2013年12月
2013年12月30日
下北沢X新聞(2473)〜年末最後もやっぱり富士!2〜

(一)
武蔵国荏原郡と都築郡では富士の景観が違う。前者からは首富士、後者からは胸富士が見られる。つまり、富士との間に介在する丹沢山塊が山裾を隠してしまうからだ。この場合、眺める側の思いに違いが出てくるのだろうか?。
一昨日は、旧都築郡の稲荷前古墳の頂きから、昨日は、旧荏原郡の大岡山から富士を眺めた。富士を遥かに望む後者の方が山の眺めとしては美麗だ。思ったことは富士の見え方と人の想像力には何かの差異があるのではないかということだ。それでふと思い出したのは、梶井基次郎の『路上』という作品だ。探してみるとやはりあった。
富士がよく見えたのも立春までであった。午前は雪に被おおわれ陽に輝いた姿が丹沢山の上に見えていた。夕方になって陽がかなたへ傾くと、富士も丹沢山も一様の影絵を、茜あかねの空に写すのであった。
――吾々われわれは「扇を倒さかさにした形」だとか「摺鉢すりばちを伏せたような形」だとかあまり富士の形ばかりを見過ぎている。あの広い裾野を持ち、あの高さを持った富士の容積、高まりが想像でき、その実感が持てるようになったら、どうだろう――そんなことを念じながら日に何度も富士を見たがった、冬の頃の自分の、自然に対して持った情熱の激しさを、今は振り返るような気持であった。
この引例の富士は、首富士ではない、胸富士だ。東京から眺めた富士に違いない。そう考えたときに一つの直感が湧いた。昨日、私は、大岡山小学校脇の歩道橋の上から富士を眺めた。梶井基次郎はこの場所からさほど遠くない場所で見たのではないかと思った。この引用文の頭にはつぎの文章がある。
ある日曜、訪ねて来た友人と市中へ出るのでいつもの阪を登った。
「ここを登りつめた空地ね、あすこから富士がよく見えたんだよ」と自分は言った。
基次郎は、富士の見えるところへ坂を登っていた。
「これは荏原の崖じゃないか?」
そう私は思った。
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2013年12月29日
下北沢X新聞(2472)〜この年末最後もやっぱり富士!〜

王墓は富士を欲して眠る。
古代では口から口へと情報を伝えていた。口承である。そのときの文字は残っていない。ゆえにどのようなことが話されていたかは分からない。しかし、その当時において何が大事にされていたかが一つでも分かれば、人々の考えは類推できる。今年、何度も何度も富士にまつわる逸話に出会って、古代人がどれほどに富士を貴重な風景としていたかを知った。
人工物など一切無い中で、西方に高々と聳える富士は風景の中で抜きん出ていた。日常の生活の中で常に存在していた。折に触れ、古代人は富士を主語として語った。どういう話をしていたのか?。
問題は、「富士」を主語を立てた場合、どんな述語が後に来るかだ。しかし、これは容易に想像がつく。関東一円にある古墳がこれを証明している。これらは富士の眺望を基準に作られていた。常識的に考えると、「富士は美しい」だ。が、これでは表面的だ。見た目の美しさでは済まない。人間存在を超えた永久不変なものへの憧憬がこの根底にはある。
古代の王墓は永久を思って作られている。時間を超えて存在するものへの畏敬の念があったはずだ。自分の命は無くなっても富士はとこしなえに見守ってくれる。「富士は永遠の宝だ」、「富士は万代不易の自然の宝石だ」などと語られていたのだと思う。昨日、前方後円墳の頂上から富士を眺め見て私はそう実感した。
(一)
一枚の切符をプレゼントされて持っていた。「東急サンクスチケット」、東急全線一日乗車券である。有効期限2013年末、それで昨日、28日、これを使っての小さな旅に出た。やっぱり富士に行き会った。なんといっても富士は王墓たちの愛してやまない山だ。
「稲荷前古墳へはこっちでいいのですか?」
私は通り掛かった老夫婦に聞いた。
「そうそう、家がそちらの方だから案内しますよ。どこからいらしたの」
女性の方はおしゃべりだ。
「目黒からです」
「あれまあ、とんでもない遠くですね!」
「いや近いですよ。大井町線に乗って、溝の口で田園都市線に乗り換え、市が尾ですから」
「そうですか?」
彼女は腑に落ちないらしい。
「静かですね?」
「いやあ、こんなもんじゃなかったですよ。だって三十年前ぐらいは、本当に田舎だったんですよ。何にもありはしない。雑木林と畑と小川ですよ……それがね、瞬く間に変わってね、こんなになっちゃったんですよ」
一帯の丘には小ぎれいな一戸建てが建っている。田園都市線は今や都会人のステータスである。
『田園都市線で私は通っています』
アッパーミドル階級の誇りだ。
「だってね、そこらへんほたるはうじゃうじゃいるし、タヌキは出るわ、フクロウは鳴くわ……」
生活を成り立たせにくいところで生活を営んでいる。勘が働いた。この老夫婦、地主ではないか?と。税金がかかるからね、少しずつ売るしかないとの説明が後であったのでこれは当たっていた。
「ああ、昔の武蔵野と一緒だったんですねえ」
武蔵野が開発されて、今度はその外縁部の多摩丘陵に宅地化の波は押し寄せている。近郊郊外鉄道が一気に都心から通勤客を運んでくる。続きを読む
2013年12月27日
下北沢X新聞(2471)〜代田散歩:地形と街並と人間4〜

