2014年09月

2014年09月29日

下北沢X新聞(2653)〜音と文化を巡る二十時間の旅2〜

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(一)
「人間幾ら年取ってもメロディは覚えているんですよ。老人ホームに慰問に行くでしょう。『ふるさと』とかをハーモニカでやるんですよ。それで聞いているうちにメロディを思い出すのですよ。声を出してもらってね、そうすると段々に声が出てきて、最後にはハモるのですよ…」
 鳴瀬速夫さん、三軒茶屋までバスで行くところだった。それで一緒に乗っていった。

「しかし、小学校のときのあの感化というものは大きいですね。国語は柳内達雄先生、音楽は浜館菊雄先生、今にして分かるとあの先生方の才能はたいしたものですね。楽器を持ち運んだでしょう。木琴、タンバリン、トライアングル、大太鼓、小太鼓、アコーデオン、ハーモニカ、持って行く楽器で弾ける曲の構想ができていて楽譜も頭の中に入っていたんでしょうね……たいしたものですよ」

「淺間温泉の起床ラッパ隊はバンドとは直接関係ないんですよ。疎開に行く前から学校で吹いていましたから、それであっちに行って今度は軍隊のラッパ隊よろしく、係みたいなものができて、起床時に吹くようになったのです…」
 
「鳴瀬さんは壮行会ではハーモニカ吹いたのですよね」
「そうそう…」
 彼は千代の湯に滞在していた。ここには武剋隊の下士官がいた。彼はハーモニカの名手である。今も毎年コンサートを行っていて老練な音色を聴かせてうっとりとさせる。
 武剋隊が出撃するときの会では、ハーモニカで『ラバウル航空隊』を吹いた。

銀翼連ねて 南の前線 ゆるがぬ護りの 
海鷲たちが 肉弾砕く 敵の主力 栄えあるわれら ラバウル航空隊


 彼らは誠第三十二航空隊武剋隊、南の基地、台湾へ行く予定だった。彼ら歌を聴いて何を思ったろうか。

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2014年09月28日

下北沢X新聞(2652)〜音と文化を巡る二十時間の旅〜

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(一)
 昨日、九月二十八日、「北沢川文化遺産保存の会」の会報99号を家から五キロほど離れた世田谷代田『邪宗門』に届けた。この日目眩みするほどの多くの情報に出会った。

 まず朝、電話があった。
「ロンドンにいる娘からファックスが届いたのですよ。八枚もありました。これを読んでもうびっくりしました…」
 秋元佳子さんからだ。
 彼女今や、このブログでは時の人だ。

 彼女が覚えていた特攻隊の愛唱歌が蘇った。このブログでは一連の記事にしていた。ロンドン在住の娘さんがこれを印刷して東京の母親に送った。蘇生劇は世界にも発信されている。
「何だか夢のような話ですね」
 特攻隊がお別れのときに愛唱歌を歌った。偶然これを覚えていたのが秋元さんだ。ネットでのリレーでたちまちにこれが作曲家 明石隼汰さんの手によって完全に蘇った。これでこの楽譜に基づいてコンサートも開ける。できれば彼女もそこに参加して歌ってみたいと。

 秋元さんが七十年前に歌われた一夜限りの歌を覚えていたことが発端で、蘇りドラマは進行した。この過程で彼女のメロディの記憶の正確さが発見された。この日も終わる頃になって、夜の二十二時三十分、きむらたかしさんからメールでの知らせがあった。『淺間温泉望郷の歌』についての考察だ。

  改めて考えて、というか、試しに自分でソラで歌ってみると…
 「ぶじすんで」から「ちりにまりれた」のところで、4分休符が2つ入るとはいえ
 一気に1オクターブ上がっているのですよね
 プロの美ち奴姐さんにはどうということもないことなのでしょうが、
 ・素人で
 ・おそらく原曲(元歌の元歌)を聞き込んだ人が多いとも思えず
 ・ましてアカぺラ
 となると、いわば音程が下がったまんま、1オクターブ下で「ちりに」に突入しても無理からぬところがあり、あるいは、このとき15人中10人くらいが、このパート以降を1オクターブ下で歌った可能性も否定できないように思えます。

 つまり、秋本版は(冒頭の「いきな黒塀」は別として)このフレーズに関しては
 あの場のメロディーの正確な記憶に基づいている可能性もあります。


「パイロット小唄」が元歌だが、この歌の蘇生劇を巡る旅は終わっていない。
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2014年09月26日

下北沢X新聞(2651)〜疎開学童バンド部隊物語5〜

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(一)
 会の名を「北沢川文化遺産保存の会」として十年間活動を続けてきた。探訪の旅である。淀橋台南端を流れるこの川は複雑だ。数え切れないほどの支流がある。ここを秘かにたどっていくと文化が隠れ潜んでいる。途方もない大きなものにぶち当たりもする。ダイダラボッチ伝説などはその典型である。

 「淺間温泉望郷の歌」の蘇生、これも支流物語の一端だ。東大原小はまさにこの源流部だ。蘇った歌曲、ここの疎開学童に向かって特攻隊が歌ったうただ。このことを覚えている人はもうほとんどいない。

 蘇り物語は、「疎開学童バンド部隊」の延長上にあるものだ。まずは「鉛筆部隊」があって次に「バンド部隊」があった。これも文化探訪の過程で発掘されたものだ。

「父と柳内達雄先生とは江東区の大島第三小学校で一緒になったのですよ。柳内先生は綴り方教室の方を熱心やっておられましたからね、父もその影響を受けて綴り方をやっていたのです。バンドの方は代沢に来てからですね。なにしろ田舎出の師範ですから、ダンディな都会出の柳内達雄先生には大きな影響を受けたと思いますよ…」
 浜館菊雄先生の娘さんの話である。昨日、電話で話を聴いた。

 『綴方教室』(つづりかたきょうしつ)は、1930年代に、鈴木三重吉の影響下で教育運動として盛んになりつつあった生活綴方運動の中で、東京・下町の小学校教師、大木顕一郎の指導・編集・解説で出版された当時、本田小学校4年の豊田正子の26篇の「綴方」(雑誌『赤い鳥』掲載)を収め、1937年に出版された本の題名。(ウィキ)
 

 綴り方を通して子供の能力を開花させる。同名の映画も公開され大きな影響を与えた。疎開学童を『鉛筆部隊』と名づけて柳内達雄先生は指導をしていた。この流れの一環だろう。

