2015年10月

2015年10月31日

下北沢X物語(2905)〜会報第112号「北沢川文化遺産保存の会」〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第112号 
               2015年11月1日発行(毎月1回発行)
   東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
               会長 長井 邦雄(信濃屋)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
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1、世田谷の三つの城跡探訪−蒔田領を歩く−
    奥沢城・深沢城・世田谷城をめぐろう 案内人 木村康伸さん                                                 
 吉良氏と言えば、一般的には忠臣蔵に出て来る吉良上野介が有名であるが、われらが荏原で吉良氏と言えば、戦国時代に世田谷を根拠として活躍した吉良氏のことを真っ先に思い起こす人も多いだろう。今でも東急世田谷線上町駅近くには吉良氏の城址が残り、その周辺には吉良氏ゆかりの寺社も多い。
 もっとも、世田谷の吉良氏も、吉良上野介の吉良氏も、元を辿れば一つである。室町幕府を開いた足利氏の一族で、三河国吉良庄(現在の愛知県西尾市)を出自とする。そのうち、後に京都を根拠にした系統が京都の吉良氏と呼ばれ、世田谷を根拠にした系統が関東の吉良氏と呼ばれている。吉良上野介は京都の吉良氏の末裔である。
 関東の吉良氏は南北朝内乱期に奥州へ下った後、関東に移って来た。やがて世田谷を拠点に、戦国末期の小田原北条氏滅亡まで活躍が見られる。最盛期には世田谷のみならず、武蔵国の各所に所領を有していた。
 その所領は現在の世田谷区ほぼ全域に加え、目黒区や大田区の一部、さらに多摩川を挟んだ川崎市中原区にも及んでいた。
 また、横浜市にある蒔田(まいた)にも城を持っていた。蒔田は現在では横浜市の中でも内陸の方であるが、戦国時代はその辺りまで入江が湾入していて城は岬の突端にあったといい、水運の拠点になっていたことが窺える。
 これ以外にも、現在の港区の芝や、埼玉県ふじみ野市の大井も領有していたことが知られる。吉良氏は武蔵国内の交通の要衝を掌握していたことになる。
 それらの吉良氏の所領を、まとめて「蒔田領」と言ったそうだ。あくまでも本拠は世田谷であるのだが、その世田谷も含めて「蒔田領」と呼んだところに蒔田という場所の重要性が窺える。

 ところで、世田谷領も「蒔田領」であったのだから、下北沢X交点も「蒔田領」だったわけだし、世田谷「邪宗門」も駒沢高射砲陣地跡も「蒔田領」だったことになる。われわれが日々逍遥している場所はみな「蒔田領」であった。
 そんな「蒔田領」で、吉良氏と関わりの場所を巡りながら歩く旅を今月の「都市物語を旅する会」では企画している。世田谷区内にある奥沢城・深沢城・世田谷城という、三つの城址を巡る旅である。われらがフィールドの戦国時代を感じながらぜひ旅を供にしていただきたい。
2、長野県護国神社の特攻兵士像に我等の発見が刻まれた

 10月10日、松本市の長野縣護国神社で「特攻勇士之像」除幕式が行われた。自身も加わって紅白の紐を引くと碑文に刻まれた文言が露わになった。「松本市内には、出撃を待つ多くの特攻兵が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立っていきました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童たちと暖かい交流もありました」と。この話、私たちが掘り起こしたものだ。これが歴史事実としてきちんと刻まれていた。世田谷発の情報発信が源となって今回の像建立に至っていた。除幕式で特攻勇士之像建立の責任者、安部功祐氏がこの点を明確に述べられた。彼は、我等が世田谷で開いた2012年の「戦争経験を聞く会、語る会」に参加し、松本の近代の歴史を知ったと。

 この日、記念講演として「松本にやってきた特攻隊」という題で話をした。代沢小の歴史の掘り起こしが発端となって近代史の隠れた事実に行き着いた。当地に飛来してきていた武剋隊と武揚隊のことが明らかになったが、淺間温泉などに滞在していた特攻兵のことが分かってくるにつけ、二隊以外も大勢の沖縄特攻を控えた航空隊がいた。つまり、氷山の一角が解明できているだけで、もっと多くのが当地に飛来してきているはずだと述べた。つまりは当時の陸軍松本飛行場は沖縄特攻攻撃の重要な支援基地だった。自身が感づいているのは中でも誠隊の多くが当地に来ていたことである。いわゆる第八航空軍は台湾に本部がある。それで当地滞在の誠隊は台湾への指示が出ていた。が、沖縄侵攻が早まり、第八航空師団は参謀を九州新田原に派遣しここで指揮を執った。松本から出撃した特攻機はこの新田原に集結した。が、その後のことは一部は分かるが全貌は分からない。そんなことを講話で話したことである。

3、文化の日に文化地図を配る  

11月3日(火・祝)文化の日 
「下北沢文士町文化地図」最新第六版を配布する。(無料)
  場所  代沢小安吾文学碑前
  時間  午前10時から15時頃まで
  雨天  中止
  

 春は花見シーズンに大々的に配っています。秋の場合は、春ほどに人は通りません。狙いは何か?文化の日に文化活動をすることです。どういうことを行うのか、地図や会報を配ります。また紀要も並べ、欲しい人には寄金をしてもらいます。積極的に配ったりということはせずに、配布を通して、私たち会の活動を説明したり、また地元の文化を人としゃべったりする、文化交流が目的です。
 いつもどおり代沢小から机と椅子を借りてきて安吾文学碑の前に並べます。まあ言えば、文化の日にぶらり来られて、皆で文化談義をしませんか、そういうことです。
 のんびりとおいでください。なお、机、椅子を代沢小から運びます。9時半ごろにお手伝いに来ていただければありがたいのですが…。
 紀要は1号から4号まで全部並べます。なお、「下北沢X惜別物語」は、すべてなくなっています。今回、わずかに残部がみつかり、先着十名様にのみこれをお分けいたします。 

4、北沢川文化遺産保存の会忘年会

月日の経つのははやいもの。今号は11月号である。暮れも近づいてきた。恒例の忘年会の予告をしておきたい。2階集会室を取るはずだったが失念、それで12階のスカイサロンとなってしまった。いつものように皆で楽しもうという会だ。
 先般、夏は素晴らしい歌声に酔ってしまった。ロス・コンパ二エロスの四人である。今回また彼らは来てくださるとのこと。大いに楽しみたい。また大・中のベテランの手品師によるこれのお披露目、そして、今年幾つかの歌が発掘されたり、作曲されたりもした。真正寺学寮歌やダイダラボッチ音頭である。これらも聞きたいものである。会員には隠れた歌手や演奏者がいるので飛び入りでお披露目があるかもしれない、期待しよう。
 この私たちの会も、次第に参加者が多くなってきている。喜ばしいことだが問題点が出て来た。一言でいえばごみが増えたということだ。文化人の文化的な集まりだ。できるだけ解決していきたい。�,覆襪戮�ごみは持ち帰るようにしたい。�△い弔發琉貮併�参は継続するが、余ったら持ち帰るぐらいの気持ち。
 弁当や飲み物調達先の信濃屋にも協力してもらい、ごみを引き取ってもらうなどのことを相談している。一つの難点であるが、それでもやはり心持ちよくこの会を楽しみたい。
 
 日時 12月5日(土)5:30分より〜10時ぐらい
場所 北沢タウンホール 12階 スカイサロン
  会費 3500円 信濃屋の豪華弁当・飲み物つき
   一品持参のこと、それを面白おかしく会で紹介する。
   オークション品もあれば、オークションに掛けて会に寄付する。
  申し込み締め切り:弁当の注文があるので11月30日(月)までに
  米澤邦頼さんに 090−3501−7278 連絡のこと。
 
誰でも参加可能。

5.都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・特番行事 11月8日(日)午後1時 京王線仙川駅改札前
 
仙川高射砲陣地など(来年2月の行事の下見も兼ねる) 案内人 和田文雄さん

・第111回 11月21日(土)午後1時 大井町線九品仏駅改札前集合
  ・奥沢城・深沢城・世田谷城を歩く。案内人 木村康伸さん
  吉良氏ゆかりの場所を訪れながら、古道、旧道に沿って世田谷の城三つを巡る。


