2015年11月

2015年11月30日

下北沢X物語(2925)〜世田谷江戸道を検証する〜

P1050726(一)旧吉良領を縦断する江戸道はこれも歴史の闇に埋もれつつある。滅びゆくものを見とどける。それにはフィールドワークが欠かせない。この道については大きな疑問があった。江戸道は、駒沢公園通りとほぼ重なっている。ところが一区間だけ、我が道をゆくかのごとく公園通りと大きくそれている。深沢の等々力不動から弦巻通りと交差する向天神橋までである。何かの理由があってのことに違いない。それを歩いて検証してみることにした。

 しかし、ものは見方である。江戸道は現行道路と重複していない。だからこの区間が昔通りに残っている、保存されているとも言える。緑の多い深沢の秋山の森辺りを行く道は今もかつての面影を残している。戦国時代の武士達が甲冑を身につけて通っていった姿が偲ばれた。
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 昨日、弦巻向天神橋からの江戸道区間を歩いた。ここから道は公園通りから大きくそれて西南へ向かう。だらだら坂になっている。やがていくと右手にイーストレジデンスという大きなマンションが見えてくる。ここは学校の跡地に建った。「駒沢高女」、駒沢高等女学校である。江戸道に面して建っていた。袴を穿いた女学生がここの坂を行き来したのだと思った。

 このレジデンスの西隣は駒給、駒沢給水塔である。渋谷へ水を流すために台地の最高所に作った。その東に道はある。それで「なるほど」と思った。道はこの坂を上っていくためにあると理解できる。地形ポイントだ。

 駒給を右に見て行く。道は南西から南へと向かう。ゆるゆると上る。左手には水路が食い込んできている。蛇崩川の駒沢支流である。この左岸の縁を通ってやがて旧大山道にぶつかる。ここは背尾根で品川用水が流れていた。江戸道はここがサミットとなる。ここで合点がいったことだ、向天神からの上り坂は、左手に迫ってくる蛇崩川支流を巻いていたためだと。

 向天神からの駒沢公園通りは直進する。背尾根を上って、今度は急激に下って、また上る。それは蛇崩川の支流が削った地形をそのまま縦断しているからだ。旧道と新道の大きな違いである。

 江戸道は道行く人の労苦を軽減させるために川の最上流部にきて、凹みを巻いて作ってあった。ここから想像できることは、重量のある車馬やあるいは重い甲冑をつけた武士たちが行き交っていたことだ。まさにこれこそが古代中世の道ではないか。

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2015年11月29日

下北沢X物語(2924)〜江戸道吉良道蒔田道〜

P1050725(一) 桜新町には名の知られた魚屋がある。二十七日はここの特売日だ。早くから行列ができ、開店の十一時半になると一気に客が店になだれこむ。お目当てはマグロだ、売り場は大混乱、マグロの争奪戦は凄まじい、「押すな」、「踏むな」と怒号が行き交う。一旦潮が引いて売り場には赤身の山、好き嫌いはあろう。が、赤身ほどうまいものはない。ちょっと遅れていってじっくりとこれを選び買うというのもいい。

 この神田屋は建物の西の路傍には発砲スチロールのトロ箱が積み重ねてある。実はここそは江戸道である。世田谷吉良氏所領を南北に貫く古代道である。

 この古道は自身の散歩領域にあってよく知っている。江戸道という。が、南に向かう道がなぜ江戸道なのかは分からなかった。折々にここを横切ったり、あるいは通ったりしていたが、どこからどこへ繋がっているのか知らなかった。

 ところがついこの間、会の街歩きに世田谷の三つの城を巡るツアーを組んだ。奥沢城、深沢城、世田谷城を巡る旅である。これらを結ぶのは道である。南北縦断道だ。

 実際に歩いたり、調べたりして分かってきたのが江戸道だ。そして、一つの論考に行き着いた。これによって難なく、江戸道の道筋が解けた。谷山敦子氏論考である。「江戸道は、矢倉沢往還と多摩川の野毛の渡しとを結ぶ」だ。(「Collegio」2014 NO56「せたがや中世拾い歩き�А,修靴瞳�野神社は残った…熊野先達満願寺と檀那吉良氏」)
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 あのか細い道が、戦国時代の重要道だったと知って驚いた。この道も部分的には寸断されたり、分断されたりはしている。が、おおよそは残っている。

 江戸道は各所にある、地域主要道、脇往還もこの名をつけていた。世田谷江戸道もその一つだが、世田谷吉良家には格別重要な道だった。吉良氏は世田谷にその居館を持ち、また、川向こうの蒔田にも居館を持っていた。それぞれ世田谷御所、蒔田御所と称していた。

 当然ここには人の行き来、物資の搬出搬入があったはずだ。駕籠、車馬、歩行の人も多く行き交ったに相違ない。辻辻には地蔵尊も祀られていて、人々はここで祈りもした。

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2015年11月27日

下北沢X物語(2923)〜世田谷の城郭を巡る小さな旅�掘�

P1050705(一)奥沢城、深沢城、世田谷城をめぐる旅は道の旅だ。南北縦断線である。海から内陸へと向かう道だ。現今、交通路としては発達していない。ところが今、これに沿って走るバス路線ができた。等々力操車場発、梅丘行きという実験運行のバスである。いかんせん運行本数が一日八便、土日は運休だ。「等13系統」に乗って戦国時代の旅しようと奨められない。かつては重要ルートであった。江戸道である。

 私の居住区は目黒区八雲、隣が世田谷区深沢や駒沢だ。常日頃一帯はよく歩いている。この江戸道については断片的に分かっていた。が、今回の旅でこの江戸道こそは戦国時代の重要な道だと知った。

 深沢小学校脇の小便地蔵は五叉路にある。よく通る道だがこれが南に向かう。どのように江戸に向かうのだろうか不思議に思っていた。しかし、今回、谷山敦子氏の論考を得て年来の疑問が氷解した。「Collegio」2014 NO56「せたがや中世拾い歩き�А,修靴瞳�野神社は残った…熊野先達満願寺と檀那吉良氏」である。これには「江戸道は、矢倉沢往還と多摩川の野毛の渡しとを結ぶ」とあった。江戸道は南に下って江戸に向かうのではなく、北に向かって大山道ぶつかり、江戸に向かうのだと初めて知ったことだ。

 しかし、この江戸道は今はすっかり廃れている。深沢小前の道を北上し、246号にぶつかり魚屋神田屋の脇をとおり、さらには駒沢給水塔裏の道を通り向天神へと向かう。この右手に長徳寺があった。

 この江戸道、吉良氏本拠地世田谷城へ向かう道だった。内陸部にある本城は海へ出る路が重要だった。その一つが江戸道であり、品川道でもあったろう。
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 我々は、奥沢城から西に向かい、吉良氏所縁の満願寺へ行った。当地を「宿」と言った「宿の地名は中世における駅家の名残と伝承されており、熊野神社と満願寺は交通の要衝に置かれたことになる」と谷山論文はいう。が、この満願寺は「天文十八年(1549)に吉良頼康によって当地に移転させられ、もとは一キロあまり北方の深沢にあったとされる。」とある。このことと関連するのか分からないが、この寺の脇を通っていて不思議に思うのは凹み水路の上に作られていることだった。東隣の玉川神社は台地突端の高台にどんと鎮座する。が、この寺はこの西の斜面と水路が活用されている。仕方なくここに築いたのか?

