2013年06月

2013年06月30日

下北沢X新聞(2350)〜会報第84号「北沢川文化遺産保存の会」〜

…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第84号                 
2013年7月1日発行(毎月1回発行)

               会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
1、今夏再び松本へ出掛けよう
   「戦争と平和展」開催−特攻兵が飛びたつとき


 昨年に引き続き、松本市で、「戦争と平和展」が開催されます。
『鉛筆部隊と特攻隊』が発刊され、これを読んだ人々から多くの情報が寄せられた。また、今年三月、これに関連してNHK『ラジオ深夜便』に出演して情報提供を呼びかけたところ全国から反響が寄せられた。この中にはこれまで知られていなかった情報もあった。
 今回の展覧会では、新しく発掘された資料が展示される。一つは出戸栄吉軍曹の資料である。姪御さんの川端敦子さんは本のことを地元新聞に載った書評で知った。このことが機縁となって連絡がつくようになって資料の存在を知った。彼女からこれを送ってもらってこの解読に努めた。今月末に発刊される『特攻隊と褶曲山脈−鉛筆部隊の軌跡』には出戸栄吉軍曹資料という項目を設けて書いている。
 資料は複写である。しかし、内容自体は戦争史の一端を証明する貴重なものである。武剋隊へ感状、満州日報、溥儀側近からお悔やみ状など、今回、この多くが博物館で展示されるはずである。
 また、ラジオ深夜便を契機とした資料発掘では、淺間温泉小柳の湯の特攻隊に行き当たった。この旅館に疎開していた長谷川直樹さんに宛てた特攻隊が宮崎から送った最期の葉書がある。近々突撃して戦果が報道されるだろうと書いてある。これも展示される。
 この「戦争と平和展」の開催の発端は、「鉛筆部隊と特攻隊」の取材が契機となっている。この物語の発掘も私たち、北沢川文化遺産保存の会の活動から生まれたものと言ってよい。そのあたりの経緯を含めて、新しく発刊される『特攻隊と褶曲山脈−鉛筆部隊の軌跡』には、詳しく触れている。

・名 称:戦争と平和展 特攻兵が飛び立つとき―松本から知覧へ―
・会 期:7月6日(土)〜8月25日(日) 51日間(会期中無休)
・会 場:松本市立博物館 2階特別展示室


 博物館から送られてきた開催の趣旨は次の通りである。

 (*昨年は1階の常設展示室の近現代部分で開催しましたが、今回は昨年の5倍ほど大きなスペースになります。)
・開催趣旨:【松本市では平成23年度に国連軍縮会議in松本が開催されました。松本市立博物館(本館・分館14)では、この機会に市民が戦争の悲惨さと平和の尊さを考えるきっかけとなるよう、松本まるごと博物館連携事業として10館で「戦争と平和展」を開催しました。平成24年度の博物館連携事業「戦争と平和展」においては、松本市立博物館は企画展「戦争と平和―松本に来た特攻隊―」を開催し、九州に向かう前に特攻機の機体装備のため陸軍松本飛行場に飛来し、浅間温泉(松本市)に滞在していた特攻隊(武剋隊と武揚隊)を紹介し、大きな関心を呼びました。
 そこで、松本に滞在した特攻隊員に焦点をあて、松本や九州の知覧における特攻隊員の活動、生きざまを紹介することにより、市民の一人ひとりが平和の大切さを考える機会を創出します。
 
 この「戦争と平和展」に関連して長野県で放送が流される。これについて事前の収録が行われる。私、きむらが出演の予定である。
【番組名】  NHKニュース「イブニング信州」
【放送メディア】  NHK総合テレビ(長野県域放送)
【放送日時】  平成25年7月29日(月) 18:10〜19:00内の8分ほど

2、「北沢川文化遺産保存の会」納涼会のお知らせ

 恒例の「納涼会」である。誰もが自由に参加し、自由に発言し、何かをしたり、(小田急踏切さようなら、これを写す)、得意の芸を披露したり(マジック、朗読)、所属の会の宣伝をしたりと、自由な発想に基づき、楽しく面白く、夏の夜の夕べを過ごすというものです。(例年八月に入ってからだが、改装工事で閉館されることから繰り上げた)
 闇鍋も一つの楽しみです。それぞれが何か一つを持ち寄るというものです。私の場合はいつも、自分で焼いたパンを持っていきます。自分で食べないから、砂糖とバターはたんと入れて持っていきます。それを承知の上で食べてください。

開催日時 7月27日(土) 時間 5時半から〜10時まで
開催場所 北沢タウンホール2F 集会室
会費   3000円 マイカップ持参のこと
申し込み締め切り 7月24日(水) なるべく早く希望を米澤まで知らせてください。
申し込み人数に合わせて信濃屋特製の弁当を発注します。

 なお、会員であった中川恵さんが急逝されました。彼女を偲んで思い出を語ってもらう
場面も考えています。『特攻隊と褶曲山脈−鉛筆部隊』の発刊は、25日が予定されています。本が間に合えばサイン会を開催したいと思います。

3、講演会のお知らせ

 タイトル もうひとつの戦史−鉛筆部隊と特攻隊
  〜信州松本淺間温泉であった疎開学童と特攻隊員の秘話〜

 第110回シニア・エージセミナー 終戦特集��
 〇講師 きむらけん氏(童話作家)
〇日時=2013年7月26日(金) 14:30〜16:30
 〇会場=駐健保会館4階会議室 港区芝3−41−8 03−3452−3461
 〇参加費=2,000円 終了後に交流会を予定
 
 シニアエージ 〒108-0073 東京都港区三田2-14-7 ローレル三田606号
 http://www.seniorage.jp
 03-3453-7478 FAX03-5730-6489

4、『褶曲山脈と特攻隊−鉛筆部隊の軌跡』

 「東京荏原都市物語資料館」は、二度ともう戦争はするまいというのが館の主張である。ゆえに戦争経験を多く記録してきた。その過程で一つの戦争秘話が拾われた。昨年発刊した『鉛筆部隊と特攻隊』である。今度の方がより長いが据え置き(彩流社)2100円である。
 この本の場合は、ネットから得られた情報をもとに物語を書いた。が、今度の場合は、紙媒体を通して得られた情報に基づいてまとめた。新しいネットワークである。
 ラジオというメディアも大きな役割を果たした。3月27日、「NHKラジオ深夜便」に出演し戦争経験の記録を呼びかけたところ多くの情報が集まった。特には世田谷山崎国民学校の疎開学童との特攻隊との触れ合いがこれによって拾われた。今回これは作品の中に記録として書き記した。
 ところが、歴史の真実を追究することは難しい。分かってくるとそのぶん謎が増えてくる。前作よりも一層に謎が増えてきたことは間違いない。
 不思議なことがある。特攻隊に関する情報は世田谷に多く眠っていることだ。淺間温泉に学童は疎開していたが、分かってみるとあそこにも、ここにも彼ら兵士は泊まっていた。
 代沢小、東大原小、駒繋小、山崎小は分かった。この他、太子堂小、三宿小、中里小、第一師範などもこの温泉に疎開していた。隠れたエピソードがまだあるように思う。
 知り合いの方にこれらの学校の疎開していた人がいれば、声を掛けてみてほしい。何かの情報があれば、当方に連絡をしてほしい。

5、都市物語を旅する会  

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第86回 7月20日(土)午後一時 田園都市線三軒茶屋駅改札前(中央)
夏行事恒例「駒沢練兵場を巡る」五回目? 戦跡を巡って戦争を考える
〇昭和女子大学野砲兵跡→唯一現存兵舎韓国会館→馬魂碑→世田谷公園→馬糧倉庫跡→陸軍境界石→東山貝塚(東京三大貝塚)→大橋ジャンクションの天空庭園で憩って解散