「父は青森県立師範を出て、青森の小学校に勤めていて、東京に移ってきたのです。それで柳内先生と出会ったのです」
 その上京は昭和九年だ。大島第三で二人は出会った。バンド部隊隊長は1902年生まれ、鉛筆部隊隊長は、1911年生まれ。柳内先生は九歳も若い。しかし、神田生まれの東京っ子、青山師範出である。都会風の発想や思考に大きな感化を受けた。

 やがて、この二人は世田谷の代沢小に転任してくる。記録では浜館先生は、1936年、昭和十一年に赴任している。国語教育と音楽教育、先鋭な試みを二人はしていた。

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2014年09月25日

下北沢X新聞(2650)〜特攻隊(武揚隊)の愛唱歌蘇る6〜

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(一)
 「淺間温泉望郷の歌」の蘇りドラマはにわかに始まり、タントンタンと進行した。ハラハラし、ドキドキし、あれよあれよという間についには大団円を迎えてしまった。

 まずは作曲家による採譜に始まる。音源を送ったら二十時間も経たないうちに楽譜が送られてきた。驚きだった。

 楽譜は形、これに基づいて元歌探しが始まった。きむらたかしさん、まず「航空小唄」ではないかと推測した。ところが、「誤爆」だった。が、すぐに明石隼太さんからは元歌発見の報、「飛練節」だと伝えてきた。これで一件落着かと思っていたら、すぐにきむらたかしさんから【速報】が入って、元歌の元歌が発見できたと。それは「パイロット小唄」だった。歌を探しての旅だった。

 物事は、最後の結果だけがものをいう。ところが、今回分かりかけている途中が面白かった。人間の記憶に残っていたメロディを掘り起こす。埋まっていた音符を掘り起こす、それはまるで「音楽考古学」のようだった。9月22日夜に明石さんから来たメールはまさにこのことだった。「飛練節」に基づいてのことだ。

 さて、ここからがいわゆる「音楽考古学」になるのかもしれません。
秋元バージョンと元歌とのメロディ比較をしてみました。どちらが信憑性があるのか、あるいはどちらもありなのか。
 結論は、やはり元歌のメロディがオリジナルであろうという確信がありました。それを簡単に説明します。

秋元バージョンと元歌とのメロディの差異は、大きく2つです。

1)歌い出しのメロディが違う
2)3行目のフレーズが、秋元バージョンが1オクターブ低い

 あとは細かい符割りの差がありますが、大きく上記2つの差に集約されます。実はこの2つの部分、秋元さんの採譜をした時点で、疑問を感じていた部分でもありました。それもあって、元歌が聴きたかったのです。はからずも元歌のメロディが聴けたことで、この疑問は氷解しました。

まず1)ですが、歌い出しのメロディ、秋元バージョンは戦後のヒット曲「お冨さん」と全く同じなのです。最初は「お冨さん」のほうが、飛練節に影響を受けたのではと思ってしまいましたが、元歌のメロディを聴いて納得しました。
 元歌のメロディには、きちんと作家の意図が反映されているからです。
具体的には、「飛行場に」のフレーズと「黄昏」のフレーズに、共通性があるのです。
「黄昏」(ソソラド)は、「飛行場に」(ドドレミ)の展開形なのです。
 これは作曲家なら必ず意識する箇所で、この共通性があることで、歌は覚えやすくなるのです。このことから、歌い出しは元歌がオリジナルであることを確信しました。
おそらく秋元さんは、戦後聴いた「お冨さん」のフレーズと知らないうちにごっちゃになってしまったのではないでしょうか。
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2014年09月23日

下北沢X新聞(2649)〜特攻隊(武揚隊)の愛唱歌蘇る5〜

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(一)
 音の出会いの物語である、お婆ちゃん、八十歳とその孫十二歳との音符を通してのふれあいだ。

  お婆ちゃんは秋元佳子さん。およそ七十年前に歌われたこれを覚えていた。彼女が出会った特攻隊、誠第三十一飛行隊、武揚隊の隊員がお別れに歌った歌だ。

 秋元さんが覚えていた歌を音源にして作曲家の 明石隼汰さんが採譜された。蘇った楽譜を彼女に送っていて、その感想を彼女が電話で伝えてきた。昨日のことだ。

「孫がピアノで弾いてくれたのですよ」
「あれ、幾つなんですか?」
「今ね、小学六年生なの……」
「秋元さんが歌を聴かれた時と同じ年齢ですね…」
 彼女は東大原国民学校の疎開学童、淺間温泉富貴之湯に疎開していた。この時十二歳だった。
 昭和二十年三月末に壮行会が開かれた。そのときに特攻隊が歌を歌った。一回こっきりの歌だったのに彼女はメロディも節も覚えていた。その彼女と偶然に出会ってこれを知った。

 音符に落として形が分かってみると意味が分かってくる。音楽文化史、近代戦争音楽史、戦時生活文化史、疎開学童史などの資料となるものである。

 なぜ覚えていたのか。インパクトが強かったからだろう。多感な十二歳である。少女は、舞台上で懸命に歌う彼らの姿が忘れられなかった。歌詞には、「あすはおたちか、松本飛行場」とある。飛び立てば死ぬ。

 これを歌っている中に隊長の山本薫中尉も長谷川信少尉もいた。とくに後者は、忘れがたい。毎晩のように彼女らがいる部屋に来ている。

「最初は、慣れないから音符を拾ってぽっつん、ぽっつんと弾くのです。何のことだか分かりませんでした。これって違うのじゃないかとも思いました…」
 彼女の孫は何度も弾いてくれたようだ。
「そうなんですか…」
 小六の彼女のことは全く知らない。しかし、楽譜を見ては懸命に弾いている姿が目に浮かんでくる。
「それでね、何度か弾いているうちにちゃんと歌になっていったのですよ。そうすると…」
彼女は一旦、言葉を切った。
「どうしたんですか?」
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2014年09月22日

下北沢X新聞(2648)〜だれかミミーを知らないか?〜

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(一)
  詩人三好達治の愛犬は、てっきりミミ−と思っていたが、そうではないのかもしれない。そんな疑念が湧いてきた。

 「三好達治文学顕彰碑」を建立する。詩人と地域との関わりを言葉に残したい。そんな考えで碑文をまとめているときに一つの発見があった。世田谷代田の庭で犬と詩人とが写っている写真が見つかった。それで碑面に大きく掲示することにした。

「代田一丁目の庭で愛犬ミミーと戯れる詩人の肖像」

 こうキャプションには記している。
 
 一昨日土曜日のことだ。三好達治の版権所持者の三好さんから電話があった。資料などに使う写真で容易に使えるものはないかと問い合わせていた。

 有名人の肖像を使う場合は手続きが必要だ。写真を撮られた人の肖像権、写真を撮った人の写真版権の了解を取らなくてはならない。
「石原八束さんの方とはおつきあいがあってこれだと連絡がつきます」
 石原八束さんは俳人、三好達治に師事した人だ。詩人の写真を多く撮っておられる。もう既に亡くなられている。