・第112回 12月19日(土)午後1時 小田急線東北沢駅改札前集合
  萩原朔太郎地形研究    案内人 きむらけん
  朔太郎は東北沢、下北沢、代田に住んだ。東北沢はどこなのか分からない。が、一つの手掛かりはこのときに「山の湯」と思われる銭湯に朔太郎と葉子とが行っている。森厳寺川左岸から下北沢新屋敷の路地。そして最後の転居先の世田谷代田へたどることによって。街並みと詩人の関係を想像しながら探訪していく新しい視点での街歩きだ。
・第113回 1月16日(土) 午後1時 世田谷線若林駅集合
 三茶探検大探検!(三茶の街の文化をみんなで探そう)
 まず基本は、海野十三旧居、北原白秋旧居、山田風太郎旧居を訪ねる。その後は、参加者の発案によって三茶の街を探検する。なんでもござれ、奇妙な三角地帯、古びた商店街など、参加した人が案内をする。来たれ!三茶チャカチャカ、三茶大探検。
・第114回 2月20日(土)午後1時 京王線仙川駅改札前
 仙川一帯の文化を尋ねる  案内人 和田文雄さん
・第115回 3月19日(土)午後1時 京王線烏山駅脇区民センターロビー
  品川用水の痕跡を歩く 案内人 渡部一二さん(農学博士)
  北沢川文化遺産保存の会・品川用水復活研究会共催
 ロビーにて用水の説明→粕谷村の築堤→堀り通りと「洗い場」→塚戸十字路→ひえがら橋と急坂→千歳船橋駅
  
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも500円
 参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記
▲日本河川協会が募集する第18回「日本水大賞」に応募する。タイトルは「緑道に文学碑のある風景を創る−「北沢川文学の小路」−だ。北沢川緑道文学碑四基を建立したことを軸に申請書を書いた。推薦文には世田谷区都市整備課からの推薦が得られた。
▲当会に、戦争関係の資料の寄付が寄せられる。会としての保存は困難なのでこれまで培ったルートを通して会の名で博物館に寄贈したい。�ゝ賣Ψ害垣酥�行場を語り継ぐ会に今井明さん所持の飛行機の水平器を寄贈。��武剋隊今野勝郎軍曹の手紙、田中幸子さん提供を松本市立博物館に寄贈。また、今後の予定としては千人針を昭和館に寄贈を予定している。なお、世田谷赤堤の旧軍関係者から模型飛行機の寄贈の申し出がある。これについては私と米澤とが調査に赴くことにしている。世田谷区内の疎開学童関係の資料は散逸しつつある。これらも当方への照会があれば対応したい。
▲「ダイダラボッチ音頭」が代田児童館の協力でこれが完成した。すでにユーチューブにアップしている。映像検索で「ダイダラボッチ音頭」と入れるとみらる。 https://www.youtube.com/watch?v=DQxilyFjqWA 再生回数が間もなく200回となる。
▲当、メール会報に会友をいれていますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへaoisigunal@hotmail.com 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(写真は長野県護国神社の碑文)




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2015年10月30日

下北沢X物語(2904)〜世田谷代田風景論:丘と岬の神�掘�

P1050610(一)世田谷代田で萩原朔太郎は晩年を送った。駒沢線鉄塔のそばだ。我等が世田谷区地域風景資産に推薦した「代田の丘の鉄塔61号」である。詩人にとっての風景、その娘葉子にとっての風景、これは明らかに違う。この風景観の差に父子物語が眠っている。
 
詩人は鉄塔風景は語っていない。が、彼は「幻影の都会」で自然風景の中の「文明的の人工物」が「鮮新な気分を感じさせる」と述べている。高く聳える銀色の鉄塔は彼の求める都会的風景に合致したものだ。一方、娘は忌避的であった。「あの高い鉄塔に登り、感電死するのが私の運命」(『蕁麻の家』)だと述べる。この鉄塔こそは61号である。

 萩原父子代田風景論というのは面白い。この土地を最初に見にきたとき娘は「すぐ目の前に高圧線の高い鉄塔が見えた」、そして、「東側は高圧線の塔が聳え、その裏が公園のような空き地になって、ブランコが一台雨に濡れていた」と描いている。かつて鉄塔の下には「ひまわり公園」があった。この情景を描いているが彼女の心象風景としては好印象ではない。では、父の場合はどうだったのか。彼が代田風景を唯一描いたものがある。

庭前一円、世田谷の平野が展開していますので,東京としては飛騨の郊外の感じです。

 当地に新居を建てた。この家から見える風景を知人に書き送った。その一節だ。代田半島南端の丘上から見た光景である。この丘下には、葉子が描くところの「川音が賑わい、誰かが喋っているような気がする」という北沢川が流れていた。底には川、対岸には家々、言わばサラダボール状の景色が広がっていた。それを詩人は「世田谷の平野」と描いた。彼が見ている風景こそは代田本村である。

 向かいの丘には家、屋敷、森が点在していた。秋元の森、大場の森などである。それが飛騨の山村風景のように見えたのだろう。彼には好ましい風景だった。

 向かいは北のり面である。ここに本村が広がっている。世田谷城続きの台地だ。ここに住まういわゆる代田七人衆は吉良氏没落後、武士から帰農して当地を開いた。その風景を萩原朔太郎が見て描いたものだ。

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2015年10月28日

下北沢X物語(2903)〜喜多見幻想行:殿山横穴墓群2〜

P1050644(一)何が何でも利便至上主義、「スイスイ首都圏へ」と高速道を所管する国交省のHPには謳われている。外環道もこの「スイスイ首都圏」の中核に入っている。が、この戦略の裏には野を、山を速度のためだけにぶち壊していく。人間の傲慢さを思う。途中遺跡が出てきたとしても歯牙にもかけることはない。潰し潰して車が「スイスイ」通りさえすればよい。我々が生きてきた過程やプロセスはどうでもいい。自然景観や遺跡、どれだけ潰されたろうか。
 
遮二無二歴史の過程を焼き滅ぼそうとする。一旦壊した自然、そして遺跡は戻ることはない。例えば身近なことでいえば東北沢5号踏切があった。地下化によってもう跡形もない。この踏切、「おばちゃんの踏切」と呼んでた人がいた。慕わしい叔母がここで自殺したからだ。これは無数の逸話の一片に過ぎない。踏切がなくなることによってその記憶はすべて消える。殿山横穴墓群5号にも逸話や物語はあるだろう。副葬品の青い勾玉は村長の第一夫人が想いの証としてそっと添えたものかもしれない。そんな物語の一端すら永劫に消え去ってしまう。

 殿山を里山とする喜多見、かつてこの里は、「桃源郷のようだったと」。この話、池田あすえさんからはこんな情報が寄せられた。

 桃源郷と言った方は野川脇の代々農家で、やはり外環道に畑がかかっています。畑には桃の木が植わっています。外環工事ストレスも多いせいか、夏に入院して声が出なくなっているそうです。回復したら「かっての喜多見は桃源郷」ときむらけん先生に話した事を伝えたいと思います。

 里山風景の中の桃の木々が思われた。崖線の緑と桃の花とが調和して紅色の花は見事に見えた。多摩川には霧が湧き、その向こうには多摩の横山、府中崖線には豊かな風景があった。これははるか昔から引き継がれてきたものだ。それにしても外環ジャンクションの工事が地域住民に大きなストレスを与えていることは見過ごせることではない。地域住民の思いを無視して遮二無二行われている工事であることは明白だ。
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 この多摩川左岸の第一段丘は、作物が多く実る地だ。ことに六郷用水が整備されてからは喜多見の石高が飛躍的に上がった。「409石3斗4升3号から734石7斗7升5号」(『世田谷の河川の用水』)になったと記録にはある。水の恩恵によって石高が倍増している。この喜多見所管の里長も横穴墓の一つに入っているのかもしれない。勾玉や刀剣などの副葬品は、土地からの収益があってこそであろう。