九月
・特番行事 日時:9月14日(土)
  国分寺崖線古墳をゆく 喜多見駅改札口 13:00 ナビゲーター 天羽大器さん
 〇コース*喜多見駅→野川沿いを歩く→念仏車と庚申塚→筏道→喜多見氷川神社→慶元寺→稲荷塚古墳→第六天塚古墳→須賀神社→荒玉水道道路→次大夫堀公園→砧中学校古墳群→仙川沿いを歩く→カトリック成城教会(今井兼次設計)→成城学園前駅
・第87回 9月21日(土)午後一時 京王線下高井戸駅改札前集合
  下高井戸鉄道T点一帯をめぐる
  夢二旧居、高井戸宿、松原宿など ナビゲーター 岡本克行さん
  案内者は、昨年、明大前鉄道交点を案内してくださって好評だった岡本さん。
・第88回 10月19日(土)午後一時 池の上駅改札前集合
  代沢の横光利一を巡る ナビゲーター きむらけん
  横光利一の文学顕彰碑を作りたいということから、世田谷区の地域の絆推進事業に応募したいと考えている。この事業の一環として街歩きを企画した。当初は、北部地域のアートタウンを巡る予定だったが、池の上を中心とした文化を巡り、とくには横光利一を中心としたい。
11月
・特番行事 日時:11月9日(土) 午後一時 日暮里駅北改札口
 谷中墓地(三度目) ナビゲーター原敏彦さん
・第89回 11月16日(土)午後一時 東急線多摩川駅改札前
  国分寺崖線の古墳群を歩く ナビゲーター 木村康伸さん
多摩川駅→浅間神社→亀甲山古墳→宝来山古墳→宇佐神社(八幡塚古墳)→野毛大塚古墳(玉川野毛町公園)→上野毛自然公園 →二子玉川駅(駅周辺の喫茶で歓談)
・第90回 12月21日(土)午後一時 代田橋駅改札前集合
 代田半島を巡る ダイダラボッチ、代田連絡線、朔太郎、三大伝説を巡る旅
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも300円
  参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498
■ 編集後記
▲会員である中川恵さんが急逝された。先年行った朗読劇ダイダラボッチでも活躍された彼女のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
▲今夏、市立松本博物館では、『戦争と平和展』が開催される。展示スペースが昨年よりも五倍広いとのこと。昨年も会員の方も多く個別に行かれた。機会を設けて一緒に行ってはどうかという話は去年あったができなかった。今年は、企画立案してくれる方がいたら行きたいものだ。そうなった場合には、協力や案内はしたい。
▲構想企画である。北沢川文化遺産保存の会の活動記録は貴重な記録となっている。これを出版してみたらという声が具体的にある。タイトルは『下北沢文士町物語』−都市文化発掘の軌跡−、だ。実現すれば、日本近代都市文化史として重要な記録になるであろう。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。
CCI20130622_0000







2013年06月28日

下北沢X新聞(2349)〜猫と鉄道と文士町4〜

P1040012
(一)
 東北沢4号踏切、茶沢通り踏切では、映画の台詞と警報器がセッションしていた。
「Shane, come back!」
「クワン、クワン、クワン……ぷぷわぁん」
 踏切警報器が鳴ってツートンカラーの2200系が通り過ぎて行く。
 この踏切のそばに映画館「オデオン」座があった。

 大谷藤子、『六匹の猫と私』に、「たづねネコ」というのがある。その書き出しだ。

 八月のある夜、私は近所の映画館へナイトショウを見に出かけた。
 早くから行列をしなければ座席がとれないので、私はその行列を姪に頼んで、時刻を見はからって家を出た。


 この映画館はこのオデオン座に間違いない。それは違うグリーン座だという人がいるかもしれない。が、彼女の文章にはこうある。

 映画館の前には交番があった。日ごろ、よく見もしないで通りすぎるのだけれど、こんなときには眺めるものもないので、若いお巡りさんの姿などを見ていた。

 映画館はなくなったがこの交番はある。オデオン座である動かぬ証拠だ。しかし、女性の目は違うものだと知った。交番などに詰めている人に興味を持つことはない。が、女性は目の付けどころが違う。ちょっと交番をのぞいてイケメンでもいないかと見てみるようだ。こちらは美女警官がいなかなどと思ったこともない。

大谷藤子、イケメンがいなくてここにあった掲示板をのぞいた。すると「たずねネコ」の張り紙が二枚もあったそうだ。その一枚は謄写版刷りだった。
続きを読む

2013年06月27日

下北沢X新聞(2348)〜猫と鉄道と文士町3〜

P1040010
(一)
 文士町犬猫文学論は、おもしろい。土地の文化にこれが結び付くとすればなおさらだ。

 土地比較論ということでいつも思い起こすのは、世田谷成城との違いだ。ここも小さな文士町だ。一昨年だったと思う、ここをフィールドワークした。北原白秋の居住痕跡を求めての街歩きだ。同行者が同意したのは朔太郎はここには住まないだろうということだ。碁盤の目状の道路は隠れるところがない。かつまた明るすぎる。

 いえば成城は犬的である。反対に文士町は猫的だといえる。なぜか、道が沢の影響をうけて曲がっている。それと、小路が網の目状に張りめぐらされている。土地の形状が猫が住み着くにふさわしい。

 それと文士町は鉄道の町だ。これはキーである。歩いて行って駅に出る。道路が歩行者優先になっている。小路が多いのはそのためだろう。「猫町小路」である。

 猫と鉄道と文士町というラインは案外に繋がってくるものだ。土壌が猫的なのではないかと思う。隠微で、隠棲するにはいいのかもしれない。

 そういえば三好達治は代田に隠棲していた。福井三国から転居してきてここに住んだ。昨日、雨の中を「北沢川文化遺産保存の会会報84号」を事務局に届けに行った。このときに詩人旧居を眺めながら通った。庭の片隅にキュウリの花が咲いていた。

 彼の名著「萩原朔太郎」はここで書かれた。その説き起こしは白秋批判である。彼の詩を「この人工光線のまばゆさ」とか、「この上出来の一篇の調子のよさは徹頭徹尾軽金属の響きをたててゐて」とこきおろす。

 世田谷城続きの丘をやや下った北面に位置するそこは庭にはこんもりと木々が茂っていた。小路に入ったところにあった。ここも猫が往来するにふさわしい場である。

 彼が住んでいた仮寓では家主がスピッツを飼っていたが、彼自身の文学は猫的ではないか?。猫好きだったと思われる。彼の詩の中に「私の猫」というものがある。
続きを読む

2013年06月25日

下北沢X新聞(2347)〜猫と鉄道と文士町2〜

P1040008

 文士町の猫文学は固有性があるのか。興味深い。沢と路地とドブは印象的には、犬よりも猫の方が似つかわしい。

(一)
 先だってテレビを見ていたときに、なるほどと思ったことがある。下町の人の言い草だ。
「山手線の向こうはみな田舎なんだよ。世田谷なんかど田舎だよ」

 歴史経過をみていくとこれは合っている。明治十三年の地図を見ると今の茶沢通りは田圃になっている。が、鉄道ができ道ができ、街が形成されていった。集まって来たのは男であり、女だった。

「私も信者さんから聞いたことがありますよ。この下の街並みには二号さんがいて、その旦那は代々木練兵場の高級将校だったと。あと東松原にもいたと」
 カトリック世田谷教会で話しているときに街に集まってくる色香の話になった。神父さんはそんな話を教えてくれた。