 写真の話が一段落した後に、犬の話になった。
「私も何回か代田のおうちには伺ったのですよ」
「白いスピッツがいましたね?」と私。
「ええ、三好がとても可愛がっていました。渋谷の六兵衛鮨によく行っていたのですけどね、帰るときになって主人に、シロのお土産を作ってもらうんですよ…」
「え、あの犬、シロっていってたのですか?、詩にはミミ−と書いてあったんですよ」
「いや私は、そこまでは分かりませんね…」
 ふと思ったのは犬の名はミミ−ではないのかもしれない。不安になってきた。
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2014年09月20日

下北沢X新聞(2647)〜特攻隊(武揚隊)の愛唱歌蘇る4〜

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(一)
 言葉は消えないが、音楽は消えていく。特攻隊が歌ったうたの復活を通して改めて実感したことである。

「百数十通もある手紙の中からどうして木村みどりさんの手紙を選んだのですか?」
 デイリー東北の記者からの電話取材である。
「日本が戦争になぜ負けたのか、小学六年生とは思えない書き方で、ずばりと書いていたからです」
 一通の手紙を選んだことが、今という時代につながった。「68年の時を越え、友の手紙が手元に」という新聞記事(9月15日)になり、ネットでも配信された。天内(旧姓、木村)さんは自分宛の手紙を私の本『鉛筆部隊と特攻隊』に見つけた。これが発端だ。

 考えてみると鉛筆部隊の資料は恐ろしいほどに残っている。手紙や日記類など山ほどもある。それで、「鉛筆部隊部隊史」を書くのは容易だった。

 ところが、「バンド部隊部隊史」は困難である。が、この方がドラマとしては明るく、華やかである。場面場面が鮮やかに絵として浮かんでくる。

 中でも日比谷のアーニパイル劇場(宝塚劇場)での三日間続けての出演は、最高に華やかだった。「青い海の物語」、「フォスター歌曲集」など立て続けに演奏すると、会場を埋めた、それこそ聴衆の青い目は、すっかり目を赤くしてしまったほどだ。
「ブラボー!」

 ところがだ。この場面の具体的な記録はない。今残っているのは当時を知る人々の記憶の中だけである。

 今年八月八日に、「郷福寺学寮歌」が再演されて蘇った。これはバンド部隊史の延長上に位置づけられる。この縁が、縁を引っ張った。来年、コンサートと講演を行いたいとの要望が寄せられた。この機会をおいて他にない。「淺間温泉望郷の歌」の復活をと願った。
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2014年09月19日

下北沢X新聞(2646)〜特攻隊(武揚隊)の愛唱歌蘇る3〜

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(一)
 特攻隊が歌った、一夜限りの「淺間温泉望郷の歌」が蘇った。これに手を貸したのが作曲家 明石隼汰さんだ。彼は、フェイスブックのコメントでこう感想を述べている。

 特攻隊の方々が世界平和について、どんな気持ちで「あの」瞬間に歌っていたのか。思いを馳せるとこの歌は相当大きな意味を持っていたと思います。秋元さんという「触媒」によって、70年の歳月をタイムトラベルし、再び姿を現したというのはまさに奇跡ではないでしょうか。原曲の歌詞をどう変えて歌ったのかも、大変興味があります。一度原曲を聴いてみたいです。

 「世界平和が来ましたならば愛し懐かし日の本へ」と彼らは歌う。還ってくるところは既に定められていた。なのに「淺間をめがけて」戻ってくると言う。彼らが残したメッセージである。ここに「思いを馳せると相当大きな意味を持つ」ことは確かである。

 秋元さんというのは、この歌詞を覚えていた人である。確かに彼女は、触媒だった。が、このことは私には分からなかった。彼女からは何度も話を聴いている。ところが、私は音痴で音楽方面は不得手だ。一方、秋元佳子さんの歌を聴いて 明石さんはこう言う。

時代も経っていて、正確ではないと聞いていたので、どんなものかと思っておりました。が、秋元さんの歌は大変明解で、リズム感も音程もしっかりしており、メロディは1番から3番まで細部まで一致しました。
 おかげで採譜は、実にスムーズでした。僕もたまに、素人の方が歌った鼻歌をアレンジする仕事をするのですが、秋元さんのようにうまい方はめったにいません。
 こんな方に覚えていたもらったことは、大変幸運だったと思います。


専門家に歌声を聞いてもらって、「奇跡」の意味が私にようやっと分かった。改めて彼女の記憶力には感心させられた。こういうこともあった。
 
 「きけわだつみのこえ」に手記を残している長谷川信少尉、ようやっとこの写真を手に入れて、彼女に送ったところ、
「眺めていて段々に思い出しました。まさにこの人です!」
 これによって彼が淺間温泉富貴之湯に居たことが明確になった。彼女の記憶はドラマを呼び寄せる。続きを読む

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2014年09月17日

下北沢X新聞(2645)〜特攻隊(武揚隊)の愛唱歌蘇る2〜

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(一)
一つの曲の蘇生が戦争音楽文化史の存在を強く喚起させた。

「なかなか知られていないことですが松本という山岳飛行場は、戦争末期重要な役割を担っていました。びっくりするくらいです。今回の本では試作機に関わる技術者が大勢いてその彼らが生き延びたことで戦後の日本の復興に大変役だったことに触れました。もっと違うジャンルのものも松本平で温存されていたのです、音楽です。ここでの演奏技量が継続して残されたことで、戦後の音楽史につながっていくのです…」
 昨日夜、『忘れられた特攻隊』の取材をした松本中学OBの加々美勉さんから電話があった。「市民タイムス」に載った書評について連絡してこられた。地元文化に深い関心をもっておられる方だ。
「長野で温存されが技量が戦後に大きく開花したのですよ…」

 
 昭和二十五年十二月十六日に、極東に駐在する全米軍に向けて、進駐軍放送AFRSから放送されたみどり楽団のクリスマスソングや日本の歌は、同時にテレビニュースとして収録、クリスマスの日に全米にテレビ放送された。 代沢小学校百周年創立記念誌「だいざわ」


 疎開学童バンド部隊が、戦後になって「みどり楽団」として本格デビューした。

「今度また富貴之湯で歌われていた特攻隊の歌が、ひょんなことから生き返ったのですが、これも胸が苦しくなるようなドラマです…」
 
 もともとがこの「淺間温泉望郷の歌」は、秋元佳子さんが歌詞とメロディを覚えていたことに始まる。採譜する過程でこのところ何度も彼女とは電話で話をした。

 不思議である。彼女と話をしているうちに忘れられていた記憶が蘇ってくる。
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2014年09月16日

