2014年02月

2014年02月27日

下北沢X新聞(2511)〜武蔵野西郊:玉電再評価3〜

CCI20140227_0000
(一)
 常日頃、逍遙して歩いているのは荏原台や淀橋台だ。ここを形成しているのが古くからの地層下末吉面だ。台地が鹿角状に深く浸食されていて谷の密度が高い。面白いことにそこに地形のドラマがあると同時にそこに生活してきた人々のドラマがある。

 沢の一つ一つには物語がある。とくには際の物語だ。都市と田園の境界である。都市生活者は田園の静寂を求めた。日々荏原逍遙と称して歩いているところはあれからだいぶ経過しているが宮本百合子がさるきあるいていたところと同じだ。

 九品仏その他、駒沢からこの辺にかけて、散歩するに気持よいところが沢山ある。名所ではないが、自然が起伏に富み、畑と樹林が程よく配合され眺めに変化があるのだ。ぶらぶら歩いていると、漠然、自然と人間生活の緩漫な調和、譲り合い持ち合いという気分を感じ長閑になる。つまり、畑や電柱、アンテナなどに文明の波が柔く脈打っているため、威圧的でない程度に自然が浮き上り、一種の田園美をなしている。

初出は「ウーマンカレント」、1927(昭和2)年2月号である。彼女が散策して歩いている延長上に駒沢の「文化的田園理想住宅地」はあった。一帯に存在する田舎的田園の静寂さと文明的なにおいの波である。

『是は現実的な感想』と題されたエッセイの、冒頭はこうなっている。

 始めて郊外に住んで、今年は、永く美しく夏から次第に移り行く秋の風景を目撃した。これまで、春から夏になる――初夏の自然は度々亢奮して活々感じたが、秋をこのように、落ちる木の葉の色、雨の音にまで沁々知ったのは初めての経験であった。
 

玉電沿線の新町住宅地での生活の感想である。都会生活者のストレスを解消する場としての田園はあり得た。

続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月26日

下北沢X新聞(2510)〜武蔵野西郊:玉電再評価2〜

P1040502
(一)
 玉川電気鉄道、この電車線の敷設が物差しとなった。大正十年十一月、初めてこの電車に乗った寺田寅彦は、『寫生紀行』というエッセイで次のように記している。

 世田ヶ谷といふ處が何處かしら東京附近にあるといふ事だけ知つて、それがどの方面だかは今日迄つい知らずに居たが、今此處を通つて始めて知つた。

電車線に乗ったことで世田ヶ谷というところが分かった。その奥行きや佇まいを知った。「東京の市街が何處迄も/\續いて居るのにいつもながら驚かされた。」とも記す。電車線の敷設が宅地開発に繋がった。

 今回、駒沢高射砲陣地跡を巡っての議論の過程で一つの資料が見つかった。玉電沿線の「駒沢停留場」のすぐそばの宅地開発のチラシである。かつてここに住んでおられた大槻統さんが保存しておられたものだ。そのことをここで話題にした。彼からのメールにはこうあった。

あの分譲地のチラシまで採り上げていただき有難うございます。つまらない昔のチラシでも90年も立つと何かの参考になるのだと考えさせられました。

 大正末年、玉電の沿線の文化を考える上で貴重な一枚である。ビラに書かれている「文化的田園理想的住宅地」は揮っている。一帯は、荏原台の高台だ。イメージに浮かぶのが屈曲した丘の上には雑木林がみえる。北へ行くと下っている。丘上であることが実感できる場だ。

 「仙緑園」は玉電駒沢電停前である。ここで降りて、北へ行くと道は傾斜し蛇崩川支流へと転がって行く、そしてまた上った所に丘がある。かつて「タンチ山」と言われたここには向井潤吉アトリエ館がある。彼は昭和八年にここにアトリエを構えたようだ。一帯は武蔵野の面影を残す雑木林が広がっていて何もなかったようだ。

 ところが、「移り住んだ頃は夫人が一時、神経衰弱になるほど静かだったと言います。もっとも、戦時下、近隣に高射砲台の陣地ができ、木々が伐り倒され、菜園が開かれるなどして、様相は一変したそうです。」と。仲間の米澤さんがアトリエ館案内のホームページに記録されていると教えてくれた。

 こつ然と、高射砲陣地ができて、奧さんびっくり、さぞかしびっくりしたことだろう。


続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月24日

下北沢X新聞(2509)〜武蔵野西郊:玉電再評価〜

P1040496
(一)
 今時間に生きる私たちは、今に安閑とし、驕りもする。歴史経過の中で意義深いものであったとしてもそれを過少評価してしまう。消えてしまった路線、玉川電気鉄道は交通史論的には邪魔電、砂利電と過少評価されているが、世田谷を切り開いたパイオニア路線として高く評価する必要があると。

 2月22日、第92回、都市物語を歩くは「世田谷線の勾配を歩く」をテーマとして下高井戸から三軒茶屋までを歩いた。最後に、三茶でお茶をして、歓談した。ここで皆で一致した結論である。

 歩いてみて実感したことは玉電本線とは異なる考えで高井戸支線が敷設されていることだ。前者は旧道、大山厚木街道沿いに敷設された。古道はもともと地形を勘案して造ってある。よって敷設側は地形についてはあまり顧慮しなくてもよい。

 ところが、支線、とくに上町、下高井戸間は、古道を離れての縦横ラインである。設計者は、どこをどう通るか、地形とにらめっこしてこれを敷設した。歩いていくとそのことがよく分かる。
 ナビゲーターが勾配を図に落として説明していたが、このプレゼンはなかなか好かった。

