2015年07月
2015年07月31日
下北沢X物語(2848)〜会報第109号「北沢川文化遺産保存の会」〜
…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第109号
準公式ブログ: http://blog.livedoor.jp/rail777/
2015年8月1日発行(毎月1回発行)
会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………

1、戦後70年記念戦争記録集−北沢川文化遺産保存の会紀要4号の発行
戦後七十年となる八月十五日がめぐってくる。我等の会も発足して今年は十一年目を迎える。近隣の文化を掘り起こしこれを文学碑、地図、冊子、ネットなどに記録してきた。その量は膨大なものになる。
この蓄積してきた記録がネットワークを通して遠くへ繋がった。そして近代戦争史の秘められたエピソードが掘り起こされた。
このところ毎年、研究紀要を発行してきた。今度は第4号となる。これについては戦後70年を迎えることから、「戦後70年記念戦争記録集」を発行しようと思い立った。現在これを書きまとめている最中である。一応、もくじとしてつぎのようにしたいと計画している。
・序 八回に亘る戦争経験を開いてきて学んだこと
・鉛筆部隊と特攻隊−郷福寺学寮歌が切り開いた戦争近代−
・ 駒沢高射砲陣地についての証言 (内藤悌三氏)
・特攻隊(武揚隊)の愛唱歌蘇る〜「淺間温泉望郷の歌」〜
・三好達治文学顕彰碑建立の祝辞
・編輯後記
序については、年来、戦争経験を開いてきたことから、ここで我々が学んだことを伝えとしてまとめた。これを箇条書きにしてある。一例だ。
一つ、戦争は、始まったら終わらない、殺し合いがいつまでも いつまでも続く。
得がたい教訓である。権勢が始めた戦争は、主にはメンツや体裁にこだわる。一旦振り上げた拳は下ろせない。先の大戦がいい例である。負けが込んで兵士や国民にどんどん犠牲者が増えているのに「国体の護持」をどう守るか、人の命など二の次。そしてまたその責任は曖昧にして戦争指導者の追及は行わない。
「鉛筆部隊と特攻隊」
この物語の発端は、代沢国民学校の疎開学童が寄宿先の郷福寺で歌っていた学寮歌に始まる。ネットを通してつぎからつぎへと人に繋がっていき、その過程において近代戦争史の知られざる一ページが開かれていった。
具体的には武剋隊や武揚隊を初めとする沖縄特攻の戦闘機が多数飛来して来たことである。このときに松本浅間温泉には世田谷区から七校の国民学校が疎開してきていた。このうち彼らとふれあいを持ったのは代沢、東大原、駒繋、山崎、二子玉川である。
我等の社会は縦系列である。一校一校の疎開経験は縦系列で留まっていた。が、ネットに端を発した情報発掘は、この学校という領域を超えていった。一校一校の疎開での情報をつなげるとそこに思いがけない真実が眠っていた。一つは浅間温泉には昭和二十年二月から三月にかけて数多くの特攻兵たちが滞在していた。もう一つは、各校では様々な形での彼らとの交流がなされていた。当地から出撃した特攻機の操縦席には疎開学童が作った人形が飾られていたことは知るよしもなかった。
この物語は、新しい時代の新しい関係を構築した。ネットがもたらしたものだ。寮歌探しは意外な結末で解決をみた。山梨県笛吹市の矢花克己さんが偶然手にいれた手紙の中にこの楽譜があった。またつぎの段階において疎開学童がふれ合っていた武揚隊の遺墨がこれもネットを通して情報がもたらされた。安曇野在住の丸山修さんからだ。それには隊員の多くがサインを遺していて彼らの滞在が具体的に証明された。
『鉛筆部隊と特攻隊』は、NHKラジオ深夜便を通しても、全国に発信された。情報提供を呼びかけたところ多くこれが寄せられた。その中には二子玉川国民学校疎開女児と特攻兵とのもの悲しい物語も発見された。
現地情報も生々しいものがあった。当時、松本飛行場に動員された松本一中生徒、その彼らに証言を聞き得た。格納庫にあったのは油まみれの古着の山があった。沖縄戦に関わった地上部隊の奮戦、努力の跡だった。細部の真実が飛行場が沖縄戦の重要な後方支援基地だったことを証明している。また、飛行場近くの神林国民学校の学童だった藤牧和彦さんからは開港当時の様子を詳しく聞いた。これを載せてある。
鉄道交点の物語が発端となって近代戦争史の隠れた事実をあぶりだした。
「駒沢高射砲陣地」
これも偶然ネットを通して得られた情報だ。ここの隊長をしておられた内藤悌三さんが存命で証言をしていただけるとのこと。それで長野県八千穂町まで行ってこれを聴いてきた。この陣地については存在したということについては資料には散見された。が、具体的な実情については資料はなかった。今回、内藤悌三さんの証言を記録的に価値の高いものとして載せた。
「淺間温泉望郷の歌」
誠第三十二飛行隊・武揚隊は出撃前、淺間温泉富貴之湯に滞在していた。出撃前夜壮行会で彼らが歌ったうたを覚えている人がいた。東大原小の秋元佳子さんである。一晩にして消えていく命であった彼らの歌が、作曲家 明石隼汰さんの手によって蘇った。今年、5月23日に開催された「第八回戦争経験を聴く会・語る会」で発表された。そのときの様子は夜の8時のNHKニュースでも流された。
この歌の再現過程を記録にして今回は紀要に書きしるした。
「三好達治文学顕彰碑建立の祝辞」
昨年、三好達治文学顕彰碑を建てた。そのときに祝辞を述べた。記録としても必要だと思いここに載せた。なお、このときに三好家からお礼を戴いた。使い道についてはやはり我ら文化遺産の会は、社会還元をする方が一番だと思って、これを紀要発行費用に充てることにした。
なお、紀要については定価をつけての販売はしない。が、できれば来年も第五号を発行したい。そのためには資金が必要である。このことからできれば一冊につき300円の志を戴こうと考えている。
2、私鉄沿線になぜ踏切地蔵は多いか
かつては私鉄線沿線には至る所に踏切地蔵があった。これは踏切で亡くなった子どもの霊を慰めるためである。なぜこれが多くあったか。それを証拠立てるものがある。
当会のきむらたかし氏が一つの小さな記事に目を留め、送ってこられた。『時事新報 』1935.2.17(昭和10)に掲載されたものだ。見出しは、「私鉄の踏切全部に遮断機警報器設置を強制」−会社まかせでは埒あかず警視庁いよいよ奮起−
二月に入って既に即死三名、重傷一名を出した小田急電車に対し警視庁交通課ではその頻繁な事故に就き十五日警告を発したが、最近京浜、京成両電車を筆頭に交通事故が頻発し、就中轢死者が激増したので交通課々員が数日前から管内私鉄沿線、踏切等を厳重検査した結果、この頻繁なる事故は交通稀なる場所に多く、又新設道路の踏切に何等の設備が無いのが多いのに鑑み、交通課では鉄道省令中「軌道運転信号保安規程」の第五条新設軌道における交通頻繁にして遠方より展望する事能わざる踏切其他必要なる踏切道には車輛運転中番人を置きこれを監視せしむべし(後略)の条文中「必要なる踏切道」は私鉄側の見解により決定せられたものであるが、此度は警視庁の手で「必要なる踏切道」を広範囲に「通行人ある踏切」を全部必要視し管内全踏切に遮断機又は警報器を強制的に設けさすべく近日中に私鉄経営者の出頭を命じ一年間に全部設備する様云い渡す事となった、右に就き今井交通課長は語る
「以前から考えて居たが愈々実行に移す事となった、京浜などは時に踏切が多く至急には行くまいが是非管内の全踏切の遮断設備をここ一年間に完成したいものだ、尤も一般市民の不注意にも手を焼いている次第で、遮断機の下を潜る様な真似はやめて貰いたい」
私鉄電車線では踏切事故が頻発していた。が、遮断機や警報器を設置するには金が掛かる。儲からないから設けない。人の命よりも金儲けだ。遮断機のない踏切では大勢の子どもが犠牲になっている。昭和十年代私鉄網がどんどん整備されてはいくが遮断機はない。それで多くの犠牲が出た。なんら対策が講じられないことから、ついに、「会社まかせでは埒があかず警視庁いよいよ奮起」となった。地下化された下北沢2号踏み切り跡の「をまもり地蔵」も踏切地蔵だ。この保存の話は聞こえて来ない。この建立には当時一万五千人もの賛同者があった。近代化の歴史痕跡だ、後世に保存したいものだ。
3.都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
・第109回 9月19日(土)午後1時 蘆花公園駅改札前集合
・蘆花が歩いた道を歩く(三軒茶屋まで) 案内人 別宮通孝さん
世田谷文学館入館(200円)→蘆花恒春園→三軒茶屋
・第110回 10月17日(土)午後1時 四谷三丁目駅改札前集合
・鏡花、藤村、百�里鯤發� 案内人 松山信洋さん
松山さんは案内人初デビューである。期待したい。
・第111回 11月21日(土)午後1時 大井町線九品仏駅改札前集合
・奥沢城・深沢城・世田谷城を歩く。案内人 木村康伸さん
古道、旧道に沿って世田谷の城三つを巡る
・第112回 12月19日(土)午後1時 東北沢駅改札前集合
萩原朔太郎地形研究 案内人 きむらけん
朔太郎は東北沢、下北沢、代田に住んだ。東北沢はどこなのか分からない。が、一つの手掛かりはこのときに「山の湯」と思われる銭湯に朔太郎と葉子とが行っている。森厳寺川左岸から下北沢新屋敷の路地。そして最後の転居先の世田谷代田へたどることによって。街並みと詩人の関係を想像しながら探訪していく新しい視点での街歩きだ。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも500円
参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498
■ 編集後記
▲地域情報紙『セボネ』8月号に「世田谷の疎開児童と特攻隊の出会い」というタイトルの記事が載せられる。これは5月23日に下北沢東京都民教会で開催された『第8回戦争経験を聴く会、語る会』に参加した星野弥生さんが戦争特集としてまとめたものだ。世田谷区の公共施設でこの情報誌は無料配布される。
▲9月13日(日)14時(訂正)から長野県塩尻市郷原郷福寺で「戦後70周年記念講演会&コンサート」が開催される。講演の演題は「鉛筆部隊と特攻隊−郷福寺学寮の歌が切り開いた戦争近代」というもので、きむらけんが講演をする。なお、コンサートでは誠第三十二飛行隊・武揚隊が壮行会で歌ったうたがソプラノ歌手によって歌われる。
▲10月17日(土)2時から代田図書館主催「代田のダイダラボッチ」講演会予定。
▲16年に他団体との連携行事の計画を予定。品川用水を歩く、仙川高射砲陣地訪問など。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。
明日八月一日開催
第1回
北沢川文化遺産保存の会研究大会
大会コンセプト 「北沢川流域の文化について」
共催 北沢川文化遺産保存の会 北沢小学校同窓会
北沢川文化遺産保存の会は、十年に亘り下北沢鉄道交点一帯の文化を調べたり、記録したりしてきた。その過程で温めてきた企画がある。文化に興味を持つ人が集まって情報を交換したり、発表したする場。スニーカーを履いて参加できる研究会を行うことだ。
今回、保存の会とは友好的な関係にある北沢小学校同窓会の協力を得てこの思いが実現することとなった。市民誰もが参加できる研究会だ。文化は知を耕やして面白がること、参加してみませんか?
・開催日時 8月1日1時30分より
・開場 13時
・場所 北沢小学校ランチルーム(定員50名)
・会費 資料代300円
北沢小学校 住所 〒155-0031 東京都世田谷区北沢4丁目32−30
研究発表の題と発表者
〇研究大会開催の趣旨 きむらけん 北沢川文化遺産保存の会
〇北沢小学区域の文化的変遷 長谷川 慎一氏 北小同窓会会長
〇池の上の海外植民学校 松原 征男氏 会員
〇三好達治の代田居住の意味 松山 信洋氏 会員
〇世田谷吉良氏の系譜 木村 康伸氏 会員
〇ポスターセッション 4人ほどが発表の予定
総合司会 及川園子氏 北沢小同窓会副会長