(一)
ダイダラボッチは単なる奇譚ではない。代田地域固有の伝承である。特記すべきは多くの固有伝承が消えていった中でこれが残ったことの意味は考えるべきだ。柳田国男もこの問題に関連して『自分たちはこれを単なる不思議と驚いてしまはずに、今すこししんみりと考えてみたい」と述べている。
ダイダラボッチが今の箇所になぜにできたのか。地形形状は大きな影響がある。先に、淀橋台から分岐した「代田半島」の縦ラインの字名を記した。荻久保、大原、中原、吹上、砂利場 である。北から順に並べたものだ。北端の荻久保は神田川に転がり落ちる傾斜だ。その南手は玉川上水を戴いている尾根だ。みなみには微傾斜で順次下っている。
この場合、背尾根となる玉川上水は、44、5メートルだ。微傾斜で下って、ダイダラボッチの低いところでは、37,2メートルほどだ。最高地点より、七、八メートル低い。一般的に湧水は関東ローム層の下部と武蔵野礫層の下部から出てくる。このダイダラボッチの場合もそうだろう。大原一帯の浸透水を集める役割を果たしていた。
ちょうどこの箇所は、西の丘から流れてきた宇田川湯を源流とする流れ、それと北から流れてきたダイダラボッチ川が合流する地点である。その箇所に湿地帯ができていた。柳田国男は、ここを訪れ、調査した。
ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であった道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言ってもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研(やげん)になって居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建ってその傍に湧き水の池があった。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。ダイダラボッチとなる。
「ダイダラ坊の足跡」 柳田国男集 筑摩書房
民族学者は北から歩いてきた。堀之内道だろう、そこから左手に見えてきたのがその箇所である。ざっと見積もるとその大きさは、長さ180メートルほどだ。足は爪先あがり、下北沢方向を向いている。そこに大きな窪地が形成されていた。彼はすでに、伝説やいわれは承知している。こここそがダイダラボッチだと。代田とダイダラボッチの地名関連も当然であるという書き方だ。
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2013年12月26日
下北沢X新聞(2470)〜代田散歩:地形と街並と人間3〜

(一)
森茉莉が好きだという人に、私は話した。
「目に見える現実の街並みは干からびていて、あまり面白くありませんね。でも、その場所に行って、彼女というか、森茉莉がそこを通っていたと想像します。その場合、何かの手掛かり、『恋人たちの森』に出てくる『小さな砂利置き場』の在った場所、これは今の北沢八幡神社の前にありました、に実際行ってみて彼女を想像します。するとにわかに森茉莉が現実に歩いているように感じられます…」
昨日、クリスマスの日に会報を事務局の代田「邪宗門」に届けた。すると若いカップルが来ていた。初めての来店だ。彼女の方は森茉莉ファンらしい。神戸からやってきたという。
「昨日もね、森茉莉のことで訪ねて来た人がいたのですよ。ところがこれがね、北海道からの日帰りなんですよ。羽田から直行して、そしてまた羽田にとんぼ返り、その日のうちに札幌に帰っていったんですよ。感激して帰って行きましたよ。三月に、『森茉莉を歩く』あるでしょう、ぜひ参加したいと言っていました」
邪宗門のマスターの話である。
印刷して持っていった会報は、第90号である。トップ記事が、「北沢川文化遺産保存の会」創立十周年である。来年は、十年という節目を迎える。
「十年経つのですか、信じられませんね!。」
発足は2004年12月だ。ブログで下北沢のことを書き始めたのが2004年9月13日である。
言葉をこの土地に絞ったところから一帯のポイントポイントが見えてきた。しゃにむに文化を掘りまくってきた。そのときのツールは自転車だった。機動力を駆使して一帯を走り回った。その途中でこの「邪宗門」に行き着いた。
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2013年12月24日
下北沢X新聞(2469)〜代田散歩:地形と街並と人間2〜

(一)
代田橋は土臭くて面白い。辺境にあるからだろう。淀橋台の地形の屈曲部分に自ずと境界が敷かれたのではないかと思う。あちらは豊玉郡、こちらは荏原郡である。
交通路線においてもここ代田橋には境界があった。それは区間運賃だ。京王線の起点駅は新宿だ。まず新宿から改正橋(現初台)までは一区で運賃は四銭だ。つぎの二区、代田橋までは八銭である。この運賃境界駅は重要だ。
現代人の感覚では理解するのが難しいが運賃の四銭の差は大きい。代田橋以遠は八銭となる。どうしたか皆、交通費を浮かそうと歩いた。駅前の伊東薬局は運賃境であることからここに薬の卸問屋を開いたという。西の方から唐草模様の風呂敷を背負った薬局の小僧さんたちがやってきた。えっさかほいさか歩いて薬を仕入れに来ていた。
京王線二区運賃の末端は、当然のことながら手前の笹塚よりも下宿代が安い。そういえば思い出した。代沢小で代用教員をしていた坂口安吾は、最初学校の近くに下宿していた。ところがそこの娘、大女に惚れられて弱ってしまった。それで学校の主任が営んでいる下宿屋に引っ越してくる。これがやはり代田橋にあった。
昭和初期ぐらいからは一帯には、下宿屋ができた。駅近くの玉川上水沿いに古びた大谷石の門柱が建っている。右の門柱には「代田荘」とあり、左には「御下宿」とある。
地方から出てきた小倉服を着た男は、ここに立って、「頑張らなくてはいかんな」と思った。辛いこともあったが、何とか乗り切った。「御下宿」の思い出だ。
代田橋近辺には物語が眠っている。和田堀浄水場は五十メートル、この高さから水を供給すれば丸ビルへも供給できる。そんなことで当地に作られたと聞く。いつだったかその近辺を歩いていたら、お婆さんがいて、「私丸ビルでタイピストをしていたの」と。
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2013年12月23日
下北沢X新聞(2468)〜代田散歩:地形と街並と人間〜

