2016年01月
2016年01月30日
下北沢X物語(2965)〜異文化遭遇「ミドリ楽団」員の驚き供
(一)戦中は日本陸軍、戦後は占領軍への慰問演奏をした、それが児童音楽隊「ミドリ楽団」である。音楽文化史の中でも希有な事例だ。残しておくべき記録だ。「ミドリ楽団」の細かな歴史があればよい。しかし指導者だった浜舘菊雄先生は亡くなられた。日記などが残っていればと思う、が、娘さんの淳子さんはないと言われる。彼女自身楽団の核となるメンバーだった。何度も本人から記憶を聞き出して大筋が見えてきた。
『鉛筆部隊と特攻隊』はノンフィクションとして書いた。が、『ミドリ楽団』の話はこの手法では無理だ、それでタイトルを『ミドリ楽団物語』とした。断片的な事実を下敷きにして物語として書くしか方法はない。想像力だけが頼りである。
私は彼ら「ミドリ楽団」が接した風景を思い浮かべながら書いている。この作業は終盤に差し掛かってきた。何千枚、何万枚という彼らの風景を旅してきたのである。
その一例だ、昭和二十年八月十二日夜、代沢校を出発した疎開学童は下北沢へ向かっていく。五百人近い学童、そしてそれを見送る父母がその倍もいた。千人である。
「下北沢駅は狭いから混雑します。見送りは学校までです…」
この注意を誰が守ろうか?いずれ東京も空襲を受けて壊滅するかもしれない。わが子とはこれで最後になるかもしれない。注意を押し切って親は駅までついていった。ところがこの数は千人ではない。地域全体がこの少国民兵士を見送った。町会、警防団総出であった。単純に考えると二千人である。
こう書いてきて思いだしたことがある。これは調べきれていない。第三荏原、すなわち東大原国民学校も記録では八月十二日出発となっている。とするならこれも合わさって大混雑となる。
東大原の疎開学童に何人も会った。「下北沢駅は大混雑でしょう、笹塚に行ったんじゃないですか?」などと聞いているが。が、この点は不明だ。
この歴史事実は一体どうなんだ、かねてから疑問に思っている。
代沢校の疎開部隊は地域住民が見送る中もみくちゃになって駅まで行った。この日の情景を想像するとつぎつぎに絵が浮かんでくる。この時の行列を見ていたのがプロレタリア歌人渡辺順三だ。下北沢駅南口大地堂主人は歌を詠んだ。
自分が知っているだけについこの話を挿入しそうになる。が、こういう事例を入れていくと500枚あっても足りない、すでに今、第一ホテルでの『騎兵第八軍婦人クラブ』主催の音楽会の場面まできて400枚に達しそうだ。
続きを読む
2016年01月29日
下北沢X物語(2964)〜異文化遭遇「ミドリ楽団」員の驚き機
(一)世田谷代沢小の「鉛筆部隊」は知られざる歴史事実として発掘された。昨年秋、松本市護国神社に特攻勇士の像が建立された。添えられた文言には「東京世田谷の学童達との温かい交流もありました」とある。疎開学童と特攻兵とのふれあいを描いた『鉛筆部隊と特攻隊』によるものだと祝辞で述べられた。『鉛筆部隊』によって、鉛筆で戦った学童がいたことは知られた。が、この陰にもう一つの秘話があぶり出された。『楽器部隊』である、楽器で闘った学童たちである。希有な例だ。前者は戦争史として捉えられる。が、後者は音楽文化史の一事象として記録されるべきだと思うようになった。ところがこの全貌を解明するのは困難だ。
『鉛筆部隊』の場合は証言者・資料は数多くあった。取材対象は全国あまねくあった。舞台の中心は長野県だった。何度も足を運び、九州の福岡や宮崎、近県では茨城や神奈川に行きもした。『ラジオ深夜便』で情報をと呼びかけた。ところが、全国からこれが集まってきて収拾が付かないこともあった。
『楽器部隊』はその反対だ。大筋、あるいは部分は分かっている。どこどこで何を行ったかは分かっている。戦中における日本陸軍への慰問、戦後における米軍への慰問、何時、安曇野の決戦部隊を、埼玉のキャンプドレイクを慰問したのか分からない。
『鉛筆部隊』の場合はノンフィクションにできた。が、『楽器部隊』はこれでは無理である。大筋は分かっていることから物語として書くことはできる。『ミドリ楽団物語』である。材料を集め、それに基づいて場面を想像していく。
