2015年01月

2015年01月31日

下北沢X物語(2736)〜「子の神」は星の神か?〜

P1050057
(一)
 「子の神」の正体を求めて旅は果てもない。行き行くと神の興亡にゆきあたる。強い神がいて弱い神がいる。結局は、ここには神はいずに人間がいる。つまりは人の意義付けによって強くも弱くもなった。「子の神」をねずみとした場合は強い。たちどころに全国区になる。が、一方、「子の神」を北や星にすると弱まって消えて行く。

 碑衾町大字碑文谷小字子之神にはもともと水の神様があった。第六天だ、これは「仏教における天のうち、欲界の六欲天の最高位(下から第六位)にある他化自在天をいう」(ウィキ)。明治以前の神仏習合時代に第六天魔王を祀るものであった。これが明治維新後の社寺合祀によって仏教から離され神社となった。当地の神の主は高木神社となって、ちゅうちゅうさまの僕となった。魂を奪われた神は衰退する。

 この第六天神社、方々にあったが多くは廃れてなくなってしまった。私が居住する衾地区の池淵にあったが完全に消え失せてしまっている。

 高木神社は明治期になって忽然と現れた。先の論考「子之神・第六天・高木神」(『郷土目黒』4号)の富岡丘蔵氏もルーツを辿っている、「村のパイオニアの屋敷神を部落の氏神としたらしいことに出発し」と経過を推理はしているが、その根源は「今の私にはさっぱりわからない、とにかく高木神社になったのは明治からである」と記している。

 一つの推理だが、この「子の神」は非常に古くから地域の人に崇められていたことは確かである。地形的には舌状台地の先端にあってハケが集まっている場である。水の神様を祀っていたのは確かである。

 鈴木氏は、「神代の第六天は根の国の神であるから、そのまま根の神になったかということも考えられる。子の神という地名を子之神と書いた例も多かった」とも指摘している。

 非常に大事なことがある。当地に遺跡があることだ。その名が「高木神社裏」となっている。台地の先端部分ではなく少し上である。ここは谷になっていて向かいには杜がある。碑文谷八幡宮の森だ。その上に北の空が広く見える。この遺跡「縄文時代中期」の遺物の包蔵地となっている。一つの推測だが、カミの源はこの時代にまで遡るのではないか?

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2015年01月29日

下北沢X物語(2735)〜「子の神」の「子」は何か?〜

P1050059
(一)
 探査したり逍遙したりしているとその土地の風合いが住人の眼光に映って見えることがある。昨日、「子之神」の先端部分を調べているときに老翁の眼光とぶつかった。
「ここの道は入り組んでいて住民以外は通らないのだけどな、はてまたこの人は見かけない人だ、こんな路地を入ってきて、怪しい奴か?」
 こちらに向ける眼光をこのように読み取った。

 実際、高木神社のあるところの道は複雑だ。回り込もうとしても回りこめない。神社を載せた舌状台地が半島状になっている。が、その途中は横断できない。

 調べて行くうちに非常に興味深いことが分かった。高木神社の裏手は縄文時代中期の遺物が埋まっている台地包蔵地である。遥か昔からの人々の居住痕跡があるところだ。

 縄文人とちゅうちゅう様というのはどうも結びつかない。やはり子は北ではないか。

 昭和三十五年に発行された『郷土目黒』第四輯には富岡丘蔵氏の「子之神・第六天・高木神」と題された論考が載っている。ここに興味深いことが書いてある。

 本年は子の年であるというので、子の神というのも話題になり、世田谷駒繋神社の如く、子の神は十二支の子、ねずみ、従つてその祠神はねずみを神使いとする大国様、則ち大国主命であるということになつている。従って生産の神、台所の神ともなつているが私はこれに疑問を持っていた。それは私共の子之神についてはこうした大国主命というような感じを与えられたことは今まで全くなかつたからだ。

面白いことに駒繋神社の例が持ち出されている。しかし、駒繋とて忽然と大国様に御神体が変わった経緯は同じだ。『下馬史』(高橋源一郎著)ではこういう。

 昔は子之神明神と言われ、村人は子之神様と言っていた。御神体は文殊菩薩で仏であるため政府の役人が検分に来るというので、祭神が仏ではふさわしくない、大国主命は幼名を子の神というのだとして、急遽大国主命を守護神とし、駒繋神社と改名したのである。

明治期のいわゆる神社合祀令をめぐるごたごたの中で適当に神が意義付けられた。

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2015年01月28日

下北沢X物語(2734)〜「子の神」を求め求めて2〜

P1050050
(一)
 荏原には字名として「子の神」と呼称されるところが二箇所ある。地形的に興味深い。共に荏原台から延びた舌状台地にある。かてて加えてその方位が北東方向へと流れている。

 面白いのは、この二つの「子の神」は判で捺したように、御神体を出雲から分霊してきた大国主命だとする。すなわち、「子」はねずみだ。神話ではこれは命の危難を救ったことから神の使いとされている。

 地形観察からは北という方位が想定される。が、伝説はこれを否定し、ちゅうちゅう様だとする。あまりにも面白すぎて寝られないほどだ。

 私の住んでいる地域は、かつての「碑衾町」になる。「碑文谷」と「衾」とを合わせた合体地名である。これなども面白い。いつも歩いている場所だからだ。

 碑文谷と衾は大まかにいえば呑川左岸の背尾根で別れている。自説通り、左岸は急峻である。この尾根を越えると碑文谷である。「碑文」が埋まっていた谷、それが碑文谷八幡宮ではないかとされる。衾地区と比べると土地は緩やかである。

 この衾というのは何かというのも様々な論議がある。が、根本は地形にあるようだ。台地、高台などを、ふす、ふせなどと言うらしい。確かに衾地区は坂が多い。

 一方、背尾根を越えたあちら碑文谷は緩やかだ。「碑衾町大字碑文谷小字子之神」とされる地区はまさに微傾斜状にある。

 北東を向いた子之神半島の先端部にあるのが高木神社である。ここには何度も来ているが、「高木神社、聞いたことがないなあ、高木さんという地主がいたのか?」ぐらいにしか思っていなかった。

 しかし、調べると、れっきとした由緒ある神であった。有名なのは墨田区にある高木神社である。タカムスビノカミ(高皇産霊神)を祀っている。天地創造の三神の一つであるという。
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2015年01月26日

