2013年04月
2013年04月30日
下北沢X新聞(2310)〜ルルドの庭で自由と文化を語る〜

自由と批評というのは切っても切れないものだ。が、昨今、批評性が遠ざけられ、言論の不自由さが増しているように感じられる。
批評というのは筋道を立てて意見を述べることである。右にせよ、左にせよ、この述べるということに不自由でないところに自由がある。ところが現今批評性は希薄化し、ことばがいぎたなくなっている。つまりは、批評ではなく、いちゃもんやいいがかりが横行しはじめた。言葉の暴力である。それは自由市民にとって危険性が増しているということだ。何でも言えるという自由さが狭められてきている。
(一)
昨日、「北沢川文化遺産保存の会」の集まりがあった。終わった後に、仲間の米澤邦頼さんとカトリック世田谷教会の庭で開かれている「下北沢 あおぞらマルシェ」に行った。途中、下北沢の駅付近を歩いた。旧駅がどんどん面影を失いつつある。
「惜しいことをした。今日は、取材の用意をしてこなかったんだ!」
カメラを持ってこなかった。下北沢旧駅のホームが解体中だった。おお、これは近代遺跡ではないか。
「これみると古いホームはかさ上げされていますね。車高が高くなったのでしょうか?」
言われてみるとそうだ。昔、電車に乗るときに一段階段を登るような感じも確かにあった。
「ちょうど延伸されたホームが壊されていますね。これみると昔は島式ホームだったんですね。北側の上りホームは後から作られたようですね」
米澤さんの観察は鋭い。私ら二人は、旧東北沢6号踏切から構内を見ていた。島式ホームはいつまで使われていたのだろうか?。
『昭和20年8月12日、代沢国民学校の疎開学童はここから長野に向かった。島式ホームから乗ったのか?』
「鉛筆部隊」の物語の出発点だ。人にはなんでもないことだが、私には重要である。
しかし、時間の経過は恐ろしいものだ。ついこの間まで存在したあの駅がどんどんと壊され次第になくなっていく。地上に電車が通っていたのは、もうすっかり過去になってしまった。どんどんと街は変わっていく。続きを読む
2013年04月28日
下北沢X新聞(2309)〜陸軍長野飛行場跡を求めて〜

(一)
吾々は日々一定の刺激に反応しそれに相当する一定の動作を繰り返す。同じことの繰り返しをしていると神経が緩んでくる。そんなときに異物が舞い込んでくるとどうなるか。
「長野飛行場に行きたいのですが?」
「えっ、長野飛行場?」
「はい、昔の陸軍長野飛行場です」
「あったのですか、ええ、ほらこれ市立犀稜中学のところ……」
「ああ、そこですか……それではですね」
長野駅前の観光案内所の女性職員は一枚の地図を取り出した。長野市ロードマップだ。
「ええっと、ここですね。」
「大してありませんよね。」
「いやありますよ。歩いてだと三十分はかかるでしょう。」
「ああ、そんなの歩くの慣れていますから…」
机で作業していた男の事務員がこちらを見て笑う。
ここに来る多くの人は予想できる範囲の問題を持って来る。「善光寺にはどのように?」などというのはありきたりで、事務的に処理されるだろう。
「陸軍長野飛行場に行きたい」という人は年間、一二回はあるだろうか。めったにないことなので応対も丁寧だ。係の女性は地図に線を引いてくれて、行き方を教えてくれた。
「長野飛行場のことを調べたいのですが?」
「えっ、長野飛行場ですか…ちょっと待ってください。調べますから」
これは市立図書館でのことだ。ここではコピーを頼むと、係員の人がやってくれる。複写を待っているときに「あそこは、もう今は何にもないんですよね」と言う。
やはりここでも親切だった。というよりも変なことを調べる手合いに興味を持つものらしい。
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2013年04月27日
下北沢X新聞(2308)〜嗚呼、東横線渋谷駅〜

(一)
長野松本に取材に出かけた。帰る段になってどこのターミナルで降りようかと思った。こんなこと今まで考えたこともなかった。いつもなら何も考えることなく、渋谷で降りて、東横線に乗り換えていた。が、渋谷では降りたくない。ここを旅の終わりにはしたくないという思いである。
篠ノ井線経由で長野から新幹線で帰ってきた。途中、篠ノ井線では各停に乗った。途中、聖高原駅で対向特急との交換があってここに数分停車した。床下で電車のコンプレッサーが動いていて音がしていた。が、しばらくしてそれが停まった。一切の音が消えて急に静寂が訪れた。向こうの座席で話している外国人の声が聞こえた。「ゼンコウジダイラ」「ヒガシヤマカイ」などの単語が耳に入った。
窓の外を見ると盛りを過ぎた桜がふるふると風に揺れていた。かつての汽車旅の風情が思い起こされた。列車が駅に着いて、ぎぃ、ごっとんとしゃっくりをして停まる。とたんに襲ってくる静寂。「うんだばや」という方言、空の牛乳瓶が転がって停まる音、自分という存在が強く意識された。旅が実感できた。
この駅、聖高原駅だが、かつては麻績といった。いい響きだ。駅員がいて、列車が着いたとたん、おみぃー、おみぃーと言った。旅の想がにわかに湧いてくるときだった。
次の姨捨駅も間合いの駅だ。一旦停まって、おもむろにバックする。車窓向こうには深く抉れた善光寺平、その真ん中に千曲川の川面が銀色に輝いている。
旅の醍醐味は溜だ。一拍置いて、次がある。かつては、JRから乗り換えて東急東横線の頭端式ホーム行く、それまでの間が、旅のフィナーレだった。が、その渋谷駅はない。けじめのない駅に今はなった。
切符は都区内までだ。大井町まで行って大井町線で帰るという手もあった。が、これも馴染みのない旅の終わり方だ。そのときふと思いついたのがターミナル上野だった。よし上野で降りようと思ってここで降りた。ただ降りるだけではもったいない。アメ横を冷やかそう。
と、ここに向かうときに碑が目に入った。「ああ上野駅」だ。「上野は俺らの心の駅だ」とこれにはあった。「渋谷駅頭端ホームは旅情の終点だった」が、それは過去のことで、今は全く馴染みのない異国の駅となった。続きを読む
2013年04月25日
下北沢X新聞(2307)〜文学と汽車と墓地3〜

(一)
昨日、天気が悪く中央本線からの眺望はよくなかった。ガスがかかっていて景色が平板に見えるばかりだった。日野春、長坂あたりでは車輪の響きがくぐもって聞こえた。こととっと、ぐぐこっこ、ロングレールではある。
しかし、やっぱり在来線はいい。車が地に足をついている。乗っていても安心である。ところが今日乗った長野新幹線、なぜにこんなにすっ飛ばすのだろうと思った。車が地に足をつけているという感じがしない。旅への嫌悪を感じた。それでも私は、窓からじっと風景を見ていた。
関東平野に入って景色はよく見える。が、後ろにとんとん飛んでいくばかりだ。田や畑、森、家などが次々に消滅していく。時間と空間の抹殺を自分では見ている。しかし何の感懐もない。
列車の速度が速くなればなるほど景色と自分とは全く無関係になる。ところが、午前中に通った篠ノ井線の姨捨ではそうではなかった。スイッチバックで進入して行った先の駅からは善光寺平が目に養分を与える景色としてあった。小さく見える家並みや田地田畑に人の営みが感じられた。
姨捨の駅から見た風景をどう表現するのだろう?。調べて見ると、あの人はこう言っていた。
「海拔二千尺の峰に於けるプラツトフオームは、恰も雲の上うへに拵へた白き瑪瑙の棧敷にあるが如く思はれた」と。やはり尋常ではない。
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2013年04月24日
下北沢X新聞(2306)〜文学と汽車と墓地2〜

(一)
日々のどきどき感をどう持つのか。生きていく私たちの課題である。子規庵一帯は鶯谷のラブホテル街だ。そこの一つからひょいと中年のアベックがでてきて歩いて行く、こういう子光景をみてもどきどきする。時間からするとご休憩だったんだとか…、どんな関係なんだろうとか想像が湧いてくる、女は一歩さがってゆっくりと歩いて行く。
「ほらほら、あの路地奥に線が見えますよ。日本鉄道だったところですね」
同行の人が教えてくれる。正岡子規の寝床と鉄道線路との距離が分かる。思っていた以上に近い。
子規庵では坐って案内テレビを見た。終わってひょいと見ると「終焉の間」にいた。四季の寝床のすぐ側だ。「へちま咲いて たんのつまりし 仏かな」書いて、ころんと死んでしまったところだ。これにもどきっとした。
「終焉の間と書いてあるけど、ここって戦災で燃えたんだよね。」
往事のままでなかったことに安堵した。空間だけがその場だったというのはリアリティがない。
子規作品の中で『夏の夜の音』が一番好きだ。彼自身は病床にあって動けない。が、五官は鋭敏である。音を、臭いを、風を肌に感じている。その中で中心となるのは、近くを通る汽車の音である。
この場所に興味が惹かれる。上野の山を抱いた懐にある。山の根にあって、川に向かって岸になる。根岸の里である。静寂の地、温暖の地、隠居人が住んで和歌をたしなむ。
明治16年に日本鉄道が開通した。根岸の里にも近代が押し寄せてきた。が、時が経ってみると汽車の音は一つの風景になっていた。
南へ一町ばかり隔てたる日本鉄道の汽車は衆声を圧して囂々と通り過ぎた。
『夏の夜の音』の一節だ。子規は汽車の音を一心に聞いている。
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2013年04月22日
下北沢X新聞(2305)〜文学と汽車と墓地〜

(一)
我等は訳の分からない旅を続けている。気づいてみると回数は重なり重なってもう「都市物語を歩く会」は今回で83回目を数える。定番の歩きを基準としているが、番外歩きを加えるともう百回は越している。
これが続いているのはなぜか?。一言でいえば、楽しいからだ。一番は際物的であることだ。人が行くようなところには行かない。なぜなら、つまらないからだ。人が行かないようなところへ行って、参加した人が何かを発見する。それがスリリングだ。我等の旅は、参加者も案内者にもなる。
我等の旅は都市の裏側を巡る小さな旅だ。しかし、はるかな旅だ。歴史や文化を巡る旅である。はったりではない、近代文学史、文化史を巡る壮大な旅だ。
四月二十日、谷中墓地を巡る第二回目の旅を実施した。上野のお山の東端を日暮里から鶯谷へ巡って谷中へと抜けるコースである。文化よりも団子というのもありだ。羽二重団子を食して、子規庵へと向かう。このコースは当方で講師の原敏彦さんにお願いしたものだ。
しかし、序幕で団子を食するとモチベーションが落ちる点はある。歩き終わって喰う甘味は身にしみて旨い。が、初手に喰うとおなかくちくなるだけだ。
団子を食う前に一つお参りということで善性寺に双葉山の墓に詣でた。伝説の横綱である。「六十九連勝はいまだに破られていない…」などという説明を墓前で聞いていると遠い過去のように思える。
「私は、この双葉山の取り組みを国技館で目の前で見ましたよ…親父に連れられていったんですよ」
参加していた田村さんが言う。この人は面白い。代沢小の側に住んでいた人だ。
「日劇ミュージックホールのダンサーを従えて丸尾長顕が駅へ向かうんですよ。あれはすごかったね……」
ぷりぷりとした美女が二子通りを下北沢駅へと行進していく様を想像した。相当に刺激的だったろうと思う。しょんべん臭い地下道を通ったのか、あるいは東北沢6号踏切を通っていったのか?。
「いやあ、俺はね、地下は通らなかったよ。暗くて臭くて、だから踏切を通ったよ。」
下北沢南口などなかった時代である。
記事をアップしたとたん、メールをいただいた。「丸尾長顕さんが、日劇の踊り子さんを連れてあるいていたのは、当然戦後でっしょうから、すでに下北沢駅は、木造時代の橋上駅になっていたはずです。」ときむらたかしさんから指摘があった。
「彼女らも東北沢6号踏切を通ったろう。この踏切、踊り子も通った花道だった。」というのは私の妄想だった。が、今も残る南口の階段を、ヒールの音をたてて登っていったのは間違いない。これもたいしたみものだったろう。
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2013年04月21日
下北沢X新聞(2304)〜小田急廃線跡の踏切をさすらう5〜

(一)
時間は、刻一刻と過ぎていく。その土地に存在したもの、その土地で起こったことは歴史の闇に呑み込まれて全てが消えてしまう。歴史を覚えている樹木や石碑は心して残していくべきだ。そうでないと私たちがどう生きて来たか。全部が消し去られる。
なぜ人は生きているのか?、というよりも、なぜ自分がこの世に生まれて、今にいるのだろうというのは本当に不思議なことである。生まれなければ自分の意識はない。が、生まれたから存在する。通学路に桜あった。通勤路に地蔵尊があった。その記憶を記録していって過去を知ることができる。
下北沢3号踏切脇の老桜樹が児童たちの嘆願で残ったことは特筆すべきことだ。踏切地蔵尊も地域の歴史を刻んできたものだ。地域文化遺産である。
小田急地表線がなくなるとともに歴史も消え去って行こうとしている。が、かろうじて桜が残ったり、また、反対に埋もれていたものが新たに日の目をみたりする場合もある。
「世田谷代田駅前広場ワークショップ整備案」がネット上に公開されている。その整備コンセプトは素晴らしくよい。土地の文化に根ざしているからだ。個人的には「むら」ではなく、「まち」であるほうがよい。武蔵野の都鄙の境、田舎でなく町に軸足を置いたところであるからだ。
おだやかな歴史が日常になるむら〜富士山が見えるダイダラボッチの駅前広場〜
世田谷代田の固有性は、富士の展望がよいこと、ダイダラボッチ伝説の中心地であることだ。それが今回の駅前広場づくりに生かされようとしている。
駅を出たとたんにダイダラボッチ像が目に入る。インパクトのあるものだ。このダイダラボッチ像の建立をと私たちは主張していた。が、巨像を作る予算はなくて「広場の舗装面にダイダラボッチの足跡」を作ることにしたようだ。
昨日街歩きをした。日暮里駅で集合をしたとき世田谷代田駅から電車に乗った人が二人きた。「百六段の階段を下りていくのですが、目が回りそうでした」と。小田急地下化でこの駅は大深度地下駅になった。ホームに辿り着くまで五分もかかる。不便になった。
マイナスを生かすしか方法はない。逆転の発想だ。大深度地下駅は大高度伝説駅とする。巨人ダイダラボッチの足は、これを象徴するものだ。降りたとたん、足跡があって、「一体これは、何なのだ!」というインパクトはほしいものである。
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2013年04月19日
下北沢X新聞(2303)〜小田急廃線跡の踏切をさすらう4〜