 この話を聞いて東松原は狙い目だと思った。沢が深くてつい迷ってしまうところだ。そんなところに女をかくまう、男もしたたかなもんだ。

 カトリック教会は森厳寺川左岸崖線の上にあって街並みが見下ろせる。ビルが増えたので教会の十字架は見えなくなった。眺望も悪くなった。しかしこの街並みは見当はつく。旧道の二子通りに沿った道に続くものだ。鉛筆部隊の田中さんはここに家があった。貸屋には二人の二号さんが入っていた。議員さんと三味線のお師匠さんだ。

 神父さんの話は軍人のことだから戦前のことになる。が、戦前も戦後も今も変わりない。アパートやマンションにこっそりと女性は住んでいる。

 大谷藤子の家も二子通りから少し入ったところだ。かつては一帯に貸屋やアパートが多かった。が、小田急線と井の頭線が交差する駅が近い。いわゆる下駄履きが多くあった。下は店舗に上は貸間にというものだ。

 『六匹の猫と私』には藤子が人から聞いた話も載せている。
 つぎのエピソードは二号さんの話ではない。独身女性の話だ。彼女は、神楽坂で空襲に遭って父と弟を亡くした。独り身の彼女はアパートで暮らしている。婚期も逃し、「このまま孤独で終るのだろうとと観念していた」彼女である。が、たった一人、話相手がいた。猫のルリである。
続きを読む

2013年06月24日

下北沢X新聞(2346)〜猫と鉄道と文士町〜

CCI20130624_0000
(一)
 文士町は猫的であるのか?。

 鉄道交差を発端とした文士町には猫を題材とした勝れた文学がある。言うまでもなく一つは小説『猫町』(萩原朔太郎)である。『黒猫ジュリエットの話』(森茉莉)もそうだ。そしてもう一つは猫文学随筆の白眉、『六匹の猫と私』である。これはかねてより欲しかった。が、つい最近ネットオークションに売り出されていて、とうとう落札した。

 『六匹の猫と私』の作者は大谷藤子である。現在の北沢タウンホールのちょうど真ん前に住んでいた。
「大谷さんところに店に入りきれない古書を預けていたのですが、猫がおしっこひっかけて困った覚えがあるんですよ」
 前に白樺書院のご主人がそんなことを言っていた。下北沢一番街にある古書店だ。この近くにかつて「住吉園」というお茶屋さんがあった。

 戦後の一時期女流の大谷藤子、壺井栄、網野菊、宇野千代などはこの家の二階の八畳で会合を開いていた。女流が密かに集まっていた。

 くだんの本の「あとがき」には、「この本を書くようにとすすめて下さった網野菊氏」とある。網野は大谷の猫好きを知っていて彼女のエピソードが無類の読み物になると思ったようだ。『六匹の猫』の奥書を見ると、刊行は一九五八年だ。昭和33年のことだ。

 大谷藤子と朔太郎には脈絡を見いだせない。が、藤子と茉莉は濃密な関係がある。『黒猫ジュリエットの話』は、茉莉の代表作の一つ『贅沢貧乏』に収められている。ここに出てくる小谷さくら子は、大谷藤子にほかならない。刈萱梗子(かるかやきやうこ)は萩原葉子のことである。『猫町』陰影に連なるといえば連なる。

 人的脈絡は多少あるにせよ。それは本質的な問題ではない。問題なのは猫的ということが文学風土的に繋がるかということだ。即ち、文士町の固有性、それは猫的文学論の可能性である。

続きを読む

2013年06月22日

下北沢X新聞(2345)〜玉川上水の音と響きと音楽〜

P1040007
(一)
 時代とともに多くのことは消えて行く。玉川上水が生きていた時代には音や響きがあったに違いない。どんな音があったろうか?。

 流れる音についてははっきりとその痕跡を留めている。笹塚駅のそばにある橋の親柱が残っていてそこに「南ドンドン橋」と記されている。ちょうどここは西から流れてきた水路が左カーブしてきてこれがまた右に曲がっていく部分だ。

きむらたかし氏がおくってくれた渋谷区の資料には、「南ドンドン橋」についてはつぎのようにある。

 笹塚の住人、杉本善治郎氏の話によると、「玉川上水は、ここ南笹塚で大きくカーブしていたため、流水が川岸にぶつかりドーン、ドーンと音をたてていた。橋名はその擬声音からつけられた。」という。

 水量の豊かゆえに大きな音をたてた。この資料には写真も載っている。大正のころのそれには橋に佇む子供たちが写っている。素っ裸の子供もいるので泳いでいるのかもしれない。が、上水で泳ぐのは禁止されているはずだ。流れも急だったろう。

 しかし、写真に見えるドンドン橋には深く草が生い茂っている。満々と水を湛えていた上水には見えない。が、考えて気づいた上手に和田堀給水所ができていた。調べると「1901年6月 - 神田上水及び玉川上水(代田橋から四谷までの旧水路)を廃止。」とある。奔流の水は流れないで三田用水分だけが流れていたのだろう。半減した水はもう音を立てなかった。

 このドンドン橋は、他にもあったとの知らせをいただいた。sakurajousuiconfidentialの岡本さんからである。

 どんどん橋については、
人見街道が玉川上水を渡る場所の上手の旧橋がどんどん橋と呼ばれていたと記憶します
但し、このあたりの玉川上水は直線区間なので、どんどんの言われが音にあるかどうかは、不明

出典がいづれか、記録を失ってしまったので、すみません上北沢の鎌倉街道入り口、旭橋付近も水がカーブする場所で、どんどんと音がしていたと、何かに書いてあった記憶があります


 前者は、東京都三鷹市井の頭1丁目7−28付近にあるもののようだ。検索によると子供が川で鳴る音をドンドンと聞いて、それで名をつけたという。

 どんどん橋は、踏むとどんどん音がする木造のそり橋のことを言うようだ。が、玉川上水のそれは水量である。豊かなこれが音をたてた。これを聞きつけた子供が、どんどん橋と言い習わすようになって名がついた。

続きを読む

2013年06月21日

下北沢X新聞(2344)〜玉川上水と原発〜

P1040006
(一)
 玉川上水は、水をこぼさないよう自然地形の背尾根をひたすらに求めて、ここに流した。構造物と地形という点で、恐ろしく面白い。が、感嘆、ばかりもしてはいられない。今、こそ、ここから学ばなくてはいけない。それは何か、自然エネルギーをとことん有効活用している点である。

 水は低きに流れる。が、玉川上水は高きを流れる。地形のもっとも高いところを選びに選んで、水を通す。もっとも感心する点である。地形を最大限活用している点は目が覚めるほどである。

 現今、私たちは地形をとことんないがしろにしている。人間のとんでもない驕りだ。自然エネルギーを徹底的に活用利用している玉川上水、これに学ばなければならない時が来ているように思う。

 何寝ぼけたことを言うというむきもあろう。
 が、この日本こそ自然天然のエネルギーに満ちあふれている国はない。おかしな話だが、日本では畝に種を蒔く、が、砂漠地帯では溝に種を蒔く。このこと一つをとっても大きな違いがある。私たちの国が、水資源に、天然資源に非常に恵まれていることを知らないでいる。

 私は、声を荒げては言わない。静かに訴えたい。
 光と水と緑に溢れた国であることを再認識しようと。 太陽光、風、潮力、水力、地熱など自然エネルギーあふれるほどにある。これを活用しない手はない。一番、私が悲しく思うのは、この自然エネルギーを総力をあげて開発しようとしないで、原発を漫然(ここが最も肝腎な点である。)と再稼働しようとしていることだ。