下北沢X物語(2733)〜「子の神」を求め求めて〜

P1050051
(一)
 「子の神」は興味が尽きない。通例的な伝説では、子の神というのは大国主命である。出雲大社はこれを祭神として祀っている。命が野火に遭遇したときにネズミの機転によって助かった。よってネズミは神様の使いとして大事にされるという。出雲系の神だとされる。

 しかし、子の神には諸説がある。子は、根で黄泉の国だとも、また子は方位の北で星ではないかとも。この場合は恐らくは遥か古代まで続くものである。

 この問題、下馬の「子の神」神社をいただいている旧字名「子之神丸」が発端となって調べ始めたものだ。

 すると、王朝時代に「覚志郷」、カガシゴウがあってその中心に当たるのがここではないか?という説にぶつかった。この場合にはカガシは、��で、星のきらめきをいうという。

 この間うちから「子之神」に取り憑かれてしまった。この子之神は、「南関東から東海地方にかけて集中的に分布し」ているという。例えば、沼津市には古墳が子の神になっているともあった。

市内に残る3基の前方後円墳の一つで、その中では最も新しいものだと考えられている。前方部に子ノ神社があり、後円部には盗掘坑もあるので形はかなり崩れているが、長塚古墳・神明塚古墳とともに、この地域への古墳文化の普及を知る上で貴重な古墳である。
 

我孫子市には子の神古墳群というのもある。遥か古代へ繋がる神ではないか。そんな想像が湧いてくる。

 調べ調べていくうちに何のこともない。家の近くにも「子の神」を字名とする場所があった。現在の目黒区南に当たる部分がそうだという。

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2015年01月25日

下北沢X物語(2732)〜子の神と戦没者墓苑〜 

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(一)
神を求めての行脚は続く、「子の神」というのはどういう神なのか興味深い。万年に遡る古代信仰の源ではないか、いや、やはり大和朝廷を源とするものではないのか。

 日々のさるき歩きでふと思ったことがある。

無限の宇宙は荒涼としている。漠としたここを過ごしていくときに心身は支えを必要とする。身体には杖を、心には神をである。孤独な人間は、自分でない他を必要とする、そこにはなにがしかのストーリーがなくてはならない。人は神という物語を祈るように欲しているものではないかと思った。

 昨日、かつての勤め先の父母の会の新年会が市谷であった。帰りしな歩いた。道なりに行くと靖国神社である。ここへは寄らず九段坂上から半蔵門方向へと向かった。道は下っている。遠い昔を思い出した。渋谷から須田町行き都電が出ていてこの坂でグゥンガゥンとモーター音を高くしていた。その坂を下りながら地形に気づいた。「ああ、底には東流する水路がある」と。その瞬間、靖国神社は東に延びる舌状台地の上にあるのだと思った。

 地形は不思議だ。日々歩いていて気づいているのは西から東へ半島状の舌状台地が大小とりまぜて数多くあることだ。靖国神社はこの地形構造を見事に活用している。例えば、歌謡曲「東京だよ おっ母さん」の一節だ、戦争で死んだ兄がここに祀られている。「あれが、あれが九段坂」、なるほど見上げる位置に神を据えてこそ愛おしみの思い、情緒は強く募るのだと。

 そんなことを考えながら行くと左に折れる路地があった。登って下る。背には「鍋割坂」とある。「坂の名の由来は、鍋を伏せたような台地につくられた切り通しなので、この名が起こったといわれています」、合点がいったのは靖国神社を載せた舌状台地の片割れだということだ。下ると千鳥ヶ淵だ。

 なぜここに来たのか。遠い思い出を探しての散歩だ。このそばにホテルがあった。かつて学生時代にここでアルバイトをしていたことがあった。鍋割坂を下りた左側にあったと思った。が、お目当てのフェア−モントホテルはなかった。

 千鳥ヶ淵わきのひっそりとしたホテルはなくなっていた。
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2015年01月23日

下北沢X物語(2731)〜初歩き:子之神丸半島幻想行4〜 

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(一)
 昨晩、ブログへのアクセスが急に増えた。何かがあったと直感する。鉄塔に若い女性が登ったという事件が思われもした。ところが、調べてみると女性に関係することではある、御年98歳だった。元皇族北白川祥子さんが亡くなられたというニュースだった。

 美貌の人は社会、世間の関心を集める。ニュースが流れたとたん、男はパソコンの検索に走った。それでここに行き着いた。過去ログの、下北沢X物語 (1382)〜「仰徳集」の歌姫たち3〜である。自分で書いた一節を引いてみる。

 「仰徳集」に収められた言葉の旅をしていくうちにこの詩歌集に関わる写真と出会った。 旧近衛野砲兵聯隊跡で撮られた一枚の集合写真である。昭和三十一年十月七日に撮られたものだ。「青雲会 第五回懇話会記念」とある。
 この集合写真のまん中に女性が写っている。写真の名簿には「北白川祥子様」とある。北白川宮永久王の内室である。写真を拡大してみるとなるほど見目麗しい顔立ちである。三島由紀夫は十七歳のときにこの女性に片思いをしたという。その経緯が書かれたのが「玉刻春」という小説だという。この彼女をどう描いたのか知りたくなって調べてみた。


 この後に、『玉刻春』が引用されている。三島由紀夫は彼女の美貌を詞を飾り立てて描いている。

 因縁というのは面白い。私は、子之神丸半島幻想行を書いている。子之神丸は下馬にあった旧字名である。この向かいにあるのが「中原」である。その向こうが「原」だ、字名は土地の形状、由来を記している。原は地形を言い表す、これはフラットな原のことだ。ここに近衛野砲兵聯隊の兵営が築かれた。北白川宮永久王は、近衛野砲兵連隊中隊長で当地ゆかりの皇族である。
 悲運の若き貴公子である。陸軍砲兵大尉としてモンゴルへ赴任していたが、演習中に航空事故に巻き込まれ事故死した。『仰徳集』は彼の死を悼む歌集である。全国の高女生が歌を寄せている。この歌集、駒沢練兵場を巡る街歩きを行ったとき、川口信さんが参加されて、彼から戴いたものだ。お父さんが北白川宮家の執事をされていた。

 下馬子之神丸の北方には、野砲兵兵営がずらりと並んで建っていた。この東には、駒沢練兵場があった。「練兵場は、世田谷村の池尻、目黒宿山、駒沢村下馬引沢の三ヵ村にまたがり、数万坪の原である。もとはこの一帯が畑と山林であり、全面積の三分の一が下馬引沢であったので、駒沢練兵場と名付けられた。」『しもうま』(下馬史跡保存会刊)