副題を「戦火を潜り抜けた児童音楽隊」とした、戦争中にこの楽隊は疎開先に楽器を持ち込んで練習をしていた。十五カ月に亘る苦難を経て彼らは世界デビューする。知られざる歴史秘話だ。続きを読む
2016年01月27日
下北沢X物語(2963)〜千歳高射砲隊はいずこに?供
(一)終戦末期における軍部の重要作戦が私たちの身近にところで起こっていた。これは記録されていない。今や歴史の闇に消えようとしている。たまたまこのブログに寄せられた情報が発掘の端緒となった。どういうことなのか?世田谷成城には高射砲第百十二連隊の本部があった。帝都西部を防衛する高射砲部隊である。昭和二十年敗色濃厚となったときに傘下の部隊は本土決戦に備え首都防衛を断念した。国家存亡を賭けて食糧補給ラインを防衛するために北陸などの要港に移動した。機雷敷設に飛来してくるB29から港を守るためだ。駒沢隊と調布隊は伏木港へ、千歳隊は直江津港へ、下仙川隊は青森港へ派遣された。
駒沢隊と調布隊は伏木港へ実際に移動している。後者は記録している。
昭和二十年五月二日
伏木港援護ノタメ富山県新湊ニ派遣
北作隊長以下百三十五名 砲六門ヲ四門ニ減ラシテ移動
[註]当時唯一ノ食糧源大豆トウキビ等ノ荷揚港トシテ北陸各港ハ重要トナッテ居タ
『記念碑の語らい』 三鷹楽山会 1994発行
移動した理由が明確に述べられる。本土決戦覚悟した軍部の戦略だ。生命線となる大陸からの食糧を確保しないと持久戦は持たない。首都の空の守りは放棄させて日本海側の港の防備を最優先させた。
敵の分析や戦略は日本以上に長けていた。昭和二十年三月沖縄侵攻が始まり南方航路は断たれた。日本に残されたのは中国大陸や朝鮮半島を行き来する航路である。島嶼国日本の弱点はここにあった。食糧供給路を叩けば敵は落ちる。

それで始まったのは、B29による飢餓作戦(Operation Starvation)である。日本海側の港を機雷を多数投下して封鎖する作戦にでた。駒沢隊や調布隊はこれを迎え撃った。しかし、高射砲の能力は低い、原始的な計算法、音速を測って港上空に飛来したと思われる〇〇秒後に大砲をぶちかました。泡を喰らった敵は正確なレーダーがあると判断し、攪乱のためにスズ箔をばらまいたという。が、敵の高度な戦略に対応する技術力を持っていなかった。首都防衛を離れての任務は果たしはしたものの十分な戦果は挙げられなかった。
続きを読む
2016年01月26日
下北沢X物語(2962)〜千歳高射砲隊はいずこに?機
(一)人々の営為の積み重ねこそが歴史だ。あの時にこの時に何があったか。都市の片隅では幾多も哀れな物語が眠っている。昨日、89歳の渡辺トシ子さんと電話で話をした。「駅に行くにも怖くてね、行けなかったの近くの小屋とか雑木林でつぎつぎに首吊りがあってね…」と。駅とは下北沢駅だ。彼女は小田急下北沢2号踏切辺りで起こったことを言っていた。戦後、食い詰めた人々がどうしょうもできずにどんどん自死していた。名も記されなかった人々だ。一方名誉ある戦死として記録されているのが特攻兵である。これを取材することが多くあった。「死を賭して散った彼らがいたからこそ今がある」という話を多くの人から聴いた。そうかもしれないが、しかしと思う、私は「名も知られずひっそりと消えていった兵士たちがいたらばこそ今がある」と。近隣の軍事施設でも兵士たちが死闘を繰り返した。その彼らが確実にいたことは分かっているがどこへ行ったのか分からない。決して歴史の表舞台に出てくることはない、これも名も無き人である。これらの人々の知られざる働きを土台として歴史は成り立っている、そう思うゆえにここに書き記すものだ。
中尉梅垣健太郎/盒極宍斑羂咫土屋利三郎、佐々木実、橘馨少尉、原笹誠之助、近藤浩太郎見士。
手許にガリ版刷りの名簿がある。「高射砲第百十二連隊」各隊の幹部の名を記したものだ。今ここにその部分を記した。世田谷千歳にあった高射砲隊のものだ。七名が記してあるが、この他に一般兵士が百四十名ほどいた。