(一)
街に誇れるものがあるというのは大事だ。俺達の街は何も変わらないというところが誇りなんだ。古い街の老人が言っていたことに大きな衝撃を受けた。私たちは、すべてが壊され変わっていくということに慣れているからだ。
小田急地表線はレールが撤去されたり、信号ケーブルなどが外されたりと鉄道風景はどんどんなくなりつつある。下北沢3号の風景に桜と踏切とがあった。この桜、伐採されるはずだったが代沢小児童の嘆願でこれを免れた。この経緯について事情をよく知る人から聞くことができた。この土地は小田急の土地だということだ。児童の願を聞いた小田急トップがこれを聞き入れて即座に判断したと言う。これは立派である。いわれのある桜だ。
下北沢静泉閣の前にあった一本のサクラ、これが伐採されずに残ったものだ。昭和十九年十二月十四日の日記に一色次郎は、ここ桜のことを記録している。
地蔵さんの上のサクラは,星明かりにすかされて,糸のようなほそい枝先までそっくりよく見えた。梢の枝の中に北極星が光っている。右半分の枝に大熊座,左側に小熊座がひっかかっている。それから,どの枝にも星屑が燦いていた。枝の中は小さく銀色に光り,そして,またたきが少ないようだった。すっかり葉の落ちつくした冬の木に,星の実がなった。私は敵の飛行機に冬の星を教えてもらったことに気がついて苦笑した。
『東京空襲』一色次郎 河出書房
この表現文学的にも味わいが深い。「どの枝にも星屑が輝いていた」というのは詩的である。歴史逸話のある樹木だ。私は「次郎桜」と呼んでいた。ただ残すというのではなく、こういう経緯をも伝えて残して欲しいと私は思う。掲示看板を建ててもいいのではないかと思う。。
可能であるならば、現在個人宅に移動された地蔵さんをここに戻し、道行く人がお参りできるようになればなお嬉しいが……。
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2013年04月18日
下北沢X新聞(2302)〜小田急廃線跡の踏切をさすらう3〜
(一)地下化した小田急地表線、この線沿いに戦争の歴史が幾つも眠っている。ところが、負けた戦争は日の目にさらされない。これもどんどん消えて行きつつある。
先だってまだ踏切が生きているときのツアーでは、東北沢3号踏切のところで一人の女性に会った。空襲時には、小田急の線路を避難場所にしたという。近隣が焼けてもここを伝われば逃げられる。それと、大型爆撃B29の飛行状況がつぶさに眺められたからだ。
下北沢2号踏切と3号踏切の間は築堤になっている。敵機観望地点である。昭和19年12月27日、一色次郎はついにここの上に立った。
私は、一人で小田急の土手に上がった。何一つさえぎるものもなく、四方の空が頭上にひらけた。ここへ上がれば、よく見えることは、分かっていたが、こわくて、これまでどうしても行けなかった場所である。(『日本空襲記』文和書房)
この一色次郎は、この土手の下にあった静仙閣アパートに住んでいた。ここからは築堤を走る小田急電車の音がよく聞こえた。が、この音とて怖い。「電車が通りすぎるたびに、体中の皮膚がビリビリ痙攣する。」と書いている。平和な生活をしている我々には想像もつかないことだ。理由は次のように明かされる。
電車のスパークや警笛については、新聞の投書欄に苦情が出ていたが、どうしてこんなにも、爆弾の閃光や、警報のサイレンに似ているのだろう。その音が聞こえ始める。心臓が疼くほどに縮こまる。電車の警笛だとわかるまで、ホンの一秒、あるいは二秒だ。その間が苦しい。気がどうにかなってしまいそうなほど苦しい。(同著)
昭和二十年の戦争の末期にあって、東京に居住していた者は、いつB29が来て、焼夷弾や爆弾をいつ落とされるかわからない。日々そんな恐怖に脅えて暮らしていた。
戦争になると常に生命が脅かされる。その恐怖は表現のしようがない。が、平和になるとそれは忘れ去られる。続きを読む
2013年04月16日
下北沢X新聞(2301)〜小田急廃線跡の踏切をさすらう2〜

(一)
九つの踏切の中で一番に逸話が隠れ潜んでいるのは下北沢2号と3号踏切である。
歴史が目撃された場である。この2号と3号との間は築堤になっている。付近よりも高く。空がよく見えた。この土手の北側には下北沢静泉閣があった。ここに住んでいた一色次郎は土手に上り上空で繰り広げられる空中戦のありさまを『東京空襲』に描いている。
3号踏切の警備員は気さくだった。
「ここの踏切は、駅に遠いんだ。みんな急いでいこうとするんだけど、大概閉まっている。それで踏切をかいくぐる人が多かったね。『やめろ!』とまで言えないしね…」
自分でも経験がある。踏切の端っこを持ち上げてくぐり、それをバトン代わりに次の人に渡すというものだ。
確かに3号踏切から駅までは遠い。まともに歩くと十分ぐらいかかる。昔は、線路を歩いていた。それを具体的に書いている。「線路の上を五分もあるくと下北沢駅がある。静泉閣というのがその名前」(『東京空襲』)だ。高級アパートで満州国皇帝溥儀の弟、愛新覚羅溥傑作も住んでいた。彼も下北沢駅へは犬走りを歩いたろう。
「やっぱりね、九つの踏切で一番閉まっていたのは下北沢3号と、東北沢2号だね。」
踏切警備のおじさんは言う。
「東北沢2号は、電車が停まっているから。それと電車が詰まっているからね。この下北沢3号も中間で電車が詰まってくると動かないから。」
この踏切は狭い。その上鍵形、クランク状になっていて通りにくい。人身事故も多く起こっている。飛び込みもあった。ワーストワン踏切である。
「ちょうど電車が下っていくからね、急ブレーキの音を聞くとぞっとしますよ。」
折に車輪が何かを食い込ませた音が聞こえるときがあったという。付近の人の話である。
「にっちもさっちもいかなくなったのは、ロマンスカーを朝の時間帯に走らせるようになってだね……」
警備員の話だ。優等列車の割り込みがダイヤを過密にしてしまった。
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2013年04月15日
下北沢X新聞(2300)〜小田急廃線跡の踏切をさすらう〜