 今朝の新聞は、「自然エネ 立ち往生」と報じている。「送電網に限界 売れない」、太陽光エネルギーを作って売ろうとしても自然エネは不安定だから電力会社が買わない。その背景には、「今は停まっている泊原発3基(北海道泊村)がすべて再稼働することを見込んでいることも大きい」(『朝日』)と言う。どうせ原発が動くんだから自然エネは要らない。前政権下で新エネに導入で湧いたこの産業も急速にしぼんでいるという。

 「現政権は原発輸出に走り出す」とも記している。より強固に原発推進をしようとしている。自国内原発、福島第一原発の処理や収束もみえないのに、この原発を海外に輸出しようとしていることは理解できない。相手の貧乏につけこんで製品を売りつける。あくどい商法のように見える。核燃のゴミ処理システムはすっかり破綻してお先真っ暗なのにである。続きを読む

2013年06月19日

下北沢X新聞(2343)〜地形学入門本番編3〜

P1040004
(一)
 下北沢地形学入門、いつから始めたのだろう?。
 この街歩き、旅物語の消長というのはある。ところが、これはずっと続いている。何度巡っても面白いからだ。今回も終わった後、来年の話をした。いつもは代田橋駅集合だ。
「明大前で新宿行きの各停を待っていたら十数分待たされてしまった。明大前で降りて歩いても間に合ったのじゃないか?。来年は明大前だね。それと明大前の地形の凹みを玉川上水がどう切り抜けているのか、何かとても気になったんだ」
 これは私の感想だ。

 下北沢地形学入門、これは街並みの形成に関わる問題だ。これが直接的な地点では分からない。遠地点に行って分かってくる。このフィールドワークのポイントだ。

 ポイントは三つある。
 まずは、下北沢での井の頭線と小田急線の交差角度である。これは明大前の地形で決定したのではないか。ここに鉄道を通そうというときに淀橋台の最も薄い部分が選ばれた。重機も発達していない時代、台地を深く切り通すには費用がかかる。工事費がもっとも低廉で済む、明大前が選ばれた。つまりは明大前の交差が、下北沢での小田急と井の頭線の交差角度を決定した。これによって鉄道X交差地点の街並みや文化に大きな影響を与えている。

 つぎにはには、沢の形成だ。下北沢には深い沢が二つある。この両方とも源流部が大原となっている。代田橋の標高は、大体四十五メートルだ。この沢筋を流れる川は、下り下って代沢小の近くで北沢川と合流している。代沢小の標高が約二十五メートルだ。浸食谷の深さが思われる。下流にいけば沢は深くなる。この落差が風景を形成した。典型的な例は、高須光治「下北沢風景」だ。

 最後が巨人伝説だ。これも地形の因果によって生じている。ダイダラボッチの跡とされる部分は地形の凹みだ。この巨人の右足を避けて、道はぐるりを回り込んでいる。この角度が、現在の一番街の道の出来方に大きな影響を与えた。
続きを読む

2013年06月18日

下北沢X新聞(2342)〜地形学入門本番編2〜

P1040005
(一)
 地形は不思議だ。どうしてこの傾きができたのだろう?。背尾根を走る玉川上水はこれを巧みに利用している。特には代田、笹塚、北沢あたりの流路には感嘆してしまう。
「腰をかがめてあちらを見ればぐっと土地が傾いています。が、反対側はよほど注意しないと分かりません」
 場所は大原だ。ここの大原交差点は有名である。ところが玉川上水から見るとこの方向へはぐっと下っている。この窪地を避けるために水路は代田橋を過ぎたところで直角で曲がり南へ向かう。京王線の下をくぐって、こんどはまた東へと進路を変える。

 地形と地名はセットになっていることもたまらなく楽しい。玉川上水は、代田北端の荻窪と大原の境をゆく。

 荻窪=杉並区と中野区の境界付近はが窪地で、それに接続する区域であって、杉並区の方でも俗に荻久保といっている。荻類が多生していたので荻窪という地名ができたのと同じように、荻が多生していたところからつけられた名前だろう。
 『世田谷の地名』(上) 世田谷区教育委員会 


 世田谷代田西北部の流路は窪と原の境をゆく。地形は荻窪方向の北へは急角度で下り、大原方向の南へは微傾斜で下る。玉川上水はこの境界ぎりぎりのところを通っている。地底探検も面白いらしいが、この地形探検もとんでもなく面白い。
「腰をかがめて土地の傾斜を見極める!」

 我々は玉川上水跡の遊歩道を行く。環七とぶつかるがここには地下道がある。小便臭い穴を抜けて行く。そして、しばらく東へ行ったところで立ち止まり、上水の南手の傾斜を確認する。
「ここはなかなか分からないのです。しかし、じっくりと眺めるとわかってきます。この路地は南に向かって走っていますが、背尾根ですね、これが重要です。下北沢の地形を形成している川の源流部です。この路地よりも西に降った雨は、ダイダラボッチ川に流れ、東に降った雨は森厳寺川に流れます。」
 この二つの川が下北沢の風景を作った。このことは文字で伝えるのは難しい。その現場に立っていないと分からないことだ。が、その場所にいてもなかなかイメージは掴めない。地形の微傾斜は微妙だ。
続きを読む

2013年06月16日

下北沢X新聞(2341)〜地形学入門本番編〜

P1040003
(一)
 自然地形をどう生かすかという工夫は大事な知恵だ。何よりも余計なエネルギーが要らない。
「当時は原発などはありませんからね」
 私は敢えてこのことを述べた。エネルギーは天然自然に頼るしかない。上水は武蔵野台地の自然地形を見事に生かして作った。それをつぶさに観察できるところがある。それは笹塚から始まるオメガループである。

 笹塚駅から水路は急に進路を南東に変えて下って、台地の背尾根をたどり、行き着いたところで今度は進路を北東に変更する、地図上には逆さ富士の形が見事に描かれている。自然の背尾根をいかに重要視したかが手に取るように分かるところである。

「夜になって、提灯を点したり、線香を束にして燃したりして、その火を目印に方位、方向をを決めて、水路を決定したんですよ」
 こんな話を前にしたところ、これを聞いた人が驚いていた。いわゆる提灯測量というものである。しかし、これはこれで伝説である。

 羽村から四谷大木戸まで この長さは約四十三キロメートルもあります。これに比べて高さの違いは、たったの九十二メートルぐらいです。計算すると、長さ一〇〇〇メートルごとに、約二十一センチずつ深くしていく工事をすることになります。土地の高さなどを測るのは、夜にちょうちんや束にした線香をもたせ、その灯りをもとにして調べたと言われています。しかし、実際の工事は、地面にでこぼこがあったりするので、もっと正確に測る方法があったようです。
 『玉川上水と分水』新訂増補版 小坂克信 新人物往来社 1995年


 提灯を持って、あっちが高い、こっちが低いというのはお話としては面白い。しかし、掘削する場合にはそんなものでは間に合わないだろう。斜度計などの器機は使ったに違いない。

 線路工手の手練れの親方は、補修作業を見ていてわかる。「おい、田子作よ、お前が立っているところあたりは三ミリ狂っているぞ調べてみい。」すると早速に秋福式軌間測定器を当ててみる、「やっぱり親方のいうとおりです」という返答が返ってきた。

 玉川上水の工事采配人、彼が人夫たちの作業を見ていて、寸分違わないようにチェックしている。「おい、一寸ほどそこは掘りすぎている。傾斜計をあててみい」、そんな工事風景を思い浮かべ、私はこの話をみんなにしてみたことだ。
続きを読む