「高射砲第百十二連隊」は、東京西部に布陣していた首都防衛隊だ。これらの隊は戦争末期になって移動している。駒沢隊と調布第一隊は富山県伏木港の防衛に就いた。このことは偶然このブログに寄せられた情報が発端となって分かった。駒沢高射砲隊の中隊長が存命している「取材されてはどうか」と。それで長野県八千穂に住んでおられる内藤悌三中隊長に会いに行った、このことから分かった。
記録類も調べた、すると千歳高射砲隊も新潟県直江津に移駐したことになっている。果たしてこの事実があるのか?かねがね疑問に思っていた。年明けてこの一月上越市歴史民俗資料館に問い合わせてみた。
戦争末期、昭和十九年末、関東一帯に布陣する高射砲隊をとりまとめる高射第一師団が編成された。この傘下にあったのが東京西部を受け持つ高射砲第百十二連隊である。この本部は終戦時は東京世田谷成城に置かれていた。世田谷にはこの傘下に二隊があった。駒沢隊であり、千歳隊である。前者が終戦末期本土決戦に備えて移駐した。富山県の伏木港である。これら二隊の動向からやはり千歳隊も直江津に移駐したはずだと思われる。
続きを読む
2016年01月24日
下北沢X物語(2961)〜XとY町の文化比較:道を核に〜
(一)XとY町の共通する点は路の分岐部であることだ。XとYはその形状を端的に表している。前者は昭和近代創設の鉄道であり、後者は遥か古代からの道路である。文化とは土地固有の匂いのことをいう、Xに鉄粉がYは土が匂っていた。今日近代はその匂いを消した。消えた、土地の固有性が希薄になった。しかし陰影は引いている。Yには土くささがなおある。太子堂辺りは惣菜屋の揚げ物、唐揚げ屋の鶏の匂い、また古びた味噌屋ではこれが匂う。X町はかつては地表で鉄道が交差していた。上の電車も下の電車も停まるときに音を立てた。鉄製のブレーキシューが鉄輪を締め付けていたからだ。この時に鉄粉が散った。駅の構内の線路はこれによって赤錆びていた。
昭和32年(1957)封切りの東宝映画『大当たり三色娘』では冒頭で小田急の下り各停が下北沢駅に進入してくる場面がある。二両編成がクキュクキュンと車輪を軋ませて停まる。ブレーキシューの音だ、この時に飛び散った鉄粉が臭った。
この映画、冒頭は駅前市場から始まる。実写だ、市場内をカメラが移動していく。野菜や果物が山と積まれている。画面から強烈な臭いが漂ってくる。生活力に溢れていた時代のものだ。
前に市場のお茶屋さん、高村園のご主人に話を何度か聞いたことがある。ずっと店番をしていると靴音で通る人のこころが分かると言われた。十年前、このブログにこう書いていた。
長年に渡って通路を見てきた高村園さんには人が見えるようだ。通路の片隅にいて外界を運んでくるのは人が身につけているもの、服装、持ち物、履き物である。そればかりではない、髪型、表情、歩き方、持ち物なども情報材料である。
滴を滴らせた傘から雨の降り具合を、服装の色合いからものの流行を知った。足音からもよく分かる。この頃、雪駄を履いている若い人がいる。けれども音聞くと、履き方知らないなと彼は感じている。引きずらないで切れ味よい足音を立てていくのがあの履き物の特徴だ。それなのにずるずると音を立てている。時には左右で音が違うとも言う。
十年経って街は変化した。足音には固有性があった。電車の靴も特有の響きをたてていた。が、雪駄を履く人はいない。電車のブレーキの音も聞こえないくなった。
昭和30年代、Xには匂いが満ち満ちていた。市場内には生鮮三品の店はいくつもいくつもあった。甘い香りも漂っていた、舶来品のチョコなども山と積まれていた。ハーシーチョコもあった。このチョコ忘れ難い。邪宗門のマスターは少年時代のことを言う。
「あれはね、チョコを包んでいる銀紙はいつまでも匂うのですよ。胸ポケットに入れていてときどき取り出して匂いを嗅ぐのです」
X町も変わった。ついこの間までふんだんに見られていた電車が通過する風景が忽然となくなった。警報音はこの土地固有のものでもあった。東北沢五号、六号はセッションをして音を競っていた。「クワンクワンクワン」と。何を食わないと言っていたのか?