文化に興味ある方は誰でも参加可能です。おいでください。
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第109号
準公式ブログ: http://blog.livedoor.jp/rail777/
2015年8月1日発行(毎月1回発行)
会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、戦後70年記念戦争記録集−北沢川文化遺産保存の会紀要4号の発行
戦後七十年となる八月十五日がめぐってくる。我等の会も発足して今年は十一年目を迎える。近隣の文化を掘り起こしこれを文学碑、地図、冊子、ネットなどに記録してきた。その量は膨大なものになる。
この蓄積してきた記録がネットワークを通して遠くへ繋がった。そして近代戦争史の秘められたエピソードが掘り起こされた。
このところ毎年、研究紀要を発行してきた。今度は第4号となる。これについては戦後70年を迎えることから、「戦後70年記念戦争記録集」を発行しようと思い立った。現在これを書きまとめている最中である。一応、もくじとしてつぎのようにしたいと計画している。
・序 八回に亘る戦争経験を開いてきて学んだこと
・鉛筆部隊と特攻隊−郷福寺学寮歌が切り開いた戦争近代−
・ 駒沢高射砲陣地についての証言 (内藤悌三氏)
・特攻隊(武揚隊)の愛唱歌蘇る〜「淺間温泉望郷の歌」〜
・三好達治文学顕彰碑建立の祝辞
・編輯後記
序については、年来、戦争経験を開いてきたことから、ここで我々が学んだことを伝えとしてまとめた。これを箇条書きにしてある。一例だ。
一つ、戦争は、始まったら終わらない、殺し合いがいつまでも いつまでも続く。
得がたい教訓である。権勢が始めた戦争は、主にはメンツや体裁にこだわる。一旦振り上げた拳は下ろせない。先の大戦がいい例である。負けが込んで兵士や国民にどんどん犠牲者が増えているのに「国体の護持」をどう守るか、人の命など二の次。そしてまたその責任は曖昧にして戦争指導者の追及は行わない。
「鉛筆部隊と特攻隊」
この物語の発端は、代沢国民学校の疎開学童が寄宿先の郷福寺で歌っていた学寮歌に始まる。ネットを通してつぎからつぎへと人に繋がっていき、その過程において近代戦争史の知られざる一ページが開かれていった。
具体的には武剋隊や武揚隊を初めとする沖縄特攻の戦闘機が多数飛来して来たことである。このときに松本浅間温泉には世田谷区から七校の国民学校が疎開してきていた。このうち彼らとふれあいを持ったのは代沢、東大原、駒繋、山崎、二子玉川である。
我等の社会は縦系列である。一校一校の疎開経験は縦系列で留まっていた。が、ネットに端を発した情報発掘は、この学校という領域を超えていった。一校一校の疎開での情報をつなげるとそこに思いがけない真実が眠っていた。一つは浅間温泉には昭和二十年二月から三月にかけて数多くの特攻兵たちが滞在していた。もう一つは、各校では様々な形での彼らとの交流がなされていた。当地から出撃した特攻機の操縦席には疎開学童が作った人形が飾られていたことは知るよしもなかった。
この物語は、新しい時代の新しい関係を構築した。ネットがもたらしたものだ。寮歌探しは意外な結末で解決をみた。山梨県笛吹市の矢花克己さんが偶然手にいれた手紙の中にこの楽譜があった。またつぎの段階において疎開学童がふれ合っていた武揚隊の遺墨がこれもネットを通して情報がもたらされた。安曇野在住の丸山修さんからだ。それには隊員の多くがサインを遺していて彼らの滞在が具体的に証明された。
『鉛筆部隊と特攻隊』は、NHKラジオ深夜便を通しても、全国に発信された。情報提供を呼びかけたところ多くこれが寄せられた。その中には二子玉川国民学校疎開女児と特攻兵とのもの悲しい物語も発見された。
現地情報も生々しいものがあった。当時、松本飛行場に動員された松本一中生徒、その彼らに証言を聞き得た。格納庫にあったのは油まみれの古着の山があった。沖縄戦に関わった地上部隊の奮戦、努力の跡だった。細部の真実が飛行場が沖縄戦の重要な後方支援基地だったことを証明している。また、飛行場近くの神林国民学校の学童だった藤牧和彦さんからは開港当時の様子を詳しく聞いた。これを載せてある。
鉄道交点の物語が発端となって近代戦争史の隠れた事実をあぶりだした。
「駒沢高射砲陣地」
これも偶然ネットを通して得られた情報だ。ここの隊長をしておられた内藤悌三さんが存命で証言をしていただけるとのこと。それで長野県八千穂町まで行ってこれを聴いてきた。この陣地については存在したということについては資料には散見された。が、具体的な実情については資料はなかった。今回、内藤悌三さんの証言を記録的に価値の高いものとして載せた。
「淺間温泉望郷の歌」
誠第三十二飛行隊・武揚隊は出撃前、淺間温泉富貴之湯に滞在していた。出撃前夜壮行会で彼らが歌ったうたを覚えている人がいた。東大原小の秋元佳子さんである。一晩にして消えていく命であった彼らの歌が、作曲家 明石隼汰さんの手によって蘇った。今年、5月23日に開催された「第八回戦争経験を聴く会・語る会」で発表された。そのときの様子は夜の8時のNHKニュースでも流された。
この歌の再現過程を記録にして今回は紀要に書きしるした。
「三好達治文学顕彰碑建立の祝辞」
昨年、三好達治文学顕彰碑を建てた。そのときに祝辞を述べた。記録としても必要だと思いここに載せた。なお、このときに三好家からお礼を戴いた。使い道についてはやはり我ら文化遺産の会は、社会還元をする方が一番だと思って、これを紀要発行費用に充てることにした。
なお、紀要については定価をつけての販売はしない。が、できれば来年も第五号を発行したい。そのためには資金が必要である。このことからできれば一冊につき300円の志を戴こうと考えている。
2、私鉄沿線になぜ踏切地蔵は多いか
かつては私鉄線沿線には至る所に踏切地蔵があった。これは踏切で亡くなった子どもの霊を慰めるためである。なぜこれが多くあったか。それを証拠立てるものがある。
当会のきむらたかし氏が一つの小さな記事に目を留め、送ってこられた。『時事新報 』1935.2.17(昭和10)に掲載されたものだ。見出しは、「私鉄の踏切全部に遮断機警報器設置を強制」−会社まかせでは埒あかず警視庁いよいよ奮起−
二月に入って既に即死三名、重傷一名を出した小田急電車に対し警視庁交通課ではその頻繁な事故に就き十五日警告を発したが、最近京浜、京成両電車を筆頭に交通事故が頻発し、就中轢死者が激増したので交通課々員が数日前から管内私鉄沿線、踏切等を厳重検査した結果、この頻繁なる事故は交通稀なる場所に多く、又新設道路の踏切に何等の設備が無いのが多いのに鑑み、交通課では鉄道省令中「軌道運転信号保安規程」の第五条新設軌道における交通頻繁にして遠方より展望する事能わざる踏切其他必要なる踏切道には車輛運転中番人を置きこれを監視せしむべし(後略)の条文中「必要なる踏切道」は私鉄側の見解により決定せられたものであるが、此度は警視庁の手で「必要なる踏切道」を広範囲に「通行人ある踏切」を全部必要視し管内全踏切に遮断機又は警報器を強制的に設けさすべく近日中に私鉄経営者の出頭を命じ一年間に全部設備する様云い渡す事となった、右に就き今井交通課長は語る
「以前から考えて居たが愈々実行に移す事となった、京浜などは時に踏切が多く至急には行くまいが是非管内の全踏切の遮断設備をここ一年間に完成したいものだ、尤も一般市民の不注意にも手を焼いている次第で、遮断機の下を潜る様な真似はやめて貰いたい」
私鉄電車線では踏切事故が頻発していた。が、遮断機や警報器を設置するには金が掛かる。儲からないから設けない。人の命よりも金儲けだ。遮断機のない踏切では大勢の子どもが犠牲になっている。昭和十年代私鉄網がどんどん整備されてはいくが遮断機はない。それで多くの犠牲が出た。なんら対策が講じられないことから、ついに、「会社まかせでは埒があかず警視庁いよいよ奮起」となった。地下化された下北沢2号踏み切り跡の「をまもり地蔵」も踏切地蔵だ。この保存の話は聞こえて来ない。この建立には当時一万五千人もの賛同者があった。近代化の歴史痕跡だ、後世に保存したいものだ。
3.都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
・第109回 9月19日(土)午後1時 蘆花公園駅改札前集合
・蘆花が歩いた道を歩く(三軒茶屋まで) 案内人 別宮通孝さん
世田谷文学館入館(200円)→蘆花恒春園→三軒茶屋
・第110回 10月17日(土)午後1時 四谷三丁目駅改札前集合
・鏡花、藤村、百�里鯤發� 案内人 松山信洋さん
松山さんは案内人初デビューである。期待したい。
・第111回 11月21日(土)午後1時 大井町線九品仏駅改札前集合
・奥沢城・深沢城・世田谷城を歩く。案内人 木村康伸さん
古道、旧道に沿って世田谷の城三つを巡る
・第112回 12月19日(土)午後1時 東北沢駅改札前集合
萩原朔太郎地形研究 案内人 きむらけん
朔太郎は東北沢、下北沢、代田に住んだ。東北沢はどこなのか分からない。が、一つの手掛かりはこのときに「山の湯」と思われる銭湯に朔太郎と葉子とが行っている。森厳寺川左岸から下北沢新屋敷の路地。そして最後の転居先の世田谷代田へたどることによって。街並みと詩人の関係を想像しながら探訪していく新しい視点での街歩きだ。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも500円
参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498
■ 編集後記
▲地域情報紙『セボネ』8月号に「世田谷の疎開児童と特攻隊の出会い」というタイトルの記事が載せられる。これは5月23日に下北沢東京都民教会で開催された『第8回戦争経験を聴く会、語る会』に参加した星野弥生さんが戦争特集としてまとめたものだ。世田谷区の公共施設でこの情報誌は無料配布される。
▲9月13日(日)14時(訂正)から長野県塩尻市郷原郷福寺で「戦後70周年記念講演会&コンサート」が開催される。講演の演題は「鉛筆部隊と特攻隊−郷福寺学寮の歌が切り開いた戦争近代」というもので、きむらけんが講演をする。なお、コンサートでは誠第三十二飛行隊・武揚隊が壮行会で歌ったうたがソプラノ歌手によって歌われる。
▲10月17日(土)2時から代田図書館主催「代田のダイダラボッチ」講演会予定。
▲16年に他団体との連携行事の計画を予定。品川用水を歩く、仙川高射砲陣地訪問など。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。
明日八月一日開催
第1回
北沢川文化遺産保存の会研究大会
大会コンセプト 「北沢川流域の文化について」
共催 北沢川文化遺産保存の会 北沢小学校同窓会
北沢川文化遺産保存の会は、十年に亘り下北沢鉄道交点一帯の文化を調べたり、記録したりしてきた。その過程で温めてきた企画がある。文化に興味を持つ人が集まって情報を交換したり、発表したする場。スニーカーを履いて参加できる研究会を行うことだ。
今回、保存の会とは友好的な関係にある北沢小学校同窓会の協力を得てこの思いが実現することとなった。市民誰もが参加できる研究会だ。文化は知を耕やして面白がること、参加してみませんか?
・開催日時 8月1日1時30分より
・開場 13時
・場所 北沢小学校ランチルーム(定員50名)
・会費 資料代300円
北沢小学校 住所 〒155-0031 東京都世田谷区北沢4丁目32−30
研究発表の題と発表者
〇研究大会開催の趣旨 きむらけん 北沢川文化遺産保存の会
〇北沢小学区域の文化的変遷 長谷川 慎一氏 北小同窓会会長
〇池の上の海外植民学校 松原 征男氏 会員
〇三好達治の代田居住の意味 松山 信洋氏 会員
〇世田谷吉良氏の系譜 木村 康伸氏 会員
〇ポスターセッション 4人ほどが発表の予定
総合司会 及川園子氏 北沢小同窓会副会長