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2015年11月26日

下北沢X物語(2922)〜会報第113号「北沢川文化遺産保存の会」〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第113号 
               2015年12月1日発行(毎月1回発行)
   東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
               会長 長井 邦雄(信濃屋)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
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1、池ノ上の私立海外植民学校               
                                      会員  きむらたかし
 
 大正7年、ただ畑と林が広がるばかりだった池ノ上の高台、今の池之上小学校の南隣、青少年会館の所に、小さいがハイカラな2階建ての建物が建った。海外植民学校。設立したのは、高知から北海道に開拓民として移住し、その後仙台を経て上京後、青山学院で神学を学んだ、崎山比佐衛〔ひさえ〕という人物である。
 崎山は、青山学院在学中、牛乳の販売で生活費と学資を稼ぐ自らと同じ境遇の「苦学生」と呼ばれていた学生を会員とし、牧場で乳牛を飼い、その牛乳を殺菌・瓶詰めして、会員が配達する「青山学生労働会」を設立。「牛乳屋のおやじ」を自認していたが、大正初期の不況下での会員の就職難の打開の活路を海外移住に見いだそうと、大正3年から丸々2年間南北アメリカ大陸を視察した。
当時海外に渡る日本人の多くは「出稼ぎ」意識を脱却できず、条件のよい仕事先を渡り歩くだけの者も多かった。崎山は、その意識改革に加えて、移民先の労働現場での指導・監督者である「ボッス」の良否が移民たちのその後の境遇を大きく左右することから、「良きボッス」を養成する必要性を痛感し、帰国後、澁澤榮一、後藤新平、大隈重信といった当時の錚々たる政財界の指導者の支援を得て、いわば「『移民の中の士官』学校」を設立したのである。
しかし、この学校、開校後は苦難の道を歩むことになる。開校までの第一次大戦による好況から、開校に前後して、一転して世界的な大不況となったため予定通りの資金が集まず、それが遠因の一つとなった大正10・11年の学生のストを契機に、多くの後援者を失ったうえ、今のNHKの社宅の場所にあった学校の原点ともいえる牧場も人手にわたるなど大幅な規模の縮小に迫られた。
この学校は、もともと、他の学校と違って、授業料の収入よりも、有志からの寄附金や、青山学生労働会の後身の「学生労働会」(後には「植民義塾」)による牛乳販売の収益(後には、国からの補助金が加わった)に依存する経営態勢だったことが、おそらく男女あわせて1000人近い卒業生をブラジルなど諸外国に送り出しながらも、最後の最後まで崎山も自認していた「貧乏学校」から脱却できなかった要因であった。
海外植民学校は、各界の名士が自動車を連ねて参集した華々しい開校から23年経った昭和16年ころひっそりと閉校したが、その校舎は関東給電、戦後は東京電力の研修施設として昭和30年代半ばまで残っていた。
        (北沢川文化遺産保存の会、第一回研究大会発表要旨)
〇「海外植民学校史研究会」からのお知らせ
 私学として平和的な海外移住を勧めていた同校は2018年4月に100周年を迎へます。
時代は移り、世田谷の斎藤秀雄氏、木村孝氏、高知の��山ひろみ氏らによる海外植民学校史研究会は2014年から『海外植民学校と比佐衛』を刊行。いま第5号の編集中。同校関連の情報を募っています。事務局はisaomats@yahoo.co.jp T・F0493-65-5656 松原です。
 
2、四谷・市谷散歩                                                 会員     松山信洋  

 10月17日に「四谷・市谷散歩」を実施した。これを企画するに際しては番町にある内田百�里竜豕錣鮹桔�するのが第一の目標でした。百�里箸い┐个修慮諺枦�な作品は文学史上で独自の地位を占めています。またすぐ近くには怪異文学の大家泉鏡花の旧居もあります。さらに四谷の谷を挟んで新宿側には「真景累ヶ淵」「牡丹燈籠」など怪談話で有名な円朝が明治二十年代に住んでいました。もちろん四谷左門町はご存じ四谷怪談の舞台です。ではなぜこうした怪談にまつわる話が四谷周辺に多いのか。それは地形にあると思うのです。内藤新宿の繁華街の近くでありながら四谷といわれるような入り組んだ、複雑な地形が様々な幻想を育んだのではないか。その谷のひとつ迎賓館わきの鮫河橋坂下の辺りは昔、大貧民窟もありました。そこで新宿から四谷の谷を探訪して、番町・市ヶ谷の文士町にいたる、といったコースが頭に浮かびました。そこで四谷についていろいろ調べてみると、高台には江戸城の整備に伴って御門内からこの地に疎開してきた寺が密集していること、そうした寺々には江戸から明治にかけてのさまざまな歴史が眠っていることがわかってきました。こうして今回の文学散歩のコースが決定し、周辺の血腥い歴史も含めて、テーマを〈幽霊〉としました。
 当日は四谷三丁目の地下鉄出口で集合し、まず四谷怪談の「お岩稲荷」に向かいました。そこから須賀神社、堺利彦が売文社を旗揚げした勝興寺。ここに大逆事件で処刑された遺体が一時、引き取られたそうです。また寺の墓地には安政の大獄に連座した吉田松陰、橋本佐内などを処刑した首斬り浅右衛門の墓があります(参考・綱淵謙錠『斬』)。それから「最後の剣客」といわれた榊原健吉(参考・津本陽『明治兜割り』)の眠る西応寺、長谷川平蔵(参考・池波正太郎『鬼平犯科帳』)の戒行寺などを見学しました。さてここから暗闇坂を下っていよいよ谷底に下り、若葉公園をへて南元公園(旧鮫河橋貧民窟跡)にやってきました。このスラムに入りこんで貧民の生活改善や子弟の教育に尽力した、日本福祉史に名高い若葉保育園も見学しました。ここで一休み。……休んだ後は、ここ谷底から一転して東側、学習院初等部の建つ高台に進みます。都内唯一の本格トンネル赤坂御所トンネル、四谷の2・26事件の地、斎藤実私邸跡、迎賓館を通って紀伊国坂(ラフカディオ・ハーンの『怪談』)、喰違い見附にやってきました。ここは深い堀に囲まれ鬱蒼とした樹木に覆われて昼なお暗い場所です。ここで明治七年岩倉具視が襲われる事件がありました。彼は真田濠に飛び込んで九死に一生を得ましたが、見附の反対側に下る紀尾井坂では明治十一年大久保利通が暗殺される、といった血腥い歴史に彩られた場所です。
 喰違え見附を過ぎると、上智大学わきの土手を歩き四谷駅に向かい、そこからいよいよ「番町文人通り」に入ります。島崎藤村、藤田嗣治、有島武郎(生馬、里見��)、泉鏡花の各旧居をめぐり最後に内田百�里竜豕錣砲い燭蠅泙靴拭�
 今回の散歩では、散歩のテーマを設定してみたこと、さらに私なりに文学作品との接点で(内田百�痢屮船乾ぅ優襯錺ぅ璽鵝廖∪�鏡花「黒髪」等)それぞれの地を味わうというのが当初の目的でした。はたしてそれがうまくいったかどうか、参加された皆さんのご意見、ご批判に待ちたいところです。           

3、北沢川文化遺産保存の会忘年会
 
  会員が集まるこの会は総会でもある。会発足11年目、紀要や会報など会員の署名記事が載ることが多くなった。使う使わないは当人の自由だが推薦によって「研究員」という呼び名をその人に与えるという案を出してみようと思う。議案として検討したい。
 先般、夏は素晴らしい歌声に酔ってしまった。ロス・コンパニェロスの四人である。今回また彼らは来てくださるとのこと。大いに楽しみたい。また大・中のベテランの手品師によるこれのお披露目、そして、今年幾つかの歌が発掘されたり、作曲されたりもした。真正寺学寮歌やダイダラボッチ音頭である。これらも聞きたいものである。会員には隠れた歌手や演奏者がいるので飛び入りでお披露目があるかもしれない、期待しよう。
 この私たちの会も、次第に参加者が多くなってきている。喜ばしいことだが問題点が出てきた。一言でいえばごみが増えたということだ。文化人の文化的な集まりだ。できるだけ解決していきたい。�,覆襪戮�ごみは持ち帰るようにしたい。�△い弔發琉貮併�参は継続するが、余ったら持ち帰るぐらいの気持ち。皆さんご協力を。
 弁当や飲み物調達先の信濃屋にも協力してもらい、ごみを引き取ってもらうなどのことを相談している。一つの難点であるが、それでもやはり心持ちよくこの会を楽しみたい。
  日時 12月5日(土)5:30分より〜10時ぐらい
場所 北沢タウンホール 12階 スカイサロン
  会費 3500円 信濃屋の豪華弁当・飲み物つき
   一品持参のこと、それを面白おかしく会で紹介する。
   オークション品もあれば、オークションに掛けて会に寄付する。
  申し込み締め切り:弁当の注文があるので11月30日(月)までに
  米澤邦頼さんに 090−3501−7278 連絡のこと。
 

