2014年05月

2014年05月31日

下北沢X新聞(2572)〜会報第95号「北沢川文化遺産保存の会」〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第95号 
                2014年6月1日発行(毎月1回発行)

               会長 長井 邦雄(信濃屋食品)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
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1、歴史発掘への挑戦−北沢川文化遺産保存の会の活動−

 「北沢川文化遺産保存の会」は、ささやかな会である。今年末、創立十周年を迎える。この間、地域の文化を懸命に掘り起こしてきて、これをネットに記録したり、地図に落としたり、冊子にまとめたり、文学碑に刻んだりしてきた。余り目だたずにこれを密かに行ってきたことは誇りである。

 考えてみると我らの会は文化総合を扱っている。文学、歴史、民俗学、芸術、建築、地誌、地理など多岐にわたるものである。これを興味本位ではなく真面目に行っている。文学や交通路、インフラなどの当地を対象とした学術研究などでは当会の資料が使われたり、また直接的な問い合わせがあったりもする。

 分野でいえば、特に戦争近代史に関しては、今まで知られていなかったことを掘り起こしてきた。戦争の記録についてはブログに書いたり、書籍に残したりと膨大なものに及んでいる。中でも特記すべきことは、我らの会の活動を通して数多くのドラマが生まれたことである。
 
 毎年、五月には戦争物語が編まれる。常にこれが秘やかに生まれているところが素晴らしい。この五月には意味がある。我らが文化を掘り起こしている一帯は戦火を浴びた。それが昭和二十年五月二十四日、五日である。山手空襲と言われるものだ。
 東京空襲はよく知られている、が、山手空襲は知られていない。前者は東京下町が中心である、ここが壊滅的な被害を受けた。後者は東京山の手だ、犠牲者は四千人ほどで東京空襲での十万人以上には比べようもない。が、爆弾投下トン数では前者を遥かに上回る。首都東京の息の根を止めるというのが作戦の狙いだった。事実、知識中枢、統括中枢がこの空襲によって破壊され日本国は瀕死の状態に陥った。これによって東京は爆撃リストかた外された。

 「あの戦争を決して忘れまい」、戦争は二度と行ってはならぬ。特には我々は文化の発掘を通して、戦争経験者がどんどんいなくなりつつあることを知った。これではいけないということで。毎年、この時期に「戦争経験を聴く会、語る会」を開いている。戦争の苦い経験を後世に伝えてようということで、継続して開催してきた。
 今回は、五月二十四日に行った。もうこれが七回目である。今回もまた物語が生まれた。話者によって、参加者三十数名に新たな物語を刻みつけた。

 第二回目では、偶然が、偶然に重なり、大きなドラマとなった。代沢小の引率の先生柳内達雄先生は自分が受け持った学童を鉛筆部隊と名づけた。鉛筆でどしどしと手紙や日記を書かせた。この部隊は、広丘郷福寺に疎開していて寮歌を唄っていた。これが忘れられないという人が現れて、歌詞をぜひ知りたいとの連絡があった。が、なかなか見つからなかった。そんなときに私のブログコメントに正確な歌詞が伝えられた。驚きだ。鉛筆部隊の一員が往時、下北沢の実家とやりとりをしていた手紙を残しておいたのだ。

 その人は立川裕子さんだ。病気になって家を処分したときに古手紙が出てきた。それが古物として流れ出た。それを偶然に購入したのが矢花克己さんだ。その手紙の束に寺で歌っていた歌詞が挟まっていたのだ。この発見がきっかけとなり疎開学童、そして関係者が一堂に会して、その歌を代沢小学校に集まって歌ったことだ。忘れ難い物語である。
 この鉛筆部隊の子供たちは、当時、昭和二十年三月、偶然に陸軍松本飛行場に飛来してきた特攻隊と出会っていた。このことを調べるうちに新たな事実が発掘された。特攻隊とふれ合っていたのは代沢小だけではなかった。他に世田谷区の東大原小、駒繋小、山崎小、二子玉川小の疎開学童もまた彼らと別々の形で関係していたことが分かった。

 淺間温泉には、世田谷から七校の小学校が疎開した。これらの学校すべての関係者に当たって体験を聞いた。このうち五校が特攻隊とふれ合っていた。それぞれの旅館で、それぞれのドラマがあった。このほとんど知られていない事実が明るみ出たことである。

 ブログ、「東京荏原都市物語資料館」は、文化発掘の成果を継続的に記事にして掲載している。驚くほどの数のキーワードをネットの海に流している。これらを検索で引っ掛けている人がいかに多いか、これも知られざる事実である。長野県安曇市在住の丸山修さんは「信州 武揚隊」で検索したことが機縁となって私と繋がった。彼の手許にあったのはなんと特攻隊、武剋隊の残した遺墨であった。この発見は大きい。彼らが陸軍松本飛行場に飛来してきていて淺間温泉に滞在していたことがはっきりと裏付けられたからだ。
 特攻兵の墨痕鮮やかな遺墨が載っている和綴じ帳、これが昨年夏、松本博物館で開かれた『戦争と平和展』で展示された。これへの入場者数は三万三千人もあったと聞いている。

 みつかった資料は他にもある。元鉛筆部隊だった鹿子木幹雄さんの克明なノートである。疎開史を語るものである。またここには松本五十聯隊のことが多く書かれている。『松本五十聯隊史』はあるが、ノートに書き記された事実はすべて欠落している。聯隊史の歴史を補うものである。持ち主には、東京よりも長野に寄贈したらいいのではと提案している。

 山崎小、そして、二子玉川小の疎開学童と特攻隊の触れ合いは、これまた興味深い物語である。とくに前者は埋もれていた歴史事実を解明する糸口になるのではないかと考えている。彼らは、子供達と別れて九州新田原へ飛んだ。そして、近々出撃してその戦果は新聞などにも報道されるだろうと子供たちには書き送っている。
 ところが、その彼らは、出撃することなく、満州に帰ってしまった。そして、山崎小の疎開学童と再び、手紙での交流を始めたのである。謎に包まれた特攻出撃である。

 今年、この間、第七回の戦争経験を聴く会、語る会は五月二十四日に行われた。青森県八戸から参加された天内みどりさんは全くの奇遇である。本を読んでいたところ、自分に宛てられた手紙を見つけた。それも読んでもないもので驚愕されたという。これは先の説明にあった立川裕子さんの手紙の束にあったものである。

 手紙発見者の矢花さんは、その本物を当日、天内さんに渡された。一つの劇の結末ではある。このときに元特操富田�ぜ,気鵑睿辰気譴拭�七回目も貴重な会となった。

 来年は、山崎小の疎開について話してもらう予定だ。小柳の湯での疎開学童と特攻隊との交わりは謎だ。この隊の行動は、戦時下における陸軍松本飛行場の位置づけを証明するものだと思っている。
 こうして一つ一つを列挙すると、戦争の陰に隠れた真実を記録していたことになる。北沢川文化遺産保存の会の深い意義がここにある。これは自信を持っていいことだ。

2、「下北沢文士町文化地図」改訂六版に向けて

先だって街歩きを行ったとき、世田谷代田駅を終点とした。その時に、駅前代田吹上館の壁に、大きなこれが取り付けられていた。参加者はびっくりしていた。この文士町文化地図は、他に北沢川緑道二箇所にも看板として取り付けられている。案内掲示版として定着したことの証明である。

 現行の地図も、残り少なくなってきた。これを改訂したい。特に小田急が地下化したことで地図もだいぶ変わってしまった。実情に近づけるようにしたい。

 第五版では、アトリエを持っていた芸術家を青丸を施して付け加えたことだ。付け加えや間違いはぜひとも指摘してほしい。現在のところ「下北沢映画劇場」の場所が違うという指摘が来ている。新たに付け加えるものとして候補は、清水乙女、森敦が上がっている。その他にあるという場合には、当方に知らせてほしい。