 この喜多見の下手が宇奈根である。この音は不思議だ。池田さんとそれと地元の女性との会話に、「ウナネ、ウナネ」とでてくるとまるで外国にでも来たような不思議な思いに囚われる。アイヌ語ではないかとされる。北方系の人々が早くから住んでいた。やはり多摩川左岸第一段丘は古くからの土地に違いない。
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2015年10月27日

下北沢X物語(2902)〜喜多見幻想行:殿山横穴墓群〜

DSC05009s(一) 横穴墓群は、名のとおり横穴が国分寺崖線の壁にぽっかりと開いている。古墳時代後期、千四百年前のものだ。この穴の口がその歴史の経過を語ってくれればと思う。故里長と姫の物語とかが思われる。この墓へ一度行って、また二度目、声が掛かってこの間の日曜日に再び訪れた。が、今度は何とも不思議な経験をした。かつて殿山の里である喜多見や宇奈根で異境にさまよった記憶がある。それが二重映しになっての幻想を覚えた。

「上の方の黒い地層はあれは表土だから土ということ、その下の穴がある白いところは上総層、うん、土丹層(砂質粘土が堆積し長年にわたって堅く凝固したもの)ともいう。柔らかいね」
 穴の前に立って人が地層について教えてくれた。
「ああ、上総層は海成層、大昔は海だったんだ!」と気づいた。
「世田谷代田の地下もそうだった。さらさらしていたが」と同行の米澤さん。
「あれはマシンで掘るときに水を入れるから、砂みたいになるんだ」
 専門家は言う。またもう一人の東京都の埋蔵文化財の係官にはこういう質問をした。
「玄室に敷き詰められているのは玉石ですね?ここの野川だとこんな石はないから多摩川から運んだのですよね」
「うん、そうだと言えますね」
「ということは、労役の人が多摩川からえっさえっさ運んだのですね?」と私。
「ああ、これができた当時のことはよく分かりませんが、景色としてはきれいだったかもしれませんね」
 ふと洩らした彼の言葉に私はいたく刺激された。崖線の壁の殿山横穴墓群、背尾根の殿山古墳群を含めての風景というのがかつてはあった。それが里山の喜多見からは美しい景色として見えていたのではないかと想像した。

 この日曜日のときに、この遺跡を率先して残そうとしている池田あすえさんと初めて話をした。彼女はこの貴重な遺跡を残したいと熱く燃えている。今回の見学を実現しようと関係者に会って奔走した人だ。

 彼女の名前は知っていた。下北沢グリーンラインの谷郷桃さん世田谷カソリック教会の下北沢あおぞらマルシェで野菜の売っていた。これが池田さんの畑で採れたものだった。
 遺跡見学をした後に池田さんが自分の畑を案内してくれた。行って分かったのは東名ジャンクションの敷地の一部がその畑に掛かるとのこと。そこから東を見ると殿山が、里山風景の一部として見えていた。無惨にも土がむき出しになっている。
DSC05027Cs
「あれ、これって川世線ですよね」
 畑の近くに高圧鉄塔が見える。31号か。
「うん、うんそうなのよ。川崎と世田谷を結ぶ高圧線ね」
「ああ、懐かしい高圧鉄塔だ」
 何年か前に若い女性がこの鉄塔に登った事件があった。なぜかこのとき自分のブログのアクセスが急に増えたので知っている。
「そのね、高速道をまたいでいる鉄塔は新しいでしょう。立て替えたのね、トンネルシールドマシンが穴を掘るのに電気がいっぱいいるみたいで…」
 これは30号のようだ。
「へぇ、ジャンクション工事がこんなところにも影響するんだ!」


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2015年10月25日

下北沢X物語(2901)〜謎の「殿山横穴墓群」探訪2〜

P1050647(一)世田谷発の小さな発信が全国の社寺に波紋を広げている。まずは、今夏、宮崎神宮からの知らせである。多くの特攻兵が社にお参りに来ていたことを知り社史に残したいと。次についこの間、特攻勇士之像が長野県護国神社に建立された。特攻兵と世田谷の疎開学童との交流が碑に歴史として刻まれていた。また昨日のことだ高岡市明円寺からは寺報が送られてきた。駒沢の高射砲隊が寺に宿泊して伏木の港を守っていたこと、この詳細を初めて知ったと。これらの発信源は我等である。
 
 今夏発行の『北沢川文化遺産保存の会』の紀要4号を明円寺に送っていた。この礼状に添えられた手紙に書かれていたものだ。寺からは紀要を送ってほしいとの連絡があった。塩尻郷福寺からは100部、護国神社からは130部、これにつぐ注文である。最もこれは断っておくが定価をつけて売ってはいない。記録発行への協力寄金を呼びかけている。

 手紙には、「当時の戦況や伏木港の重要性を学ぶことができました」とあった。少なからず近代史の発掘に繋がったことは嬉しいことだ。しかし、気がかりなことが一点だけある。現地踏査をしていないことだ。調べで分かってきたことは戦争末期東京の調布隊と駒沢隊とが高岡に行き、ここで二箇所の高射砲陣地を築き、港を守っていたことだ。こうなると現地調査はへ行かざるを得ないのではないか?

 歩いて地形を観察することは大切だ。殿山横穴墓群へは二子玉川から歩いて野川沿いを北上した。この左岸の国分寺崖線の背尾根には古墳が数珠繋ぎに連なっている。素人でも容易に想像できる。ここを崩せば遺跡は出てくる。現地情報も大事だ。「殿山遺跡を守り育てる会」によると、この山については「古老たちは『掘ればを何かある』と言いあっていた国分寺崖線の一部をなす伝説の山」だと。
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 当日配られた資料がある。「世田谷区の横穴墓・後期古墳」という地図だ。これには崖線に沿ってびっしりと横穴墓の所在が記されていた。一帯は掘ればどこでもこれが出てくるはずだ。

「ずぶの素人でもここを掘れば遺跡が必ず出てくる、そんなことはあらかじめ予想がついたことではないのですか?」
 私は東京都の遺跡埋蔵物センターの係官に質問した。彼は、埋蔵物を調べるのが専門でそのことは職掌外のことだという。建築確認は区教委の方だという。

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2015年10月24日

下北沢X物語(2900)〜謎の「殿山横穴墓群」探訪1〜

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「新幹線が数分おきに出ているのはおかしい」、テレビのインタビューに出てきた養老孟司氏が言っていた、同感だった。ふと気づくと社会は狂喜乱舞、狂ったように速度を求めている。そのため山や谷を平気の平左で無惨にも壊してゆく。国土をこんなに切り刻んでいる国はあるのか、異常ではないか?際限なく高速道路を、新幹線・リニアを、超高層ビルを、そしてまた巨大防波堤、堤防を作りあげている。辺野古の海を埋め立てて平気でまた沖縄に新たに飛行場を作る、当たり前の光景?我等の感覚は麻痺していないか?

 フェィスブック仲間から「殿山横穴墓群」の見学会へのお誘いがあった。21日これに行ってきた。遺跡が出土した地形に興味があったからだ。二子玉川までは電車で行き、ここからはバスだが歩いて野川沿いを北上する。地形観察のためだ。左岸は国分寺崖線がずっと続いている、何度も訪れてきたところだ。地形に親しんで知ったのは墳墓群である。

 この国分寺崖線の背尾根筋には古墳が数珠繋ぎに連なっている。なぜか?この意味を発見して感動したことがある。崖線の墳墓を歩いたとき、石棺の位置が示されていた。仲間がタブレット端末を当てその向きを調べた、それが分かったとたん、我等は歓声を上げた。
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「富士を向いて眠っているんだ!」
 武蔵野の西端、崖線の尾根筋は眺望絶佳の地だ。富士を眺めるには最高のところだ。崇高な富士の景色が望める、死者は永遠の命を思ってそこに葬って欲しいと伝えたのだろう。背尾根に古墳が数珠繋ぎになっている理由、その一端をのぞき見たように思った。

 ところが、今や国分寺崖線に死者たちは安眠できなくなっている。近代のビル群によって思いが妨げられている。多摩川沿いや対岸には高層マンションやビルが建ち富士の姿は段々に遮断され始めた。死者に眺望権はないのだろうか?
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(二)
 集合場所である玉堤通りの新井橋にはだいぶ早く着いた。左岸を見るとフェンス越しに遺跡の在処が見えている。やはり国分寺崖線の斜面である。ここにジャンクションを作るために工事をしていたら遺跡が出てきたというのだ。釈然としない気持ちがふと湧いてきた。素人の自分でも分かる。国分寺崖線の背尾根には間違いなく遺跡がある。初めからこのことは分かっていたのではないか?。

