2014年03月

2014年03月30日

下北沢X新聞(2533)〜旧軍新田原飛行場探訪行2〜

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(一)
 九州宮崎は桜が満開だった。が、その花を愛でる人がいない。ひたすらに歩いたがすぐに分かってくる、地方の街には人はいないことだ。ましてや山間の集落になればなおさらだ。話を聞こうにもその聞く人がいない。桜だけが今を盛りと枝に花をつけている。眺める人もいない花は寂しい。

 東京に帰ってくるとどこもここも人だらけだ。それも老若男女がいる。地方では爺さん、婆さんばかりである。東京一極集中は異常とといっていい。均衡を失った発展だ。これが地方の活力を奪っている。

「台風が来るでしょう、九州なんか通り道ですよ。でもうちらの地方通ってもほとんどテレビで取り上げられることはないですよ。ところが東京辺りを通過するとなると集中的にこれを報道するのですね。朝から晩まで自分達の地方とは関係のない東京の台風のことを放送しているのですよ…」
 一人の地元民の話だ。その宮崎には民放は二局しかなかった。

 地球温暖化による異常気候が続いている。地球自然を大事にしてとう持続可能な社会を造り上げることは急務だ。東京一極集中も大きな課題だ。人口が集中すればインフラが必要になる。が、人口が密集した都市圏の場合その投資額は大きくなる。高速道路、地下鉄、超高層ビル、水瓶貯水池の建設、どれをとってみても巨額になる。言えば、その建設自体、鉄骨を使い、コンクリートを必要とする。それは自然破壊に繋がる。

 帰途、羽田着陸に入ったとき千葉上空を通った。あちこちで山が削られていた。宅地造成がなされているのかと思った。一方地方にはふんだんに土地がある。ところが、山間には耕作放棄地が目についた。街にも「売り地」の札がそこかしこにあった。

「私がね、お嫁に来たときは、この通りも人が大勢通っていたの、でもね、いまはすっかり寂れてねえ……」
 高鍋駅への道を聞いたとき花屋の奧さんはそう言っていた。
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2014年03月29日

下北沢X新聞(2532)〜旧軍新田原飛行場探訪行〜

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 物語のフィナーレを旅に選んだ。六年間に亘る調べの最後の地としたのが九州新田原であった。訪問するのに私は覚悟を決めていた、ひたすらに歩いて、聞きまくろうと…

 三泊四日、宮崎を拠点にして歩きまわった。佐土原、日向新富、高鍋、そして新田原へ、六十数キロ、徹底して歩き、人から聞きまくった。その数は四十人は超えるだろうと思う。

 私が求めたのは、市民の記憶に残る近代史である。これにスポットが当てられることはない。が、現実にはこれが猛烈な速度で消えつつある。今聞いておかないとすべてが消えてしまう、実際に歩いてみて強くそう思った。


(一)
 あてなし、アポなしの旅だった。ところが一つだけあった。松本飛行場を飛び発った一隊が某町に滞在していた。この旅館から重要な葉書を疎開している児童に出している。この調べは一つのポイントであった。

 彼らの隊の具体的な名前は分かっている。が、正体は不明である。松本温泉小柳の湯に泊まっていたのは事実だ。昭和二十年三月末頃に飛び立って当地に来た。「全機終結」し、これから飛び立つとの知らせを書き送っている。

 世田谷山崎国民学校の疎開学童と彼ら特攻隊とは不思議な関わりをしている。わけのわからないミステリーである。近代戦争史の影でもある。

 まずは、その旅館を探し当てることと、その旅館と新田原飛行場との関係を調べたかった。

 その町をY町としておこう。最初にここは訪れた。当地の歴史資料館へは十時に訪れることにしていた。私は一時間前に着きもうそのときから聞き込みを始めていた。

 旅館を探し当てることだ。もちろん今はない。その跡ということになる。
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2014年03月27日

下北沢X新聞(2531)〜会報第93号「北沢川文化遺産保存の会」〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第93号                  2014年4月1日発行(毎月1回発行)

               会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
1、春到来、やっぱり歩こう!

(一)
 今年の冬は寒かった。それだけによけいに春が待ち遠しかった。が、桜花に咲く春が巡ってきた。さて、どうするか?やっぱりなんと言っても歩くことが一番である。歩いて、角角で立ち止まって、人々が暮らしてきた歴史を思い浮かべる。歩いて、そして、考える、健康にはこれが一番である。

 私自身ずっと自転車に乗っていた。地球四五周は回ったなどと豪語していた。ところがこのペダル漕ぎをあるときにぱったりと止めてしまった。病気の治療にチャレンジしてみようと思ったことがきっかけだった。

 お尻の下辺りが妙に疼いて、そして痛む。堪えきれずに病院に行った。診断は前立腺炎だということだった。患部は体の縁にあることから薬が効きにくい。それで抗生物質の薬を多く処方してくれる。その三四錠を毎食後服用する。そのうちに薬の副作用として身体中に湿疹が出て来た。ところが服用を止めると治らない。

 この前立腺炎の痛みというのは表現できないほどのものだ。ずんずんという痛みが続いてとてもではないがたまらない。投薬治療で以外で治す方法はないか、ネットで調べた。が、有効な方法はなかなか見つからない。そのうちに一つだけ、「ひたすら歩く」というのがあった。藁にもすがる思い出、これに飛びついた。治療の積もりで歩き始めた。

 効果は直ぐには現れない。しかし、三、四ヶ月経った頃、効果が現れた。痛みが徐々に薄らいでいった。炎症が治ったのだろう。歩きは血行をよくするこれがてきめんに利いてきたのだと実感したことだ。

 歩いているときに自転車に乗った人が、自分を追い抜いていく。乗っている人は当然のことながらお尻をサドルに乗せている。人間大事なのはそのお尻の下辺りの消化器官である。これがサドルに固定された形になるので動かない。歩くとこの辺りがへの字、くの字になって動くのである。これが大事である。消化器官が刺激されて血行がよくなり、炎症も消える。良いことずくめである。
(二)
 歩いて、考えると、脳が活性化する。これは間違いないことだ。それだけに漫然と歩くよりも何かに興味を持って歩くことは大事だ。