5.都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・特番行事 12月12日(土)午後1時 小田急線千歳船橋駅改札前
 千歳船橋高射砲陣地跡とB29墜落跡の調査
 参加した人が情報を出し合って調査し踏査する。会費はなし。
コース:千歳船橋駅→�盒興顛�さん宅→千歳高射砲陣地跡→赤堤町1丁目382番地(墜落現場)→経堂町三の二二六七(経堂国民学校近く)胴体墜落現場→経堂駅
・第112回 12月19日(土)午後1時 小田急線東北沢駅改札前集合
  萩原朔太郎地形研究    案内人 きむらけん
  朔太郎は東北沢、下北沢、代田に住んだ。東北沢はどこなのか分からない。が、一つの手掛かりはこのときに「山の湯」と思われる銭湯に朔太郎と葉子とが行っている。森巌寺川左岸から下北沢新屋敷の路地。そして最後の転居先の世田谷代田へたどることによって。街並みと詩人の関係を想像しながら探訪していく新しい視点での街歩きだ。


・第113回 1月16日(土) 午後1時 世田谷線若林駅集合
〇注記: 世田谷線若林駅集合=東急世田谷線若林駅集合(当日は沿線でボロ市開催の為、混雑・遅延必至!)
 三茶探検大探検!(三茶の街の文化をみんなで探そう)
 まず基本は、海野十三旧居、北原白秋旧居、山田風太郎旧居を訪ねる。その後は、参加者の発案によって三茶の街を探検する。なんでもござれ、奇妙な三角地帯、古びた商店街など、参加した人が案内をする。来たれ!三茶チャカチャカ、三茶大探検。
・第114回 2月20日(土)午後1時 京王線仙川駅改札前
 仙川の文化を尋ねる  案内人 和田文雄さん
 仙川駅→京王線旧線跡→滝坂→高射砲陣地跡付近→武者小路実篤公園→国分寺崖線の森→寺町→仙川駅
・第115回 3月19日(土)午後1時 京王線千歳烏山駅脇区民センターロビー
  品川用水の痕跡を歩く 案内人 渡部一二さん(農学博士)
  北沢川文化遺産保存の会・品川用水復活研究会共催
 ロビーにて用水の説明→粕谷村の築堤→堀り通りと「洗い場」→塚戸十字路→ひえがら橋と急坂→小田急線千歳船橋駅
  
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも500円
 参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498

■ 編集後記
▲北沢川文化遺産保存の会紀要4号「戦後70周年記念戦争記録集」2015.8.15発行。寄贈先、国立国会図書館、世田谷区立図書館、高岡市立図書館、調布市立図書館、市立松本博物館、長野県立歴史館、宮崎県宮崎神宮、高槻市本澄寺、三好達治記念館、高岡市明円寺、世田谷区立駒沢中学校・駒沢小学校、駒沢大学など。公的機関で所蔵を希望される場合には寄贈したい。一般にはワンコインの寄付を願って分けている。事務局の世田谷邪宗門で、遠方の場合は当方へメールを。
▲このところ、冒頭部分は研究要旨を載せたり、寄稿を入れたりして紙面が、自分以外の人が書くことで充実してきた。これへの寄稿もぜひお願いしたい。
▲インターネット上に「北沢川文化遺産保存の会の掲示版」を設置しました。http://kimuraken.bbs.fc2.com/です。気軽に情報を書き込んでください。すでに稼働し始めました。ちょっとした情報、気づきなど、どうぞ。
▲年末になりました。年会費1200円をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。あるいは歩く会に参加したときに連絡係の米澤邦頼さんに払うこともできます。
▲当、メール会報に会友をいれていますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへaoisigunal@hotmail.com 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(写真は、千歳高射砲陣地の踏査に赴いたときに、地元の�盒興顛�さん宅で見せてもらったもの。玉川警察署の警防団に入っていてそのときに支給されたとのこと)






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2015年11月24日

下北沢X物語(2921)〜世田谷の城郭を巡る小さな旅�供�

P1050708(一)戦国時代風景をゆく想像の旅だ。その痕跡はあらかた消えている。が、わずかだが目を凝らしていくと見えてくるものはある。「地形を巡る旅」だと案内者は言う、上り下りの高低差にヒントが潜む。丘を登り、そして下る。重要箇所は丘の背だ。ここからは全体が見通せる、すべての城塞はヒルトップに位置する。奥沢城もそうだ。「城は北へ向かって張り出す舌状台地上に位置し、北側は天然の堀である九品仏川が流れており、周囲は『奥沢の底無し田』と称された」と木村康伸さんは説明をした。泥濘が敵を防ぐ役割をしていた。そしてもう一つ、往時の風景そのままがここには残っている。それは土塁である。

 戦国時代の城は天然の要害を活用している。深沢城は南の国分寺崖線から別れてきた舌状台地の先端にある。回りは底無し沼だ。これが東の自由が丘まで続く。今はおしゃれな町だが、ずぶずぶを利用して馬捨て場として活用されてもいた。

 もう一つ思い起こされるのは九品仏池である。現在のねこじゃらし公園あたりにあったものだが埋め立てられた。昭和31年に渋谷の東急文化会館開業する。当時としては高層ビルの走りだ。地下を掘り下げている。このときの残土によって埋め立てられた。

 この奥沢城についての要点を木村康伸さんは次のように提示した。

 ・ 九品仏川沿いの舌状台地上にある要害
 ・ 城主は吉良氏の重臣・大平氏
 ・ 蒔田領の中継基地


 世田谷の現在の交通体系は東の都心との鉄道や道路による横断連絡が中心だ。が、かつては南北連絡がメインであった。川向こうには支配地域の蒔田領があった。人の往来、物資の行き来はこれによった。中間点にある奥沢城は最重要拠点だった。この交流を先の谷山敦子氏は、奥沢城主大平清九郎のことを述べながら、「対岸の吉良家菩提寺の泉沢寺を訪れるときや、軍事の才を見込まれ、後北条氏家臣となって玉縄城や興国寺城へおもむくとき」と述べる。吉良氏にとって南北交通がいかに大事だったかが分かる。深沢城は南に位置する要害だった。

 特に大事だったのは国分寺崖線の寮の坂を下った先にある籠谷戸である。多摩川の入江、港である。城主はここから武器や兵糧を奥沢城に運んだと。
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2015年11月23日

下北沢X物語(2920)〜世田谷の城郭を巡る小さな旅〜

P1050702(一) 我等、常日頃は近代の埋もれた文化を探る旅をしている。が、今回は戦国時代に遡っての旅、世田谷の三つの城を巡る歩きだ。日ごろの近代的風景観は捨て古代を想像しながらゆく。たったワンコインでの豪華イマジネーションの旅行だ。そして何といっても大事なことは、ここに歩行(かち)・価値があることだ。自分の足で自分を運ぶことは大切だ。我等の会の街歩き、今回で111回目、11月21日に実施した。
 