 裏面にいつも古地図を載せている。これが好評だ。改訂版では、占領軍が作った地図を載せるつもりだ。版権についても問題ないということなのでこれを使う予定である。

3,都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

 [6月の歩く会]
・第96回 6月21日(土) 午後一時 京王線笹塚駅改札前集合
  特別企画 三田用水を巡る�� きむらたかしさん
今年から三田用水を水路のテーマにし、これを数年かけて探査する。
  三田用水のスペシャリスト、きむらたかし氏を迎えての用水探査行を
  開始する。参加費はこれのみ特別会費500円。(資料代など)
  コース:取水口跡→山下口→三角橋→溝が谷口水路跡→駒場橋→純粋階段→駒場口(石橋供養塔)→中川口→鉢山口→猿楽塚(猿楽口)→槍が崎水路橋跡→目黒富士跡→坂口水路跡(里俗・暗闇坂)→中目黒駅


・第97回 7月19日(土) 午後一時 田園都市線三軒茶屋駅改札前
  駒沢練兵場を歩く  ナビゲーター 上田暁さん
・第98回 9月20日(土) 午後一時 田園都市線三軒茶屋駅改札前
 駒沢高射砲陣地探訪  
 大山道碑→下馬大山道→うなり石→226事件安藤大尉旧居→宗円寺→品川用水→駒沢高射砲陣地跡探索→双子の給水塔→志賀直哉旧居→呑川源流→桜新町駅 
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも500円
 参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記
▲毎月、街歩きを行っています。間もなく回数は、百回目を迎えます。今年は熟達者の方々にお願いをしていてこれが好評です。参加者も増えて来ています。これの参加費は300円としています。下調べをしたり、下見をしたりで講師の先生に負担がかかっていることは事実です。先回、五月の街歩きで「300円」では安いとい話がでました。幾らにするのか難しい点はあります。「ワンコイン」が適当なのではという声がありました。落ち着きどころとしてそのぐらいかなと思っています。
▲街歩きについては、レク保険に入っていません。その点が気がかりです。途中で起こった事故にも対応できるようになればよいと考えてもいます。「ここのこんな保険はどうか」、具体的なことを知らせて下さると有り難いです。
▲「北沢川文化遺産保存の会」は、ウィキに登録しました。が、典拠が不十分ということで削除されるとのこと。脚注の付け方がよく分かりません。これも教えていただくとありがたいです。どうかよろしくお願いします。
▲「北沢川文化遺産保存の会」納涼会は、北沢タウンホールで八月二日(土)五時半から開催する。なお、十周年を記念して十二月六日は北沢タウンホールスカイホールで会を開催を予定している。ぜひご参加ください。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千二百円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。
●資料 北沢川文化遺産保存の会発起人会開催のお知らせ。
 偶然書類の山から出てきたことから散逸しないようにここに資料として掲載した。
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2014年05月30日

下北沢X新聞(2571)〜第7回戦争経験を聴く会、語る会3〜

戦争経験を聴く会、語る会 030
(一)
 アメリカと戦ったことも知らない、疎開生活がいかにひどかったかも知らない。広島、長崎に原爆が落ちたことも知らない。若い人達が戦争を知らなくなった、知ろうともしなくなってきている。

 一つは、時の経過による体験の風化がある。二つは、苦しみへの想像力の欠如がある。三つ目は大人が教えないという問題がある。これには社会全体の問題も潜む。

 戦争体験の継承が非常に困難になってきている。求めたいのは学校現場での学びを通して伝承である。ところが、教育現場も窮屈になってきている。例えば、竹富島教科書問題もこの一つだ。ここは東京書籍の教科書を使いたいということで独自に使っている。その中学校の公民教科書「平和主義と憲法第9条」では次のように記述されている。

 日本は第2次世界大戦で他の国に重大な損害を与え、また自らも大きな被害を受けました。そこで日本国憲法は、戦争を放棄して、世界の恒久平和のために努力するという平和主義を基本原理としました。憲法9条は戦争を放棄し、戦力を持たず、交戦権を認めないと定めています。

 ごく常識的な記述だと思うが、育鵬社の教科書を使っている他の自治体、石垣市、与那国町とは選定を巡って意見のすり合わせができない。そのことから、竹富町独自にこれを用いている。いわゆる八重山教科書採択問題である。

 この頃感じることは社会が全体主義的な傾向になってきていることだ。そのことから歴史、特に戦争に対する批評性が希薄化してきている。
 
 一昨日、前の職場のOBと上野で昼食会をした。そのときに聞いたことが記憶に残っている。
 
「何年か前に教育実習に来た人が、久し振りで上京するというので会って話をしたの。石川県で教員をしているというの、彼女言うには教員としての自由がない、入ったときと比べてますます閉鎖的に教育現場はなってきている、特に地方はその傾向が強いと言うのね、話をしていてとても切実でした。東京に出て来てやっと自由に話せると彼女は言っていた…」
 かつての同僚はそんな話をしていた。
 そういえば島根から上京してきた女性と文化について論じたことがある。地域の文化を掘り起こしてブログに書いたらと言ったら
「田舎はとても狭いので、誰が書いたかすぐわかって、そんなことも難しい…」と言っていた。東京と地方とでは、自由の格差が生じてきている。
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2014年05月28日

下北沢X新聞(2570)〜第7回戦争経験を聴く会、語る会2〜

戦争経験を聴く会、語る会 032
(一)
 人は歴史、真実を忘れ去る。思い起こせば、あの戦争がいかに酷いことだったか。偶然、東京大空襲を経験された方が参加しておられた。その平澤さんの話は強烈だった。

「あのね、ほらあの花火で有名な桜橋、それからスカイツリーがよく見えるという北十間川、若い人達が打ち上がった花火がきれいだとか、塔がステキだと言っていますけどね、私なんかそんな気持ちになれませんよ。いまだあの辺り、大空襲で死んだ人の骨が、川にはごろごろしていますよ…私はあのときあそこにいましたからね、ともかく死体を飛び越えていかないと通れないのですから…あの死体の処理なども酷いものですよ。突き刺してトラックの荷台に放り投げるのですから……」

(二)
 まず富田�ぜ,気鵑両攜世澄H爐脇瓜崋丗膤慷讐覆忘潦愧羈愿牝旭�で召集された。いわゆる特操、特別操縦見習士官だった人である。別名、学鷲とも言われ、操縦訓練を受けた後に特攻兵となり、特攻戦死した者も多い。彼は特操二期だった。

「『臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。 大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は今八日未明 西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。』、開戦を知らせるラジオニュースは今もって鮮明に覚えています。真珠湾攻撃での戦果を聞いて勝った勝ったと大騒ぎしていました。何しろ、米英は鬼畜ですから……」

「明治維新が起こっていくらも経たないのにまず日清戦争に勝ち、そしてその後、当時の大国ロシアと戦って勝ちました。このロシアに勝ったことが歴史上の大きなポイントですね。世界の強国にのし上がった、これで思い上がったと思います、これがきっかけとなってよりいっそうに軍事大国になってしまいました……」
 富田さんは、歴史経過を話される。満州の関東軍の、陸軍中央の国防政策から逸脱したことが発端となって日中戦争が始まり、それが太平洋戦争に結びついていったと…

「南京陥落というのは大きなニュースでしたね、勝った、勝ったで、日本各地で提灯行列が起こって大変でした……」
 戦争は敵との戦いだ。勝利の裏には犠牲がある。何人もの人から戦争経験を聴いてきた。この中国の戦線での日本軍のふるまいについては、証言者は声を落として語ったものだ。勝利の陰には、大勢の市民の犠牲がある。

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2014年05月27日

下北沢X新聞(2569)〜第7回戦争経験を聴く会、語る会〜

戦争経験を聴く会、語る会 021
(一)
 目には目を、歯には歯を、人間の復讐への欲望を言う。簡単に言えば戦争はこの感情に始まる。俺の領地を犯したから一発お見舞いしよう。これが発端となって戦争が始まる。一旦、交戦が始まると終わらない。憎しみが憎しみを生む、すると倫理、道徳などはもう全く意味をなさなくなる。何でもありだ。暴行、殺戮、陵辱、強奪。抑制は利かない、憎しみは核爆弾のスイッチさえも容易に押してしまうだろう。