2013年06月15日

下北沢X新聞(2340)〜地形学入門予習編〜

CCI20130615_0000
(一)
 江戸幕府が260年の長きに亘って持ちこたえられたのは地形の恩恵にあずかったからだ。このことは現在の首都東京の繁栄とも間違いなく結び付いている。

 具体的には武蔵野の地形である。西部から東部にかけて土地が低くなっている。この斜度である。玉川上水はこれを活用して造られている。江戸の水を賄った。というよりも徳川幕府の強権政策を支えたといえる。武蔵野地形が体制を支えた。

 私は、今日の「都市物語を旅する」、(積み重ねというのは恐ろしいものだ。なんと85回目だ。)、これのナビゲーターだ。今回、玉川上水をテーマに据えたところから改めて予習をしている。しかし、都市物語だ、これを話すためには視点を変えたところから入っていく必要がある。

 何を切り口にするか。ダイダラボッチというのも一つの手だろう。

 「紫の一本」にいう「だいた橋」は「たいたほつちか掛けたる橋のよしいひ伝ふ」というのはよく知られた話だ。つまりは、代田橋はダイダラボッチが架けたということである。その伝説を伝えたものだ。

 これに関しては、「そんなバカな説」が有力だ。しかしこの話は面白い。恐らくは玉川上水の開削と結び付いてくるだろう。代田橋は甲州街道に架けられた橋だ。地形の関係でここをどうしても横切らなくてはならない。それでここに架橋した。

甲州街道の代田橋はダイダラボッチが架けた。なぜこういう伝説が生まれたか。ふしぎというものは何かの理由があって生まれるものだ。私は、唖然説を想像する。

「もうびっくらこいたのさ、なんたってね、一晩明けてみたらもう橋が架かっていたんだよ。これは人為の技ではないね、考えられるのはダイダラボッチさんだけだよ。夜中にひょいと現れて、片手で石を掴んでひょひょいのひょいと架けたに違いない」

続きを読む

2013年06月13日

下北沢X新聞(2339)〜文学の場としての駅・踏切3〜

画像06 042下北沢大踏切
(一)
 踏切とは何か、春に踏切ツアーをしたときに話題になった。
「道路を横切っている線路を踏み切っていくところ?」
  うまくは答えられなかった。語源については調べておくことにしていた。

 踏切とは、踏み面切断のことを言う。つまり、電車の車輪が踏んで走っていくところを道路が切断するところだ。

 言葉には主体がある。鉄道会社観点の言葉なのか、歩行者観点の言葉なのかという問題だ。どうやらこれは前者主体の言葉のようだ。

「つねに車輪によってきらきらに磨いているところを、道路がぶった切ってな、そこを通るゴムタイヤが汚していくんだよ。」
 鉄道主体者からすると踏切はじゃまなものになる。

「初手から、俺たちは鉄道を敷いていたんだ。それが後から入ってきた連中が危ないというんだよ。先住者優先権というものがあるんだ、踏切を渡るときは自己責任なんだよ。いまはそんなことはないけど、ふみきりの脇に白い札を立てていたんだ。『ふみきりちゅうい』と。昔はそれで十分だったんだ……」

 電車が行ったあとに遮断機が開いて、そこを通る。今通っていったばかりの車輪がきりきりに踏み面を磨いていて、空さえも映っている。怖い感じがしたものだ。轢かれればたちまち五体は砕かれる。そして銀色は赤く染まってそこからはほのかに水蒸気が立ち昇る。

 そんなふうにならないように待たされる場が踏切だ。

 片岡義男『もののかたちのバラッド』の中の「いまはそれどころではない」に踏切の話が出てくる。

続きを読む

2013年06月12日

下北沢X新聞(2338)〜文学の場としての駅・踏切2〜

P1030922
(一)
 萩原朔太郎『定本青猫』冒頭は、「木口木版に刻(ほ)」った『停車場之図』が描かれている。旧新橋駅である。「屋根の向こうに、遠いパノラマの郷愁が広がつて居る」と旅への詩情が詠まれている。駅舎の屋根の遥か向こうには見知らぬ世界が待っている。

 今日はどうだろうか、今の駅舎にはほとんど旅の風情は感じなくなった。全国どこへ行っても航空母艦型の駅があって、中の作りは似たり寄ったりだ。地域の固有性がなくなってしまった。

 高架化した駅、地下化した駅では、みなエスカレーターが備えつけてある。機械化した駅、改札もそうだ。かつては駅員がパンチで切符を切ってくれた。改札前の地面には切られた紙片が落ちていたことを思い出す。

北原白秋は、「私が東京に着いて一番に鋭く感じたのは新橋停車場の匂でした。」(『新橋』)という。かつては駅には固有のにおいがあった。彼は新橋に、「此処こゝには調和と云ふよりも寧ろ旧都会と新市街との不可思議な対照コントラストがある。」と述べる。

 雰囲気的には、かつての下北沢駅にも同じような空気があった。都会から繋がってはいるがなんとなく乱雑な新市街の雰囲気があった。都鄙のあわいという風情があった。

片岡義男、短編の冒頭「これは自分の理想だった」は、下北沢駅に電車が着いたところから始まる。橋上駅舎に上がるために階段を昇ろうとすると「うしろ姿の美しい女性が、彼のすぐ前を歩いていた」、男の目の持って行きどころは色香だ。この場合、女性が歩いているというのは大事だろう。足音がし、髪がゆれ、臀部も動く、人間としての女が動いて居る。
続きを読む

2013年06月10日

下北沢X新聞(2337)〜文学の場としての駅・踏切〜

P1030921
  場としての駅、場としての踏切があった。彼の頭脳の中には鉄道交点駅がイメージされていたようだ。その書き出しはこうである。

 電車を降りた彼はプラットフォームから階段を上がった。そして改札口へと向かった。うしろ姿の美しい女性が、彼のすぐ前を歩いていた。中年の男性がひとり、彼女のすぐうしろへ、かたわらから割り込んだ。彼女が改札口に入り、続いて中年男性、そのあとを彼が、それぞれ改札を出た。中年の男性は右手の北口へ向かった。うしろ姿の美しい女性は、立ちどまって振り返った。

 この駅がどこであってもいいはずである。が、描き手にはこの駅の構造が既にイメージされている。この部分から読み取れることは、駅舎が橋上構造になっていることだ。改札を突き抜けて真っ直ぐには行けない。改札を出て右手に行けば、北口となり、左手に行けば南口となっているようだ。

 駅構造における女と男の出会いという視点はありうる。彼は階段を上っているときに「うしろ姿の美しい女性」を見つけた。臀部に視線を走らせた。ところが、彼の視界を遮った男がいた。彼との間に割り込んできた中年男がいた。改札口へと向かうが自動改札ではない。定期を見せるか、きっぷを渡すかどちらかだろう。ここを抜けてあの男は幸運なことに北口に向かった。

 この書き出し、片岡義男「これは自分の理想だった」である。この女性は、後ろを振り返り、「おなじ電車だったのね」という。新宿発の下り電車であろう。二人は知り合いだった。

「久しぶりです」
「いつもこの時間なの?」
 ふたりは南口の階段へ向かった。


 男が挨拶すると、女性が訊ねてくる。まんざらでもなさそうだ。この男女、改札を出たところで左に行く、この「南口の階段」はまだある。

「いつもこの時間なの?」
「いまは自由業ですから、時間はまちまちです」
「この下北沢を中心に、よくいろんなところで、偶然に会ったわね」


 どうもこの二人はこの街に住んでいる。いつもふらふらとしているようだ。浮遊族か。
つまり、この小説の書き出しは下北沢駅に始まっていた。

続きを読む

2013年06月09日

下北沢X新聞(2336)〜植生と風景とアカマツ〜

P1030936
(一)
 日々歩かない日はない。が、考えてみるとコースは選んで歩いている。動物は緑を欲するものだ。ゆえに気づいてみると緑の多いところを歩いている。それともう一つ、辿るところは尾根筋か沢筋である。前者は眺めがよい、後者は大概が遊歩道になっていて緑が多い。