「いい坂だねえ」
 古道滝坂道を背に載せた線路が向こうに続いている。それを眺めみるのは楽しい。

 高井戸線は地形ドラマを走っている。北沢川から烏山川へは起伏を越えていく。現今軽量車、300系も峠越えでは唸る。

 世田谷線では鉄道文学が生きている。
「カダンスがなんとも言えないね、これこそが鉄道文学の源流なんだよ」
 私は訳の分からないことを言う。が、淀橋台を下るときのジョイント音は素晴らしい。都内でも屈指、鉄道音楽が演奏される場だ。
続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月23日

下北沢X新聞(2508)〜玉電砂利電高射砲〜 

P1040493
(一)
「B29が来ると、なんといったらいいのか、空中ショーみたいなものだね。高射砲がボンボン鳴るしね…えっ、それが駒沢にあったの?それは知らなかった」
これは昭和十年生まれの中田徳郎さんである。

 一昨日は、呑川上流の新町に行った。ます、雪を砕いている人に声を掛けたらたちまちに昔話になった。
「私は駒沢にオリンピックを見に来たのです。ここがいいところだと思ったので土地を探してここに家を建てたのですよ」
 そこに今度は中田さんが来た。話をしていると前に一度会って話を聞いた人だった。
「そうそう四月十五日の蒲田空襲でひどくやられてこちらに移ってきたんだよ」

「ここでの空襲は覚えているよ。いつか分からなかったけどね、一晩で七機も落ちたことがあったよ。それまでは全く高射砲が当たらないものだからイライラしていたんだね。次々に当たるものだからみんな興奮してね、『万歳』、『万歳』って口々に言っていたよ」
「それは多分、五月二十四日のことですね。近隣に多くB29が落ちていますから」

「一度見たのはここの空の上だよ。B29の後ろについて撃って行くんだね。のっかるようなかたちで小さな戦闘機が襲っていって、爆撃機が火を噴いたこともある…」
「おそらくそれは調布飛行場にいた帝都防衛の244戦隊ですね。飛行機の機種は、飛燕ですね…」
「そこまでわかるのか?」

「でもね、ここら辺も変わったね。みんな畑だったんだよ。家の側に洗い場があって農家の人はここで野菜を洗っていたよ。この先に池があって弁天池といっていてね、そこにつながる橋は弁天橋といっていたね」
 呑川の上流部だ。少し北の尾根筋には玉電が走り、品川用水が流れていた。

続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月21日

下北沢X新聞(2507)〜駒沢高射砲陣地跡5〜

CCI20140221_0000
(一)
 ここ数日ずっと高射砲陣地跡について書いている。このネット発信がきっかけとなって意外な情報がもたらされた。論より、証拠、空撮写真情報である。これは昨日のことだ。
「えっ!」
 びっくりして、指摘のあった画像を見ると、陣地跡が明瞭に、くっきりと写っていた。その配置や、数までが分かった。 北沢川文化遺産保存の会の仲間、米澤邦頼さんからのメールである。

  弦巻の高射砲『goo』の古地図、昭和22年の空撮で確認出来ますね。時計の文字盤の9時 10時 11時 12時 1時の位置に5門見えます。

急いでチェックすると、「なんとまあ、あった、あった!」、丸い構造物が五つ、時計の文字盤と同じように配置されている。12時はほぼ真北だ。3時がないことからすると西北方向を重視していたことが分かる。

  この情報に続いて、今日もあった。仲間の別宮通孝さんからだ。往時の居住者Yさんからの聞き込みだ。陣地跡は、当方が指摘していたものよりもワンブロック北とのことだ。駒沢2の20辺りだという。確かに布陣痕跡はそこになる。砲の口径だろうと思うが三十センチほどだったという。

 昭和24年5月24日に根津山上空で被弾したB29があった。高射砲陣地のほぼ真北に位置するのがここだ。その機は北西方向から飛来してきた。高度三千、目標物まで一千、この高射砲陣地にとってはまたとない獲物だったのかもしれない。砲手は、狙いを定めて放った。
「当たった!」。

 港区白金今里町に墜落したB29はここの高射砲が火を噴いて当たった。そう考える私の推理も現実味を帯びてきた。が、別宮さん情報では、「東京に残っていた、Yさんの父さんの話では、その高射砲は、B29には全く命中しなかったそうです」とあった。真実はいかに?

『goo』の古地図、昭和22は、惚れ惚れするほどに往時を写し残している。図をずらしていって根津山上空から下界を見る。小田急線も見える、踏切跡もくっきりだ。世田谷中原2号はもちろんだ。この土手筋に3号、4号と見える。梅ヶ丘逆1踏切は、どうやら5号踏切だったようだ。

 山手空襲当夜、一色次郎はアパートを出て根津山にやってくる。空撮映像ではその「代田二ノ八二三、西の丸荘」の屋根が見える。画面では白く見える大きな屋根がある。これがそうだと思われる。

続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月19日

下北沢X新聞(2506)〜駒沢高射砲陣地跡4〜

P1040488
(一)
 もう戦争は懲り懲りだ。二度とこれはやってはならぬ。しかし、人間の欲望は冷静さを欠くものだ。偶然をきっかけに敵意が暴発することはある。危ないのは全体主義の台頭である。「美しい国」というのは自然に対しての賞賛であればいいが、これに民族の優位性が加味されると危ない。いぎたない言葉で他国を排斥する、嫌な空気が漂ってきたと思う。