 どうあっても戦争はしてはならないのだ。もしも戦争になるかもしれない国があるとすれば、努力に努力を重ねて、戦争にならないように交渉をすることだ。民主主義下における大統領なり、首相なりは、このことへの不断の力を傾注すべきである。初手から銃を握ってもよいのだよと言ってはならないのだ。


(二)
 私たち、「北沢川文化遺産保存の会」は、地域一帯の文化を掘り起こしてきた。もうこれが十年になる。何百人、いや千人はもう超えているだろう、人々に昔の話を聞いてきた。その過程で常に行き着くところは、凄惨で酷い、あの戦争である。

 サイパン島は玉砕した。が、この生き残りに経堂で出会った。
「みみずであろうと、蛇であろうと食えるものは何でも食った…が、人間水が命だ、島にはこれがない。現地住民が湧き水のありかをこっそり教えてくれた。行ってのんだときその水はとろけるように美味かった…」
 命生きてこその話だ。しかし、多くの兵士は無念の死を遂げた、のたれ死にしたり、艦砲射撃の爆弾で粉みじんに砕けて死んだり…悲惨だった。玉のように美しく砕けるわけではない、肉片が飛び散り、骨は砕け、人の躰をなさない死に方だ。

 しかし、こういうことを話してくれる人がめっきり少なくなった。戦争経験者の高齢化だ。あの記憶を抱えたまま次々に人は亡くなっている。生きていても話さない人もいる。今回も我らの会に参加している一人がいた。特攻艇「震洋」の乗り組み員だった人だ。彼は決して話さない、が、いつも話は聞きに来られる。特攻生き残りの辛さ、苦しさは伝えようにも伝えられないのだと思う。

 なぜ、この時期に「戦争経験を聴く会、語る会」を開いているか?
 ちょうど、東京西部一帯、山の手が空襲を受けたのは、今から69年前の5月24日、25日である。いわゆる山の手空襲である。
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2014年05月25日

下北沢X新聞(2568)〜68年振りに届いた手紙〜

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(一)
 とある人が本を読んでいたら、そこに自分宛の手紙が載っていた。突然のことに、当人も驚いてしばし唖然、呆然となったという。その方は青森県八戸市在住の天内みどりさんだ。

 その本の名前は『鉛筆部隊と特攻隊』だ。彼女は出版社に連絡をして著者である私の住所を聞き出し、手紙をくださった。どんなに驚いたかと書き記されていた。

 その彼女自身数奇な運命を辿っていた。満州新京からの引き揚げ者で、その苦しい逃避行は『芙蓉の花』という著書に記されている。

 天内みどりさん、彼女との文通が機縁となって、昨日の上京となった。下北沢タウンホールで開かれた「第七回 戦争経験を聴く会、語る会」(北沢川文化遺産保存の会主催)に参加するためにである。彼女は、苦く辛い、逃避行を生々しく語ってくださった。参加者は食い入るように聴き入っていた。その話は強烈だ。

「結局、人間欲望なんですね、性欲…」
 ロシア人、朝鮮人、そして日本人、女を狙う…

 山梨からは矢花克己さんも上京されて会に参加された。実は、この彼こそはくだんの手紙を発掘された人だ。骨董市で古い手紙の束を手に入れた。その多くに「鉛筆部隊」と捺された手紙があった。

 「鉛筆部隊」とは何だろう?疑問に思って検索に掛けたところ、私のブログが引っ掛かった。

 世田谷の代沢小学校は戦時中長野県淺間温泉に疎開していた。その引率教員の一人、柳内達雄先生が自分が受け持った学童を鉛筆部隊と名づけていた。そして子供らにどんどん作文や手紙を書かせていた。

 鉛筆部隊は、日記や手紙を書き残した。それは貴重な資料である。が、見つからなければお終いだ。ところが、ネットでの繋がりが、それらの消失を防いだ。

  鉛筆部隊の隊員だった一人立川裕子さんの資料もその一つだ。こういう経緯だ。彼女が病になって居住マンションを処分した。その後片付けは業者が行った。荷物の中に古い郵便物があった。すんでのところで捨てられるところだった。が、目利きは終戦前の手紙だったことから価値があると判断した。それが骨董市に掛けられた。それを買ったのが矢花克己さんだ。

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2014年05月24日

下北沢X新聞(2567)〜下落合風景と下北沢風景2〜

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(一)
 下落合風景と下北沢風景には共通点と相違点がある。その差異に深い物語が隠されている。時代物語であり、都市物語であり、縁辺物語であり、人間物語である。

 佐伯祐三アトリエ記念館で、「下落合の風景」とされた図録を手に入れた。これの最初に「佐伯祐三の帰国時代」(橋詰節也)とされた論文が載っていた。その末尾に当たる�犬蓮崚垰圓筏�離」である。

 佐伯ほど徹底して都市景観を描いた画家は少ないが、この事実を思うとき、大都会のごく近くに生まれ育ちながらも、都市を望みながらも田園気分の残る土地にアトリエを構えた感覚に、佐伯芸術の特質がある気がしてくる。

 文学や芸術の位置取りは興味深い。そこに土地固有のものが潜むからだ。

 佐伯芸術の特質は都市との距離だったという。下落合風景の連作の中に、古道新井薬師道と日本鉄道とが交差するガードが描かれている。目白駅から築堤で走ってきた線路は古道と交差するところでガードを渡る。ここの赤煉瓦が絵のポイントだ。

 ガードの上には幾本もの電柱が建っている。傾いだりまっすぐだったり、これが全体の構図を引き立てている。これは架線柱のようだ。

 描画年代は、図録では「1926頃」とされている。和暦では大正十五年だ。国有化以後のことだ。1909年に赤羽駅・品川駅間は電化され電車が既に走っていた。

 この絵全体はくすんでいる。空は灰色、曇っているようだ。都市郊外の寂寥、荒涼が思われる。都市縁辺には一つの感情が漂っている。それを萩原朔太郎は、「都会の空に漂ふ郷愁」と表現した。明るみではない暗みである。

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2014年05月22日

下北沢X新聞(2566)〜三軒茶屋、太子堂放浪行2〜

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(一)
 太子堂は玉電文化圏だ。渋谷から郊外に延びたこの線を伝って大震災以後に多くの人々が東から移り住んできた。迷路のような街並みはその名残である。都市の末端だった。

 徳富蘆花は、千歳村粕屋に住んでいた。ここから車で青山まで行ったときの感想が描かれている。『みみずのたはこと』に記されたその箇所は、明治四十五年五月十八日とある。

 世田ヶ谷に出て、三軒茶屋以往は、最早東京の場末である。電車、人力車、荷車、荷馬車、馬、さま/″\の人間の間を、悧巧な自動車は巧に縫うて、家を出て三十分、まさに青山に着いた。

 東京の場末は、三軒茶屋に始まった。言い換えれば都市境界である。つまりは物語が渦巻く場である。こういう場をさすらい人が好んで歩いた。三好達治もその一人だ。「このありふれた場末の盛り場はそのまま奇妙なみものとして、無闇と狭つ苦しく無闇とごちゃごちゃとし」(『薄暮の新緑』)ていると、この三軒茶屋を彼は評している。

 けれども私は何かしらこの日暮れの道を考へごとに追はれながら、その私の知りつくした店先をもう一度改めて妙に生き生きとした注意で見直しながら、用もない方向へ向ふことをやめなかった。
 私は自分をどこか遠い国からやつて来た旅行者のやうに見立てることに、そのときどうやら成功したつもりにさえなつてゐた。さうして私は橋板のつぎはぎだらけな木橋の太子堂橋といふのの上にたちどまつた。水の音がさらさら聲をたててゐる。
「薄暮の新緑」 三好達治全集 10 筑摩書房


都市境界は、自らをエトランゼとしてあちこちと歩き回ることができる。誰彼素性を知らない、すれ違っても平気というとことが都市境界である。
 
 そここそがさすらい人の好む街。時代を構わずにいうと、三好達治、林芙美子、壺井栄、壺井茂、萩原恭二郎、永井叔などがふらふらしていた。

 調べていると太子堂には、詩人の尾形亀之助もいたようだ。「素封家に生まれるも生涯にわたってほぼ定職を持たず実家からの仕送りで生活し、離婚と再婚を繰り返しながら詩に没頭するという無頼の人生を送った」と彼の紹介がある。
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2014年05月21日