 私は、怪歩学を推奨している。つまり、歩きながら角角で立ち止まって、怪しむ、不思議がることである。歩いている道がそこはかとなく曲がっていれば、何かある。古道らしきところを歩いていて鼓動を感じ取るようになればあなたも街歩きの達人だ。
 古道は緩やかに左右に曲がっている。そっと行くとお地蔵さんがあり、また、辻には庚申様が祀られている。
 前ばかりを観察しないで左右も眺め遣る。腰をかがめてどちらに土地が傾いているかが分かってくるともっと楽しい。

 背尾根を境に水は低い方に流れる。この背尾根分かってくると大概は、東西に走っていることだ、世田谷には丘陵半島が幾つも幾つもある。この南は日当たりがよくて富士が見える。反対側は空気がしっとりしている。気がまるで違う。
 そんな土地の機微を歩きながら楽しむ。面白いことだ。
 大谷石の土台があってそこに沈丁花が咲いていようものならもう想像が駆け巡る。昭和の時代に、一家が当地に移り住んできた。奧さんは可愛い人だったろう、子は三人ぐらいいたか。その娘も大きくなって結婚した。その旦那さんは、「あの花の強烈な匂いは今も覚えているよ。沈丁花だったんだね」と。「娘さんをください、なんてどういったらいいか、匂いを嗅ぎながら思ったもんだよ」と言っていたが、もう彼もいい年で定年を迎えた。

(三)
 家でごろごろしていても仕方がない。そういえば、北沢川文化遺産保存の会のきむらさんが、怪歩学というのを言っておった。
「俺も明日から歩こう!」
 そう、歩きが一番、歩きの中にこそ自由がある。
「私はね、死ぬまで歩いていたいのよ。」
 我等の街歩きに参加した八十幾つかの女性がそう言った。歩いていて大往生、理想だ。

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2014年03月26日

下北沢X新聞(2530)〜戦争史の謎を追って新田原へ〜

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(一)
 種田山頭火の句の中で最も好きなのは次だ。

 分け入つても分け入ても青い山

 九州南部をさすらい歩いているときに詠んだものだという。実は、私も今、さすらい歩いている。九州宮崎の新田原である。

 彼、俳人は新緑が発する圧倒的な生命力に追われて、どこまでも歩いている。迷妄である。私は、近代戦争史の謎を追っている。歴史の迷路をさまよっている。

「特攻のこと調べるんだったら知覧だろう」
 誰もが口を揃えてそういう。が、私はつむじ曲がりだ。本殿よりも末社である。誰もが行くようなところに行っても得ようと思うものはみつからない。真実、事実は縁辺にこそ存在する。何もないところに行ってみる。

 ここ数年、偶然から世田谷の疎開学童のことを調べ始めた。戦争中、淺間温泉には七校の国民学校の学童が疎開していた。代沢国民学校を手始めに一校一校丹念に調べていった。そうしている過程で興味深いことが分かった。このうち五校までが当地温泉に滞在していた特攻兵たちと熱くふれ合って交流をしていた。知られざる事実である。

 戦史というよりも、市民史という観点から私は、この事実を追っている。調べを進めているうちに淺間温泉に滞在していた彼らは実は、新田原に集結していたことが分かった。この辺りは深い謎である。近代戦争史の秘められた部分だといえる。

 事実として分かっていることは、武揚隊、武剋隊が松本飛行場に飛来してきていたということだ。が、疎開学童からの聞き取りで分かったことは、この二隊だけではなかった。

 先だって、「森茉莉を歩く」の街歩きの途中で、山崎小学校に行き着いた。運動場が解放されていたことから、断ってここに入った。

「ここの学校は戦時中淺間温泉の小柳の湯に疎開していました。ちょうどそのときにやってきた特攻隊と仲良くなっています。その彼らは出撃して、新田原から手紙を出しています。近々出撃するがその成果は報道されるだろうと……ところが、その報はなく、しばらく経って満州から『お元気ですか』と手紙が来ました。これがよく分からないのです……」
 新田原まで来て、特攻には行かず満州に戻った。
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2014年03月24日

下北沢X新聞(2529)〜「境界の彼方」=溶解する境2〜

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(一)
 北沢や代田は辺境である。北辺の凹みやダイダラボッチの足跡が人知れずにあるところだ。そこにアニメの聖地ができた。文化現象としては極めて興味深い。

 「灯台下暗し」、考えてみれば「邪宗門」その名前からして怪しい場である。天井からランプが下がっていたり、古時計がたくさん並べてあったり、マスターがひょいと手をやれば、不思議不思議、ハートのトランプがたちまちにダイヤになって現れてくる。

 鉄道交点の文化特性は混交性である。プロレタリア歌人もいれば、新感覚派もいて、民衆詩派も、無頼派もまざっていた。混合、混交である。

 「吹きだまりだよ。吹きだまってくるんだね。文化が、庶民性もあるし、アッパーミドルも」、もう今はいなくなってしまった牧師さん亀田氏はよく言っていた。
 人間そのものも混在していた。街の片隅におやと思う人がいる。雪駄の音で、その当人がどんなやつだかわかるという人も。

 「邪宗門」に立ち寄るようになって何年なんだろう?
 小野田寛郎さんをみつけた鈴木紀夫さんが店で働いていたということを聞いたことがある。雪男を求めていてその過程で、ヒマラヤダウラギリで遭難して亡くなったと。