 旅のツアーコンダクターは木村康伸さん、彼は自作フリップを折々出しては要領よくポイントを説明する。世田谷吉良氏がキーワードとなるが、これをめぐっては次の三点が提示された。

・ 三河国吉良庄を出自とする足利氏一門
・ 儀礼領主として一目置かれる存在
・ 世田谷を中心に武蔵国内の要衝を支配


 この吉良氏の戦国時代風景をゆく旅だと前置きがなされた。実際に歩いてみてこの風景がかいま見られたのは三つだ。

・奥沢城跡九品仏浄真寺に現存する土塁
・玉川警察署脇の古道十字路の佇まい(江戸道と目黒道・相州道)
・世田谷中町の背尾根道

P1050700
 今回、偶然に戦国時代の原風景をかいま見て感動したことだ。深沢城を巡った後、北へ向かう背尾根道を歩いていたときに突然西方の景色が開けきた。夕も近かったゆえに山々のシルエットがよく見えた。それは丹沢山系であり、富士の嶺である。

 場所は世田谷中町五丁目だ。ここには旧電電公社の団地があった。これが一切合切壊されて更地になっていた。建物がなくなって西の空が広々としていた。ここに東急不動産が高齢者向け住宅を作るとのこと。
「一万坪はあるわね」
 参加した会員の一人は建築に詳しい。予定地に建てられた看板の数字をみてたちどころに答えを出した。広大な敷地であったことは知っているが改めて驚いた。

 この背尾根道は深沢城跡と同じ高さにある。彼ら戦国武将が眺めていた景色に違いない。

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2015年11月21日

下北沢X物語(2919)〜空から降ってきた黒船、B29赤堤〜

P1050690(一)「空に大きな船が浮かんでいるみたいで見た瞬間はもう驚きでした。夜なのに探照灯に照らされていて銀色のお腹が赤く光っているのです、地上の火災を映しているんですね」
 昨日、横浜の伊集院さんから電話があった。会の事務局で番号を教えてもらって掛けてきた人だ。昭和二十年当時、代沢小の六年生だったという。父親はレイテで戦死されたと。
 代沢の昔を当方が調べていることを本で知って掛けてきたものだ。

「ある日の帰り際、もうそのときは遅い時間でしたけど、校庭の隅で岩泉先生が何かを燃やしていたのです。いくとなんと竹刀の山なんです。それを燃やしておられたのです。『まあ、そんな大事なものを』というと、『GHQの命令で武器に当たるから燃やせというのでやっている』と言っておられましたね、煙で燻されたのかもしれませんが先生泣いておられるように思いました…」
 彼女は集団疎開にはついて行かなかった。

「千葉県の東金の小学校に縁故疎開したのです。ところが授業はどんどん進んでいて追い付かないのです。当時、軍国主義の学校として名が知られていてスパルタ式の教育をやっていて全国から沢山の視察にきていました。円周率なんかも先のさきまで進んでいました…」
 代沢校も出来る学校として知られていたが彼女は歯が立たなかったという。軍国主義で有名な校長がいたという.。ネットで調べてみた、東金国民学校校長鈴木源輔ではないかと思われる。
スクリーンショット (4)
 家の場所を聞いたところ、何と鉄塔61号のすぐそばだった。すぐ下には萩原朔太郎の家、これは焼けた。お婆さんの家だったようで武満徹も来ていたという。

「鎌倉橋のすぐ右の家は江戸京子さん、ピアニストの家でしたね…」
 彼女は一帯の昔についてはよく覚えていた。
「わたしらで作っている『下北沢文士町文化地図』を送りますからそのときの家の近辺の略図を書いてこちらに送ってください、五月の空襲で焼けたところも書いてあります…」
 当地一帯にB29が飛来してきて焼夷弾を落とした。

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2015年11月20日

下北沢X物語(2918)〜高射砲に憑かれて十年:千歳陣地再訪�掘�

P1050685(一)高射砲第112連隊は東京西部に12陣地が構築されていた。その現在地はすっかり忘れられ歴史の彼方に消え去ったところもある。が、千歳陣地は70年経過した今も人の記憶に残っている。理由は一つ、高射砲で重爆撃機を墜とすことは稀だった。が、ここはこれを撃ち落とした。人々に強烈な印象を残した。
 
(5月24日)真赤になったB29が二つに別れて撃墜されました。ものすごい音を立てて落ちてゐるのもありました。近所の人々は手をたたいて大喜びでした。爆弾の落ちる音らしくものすごい大きな音がしました。
 
松原四丁目在住の井上多美子さんの「一女女学生の日記より」(『東京大空襲・戦災誌』第2巻)に載せられたものだ。滅多に当たらない重爆撃が当たった、多くの人はこれに拍手をした。米側による『本土空襲墜落機調査』では、当該機機体愛称名、Game Cook Charleeは「本機は第四エンジンを高射砲に直撃され、世田谷区赤堤町1丁目382番地に墜落した」とある。四気筒のエンジンは進行左手から四番目となる。右翼のエンジンである。当夜、根津山公園の上からこれを観察していたのが一色次郎である。千歳高射砲によって撃ち落とされたものだろう。詳しく描いている。

 最初火の玉は右翼の付け根で燃えていた。そのまま飛んでいたが、十秒ともたなかった。私の正面で右へ旋回していたが、その間にも火の玉はぐんぐんふくらんだ。一旋回しおわらないうちに、爆撃機の頭と右翼の先端へ同時に火が走り、そして機体は音もなく数千の破片に爆発してしまった。しかし、その中にも特におおきなかたまりが二つあった。ひとつは岩のように重くまっすぐ落ちていった。爆発の瞬間おびただしい火の粉を散らしたが、そっくり粉々になったわけではなく、だいたい二つにちぎれたのだ。もえなかがはじめに平野にまっすぐにおちていった、尻尾をくっつけた胴体である。まだ宙に残ってふわふわしているのは、胴体をもぎ取られた機首である。『東京空襲』一色次郎

 この日、米軍資料でも七機が墜落している。なぜ、これほど当たったか。5月24日、当日の高度が関係していくる。

 爆撃機が非常な低空を飛ぶようになった。このままおりてくるのではないかと思われるほどその姿は大きく見えた。下腹に刻まれた何かの線がよく見える。そしてこの機体も地上の火災を受けて薄赤く光っているのであった。『東京空襲』
 
  高射砲が届く範囲の三千メートルに降りてきたからだろう。低空から叩けば正確に焼夷弾を落とせる。かつまた高射砲陣地の多くは艦載機で襲わせている。また、高射砲隊が地方に移動していったことも知っていたのではないかと思われる。
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2015年11月18日

下北沢X物語(2917)〜高射砲に憑かれて十年:千歳陣地再訪�供�

P1050691〇千歳陣地は十年ぶりの再訪だ。最初、訪れたとき声を掛けた人が千歳丘高校の退職教員だった。彼は学校に高射砲陣地があったといい、学校を訪れろという。それで行ったところ事務の人が図面をくれた。グランドの松の木のあるところに「高射砲陣地跡」とあった。これをすっかり鵜呑みにしていた。最近になってこれが間違いであることに気づいた。 

(一)
 陣地跡を巡ろうとしていたときに土地の古老高橋重信さんに偶然に出会った。彼は往時を詳しく覚えている。かつまた戦時中のヘルメットや防毒マスクが家にあるという。