(一)
二十一日、第九十回目となる街歩きを実施した。「都市物語を歩く」は、世田谷代田の三大伝説を歩くがテーマだった。集合は、明大前でもなく、笹塚でもなく、代田橋駅だ。ここの設定にも意味がある。代田橋には独特の味がある。言えば境界の不思議があるからだろう。村外れのお稲荷さんや地蔵尊がこっそりとある。たまらない。
集合場所には電車で行った。が、何度通っても新渋谷地下駅は、慣れない。東横線から井の頭線まで延々と地下道を歩く。全く面白みがない。ただただ歩くだけだ。かつては風景があった。岡本太郎を見て、ハチ公前広場も見ていけた。が、今はモグラよろしくひたすらに黙々と歩く。外が見られないから前を見る。ミニスカートの女性の足が、わずかななぐさめかとも思う。が、やはり人間は、本能的には景色を求める動物だ。
地下道のつまらなさは、固有性がないことだ。たまたまそこは渋谷であるに過ぎない。
渋谷駅が地下化してもう半年以上経ったろうか。私の知っている範囲では皆、「渋谷が遠くなった」という。不便にもなった、分かり憎くもなった。
「渋谷には行かない、二子玉川へ」、そんな声も聞かれる。二十一日の帰りは三茶経由のバスにした。すると興味を惹く広告があった。
中目黒から東急本店へのバス路線ができたということだ。面白いことに渋谷駅は通るが駅には停まらないという。路線設定の理由は分かる。東横線で本店行くには著しく不便になった。このことから東横線からの客が減ったのだと思う。このデパートに行く客層は、年齢が高めである。モグラ駅になった渋谷駅はよけいに敬遠する。
年末年始でこの路線試験的に運行されるようだ。が、この試みの背景には、渋谷の街の苦悩が滲み出ていないか。言えば、デパートの旗艦店が苦渋するほどに客が減っているのだと思う。
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2013年12月21日
下北沢X新聞(2467)〜ボロ市的文学論2〜

(一)
三好十郎はボロ市へよく行った。赤堤、下高井戸に住んでいたらしいが歩いていったようだ。やはり彼も逍遙者、歩き好きだった。昭和二年(一九五二・九)に書いた『歩くこと』というエッセイがある。
車がとおる。犬が走る。電車・家々・店屋・人びとのいろいろの姿と声ごえ・空地・草・川・それにいろいろのものの匂い……そのころには私はまったく自由で孤独な人間になって歩いているのです。
街中で出会う変化、行き会い、そして人間の声、川の流れなどに接していると次第に自分が解放されていく。散歩の醍醐味だ。そして彼は言う。
私の感覚は外気と運動のために鋭敏になっていて自分が見たり聞いたり、ふれるものの色や匂いや触感を、ひじょうにゆたかに受け入れ、味わっています。同時に、同じ理由のために、私の感受性は、私が家にすわっていたときのような神経質的な過敏さや不均衡を払いおとしていて、ずっと落ちついた健全なものになっているのです。
外の空気が鬱屈した気持ちを和らげてくれる。歩きという運動によって血は体内循環し、淀みに貯まっていた垢が流れによって押し流される。三好十郎が言っていることは常々感じていることだけに共感がある。そしてボロ市へいく。
私はこの手のボロ市を好いている。物を買うことはあまりしないが、そういう所を歩いて行くのが好きなのである。われながら、かしこい人間のすることではないと思いつつ、フラフラにくたびれるまで歩く。
ボロ市というのは、開放的な自由がある。あれこれとボロが売られていることは大きい。私はみんなが行くところには行かないが、これに行くのには抵抗はない。新品ばかりを売っていて、そこに人がわっと集うところには決していかないけれど…。
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2013年12月19日
下北沢X新聞(2466)〜ボロ市的文学論〜

(一)
近代は最速を求めて止まない。恐ろしいほどにめまぐるしく変化してゆく。それは息つく暇もないほどだ。それで上面だけを眺めてゆくしかなくなってきている。言葉とてそうである。文字の行間や字裏を考えようとしなくなっている。勢い言葉は軽くなっていく。文学、そして文学もまたボロ屑と化してきているのではあるまいか?。
世田谷ボロ市、ついこの間開かれた。冷やかし半分、いつも行くだけは行く。目黒八雲の自宅からは、歩いて小一時間ほどだ。
品物や商品を売っている市だが、買おうと思っていくわけではない。見にいくという気持ちの方が強い。「ボロ市の人ごみににおいを嗅ぎにゆく」という風情だ。
この市も、時代、時代で変わってゆく。いつも柴漬けを買っていた店がいつの間にかなくなってしまっていた。
海野十三は若林に住んでいた。ボロ市会場は近い。『海野十三敗戦日記』(中公文庫、2005年刊)に記述がある。昭和二十一年である。
十二月十六日
◯昨日と今日とぼろ市なり。私だけ行かず。諸品高きよし。昨年は蜜柑の山だったが、今年は少き由。暢彦はサーカスを亮嗣さんと見てきたそうだ。入場料一円五十銭。小屋がつぶれて大さわぎをしたという。算術をする犬が一番面白かったと。
戦後のことゆえものが少ない。少しでも安く品物を手に入れようと人が行く。ところが皆いい値段がついている。
敗戦後のボロ市では、卸売り業者が蜜柑を持ち込んだ。それはたちまちに売れてしまった。これをきっかけに、蜜柑はもっと高く売れる市場に流れたのだろうか。
人は、口の満足はそこそこに目を楽しませたようだ。物を買わないでサーカス見物をした。あふれんばかりの混みようでテントがつぶれた。
「さて、うちのわんわんは算数ができます。3足す4は……」
七のついた札を犬がくわえる。すると拍手喝采だ。人々は喜びにも飢えていた。
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2013年12月18日
下北沢X新聞(2465)〜旧陸軍桶川飛行学校取材行3〜