 下馬は古代から近代へと続く戦跡だとも言える。駒繋神社には平安時代後期、東征途中の源義家公が父頼義とともにここにあった子之神に戦勝祈願をした。続きを読む

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2015年01月22日

下北沢X物語(2730)〜初歩き:子之神丸半島幻想行3〜

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(一)
「作家というものが、どんな位置取りをして、どこでものを書くかというのは大きな問題ですね、モチベーションの問題です、あまりにも田舎過ぎるとのんびりして筆が弱ります、だから都会との間合いが大事だと思うのです。昭和の初めはここが一つの作家にとっての一つのポジションだった、武蔵野ですね」
 代沢の丘、そこには往時を偲ばせる大きな欅の木が一本あった。そのそばで説明をした。 この20日、下北沢文士町の案内をした。新聞労連OBの32名である。書くことの経験を持ってきた彼らには都鄙境界の大事さはよく伝わったように思われる。

「昭和の初めごろ、一帯は何もなかったのですね。ここに土地を見に来た横光利一が作品の中で言っています」

 ある高台の平坦な畑の中で立ち停つた。見たところ芋の植(うわ)つている平凡な畑だつたが、周囲に欅(けやき)や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思つた。

 小説『睡蓮』の一節である。目前の欅はその一本に違いない。昭和初期までは辺り一帯ほとんど何もなかった。大正末期丘の下の代沢小に赴任した坂口安吾も「四方はただ広茫かぎりもない田園」(『風と光と二十の私と』)と述べている。

 ちょっと前までは田舎だったのに、ここ百年の間でこの武蔵野がすっかり変貌した。丘や沢はすっかり街路ができ、緑は根こそぎ伐られてしまった。その上に我々は生活している。が、この歴史は浅い。野沢は日々歩いている、これとて始まりは元禄八年、「大森澤田から来た百姓と葛西から来た野村と云ふ百姓の一字宛をとつて村名を付け」たという。

 この野沢を南北に貫く道は「八軒道」と言われた。家がまばらだったからだ。自宅のあるところも「衾村の七軒百姓」が起こしたという。これらもせいぜい遡っても江戸期だ。がらりと一気に変わってしまった中に歴史の真実を見つけることは困難である。が、幸いなことに武蔵野の地形は当時を残している。かつてを考えるとき手掛かりになるのは、字名であり、地形である。
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2015年01月20日

下北沢X物語(2729)〜初歩き:子之神丸半島幻想行2〜

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(一)
 「子之神」とは何か、民族学的に非常に興味深いものである。遙かなる古代に繋がっていく問題である。特に面白いのはこれが天体とか地形に関わってくるからだ。
 
 下馬、上馬は、自身の荏原逍遙で常日頃歩いているエリアである。最近気づいたことがある。郷土資料として前者には『しもうま』(下馬史跡保存会刊)と『下馬史』(高橋源治郎著)との二冊がある。後者はない。

 上馬は大山厚木街道がど真ん中を通っている。下馬はこれから外れている。この街道明治末には玉電が走っている。早くから都市化されたところだ。街道から外れていることで史跡などが多く温存された。そんな影響もあるのではないかと思った。

 郷土史は、その地域を意義付け、価値付けするものだ。「父祖伝来の土地であり、過去七十年の生育地である世田谷下馬の地は、私にとってかけがえのない土地であります」と『下馬史』を記した高橋源治郎氏は語っている。

 この著では「下馬の地名と字名」が語られる。そして、先の「武蔵野会」の遠足「駒澤行」の引率者だった鈴木氏の言説を引用している。

 鈴木堅次郎氏によれば、馬引沢が公称地名となる以前、すなわち室町時代から鎌倉時代に遡るが、現在の馬引沢の地域は菅刈庄と呼ばれた。この菅刈の地域は王朝時代には覚志郷と公称された。「カガシ」郷が菅刈庄に相応する地域は若干狭いと見られる。そうして郷所は今の三軒茶屋附近であった。郷庁所在地は中郷と公称され、上馬を上郷、下馬を下郷と称したのである。

 興味深いのは当地が覚志郷だったことである。「カガシ」である。この語源はどこから来ているか?
「子の神は何か?」
「子は星ですよ」
 子丑寅、十二支である。子は、方角でいえば北、北の星、すなわち北斗七星である。
 
 調べてみると、それは当たっていた。子之神丸半島の先端は、古代の北斗星遙拝所、天文台ではなかったのかともある。まさに幻想である。街歩きは土曜日、二晩眠っも天文台説は心をうきうきさせた。
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2015年01月19日

下北沢X物語(2728)〜初歩き:子之神丸半島幻想行〜

三つの弁天巡り 001
 新しい年を迎え、また街歩きが始まった。「都市物語を歩く」と題した旅だ。今回で102回目となった。我らは偏屈だ、大勢が行くところにはいかず、閑雅な箇所をこっそりと廻る。この行程での発見が楽しい、それを皆と共有して歩く。
「出発時の写真を今回は撮りましょう」
 米澤邦頼さんの提案で東横線学芸大学出発時の写真を撮ったことだ。 

100回を超える街歩きは蓄積である。歩きを通して知ったことは当地一帯の歴史が相当に古いことである。至る所に旧石器や縄文などの遺跡がある。万年を超えるものだ。

 ところが歴史は不思議なことに途中から始まっている。社寺に創建四百年とかにぶつかるが大したこととは思わない。柳田国男が代田橋はダイダラボッチが架けたことに「巨人の偉績にしては甚だ、振るはぬもの」と批評している。一帯には神が祀ってあって、多くが義家東征の折、あるいは、頼朝東征の折、云々という伝説を典拠にして社格の意義付けをしているが、常套的で、「甚だ、振るはぬもの」、うさんくささを思いもする。

 例えば、今回駒沢ダイダラボッチを鶴ヶ久保だとして皆で見に行った。これとて将軍吉宗が狩りにきたときに鶴が現れてという伝説がある。ところがさすが『世田谷の地名』は学術的である。伝説は「後に附会したもの」だと一蹴する。「狭隘な谷頭に静かに水を湛えた湧水池があった」、このことから名付けられたと述べている。

 今回は、新しいコースだ。当日になって、根之神丸半島を行こうと思って行った。スリリングであった。当初、終点を世田谷「邪宗門」にしていたが臨時休業とのことだった。「これは困った」と思っていたら、幸いなことにキャロットタワー三階の市民活動コーナーの部屋が具合よく空いていた。