「空襲が近づくとチィンチィンチィンと鐘が聞こえてきていたね。空襲警報が鳴る前ですよ」
「陣地の方でその鐘を鳴らしたということですね?、ラジオで空襲警報が告げられる前なんですね?」
「そうそうだいぶ早くから鳴らしていたね」
「じゃあ、その音を聞いて、ここら辺一帯の人は敵機がくるのを知ったのですね」
「うん、そうだな、何時間も早かった…」
「それで、よく知られているのはここの千歳陣地の砲がB29一機を落っことしていますよね」
「そうそうそれは5月の24日だったね。命中して墜ちたけど乗り組み員があそこの車庫に降りたんだ。小田急の経堂の車庫に落下傘で降りて来てすぐに憲兵隊に捕まったんだ。これは一人だったな」
 米軍による「本土空襲墜落機調査」によると、このとき乗り組み員十一名のうち四人が落下傘で降下して助かった。戦後本国に帰国している。
 この機が墜落したことはこの一帯では大きな事件だった。大人から子どもまでこの残骸を見学に来ている。匂いガラスを拾ったり、ハサミを持ってきて機体のジュラルミンを切り取ったりもしたようだ。
 B29の爆撃によってさんざん痛め付けられてきた。それで人々は竹槍を携えて捕虜を取り囲みこれで突きささんばかりだったと。これを憲兵が助け出したと聴いている。
「24日に高射砲が撃ち落としたとき見ておられたんですか?」
「いや見てはいないけど、確かバァンという大きな音がしたのは覚えているな。それで高射砲がボンボン鳴って撃っていると、しばらくしてシュッパタン、シュッパタン、シュッパタンという音が聞こえてくるんだ。それで破片がおっこってくるんだよ」
「弾の破片ですね?」
「うん、そうそうこんなぎざぎざになったのが、それがシュッシュッと鋭い音を立てて飛んでくるんだ。あれは怖かったね」
「とんでもないところに飛んで行って人に当たったなんて話はありますね。手足がスパって切れちゃうらしいんですよね」
「うんそうそう、あれは怖いよ。流れ弾みたいなものだから」
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2015年11月17日

下北沢X物語(2916)〜高射砲に憑かれて十年:千歳陣地再訪〜

P1050687(一)一期は夢よ、十年一日、月日はあっという間に過ぎる。ふと気づいたのは十年前(2005年8月)に千歳丘高校を訪ねていた。そのときのことを「笹の下に眠っていた高射砲陣地跡」として記している。高射砲との馴れ初めだ。
 
「グランド片隅の笹原を靴で掘ったところ高射砲の礎石が出てきた!」との記事。卒業生が偶然これを読んで、感激し、「驚きました。ありがとう!」とのメッセージもあった。ところが十年経っての検証から、誤った情報を伝えていたのではないかと思ってきた。それで、これはきちんと調べて記録しておかなくてはと昨日の再訪となったのだ。

 千歳高射砲陣地は、高射砲第112連隊傘下12隊の一隊である。戦後70年、多くの陣地が記憶の彼方に消えた。が、ここだけは今もなお人々の思いに鮮やかに宿っている。今回はそれを改めて確かめるための探訪行ともなった。

 まず、ここへの興味をそそったのはローカルバス路線だ。等々力発、祖師谷大蔵行きである。これが駒沢高射砲陣地のそばを経由して千歳船橋までいく。あの疎ましい渋谷地下駅を通らずにいけるというのも素晴らしい。

 千歳船橋駅から陣地跡までは歩いた。この道行きが大事だ、願望としては古老との出会いだ。しかし、戦後70年、聞き込みも難しくなってきた。それでも機を逃すまいと気を張って歩いた。ところが駅からの道を一本違えてしまった。が、ここに意味がある。「あなたには特攻兵の霊が憑いている」と何度言われたことか。「あなたには高射砲兵の霊が憑いている」と言われてもおかしくない。道順を誤ったのは霊の仕業ではないか?

 路地を迷ったところで、と、一人の男が目に入った。聞き書きを千人もしていれば勘が働く、路地に消えて行く背に物語をしょっている風、ここが勘所、道を逸れて後を追う。生憎門の中に消えた。それでも外からのぞくと声の届く範囲に彼はいる。しめた!。
「あのう、昔のことを一つ聞いていいですか?」
 「昔のこと一つ」がミソ、手練れの聞き込み刑事だ。
「何かな?」と彼は訝しそう、悪徳商法のセールスマンと思ったかも。
「ほら、ここの向こうに高射砲陣地があったでしょう、それを調べているのですよ」
 こう聞くと、彼の頬が緩んだ。
 ついこの間、とある古老に尋ねたところ、お前がくるのを五十年も待っていたという風情で、とうとうと昔を語った。それと同じように彼は語り出した。ずばり陣地の記憶だ。そればかりか、驚いたのは小屋に当時の現物がごろごろ転がっていると。
「すぐ出てくるんですか?」
「どうだか、みせてあげるよ。あはは……」
 初手からもうスリリングな展開だ。

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2015年11月15日

下北沢X物語(2915)〜首都防衛高射砲隊はいづこに�供�

調布1・2MArked95C3-C5-65(一)駒沢、調布、下仙川の各高射砲隊は、高射砲第112連隊に所属していた。「東部高射砲集団」の一翼を担っていた。この「集団の任務は皇居を守護し京浜地区、大田付近の用地を援護すること」にあった。その中で112連隊は、東京西部の防空に当たった。傘下には12隊が一帯に布陣していた。このうちの調布隊の歴史がこう記される。各隊にほとんど共通すると考えてよい。

 昭和18年6月17日私たちの部隊は首都防衛のため、防衛総軍第一師団第二連隊第四中隊(通称一九〇三部隊調布隊)として代々木練兵場において編成に着手し、同月21日に編成を完了しました。
 中隊長以下187名、昼夜に渉る猛訓練のかたわら首都防衛の第一陣として三鷹市大沢の高台に陣地を構築するため作業隊を編成し、代々木より毎日通って作業を進め9月中旬全員が大沢陣地に移動を完了しました。(羽根沢台遺跡 2 羽根沢台遺跡発掘調査報告書 羽根沢台横穴墓群発掘調査報告書 三鷹市埋蔵文化財調査報告第18集 三鷹市遺跡調査会編 1996年刊)


後に部隊呼称は「高射砲第112連隊」と変わるが、発足時は「防空第二連隊」と呼ばれていた。連隊本部は代々木練兵場にあったが、これは現在の岸体育館のある地点だという。調布隊は砲六門である、これを運用する人数が187名だ。これは技術者集団である。この記録をみても分かるとおり、砲の据え付け、設置、そして分解も行う。この調布隊は後に伏木港の防空任務に就くが移設先では隊員がもんけん杭打ちで基礎まで行っている。これは駒沢隊の中隊長内藤悌三さんから聞いている。

 昭和19年7月始め、戦況の緊迫化により首都防衛命令が下り、東京周辺に飛行機3000機・高射砲560門・照空燈250機が集中配備されました。防空の難しさは24時間緊張の連続であって、いつ起こるか分からない予期し得ない状況の変化に即応することでありました。6時起床・洗面・点呼・7時朝食・8時演習作業開始、12時昼食、13時演習作業開始、16時兵器手入れ陣地清掃、17時夕食・入浴・洗濯、20時点呼・21時消灯という時間割は決まっていましたが、夜間の訓練や敵機動部隊の動向によっては終夜待機の場合も多く、全員昼寝という特例も多々ありました。実弾訓練は兵隊の訓練のみではなく高射砲の性能や癖を熟知しておくため必要なもので、使用中の砲や関連機器をソックリ平塚海岸に運び、航空隊の曳航する吹き流しを目標にして実弾射撃を行っておりました。(同上 調布戦友会 本間誠)

 高射砲を分解してトラックに積み、平塚海岸まで運んで、組み立て、そして実弾訓練をする。訓練、訓練、訓練に明け暮れる生活だった。
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2015年11月14日

下北沢X物語(2914)〜首都防衛高射砲隊はいづこに?〜

P1050683(一)首都の防空を担った「東部高射砲集団」は、配置に就いたとたん、「昼夜問わず猛訓練を強行」した。駒沢高射砲隊の中隊長は「ない頭を振り絞っての訓練は恐ろしいほどだった」という。一度敵機が襲来すると、死に物狂いでの反撃、砲身が真っ赤になるほどだった。敵機グラマンに襲われ戦死した隊員もいた。空の守りは昼夜を分かたない、死闘、苦闘の連続だった。ところが、戦争末期の「本土防空作戦」では飛行隊の活躍は詳しく記録されている、が、高射砲隊のは極めて少ない。なぜだろうか?