下北沢X新聞(2644)〜特攻隊(武揚隊)の愛唱歌蘇る〜

信州浅間温泉・富貴乃湯本館全景bw
 図らずもネットによる「集合知」が過去の貴重な記録を蘇らせた。
 
 特攻隊が愛唱歌として歌っていたうたである。なかんずく注目されるのは最後の章節だ、彼らは「世界平和が来ましたならばいとしなつかし日の本へ」と郷愁を歌う、自死自爆する特攻兵も強く平和を希求していた。

 出撃前夜のことだ。大勢の疎開女子児童を前に全隊員が歌を熱唱した。飛び立てば死ぬ、と同時に歌も歌い手を失って消える運命にあった。ところが、ネットを通しての情報の繋がりが人を動かし、消滅するはずのこの歌は生き返った。作曲家 明石隼汰氏の手によってたちまちに楽譜として蘇った。その顛末を述べるものである。


(一)
 5Wに基づこう。何時?、昭和二十年三月末。どこで?淺間温泉富貴之湯の大広間。誰が?誠第31飛行隊・武揚隊隊員(十五名)。なにを?舞台上で声を揃えて愛唱歌を歌った。なぜ?出撃を明日に控えてお別れ会があったからである。

 大広間には舞台があって、彼らはそこに立った。全メンバー出てのそろい踏みである。一晩限りの愛唱歌を熱唱した。聴いていたのは百数十名ほどの女子学童だ。そのうちの一人は声を張り上げて歌う彼らの姿が忘れられなかった。彼女は、その情景ばかりか、三番まである歌詞を諳んじていた。驚くべき記憶力である。

 その人は、秋元佳子さんである。当時彼女は、東京世田谷東大原国民学校の疎開学童だった。五年生である。
「是非歌ってください」
 彼女に会ったときに私はお願いした。
「いいですよ、歌います…」
 きっぱりと言って歌い出す。その歌を聴くと、彼らの思いが改めて伝わってきた。淺間温泉への郷愁、女子児童たちへの想いが伝わってくる。とくに最後の「世界平和が来ましたならば」ではつい涙してしまったほどだ。

 彼女のその歌を録音したのは二年ほど前である。その時以来、採譜して歌えるようにできないかと念願していた。

「他にも覚えている人いると思うのだけどね、同年代の人、つぎつぎに死んでいなくなってしまうのよ…」
 今日、歌が蘇ったことを報告したら、こんなことを彼女は言っていた。歴史記録がどんどんなくなりつつある。続きを読む

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2014年09月14日

下北沢X新聞(2643)〜続「代田小路微傾斜文学論」2〜

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 北沢川緑道、鎌倉橋たもとに「三好達治文学顕彰碑」を建てる。彼の詩編は、長短合わせて千篇もある。この中から、どれを選んで載せるか?

(一)
 三好達治は、「昭和期を代表する最大の抒情詩人」(岩波文庫カバー)と言われる。この彼が十六年間も世田谷代田に住み、ひたすらに詩に執して、ここで亡くなった。このことは当地では何も残していない。それで碑を建て後世に伝えたい。その思いがようやく実ろうとしている。

 碑文に何を刻むか難しい。最初に着手したのは坂口安吾文学碑である。代沢小を舞台とした安吾作品『風と光と二十の私と』から一節を選び、これを刻んだ。碑文候補の中には「本当の美しい魂は悪い子供がもっている」というものもあった。しかし、小学校に建てる碑としてはどうなのかと思って、これは除外した。

 これまで三つの文学碑を建ててきた。一番重きを置いたのは固有性である。昨年建立した「垳利一文学顕彰碑」はその典型である。利一作品『微笑』に出てくる石畳を使ってこれを建てた。北沢の家で実際に使われていたものである。

 今回も土地ならではにこだわった。思いついたのは、リズムが素晴らしい「山なみ遠に」にである。これに描かれた辛夷を植えようというものだった。詩集『花筺(はながたみ)』の一篇だ。

 当地で詠まれたものではない。が、恋物語がここに潜む。白い清楚な花は女性である。「代田の丘の61号鉄塔」の下に住んでいた眉目麗しい手の白い女性が意識されたものである。

山なみ遠(とほ)に春はきて
こぶしの花は天上に
雲はかなたにかへれども
かへるべしらに越ゆる路


辛夷を植える、この目論見は外れた。樹木が大きく成長し、邪魔になるとのことだった。

 では、何を刻むのか。『定本三好達治全詩集』には「長短詩約千篇」が収められている。一つ一つこれを見ているが…。
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2014年09月13日

下北沢X新聞(2642)〜続「代田小路微傾斜文学論」〜

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(一)
 世田谷代田小路の三好達治寓居前の路地は緩やかに傾斜している。ここに何かの意味が発見できないのか?試みとしての地形的文学論も面白い。

 傾斜は坂だ、上りと下りとがある。人が通っていく場合、どちらへいくかで違いが出てくる。音としては下りがポイントだろう。具体的には上手の淡島通り側から人が下って来る。とくに用があって駆けてくればタッタッタッタと音がする。リズムがある。坂の途中に住まいした詩人はここに意味を見出した。

 新聞の方は窓が白んでから暫くして、いつもゴム靴でやつてくる。その足音で配達さんの年齢が分かる。 (『三好達治全集』第10巻)
 
 

 『季節の言葉』(昭和三十八年三月一日号『京都放送』に発表)という短いエッセイに書かれた一節だ。「配達さん」の足音が春を告げる言葉として捉えられている。

 この場合考えられることは、下る配達さんである。

 この路地は、かつて私は通勤時代に自転車で通っていた。淡島通りから入って坂を下っていく。漕ぎは不要で重力が自転車を押してくれる。心地好い坂だった。新聞配達人は駆けてゆく。坂が勢いをつけてくれて、トタトテトタトンとよく響く。路地ゆえにということもある。エッセイはこう続く。

 ゴム底にかかる目方、その体重と、いかさま敏捷なその足取りとでそれが分かる。

 その足音は軽快であり、爽快である。下りに間違いない。微傾斜を下るその音を聞き分けて、「この方は少年である」と結論づけた。若い筋肉が躍動する。それは詩人の季節への希望につながる。彼はこの文を、「きびしい冬が去つて、この頃ではきく方もほっとしている。」と結んでいる。

 代田小路の下り坂を駆ける少年の足音、それに春の到来を感知した。
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2014年09月11日