 昭和二十年五月、二十四日、二十五日、山の手大空襲で荏原一帯は大きな被害を受けた。B29がこのとき荏原上空に数珠つなぎになって侵入してきた。日本軍の応戦はもうたいしたことはないと踏んでこのときは3000メートルの低空で帝都に攻撃をかけてきた。ここぞとばかりに付近一帯の高射砲陣地も応戦した。

 一つの推理である、駒沢高射砲陣地も応戦し、ここの高射砲が一機に当てたのではないか?そのことをうかがわせる記録があるからだ。

 それは、一色次郎の『東京空襲』である。彼は下北沢3号踏切そばの静泉閣に居住していた。ところが建物が小田急沿線にあることから第六次建物疎開に該当し、立ち退きを宣告された。それで、「代田二ノ八二三、西の丸荘に移転」した。

 それから暫く経って、5月24日が巡って来た。当夜、24日、彼は「すぐ目の下に小田急線の線路と小さな梅ヶ丘が見える」ところでこの日の空襲を観察した。現在の羽根木公園である、代田半島羽根木岬、眺めは良い。山の手大空襲観望台である。

続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月18日

下北沢X新聞(2505)〜駒沢高射砲陣地跡3〜

P1040490
(一)
「高射砲陣地、そんなの知るわけはない!」
 駒沢公園のベンチ掛けていたご老体の一人の返答だ」
「高射砲陣地?俺は知っているよ」
 もう一人が応えた。
「えっ、知っているのですか!」

 昨日、再度、陣地跡をフィールドワークした。このとき古老に会えば聞いてみようと思った。ところが知っていそうだど思われる人には誰も出会わない。
「ここにね、高射砲陣地があったんだ、ほら、ここの北の方の空を西から東にかけてB29が飛んで行くんだ、それに向かって大砲を撃ったんだよ」
 陣地跡の四つ角にいた警備員に話をした。
「そんな、戦争なんか、知らないっすよ!」
 若いあんちゃんは戸惑っていた。

戦争は私も知らない。しかし、歴史文化を知ろうとすると必ずこれにぶつかる。今日現代のことがすべてこれに繋がっている。人々にとってはとんでもなく激烈な経験だった。

 しかし、今、戦争痕跡全く何もない。歴史時間というのはあらゆるすべてを呑み込んで消し去るものだと痛感した。が、破壊されても人の記憶には残っているものだ。

 収穫なく帰ろうとしたときだ。駒沢公園を通り掛かった。ここにたむろしていた古老連に聞いてみてその記憶に遭遇したのだ。

「あれが撃ち始めるともう授業にならなかったね、弾を撃つたびに凄い音がしてね、学校の窓ガラスがびりびり震えるんだよ。しかし、撃っても撃っても当たらなかったね」
 駒沢国民学校に通っていたという彼は、当時六年生だった。この学校のはす向かい、北西がその場所に当たる。
「高射砲は何門ぐらいありました?」
「そんなのまで覚えているわけはないよ!」
続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(1)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月16日

下北沢X新聞(2504)〜駒沢高射砲陣地跡2〜

P1040482
(一)
 高射砲陣地跡は意外なところにあった。
 

 常日頃の荏原逍遙で一つの見当をつけていることがある。道が、区画を無視して斜めの北東方向に向かっているときは注意せよ、これは品川道である可能性が高い。このことは地形と関連するだけに興味深い。

 我等の仲間で話題になっている道路がある。駒沢二丁目で品川用水に沿った道が、これと別れて急に北東に向かって行く。品川道の可能性が大きい。

 この沿道で何回か聞いたことがある。
「これは古い道で品川道ではありませんか?」
「いや、そんなことはない」
 あるときに親父さんににらまれたことがある。が、品川道に間違いないだろうと思って居る。

 その品川道は坂を下る。やがて西から来た道と交わる。ここによく警察官が立っている。一時停止線を止まらないで通過して行く車が多いからだと思う。この道の左手が、高射砲陣地跡だという。大槻統さんはつぎのように記しておられる。

 戦争が始まって間もなくだった昭和十七年だと思いますが、家から150mほど北側にあった一面の畑が高射砲陣地に様変わりしました。高射砲陣地(地図の黄色に塗った一角)の直ぐ南側の道は野沢の方へ流れる蛇崩川の支流がありましたが、既にどぶ川の様な淀んだ汚い川でした。(この川は埋め立てられ今では舗装された道となっています)

この蛇崩川支流の源流は駒沢給水場近くにある。現在の駒沢緑泉公園だと思われる。この公園には往時のハケを模した流れが再現されている。

続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月15日

下北沢X新聞(2503)〜駒沢高射砲陣地跡〜

P1040467
 観測史上例をみない大雪だ。驚くばかりの降雪、一度ばかりか二度目だ。地球規模の天候異変の元凶は地球温暖化にある。太平洋北部の海水温が下がらない。それに影響されてジェット気流が南下し北極の強烈な寒気を列島に呼び込んでいるようだ。

 雪の降った夜は、暗くならない。淡いピンク色に雪が染まっていた。東京の夜の光を反射してのことに違いない。原発事故以来、節電が叫ばれた。が、今は前と同じように東京は明るくなった。

 大雪、そして大雨、強烈台風、竜巻などひんぴんと起こるようになった。急激な変化である。これらをからしても人類は岐路にさしかかっていることは明白だ。調和的な生活、自然を破壊しないような生活スタイル、これをしなければ温暖化は一層に進行する。

 今冬、寒い。が、自分の部屋の暖房は一度も点けていない。着込みに着込んでこうやってパソコンに入力している。自分だけ暖めてなんのためになるのか?そういう疑問を持っているからだ。