下北沢X新聞(2565)〜三軒茶屋・太子堂放浪行〜

P1040673
(一)
 坂は人の想像に刺激を与える。武蔵野の地形の特徴は起伏、これは景色の溜だ。人が考えたり、思いついたりするとっかかりだ。芸術文学の源泉でもある。

 昨日、街歩きの下見をした。三軒茶屋、太子堂である。テーマは駒沢鉄塔線つながりの三好達治と萩原朔太郎を歩くというものだ。

 三好達治の旧居は太子堂に近い。三軒茶屋や太子堂のことはエッセイでもしばしば取り上げている。この記述にやはり坂が出てくる。

 私はとある大通りの、そこからその通りがゆるやかな谷底になつて、ちぐはぐに並んだ街燈が侘びしく美しく、まだその光が弱々しく見える地点に出て立ち止まつた。私は仕事部屋をとりちらかしたまま、坐りづめの疲れた膝を休ませる外に用もなく目あてもなしに、無精な着流しでふらりと出かけて来たのである。さうして前方の見なれた谷底に対してゐても心の底の億劫な気持ちに変わりがなかつた。
「薄暮の新緑」 三好達治全集 10 筑摩書房


 彼の仕事部屋は世田谷代田一丁目にあった。近隣の大通りは二つ、淡島通りか茶沢通りだ。このエッセイの書き出しは、「裏町の銭湯の入り口に傾きかかった柳の緑が美しい」で始まる。これは茶沢通り脇にあった清水湯のことだ。とすればこの通りのことに違いない。

 谷底には川が流れている。烏山川である。この辺り左岸の坂は緩く、右岸は急だ。起伏の底に見える街灯が彼の目に留まった。

 この文章の初出は、昭和25年、「藝術新潮」の6月号である。寓居でずっと原稿を書いていていい加減嫌になってふらりと街に出た。谷底、太子橋辺りの夕暮れ光景が彼の感覚を刺激した。それで立ち止まった。一帯は戦災で焼けている。その痕跡も至る所に残ってもいた。坂の下の谷底風景、彼は時代や社会や人間を考えたのだろうか。

 私は緩やかな坂とは反対の急坂から降りていった。この先を右に曲がって下の谷商店街から円泉寺に抜けようと思った。
「あれ、どこで曲がったか?」

 このときに、この間の「目白・落合界隈を歩く」を思い出した。行った先々の施設には街歩き地図が置いてあった。もしかしたら世田谷区の施設にもこれが置いてあるかもしれない。幸い、世田谷区太子堂出張所が近くにあった。続きを読む

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2014年05月19日

下北沢X新聞(2564)〜浪江&下北沢:命をつなごうプロジェクト〜

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(一)
 時代の回転の速さ、駆け巡る情報の多さ、複雑になる文明社会、これにまともについていくというのは困難になってきている。我々の記憶容量にも限界がある。一つ一つのことを覚えていられない、不要なものを消去して生きているのが現実だ。

 昨今、世の動きの何かがおかしい。ところが、情報の表層雪崩が起こっていて我々はあたふたしている。今こそ、知恵や悟性の出番がきている。だが、おかしなことに「知」の刺激よりも民族の「血」湧き立たせる、奇妙な空気が醸成されている。

「敵国がいつ襲ってくるか分からない。銃を取って戦うのは当然だろう。国家を守るのがなぜいけない」
「原発の再稼働ができないと経済が狂ってくる。だからこれをベース電源にして動かしていくのだ」
 集団的自衛権の政権による恣意的な解釈、原発再稼働に向けてのお膳立て。これに向けての一大キャンペーンが張られている。

 そういえば我らの爺様や婆様たちが言い聞かされてきた国家的キャンペーンがあった。

聖戦へ 民一億の体当たり
聖戦だ 己殺して国生かせ 
一億が みんな興亜へ散る覚悟 


戦時中の標語だ。当時と同じような全体主義的な色合いが濃くなり始めている。こうも言えないだろうか。原発政策は後処理のことを考えればほとんど詰んでしまっているように思える。が、「一億が みんな原発へ散る覚悟」というふうに、未来に向けて方向が定められている。日本民族原発特攻へ向かわせられているように感じる。

 昨日、5月18日(日)、下北沢真龍寺で、33回目の復興支援イベントが行われた。「下北沢+被災地 命つなごうプロジェクト」これに参加し、多くの人と出会って、話をした。知恵や知性のある人たちだった。

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2014年05月18日

下北沢X新聞(2563)〜下落合風景と下北沢風景〜

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(一)
 新開地と旧開地、そういう比較都市論という観点、これに気づかされた。昨日行った街歩きでのことだ。

 後者を巡った。それで、伝統文化の重厚性、崖線土地の活用、旧来道路の残存、緑空間の多さを感じた。日ごろ、荏原という新開地でフィールドワークを行っているが土地文化の違いを五官に感じたことである。

 「都市物語を歩く」、ずっとこれを続けている。昨日で95回目となった。旅の場は「目白・落合界隈を歩く」だ。案内人は別宮通孝氏である。

 鉄道に詳しい案内人は目白駅前で鉄道の話から始める。
「日本最初の私鉄、日本鉄道は赤羽から品川線を敷設し、これが明治18年3月1日に開業し、この目白駅は3月16日に開業しました」
 赤羽、品川間の駅は、板橋、目白、新宿、渋谷、目黒だったという。池袋駅はなかった。
「これらの駅はみな街道交差駅ですね」
 この点は重要だ。新宿は甲州街道、渋谷は大山厚木街道だ。目白で交差しているのは清戸道だという。当時の鉄道は、街道に敬意を払って作られている。鉄路と古道の交差から町は生まれ発展している。

 目白地区が発展したのは鉄道による交差が大きい。早くに開けた。新開地も、他に新開地がどんどんできると、古びて旧開地となる。目白・落合には年月を経た趣が感じられる。

「田園調布とか成城学園のようにデザインに自己主張がありませんよね」
 仲間のことばだ。なるほどそうである。街に落ち着きがある。

 荏原新開地は屋根が赤だったり、白だったり派手だが、どこか垢抜けない。肥だめが臭う。荏原の発展は大正末か昭和からである。が、目白地区は、明治期からである。時間経過の重厚さがある。

 文化の理解という点では、文章の場合は時間がかかる。が、絵画の場合は一目で分かる。一番、注目したのは佐伯祐三、「下落合風景」である。
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2014年05月17日

下北沢X新聞(2562)〜告知「第7回戦争経験を聴く会、語る会」〜

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2014年

第7回「戦争経験を聴く会、語る会」


〜今、聞いて置こう、薄れゆく

    戦争の記憶を残すために〜


学徒動員兵と北朝鮮引き揚げ者の話を聴く 

  日時 5月24日(土)1時30分から4時30分まで(13時開場)
 
   場所 北沢タウンホール 2F 集会室 定員35名 参加費無料
   主催 「北沢川文化遺産保存の会」 会長 長井 邦雄
 
   後援  東京世田谷ワイズメンズクラブ
      北沢3、4丁目まちづくり協議会


 戦争とは何か、人間が人間であることを止めるものだ。一度銃口を放てば、撃った撃たれたで憎しみに火が点く。燃え上がった憎悪はコントロールできない。たちまちに命はゴミになり、紙屑になって人がゴロゴロ死んでしまう。

 あの第二次世界大戦でどれだけの人が死んだか。空襲による何十万という犠牲、一発の原爆にこれも何十万の人間がなくなった。島に残された守備隊は放置され、無念の戦死をした。それを戦争指導者は玉砕という。玉のように美しく死んだわけではない。洞窟の中で、飢えて苦しみ死んだ。泥砕だ。

  戦争が終わって、後でもって、兵士の命を邪険に扱っておきながら英霊だったと言って、おだててもちあげる。そして戦争を正当化しようともする。戦争はとんでもない代物である。