下北沢X新聞(2641)〜疎開学童バンド部隊物語4〜

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(一)
  国家は人間の情念を縛り付ける。しかし、音楽はこれを解放する。人は歌うことによって自由になれる。ことに戦争中は、多くの制約に縛られた。それでも疎開学童も、そして特攻兵も歌をうたってしばし束縛から解き放たれた。

 戦後69年、あれから時が隔たってしまった。それでもあの時の歌の余韻は今に尾を引いている。疎開学童バンド部隊は、再疎開で淺間温泉から塩尻へと移った。

 音楽部隊は洗馬の真正寺に、鉛筆部隊は広丘郷福寺に陣取った。この両者には音楽的な結びつきはあった。「真正寺学寮歌」が歌われ、この影響を受けて「郷福寺学寮歌」も作られた。

 後者の歌の作詞は鉛筆部隊隊長であり、作曲はバンド部隊隊長であある。二人のコンビで作られた歌が疎開先のお寺、郷福寺の本堂に鳴り響いた。

 歌は不思議な力を持つ、歌っている方よりも聞いている方がより強く影響を受けた。この寺に縁故疎開していた人が、小さい頃に聴いた音楽が忘れられなかった。それで、これを復活させたいと願った。探求の過程で私のブログに引っ掛かった。この間のドラマについては『鉛筆部隊と特攻隊』に書き記している。

 この本を持ってとある方が去年、郷福寺にお参りをされた。これが機縁になって物語を知ったお寺が、『郷福寺学寮歌』を復活させるためのコンサートをこの夏に開いた。
 
 来年は戦後70年を迎える。折も折、お寺は開基400年となるという。これに関連づけた催しに協力して欲しいと依頼されていた。

 学寮歌がプロの歌手によって蘇生したときの感動は忘れがたい。譜は歌われることによって蘇る。明るく、軽快だった。戦時中で何もかもが不自由だったときにこれを聞いてうっとりしたというのは実感できた。

 あの感激をもう一度、是非ともコンサートを開催して学寮歌を歌って欲しいと伝えていた。これに対して昨日、「コンサートも開催する方向で準備を進めています」との回答があった。

 私には希望がもう一つあった。あの時以来、ずっと眠っている曲がある。タイトルはない。短命だったからだ。ほんの数日間、いや一晩かもしれない、その時に歌われて消えてしまったものだ。はかない歌である。

 本質的にそういう運命を持った歌である。なぜなら特攻隊がお別れの会で歌ったものだからである。死んでいく彼らが、生きている学童へ贈ったエールだ。これを何とかして蘇らせたい。続きを読む

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2014年09月10日

下北沢X新聞(2640)〜疎開学童バンド部隊物語3〜

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(一)
  因果はめぐる糸車……考えてみるとまさに因縁だ。十年間行ってきた活動も振り返るとすべてがこれで結ばれていた、見えない糸の結び目を見つけることが人生である。

「坂口安吾と三好達治は人間的な結びつきがあったのですね…」
「そうですね、忘れていました。安吾が取手に住んでいたときのことですね。寒くてたまらないと三好達治に伝えたら、『こちらは暖かいから来い』と言ったことから小田原に行くことになるのです…」
「そういう因縁があるのですねぇ……」
 岩城さんは感慨深げだった。文学碑建立に当たって協賛して戴いている会社の担当者だ。文学に深い興味を持っておられる。
 私たちの文学碑の第一号は代沢小に建てた安吾文学碑である。今度また三好達治の文学碑を建てる。これもまた岩城さんが担当されている。

 八日の日、北沢川緑道の鎌倉橋で建碑について打ち合わせをした。(写真、山本裕さん撮影)ここに詩人ゆかりの辛夷の樹を植えたいと思っていた。ところが、これは大きく成長するので難しい。区の担当者に言われた。

 土地と文学の関わりを私たちは大切にして碑を作ってきた。安吾と旧居門柱、朔太郎と鉄塔、利一と石畳という具合にだ。今度はその目玉がない。

 達治旧居には塀に使っていたブロックが見つかった。が、敷石ならまだしも「三好達治寓居ブロック」というのもには詩の味がない。あれかこれか。さんざんに探し回った揚げ句、一枚の写真に行き会った。
「これはいいですね!」
 皆に見せたら誰もが感嘆する。犬のミミ−が代田の家で詩人にじゃれついている写真だ。
「この犬を私は診察していたことになりますか」
 獣医の廣島文武さんがスピッツを見ながら言った。

「この写真を碑に大きく掲示して世田谷代田での関わりをアピールすれば十分ですよ」
 そう言うが、計画は頓挫している。版権所有者との連絡が取れないでいるからだ。
「切り絵作家を知っていますので、切り絵で作ってもらうのも手ですね」
 山本裕さんが言う。
「いや、やっぱりこの写真でないと」
 獣医はこれにすっかり魅せられている。確かに犬は可愛い。
「詩の中にもミミ−は出てくるのですよ、達治は一緒に寝ていたみたいです」と私。
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2014年09月08日

下北沢X新聞(2639)〜疎開学童バンド部隊物語2〜

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(一)
  「音楽は人びとの心に愛情の火をともす」
戦中、戦後を通してバンド部隊の隊長はこの考えを持ち続けた。


  浜館菊雄先生が楽器を疎開先まで運んだのは確固とした思いがあったからだ。継続は力、演奏技量が保持された。これが戦後に大きく開花する、疎開学童バンドを中心にした楽団のデビューである。

 鉛筆をなめなめして文字を書く、鉛筆部隊は地味である。ところが、バンド部隊は華やかで絵になる。叙情味や郷愁が含まれている。

例えば、その三場面を挙げてみる。

・昭和十九年八月十二日深夜、新宿駅を疎開列車が出発していこうとする場面、バンドOBが大太鼓を列車に届けるところは最初の山だ。三本松校長が「そんなものを持って行くのか?」といった。彼が髭を生やしいたのか分からない。それでもしかめ面に髭というのが似合いそうだ。

・昭和二十年十一月一日、洗馬駅での夜の別れというのも最高だ。地元学童と疎開学童は音楽で結ばれていた。地元の学童は、「おれが、おれが送っていく」と喧嘩になった。その彼らが提灯を持って先導していく。駅のホームでの別れは想像しただけでも涙が出そうだ。汽笛が夜の駅にひとつ谺して、ゆっくりと列車が離れてゆく。提灯がゆれる、赤いテールランプが遠ざかってゆく。消えた後には、虫の音ばかりが、かしましい… 

・戦後、アーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)でのミドリバンドの演奏は最も華やかだった。晴れ舞台だ。児童楽団が一曲奏でたとたん、会場を埋めた占領米軍関係者が万雷の拍手を…続きを読む