 考えてみれば不思議な機縁である。マスターの趣味が、一つの雰囲気を醸し出し、それが「邪宗の道」的な怪しさを生んだのかもしれない。

 「北沢川文化遺産保存の会」も邪宗門で色んな人に出会わなかったらできていなかった。発端は、地域への興味関心を深めていた東盛太郎さんとの出会いからだった…

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2014年03月23日

下北沢X新聞(2528)〜「境界の彼方」=溶解する境〜

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(一)
 文士町というものの論点は都市境界論である。江戸東京との距離が主軸であった。ところがこの隔たりがネットによって溶解し始めている。

先月のことだ。自身が初めて担任をした学年の同期会が新宿であった。彼らはすでに五十歳を過ぎたという。働き盛りである。その中の一人がアニメ製作に関わっていた。
「アニメというと西武池袋線・新宿線沿線が有名でしょう。でも、ネット時代になってからこれが変わったのです。瞬時につながる訳ですから東京でなくともいいのですよね。だから今は札幌だとか、福岡だとか、京都だとかに会社ができているのですよ」

 アニメの製作現場が地方に移っていると聞いていた。このことを間近で実感した。灯台下暗し、自分の近辺で異変をもたらしていた。

 昨日、いつものように「北沢川文化遺産保存の会」の会報を事務局の世田谷代田の「邪宗門」に届けた。第93号である。

「いつの間にかここが聖地になってしまいましてね。全国からファンがやってくるのですよ。有り難いですよ。これがまた凄いのですよ。台湾からだとか、ニューヨークからも来るのですよ……」
 マスターの作道さんが言う。

 このことは知っていた。我々の会の街歩きは、ロートルが多い。ところが、去年から若い人達がここに集まるようになった。何回か彼らと話したことがある。

「この下北沢はクリエーターがいてね、その場所が文士町地図に記されているんだ。もとは、辺境というか、東京の西の端っこにあったんだからここは境界なんだね…」
「そうっすか、へぇ初めて知ったなあ」
 アニメファンが感心していた。
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2014年03月21日

下北沢X新聞(2527)〜世田谷城半島の幻影:森茉莉5〜

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(一)
森茉莉文学は地域の固有性を巧く取り入れている。『恋人たちの森』の書き出しはその典型で、北沢八幡神社辺りから始まっている。

「まず、『バス通りの裏側に、寺院の境内や樹立が右側に長く続いた小道がある』と書いています。この寺は森厳寺であり、境内はここの北沢八幡神社です。右側ということはこの道を向こうのバス通り茶沢通りに向かって行っていたということですね。イングランド製のチョコを彼女は毎日下北沢に買いに行っていたとありますが、この道ですね。つぎにこう出てきます」

 新宿、三軒茶屋間のバス通りとを繫ぐ上水を挟んだ何本かの小道の一つである。その小路の一角に、小さな砂利置き場があり、その砂利置き場の隣りに、時々薔薇色の車の止まっている何か分からない建物があった。よくみるとロオゼンシュタインという銀座の菓子屋の配達屋兼菓子焼き場である。 『恋人たちの森』 新潮文庫

「ここに出てくる『小さな砂利置き場』は、まさにここ。今は駐車場になっていますが。ずっと前は北沢八幡神社の馬場だったんですね。東條英機首相がこの近くの北沢の家から馬に乗ってきて、ここで降りて八幡様に参拝していた。処刑後の遺品として小さな袋に入っていたものを東條由布子さんが出していて、そこに北沢八幡神社のお守りが入っていましたね。これは前にテレビで見ていました」

「この砂利置き場の向こうに工場があったんですよ。離れていてもその匂いでわかりましたからね。バームクーヘンですよね。このシチュエーションを彼女はうまく使っていますね。ユーハイムではつまらない。『ロオゼンシュタイン』と名前を変える。するともう森茉莉ワールドが出来てきますね」

「菓子工場はいい匂いがすると言っていましたが、そこのせせらぎ公園のところにあったアンコ工場は、臭かったですよ」
「あっち、下北沢3号踏み切りのところにはメンマ工場があってあれは臭かった」
「いやなにしろ、ここの淡島さまのお灸は大きかったこと、こんなに大きかったんだからな」
 参加者が匂いの思い出を話しだす。お灸の大きさを言ったのは古老の加賀さんだ。
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2014年03月20日

下北沢X新聞(2526)〜世田谷城半島の幻影:森茉莉4〜

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(一)
 鉄道クロス、機械近代の交接という触れ合いが人を集めた。人的な繋がりよりもその偶然性が作り出したのではないか、文士町の評価は新たな視点からされなくてはと思い初めている。

「ともかく群れるということはしませんでした」
 つい数日前に電話をしたときに加藤穂高さんはそう言われた。加藤楸邨の息子さんである。この言葉を聞いたときに孤高ということを思い浮かべた。文士町に来ていた彼らの多くにはそういう影があった。

 鉄道クロスを挟んで北と南にはこの孤高の俳人が居住していた。野屋敷の中村草田男であり、下代田の加藤楸邨である。ともに人間探求派と呼ばれる。この意味を後者は、「俳句と生活を密着させ人間の内面の表現を希求」すると述べている。俳句を通して人間とは何かを考えた。

 この彼らは当地に群れるために来たのではない。一つには交通の利便性が良かったためである。この二人ともに教員であった。学校に通う都合が良かったという点はあるだろう。
 加藤楸邨は昭和十六年から二十年まで下代田に住んでいた。当時、回りは田舎である。近辺に畑や雑木林がふんだんにあった。
「あの当時は、雑木林が多く残っていましたねえ」
 加藤穂高さんは言っておられた。

 加藤楸邨と森茉莉の距離は約百メートルほどだ。もっとも居住時代が違う。戦前に俳人は住んでいて、女流は戦後だった。

 しかし、土地の趣は基本的には変わらない。彼女は「世田ヶ谷なんてそこら肥えたごの匂いのする畠だつたし、田舎だつた」と昭和36年のに編集者宛てに書いた手紙に記している。そうそんじょそこらに肥だめがあって臭っていた。
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2014年03月18日