  何度も言いたい。一旦戦争になれば止められない、コントロールできない。戦争になれば、人一人の言い分はない、声は抹殺される。何も言えなくなる、その挙げ句、戦争を煽る側は、「神風が今に吹くから大丈夫だ」と言う。

 現今、私たちは、「神風が吹く」とはあり得ないと思う。しかし、これは時間のマジックだ。この頃、その時代の空気の中であり得たことだと思うようになった。

 私は、戦争のことについて調べている。書籍からよりも人からを中心としている。つまりは市民の戦争経験だ。数はカウントしていない。しかし、もう千人は超えたろうと思う。

 広島原爆の被害者からもつぶさに話を聴いた。凄まじいものである。兵器は平気で、あっさりと、なんとも思わず、こっぴどく、人を殺してしまう。原爆という兵器の恐ろしさだ。戦争になれば、何でもありだ。殺人、陵辱、掠奪。人はコントロールが利かなくなる。

 今何が必要か。言語武器だ。情報伝達がこれほど発達している中で、不当なことがあればそれを冷静に捉え、全世界に訴えていく。日本は戦争を放棄した国だ。丸腰の国家で平和を説く、こういう国家が地球にあることは奇跡だ。

 憲法を遵守して戦争をしない。核は一旦使えば、地球人類は破滅する。核の傘にいて日本の安全は守られる。欺瞞だ。唯一の被爆国であるわれらは核廃絶を訴えることが必要だ。

 私達は、もう戦争は二度とやるまい。そのことからずっと戦争経験を聞く会、語る会を開いている。今度で七回目となる。生きている限り続けたい。

 第八回も予定している。今年の夏で、疎開七十年を迎える。それで来年は疎開体験者に話をしてもらうことにしている。

 今回はお二人のお話を伺う。
 お一人は、富田�ぜ,気鵝△い錣罎覲慙鼻�特別操縦見習士官だった方である。飛行訓練を終えた後には、いずれは特攻機に乗って最後は出撃するはずであった。が、途中苦難の道のりがあって、今日に至っておられる。当時の飛行訓練の様子だとか時代を語られるはずです。

もう一人は、天内みどりさんである。今回はこのためにわざわざ青森県から上京してこられる。交通費なども自前でこられる。
 彼女は、世田谷疎開から発見された『鉛筆部隊と特攻隊』の話を誌『ラジオ深夜便』に掲載された記事によって知った。もともと彼女は代沢国民学校の疎開学童だった。
 彼女は 本を読んでその途中で、びっくりする。なぜなら彼女に宛てられた手紙がここに突然出てきたからだ。誰だって驚くだろう、受け取ってもいない手紙がたまたま読んだ物語に載っていた。
 彼女と同級生だった立川裕子さんは、昭和二十一年の正月にみどりさんの夢をみた。それで裕子さんは、彼女のことを思い出して手紙を出した。ところがそれは戻ってきて立川さんの他の手紙と一緒になった。それがまた偶然に山梨の骨董商の矢花克己さんに拾われて日の目をみた。
 ところが、このみどりさん、苦難の生活を送っていた。北朝鮮での抑留生活を送っていたのだった。彼女は『芙蓉の花』(文芸社刊)と題された著作にその苦難の様子を克明に綴っている。今回は、その辺りのことを話していただく。なお、彼女の妹さんは拉致被害者である。
 


 参加申し込み先  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498



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2014年05月16日

下北沢X新聞(2561)〜詩人の出発する停車場〜

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(一)
「鉄塔のナンバーワンはどこにあるのですか?」
 受講生から質問があった。私にとっては刺激的な質問だ。
「世田谷区地域風景資産は『代田の丘の61号鉄塔』となっています。当然、61号があれば、ナンバーワンもありますね。これはね、洗足池の近くにあるんですよ…」
「洗足池?」
「ええ、日蓮さんが足を洗ったことからそういう名がついています…」
「そうなんですか?」
 とんちんかんな応答となってしまった。が、番号の、はじまりはどこなのか。それを知ろうとすることは大事だ。
 老番が北にあって、鉄塔の電気は北から流れていた。
「これをたどると利根の上流にいくのですよ…」
 高層鉄塔と新築洋館、この二つの調和があって、当地に詩人は家を建てた。

 昨日、カルチャースクールの街歩きがあった。タイトルは「幻影の下北沢猫町散歩」である。新屋敷や野屋敷の小路をひっそりと巡って行く街歩き、鉄塔を目当てにしてのんびりと歩いた。

 このところ、近代戦争の物語をまとめていた。それでもともとのライフワークに手を染めることはできなかった。物語が一区切りついたところで鉄道と文学について取り掛かった。

 このところ講座は「朔太郎の足跡を追う」をテーマとして街歩きをしている。資料を作ったり、調べたりする機会が多い。

 そんな中で、朔太郎と鉄道は面白い。彼の文学的感性はこの鉄道抜きには考えられないと思うようになってきた。機械近代の鉄道と人間、この関わりにこそ彼の詩があるのではないか?

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2014年05月15日

下北沢X新聞(2560)〜旅と疎開と淺間温泉3〜

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(一)
 加藤楸邨の紀行文、「雪解雛」を読んでいて。次の句に出会った。小田急線下北沢駅でのことに違いないと思った。

 信濃より藷さげてきし手の霜焼

 俳人の二人の息子は代沢国民学校に通っていた。疎開が終わって東京に引き揚げてきた。そのときに子供はお土産に芋を持って帰った。この日付は分かる。昭和二十一年十一月七日である。食糧難の時代、芋は貴重である。「藷さげてきし」、「し」は過去の助動詞連体形、これには感動がこめられている。

 二十一年十一月七日、子供を疎開に送った代沢国民学校の親は皆駅に出迎えた。跨線橋を渡って子供らが北口への階段を下りてくる。今か今かと待っていた親は、木造階段が軋む音を聞きつけて胸が高鳴った。先頭の子供が姿を見せると自然と拍手が湧いた。

 十九年八月十二日、悲痛な万歳をして子供らを送った。その彼らが当地に帰ってきた。親にとっても、子供にとっても忘れがたいことだった。

 人口密集地の都会は戦火にさらされると危険だということで疎開した。遠い過去のことだが、再び疎開はあるかもしれない。

 武力攻撃をよしとする与党の恣意的な解釈で憲法がねじ曲げられ、銃を取っても構わないということ、これを安倍内閣が決めようとしている。銃を放てば、敵意は増幅する。撃ち返してくるときにミサイル飛んで来る可能性もある。東京は危ない、地方へ疎開しろ、歴史上の再疎開、第二次疎開があるやも知れず。

 疎開のことは絶対に口にしたくないという人もいた。教師の横暴、陰惨ないじめ、性的虐待、あまり語られないが酷く、ひどいものだった。強制疎開させなければならない状況を、大人は作ってはならないのだと思う。

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2014年05月13日

下北沢X新聞(2559)〜旅と疎開と淺間温泉2〜

淺間温泉鉛筆部隊
(一)
 疎開という言葉はかつては誰でも知っていた。その代表事例が学童疎開だ。これが始まったのは昭和十九年八月だ、今年はあれから七十年、この言葉は死語になりつつある。

 疎開の原義は、疎(まば)らにし、開くことだ。建物疎開という言い方をした。家を間引きして、空間を造ること。空襲での延焼を防ぐためだ。ここからすると、学童疎開とは、都会から学童を疎らにし、子供をいないようにすることとなる。もってまわった言い方である。ここにこそ戦争の影が潜んでいる。

 簡単に言えば、学童避難、学童退避と言えばいい。が、逃げるとか避けるとかは使いたくない。敵に負けて退却することを「転進」と言った。情報操作だったと言える。

 言葉を回りくどくしてその真意を分からなくする。これは今もなお変わらない。例が、「集団的自衛権」である。何のことなのか分からない。

 主権在民という観点からすると小学生にも分かる言葉でなくてはいけない。それを敢えて小難しくしてしまう。権力が目くらましをしているのだと考えた方がいい。

「先生、集団的なんとかって何?」
「あのね、集団的自衛権っていうのはね、簡単に言うと、『鉄砲を撃てちゃう権利』なんだ」
これだったら小学生にでもわかる。

 思えば気の毒だった。疎開という言葉は学童にはわからない。
「今度疎開することになりました」
「先生、疎開って何?」
「よそに行くことです」
「じゃあ、旅行するんだ!」
「旅行だ、旅行だ、ワァイ、ワァイ」
 実際旅行と勘違いした子供が多い。
「行ったら帰らないのだものね、それでいつまでもお母さん、お父さんがいないんだよ」
 体験者の率直な感想である。