(一)
戦中というのは踏切が生々しく生きていて、レール踏み面を絶えず電車の車輪が磨いているときだ。警護役のガードマンも必死であった。しかし、線路が廃線となると全くその緊張が無くなる。むしろ通行人としゃべる方が気晴らしになるようだ。
当然のことだが踏切のガードマンは、その踏切専属だ。ゆえにその踏切の固有性を知っている。こちらの認識では一番混み合う踏切は東北沢6号だと思っていたが彼らに言わせる違うという。数年間踏切に立っていた彼らのいうことの方が正しいようだ。
13日、土曜日、小田急が地下化した後の踏切を九個所巡った。
線路空間には静寂という穴がすっぽりと空いていた。ついこの間まで漲っていた緊張がまるでなにもない。踏切跡には警備員がいるが彼らも手持ちぶさただった。ここに流れ始めた時間はいわく言い難いものだった。消失踏切九つを巡っての感想だ。
東北沢へ行くのに渋谷経由は避けた。電車で渋谷地下駅に行くことへの嫌悪感があったからだ。迷宮地下駅を避けてバスで行くことにした。自宅から野沢龍雲寺まで歩いていく、ここからバスだ。停留所に着くとあいにく「下61北沢タウンホール行」は出ていくところだった。が、すぐに「森91 新代田行」が来た。これで代田四丁目で降りる。世田谷代田駅まではすぐである。最初は、世田谷代田1号踏切だ。が、もう踏切という風情はない。わずかに道路の真ん中に線路が通っていて踏切だったことが分かるだけだ。
電車が頻繁に通っていたときは、被写体はいくらもあった。が、踏切が踏切でなくなった瞬間から、ここの生気が失われた。踏切が生きていたときファィンダーはどこを向けても絵があった。おお、ロマンスカーがいい具合で踏切を渡っている、シャッターチャンスだ!なんて、ところが死んだ踏切にはこれがない。
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2013年04月14日
戦争経験を記録する2
3-1 鶏寧駅でのこと 五十嵐 秀代
それは私の心の奥底に、いつも澱のように沈んで脳裏から消すことの出来ない、悪夢のような出来事であった。
昭和20年(一九四五)八月九日のことだった。
当時、満州国(現在の中国東北部)東安薬学専門学校に学んでいた私は、日ソ不可侵条約を一方的に破ったソ連が突如として参戦、満州に攻撃してきたという情報が入り、避難することになり、取るものも取りあえず病院や学校関係の人々と汽車に乗り込んだ。
列車が鶏寧駅(現在の鶏西)に着いた時、太陽は頭の真上に来ようとしていた。
その時、ホームにいた父が必死の形相で、私を見つけて、
「降りろ、降りろ」と手を伸ばした。
私は傷病兵や看護婦さん達と行動を共にしなければいけないと思い、首を振った。
私は愛国心に燃えていた軍国乙女だった。
「早く、早く。降りなければ駄目だ」と言う父の声に、病院の先生が
「君達は、降りなさい」と私の背中を押した。
「礼子ちゃんも」と動き出した汽車から、幼友達の手を引っ張り飛び降りた。
父は押し殺したような低い声で
「ソ連が攻めて来たから、これからどうなるかわからない。傍を離れるな」と言った。
私は友の手をしっかり握ったまま、駅舎の中にいる母と弟、妹の所へ行った。
「よかったね」と母は、私と友の手を取って逢えたことを喜んだ。
広い駅舎の中は、父の勤める満鉄の家族でいっぱいだった。
その時「ブーン、ブーン」とにぶい飛行機の爆音が聞こえた。
「みんな、伏せろ」と父の声で私は6歳の弟の上に、かぶさるようにして体を低くした。隣で母は2歳を過ぎたばかりの妹を抱いて伏せていた。友はと見ると私の後にいた。
「ブーン」と音が大きいので、ふと頭を上げると、両翼の長さが三メートル位の、あまり大きくない飛行機で、まっすぐこちらに向かって来る若い操縦兵の顔がホームの向こうに見えた。
「頭を下げろ」と父の大きな声で、素早く体を低くするとすぐに、「バチ、バチ。バチ、バチ」と敵機が機銃掃射を駅舎の中めがけて撃って来た。
続けて次の飛行機の大きな爆音がしたと思ったら、またもや「バチ、バチ。バチ、バチ」と撃って来た。
「又、来るぞう、体を低くして」と男の人の声。
私は弟をしっかりと抱いた。
「バチ、バチ。バチ、バチ」と機銃掃射の音。
みんな息を殺して身動きもせずにいた。
間もなく飛行機が遠のくのか、音が小さくなって、
「もう大丈夫です」との声がした。
頭を上げ撃って来たホームの方を見て横に目をやると、若いお母さんが黒い絞りの兵児帯でおんぶしていた赤ちゃんが、顔だけ残して頭の後が、全部ポッカリと抜けていた。かわいらしい丸い目をあけて何にもなかったように綺麗なままで。血も出ていなかった。
私は声も息も出来ずに、ただ茫然自失のありさまだった。
母親は気付かずに、横にいる赤ちゃんの姉であろう幼い女の子に話しかけていた。
後にいた人が
「奥さん、赤ちゃんが」と言うと、あわてて背中からおろし
「ワー」と赤ちゃんの名を叫んで泣き崩れた。
父も左、二の腕に破片を受けて血がしたたり落ちていた。母は手拭を出して、きつく縛った。怪我をした人が十数人出たようだった。気を取り直す暇もなく、
「シュッ、シュッ。シュッ、シュッ」と汽車が蒸気を吐きながらホームに入ってきた。
「次の列車はいつになるかわかりませんから、みんな早く乗って下さい」と父の声。
父は家族達を引率するために数名の男の人といっしょに来ていた。
みんなが乗り込むと、汽車の中は通路まで人でいっぱいになった。
先を急ぐように汽車は、すぐに動き出した。
次の駅でホームを見ると、幼友達のお父さんがやっぱり探していた。
「又、逢おうね」と礼子ちゃんは家族のもとへ走った。
どの位経ったのだろうか、ハルピン駅に列車は入り、止った。
燃料の石炭と水を補給すると、父達の早く南下した方がよいとの判断で、そのまますぐに新京に向かうことになった。
汽車はみんなの不安を乗せて、真っ暗な空の下をせわしなく走った。
14・3・18
3-2 敗戦・苦難の道へ「終戦の日」
昭和二十年(一九四五)八月九日の朝、取る物も取り合えず満州国(現在の中国東北部)の東安駅(密山)をあとにして、鶏寧駅(現在の鶏西)で家族と出会うことが出来た。そこでロシヤ軍機の機銃掃射を受けた負傷者の手当をする間もなく、列車に乗り込んで、苦難の道の始まりとなった。
車中ではあまりの衝撃のせいか、暫くの間、呆然としてしまい、妹を膝の上に抱えていた母と、私の手をいつもしっかりと握り締めて離さなかった弟の姿ばかりが、心に焼き付いている。どんな話をしたのか、何を見たのか覚えていない。
やがて列車はハルピン駅に入り、停まった。
ハルピン!一昨年の夏、私はここに来たのだった。昭和十八年(一九四三)そのころ私は家族と離れ、長野の女学校に通っていた。夏休みになって、五月に生まれたばかりの妹に会うため一人で満州の家に帰省した。
妹は髪がクルクルとカールして、つぶらな瞳のお人形のように、かわいらしい赤ちゃんだった。
そうしたある日、所用でハルピンに出かける父に付いて行った。
ネオンが輝き、異国情緒あふれるキタイスカヤ通りの、とあるウインドウに、水色の細かなギンガム地の素敵なワンピースが飾ってあった。
襟なしの角型で、周りに白いレースの縁取りがあり、幅の広い共布のベルトを後でリボンのように結び、フランス人形のように裾が広がっていて、胸と裾から少し上にも白いレースの飾りが二段付いている。
私が物欲しげに見ていたのだろう、父は、つかつかと店に入り、
「これを見せて下さい」
私は鏡の前に立って洋服を体に当てた。
「丁度いいよ」
綺麗な包装紙に包んだ洋服の箱をかかえて賑やかな明るい街を、今夜泊まるヤマトホテルまで大切に持って行った。
大きくて立派なホテルの食堂で、早速その洋服を着てお姫様になったような気分になり、フランス料理を頂いたことを思い出した。
大好きな洋服は、太陽の燦々と降り注ぐ丘に、家族でピクニックに行った時、父が自慢のカメラ、ローライフレックスで写してくれた。
(いまこの写真を見ると懐かしさで胸がいっぱいになる)
東安の駅を出て五日目の八月十四日の朝、新京駅に着くと、ひとまず駅の近くにある室町小学校に落ち着き、父と数人が怪我の手当をするために近くにある満鉄病院に行く。
学校の前方に憲兵隊本部があり、残っていた兵士が毛布やカンパン等食料を持って来て、お米もあると言うので、炊き出しに何人かのお母さん達が行き、おむすびを作って皆に分けた。
父達は午前中に外出したのに、夜になっても帰って来なかった。
翌朝、父と怪我の重い三人が帰ってきた。
父は眼鏡、腕時計、万年筆、財布をロシヤ兵に取られていた。眼鏡のない父がやさしく見えた。他の人も同様な目にあったという。
後の人はとうとう帰って来なかったので、
「ロシヤに連れて行かれたのかもしれない」と人々は言っていた。
昼近くになった頃、
「ラジオで、重大発表があるので講堂に皆、集まって下さい」
と言われて、一台しかないラジオの所に皆、集まって来た。
ラジオはガーガー・ピーピー・ザーザーと雑音が大きくてよく聞こえなかったが、ラジオの側にいた人々から、嗚咽する声が聞こえてきた。
「日本は負けたらしい」
とみんな口々に言っている。
私は弟を抱いて母の所に行くと、母のお乳を飲んでいる妹の顔に涙がポタポタと落ちていた。
ラジオ放送は、天皇陛下のお言葉で、あちこちで声をあげて泣く声が学校中に満ち溢れ、涙が洪水のように流れていった。
日本は、これからどうなるのだろうかと思うと不安で天空も真っ暗になったような気がした。
14・5・20
3-3 「夏の夜の出来事」 (ソ連兵)
暑い暑い夏の夜の出来事であった。
昭和二十年(一九四五)八月九日の未明、ソ連は日本との不可侵条約を一方的に破り、突如、満州(現在の中国東北部)との国境を越えて侵入して来た。
東安(現在の密山)から列車で避難の途に付き、新京(現在の長春)の室町小学校で終戦の玉音(天皇の)放送を聞いた。
小学校では、いつまでも生活出来ないので、日本に帰れる日まで、市街の南方にある、出来上がったばかりの社宅に一時入ることになり、父の会社の人、全員でそこに移ることになった。
室町小学校から三、四十分程歩いた所に、三軒長屋の真新しい、黒い屋根が整然と三十棟位であろうか、並んで建っていた。
その中の一軒に私達家族、母と弟、妹と私四人が入った。
父は避難の途中八月九日に鶏寧(現在の鶏西)駅に於いてソ連軍の機銃掃射で受けた怪我の治療のために、前日、病院に行ったまま帰って来なかった。
家は出来上がっていたが、電気と水は来ていないので、水の出る社宅群の、中程にある一寸した広場まで水を汲みに行った。
その時は、さほど気にも留めなかったが、遠くの方からこちらを見ている青い服の満人(現在の中国東北部に住んでいた中国人を当時はそう呼んでいた)が二人立っていた。
後で思うと、こちらの様子を見ていたように思う。
家の中の畳は部屋の片側に全部立て掛けてあったので、一部屋だけ畳を敷いて、一人一枚づつ配給された軍隊の毛布を敷き寝ることにした。
食事はどうしたのか、いくら思い出そうとしても思い出せない。食べなかったのだろうか。
部屋に入り、裏の窓を開けると、裏庭は背丈程もある雑草が一面に、ぼうぼうと生い茂っていた。
日が暮れて、暗くなって来た。
風もなく、暑いので窓を開けて皆で横になる。蒸し暑くて、なかなか寝付かれない。
暫くして、うとうとし始めた頃、鍵を掛けてある玄関の戸をガチャ、ガチャと壊すような音がした。
心臓がドキッとして、凍りついた。
母の手が、私の肩を触る。
小さな声で
「窓から外に」と言う。
私の横で寝息を立てている五歳の弟を、そのままにして私は窓からそっと飛び降り、草むらの中に身を潜めた。
続いて母も二歳になったばかりの妹を抱いて外に出て、私の横に隠れると、同時にどやどやと二、三人の足音が家の中に入り込んで来た。
中国語とロシヤ語でボソボソと話す声。
草むらの中でじっと顔を伏せていた。
運良く厚い雲が月を隠して真の闇であった。
窓の所で、ここから逃げたとでも言っているような声。どしんと飛び降りる音。ガチャ、ガチャ、と音がする。靴の金具の音だろうか、提げている銃か銃剣の音だろうか。
足音は隠れている私の一メートル位先の所でピタッと止る。
私は生きた心地もなく、心臓の鼓動が敵に聞こえはしないかと、息を殺し、心臓も止れと祈った。
何やら怒鳴るような声。
その時、母は妹が声を出さぬように必死で乳房を含ませていたと言う。
大声で何事か喋りながら遠のいて行く声。
声が聞こえなくなるまで、石のように硬くなって、動くことが出来ず、足音が消えても暫く、じっと隠れていた。
母がお隣の家の窓をそっと叩くと、すぐ窓が開き、妹を抱き取り、母を引っ張り上げた。
私は弟の寝ている部屋の窓をよじ登る。
抱きついて来た弟を抱いて、お隣の窓の下に行くと、すぐ母の手が弟を抱き入れた。続いて私も入る。
夜が明けるまで、まんじりともしなかった。
朝になると、何軒かの家に入られたことがわかり、ここは危ないので他に引越すことになり、皆で相談している所に、旧憲兵隊本部に難を逃れていた負傷組の父達が帰って来て、旧憲兵隊本部の側にある、日本関東軍の将校の家族が住んでいた官舎が、空いているので、そこに行くことになった。
お日様が昇り窓から裏庭の草むらを見ると、胸が締め付けられ、心臓が止りそうになり、身も心もガタガタと震えた。
そして、私の背丈程の高さの出窓に、よく飛び降りたり、よじ登ったり出来たものだと我ながら感心したりもした。
あの夜、弟はよく眠っていると思ったのだが、侵入者の足音で目が覚め、幼い心で考えて、じっと寝た振りをしていたのだった。
どんなにか恐ろしかったことだろう。
その時の弟の心を考えると、胸の潰れる思いがする。
ソ連兵は母と私に乱暴しようとして侵入してきたのだから、弟は寝かせておいたほうが安全だと思ったのだろう。
15・1・20
3-4「柿」 敗戦後・満州で・母の死
果物屋の店先に、まだ秋の気配もない或る日、娘のM子が大きな形の良い柿をひとつ持って来た。
「仏様に上げて来るね」
「あら、もう柿が出たの」と私。
M子は毎年早々と柿を見付けて、会ったことのない祖母のために、供えてくれる。
それは終戦の翌年、昭和二十一年(一九四六)満州 新京で避難生活をしている時のことであった。
私達が住んだ家は、終戦まで満州に駐留していた日本の軍隊(関東軍)の将校官舎であった。一軒の家には四家族位入居していた。
その近くにあった元の日本軍憲兵隊本部の建物が、今はソ連軍の本部になっていて、将校たちが詰めていたせいで治安は比較的良かった。よそではソ連の兵隊が強盗をしたり、女性を乱暴したりする話を耳にしたがそういうことはなかった。
母は、若い頃、看護婦をしていた。助産婦の資格も持っていたので、同じ会社の人で妊婦のいる家族が同じ家に住み、母の世話を受けた。医者も近くにいなかったので、母は頼まれれば何処へでも行って診てやり、薬も何処からか探して来ていた。
父と私は働かないと食べることも出来ないので、近くの花園市場で商売をした。
ここはもと公園だった所で、日本人だけで寄り添い、助け合って、いろいろな店を出していたのである。
そこで、父は何処からかリヤカーと、お米や、とうもろこし等を膨らませる道具を見付けて来て、隣の部屋の若い妊婦さんの夫、渡辺さんと三人で大豆を膨らまし、塩を少しまぶして売った。
父と渡辺さんが作り、私は雑誌をほどいて三角の袋を作り、山盛りに膨らました大豆を入れ、
「爆弾豆はいかがですか」
と声を張り上げて売った。
幾らで売ったのか忘れてしまったが、面白いように売れ、暗くなる前には、どの店も閉めて帰った。
或る日、「あら!」
と大きな声のする方を見ると、駅で別れてどうしているかと、いつも思っていた幼友達の礼子ちゃんだった。
思わず二人で手を取り合い、小躍りして喜んだ。
礼子ちゃんの家は大福を売っているとのことで、友に手を引かれて行くと、美しいお母さんとお父さん、妹の句美ちゃんがいた。
いつも勉強をしていたお兄さんは、京都大学に行っていると言う。
何はともあれ無事で本当に良かった。
最近テレビから、「リンゴの樹の下で、明日また逢いましょう」と、歌が時々流れて来る。何処かで聞いた懐かしい歌に耳を傾けると、思い出した。
夕方、市場からの帰り道、広い道の向こうにあった大きなキャバレーから、いつも流れて来ていた歌だった。
なんとなく懐かしく、時々口ずさんでいる。
七月半ばの暑い頃、私達の住んでいた芙蓉町付近で擬似コレラが流行った。
一ヶ月後に日本に帰れることになり、母は、引き揚げの準備に忙しい日を送っていた。
日本の軍隊が使っていた毛布を何枚か分けてもらってあったので、それで母は新聞紙を広げた位の大きな背負い袋と、ひと回り小さめの背負い袋を作った。
大連の港まで行くので、食料と衣類等を用意していた。
お餅や大豆を煎ったものや、豚肉を甘辛く煮たもの、飴やビスケット等、母はいろいろと揃えた。
母は幼い二人の子供の世話や食事のこと、それに若い頃助産婦の資格も持っていたので、頼まれると断り切れなくて、診て上げていたので、体が疲れ切っていたのだと思う。
病気をしたことのない母が突然倒れた。
父が何処からか、痩せた背の高い五十歳位の医者を連れて来て、診てもらう。
擬似コレラと言われて、目の前が真っ暗になった。いい薬など皆無なのだ。
母にお粥を作り、少しでも口に入れて、元気になってもらいたいと思ったが、食欲がなくて、白湯しか喉を通らない。
「柿が食べたい」
と言う。七月の暑い時、ましてや終戦直後の満州でのこととて、柿などあるわけもなく、とても辛かった。
二日後、薬がなくなったので、ロシヤ軍の本部の先にある医者の家に貰いに行く。途中、ロシヤ兵や中国人と擦れ違うので、歯を食いしばり恐い顔をして走った。倒れて四日目の七月十九日の暑い日に、静かに眠るように、母は天に召された。四十四歳だった。
現在だったら、すぐに治った病気だと思うと、何も出来なかった我が身が情けなく、悔しい。
私はこの時、柿は食べるまいと心に決めた。
それから一週間後、父は大きなリックサックを背負い、胸に母の遺骨の包みを抱き、水筒を肩に掛け、カーキ色の戦闘帽を冠って、足にゲートルを巻いた。
私も母が縫った父よりも小さめのリックサックを背負い、前に二歳を過ぎたばかりの妹をくくりつけた。
六歳になったばかりの弟も小さなリックサックを背負い、水筒を肩に掛けて、皆それぞれに、母が晒しで作った腹巻に、お金と指輪やネックレス、時計等大切なものを入れ、しっかりとお腹に巻き付けた。
そして無事に日本に帰れることを願いつつ、父の会社の人達と無蓋車に乗り込んだ。
コロ島の港から引揚げ船に乗るためである。
秋になって柿を見ると、やさしかった母を悲しく思い出す。
生きていれば、私と同じ卯年なので 九十九歳になる。
14・10・21
3-5 運命 (引揚げ船)
弟と妹を間にして、父と私は大きなリュックに寄り掛かって、まどろんでいた。
「姉ちゃん、オシッコ」
の声に、父の肩を、そっと叩くと父は片目を薄く開ける。
「トイレに行ってくるね」
と言って弟に靴を履かせ、手を引いて船室の通路をよろけながら歩いた。
大方の人は横になって寝息を立てている。
終戦の後、新京から七月の末に大連の日本人収容所で、日本に帰れる日を「今日か、明日か」と待っていたが、やっと昭和二十一年の九月初めに、ころ島から引揚げ船の興安丸に乗れることになった。
埠頭に横付けになっている、大きな船を見た時、側に武装したアメリカ兵が数人立っていた。「本当に日本に帰れるのかな」と、不安になった。
桟橋をぞろぞろと人々の後から並んで歩いて行くと、中年の日本人の船員が、私の手を取り、
「ご苦労様でしたね」
と、やさしく声を掛けてくれた。
その時、急に安堵したのかどっと涙が溢れてしまった。
タラップを上り、船底の船室に入った。
真中の通路の両側に、奥の方から、順に皆座っていった。
これでやっと祖国日本に帰れるのだと思うと、力が抜けて、へたり込んでしまった。
トイレは甲板に上る階段の側にあった。
「上に出て見ようか」
と言って、弟を先に上らせ後に続いた。
しっかりと手を繋ぎ甲板の出口まで来ると足が動かなくなった。
そこには広い甲板がひろがっていた。
大きな波の音に目を凝らすと、真っ暗な海に引きずり込まれそうな気がした。
甲板に人影はあったのだが。
「帰ろうか」
と言って、甲板に足を踏み入れずに引き返した。妹はよく眠っている。
それから、どの位時間が経ったのだろうか、うとうととしていると
「島が見えるぞ!」
「日本の島だぞ!」
と叫ぶ声がした。
父も瞳を輝かせ、腰を浮かしている。
父は飛び出して行った。
暫くして、にこにこと久し振りの笑顔を見せて帰ってきた。
「早く見ておいで」
と言う父と入れ替わりに、目を覚ました妹を抱いて、弟の手を引き甲板に出ると、朝の陽が眩しく、真っ青な海の上に、こんもりとした緑に輝く美しい島々が目に入った。
「日本に帰って来たね」
と私は呟いた。三人は声もなく、じっと緑の美しい島に見入っていた。
終戦の年の三月、一時内地にもどっていた私は伯父や伯母の止めるのを振り切り、どうしてもと家族のもとへ一人で海を渡ったのだった。
満州に行って本当に良かったと思い、弟と妹を両腕にしっかりと抱きしめた。
明るい朝日が目に沁みて、涙が溢れて止らず、緑の島はゆらゆらと、ゆらいで見えた。
私達を乗せた興安丸は、ひたすら舞鶴へと力強く、波を割って進んで行った。
15・2・3
それは私の心の奥底に、いつも澱のように沈んで脳裏から消すことの出来ない、悪夢のような出来事であった。
昭和20年(一九四五)八月九日のことだった。
当時、満州国(現在の中国東北部)東安薬学専門学校に学んでいた私は、日ソ不可侵条約を一方的に破ったソ連が突如として参戦、満州に攻撃してきたという情報が入り、避難することになり、取るものも取りあえず病院や学校関係の人々と汽車に乗り込んだ。
列車が鶏寧駅(現在の鶏西)に着いた時、太陽は頭の真上に来ようとしていた。
その時、ホームにいた父が必死の形相で、私を見つけて、
「降りろ、降りろ」と手を伸ばした。
私は傷病兵や看護婦さん達と行動を共にしなければいけないと思い、首を振った。
私は愛国心に燃えていた軍国乙女だった。
「早く、早く。降りなければ駄目だ」と言う父の声に、病院の先生が
「君達は、降りなさい」と私の背中を押した。
「礼子ちゃんも」と動き出した汽車から、幼友達の手を引っ張り飛び降りた。
父は押し殺したような低い声で
「ソ連が攻めて来たから、これからどうなるかわからない。傍を離れるな」と言った。
私は友の手をしっかり握ったまま、駅舎の中にいる母と弟、妹の所へ行った。
「よかったね」と母は、私と友の手を取って逢えたことを喜んだ。
広い駅舎の中は、父の勤める満鉄の家族でいっぱいだった。
その時「ブーン、ブーン」とにぶい飛行機の爆音が聞こえた。
「みんな、伏せろ」と父の声で私は6歳の弟の上に、かぶさるようにして体を低くした。隣で母は2歳を過ぎたばかりの妹を抱いて伏せていた。友はと見ると私の後にいた。
「ブーン」と音が大きいので、ふと頭を上げると、両翼の長さが三メートル位の、あまり大きくない飛行機で、まっすぐこちらに向かって来る若い操縦兵の顔がホームの向こうに見えた。
「頭を下げろ」と父の大きな声で、素早く体を低くするとすぐに、「バチ、バチ。バチ、バチ」と敵機が機銃掃射を駅舎の中めがけて撃って来た。
続けて次の飛行機の大きな爆音がしたと思ったら、またもや「バチ、バチ。バチ、バチ」と撃って来た。
「又、来るぞう、体を低くして」と男の人の声。
私は弟をしっかりと抱いた。
「バチ、バチ。バチ、バチ」と機銃掃射の音。
みんな息を殺して身動きもせずにいた。
間もなく飛行機が遠のくのか、音が小さくなって、
「もう大丈夫です」との声がした。
頭を上げ撃って来たホームの方を見て横に目をやると、若いお母さんが黒い絞りの兵児帯でおんぶしていた赤ちゃんが、顔だけ残して頭の後が、全部ポッカリと抜けていた。かわいらしい丸い目をあけて何にもなかったように綺麗なままで。血も出ていなかった。
私は声も息も出来ずに、ただ茫然自失のありさまだった。
母親は気付かずに、横にいる赤ちゃんの姉であろう幼い女の子に話しかけていた。
後にいた人が
「奥さん、赤ちゃんが」と言うと、あわてて背中からおろし
「ワー」と赤ちゃんの名を叫んで泣き崩れた。
父も左、二の腕に破片を受けて血がしたたり落ちていた。母は手拭を出して、きつく縛った。怪我をした人が十数人出たようだった。気を取り直す暇もなく、
「シュッ、シュッ。シュッ、シュッ」と汽車が蒸気を吐きながらホームに入ってきた。
「次の列車はいつになるかわかりませんから、みんな早く乗って下さい」と父の声。
父は家族達を引率するために数名の男の人といっしょに来ていた。
みんなが乗り込むと、汽車の中は通路まで人でいっぱいになった。
先を急ぐように汽車は、すぐに動き出した。
次の駅でホームを見ると、幼友達のお父さんがやっぱり探していた。
「又、逢おうね」と礼子ちゃんは家族のもとへ走った。
どの位経ったのだろうか、ハルピン駅に列車は入り、止った。
燃料の石炭と水を補給すると、父達の早く南下した方がよいとの判断で、そのまますぐに新京に向かうことになった。
汽車はみんなの不安を乗せて、真っ暗な空の下をせわしなく走った。
14・3・18
3-2 敗戦・苦難の道へ「終戦の日」
昭和二十年(一九四五)八月九日の朝、取る物も取り合えず満州国(現在の中国東北部)の東安駅(密山)をあとにして、鶏寧駅(現在の鶏西)で家族と出会うことが出来た。そこでロシヤ軍機の機銃掃射を受けた負傷者の手当をする間もなく、列車に乗り込んで、苦難の道の始まりとなった。
車中ではあまりの衝撃のせいか、暫くの間、呆然としてしまい、妹を膝の上に抱えていた母と、私の手をいつもしっかりと握り締めて離さなかった弟の姿ばかりが、心に焼き付いている。どんな話をしたのか、何を見たのか覚えていない。
やがて列車はハルピン駅に入り、停まった。
ハルピン!一昨年の夏、私はここに来たのだった。昭和十八年(一九四三)そのころ私は家族と離れ、長野の女学校に通っていた。夏休みになって、五月に生まれたばかりの妹に会うため一人で満州の家に帰省した。
妹は髪がクルクルとカールして、つぶらな瞳のお人形のように、かわいらしい赤ちゃんだった。
そうしたある日、所用でハルピンに出かける父に付いて行った。
ネオンが輝き、異国情緒あふれるキタイスカヤ通りの、とあるウインドウに、水色の細かなギンガム地の素敵なワンピースが飾ってあった。
襟なしの角型で、周りに白いレースの縁取りがあり、幅の広い共布のベルトを後でリボンのように結び、フランス人形のように裾が広がっていて、胸と裾から少し上にも白いレースの飾りが二段付いている。
私が物欲しげに見ていたのだろう、父は、つかつかと店に入り、
「これを見せて下さい」
私は鏡の前に立って洋服を体に当てた。
「丁度いいよ」
綺麗な包装紙に包んだ洋服の箱をかかえて賑やかな明るい街を、今夜泊まるヤマトホテルまで大切に持って行った。
大きくて立派なホテルの食堂で、早速その洋服を着てお姫様になったような気分になり、フランス料理を頂いたことを思い出した。
大好きな洋服は、太陽の燦々と降り注ぐ丘に、家族でピクニックに行った時、父が自慢のカメラ、ローライフレックスで写してくれた。
(いまこの写真を見ると懐かしさで胸がいっぱいになる)
東安の駅を出て五日目の八月十四日の朝、新京駅に着くと、ひとまず駅の近くにある室町小学校に落ち着き、父と数人が怪我の手当をするために近くにある満鉄病院に行く。
学校の前方に憲兵隊本部があり、残っていた兵士が毛布やカンパン等食料を持って来て、お米もあると言うので、炊き出しに何人かのお母さん達が行き、おむすびを作って皆に分けた。
父達は午前中に外出したのに、夜になっても帰って来なかった。
翌朝、父と怪我の重い三人が帰ってきた。
父は眼鏡、腕時計、万年筆、財布をロシヤ兵に取られていた。眼鏡のない父がやさしく見えた。他の人も同様な目にあったという。
後の人はとうとう帰って来なかったので、
「ロシヤに連れて行かれたのかもしれない」と人々は言っていた。
昼近くになった頃、
「ラジオで、重大発表があるので講堂に皆、集まって下さい」
と言われて、一台しかないラジオの所に皆、集まって来た。
ラジオはガーガー・ピーピー・ザーザーと雑音が大きくてよく聞こえなかったが、ラジオの側にいた人々から、嗚咽する声が聞こえてきた。
「日本は負けたらしい」
とみんな口々に言っている。
私は弟を抱いて母の所に行くと、母のお乳を飲んでいる妹の顔に涙がポタポタと落ちていた。
ラジオ放送は、天皇陛下のお言葉で、あちこちで声をあげて泣く声が学校中に満ち溢れ、涙が洪水のように流れていった。
日本は、これからどうなるのだろうかと思うと不安で天空も真っ暗になったような気がした。
14・5・20
3-3 「夏の夜の出来事」 (ソ連兵)
暑い暑い夏の夜の出来事であった。
昭和二十年(一九四五)八月九日の未明、ソ連は日本との不可侵条約を一方的に破り、突如、満州(現在の中国東北部)との国境を越えて侵入して来た。
東安(現在の密山)から列車で避難の途に付き、新京(現在の長春)の室町小学校で終戦の玉音(天皇の)放送を聞いた。
小学校では、いつまでも生活出来ないので、日本に帰れる日まで、市街の南方にある、出来上がったばかりの社宅に一時入ることになり、父の会社の人、全員でそこに移ることになった。
室町小学校から三、四十分程歩いた所に、三軒長屋の真新しい、黒い屋根が整然と三十棟位であろうか、並んで建っていた。
その中の一軒に私達家族、母と弟、妹と私四人が入った。
父は避難の途中八月九日に鶏寧(現在の鶏西)駅に於いてソ連軍の機銃掃射で受けた怪我の治療のために、前日、病院に行ったまま帰って来なかった。
家は出来上がっていたが、電気と水は来ていないので、水の出る社宅群の、中程にある一寸した広場まで水を汲みに行った。
その時は、さほど気にも留めなかったが、遠くの方からこちらを見ている青い服の満人(現在の中国東北部に住んでいた中国人を当時はそう呼んでいた)が二人立っていた。
後で思うと、こちらの様子を見ていたように思う。
家の中の畳は部屋の片側に全部立て掛けてあったので、一部屋だけ畳を敷いて、一人一枚づつ配給された軍隊の毛布を敷き寝ることにした。
食事はどうしたのか、いくら思い出そうとしても思い出せない。食べなかったのだろうか。
部屋に入り、裏の窓を開けると、裏庭は背丈程もある雑草が一面に、ぼうぼうと生い茂っていた。
日が暮れて、暗くなって来た。
風もなく、暑いので窓を開けて皆で横になる。蒸し暑くて、なかなか寝付かれない。
暫くして、うとうとし始めた頃、鍵を掛けてある玄関の戸をガチャ、ガチャと壊すような音がした。
心臓がドキッとして、凍りついた。
母の手が、私の肩を触る。
小さな声で
「窓から外に」と言う。
私の横で寝息を立てている五歳の弟を、そのままにして私は窓からそっと飛び降り、草むらの中に身を潜めた。
続いて母も二歳になったばかりの妹を抱いて外に出て、私の横に隠れると、同時にどやどやと二、三人の足音が家の中に入り込んで来た。
中国語とロシヤ語でボソボソと話す声。
草むらの中でじっと顔を伏せていた。
運良く厚い雲が月を隠して真の闇であった。
窓の所で、ここから逃げたとでも言っているような声。どしんと飛び降りる音。ガチャ、ガチャ、と音がする。靴の金具の音だろうか、提げている銃か銃剣の音だろうか。
足音は隠れている私の一メートル位先の所でピタッと止る。
私は生きた心地もなく、心臓の鼓動が敵に聞こえはしないかと、息を殺し、心臓も止れと祈った。
何やら怒鳴るような声。
その時、母は妹が声を出さぬように必死で乳房を含ませていたと言う。
大声で何事か喋りながら遠のいて行く声。
声が聞こえなくなるまで、石のように硬くなって、動くことが出来ず、足音が消えても暫く、じっと隠れていた。
母がお隣の家の窓をそっと叩くと、すぐ窓が開き、妹を抱き取り、母を引っ張り上げた。
私は弟の寝ている部屋の窓をよじ登る。
抱きついて来た弟を抱いて、お隣の窓の下に行くと、すぐ母の手が弟を抱き入れた。続いて私も入る。
夜が明けるまで、まんじりともしなかった。
朝になると、何軒かの家に入られたことがわかり、ここは危ないので他に引越すことになり、皆で相談している所に、旧憲兵隊本部に難を逃れていた負傷組の父達が帰って来て、旧憲兵隊本部の側にある、日本関東軍の将校の家族が住んでいた官舎が、空いているので、そこに行くことになった。
お日様が昇り窓から裏庭の草むらを見ると、胸が締め付けられ、心臓が止りそうになり、身も心もガタガタと震えた。
そして、私の背丈程の高さの出窓に、よく飛び降りたり、よじ登ったり出来たものだと我ながら感心したりもした。
あの夜、弟はよく眠っていると思ったのだが、侵入者の足音で目が覚め、幼い心で考えて、じっと寝た振りをしていたのだった。
どんなにか恐ろしかったことだろう。
その時の弟の心を考えると、胸の潰れる思いがする。
ソ連兵は母と私に乱暴しようとして侵入してきたのだから、弟は寝かせておいたほうが安全だと思ったのだろう。
15・1・20
3-4「柿」 敗戦後・満州で・母の死
果物屋の店先に、まだ秋の気配もない或る日、娘のM子が大きな形の良い柿をひとつ持って来た。
「仏様に上げて来るね」
「あら、もう柿が出たの」と私。
M子は毎年早々と柿を見付けて、会ったことのない祖母のために、供えてくれる。
それは終戦の翌年、昭和二十一年(一九四六)満州 新京で避難生活をしている時のことであった。
私達が住んだ家は、終戦まで満州に駐留していた日本の軍隊(関東軍)の将校官舎であった。一軒の家には四家族位入居していた。
その近くにあった元の日本軍憲兵隊本部の建物が、今はソ連軍の本部になっていて、将校たちが詰めていたせいで治安は比較的良かった。よそではソ連の兵隊が強盗をしたり、女性を乱暴したりする話を耳にしたがそういうことはなかった。
母は、若い頃、看護婦をしていた。助産婦の資格も持っていたので、同じ会社の人で妊婦のいる家族が同じ家に住み、母の世話を受けた。医者も近くにいなかったので、母は頼まれれば何処へでも行って診てやり、薬も何処からか探して来ていた。
父と私は働かないと食べることも出来ないので、近くの花園市場で商売をした。
ここはもと公園だった所で、日本人だけで寄り添い、助け合って、いろいろな店を出していたのである。
そこで、父は何処からかリヤカーと、お米や、とうもろこし等を膨らませる道具を見付けて来て、隣の部屋の若い妊婦さんの夫、渡辺さんと三人で大豆を膨らまし、塩を少しまぶして売った。
父と渡辺さんが作り、私は雑誌をほどいて三角の袋を作り、山盛りに膨らました大豆を入れ、
「爆弾豆はいかがですか」
と声を張り上げて売った。
幾らで売ったのか忘れてしまったが、面白いように売れ、暗くなる前には、どの店も閉めて帰った。
或る日、「あら!」
と大きな声のする方を見ると、駅で別れてどうしているかと、いつも思っていた幼友達の礼子ちゃんだった。
思わず二人で手を取り合い、小躍りして喜んだ。
礼子ちゃんの家は大福を売っているとのことで、友に手を引かれて行くと、美しいお母さんとお父さん、妹の句美ちゃんがいた。
いつも勉強をしていたお兄さんは、京都大学に行っていると言う。
何はともあれ無事で本当に良かった。
最近テレビから、「リンゴの樹の下で、明日また逢いましょう」と、歌が時々流れて来る。何処かで聞いた懐かしい歌に耳を傾けると、思い出した。
夕方、市場からの帰り道、広い道の向こうにあった大きなキャバレーから、いつも流れて来ていた歌だった。
なんとなく懐かしく、時々口ずさんでいる。
七月半ばの暑い頃、私達の住んでいた芙蓉町付近で擬似コレラが流行った。
一ヶ月後に日本に帰れることになり、母は、引き揚げの準備に忙しい日を送っていた。
日本の軍隊が使っていた毛布を何枚か分けてもらってあったので、それで母は新聞紙を広げた位の大きな背負い袋と、ひと回り小さめの背負い袋を作った。
大連の港まで行くので、食料と衣類等を用意していた。
お餅や大豆を煎ったものや、豚肉を甘辛く煮たもの、飴やビスケット等、母はいろいろと揃えた。
母は幼い二人の子供の世話や食事のこと、それに若い頃助産婦の資格も持っていたので、頼まれると断り切れなくて、診て上げていたので、体が疲れ切っていたのだと思う。
病気をしたことのない母が突然倒れた。
父が何処からか、痩せた背の高い五十歳位の医者を連れて来て、診てもらう。
擬似コレラと言われて、目の前が真っ暗になった。いい薬など皆無なのだ。
母にお粥を作り、少しでも口に入れて、元気になってもらいたいと思ったが、食欲がなくて、白湯しか喉を通らない。
「柿が食べたい」
と言う。七月の暑い時、ましてや終戦直後の満州でのこととて、柿などあるわけもなく、とても辛かった。
二日後、薬がなくなったので、ロシヤ軍の本部の先にある医者の家に貰いに行く。途中、ロシヤ兵や中国人と擦れ違うので、歯を食いしばり恐い顔をして走った。倒れて四日目の七月十九日の暑い日に、静かに眠るように、母は天に召された。四十四歳だった。
現在だったら、すぐに治った病気だと思うと、何も出来なかった我が身が情けなく、悔しい。
私はこの時、柿は食べるまいと心に決めた。
それから一週間後、父は大きなリックサックを背負い、胸に母の遺骨の包みを抱き、水筒を肩に掛け、カーキ色の戦闘帽を冠って、足にゲートルを巻いた。
私も母が縫った父よりも小さめのリックサックを背負い、前に二歳を過ぎたばかりの妹をくくりつけた。
六歳になったばかりの弟も小さなリックサックを背負い、水筒を肩に掛けて、皆それぞれに、母が晒しで作った腹巻に、お金と指輪やネックレス、時計等大切なものを入れ、しっかりとお腹に巻き付けた。
そして無事に日本に帰れることを願いつつ、父の会社の人達と無蓋車に乗り込んだ。
コロ島の港から引揚げ船に乗るためである。
秋になって柿を見ると、やさしかった母を悲しく思い出す。
生きていれば、私と同じ卯年なので 九十九歳になる。
14・10・21
3-5 運命 (引揚げ船)
弟と妹を間にして、父と私は大きなリュックに寄り掛かって、まどろんでいた。
「姉ちゃん、オシッコ」
の声に、父の肩を、そっと叩くと父は片目を薄く開ける。
「トイレに行ってくるね」
と言って弟に靴を履かせ、手を引いて船室の通路をよろけながら歩いた。
大方の人は横になって寝息を立てている。
終戦の後、新京から七月の末に大連の日本人収容所で、日本に帰れる日を「今日か、明日か」と待っていたが、やっと昭和二十一年の九月初めに、ころ島から引揚げ船の興安丸に乗れることになった。
埠頭に横付けになっている、大きな船を見た時、側に武装したアメリカ兵が数人立っていた。「本当に日本に帰れるのかな」と、不安になった。
桟橋をぞろぞろと人々の後から並んで歩いて行くと、中年の日本人の船員が、私の手を取り、
「ご苦労様でしたね」
と、やさしく声を掛けてくれた。
その時、急に安堵したのかどっと涙が溢れてしまった。
タラップを上り、船底の船室に入った。
真中の通路の両側に、奥の方から、順に皆座っていった。
これでやっと祖国日本に帰れるのだと思うと、力が抜けて、へたり込んでしまった。
トイレは甲板に上る階段の側にあった。
「上に出て見ようか」
と言って、弟を先に上らせ後に続いた。
しっかりと手を繋ぎ甲板の出口まで来ると足が動かなくなった。
そこには広い甲板がひろがっていた。
大きな波の音に目を凝らすと、真っ暗な海に引きずり込まれそうな気がした。
甲板に人影はあったのだが。
「帰ろうか」
と言って、甲板に足を踏み入れずに引き返した。妹はよく眠っている。
それから、どの位時間が経ったのだろうか、うとうととしていると
「島が見えるぞ!」
「日本の島だぞ!」
と叫ぶ声がした。
父も瞳を輝かせ、腰を浮かしている。
父は飛び出して行った。
暫くして、にこにこと久し振りの笑顔を見せて帰ってきた。
「早く見ておいで」
と言う父と入れ替わりに、目を覚ました妹を抱いて、弟の手を引き甲板に出ると、朝の陽が眩しく、真っ青な海の上に、こんもりとした緑に輝く美しい島々が目に入った。
「日本に帰って来たね」
と私は呟いた。三人は声もなく、じっと緑の美しい島に見入っていた。
終戦の年の三月、一時内地にもどっていた私は伯父や伯母の止めるのを振り切り、どうしてもと家族のもとへ一人で海を渡ったのだった。
満州に行って本当に良かったと思い、弟と妹を両腕にしっかりと抱きしめた。
明るい朝日が目に沁みて、涙が溢れて止らず、緑の島はゆらゆらと、ゆらいで見えた。
私達を乗せた興安丸は、ひたすら舞鶴へと力強く、波を割って進んで行った。
15・2・3
戦争経験を記録する1
2013年3月27日、NHK『ラジオ深夜便』に出演した。このときに、高齢化により戦争経験が消えてゆく実情を話した。私は、『褶曲山脈と特攻隊』(仮題)を書いているが、これへの関連情報をと呼びかけた。全国から多数の情報が集まった。作品に生かせるものは生かした。が、すべてを作品では扱いきれない。そういうことからネットでの記録を思いついた。『東京荏原都市物語資料館』は、戦争記録を多数載せている。そのため広く検索されている。デジタル記録として載せておけば誰かが拾って活用するだろうと思う。今回、五十嵐秀代さんは、本人が同意されたことからここに掲載するものである。(きむらけん)
1-2
木枯らし (小学校時代 楽しかった満州) 五十嵐 秀代
ずうっと、ずうっと昔、私が子供の頃のこと。
木枯らしが吹く頃になると、
「寒い北風吹いたとて
くじけるような子供じゃないよ
満州育ちの私たち」
と朝、学校に行く時、「もっともっと寒くなるといいなあ、寒くなると大好きなスケートが出来る」と思いながら、「寒さなんかに負けないぞ」という気持ちで歌いながら元気よく歩いたことを思い出す。
歌う口元が寒さで、「アワ、アワ」と言葉にならなくなり、鼻毛も凍って強く息を吸うと、「ヒィー」と音がする。
中に毛の付いた防寒靴を履き、道にツルツルに光っている所があると、走って行って両足でツーと滑ったりして遊びながら学校に行った。その頃になるともう楽しいスケートは始まるのである。
寒い冬は暖かい家の中で遊んだ。
私の子供の頃は、お手玉のことを「おじやみ」と言った。
奇麗な端切れで、中に小豆を入れて母に幾つも作って貰って遊んだ。
両手を使い二個で遊ぶのは初歩の頃で三個で出来るようになり、だんだん調子が出てきて片手で三個に挑戦する。「おじやみ」をする時には、
〔一〕旅順開城約成りて、敵の将軍ステツセル。乃木大将と会見の、所はいずこ水師営。
〔二〕庭に一本棗(ヒトモトナツメ)の木、弾丸あともいちじるく。くずれ残れる民屋(ミンオク)に、今ぞ相見(アイ ミ)る二将軍。
と九番まである歌を延々と「おじやみ」を落とすまで歌い続けた。
六個、七個で遊ぶのもあった。
お正月には晴れ着を着せてもらい、福笑いや、いろはかるた、百人一首、トランプ、双六、花札もして遊んだ。
「おはじき」も沢山集めていた。
羽根つきをする時は、
「ひとごやふたご、みわたすよめは、いつきてみても、ななつのおびを、やのじにしめて、ここのやでとまった」
と歌っていた。
外での遊びの一つに、長い縄跳びの縄の両端を二人で持って回し、回っている縄の間をついて一人が先に入り、
「アツプク、チクチク、アツパツパ郵便屋さんお入り」と歌い、次の人が回っている縄の間に入る。
「はいよろし、ジャンケンポン」と回っている縄とびを続けながら、「さようなら」と負けた人は回っている縄から、さっとひっかからないように出る。
歌の郵便屋さんのところを、次に入る人の名前にする場合もあった。
例えば、「ハナ子ちゃん、お入り」と歌っていた。
ゴム段飛びもした。輪ゴムを二本づつ長く繋ぎ合わせて両端を二人でピンと張って持ち、膝の高さから腰、胸、肩、頭と上げて行き、飛べなくて足がひっかかった人は、持ち側にかわるのである。
後に足を跳ね上げて飛ぶのを「大阪飛び」と言っていた。
「花いちもんめ」という遊びもあった。
皆で手を繋ぎ、横一列になって、前に出ながら「あの子がほしい」と歌うと、「あの子じゃわからん」と相手側が歌いながら前に出ると、こちらは手を繋いだまま後に下がる。
「花子ちゃんがほしい」と声を揃えて歌い前に出ると、相手方は後に下がる。
そして前に出ながら、「春子ちゃんがほしい」と歌う。
名指しされた人同士でジャンケンをして、負けた子供は相手方に行き、皆で手を繋いで「勝ってうれしい花いちもんめ」と前に出る。
負けた方は後に下がり、手を繋いで前に出ながら「負けてくやしい花いちもんめ」と歌う。
なにをしていても楽しかった。
「花子ちゃん、あそびましょ」
と家の前で大きな声で呼び合って、大勢でみんな仲良く外で遊んでいた。
小学校一、二年生の頃は、おかっぱ頭で、三年生の頃になると、刈り上げという髪型が子供達の間で流行った。頭の後を襟足から少し斜めに刈り上げた形である。
世界の情勢など、ましてや日本の国が戦争をすることなど知るよしもなく、楽しく無邪気に過ごした日々は本当にピンクの薔薇の様に明るく、光溢れた懐かしいひと時であったように思う。
15.12.1
1-5 13.10.1
小学校時代「スケート」満州の冬
子供達が小学生の頃、冬休みは毎年のように、箱根駒ケ岳の頂上にある、スケート場に行った。冷たい風が鼻から胸に刺すのを感じながら、氷上を滑る。その心地よさで、はるか遠い昔が、甦って来る。
私の小学校は、満州国(現在の中国東北地方)撫順市、新屯小学校である。冬の体操の時間は、いつもスケートだった。前の授業の終わりのベルが鳴ると、みんな我先にと、校舎の裏の運動場一杯に氷を張った大きなスケート場に向かった。
傍らにある小屋に入ると、背丈よりも大きな円筒形のストーブが、赤々と燃えていて、私達を待っているように思えた。小屋の壁に、ぐるりと取り付けてある棚のような腰掛に座り、みんなすばやくスケート靴を履くとリンクに飛び出して行き、スイスイと滑り出す。
私は母が編んでくれた、ピンクとブルーの横縞模様で、耳まですっぽり隠れる毛糸の帽子がお気に入りで、いつもそれをかぶっていた。
担任の師範学校出たての若い時任先生は、スケートが初めてなので、みんなで教えてあげた。へっぴり腰で、ステン、ステンと氷が割れないかと思うほどよく転び、みんなアハハ、アハハと、笑い通し笑った。
スケート場は、早朝と夕方に、満人の小使いさんが、消防自動車のようなホースで水を平らになるように撒いて、造ってくれていた。
春になって、リンクの氷がざくざくと解けてくるのを、教室の窓から名残惜しく見ていた。
まつげや鼻が凍るような冷たい空気を、懐かしく思い出す。
2-2 金気の水(長野・女学校・学徒動員)
終戦の前の年、昭和十九年(一九四四)私達、篠ノ井高等女学校の生徒は学徒動員令で名古屋市春日井、鳥居松軍需工場にいた。
「撃ちてし止まん」「滅私奉公」「欲しがりません、勝つまでは」
などの標語が沢山、町に溢れ、女学生だった私も、お国のためにと勇んで行ったわけでもないが、仕方なくでもなかったと思う。
少しでも銃後の国民として、お役に立つならと、慣れない仕事に疲れを押して、一生懸命頑張った。
私たちの班は鉄砲の引き金を作る部署で、施盤で穴を開けたり、鑢をかける仕事をした。
広大な敷地に大きな工場がいくつもあって敷地内の奥に二階建ての寮が幾棟もあり、他の女学校の生徒や大学生の、それぞれの宿舎となっていた。
その中の一つの建物の二階が私たちの部屋と言われて入った所は、十二畳位の部屋に五人位づつ入ったように思う。
廊下からの入口は障子で、入ると正面はガラス窓になっていて全部のガラスに白いテープが斜めにバツ印のように貼ってあった。ガラスが割れるのを防ぐ為で、当時はあちこちでガラスに貼ってあった。
左側に押入れがあり、上段には無地で紺色の木綿の敷布団一枚、同色の掛布団が一枚か二枚、毛布一枚、枕も同色で他に白い敷布が一枚、それを見た時になんとなく侘しい気持ちになったのを覚えている。
押入れの下段には、身の回りのものを入れて持って来た、七十センチ×五十センチ位の柳行李を置いた。
柳行李よりも小振りの座卓が窓辺に五つ外に向かって並べてあった。
朝、起きると一間の押入れを二人で使っていたので、押入れの襖を二つ重ねて中央に置き、両端を空けて畳んだ布団の角を、きちんと揃えるように先生に言われた。
一階の洗面所は横に長い流しがあり、水道が壁にいくつも付いていた。水道の上に鏡があったように思う。
軍隊もこういう所かなと思った。
一階の食堂も長い机と細長い腰掛が並んでいた。食事をすますと、すぐ寮の前に並んで点呼をとる。
その時の出で立ちは、日本全国共通の女学校制服、紺のサージで、白い布のかかった糸瓜襟、ウエストに共布のベルトが付いているのを着て、下は思い思いの地味なモンペを穿き、白い運動靴。額には、中央に白地に赤い日の丸を挟むように「神風」と黒く染め抜いた手拭できりりと、お下げの髪に締めた。
そして、綿の入った防空頭巾を二つに折り、首を結ぶ紐で肩に掛けた。
各自が布で作った救急カバンを反対の肩に襷に掛ける。カバンの中には三角巾、ヨーチン、メンソレータム、絆創膏、副木、包帯、チリ紙等が入っている。
一クラスを小隊と言い、四列に並んで、軍歌を歌いながら、元気よく手を振って工場に向かった。何の歌だったろうか。
「若鷲の歌」とか「・・・」「・・・」
色々歌ったと思うのだが、忘れてしまった。聞けば思い出すと思うのだが。
普段、通学の時は上は制服でモンペを穿き、下駄の歯がへったら差し替えられる赤い鼻緒の日和下駄を履いていた。
学校内の上履きは白い鼻緒で裏にゴムの付いた草履で鼻緒に学年、組名、名前が書いてあった。白い運動靴は当時、大切な靴だった。
或る日、防空訓練があった。
みんな、敷布団を四つに折って長い紐で赤ちゃんをおんぶするように背中に括りつけて土手にそった道を並んで避難訓練をしていた時に、「ウー、ウー、ウー、」と本当に空襲警報が鳴り響いた。
間もなくB29らしい大きな爆音が聞こえてきた。
「伏せろ」と号令が掛かり、みんな土手の下に伏せた。布団で体を隠すために布団を背負わせたのだろうか。
みんな息を殺して、じっとしていた。
ようやく空襲警報が解除になったが。
喉が渇き、手の平位の大きさのアルミニウムの水筒の蓋で、飲んだ、喉にへばり付くような金気臭い水の感触が今でも忘れられない。
大勢で、紺色の布団を背中に括り付け、列を作って歩いた姿が今でも、はっきりと浮かんで来る不思議な光景である。
馴れない仕事と環境の悪さで、病気になって帰郷する人が続出した。
「私も病気にならないかな」と思ったのだが生憎、すっかり山羊の乳で丈夫になってしまった体は、どんな労働にも負けなかった。
一番困ったことは南京虫である。
昼の間は柱の隙間に隠れていて、夜になると出てきて人を刺す。
皆が工場に行っている間に、管理人が殺虫剤を撒いてくれるのだが、一向になくならない。南京虫は二つ並んで噛み口が出来る。痒くて、痒くてたまらなかった。今でも膝の後に跡が残っている。
昭和二十年(一九四五)三月に入ると、すぐに寮の前で、ステキな工場長の少尉殿も出席して、女学校は四年生まであるのだが時局柄三年生で繰り上げて卒業式が行われた。
卒業証書も授与されたが少しも嬉しい気持ちはなかった。
何年か前、小学校の同窓会で戦時中の話の中で、「戦争の終わり頃の鉄砲は、全然当たらなかったらしいよ」と言った人がいた。
私は黙って沈痛なおももちで聞いていた。
一生懸命引金を作ったのに、それが無駄だったとは。学徒動員で頑張ったことは何だったのだろうか。
言葉にならない失望感が胸に重く残っている。
16・2・2
2-6
戦争と私
大東亜戦争・第二次世界大戦・十五年戦争。
日本が負けた戦争は何という戦争なのか私には今ひとつ、はっきりと分からない。
日本が戦に負けて、今年で五十八年にもなろうとしている。
半世紀、五十年目の八月十五日、終戦記念日を迎えた日に今まで言葉に出せなかった私の生きて来た戦中、戦後を子供や孫たちに知ってほしいと思い、書いておこうとしたが、どうしても書くことが出来なった。
それから五年経ち、今、書いておかないと、思い出すことも出来なくなると、意を決して、少しずつ書くことにした。
「辰口日記」なるものが「アリューシャンからの伝言」というタイトルでアメリカで知れ渡っていることを、最近テレビで知った。
昭和十八年(一九四三)五月十二日、アリューシャン列島のアッツ島で戦死した日本人軍医、辰口信夫の日記が、日本軍の全滅した戦闘の跡に聖書に挟んで残されてあったのをアメリカ兵が見付け、英訳され、戦後アメリカ各地で読まれた。戦争という極限状態での心理、家族への深い愛が人々の感動を呼んでいるという。
たまたま、辰口がクリスチャンで聖書を持っていて、それに挟んでいたのでアメリカ兵の目に留まったが、辰口一人にとどまらず、どの兵士もみんな同じ気持ちだったと思う。
戦争の悲惨さ、霧に包まれた最果ての島でのことであった。
アッツ島玉砕のことは当時、新聞やラジオで大きく報じられた。お国のために、愛する人のために、男たちは戦場に出て行った。
その頃、銃後(当時、日本国内をそう呼んでいた)の私たちは、女学校で敵が日本に上陸して来たら応戦するために、木の薙刀を持ち、もんぺを穿き、日の丸の印の付いた鉢巻を額にきりりと締め、
「エイエイ、ヤー」
と、白い胴着に黒い袴の体操のK先生に厳しく教練を受けていた。
その時は皆、真剣にやっていたが、敵が上陸すれば竹槍や木の薙刀等で歯が立つわけがない。
だんだん物資も乏しくなり、お米も配給制となり、衣料も切符制となった。
沢山収穫の出来る農林一号という種類の大きなさつまいもが配給になったが、まずい芋だった。蒸かしたり、賽の目に切ってお米に入れて炊いたり、小麦粉にまぜて蒸しパンを作ったりして食べた。
砂糖などは闇でないと手に入らなくなった。
魚も「すけそうだら」がよく配給されたが、当時は冷凍設備もないので、一般家庭に配給になる頃は、臭くて食べられなかった。
私は長野県の田舎に住んでいて、母の実家が農家だったので、随分助けられた。都会の人々は、リュックを背負い、汽車に乗って、田舎に買出しに行った。
みんな戦に勝つまではと窮乏生活に耐えてがんばっていた。
当時、小学校を卒業して軍人になるための幼年学校に入る男子も多かった。また、十五歳になると志願して少年航空兵になる人もいた。
特攻隊といって、鹿児島の知覧から、小さな一人乗りの飛行機に行きだけの燃料を積んで、敵の軍艦に体当たりする。
自分もろとも敵艦を沈めるという作戦なのだが、そうはゆかずに中には途中で撃墜されたりした。物量に勝るアメリカに根性だけでは勝てる筈もなかった
戦争は残酷である。
同じ部隊で八月十五日終戦の日の朝、出撃して戦死した人もいた。
その日の午後から出撃する筈の人は、敗戦が決まったために、戦死は免れたが、負い目を感じて生き残った人も、心に深い傷を残したのだった。
広島や長崎に原子爆弾を落とされ、被害を受けて戦争を体験した人々は、それぞれ悲しい思いを胸に秘めて生きて来た。
決して忘れることの出来ない戦争の傷跡と悲惨さを背負って生きている。
そんな思いを私の子供や孫たちに絶対にさせてはならない。平和に穏やかに生きてほしいと心から思う。
昭和二十年(一九四五)終戦の年の三月、長野県の女学校を卒業すると、すぐに私は満州にいる家族のもとに行った。
久しぶりに見る我家、父も母もやさしく、弟も妹もとてもかわいかった。
幸せに満ち溢れていた家の中には、日本本土と違って、戦争の匂いなど微塵もなく、おいしいものはなんでもあって、平和そのものだった。
近くの岡には、かわいらしい百合や芍薬など奇麗な花々が咲き乱れて、八月九日の朝までは、楽しい楽しい日々だった。
其の頃の私は、日本は絶対に負けることはないと信じて疑わなかった。
1-2
木枯らし (小学校時代 楽しかった満州) 五十嵐 秀代
ずうっと、ずうっと昔、私が子供の頃のこと。
木枯らしが吹く頃になると、
「寒い北風吹いたとて
くじけるような子供じゃないよ
満州育ちの私たち」
と朝、学校に行く時、「もっともっと寒くなるといいなあ、寒くなると大好きなスケートが出来る」と思いながら、「寒さなんかに負けないぞ」という気持ちで歌いながら元気よく歩いたことを思い出す。
歌う口元が寒さで、「アワ、アワ」と言葉にならなくなり、鼻毛も凍って強く息を吸うと、「ヒィー」と音がする。
中に毛の付いた防寒靴を履き、道にツルツルに光っている所があると、走って行って両足でツーと滑ったりして遊びながら学校に行った。その頃になるともう楽しいスケートは始まるのである。
寒い冬は暖かい家の中で遊んだ。
私の子供の頃は、お手玉のことを「おじやみ」と言った。
奇麗な端切れで、中に小豆を入れて母に幾つも作って貰って遊んだ。
両手を使い二個で遊ぶのは初歩の頃で三個で出来るようになり、だんだん調子が出てきて片手で三個に挑戦する。「おじやみ」をする時には、
〔一〕旅順開城約成りて、敵の将軍ステツセル。乃木大将と会見の、所はいずこ水師営。
〔二〕庭に一本棗(ヒトモトナツメ)の木、弾丸あともいちじるく。くずれ残れる民屋(ミンオク)に、今ぞ相見(アイ ミ)る二将軍。
と九番まである歌を延々と「おじやみ」を落とすまで歌い続けた。
六個、七個で遊ぶのもあった。
お正月には晴れ着を着せてもらい、福笑いや、いろはかるた、百人一首、トランプ、双六、花札もして遊んだ。
「おはじき」も沢山集めていた。
羽根つきをする時は、
「ひとごやふたご、みわたすよめは、いつきてみても、ななつのおびを、やのじにしめて、ここのやでとまった」
と歌っていた。
外での遊びの一つに、長い縄跳びの縄の両端を二人で持って回し、回っている縄の間をついて一人が先に入り、
「アツプク、チクチク、アツパツパ郵便屋さんお入り」と歌い、次の人が回っている縄の間に入る。
「はいよろし、ジャンケンポン」と回っている縄とびを続けながら、「さようなら」と負けた人は回っている縄から、さっとひっかからないように出る。
歌の郵便屋さんのところを、次に入る人の名前にする場合もあった。
例えば、「ハナ子ちゃん、お入り」と歌っていた。
ゴム段飛びもした。輪ゴムを二本づつ長く繋ぎ合わせて両端を二人でピンと張って持ち、膝の高さから腰、胸、肩、頭と上げて行き、飛べなくて足がひっかかった人は、持ち側にかわるのである。
後に足を跳ね上げて飛ぶのを「大阪飛び」と言っていた。
「花いちもんめ」という遊びもあった。
皆で手を繋ぎ、横一列になって、前に出ながら「あの子がほしい」と歌うと、「あの子じゃわからん」と相手側が歌いながら前に出ると、こちらは手を繋いだまま後に下がる。
「花子ちゃんがほしい」と声を揃えて歌い前に出ると、相手方は後に下がる。
そして前に出ながら、「春子ちゃんがほしい」と歌う。
名指しされた人同士でジャンケンをして、負けた子供は相手方に行き、皆で手を繋いで「勝ってうれしい花いちもんめ」と前に出る。
負けた方は後に下がり、手を繋いで前に出ながら「負けてくやしい花いちもんめ」と歌う。
なにをしていても楽しかった。
「花子ちゃん、あそびましょ」
と家の前で大きな声で呼び合って、大勢でみんな仲良く外で遊んでいた。
小学校一、二年生の頃は、おかっぱ頭で、三年生の頃になると、刈り上げという髪型が子供達の間で流行った。頭の後を襟足から少し斜めに刈り上げた形である。
世界の情勢など、ましてや日本の国が戦争をすることなど知るよしもなく、楽しく無邪気に過ごした日々は本当にピンクの薔薇の様に明るく、光溢れた懐かしいひと時であったように思う。
15.12.1
1-5 13.10.1
小学校時代「スケート」満州の冬
子供達が小学生の頃、冬休みは毎年のように、箱根駒ケ岳の頂上にある、スケート場に行った。冷たい風が鼻から胸に刺すのを感じながら、氷上を滑る。その心地よさで、はるか遠い昔が、甦って来る。
私の小学校は、満州国(現在の中国東北地方)撫順市、新屯小学校である。冬の体操の時間は、いつもスケートだった。前の授業の終わりのベルが鳴ると、みんな我先にと、校舎の裏の運動場一杯に氷を張った大きなスケート場に向かった。
傍らにある小屋に入ると、背丈よりも大きな円筒形のストーブが、赤々と燃えていて、私達を待っているように思えた。小屋の壁に、ぐるりと取り付けてある棚のような腰掛に座り、みんなすばやくスケート靴を履くとリンクに飛び出して行き、スイスイと滑り出す。
私は母が編んでくれた、ピンクとブルーの横縞模様で、耳まですっぽり隠れる毛糸の帽子がお気に入りで、いつもそれをかぶっていた。
担任の師範学校出たての若い時任先生は、スケートが初めてなので、みんなで教えてあげた。へっぴり腰で、ステン、ステンと氷が割れないかと思うほどよく転び、みんなアハハ、アハハと、笑い通し笑った。
スケート場は、早朝と夕方に、満人の小使いさんが、消防自動車のようなホースで水を平らになるように撒いて、造ってくれていた。
春になって、リンクの氷がざくざくと解けてくるのを、教室の窓から名残惜しく見ていた。
まつげや鼻が凍るような冷たい空気を、懐かしく思い出す。
2-2 金気の水(長野・女学校・学徒動員)
終戦の前の年、昭和十九年(一九四四)私達、篠ノ井高等女学校の生徒は学徒動員令で名古屋市春日井、鳥居松軍需工場にいた。
「撃ちてし止まん」「滅私奉公」「欲しがりません、勝つまでは」
などの標語が沢山、町に溢れ、女学生だった私も、お国のためにと勇んで行ったわけでもないが、仕方なくでもなかったと思う。
少しでも銃後の国民として、お役に立つならと、慣れない仕事に疲れを押して、一生懸命頑張った。
私たちの班は鉄砲の引き金を作る部署で、施盤で穴を開けたり、鑢をかける仕事をした。
広大な敷地に大きな工場がいくつもあって敷地内の奥に二階建ての寮が幾棟もあり、他の女学校の生徒や大学生の、それぞれの宿舎となっていた。
その中の一つの建物の二階が私たちの部屋と言われて入った所は、十二畳位の部屋に五人位づつ入ったように思う。
廊下からの入口は障子で、入ると正面はガラス窓になっていて全部のガラスに白いテープが斜めにバツ印のように貼ってあった。ガラスが割れるのを防ぐ為で、当時はあちこちでガラスに貼ってあった。
左側に押入れがあり、上段には無地で紺色の木綿の敷布団一枚、同色の掛布団が一枚か二枚、毛布一枚、枕も同色で他に白い敷布が一枚、それを見た時になんとなく侘しい気持ちになったのを覚えている。
押入れの下段には、身の回りのものを入れて持って来た、七十センチ×五十センチ位の柳行李を置いた。
柳行李よりも小振りの座卓が窓辺に五つ外に向かって並べてあった。
朝、起きると一間の押入れを二人で使っていたので、押入れの襖を二つ重ねて中央に置き、両端を空けて畳んだ布団の角を、きちんと揃えるように先生に言われた。
一階の洗面所は横に長い流しがあり、水道が壁にいくつも付いていた。水道の上に鏡があったように思う。
軍隊もこういう所かなと思った。
一階の食堂も長い机と細長い腰掛が並んでいた。食事をすますと、すぐ寮の前に並んで点呼をとる。
その時の出で立ちは、日本全国共通の女学校制服、紺のサージで、白い布のかかった糸瓜襟、ウエストに共布のベルトが付いているのを着て、下は思い思いの地味なモンペを穿き、白い運動靴。額には、中央に白地に赤い日の丸を挟むように「神風」と黒く染め抜いた手拭できりりと、お下げの髪に締めた。
そして、綿の入った防空頭巾を二つに折り、首を結ぶ紐で肩に掛けた。
各自が布で作った救急カバンを反対の肩に襷に掛ける。カバンの中には三角巾、ヨーチン、メンソレータム、絆創膏、副木、包帯、チリ紙等が入っている。
一クラスを小隊と言い、四列に並んで、軍歌を歌いながら、元気よく手を振って工場に向かった。何の歌だったろうか。
「若鷲の歌」とか「・・・」「・・・」
色々歌ったと思うのだが、忘れてしまった。聞けば思い出すと思うのだが。
普段、通学の時は上は制服でモンペを穿き、下駄の歯がへったら差し替えられる赤い鼻緒の日和下駄を履いていた。
学校内の上履きは白い鼻緒で裏にゴムの付いた草履で鼻緒に学年、組名、名前が書いてあった。白い運動靴は当時、大切な靴だった。
或る日、防空訓練があった。
みんな、敷布団を四つに折って長い紐で赤ちゃんをおんぶするように背中に括りつけて土手にそった道を並んで避難訓練をしていた時に、「ウー、ウー、ウー、」と本当に空襲警報が鳴り響いた。
間もなくB29らしい大きな爆音が聞こえてきた。
「伏せろ」と号令が掛かり、みんな土手の下に伏せた。布団で体を隠すために布団を背負わせたのだろうか。
みんな息を殺して、じっとしていた。
ようやく空襲警報が解除になったが。
喉が渇き、手の平位の大きさのアルミニウムの水筒の蓋で、飲んだ、喉にへばり付くような金気臭い水の感触が今でも忘れられない。
大勢で、紺色の布団を背中に括り付け、列を作って歩いた姿が今でも、はっきりと浮かんで来る不思議な光景である。
馴れない仕事と環境の悪さで、病気になって帰郷する人が続出した。
「私も病気にならないかな」と思ったのだが生憎、すっかり山羊の乳で丈夫になってしまった体は、どんな労働にも負けなかった。
一番困ったことは南京虫である。
昼の間は柱の隙間に隠れていて、夜になると出てきて人を刺す。
皆が工場に行っている間に、管理人が殺虫剤を撒いてくれるのだが、一向になくならない。南京虫は二つ並んで噛み口が出来る。痒くて、痒くてたまらなかった。今でも膝の後に跡が残っている。
昭和二十年(一九四五)三月に入ると、すぐに寮の前で、ステキな工場長の少尉殿も出席して、女学校は四年生まであるのだが時局柄三年生で繰り上げて卒業式が行われた。
卒業証書も授与されたが少しも嬉しい気持ちはなかった。
何年か前、小学校の同窓会で戦時中の話の中で、「戦争の終わり頃の鉄砲は、全然当たらなかったらしいよ」と言った人がいた。
私は黙って沈痛なおももちで聞いていた。
一生懸命引金を作ったのに、それが無駄だったとは。学徒動員で頑張ったことは何だったのだろうか。
言葉にならない失望感が胸に重く残っている。
16・2・2
2-6
戦争と私
大東亜戦争・第二次世界大戦・十五年戦争。
日本が負けた戦争は何という戦争なのか私には今ひとつ、はっきりと分からない。
日本が戦に負けて、今年で五十八年にもなろうとしている。
半世紀、五十年目の八月十五日、終戦記念日を迎えた日に今まで言葉に出せなかった私の生きて来た戦中、戦後を子供や孫たちに知ってほしいと思い、書いておこうとしたが、どうしても書くことが出来なった。
それから五年経ち、今、書いておかないと、思い出すことも出来なくなると、意を決して、少しずつ書くことにした。
「辰口日記」なるものが「アリューシャンからの伝言」というタイトルでアメリカで知れ渡っていることを、最近テレビで知った。
昭和十八年(一九四三)五月十二日、アリューシャン列島のアッツ島で戦死した日本人軍医、辰口信夫の日記が、日本軍の全滅した戦闘の跡に聖書に挟んで残されてあったのをアメリカ兵が見付け、英訳され、戦後アメリカ各地で読まれた。戦争という極限状態での心理、家族への深い愛が人々の感動を呼んでいるという。
たまたま、辰口がクリスチャンで聖書を持っていて、それに挟んでいたのでアメリカ兵の目に留まったが、辰口一人にとどまらず、どの兵士もみんな同じ気持ちだったと思う。
戦争の悲惨さ、霧に包まれた最果ての島でのことであった。
アッツ島玉砕のことは当時、新聞やラジオで大きく報じられた。お国のために、愛する人のために、男たちは戦場に出て行った。
その頃、銃後(当時、日本国内をそう呼んでいた)の私たちは、女学校で敵が日本に上陸して来たら応戦するために、木の薙刀を持ち、もんぺを穿き、日の丸の印の付いた鉢巻を額にきりりと締め、
「エイエイ、ヤー」
と、白い胴着に黒い袴の体操のK先生に厳しく教練を受けていた。
その時は皆、真剣にやっていたが、敵が上陸すれば竹槍や木の薙刀等で歯が立つわけがない。
だんだん物資も乏しくなり、お米も配給制となり、衣料も切符制となった。
沢山収穫の出来る農林一号という種類の大きなさつまいもが配給になったが、まずい芋だった。蒸かしたり、賽の目に切ってお米に入れて炊いたり、小麦粉にまぜて蒸しパンを作ったりして食べた。
砂糖などは闇でないと手に入らなくなった。
魚も「すけそうだら」がよく配給されたが、当時は冷凍設備もないので、一般家庭に配給になる頃は、臭くて食べられなかった。
私は長野県の田舎に住んでいて、母の実家が農家だったので、随分助けられた。都会の人々は、リュックを背負い、汽車に乗って、田舎に買出しに行った。
みんな戦に勝つまではと窮乏生活に耐えてがんばっていた。
当時、小学校を卒業して軍人になるための幼年学校に入る男子も多かった。また、十五歳になると志願して少年航空兵になる人もいた。
特攻隊といって、鹿児島の知覧から、小さな一人乗りの飛行機に行きだけの燃料を積んで、敵の軍艦に体当たりする。
自分もろとも敵艦を沈めるという作戦なのだが、そうはゆかずに中には途中で撃墜されたりした。物量に勝るアメリカに根性だけでは勝てる筈もなかった
戦争は残酷である。
同じ部隊で八月十五日終戦の日の朝、出撃して戦死した人もいた。
その日の午後から出撃する筈の人は、敗戦が決まったために、戦死は免れたが、負い目を感じて生き残った人も、心に深い傷を残したのだった。
広島や長崎に原子爆弾を落とされ、被害を受けて戦争を体験した人々は、それぞれ悲しい思いを胸に秘めて生きて来た。
決して忘れることの出来ない戦争の傷跡と悲惨さを背負って生きている。
そんな思いを私の子供や孫たちに絶対にさせてはならない。平和に穏やかに生きてほしいと心から思う。
昭和二十年(一九四五)終戦の年の三月、長野県の女学校を卒業すると、すぐに私は満州にいる家族のもとに行った。
久しぶりに見る我家、父も母もやさしく、弟も妹もとてもかわいかった。
幸せに満ち溢れていた家の中には、日本本土と違って、戦争の匂いなど微塵もなく、おいしいものはなんでもあって、平和そのものだった。
近くの岡には、かわいらしい百合や芍薬など奇麗な花々が咲き乱れて、八月九日の朝までは、楽しい楽しい日々だった。
其の頃の私は、日本は絶対に負けることはないと信じて疑わなかった。
2013年04月13日
下北沢X新聞(2299)〜都市時間論、渋谷・下北沢・雪が谷2〜