 時間があったので左岸崖線を北上する。次大夫堀公園まで行って戻る。新井橋の手前の崖線寄りの平坦なところも工事予定地でフェンスが続いている。塀には透明なアクリル板があって中が覗ける。数名の人がいて作業を行っていた。土を掘っている形からして遺跡のようだった。

 時間になると多くの見学者が集まってきた。遺跡発掘のニュースが伝わって多くが関心を持って詰めかけてきたのだ。我等はヘルメットを着用して待つ。国土交通省、中日本高速、JVの係の工事関係者が来ていた、ものものしい。まずは工事概要の説明があった。いわゆる外環道と東名高速とを結ぶジャンクションの工事現場だ。あのうわさに聞いていた外環道だったのかと初めて知ったことだ。その説明の中で、野川沿いにトンネルボーリングマシンを入れて二つの穴を掘るとのこと。巨大工事の一端だった。

 工事を行うことが前提で、壊れてしまう遺跡を取り敢えず見せておきたい。そんな印象を持った。質問として横穴群を守るための道路計画の変更を求める声もあった。が、道路工事関係者は、素人には分からない施工用語を持ち出して、その要望がほとんど不可能であるようなことを言っていた。

(三)
 現場に入った。野川崖線がすっぽりと削られている。地層がはっきりをと見える。上から関東ローム層赤っぽい、この下部の白っぽい地層にずらりと穴が開いている。殿山横穴墓群である。近代機械によって突き崩されたところに人工の古跡の穴、歴史、人類の不思議を見るような思いがした。

 まずは、東京都埋蔵文化センターの係官から説明があった。この横穴墓は、崖の粘土層を横にくり抜いて作った墓だった。時代は「今から1300年から1400年前の七世紀」に作られたものだと。誰の墓なのか、郷や村の長の墓だという。

 国分寺崖線はお墓のアパートである。頂上部には一帯の豪族の長の墓、円墳や前方後円墳がある。そして崖には横穴が掘られそこには村の長が埋められる。段丘の地層地形がうまく活用されている。

 国分寺崖線はお墓のアパートだ。このことは私素人にも分かる。疑問がさらに深まった。
ここに遺跡がある、これは最初から分かっていたのではなかったか?
(上、埋蔵物センターの係官に質問をしているところ。梁田貴之さん撮影。中、横穴墓入り口、下、4号墓からの出土品。勾玉。)
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◎お知らせ
 「世田谷:殿山遺跡の姿を残す陳情、賛同署名簿」を集める運動が行われている。協力ください。「北沢川文化遺産保存の会」は事務局にこれを置きたい。


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2015年10月22日

下北沢X物語(2899)〜世田谷代田風景論:丘と岬の神�供�

P1050612(一)教会のある風景はどのようにしてできたのか。昭和十四年、世田谷中原に三階建ての塔屋も備えた教会堂が建った。太陽が降り注ぐ緑の丘に十字架が天を突き刺す。西欧的なお洒落な風景の現出である。これを描きに画学生もくるほどだった。この教会は新会堂建設と同時に「同胞幼稚園」を開園した。十字架が聳える塔に通う園児というのもまた近隣住人にとってはハイカラだった。教会堂の建物風景が人を惹き付ける。信者も園児も増えた。

「中原は中の原、北に行くと大原、イメージはとしはフラットですね。教会の近くに連句 の宗匠宇田零雨も住んでいて彼は草庵を『柿緑園』と呼んでいました。一帯が緑豊かであったことからつけられたのだと思います。まだ往時は武蔵野だったのですね、武蔵野に建つ教会堂ということもイメージにあったと思います」

「教会風景を考える上で、もう一つ大事な問題があります。世田谷中原にこういう風景をなぜ造ったのでしょうか?」
「ほら、これですよ。特徴はなんでしょうか。これは下北沢風景ですが近隣にはこういう風景が開けていたのです。最も目だつ色は?」
「赤色の住宅」
「どんな人が住みましたか」
「家族連れでしょうか」
「電車の開通によって開けたばかりの土地に建て売りを買ったり、あるいは自分たちで家を建てたりしたのでしょう。」
「どんな人たちでしょうか」
「いわゆるサラリーマンですか」との声。
「そうそう自分で家を買えるだけの働きがある人で、赤い屋根に住んで自分をアピールする人です。こういう人がいたからこそ教会はできたのではありませんか。宗教といっても需要と供給という問題がありますね。誰が来ますか?」
「信者」
「そうですよね、その信者の中身というのがありますね」


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2015年10月21日

下北沢X物語(2898)〜世田谷代田風景論:丘と岬の神〜

P1050613(一)都市郊外論という観点から風景と人間の関わりを考える、これを前提としてキーノートスピーチに臨んだ。10月18日に開かれたMP「世田谷代田を世界地図に」でのことだ。これも五回目ともなり、スピーチの種も尽きてきた。それで風景論を敢えてぶつけた。「世田谷代田風景論:丘と岬の神−中原教会&八幡神社」である。この一日前に「代田のだいだらぼっち」の講演を代田図書館で行った。質問をぶつけながら進めようと意図した。ところが、聴講者が少なく、こちらの気力が吸い取られるばかりであった。その翌日のことだけに危惧を覚えていた。ところが、年齢層がこちらは若い、小さな子ども二人さえいる、これは希望である。

 ついこの間の松本での講演で、学童と同宿することなった特攻兵は希望を見出したと述べた。これから生きていく子ども、これから死にゆく若者、特攻兵は若い命の輝きにほだされたのだと述べた。そのことが連想された。あどけない子どもの笑顔を見ながらのキーノートスピーチ、今度は気が滅入らなかった。こちらが問うていくことに反応があった。

「世田谷代田は西の空の眺めがいいところです。夕日の名所ですね。さて、夕日はなぜきれいなんでしょう?」
「夕暮れになって空が一番美しく輝くから…」
「空の色の移り変わりの中で夕日こそがもっとも美しいから…」

「いやね、風景論って好きです。ネットでこれに関する質問が出るとよく答えるのです。で、これに答えてベストアンサーになったのです…それを紹介します」

 人間にとっての景色とは何か?という問題でもあります。ゆえに風景論的観点から見ていく必要があります。

当たり前のことですが人間は動物です。本能には敵から襲われるという恐怖が常に潜在意識としてあります。だから動物にとって具合のよい景色を選びます。敵はよく見通せて、敵からはみられにく場所を人間は選ぶ、これは一つの理論として存在します。「眺望隠れ場理論」(ジェイ・アプルトン)という。
言えば、動物は自分に都合のいい、具合のいい景色を選ぶということです。そういう点で言えば、人は夕焼けに対しては許容的だと言えます。

なぜなのだろうか。
人は一日を生きる、それは闘争でもあります。が、区切りとしては朝焼けに始まって夕焼けでおわる、闘争の終わりでもあります。。

人にとって朝焼けという景色、夕焼けという景色、どう違うかも。比較風景論という観点で考えるのも面白い切り口です。

人は一日を生存して生きる、闘争であり、競争でもあります。夕焼けは一応のしめくくり、戦いの終わりであり、競争の終わりの時間でもあります。夕焼けはそのサインだというふうにも考えてよいでしょう。

 やっと戦い終えて夕焼けを見られる。動物としての幸せの時間の訪れとして学習されてきた、それで夕焼けは許容される、夕焼け美しい論は、物語です。そういう奥深い意味が、味があるように思えます。
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2015年10月19日

下北沢X物語(2897)〜ゆき暮れて代田、小暮れて代田〜

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ときめきの物語に遭遇した。たそがれどきにカップルが迷い込んできて、「〇〇荘」はどこなのかと聞いてきた。それが駅前のあまり目だつことのない小さなアトリエだ。「空間工房」に迷い込んできたのも何かの縁だ、が、なぜに私のところにくるのか不思議や不思議…