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2014年05月12日

下北沢X新聞(2558)〜旅と疎開と淺間温泉〜

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(一)
 思いがけなく、調べている情報が、別の箇所で見つかるということはある。下代田の大欅に端を発してあれこれ資料を漁った。これが意外にも淺間温泉への疎開に結びついていった。

 文士町に集う詩歌人はみなさすらい人である。わけても旅を好んだのは加藤楸邨である。下代田の大欅の虎落笛(もがりぶえ)に誘われて、彼は隠岐の島を旅した。後鳥羽院配流の地だ。孤島で詩歌を編んだ彼を訪ねての旅である。

 地域の欅が誘った旅が文学の故郷探訪だった。「下代田から隠岐へ」、である。魅力的なさすらいである。

 この旅を記したのが『隠岐の旅』だ。調べると加藤楸邨全集に収められていると知った。まず地元の目黒区立図書館でチェックしてみた。が、ヒットしなかった。お隣世田谷区を調べるとあった。居住区に、�垳�利一全集はなかった。

 目黒区の文化的貧困さを感じる。公園に男女別トイレは当区にはない。世田谷区はある。我が家の前は呑川緑道、これを上流へ行くと、桜新町だ。その先に世田谷区立図書館はある。目黒区にはなくてお隣の図書館へ、通い慣れた道だ。

 加藤楸邨全集を何冊か借りてきた。が、たちまちに二週間は経つ。『隠岐の旅』はほしかった。加藤楸邨は芭蕉の句を引いて、「隠岐の旅」の動機を記している。

 野晒しを心に風の沁む身かな

 これを引き合いに俳人は言う。「今どうしてもほしいものは、やはりそうしなければならないときにそれをやりきってしまうところの、あの激しい気魄であったろう」と。
 何が何でも下代田を出て旅をしたいという思いだ。

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2014年05月10日

下北沢X新聞(2557)〜また再び戦争への道を歩むのか〜

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(一)
 戦争にルールはない。始まれば勝とうと必死になる。敵意はどんどん膨らんで、「一億総玉砕」と終いには言い始める。この精神洗脳が危ない。

 戦争には勝つ、負けることはない。絶対に最後は挽回して日本は勝つ、何たってこの国は神の国だから……。

そういう前歴を持っているいることは重い。この背景には洗脳されやすい、うわさに惑わされやすいという点がある。
「これは、秘密だけどな最新兵器があるから、これさえ完成すれば敵はイチコロだ」
 これも戦時中よく聞かされた話だという。

 これまで多くの人から証言を集めてきた。秘密兵器のことは何人もの人から聞かされた。
「あの格納庫で今組み立て中の飛行機こそ、本当の大東亜決戦号だ。もうすぐ完成する。あれさえできればB29など一機たりとも本土に来れなくなるぞ」
 松本中学OBの人に会って話を聞いた。望月照正さんは動員中の飛行場で聞かされた話である。

「日本にはさくら弾機という特殊兵器がある。これができれば敵など粉砕できる。」
 これは淺間温泉に疎開中の学童が宿屋で一緒になった兵隊から聞かされている。

 現実には、そんなことはあり得なかった。後者の飛行機などはひどいものだ。大半がベニヤ板で作られていたという。作られた飛行機はほとんど役に立つことなく、搭乗員の多くは事故によって犠牲となっている。

 戦争になると全体が見えなくなる。大本営発表も、大きな情報源だが、これとて当てにならない。戦争になると市民は煽られる。戦況が悪くても、大丈夫だ、大丈夫だ、みんなが力を合わせてやれば勝つと。

 今朝の新聞の投書欄に、作家森村誠一氏が投稿していた。「権力を振りかざす首相を懸念」というタイトルだ。最後はこう結んでいる。

 戦争は国民から基本的人権を奪い、勝敗が決まる前に国民の命が大量に失われ、生存者も恐怖政治の下で精神統一されてしまう。首相も与党の国会議員も戦争を体験していない者が多いことが、こうした懸念を増幅させる。
 
一番注意すべきは煽られて「精神統一されてしまう」ことだ。
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2014年05月09日

下北沢X新聞(2556)〜物語と戦争と自由〜

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(一)
 日々書いている言葉は、今という社会には敏感である。このところノンフィクションの大詰めに掛かり、戦争について思ったり、考えたり、また読んだりすることが多くあった。行き着く結論は、一旦銃火を交えたら、もう銃は下ろしようがないということだ。とことんの最後は、武器がなくなれば、今度は竹槍でということになる。

 今日的な目で見れば、そんな馬鹿なことと思う。しかし、その時代の空気に染まってしまって煽られて、「槍を持って立ち上がろう」と言い始めると、竹槍でも戦えるのだと思い始める。

 戦争中、若手は戦争に取られ、残った十二才歳から六十五歳まで子供と年寄りの男、これに加えて十二歳から四十五歳までの女を国民義勇隊として組織して訓練を行った。

「いいか一人残らず戦うのだ、諸君が持っているその青竹で『一人十殺』、この戦法でやれば敵なんか怖くない」
 退役軍人の親玉が檄を飛ばす。
「そんなことできるわけがない」
 一言でいちゃもんをつけようものならとんでもないことになる。その集団からつまはじきにされる。食べるのにも困るようになる。葬式も手伝ってもらえない。いわゆる村八分である。息苦しく、不自由だった。

 あの当時はそうだった。今はどうだろうか。
 人は理想を希求してこれをよすがとする。こうあってほしいと思う気持ちとは世の中が全体に反対方向に向いていっていないか。

 率直に言えば、武器など輸出してほしくない。また、あの苛酷事故を起こした原発なども輸出してほしくない。

 しかし、我らが思う方向とは違う方向を社会は向き始めているように思う。「金のために魂を売ってはならぬ」といったのは原発が立地する自治体の村長だった村上達也さんだ。この思いには深く同感する。

 武器を売って儲けてほしくはない。あれほどに戦争に懲りて、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と憲法では定めた。

 あれは戦勝国が勝手に作ったものだという人もいる。が、憲法はなんだろうか、私は、歌だと思う。同意できる、骨髄に響く歌詞である。

 人間は歌を魂として生きる動物だ。気持ちに響く歌を恣意的に解釈して、武器を取ってもいいよと解釈はしてほしくない。
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2014年05月05日

下北沢X新聞(2555)〜下代田の丘の大欅文学論3〜

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(一)
極めて特徴的なことは、文士町に多くの詩歌人が集っていたことだ。

 詩歌は抒情だと言える。その日、その場で感性に響いたことを短詩に書き記したものだ。ところが、固定的にそこに止まっていると感じたり、思ったりすることが希薄になってくる。それで誰もがここを一旦離れ、旅をする。

 これまでの調べで知っていることがある。文士町の、歌人、俳人、詩人の作品集や全集を漁ってきた。当地でどんな短詩を詠んでいるか、それを探した。ところが、調べていくうちに分かってきたことがある。

 居住地での作品は多くはない。どちらかと言えば属目吟が多い。が、一度、旅に出ると言葉が噴出する。何句も、何首も書き連ねている。さすらってこそ文学は生まれるものだと思った。そのさすらい人がここに集っていた。

 加藤楸邨は、その中でもなかんずく興味深い。下代田の大欅の虎落笛(もがりぶえ)を聴いて痛く旅心を刺激されているからだ。当地に転居してきたことも一因である。

 「隠岐への旅」(加藤楸邨全集 第八巻)で彼は、下代田へ転居してきたばかりのころこうのべている。

私は絨毯をまだ入れていない応接室で、大欅を仰いでいる、ごうごうと吹かれているのが、自分にもいたく感じられて来たのだった。

転校の子に泣かれる雪の中
風邪の子の寝かへる冬の崖の相
残雪の人の表札を見てはゆく
がうがうたる冬の松籟飯噛みいづ


昭和十六年二月「世田谷区下代田二百二十八番地」に俳人は越して来た。その頃に詠んだものだ。
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2014年05月04日