文化に興味ある方は誰でも参加可能です。おいでください。
2015年07月30日
下北沢X物語(2847)〜戦火を潜り抜けた児童楽団・了〜
(一) 「魂の休息がなくて、疎開生活の無聊寂寥に耐えられるものではない」、その強い信念から音楽部隊隊長は疎開先に楽器を持ち込んだ。第一次疎開先では六十数名からなる「浅間楽団」が編成された。練習場の井筒の湯から響いてくる音響は強烈だった。地元の子どもたちが、「おったまげて」互いに目を見合ったことだ。戦況が悪化してきて浅間温泉も安住の地ではなくなった。再疎開を余儀なくさせられた。塩尻を中心とする寺院への学寮の移転だ。浅間では一つの旅館に集まって練習ができた。が、分散宿泊となると団員は集められない。楽団は解散の危機を迎えた。
が、音楽教師の情熱は冷めていない。彼は、バンドの存続を強く訴えた。それは功を奏した、「私は職員会議の賛成をえて、バンドを存続させることにし、メンバーのなかでもかけがえのない者を、わたしの学寮に移すことにしたのであった」(『学童集団疎開』浜舘菊雄著)、その学寮こそが真正寺である。
洗馬の真正寺は丘の上にある。選りすぐった40名ほどは毎日音楽に浸った。歌の会、合奏会、そして踊りもあった。
ずんどこずんどこと本堂で楽器が鳴り響く、爽やかな高原、のどかな洗馬村にはこれまでに全くないものだった。音が聞こえてくると村の子どもが集まった。洗馬の小学校を卒業したものも集まった。彼らが奏でるアンサンブルは強烈な印象を与えた。
やがて、村のおばさんたちがくる、彼女らはむしろ持参でやってきた。境内の庭にそれを敷いて合奏に耳を傾ける。観客がいれば演じ手も現れる。
ランララン、ララランと前奏が鳴る。心浮き浮きする。そこに可愛い女の子が現れる。
彼女は蓑の代わりに背中に風呂敷を身につけている。頭にはお坊さんの陣笠を手には本物の鍬を持って颯爽と出てくる。拍手喝采だ。
蓑(みの)着て 笠着て 鍬(くわ)持って / お百姓さん ご苦労さん
本堂の濡れ縁が舞台である。踊り慣れた彼女のステップが見事だ。田舎ミュージカルである。こういう催しがしばしば行われた。
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2015年07月28日
下北沢X物語(2846)〜北沢川支流物語紀行〜

(一)独歩独創『武蔵野』の眼目は「町外れ」だ。「大都会の生活の名残と田舎の生活の余波とがここで落ちあって、緩やかにうずを巻いている」、これが北沢川流域だ。今は野や森はない。が、物語の森が密かにある、この十数年というものここを探訪してきた。もの悲しい話、心ときめく話、どれほどあったろうか。
旧下北沢2号踏み切り側の佐山一雄さんからは多くの話を聞いた。目の前は小田急築堤だ。北沢川支流、ダイダラボッチ川の凹みにしつらえられたものだ。少年の頃彼が飼っていた犬が徴発された。
「あるとき、陸軍の人が家を訪ねてきましてね、『いい犬がいるそうだがそれを見せてくれ』と言ってきたんですよ。隠すわけにはいかないので、アニーハクウンを見せたのです。そしたら、一目見るなり、『これはいい犬だ』というんですね。それでとうとう、『御国のために働いてもらいましょう』ということになったんですよ。軍用犬としての徴発ですよ、昭和15年のことだったと覚えています。日中戦争がはじまって兵隊や馬やらが徴発されて大陸に渡っていったんですよ。」
「それが、たったの十円ですよ。ひどいもんですよね。自分ところでずっと可愛がっていたアニーを一枚の紙幣と交換にして置いて持っていってしまうんだから。とても悔しい思いがしましたよ。やつは連れていかれるときはしっぽ畳んでいましたね。軍用車に乗せられました。一回だけわたしの方を振り返って見ました。目の輝きがないのですよね、うつろっていうのかな、遙かに遠い中国に連れて行かれるっていうことが本能的にわかったと思うのですよ。アニーハクウンを載せた車はたちまちに見えなくなりましたね。手元に残ったのが十円札一枚ですよ。それを見て憎しみと、アニーに対する思いがこみ上げてきて涙がでてきましたね。それでね、そこのところのドブにもらった十円は棄ててしまいましたよ。お札は紙ですから浮いていて、それも、流れに乗っていってしまいましたね」
その十円を投げ捨てた川はダイダラボッチ川である。数多く聞いた中の一つだ。
戦後の話だ。彼の家のそばに倉庫があった。外車クライスラーデソートがあってここに潜りこんで触りまくったと。少年の行為としてはありうると思ったものだ。この倉庫は経済書の千倉書房の倉庫だった。すぐ側のダイダラボッチ川が溢れて本が流された。社員が池尻まで拾いに行った。カバーは濡れても中身はだいじょうぶ。少々の傷物であっても本は飛ぶように売れた時代だ。
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2015年07月27日
下北沢X物語(2845)〜大会コンセプトは「北沢川流域の文化」〜