(一)
私たちは言葉を当てにして生きている。が、言葉ほど当てにならないものはない。
「放射能は完全にブロックされています」、オリンピック招致でのプレゼンで日本の首相が言ったことは耳新しい。私たちはそんなふうに承知もしていないのに、全く正反対ことが断言された。
原発再稼働に当たっても日本の原発安全基準は、「世界最高水準の厳しさ」と言われているが、これも甚だ怪しい。ネットで見かけた新聞記事に、「『世界最高』は欺瞞」(「西日本新聞」)との見出しがあったが同感だ。地震の巣窟である弓なり列島ほど地盤が危ういところはない。素人が考えても絵に書いた餅、またぞろ安全神話が創られようとしている。
ついこの間、テレビを見ていて笑ったのは5000万円問題で追及されている都知事の答弁だ。「そんなコンピューターみたいに物事を子細に覚えているわけではない」と言っていた。これは本当のことである。人間の記憶ほど当てにならないものはない。
戦争のことをずっと調べている。体験者にはもう優に千人を超える人に聞いてきた。しかし、資料を幾ら読んでも、人から幾ら聞いても分からないことがある。時代の空気である。そのときの匂いとか、色とか、風などはなかな理解できない。
一番大きい問題は、終戦を境としての時代の亀裂である。戦前は皇民化教育によって一つの価値観で教育されていた。が、敗戦によってそれは崩壊し、瓦解した。
負けたことの意味は大きい。言葉もまた瓦解したからである。陸軍桶川飛行学校跡の兵舎には出撃した兵士の遺墨が飾ってある。勇躍、特攻突撃するに当たっての思いが書かれている。それは勇壮である。が、負けたことによって言葉も歴史という永久凍土の中に埋められてしまった。勝利という夢は、完璧に粉砕された。
最近手に入れた本がある。『いのち輝く』高鍋高等女学校生・戦争経験の記録(鉱脈社)
がある。往時、教員を務めていた女性だ。
「戦死者、殉職者は気の毒だ。でもこの人達の死は決して無駄ではなかった。日本の平和、民主化は、この人達あってこそだ」と多くの人が言います。時にはマスコミの方々でも平気言っています。
でもこの言い方は、あくまでも結果論です。もし日本が敗戦から立ち上がることも出来ず、貧困や飢えで苦しんでいたら、戦死した人のことをどう思うでしょう。
彼女ははっきりとものを言っている。「戦死した方は、軍国日本の犠牲者です。いや犒海寮語咾世辰伸瓩噺世辰討茲い任靴腓Α 」 多くの人が戦死したことで日本の平和が築かれたというのは、私もいつもおかしいと思う。
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2013年12月16日
下北沢X新聞(2464)〜旧陸軍桶川飛行学校取材行2〜

(一)
「そこの荒川の太郎右衛門の橋の上に来ると、真ん中あたりで四、五人の男が大きな日の丸の旗を振っているんですよ。見送りですね」
昭和二十年四月五日、桶川飛行場から九九式高等練習機十二機の特攻機が飛び立った。その偵察員席に同乗しいていたのが柳井政徳さんだ。
彼もその人々に「さようなら」と手を振った。特別な感慨があったという。
「さようなら」は、別れの言葉だ。別離のときに使うもっとも代表的なものだ。
このさようならは、「左様ならば」から来ている。「そのようであるならば…(まあ、ここでお別れしましょうか)」、お別れを明確に言ったものではない、別れを漠然とぼかしているものだ。主体的な意志表示ではない。田中英光は言う、「『さようなら』という日本語の発生し育ち残ってきた処に、日本の民衆の暗い歴史と社会がある。」(『さようなら』)と。彼はさらに手厳しく、これには「ヒュウマニテも感じられぬ。」と断言する。
言おうにも言えなかったという長い歴史を背負っていたということはある。指導者、支配層の強さ、それは圧政の歴史だった。市民、庶民は長い物には巻かれるしかなった。
戦争を采配する者たちは、物言わぬ市民を知り抜いていた。兵隊は機械の単なる部品程度にしか考えていなかった。そういう歴史である。特攻作戦というのも、支配層が日本人の民族性を活用したものと考えてもいい。兵隊にごちゃごちゃいうものはいない、「どうせ長い物には巻かれろ」と思っているんだ、そこを利用すればいいんだぐらいなものだろう。無意識にそういう考えが働いたということはあるだろう。
「さようなら」は、今も毎日使われる。が、この言葉の背景には長い民族の歴史があった。いえばその民族性は、根本的に変わっていない。
例えば、特定秘密保護法は、民意と政治とが大きく乖離したままた強硬採決された。民主主義は反古にされた。これで体質が分かる。一つあれば、二つある。意見を汲み取って社会を動かしていく、民主主義の基本だ。どうもその民意がないがしろにされつつある。否応なしに、また再び戦場に行かされる危険性を未来に感じる。
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2013年12月15日
下北沢X新聞(2463)〜旧陸軍桶川飛行学校取材行〜