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2014年09月07日

下北沢X新聞(2638)〜疎開学童バンド部隊物語〜

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(一)
 触れてもみたいが触れたくもない。が、遠ざかろうとすると反対にそれが近づいてくる。具体的にいうと情報である。知らなければいいが知ってしまった。戦中、戦後の音楽文化史に深く関わる事実である。

 学童疎開に端を発した物語、『鉛筆部隊と特攻隊』は六年間追ってきたテーマだ。今夏三巻目『忘れられた特攻隊』が上梓の運びとなった。悪戦苦闘してようやく終巻をまとめあげた。それですっかり肩の荷を下ろした気分でいることも強く影響している。

 この物語との出会いは、比喩的にはこう言える。鉱脈も分からずに掘っていたら、鉱石を掘り当てた。が、鉛筆部隊の物語は銀鉱脈だと思う。この脇にこそ金鉱脈が眠っていた。バンド部隊物語である。これは音が出る分、華やかで明るい、イメージが鮮烈だ。知れば知るほどあの場面、この場面が映像として浮かんでくる。まさに浪漫、小説である。

 昨日、手紙が届いた。このドラマの片鱗である。鮮やかに文言に織られていた。やはり鉛筆は銀で、バンドは金だ。

 学童疎開の児童が郷福寺で歌っていたという寮歌、とても明るく、心に響く、心地よいメロディでした。コンサートの後、ぜひ楽譜が欲しいといわれ、早速に地元のコーラスグループがレパートリーの一つにして歌っているそうです。

 塩尻市広丘郷原郷福寺白馬義文住職からDVDが送られてきた。8月8日に寺で開かれたコンサートの映像である。同封されていた手紙の一節に記されていた。ここに触れて絵が浮かんできた。

 「青い空/光る汗」、少し歳を重ねた娘さんたちが大きく口を開けて学寮歌を歌っている。声が響いている建物の窓には松本平が映っている。青い夏空を背にした北アルプスの連峰が見えている。七十年前に、温泉の疎開学童と慣れ親しんだ特攻兵が別れを告げた空だ、戦闘機の両翼を左右に振って…。

 手紙は続けて、「広丘の資産として大事に後世に伝えていかなければならないと思います」とあった。地元で響いていた音曲が、戦後七十年経って、蘇り、それが歌われている。これを思っただけでも胸がツゥンとしてくる。

 来年は、戦後七十年を迎える。折も折、お寺は開闢400年祭と重なる。先だって、郷福寺で行われたコンサートに参加した時に、これを記念する講演会を開きたい、ついては協力をと頼まれていた。早速に、表題をとのことだ。

 「鉛筆部隊と特攻隊−郷福寺学寮歌がめくった近代戦争史の一頁」

 こういう表題にしようかと考えている。
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2014年09月05日

下北沢X新聞(2637)〜犬のミミ−に敷石に文学碑2〜

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(一)
「萩原朔太郎、斎藤茂吉、垳利一とか今の人たちは知らないですね。図書の司書の人だってあんまり知らないのですよ。昭和ぐらいの文学がみんなもう古典になってしまっているのですよ」

「いや、それ私だわ、本は好きで読んでいるんですけどね、そういう昭和文学などは全く読まないですね…」
 わずか十分の休憩時間に文学談義となった。昨日、NHK学園の街歩きを行った。『北杜夫と斎藤茂吉の文学舞台を歩く』というものだ。松原の「マブゼ共和国」旧居を訪ねて後、旧青山脳病院跡、そして羽根木公園に来て休憩した。

「この近辺には昭和期になって多くの文士たちが住んでいますね。歌人、詩人とか芸術家とか際だって多いですね。この根津山だって文学や映画に取り上げられています。北杜夫の短編集『消え去りゆく物語』はこの中に載っている「消滅」という短編を強く意識して名づけられています。人間が死んだ後どうなるか死生観に思いを巡らしているのですよ。舞台は、ここですね、向こうに売店があるでしょう。その近くに坐って自分の死後のことに深く考えています…死を予感していたのですね。『私の生命も、あとわずかなことは間違いなかった』と書いてあります」
 そういって、この短編のさわりを読み上げた。

「なるほど、おれという存在がなくなり、この世のすべてがなくなり、地球そのものも消え果てるにせよ。大宇宙は残るのかもしれない。その宇宙の涯に、いつか知らないが、おれと似た生命が生まれてくるのかもしれない」(新潮文庫)

 
 
 
 
  文学とは何だろう。尽きるところ人間生存とは何かを考えるものかもしれない。

「何かね、今という時代は、情報が多すぎるのですよね。今はたちまちに古びて、ついこの間が過去になる。ドクトルマンボウ先生も愛読者が多くいましたけど…」

この頃感じるのは、急速にかつての文化が忘れ去られつつあることだ。忙しくてめまぐるしくてこれに触れる機会が少なくなってきていること、経験や体験してきた人の減少、それと基軸になるものがなくて人々がさ迷っていることなどなどが挙げられるが…

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2014年09月04日

下北沢X新聞(2636)〜犬のミミ−に敷石に文学碑〜

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(一)
「おばあちゃんが生きていればねぇ、三好さんのことよく知っていたのですよ。私もあそこには偉い詩人が住んでいたことは聞かされていましたよ」
 代田小路の路地の角の奧さんがいう。この家、三好達治を訪ねていくときの目印となった家だ。

 角の炭屋を目標に横町の路地を入っていくと右側に「岩沢」と表札の出た平屋が見え、足を止めると「三好」と、目だたない表札が出て、ひっそりとしている。
 萩原葉子『天上の花』―三好達治称 講談社学芸文庫 一九九六年刊


 角の炭屋さんは今は電気屋さんだ。かつての三好達治寓居だった岩沢家の地主である。
「今度、三好達治の文学碑を北沢川緑道の鎌倉橋のところに建てることにしたのです。ただ建てるにしても何か地元と結びつくものがないかと思って、例えばですね、岩沢さんところの家の礎石が今も残っているとかありますかね?」
 突然の訪問者が、「古い昔の家の礎石がないか」いう。びっくりされたと思う。

 昨日、文学碑を建てるに当たってどこにこれを設置するか。区の担当の人と現場の下見をした。ところが問題が生じた。

 当方の案では達治詩集『花筐』の一篇「山なみとおに春はきて」を刻むつもりだった。先の小説『天上の花』の題はこの詩によっている。辛夷を詠んだ四行詩である。これを刻むとともに形見として辛夷を植えたいとの希望を持っていた。ところが、この樹は大きくなるという。ただでさえ植え込みが多い中でこれが大きく伸びていくと全体のバランス上うまくはないとのことだ。