(一)都鄙境界の北沢川流域が日本の裏文化を支えていた、知られざる事実だ。パブリックな文化は都心で作られた。が、ここから一歩離れた江戸見坂地域のこの流域において思念、思考が深められていた。近代日本の原動力であった。
北沢川流域は広い、支流、細流は網の目のように張りめぐらされている。この地域は芸術文化の宝庫だ。例えば下北沢野屋敷真ん中に西流するハケがある。これが土地に微妙な起伏を与えている。植生は松、微傾斜に映える赤松は近代風景だ、そこに瀟洒な洋館を建てたのは建築家今井兼次だ。その裏手に中村草田男が住んだ。この俳人の代表句「万緑の中や吾子の歯生え初むる 」はこの近辺の緑を映しだしたものだ。言えばこのすぐそばの長屋では戦時の有名な首相夫人がひっそりと息を引き取った。
そういう細かな事実は調べてみて分かったことだ。北沢川の支流は代田、大原、羽根木、松原、赤堤などに広がっている。これらの地域で営まれた文化は壮大なものである。
我らこの領域をフィールドワークとして調べたり、歩いたりしてきた。個々に眠っているものを掘り当てて楽しんできた。文化とは、耕して楽しむものだ。
「こんなのあったよ、こういうことを発表する研究会はどうなんだ?」
かねてからの懸案だった。が、これが実現する。北沢小の同窓会の協力を得てだ。
高須光治が描いた「下北沢風景」はどこか。当地の原風景を描いた絵画だ。どこを描いたものかかねてより疑問だった。が、北沢小同窓会の協力でこれが一気に解明できた。その画が描かれた跡の家には歌人として著名な尾山篤二郎が住んでいて、そこを「北沢草庵」と称していた。驚きである。
この大会の発表者は松原征男さんだ。当会の活動に触発されて埼玉県ときがわ町で会を発足して活動を続けておられる。今回の大会について「本格的な地域連携の文化づくりですね。」と。
このところ世田谷区の他の市民組織との連携活動が増えてきている。これが機会となっって地域市民連合的な研究会まで発展すると面白い。おもしろがればおもしろくなる。
(二)今週末、八月一日、「北沢川文化遺産保存の会」の第一回研究大会を行う。
第1回
北沢川文化遺産保存の会研究大会
大会コンセプト 「北沢川流域の文化について」
共催 北沢川文化遺産保存の会 北沢小学校同窓会
北沢川文化遺産保存の会は、十年に亘り下北沢鉄道交点一帯の文化を調べたり、記録したりしてきた。その過程で温めてきた企画がある。文化に興味を持つ人が集まって情報を交換したり、発表したする場。スニーカーを履いて参加できる研究会を行うことだ。
今回、保存の会とは友好的な関係にある北沢小学校同窓会の協力を得てこの思いが実現することとなった。市民誰もが参加できる研究会だ。文化は知を耕やして面白がること、参加してみませんか?
・開催日時 8月1日1時30分より
・開場 13時
・場所 北沢小学校ランチルーム(定員50名)
・会費 資料代300円
北沢小学校 住所 〒155-0031 東京都世田谷区北沢4丁目32−30
研究発表の題と発表者
〇北沢小学区域の文化的変遷 長谷川 慎一氏 北小同窓会会長
〇池の上の海外植民学校 松原 征男氏 会員
〇三好達治の代田居住の意味 松山 信洋氏 会員
〇世田谷吉良氏の系譜 木村 康伸氏 会員
〇ポスターセッション 市民誰でも参加可
ちょこっとした発信を3分程度で発表、A3二枚程度にまとめ納涼会でも展示する。
*地域の文化を市民の誰でもが発表できるというコーナーである。
(主発表は持ち時間を20分とし、その後、若干の質疑応答時間を設ける。)
これまでに申し出があったのは天羽大器さん、今井明さん、藤井理嗣さんの三人である。
当日の司会進行は、北沢小同窓会副会長、当会会員でもある及川園子さんにお願いしてある。
(三)
今回、研究会は初めての試みである。それゆえに要領が掴めていないことがある。
「二十分の発表では少なすぎますよ」
発表者の一人からの指摘である。が、一応計画して組み立てたものである。窮屈であるが実行してみたい。
内容的には、皆北沢川流域に関わる文化の問題だ。最初の発表は北沢小学区域の地域の変遷だ。創立当時から付近がどのように変わったか、地域には退役軍人に分譲したという土地もあると長谷川慎一氏から聞いた。
「池ノ上の海外植民学校」、消え去った学校の歴史は日本の近代史と結び付いている。松原さんは長年研究してこられた。
三好達治が代田に居住していた。その間の詩的境地はあまり話題にならない。松山氏はこれについて言及する。
世田谷吉良家の系譜は随所に及ぶ、これも興味深い問題だ。
(四)
昼、研究会を開催する。夜は、恒例の納涼会を開催する。
納涼会の開催 当日、午後5時30分より
場所 北沢タウンホール 第一集会室 会費 3000円
恒例の、納涼会である。お約束は、一品持参である。お菓子なり、手作りの何かなり、名産品なり、お酒なり、これを持参して面白おかしく紹介する。
出し物あり、手品があったり、ハーモニカがあったり、歌の披露があったり、ともあれ夏の宵の一時を楽しく過ごそうというものだ。ボリュームのある、いつもの信濃屋特製の豪華弁当がつく。「北沢川文化遺産保存の会研究会弁当」
申し込みについて
研究会の参加(片方参加は可能)、納涼会の参加は7月27日まで連絡のこと。
資料の部数と弁当の数に関係する。米澤邦頼まで 090−3501−7278
または、きむらけんへ、aoisigunal@hotmail.com(写真は去年、我が会の発足十周年記念のときのものだ。北沢タウンホールスカイサロンにて)
〇雑記掲示
戦後70周年、間もなく70回目の終戦記念日を迎える。報道関係からの問い合わせが、このブログに続けてきている。意図や目的を伝えてきたものについては、回答をしている。
2015年07月25日
下北沢X物語(2844)〜戦火を潜り抜けた児童楽団�検�
(一)我らが推薦した世田谷区地域風景は『代田の丘の61号』鉄塔である。これに関するクイズを出せとのこと。つぎの一問とした、「鉄塔は近代詩の父とゆかりが深い、それは誰か?」この代田の丘の61号鉄塔下、ジィジィリと高圧線の鳴く音を聞きながら『絶望の逃走』は書かれた。「文学の憂鬱性」について述べている。「文学には心理があつて生理がなく、表象があって運動がない」と。つまり文学以外の「多くの芸術は、技術の要素を多量に有し、手や、指先や、声帯や、肢体やの、不断の筋肉運動を必要とする。そしてこの練習が、必然に大脳の表象と関聯して、特殊の性格を作るのである」と述べる。
書斎に籠もっていれば憂鬱になるばかりだ。それで彼は漫歩をなした。最寄り駅の世田谷中原から新宿へと、場合によっては裏手の滝坂道を経由してバスで渋谷にも出ていた。第二書房の伊藤祷一さんが自宅前を淡島のバス停へと向かうところを目撃している。彼の家の前を行くと代沢小学校である。朔太郎は北沢から代田に越した。娘の葉子は東大原小に通っていた。学区域でいえば代沢に転校することになる。が、卒業も間近いということで大原小に居残った。
朔太郎が通り掛かった代沢は、三本松校長が赴任してきて自由主義的な校風ができた。他所から逸材を引き抜いてきた。それが柳内達雄先生であり、浜舘菊雄先生である。が、戦雲急を告げ、東京も危ない。それで昭和十九年夏、淺間温泉へ疎開する。
鉛筆部隊隊長、「たくさん鉛筆を持っていけ」と、これは怪しまれない。が、楽器部隊長、「たくさん楽器を持っていけ」というと反感を買う。どうしてこんな非常時に楽器をもっていくのか? 彼自身も「そんな楽器など運んでいくのは、不謹慎であるかのように誤解されるおそれがあった」(『学童集団疎開』)と認めている。が、そうであるからこそ彼は楽器を運んだ。
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2015年07月24日
下北沢X物語(2843)〜戦火を潜り抜けた児童楽団�掘�
(一)ミドリバンドは、都市郊外の境界逸話だといえる、文化の先駆性を秘めた都鄙境の物語である。相互の関係性が希薄で、それぞれが密かに存在していた。地域を渉猟していると、それが偶然的に発見される。代沢小の学区域では文化がこっそり営まれている。つい数日前に偶然このブログに行き着いた人が、「台所詩集・花の詩集」のことをコメントしてこられた。「素晴らしい詩ばかりですね。イラストが和田誠さんと云うのも驚きでした」と。代沢小の校長室で過去のアルバムを見ていたときはらりと落ちてきたものがある。まさにこの詩集だ。六年生が作ったもので和田誠さんのイラストによる詩集で、きるきるとその詩は光っていた。この指導者は鉛筆部隊の隊長柳内達雄である。音楽部隊の隊長浜舘菊雄と互いに影響を受け合っている。
代沢国民学校の第一次疎開先は浅間温泉だ。ここで歌った学寮歌は、「代澤浅間學園の歌」だ。作詞柳内達雄、作曲浜舘菊雄の名コンビで作られた。三番では戦意高揚が歌われる。
聖戦如何に長引くとても
鬼畜米英撃ちてし止まむ
栄えの勝利に輝く日まで
我等代澤浅間學園
「鬼畜米英撃ちてし止まむ」では最高に盛り上がったと疎開学童は回顧する。第一次疎開先での学歌寮歌は勇ましい。が、昭和二十年四月、再疎開で塩尻近郊の寺にちらばる。ここでもこの二人は寮歌を作った。戦争で心が疲れたのだろう、歌は穏やかであり、平和である。
広丘郷福寺に疎開したのは鉛筆部隊だ。ここでの寮歌、「郷福寺学寮の歌」は顛末があって蘇った。が、楽器部隊が本拠地とした寺の寮歌の「真正寺学寮歌」は消えたままだ。
郷福寺の歌は、昨年思いがけずこれを歌うコンサートが寺で行われ、ソプラノ歌手がうたうこれが本堂に朗々と響き渡った。
戦後七十年、記憶がどんどん失われていく、後者の「真正学寮歌」も記録して残しておきたい。来年、第九回『戦争経験を聴く会、語る会』では「戦火を潜り抜けた児童楽団」をテーマとしたい。このときにこの寮歌を何とか復元して蘇らせたいと思っている。このことに関する新たな展開があった。
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2015年07月22日
下北沢X物語(2842)〜戦火を潜り抜けた児童楽団�供�
(一)鉄道交点に端を発する歌物語を論考にまとめている。タイトルは、「郷福寺学寮歌が切り開いた戦争近代」である。今夏、70年目を迎える終戦記念日に我等の会の紀要4号を発行する。これに載せるためである。塩尻郷原郷福寺に代沢国民学校の一つが疎開していた。ここで学寮歌が歌われていた。この響きを深く心に刻んでいる人がいた。とおに失われたこれを復元させたい。その熱い思いからこの歌曲を探した。それがこのブログに繋がってついに歌は蘇った。これが眠っていた戦争近代を紐解く端緒となった。
この歌の響きは鉄道交点の文化に深く関係する。鉄道によって集まってきた文化はおしゃれだった。赤い屋根と武蔵野の緑に調和する都市郊外的感覚に満ちていた。
郷福寺学寮の歌、三番の最末尾は、「松林風がわたるよ/ふるさとへ風が運ぶよ」である。ここでいう「ふるさと」こそは鉄道交点である。都会へ帰りたいという望郷の念を歌ったものである。
自分たちが慣れ親しんだところに帰りたい。これを具体的な絵画としてあげれば、高須光治が描くところの「下北沢風景」である。丘上にある赤い屋根と武蔵野の緑が描かれる。広丘郷原の松林に吹き渡る風が、ここに運ばれる、「僕たちが高く歌えば/僕たちの明るい声を」ここに届けてくれる。学童たちは下北沢近辺に住む父母に届けと、声を一段と高くした。そのハーモニーは最高潮に達した。
「なんてさわやかなんだ!」
聞いている方が強烈なインパクトを受けた。この歌には都会的センスとリズムとが満ちあふれていた。地元の子どもたちは衝撃を受けた。見知らぬ都会地への憧れを生んだ。
この音楽には源泉があった。それは隣り村で歌われていた「真正寺学寮歌」である。ここが児童楽団の本拠地だった。
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2015年07月21日
下北沢X物語(2841)〜ああ戦争、悲恋、哀恋、忍ぶ恋〜
(一) 男たちは勇壮に行進して戦場に赴く、女たちは白いハンカチを振って彼らを見送る。昭和十八年十月二十一日、明治神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が開催された。学帽を被った男は肩には三八銃、足にはゲートルを巻いていた。「雨が降っていてよ、土はぐちゃぐちゃで、靴の中はぐしょぐしょ、覚えているのは『海ゆかば』の大合唱だなあ。擂り鉢のようなスタンドの中だから反響が大きいんだ。あれを聴いて俺は覚悟を決めたね…」
この学徒出陣式に参加した海軍第十四期予備学生の一人が『戦争経験を語る会、聴く会』で証言した。この学徒出陣式はユーチューブで見られる。グランドには出陣学徒、アルプススタンドは女子学生でびっしり埋まっている。七万人が集まった。
「うみゆかば」の合唱は男と女の声が混ざって競技場全体に響き渡っていた。
あの出陣式は体験した者には思い出深い、雨が降っていた、そして女子学生が大勢詰めかけていた。これは記憶に刻まれるはずだ。出陣学徒は見せる行進をした。異性に対してである。
「あのときスタンドを埋め尽くす女子学生を配置したというのは心憎い策略だねえ、男ははりきるよ。あの『うみゆかば』の歌声なんか男女の声がからまっていたものな」
このように批評していた人がいた。
戦争における異性思慕は軟弱なもの女々しいものとして退けられる。恋や愛は御法度だ。心の中の自由まで奪い取られる。
特攻隊節といわれる「男なら」がある。三番は、「男なら 男なら/ あの娘一人にくよくよするな/花の日本だ 眼(まなこ)を変えて/見ればいずこも 花ざかり/男なら やってみな」だ。
色、色欲を捨てて義に生きよだ。男気が煽られる。
が、人間世界は男と女とがいて成り立っている。異性が、想う人がいるからこそ活力は生まれる。男ばかりの世界、女ばかりの世界だったらこれは生まれないだろう。
印象深く思っている逸話がある。女子挺身隊の一員として彼女は軍需工場で働いていた。あるときその工場のグランドに戦闘機が着陸した。操縦席から降りて来たパイロットは絹のマフラーを巻いていた。彼女が近寄っていくと彼はびっくりしてみつめた。そしてしばらく経って、
「君の髪の毛を触らせてほしい」
突然の申し出だったが彼女は許した。
「女性の髪の毛がこんなに柔らかいというのは初めて知ったよ。俺は明日朝、ここを立つ、飛び立つときに君にもう一度会いたい、どうかここに来てくれ」
翌朝彼女がいくと、その戦闘機は影も形もない。聞くと指令がでて未明に発っていったという。彼女は飛び去った方の空を見遣るばかりだったと。
印象深い話だ。この経験をした人に会って話を聞いてみたいと、世田谷区役所の前にある組織本部に手紙を出したことがあるが返事は来なかった。

さて、ここからが本題だ。18日の土曜日、駒沢練兵場を巡る街歩きをした。そのとき参加していた山本裕さんから印象深い話を聞いた。
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2015年07月19日
下北沢X物語(2840)〜砲兵と軍馬を偲ぶ、八度目の駒沢練兵場〜
(一)駒沢練兵場を歩く、我らの会の恒例行事だ、昨日は八度目を行った。「毎年夏に歩いています。このコースだけは定番です。これから歩きますが、駒沢練兵場、野砲兵営跡は表示などはほとんどありません。しかし、ここで多くの兵がまた馬匹が厳しい訓練をしていました。ここには三つの砲兵隊がいました。そのうち「野砲兵第一聯隊」は南方で玉砕しています。彼らの痕跡が残っていないから毎年ここを歩いて、労苦を偲ぶ。あの戦争を忘れないために行ってきました。ちょうど今年は戦後七十年、その意味もこめて歩いて行きたいと思います。案内者は世田谷道楽会の上田暁さんです…」
集合地点は、田園都市線池尻大橋駅だ。飛び入り参加が何人も出てきてやや混乱したことだ。
駒沢練兵場の四大ビューポイントを上げると、一つは現存する糧秣廠馬糧倉庫、一つは自衛隊三宿駐屯地内にある近衛野砲兵連隊記念碑と野戦重砲兵第八聯隊碑、一つは下馬「馬魂碑」、もう一つが唯一残存する野砲兵兵舎(韓国会館)だ。これらを中心に巡った。
自衛隊三宿駐屯地を果敢にアタックする。
「毎年駒沢練兵場跡を巡礼しております。向こうに見えている野砲兵の石碑を見学させてもらいませんか。去年は係官の方が行って帰るだけならということで案内していただきました、石碑をお参りするだけですが…」
「そういうことは一般に認めておりません。ここで例外を作ると他に別のことでこられた方が出て来て、それも認めなくてはならなくなりますから…」
今年行き会った門衛の当番兵はガードが固い。突撃アタックは失敗だった。去年とはどうも空気が違う、安保法案を巡ってつい最近強行採決が行われた。自衛隊が何かと話題になっている。そんなこともあって警備を厳重にしている節もあると思った。