 これは軍部の戦略と関連する。高射砲は防空である、当時の軍人たちは機先を制すれば必ず勝つと信じていた。「防空の要訣は敵飛行根拠地を覆滅してその禍根を根本的に絶滅することであり、防空戦闘機や高射砲などの消極的防空機関に国費をあてるより、全て攻勢的兵力に使用てそれで防空目的を達成すべき根絶する」と坂口航空中佐は語っている。(論考「日本陸軍の本土防衛に対する考えとその防空作戦の結末」柳澤潤著から)防空に金をかけるよりも攻撃兵器を優先せよとの考えだ。ゆえに防空方面は開発を怠り、敗色濃厚になって急遽高射砲兵を養成した。大陸から呼び寄せられて浜松の高射砲学校で促成教育を受けたのが駒沢高射砲隊の中隊長だった内藤悌三さんだ。

 後手後手に回っての防戦だった。まるで江戸時代の火器で近代兵器に立ち向かっているようだったと彼は語っていた。高射砲隊はいわば日影花だった。戦史では記録されない、体裁だけ整えて記されている。ゆえに全貌は分からないはずだ。

 今、めまぐるしく時代は変化している。その中で多くの歴史が消え去ろうとしている。高射砲隊の歴史もその典型だ。

 我等は聞き書きから分かったことがある。首都防衛高射砲隊、第112高射砲隊の駒沢隊と調布隊が富山県の伏木港防衛に就くために移駐していることだ。期日は昭和20年4月だ。3月10日の東京大空襲以後に高射砲隊の布陣について軍部は見直しをした。これを受けてのことに違いない。

 『戦史叢書』、「本土防衛作戦」では、558Pでは「高射兵力の各地分散」と記されてはいる。が、第112高射砲連隊の伏木進駐は記述がない。が、間違いなくこの隊は、各地に分散配置されているはずだ。先だって下仙川高射砲隊跡を訪ねた。歓談ではこのことが話題になった。
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2015年11月12日

下北沢X物語(2913)〜下仙川高射砲陣地跡をゆく�供�

P1050677(一)雨の中、仙川一帯を歩いたとき「何もないけど面白いですね」と我等の会の米澤さんが感想を述べた。そう観光的なものはない。が、ここには至る所に地形物語が眠っている。当地は国分寺崖線に位置する、上るにしても下るにしても困難があった。甲州街道や滝坂道をゆく荷馬車が難渋した、電車もときに坂を上りきれずに客が推したとも。

「ほら、こんな狭い軌道を通っていたのですね」
「向こうの傾斜を見てごらんなさい、削って緩やかにしたのですね。御稜に向かう天皇をお乗せして急坂をくだるのは恐れ多いというので削ったという話もあるのですね」
「ここの切り通しには細い道が何本も渡されていました。農道ですね、あちらからこちらに行けるように京王と交渉してできたのです」
 案内してくださった小室克介さん、デザイナーであったことから地図を描くのが巧い、地図爺とも言われていた。陣地のイラストも克明に彼は描いている。

 この彼は航空ジャーナリスト協会の理事で、機関誌91号に『我が家は高射砲陣地の中』という記事を書いておられる。当地高射砲陣地について書かれたものはこの記事ぐらいなものだとのことだった。

 その高射砲陣地跡に行ってみた。場所は、国分寺崖線の背尾根である。若葉町には住宅がびっしりと建っている。が、家並みの間や木立の間に西の空が開けている。隙間が下部に食い込んでいるのが特徴だ。
「一号は、この辺り、二号は向こう、三号はあっち、そしてほら家と家の間に見えているのが遺構ですよ」
 民家の庭の裏を見るとコンクリート製の四角い箱が残っている。唯一の遺構だ。弾薬庫として使われたものだそうだ。

 国分寺崖線の背尾根には物語が埋まっている。古代の王はここに墳墓を設えられた。昭和近代の陸軍はここに高射砲陣地を据えた。墓と砲に関係するのは富士だ。前者は霊峰富士を見て安眠したい。後者は爆撃機の目印である富士を見て襲来を監視した。B29の飛来コースは「伊豆半島上空を北上、富士山付近から中央線に沿って東進し、三鷹付近に投弾後、直路鹿島灘方向から洋上に脱出」するといものだ。調布隊や下仙川隊のあたりは爆撃機が投弾する辺りだ。

 小室克介さんは、当地で農業を営んでいたという斎藤一男さんに当時のことを聞いている。

「ここの高射砲が、多摩上空を東進して来るB29の編隊に対空砲火を打ち上げたのは何度もあって、そのすさまじい発射音に、塀のすぐ外で農作業中の斉藤氏は、耳を抑えて畑につっぷした」

  位置、場所からしてB29の飛来コースの真下にあった。駒沢隊の中隊長は、多重式電話で下仙川隊が派手に大砲を撃っていたことを聞いている。国分寺崖線40メートルの背尾根は多く弾を使わせる場であったように実感した。
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2015年11月11日

下北沢X物語(2912)〜下仙川高射砲陣地跡をゆく〜

P1050681 滅び去ったものに哀惜を覚える。とくに戦跡には。任務に就いた兵士たちが死闘し、苦闘した場だ、が、ことが終われば一切が歴史から消え失せる。それがいたわしい、何とかして欠けらでも拾って繋ぎとめたい。そう思って戦跡を歩き回ってきた。今回もそうだ。

(一)
調布市にある「下仙川高射砲陣地」は謎だ、全貌は不明である。かねてからここには深い興味を持っていた。先の八日、雨の日曜日、仙川地図研究所のメンバーの案内で跡を訪れた。やはり現場を歩くことは大事だ、「なるほどこの場所に据え付けた訳だ!」、砲を据え付けるには格好の場所、国分寺崖線の背尾根であった。
 
重爆撃機B29の侵入経路に当たる東京西部には首都防衛高射砲陣地が幾つも構築されている。偶然の僥倖、その一つである駒沢高射砲陣地の中隊長から往時の体験を聞く機会を得た。各陣地間は多重式電話で繋がっていてそれぞれから情報が拡声器で伝わってくる。内藤悌三さんは、調布隊、下仙川隊、久我山隊、代々木隊のことを覚えていた。

 この駒沢隊の調べから、調布隊とこことが昭和20年の4月末に陣地を畳んで裏日本の伏木港の防衛任務に就いていることが分かった。本土決戦を控えての移動だった。が、当地下仙川隊は、どうしたのか?、ここの情報が少ない。ネット検索で引くと、「仙川地図研究所」のホームページが出てくる、「仙川の若葉町に高射砲陣地の弾薬庫のひとつがあります」と紹介されているのみである。

 ここのメンバーに和田文雄さんがいた。我等の会の街歩きに参加されたことから知り合いになり、今回の訪問が実現した。本番は来年2月だ、今回はその下見ということで訪れた。

 集合は京王線仙川駅だった。この少し先が調布である、思いついて私は家を早く出てここに向かった。調布図書館の収蔵図書、『記念碑の語らい』を調べるためである。

 これには副題がついている、「太平洋戦争首都防衛高射砲陣地跡東部一九〇三部隊調布隊記念碑」(楽山会:1994年発行)と。調布高射砲隊は、当地で布陣していたとき、艦載機グラマンF6Fに襲われた。昭和20年2月17日、このとき隊員4名が戦死した。戦後になって戦友が慰霊碑を建立した。その経緯をまとめたのがこれだ。