 予約時間に制約されたことで後半は急ぎ足になった。が、一階の今川焼き屋さんで買ってきたこれと各自が買ってきた飲み物とで新年の乾杯をした。
「もう一度きっちと子之神半島探訪はやってみたい」
 2016年度の1月再度チャレンジして、また今川焼きを食べようと思った。
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2015年01月17日

下北沢X物語(2727)〜駒沢ダイダラボッチは鶴ヶ久保2〜

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(一)
 駒沢ダイダラボッチはどこなのか?これを探るために、実際に今日は皆と街歩きをした。

 新春に歩く、新コースである。どこをどのように歩くのか自分で十分に詰めていなかった。が、朝になってふと思いついたのがかつて武蔵野会で催した遠足をなぞるコースだ。

 それは駒繋神社から西澄寺に行き、明治薬科大遺跡を通って鶴ヶ久保に行くコースである。自分で名づけたのは根之神丸半島を巡る旅である。

 まず、南北を貫く縦棒がある。荏原台の東端だ。ここから東に向かって延びている舌状台地がある。「⊃」の形をしている。この全体を旧字名では「根之神丸」と称する。基部となる付け根には野沢龍雲寺や野沢稲荷神社がある。中ほどには学大附属高校や世田谷観音がある。この先端部には神社、駒繋神社が鎮座している。地形形状からすばらしく面白い。

 舌状であれば当然縁がある。左端上部、左端下部にはそれぞれ窪地があってここから川が流れている。前者が鶴ヶ久保であり、後者が清水窪である。それぞれに弁財天が祀られている。

 今日の目玉は、ダイダラボッチ跡である。それは鶴ヶ久保である。下馬、野沢地境を走る古道はこの窪地を避けて通っている。西から行くと、駒沢練兵場に辿り着く。ゆえにこの道、軍馬がかつてはよく通っていた道である。

 この道、下馬側の字名は鶴ヶ久保である。クボは窪、凹みである。これが現に地形としてあることからダイダラボッチはここであることは間違いないだろう。柳田国男は、『ダイダラ坊の足跡』で「足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小学校と村社との中程にあつた。」と述べている。

 まず前段は、「玉川電車を降りて道をたどった先の一丁ほど東」と考えれば当てはまる。つぎの段には、学校と社が出てくるがこれも符合する。すなわち学校は旭小学校であり、社は野沢稲荷神社である。

 柳田は、「これも道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらゐの窪みであった」と述べる。この場合の「も」が興味深い。代田ダイダラボッチと同じようにということだろう。実際現場は、道路の左手に接して窪みは始まる。
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2015年01月16日

下北沢X物語(2726)〜駒沢ダイダラボッチは鶴ヶ久保〜

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(一)
 駒沢のダイダラボッチはどこか? 端的に言えば、現鶴ヶ久保公園だったと考えてよい。その根拠は、雑誌『武蔵野』特別号、大正八年七月発行に載った記事である。タイトルは「駒澤行」(武蔵野会遠足記)である。

 この筆者は鈴木堅次郎である。谷川磐雄『武蔵の巨人民譚』の論考には「駒澤村上馬引澤、同じく野澤、碑衾村谷畑にもあるよし鈴木氏から承つた」とある。この鈴木氏はダイダラボッチについては谷川氏以上に詳しかったと考えてよい。柳田国男は『巨人民譚』を典拠にして『ダイダラ坊の足跡』を記していることから注意を要する。

 この「駒澤行」は、武蔵野会が行った遠足の記録である。「大正八年六月一日晴。会員一同初夏の西武蔵野を散策する為渋谷駅前に集る」。この行程で興味深いのは駒沢の林愛作邸を訪れていることである。

 林愛作氏の新邸は駒澤村と上馬引澤と同源澤との地境に在り、朋友居と名づく、四方田畑にして東西南の三方は芝生の庭に続いて自家の畑越え、田を越えてゴルフ倶楽部の忙々
たるグラウンドとなつてゐるので眼界を遮るもの何物もなし、忙漠たる武蔵野の趣を味はうべく適当に造られている。
 
 

 
 この林愛作邸は、フランク・ロイド・ライトによるものだ。大正六年にできていることからするとまさになるほど「新邸」に違いない。また次のようにもある。

 明治十四年二月六日明治天皇が小松宮白川宮両殿下を供奉として御乗馬にて此の地に於て兎狩を遊ばされた旧跡で、林氏邸内は馳驅遊ばされた御野立場であると伝へられてある。


 この邸は、現駒沢オリンピック公園の北側に株式会社電通の厚生施設、「八星苑」として現存している。往時、駒沢ゴルフ倶楽部のグリーンが邸から見通せた、今は駒沢オリンピック公園になっている。

 彼らの遠足は、「駒繋神社と西澄寺」を通って東に向かっている。現、野沢通りはこの当時はない。この西澄寺の「本堂では住職が善男善女に弘法の灸をすえてゐる。大きなお灸だ、万病に利く有名なお灸だ。お寺の好意でお茶が出る、お手製の新茶だ、これを飲み暫くして野澤に向かふ」とある。

 西澄寺は灸治で有名だったと分かる。そして、寺では敷地でお茶を作っていたようだ。ここから野沢に向かうが、いよいよダイダラボッチだ。
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2015年01月14日

下北沢X物語(2725)〜駒沢ダイダラボッチはどこか?4〜

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(一)
 東京西南部の荏原一帯にはダイダラボッチ伝説、巨人民譚の痕跡や物語が数多く眠っている。このことから柳田国男は「東京市は我が日本の巨人伝説の一箇の中心地」だと言い放った。この巨人民譚ほど興味深いものはない。当、ブログは二千数百回の記事を載せているがすでに創設時から、NO18は「だいだらぼっち伝説を求めて」としている、このダイダラボッチを取り上げている。

 ダイダラボッチ研究の先駆者谷川磐雄は「民譚といふものは古くから國民の口に言い伝へられた物で実に不文の古典だ」という。なかんずく巨人民譚は「古事記や風土記と対比すべき材料だ」と指摘し、「数千年の昔から語り伝えられた考古学上土俗学上、実に貴重な民譚なのである。」(雑誌『武蔵野』大正八年十二月発行)と言い放つ。

 この場合、数千年というのは大事だ。彼、谷川磐雄は荏原のダイダラボッチ「その足跡地に何度も行って石器や土器を採集した。」と言う。旧石器時代や縄文時代までさかのぼるものである。