(一)
都市時間はその場所によって微妙に違ってくる。たまたま渋谷・下北沢・雪が谷と並べてみたが、なるほどこれらの土地に流れ行く秒数はコンマで違っている。
その地域それぞれに流れている時間がある。その固有性に慣れ親しんでいた。ところが、東横線渋谷駅が地下化して、渋谷時間については大きく変わった。これが著しく評判がよくない。「私はもう渋谷と縁を切ったから!」という過激な声すら聞こえてくる。なぜだろう?。
はっきり言えることは、ためがなくなったことである。
「こういう頭端式ホームを失うことは大きな痛手ですよ」
確か、この東急地下化を追っていたテレビ番組で会社の運行部長が言っていたと記憶している。頭から入って来て、それがまた後ろ向きに出て行く。通常運行の姿だった。「俺様が渋谷駅だ」と言わんばかりの存在感があった。なにしろ一つの鉄道会社が駅の全ての終点と始発とを独り占めにしていた。
この東横線には、渋谷時間がしっかりとあった。頭端式ホームに降りて、乗り換える。刻み目のある時間だった。
時間とは何か?、それは流れそのものにある。この経過を通して子どもは成長し、青年から中年、老年へと変わっていき。やがて、死を迎える。
時間とて同じだ。これもプロセスゆえにファィナルがある。この間何気なく、BS「コズミックフロント」を見てしまった。恐ろしいことを淡々と言っていた。時間の流れの結末は、三通りほどあるという。いずれも怖い結末だ。「宇宙は永久に膨張し続け、やがてエネルギーや物質の密度が低下して絶対零度にまで凍りついてしまう」とか、「宇宙が急激に膨張し、素粒子レベルにまで引き裂かれて破裂してしまう」とかだ。
「それは何億年も先のことでそれまでは十分に余裕があります」
そんなことが解説にあったが、何の慰めにもならないと思った。終われば終わる。
渋谷駅頭端駅ホームは終わってしまった。今考えると、着いてみな降りるというのは大したものだったと思う。これが消失したことは、終末の何れに当てはまるのだろうか。計画では氷漬けにされないで壊されるようだ。渋谷駅は「素粒子レベルまでに引き裂かれて破裂」してしまうということになろうか。
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2013年04月12日
下北沢X新聞(2298)〜都市時間論、渋谷・下北沢・雪が谷〜