 戦友会は、調布隊の呼称を「首都防衛高射砲陣地」と呼んでいる。が、往時の記録にこの呼称は使われていない。想像するに戦死者に対するはなむけの言葉として、こう形容したと考えられる。

 一つの高射砲隊の記録をまとめたものは少ない。駒沢隊にせよ、下仙川隊にせよ、首都防衛高射砲陣地の一角だった。調布隊の資料は他隊を調べる上で大事だ。それでこれの閲覧に赴いたのだ。

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2015年11月09日

下北沢X物語(2911)〜「トランペット少年」はいずこに?�検�

P1050684(一) 『トランペット少年』は、音楽物語だ。田舎の小学生が今までにない音響に出会って心が解き放たれる。音楽的に開花するプロセスが描かれる。私が描いている「ミドリ楽団物語」も音楽による解放という点は同じだ。田舎にやってきた都会っ子が奏でる音楽が地元の子に大きなカルチャーショックをもたらす。音楽が子どもを自由世界に導いてい、この過程はスリリングだ。

 『トランペット少年』は、ジャケットに解説を載せている。

新任の音楽教師・上田先生が赴任してきた田舎の学校は雨ざらし、まともな楽器もない貧乏学校だった。子供たちは、村にやってきたサーカスの楽団のまねをして、ちんどん屋まがいの大騒ぎをする始末。そこで上田先生は、トランペットを演奏して、子供たちに聞かせることにした。すると、子供たちはその美しい音色に魅せられ、音楽に興味を持つようになり、熱心に楽器の練習に励むようになった。しかし、たった一人、京太少年だけは仲間になじもうとせず、反抗的な態度をとり続けていた…。地方山村の子供たちが、熱血教師の指導によって音楽に目覚めて成長していく姿を感動的に描いた作品。素朴な師弟の愛情、巧みなユーモアが美しい山野を背景として溢れんばかりの詩情を織り成している。監督は「日本戦歿の手記 きけ、わだつみの声」の関川秀雄。群馬県長ノ原でロケを行い、美しく雄大な風景を背景に上田先生と子供たちの物語が紡がれる。若干の子役の他はすべて現地の子供たちを出演させてリアルな演技を引き出し、予期せぬ劇的効果をあげている。

 この映画、二つの学校の協力によって完成した。群馬県長野原の中央小学校をロケ地として選び、ここを舞台として撮った。エキストラは現地校の学童で間に合わせたと。中央小学校の学童が使われた。

 もう一方の、世田ヶ谷代沢小学校はどこに絡んでくるか。解説文の「若干の子役の他はすべて現地の子供たちを出演」とある。ポイントはここだ、「若干の子役」が代沢小の学童だと思われる。

 映画は中央小学校を舞台としている。折々に自然豊かな学校の風景が映し出される。が、教場だけのシーンも多くある。ここから推理が浮かんでくる。
「もしかして教室だけの場面は、あるいは代沢小学校で撮ったのではないか?」
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2015年11月08日

下北沢X物語(2910)〜「トランペット少年」はいずこに?�掘�

CCI20151107_0000(一)
 映画『トランペット少年』のトランペット吹きの少年は、ミドリ楽団の団員から引き抜かれたと聞いた。映画での名は宗太だ。瀬戸和海が演じている。ところが、彼はこの映画に出てくるだけで、その後の消息は分からない。映画舞台から消えた少年はどういう運命をたどったのだろうか?

 今「ミドリ楽団」の物語を書き進めている。そのことから楽団の歴史を調べている。六日は国立国会図書館に行った。楽団については『毎日小学生新聞』で度々取り上げられたという。楽団の指導者浜舘菊雄先生の娘さんに聞いていた。それでこれをチェックしに行った。

マイクロフイルム化されたものの閲覧をする。まずは昭和22年、23年分の二年間をチェックした。ところが載っていない。断念しようと思ったが、何も見つけられないで帰るのはしゃくだ。24年、25年も見た。一年間の分のフイルム化された新聞をくるくると回して点検していくのは容易ではない。記事は掲載されていることは間違いないのだが…。

 これ以降も見ようと思った。が、記事がなくてもよい。私の物語は昭和23年、彼らがアニーパイル劇場でデビューしたところで終える。これ以後のことは必ずしもなくても構わない。

 落胆して家に帰ったところ、オークションで落札した『トランペット少年』が届いていた。

 制作年は、1955年、昭和三十年だ。東映教育映画部が撮ったものだ。監督は関川秀雄だ。第9回「エジンバラ国際映画祭短編映画賞」を受賞している。ジャケットに載った惹句にはつぎのようにある。

深い感動と溢れる詩情! 
山村の少年たちの胸によみがえる美しい調べ!!

ほのぼのと心を打つ愛情!
限りなく美しい故郷のメロディ!
1本のトランペットが
貧乏学校に巻き起こす
朗らかで涙ぐましい音楽物語!!

 
宗太少年は、どんな人物なのか?、早速に観た。まずタイトルが現れる。普通は、次に出演者の紹介があるが、いきなり、「協力」と出てきた。ここに二つの学校名が記されていた。驚きだ!
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2015年11月06日

下北沢X物語(2909)〜「トランペット少年」はいずこに?�供�

P1050670(一)下代田地区における労働の自由と解放と芸術、このような斬新な視点での論考が書けるのではないかと思う。つい、この間も『日本のワーカーズ・コレクティブの原点』−「測機舎」の足跡を辿って−(平成4年刊 著者 樋口兼次。南斗書房)を関係者から手に入れた。学術書だ。難解だが、その一節を引く。

 創業資金は、結局のところ、自らの労働賃金を受け取らずに組合に留保し、さらに労務出資配当をも留保して金銭出資に移転させることによって調達せざるを得なかったのである。こうした労働の不払労働化による組合資本の調達と集積は、測機舎のごとき組合員の高い理想とねばり強い実践を可能にする団結があってはじめて可能になるものだった。

 この論考は、日本における「労働生産共同組合の先駆的一例」として測機舎を取り上げている。組合員自身が責任を持って運営する会社がこの会社だった。三宿の丘上に建ったこの会社は、先鋭的であった。昭和12年にアンカードシステムを取り入れて作業工程を合理化している。「この時から毎日曜日が休日となり、就業時間も午前八時〜午後四時半に改められた」(『いのちの軌跡』鹿子木直)という。

 こういう革新的な会社を支えていたのが女性活動家だった。彼女は「測機舎という労働団体を中心とした一種の美しい自由平等の村が営まれている」と述べる。三宿工場の社屋から見ると、「測機舎の屋上に登って近く下北沢の丘の辺りを見渡しますと、小暗い杉の木立を背景に、木の香り新しい測機舎村が隠見しております」と。

 彼女の名は、西川松子、旧姓は神川、神川松子である。社会運動家として腕を鳴らした女性活動家である。彼女がいう「下北沢の丘」は下代田地区にあたる。多聞砦の尾根筋にある測機舎からは緩やかな傾斜がどこまでも続いていた。いわゆる武蔵野だ。ここにお洒落な家が散見された。子弟たちは代沢小に通った。鹿子木直の家も、測機舎からすぐの丘上に家を建てていた。この子弟は先鋭的な指導をする柳内達雄の組に、またミドリ楽団にも入った。前者は鉛筆部隊員の鹿子木幹雄である。疎開時代の彼の日記には鋭い批評性がみられる。