(一)
 今日近代は歴史を粉砕して過ぎていく。街のその場所に何があったのか、すべてが忘れ去られつつある。先だっては上馬二丁目を、かつてあったという「うなり石」を尋ねていった。が、それは見つからず、代わりに発見したのは、二・二六事件の首謀者の旧居であった。これとても記録しておくべきことだ。

 高射砲陣地については、荏原近隣、あちこちと尋ね歩いたことがある。その旧跡を探し当てたところもあるが、見つからなかった場合の方が多い。

 今回、意外なことから高射砲陣地の跡がみつかった。これまでの経験から分かっていることがある。資料にある記述からその痕跡を見つけ出すことは困難であるということだ。当事者、その現物を見たという人の証言ほど確かなものはない。

 下北沢文士町の作家旧居探しでこれは分かった。「〇〇さんは俺の貸家に住んでいた」と直に当事者が教えてくれる。確実な証拠だ。

 駒沢高射砲陣地跡も、意外な展開で見つかった。『鉛筆部隊と特攻隊』を端緒とする調査からである。松本淺間温泉に疎開していた学校のことの調べから分かったことだ。

 松本淺間温泉には世田谷から七校の学校が疎開していた。調べてみるとほとんどの学校が特攻兵と何らかの形でふれ合っていた。残るは太子堂国民学校と東京第一師範国民学校だけである。太子堂小学校には赴いて副校長に卒業生の紹介を依頼したが、調べますと言われ待っていたが梨の礫だ。学校の歴史に関心がないようだ。

 残ったのは東京第一師範である。官設学校と地域学校では実情が異なる。情報を得るのは難しい。が、先だって現在の学大附属高を尋ねたところ、ここの副校長は親切に対応してくれた。現今敷地西端に東京第一師範附属国民学校はあったと教わった。続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月13日

下北沢X新聞(2502)〜講演「文学と鉄道と世田谷」2〜

生大文化講座c
(一)
「文学と鉄道とは馴染むものなのでしょうか?」
 これについて会場で聞いてみた。根幹の問題ではある。その反応は総じて馴染むという方が多かった。
 
鉄道は鉄である、文学は心である。本質的には馴染まない。
「正岡子規は鉄道は風雅の敵だと言っています…」
 こう説明したが当方の真意は伝わらなかったかもしれない。

 鉄道と文学については、当初は、乖離していた。万延元年に徳川幕府の遣米使節団はパナマで陸路大西洋側に渡る。そのときに初めて蒸気車に接する。汽車に乗ったとたん、床下で雷鳴が轟いた。腰を抜かすほどだった。

 汽車が響きを立てる音、これがミソである。人々はこれに慣れるにつれ親和感を持つようになった。好きになった相手の歌声は美しくなる。鉄道も同じだ。リズミカルにジョイントを刻む音、この鉄道音楽に心打つものがあった。悲しい時は、悲しい曲、嬉しい時には、賛歌にも聞こえた。響きのあるところにこそ思い出がある。

 人々と鉄道、接触が深くになるに連れて、人々は鉄道の音に対する親和性、そして親近感を持った。ジョイント音、汽笛、車窓など。

 ところがあの風情ある音が、鉄道が近代化するにつれて、音楽性を失った。刻みがなくなった。今日では、かつてのように鉄道から文学が生まれる余地がかなり狭められた。鉄道は、叙情性欠いてきている。

 講演、冒頭、のっけから渋谷、宮益坂と道玄坂を登って行く電車の音は違う。そんな話をしたことだ。すると、その話の途中、手が挙がった。
「渋谷道玄坂には夜店があった!」
「そうそうありました。坂の途中の百軒店入り口までは賑わっていて、それから上は世田谷の植木だめから持ってきた木の苗が売られていた…」
 省線に繋がる渋谷駅と二子玉川との間に玉電が敷設された。「玉電、砂利電、帆掛け船」、かつては砂利は帆掛け船で運んでいた。それが電車に変わった。普請中の首都は大いに助かった。その砂利運搬線が人を運んだ。電車による利便性の向上が世田谷を進展させた。

続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(2)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月12日

下北沢X新聞(2501)〜講演「文学と鉄道と世田谷」〜

生大文化講座a
(一)
 言葉のあてがいは事象、現象の存在を価値づける役割を果たす。10日に開催された「世田谷区生涯大学文化講演会」でのタイトルは、まさにその一例だ。玉川電気鉄道から小田原急行鉄道へのシフト、変換こそは世田谷の近代史であった。思うに、これは地域にはとどまらない。この底流には、日本近代文化史・文学史が隠されている。予習をしながら改めてこのことを再認識したことだ。

「講演のタイトルに直結していれば売れたのでしょうけどね」
 会場へ出版社の人が来て、『鉛筆部隊と特攻隊』、『 特攻隊と(松本)褶曲山脈』を販売した。が、講演の入りが大盛況だったにも拘わらず、本は売れなかった。

 しかし、編集者は無駄足ではなかった。出版不況はこれからも続く。出張販売の成果は上がらなかったが講演会のタイトルを主題にした本を作れば売れる。需要動向のリサーチだったと考えれば無駄ではない。人口八十万都市世田谷は出版業界に取っても侮れない。

 「文学と鉄道と世田谷」、聴講に来られた方は、このテーマに郷愁を感じられたのではないかと思う。会場は百人入る、来場者は来ても四五十人ではないかと思っていた。それで、資料「下北沢文士町文化地図」は七十部、を持っていった。ところが、
「地図がなくなったのですよ!」
 受付を始めてしばらく経つと、係の人が言ってきた。
 一体どのくらいの人が来たのか、講演が終わって、その数を尋ねたら106名だった。