下北沢X新聞(2525)〜世田谷城半島の幻影:森茉莉3〜

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(一)
「その日を摘め」というフレーズがある。ラテン語の Carpe diem カルペ・ディエムだ。古代ローマの詩人、ホラティウスの詠んだ詩に出てくる語句だ。「今日という日の花を摘め」、今という時間を生きよという意味として使われる。

 今日近代時間はめまぐるしい。これに追い立てられて私達はあたふたと駆け回り、今の時間に咲いている花を摘まなくなってしまった。それとともに今の積み重ねである、過程がないがしろにされ、街のあっちの隅に、こっちの隅にあった人の営為がどんどん忘れ去られつつある。

 昨日のことだった。テレビを点けた瞬間、どこかで見たことのある風景が映っていた。多摩川台公園の向かい側の河原だった。何百回とサイクリングしたことがあってそこの風景はよく覚えていた。

「ホームレスの人が居てね、ネコをとても可愛がっていたのね、でも河が増水して二人流されていまだに見つからないのね、たくさんいたネコの二匹だけが戻って来たのね。ここでネコを慰みとして生きていた人がいたなんて誰の記憶にも残らないで消えてしまうのよね。」
 野良猫を長年に亘って世話をしていた女性がそんなことを言っていた。一片の事実だ。市民が営んできた歴史や文化はつぎつぎに消え去って行く。

 私達の街歩きは、追懐や追憶を求めての旅だ。「その日を摘む」、その時を楽しんで歩く、それこそは文化探訪に他ならない。
 どんな人がいて、どこをどう通って行ったか、昔を生きた人々の過程、プロセスを偲んでのさまよい歩きである。

「この梅が丘駅は、森茉莉のテリトリーだったのです。彼女、ここを何と言っていたか。『夢が岡』と言っていました」
 『贅沢貧乏』の中に出てくる。「魔利は夢ヶ岡の駅に向って元気に、歩いた」とある。野原野枝実、萩原葉子から「オーヴァーを貰っ」て弾む気持ちでこの駅に向かっていた。
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2014年03月17日

下北沢X新聞(2524)〜世田谷城半島の幻影:森茉莉2〜

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(一)
 森茉莉文学は地域の固有性を巧みに生かして創られている。それを歩いて確かめる、何ともそこが面白い。「森茉莉を歩く」と彼女の足跡が匂ってくる。

 彼女のエッセイ『贅沢貧乏』は、固有名詞に対するもじりが飛び抜けて面白い。取り分け地元ネタが見事で、我等もつい笑ってしまった。文章の中に「月林陸橋」と出てくる。これは間違いなく若林陸橋である。

 『贅沢貧乏』に舳徹冶(みよしてつや)のことが書き記される。代田に住んだ詩人、三好達治のことである。このワンマン詩人が催す勉強会に萩原葉子とともに出ていた。その彼が芸術院賞を受賞した。昭和28年(1953)のことだ。それで「テレヴィ」に出るというので「魔利はそれを見たく思った」、ところが淡島の彼女の家にはこれがない。野原野枝実のところにはある、萩原葉子のことだ。梅が丘に住む彼女のところにバスで行くがどうやらこれを乗り違えたようだ。

 ふと気がつくと、いつもはその手前で終点の筈の陸橋の上をバスが渡っている。さらによく見ると橋を渡ったにしてはその先の景色が違っている。と、思う間に見知らぬ踏切を渡った。車掌にきくと月林はもう通ったというので下りて、もとと来た方へ歩きだした 『贅沢貧乏』  講談社文芸文庫 1992年刊

 このくだりを読み解くのが楽しい。月林は若林のことだ。彼女は居住アパルトマン、倉運荘の前からバスに乗った。若林車庫で降りるはずだった。ところがこれはずんずんと進んで陸橋を渡っていく。これは間違いなく若林陸橋である。淡島通りから旧道滝坂道に入ってバスの運転士は急角度のカーブを巧く曲がって、そしてさらに右折する。堀之内道に入る。

「世田谷中原行きのバスは、ここのところで右折したんだよ」
 今回街歩きには間もなく九十を迎えるという加賀さんが参加していた。

 推理は間違いないと思う。森茉莉を乗せたバスは「見知らぬ踏切を渡」るが、これは世田谷中原1号踏切」のことだ。やっぱり彼女は世田谷中原行きのバスに乗ったのだ。

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2014年03月15日

下北沢X新聞(2523)〜世田谷城半島の幻影:森茉莉〜

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(一)
 森茉莉世界に地域、地形がどう関係しているのか?興味深い課題である。

 厚木街道の外れ、藪内郡の、一塊りの家の集圍から遠く離れた家がある。

『枯れ葉の寝床』(新潮社 1962刊)の冒頭書き出しだ。小説世界の入り口がこれによって提示される。彼女は淡島にいてこれを書いたものだろう。この街道は実在のもので居住地の南手を東西に横切っている道である。藪内郡は架空だ。実際的なものに置き換えると荏原郡となる。が、これでは現実的過ぎて夢世界が壊れる。

 一塊の家の集団は、旧来の土地に住んでいる人々の家だ。具体的には大場家とか、柳下家である。それらの家々から離れたところにある。そこは「大きな農家のあつた跡」に建てられた新しい家だ。暖炉が備わっている。

 シチュエーションについては、冒頭に続く文章ではこう描いている。

 家を遮つてゐる櫟の林は右端のカア・ウェイを残して、建物を圍んでゐるが、向かつて右手の庭は夏も枯れ葉に埋まつた森につづいてゐる。

 小説は夢世界である。現実と引き比べることは全くない。が、私は、つい土地の固有性をここに感じる。描かれているのは武蔵野風景である。

 「枯れ葉の寝床」は、昭和三十七年六月号「新潮」に発表されたものだ。この頃、彼女が住んでいた淡島の倉運荘アパート近辺には、ごく普通に武蔵野風景は残っていた。実際にだだっ広い道がうねりながら延びていて、その向こうには櫟などが生えた雑木林が至る所にあった。

