2013年10月
2013年10月31日
下北沢X新聞(2433)〜猫に効くお稲荷さん〜

(一)
先の台風による大雨で下北沢地下駅が冠水した。このことは少なからず乗客に精神的な影響を及ぼしている。昨日会った人は、最寄り駅は下北沢だったがあれ以来、梅が丘までバスで行ってそこから乗るようにしていると聞いた。
小田急地下化区間は、ダイダラボッチ川、森厳寺川の下をくり抜いてトンネルが掘られている。これらの川の逆襲か?などとの冗談も出ているほどだ。
今年はいつもとは違った光景が、荏原随所で見られた。遊歩道の各所に土嚢が今も積まれている。雨による出水で半地下の家が水に浸かるということが多くあった。
当たり前のことだが、地下は水が出れば水に沈む。通常時においても、地下は掘ったとたんに湧水との闘いが始まる。
有名な話は東京駅地下駅と立会川のボラだ。立会川にはJR総武線の地下駅に大量にしみ出してきた水をくみ上げここに流している。その水量は 1 日につき 1600立方メートルという。汚れていた川が地下水で浄化され海で孵化したボラの稚魚が大群で群れるようになった。先だってはこれが大量死しているとも聞いた。
地球温暖化による異常降雨が続いている。都内全域が集中豪雨に襲われた場合、排水が間に合わず、最悪、全電源喪失、地下鉄ウオーターダウンということすらありうるかもしれない。
「地下鉄大江戸線は、深すぎて怖い」
私の知っている人でこの線に乗らない人もいる。
東横線渋谷駅の地下化はなかんずく評判が悪い。何しろ乗り換えが不便だ。今日は、埼京線への乗り換え初めてした。地下化以来初めて行くが、東横線地下駅から埼京線までとんでもない大回りをしてしまった。
「代官山駅で降りて歩いた方が近いよ」
そう教えてくれる人がいた。居住地近辺の人で渋谷に行こうという人がいなくなった。ただただ線で結ぶということだけしか考えないで、人間のことは全く無視している。渋谷駅に行くたびに腹が立つ。
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2013年10月29日
下北沢X新聞(2432)〜戦争と平和と下北沢2〜

(一)
人間とは何か?、まず無があって、有を得て、そしてまた無に還る。人間として事をなしている時は有である。たまたまこの今に生を得て生きている。
誕生以前のことは全く不明である。生を授かったばかりのときも記憶はない。この時私自身は人生の中でもっとも苛酷な道を歩いている。敗戦後二ヶ月経って生まれ、そして満州から引き揚げてきた。零歳の私にまったく記憶はない。
母親はとっくに死んでしまった。生きるのに忙しく引き揚げ時のことについては聞かなかった。三つ違いの姉は辛うじて記憶がある。「無蓋車に乗った」、「ごはんがこうりゃんだった」、「引き上げのときの船が大揺れに揺れた」、これぐらいである。
私は、満州新京から引き揚げてきた天内みどりさんの話を姉にした。
「それは運命だわね、引き上げがどんなに大変だったか。具体的にはわからないけど、生前の母が、そのときのことは書き記せば幾らでもあると言っていたけど、結局何も残さないで死んだのよ。その人ほどではないにしても、苦労は同じだったろうと思うわ。あなたの記憶の代わりをしているものだと思うけん、大事にせんと……」
博多に住んでいる姉は言った。
特攻隊武剋隊、武揚隊は満州新京で編成された。式が終わって、内地に向けて旅立ち、昭和二十年二月、一週間ほどで松本飛行場に着いた。天内みどりさんの場合は、帰国するまで一年以上掛かっている。
苦難の逃避行である。襲ってくる飢え、寒さ、そして病気、暴徒と化した民衆、圧制下の怒りを日本人に向けてくる。全くの四面楚歌だ。ソ連兵は女狩りをしては女を連れ去っていく。
何時のたれ死にするか、病気で死ぬか、あるいは陵辱されるかわからない。天内みどりさんは常に小袋に忍ばせていたものがある。青酸カリだ。いざというときは自決しようと思った。
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2013年10月28日
下北沢X新聞(2431)〜戦争と平和と下北沢〜

(一)
下北沢鉄道交点、このゆがんだ座標軸をターゲットにしてずっとフィールドワークを続けている。もう十年近くになる。テーマは文学だった。が、その底流に潜む大きなものがあることに気づいた。戦争である。
自転車通勤の途中、今はもうない東北沢四号踏切で度々足止めを喰らった。これを発端として探査は始まった。振り返って改めて思う、果てのない旅だった。それは地の旅であり、知の旅であり、人の運命との出会いの旅でもあった。が、一昨日だ、自分の運命との出会いでもあったと知った。恐ろしくなったほどだ。
この出会いをどのように説明したらいいのか?。一つ間違いなく言えるのは、このフィールドワークをしていなければ出会うはずはなかったと。
何に出会ったのか?。それは私の記憶が生じる以前の記憶だ。なるほどおぞましいほどに悲惨だった。その気づきを鮮烈に感じたことだ。
探査の旅は、学びの旅だ。人間は、学ぶことによって成長する。ずっと続けてきたことで深く学んできたことがある。文学については、鉄道交点が縁を作って集まってきた。間違いないことだ。が、ここにおける影響力は三分の一、いやもっと大きいかもしれない、は横光利一だったと気づいてきた。
戦争についてもそうだ。もう十年ほど前になる、森厳寺川のドブ沿い、石川湯のそばで人に話を聞いた。神風が吹くと思っていたと彼は言った。日本は勝つと思っていたということだ。
「そんな馬鹿な」とずっと思っていた。が、この頃、この人の言うことが正しかったと知った。何百人に会って話を聞いてきた結果の学びである。人は、不敗神話を信じていた、信じさせられていた。
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2013年10月26日
下北沢X新聞(2430)〜文士町三大猫文学伝説2〜

(一)
犬的か、猫的かという観点での文学論は興味深い。比較すれば前者は人なつっこく、友好的だ。後者は、警戒性が強く、誰彼と寄ってはいかない。孤高的だ。
下北沢文士町は、その質や性向においては猫的である。分かってみると多くの文学者や芸術家がひっそりと集まって、書いたり、描いたり、彫っていたりした。また交友も同じである。路地奥のアパートに、例えば無頼派がやってきていて文学論を交わしていた。
先だっての街歩きで横光利一に関係する森敦、北沢旧居を訊ねた。曲がりくねった路地の奥に、そことおぼしき地はあった。壇一雄や太宰治が来ていたという。森敦が当地になぜ住んだか、一高に入学したことと雨過山房に近いからであろう。旧居跡は、学生向けアパートがいかにもありましたという感じの路地風情があった。
年来、下北沢文士町の底流を調べている。このことは街の文化と深く関わる問題だけに面白い。様々な要素が複雑に入り組んでいる。
七年来続けている調べである。最近見逃せない思っているのは知である。具体的に言えば学校だ。森敦のように一高が隣りにあったからここに住んだ。世田谷カトリック教会も初めは、航空研の教授の家の二階で発足している。知の集結、そして文化の集散、これは学校と結び付いている。
昨日、家に手紙が舞い込んできた。青森県居住の人だ。本とともに手紙が入っていた。読んでいくうちに、驚き、等々力、山椒の木、木が五十本あっても足りない位の驚きを覚えた。
人一人の運命の軌跡が偶然的に私とクロスした。なんとまあ、私が書いた「鉛筆部隊と特攻隊」に彼女に宛てた手紙が載っていて、それを本で読んで、天地がひっくり返るほどの驚きを覚えたという。彼女に宛てられた手紙だったが、それは届かず、読んでいた本の中に自分宛の手紙があった。
彼女はかつては代沢小の生徒だった。父親が獣医学校の先生になったことから下北沢に住むようになったという。これも知と学との結びつきの一例だ。
しかし、事実は、小説よりも奇なり。昨日は偶然にこの手紙を骨董市で購入して、私に知らせてきてくれた矢花克己さんにこれを知らせた。メールするのももどかしく電話をしたことだ。
「そんなことを言えば、『鉛筆部隊と特攻隊』は全部が偶然から生まれていますからねえ」
彼はいう。そうだったか?。言われればそうだ。
「しかしね、今回のは未着の手紙だったんですよ。それが本に載っていて、初めてそれを彼女は眼にして驚いたんですから…」
「えっ、そうなんですか?」
矢花さんようやっと気づいて驚いてくれた。
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2013年10月25日
下北沢X新聞(2429)〜文士町三大猫文学伝説〜