 何年前だったろう?世田谷区内の団体に請われて「下北沢文士町」の話をした。講演として行ったのは初めてだった。会場は四五十人も入るのに聴講者は十名程度だった。ところがそれ以来、活動は地道に続けてきた。そういう経過あっての今だと思う。やはりなんと言ってもフィールドワークである。

「今日、私はここへ来るのに歩いて来ました。ちょうど来がけに手紙が届いて、なんと駒沢二丁目にあった高射砲陣地の跡が記してありました。その場所を確認してきました」
 蛇崩川支流の右岸北のり面にその場所はあった。

『やっぱりなあ、この辺り高射砲陣地は北のり面にあるんだよなあ』
 腰をかがめて地形傾斜を眺めながら私は呟いていた。

続きを読む

rail777 at 20:10|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月10日

下北沢X新聞(2500)〜赤い屋根の『小さいおうち』はどこ?了〜

P1040480
(一)
 「小さいおうち」のモデルとされた舞台は、世田谷中原ではなかったか?。

 物語の記述には、「今では高級住宅地に数えられている地区だ」とある。これですぐに思い起こしたのは。萩原朔太郎の転居だ。詩人は、昭和六年に下北沢に越してくる。が、帝都線が新たに敷設されることになり転居を考える。それがまさに、「中原は屋敷町で静かな環境」(『父・萩原朔太郎』)だということで、この中原に引っ越してくる。

 静けさを欲しての転居だ。この一帯に越して来て住む場合、隠棲というものがある。典型的なのは�垳�利一だ。存分に声を上げても誰にも干渉されない。武蔵野の雑木林に囲まれた平凡な芋畑のある一角に家を建てた。

 朔太郎の場合もそうだろう。街中には住みたくない。適度な田園風景が広がっている代田を選んだ。彼が友としたのは丘に聳え立つ近代的な鉄塔である。銀色の塔を眺め、静かに暮らしたいという思いはあったろう。

 適度に田園的なところに『小さいおうち』を建てて住む。この場合の小さいという言葉にはいろいろな意味が含まれている。そこそこの大きさ、秘めやかなという意味もあるだろう。

 人間心に落ち着くものがある。適度な大きさだ。掴み撮ることの出来るものとしての小世界というのはあるだろう。

 が、小さいといっても、記述を読むと建物はそうせせこましくはない。調度品、家具なども凝っている。これらを置ける広さがある。洋室の「どっしりとしたデスク、横浜の方で買われたという立派なテーブルと椅子」、「装飾のある、ランプ形の電灯」などである。

お洒落なのは調度ばかりではない。生活は洋式化している。例えば「端午のお節句」の御馳走だ。「ハムライスにオムレツにコロッケに伊勢エビサラダ、桃の缶詰を使ったムースババロアにホイップクリームなど、ぼっちゃんの好物ばかりを並べて」とある。
 サイズはそんなに大きくはない。が、適度に管理できる家に、モダン、近代、おしゃれがあった。昭和十二年頃のことだ。
続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月09日

下北沢X新聞(2499)〜赤い屋根の『小さいおうち』はどこ8〜

P1040477
(一)
 彼との出会いはもう何年前のことになるだろう?。数年前の春、安吾文学碑前で、例によって下北沢文士町地図を配っていた。そのときにミュージシャンの明石隼汰さんが現れた。代沢小の疎開学童が唄っていた歌について長く話し込んだのを覚えている。

 戦時中、疎開先で代沢国民学校は特異な音楽文化を育んでいた。皇民化教育一色だった中で、楽器を演奏したり、自分達の寮歌を唄ったりしていた。劣悪な環境の中で音楽が大きな影響を与えていたのでは?そんな話をしたように覚えている。

 明石さんは、『小さなおうち』を読んで、舞台は世田谷だと思ったという。この指摘に端を発して、私自身本を買いに行き、その「おうち」はどこか?。この推理を長々と楽しんできた。そろそろけりをつけなくてはならない。

 この物語、最終章に入ると語り手が変わる。「僕の大伯母、布宮タキが、戦後初めて東京に出たのは、昭和二十一年の正月だった」と描かれる。
 亡くなった大伯母と親しくしていた私の視点で描かれる。戦後になって彼女は「おうち」を訪ねて行った。ところが、「タキが住んでいた東京郊外の西北エリアも、五月二十五日の山の手大空襲ですっかり焼き払われてしま」っていた。その場所が次第に明らかにされる。地域が絞られてくる。

 なんだか多摩川あたりに思えるけれど、当時の郊外はもっとずっと都心に近く、彼女が私鉄と呼んでいたのは新宿から西に延びる鉄道の一つで、赤屋根の洋館があったのは、新宿からそう遠くない、今では高級住宅地に数えられている地区だ。
 

 「新宿から西に延びる鉄道」、この私鉄も絞り込まれる、京王と小田急だ。前者は市内線延長タイプ、後者は、急行の名がつくとおり、郊外へ素速く旅客を送り込むことを狙いとしている。速度に見合った家々が沿線に建った。赤いおうちもあれば白いおうちもあった。小田急に間違いない。
続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月07日

下北沢X新聞(2498)〜赤い屋根の『小さいおうち』はどこ7〜

P1040473
(一)
「昭和十九年八月十二日夜、この下北沢駅から代沢国民学校の疎開学童は松本に向けて旅立って行ったのですよ。電車が発車したとたん、周りにいた父母が火の点くような声で、自分の子どもの名前を呼んだのです。もうそれも聞こえませんが…」
 昨日、「下北沢文士町入門編」で受講者に説明をした。東北沢六号踏切だ。
「私もその中にいたのですよ」
 カルチャースクールの受講生の中に当事者が一人参加されていた。彼女は「淺間学園の歌」の歌詞を思い出して、これを書いて私に持って来てくれた。