(一)
時間には固有性がある。地域地域によって時間の流れがある。が、これも一定ではない。根幹には、時間を決定づけているものがある。音、色、そして人である。
日々荏原逍遙を続けている。気ままにあちこちと歩き回る。時に下北沢に行ったり、また雪が谷まで足をのばしたりする。この二つの町に共通する点は多分人は知らないだろう。
雪が谷にはスーパーオオゼキがある。そして、ここを出たところに雪が谷1号踏切がある。下北沢も同じスーパーがあって、ここの側に東北沢6号踏切があった。
先だって五日の日、北沢タウンホールで、ドキュメンタリー映画『原発の町を追われて』の上映会があった。帰り、スーパーに寄って買い物をした。閉店前で、鯛が半額だった。これを買った。鯛を買って店を出るなり惚けてしまった。
「この間、あそこ、オオゼキの前の6号踏切、店出たとたん、誰も立ち止まっていないで、向こう側の方に人が歩いていくのですよ。何かショックでした。あれだけ頻繁に電車が通っていた踏切には音がないのですよね。警報器とか電車の音とかが、炭酸飲料の気が抜けたみたいな時間が流れていました…」
先だって電話が掛かってきた人が、下北沢や渋谷の変わり様を言ったので、私も感想を述べた。
「何か、このところ、台詞の乗りが悪いんだよ、いつもは観客の間にすっと声が響いて届くような感じがあったんだけど、それがないんだよ。何でかと考えたんだ……考えついたのは、踏切だと思ったんだ、俺はいつもオオゼキ前の踏切通って劇場にきているんだけど、今考えると、あそこが、ほら、能舞台で『鏡の間』ってあるだろう、舞台直前にこれがあって、ここで鏡に向かい,姿をととのえ,心をしずめて登場を待つところが…踏切が鏡の間を果たしていたように思うんだ。遮断機に停められたときに気持ちを整理していたと思うのだよ…」
一人の役者の独白、私のこれは想像である。続きを読む
2013年04月10日
下北沢X新聞(2297)〜『近代繁栄節考』を考える2〜