(一)
黒猫ジュリエットの告白によれば、飼い主は自分に「喋り、又は絶えまなく独り言」を言っていたという。それは世界的統計に基づいて出された「どこかの國の学者」の言葉を痛く信奉したかららしい、「女が長生きするのはお喋りだからという」説だ。
ジュリエットは主人の所業をぶちまけている。「その日その日の出来事、又彼女の心の中にあることは殆ど全部独言で喋りちらす癖を持つてゐる。それは大変なもの」だったと。猫の気持ちなどお構いなしだ。それだけでも迷惑なのに、「主人は我輩を絶えずいぢめつけ」るからたまらない。
(あまりひどい時には短期の家出をしてやることにしてゐる。主人はこれを半家出と称して、心臓がどきどきするほど心配するから気味のいいことこの上なしである)
『贅沢貧乏』 新潮社 一九七四刊
猫の飼い主は森茉莉である。飼い猫から見た主人間批評である。漱石『我が輩は猫である』のパロディであるようだ。手許の『贅沢貧乏』一九七四刊は七刷である。大いに売れたようだ。大文豪の娘がどれほど貧乏生活を送ったか、庶民の覗き見趣味はたっぷりと満たしてくれる。彼女なりのエピソード性があるからよけいに面白い。
あるとき自分が常日頃親しくしている友達に進言したという。
「あなたも寝台場面を書くのよ。例の小説の時、絶対よ」
性愛場面の濡れ場をこってりと書くのよ。その方が売れるに決まっているんだから。これは確かだ。
その友達というのは苅萱梗子である。作品上では苅萱徹太郎の娘となっている。
モデルは萩原朔太郎の娘萩原葉子である。最近知ったことだが、森茉莉は梅が丘の萩原葉子の家に折々に行っていたようだ。やや距離はあるが歩いて行けないことはない。ちょうど淡島倉運荘から世田谷山崎の葉子の家に行くのに都合のいい経堂行きのバスがあった。これに乗っていたように思われる。
しかし、ベットシーンの濃厚な場面、森茉莉は、ギドウとパウロの間のその場面をエロチックには書けた。が、萩原葉子は、彼女に知恵を与えられても戸惑うばかりであったろう。
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2013年10月23日
下北沢X新聞(2428)〜文士町舞台の物語結末〜

(一)
「例えば、彼の文学というものは残っていくものなんでしょうか?」
街歩きのときに文学に深い関心を持っている松山さんが聞いてきた。
「とても難しい問題ですね。どう答えたらいいんでしょう」
横光利一文学が文学として後世に永遠に残っていくかという問題だ。評価軸というものをきちんと持っていないと答えられない。
文明は労力を省こうとする。エスカレーターがそうだ。階段は避けてこれを使う。が、文学は、階段のようなものではないだろうか。一段一段の、例えば節であったり、句点、読点であったり、それを味わいながら読み進めていくものだ。しかし、時間にあたふたと追われている現代人は、「そんな面倒なことやっていれれるか」とばかりにエスカレーターに乗ってしまう。
誰もが楽して文学を読みたい。それでエスカレーターに乗る。するとその要望に応えてか、当たり障りのないすかすかな、抵抗のない文が書かれる。
「とんでもない数の冊数が売れているベストセラー作家、そんなに素晴らしいことが書いてあるのか?、何度か読んでみたことがあるんだ。しかし、まあそれなりのことは書いてはあるけれども中味はやはりすかすかだね」
読書好きの知人が言っていた。ファーストフードみたいなものだという。横光は食いでが十分にあると。
大体、私は天の邪鬼だ。誰もが行くようなところには行かない。ディズニーランドも行ったことがない。かつて教師をしていたときに遠足で行こうとの話になったが、自分で行きたくないのでハイキングにしてしまったことがる。誰もが読むものはほとんど読まない。しかし、古くなったものは読む。
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2013年10月22日
下北沢X新聞(2427)〜聴き耳を立てたくなる文学碑2〜

(一)
文学と音というのは響き合うものだ。武蔵野の丘上に居を構えた作家は音に敏感だった。彼は俳句を嗜んだ。五、七、五は音である。響き具合、繋がり具合に腐心した。散歩中にも句作に耽っていた。
手の平の茶の花捨てて行きにけり
昭和三年十一月に土地検分に来たときに、「北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇の中に際立って白く見えていた」と『睡蓮』には記している。とすれば期日は、昭和二年の秋ということになる。小田原急行鉄道の開通はこの四月だ。開通して間もない鉄道の評判が悪くないことから彼は下検分に来たものだろう。
北沢の丘には明治政府の殖産政策に基づいて茶畑ができた。旧家阿川家のものだ。その名残が付近一帯に残っていたものだろう。自家用にと残していたものであろう。
先の句は、散歩途中にふと目についた茶の花を詠んだ。戯れ心を起こしてそれを手折った。しばらく行くうちにその可憐な花をうち捨て、私は散歩を続けたことだ。「けり」には軽い悔やみがあるのか?。
横光利一は茶の花に目を留めた。この北沢の丘の下には加藤楸邨が一時期住んでいた。彼も一帯の自然に触発されている。虎落笛、もがりぶえを聞いて、旅心を誘われた。代田七人衆の一つ柳下家の大欅に吹きつける北風の音を聞いていた。これがきっかけとなって隠岐にへの旅に出る。
加藤楸邨の場合の住まいは坂下だった。横光利一の場合は丘上だ。一帯にはよけいに虎落笛が響き渡っていたろう。虎落笛 石踏み渡る 下駄の音、そんなシーンもあったかもしれない。
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2013年10月20日
下北沢X新聞(2426)〜聴き耳を立てたくなる文学碑〜

(一)
北沢の丘を巡る文学の旅、距離は短いが想像の旅は遥かであった。
昨日実施した街歩きである。「北沢の丘を巡る文学散歩」である。横光利一、「雨過山房」の近辺を丹念に辿るという歩きである。
地形環境と文学とが主題でこれを観察しながらゆく。北沢の丘は屈曲、起伏に富んでいることを改めて知った。すっかり市街化されてはいる。それでも三つのことを歩くことで実感できた。
一つ目は、眺めが重要な要素であったことだ。
「池の上駅の標高は四十三メートルくらいです。その続きに雨過山房はありました。遠景では富士がよく望めました。近景では北沢川に転げ落ちる谷の深みが景色として見られたのですね、緑のサラダボールです」
一つ目は、地形の屈曲だ。地名が示す「沢」である。丘があって川がある、沢筋ぞいの地形は面白い。坂を踏みしめて上ったり下ったりする。もっとも近く行き交う代沢小の児童は作家を怖がっていたようだ。いつも独り言をつぶやきながら歩いていたからだ。
何をしていたか、それは想像がつく、「ああ、あそこの一文字は浮いている」、「書き出しの表現のしまりがない」などと、やはり自分が書いている小説のことが中心だ。
大岡昇平は、「家の横のゆるい坂を上りきったあたりを、右に入ったところが横光さんの家だった」と記している。今回はここを歩いた。坂を上っていくというところがいい。踏みしめながら人は考える、文学の根本は思念だ。この地形が反対、例えば、「ゆるい坂を下りきった」ではお話にならない。上り坂はお話になる。
三つ目は、緑環境の快適さがあったことだ。市街地化が進んで、付近にあった赤松、欅はだいぶ伐られてしまった。それでも雨過山房あたりはまだ緑があった。彼が家を抜け出て北沢川方向に散歩にいったときに通ったであろう道に生け垣が昔のままで残っていた。
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2013年10月19日
下北沢X新聞(2425)〜世田谷に眠る近代戦争史の真実〜

