれることになった。
 
 代沢国民学校の学童は松本淺間温泉に疎開していた。その時に、千代の湯を引率していたのが柳内達雄先生だ。自分が受け持った学童を鉛筆部隊と名づけ、どしどしと手紙を書かせて戦わせていた。そこにひょっくりと現れたのが青年下士官たちだ。武剋隊六名の特攻隊員と彼らはたちまちに仲良くなった。
 
 ところが、彼らは行かねばならなくなった。学童たちに多くの思いを残して陸軍松本飛行場から飛び立った。沖縄沖に展開する米軍へ向けての特攻出撃だ。離陸時には淺間上空まで来て何度も旋回し別れを告げていった。近代戦争史の一齣だ。

 鉛筆部隊の隊員だった立川裕子さんの手紙が山梨県の骨董市に出された。病気を患った彼女が家財の処分を業者に託した。その中に疎開時代の手紙の束が入っていた。これを落札したのが矢花さんである。終戦前後のものは郵趣品として貴重であることから偶然的に拾われた。矢花さんが調べると、手紙には「鉛筆部隊」のハンコが捺されていた。不思議に思って検索をしたら自身がブログに記していた手紙に行き着いた。それは今野軍曹が「鉛筆部隊の諸君へ」と書き記した文言だ。それを検索が引っ掛けた。

 そんな奇妙な経緯から、その手紙の複写がわたしのところに送られてきた。鉛筆部隊の疎開時代の多くのことがこれによって分かってきた。その彼女こそ特攻隊員に可愛がられていた。今西軍曹であり、大平伍長である。この二人が彼女に送った遺墨二つが今も残っていて、今回の「戦争と平和展」では、これらがすべて展示される。

 千代の湯に泊まっていた武剋隊の時枝宏軍曹は同輩の五来末義軍曹に「元気に出撃した」という言づてを頼んだ。鉛筆部隊にである。五来軍曹は、淺間温泉富貴の湯に泊まっていた武揚隊の隊員である。これらのいきさつから多くの疑問が解けていった。

 この富貴の湯に疎開していたのは東大原国民学校の疎開学童だった。その当事者を捜し出し、もう一方の特攻隊武揚隊のことが分かってきた。驚いたことに「きけ わだつみのこえ」に手記が掲載されている長谷川信少尉とふれ合った者たちもいた。
 「きけ わだつみのこえ」において彼の文学性は際だっている。その彼と東大原国民学校の疎開学童女子生徒との交流はかなり深いものだった。

 松本淺間温泉にいた特攻隊武剋隊、武揚隊のことを調べている最中に、全く見知らぬ人から新たな連絡があった。彼はかかりつけの医師から依頼されて預かった和綴じ帳を調べていた。彼はそこに頻出する武揚隊という言葉が気になった。それで彼は、「信州 武揚隊」と検索で調べたそうだ。安曇野市に住む丸山修さんである。

 検索で引っ掛かったのはまた自身のブログだ。私は、もう既に「鉛筆部隊と特攻隊」というノンフィクションを書き終えていた。武剋隊と武揚隊の兵士たちが松本淺間温泉にやってきていた疎開学童とふれ合っていたことを書き記したものだ。武揚隊の兵士と接触していた学童もいた。ところが彼らが淺間温泉にいたという一次資料はなかった。初めての発見である。そのことからこれを改めて調べて、本に書き加えることにして松本に行った。

 持ち主は高山宝子さん、当時錦部国民学校の訓導をしていた若い女子教員である。その彼女の和綴じ帳に武揚隊隊員、十五名のうちの十一名が遺墨を残していた。当時彼らが何を思っていたか、そのことが分かる。一つ一つの筆致には彼らの個性が伺える。

 この遺墨の中に長谷川信少尉の詠んだ歌もあったことだ。全く新発見の資料だ。彼の手記は出版社が借り出して紛失してしまった。特攻間際の彼の心境を表すものは残っていないが、特攻に赴く彼の静かな気持ちが歌に詠まれている。
これらの遺墨、手紙、写真、自身の取材活動を通してみつかったものが今回の、展覧会ではすべて展示される。
 人間は忘れやすい動物である。戦争になれば個人の自由は間違いなくないがしろにされる。節目節目にあの戦争を改めて思い起こし、二度と戦争を起こさないようにしたい。

2、戦争と平和展(松本市)

 開催場所 市立松本博物館 松本城内 ―松本にやって来た特攻隊
 開催場所 空港図書館 記憶から消えた特攻隊と松本飛行場 
会期   8月4日から8月26日まで
なお松本市の他の「松本まるごと博物館」でも関連展示が行われる。


〇信州松本への旅に出よう!
 ・東京から松本特攻隊の跡を訪ねる旅の例
  一泊二日、松本淺間温泉宿泊とする。塩尻駅下車、レンタカー、貸し切りバスで郷福寺→陸軍松本飛行場跡、及び松本空港図書館の関連展示見学→松本城、及び松本市立博物館の展示見学→淺間温泉泊。翌日、目之湯旅館、富貴の湯旅館跡、千代の湯跡、桜ヶ丘など武剋隊、武揚隊ゆかりの地を歩いて見学する。
 昼食は、温泉で摂り、午後、松本に出て、夕刻のあづさで帰京。人数が大勢であれば観光バスでも可能だ。広丘駅発としてもよい。  