 ダイダラボッチ伝説は、我が日本の通例的な歴史をも凌駕するとんでもない代物である。一万年前、それよりももっと前まで遡る話だ。

 地形形成とダイダラボッチというのは深い連関がある。この辺りについては柳田国男が述べているところだ。彼は想像力を駆使してこのダイダラボッチの正体に思いを巡らせている。

 柳田国男の論考『ダイダラ坊の足跡』の結論部分は、美しい、非常に文学的である。

 我が武蔵野の如きは、かねて逃水堀兼井の言い伝へもあつた如く、最も混乱した地変のためいろいろと移り動いた。郊外の村里にはかつて清水があるによつて神を祭り居を構へ、それがまた消えた跡もあれば別に新たに現れ例もまた多い。続きを読む

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2015年01月13日

下北沢X物語(2724)〜駒沢ダイダラボッチはどこか?3〜

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「ほら、この鉄塔、駒沢線10号の上、ちょうどこのあたりがダイダラボッチのまたぐらになるのでしょうか。右足はちょっと北の擂鉢にあって、左足がこの西の狢窪にあるのです。このときダイダラボッチは杖を持っていてこれをついたのが洗足池、そんな伝説があるのですよ…」
 昨日、荏原逍遙で東工大構内の左岸崖線で富士を眺めていた。雲もなく、丹沢山塊の向こうにくっきりと富士が見えていた。このときに話掛けてきた人がいた。このときに目前に見える景色について話をしたら本人びっくりしていた。

「あの富士にしても丹沢にしても伊豆半島が衝突してできたのですよね」
 景色を目前にして話をするとまた格別な味わいがある。時間の悠久さが思われた。
「へぇ、そうなんですが、衝突といってもゆっくりですよね」
「そうそう、ゆっくりですね、衝突によってアルプスはできたのですが、今もこれは続いていて山は持ち上げられているのですね…」

「この東工大は呑川左岸ですね、これが不思議ですね、左岸が高いのですよ。ほらもっと南に行くと荏原病院があるでしょう、あのあたりなんか坂が呑川に向かって転がり落ちているでしょう、左岸が際立つのですよ…」
「………」

「私は今は奥沢に住んでいますが、もともと家は宮前橋のところなんですよ…」
「えっ、世田谷代田なんですか、あそこに鉄塔があるでしょう?」
「ああ、子どものころよく遊んでいました…」

「えっ、その鉄塔とここの鉄塔が繋がっているのですか!」
「鉄塔の下に萩原朔太郎が住んでいたのですか!」
「代田がダイダラボッチの中心だったのですか!」
 その方にとっては驚きだったようだ。
 かれこれ小一時間ほど目前に見える荏原景色の裏に潜む文化を語っていた。
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2015年01月11日

下北沢X物語(2723)〜駒沢ダイダラボッチはどこか?2〜

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(一)
 我々の前住者は、大昔かつてこの都の青空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去つた巨人のあることを想像してゐたのである。

 柳田国男は「巨人来往の衝」(論考『ダイダラ坊の足跡』)の冒頭でこう述べている。ここで最も大事なことは何か。それは「想像」である、もっと具体的に言えば古代人のイマジネーションである。ここへの理解が肝要である。が、一般にはいわゆるお話として理解されている。例えばこうである。

 つぎの日、代田で夜目に見た巨人は、筑波山に腰をかけ、長いキセルを淺間山の煙で火をつけ、煙草をうまそうにすっていました。巨人は代田の方に顔を向け、にっこりと…。

 『改訂世田谷の民話』の一つ、「代田村に巨人がのっしのっし」の結末である。話としては面白いものだ。このような切り口で伝えられることは仕方のないことである。ダイダラボッチは具体的な形として伝えなければ伝わらない。それでどうしてもこういうお話になってしまう。ところがここに誤解がある。

 以前、目黒太田のダイダラボッチを歩くに埼玉県ときがわ町から来られた松原征男さんに言われたことがある。
「わたしはダイダラボッチは信じません」
 長原駅前で最初に会ったときにこう切り出されて面食らってしまった。

 お話の発想の土台は何か。ダイダラボッチの痕跡は大概が大きな足跡である。代田にしても駒沢にしてもそこに大きな窪みがあったことから名づけられている。大きな足跡があるから大きな男がいた。想像の発端である。

 そういう大男はいなかった。とするとつまらなくなる。居たというふうに考える方が面白い。が、何度も言うがこの話、単純におもしろおかしいものではない。ダイダラボッチ、巨人の足跡から人々が大男の存在を想像したことだ。もっと面白いのは、このことが国家創立の伝説につながっていく点である。

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2015年01月10日

下北沢X物語(2722)〜駒沢ダイダラボッチはどこか?〜

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(一)
 大昔の前住者はイマジネーションを膨らませていた。この都の青空の東西南北を一またぎにまたいで、大男のダイダラボッチがあっちへ行き、こっちへ去っていたと。
 どんな音がしたのだろうか。右足がビョウ!と音をたてて上空をよぎったとたんに空は暗くなった。そして天からは土や砂が雨のように降ってきた。足についていた泥だ。
「ぎょへぇ、ダイダラボッチが通っていく!」
「家の屋根が揺れたのは足が風を切っていったからだな!」
「足音が消えたと思ったら、今度はまた別の足音が聞こえてきた、ダイダラボッチは二人も三人もいるんだ!」

 民俗学者柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』という論考をまとめている。その冒頭の章の見出しが「巨人来往の衝」である。彼ら大男が当地、荏原一帯を自由に闊歩していたことへの衝撃と感動とを述べたものだ。

 伝承文化を調べるには実踏が大事だ。彼、柳田国男はまず代田のダイダラボッチ跡を調べた。すると「長さ百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ」見つかった。現地調査をしたことでダイダラボッチ伝説の痕跡を確認することができた。彼はこの発見に満足した。が、彼は学者である。一つだけの調べでは十分ではない。二つを比較することで確かなものになる。

 それで、彼は南下して駒沢に向かった。そしてここでも足跡を発見した。ところが「代田と駒沢では足の向いた方が一致」しない。

「やっぱりな思っていたとおりだ。足の向きは皆違う。やつらは自由に歩き廻っていたんだ。どしん、ずしんと歩いていったんだ…」
 民俗学者は確信を深めた。この東京こそはダイダラボッチ伝説の中心地なのだと。続きを読む