(一)
人類とか、人間は、宇宙の歴史という観点からみれば全く取るに足りないものに見えてくる。
今年二月ロシアで隕石が落下した。その大きな塊がチェバルクリ湖から引き揚げられたというニュース映像が流れた。直径一メートルほどで重さは570キロもあった。その表面がてかてかになっていて溶けた跡が生々しい。この落下した隕石については先に調べが進められていて、「1億数千万年前にほかの天体と衝突して溶けたとみられる痕跡」が認められるという。これを知って日々一日の時間をあくせくとしていることの愚かさを痛切に思ったことだ。
しかし、今ある現実は何ら変わることはない。ところが、昨日のことだった。地域風景資産のことでよく訪ねていた桜新町の会社の側を通ったとき、異様に思ったことがある。ほとんどの看板が取り払われて、一体これはどういう建物なのかと思われるほどに無装飾化されていた。電力会社だ。この光景を見て、福島原発事故の甚大さ、大きさを改めて知ったことだ。日向から日陰に一気に転落したものを見るようであった。
この他、荏原逍遙で気づいていることは、電気関係に関連した社宅の警戒が一層に強まっていることだ。赤字で監視下カメラ稼働中とか、関係者以外立ち入り禁止とかの看板が目につくようになった。
それでも一日一日はめくられていく。私は相変わらず、近代戦争史の一ページを開こうとやはりあくせくしている。
私が追っている話の取材源が主には世田谷にある。これは特異な点だと言える。気づかない歴史真実だ。
一昨日だ。手許にある「集団疎開宿泊所一覧」を改めてチェックしてみた。すると意外なことが分かった。自分で気づかなかったことである。この表に載っている世田谷のほとんどの学校は聞き書きを行っていた。ところが、一校だけが抜けていたのだ。これ以外の学校では航空兵との接触が普通にあった。とすればそこでも当然行われていたと考えてよいだろう。
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2013年10月17日
下北沢X新聞(2424)〜北沢の丘の都市伝説〜

(一)
北沢の丘の空襲についての都市伝説である。
横光利一作品『夜の靴』には、空襲場面が出てくる。回想シーンである。「厳寒の空襲のあったある夜」と書かれている。これは作家の息子さん、佑典さんから伺って東京空襲の夜のことだったと知った。すなわち三月十日である。北沢の丘でのことだ。
作品には、「照明弾の落ちて来る耀かがやきで、ぱッと部屋の明るくなる」、「続いて落ちて来る照明弾の音響」、「私は照明弾の明るさで、最後の妻の顔をひと眼見て置こうと思い、次ぎの爆発するのを待って起き上った」などと記述がある。
東京空襲、このときのB29の東京への侵入経路は、大きく言えば二つあった。富士を巡ってくるコースと東京湾から直接入ってくるコースとである。北沢上空も富士から侵入機が通って行った。焼夷弾攻撃の前に、照明弾を落とす、それが航路の下にあった北沢地域に落ちたものだろう。
陸軍記念日。午前零時より二時間四十分の間に、B29百三十機来襲、非常に低い高度(千メートルから三千メートル)で分散して、あらゆる角度から進入してきて、民家ばかりを徹底的に爆撃した。大火災が起こった。私はひとりで小田急の土手に立って東の空を見ていたが、猛烈な西風に、体が前へ吸い込まれそうだった。この風が変だった。
『日本空襲記』 一色次郎 文和書房
北沢の隣り代田に住んでいた一色次郎が記した記録だ。「小田急の土手」は旧下北沢2号と3号踏切との間にある築堤だ。低空で侵入してきた機からはつぎつぎに照明弾が投下される。
「自分の家の屋根瓦が照明弾の光に当たって光るものだから、家を狙って爆弾を落としてくるんじゃないかと思って怖かったですね」
下北沢野屋敷の今井兼介さんが言っていた。今井兼次設計の家だ。艶のある瓦を使っていたようだ。
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2013年10月16日
下北沢X新聞(2423)〜「夜の靴」は言葉の万華鏡3〜

(一)
he was a novelst of extraordinary ability who lived,wrote and died in the lush green,Kitazaw hills "Melacholy(Ryoshuu)"
碑文英訳の一節である。日本文は、私が書いた、これを訳して下さったのがアマディオ・アルボレーダさんだ。横光利一作品を英訳したこともあるという方である。
碑文デザインに腐心しておられる道吉剛さん、和字の字体にこだわっている。それは英文についてもそうである。
「ガラモンにしました」
その字体例をファックスで送ってこられた。こちらは、ガラモンとは何か、ちんぷんかんぷん、ガラモンである。ネットのウィキで調べてみた。
ギャラモン(Garamond、ガラモン、ガラモンドとも)は、ラテン文字のセリフ体の書体である。いわゆるオールド・スタイル・セリフの代表格である。16世紀にフランス人の活字鋳造業者、クロード・ギャラモン (Claude Garamond) が製造した活字がオールド・ローマンの代名詞のように言われたため、各地の活字鋳造所で “Garamond” と名づけられた活字が製作された。
プロの装幀家は我ら常人とは全く違う。見た目の印象がどうかということに細心の注意を払っておられる。
こちらは読めればよいという感覚だ。先年に出した、紀要創刊号「代田の丘の鉄塔文学論」はそうである。表書きなども「こんなものでいい」と出して、印刷してもらった。
今回の、「北沢の丘の石畳文学論」もこちらでやるつもりだった。が、プロには素人がやると味気ないものができると思われたようだ。表紙スタイルも道吉さんが手がけてくださるそうだ。
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2013年10月14日
下北沢X新聞(2422)〜「夜の靴」は言葉の万華鏡2〜

(一)
「碑には英文での紹介をすることにしたのですよ」
顕彰碑のデザインを担当している道吉剛さんの提案である。文言をそぎ落として短くしていたので最初は難色を示した。が、下部の空きに入れるというので同意した。
「どんな言葉を入れるのですか?」
横光祐介さんから聞かれた。
「新感覚という未踏の境地を切り開いた作家というようなことです」
ご自身もアメリカに数年住んでおられたことから興味を持たれた。
下北沢に来る外国人に興味を持っている女性と出会ったとき、「だったら『猫町』散歩がお薦めですよ」と言ったら、「やりましょうよ」と言っていた人がいた。文士町のガイドを外国人向けにする、そんなこともあるかもしれない。
「ジス、イズ、ネコマチ、キャットタウン、ミャアミャア…ヨツツジノポスト、モーストミステリアルスポット…」
「訳をしてくれる人がみつかりました。大学の先生で、その人は横光作品を英文にして紹介したことのある人だということが、話の途中で分かって、ああこれはいいなと思ったのですよ」
昨日、道吉剛さんから電話があった。
「国際的にも知られていますね、デニス・キーンが作品を英訳していますね…」
この人は、オックスフォード大学で横光利一についての博士論文を書き上げている。最近になって知ったことだ。
分かれば分かってくる、雨過山房の石畳をどれほどに多くの知性が渡っていったことか、認識を改めている。
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2013年10月13日
下北沢X新聞(2421)〜「夜の靴」は言葉の万華鏡〜