順次巡っていき東山中学の脇の馬頭観音に差し掛かる。すぐそばは学校のグランドで子供らが野球の練習をしている。ひょんなことから破傷風の話題になった。
「私は駒場高校でしたが、予防注射行いました」
「あれとなりの目黒一中の人もやっていたと私は聞きました」
「私は三宿中学で注射やりました」
これは女性だった。後で分かったのは駒繋小の先生をされていた方だ。
「駒繋にいた中村初子先生はご存じですか?」
淺間温泉目之湯の引率教員だった。ここに武剋隊が泊まっていたことから取材をしたことがある。ところが大分前から連絡が取れなくなっている。
話はそれたが面白いことだった。戦跡巡りをしていたが自分の腕に痛みを覚えていた。練兵場や野砲兵、輜重兵がいたところには軍馬がいた。そのことから土壌に破傷風菌が残っていた。それでだいぶ後まで予防注射をしていた。その懐かしい話で盛り上がった。
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2015年07月18日
下北沢X物語(2839)〜戦火を潜り抜けた児童楽団〜

(一)東京世田谷下北沢では小田急と井の頭線の二線が交差している。前者をY軸、後者をX軸としてこれを「ひしゃげた座標軸」と形容した現代作家がいる。素晴らしい比喩だ。この鉄道軸の交差が人を価値を、文化を集めた。Y軸には開閉式の踏み切りがあって、開いたり閉まったり、そこをそれぞれの象限にある価値が行き交っていた。文学であったり、絵画であったり、彫刻であったり、そしてまた音楽もあった。その物語の一つが、ミドリバンドの物語である。ハモニカを持った団員の少年は東北沢3号踏切を行き来していた、渋い踏み切りだ。その音楽文化史の眠れる逸話、これを追っている。
「アニー・パイル劇場」、聞いたことがあるだろうか?
お年寄りの多くは知っている。この劇場は、今の東京宝塚劇場である。
ついこの間、この東京宝塚劇場へ行ってみた。終戦後ここは米軍、GHQに接収された。昭和20年(1945)年12月24日からアーニー・パイル劇場 (Ernie Pyle Theatre) と名を変え、占領米軍の慰問施設として使われた。日本人はオフリミット、観客として入場することはできなかった。ところがここで三日間の公演を行った児童楽団がいた。それがミドリバンドである。
アニー・パイル劇場は今となっては伝説の劇場だ。多くの名をなした芸能人がここの関門を通って檜舞台に立っている。素人では出られない。が、ミドリバンドはここでのデビューを果たしている。それも単年度ではない、三年間に亘っている。
「あれはね、本当に驚きでしたね、日本人とは全く反応が違うのですよ。身体で音楽を聴いている感じで、聴き終わるとその反響がすごかったです…」
この舞台に立った経験のある人の証言だ。
「米兵一人は三人前」もあったようだ。席は三千弱、ぎっしりと埋まった兵達がその三倍もいるようだった。バンド演奏が終わると皆スタンディングオーベーション、兵士たちの拍手が鳴りやまなかった。
秘められた逸話だ。このバンドは実は戦前に発足している。代沢小学校に赴任してきた音楽教師が創部した。ところがすぐに戦争が挟まる。が、ここがドラマだ。このバンドはその戦争を潜り抜けてきている。このプロセスこそは物語中の物語だ。それゆえに「音楽文化史の眠れる逸話」だと形容した。掛け値なく、記録をしておくべき価値のあるものだ。
『鉛筆部隊と特攻隊』は、疎開先で歌われた寮歌の歌詞探しが発端となった。近代戦争史の一端がこれで偶然に発掘された。ミドリバンドの物語もこれの調べの過程で発掘したものだ。
資料調査でその演奏は超絶的なものだったとは分かっていた。どう素晴らしいのかかねてから興味を持っていた。ところが偶然その音源が手に入った。
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2015年07月16日
下北沢X物語(2838)〜やむにやまれず再び国会へ〜
(一)言葉は伝えだ。民主主義の根幹も伝え合うことだ。が、昨日の安保法案強行採決はこれを踏みにじって行われた。今朝の『朝日』の一面に政治部長の解説に「国家権力を握る者たちの強圧的な言動が際立つ中で、安保政策の大転換をこのまま押し通したら、民主政治の根幹が揺らぎかねない」と述べる。舌鋒は生ぬるい。二面の記事に共産党志位和夫委員長の談話が載っている。「国民多数の反対をふみにじって採決を強行した。国民主権の蹂躙だ」、この方がよほど正鵠を得ている。国民の思いを無視している。この二面には首相側近の一人の本音を載せている。「消費税や年金と違い、国民生活にすぐに直接の影響がない。法案が成立すれば国民は忘れる」と言い切ったという。やつらのしたたかな戦略だ。
「いいか政治のイロハだよ。日本国民は桜が大好きなんだよ。咲いたら大喜びするけど散ったら忘れるんだよ。そこんところを知ってうまく騙せばイチコロよ」
7月18日午後一時きっかりに「アベ政治をゆるさない」というポスターを貼ろうとの運動が起こっている。この「アベ政治」はがむしゃらだ。一昨日、安保法案関連のニュースを流した後、地方で起こった事件を取り上げていた。ものごとの真実は細部に宿る。

「東九州自動車道」の唯一開通していない区間がある。みかん園の持ち主岡本さんが買収を拒んでいるからだ。農園の維持が困難になるからだとの理由だ。単にそれだけではない計画路線は建設に高額のお金がかかる。ルートをずらせば1030億円かかるところ480億円で済むと提案をしている。また対費用効果もほとんど勘案されていないと。東九州は過疎化が進行している。先々を考えると容易に維持できないことが想像つくと。彼はいう「儲からない高速道路は急ぐ必要がない」。この自動車道は凍結されていたものだ。ところが安倍政権に変わってアベノミックスの第二の矢として公共事業が復活し、この工事が急ピッチで進んだ。それで岡本さんのみかん園は県によって強制代執行されて道路が作られることになった。対価として一億三千五百万円が支払われるが、岡本さんは「金の問題ではない」と言う。代々そこでみかん作っていた。それを金で売り渡したくないと。
これも国土強靱化策の一環のようだ。自動車道他、スーパー堤防など全国各地で公共土木工事に税金が湯水のように注がれている。よく言われるのは原発の安全基準が世界最高だと。どこがそうなのか分からない。が、国債による借金が超世界最高水準であるのは明白だ。健全財政にして将来に負担をかけないようにしようという考えや工夫は全くない。
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2015年07月15日
下北沢X物語(2837)〜やむにやまれず国会へ〜

(一)時代時代には固有な空気が流れている。例えば、戦時中、一人の中学生は「人生二十五年」と思いどうせなら華々しく散ってやろうと考えていたと。社会の閉塞的な空気が若者の夢を奪った。社会は自由であってほしい。ところが今、この社会がおかしい。人々の思い、民意が踏みにじられている。原発再稼働、沖縄辺野古問題、新国立競技場問題など民意とは反対の方向で舵が切られようとしている。
そしてまた安保法案が近々強行採決されるという。国家の形を大きく変えるものなのに、法案に対する答弁はあいまいで、よく分からない。自民党は数をたのみとしてなりふり構わず強行採決に踏み切ろうとしている。これを聞いていてもたってもいられない、何とか自分で行って意志表示をしたい、昨日、日比谷野音にはそんな人が大勢来ていた。一人できたおじさんであったり、おばさんであったり。切羽詰まった思いで来ていた。
日比谷から国会まで請願デモに加わった。デモをすると歩道をゆく人は奇異な目をむける。原発デモのときはいちゃもんをつけてくるやつまでいた。今回は道ゆく市民とデモ隊との間にはそういう垣根がなかった。デモを行って意志表示をするのは当然という雰囲気を感じた。
まずは日比谷野音だ。行くと大勢の人で溢れていた。「戦争法案廃案!強行採決反対、7.14大集会」その会場には入れない。仕方なく会場の外で中から漏れてくる演説を聴いている。そして見知らぬ人同士が会話をしている。
「ここでくるしかないよと思ったのよ、千葉からね」
「家にいてテレビ見ていても腹が立つのよ、みんな市民の思いなんか届いていないよね、だから神奈川から来たの」
労働組合の旗も目だつが、個人参加も多い。小グループで来ていたり、また私のように一人で来ている人も多い。

今朝の新聞などでは主催者発表二万人とか書いてあった。が、数の中身は報道されない。強行採決が明日なされるとすれば、今夜一人でも参加して見せつけてやりたい。やつらは気持ちとして白褌に履き替えて強行採決に望むだろう。その思いを前夜のうちに打ち砕きたい。参加者のボルテージは高い。
折々に、「戦争法案反対」のシュプレヒコールがあがる。爺さんも婆さんも皆元気だ。
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2015年07月13日
下北沢X物語(2836)〜戦争経験に端を発する物語�検�

(一)長い間、戦争を巡る旅を続けている。学んだことは為政者の言葉が怪しくなってきたときは国が危ういということだ。大本営発表がその好例だ。戦争末期には、勝敗を逆にしてあたかも日本が勝っているように平然と言い放った。このことから「内容を全く信用できない虚飾的な公式発表」の代名詞になった。昔ではなく現今の大政府発表も戦争末期と似てきていないか?。「放射能の汚染水の影響は完全にブロックされている。」と、これは誰も信じていない。
安全保障法制を巡る議論もかみ合っていない。政府答弁の言葉の軸足が怪しい。野党が「活動エリアが広がるから、自衛隊のリスクは高まるのではないか」と質問する。が、これに対して「リスクは高まる」とは決して言わない。軸足をわざと踏み外し、首相は「なぜ自衛隊がリスクをとって活動をするかといえば、国民のリスクを軽減させるためだ」と答弁する。「自衛隊の海外でのリスクは完全にブロックされている」と言わんばかりだ。とんでもなく危うい。
平和な時は分からない。が、一度銃火が放たれると心身に影響を与える膨大なエネルギーが生まれる。戦況が不利になっても途中で止められない。「為せば成る」という精神性が頭をもたげてくる、メンツや建前が力を持ってくる。最後まで戦えとなる。竹槍一本で戦え、敵が襲ってきたら金玉を蹴り上げよととんでもないことを言い出す。なりふり構わずとことん戦おうとする。特攻作戦もその一つだろう。特攻で死んだ者は戦争犠牲者だとは決して言わない。戦争末期、練習機まで駆り出してこれを敢行している。このことはあまり知られていない。
社会は階梯、順序を構築することで成り立つ。パイロットを養成するには手順がある。いわゆる赤トンボ、初等練習機から始めて、つぎに高等練習機、そして戦闘機へ乗る。が、これらを捨てる、操縦者養成をやめてその飛行機で特攻へ行かせようとした。自暴自棄である。
先の11日、陸軍桶川飛行場跡を我等の会員四人で訪問した。私は再訪である。戦争取材の過程で松本一中の動員生徒から証言を得た。陸軍松本飛行場での特攻出撃だ。当時二年生の望月照正さんそれを目撃した。
「練習機で行くのか!」
驚いたと言う。キ55、九九式高等練習機で特攻に出撃していく様を彼はつぶさに語った。こういう例があるのか?あった。昭和二十年四月五日、桶川飛行場からから一二機の特攻機が飛び立っている。その機種は九九式高等練習機である。
最も興味を持ったのはここで語り部をされている柳井政徳さんだ。彼は整備兵として第七十九振武隊に山口県小月飛行場まで搭乗して付き添っていた。ぜひとも話を聴きたいと思ってここを訪れた。
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2015年07月12日
下北沢X物語(2835)〜戦争経験に端を発する物語�掘�

(一)戦争を巡る旅、行けば行くほど分かってくる。あのいくさでは日本は精神力で戦っていた。一方の敵は科学的で用意周到だった。1945年11月1日に東京上空に一機の爆撃機が現れた。B29である。
なかなか元気で勉強して居るとの事で安心した。今日東京には敵の空襲があったがたった一機でそれに爆弾も落とさなかった。とても高い所を飛んで居た。凡そ七八千メートルも高いところで、富士山の二倍もある高さだったが飛行機が大きいのでよく見えた。父も羽田の上を飛ぶのを見た。発動機が四つあって飛行機雲が四本できた。非常によく晴れてゐたよ。
世田谷区北沢に住む立川繁さんが淺間温泉千代の湯に疎開している娘の裕子さんに送った手紙である。日付は「十一月一日夜」となっている。この繁さんは羽田空港支所長を務めていた人だ。初襲来してきたB29だが爆弾を落とすわけでもない。「何をしにきたのだろう?」、誰もが不安をいだいた。
このB29は特殊な飛行機だった。「B-29を改造したF-13と呼ばれる写真偵察機は『カメラで武装したB-29』とも呼ばれ、高高度を飛来するこの偵察機に日本軍はなす術がありませんでした。」と。昨日、目黒区青葉台の日本地図センターに行った。「地図と空中写真で見る東京のあの時』第15回地図フェスが開かれていた。偵察機によって撮られた写真が数多く展示してあった。この偵察機には三種類のカメラが積まれていて詳細な写真を撮影した。これに基づいて空襲の計画が練られた。
例えば、山手大空襲のときのことだ。五月二十四日、根津山で爆撃機が侵入してくる様を見ていたのは一色次郎だ。「敵は西の空から一機づつ侵入してくる。例の波状攻撃である。照空燈に送られながら、丘の稜線の上へ次々に一機づつ出てくる」、計画的な攻撃である。各機には分担があってそれぞれに目標地点が決められていた。B29にはノルデン爆撃照準器が搭載されていた。これによって搭乗員は正確に焼夷弾を目的地点に投下できた。東京の「知」を狙った山の手空襲は大きな効果を上げた。それで東京は壊滅し攻撃リストから外された。 が、やられても、神風が吹くと人々は信じこまされていた。

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2015年07月10日
下北沢X物語(2834)〜戦争経験を聴く会に端を発する物語�供�
(一)あの戦争は酷いものだった。その苦難を聴いて、二度と戦争を起こさせないようにする。継続して開いてきた『戦争経験を聴く会・語る会』の趣旨だ。開催して人に戦時経験が伝わればよい。当日の様子がテレビニュースで流れたが断面に過ぎない。が、昨日のことだ。第八回の会の全体を伝える記事が送られてきた。来月八月、戦後七十年目となる終戦記念日が巡ってくる。これに向けて特集記事を雑誌に書いて載せたい。ということで情報誌編集者の星野弥生さんがまとめたものだ。過不足なく全体を描いている。人々が見過ごしてきたことをみつけて際立たせて、伝える。編集者の仕事である。彼女は、「世田谷が戦争の歴史につながる」という見出しを立て、私たちの身近なところに深い深い戦争の歴史があったのだと再認識したことが描かれている。

世田谷の疎開学童の記憶に、そして、彼らが携えている往時の手紙や日記にこそ終戦末期の近代戦争史が眠っている。このことは貴重である。現地ではほとんどが焼却され残っていない。長野県には大勢の疎開学童が行っていた。どこの疎開学寮でもそうだ。日記をつけさせ、手紙を書かせている。実はこれが資料なのだ。絵の得意な学童は色鉛筆で画を描いている。戦闘機が描かれていてその機種も分かる。何機来たかもわかる。
東京第一師範、学芸大附属国民学校は世田谷下馬にあった。やはり浅間温泉に疎開している。その一人大槻統さんは飛行機好きだ。絵に書き、記録に残している。
当時最新鋭の重爆撃機飛龍が度々飛んで来た。大槻さんは日記に克明に飛来日を記録している。この機の所属する第七戦隊は宮崎の赤江飛行場を基地として南方攻撃を行っている。ここの飛行記録と大槻さんの記録が重なってくる。制海権、制空権を奪われていたために重爆撃機は日向灘に面した飛行場に駐機できない。ここから一旦引き揚げて松本陸軍飛行場に来ていたと思われる。連合艦隊指揮下にあった颯雷撃隊であろう。
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2015年07月09日
下北沢X物語(2833)〜戦争経験を聴く会に端を発する物語〜
(一)この五月に第8回「戦争経験を聴く会、語る会」を開いた。ここでの機縁が広がってまた新たなものが発掘されたり、新たな人との出会いも生まれている。一つは、来年に向けての準備である。戦争経験が希薄化する中、会を開くには工夫が必要である。先だっての会では特攻隊が歌った歌の再現を試みた。音はつぶさに当時の人々の思いを伝える。音楽を通しての「伝え」は効果的だと知った。
「語る会」には一人の若い女性が来ていた。彼女の企画による「戦争と音楽」をテーマにした音楽会を開くとのこと。正に文字通り耳寄りな情報、これはサントリーホールへ聞きに行った。耳で戦争を知るという手法は素晴らしいと実感した。
幸いにして当方が取材を進めているものは音楽物語だ。「ミドリバンド物語」−戦火を潜り抜けた児童楽団−である。知られざる音楽文化史の一ページだ。下北沢鉄道交点文化史と結び付く、鉄道によって呼び寄せられた濃厚文化の一端だ。
代沢国民学校の一人の音楽教師の物語だ。浜舘菊雄先生は、周囲の抵抗を押し切って疎開先に楽器を持ち込んだ。抑圧された生徒を音楽によって解放する。その思いを彼は強く持っていた。
昭和十九年夏、疎開先の浅間温泉で60名からなる「浅間楽団」が編成された。ドンチャカ、ズンチャカ、湯の町に響き渡った音は新鮮だった。が、当地も安全ではなくなり二十年四月に再疎開する。温泉では各旅館に散った団員を容易に集められる。が、塩尻近辺のお寺への再疎開ではこれが難しくなる。バンドは解散か?が、情熱的な音楽教師は音楽こそは生きる命であり、糧となる、職員会議で存続を懇願した。その思いが実って洗馬の真正寺に皆は集められた。
私たちは簡易楽器による楽団をやっていたので、何度か学校で披露させてもらいました。何しろ宿舎のお寺で毎日合宿をしていたようなもので、大いに腕を上げ、戦後帰京してからもラジオや進駐軍の慰問に活躍しました。
真正寺にいた楽団の一人田中千尋さんが「洗馬小学校百年誌」書いたものだ。ミドリバンド物語の成長経緯を端的に証拠立てる逸話だ。
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2015年07月07日
下北沢X物語(2832)〜代田春宮家所蔵疎開学童資料分析2〜

(一)「戦後七十年」、これを迎える終戦記念日が近づいてくる。大きな節目となることからしきりとこの言葉が使われる。が、この内容は危難、危機である。圧倒的なリアリティ持った戦争経験の記憶がどんどんと抜けて行くという恐ろしさだ。戦場での経験、原爆被爆経験、疎開経験など一切合切が闇に葬られようとしている。
戦争末期になっての学童たちの強制疎開のことも忘れ去られてつつある。この学童疎開について「都会地の児童の生命を戦禍から守る目的であった。その意味からいえば大事業は成功した」と浜舘菊雄は『学童集団疎開』(太平洋出版社)でいう。が、ここが大事だ。「直接児童補導の任に当たったわれわれ教育者のたちばから見たときは、完全な失敗であったことを率直に認めないわけにはいかない」とこの方策への批判をしている。浜舘は、その内実を「異常心理がかくされ、自己をあざむいた虚偽の精神生活に終始した」と衝く。
強制的に隔離された疎開学童は精神が安定せず異常に陥り下級生や仲間を徹底していじめ抜いた。裸にされた女児を血祭りにして徹底的に肉体の欠陥を言い合う。自分の番も回ってくるから恐怖だ。異常心理の中で徹底してけなす、色が黒い、形が悪いなど。凄惨ないじめである。
仲間同士の虐めもある。また、疎開先の地元の子との軋轢もある。
「皆さんのお話では疎開に行かれたという方々が中心です。が、私は受け入れた方の農家に住んでいました。農家だから食べ物が豊富だろうと思うわけですが、そうではないのです。一つは疎開学童への供出、それから国への供出、その頃米は多くはできないのですよ。反辺り六俵でした。こちらが飯米に困るくらいでしたね。それで都会から来た疎開学童は皆地元の子にさんざん虐められたと言われます。けどね、全く違うのですね、私らは田舎でのんびりと育っておりました。勉強なんかそうできるものではありません。が、都会から来た疎開学童は頭の回転がはやくみな勉強ができました。それで馬鹿にするわけですよ。そのことががまんできずに喧嘩となります。向こうは体力がないからやられますけど、それを虐めというのですね。私たちの方がどれだけ心を傷つけられたか……」
先だって第8回「戦争経験を聴く会、語る会」を開いたが、受け入れ側だった人が証言をした。
戦時に疎開が行われた。二度とこんなことはないだろう。が、先の原発苛酷事故があって放射能から学童を守るために疎開させるというのもあった。戦時中の虐めを経験している人が、疎開は絶対にしてはいけないと言っていた。
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2015年07月06日
下北沢X物語(2831)〜代田春宮家所蔵疎開学童資料分析〜

(一)私たちの社会は記録と総括とに重きをおかない。これらの総括から責任の所在が明らかになる。が、風土としての伝統は「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」(万葉集)に言う、即ち、事を荒立てないことだ。戦争責任や原発苛酷事故の責任を問わないのは、神ながらの国という往古の気風が残っているからだろう。が、これは民主主義とは全く相容れないものだ。
私の会の活動への助言として故松林宗恵監督から何度も言われた言葉がある。「記録は大事だよ。どんなことでもきちんと取っておくのだ」と。今になって分かる。監督は、太平洋戦争における連合艦隊の動きを、編年史的観点で描いた、映画『連合艦隊』だ。これを撮るときに行き会ったのは客観的事実の欠落だ。個々の作戦の勇壮的な計画は残っていても、その具体的な結果はどうだったのか?記録の多くが焼却処分されたこともあり分からないことが多い。それともう一つ、我々は負けた戦争について記録に残すことは忌避的である。その例として挙げよう。我々の活動の領域には広大な旧軍軍事施設がある。ここは隈無く巡った。が、その跡だという説明版はほとんどない。
先月、国際原子力機関(IAEA)の最終報告案が明らかになった。福島第一原子力発電所の苛酷事故の主原因は「『原発は安全で、大きな事故は考えられない』という思いこみだった」と。当事者である日本ではこの原因は曖昧なままだ。真実を見極めると都合が悪くなる。そこは蓋をして玉虫色に解釈していく。
先の大戦についても検証はなされていない。右や左が都合のいいものを持ち出して、ああだこうだと言う。責任の所在は不明確にしたままご都合主義的に対処していく。真実に対して忌避的な傾向が今も厳としてある。
真実は細部に宿る。市民レベルで手に入れた情報が戦争の本質を露呈させることはある。今般の大戦、敗戦へのターニングポイントは、昭和18年(1943)だ。2月 ガダルカナル島撤退。5月 アッツ島守備隊全滅。戦況が不利になるにつれて大きな変化が起こってくる。今年になって偶然、駒沢高射砲陣地の隊長に出会えた。94歳になる彼からは貴重な証言を得た。
高射砲は近代兵器だ。が、彼の証言を聞いていると江戸時代の火器で敵機に向かっているような感想を持った。

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2015年07月04日
下北沢X物語(2830)〜MP第4弾「ああ、代田連絡線」�掘�

(一)「代田連絡線の地域文化史における位置づけ」という観点が成り立たないだろうか?MPでは、この線の歴史について触れた。敷設に始まって撤去に終わる。この間に大きな時代の変転があった。戦争が終わって戦後が始まった。代田連絡線も少なからずこの影響を受けている。つまりは、大東急解体における大きな変化だ。
先にも触れたが、この代田連絡線については某、月刊誌に記事を載せた。
(大東急解体・分離)
昭和23年、戦時統制下にあって大東急は形成される。これの戦後における分離劇においては井の頭線はキーラインとなる。渋谷から吉祥寺へと抜ける短い線だがドル箱路線だった。この線はもともと小田急系列の会社だった。ところが、分離するに当たって京王は本線だけではやっていけなくなった。元々京王は電力供給で利潤を上げていた会社だ。けれども、電力の国家統制でそれができなくなった。京王の本線だけでは採算が取れない。再編計画の事実上の作成者である大川博は、やむなく帝都線を小田急に戻さずに、京王にくっつけてしまった。小田急と京王との確執は、今も残っている。
京王、小田急ともに社史で連絡線に触れている。京王社史は、小田急側からの「応援車両を得て車両の需給関係に一息入れている間に、戦災車輌の復旧が行われた…(中略)…損傷した車両の復旧に努めるなど井の頭線の車両体制を整えるとともに、応援にやってきた大部分は返却された」と記す。
一方の『小田急五十年史』は、「新宿管理部関係では小田原・江ノ島線から延べ10両を井ノ頭線に転用した。しかし新宿管理部としても、直接空襲による車両の被害はほとんどなかったとはいえ、在籍八七両中、可動車は五〇両そこそこしかかなかったのであるから、この応援車提供は非常に苛酷なことで、満足なダイヤを組むべくもなかった」と。
この両社の歴史認識のトーンが微妙に違う。京王は冷静だ。ところが、小田急は感情的である。大東急分離劇における別れの悔しさが尾を引いている。戦争中に被害を受けた井の頭線に車両を小田急から供給するということで代田連絡線は敷設された。自社間援助ということもあった。が、戦後になって、別々の会社になり、代田連絡線は他社間連絡線となった。続きを読む
2015年07月03日
下北沢X物語(2829)〜MP第4弾「ああ、代田連絡線」�供�

(一)マッピングとは、何か「アレとコレとを関連付けること」だ。先回のパーティでは、まず、私が代田連絡線の話をし、つぎに現場に出てその痕跡を探す。路地のカーブや家の敷地境界、地形の傾斜に線路が通っていた跡を辿っていく。想像上の廃線「アレ」と現場の「コレ」とを関連づけて、最後にそれらを含めて気についた場所を地図上に落としていくものだ。
「世田谷代田を世界地図にくわよう」というマッピングパーティである。世田谷代田の話をしてほしいという要望があってこれに出席するようになった。MPの意味や意義を分かっていたわけではない。回数を重ねるうちに飲み込めてきた。まずは参加した個人が地点の話を聴いて認識を深め、その捉えた世界を皆で共有しようという運動だということだ。世田谷代田という土地の固有性を認識しようという試みである。
世田谷代田には濃厚な文化がある、シリーズを列挙しても分かる。一回目はダイダラボッチ伝説、二回目は、代田における富士景観の意義、三回目は代田半島羽根木岬物語、そして今回が「ああ、代田連絡線」である。これらの課題を貫くものはまさに文化、土地の固有性である。
「小田急線と井の頭線とを結ぶ、それもせいぜい六百数十メートル、距離からすればなんのこともない。が、実はこれが大変であった。その難関とは何でしょうか?」
「坂です」と会場からあった。
「まさにそのものずばりですね。地形ですね、ちょうど線路が敷設された箇所は代田半島東のり面、起伏があります。世田谷中原は半島の背尾根、一方の代田二丁目は尾根の東端です。この高低差が約10メートルほどあります。鉄道は勾配に弱い。だからこれを克服することが大変だったのです」
「この連絡線を敷設することになって加わったのが津田沼鉄道第二連隊の工兵です。彼らが加わらないと工事ははかどらない。それほどに難しい点があったのです。それは何でしょう?」
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2015年07月01日
下北沢X物語(2828)〜会報第108号[北沢川文化遺産保存の会」〜
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第108号
2015年7月1日発行(毎月1回発行)
会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、「北沢川文化遺産保存の会」研究大会のお知らせ
第1回 北沢川文化遺産保存の会研究大会
大会コンセプト 「北沢川流域の文化について」
共催 北沢川文化遺産保存の会 北沢小学校同窓会
北沢川文化遺産保存の会は、十年に亘り下北沢鉄道交点一帯の文化を調べたり、記録したりしてきた。その過程で温めてきた企画がある。文化に興味を持つ人が集まって情報を交換したり、発表したする場である。スニーカーを履いて参加できる研究会を行うことだ。
今回、保存の会とは友好的な関係にある北沢小学校同窓会の協力を得てこの思いが実現することとなった。市民誰もが参加できる研究会だ。文化は知を耕やして面白がることである、これに参加してみませんか?
*開催日時 8月1日1時30分より(開場1時)
*北沢小学校ランチルーム(定員50名)
*会費 資料代300円
研究発表の題と発表者(題は仮)
〇北沢小学区域の文化的変遷 長谷川 慎一氏 北小同窓会会長
〇池の上の海外植民学校 松原 征男氏
〇三好達治の代田居住の意味 松山 信洋氏
〇世田谷吉良氏の系譜 木村 康伸氏
〇ポスターセッション 市民誰でも参加可
ちょこっとした発信を3分程度で発表、A3二枚程度にまとめ納涼会でも展示する。
*地域の文化を市民の誰でもが発表できるというコーナーである。
主発表は持ち時間を20分とし、その後若干の質疑応答時間を設ける。
ポスターセッション参加希望される場合には、きむら、米澤に連絡をとってください。
2、夏恒例納涼会開催のお知らせ
研究大会に続いて恒例の納涼会の開催を行います。
北沢川文化遺産保存の会「納涼会」
*開催日時 8月1日5時30分より
*北沢タウンホール2階第一集会室
*会費 3000円
毎夏行っている納涼会である。お約束は、一品持参である。お菓子なり、手作りの何かなり、名産品なり、お酒なり、これを持参して面白おかしく紹介する。
文化に興味ある人が集まって、話したり、しゃべったり、ときにうたったり。
出し物あり、手品があったり、ハーモニカがあったり、歌の披露があったり、ともあれ夏の宵の一時を楽しく過ごそうというものだ。ボリュームのある、いつもの信濃屋特製の豪華弁当がつく。「北沢川文化遺産保存の会研究会弁当」
研究会の参加(片方参加は可能)、納涼会の参加は7月27日まで連絡のこと。
資料の部数と弁当の数に関係する。米澤邦頼まで 090−3501−7278
または、きむらけんへ、aoisigunal@hotmail.com 電話FAX03-3718-6498
ポスターセッションに参加される場合は、きむらけんの方に早めに連絡を。
3、戦後70周年記念講演会&コンサート(9月12日 塩尻市郷原郷福寺)
(一)
かつて戦争があった。これに突入すると人間は醜悪さをさらけ出す。誰がどうなろうと構ったことではない。善悪の見境はつかなくなる。個々人は追い込まれて死ぬのが当たり前と思うようにもなる。往時の中学生、松本一中の二年生だった一人は「人生25年、どうせ死ぬなら軍人になって撃ちまくって華々しく死ぬ」と。平和が破綻すると人はやぶれかぶれにもなる。
淺間温泉の旅館には世田谷から七校2500名ほどの学童が疎開していた。が、ここから退去せざるを得なくなった、再疎開である。理由は松本市内に近く空襲の危険が増したからと。が、実情は違う、「戦況の不利とは、逆比例的に、軍人の往来が激しくなり、何何工場慰安会なるものが、連日の宴会でどんちゃん騒ぎを演ずることが、目にあまるようになった」(浜館菊雄『学童集団疎開』)とある。太平洋側にあった軍需工場が疎開してきて兵員や工場の宿舎が不足してきたことが大きい。
子どもの目の前を美食のお膳が素通りしていく。「これはまったく残酷な拷問だった」(同著)、酔っ払えば卑猥な歌をうたう、子どもをからかう。人間の醜悪さだ。空襲で何人死のうとも、沖縄が艦砲射撃を受けて瀕死の状態にあろうとも大人は顧慮しない。
昭和二十年四月、代沢国民学校の柳内達雄先生に引率された鉛筆部隊は塩尻郷福寺に再疎開する。このお寺には御座所があった。明治13年(1881)、明治天皇御巡幸の時、御小休所となったからである。
その郷福寺は、今年創建四百年を迎える。その記念行事の一環として記念イベントを開催する。「戦後70年記念講演会」である。タイトルが、「鉛筆部隊と特攻隊−郷福寺学寮歌がめくった戦争近代の一ページ−」だ。そうここの学寮歌が思いがけず戦争近代の一ページを紐解いた。思いがけない数の特攻隊が当地にやってきていて、多くの学童たちとふれ合っていた。その隊が武剋隊であり武揚隊であることもわかった。この知られざる近代戦争史の逸話は、郷福寺学寮歌探しが機縁となったことは確かだ。
(二)
先年夏、この寺で歌われていた「郷福寺学寮の歌」のお披露目をかねてのコンサートが開かれた。今年は、戦後七十年、今度は「淺間温泉望郷の歌」が披露される。
このコンサートではまた再び学寮の歌も歌われるだろう。この歌と望郷の歌には脈絡はない。が、学寮の歌探しが機縁となって望郷歌に行き着いた。
この背景には秘められた音楽文化史が潜んでいる。「郷福寺学寮の歌」は、この寺に縁故疎開していた一人の男の子に強烈な印象を残していた。断片的な記憶を何とかより合わせてこれを再現したいと願っている人がいた。それは旭正章さんである。
当方が代沢小の歴史についてブログで触れていることから彼はネットを通して連絡を取ってきた。「郷福寺学寮の歌」を知らないか?。この問い掛けがすべての始まりだった。
戦争近代史のみならず、音楽文化史の一ページまで切り開いた。先に機縁因縁と述べた。ここに深く関わっている音楽教師がいる。『学童集団疎開』を著した浜館菊雄先生だ。彼の抱いた信念「音楽は人びとの心に愛情をともすのだ」というのが見事に、結実し、開花したのがこの寮歌だった。寮歌の作曲者はこの先生だ。軍歌調の歌がはやっている中で、寺でこの歌が響いてきた。どれだけ爽やかであったろう。その歌詞三番だ。
廣丘のむらの友だち/くろいかほ/肩くんで
ぼくたちと高くうたへば/松林/風がわたるよ
(三)
歌は軽快である、都会的なセンスが滲み出ている。土地っ子は日に焼けて黒い。女の子はほっぺが赤い。が、都会から来た色の白い子と田舎の黒い子が肩を互いに組んで歌をうたう。松林を吹き抜けていく緑の風と歌とが合わさってきれいなハーモニーが流れる。物陰から聞いている少年の心にどれだけ熱く響いたか。
この郷福寺学寮の歌、そして淺間温泉望郷の歌もコンサートで歌われる。
この行事の開催日時は、塩尻市郷原郷福寺で、9月12日(日)2時からだ
4.都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
・第108回 7月18日(土)午後1時 池尻大橋駅改札前集合
戦後七十周年企画恒例「駒沢練兵場を巡る」8回目 戦跡を巡って戦争を考える
〇池尻稲荷遺構→食糧学院境界石→馬糧倉庫跡→東山中学脇の馬頭観音→三宿自衛隊→
世田谷公園(駒沢練兵場跡)→馬魂碑→唯一現存兵舎韓国会館→昭和女子大野砲兵跡→終わりの会。キャロットタワー三階パオスペース利用。
*パオスペースの予約が取れた。使用時間16時から18時まで
終わった後に、各自持込のお茶お菓子を食べながら歓談。
・第109回 9月19日(土)午後1時 蘆花公園駅改札前集合
・蘆花が歩いた道を歩く(三軒茶屋まで) 案内人 別宮通孝さん
世田谷文学館入館(200円)→蘆花恒春園→三軒茶屋(仮)
・第110回 10月17日(土)午後1時 四谷三丁目駅改札前集合
・鏡花、藤村、百�里鯤發� 案内人 松山信洋さん
松山さんは案内人初デビューである。期待したい。
・第111回 11月21日(土)午後1時 大井町線九品仏駅改札前集合
・奥沢城・深沢城・世田谷城を歩く。案内人 木村康伸さん
古道、旧道に沿って世田谷の城三つを巡る
・第112回 12月19日(土)午後1時 東北沢駅改札前集合
萩原朔太郎地形研究 案内人 きむらけん
朔太郎は東北沢、下北沢、代田に住んだ。東北沢はどこなのか分からない。が、一つの手掛かりはこのときに「山の湯」と思われる銭湯に朔太郎と葉子とが行っている。森厳寺川左岸から下北沢新屋敷の路地。そして最後の転居先の世田谷代田へたどることによって。街並みと詩人の関係を想像しながら探訪していく新しい視点での街歩きだ。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも500円
参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498
■ 編集後記
▲公益法人「日本河川協会」から「『川や水の活動団体名簿』への登録についての(お願い)」という文章が回ってきた。「より多くの方々の幅広い活用を図るため、貴団体にも是非ご登録をしていただきたく」という趣旨のものだ。説明を読み、特に問題はないのではないかと思い、書類に必要事項を記入して協会に送ったことだ。
▲8月1日(土)に恒例「北沢川文化遺産保存の会」の納涼会を開催する。前回おもしろかったオークションはまた実施したい。面白そうな不要物があったらを持ってきてください。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第108号
2015年7月1日発行(毎月1回発行)
会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
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1、「北沢川文化遺産保存の会」研究大会のお知らせ
第1回 北沢川文化遺産保存の会研究大会
大会コンセプト 「北沢川流域の文化について」
共催 北沢川文化遺産保存の会 北沢小学校同窓会
北沢川文化遺産保存の会は、十年に亘り下北沢鉄道交点一帯の文化を調べたり、記録したりしてきた。その過程で温めてきた企画がある。文化に興味を持つ人が集まって情報を交換したり、発表したする場である。スニーカーを履いて参加できる研究会を行うことだ。
今回、保存の会とは友好的な関係にある北沢小学校同窓会の協力を得てこの思いが実現することとなった。市民誰もが参加できる研究会だ。文化は知を耕やして面白がることである、これに参加してみませんか?
*開催日時 8月1日1時30分より(開場1時)
*北沢小学校ランチルーム(定員50名)
*会費 資料代300円
研究発表の題と発表者(題は仮)
〇北沢小学区域の文化的変遷 長谷川 慎一氏 北小同窓会会長
〇池の上の海外植民学校 松原 征男氏
〇三好達治の代田居住の意味 松山 信洋氏
〇世田谷吉良氏の系譜 木村 康伸氏
〇ポスターセッション 市民誰でも参加可
ちょこっとした発信を3分程度で発表、A3二枚程度にまとめ納涼会でも展示する。
*地域の文化を市民の誰でもが発表できるというコーナーである。
主発表は持ち時間を20分とし、その後若干の質疑応答時間を設ける。
ポスターセッション参加希望される場合には、きむら、米澤に連絡をとってください。
2、夏恒例納涼会開催のお知らせ
研究大会に続いて恒例の納涼会の開催を行います。
北沢川文化遺産保存の会「納涼会」
*開催日時 8月1日5時30分より
*北沢タウンホール2階第一集会室
*会費 3000円
毎夏行っている納涼会である。お約束は、一品持参である。お菓子なり、手作りの何かなり、名産品なり、お酒なり、これを持参して面白おかしく紹介する。
文化に興味ある人が集まって、話したり、しゃべったり、ときにうたったり。
出し物あり、手品があったり、ハーモニカがあったり、歌の披露があったり、ともあれ夏の宵の一時を楽しく過ごそうというものだ。ボリュームのある、いつもの信濃屋特製の豪華弁当がつく。「北沢川文化遺産保存の会研究会弁当」
研究会の参加(片方参加は可能)、納涼会の参加は7月27日まで連絡のこと。
資料の部数と弁当の数に関係する。米澤邦頼まで 090−3501−7278
または、きむらけんへ、aoisigunal@hotmail.com 電話FAX03-3718-6498
ポスターセッションに参加される場合は、きむらけんの方に早めに連絡を。
3、戦後70周年記念講演会&コンサート(9月12日 塩尻市郷原郷福寺)
(一)
かつて戦争があった。これに突入すると人間は醜悪さをさらけ出す。誰がどうなろうと構ったことではない。善悪の見境はつかなくなる。個々人は追い込まれて死ぬのが当たり前と思うようにもなる。往時の中学生、松本一中の二年生だった一人は「人生25年、どうせ死ぬなら軍人になって撃ちまくって華々しく死ぬ」と。平和が破綻すると人はやぶれかぶれにもなる。
淺間温泉の旅館には世田谷から七校2500名ほどの学童が疎開していた。が、ここから退去せざるを得なくなった、再疎開である。理由は松本市内に近く空襲の危険が増したからと。が、実情は違う、「戦況の不利とは、逆比例的に、軍人の往来が激しくなり、何何工場慰安会なるものが、連日の宴会でどんちゃん騒ぎを演ずることが、目にあまるようになった」(浜館菊雄『学童集団疎開』)とある。太平洋側にあった軍需工場が疎開してきて兵員や工場の宿舎が不足してきたことが大きい。
子どもの目の前を美食のお膳が素通りしていく。「これはまったく残酷な拷問だった」(同著)、酔っ払えば卑猥な歌をうたう、子どもをからかう。人間の醜悪さだ。空襲で何人死のうとも、沖縄が艦砲射撃を受けて瀕死の状態にあろうとも大人は顧慮しない。
昭和二十年四月、代沢国民学校の柳内達雄先生に引率された鉛筆部隊は塩尻郷福寺に再疎開する。このお寺には御座所があった。明治13年(1881)、明治天皇御巡幸の時、御小休所となったからである。
その郷福寺は、今年創建四百年を迎える。その記念行事の一環として記念イベントを開催する。「戦後70年記念講演会」である。タイトルが、「鉛筆部隊と特攻隊−郷福寺学寮歌がめくった戦争近代の一ページ−」だ。そうここの学寮歌が思いがけず戦争近代の一ページを紐解いた。思いがけない数の特攻隊が当地にやってきていて、多くの学童たちとふれ合っていた。その隊が武剋隊であり武揚隊であることもわかった。この知られざる近代戦争史の逸話は、郷福寺学寮歌探しが機縁となったことは確かだ。
(二)
先年夏、この寺で歌われていた「郷福寺学寮の歌」のお披露目をかねてのコンサートが開かれた。今年は、戦後七十年、今度は「淺間温泉望郷の歌」が披露される。
このコンサートではまた再び学寮の歌も歌われるだろう。この歌と望郷の歌には脈絡はない。が、学寮の歌探しが機縁となって望郷歌に行き着いた。
この背景には秘められた音楽文化史が潜んでいる。「郷福寺学寮の歌」は、この寺に縁故疎開していた一人の男の子に強烈な印象を残していた。断片的な記憶を何とかより合わせてこれを再現したいと願っている人がいた。それは旭正章さんである。
当方が代沢小の歴史についてブログで触れていることから彼はネットを通して連絡を取ってきた。「郷福寺学寮の歌」を知らないか?。この問い掛けがすべての始まりだった。
戦争近代史のみならず、音楽文化史の一ページまで切り開いた。先に機縁因縁と述べた。ここに深く関わっている音楽教師がいる。『学童集団疎開』を著した浜館菊雄先生だ。彼の抱いた信念「音楽は人びとの心に愛情をともすのだ」というのが見事に、結実し、開花したのがこの寮歌だった。寮歌の作曲者はこの先生だ。軍歌調の歌がはやっている中で、寺でこの歌が響いてきた。どれだけ爽やかであったろう。その歌詞三番だ。
廣丘のむらの友だち/くろいかほ/肩くんで
ぼくたちと高くうたへば/松林/風がわたるよ
(三)
歌は軽快である、都会的なセンスが滲み出ている。土地っ子は日に焼けて黒い。女の子はほっぺが赤い。が、都会から来た色の白い子と田舎の黒い子が肩を互いに組んで歌をうたう。松林を吹き抜けていく緑の風と歌とが合わさってきれいなハーモニーが流れる。物陰から聞いている少年の心にどれだけ熱く響いたか。
この郷福寺学寮の歌、そして淺間温泉望郷の歌もコンサートで歌われる。
この行事の開催日時は、塩尻市郷原郷福寺で、9月12日(日)2時からだ
4.都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
・第108回 7月18日(土)午後1時 池尻大橋駅改札前集合
戦後七十周年企画恒例「駒沢練兵場を巡る」8回目 戦跡を巡って戦争を考える
〇池尻稲荷遺構→食糧学院境界石→馬糧倉庫跡→東山中学脇の馬頭観音→三宿自衛隊→
世田谷公園(駒沢練兵場跡)→馬魂碑→唯一現存兵舎韓国会館→昭和女子大野砲兵跡→終わりの会。キャロットタワー三階パオスペース利用。
*パオスペースの予約が取れた。使用時間16時から18時まで
終わった後に、各自持込のお茶お菓子を食べながら歓談。
・第109回 9月19日(土)午後1時 蘆花公園駅改札前集合
・蘆花が歩いた道を歩く(三軒茶屋まで) 案内人 別宮通孝さん
世田谷文学館入館(200円)→蘆花恒春園→三軒茶屋(仮)
・第110回 10月17日(土)午後1時 四谷三丁目駅改札前集合
・鏡花、藤村、百�里鯤發� 案内人 松山信洋さん
松山さんは案内人初デビューである。期待したい。
・第111回 11月21日(土)午後1時 大井町線九品仏駅改札前集合
・奥沢城・深沢城・世田谷城を歩く。案内人 木村康伸さん
古道、旧道に沿って世田谷の城三つを巡る
・第112回 12月19日(土)午後1時 東北沢駅改札前集合
萩原朔太郎地形研究 案内人 きむらけん
朔太郎は東北沢、下北沢、代田に住んだ。東北沢はどこなのか分からない。が、一つの手掛かりはこのときに「山の湯」と思われる銭湯に朔太郎と葉子とが行っている。森厳寺川左岸から下北沢新屋敷の路地。そして最後の転居先の世田谷代田へたどることによって。街並みと詩人の関係を想像しながら探訪していく新しい視点での街歩きだ。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも500円
参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498
■ 編集後記
▲公益法人「日本河川協会」から「『川や水の活動団体名簿』への登録についての(お願い)」という文章が回ってきた。「より多くの方々の幅広い活用を図るため、貴団体にも是非ご登録をしていただきたく」という趣旨のものだ。説明を読み、特に問題はないのではないかと思い、書類に必要事項を記入して協会に送ったことだ。
▲8月1日(土)に恒例「北沢川文化遺産保存の会」の納涼会を開催する。前回おもしろかったオークションはまた実施したい。面白そうな不要物があったらを持ってきてください。
◎当会への連絡、お問い合わせは、編集、発行者のきむらけんへ aoisigunal@hotmail.com
会報のメール配信もしている。「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で入会を受け付けている。



