 昨日、世田谷代田駅前のアトリエ、「空間工房」でマッピングパーティが開かれた。第五回目ともなる、「世田谷代田を世界地図に加えよう」という会だ。ここで私は、「世田谷代田風景論:丘と岬の神−中原教会&八幡神社」という題で話をした。キーノートスピーチを終え、代田の街を一巡りして会場に戻り、マッピングの作業をした。夕暮れになった頃、階下から声が掛かった。
「何かね、ここら辺りのことを聞きたいと言っている人がいるのですよ」
 なぜ自分だろうかと思った。が、下に降りてみる。玄関のところに二人の男女がいた。どうしたのだろう?
「木暮荘を探しているのですよ、それでちょうどタバコを吸っている人がいたので聞いたのです」
 男がそういう。ちょうどアトリエ前を通り掛かったらしい。それで一服している彼に聞いた。我々の会の仲間だった。が、彼には何のことか分からないので私を呼んだようだ。
「ああ、木暮荘ね…」
「わかるんですか?」
 男が聞いてきた。

「ええっとね、駅があっちでしょう、南を探す手というのもあるんだけどね、やっぱりあっちではなくてこっちだね」
「へぇ、そうなんですか」
「そうそう、やっぱりね土地の佇まいとか雰囲気ってあるでしょう。あっちにはありませんね」
 二人は懸命に探したあげく私という奇妙なおじさんに出会った。半信半疑のようである。我等の仲間も三四人いたが、この話を真意を測りかねて固唾を飲んで見守っている。
 私は話を続けた。
「あっちは代田二丁目、家々の区画割りは広いのですね、ずんずん行くと萩原朔太郎が元住んでいた家のほうに行くのです、やはり敷地が広いですね」
「は、はぎわらさくたろう!ここに住んでいたんですか!」
「うん、ここで死んだんだ」
「へぇ、驚きだ」
 彼は文学に関心が深いと分かる。相手の彼女もそうであるようだ。
「あれは、そこの世田谷代田駅から徒歩五分というのでしょう、駅の南に行くか、北に行くか迷うところだが、あなたたちがこちらに来たのは正しいと思うのですよ」
「じゃあ、ここら辺ですか…」
「うん、大体ね」
「なんかもうどきどきしてきたわ」
 彼らの会話の機微から分かる。木暮荘の場所を知りたいのはどうやら彼女のようである。
「どこにあるんですか?」

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2015年10月18日

下北沢X物語(2896)〜ダイダラボッチ論の光と影〜

北文保会 四谷・市ヶ谷散歩 集合写真  別宮さん撮影(一)柳田国男は代田のダイダラボッチへ来た時は日を卜してきている。が、私はこれを省略している。それゆえか講演でもダイダラボッチ歩きでもどうも風向きが悪い。思い出すのは、以前、「荏原のダイダラボッチを歩く」を企画し池上線長原駅で待ち合わせたとき集まったのは埼玉からきた松原征雄さん、天羽大器さん、それに私の三人だった。
「わたしはダイダラボッチは信じていません」
 のっけから言われて面食らったことがある。

 昨日は、日が悪かったのだろう。集まりはよくなかった。私らの会は、街歩き。下北沢グリーンラインの関係者は会合だった。
「このところ講演続きで、そのタイトルは特攻隊でした。重いものです。が、今日は題としては軽く、面白く、楽しいものです」
 ダイダラボッチについては私は楽しいと思っている。が、面白がって話せば話すほどどんどん楽しさが吸い取られていくばかりであった。自分が面白いと思っているだけで人はさほど面白くないのではないか。

 柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』で、「伝説は昔話を信じたいと思う人々の、特殊なる注意の産物であった」と述べる。言い換えれば、昔話を面白がっている人の、「特殊なる注意の産物」、私だけのものでなかったかと思った。手順を踏んで行ったはずだが終いには、とんでもない世界まで人を連れていこうとしていた。

「先生、どこまでいくかと思いましたよ…」
 知り合いの原田さんがそういう。彼女の質問も私の話に刺激されたものか世界視野的なものになっていた。ダイダラボッチの根源は世界の神々にある…

 手順通りに話したはずだ。柳田国男の『ダイダラ坊の足跡」を取り上げ、ここから小まとめとして次の点を指摘した。

 この東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地といふことが出来る。

ダイダラボッチ伝説の中心地は、今の世田谷代田に他ならない。
 ・一つ、代田はダイダラボッチを語源として名付けられている。
 ・一つ、他は明確では分からなかったが代田にはくっきりと跡が残っていた。
 ・もう一つ、世田谷代田八幡宮の御神体は石棒だ。土器石器とダイダラボッチには深い関係があることから、ダイダラボッチのあることの証拠となるか。
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2015年10月17日

下北沢X物語(2895)〜初お披露目「ダイダラボッチ音頭」〜

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(一)「今日、渋谷から乗った電車のことです。誰もみなスマホを覗いているのです。左右七人掛け、都合十四人、そのうち十一人が見ていました。異様な光景ですね、スマホ世界に入り浸っていました…今日はダイダラボッチのことをお話しますが、これはスマホ世界にはない個々人が自由に想像するもの…」

 ダイダラボッチ講演会での枕である。しゃべりながらダイダラボッチという固有のものへの想像力も人々欠いてきているのではないかと思った。空席が多かった。

 今日は代田図書館主催の講演会は「ダイダラボッチ」がテーマだ。これはとりわけ興味を惹くテーマだ。なぜか、この正体がよく掴めない、分からないからだ。が、ここにこそ想像する楽しさや自由がある。

〇「ダイダラボッチは面白い、どうしてかというと謎だらけだからです…
・ダイダラボッチはどこから来たのか?。
 ・ダイダラボッチは本当にいたのか?
 ・ダイダラボッチの正体は何か?
  
 しかし、唯一分かっていることがあります。この世田谷代田は東京府巨人伝説の一個の中心地であることです。これは誇ってよいことではないか」

〇「ダイダラボッチは不思議に満ちています。ダイダラボッチという音そのものが何かもう変ですね、この言葉そのものにもう秘密があるように思います。おかしいのですよ。これを唱えると、自然と頬が緩んでくる、そしてまた二回続けると、リズムが湧いてくる。三回続けると力が湧いてくる…」
 仕掛けがこの言葉にはほどこされていないか?。

 おかしな語だ、この語を口に出して唱えると刺激が生まれる。ダイダラボッチを使って、ダイダラボッチ体操や、あるいはダイダラボッチ音頭ができる。前々からそう思っていて歌は作っていた。

 『ダイダラボッチ音頭』である。作ったのはもうだいぶ前だ。これを当会の川田さんが作曲はしてくれた。ところがその先の作業が進まなくて放置していた。何とかしなければと思っていたが沙汰止みになっていた。

 今回、世田谷代田図書館から講演の話があったとき打ち合わせをした。そのときにふと思いついた。
「ダイダラボッチ音頭があるのですが曲が完成していないのですよ」
 私は五月女館長に言ったことだ。
「代田児童館の方でやるかもしれません…歌詞を送ってください」
 私は、後日これをメールで送った。すると館の方でやってみるとの返答が来た。

 風の便りに、児童館館員やここに出入りしている大学生、そして子供も交えて歌を作っていると聞いていた。

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2015年10月15日

下北沢X物語(2894)〜代澤疎開学寮の無名航空戦士たち〜

P1050544(一)昭和19年8月、浅間温泉に学童村が生まれた。収容力を誇る温泉街は世田谷からの二千五百名ほどの疎開学童を受け入れた。代澤校は、井筒の湯を本部とし、この他、湯本屋、玉の湯、桐の湯、千代の湯、蔦の湯 計六つに分かれて分宿した。井筒の湯の隣が降旗家である。ここに多感な少年がいた。その彼は往時を回想してこう述べている。

なにしろ、私のまわりの女の子たちは頬がいつも真っ赤だったが、東京から来た女の子はだれも白いふっくらした頬をしていた。私にはまるで外国人に見えて仕方なかった。ほっぺの赤くない日本人がいるなんて、とても私には考えられないことだった。
『松本平タウン情報』第六号「私の半生」降旗康男 一九九九年