(一)
焼き鯖には独特の味わいがある。それが文学ではないかと思った。
一昨日、BSテレビで「鯖街道」を放映していた。
「やっぱりなんたって焼き鯖だね」
小浜の魚屋では焼き鯖が売られていた。身をほぐしてそれを頬張るシーンもあった。無性に焼き鯖が食べてみたくなった。昨日はそれで桜新町の「神田屋」に行って鯖を買い、自分で開きにして焼いて食べた。旨い、鯖独特の味が舌に染みた。
現代の道は肉街道だろう。牛や豚の肉を積載したトラックが走っていく。誰もが皆口にしているものを運ぶ道を肉街道と名づける必要もない。が、かつては鯖を待ち焦がれる人がいた。峠を越えて魚が運ばれる道があって人はそれを鯖街道と呼んだ。味が恋しく忘れられない。
文学は文字に籠められた固有の味わいだ。が、今、人は味付けの濃厚さを嫌う。すらすらさらさら読めるものが求められる。需要と供給、噛めば味が出てくるといような文章は敬遠される。それで絹ごし豆腐のようなものになってしまう。
文学は時代とともに変わる。現今、鯖の味的文学は敬遠される。が、改めて、『夜の靴』に触れると、ワンフレーズ、ワンフレーズに土臭い自然風景が浮かんでくる、これにはするめ的な味わいがある。
(二)
下北沢文士町で文学に死んだ人は、この人をおいて他にはいない。そう思った。北沢の丘は、文学実験工房だったのだと思い始めている。
「私はね、『夜の靴』が一番好きです。自分があの中に出てくるからではありません。私に取っては親父の遺書みたいなものです…」
「私が好きなのは、渋谷の帝都線のホームからB29を眺めている場面ですね。翼すれすれのところで高射砲弾が爆発した。近くにいた見知らぬ青年が『あッ、いい高度だな』って批評するところがあるでしょう。あの場面は好きですね。
「ああ、あれは、突然出てくるから……」
横光佑典さんが言われた。
「批評精神が高度の空中で、淡淡と死闘を演じている」という、あの戦争批評はすばらしいと前々から思っていた。続きを読む
2013年10月11日
下北沢X新聞(2420)〜北沢川文化遺産保存の会紀要第2号〜

(一)
土地の固有性と文学の影響とを物語的に論じているのが我らの紀要だ。昨年は、創刊号として「代田丘の鉄塔文学論」を、今年は第二号として「北沢の丘の石畳文学論」を発行する。その原稿がほぼ出来上がった。
紀要は一般的には学術雑誌である。が、我らの場合は純粋な論文ではない。名前からして分かるが、想像的文学論、簡単に言えば物語である。一種独特、小説的な紀要である。
「『旅愁』の中で欧州旅行から帰って、渋谷から車で帰る場面がありますね。あれなんか現実的な場面を想像しますね。淡島通りか、滝坂道を通って、家に帰り着いて、あの固い門を開ける場面がありますね。引き手を開けようとしたら開かずについ力入れて開いたというのは実際的なこととして書いてあると思ったのですよ」
「あの戸はは今はないけどもね、重かったです…」
今日、荏原逍遙の途次、用賀の横光佑典さんに文学碑の原案を持って行った。すると、お手伝いさん、ちょっとそこまで出ていきました。本人に直接話されると喜ぶでしょうと言われた。近くで待っていたら何となく親父さんに似た人だなと思って話しかけたらまさに当人だった。
出会った道端でとうとう一時間以上も話をした。「頭脳構造的にもお父さんに似ておられるように思いました」と私は言った。旅愁帰着場面のことも、ご本人は笑っておられた。
昨年は、「代田の丘の鉄塔文学論」を出した。テーマは萩原朔太郎と鉄塔である。郊外文学論の一つの切り口だったと思っている。今回のものは「北沢の丘の石畳文学論」である。鉄塔も石畳には共通する点がある。
何が共通するか、響きである。鉄塔は風が吹くと鳴る。雨が降るとじぃじりと泣く。石畳もやはり大事なのは響きだ。人が歩けば鳴る。鳴り方の具合に意味がある。
これら石畳みにせよ。鉄塔にせよ、当時の環境は大事だ。前者は、昭和三年から、後者は、昭和八年からである。今はほとんど樹木はなくなったが、当時は武蔵野のまっただ中だった。横光利一は、「初め移つたころには左右の隣が森で、夜など女子供はは一人では通れたものではなかった。」(『日記』横光利一全集第十二巻)と述べている。深閑とした中に音が響いていた。
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2013年10月10日
下北沢X新聞(2419)〜荏原都市の衰亡と興隆〜

(一)
荏原都市逍遙は地域地域の街を巡る旅だ。シムシティというゲームがある。人が集まるような仕掛けを施さないとたちまちに荒廃して黒くなる。さながらそのゲームの結果を見ているような思いに駆られることがある。近隣でいえば深沢エーダン商店街だ。あれよあれよというまにシャッター街になった。がらんとした通りのカラー舗装が侘びしい。
柿の木坂切り通しで会った老嬢が言った。「都立大学も死んじゃったね、学芸大学はまだましだけど…」
商店街の凋落を言っている。彼女は駅前マーケットで肉屋をしていた。都立大学駅近辺が賑わっていた時代を知っている。高架駅下の都立フードセンターにはこまこまとした店がずらりと並んでいて、何でも買えた。今はただの穴蔵だ。工事をほどこして改装しているようだが。
都立大商店街の一つ、八雲通り商店街も。すっかり寂れた。数軒のレストランだけは流行っているようだが、もう幾らも店はない。昔を思えばその凋落は大きい。一つには大学が移転してしまったことが大きい。跡地にはパーシモンホールができた。地元の人はあれで持っているとはいうが大きなイベントはあまりない。ローカルな文化会館だ。
都立大の南には目黒線大岡山駅がある。東京工業大学がある。若い学生がいる街は活気がある。この商店街も賑やかだ。
都立大学駅近辺人がいないわけではない。マンションは増えている。駅前はそれなりに人出はある。しかし、駅前通りは狭い。とくに歩道に余裕がない。人はせかせかと歩いている。都立大学が死んだには理由がある。人がそぞろ歩きできる空間がないからだ。あるのは南北を貫く道路だ。人間が憩うには、のんびり歩ける道が必要だ。
学芸大学がまだいいと言うのはプロムナードがあるからだ。が、都立大学は南北に連なる道路があっるだけでせわしい。歩道すらも狭い。ここは人が通過するだけの街だ。
「三軒茶屋もね、昔はすごい人出があったけどね」
タクシーの運転手が言っていた。そういえば最近会った人が、「あの高速道路の威圧感が禍している」と言っていた。街中を貫いている橋脚は確かにうっとうしい。続きを読む
2013年10月08日
下北沢X新聞(2418)〜やっぱり戦争への道は歩くまい〜