下北沢X新聞(2554)〜憲法と言葉と自由〜

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(一)
 言葉とは時間を亘っていく記号である。一過的なものではない。人の心に意味がすとんと落ちていくものこそは本当の言葉である。

 昨日、憲法記念日、北沢タウンホールで稲葉 剛氏の講演会が行われた。「貧困と憲法を語る〜生活保護から考える〜」という演題だ。梁田貴之主宰「リベラル日本研究会」が催した会である。

 今、まさに集団的自衛権が俎上に上っていて、これについての議論がかしましい。その中で、敢えて貧困を話題として憲法に関連づける、新鮮な視点での憲法の講演だった。

 終わった後の懇親会でマッコリを一杯引っ掛けて帰る途中、電車の中で資料として配られた「日本国憲法」を読んだ。

 言葉とは何か、それは心に落ちる意味であり、響きであると思った。

 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるもので、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 

東横線の電車に揺られながら読んだ。憲法は高らかに謳っている、一人一人の国民こそが主役であると。私達は、満足のいく生活をもたらすような社会環境や条件を享受する権利がある。が、現実には貧困が広がりつつある。講演で語られたが「最後のセーフティネットワーク」生活保護制度もこれの改悪によって我らの生存権が脅かされつつあるという。

 制度の改正や改定は国会で議論され、施行される。これへの議論に加わり、方向性を討議するいわゆる国会議員なるものは「国民の厳粛な信託」を授かって、そして、「代表者」である彼らが権力を行使するものだと言う。

 現今、貧困問題のみならず、原発再稼働、武器輸出、原発輸出など、我等国民が意識として持っている方向とは反対に動いている。

 さきに言葉とは、時間を亘っていく記号だと述べた。それは憲法前文でいう「人類普遍の原理」に合致するからだ。よこしまな考えを持たないでこれを未来永劫に亘って保持していくというものだ。これに対する牽強付会、我田引水的な考えを排除するものだと、ここでは高らかに宣言している。

 平たく言えば、みみっちいことは決してするな、安易な曲解は許さないということである。かつまたこの条文の勘所は、権威や権力は、代表者はたまたま負託を受けただけで、その主権は国家国民にあるということを断言している。憲法という言葉がこれほどにラディカルだったのかと、電車の中で改めて思ったことだ。

世界や社会は萎縮している。紛争も絶えることがない。追いつめられて武器を取る。銃口は必ず相手に向けられる。そのとたん憎しみはコントロールできなくなる。戦争は簡単に始められる。が、一旦始まると、人間はこれを制御できなくなる。憎しみの増幅は悲惨な結果しかもたらさない。
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2014年05月02日

下北沢X新聞(2553)〜下代田の丘の大欅文学論2〜

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(一)
 その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。(「風と光と二十の私と」)

 坂口安吾は、大正十四年(1925)に代沢小に代用教員として務め始める。その頃の風景を描いたものだ。小田急開通前の風景である。

 昭和二年くらいでしょうか、わたしたちが代沢に来たのは、そのころの代沢、私の家とその他一軒という見渡す限りの雑木林ですね。

 『百人が語る世田谷女性史』(1998年、世田谷女性史編纂委員会)に田中信(のぶ)さんが書いたものである。「父のユニークな家庭教育」と題されたものだ。その父は東大の助手をしていて師の退官後に国士舘に務めとある。

 当地一帯は、大正末年から昭和初期はほとんど開けていなかった。坂口安吾は言う、「私が代用教員をしたところは、世田ヶ谷の下北沢というところで、その頃は荏原郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹藪だらけであった」(「風と光と二十の私と」)

 一帯が開けたのは小田急が開通したことが大きい。後に、井の頭線が開通して下北沢で鉄道がクロスする。これによる利便性が人を集めたと説明される。

 重要なのは小田急が開通し、井の頭線が開通する前の期間である。昭和二年から昭和八年、この六年は重要だ。文士町形成の重要な時期と重なってくる。文士町の核となる先駆者はこの期間に当地に越して来ているからだ。この場合、彼らは鉄道交差の利便性から越して来たとはいえない。

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2014年05月01日

下北沢X新聞(2552)〜会報第94号「北沢川文化遺産保存の会」〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第94号  WEB版                          
                              2014年5月1日発行(毎月1回発行)
                              会長 長井 邦雄(信濃屋食品)  
                          
                              事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
                     155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                              会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
1、今年もまた戦争経験を聴こう

第7回「戦争経験を聴く会、語る会」(2014年)

〜今、聞いて置こう、薄れゆく戦争の記憶を残すために〜


学徒動員兵と北朝鮮引き揚げ者の話を聴く 

日時 5月24日(土)1時30分から4時30分まで(13時開場)
  場所 北沢タウンホール 2F 集会室 定員35名 参加費無料 
主催 「北沢川文化遺産保存の会」 会長 長井邦雄
  後援  北沢3、4丁目まちづくり協議会
 
 戦争は遠い過去のものとなりつつある。けれども太平洋戦争はわれわれの歴史の中ではもっとも大きなできごとだった。戦争に負けて日本は無条件降伏した。この敗戦は一からの出直しだった。そこから出発して、長い苦難の道を歩いた末に、今日の生活が築かれた。

 振り返ってみると、あの戦争は惨たらしいものだった。人々は強制的に駆り出され、戦役に就いたり、労役に就いたり、この間、人々は飢えに苦しみ、また砲弾や焼夷弾にさらされ恐怖のどん底で生活を送ってきた。太平洋戦争による犠牲者は三百万人にのぼるといわれている。

 今、東京の空は平和だ。が、69年前、この空が怖かった。爆撃機B29の大群が東京の空を覆い、上空からとんでもない数の焼夷弾が降り注いできた。焼夷弾が落下する音、そして空全体に驚くような金色の竜巻が立ち昇ってそれに向かって風が吹きつけていた。その下では大勢の人々が焼け死んだ。

 あの原爆による悲惨さも酷いものだった。戦争になれば、道義や倫理などはたちまちに吹き飛んでしまう。人間は狂ってきて殺し合うばかりだ。
敵意は暴走する。緊張が崩れて一旦戦争になると誰もとめられない。究極の憎しみは、「竹槍一本でも戦う」とした、あの悲壮な覚悟である。全体主義がはびこると全部がその色に染まってしまう。「なに馬鹿な竹槍で戦えるわけはないだろう」と思う。が、そういう気に染まれば、本当に人間はその気になってしまう。
 このとろ、不戦の誓いをしている憲法が危うくなっている。集団的に自衛権の問題である。右傾化的な勢いの中でこれがなされていて、非常に危ういものを覚える。戦争というものがどんなにひどいものか、これを私達は忘れかけている。

 あの戦争は、戦争体験者の高齢化、時間の経過によって人々の記憶から次第に消えつつある。戦争は二度と起こしてはならぬ。この薄れ行く記憶を次代に繋げて平和を持続させていく。そのための活動である。

 「戦争経験を聴く会、語る会」は、2008年から始めた。この一帯が大空襲に襲われたのが1945年5月24日、25日だ。その山手空襲から69年目を迎える。風化する戦争の記憶を今のうちに、しっかりと聞いてそれを次代に繋げたいという思いからこれを続けてきている。