(一)
土曜日(14日)、埼玉へフィールドワークに行ってきた。それで実感したことがある、遺構が残っていれば歴史は語れる。失えば語れない。
今、社会で話題になっているのは震災遺構だ。これは嫌な思い出を想起させるから解体するべきだという考え方が強い。そのことから次々にこれらが撤去されつつあると聞く。
常々思うことは、人一人の人間がどれほど長生きするだろうかと?。震災の記憶を貯えた人はいずれは死んでしまう。その言い伝えの力は弱い。
具体物には説得力がある。鉄骨だけのビル、街中に転がる巨船、それらを目にすればあの瞬間が思い起こされる。子どもを亡くした親には耐え難いことである。ない方がよい、が、解体によって祈りの場がなくなると嘆いている人もいた。考え方は人様々だ。
が、所詮、人間は忘れて生きる動物だ。鮮烈な記憶も風化する。が、将来確実に大津波は来て大惨劇が起こる。巨船なり、赤錆びた鉄骨なり、それを残して、鎮魂すると同時にメッセージとする。つまりは、未来の人々への伝えとして震災遺構を残す方が、私はいいと考える。
あの原爆ドームは残したから語れる。私自身、原爆投下直後の広島中心部を想像して物語を書いたことがある。そのときに破壊された産業奨励館の上を遠くのサーチライトが照らしていたと書いた。この場合には、「原爆ドーム」が手掛かりとなった。
昨日、旧陸軍桶川飛行場跡を訪れた。木立の間に、木造の兵舎が見えて来たとき胸がツゥンと鳴るほどの感銘を覚えた。
結果として思ったことは、これが残っていたからこそ戦争が語れたということはある。
「やっぱり戦争ってやっちゃあだめだね」
語り部の一人、柳井政徳さんとは互いに深く一致した。やっぱりどうあっても戦争はしてはいけない。
なぜか、戦争になると、人間は狂うからだ!。続きを読む
2013年12月13日
下北沢X新聞(2462)〜眺望、遠望、富士風景2〜

(一)
「この北沢の路地に森敦が住んでいたときに壇一雄だとか太宰治が来ていたようです。無頼派が一緒に集まった訳ではないですが、それぞれが異なった要件を抱えてここにやってきている。とくにはさすらいの過程でほとんどの無頼派が立ち寄っていたというところが面白いですね」
森敦旧居を訪ねたときに私は同行の二人にそう言った。
この無頼派たちは、富士については一家言を持っている。誰もが武蔵野から山を見ていたからだろう。石川淳は安部公房との対談で富士に触れている。
〇石川 ローカルなものへの反感はないな。むしろ好奇心がある。例えば富士山みたいなものはいやだ。
〇安部 たとえば地方性、一般的な意味じゃなくて、日本的な意味での農本主義的な文化観がありますね。の筋からこの文士町に来ています。田中英光、坂口安吾
〇石川 それがいやなんだ。富士に山に抵抗するというのは、もっと抽象的言えば、日本 的なものがいやだということだな。
「日本の文学」付録43 石川淳の人と文学
富士は古来から讃えられてきた、それは手垢のついた伝統美である、これを人々がよってたかって美しい、美麗だと褒めそやす。そこがまっとう過ぎる。
石川淳は「安吾のゐる風景」でこうもいう。
善とか美とかいふ観念は安吾にとっていらざるさかしらだろう。富士のあたまをぶつ缺いてダムをつくる大手妻、國宝の古寺をたたきつぶして飛行場をつくる小手妻、それが便利なものながらかならず可能なものであり、したがってそういう大小の手妻は安吾の気に入る。
安吾のいる風景 現代日本文学全集90 石川淳、坂口安吾集 講談社 昭和四十二年
権威あるものへのレジスタンス。坂口安吾らが東北沢の「櫻」同人の家で文学論を戦わせていたときに明け方に垳急襲を思いついて、朝駈けした。彼ら若者には、垳は権威だった。憎むべき対象であった。
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2013年12月12日
下北沢X新聞(2461)〜眺望、遠望、富士風景〜

(一)
「文士町のポイントの一つとして東京中央との距離がありますね」
十七日、来年から講座として始まる「下北沢文士町入門」の下見を行った。スタートは池の上駅からだ。
「歩き始めたところから疑問を持つ、何でもいいのです、駅名でも」
「ああ、池の上ですね」
「そうそう上があれば下があると考えると楽しい」
同行人は学園の係担当の二人の女性だった。文学のみならず地形にも興味を持っている。
文学は根本的にはさすらいだ。旅にこそ詩の真髄がある。近間の旅であっても遥かさを感じれば旅だ。私の日々の荏原逍遙も彷徨である。つらつら考えてみるに、そのコースは都心に背を向けている。ふと思い出したのは、柳田国男が書いた『武蔵野の昔』だ。
国木田君は今から二十一年程前、渋谷の停車場から少し西北へ入った処の丘の陰に住んで居て、閑さえあれば東京と反対の方向へばかり散歩して居つた。
都心を背中にし、西を向いて歩く。岩波文庫『武蔵野』の解説には「大体明治三十年頃の東京郊外を中心とした叙景文である」と記される。どのような景色が見えていたか。一人の歌人が描いた文章がある。
そしてこちらの郊外の背景をなすものは遠く西の空に浮んでゐる富士山の姿であることを忘れてはならぬ。何處からでも大抵は見えるこの山ではあるが、ことに此處等の赤松林の下蔭、幾つか連つた丘陵の一つのいたゞきから望み見る姿は、たゞの野原であるのより遙かに趣きが深いのだ。
『東京の郊外を想ふ』と題された若山牧水の文章の一節だ。東京に背を向けて歩くと必ず富士が見える。連綿とつづく丘陵の連なりの向こうに見える。
「この辺り北沢の丘一帯からはかつてはとてもよく富士が遠望できました。都心での仕事はストレスが大きいですから、郊外に来て、富士の見える家で寛ぐ、理想だったでしょうね」
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2013年12月10日
下北沢X新聞(2460)〜「北沢の丘の石畳弁当」2〜