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2015年01月08日

下北沢X物語(2721)〜皇国電車少女の手紙から2〜

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(一)
 戦争中に広島電鉄家政女学校の女生徒は電車業務に就いた。人と接する場ゆえに恋が生じもする。しかし、学校では男女間の交際は禁止されていた。乗務中に彼女たちへ手紙を渡す学生が折々にいた。運転士が見とがめて白い封筒を切り裂いて破り捨てられることもあった。後年、その人があれには何を書いてあったのか今でも気になりますと。
 
 藤井照子さんも思いを温めていた人がいたらしい。手紙に次のように書かれている。

 乗務中に空車で車庫に向かっているときに電車に手紙を投げ込んできた学生がいました。開けてみると恋文でした。とても恥ずかしく思いました。その人は好きにはなれませんでした。

私が思いを寄せていた学生さんは広高の学生さんです。お互いに気持ちは分かっていてもゆっくり話をしたことはありません。友達と乗務を終えて帰ろうと電鉄前から電車に乗りました。慌てて乗り込んで吊革に持ちました。すると横に背の高い人がいると思って上を向いたらその学生さんだったのです。その人も専売局前で下車なさって寄宿舎か下宿先へ帰られるところだったのでせう。同時に電車から降りました。広高も同じ皆実町にありましたので……

 その時に彼が声をかけてかけてくれました。私に「寄宿舎へ帰られるのですか…」と。私は、あわてて「ハイ、ハイ」と言って、その人に「貴方もですか」とも言えずに走り去ってしまったのです。一足先に私を待ちながら帰っていた友達のことが気になったからです。男子と話し等していたらすぐに学校で注意されるのです。今思えば、友達が待っているとか何時か手紙でも渡してくださいとか言えば良かったのかと今でもずっとそのことが頭から離れません。

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2015年01月07日

下北沢X物語(2720)〜皇国電車少女の手紙から〜

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(一)
藤井照子さんは高小を卒業し、広島電鉄家政女学校に入学した。十四歳のときだ。入学してからのことが彼女からの手紙には記されていた。

 昭和十八年四月、入学式前日、府中市の「職業安定所」へ芦品郡の人三名と私の四人、母に付き添われて集合しました。それからは安定所の人に引率されて駅へと向かいました。他の皆も母親が付き添っていました。いよいよ時間が来てだんだんと胸がしめつけられるような気がして母の顔をみました。すると母は別れて行く娘が不憫に思えたのか涙を流していました。母だけが泣いているので可哀想に思えました。他の人は町の人たちだし、私だけが田舎の村から遠い広島へ行くのだから心配だったのでしょう。
 

  福塩線府中駅から藤井さんは旅立った。福山まで電車で行き、山陽本線に乗り換えて広島へと向かった。

 職業安定所の人とまづ(千田町の)広島電鉄に行きここで明日からの心得などの説明を聞きました。そしてその後家政女学校のある皆実町へ広電の人と行き、翌日が入学式で先生方にお会いしました。その日舎監の先生より部屋割がなされ八人部屋でしたが、大体が六人ずつその部屋に入りました。

 畳六畳で二段ベットが横に四組ありましたので上段が好きな人はお互い話し合って上下を定めていました。畳の方へ床を敷く人は余りいませんでした。私たちはベットのことをボックスと云っていました。一人一人カーテンで仕切ることができてよかったです。

 入学当時これから乗務して働く車掌さんについての勉強でした。学校でも車掌として働くことを先生から学んだり、実際に乗車して車掌さんから覚えるまで見習いをしました。

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2015年01月05日

下北沢X物語(2719)〜被爆者の手紙から戦争を考える2〜

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(一)
 広島電鉄家政女学校は昭和十八年四月に開校した。背景には戦争がある。出征していく職員が増えて電車運行が困難になってきた。そこで女手に活路を求めた。学びながら働ける女学校を電鉄会社が設立した。入学させた生徒を車掌業務に就かせながら学ばせる。この課程を終了すれば女学校卒業資格が取れる。藤井照子さんはこの学校の第一期生である。

 この学校にどのような経緯で入学したのか、彼女はそのことを書き記した手紙を私にくれていた。記録としても貴重だ。

 
昭和十八年の三学期になって、(高等小学校を)卒業したら何処へ何を勉強していくかということを考えなければならなくなりました。しかし、家を出ていくというのも淋しい気持ちがありました。だからと云って上の姉たちのように就職したり、看護学校とか、洋裁学校へ行くことも難しいように思えました。私は看護婦さんに別に憧れもありませんでした。ただ洋裁をやってみたいと心の片隅にはありました。ところが(戦争中で)衣料品不足が問題だし、迷っているときでした。

 その頃、受け持ちの先生が教室へ書類を持って入ってこられて、最初に(広島電鉄)家政女学校の入学募集について説明がありました。

 その募集要項を自宅へ持って帰ったかどうか記憶にはありません。しかし、自分で家政女学校のことを両親に話して相談したことはハッキリ覚えています。

 父は娘が迷っている事にあれこれ云っても可哀想だと思ったのか母にまかせていたのでしょう。その頃女性で就職する人は近所でも繊維工場へ行く人が多かったのです。ところが母はホコリが沢山舞う工場等へ行ったら結核になったらいけないかからと、家政女学校がいいのではと進めてくれました。

 私自身も課目が多く沢山(学ぶことが)有るし、親に迷惑を掛けずに自分で勉強が出来るのがよいと思いました。田舎には無いすごい学校だと思いすぐに定めました。

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2015年01月04日

下北沢X物語(2718)〜被爆者の手紙から戦争を考える〜

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新しい年、2015年となった。戦後七十年となる。あの戦争からの隔たりの大きさ示すものだ。戦争経験者の急激な減少、これによる、体験の風化、忘却が始まっている。

 戦争は酷いものだ。一旦始めると、互いに憎しみが暴発し、とことん殺し合いが続く。開戦は易しいが停戦は遥かに困難だ。どんなことがあっても戦争は始めてはならぬ。私たちが、あの戦争を通して不戦を誓ったことは正しい。これは何としてでも守らねばならぬ。


(一)
 私には毎年のことながら原稿は書けません。今年こそはと思うのですが駄目です。あの八月六日の惨状が一度に私の頭に覆いかぶさって来るのです。八時十五分からのことが順番に頭に浮かんでくれないのです。
 八時十五分ノッチを入れた瞬間から私は自分が起こした何かのトラブルだと思い落ち着いて、落ち着いてと言い聞かせながら車内でやるべきことはやったのです。


 昨年暮れ、手紙の整理をしていたところ藤井照子さんから頂いた手紙が多くあった。彼女は元広島電鉄家政女学校の生徒だった。昭和二十年、多くの男手が出征で取られ電車の運行もままならなくなった。その窮状を救ったのは彼女らだった。日の丸鉢巻きを締めて皇国少女としてハンドルを握った。ところが、八月六日の原爆投下で多くは被爆した。