 「カア・ウェイ」と出てくると、つい微笑んでしまう。彼女のイメージには現淡島通りがあったに違いないと想像する。
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2014年03月14日

下北沢X新聞(2522)〜高射砲陣地跡発見の反響〜

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(一)
 戦時下、高射砲が鳴り響く夜は恐怖でもあるが、反面惚れ惚れするほどに夜空が美しかったという。坂口安吾は『続戦争と一人の女』(坂口安吾全集4 ちくま文庫)にこう描写している。

 照空燈の矢の中にポッカリ浮いた鈍い銀色のB29も美しい。カチ/\光る高射砲、そして高射砲の音の中を泳いでくるB29の爆音。花火のやうに空にひらいて落ちてくる焼夷弾

 戦争の破壊力は人を惚けさせた。空襲の夜は大空花火大会である。燃える街の赤い火をB29が胴体に写し出してゆっくりと飛んで行く様は、怖いと思うよりも惹き付けられた。豊島与志雄も『古木―近代説話―』の中で、「上空では、高射砲弾の炸裂の煙も、飛行雲も、B29の姿も、すべてがゆったりとした美観を具えていました」とも語っている。

「高射砲が撃たれて上空でパッと炸裂するんだけど当たりはしないな」
「高射砲の撃ち方が始まると、ボンボンと音がして校舎のガラス戸がビリビリ震えて、授業にならなかったなあ」
「高射砲の破片よく落ちてきたなあ」
「どういうわけだかしらないけれど高射砲の空砲の音がラジオで流れていたな」
 高射砲の思い出である。

(二)
 駒沢高射砲陣地の発見は仲間内で大きな話題となった。これによって陣地の形が分かったことが大きい。これを手掛かりに昭和22年goo古地図で高射砲陣地跡を探しが始まった。つぎつぎに見つかってきた。

 仲間の米沢さんからのメールには、つぎの情報があった。

�� 川崎市川崎区塩浜4-11 日本貨物鉄道川崎車輌所内
�� 大田区大森南5-6-5 現 大森第一中学校 東側
�� 大田区羽田空港2丁目 羽田空港国際線ビル駅
(昭和22年の空撮画像、滑走路『33』の東側角地)
�� 文京区春日1-13-27 中央大理工学部2号館付近
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2014年03月13日

下北沢X新聞(2521)〜津田山高射砲陣地探訪行3〜

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(一)
「目標、東方上空の爆音、航速四十、運転始め、照射用意。第一分隊聴音よし。統一照射、十秒照射始め。用意測レ零五二・四三。目標追随、聴音機は東方上空を警戒せよ。目標東方上空の射光内の重爆、高度千二百、始め、航速十秒、航路角五百、五発……」

 なるほどプロの手練れはこのように描くのかと思った。岸田國士の『空襲ドラマ』という短いエッセイに載っていた表現だ。彼はこのドラマを想定し、実際に、「千葉海岸飯岡における、砲兵学校高射砲隊の演習を観」に行った。そして引用文のような「照空隊と砲隊との連絡」の実際的な言葉に仕立てた。

 ここから知ったことは、高射砲は照空隊との連携が不可欠であったことだ。指令を下す隊長は、電話機を握っていて照空隊に明かりの点滅、目標照射敵機の指示をしていた。その重要な照空陣地も東京西部のそこかしこに展開していたはずだ。

 調べてみると狛江市にあった。市のホームページに「照空隊陣地」として解説を載せている。

戦時中のことである。和泉原と言われた、現在市民総合体育館がある辺りの畑の中に、板塀で囲まれた六百坪ほどの一角があった。昭和十八年四月より照空燈を操作する小部隊が駐屯していた。照空燈というのは、夜間飛来する敵機を地上から照らし出す兵器である。ライトが捕捉した機影を目標にして高射砲が射撃するのである。


狛江は西から侵入してくる敵機を捕捉するには都合のいい場所だ。これが敵機を照らし、高射砲部隊は一斉に砲を放った。津田山高射砲陣地はこの南にあった。
 ホームページの記述はさらに続く。

狛江陣地は陸軍の高射砲第一一二聯隊第三大隊第一四中隊第六分隊であった。この聯隊は中央線(新宿から立川)以南、京浜地帯より北の地区に多摩川をはさんで配備されていた。高射砲六十七門、照空燈十八を装備する精鋭であった。第一四中隊は六個分隊の編制、連雀、牟礼、仙川、深大寺、布田、狛江に展開していた。各分隊には照空燈、聴音機、離隔操縦機、発電用自動車各一と二十から三十人の兵員が配置されていた。

 記録として貴重である。高射砲第一一二聯隊は多摩川を挟んで配置とある。津田山もこの聯隊だったと考えられる。

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2014年03月11日

下北沢X新聞(2520)〜震災から三年:原発事故の惨さ〜

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(一)
 人間は歴史を重ねるごとに追悼記念日を増やしていく。昨日は3,10東京大空襲、そして、今日3:11は、東日本大震災が起こった日、三年前のことだ。地震は自然的な災害だが、原発苛酷事故は人災である。事故が予見されていたにも関わらず、そのことへの手当、備えを怠った。これによって起こされた原発事故は今も計り知れないほどの被害を人々に与えている。

 鴨長明の『方丈記』は元暦年間に起こった「おほふなゐ」、大地震のことを記録している。彼が生きてきた中で、「おそれの中におそるべかりけるは、たゞ地震なりけるとぞ覺え侍りし。」地震ほど怖い物はないと。

 山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。
 

 常日頃信頼していた大地が、大きく揺れ動いて突然に裂ける。その様子を語っている。彼、鴨長明は見たままを文字に綴り、これを記録し残している。

 あの東日本大震災のときの大津波は記憶に鮮やかだ。陸地を襲い掛かる様は、言葉でなんとか書き表すことはできる。ところが、震災によって引き起こされた原発苛酷事故の被害は言葉で書き表すことは不可能である。放射能が目に見えないからである。