 『小さなおうち』の女主人公も、東京から疎開してきた子どもの寮母にと請われ、その職に就く。年明け開けて二十年六年生は受験準備ののために帰京する。彼女も六年生を引率して上京する。三月六日、「八時に田舎の駅を発」ち、翌朝上野に着いた。

 疎開学童を届け終えた彼女は、東京の奥様の家に向かう。『小さなおうち』へだ。「省線と私鉄を乗り継いで平井家に向か」う。その途中の描写にはこうある。

 新宿を出て、畑や防風林のある郊外が見えてくると、ようやく落ち着いて深呼吸がしたくなった。

 新宿から出る私鉄だ。すると西武新宿、京王線、小田急線だ。記述に「新宿から西へ延びる」とあることから、京王か小田急だ。が、これはもう小田急に間違いない。
 
 「車窓から見る東京の風景は、なんだか乱杭歯の口を思わせる」ともある。鉄道沿線の建物疎開が行われたことを言っている。東北沢駅から世田谷中原までこれは行われている。この場合は、三月十日の大空襲前だ。

 小田急沿線は、東京大空襲での被害を受けて、三月二十日に線路沿いの沿線住民は立ち退きを宣告されている。これが第六次強制疎開だ。
続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月06日

下北沢X新聞(2497)〜赤い屋根の『小さいおうち』はどこ6〜

P1040471
(一)
「これから下北沢文士町の旧跡を巡っていきますが、これは小さな谷を巡る旅です。坂を上ったり、下ったりします。幾つかの凹みを巡っていきます。その一つ一つに何かの物語があります……」
 今日、カルチャースクールの下北沢文士町入門の二回目が行われた。下北沢駅北口でこう話したことだ。

 『小さなおうち』も、一つの小さな谷の小さな物語だと思える。これらの物語のほとんどは昭和二年の小田原急行鉄道の開通に端を発している。これによって一帯は大きく変化した。

 例えば、お茶は、斎田茶園で採れた荏原茶があった。程よい渋さの美味いお茶、これも東海道線が開通することによって、低廉な宇治茶が入って来て廃れた。

 小田急線の開通で沿線に入ってきた人々は、赤い屋根のおうちで紅茶を飲んだ。『小さなおうち』の「奥様は染め付けに金の縁取りのある、香蘭社のティーカップ」で喫した。田舎から出て来た女中奉公の主人公にとってはモダン近代との出会いである。

 この物語は、遭遇、邂逅、巡り合いの高揚感がある。例えば、女中奉公の彼女は、「わたしはいまでも、あのころのウキウキした東京の気分を思い出すと楽しくなる」と回顧している。東京オリンピックの開催である。戦争で中止になったあの五輪である。

 都会人が、まったく初めてのものに遭遇する、そういう期待感はあったろう。戦争で中止になった東京五輪はすでに開催された。それがまた今度巡ってくるという。2、5回目の五輪である。もうすでに一回開催されたことは紛う方ない事実だ。女中奉公の彼女が感じた、あのウキウキ感はどう転んでも手に入れることはできないだろう。
続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月04日

下北沢X新聞(2496)〜赤い屋根の『小さいおうち』はどこ5〜

P1040469
(一)
 武蔵野に電車線が敷設され沿線に郊外住宅地が形成された。東郊よりも西郊である。田山花袋は言う、前者の美は、水郷の美、沼澤の美であり、後者は、「丘陵、雑木林、霜、風の音、日影、氷など」であると。すでにこちらは文学的である。叙情性が濃厚な西に鉄道が延伸していったとも言える。

 風景と建物と人間とが絵になった。例えば、物語の中にこんな記述がある。「京橋のアラスカへお食事にお連れいただいたのも、よい思い出である。そういう特別の日には、前もって頼んでおいたハイヤーが坂道を上ってくるのだ」。地形はフラットではない、タイヤを軋ませて車が坂道を上ってくる。これも絵である。

 作品をどうイメージするかは読者の自由だろう。が、ここでいう坂道は家が丘上にあったことを示唆する。実際「日当たりのいい南側にはお部屋が三つ」と文中にあるが南のり面にこの『小さいおうち』はあったと考えられる。

 鉄道従事者は、進行方向に対し車両の左右を表すときに海側、山側という。この家は、感覚的には、山側にあるようだ。北沢川左岸かもしれない。

 「坂道を駅へ下っていく」という記述がある。坂があれば、当然下った先には水路がある。線路は東西方向に走っている。その駅を中心にして凹みがある。後で出てくるがその北のり面には高射砲陣地があったようだ。

 流転、変転、仕合わせだった時代も、戦争によって激変する。彼女は故郷山形に帰って、徴用工として働く。「十年ぶりに帰ってみたら山形は『航空産業の県』になっていた」、そしてなんと彼女は、「毎日毎日、木製のプロペラを磨」いていた。続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月03日

下北沢X新聞(2495)〜赤い屋根の『小さいおうち』はどこ4〜

P1040468
(一)
 赤い三角屋根の『小さいおうち』は今となっては幻影だ。「目をとじればまざまざと思い描くことができる」とある。この家に女中として仕えた主人公の、過ぎ去りしあの時代への郷愁が滲み出ている。