 来合わせたのは東京山の手世田谷からきた学童だった。親はもう子供とも会えない。せめて疎開への門出は着飾ってあげよう。まっ白いレースのワンピースでおめかしした子もいた。隣りに住んでいた少年はもうびっくりだった。「なんでこんなに可愛い子がいるんだろう」、大ショックだった。

 武揚隊の兵士は、明日は出撃だというときに「かわいいみなさんの人形乗せて、わたしやいきます、〇〇へ」と歌った。おしゃまで可愛い、そして色の白い彼女らを慕った。降旗少年と特攻兵の思いは同じである。

 当時、十一歳だった降旗少年は、井筒の湯にいた特攻兵と出会って「兵隊さんはどうして戦争に行くの」と小生意気な質問をしたという。

「我々は国の礎になるんだよ。その礎の上で君たちがしっかり生きてくれればいいんだ。頼んだよ」と言った。澄んだ目がいつまでも私を見つめていた。
 特攻隊は20歳から22歳の人たちがほとんどで、若い命を生身のまま敵陣へ注いでいった。
 私たちと話をした翌日、「井筒の湯」の庭の上すれすれに低空飛行していく特攻隊の姿を私は見た。
 白いマフラーをなびかせて手を振るのがよく見えた。「井筒の湯」の窓からは芸者さんや仲居さんたちも手を振っていた。
 私たちは手を振りながら、若い兵士の言葉を何度も何度も思い出していた。
    『松本平タウン情報』第六号「私の半生」降旗康男 一九九九年


  代澤校の本部となった井筒の湯にも特攻兵がいた。何隊かは分からない。年齢からすると航養か、少飛生だろう。

 また桐の湯には浜松から重爆に乗ってきた航空兵が泊まっていた。これは滞在形ではなく二三日で浜松に戻っていった。休養にきていたらしい。井筒の湯の西隣が湯本屋だ。ここも特攻兵がいた。
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2015年10月14日

下北沢X物語(2893)〜なぜ特攻機は松本へ?−記念講演�供櫃�ら〜

P1050593(一)大きな事実ではなく小さな事実を記したい、常なる希望だ。歴史を飾っているのにこれから抜け落ちている。そんな人々には常なる愛着を覚える。自身が疎開学童を通して偶然関わったことについても同じだ。記録されたことよりもそうされなかったことに愛着を覚える、むしろそこに物語を思って想像を熱くする。
 
「戦史叢書」、「沖縄・台湾 硫黄島方面 陸軍航空作戦」(昭和45年刊)には、こうある。

 「(第八飛行)師団首脳の念願にもかかわらず、米軍の台湾上陸の望みは薄れ、沖縄上陸の兆しは日ごとに濃くなっていた」、米軍は台湾に攻めてやってくる、その目論見ははずれた。それで、「第八飛行師団が中央から配属された特攻11コ隊は、当初台湾に前進させる計画」だったがこれを変更せざるを得なくなった。

 この記述から分かることは、武剋隊や武揚隊は、中央、つまり大本営命令で第二航空軍(在満州)に命じて発足させ、これを第八航空師団に配属させた。言わば直轄の特攻である。第二航空軍は、この編成時に儀式を大々的に行った。皇帝への拝謁、恩賜品の下賜、盛大な壮行会などが催された。こうなれば否が応でも記録に残る。事実そのときの写真などは数多く残っている。

 満州日報に掲載された写真は、新京をこの四隊が飛び立とうとするときのものだろうと思われる。
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 以前、NHKで満州新京放送局にあったレコード復元するという番組が放映された。この中に満州編成特攻四隊の隊員の声が録音されていた。これも第二航空軍初の特攻編成であったゆえの儀式だろう。「遺された声」はユーチューブでも見られる。武剋隊の小林勇少尉、武揚隊の吉原薫軍曹の生の声が聞ける。

 武剋隊、武揚隊、松本特攻組みではこの隊が際だっていただけに、他は忘れられた。氷山の下に埋まっている兵士たちがより忍ばれる。それで私は講演ではつぎのように述べた。
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2015年10月12日

下北沢X物語(2892)〜なぜ特攻機は松本へ?−記念講演−から〜

P1050605 「特攻勇士之像記念講演会」のタイトルは「松本にやってきた特攻隊」だ。これを数年間調査してきた。証言を得たり、資料を漁ったりしてきて断片的に分かったことは多くある。しかし、全貌はいまだ謎である。それでも拾い集めた資料から想像を巡らせることはできる。

(一)
〇昭和20年4月、飛行場倉庫にあった古着の山は何を意味するか?
 松本中学の三年生は前年に引き続き20年4月から動員される。トロッコを押したり、木の根を掘り起こしたり苛酷な労働だった。自前の着衣もボロボロだ。「作業着がない」そんなときにこれの支給があった。飛行場倉庫に行くと古着の山だった。岩岡敏夫さんの話によると三年生は約200名だった。が、疎開組みで膨れあがって300名はいた。油じみた作業衣、そして編み上げ靴、これらを全員がもらってもまだ余っていた。

 「衣服が支給されたのは5月です。しかし、飛行場の倉庫に残されていた古着の山は何を意味するでしょうか?」と私は会場に問うた。
「陸軍飛行場が開港したのはいつでしたか?前年の秋ですよね。それから半年ぐらいしか経たないのに倉庫には山と積まれた古着があった。しかも油で汚れています。これは何でしょうか?」
「間違いなく言えることは労働の痕跡ということですよね?何の作業ですか?」
「整備」という声が上がった。これは私も知っている横沢さんだった。
「そうですよね、そういうものの痕跡です。特攻隊武剋隊や武揚隊が飛来してきたのは二月の末、そして三月、四月にかけて淺間温泉や市内の旅館、また、飛行場周辺の民家や学校などに大勢の航空機乗員が来ていました」
 そういえば今回松本を訪れたときマルセ薬店は閉まっていた。親父さんには2回取材をした。「あの頃駅前にはマフラー首に巻いた特攻隊員が多くいた」と聞いた。帰りしな駅を通った、古老がいたので「特攻隊員は居たか?」と問いかけた、すると古老は「貸店舗のことか?」と。
 私は、祝賀会が終わった後、横沢さんに駅まで車で送ってもらった。
「マルセ薬店は親父さん年取ったので閉店してしまったんですよ」
 
「作業衣の山は沖縄戦の痕跡ですね。多くの特攻機が飛来してきて爆装改修や整備をおこないました。エンジン整備には動員中学生も当たりました」
 星型エンジンの説明を受けてスパナやペンチを使ってこれを分解していたと。
「油じみた作業服の山、沖縄戦に深く関わっていたことの痕跡ではありませんか?」
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2015年10月11日

下北沢X物語(2891)〜世田谷の疎開学童がめくった松本の戦争史〜

P1050596(一)昨日、長野縣護国神社で「特攻勇士之像」除幕式が行われた。自身も加わって紅白の紐を引くと碑文に刻まれた文言が露わになった。「松本市内には、出撃を待つ多くの特攻兵が滞在し、陸軍松本飛行場から前線へと飛び立っていきました。又、当時浅間温泉に疎開していた東京世田谷の学童たちと暖かい交流もありました」と。この話、私たちが掘り起こした話だ。これが歴史事実としてきちんと刻まれていた。世田谷発の情報発信が源となって今回の像建立に至っていた。除幕式で特攻勇士之像建立の責任者、安部功祐氏がこの点を明確に述べられた。彼は、我等が世田谷で開いた2012年の「戦争経験を聞く会、語る会」に参加し、松本の近代の歴史を知ったと。

 像の竣工記念講演会に招かれ再び松本を訪れた。駅から護国神社までは距離がある。が、フィールドワークは欠かせない。地形や街並みを眺めながら街を観察する、常々の習慣だ。途中、松本博物館に立ち寄った。武剋隊、今野軍曹の手紙を寄贈するためだ。遺族が手紙を知覧に寄贈されるというのを聞き、松本関係のものは地元の博物館にぜひと田中幸子さんを通して求めていた。「あの、懐かしい浅間温泉を後に、今は機上の人となって隊長のすぐ後ろを飛んでます」と書かれた手紙だ。