荏原逍遙は移動式、戦争経験を聴く会だ。古老と会えばこれがたちまちに道端で始まる。仕事が詰まっているのに、つい「戦争のこと覚えています?」と聞いてしまう。昨日も今日も……。
(一)
「えっ、電車の音を聴き分けるんですか?」
話を聞いてびっくりした。飼い犬が電車の種別を聴き分けると。
「そうすると、ああこれは横浜地下鉄とか、ああこれは東武線電車とか?」
「そんなのは分からないですよ、でもね、急行か各停は分かるんですよ。急行だと吠えるからね……」
「なるほどね……」
昨日いつもの荏原逍遙で一人のお婆さんに会った。東横線柿の木坂切り通しでだ。彼女はススキの穂を手にしていた。土手に生えていたものらしい。この側に住んでいると言う。
ここはもう西に百メートルほども行けば都立大学駅となる。各停は上り下りともスピードを落としている。が、急行は直線区間で最大速度で突っ走っていく。切り通しでもあるゆえ音が大きく響く。
「地下鉄との直通運転が始まって本数が増えたんですよ。音がうるさいしね、電車が通る度に家が揺れるのですよ。古い家だからいつか倒れるんじゃないかと心配だよ」
「戦争は覚えていますか?」
「ああ、覚えている。中島飛行機に勤めに出ていたから…」
その時旧姓滝沢で名はゆうと言った。御年八十五歳だ。
「えっ、そうなんですか。どこの?」
「茨城県の伊讃美というところ、何とか工場とか言わないでみんな五〇七工場と呼んでいたね。飛行機の水平安定版と座席を作っていました」
彼女の口から機械用語が突然出てきてびっくりした。尾翼のことである。
「工場は水戸線川島駅近くにあって自転車で通っていたわね…私はね、事務の方にいたから、それで連絡することがあって、霞ヶ浦の海軍航空隊には何回か行きましたよ…」
「ああ、予科練のね…彼ら格好よかったでしょう?」
「いいえ、何かね、怖いと思いましたよ」
「こわい?」
「大勢いて訓練をしていましたが、なんであんなことやるのかなとその時思ったことは覚えています」
霞ヶ浦は基礎訓練をするところだ。大勢の若い予科練生が体力づくりのトレーニングをしていた。
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2013年10月07日
下北沢X新聞(2417)〜単一思考回路への懐疑、縦軸横軸文化論〜

(一)
縦に短く、横に長いというのは列島の特徴だ。このことから鉄道にせよ、道路にせよ、また通信インフラもこれに沿っている。居住する人間もこれに影響されて東西径路的思考に陥っていないか。単一的思考回路に染まっていないか。そういう問題提起だ。
私の文化探査は面的である。日々の荏原逍遙は放射状の鉄道や道路は敬遠し、むしろ縦に動くことが多い。
活動の拠点は下北沢だ。家からの径路としては一旦渋谷に出る。東に行ってまた西に戻るという場合が普通だった。が、あの渋谷地下化によってとんでもなく不便になっった。改造以来、なるべくここは避ける。
近隣には、渋谷へは行きたくない派が多い。便利になったと宣伝される、が、あんな不便なことはない。便利便利としか言わない。不便不便という声を聞いて、中道的便利さを解決策として見出せば道はある。それが民主主義というものだ。しかし、巨大建造物は、作り直せない。原発も具合が悪いといっても作り直せない。
思うのは単一的思考回路に毒されていないかということだ。列島の交通インフラが私たちの思考を一方化させ、単一思考的な人間を増やしている。縦断的思考はますます希薄化している。
自身の文化探査は縦系列情報に新鮮さを見出す。例を言えば、高圧鉄塔駒沢線である。鉄塔は建っていることは誰もが知っている。しかしこれが縦系列の文化を形成しているとは気づくことはない。見えない電気には誰も注意を払わない。
しかし、この東京内輪線、境界ラインであり、文化ラインである。詩歌ラインであるとも言ってきた。なぜか詩歌がこの線沿いに集まっている。駒沢線54号鉄塔そばの門柱には長く大村能章の表札が掛かっていた。が、これもなくなった。
「鉄塔線の下には家は建たない。しかもここには変電所がある。ここを背後に家を建てれば、少々ピアノの音が響いたとしても苦情は出ない。バンバンならして、歌を創ったんだ。『貴様と俺とは同期のさくらぁ…」
物語的説明を街歩きのときにしたことがある。駒沢線鉄塔は軍歌ライン。
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2013年10月05日
下北沢X新聞(2416)〜民主主義の衰退と荒廃〜

「戦争は人間を狂わせますね」
望月さんは昭和十九年十月二十九日の新聞の見出し、「神鷲忠烈。万世に燦たり」・「敵艦を補足し、必死の体当たり」に胸を躍らせたという。関行男率いる神風特攻隊五機が機体もろとも敵艦に体当たりしたときの報道だ。
人生二十五年、そういう積もりだったという。身を捧げて若くして死ぬ。それが時代の空気だったという。
今日、お茶の水で松本中学OB三人に取材をした。その喫茶店で支払いをしようとしたところどこかで見かけた顔に出会った。ついこの間、学生記者として会った人だ。
「アルバイトなんですよ。今、『 特攻隊と(松本)褶曲山脈』を読んでいるところです」
彼女はそう言って笑った。
(一)
時代時代には、それぞれに風が吹く。志田歩脚本「バーレスQ」では、戦中から戦後へ風が方向を変えて吹く様を捉えていた。神風、アメリカの風、共産党の風、というふうに変わって行って人々が右往左往する様を描いている。
比喩的にその色を考えた。神風は黒、アメリカの風は青、共産党の風は赤というふうに例えられる。では、今はなんだろうと考えたとき、何の風かは分からないが色だけはわかる。無色透明の風である。自分達がどんな立場にいるのか、どんな被害を受けているのか、よく分からない。放射能がその例である。
しかし、このところ何か変わった風が吹き始めたとは誰もが感じている。言えば知の荒廃である。人々が絶望感や失望感を抱き始めている。
私は弁護士山根二郎氏のことを近著で触れている。日本人は思想的には近代化していない。縄文と同等で自立はしていない。恣意的に都合のいいほうにことを為している。その彼らに激しい憤りを感じていると彼は言っていた。彼は絶望以外の何もないと言っていた。
長年言論での応酬を通して権力や権威に立ち向かっての感想である。
「きむらさんは俺が日本人を愛しているみたいなことを書いているがあれは間違いだ。」
先だって電話があったときに彼は言っていた。
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2013年10月04日
下北沢X新聞(2415)〜下北沢のよじれた座標〜

(一)
「何を持っているかって?、これはマルハヤクリーニングでもらったハンガーではない、パワースポット探知機なんだよ。これをこうやってあてがうと、パワーが出ているところが分かるんだ、ほら、強烈だぜ、こんなになるんだからな…」
ハンガーに付けた二つの鈴がちんちりと強く鳴る。
「こここそがあれだ。『私立学園前のよじれた四つ角』だ。よじれ、ねじれにはパワーが集まって来る。下北沢、いや、違う、東京でもここは最強のパワースポットだ…」
「バーレスQ」−下北駅前伝説−ここでの役は、北沢川文化遺産保存の会の、きむらけんで出ることになっていた。劇中にぽっかりと空いた、時間空間、そこに出て口上述べる。脚本は志田歩さんだが、この部分のセリフは自前である。何を言おうかと考えたときに「よじれた四つ角」がテーマに浮かんだ。成徳ミモザホールのそばである。
この劇の始まりは踏切警報器が鳴るところから始まっていた。が、小田急地下化によって踏切は当局によって「除却」されてしまった。警報器の鳴らない、電車の音が聞こえない下北沢は去勢されたように感じる。
精神疾患の一つ、下北沢精神症候群も消えたという。「小田急線と井の頭線が交差するひしゃげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわと締めつけてくる」(『街の座標』清水博子)という症状だ。線路が無くなって病状は軽くなったが、心を預ける場がなくなった。苦悩が自分を存在させていることはある。
オオゼキ前の町にいっても電車の音も聞こえない、姿も見えない。ずっとこれまであったものがすっかりなくなって悩みがなくなった。
当局は踏切除去完了と大々的に謳う。が、何か大切なものをなくしたように思う。踏切を渡ることは苦難だった。が、今は遮蔽物もなく自由に行き来できる。あれほどまでに怖かった場が平気の平左で渡れる。ふぬけのようだ。街にメリハリがなくなった。
ひしゃげた座標軸はなくなった。寂しくなったと思っていたらもう一つ残っていた。
鎌倉通りと一番街の交差点である。道にこそ「ひしゃげた四つ角」が残っていた。鉄道近代の交差地点は機械が作り上げたものだ。が、四つ角は人間が創った。
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2013年10月02日
下北沢X新聞(2414)〜67歳初舞台に挑む〜