(一)
旅はその土地の固有性との出会いだ。山梨に行って常に目につくのは屏風である。塩山からは南アルプスの山稜がずっと続いている様がよく見られる。ついこの頃になってこの成り立ちを知って驚いた。海洋プレートに乗ってやってきた伊豆半島が本州に衝突して褶曲山脈ができた。即ち、アルプスである。
歌劇カルメンで歌われた言葉に「金銀財宝は山の向こうにあるんだよ」というものがある。連なる山脈の向こうに希望や夢があるということだ。甲府盆地に住んだ人びとも、褶曲山脈あらばこそ思い描いた未来があったろう。武田信玄の野望もこの屏風あらばこそ育まれたのではないかと思う。
往古、山脈によって隔てられた人びとの生活は固有の考えを生んでいったのではないかと考える。固有の景色が固有のものを生む。
人は食って生きる。山国の生活は厳しいものがあった。が、食う物の次にあったものは何かというと歌ではなかったかと思う。『楢山節考』を読んで思った。
人生とは哀調を帯びた音楽である。ひもじくてつらくても歌を歌えば、口の足しにはなる。この作品の最後は、歌で締めくくられている。雪降る楢山で死を待つ、我が母、おりんは、きっと歌ったと、せがれの辰平は思った。『楢山節考』の末尾だ。
なんぼ寒いとって綿入れを
山に行くには着せられぬ
楢山参りをするおりんは綿入れを置いていった。辰平が母を担いで行った足で、家に帰ると「昨夜おりんが丁寧に畳んでおいた綿入れを、もうけさ吉はどてらのように背中にかけてあぐらをかいて坐っていた。」、生きている者がこれ幸いとおりんの綿入れをもう羽織っている。
末尾の歌は、おりんのせがれ辰平の悲しみであり、また、おりんの嘆きでもある。七五調の歌ゆえに救われるということはある。続きを読む
2013年04月09日
下北沢X新聞(2296)〜『近代繁栄節考』を考える〜