 前に広島原爆に遭遇した人から聞いたことがある。惨状は、「絵にも、言葉にも、書き表せるものではない」と。記録できないからその惨劇は伝わらない。原発苛酷事故がいかにとんでもないものであったか。追体験ができない。ところが、この惨劇が今なお続いていることである。

 しかし、大震災の記憶、惨劇は確実に風化しつつある。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」、ついこの間まで、節電、節電と言っていたのに、気づいてみると前と同じようにふんだんに電気を使っている。東京の夜はまばゆい。
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2014年03月10日

下北沢X新聞(2519)〜東京大空襲から69年目〜

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(一)
 96年前の今日、昭和20年3月3日、東京上空はさながら恐怖の大華火大会であった。光彩がきらめく様子を一色次郎は、次のように記している。

 世田谷にいて、火炎がごうごうと鳴る音が聞こえた。敵機は低い高度で一機づついろんな角度から侵入し、波状攻撃はいつまでもつづいた。高射砲、照空灯、曳光弾、焼夷弾、爆弾、ロケット砲、あらゆる音と光が、東京の上空で、交錯した。
 『東京空襲』 一色次郎 


 この日、東京の下町がB29の空襲によって「大火災が起こる。一人小田急の土手に立って東の空を見ていると、猛烈な西風、私の体は前へ吸い込まれそうだった」と彼は記している。彼の立っているところは小田急築堤、旧下北沢2号踏切と3号踏切挟まれた箇所である。

 狙われたのは東京東部の下町だ。が、爆撃機は世田谷上空も通った。照明弾も放たれた。北沢の丘に居住していた�垳�利一は、「照明弾の落ちて来る耀かがやきで、ぱッと部屋の明るくなるたびに、私は座蒲団を頭からひっ冠り、寝ている妻の裾へひれ伏した。」とそのときのことを『夜の靴』に書いている。

 紀行作家の宮脇俊三は、北沢タウンホールの向かい、森厳寺左岸上に家があった。戦後これが人に渡って、「晴光園」という旅館として営まれた。この場所にいての当夜の経験を書いている。

 頭上にはB29の群れが、これまでにない低空で、つぎつぎに現れ、探照灯を浴びながら東へゆっくりと旋回していた。低空を飛ぶB29は、冬空を高高度で飛んでいた銀一点のそれとはちがって、怪鳥のように大きかった。しかもあとからあとから絶え間なく、轟々とやって来た。ちょっと途切れてホッとすると、すぐまた新しいB29が続々と現れた。それはもはや「お客さん」ではなかった。やっぱり東京を焼く気か、と私は思った。
 宮脇俊三鉄道紀行全集2巻  増補版 昭和時刻表 角川書店


 先年、十一月一日に高高度でB29一機が帝都上空に飛来してきた。そのときは、お客さんだった、が、もうこのときはほとんど制空権は奪われ、B29は低空で侵入してきた。

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2014年03月08日

下北沢X新聞(2518)〜文士町の発信と評価2〜

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(一)
 街歩きを自ら行う人は、この面白さが分かっている。歩いていた道が、そこはかとなく曲がっていると予感を持つ。案の上、庚申塔とか富士講碑とか、お稲荷さんなどが道端に見えてくる。古道は旅人のうきうきした心の鼓動を高めてくれる。
 
 教養を高めようとして街歩きに参加された人達を案内する。文士町とは初めての出会いである。折々にこの場所ですと言って案内する。多くが跡だけである。ここからイメージを膨らませるのは難しい。マンションを指差して、「あれが旧居」ですというのも味気ない。何かがあればよい。樹木などはポイントだ。しかし、ぎっしりと文士町一帯も家が建ち始めた。森厳寺川の崖線斜面にはつい近年までえ赤松が生えていたがそれも宅地化で伐られてしまった。めぼしいものでいえば静泉閣そばの桜、森瑶子旧居跡のヒマラヤ杉ぐらいであろう。

 北沢川緑道に文学碑を建てた、�垳�利一文学顕彰碑、坂口安吾文学碑、代田の丘の鉄塔由来碑(萩原朔太郎)である。これはそれなりに意義がある。その土地と作家の関係が記してあって、街歩きをする場合の、足休めの場面とはなる。

 今年は森茉莉文学碑を建立しようと計画していた。版権所有者に許可願を送った。ついこの間、返答を戴いた。我等の活動については評価するが、家族の方針としては森茉莉に関する文学碑の建立は認めないとのことである。

 文化活動の一環として良かれと思って行っていることでも遺族の側は、また別の思いを持っているのだと実感したことだ。
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2014年03月07日

下北沢X新聞(2516)〜文士町の発信と評価〜

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(一)
  一月から「下北沢文士町入門」というタイトルで街歩きを行った。教養講座のワンクールが三回である。それが昨日終わった。

 岡本綺堂の『半七捕物帖』の「大阪屋花鳥」の巻末尾に、「森厳寺へ灸を据えに来たのが運の尽きでした」とある。犯人は引っ捕られて一巻の終わりとなる。街歩きの終点はまさにこことなった。第一巻の締めくくりである。

 関わったものに対する思いというものがある。調べてきてよく知っているからこそ説明をする。気づいたことは地元の人とは反応が違うことだ。今回の場合は、オープンスクールでの募集である。世田谷区域ではなく広く東京、そして千葉から受講者が集まった。一般参加者に、当方が、文士町と呼称している内容がどのように伝わったか?。

 将来、私の手を離れて、街案内ツアーが始まるかもしれない。そのときのための参考情報になればよい。

 思いだけでは通じないとまずは思った。例えば、昨日の場合、詩人福田正夫の大原の旧居近くを通り掛かった。
「福田正夫という詩人は知っていますか?」
 聞いてみたが知らない。じゃあ、「石垣りんは?」と聞くと二人ほどが反応を示した。
「彼は女流詩人を育てたのです、石垣りんは代表格でここに通ってきていました」