 昨年、彼女の娘さん、真理子さんから手紙を戴いた。「八月十八日、八十六歳の生涯を終え、永眠いたしました」とあった。折があれば彼女の経験をもっと聴いてみたいとは思っていた。それがかなわぬうちに彼女は亡くなってしまった。

 原爆投下ということについて知らなければいけないことがある。あの八月六日の原爆投下によってその当日に大勢の人が死んだ。が、かろうじて生きながらえた人もいた。藤井さんもその一人である。人は、八十六歳まで生きて来たからいいと思うかもしれない。が、被爆者の多くが後遺症で一生を苦しめられている。

 現今、我々は核の脅威から解放されていない。核を戦争の武器の選択肢の一つとして持ち続けている。核は恐ろしいものだ。投下された一瞬間にとんでもない数の人が犠牲になる。そのことは知ってはいる。が、この核の被害に遭った人が一生苦しんで暮らさなければならないことは知られていないことである。

 今となっては、この手紙に書かれた証言は、戦争の記録だ。これらの手紙のから残して置きたいと思うことを拾ってみた。
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2015年01月01日

下北沢X物語(2717)〜会報第102号[北沢川文化遺産保存の会」〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第102号 
                2015年1月1日発行(毎月1回発行)

               会長 長井 邦雄(信濃屋)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
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みなさまあけましておめでとうございます。
  今年もまた歩いて文化を耕して、土地の匂いを発見し、楽しみましょう
   何といっても、歩きが一番、歩きながら、土地土地の固有性を見つける、
    人生至上の喜びです。一に歩き、二に歩いて、三でもやっぱり歩き
     景色が変転するとともに頭脳も新鮮な刺激を得る、歩きこそは金


(一)新しい年の計画 

昨年、北沢川文化遺産保存の会の創立十周年を祝う会を開きました。継続は力、振り返ってみると多くの業績を残していました。坂口安吾、萩原朔太郎、�垳�利一、三好達治の四つの文学碑、改訂に改訂を重ねた「下北沢文士町文化地図」(来春は六版)、「代田の丘の鉄塔文学論」、「北沢の丘の石畳文学論」、「代田小路寓居文学論」、通算三号までの紀要発行、「北沢川文学の小路物語」、「坂口安吾文学碑記念記録集」、「下北沢X惜別物語」の冊子発行、第百号までの会報発行、そして、ついには百回を超えた街歩き。さらには七回を数える「戦争経験を聴く会、語る会」の開催。主催者は普通は自分を誉めないものだが、こうやって集めてみると、よくもまあこんなことをしてきたものだと驚きあきれたほどです。巡りきた新しい年にも新たな計画があります。

・「下北沢文士町文化地図」第六版の発行 
改訂に改訂を重ねてきた「下北沢文士町文化地図」です。五版も残りが少なくなりました。それで第六版を発行します。世田谷区の地域の絆の助成も受けていることから年度内に完成させます。表面は地下化した小田急を書き入れます。新たに分かった旧居もこれには入れ込みます。当方が提唱してきた『北沢川文学の小路』は四つ目の文学碑「三好達治顕彰碑」が建ったことから、道は開通したことになります。そこでイラストレーターの木村圭子さんにお願いして今回『北沢川文学の小路』のマップを作っていただいています。楽しめる「下北沢文士町文化地図」を作ります。裏面には古地図を何時も載せています。今回は進駐米軍が作った地図を載せることにしています。これは三月までに完成させます。春のお花見のときには新しい地図を配布できると思います。

・第八回「戦争経験を聴く会語る会」の開催
 七十年前の五月二十四日・二十五日、この一帯はB29による爆撃を受けました。山手空襲と呼ばれているものです。これを忘れないために、毎年この時期に、「戦争経験を聴く会・語る会」を開催しています。今年は、戦後七十年周年となります。今回で第八回目となります。これを5月23日(土)午後に開催します。場所は、下北沢の東京都民教会で開催します。タイトルを「世田谷の疎開学童と特攻隊」とします。(午後一時半から)
 戦争中、世田谷区からは七校の学童が淺間温泉に疎開していました。偶然的なことからその学童とたまたま当地に飛来してきていた特攻隊とが巡り会って、ふれ合っています。これは歴史的にも知られていないことです。五校のうち代沢小、東大原小、駒繋小、二子玉川小、山崎小の学童と特攻隊とが接触し、多くの物語を残しています。
 信州松本飛行場には、沖縄特攻に向かう数多くの特攻隊が飛来してきていました。主には誠隊、第八飛行師団傘下にある隊が来ていたようです。指令によって集結地点である新田原飛行場に向かっています。
 戦争末期、敗色濃厚な中で、制空権、制海権が敵に支配されて身動きがとれなくなっていました。そんな中で信州山中の飛行場は重要な飛行場とされこれが稼働していました。疎開学童と特攻隊の触れ合いは偶然的に近代戦争史の隠れたページを露わにしたといえます。世田谷の疎開学童が掘り起こした戦争近代という点はほとんど知られていません。今回は世田谷山崎小の特攻隊と関係した人たちが当時のことをつぶさに語ってくれます。

・紀要第四号の発行 
「北沢川文化遺産保存の会」は紀要を発行しています。第3号は「三好達治文学顕彰碑」の建立に当たって出した「代田小路寓居文学論」です。建碑に当たって三好家から多額の芳志を戴きました。これの使途について考えました。除幕式のときに私は、集まられた人の前で記念のスピーチをしました。言葉で伝えただけなので記録に残っておりません。まず、考えたことはこれを紀要に記録として残したいと思ったことです。つぎに、今年は戦後七十年に当たります。私たちは、下北沢鉄道交点一帯の戦争の歴史を記録してきました。今年はこれをテーマに、紀要4号を発行しようと思っています。
 大きな節目となる戦後七十年です。あの時から次第次第に時間が遠ざかっていきます。それは戦争経験者の消滅と同時に戦争を忘却していくことにも繋がります。経験者の生の声を聴くことであの辛さや苦しみが蘇ってくる。原爆被害者の話は何度聞いても酷いと思いました。活字になったものにはリアリティがありません。それでも私たちは、戦争のことを忘れてはならないと思います。
 私たちの活動は、一帯の文化、歴史を記録していくことに重きを置いています。その活動の一環として「戦争経験を聴く会、語る会」を行ってきました。今年は第八回目となるこれを行っていくと同時に、戦後七十年を記念しての発行物を作りたいと思います。
 昨年十一月に松本陸軍飛行場のそばの神林に住んでいた人から連絡があり、その人に出会いました。開港したばかりの飛行場で起こったことの証言です。陸軍松本飛行場は終戦末期重要な飛行場として機能していました。それを裏付けるものとなります。これを紀要にまとめる積もりでおります。
 