(一)
「北沢の丘の石畳弁当」は、垳利一文学顕彰碑の建立を記念して作った。この石畳は、彼の作品『微笑』に記述されている。言えば、この石は文士町のシンボルでもある。夢を描いて何人もの文学青年がこれを渡っていった、成功した者もいれば失敗に終わった者もいる。ただ単に有名な文士の足音が聞こえたということだけではない。この石には数知れぬほどに物語が潜んでいる。
これまで九年間、地域一帯の文化を掘り起こしてきた。ときに具体物に出会うこともあった。この石はその一つだ。他には偶然に欅の輪切りも手に入った。
「旅思ふ欅を春の露はしり」というのは加藤楸邨の句である。下代田(現代沢)居住時代に詠んだ句である。まさにこれに記録されている欅だ。見あげる樹木が俳人の旅心を誘った。代田七人衆柳下家の大欅だ。
ささいなものだが、残して置けばよいと思うものはそこここにある。前から欲しかったのは「踏切表示板」だ。小田急地表線の踏切にはすべてこれが掲げられていた。例えば、「東北沢6号踏切」などはぜひとも残して置きたかった。鷺澤萌の『遮断機』の主舞台となった踏切だ。
「あれは、廃止前にもらっておこう」
仲間内では言っていたが、いつの間にかこれもなくなってしまった。心にとめておいても時間は経過し、いつのまにか無くなってしまう。
今、気にかかっているものがある。この間そこを通り掛かったらまだ残っていた。かつての通用口の門柱に「七」の字が見えた。「七島学生寮」の表札だ。ここの敷地は分譲地となって今建物が建ちつつある。伊豆七島の東京遊学組を助ける寮だった。
「下北沢交点文化」の一つとして寮の密集があった。これも今ではすっかり忘れ去られつつある。
嘉穂寮などというのもあった。福岡県嘉穂郡の寮だ。産炭地、黒いダイヤが出ているうちはいいが後の発展が見込めない。財産があるうちに人材を育てて置こうと下北沢に作られた。ところが、この寮も今は跡形も残っていない。
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2013年12月09日
下北沢X新聞(2459)〜「北沢の丘の石畳弁当」〜

(一)
「ダイダラボッチ三唱」から我らの会は始まった。12月7日、恒例「北沢川文化遺産保存の会」の忘年会を北沢タウンホールで開催した。
ダイダラボッチ、ダイダラボッチ、ダイ、ダイ、ダイ、ダイ……
訳が分からないけれども面白い。いつも我らは面白がる自由を感じている。解放感だ、面白いからみなが集まってくる。
「会の活動も、この十二月で丸九年になります。発足以来地道な活動を続けてきました。特には、下北沢一帯の隠れた文化、眠っている文化を一つ一つ掘り起こしてきました。ささやかなこの積み重ねが人の役にたちはじめています。今も印象深く残っていることがあります。毎年桜の季節に『下北沢文士町文化地図』を代沢小の安吾文学碑の前で配っています。机や椅子を学校から借りて運ぶのですが、『あんたみたいな人たちがいるからこそ我々は生きていける』と言われたことがあります。地域の歴史をこつこつ集めていることをその警備員さん知っていたのです。ささやかなことだけど大事ですね。一つ一つ記録してきたことが一帯の歴史文化史を刻むものになってきています。」
そういえば、昨日、東京都民教会で鳴瀬速夫さんのクリスマスハーモニカコンサートが開かれた。久し振りに会った元鉛筆部隊の松本明美さんが言う。
「うちの方の老人会は、『下北沢文士町地図』を持って街を歩いているんですよ。この間行った人が、けっこう色んなことが分かったよと言っていました」
「この頃感じていることは、文化史とか、戦争史とか、その支流を確かに発掘しているという手応えを感じています。この会の活動に端を発した戦争史発掘は、ほとんど眠っていた歴史真実であります。その発掘は今も続いていています…」
「小さな小さな発掘の繰り返しが、今となっては大きな意味を持つようになってきています。今年は念願だった垳利一文学顕彰碑を建てることができました。私は、これを比喩的に文学一等三角点だと言っています。」
下北沢文士町の根幹は作家、あるいはクリエーティブな人の位置取りという意味合いがある。国木田独歩は「東京は武蔵野から抹殺せねばならぬ」と言っているが、言い換えれば中央への反骨精神でもある。
我らの文士町の位置は、東京遠望地点、すなわち江戸見坂である。こここそが反骨の居場所である。
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2013年12月07日
下北沢X新聞(2458)〜地形と文学と街3〜