(一)
「ゆき場のないゆき場所」というのは石垣りんの『崖』に使われたフレーズだ。この言葉は多くの若者に当てはまるのだと思う。社会は、若者から行き場を奪っている。練習とか訓練なしに、初手から何ができるかと問われる。できなければ食っていけもしないし、居る場所すらも与えられない。
居場所とは何か、居られる場所、居てもいい場所である。存在が認められる場所でもある。「劇団ほぼ無職」は、考えてみれば社会風刺的な呼称でもある。世間が居場所を作ってくれないから俺たちが作る。そういう自己主張でもある。
「劇団ほぼ無職」の若いメンバーと一緒に稽古をし、そして、ともに劇に出た。今年二月、下北沢演劇祭での旗揚げ公演のときは関係者の一人ではあるが傍観者だった。が、先の29日の「成徳ミモザホール」の公演ではゲスト出演者として彼らに関係した。
劇団員は成長した。矢が二本あるのではなく、一本しかないことに気づいたことだ。つまり、初演のときには舞台袖に堂々とプロンプター役がいて、セリフを忘れた場合には彼が補ってくれた。
「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、たゞ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」
吉田兼好『徒然草』だ。矢は一本しかないということで場に臨む。生きていく上でも大事なことだ。出演するのは俺であり、俺という一個の存在だ、人に頼らずにセリフを言う。最も基本的なことだ。またここにこそ舞台に出るスリルがある。
舞台の面白さはどこにあるか。与えられたセリフを観客に伝わるように自分で色をつける。そして演じることにある。観客もそこを見にくるものだ。この劇をする上で最も重要な点を彼らは学ぶことができた。セリフは覚えるものだということを。
「僕は文章を書くときに、こう書いたら読み手はどう思うのだろうと思いながら書くんだ。劇も同じではないかな、自分が発したセリフが観客にどう響くかを常に考えて、身振りなり、声の大きさなりを工夫して言うようにする……」
私は森茉莉役の女性に言ったことだ。
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2013年10月01日
下北沢X新聞(2413)〜会報第87号「北沢川文化遺産保存の会」〜
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第87号
2013年10月1日発行(毎月1回発行)
会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、教養講座:世田谷文化学入門
下北沢文士町を探訪し始めてもう何年になるだろうか。
「下北沢文士町文化地図」、この原型は「北沢川文学の小路物語」の表紙の裏に組み込んだ地図だった。これには文士旧居は幾つもなかった。それでも最初にこれができたときは感動したものだった。
これの発行が2006年だ。2005年から活動をし始めてもうもう八年が経過している。現行地図は、第五版である。原初地図を加えると第六版になる。
小田急線の踏切で停められていたことに端を発して、町を探訪しはじめた。代沢二丁目の雨過山房あたりをうろうろしていて不審者に間違えられたことがある。自分は泥棒でもなんでもないと思っている。しかし、カメラを持って、門の中を覗いたり、植え込みの陰から屋敷を見たりしていれば住人は怪しく思うはずだ。
代田二丁目では、ついうっかりピンポン突撃をして「旧居ではないか?」と問うたこともあった。「それがどんな意味を持つのよ」とそのときは逆襲されたことがある。現行、改訂五版の赤丸を見て行くと、一つ一つ思い出が蘇ってくる。
「安岡章太郎さんが住んでおられたところですか、それはあそこの家ですよ」
街歩きの途中にこう教わったこともある。
長い蓄積を通して街の文化を掘り起こしてきた。その過程で副産物、むしろ正産物というべきかもしれない。地域には近代戦争史の歴史が埋まっていた。それを掘り起こし、著作にしたものが『鉛筆部隊と特攻隊』であり、『 特攻隊と(松本)褶曲山脈』である。とくに後者には、我々の活動の軌跡を物語として記録したことだ。
下北沢鉄道交点一帯には、知られざる日本近代の文化史、文学史が埋まっていた。これまでのプロセスを経ての発見である。これらのことをブログで、地図発行で、あるいは書籍で発信してきた。あまり日の当たらない活動であった。が、今夏七月には「おはよう日本」で、下北沢文士町文化地図のことが取り上げられ、首都圏で放映された。これで話題になった。我々が発信してきた文士町が社会に次第に認知されてきていると言える。
これまで個別的には、北沢川文化遺産保存の会の街歩き、あるいは他の団体から請われて、講話をしたり、街歩きをしたりもしてきた。地域活動として行ってきた。
今回機会があって、一般人に向けた教養講座として取り上げられることとなった。つまりはカルチャースクールの講座である。「〇〇〇と歩く山の手文学散歩」だ。これは地域を超えた第三者への発信でもある。世田谷地区は言うまでもないが、この宣伝広報は首都圏に及ぶようである。
年間に分けて、四つのテーマを設け、一月一回の教養講座としての街歩き、文学散歩ををすることになった。これまで行ってきたことは世田谷を中心としたフィールドワークである。よってこの講座は自分自身がフィールドワークしてきた世田谷の文学散歩、そして文化探訪が中心となってくる。区域、地域の文化を発信して、知識や教養を高めていく。そのことが地域文化の見直しに繋がっていくはずだ。
四クールの第一回目は、下北沢を中心にする。その第一回目の講座は、「下北沢文士町入門」とした。一回目は、文士町の巨匠二人、横光利一と萩原朔太郎が中心となる。横光利一が『旅愁』寄贈本を運んだルートを中心に考えている。
第二回目は、「下北沢文士町の物語探訪」だ。駅前、田中英光屋台ひっくり返し事件、駅前市場チョコ買いに来ていた森茉莉。元東北沢6号踏切は鷺澤萠『遮断機』の舞台だ。そこで起こったエピソードの現場を訊ねていくものだ。そうして街を知ってもらう。
第三回目は、「下北沢文士町地形学入門」だ、当地に、文学の書き手が多く集まってきたことは、鉄道開通が大きい。近隣の鉄道交通、また道路インフラ、さらには地形関係の水路、上水であったり、川であったり、そういうことを総合的に見て行って下北沢文士町の成り立ちを考える。とくに大きなヒントとなるのは高須光治『下北沢風景』である。鉄道が開業したばかりの原風景がこれには描かれている。この絵の中に、横光利一、萩原朔太郎、宇野千代などが住んだ。地形との関わりが大きい。長年、調べたり考えたりしてきたことを人々に教養として伝えていくいい機会である。
世田谷区には隠れた近代の文学史、文化史が潜んでいる。それをフィールドワークを通して総合的に学ぶ、来年一月からこれを始める予定だ。地域を教養講座のテーマとするのは新しい試みである。
2、小説『微笑』の石畳み 文学碑建立について
これは横光利一の遺作となった作品だ。これに自宅の石畳みを渡ってくる靴音を聞いて、訪客の携えた用件が分かると記されている。この石畳を多くの著名人が渡った。川端康成、菊池寛、林芙美子、中山義秀、坂口安吾、岸田國士、森敦、大岡昇平などだ。最近になって知ったのは中原中也が亡くなった年に一回だけ訪れていたことだ。
石畳、鉄平石については既に一枚を横光家から頂いている。先だって、「横光利一文学顕彰碑」を建てるに当たってその場所の下見会を行った。一枚だと足音が聞こえないが二枚だと足音が想像できるという話になった。「聴き耳を立てたくなる文学碑」というのも面白い。