「もっと丈の伸びないものだったらいいのですけどね」と区の係の人。
「詩集『花筐』にはいろいろな花が載っていますので、低木のものでいいのがないかみてみます」
 三つの文学碑を北沢川緑道沿いに建ててきた。それぞれに固有性を持たせてきた。辛夷を植えるというのはこの延長上にあった。その植栽が叶わないとすればということで思いついたのは、岩沢家の敷石である。


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2014年09月02日

下北沢X新聞(2635)〜紀要第3号「代田小路の微傾斜文学論」后

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(一)
 人間のその時々の情緒や感情は、時とともに薄れて、消えて行く。人々が鉄塔に抱いた感情もだ。

 昭和初期に荏原を南北に縦断する鉄塔が建て替えられた。従来のは矩形型でこれが山型鉄塔となった。無粋な矩形から長身の山型鉄塔への変化は風景の大きな変化だった。

 辺りは武蔵野の緑に覆われていた。そこに出現した銀色の鉄塔、これが青空を貫いている。都市近代の象徴である。

 例えば、北原白秋は『海豹と雲』という詩集を昭和四年に出している。この中の「鋼鉄風景」は、「神は在る、鉄塔の碍子に在る。」で始まっている。

 北原白秋は歌集『白南風』の序を昭和九年四月にも、「砧村の家と鉄塔の下にて」と書いている。鉄塔への同意と親和性があったからであろう。塔はモダニズムの象徴でもあった。

 昭和六年に下北沢へ転居してきた萩原朔太郎は、近々帝都線が渋谷から延びてきて近隣がうるさくなるというので転居をした。新築するための地所を探した。日々散歩を欠かさなかった彼が代田の地所をみつけたのだろうと思う。前の号では、「私たちの町」という新聞記事を紹介した。代田一、二丁目に材を取って若林中学の一年生が取材をしまとめている。次の記事は、荏原を南北に縦断している線の歴史を正確に書いている。

 代田の東端を南北に走る高圧線は京浜電車の電力を甲州谷村からはるばる運んでいるものです。四十五年ぐらい前にできたそうで現在の鉄塔は二回目で、さすがに高くガッチリしていて一つの美しさをそなえています。

 『父・萩原朔太郎』では転居に至った経緯が書かれている。成城学園も選択肢の一つだったと書いてあるが、我ら数回の訪問で「成城学園」はあり得ないと皆言う。まずここには隠れるところがない。

 詩人が世田谷代田に居住地を定めた。決め手は代田の丘の61号鉄塔だろう。これが聳え立つ風景に惹かれて詩人は越してきた。そう考えてよいだろう。
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2014年09月01日

下北沢X新聞(2634)〜会報第98号「北沢川文化遺産保存の会」〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第98号 
                2014年9月1日発行(毎月1回発行)

               会長 長井 邦雄(信濃屋)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
1、終焉の地、世田谷に三好達治文学顕彰碑を

(一)
 昭和期を代表する抒情詩人、三好達治は世田谷代田に十六年間住んだ。そして当地で亡くなった。特記すべき点は、世田谷代田一丁目一番地に住みながらずっと詩を描き続けていたことだ。当地居住時代には『駱駝の瘤にまたがつて』、『百たびののち』が発行されている。代表作『測量船』とは違った、老練さの滲み出た味わいのある詩を詠んでいる。
 三好 達治は、明治33年(1900)年に生まれ、昭和39年(1964)4月5日に亡くなっている。ちょうど今年は詩人没後50周年となる。
 私たちは、以前から北沢川緑道を「北沢川文学の小路」とし、ここに沿岸に居住したゆかりの文学者の文学碑を建てようと提案してきた。
 まず、代沢小に2007年「安吾文学碑」を建てた。続いて2012年には萩原朔太郎ゆかりの「代田の丘の61号」鉄塔由来碑を、2013「垳利一文学顕彰碑」を、それぞれ北沢川緑道に建立してきた。こういう私たちの活動は2004年に始まったものである。今年末でこれが十周年を迎える。
 「北沢川文学の小路」に文学碑をという活動を続けてきたが、ここで一つの節目を迎えることから、三好達治の文学碑を建てようということになった。

(二)
 三好達治は昭和の国民的詩人として知られている。全国各地に詩碑は建っている。疎開先だった福井三国の東尋坊に建つ「荒天薄暮」は有名だ。観光名所となっているほどだ。彼の生地は大阪市である。北区中之島には「乳母車」を刻んだ詩碑がある。この他、彼が一時居住したり、旅行をしたりした所にも詩碑が建っている。
 世田谷区は最晩年の地で、終焉の地でもある。しかし、そのことを示すものは一切存在しない。朔太郎にせよ、達治にせよ、日本の近代詩の正統を受け継いできた詩人である。島崎藤村、北原白秋、萩原朔太郎、三好達治がその系譜である。この四人の中の二人もが世田谷代田を終焉の地としている。際だって特異なことだといえる。
 萩原朔太郎については、先年「代田の丘の61号鉄塔」の案内掲示版を設置した。彼の居住痕跡についての説明をこれによってなしている。代田地域の二大詩人の居住は、地域の記録としても大事だが、日本の文学や文化の記録としても大事である。
 地域に埋もれている文化を掘り出してこれに光を当てる。その点からしても三好達治文学顕彰碑は是非とも建てたいものだ。
 詩人が居住した現在の代田一丁目には何の表示もない。しかし、旧居住地に看板などを建てるのがよいとは思わない。住宅地に人が押しかけてきて迷惑になるということもある。
 「北沢川文学の小路」をという提案は、そういうこと配慮して、居住地に近い緑道に碑を建てようとするものだ。緑道を散歩する人が通ったときに目にするというのもよい。
 これまで三つの記念碑を建ててきた。遊歩道を通り掛かった人が知って驚くというようなことはあった。文学碑がきっかけとなって『風と光と二十の私と』(坂口安吾)、『氷島』『蕁麻の家』(萩原朔太郎、萩原葉子)、『微笑』『旅愁』(垳利一)を読んだという人もいる。人が碑に出会って、文学に接する。文化都市の逸話として素晴らしい。