 武剋隊前半は、第八航空軍の指示に基づき、一旦新田原に降り立つが、ここから健軍飛行場に飛ぶ。熊本市内の司旅館に投宿する。本土で最後の宿だ。このときに彼らは多くの人に手紙を書いた。この夏、八月十三日フジテレビ「奇跡体験、アンビリバボー」で紹介された「鉛筆部隊の諸君」に始まる手紙もこのときに書かれたものだ。松本博物館に寄贈したものは今野軍曹が父親あてに書いたものだ。

 松本博物館のある城は人でごったがえしていた。「蕎麦祭り」が開かれていたからだ。そんな中、館に行って学芸員の関澤さんに会った。紀要と手紙とを渡した。
「館長は今日これから護国神社の除幕式に参列されます。あそこまではかなりありますよ」
「いや、街並みを見ていかないと気が済まないのですよ…」
 参列のこともあって、早々に館を辞した。が、はらごしらえもしたい。幾つも幾つも店がある。どこもここも長蛇の列、空いている店を選んで、ためらうことなく盛りそば二枚を頼んだ。初手から二枚は危険だ。げんなりすることはよくある。が、地元で選ばれた店が来ているに違いない。「うまい!」の一言だ。

 護国神社へ行く道は淺間温泉へ行く道でもある。勾配が続く、浅間線電車低いうなり声を上げて登っていく様が思われた。登り登ったところに温泉はある。特攻兵もこの電車で行き来した。何を見、何を思ったろうか。遙かな昔を思った。
P1050591
 途中、和菓子屋が目についた。古びたたたづまいの店、自動ドアではない。きっと物語がある。「菓子司 梅月」に入ったことだ。

「戦前から店はあります。この上、行ったところに五十連隊があって、隊内でもよおしものがあるときは家の饅頭が飛ぶように売れに売れてと聞いています」
 年老いたお上さんがいう。こういう話を聞くのは大好きだ。おいしいお菓子に、おいしい話、二倍も得したように思った。
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2015年10月09日

下北沢X物語(2890)〜下代田を渡る自由の風:鉛筆部隊と測機舎村�検�

三上勇さんと私(一)測機舎の発展と興隆、震災が大きな契機となった。鹿子木直は自著で「関東大震災をきっかけに東京は発展の機軸を西寄りに移し、新宿、渋谷を中心に西郊に発展して『大東京』への道をたどる」と述べる。舎も麻布から渋谷へそして三宿へと移ってくる。ここに新工場ができたのは大正十四年だ。

 測機舎つながりで三上勇さんと出会った。大正十二年生まれの九十二歳だ。彼の父は測機舎立ち上げの中心メンバーの一人三上綱男さんだ。勇さんは舎が立ち上がった麻布笄町の四十八坪で生まれている。今は代沢に住んでおられるが測機舎村の一角である。

「測機舎中心となったのは西川末三氏ですが、工場が三宿に移ってきたのは奧さんの西川松子さんが向こうの烏山川の方に住んでいて、その近くの丘上に土地を見つけて工場を建てたのですよ」
 この奧さんは才媛だ。神川松子といった方が通りがよい。明治・大正・昭和期の社会運動家、ロシア文学研究家だ。社会主義運動家として知られている。彼女には『測機舎を語る』という著作がある。「測機舎村」のことは彼女が言っている。

 測機舎の屋上に上って近く下北沢の丘の辺りを見渡しますと、小暗い杉の木立を背景に、木の香り新しい測機舎村が隠見しております。昭和元年から今春まで已に十三軒の住宅が建造せられ、いづれも春夏春秋この測機舎に居て、幸福な生活を営んでいるのであります。それに資金額には制限があり、又建築者の資格も似通って居りますので、住宅の様式にしても、広狭上下の差別なくいずれも敷地百坪内外、建坪三十坪前後といったような、私共の日常生活には至極好適の住宅であると共に、その間に階級的の嫉視或は不満もなく、いわば測機舎という労働団体を中心とした一律の美しい自由平等の村が営まれているのであります。
 
測機舎は創業時から階級制を廃している。労使関係をなくした日本最初の生産共同組合経営方式を採っている。ゆえに自由性、独立性が強い。家を建てるにもそれぞれが工夫し、自分の好みを取り入れた。

 下代田や北沢の丘の各所に家は建った。そのデザインやた建て方によって測機舎の従業員のものだと分かる。しゃれていたからだ。この家々から子供は学校に通った。測機舎的センスを持った子供だった。自由平等の村ゆえに子供らものびのびしていた。測機舎村で培った感性が代沢校にあったことは大きい。鉛筆部隊や楽器部隊の子供らは、一つは親の知性と、もう一つは武蔵野自由とを受け継いでいる。続きを読む

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2015年10月08日

下北沢X物語(2889)〜下代田を渡る自由の風:鉛筆部隊と測機舎村�掘�

DCIM0023(一)下代田を吹き抜ける自由の風は人々に未来への夢を与えた。緑の武蔵野を突き抜けるカーウェイを心に描いた人がいた。都鄙境界、世田谷ならではの逸話だ。

 下代田地区を東西に突き抜ける一本の広い道がある。なぜこんなに広いのだろう。ずっと不思議に思っていた。この理由が一人の古老の出会うことで氷解した。

 測機舎村はどこにあったのか、これを探してフィールドワークをしていた。ちょうどこの道を通り掛かったときに古老が庭にいた。聞く方も、聞く方だ。のっけからだ。
「どうしてこの道は広いのですか?」
 聞かれた方は、不審に思うはずだが相好を崩して、待っていましたというばかりに物語を語り始めた。後で考えると彼、吉沢貞さんは何十年とこの問題をぶつけてくる人を待っていたのではないかと思ったほどだ。あまりにも具合がよい。
「それは長い長い歴史があるのだ…」
 開口一番、彼は言った。聞き手は私と同行の米澤邦頼さんだ。目を丸くして聞いた。
「いいですか、それには80年の歴史があるのですよ。
「へぇ、そうですか」
「ここはかつては、荏原郡代田村字山下、これが町になってそして昭和7年、ここがついに東京市に編入されて区になった……いいですか話は長いんですよ」

「私の家系は古くて、円乗院の墓の古いのには享保18年年の銘がある」
「1716年ですか」と米澤さん。
「そうそう、それでな、ここが東京市に編入になったときに町議会が区議会になるんだよ。それでうちの親父がここの人に推されて最初の区議になったんだ…」
「親父さんの名は?」
「吉沢平太郎」

「いや、それでな、最初の区議になったんで、張り切っていたと思うのだ。親父は『東京市になったんだから、それにあうように道路を広くしなくてはならない、これを議会で訴えたんだ。なにしろ世田谷は道が狭くて入り組んでいる…」
 それは間違いない。幕府の隠密が道に迷ったという有名な話がある。
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2015年10月06日

下北沢X物語(2888)〜下代田を渡る自由の風:鉛筆部隊と測機舎村�供�

DCIM0020(一)文化探訪を巡る話はとめどがない。昨日、文化の日に安吾文学碑の前で地図を配ろうと考え代沢小学校に連絡をした。このときに副校長先生からミドリ楽団に所属していた人の情報を得た。夕刻、その萩原さんから電話があり、しゃべっているとまた驚いた。
「あれは、亡くなった父のことです」
「えっ!」
 絶句してしまった。
代沢小に我等は安吾の文学碑を建立した。学校を舞台とした安吾小説『風と光と二十の私と』の一節をこれに刻んだ。この作品の中に「荻原という地主の子供で、この地主は学務委員であった」とある。この子供こそが萩原さんの父だというのである。
「浜舘先生の家は私の家の貸し地で、私は先生の家に木琴を習いに行きました」
「あれ!下代田の家は焼けてしまったんですよね」
「?????」
 しゃべっているうちに分かってきた。萩原さんが言っているのは違う家だった。移転してきた家のことを言っていた。後で調べると下代田の元の家の前からだだ広い道が西に延びている。その端に浜舘先生の家はあった。この道こそは因縁深い道だった。下代田を突き抜けるこれの歴史がたまたま問うた人が詳しく知っていた。どういう話か、これは後ほど話すこととしよう。「小さな村の物語 下代田村」バージョンの語り口としてもこれは使える。