(一)
日々が旅だ。それはおもしろがる、ふしぎがる常なる意識から来ているように思う。山梨に行ったのはもう五日も前になってしまった。しかし、旅の時間も熟成するものだ。今になって思うとより面白く思われる。言えば、今日近代を考察する旅だった。
旅とは、風景と人との出会いである。甲斐の旅だ、武田信玄は最初から予想がつく。しかし、根津嘉一郎と深沢七郎は予想外だった。
この後者の二人は、我々のフィールドワークする場に無関係ではなかった。文学散歩でよく行く羽根木公園は、前は根津山と呼んだ。根津嘉一郎を核とする根津財閥所有になるものだった。
深沢七郎を見出したのは、丸尾長顕である。作家であり演出家である丸尾は、下北沢文士町の居住人である。日劇ミュージックホールプロデューサーは、代沢小そばのアパートにダンサーを住まわせ、その女性が駅に行くときに際だって見えたと聞いている。深沢七郎も丸尾宅には度々来ていたのではないかと思われる。
旅の案内者矢花克己さんは、昼食を石和の、蕎麦屋、「幟」に誘ってくれた。ここが深沢七郎生家跡である。彼の姻戚が営んでいるとのことだった。かつては深沢七郎関係の資料が展示されていたそうである。
家に帰ってから、そういえば『楢山節考』は、どこかにあったなと思った。随分と探し回った挙げ句、本棚の底の筑摩の現代日本文学大系を見つけた。ページを開いていくと、彼のサインが扉にあった。
人間はこんなに繁栄
しなくてもいいんだ
人間滅亡教々祖
深沢七郎
これも言葉との出会いだ。『楢山節考』は、近代の繁栄への反旗であったと思った。
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2013年04月07日
下北沢X新聞(2295)〜近代の流浪民、原発放浪民〜

(一)
近くの深沢の遊歩道で奇妙な光景に出会った。幼い子が手に余る「エリエール」を手にしておいおいと泣いている。どうしたのだろうと見ると、一人の男がカメラで彼女を撮っている。他に女が一人、男が一人ついている。彼らは何するでもない。ただただ女の子が涙を浮かべて泣いているのを見ている。
理解するのに数秒かかった。例の初めてのお使いの撮影風景だと思った。立ち止まって泣く場面は、絵になる。撮影者はここだと言わんばかりに撮っていた。
「いたいけない子の可愛そうな場面を多く撮って視聴者のの愛情本能に訴える」、そうすれば、視聴率も上がるし、儲かりもする。虚飾的なカメラワークを思った。
この5日の夜、七時から北沢タウンホールで映画を見た。「原発の町を追われて」〜避難民・双葉町の記録〜である。堀切さとみさんが撮られたドキュメンタリーだ。これには作為は感じなかった。自然なカメラワークで撮っていると思った。
双葉町は福島第一原発が立地しているところだ。ここは放射線量が高く今も戻れないでいる。この人びとが埼玉県加須市の廃校騎西高校に寝起きしている。この人達の日常を丹念に撮ったものである。堀切さとみさんは、プロではない。給食調理という仕事をしながら暇を見つけては避難所に通い、彼らの日常を撮り続けた。
「監督だと言われるのが嫌」
この気持ちはとてもよく分かる。
印象に残ったのは話者が構えないでしゃべっていたことだ。運動会で撮るようなそういうカメラで撮ったので「みなさん気取らないでしゃべってくれました」と。
報道のカメラがまわると、どうしても気取ってしまう。ところが彼女に撮られている人びとは、普段の顔だ。そこには淡々とつづく日常がある。
「ふだんなは、この煙草二十本ぐらいだけど、ここへきちゃうともう60本吸っちゃうよ。他にすることがないものな…」とこれは親父さん。
「そうだよ、寝て、起きて喰い、そしてまた喰う、これじゃあ身体がいかれて早死にししゃうような」
避難所では弁当が毎食出る。それを食べて生きている。他にはすることはない。
堀切さんは、その彼らの日常を丹念に写している。余計な解説はない。映像を通して見た人が考えてくださいという撮り方だ。
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2013年04月06日
下北沢X新聞(2294)〜時間文化論:荏原&山梨〜

(一)
私の旅は、因縁因果のか細い糸を辿っていく旅である。今と過去との間をゆくものだ。目にしたもの、耳にしたものを今という時間に置き換えて、想像する。そのことがいかに気持ちを充足させるものか?。四月四日、辺り一面、桃の花に包まれた山梨を旅した。たった一日の旅であったが、数日間も行っていたような気さえする。
塩尻駅に私を出迎えてくれたのは矢花克己さんである。ネット上で偶然知り合ったことからの縁続きである。前々から、桃の花の盛りになったら来てみませんかとの誘いを受けていた。それがようやっと実現したものだった。
このところ、気ぜわしい日々が続いていた。「ラジオ深夜便」で情報提供を呼びかけたところ、戦時経験が多く寄せられ、その対応に追われた。やっと一段落したことで、心休めに花の旅に出た。ところが、これまた、あれが、これが、日々追究している文化と繋がってきて心乱れる一方だった。
印象深いことを二つあげる。一つは、この旅で出会った今時間である。もう一つは、経過時間、すなわち縄文時代から今日近代にまで繋がる歴史である。
まず最初の時間だ。「あずさ」に乗って窓辺を見ていたときに、ふと目についたのは駅のホームに掲出してある広告だ。東北新幹線の新型E5だった。これを見た時にまっ先に思い出したのは、ジェイ・クリフィスの「まるい時間を生きる女、まっすぐな時間を生きる男」である。「高速列車の広告に、男根の形をした列車が」と書いていたが、まさにそれである。最高速列車は見事に一物、猛り狂う男根そのものである。遮二無二突き進んでいく男時間の象徴のように思えた。もう高速度は不要だ。これを緩めて地球を温存していかねばならなくなったはずなのに、今もなお速度至上主義が生きている。
塩山に着いて、旧中央線隧道の大日影トンネル遊歩道を歩いたり、桃の花の間を行ったりしているうちにここに流れている時間がゆっくりだと気づいた。
「時間がゆったりしていますね」
「ええ、人がいませんからね」
矢花さんの返答だ。なるほど人の多寡が時間の速度に関連する。あきれるほどに人が多い都会時間は濃密で人の少ない地方時間は緩やかだ。
「歩く速度も速いですよ。東京に行っていると知らぬ間に早足になっています」
この間、安曇野から来た丸山修さんも同じことを言っていた。
都会時間は人を追い立てる、ゆっくり立ち止まって考える暇などない。追われていくうちに200系車両は、気づくと、男根に化けていた。
「わたしはね、E2系を初めて見たときは、顔を赤らめましたよ」
そんな女性がいるはずだ。続きを読む
2013年04月04日
下北沢X新聞(2293)〜『木暮荘物語』にみる都市文化〜

(一)
都市郊外論としての世田谷代田が興味深い。高圧鉄塔駒沢線をものさしとする郊外ラインがここにある。この線の下で、軍歌が創られもした。また文学詩歌が生まれもした。当地の芸術文化と地域文化の接点には物語的な面白さがある。
小田急線の踏切廃止騒ぎの最中、世田谷代田駅にまつわる文学作品がひっそりと語られていた。これに気づかないでいたところ代田住まいの山本裕さんがこの新聞記事を送ってくれた。2013年3月20日、朝日新聞東京版に載った「東京物語散歩」(256)である。三浦しをん「『木暮荘物語』小田急線、世田谷代田駅」と見出しにあるものだ。
書いた人は、東邦大附属中高教諭 堀越正光さんである。この物語散歩、前に鷺澤萌の『遮断機』を取り上げていて、このときも早速に購入して読んで、ブログ記事に書いたことがある。下北沢オオゼキ前の、東北沢6号踏切を『遮断機』として描いた作品である。
今回の記事も、小田急地下化に伴ってこの作品を取り上げたようだ。冒頭にはこうある。
小田急小田原線の世田谷代田駅は、複々線化の工事中。23日からホームが地下に移ります。踏切が解消されるなど良いことずくめでしょうが、物語に描かれた情景がすっかり様変わりしてしまうのはさびしい。
世田谷代田の駅情景、踏切があり、地上駅があった風景は既に喪失してしまった。
「地下ホームに降りるのに階段が106なんですよ。煩悩の数よりも三つ多いのですよ。」
ここからの通勤者は、毎日地底深くまで降りなくてはならない。
かつてこの駅は、世田谷中原駅と言っていた。萩原朔太郎が利用していた。今もなお彼の詩人の幻影が見られるともいう。「破れしレコードは鳴り響き/ 場末の煤ぼけたる電氣の影に/ 貧しき酒瓶の列を立てたり。」(『氷島』)そんな新宿の珈琲店「酔月」でしたかた酔って帰る。彼の漂泊する魂は、これまで迷うことなく、彼の居宅があった駒沢線鉄塔61号近くまで帰り着くことができきた。
新宿発最終電車は、0:52分発の経堂行きだ。01:04に世田谷代田に着く。ところが、ここは既に見慣れない駅になっている。
「汝、ヘルメットを被った作業員よ、ここはどこだ?」
「上総層を切り開いて作った新駅です」
「何、上総層まで、深く掘ってか?。なぜにここは湖になっていないのか?」続きを読む
2013年04月03日
下北沢X新聞(2292)〜消滅踏切、現役踏切比較論〜