3、恒例!納涼会のお知らせ

来たよ、来ましたよ。巡って来ました、納涼会です。楽しくて、面白くて、うまくて、おいしくて、とんでもなく楽しい会です。

 参加資格は市民であれば誰でもかまいません。歌ってもいいし、踊ってもいいし、マジックをやってもかまいません。参加した人が、食いかつ、飲み、話すことをして楽しむ会です。他団体の成員も複数参加されるようになり情報交換の場ともなっています。

 基本的には豪華お弁当が出ます。信濃屋さんに特注した「下北沢文士町弁当」です。ボリュームありますから持ち帰ってもかまいません。
 恒例の一人一品、持参もいつも通りです。手作りサラダ、カレー、漬け物、なにかを一つ持参するものです。一種の闇鍋です。怪しいお酒を持ってきたり、何もないからとワンワン用の缶詰めを持って来たりというのもありました。お酒は歓迎します。地酒、地ワインなどです。これをネタに、各自がエピソードを話し、ややもすれば暗いニュースに染まってしまいそうですが、笑って、楽しんで、いい時間を過ごしましょう。

 何が楽しいか、それは、市民が市民レベルでしゃべって、発散して、時間を過ごすことです。会費は3000円です。会場費、飲食代費です。上前はまったくはねていません。
納涼会の残金は、それは、つぎの忘年会に回します。
 北沢川文化遺産保存の会 納涼会 期日 2012年8月4日(土)
 場所 北沢タウンホール 二階集会室 時間 午後五時半から十時まで
会費 3000円  マイカップ持参のこと  ゴミ持ち帰り
 お弁当の用意の都合ありますので必ず申し込んでください。 (7月21日まで)
 申し込み 米澤邦頼 電話で090−3501−7278
 メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com

4、都市物語を旅する会  

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地のにおいを嗅いで楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日としています。第二は、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第75回 7月21日(土)午後一時 田園都市線三軒茶屋駅改札前(中央)
夏恒例行事「駒沢練兵場を巡る」 参加費 300円。
  例年と違って、三軒茶屋に集合します。
昭和女子大構内野砲兵碑、白川宮成久王お手植えのヒマラヤ杉、下馬韓国会館:旧野砲兵兵舎、下馬馬魂碑、世田谷公園(旧駒沢練兵場)、東山中学馬頭観音、馬糧倉庫跡、陸軍境界石、池尻稲荷神社脇、排水遺稿。→(まんまるの木。希望者ここで歓談)


九月
特番開催(日にちの訂正をいたします。2012/07/02)
〇今井兼次展を見学する
9月22日(土)午後 多摩センター駅改札前 集合時間は次号で
展示の見学、講演会、レセプション(本会会員の今井兼介さんが「北沢川文化遺産保存の会」の会員を招待してくださいます。)
・第76回 9月15日(土)午後一時 明大前改札口
  明大前鉄道交点を歩く 明大前鉄道交点を巡って文化を探す。東京山手急行跡、本願寺築地別院、日本中学(今井兼次設計)、竹久夢二の「少年山荘跡」探索など

・第77回 10月20日(土) 井の頭線東松原駅午後一時集合
 松原の杜夫、代田の茂吉を歩く
 東松原駅集合→北杜夫宅→羽根木公園(根津山)→青山脳病院跡→北沢川緑道→茂吉代田旧居跡→茂吉ゆかりの代田八幡宮→世田谷代田2号踏切跡(根津山に孫と行くときに通った踏切)→北沢川緑道…記念樹(ネコヤナギ)→第二書房跡→(邪宗門)
・第78回 11月17日(土)、井の頭線池の上駅 午後一時集合
アーティストタウンを歩く1(第四象限)
・第79回 12月15日(土)代田橋駅 午後一時集合
              代田半島地形学入門
◎申し込み方法、参加希望について
  参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com
■ 編集後記
▲歩く会の行事の日程がだいぶ前に決めたものよりも違ってきました。新しい会報で日にちや時間をチェックしてください。10月に開催予定のアートタウンを歩くは中止としました。世田谷文学館で「斎藤茂吉と『楡家の人びと』展」が開かれることからこれに合わせた文学散歩を行うことにしました。
▲訂正情報。(2012/07/02)
九月の第三週の「明大前交点文化を歩く」は、当初の予定通り9月15日(土)に開きます。ちょうどこの日に「今井兼次展」のオープニングが開かれと言っていましたが、私の間違いでした。これは9月22日(土)に開かれます。会報73号に再度情報を流したいと思います。
なお、アーティストタウンを歩く2(第一象限、第二象限、第三象限)は次年度に回します。
▲「北沢川文化遺産保存の会」の活動の一端から掘り起こされた話はようやっと出版化され日の目を見ます。会の発足過程もドラマとして描かれています。「鉛筆部隊と特攻隊―もうひとつの戦史」(彩流社)2000円+税は一割引での予約を事務局の邪宗門でも行っています。ネットではアマゾンなどで既に予約を受け付けています。7月25日発売。この会報の下にアップした写真を印刷してFAX注文もできます。
▲松本市での「戦争と平和展」を記念して、8月15日の終戦記念日に松本市で「特攻隊とふれ合った子どもたち」という講演会が開催されるとのことである。講師として招聘された。また再び松本淺間へ行くことになった。自分にも懐かしい地となってきた。
・当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしています。「北沢川文化遺産保存の会」へご入会ください。入会費なし。年会費1000円。事務局の世田谷「邪宗門」で受け付けております。
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