ダメ元ということでもう一枚を横光家にお願いしたら願いが通じた。現在使っているものをお孫さん掘って下さったと聞いている。
建碑の準備を進めている。文言は何度も書き直し、一応最終案ができた。北沢川遊歩道に建立するものだ。ポイントは「地域と文学」だ。この土地の誉れとしての小説家という観点で文言はまとめた。デザイン担当の道吉剛さんが文字の配列、それと写真を焼き込むということでその準備を始めておられる。
現在のところ、11月23日2時に除幕式を行うことにしている。参加者には、記念品と紀要とを配る予定だ。
3、「北沢の丘の石畳文学論」
昨年、「代田の丘の61号鉄塔」由来碑を、北沢川沿いに建立した。このときに「北沢川文化遺産保存の会」紀要創刊号を発刊した。題名は「代田の丘の鉄塔文学論」である。今回も、横光利一文学顕彰碑を建てるに当たって、紀要第二号を発行することにした。
タイトルは、「北沢の丘の石畳文学論」だ。北沢の地に響き渡る音を彼は聞き分けていた。ここには何かの秘密があるのではないかと考える。
彼にとって北沢の地はどんなものであったのか。これを調べているが、この地で想を得たことが発端になって場面場面が描かれていたと。つまり北沢という地で得られたことが小説の中に生きていることだ。
石畳文学論も彼の家、雨過山房に響いた音を想像して描いていることだ。多くの文学者が響きを立てて石を渡っていった。近隣は、当時は武蔵野であった。緑も豊かだったと小説家は描いている。一人一人が、こつこつだったり、こたこただったり、用件ごとに足音の響きが違っていた。足音の文学物語だ。
この「北沢川文化遺産保存の会紀要」第二号の執筆はきむらが担当して今、鋭意まとめている最中である。
4、都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
10月
・第88回 10月19日(土)午後一時 池の上駅改札前集合
代沢の横光利一を巡る ナビゲーター きむらけん
横光利一の文学顕彰碑が区の助成金、東邦薬品株式会社の協賛によってできる。この事業の一環として街歩きを企画した。池の上を中心とした文化を巡り、作家の匂いを嗅ぎ取っていく歩きを行いたい。横光利一が朔太郎邸に「旅愁」を届けたルートを歩く。
今回、森敦が居住していたところも訪ねてみたい。
11月
・特番行事 日時:11月9日(土) 午後一時 日暮里駅北改札口
谷中墓地(三度目) ナビゲーター原敏彦さん
・第89回 11月16日(土)午後一時 東急線多摩川駅改札前
国分寺崖線の古墳群を歩く ナビゲーター 木村康伸さん
多摩川駅→浅間神社→亀甲山古墳→宝来山古墳→宇佐神社(八幡塚古墳)→野毛大塚 古墳(玉川野毛町公園)→上野毛自然公園 →等々力渓谷→等々力駅
・第90回 12月21日(土)午後一時 代田橋駅改札前集合
代田半島を巡る ダイダラボッチ、代田連絡線、朔太郎、三大伝説を巡る旅
・第91回 1月18日(土)午後一時 渋谷駅ハチ公前(尻尾を握って)
滝坂道、淡島通りを歩く ナビゲーター 天羽大器さん
古道と近代道沿いのポイントを歩く 道元坂…百軒店、丸山花街、神泉、暗闇坂、川井家旧居、御成道、旧軍施設跡、馬蹄学校跡、陸軍病院跡、鎌倉通り交差部、代田三差路、邪宗門。ぶらぶらと歩いて散策。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも300円
参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498
■ 編集後記
▲毎月の歩く会は、今月で88回目を迎える。この頃は、十人に満たない人数でのんびりと歩いている。九月は、二回実施した。特番は、喜多見古墳群を訪ねるだ。天羽大器さんがナビゲーターとして案内してくれた。人数が少ない分、みんなが勝手なことを言える。参加感が強まる、味わいもある。古代の墳墓を巡るというのも面白い。何しろ言葉が残っていない。想像するしかない。ところが、岡本克行さん案内で赤堤を巡ったときに一基の碑にはやたらと文字が書いてあった。道順まで書いてあるから面白い。「なになに、西国、板東、秩父、百箇所の観音様巡ったっていうのか!」、たっぷりと十数分も楽しめた。我らが歩いて行くところはめぼしいものはない。しかし、街歩きは想像だ。そこが面白い。
▲『鉛筆部隊と特攻隊』の学校情報、代沢小、東大原小、駒繋小、山崎小、二子玉川小、第一師範、さらには今度は地元松本中学のOBまで繋がった。今度話を聞く予定だ。
▲今年も残り三ヶ月となった。例の、面白くて楽しい、「北沢川文化遺産保存の会忘年会」、12月7日(土)北沢タウンホールで5時30分から。予定をしておいて下さい。
▲9月29日(土)下北沢成徳ミモザホールで「バーレスQ−下北沢駅前伝説」が演ぜられた。特別ゲストとして「北沢川文化遺産保存の会のきむらけん」として出演した。演劇デビューである。「他劇団から出演のオファーがあるかも」とか、観劇した人の感想だ。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第87号
2013年10月1日発行(毎月1回発行)
会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、教養講座:世田谷文化学入門
下北沢文士町を探訪し始めてもう何年になるだろうか。
「下北沢文士町文化地図」、この原型は「北沢川文学の小路物語」の表紙の裏に組み込んだ地図だった。これには文士旧居は幾つもなかった。それでも最初にこれができたときは感動したものだった。
これの発行が2006年だ。2005年から活動をし始めてもうもう八年が経過している。現行地図は、第五版である。原初地図を加えると第六版になる。
小田急線の踏切で停められていたことに端を発して、町を探訪しはじめた。代沢二丁目の雨過山房あたりをうろうろしていて不審者に間違えられたことがある。自分は泥棒でもなんでもないと思っている。しかし、カメラを持って、門の中を覗いたり、植え込みの陰から屋敷を見たりしていれば住人は怪しく思うはずだ。
代田二丁目では、ついうっかりピンポン突撃をして「旧居ではないか?」と問うたこともあった。「それがどんな意味を持つのよ」とそのときは逆襲されたことがある。現行、改訂五版の赤丸を見て行くと、一つ一つ思い出が蘇ってくる。
「安岡章太郎さんが住んでおられたところですか、それはあそこの家ですよ」
街歩きの途中にこう教わったこともある。
長い蓄積を通して街の文化を掘り起こしてきた。その過程で副産物、むしろ正産物というべきかもしれない。地域には近代戦争史の歴史が埋まっていた。それを掘り起こし、著作にしたものが『鉛筆部隊と特攻隊』であり、『 特攻隊と(松本)褶曲山脈』である。とくに後者には、我々の活動の軌跡を物語として記録したことだ。
下北沢鉄道交点一帯には、知られざる日本近代の文化史、文学史が埋まっていた。これまでのプロセスを経ての発見である。これらのことをブログで、地図発行で、あるいは書籍で発信してきた。あまり日の当たらない活動であった。が、今夏七月には「おはよう日本」で、下北沢文士町文化地図のことが取り上げられ、首都圏で放映された。これで話題になった。我々が発信してきた文士町が社会に次第に認知されてきていると言える。
これまで個別的には、北沢川文化遺産保存の会の街歩き、あるいは他の団体から請われて、講話をしたり、街歩きをしたりもしてきた。地域活動として行ってきた。
今回機会があって、一般人に向けた教養講座として取り上げられることとなった。つまりはカルチャースクールの講座である。「〇〇〇と歩く山の手文学散歩」だ。これは地域を超えた第三者への発信でもある。世田谷地区は言うまでもないが、この宣伝広報は首都圏に及ぶようである。