(三)
 詩碑に何を刻むかという問題はある。特に私たちの場合は、単に碑を刻むということはしていない。作家にまつわる具体物を使ったり、置いたりしてきた。それは坂口安吾旧居の門柱を使った文学碑であり、実物の鉄塔61号鉄塔をシンボルとして使った碑であり、作品に出てくる石畳を活用した文学顕彰碑である。
 できれば三好達治についてもそうしたい。それで考えた末に一つの方法を思いついた。彼は短詩が巧みである。とくに四行詩である。
 彼の詩集『花筺』(はながたみ)にはこの短詩が多く載っている。「山なみとほに」はその一つだ。春先に咲く辛夷を詠んだものだ。リズム、響きが美しく、場面が鮮やかに思い浮かんでくる詩だ。

山なみ遠(とほ)に春はきて
こぶしの花は天上に
雲はかなたにかへれども
かへるべしらに越ゆる路


 これを刻んで、その形見として碑の傍に辛夷を植えようと考えた。一つのアイディアだが『辛夷基金』なるものを作って、用途をこれに限った志を募ろうかとも考えている。
 
(四)
 どこにこれを建立するか。三好達治は、代田一丁目、鎌倉通りが淡島通りにぶつかる角の裏手に住んでいた。そのことから建てるとすれば北沢川鎌倉橋付近が最もよい場所である。できればここに建てたい。世田谷区の一つの名所にもなるのではないかと思う。
 三好達治は世田谷代田に住んだ。淡島通りから少し路地を入ったところにひっそりと。ここで亡くなるまで詩にこだわって生きた。流寓述志の詩人だと評される。ひたむきに詩表現にこだわって一人生き抜いた。その芸術魂の一端を碑に刻んで後世に伝えたい。

 詩碑を建てる。この場合、協力者が必要である。まず版権を受け継いでおられる方への説明と同意が必要だ。連絡を取ったところ「地域の方が、三好のことを伝えようと努力されているのなら」ということで快く同意してくださった。次に、碑を建てるには費用がかかる。今回世田谷区地域の絆の助成が受けられた。これを活用する。が、これだけでは賄えない。幸い地域企業である東邦薬品ホールディングスの協賛を得ることができた。もう一つ大事な点がある。緑道を管理している世田谷区の協力だ。公園緑地課が窓口となっている。建碑に当たってはぜひ協力をしてもらいたい。

2、都市物語を歩く 第100回記念ウオーク

  長年行ってきた「都市物語を歩く」、これが11月15日で、百回目を迎える。記念歩行会を行う。100回目は駒沢線を歩くとした。
 「代田の丘の61号鉄塔」を世田谷区地域風景資産に推薦し、これが通って、風景資産になった。「NO1はどこにあるの」とよく聞かれる。洗足池近くと説明する。が漠然としていて今一つピンとこない。それで思いついたのは、この際、ナンバーワンから歩いてみようと思ったのだ。ところがこれはややハードだ。約十キロ近くはあるのではないか。それでどう歩くのか、工夫してみた。基本は面白がるということだ。

 「駒沢線を歩く」
  ・上級チャレンジ 洗足池駅前改札  12時集合 鉄塔NO1から歩く
・中級チャレンジ 都立大学駅前改札 1時30分集合 集合NO25から歩く
  ・初級チャレンジ 世田谷線西太子堂 3時集合 これは二キロほど、軽い。
代田の丘61号鉄塔まで歩き、終わった後、邪宗門でお茶を飲む。
  
 一人からNO1からNO25まで歩いていいかとの質問があった。どう選ぼうか自由である。なお、この100回記念の参加費はワンコイン、五百円である。ナビゲーターはこの全額を「辛夷基金」に寄付することにしている。

3、都市物語を旅する会 

私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

[9月の歩く会]
・第98回 9月20日(土) 午後一時 駒沢大学駅改札前(注意三軒茶屋から変更)
 駒沢高射砲陣地探訪   ナビゲーター きむらけん
 宗円寺→品川用水→六郷田無道→駒沢中学(タンチ山遊歩道)→駒沢高射砲陣地跡探索→蛇崩支流探索(品川用水からの盗掘現場)→双子の給水塔→志賀直哉旧居→呑川源流→桜新町駅 


[10月の歩く会]
・番外歩き 10月11日(土) 午後一時 溝の口駅改札前
 津田山高射砲陣地、久地分水など ナビゲーター 別宮通孝さん
・第99回 10月18日(土) 午後一時 京王線代田橋駅改札前
  京王線高架予定区間を歩く ナビゲーター きむらやすのぶさん
 代田橋駅→玉川上水→井の頭線玉川上水水路橋(山手急行電鉄痕跡)→明大前駅→
下高井戸駅→桜上水駅→下高井戸宿本陣→上北沢駅→八幡山駅→上高井戸宿本陣→芦
花公園駅(→千歳烏山駅)
 ※今年2月、国土交通省から京王線笹塚駅〜仙川駅間の連続立体交差事業について認可が下り、同区間が高架化されることとなった。具体的な工事期間は未定だが、いったん工事が始まってしまえば見慣れた風景はどんどん変わっていく。今のうちに、地上を走る京王線の姿を見ながら、沿線の歴史や地形を観察し、記憶に留めよう。
・第100回記念 11月15日(土) 計画のあらましは。上記に書いたとおり。
 駒沢線鉄塔を歩く(NO1号から61号まで)
・第101回 12月20日(土)午後一時 代田橋駅
 代田のダイダラボッチを歩く
 代田橋駅→代田橋跡→ダイダラボッチ宇田川湯源流域→ダイダラボッチ跡→代田図書館ダイダラボッチ足跡・机見学→代田駅前ダイダラボッチの足跡予定地→代田の丘の61号鉄塔→三好達治文学碑見学

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも500円
 参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記
▲会報、97号では世田谷区地域の絆支援事業の詳細については98号にで知らせると述べた。この間、計画が変わった。三好達治文学顕彰碑建立については会の発足当初から提案していることである。簡単に言えばこれが前倒しになったということだ。従って計画はつぎのようになる。
 峪姐ッ治文学顕彰碑の建立」。建碑に伴う紀要第3号の発行『代田小路の微傾斜文学論』−三好達治没後五十周年記念・文学顕彰碑建立記念−。「下北沢文士町文化地図」改訂六版の発行。以上を事業として行いたい。
▲「ダイダラボッチ音頭」については、歌詞はできているが曲がない。ということでこれの作曲してくれる人がいないかと呼びかけていた。会員の川田明義さんがこの要望に応えて戴いた。これを公開し、「いくらでも直して戴きたい」とのことである。ネット上で「Half Mile Project」きむらたかしさんのホームページで曲は聴ける。チェックあれ。
▲今年12月に、保存の会は創立10周年を迎える。当初、発足したときは北沢川緑道を「北沢川文学の小路」とし、沿岸に住んだ文学者たちの碑を建てようと提唱していた。十年経って、この夢が実現しそうである。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千二百円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。

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