 彼福田正夫のここで詠まれた『壕舎の歌』を話題にした。ここに使われている擬音語は何の音なのかと聞いた。「キリヤコンキリリコンコロロン」だ。

「この大原一帯は戦災ですっかり焼けたのです。すっかり火の海になったので玉川上水のこの切れ込みに逃げて来た人も少なくないのです。家が焼けた後、そこにバラックを作って生活したのですね。風が吹くと屋根が鳴るのですよ、何が鳴るのでしょう?」
「………?」
「トタンですね、焼けトタンが風に揺れて互いに軋んでね…」
 自分の想像世界を説明してみる。

 文士旧居をかなり巡ったが受講者には知名度が高くない。文士町居住者、よく文学について知っている人は、「これは!」と驚く、が、一般人に取ってはさほどの感銘はないように思えた。

 通例は、文士の来歴を話すが。これが伝わらない。どういう作品を書いてどういうエピソードがあったのか。それを整理して伝える必要があると思った。

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2014年03月05日

下北沢X新聞(2515)〜津田山高射砲陣地探訪行2〜

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(一)
 首都東京が拡大し、膨張して都市圏が広がっていく。それは境界の移動である。田園と都市の境がどんどんと西に移っていく。武蔵野を越えて多摩丘陵へ。

 それぞれの境界における都会は、どう意識されてきたか。フラットな武蔵野では、耳で都会を捉えていた。皇居で放たれる午砲の音、それから走行する電車の遠汽笛などである。が、多摩丘陵までくると視覚的効果が抜群だ。

「空襲警報が鳴るとそこの久地神社のところに必ず行きましたね、行ってみましょう……ほらそこです、ここに二三十人は入れる防空壕がありました」
 鳥井脇にはその防空壕の跡と思われる穴がまだ残っている。
 浄元寺で出会ったのが石塚靖男(のぶお)さんだ。昭和九年生まれだと言われる。

「空襲警報が鳴りやんで、防空壕から出て来て、そして、ここの所から東の方を見るのですね。そうすると都心の方向の、あっちやこっちが赤く燃えているんですよね…」
 そこは丘陵の東のり面である。都心の高層ビルが向こうに見えている。多摩丘陵全体が江戸見坂的な位置にあるのだと思った。都会で起こっている悲劇を傍観できる場でもあったと言える。

「いつだったか。ここの上にも焼夷弾が落ちてきたんだけど、風で流されていって対岸の世田谷まで飛んで行ってそこがやられちゃったからね…」
 多摩川左岸にあった工場が空襲でやられたことはあった。たしか「わかもと」はそうだったと記憶にはある。

「高射砲は直接見たことはありません。上の方はずっと陸軍の用地だから入っていけなかったのですよ。でも、高射砲が鳴って、弾がどんどん撃たれるのは見えていましたからね。その弾がはねるのが見えるんだからね、途中で破裂するのがね。なかなか爆撃機に当たることはなかったね。」
 尾根上の陣地で弾が発射されるとやはりどんどんと音がして、空気が震え、ガラス戸が鳴ったという。
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2014年03月04日

下北沢X新聞(2514)〜津田山高射砲陣地探訪行〜

P1040517
(一)
 時を経るにつれ、人の記憶は消滅する。が、この市民の記憶こそは歴史文化の資源ではないかと思う。今にも消えようとしていた歴史事実の発掘が、類似する他の情報へと結びつく結果となった。
 
 駒沢高射砲陣地情報に端を発して、ネットによる戦跡探しが始まった。まず、仲間の米沢さんが昭和22年の航空写真で高射砲陣地跡らしい箇所を発見した。これに早速、別宮通孝さんが反応した。

米澤さんの言っておられた高津区久地の高射砲陣地跡が確認できました。この陣地は、半円状西側に向けて、明らかに高射砲が設置されていたと思われます、壕状の施設が見て取れます。南武線沿線に点在する、軍需工場の防御目的かと思われます。

駒沢高射砲陣地の形態が分かって、それと同じようなものは他にないかということで仲間が探しはじめた。

 『goo』の昭和22年、古地図だ。これでみるとくっきりとその円形の陣地が見える。六門の砲座らしいものがはっきりと写っている。そこは今はどうなっているのか。興味が強く湧いた。その場所は、旧郡名でいえば橘樹郡、荏原の隣である。日ごろの荏原逍遙の足をのばせば簡単だ。最寄り駅の自由が丘から溝の口は電車一本で行ける。

 大井町線急行で21分ほどだ。この間に多摩川を渡る。大きな境界越えである。

(二)
 溝の口駅からは歩いた。地図を持って歩いているが、もう初手から迷ってしまった。第一印象は、荏原とは地形がまるで違うということだ。まるで異国に来たようだ。

 国道246、厚木街道の切り通し交差点に掛かる。武蔵野で見られる切り通しとはこれも違う。山をまっぷたつに切り裂いたものである。
「多摩丘陵はスケールが違う!」
 
 まずは久地不動尊を目ざす。航空写真と地図を持って歩いていく。ところが、これらはみな平面図である。実際にそこに足を運んでみると印象が全く違う。普段見なれているなまっちょろい坂などはない。
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2014年03月02日

下北沢X新聞(2513)〜駒沢高射砲陣地跡補遺〜

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(一)
 現住所、駒沢にあった高射砲陣地は密かな話題を呼んでいる。現地に行ったり、資料を調べたり、古老に聞いたり、さまざまな人がこれを行っている。歴史からすっかり消え去ろうとしていた事実。大槻統さんからの情報に端を発してこれがよみがえりつつある。

 昭和20年2月末の大雪の日には艦載機がこの陣地を攻撃しています。カーチス・ヘルダイバー艦上爆撃機が低空で銃撃するのを見かけています。当時の印象としては真っ黒に見えたヘルダイバーでしたが、多分ダークブルーの塗装だったと後日知りました。