 毎年、この会を開いてきて、今回、とうとう第七回目になる。この会がさまざまな機縁を生んでいる。著作、『鉛筆部隊と特攻隊』は、この会が重要な役割を果たしている。鉛筆部隊に関係する人達が集まって一堂に会したこともあった。作品の山場ともなっている。
 機縁は機縁を生む。『鉛筆部隊と特攻隊』は、NHKラジオ深夜便で取り上げられた。これがきっかけとなって人と人とが結ばれていく。二度の特攻から生還した前村弘さんは取材過程で出会った人だ。重爆撃機飛龍の航法士の彼は、淺間温泉井筒の湯に宿泊していた。各務原からなぜ松本に来たのかを取材したことがあった。これが縁で昨年、昨年の「戦争経験を聴く会」には話していただいた。ラジオ深夜便のディレクターも参加されていて、これが前村さんのラジオ番組出演に結び付いた。昨年、8月12日(月)午前4時台 明日へのことば「二度の特攻命令から生還して」という題で放送された。
 「ラジオ深夜便」つながりは今回もある。青森県から上京してこられる天内みどりさんである。『鉛筆部隊と特攻隊』は雑誌『ラジオ深夜便』に掲載された。これを読んだのが彼女である。もともと代沢国民学校の疎開学童だった。
 彼女は 『鉛筆部隊と特攻隊』を読んだ。その途中で、びっくりする。なぜなら彼女に宛てられた手紙がここに突然出てきたからだ。誰だって驚くだろう、受け取ってもいない手紙がたまたま読んだ物語に載っていた。
 彼女と同級生だった立川裕子さんは、昭和二十一年の正月にみどりさんの夢をみた。それで裕子さんは、彼女のことを思い出して手紙を出した。ところがそれは戻ってきて立川さんの他の手紙と一緒になった。それがまた偶然に山梨の骨董商の矢花克己さんに拾われて日の目をみた。
 ところが、このみどりさん、苦難の生活を送っていた。北朝鮮での抑留生活を送っていたのだった。彼女は『芙蓉の花』(文芸社刊)と題された著作にその苦難の様子を克明に綴っている。今回は、わざわざこのために上京されるとのこと。彼女には、その辺りのことを話していただく。なお、彼女の妹さんは拉致被害者である。
 
 今回は、お二人の方にお話をしていただく。もう一人は、富田�ぜ,気鵝△い錣罎覲慙鼻�特別操縦見習士官だった方である。飛行訓練を終えた後には、特攻機に乗って最後は出撃するはずであった。が、途中苦難の道のりがあって、今日に至っておられる。当時の飛行訓練の様子だとか時代を語られるはずです。

 なお、今回、事務局に「千人針」が届けられたことからこれを展示する。戦争に関係するものがありましたら当日持参していただければ展示します。

*「戦争経験を聴く会・語る会」をずっと続けている。この過程で起こったできごとは出版化されている。
 第一巻が「鉛筆部隊と特攻隊」−もうひとつの戦史−(彩流社)だ。世田谷から淺間温泉に疎開した学童と特攻隊の触れ合いを書いたものだ。第二巻目が、「特攻隊と(松本)褶曲山脈」(彩流社)である。このテーマに関して、『ラジオ深夜便』に出演し、情報を募ったところ、多くの情報が寄せられた。そのことから、第三作をまとめている。仮題、『松本から沖縄ヘ−信州悲恋特攻最終章−』である。鉛筆部隊に端を発した物語の総まとめである。今夏七月に刊行される予定だ。

2、戦争経験を聴く会、語る会申し込みについて

 今回の会場は、北沢タウンホール二階集会室Bです。従来は、Aを確保していましたが、連絡がうまくいかず35人定員のホールとなってしまいました。すでに七八人の申し込みがあります。五月十五日には世田谷区の広報でも知らされます。
 参加人数の読みは難しいものです。ただ部屋が小さくなった分、参加者は限られてきます。それで十五日前までに当会員、関係者の出席の把握をしたく思います。参加希望の場合早めに申し込んでください。
 五月一日時点の申し込み者10名
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

なお、来年以降もこの会を継続していきます。現、段階で東京都民教会での開催はどうかということが関係者の間で持ち上がっています。今後調整を行っていきたいと思います。

3,都市物語を旅する会 
 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

 
[5月の歩く会]
・第95回 5月17日(土) 午後一時 目白駅改札前
    落合・目白界隈を歩く 住宅街、建築巡り ナビゲーター 別宮通孝さん
コース:目白駅→日立クラブ(旧学習院昭和寮)→目白が丘教会→近衛邸跡→船橋聖一邸→中村彝(つね)アトリエ記念館→目白聖公会→徳川黎明会→目白庭園→青い鳥社 →自由学園明日館→婦人の友社→池袋駅


・第96回 6月21日(土) 午後一時 京王線笹塚駅改札前集合
  特別企画�〇暗塚竸紊鮟笋� ナビゲーターきむらたかしさん
今年から三田用水を水路のテーマにし、これを数年かけて探査する。
  三田用水のスペシャリスト、きむらたかし氏を迎えての用水探査行を
  開始する。参加費はこれのみ特別会費500円。(資料代など)
  コース:取水口跡→山下口→三角橋→溝が谷口水路跡→駒場橋→純粋階段→駒場口(石橋供養塔)→中川口→鉢山口→猿楽塚(猿楽口)→槍が崎水路橋跡→目黒富士跡→坂口水路跡(里俗・暗闇坂)→中目黒駅
・第97回 7月19日(土) 午後一時 田園都市線三軒茶屋駅改札前
  駒沢練兵場を歩く  ナビゲーター 上田暁さん
・第98回 9月20日(土) 午後一時 田園都市線三軒茶屋駅改札前
 駒沢高射砲陣地探訪  
 大山道碑→下馬大山道→うなり石→226事件安藤大尉旧居→宗円寺→品川用水→駒沢高射砲陣地跡探索→双子の給水塔→志賀直哉旧居→呑川源流→桜新町駅 
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも300円
 参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記
▲恒例、桜まつりで『下北沢文士町文化地図』の配布活動を行った。二日目は天候が悪く途中で打ち切った。それでも千部程度配ることができた。その他、講演会などが二度続けてあってここでも配った。よって現行改訂五版は残りが少なくなってきた。改訂六版はできれば今年度中に出したい。とくに小田急が地下化して街の様相が一変してきた。これを今度の改訂版には載せたい。桜祭りで配られた地図を見た人から「下北沢映画劇場」の場所が違うとの指摘があった。現行の地図に、これは載せておいたほうがいいと思うものがありましたら、当方に連絡を。
▲このところ世田谷区の「地域の絆 ネットワーク支援事業」に二年続けて応募し、これまで「代田の丘の鉄塔由来碑」、「�垳�利一文学顕彰碑」を北沢川緑道に建ててきた。今年度「加藤楸邨文学碑」を事業計画に予定してこれに応募することにした。
▲今後の予定だが、恒例の納涼会は、8月2日(土)午後5時30分から。北沢タウンホール2F集会室で行う。これは会場は取れている。12月6日(土)は、忘年会となるが、ちょうど「北沢川文化遺産保存の会」発足十周年を迎えるところからこれを記念してのイベントを行う。内容は忘年会と一緒だ。が、会場は豪華にしようということで北沢タウンホールのスカイサロンの予約をしたいと思っている。
▲下北沢+被災地 命つなごうプロジェクト
  5月18日(日)の下北沢+被災地 命つなごうプロジェクト。33回目の今回は復興支援イベントとして、福島・浪江町を特集します。浪江の「味」、なみえ焼そばを食べながらの交流会、そして写真、短歌などを通じて浪江を知る・語る・聞く講演会があります。世田谷区に避難してきている原発避難民の皆さんを少し道案内するかもしれません。「下北沢文士町文化地図」を配ります
▲講座『きむらけんと楽しむ 山の手・文学・街歩き』は、第二クールが終わってつぎ第三クールに入ります。7月3日、『森茉莉の足跡を歩く』(午後一時東松原駅集合)、8月はなし。9月4は『北杜夫と斎藤茂吉の文学舞台を歩く』(午後一時梅が丘駅集合)です。定員に余裕があります。興味ある方は、NHK学園市川オープンスクール。047−325−8211に電話してみてください。「幻影の下北沢猫町散歩」は5月1日としていましたが、5月15日でした。下北沢駅北口1時集合。6月が三軒茶屋から世田谷代田まで、林芙美子、三好達治、萩原朔太郎を足跡を追って歩きます。講座の途中、二回目、三回目となりますが、途中からも参加できるとのこと。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千二百円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。(写真は事務局に届けられた千人針)


rail777 at 00:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化