 旧測機舎の所在地を確認した後、私と米澤さんは下代田の鹿子木さんの焼けた家の跡を探しに行った。淡島通りから曰く付きの広い道路は始まっていた。まず最初の交差部の東角が鹿子木さんの家であると聞いていた。
「ここか?」
 調べていると向かいから女の人が出てきた。何と邪宗門によく来ている梶さんだった。
「ここが鹿子木さんの家ですか」
「いえ、そこは大前大佐の家だったと聞いています」
「あれ?、お宅の西隣の二軒目が浜舘菊雄先生の家ではなかったですか?」
「それは知りませんね」
 梶さんは若い、昔のことは分からない。
「これはもう下代田の稗田阿礼に聞くしかないな」
 鉛筆部隊の松本明美さんはすぐ近くだ。
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2015年10月05日

下北沢X物語(2887)〜下代田を渡る自由の風:鉛筆部隊と測機舎村〜

DCIM0016(一)歴史の、文化のかけらを資料や人の証言から見つける。それを確かめに現場を歩き回る。地形の凹凸や家々の佇まい、それと住む人の聞き込みから過去を突き止めていく。ときに「げぼ!」と驚くような逸話に出くわすこともある。今回もまた数々のドラマにでくわした。

 昨日の日曜日も歩き回った。興味深いことを知ったからである。先進的な測機会社があって下北沢の丘に村が形成されていたという。村から彼らの子弟は地域の学校、代沢小に通った。区域には自由清新の気風があふれている。測機舎村の知性の影響を受けていたことも一因だった。

 つい数日前、代沢の西の方にある学校、山崎小に通っていた長谷川直樹さんからメールをもらった。彼は、つい最近蘇った代沢小の疎開学寮歌、「真正寺学寮歌」をユーチューブで観たという。

過日、下北沢X物語を読みながらスクロールしていて、「真正寺学寮歌」のコンサ−トをの模様を観ることができました。再疎開した代沢国民学校の児童らが、毎日あのようなさわやかで明るい歌を歌っていたとは、おなじ体験者として信じられない思いでパソコンの画面を見つめていました。

 山崎も4か所の寺などに分散して再疎開をしました。みんなで毎朝歌ったのは、宮城遥拝後に皇后陛下が疎開学童に賜った御歌「つぎの世は せおふべき身ぞ たくましく ただしくのびよ さとにうつりて」のみでした。後は、「勝ち抜く僕等少国民 天皇陛下の御為に・・・」などと、村の学校へ通う途中で軍歌ばかり歌っていました。代沢小との落差は何だったのか、録画を観て改めて考えさせられました。。


 代沢小は、再疎開して寺に分宿する。中でも先鋭的な教師、国語の柳内達雄、音楽の浜舘菊雄は学童たちを率先して指導した。前者は郷福寺の鉛筆部隊であり、後者は真正寺の楽器部隊である。

 この二つの寺の学寮歌は、極めて都会的だ。戦時中でもあるのに明るくてのびやかである。長谷川さんが信じられないほどの歌をうたっていたのだ。ましてやこれを聞いた地元の学童たちがどれだけのカルチャーショックを受けたかは容易に想像できる。

 この国語教師、音楽教師、ともに下代田に住んでいた。ゆえに地区の学童を引率している。多くの学童は、測機舎企業城下町の気風をを受け継いでいる。その典型例は、鉛筆部隊の鹿子木幹雄さんだ。
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2015年10月03日

下北沢X物語(2886)〜驚き!千人針一式の発見�供�

P1050579 人々の記憶から千人針は消えていこうとしている。千人の想いを針に託してチョッキや腹帯に糸を縫い付ける。何億万という糸玉が編まれたろう。戦争が終わってこの風習はなくなった。それでも千人針は今の世にも残っている。当時の風習を証拠立てる品として次代に伝えたい。

(一)
 邪宗門に届けられた千人針のルーツをたどった。
 まず関係者である喜多ひろみさんは電話が通じない。彼女の友だちの電話番号がわかった。佐藤りょう子さんだ。これに掛けると繋がった。
「戻ってきた千人針には物語があるのですよ」
 彼女はそう言った。
「なるほどその反対もあるのですね」
 戻ってこなかったものもある。ジャングルで朽ち果てていたり、玉砕した島の洞穴でぼろぼろになっていたりしたり、彼らにとっては千人針は効き目がなかった。死んでしまうと物語はそこで終わりになる。ところが生還兵が身につけていた千人針は残っていれば日の目をみる。

 生還兵は自分を守ってくれた千人針を捨てはしなかった。大事なものとしてナフタリンを入れて箪笥にしまわせていた。持ち主の喜多武雄さんはそうしていた。この千人針にはどんな物語があるのだろう。例えば、朱印である。数をかぞえると三十ほどある。恐らくは喜多さんの母親が巡礼を兼ねて行ったのではないか。豊国神社、北野神社、牧丘神社などがある、関西の方の神社のものが多い。

「喜多さんは、下北沢を引き払ってもうあそこにはいないのですよ」
「それで電話が通じなかったのですね」
「あの千人針は、私が喜多さんから預かって持っていったのですよ」
「いつ頃ですか。去年の戦争経験を聴く会が終わってのころです」
「ご本人はどうされたのですか。」
「下北沢を引き払って今は狛江の方のマンションで暮らしています」
「あれは、喜多さんのご主人のものですか。」
「いえいえ、だって喜多さんは六十幾つだから、お父さんのものですよ、そのお父さんも亡くなられていますよ」
「そうだったんですか」
「細かなことは、喜多さん本人に聴いてみてください。きっと喜びますよ」
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2015年10月02日

下北沢X物語(2885)〜驚き!千人針一式の発見〜

P1050589 印象深い証言だった。「技術力では敵に劣る、しかし、気力では絶対に負けないと思っていた」と元学徒動員兵は戦時の空気を語った。今を生きる我々には理解できない風が吹いていた。戦時に盛んに行われた千人針もこの一つの気ではなかったか。単に人数を集めるだけではない。一針入魂、気を籠めて縫ってあげれば気力が勝ってその兵は死ぬことがない。そんな思いで戦時の女達は千人針に誰もが応じた。ものは試しだ、その千人針のチョッキを着てみた、すると背中がぞくぞくとしてきて思わず拳に力が入った。千人の女性の糸玉が体に感じられた、思ったことは、勝ち気という時代の空気に人々が染められていたのでは?

(一)「えっ、それって私に託されていたんですか!」
 心底驚いてしまった。一昨日、事務局の邪宗門に会報を届けに行った。
「そうなんですよ、きむら先生に渡してと頼まれていたものなんです、もうだいぶ前のことになりますね」
 マスターの作道明さんの話だ。
 千人針が届いていることは知ってはいた、が、それが自分に託されたものであることを知らなかった。
………
 どのようにして千人針へと誘ったのだろうか。
「そんな、千人針をよろしくなんてことはいいません」
 マスターの奧さん、貴久枝さんがいう。
「そうです、そうです、あれはどこでも見かけられた風景でしたね」
 これは鹿子木光子さん、昭和4年生まれだという。
「例えば、どんなところですか?」と私。
「三軒茶屋ですね、田中屋の前、人通りが多いところでやっていました。十人ぐらいの人が立っているんです」
「あれは国防婦人会とかいうたすきを掛けていました」と光子さん。
「割烹着を着ていましたね、大概は出征した息子のお母さんです、もちろん奧さんというのもいましたね…黙って立っているとみんなにはわかるんですよ。その人のところに寄っていってね、針を借りて糸玉を縫うのです。やってあげるのが当然だと思っていました。だから私は幾つ縫ったか分からないほどにやってあげました」

「寅年の人に行き当たるといいのですよ」
「どうして?」と私。
「寅は千里を行く、寅年生まれの人は年の数だけ縫えるのですから」
「じゃあ、それは聞くわけですか、『あなたは寅年生まれですか?』って?」
「そんなことは聞きませんよ、縫ってあげる人が自分で、寅というのです」
「合い言葉は寅ですか?」

 「私寅なのよ」、「ああ、助かります」、針の捗(はか)がいくし、強運も得られる、一石二鳥だ。やる方も、やってあげる方も必死だった。ああ、千人針よだ。
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