 この頃歩きながら考える、原風景はどうだったろうと。ケヤキはよく目にするがこれもだいぶ数が減ってきた。しかし、これも武蔵野固有種ではない。人為的なものだ。

 人間は材としても使用が目的で、屋敷のまわりに苗木を植えました。五〇年以上になればりっぱな柱材になります。ケヤキは木材市場では高値で売れるので、屋敷のまわりで財産が増える勘定になります。これが武蔵野の風景をつくったのです。
『樹木ハカセになろう』 石井誠治 岩波ジュニア選書


 このケヤキの古木がある家は昔からの地主である場合が多い。瓦葺きの母屋を中心に土蔵があって庭にはケヤキがあった。屋根はかつては茅葺きであった。全体の風景は地味なものである。

 この頃、思うのはアカマツ風景である。ついこの間までこれは随所に見られたがどんどん伐り倒されてしまった。大岡昇平は、小田急線下北沢を出たばかりの電車は「狭い谷を越す」と言っている。森厳川が作った沢だ。左岸崖線がずっと南まで続いていてそこには林が続いていた。彼の家は「東北沢側の斜面の松林の中に私の家があった」(「下北沢の思い出」)といっているが、これはアカマツである。

 一帯の樹種はアカマツだった。かなり広くこれは分布していた。この風景がどのようにしてできたかは知りたいところだ。樹木医の石井さんは、「人為的に切り払われたところに先駆的にこれが生えてきてこの林を作るようになった」とだいぶ前だが聞いたことがある。調べると、アカマツは「安定した極相林の中では子孫を残すことができない、典型的な先駆植物である。」と記されている。
続きを読む

2013年06月07日

下北沢X新聞(2335)〜鉄道交点駅慕情4〜

P1030730
(一)
 日々が歴史の謎解きだ。しかし、事実は分からない。それでも分かるだろうと思って考える。鉄道交点を一つの場とした私の、推理の旅はずっと続く。

鉄道がクロスするところには情報が集積する。あっちからもこっちからも人が来て集まり、駅で「あれはああだった、これはこうだった」という話がされる。
 先月二十五日、下北沢駅前で、昭和東南海地震の被害を居合わせた人から聞いた。特別幹部候補生の彼は三方原飛行場にいた。近隣の軍需工場の三角屋根が潰れてあとは瓦礫の山だったという。被害は相当に大きかった。が、箝口令が敷かれこれは外部には漏らされなかった。昭和十九年(1944)12月7日にに起こった地震だ。

 これまた偶然、きむらたかし氏から送ってもらったのが昭和二十年十二月二十三日の陸軍が撮影した鉄道交点を中心とした航空写真がある。今と何が違うのか、それを見て行くのも面白い。根津山の緑は現在の山頂付近にぼざぼざとあるだけで回りはみな畑になっている。食糧増産ということで雑木林を畑にしてしまったようである。

 戦時中開校したばかりの山崎小がはやり麦畑の中に建っている。戦後になってこっそりと板ガラスを盗みに行くには好都合な場所だった。こういうところに戦後にわかに建った学校には、全員でないにせよ、ある種やっかいものも行かされた。疎開特集に頻繁にでてくるとある先生の横暴ぶりは凄まじいものがあった。

 生徒を虐める、酔っ払って寮母を追いかける、権勢を笠に着るなど。それが終戦ともに豹変し進駐軍払い下げの軍服を着て英語を使う。今でもこういう者はいくらでもいる。

戦争中の陸軍地図全体を見てみると、鉄道交点一帯の宅地開発がほとんど終わっていることがわかる。鉄道交差の利便性が、一帯に人を集めたことが分かる。このことが学校開学に繋がっていく。小田急が開通し、帝都線が交差し、順次、宅地が売れてその家の子供が増えて次から次に小学校ができていった。それが今は反対で学校の統廃合がなされようとしている。
続きを読む

2013年06月05日

下北沢X新聞(2334)〜鉄道交点駅慕情3〜

P1030707
(一)
私は、今という時間を生きている。常に興味を持っているのは過去と今とがどう繋がるかという問題だ。それを探す旅だ。

 とくには近代戦争史の痕跡を追っての旅だ。情報は自らが集めたり、また知り合いから来たりもする。これらを何となくぼんやりと眺めていて、ふと「何そうだったの」と新しい発見をすることはしばしばである。

つい最近になって、きむらたかし氏から帝国陸軍撮影の空中写真を送っていただいた。1944年12月23日撮影のものだ。鉄道交点一帯を空中から撮ったものである。

昭和2年の開通以来、地上を走っていた小田急線が地下化した。これまでは地表駅がイメージの起点であり、終点だった。ところが駅舎や構内が壊され、かつてはどうだったかが分からなくなってきている。

 下北沢駅での人の乗り降りが歴史文化と結び付く。ここを記録しておくことは大事なことだ。最近分かったことの一つは、昭和十九年八月十二日夜、代沢国民学校の疎開学童がこの駅を発って行った。記録から北口の改札を入って地下道でホームに出たと分かった。

 この疎開学童は翌年二十年十一月七日に下北沢駅に着いている。大勢の親が彼らを迎えた。疎開学童は下北沢駅下りホームからどのように北口に出たのか。劇的な場面だけにここは知りたいところだ。地下道を通ってきたのか跨線橋を降りてきたのか。

 先の航空写真では駅の構造物がおおよそ確認できる。きむらたかし氏はつぎのように観察結果を下した。

 下北沢駅の線路をまたぐ建築物らしいものが見えます。どうも、鉛筆部隊は出発時は、地下道を潜り帰着時は、橋上駅の通路を渡ったようです。

  とするならば、イメージが湧いてくる。木造の跨線橋を子どもたちの靴が響き渡ってくる。親たちはこの瞬間に胸を締め付けられた。降りてきて一刻も早く顔を見たいと階段下に駆け寄る。

 この後に、狭くなった駅前広場で解散式を行った。何かの歌をうたったのではないか。山崎国民学校の梅ヶ丘駅での解散式では「勝利の日まで」を歌った。「なぜあんな歌を」と誰もが不思議に思った。それで文集には幾つもこのことが載っている。

 代沢の場合真っ当な歌だったのだろう、記録にはない。
続きを読む

2013年06月04日

下北沢X新聞(2333)〜鉄道交点駅慕情2〜

P1030666
先だって25日、戦争経験を聞く会の講師の前村弘さんを迎えるために午後の一時に下北沢駅前に行った。すでに元特別幹部候補生仲間が来ておられた。うち一人の高橋通さんが戦時中に三方原飛行場にいて東南海沖地震に遭ったと話された。当時は極秘情報だった。このことは私が今調べていることに関連することなので昨日確認の電話をした。

「私はね、飛行機の模型を持っています。勤め先の上役が剣に関わっていたので図面があったのですよ。それを元に作った模型ですね…」
 全く知らないことだった。木製で作られた特攻機だ。調べると確かにあった、「剣」、つるぎ、(キ115)だ。前村弘さんが乗る予定だった「さくら弾」の多く部材が木製だったと聴いてびっくりしたものだが、こちらはほとんどが木製だ。