年間に分けて、四つのテーマを設け、一月一回の教養講座としての街歩き、文学散歩ををすることになった。これまで行ってきたことは世田谷を中心としたフィールドワークである。よってこの講座は自分自身がフィールドワークしてきた世田谷の文学散歩、そして文化探訪が中心となってくる。区域、地域の文化を発信して、知識や教養を高めていく。そのことが地域文化の見直しに繋がっていくはずだ。
四クールの第一回目は、下北沢を中心にする。その第一回目の講座は、「下北沢文士町入門」とした。一回目は、文士町の巨匠二人、横光利一と萩原朔太郎が中心となる。横光利一が『旅愁』寄贈本を運んだルートを中心に考えている。
第二回目は、「下北沢文士町の物語探訪」だ。駅前、田中英光屋台ひっくり返し事件、駅前市場チョコ買いに来ていた森茉莉。元東北沢6号踏切は鷺澤萠『遮断機』の舞台だ。そこで起こったエピソードの現場を訊ねていくものだ。そうして街を知ってもらう。
第三回目は、「下北沢文士町地形学入門」だ、当地に、文学の書き手が多く集まってきたことは、鉄道開通が大きい。近隣の鉄道交通、また道路インフラ、さらには地形関係の水路、上水であったり、川であったり、そういうことを総合的に見て行って下北沢文士町の成り立ちを考える。とくに大きなヒントとなるのは高須光治『下北沢風景』である。鉄道が開業したばかりの原風景がこれには描かれている。この絵の中に、横光利一、萩原朔太郎、宇野千代などが住んだ。地形との関わりが大きい。長年、調べたり考えたりしてきたことを人々に教養として伝えていくいい機会である。
世田谷区には隠れた近代の文学史、文化史が潜んでいる。それをフィールドワークを通して総合的に学ぶ、来年一月からこれを始める予定だ。地域を教養講座のテーマとするのは新しい試みである。
2、小説『微笑』の石畳み 文学碑建立について
これは横光利一の遺作となった作品だ。これに自宅の石畳みを渡ってくる靴音を聞いて、訪客の携えた用件が分かると記されている。この石畳を多くの著名人が渡った。川端康成、菊池寛、林芙美子、中山義秀、坂口安吾、岸田國士、森敦、大岡昇平などだ。最近になって知ったのは中原中也が亡くなった年に一回だけ訪れていたことだ。
石畳、鉄平石については既に一枚を横光家から頂いている。先だって、「横光利一文学顕彰碑」を建てるに当たってその場所の下見会を行った。一枚だと足音が聞こえないが二枚だと足音が想像できるという話になった。「聴き耳を立てたくなる文学碑」というのも面白い。
ダメ元ということでもう一枚を横光家にお願いしたら願いが通じた。現在使っているものをお孫さん掘って下さったと聞いている。
建碑の準備を進めている。文言は何度も書き直し、一応最終案ができた。北沢川遊歩道に建立するものだ。ポイントは「地域と文学」だ。この土地の誉れとしての小説家という観点で文言はまとめた。デザイン担当の道吉剛さんが文字の配列、それと写真を焼き込むということでその準備を始めておられる。
現在のところ、11月23日2時に除幕式を行うことにしている。参加者には、記念品と紀要とを配る予定だ。
3、「北沢の丘の石畳文学論」
昨年、「代田の丘の61号鉄塔」由来碑を、北沢川沿いに建立した。このときに「北沢川文化遺産保存の会」紀要創刊号を発刊した。題名は「代田の丘の鉄塔文学論」である。今回も、横光利一文学顕彰碑を建てるに当たって、紀要第二号を発行することにした。
タイトルは、「北沢の丘の石畳文学論」だ。北沢の地に響き渡る音を彼は聞き分けていた。ここには何かの秘密があるのではないかと考える。
彼にとって北沢の地はどんなものであったのか。これを調べているが、この地で想を得たことが発端になって場面場面が描かれていたと。つまり北沢という地で得られたことが小説の中に生きていることだ。
石畳文学論も彼の家、雨過山房に響いた音を想像して描いていることだ。多くの文学者が響きを立てて石を渡っていった。近隣は、当時は武蔵野であった。緑も豊かだったと小説家は描いている。一人一人が、こつこつだったり、こたこただったり、用件ごとに足音の響きが違っていた。足音の文学物語だ。
この「北沢川文化遺産保存の会紀要」第二号の執筆はきむらが担当して今、鋭意まとめている最中である。
4、都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
10月
・第88回 10月19日(土)午後一時 池の上駅改札前集合
代沢の横光利一を巡る ナビゲーター きむらけん
横光利一の文学顕彰碑が区の助成金、東邦薬品株式会社の協賛によってできる。この事業の一環として街歩きを企画した。池の上を中心とした文化を巡り、作家の匂いを嗅ぎ取っていく歩きを行いたい。横光利一が朔太郎邸に「旅愁」を届けたルートを歩く。
今回、森敦が居住していたところも訪ねてみたい。
11月
・特番行事 日時:11月9日(土) 午後一時 日暮里駅北改札口
谷中墓地(三度目) ナビゲーター原敏彦さん
・第89回 11月16日(土)午後一時 東急線多摩川駅改札前
国分寺崖線の古墳群を歩く ナビゲーター 木村康伸さん
多摩川駅→浅間神社→亀甲山古墳→宝来山古墳→宇佐神社(八幡塚古墳)→野毛大塚 古墳(玉川野毛町公園)→上野毛自然公園 →等々力渓谷→等々力駅
・第90回 12月21日(土)午後一時 代田橋駅改札前集合
代田半島を巡る ダイダラボッチ、代田連絡線、朔太郎、三大伝説を巡る旅
・第91回 1月18日(土)午後一時 渋谷駅ハチ公前(尻尾を握って)
滝坂道、淡島通りを歩く ナビゲーター 天羽大器さん
古道と近代道沿いのポイントを歩く 道元坂…百軒店、丸山花街、神泉、暗闇坂、川井家旧居、御成道、旧軍施設跡、馬蹄学校跡、陸軍病院跡、鎌倉通り交差部、代田三差路、邪宗門。ぶらぶらと歩いて散策。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも300円
参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498
■ 編集後記
▲毎月の歩く会は、今月で88回目を迎える。この頃は、十人に満たない人数でのんびりと歩いている。九月は、二回実施した。特番は、喜多見古墳群を訪ねるだ。天羽大器さんがナビゲーターとして案内してくれた。人数が少ない分、みんなが勝手なことを言える。参加感が強まる、味わいもある。古代の墳墓を巡るというのも面白い。何しろ言葉が残っていない。想像するしかない。ところが、岡本克行さん案内で赤堤を巡ったときに一基の碑にはやたらと文字が書いてあった。道順まで書いてあるから面白い。「なになに、西国、板東、秩父、百箇所の観音様巡ったっていうのか!」、たっぷりと十数分も楽しめた。我らが歩いて行くところはめぼしいものはない。しかし、街歩きは想像だ。そこが面白い。
▲『鉛筆部隊と特攻隊』の学校情報、代沢小、東大原小、駒繋小、山崎小、二子玉川小、第一師範、さらには今度は地元松本中学のOBまで繋がった。今度話を聞く予定だ。
▲今年も残り三ヶ月となった。例の、面白くて楽しい、「北沢川文化遺産保存の会忘年会」、12月7日(土)北沢タウンホールで5時30分から。予定をしておいて下さい。
▲9月29日(土)下北沢成徳ミモザホールで「バーレスQ−下北沢駅前伝説」が演ぜられた。特別ゲストとして「北沢川文化遺産保存の会のきむらけん」として出演した。演劇デビューである。「他劇団から出演のオファーがあるかも」とか、観劇した人の感想だ。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。



