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2015年11月05日

下北沢X物語(2908)〜駒沢高射砲隊その後〜

IMG_20150925_0002(一)戦後70年と謳われた今年、戦争への回顧も一段落ついた。が、それでもじわりと情報が遅れて入ってくる。我等の活動が全国各地に密かに伝わり、これが記録として残されたり、また碑に碑文として刻まれたりしている。特攻兵が日本本土を去るに当たって宮崎神宮に多く参拝していたという事実が宮崎神宮の社史に記された。つぎに長野県護国神社に「特攻勇士之像」が建立され、碑文には世田谷の疎開学童と特攻隊のふれあいが歴史事実として刻まれた。もう一つあった。富山県高岡市明円寺に「元伏木港防衛高射砲隊長」と刻まれた鉄平石が寄贈された。戦後70年の節目に戦争犠牲者の鎮魂をとの思いから建碑された。
 
世田谷の駒沢高射砲陣地について次第に明らかになっていった。まず第一報は、幼少の頃、駒沢に住んでいた大槻統さんから寄せられた。これに端を発して現場を訪ねたり、近隣の人の話を聴いたり、資料に当たったりした。順次、これはネットで報告していた。

 そんなときに当方のブログコメントに通報があった。駒沢高射砲陣地の隊長を務めていた内藤悌三さんの甥御さんからだ。叔父は八千穂町に健在で、往時の記憶もしっかりしているとのことだった。それで私はこの三月に悌三さんのもとを訪れ、当時のことを子細を聴き取った。

 意外なことが分かった。昭和20年3月10日、東京大空襲の後、この帝都の護りに就いていた高射砲隊は富山県の伏木港の防衛任務に転進する。内藤さんらは駒沢から砲門を能町に運びここに据え付けた。なぜ、首都東京を捨てここに来たのか。

 駒沢高射砲隊のことについては高岡市図書館に資料の照会していた。そうしたところ、『新湊市史』(近現代。平成四年三月二十五日発行 新湊市史編さん委員会)の複写が送られてきた。これによるとこうあった。

 昭和二十年に入ると太平洋側の港湾のほとんど米海空軍により封鎖され、船舶の航行が不可能となり日本海側有数の軍需工業地域を控える伏木港が、食糧補給港、海軍艦艇の補修港として重要視され、伏木港防衛のための布陣が急がれた。  

 昭和20年五月、駒沢高射砲隊はこの日本海の重要拠点伏木に転進した。消息としてはもう一つ調布隊も行ったことが分かっている。

 調布飛行場の東、国分寺崖線には「首都防衛高射砲陣地跡」の碑がある。これには「東部第一九〇三調布隊」と刻まれている。そして解説には、「戦況の推移により日本海側に残された唯一の食糧補給港である富山県伏木港防衛のため 昭和二十年四月末」転進したとある。

 高射砲隊は、技術者集団である。内藤悌三さんの証言によると一隊は百五十人ほどになるという。駒沢隊、調布隊、全部合わせると三百名ほどになる。これら混成部隊が伏木の防衛任務についていたのか?

 調布の高射砲隊のゆくえについては『市史』ではつぎのように記されている。
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 東部第一九〇三部隊調布隊は、昭和十八年六月十七日、首都防衛隊として東京代々木で編成され、調布陣地で任務につき、アメリカの艦載機大編隊B29と数次にわり交戦し多くの死傷者を出していた。その部隊の第四中隊が新湊町へ派遣され駐屯したのは二十年五月一日である。兵員数は将校四、下士官十八、兵一六五名の計一八七名、その装備は高射砲四門、観測機器及びその付属品などであった。

 結論的に言えることは、駒沢隊は能町に、調布隊は新湊町に布陣していた。

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2015年11月03日

下北沢X物語(2907)〜「トランペット少年」はいずこに?〜

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「トランペット少年は知りませんか?」
「知りませんね」
 かつての浅間楽団のメンバーも知らなかった。それは疎開学童の鳴瀬速夫さんであり、加藤景さんである。前者は千代の湯、後者は玉の湯を疎開学寮としていた。

 代沢小のバンドには歴史がある。戦中、戦後の児童音楽文化史としても貴重だ。このバンドが規範となって全国の器楽演奏は普及したからだ。

 例えば、「代沢小 ミドリ楽団」で検索する。すると国立国会図書館に収蔵されている音源資料が幾つか引っ掛かる。

 カッコ-ワルツ 子供の音楽 ヨナツソン、曲 浜舘菊雄、編曲 東京都代沢 小学校児童 ミドリ楽団 子供の巡邏兵 ドイツ民謡 浜舘菊雄、編曲 東京都代沢 小学校児童ミドリ楽団 日本コロムビア、1951.黒簡易楽器模範合奏

 発売は、1951年だ。昭和三十一年戦後復興が軌道に乗りだしてきたときだ。この時期にミドリ楽団演奏によるレコード音盤が多く発売されている。レコードの種類分けには「簡易楽器模範合奏」とある。浜舘菊雄先生が指導するミドリ楽団の合奏が全国小学生の規範として発売されていた。楽団が先駆的な第一級の位置を占めていた。

 が、戦後に偶然に現れたわけではない、このバンドには歴史がある。この活動を捉えるには時代時代の区分が欠かせない。

 まず、戦前発足時代は器楽倶楽部、次に疎開時代は浅間楽団、そして再疎開先では真正寺楽団である。戦後のは「ミドリ楽団」である。この最後のは本格的だ。楽団として華やかなデビュー飾っている。私は、この「ミドリ楽団」を調べている。

 先般、情報が入った。かつて楽団員だった萩原優治さんからだ。
「『トランペット少年』という映画があるのですよ。ここにトランペット吹きとして出ているのがミドリ楽団の団員でこの映画を撮るために引き抜かれているんですよ。この映画が完成したときに学校で、『エトワール劇場』に観に行きましたよ」
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2015年11月02日

下北沢X物語(2906)〜代田の丘の61号鉄塔とデコイの鷹〜

P1050662(一) 「あの高い鉄塔に登り、感電死するのが私の運命のような気がした。この土地を洋之助と見に来た時、私はまだ小学生だったのに何となく暗い予感のようなものが、私の頭をかすめたのを覚えている。いまはその予感の正体が何であったのか分かったのだ。」
 萩原葉子 『蕁麻の家』(講談社学芸文庫)

 
小説家が書いた物語の記述である。だから「あの高い鉄塔」は、固有的なものとする必要はない。しかし、この作品は自伝小説である、とするならば彼女自身が育った家の側にあった鉄塔だと考えてもよい。するとこれはもう他は考えようがない、高圧鉄塔駒沢線第61号鉄塔である。これは我等が世田谷区地域風景資産として申請し、「代田の丘の61号鉄塔」として認定されたものである。

 この鉄塔は、なぜ地域風景資産になったのか、それは当地に居住した萩原朔太郎、その娘葉子が居住した痕跡を唯一残すものとして選ばれたものである。淀橋台から派生してきた台地の南端にあって、この背尾根には42、2mを示す三角点がある。標高プラス鉄塔の高さがある、「あの高い鉄塔」の背景にはそんな意味がある、印象深いものだ。

「鉄塔61号に鷹が留まっています!」
 ついこの間、仲間から情報が寄せられた。これには写真まで添えられていた。孤高の詩人と鷹、詩的な組み合わせに「さもありなん」と納得したものだ。ところが数時間後に、これがデコイであるとの訂正情報が入ってきた。
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「電力会社が朔太郎鉄塔に敬意を払って、てっぺんに据えたのでは?」
 風景資産への登録に当たっては当事者の同意が必要だ。何度か東京電力に足を運んだことがある。
「あれは昭和初期のものですからいずれは環境調和型鉄塔に建て替えられるでしょう」
「それは残念なことです。その場合は、クリーム色ではなく青い色に塗ってください」
 朔太郎詩『青猫』をイメージしたのだ。この青は、電光のスパークでもある。
 世田谷代田の北側からこの環境調和型の鉄塔へ順次立て替えられていた。が、原発事故との絡みで予算が付けられなくなったのかもしれない、その後、建て替えは進行していない。
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