(一)
「トントン豚舎が飛んで行く」
豚だけではない、鶏も牛もである。都市が広がると邪魔だ、臭いということでこれらはどんどん飛ぶように郊外に転舎していった。
人間そのものも動物だ。武蔵野が開発されて家が建て込んでくる。すると郊外に引っ越したくもなる。北沢の丘に住んでいた文学者も当地からの脱出を考えてもいたようだ。
私は外国から帰った直後のこと、何とかしてじかに一度土地というものへの愛情を感じて見たくなり、少し自分で持ってみたいと思ったことがあって、義弟のいる玉川附近を二人で歩き廻ったある日のこと、むかしの神社の跡で八幡山という小高い丘の前へ立った。
垳利一『夜の靴』の一節だ。彼は、1936年(昭和11年)2月20日に神戸を出航し半年間、ヨーロッパへの旅行をしている。これから帰ってきてのことだ。
この八幡山という山は、すっかり建物は建ったが、今もその地形は残っている。場所は用賀である。矢沢川左岸の崖線である。文章はこう続く。
「いいな、ここは。」と私は云った。
私はそこを買いたかった。赤松が沢山生えている傾斜地で、手ごろなここの空地は日をよく浴び草も柔かった。
「いいけれども、この赤松で首吊りがあったのですよ。」と義弟は一本の枝ぶりの良い松をさして云った。
ふと文句なく私は不快になった。
「じゃ、駄目だ。」
八幡山の傾斜地には今も松が残っている。ここからの眺めも抜群だ。遥か向こうには丹沢山塊が見え。その奥には富士が聳え立っている。
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2013年12月06日
下北沢X新聞(2457)〜政権よ、驕るなかれ!〜

(一)
私は天の邪鬼だ。誰もが行くところには行かない。選挙も同じだ。誰もが入れる政党には入れない。いつも思うのは権力は力を持つと必ず驕るという確信があるからだ。今回の「特定秘密保護法」の委員会で強硬採決は、その驕りが端的に現れている。数の力の暴走だ。ブルトーザー、暴走一強与党は民主主義を根底から粉砕し、恣意的にやりたい放題のことをことをし始めている。
今朝の朝日新聞は、「政権内には、成立さえすれば、いずれ国民は忘れるだろう…との読みがある。」と記している。政治家は権謀術数にたけている。
「国民は愚かなんだよ。なんたってすぐに忘れちゃうばかだからな、通せばいいんだよ。」
力を持った政権は、恐ろしいことに国民の声を聞かず、国民を騙し始めている。そしてまた、 このところ怖いと思うのは与党一党支配になって、国家は雪崩を打って右傾化していることだ。
今朝の新聞は、「武器禁輸原則、撤廃へ」を伝えている。原発輸出も根は同じだ。儲かるためには何でもかんでも売る。我らの国家は死の商人になろうとしている。
原発が立地する東海村の村長村上さんが「カネのために魂を売ってはならない」と言っていたことはよく知られている。危険なものを置く代わりに補助金をどんどん注ぎ込む。すると人はその金に溺れてしまう。魂までも忘れてしまう。それを強く諫めたものだ。
原発の安全神話が崩壊した。しかし、このところ跋扈してきているのは「世界最高水準の原発」という言い方だ。これに基づいて原発も輸出されようとしている。
福島の原発事故を契機に、地層や地形のことが改めて見直されている。太平洋プレートよってぐいぐい押されている列島は地震の巣窟で全体が地盤軟弱だ。原発を設置するには最も危ない地域である。減衰に十万年もかかるという高レベル放射性廃棄物を埋められるところはほとんどない。なのに口先三寸、「世界最高水準」と言い出す。第三者に添削されない作文が出回り始めた。新たな虚構が築かれ始めようとしている。
「特定秘密保護法案」も同じだ。「官僚による、官僚のための、官僚の情報隠しの法案」だと民主党海江田氏の批判を新聞は載せている。秘密裏に情報隠しをされたのではたまったものではない。
スピーディによって把握された放射能汚染は国民に知らされなかった。そのため汚染地区に避難した人が大勢いた。国家は情報を隠す。さらにまたこの法案によって情報はベールを被され国民の目の届かないところに隠されてしまう。
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2013年12月04日
下北沢X新聞(2456)〜地形と文学と街2〜