 あの時の時間であり、風景である、それともう一つ、人と人との温もりのある関わりだ。とくにはお嬢様育ちで美人の奥様との触れ合いは忘れがたいものだった。

 今という時代、時間、風景、人、機械に駆り立てられている。ふくよかな時間などありはしない。慌ただしいことに気づきもしない。

 一昨日、土曜日から「童話創作チャレンジ講座」が志木市柳瀬川図書館で始まった。東横線自由が丘から柳瀬川駅へ五十分弱で着いてしまった。交通体系の激変、東横線と地下鉄線が繋がり、埼玉まで一本の電車で行けるようになった。

 当該駅の手前、和光市駅には国家公務員研修施設があって、ここには三十数年間講師として通った。その和光市どころか先の柳瀬川駅までたちまちに短時間で着いてしまった。

 はっきり言えば、自分の身体は柳瀬川に着いてはいるが、心は着いていない。妙な、おかしな気分である。その理由は、自分に旅のプロセスが認識されていないからだ。
 
 今朝の新聞には「ハイデガーで考えるリニア新幹線」という読み物記事が載っていた。これもリニアという技術に駆り立てられているという人間を話題にしている。「リニアも日本列島を掘り抜くような大プロジェクトである割に、私たちはその意味を考えていない」とある。まさにその通りだ、プロセスを抹殺する旅にどんな意味があるのか。深い疑問を感じている。

 我々は、技術に、機械に駆り立てられるばかりだ。その間、時間も風景も人間関係もどんどん破壊されていく。それは恐ろしいスピードで進んでいく、「地球にちょうどいい暮らしをはじめませんか。」という公共放送機構のコマーシャルが流れる。これには大賛成だ。人類は瀬戸際にきている。が、私達は地球温暖化の意味をあまり深く考えていない。切羽詰まった問題だが、高レベル放射能廃棄物の捨て場はほとんど考えられていない。

続きを読む

rail777 at 20:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化

2014年02月01日

下北沢X新聞(2494)〜第91号「北沢川文化遺産保存の会」会報〜

…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第91号                  2014年2月1日発行(毎月1回発行)

               会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
1、森茉莉文学碑について
(一)
 北沢川緑道沿いに文学碑を建てよう。長年にわたって私たちは提唱してきた。昨年、この努力が実って「�垳�利一文学顕彰碑」が建った。坂口安吾文学碑、代田の丘の鉄塔由来碑に続く三つ目のものだ。

 この緑道を「北沢川文学の小路」と名づけ、親しみやすいものにしたい。このことについては行政も認知し、緑道の看板の二箇所にこの紹介がある。

 「北沢川文学の小路」にもう一つ文学碑を建てて一つの区切りをつけたい。それが願いである。誰のものかというと森茉莉の碑である。
 知られていないことがある。下北沢文士町に居住していた一人の女流。その彼女を慕って当地を訪れていることである。全国から、遠く台湾や中国からも来ている。
 森茉莉作品のほとんどは倉運荘、代沢ハウスで書かれている。境涯のほとんどの作品が当地淡島で描かれている。しかし、このことを記したものは一切建っていない。そういうこともあって、彼女の文学碑をせせらぎ公園に建てたいと計画をしている。

(二)
 長いものよりも短いものの方がよい。文学碑に遺す文言は、「下北沢文士町文化地図」に前から提案している。つぎの文言である。

 贅沢というのは
   高価なものを持っていることではなくて、
          贅沢な精神を持っていることである。
 
 

  これは一つの例である。今のところ建てる場所としては、せせらぎ公園の北沢川のほとりが有力だ。このことからすると「夜更けの十一時四十分頃に魔利の住むアパルトマンの近くを通る人はかさばつた新聞紙の包みを抱へて川辺の方へ歩いて行く、怪しげな女の影を見るのだ。」という記述も面白い。読者なら誰でも知っている場面だ。この川こそ北沢川に他ならない。ここを読むとつい笑みが洩れてしまう。文学碑の文言としてはふさわしくないかもしれないが。
 文言については案である。もっとよいフレーズがあれば提案してほしい。

(三)
 文学碑を建てるに当たっては幾つかの問題がある。一つは版権の問題だ。これはまだ生きている。文学碑を建てるとか文言を刻むということになれば森家の了解を得る必要がある。こちらが企画しても断られることもあるかもしれない。この辺りのことについては慎重に進めたい。
 もう一つの問題は、モニュメントである。私達は、普通の文学碑を建てても意義は薄いのではないかと考えている。固有性は強く訴えたい。安吾文学碑は、安吾旧居門柱、朔太郎文学碑は鉄塔61号、�垳�利一文学顕彰碑は、雨過山房の石畳、これらを用いたり、背景としたりした。
 森茉莉文学碑についてはどう固有性を出すかが課題である。すでに彼女ゆかりの代沢湯の女湯の磨り硝子は手に入れている。これをあしらったものをと考えていた。が、彼女の文学を考えるとこれではあまりにも地味である。華やかさに欠ける。
 文学碑を見た人が彼女の文学を想起できればよい。そこで思いついたのが「牟禮魔利の部屋の小物」だ。分厚いガラス容器の中に青い化粧瓶、紅茶茶碗、柄つきの陶器片のかけら、緑色のガラスの玉、ゴブラン織の端切れ、アネモオヌの深い皿などなどが埋め込まれているものだ。
 これは考えついたイメージを述べているものだ。こういうものができないかと考える。私自身の考えだけではいいものはできない。さきの「�垳�利一文学顕彰碑」は、敷石の置き方一つで我々は熱く議論した。その結果、現在の石の配置に落ち着いた。意見を出し合って案をよりよいものにしたことで文学碑は出来上がった。
 今回のこれは一つの案である。多くの人からの意見、もっと言えば具体的なデザインを提案してほしい。そのことを今回は伝えるものである。