(一)
遮断機が下りると人は押しとどめられる。電車が通過すると棒がぱんと跳ね上がり、人はそれぞれに踏切を渡っていく。ところが、小田急地下化によって、地表にあった踏切群が一気に消滅してしまった。当局は、除去したという。邪魔者は消し去られた。
しかし、特に、東北沢6号、下北沢逆1踏切あたりは間が抜けてしまった。何ともいいようのない空白が辺りに漂っている。心棒が欠落してしまったような印象だ。
私の仲間が踏切を評して言った。「人溜りがあって、解放されて散っていく万華鏡的な動きがあって、だから街は面白かったんですよね。」と。だれもかれもが遮断機で押しとどめられる。あの溜まりも、何か卑猥であったり、色っぽかったりもした。若い男女が接近する場であった。香水のにおいもした。じいさんも、ばあさんも、人ごみに押されることなく、ここでは腰に手を当てて休めた。
待っている者は一様な用事を抱えているわけではない。踏切向こうの歯科医に、美容院に、アジアン料理店へ…、目的は雑多だ。そして、踏切がぽんと空くと、人はそれぞれに散っていく。「なんだピンクのセーター着た彼女、そっちへ行くのか?」と彼女に目をつけていた男はがっかりする。黒は、あっち、白は向こう、紫はもどる。まさに「万華鏡的な動き」である。
人を押しとどめて、そして、解放する。秩序がある。規則がある。が、人間のたまりは卑猥である。期せずしてお祭りの場ともなる。中にはステップを踏むものもいた。
踏切は、街を区画していたものだ。障害物ではあった。が、それが溜であり、溜まりであった。機械的なものではあるが、そこには人間臭さが漂っていた。
今朝、メールを開けたら、仲間の米澤邦頼さんからこんな便りが来ていた。
昨夜、9時過ぎに自転車に乗って小田急閉鎖9踏切を回りました。下北沢は人の往来はあるものの、無人で真っ暗な下北沢の地上駅をみると、終電後の時間帯だと勘違いしてしまいます。
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2013年04月01日
下北沢X新聞(2291)〜会報第81号「北沢川文化遺産保存の会」
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第81号
2013年4月1日発行(毎月1回発行)
会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、横光利一顕彰碑を提案する
2013年1月1日づけで「下北沢文士町文化地図」、改訂五版を発行した。改訂に改訂を重ねてきた。この時にと思って、改訂二版から五版までを国立国会図書館に送付した。こういう図版は受け付けてもらえるのかと思っていたが、すべて収蔵庫に収められた。が、初版がなくてこれだけは送付していない。
下北沢文士町の礎を創った文学者は横光利一である。彼の作品『睡蓮』冒頭は、次のように書かれている。
もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰好なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下北沢という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北沢といえば前にたしか一度友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたいと洩らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。
秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇の中に際立って白く見えていた。
「ここですよ。どうですかね」
大工は別に良いところでもないがといった顔つきで、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植っている平凡な畑だったが、周囲に欅や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。腹立たしいときに周囲に気がねして声も出さずにすましていては家に自由のなくなる危険がある。それに一帯の土地の平凡なのが見たときすでに倦きている落ちつきを心に持たせ、住むにはそれが一番だとひとり定めた。
私は、これまで下北沢文士町の旧居跡を探索してきた。一番興味深いのは、文学作品に土地の固有性が表れているところだ。この場合も想像ができる。欅や杉は、恐らく地主の阿川家や伊東家のものだろうと。
その点、最も面白く思われるのは、「野道の茶の花が薄闇の中に際立って白く見えていた。」という件だ。かつて、一帯は、阿川家の茶畑だった。明治政府の桑茶政策に基づきこれが栽培されていた。その名残がこの文章に書き表されている。記録的にも大事である。
横光利一は、いわゆる新感覚派のリーダーとして川端康成とともに活躍した。代表作の一つ、『機械』、町工場の人間模様を実験的な手法で描いたこれは昭和5年に発表されている。また、昭和7年には、新感覚派の集大成というべき『上海』と『寝園』が刊行されている。多くの業績が北沢の丘で書かれていることは注目に値する。当地の緑と光と眺望が彼の文学に影響を与えていることはある。
誰がどこに居住してどのような芸術作品を創り上げるのか、土地と文化という点から私は深い興味を持っている。そのことからして北沢というところは意味深い。萩原朔太郎もこの地所への関心からここに住んでいた。
この横光利一が、『旅愁』を自ら持参して朔太郎邸に持っていった点などは、その情報を知っただけで、どこを通っていったのかと思う。
土地と文化と鉄塔という繋がりで考えると道だけではなく線で繋がっていたともいえる。つまりは、高圧線鉄塔駒沢線である。
横光利一が朔太郎邸に持参したルートは、はっきりとは分からない。しかし、萩原朔太郎邸のある代田の丘の61号鉄塔から、地下で航空研と繋がったケーブル沿い、これに近いことははっきりしている。
私は『代田の丘の鉄塔文学論』で論じているが、朔太郎が居住した側にある東京内輪線、駒沢線は、国木田独歩が言う都鄙端境だと述べた。詩人も小説家もそういう場にいて文学の実験を試みていたと考えられる。
私たち、北沢川文化遺産保存の会は、横光家のご遺族から旧邸の敷石一枚をいただいている。これは小説『微笑』に出てくる石畳の、まさにそれである。
ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴を響かせて来た。石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す…
若い頃の大岡昇平もこの石畳を踏んで訪れていた。「そこを歩いてくる足音で、訪問客の目的や性質がわかる。」(「下北沢の思い出」)と彼自身書いている。森厳寺の裏に住んでいた大岡昇平の父親は、息子がものになるのか横光邸を訪れて聞いた。すると「他人が言わないことを言うから見込みがある」と答えたようだ。
表現したり発信したりするときに重要なのは誰もがすることをしていては、伝わらないということだ。いわゆる文学碑なるものは全国に腐るほどある。私たちの場合は、誰もが考えつくような文学碑は作らない。安吾文学碑には彼の家の門柱がある。萩原朔太郎ゆかりの鉄塔由来碑には現物の鉄塔が存在する。
新感覚派の重鎮横光利一が当地に住んで実験的な試みをしていたことは文学史的にも重要だと思う。この作家を顕彰する文学碑を建てたい。坂口安吾、萩原朔太郎、そして今度は、横光利一である。
この場合も説得力のあるものにしたい。それは、具体的には、『微笑』に描かれた石畳を活用した文学碑である。四月から新しい年度になるが、この建立に向けて、現在、協賛企業を募り、また碑の設置については北沢川緑道への設置を行政へ呼びかけている。
2、都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
・第83回 4月20日(土)午後1時 日暮里駅北口橋上駅舎改札前
上野のお山の文化探る
先年、11月の特番で原敏彦講師の案内で谷中墓地を巡った。時間切れで回れなかった。今回趣向を変えて、墓より団子、まず、羽二重団子を食べに行き、その後根岸の子規庵に行き、それから上野のお山の見残したお墓などを見に行く。定例会初の上野のお山探訪。なお、子規庵入場料500円。羽二重団子では喫茶室に入ります。各自負担です。
・第84回 5月18日(土)午後1時 幻影の下北沢猫町散歩
恒例行事。萩原朔太郎が亡くなった五月には毎年、彼が居住した下北沢、そして代田。彼の小説『猫町』の舞台を訪ねながら行く定番コースだ。最終地点は、世田谷区地域風景資産となっている「代田の丘の61号」鉄塔だ。ここには念願の「鉄塔由来碑」を昨年建立した。これの見学会も兼ねている。
・第85回 6月22日(土)午前10時 代田橋駅改札前
下北沢地形学入門 外縁の水路を巡って下北沢へ 去年、笹塚「福寿」でラーメンを食べようと行ったがお休みだった。ところが、つい最近、テレビ番組でここが営業していることを知った。再チャレンジしたい。
・第86回 7月20日(土)午後一時 田園都市線池尻大橋駅改札前(中央)
恒例「駒沢練兵場を巡る」 熱暑行軍、一人参加催行。
最後はキャロットタワー三階の市民活動支援コーナーの使用を考えています。
なお、集合が元にもどりました。池尻大橋駅です。
・第87回 9月21日(土)午後一時 下高井戸駅集合
下高井戸鉄道T点一帯をめぐる
夢二旧居、高井戸宿、松原宿など ナビゲーター 岡本克彦さん
案内者は、昨年、明大前鉄道交点を案内してくださった岡本克行さん。
・第88回 10月19日(土)午後一時 東北沢駅改札前集合
下北沢アートタウンを巡る(�供�
改訂地図五版には、芸術家も加えたことからこれらも巡る。
昨年は、南部を巡るこれを実施した。今度は北部を巡るこれを実施したい。
・第89回 11月16日(土)午後一時 東急線多摩川駅改札前
国分寺崖線の古墳群を歩く ナビゲーター 木村康伸さん
多摩川駅→浅間神社→亀甲山古墳→宝来山古墳→宇佐神社(八幡塚古墳)→野毛大塚古墳(玉川野毛町公園)→上野毛自然公園 →二子玉川駅(駅周辺の喫茶で歓談)
・第90回 12月21日(土)午後一時 代田橋駅改札前集合
代田半島地形学入門
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも300円
参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498
■ 編集後記
▲「横光利一文学碑」を建立しようと提案している。「坂口安吾文学碑」の場合も市民に寄付を呼びかけ、門柱移転費をこれで賄った。今度も「横光利一文学碑建立寄金」をつのりたい。封筒に「横光利一文学碑寄金」と名前を書いて、きむらに渡して頂けるとありがたいです。これは文学碑にだけに使う寄金としようと思います。
▲「下北沢演劇祭」に市民団体枠にエントリーして朗読劇ダイダラボッチをみんなの力で演じようという企画がある。練習場所の手配や参加のための手続き事務をしてくれる人、広告宣伝、音響その他。いわゆる事務方、プロジュースしてくれる人がいないと成り立たない。「北沢川文化遺産保存の会」劇部の木村圭子監督も乗り気である。是非応募を。
▲第六回戦争経験を聴く会は5月25日(土)午後一時半から北沢タウンホール3階で開催します。前村弘さんは三回目の特攻に行きそびれた人です。陸軍新兵器「さくら弾機」に乗り組んだ人でたった一人生きておられる方です。
▲資料調査の過程で見つかった「鉛筆部隊」の日記は疎開児童史研究の貴重な資料となるものだ。五冊ほどあるが、デジタル記録化への協力者いると助かりますが。
▲夏の納涼会は、7月27日(土)北沢タウンホールで5時30分から。
▲会費納入のお願い。一応年単位の会費ですので期限がきれることになりますので未納の方、1000円を納めてください。よろしくお願いします。
・当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第81号
2013年4月1日発行(毎月1回発行)
会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、横光利一顕彰碑を提案する
2013年1月1日づけで「下北沢文士町文化地図」、改訂五版を発行した。改訂に改訂を重ねてきた。この時にと思って、改訂二版から五版までを国立国会図書館に送付した。こういう図版は受け付けてもらえるのかと思っていたが、すべて収蔵庫に収められた。が、初版がなくてこれだけは送付していない。
下北沢文士町の礎を創った文学者は横光利一である。彼の作品『睡蓮』冒頭は、次のように書かれている。
もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰好なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下北沢という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北沢といえば前にたしか一度友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたいと洩らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。
秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇の中に際立って白く見えていた。
「ここですよ。どうですかね」
大工は別に良いところでもないがといった顔つきで、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植っている平凡な畑だったが、周囲に欅や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。腹立たしいときに周囲に気がねして声も出さずにすましていては家に自由のなくなる危険がある。それに一帯の土地の平凡なのが見たときすでに倦きている落ちつきを心に持たせ、住むにはそれが一番だとひとり定めた。
横光利一が北沢に新居を建てたのは、昭和三年である。前年に結婚をし、子も生まれたところから必要に駆られて候補地を探していたようだ。その地所を大工が見つけてきた。彼自身が最初からそこを望んでいたわけでもない、しかし、友人が家を建てるのなら北沢という話を聞いていた。それでこの地に深く興味を持った。
「家を建てるのなら北沢」というのは理由としては二つ考えられる。一つは交通の便のよさである。小田急は昭和二年に開通したばかりでここは新宿から十数分のところにあった。もう一つは環境である。「周囲に欅や杉の森があり近くに人家のない」というのはその典型である。一帯はまだ開発されず武蔵野の原風景が残っていた。
ここに書かれてはいないが、もう一つ、この地所がいいのは眺めがよいことだった。丘上で、富士がよく見えるところだった。
私は、これまで下北沢文士町の旧居跡を探索してきた。一番興味深いのは、文学作品に土地の固有性が表れているところだ。この場合も想像ができる。欅や杉は、恐らく地主の阿川家や伊東家のものだろうと。
その点、最も面白く思われるのは、「野道の茶の花が薄闇の中に際立って白く見えていた。」という件だ。かつて、一帯は、阿川家の茶畑だった。明治政府の桑茶政策に基づきこれが栽培されていた。その名残がこの文章に書き表されている。記録的にも大事である。
横光利一は、いわゆる新感覚派のリーダーとして川端康成とともに活躍した。代表作の一つ、『機械』、町工場の人間模様を実験的な手法で描いたこれは昭和5年に発表されている。また、昭和7年には、新感覚派の集大成というべき『上海』と『寝園』が刊行されている。多くの業績が北沢の丘で書かれていることは注目に値する。当地の緑と光と眺望が彼の文学に影響を与えていることはある。
誰がどこに居住してどのような芸術作品を創り上げるのか、土地と文化という点から私は深い興味を持っている。そのことからして北沢というところは意味深い。萩原朔太郎もこの地所への関心からここに住んでいた。
この横光利一が、『旅愁』を自ら持参して朔太郎邸に持っていった点などは、その情報を知っただけで、どこを通っていったのかと思う。
土地と文化と鉄塔という繋がりで考えると道だけではなく線で繋がっていたともいえる。つまりは、高圧線鉄塔駒沢線である。
横光利一が朔太郎邸に持参したルートは、はっきりとは分からない。しかし、萩原朔太郎邸のある代田の丘の61号鉄塔から、地下で航空研と繋がったケーブル沿い、これに近いことははっきりしている。
私は『代田の丘の鉄塔文学論』で論じているが、朔太郎が居住した側にある東京内輪線、駒沢線は、国木田独歩が言う都鄙端境だと述べた。詩人も小説家もそういう場にいて文学の実験を試みていたと考えられる。
私たち、北沢川文化遺産保存の会は、横光家のご遺族から旧邸の敷石一枚をいただいている。これは小説『微笑』に出てくる石畳の、まさにそれである。
ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴を響かせて来た。石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す…
若い頃の大岡昇平もこの石畳を踏んで訪れていた。「そこを歩いてくる足音で、訪問客の目的や性質がわかる。」(「下北沢の思い出」)と彼自身書いている。森厳寺の裏に住んでいた大岡昇平の父親は、息子がものになるのか横光邸を訪れて聞いた。すると「他人が言わないことを言うから見込みがある」と答えたようだ。
表現したり発信したりするときに重要なのは誰もがすることをしていては、伝わらないということだ。いわゆる文学碑なるものは全国に腐るほどある。私たちの場合は、誰もが考えつくような文学碑は作らない。安吾文学碑には彼の家の門柱がある。萩原朔太郎ゆかりの鉄塔由来碑には現物の鉄塔が存在する。
新感覚派の重鎮横光利一が当地に住んで実験的な試みをしていたことは文学史的にも重要だと思う。この作家を顕彰する文学碑を建てたい。坂口安吾、萩原朔太郎、そして今度は、横光利一である。
この場合も説得力のあるものにしたい。それは、具体的には、『微笑』に描かれた石畳を活用した文学碑である。四月から新しい年度になるが、この建立に向けて、現在、協賛企業を募り、また碑の設置については北沢川緑道への設置を行政へ呼びかけている。
2、都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
・第83回 4月20日(土)午後1時 日暮里駅北口橋上駅舎改札前
上野のお山の文化探る
先年、11月の特番で原敏彦講師の案内で谷中墓地を巡った。時間切れで回れなかった。今回趣向を変えて、墓より団子、まず、羽二重団子を食べに行き、その後根岸の子規庵に行き、それから上野のお山の見残したお墓などを見に行く。定例会初の上野のお山探訪。なお、子規庵入場料500円。羽二重団子では喫茶室に入ります。各自負担です。
・第84回 5月18日(土)午後1時 幻影の下北沢猫町散歩
恒例行事。萩原朔太郎が亡くなった五月には毎年、彼が居住した下北沢、そして代田。彼の小説『猫町』の舞台を訪ねながら行く定番コースだ。最終地点は、世田谷区地域風景資産となっている「代田の丘の61号」鉄塔だ。ここには念願の「鉄塔由来碑」を昨年建立した。これの見学会も兼ねている。
・第85回 6月22日(土)午前10時 代田橋駅改札前
下北沢地形学入門 外縁の水路を巡って下北沢へ 去年、笹塚「福寿」でラーメンを食べようと行ったがお休みだった。ところが、つい最近、テレビ番組でここが営業していることを知った。再チャレンジしたい。
・第86回 7月20日(土)午後一時 田園都市線池尻大橋駅改札前(中央)
恒例「駒沢練兵場を巡る」 熱暑行軍、一人参加催行。
最後はキャロットタワー三階の市民活動支援コーナーの使用を考えています。
なお、集合が元にもどりました。池尻大橋駅です。
・第87回 9月21日(土)午後一時 下高井戸駅集合
下高井戸鉄道T点一帯をめぐる
夢二旧居、高井戸宿、松原宿など ナビゲーター 岡本克彦さん
案内者は、昨年、明大前鉄道交点を案内してくださった岡本克行さん。
・第88回 10月19日(土)午後一時 東北沢駅改札前集合
下北沢アートタウンを巡る(�供�
改訂地図五版には、芸術家も加えたことからこれらも巡る。
昨年は、南部を巡るこれを実施した。今度は北部を巡るこれを実施したい。
・第89回 11月16日(土)午後一時 東急線多摩川駅改札前
国分寺崖線の古墳群を歩く ナビゲーター 木村康伸さん
多摩川駅→浅間神社→亀甲山古墳→宝来山古墳→宇佐神社(八幡塚古墳)→野毛大塚古墳(玉川野毛町公園)→上野毛自然公園 →二子玉川駅(駅周辺の喫茶で歓談)
・第90回 12月21日(土)午後一時 代田橋駅改札前集合
代田半島地形学入門
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも300円
参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498
■ 編集後記
▲「横光利一文学碑」を建立しようと提案している。「坂口安吾文学碑」の場合も市民に寄付を呼びかけ、門柱移転費をこれで賄った。今度も「横光利一文学碑建立寄金」をつのりたい。封筒に「横光利一文学碑寄金」と名前を書いて、きむらに渡して頂けるとありがたいです。これは文学碑にだけに使う寄金としようと思います。
▲「下北沢演劇祭」に市民団体枠にエントリーして朗読劇ダイダラボッチをみんなの力で演じようという企画がある。練習場所の手配や参加のための手続き事務をしてくれる人、広告宣伝、音響その他。いわゆる事務方、プロジュースしてくれる人がいないと成り立たない。「北沢川文化遺産保存の会」劇部の木村圭子監督も乗り気である。是非応募を。
▲第六回戦争経験を聴く会は5月25日(土)午後一時半から北沢タウンホール3階で開催します。前村弘さんは三回目の特攻に行きそびれた人です。陸軍新兵器「さくら弾機」に乗り組んだ人でたった一人生きておられる方です。
▲資料調査の過程で見つかった「鉛筆部隊」の日記は疎開児童史研究の貴重な資料となるものだ。五冊ほどあるが、デジタル記録化への協力者いると助かりますが。
▲夏の納涼会は、7月27日(土)北沢タウンホールで5時30分から。
▲会費納入のお願い。一応年単位の会費ですので期限がきれることになりますので未納の方、1000円を納めてください。よろしくお願いします。
・当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。



