(一)
山あり川あり、沢あり、その土地が弓なりに連なっているのが列島だ。この地形こそが文化の源泉である。春夏秋冬があって、その景観は季節ごとに刻々と変わる。日本列島の物語は、土と空との際にある。その大地と大空との間を描写すると文学が生まれる。
独歩は『武蔵野』で、この土地の特徴を、「大洋のうねりのように高低起伏している。」と形容している。彼は地形の物語をこう綴る。
萱原の一端がしだいに高まって、そのはてが天ぎわをかぎっていて、そこへ爪先あがりに登ってみると、林の絶え間を国境に連なる秩父の諸嶺が黒く横たわッていて、あたかも地平線上を走ってはまた地平線下に没しているようにもみえる。
地形こそがドラマである。人の心の置き場所でもある。しかし、近代文明はこれをことごとく壊し始めている。まったく手加減をしない。そこに人間の驕りがある。
先だって、「深沢・桜新町開発100周年記念のつどい」が桜新町区民集会所開かれた。
「新町住宅地は西端の古道を境目としていてあっちとこっちに傾斜しています。敷地全体は東のり面にあります。歩いていると分かるのですが、東のり面は、空気がしっとりとしているんですよね、だから新町住宅地に住んでいた宮本百合子もそれを描いているように思えます……」
支那や日本の絵にはよく竹が出てくる。絵の習い始めの人さえ描かせられるものだが、一般化しすぎているため却て本当の美しさがわからなかった。今住んでいる新町へ去年の五月見に来た時、彼方あっちこっちにある竹やぶの中を歩き、こうまで美に溢れているものかと驚いた。いつくと猶しみじみとそのさわやかさ、優美さ、特に夏の晴れた青空があいをはきよせたように濃やかな細葉のすき間にたたえられた調子など愛を感じる。朝、白い蚊帳の中に横たわってその戦ぎをながめる、ほとんど音楽が流れているようだ。
『竹』 宮本百合子 〔一九二六年八月〕
昭和元年頃の深沢の風景だ。傾斜面には竹が植えられていた。東のり面に吹きつける南風は、竹の葉を大きく揺らした。
「いや、この間、大雨が降ったとき、西からうちの教会に水が流れ込んできたんですよ」
聖母教会の尼僧が言われる。「深沢八丁目無原罪特別保護区」の所有者だ。ここにはかなり大きな池がある。ハケからは今なお水が湧いている。
雨水が西から流れる、これは一帯が東のり面にあるからだ。
「東のり面がしっとりとしているというのは初めて聞きました。」
フォーラム副代表の稲垣道子さんが言う。
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2013年12月03日
下北沢X新聞(2455)〜地形と文学と街〜

(一)
近代化は、平準化、均質化することである。これによって規格化された街は、日々表情を失っていく。道路が直線的に延びていて、電信柱と白線が続いている。なんとも味気ないものだ。
先日、テレビでベトナム交響楽団を指揮している日本人ことを話題にしていた。本名哲次である。彼はベトナムに住み続けている。なぜベトナムとマイクを向けられたとき。飛行機で着いて夜に街中に入った。そのときに家の中にぼっと点っているオレンジ色の灯りに強い懐かしさを覚えたという。これには共感を覚えるものがあった。ふと思い出したのは石川啄木の短歌である。
雨に濡れし夜汽車の窓に
映りたる
山間の町のともしびの色
街中や山あいに点ったぼんやりとした灯りが人を切なくさせる。一昔前には至る所に寂しい灯火は点っていた。懐かしい風景は今はどんどん壊され消えていくばかりだ。
外国から世界遺産を見に来た人が、なぜ電線で富士景観を遮るのかと指摘したという。電線はどこに行ってもある。ごく普通だと思っていたが、言われるとそうだ。空さえもずたずたにこれが切られている。景観よりも電気優先だ。
このベトナム交響楽団は日本公演で武満徹「レクイエム」を演奏することになった。そのときに武満の逸話が紹介された。
彼は貧乏でピアノも持っていない。携えているのは紙で作った鍵盤だ。それに指を走らせて想像の音を鳴らす。が、それでは我慢できない。彼は、散歩に出ては、ピアノが聞こえてくる家を探す。そして、ぜひにピアノを弾かせて欲しいと頼んだ。これは世田谷代田二丁目時代のことのようだ。代田二丁目だったらピアノはある。詩人、声楽家、作曲家なども住んでいたからだ。
一帯は左岸の坂だ、音曲をつま弾くと響きは転がる。音楽文化の土壌としての代田二丁目というのは興味深い。
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2013年12月01日
下北沢X新聞(2454)〜文士町探訪九年間の出会い2〜

(一)
文化の語源はCulture、耕すだ。地域の歴史を耕すのは面白い。九年の間に習ったことは耕し方である。鍬の入れ方である。
当初は資料を掘っていた。具体的には旧番地だ。一帯に住んだ文人、詩人、歌人、俳人などを年譜で当たる。すると住所が載っている。これがやっかいだ。現在番地でそれがどこなのかは謎だ。
当初は、北沢タウンホールの地下にある区役所の出先機関で調べた。旧番地が現在の番地のどこに当たるのか、情報開示をしてくれる。ところがこれがくせ者だ。ずばりと当たる場合もある。しかし、多くは枝番番地に別れている。四つも五つもある場合がある。そのうちのどこなのかは分からない。
「世田谷区代田一ノ三一三番地」は、苦戦した。あちこち探し回ったけれども分からない。半年経ってようやっと分かった。
「淡島通りの河野さん、ほらお稲荷さんがある家のことよ」
当初、文化探査を始めたときになぜかお稲荷さんに取り憑かれていた。稲荷さんのある近くに文化人は住んでいる。
何時だったか。馬込の萩原朔太郎旧居を訪れたときやはりお稲荷さんがあって小躍りしたことがある。代田の場合もお稲荷さんがあった。左岸の崖に数十メートルの階段があってその上に鎮座していた。最上稲荷である。
「ほらな、やっぱりお稲荷さんがある」
一人でほくそ笑んでいた。ところが、これも段々に分かってくる。「伊勢屋稲荷に馬の糞」だ。お稲荷さんはどこにでも転がっているものだ。
しかし、文化探査にプロセスは必要だ。そのことが分かってくることが大事だ。下代田の柳下政治さん。代田七人衆の末裔の古老からは昔語りを聞いた。北沢川の稲荷橋は彼の家のそれを指している。
「よくすれば、よくなる」
古老から聞いたこの言葉は今も言い換えて、私は、方々で枕に使っている。
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