 終戦後は再び一面の畠に戻りましたが、高射砲を据え付けた頑丈なコンクリート土台やその砲を囲んだ弾薬庫などは撤去できず暫くそのまま残っていました。お百姓さんたちは絶好の農機具入れや肥料庫として活用していました。


これは大槻さんから頂いたメールである。
 艦載機が当地高射砲陣地を攻撃した。何時のことだろう?。こういう場合役立つのが記録である。世田谷区若林にいたのが海野十三、世田谷区北沢にいたのが一色次郎である。それぞれに詳しい日録を残している。

 前者の『海野十三敗戦日記』(中公文庫)には二月十六日に、「艦載機延べ一千機で関東、東海地区へ来襲。」と書かれている。後者、『東京空襲』(河出書房)にはこう書かれている。

 艦載機である。初めてだ。アメリカの戦闘機が、とうとう東京までやってくるようになったのだ。私の体のの輪郭がひとまわり縮んだみたいに、身内が引き締まる。
「敵小型機は機銃掃射を行うにつき特に警戒を要す」
 ラジオは繰り返し、注意している。


 B29と違って、艦載機は小回りがきく。いつ何時やってきて、いつ撃たれて死ぬか分からない。東京都民は震え上がった。東京の空は奪われてしまった。現今の我々は空に恐怖を覚えることがない。が、戦争になればたちまちに空が戦場になる。
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2014年03月01日

下北沢X新聞(2512)〜会報第92号「北沢川文化遺産保存の会」〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第92号  WEB版
                2014年3月1日発行(毎月1回発行)

               会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん

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1、荏原地域地形の面白さ

(一)
 日々歩かない日はない。私の日々の日課である。呑川を下っては、大田区雪が谷へ、上ってへは世田谷新町へ、また東、目黒碑文谷から、下馬、野沢へ、その日その日の気分であっちを巡り、こっちを回りしている。
 古老が来れば、話を聞く。が、この頃思うのは、自分があれやこれやと地域の文化を調べていることで、土地の人よりも自分の方が詳しい場合もある。自分もまた古老領域に近づきつつある。恐ろしいことだ。

 荏原はなんといっても地形が面白い。荏原の中心となる地形の基本は、大きく言えば二つである。いわゆる、荏原台であり、淀橋台である。ここをいつも私は、逍遙と称して歩き回っている。

 この場合、いつも出くわすのが水路である。が、もっともこれらは多くは暗渠化されているので見た目には分からない。が、凹みの真ん中には必ず川がある。自明のことだ。私は、目黒区八雲、荏原台の縁辺、言えばかつては湿地帯だったところに住んでいる。北上すると出会うのが蛇崩川、烏山川、北沢川である。大体が東流している。武蔵荏原の川は東流する。が、いずれもが皆、東南に流れて東京湾に注いでいく。

 台地の向きも大体が東に行ってそして東南に向かう。古道などもこれとほとんど同じだから面白い。道が東南に向かって斜めに行く場合は、大体が女性を慕うものだ。その尾根筋を辿ると品川に行ってしまう。道もまた品川宿の女性を好むものなのだろうか。

まず流れが東流するのはなぜか、武蔵野台地が「多摩川が奥多摩の山々を抜け出る青梅付近を頂点として、東西に細長くのびた扇状に広がっている」(地学ガイド「新版東京都」コロナ社)からである。簡単な理屈だ。扇の要、西の青梅は180mぐらいで、東の端の下町低地はでは20mぐらいとなる。水は高きから低きに流れる。

 興味深い点は、武蔵野台地南端の荏原台や淀橋台は地層としても古いことだ。これは、下末吉面と呼ばれている。「ここでは表面を流れる川に沿って浸食された谷がかなりの奥まで入り込み、複雑な地形を作ります」(同著)とある。つまりは、古くから谷が浸食され、この地域には「鹿の角状」の浸食谷が多く見られる。谷の物語が詰まっている。

(二)
 このところ志木市柳瀬川図書館で五回シリーズの講座を持ったことからここへ通っている。ふと興味を持って職員に、高さ何メートルぐらいかと聞いた。
「十四五メートルではないか」
「えっ、そんなに低いのですか」
「ええ、その柳瀬川にはボラが遡上してきますからね」
 東武東上線で北上したわけだから奥地へ入ったという気持ちがあった。東京湾に近いということは思ってもいなかった。

 分かってみるとなんとまあ、ここが武蔵野台地の北端であった。気づいたことは南端と川の流れが違うことだ。これらの地域では「どの川も最初は東に向かって流れているのですが、途中で流路を北向きに変えた」(同著)という。なぜか「関東平野の中央部を中心にして盆状にへこむような沈降を続けている。関東造盆地運動と関係があるようです。つまり、台地北縁部では北東方向への勾配が大きくなり、その結果これらの川の流路も北へ向きをかえた」というのだ。納得である。

 武蔵野台地の北と南とではこれが反対となる。つまり、台地南端部では南東方向への勾配が大きくなり、その結果川の流路も南へ流路を変えるということになる。目黒川、呑川はその典型である。

(三)
 いつも言っていることがある、荏原の谷は左岸が高いということである。これは何万キロと自転車に乗り、そして何万里も歩いて来ての自分の観察の結果である。なぜ左岸が高いのか、雲を掴むような話で分からなかった。

 ところが、関東造盆地運動があるとすれば、台地縁辺はその影響を受けるわけである。つまりは中心部が高く、縁辺は順次低くなる?そんなことで左岸は高くなっているのだろうか?

 とするならば、武蔵野台地北端では、逆、つまり、右岸が高くなっているのだろうか。柳瀬川、黒目川、白子川では本当に右岸が高いのか。ほとんど行ったことがないのでよくは分からない。しかし、よく分からないことは希望である。知ろうとすれば面白くなる。
面白がれば面白くなる。地形についての興味は尽きないものである。


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