 最後に、もう一度繰り返すが、森家の同意を現在得ているわけではない。場合によっては断られることもあるかもしれない。が、我々は希望は失ってはいないということも付け加えておきたい。

2、「下北沢文士町文化地図」大型掲示版の設置

 「下北沢文士町文化地図」については、新年早々にメディアで紹介された。まず、1月8日づけ下北沢経済新聞だ。「下北沢に住んでいた文士の旧居跡マップ公開−萩原朔太郎、坂口安吾など」という見出しで記事が載った。つぎに、1月15日づけ読売新聞東京版のトップにに「シモキタ文士地図」として紹介された。

 このいずれもが代田駅前に「下北沢文士町文化地図」が掲示されることを伝えていた。これは世田谷区「地域の絆推進事業」の助成金によって作成したものだ。

 代田駅前は、代田吹上館の横壁を活用したものである。これはすでに取り付けを済ませている。この他、北沢川緑道、鎌倉橋たもと、それとせせらぎ公園、ここに設置してある区の看板の空いているところに掲示した。

 後複数枚が残っているが、地域の小学校や中学校に寄贈するということを聞いている。この地図は、地域の文化を記録し、それを書き記したものだ。現在、第五版を配布している。これが置いてあるのは、世田谷邪宗門、下北沢タウンホールラプラスである。

 今年度、北沢川緑道の桜祭りで例年通り配布する予定だ。無くなり次第、つぎのを作りりたい。とくに小田急が地下化したことで地図上に大きな変化があった。これらを含めた改訂六版へむけての準備を進めている。

 文化地図は、旧跡を忘れないようにということからマークをつけている。カバーしている地域一帯には、寮文化といわれるものがあった。下北沢地域は鉄道が交差している便利な駅ということでかつてこの一帯には数多くの寮があった。戦中から戦後へその数は増えていった。地方から来た多くの若者がここで生活をし、勉学に励んだ。その数は恐らくは万人に上るだろう。若者の夢を育んだ場所である。
 近々七島寮跡が取り壊されることから、ここの名札を保存できないかと考えていた。が、三菱地所ではかつての所有者の意向もあってこの表札を保存すると聞いた。朗報である。七島寮跡、嘉穂寮跡、海上保安庁寮跡などというふうに地図に入れられないかと考えている。

3、世田谷区生涯大学公開文化講演会(世田谷区のホームページから)

テーマ「鉄道と文学と世田谷」
     〜特に下北沢文士町を中心に〜
日時   :平成26年2月10日(月)13:30〜15:30
講師   :きむらけん ノンフィクション作家・文化探査者
       北沢川文化遺産保存の会主幹
場所   :ひだまり友遊会館(老人会館)(若林4-37-8)
対象   :世田谷区民
料金   :無料
定員   :先着100名 申込方法:直接会場へお越しください。

4、都市物語を旅する会 
 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

 [二月の歩く会]
・第92回 2月15日(土) 午後一時 下高井戸駅改札前(京王)
世田谷線の勾配を歩く(下高井戸から三軒茶屋まで)ナビゲーター 木村康伸さん


・第93回 3月15日(土) 午後一時 梅が丘駅改札前
    森茉莉の痕跡を歩く ナビゲーター きむらけん
・第94回 4月19日(土) 午後一時 東京メトロ本郷三丁目駅改札前
    本郷菊坂界隈を歩く  ナビゲーター 原敏彦さん
・第95回 5月17日(土) 午後一時 目白駅改札前
    落合・目白界隈を歩く 住宅街、建築巡り ナビゲーター 別宮通孝さん
・第96回 6月21日(土) 集合場所未定
  訂正 2月13日


  特別企画�〇暗塚竸紊鮟笋�
今年から三田用水を水路のテーマにし、これを数年かけて探査する。
  三田用水のスペシャリスト、きむらたかし氏を迎えての用水探査行を
  開始する。 参加費は500円とする。詳細は次号以降に。
・第97回 7月19日(土) 午後一時 田園都市線三軒茶屋駅改札前
  駒沢練兵場を歩く  ナビゲーター 上田暁さん
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも300円
 参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記
▲松原征男さんは会員である。埼玉県比企郡ときがわ町で活動をしておられる。私達のように文化を後世に残すということをしたいということで会を作って活動を始められた。我等の会の活動に刺激を受けてのことだ。言ってみれば互いは友好会ということになる。この度、会報「有史報」第三号が送られてきた。副題は、「五明十王堂と紙芝居」とついている。地域の歴史がこの活動によって記録されていることを強く感じる。ときがわ町は蕎麦がおいしいそうだ。提案だが、10月の例会でときがわ町を訪れたらどうだろうか?朝から行って、町を歩いて、昼はそばを食べる、皆さん、どうだろう?この小さな旅の企画を考えてくれる人を募る。電車の発時刻、行程など。
▲一月からNHK学園市川オープンスクールの「きむらけんと楽しむ・山の手・文学・街歩き」が始まった。三月までは、「下北沢文士町入門編」ということで一帯を巡り歩く。最初の会で「シモキタに来てランチを食べたのよ」と参加者の弁。ほんのわずかだが地域に多少の経済波及効果があったかも。四月からの第二クールでは、三回連続で今度は、大井町、下北沢、三軒茶屋と萩原朔太郎の東京をテーマに歩く予定だ。
▲昨年、暮れの忘年会の席で、年会費の説明をし、消費税値上げに伴い、会費も値上げすることにしました。1200円です、会費納入をよろしくお願いします。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千二百円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。

rail777 at 00:00|Permalink│Comments(4)││学術&芸術 | 都市文化