 資材がないから木でもなんでも飛行機を作って敵に突っこむ。負けが込んできたころ本土決戦を口にするようになる。終戦末期の国民義勇戦闘隊は男女問わず戦闘に携わるというものだ。戦略などはというものはない。あれば情緒的なものだ。それは、死ねばもろともという考えである。合理的な考えではなく情緒的に闘う。これはなにも戦時ばかりではない、今も巣くっているものだと思う。

(一)
 下北沢文士町の中心駅は下北沢駅である。文学の感性が降りていった駅と考えると感慨深いものがある。駅が地下化することでこれまでの風景は一切が消失する。幻影の猫町はどんどん記憶から消え去っていく。

 文学とは流離いである。A点からB点に移動し、その感懐を歌にしたり文学に描いたりする。文士町が形成されるときに彼らは、よそからやってきた。横光利一は、友人から「家を建てるなら北沢へんにしたい」と聞いて、当地に検分にやってきた。

北沢といっても広い。が、これはおおよそ見当がつく。森厳寺左岸の台地だろうと思う。事実、横光利一はここに越して来た。特徴的なことは丘上で富士の眺めがよい。近隣は「周囲に欅や杉の森があり近くに人家のない」ところだ。武蔵野のまっただ中で環境も申し分ない。流離いの果ての土地認識だ。

 昭和三年彼が土地検分に来た時に、下北沢で降りたのか、東北沢で降りたのか、分からない。しかし通例は、下北沢を利用していたようだ。森厳寺裏に住んでいた大岡昇平が下北沢から電車に乗った。彼は京大生で一九三〇〜三一の冬休みに帰省していた。このときに「新宿行きの小田急で美しい女性二人を連れた横光さんと同じ車に乗り合わせた」(『下北沢の思い出』)と書いている。昭和五年十二月だ。この時駅は相対式ホームだった。が、どのみち横光利一も大岡昇平も南から来て、乗り場のある北口へは一旦は踏切を渡ったはずだ。

 当時、北口にスレート葺きの駅舎があった。駅前は砂利が敷き詰められている。ここを歩くと砂利が鳴った。昭和十五年十一月頃に、ヒトラーユーゲントの一行は下北沢店員道場を視察するためにここにやってきた。六名は、駅前での歓迎式典を終えて、行進する。ずっく、ざっく、ずっく、ざっくと彼らの長靴が駅前に響いた。

 彼らはここに来る前は池の上の海外植民学校を視察したとの情報がある。池の上駅から帝都線に乗って下北沢で乗り換えた。あのうなぎの寝床乗り換え通路はあったのか?。

 が、木製の跨線橋を降りてきたのはたしかだ。H・ユルゲンスは降りる途中で転げそうになった。「Es ist gefahrlich.」という声が飛んだ。続きを読む

2013年06月02日

下北沢X新聞(2332)〜鉄道交点駅慕情〜

P1030937
(一)
 小田急地下化工事によって地上駅の下北沢駅は解体されつつある。この駅は「下北沢文士町物語」の出発点であり、帰着点である。ここに降り立った人物をどのように想像するか、物語世界を構築する上では重要な個所だ。

 下北沢文士町の開拓者、先がけは、横光利一である。彼はどこで降りてどうやってきたのだろうか。彼の作品『睡蓮』の次の場面は、当地に初めてきたときの様子だ。小田急線開通後の昭和三年のようである。

 もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰好なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下北沢という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北沢といえば前にたしか一度友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたいと洩らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。
 秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇の中に際立って白く見えていた。 (青空文庫より)


この場合、どこに降りたろうというのはある。つまり、東北沢なのか下北沢なのかということだ。例えば、修行時代の水上勉は、北沢二ノ一七三にあった文潮社に通っていたが、このときは「浦和から東北沢へ通った」(『私版 東京図絵』)とある。ここは北沢八幡宮の裏辺りである。横光利一邸に近いところだ。

 東北沢の場合は開通当初から対面式ホームであった。跨線橋がいつ頃できたのかはわからない。が、この間、猫町を歩いたときに東北沢は構内踏切を渡っていたと言っていた。つい数十年前までは跨線橋はなかった。
 対面式の場合はどちらかに本屋駅舎がある。勘で言っているが北口にあったのではないかと思われる。そのあたりは目をつぶって、ともあれ駅からは古道に出てまっすぐ行けば文潮社に着く。

 横光利一も東北沢で降りたのだろうと思うが、下北沢だったかもしれない。開業当初のこの駅はどのようなホームだったのか。
続きを読む

2013年06月01日

下北沢X新聞(2331)〜会報第83号「北沢川文化遺産保存の会」〜

…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第83号 
                2013年6月1日発行(毎月1回発行)

               会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
1、荏原の土地の文化と農耕

 私は荏原という土地の真ん中に住んでいる。目黒区だ。少し行けば世田谷区、大田区だ。品川区も近い。日々一帯を渉猟している。すると台地形状の様子が分かってくる。川を中心としてこの左岸に崖線が連なっている。
 ここに立って西の谷を見おろす。すると思いがけず谷の深みがいい眺めとなっている。しばし足を止めるて見遣る、遥か向こうには富士の嶺が見える。

 先だって、仲間のきむらたかし氏から論考を送っていただいた。このタイトルが素晴らしい。「荏原郡の水利と摘田」というものだ。副題が「谷田地帯における中世水田へのアプローチ」である。表題からして、土地の過去がぐんんと匂ってくるようである。

 摘田とは何か。現今は、苗代で育てた苗を植えるというのが普通である。が、地形の関係から深い田圃があって、ここでは種もみを摘んで直に田圃に播いていた。これを摘田という。論考ではこのことに言及し、こう述べる。

 このような幕府の施策が荏原郡谷田地域に広汎に天水田を残存させ水田生産力の上昇を阻害しつづけた基本的な要因である。またそれは″摘田″ という播種・耕作形態を残存させた要因であったと思われる。

 用水からの分水が可能であったにも関わらずそれを幕府が抑制したことで生産性の低い天水田がずっと残った。それで摘田という方式を残したということである。調べると、稲作にあって焼畑に相応する劣悪な耕作法は直播法であるという。これに摘田は入る。田植えの方法では成熟しがたい悪田の方法だという。
 筆者の高島緑雄氏はまとめに近づいてきたあたりでつぎのようにいう。

 われわれが北沢・鳥山・品川・三田用水という近世的要素を消去して前代の水田農耕の実態を考えるとき、地形=谷田、水利=天水の条件は、原始・古代・中世を通して不変であり、この条件に規定された水田の少からぬ部分が摘田であったろう。
「世田谷では田植えを見たことがなかった。多摩川の河原へ遠足に行ってはじめて田植えを見た」という三田義碁の私への御教示は、なお検討の余地があるにせよ、明治・大正期にいたるまでの摘日の盛行を物語っている。文字どおり「それ以外に方法がない」摘田が、われわれが実証できる限界をこえて広汎に展開していたのではなかろうか。
 

 これを読むと、古代の暮らしや労働が見えてくる。それと世田谷の古老から聞いた話が重なってくる。
「水田と言ったって、せいぜい川の流れに近いところに細長くあるだけで、そこからちょっと上になるとみんな陸稲だ。」
 北沢川水系の話である。水は潤沢ではなかった。どこでもそうであるが荏原にはハケがあった。湧水である。自然地形の高いところに降った雨水が、一段と下がった谷のわれめなどからしみ出してきていた。そういう場所は、とても大事にされた。多くは弁天様をしつらえては農民たちが大事にしてきた。

 世田谷代田は地形的にみるとあるとすれば谷田である。柳下さんに「摘田でしたか」とは聞かなかった。惜しいことをした。多分摘田で、収穫量も多くは無かった。
 この摘田ということがイメージできないところからネット検索をしてみた。すると論文
「谷地田・台端・自然堤防」籠瀬良明=日本大学文理学部教授(地理学)が公開されていた。