・研究会の開催 

会員には文化芸術に詳しい人が多くおります。研究会が開けないかという提案が前々からありました。それぞれの分野で興味を持っている人がプレゼンテーションを行い、質疑応答をするというものです。会場を取って行うことはできます。この計画を自発的に行うという人が出てくれば話は簡単です。研究会係を募ります。
 先だって、十周年を祝う会を行いました。この際に振り返りを行いました。約40分程度でした。例えば、二人ぐらいの人に出てもらって行うことは難しくはありません。
 毎年夏と冬には納涼会、忘年会を催しています。これの頭の部分でも研究会は可能であるように思います。例えば、海外植民学校について松原征男さんに話してもらう。また、三田用水についてきむらたかしさんに話してもらうことも面白いものです。これが終わった後に懇親会を開くというのも一つのアイディアだと思います。
 基本的に我らの会は参加した人が楽しむ会です。義務はありません。個々人が主体的に考え、あるいは発案をして何かを行う。いやいややるものは長続きしません。基本は楽しく、劇を行ったり、音楽会を行ったり、何でもできそうです。今年一年を楽しみましょう。

2、「北沢川文化遺産保存の会」の今後
 十周年を迎え、振り返りを行いました。文学碑を建てたり、地図や冊子や紀要を発行したり、思いがけず多くのことを行ってきたことに気づきました。今後、この会をどう運営していくかは大きな課題です。私自身好きでやってきたという点はあります。しかし、人間は順次居なくなるもの、振り返りの中で会に関わった物故者を紹介し偲びました。多くの方々がおられました。人は順にいなくなると実感しました。私とて例外ではありません。
 これからはなるべく後継者に託したいと思います。一つうまく行っているのが街歩きの案内です。代わりの人がどんどん出てきていることです。できれば会の運営、広報、企画などにも会員が入ってくるといいと思います。ここのところ「下北沢文士町の案内要請」が増えています。これなども一人というのは無理があります。「下北沢猫町散歩」案内者養成などもできそうです。区からアンケートが来て今後どうするかという質問項目がありました。できればNPO法人格を取得して活動を続けたいとの回答をしておきました。

3、都市物語を旅する会 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
 
◎新春の歩く会 三つの弁天巡り
・102回 1月17日(土)午後一時 東横線学芸大学駅
 新春新コースを歩く(古道、水路、旧跡など) 案内者 きむらけん
〇コース 学芸大学駅→碑文谷公園(厳島神社:弁財天)→野沢荏原最大八連水車跡→清水丸弁財天→学大附属→特攻観音→駒沢野球場跡地→鶴ヶ久保公園(弁財天)→鎌倉通?→怪しい路地→上馬子育地蔵尊→鎌倉山橋→富士講碑→太子堂四号踏切→太子堂八幡神社→邪宗門


・103回 2月21日(土)午後一時 京王線初台駅改札前
新宿近辺の富士塚を歩く 先導師 藤井理嗣さん
〇コース 初台駅→玉川上水跡遊歩道→箒銀杏(玉川上水によって育てられてきた銀杏の大木)→都庁(展望フロアまで登る。富士山がの展望)→成子の富士塚 成子天神社 →西大久保富士 稲荷鬼王神社→(途中に抜弁天に立ち寄り)→東大久保富士 西向天神社→新宿富士 花園神社 →新宿駅
・104回 3月21日(土) 午後一時 千駄木駅(千代田線)改札前
「夏目漱石を歩く」その�� 千駄木から小石川へ 案内者 原敏彦さん
〇コース 団子坂から、「猫の家」「三四郎池」「西片町の家」「(下宿先)法蔵院」などをめぐる。途中、森鷗外・寺田寅彦・徳田秋声・石川啄木・魯迅・樋口一葉・幸田露伴・佐藤春夫・永井荷風・らのゆかりの地を歩きます。解散 飯田橋駅(JR、地下鉄など)
・105回 4月18日(土)午後一時 永福町駅改札前
井の頭線の地形を歩く 永福町から渋谷まで 案内者  木村康伸さん
〇コース 永福町駅→神田川橋梁→山手急行電鉄痕跡→明大前駅→松原寺町→東松原駅→新代田駅→駒沢線67号鉄塔→下北沢駅→池ノ上駅→駒場野公園→駒場東大前駅→神泉駅→渋谷駅
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも500円
 参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記
▲「北沢川文化遺産保存の会」十周年を祝う会を12月6日北沢タウンホールのスカイホールで開催しました。いつにも増して楽しい会でした。ラテンバンドLos Companerosの出演を予定していましが会場への器楽持ち込み禁止が直前に分かってキャンセルとなりました。関係者には深くお詫び申し上げます。今回、意外に受けたのがオークションでした。矢花克己さんが持ってきて下さった燐寸の空き箱、下北沢の懐かしいお店のものもあって、「五円、十円…」と言っていたところ、いきなり「700円」と値がついてびっくり、この売上金は会に寄付しました。このアイディア面白いものです。家にあるガラクタを持ってきてオークションにかける。次回の夏の納涼会で試みてみましょう。
▲11月29日の三好達治文学顕彰碑除幕式は無事に終わりました。当日、保坂展人区長が来訪され代沢小児童とともに除幕が行われました。大勢の方が参加してくださいました。当日会のメンバーが思いがけず多くボランティアとして参加してくださいました。おかげさまで式は無事に終了することができました。三好家の関係者は会に対し深く敬意を表したいと。式が始まるときになって雨は止みました。これも当日のドラマでした。
▲NHK学園市川オープンスクール春講座「きむらけんの文学と駅を歩く」は�‐緻遽悖粥殖隠供´�品川駅5/14 ��渋谷駅6/18です。
▲文学散歩申し込み「新聞OB会」 「北沢川文学の小路散策」 1月20日午後。当会が対応し案内する。
▲新しい年になりました。会費は年間単位としています。1200円です。事務局の邪宗門で受け付けております。街歩きの会のときにきむらや米澤邦頼に渡してくださってもかまいません。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は、年会費千二百円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。



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