 摘田は湛水直播の一種である.ここは排水が困難なためもあるが,そのことよりもむしろ水源がないために排水設備をつくるわけにいかないのである.そのために,崖からの滲出水と自然に溜まった雨水が使用される.すなわち摘田の行われる谷地田は,河川や溜池などからの人工的な灌漑設備を全く持たない天水田である。
 
 全くの自然まかせの農法であったことがわかる。日照りになればたちまちに田は枯れる。収穫量も少なかった。そんな中でかつかつの生活をしていたことが偲ばれる。
 論考「荏原郡の水利と摘田」では、むすびでこのようなことが書かれている。

 支谷の谷田にも本流低地にも、荒田や未耕地が点点と散在するというような景観は、まったく市街地と化し、多くの街が喧喋の巷に変貌した現状からは、とうてい想像することができない。しかしその巷の地下に、古い時代の生産を支えた溜池が埋没している。これは″生産遺構″ともいうべき遺跡である。 

 なるほどなあ、と、これは思い当たる。例えば、世田谷深沢の三島公園には池がある、これこそその溜め池だ。野沢の鶴ヶ久保公園のこれもそうだろう。東工大のひょうたん池はどうなんだろうと次々に遺構が想像される。九品仏裏手のねこじゃらし公園もそうだったのではないか。家の近くの衾町公園も溜め池があって、それこそここの池畔には千年杉があった。
 荏原逍遙は地形を巡る旅だ。いつも通る、呑川柿の木坂支流の芳窪もその跡ではないか、想像がつぎつぎに膨らんでいく。土地の民俗学ほど面白いものはない。

2、戦争経験を語る会〜第六回の終了〜

 2008年から継続的に行っている戦争経験を語る会、聞く会が無事に終わった。三度目の特攻に行こうとして行かれなかったという前村弘さんに講演をして頂いた。あの戦争とは何だったのだろう?。そのことへの深い問題提起がこれによってできたように思う。 と号、すなわち、特攻出行く命令が自分に下った。その順番が自分に巡ってきた。それを避けることはできない。命令に従って行くしかなかった。行くとか行かないという問題ではない。それにどう自分が応えるかということが大事だった。行って戦果を挙げることが大事だった。それを挙げられないことは嫌だったと。
 率直な思いを吐露された。その辺りをどのように今日に生きている我々が理解するかが問題である。それを突きつけられたように思った。
 「あの戦争時代はおかしかったんだ」というふうに簡単に一蹴はできる。が、それだけで済まない問題がここにはある。
 今という時代においてこのことは問い直す必要があると私は思った。
 「戦争経験を聴く会、語る会」は地味な会だ。私はそれでも来年第七回を行うと宣言をした。これを続けて行きたい。話してもよいと言うかたがおられればぜひ連絡をください。
第7回「戦争経験を聴く会、語る会」2014年5月24日 午後1:30から

3、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第85回 6月15日(土)午前13時 代田橋駅改札前
  下北沢地形学入門 淀橋台の用水跡を辿る。外縁の水路を巡って下北沢へ。玉川上水のオメガループから、この分水跡を辿って代沢小学校へ。用水、水路を辿ることによって下北沢周辺の地形がよく観察できる。笹塚「福寿」でラーメンを予定してたが変更した。集合が午後に変更になった。崖構造がよく見られる世田谷カトリック教会のルルドにも行く


・第86回 7月20日(土)午後一時 田園都市線三軒茶屋駅改札前(中央)
恒例「駒沢練兵場を巡る」 
  最後は、つい最近完成した大橋ジャンクションの上の天空庭園で各自買ってきたジュースなりお茶なりを飲む、二転三転して申し訳ございません。集合が三茶になりました。

九月
・特番行事 日時:9月14日(土)
  国分寺崖線古墳をゆく 喜多見駅改札口 13:00 ナビゲーター 天羽大器さん
 〇コース*喜多見駅→野川沿いを歩く→念仏車と庚申塚→筏道→喜多見氷川神社→慶元寺→稲荷塚古墳→第六天塚古墳→須賀神社→荒玉水道道路→次大夫堀公園→砧中学校古墳群→仙川沿いを歩く→カトリック成城教会(今井兼次設計)→成城学園前駅
・第87回 9月21日(土)午後一時 下高井戸駅集合
  下高井戸鉄道T点一帯をめぐる
  夢二旧居、高井戸宿、松原宿など ナビゲーター 岡本克彦さん
  案内者は、昨年、明大前鉄道交点を案内してくださった岡本克行さん。
・第88回 10月19日(土)午後一時 池の上駅改札前集合
  代沢の横光利一を巡る ナビゲーター きむらけん
  横光利一の文学顕彰碑を作りたいということから、世田谷区の地域の絆推進事業に応募したいと考えている。この事業の一環として街歩きを企画した。当初は、北部地域のアートタウンを巡る予定だったが、池の上を中心とした文化を巡り、とくには横光利一を中心としたい。
11月
・特番行事 日時:11月9日(土) 午後一時 日暮里駅北改札口
 谷中墓地(三度目) ナビゲーター原敏彦さん
・第89回 11月16日(土)午後一時 東急線多摩川駅改札前
  国分寺崖線の古墳群を歩く ナビゲーター 木村康伸さん
多摩川駅→浅間神社→亀甲山古墳→宝来山古墳→宇佐神社(八幡塚古墳)→野毛大塚古墳(玉川野毛町公園)→上野毛自然公園 →二子玉川駅(駅周辺の喫茶で歓談)
・第90回 12月21日(土)午後一時 代田橋駅改札前集合
 代田半島を巡る ダイダラボッチ、代田連絡線、朔太郎、三大伝説を巡る旅
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも300円
  参加申し込みについて(必ず参加連絡をお願いします。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記
▲NHKラジオ深夜便で「疎開児童が見た特攻隊」が放送された。この放送内容については『ラジオ深夜便』七月号(6月18日発売)に掲載される。また今夏、市立松本博物館では、『戦争と平和展』が開催される。テーマは「特攻兵が飛び立つとき―松本から知覧へ―」、7月6日(土)〜8月25日(日)51日間(会期中無休)とのこと。昨年の展示よりも五倍広いとのことだ。この夏、また信州に旅立とう!。
▲講演の予告。シニアエージのセミナー、「昭和ヒトケタ世代が語り継ぐ大切なこと」シリーズをテーマとして、セミナーを開催している会だ。この会で『鉛筆部隊と特攻隊』を中心とした講演をすることになった。
7月26日(金)14:30〜16:30 交流会17:00〜19:00。会場は、三田の慶応義塾大教室か田町駅から近い、駐健保会館を予定しているとのことだ。一般の方も参加できるとのことである。次号84号で子細は再度お知らせしたい。
▲「都市物語を歩く会」の時間や日にちや内容が変わっています。さしあたっては、6月15日の下北沢地形学入門の集合時刻が変わりました。午後一時代田橋駅です。また、七月の駒沢練兵場歩きは、集合が三軒茶屋になりました。間違いのないようにしてください。
▲夏の納涼会は、7月27日(土)北沢タウンホールで5時30分から。北沢タウンホールは八月から工事に入る。それで一週間開催を繰り上げた。会員が現在、「さようなら踏切」を映像でまとめている。これの上映会を開催したい。『特攻隊と褶曲山脈−鉛筆部隊の軌跡』(彩流社)の追い込みで苦悶している。が、この日のサイン会が開催できそうだ。
▲当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。