続きを読む
2016年01月23日
下北沢X物語(2960)〜XとY町の文化比較:星を核に〜
(一)XとYとの比較文化論、地名由来からしても興味深い。Xの場合は地形的な見地からの名前由来だ。川の下手の北沢である。Yの場合は人為的である、すなわち追分に当たるここに三軒の茶屋があったことからきている。街道が人が通行する街道として使われはじめてからのことに違いない。分岐点、結節点には人が集まる、そこで休憩所ができてそれが土地の名前となった。恐らくはもっと古い時代は違う名前ではなかったかと思う。一年前の一月、今回と同じ三軒茶屋を終点とする街歩きを行った。当地の南には「子の神丸」という地区がある。ここの鎮守の駒繋神社由来のものだ。つまり、「子」は、ネズミのネだ。大国主の命の使いとしてよく知られている。実際当社の祭神は大国主の命である。出雲系の神である。
街歩きは面白い、参加した人が情報を言い合う。このときに大きな話題になったのは「子」はネズミではないということだ。「子」は、北つまりは北斗七星を指すというのだ。スリリングな展開になったことを覚えている。
駒繋神社は社の北の蛇崩川に突き出た誠に見事な舌状台地にまします。
「もともとはネズミではなくて、北斗七星のことでここは星の遙拝所だったのでは」
「真北を向いている!」
「夜になったら星空観望台だ」
このときは三軒茶屋に着いて、今川焼きを食べながらそんなことを言い合ったものだ。
その後にこのことを調べもした。すると三軒茶屋を中心とする一帯は、古い昔、覚志(カガシ)郷と呼ばれていた。
『世田谷の地名』は、覚志の語源を解いている。
香香背男(かがせを)は加賀背男(かがせを)とも書き、一名を天津甕星(みかぼし)ととも称えた「星の神」で、甕星の「甕」は「厳」(いか)で、香香(加賀)背は「」(かがし)で星のかがやきを表し、具体的には北斗七星のことであろう。
言えば三軒茶屋以前の、太古のことである。当地は星の輝きがよく見えるところだった。地形由来の地名がついていたのではないか?太古の昔は面白い、タイムマシンに乗って調べに行きたいところだ。しかし、どう転んでもこれはできるはずもない。
三軒茶屋は覚志郷、北斗七星がよく見えるところだった。連想が連想を呼ぶ、三軒茶屋の南を蛇崩川が流れている。さかのぼると駒沢高射砲陣地に行き着く。北のり面の北極星がよく見えるところだ。
「高射砲の照準を北極星を見て合わせておりました」
駒沢高射砲陣地の中隊長から直接伺った話だ。
続きを読む
2016年01月21日
下北沢X物語(2959)〜XとY町の文化比較:和菓子を核に〜
(一)たどり歩くことで町が見えてくる。今年早々にX町の古老から昔を聴いた。これに端を発して隣接するY町との比較がネット上で交わされる、古老たちが言うにはX町は衰退しているという。両町同士を結ぶシティバスがX町、とくに高齢者を吸い上げていると。Yの町の方が生鮮三品などが低廉で容易に手に入れやすいからだとの理由だ。Yの町を皆と歩いて実情をつぶさに観察してみた。「和菓子屋がなくなったのですよ。それで困ったのが正月用のモチの確保ですよ」
参加者のX町の住人の意見だ。昨年新春早々、77年の歴史を持つ「青柳」が閉店した。森茉莉がよく来ていた和菓子店だ。
「代沢三差路近くにあった伊勢屋も閉まりましたしね」
同じ人がいう。
そういえばだいぶ前だが代沢の48年の歴史を持つ和菓子屋「一ノ瀬」も閉店した。我等は一計を案じた。
四十八年の歴史を閉じる和菓子店「一ノ瀬」最終特別記念セール
北沢川文学の小路物語饅頭
発売元 森茉莉ゆかりの和菓子店 一の瀬
〇森茉莉が生前和菓子を買いに来ていた店。その縁で雑誌「装苑」に紹介された。
X町一帯の和菓子店が軒並み閉店している。ついこの間のことだ、最中が名物だった「香風」も長い長い歴史を閉じた。ここの二階に喫茶室があって多くの物語が紡がれた。例えば帝国音楽院の声楽のSとバイオリンのNとの恋物語だ。
和菓子店の衰退と町の興隆、切り口、観点として興味深い。いつだったか「香風」の主人が言っていた。代田二丁目のお屋敷の主人が亡くなるとそれだけで需要が減っていくと。このお店はかつては繁盛していた。近隣で歌会や茶会が催されるときに供される菓子はこのお店のものだった。いつだったかこの店でアルバイトをしていたという人にあった。菓子を配達していたという。それほどに流行っていた。
三軒茶屋の甘味、我等も街歩きでは欠かせない。昨年の新春街歩きはキャロットタワー三階の市民活動コーナーパオを終点とした。そのときに皆と食べたのは世田谷線乗り場近くにあるお店で買った今川焼きだった。
今度の「三茶探検大探検」では、キャロットタワー26階の展望室で休憩した。
「今川焼きをおやつとして食べましょう」
「大賛成!」
衆議一決、皆これを食べながら三茶高層ビルから展望を楽しんだ。が、あいにく富士は見えなかった。しかし、言えることはYには忘れ難い甘味がなおあることだ。
続きを読む
2016年01月20日
下北沢X物語(2958)〜XとY町の比較文化論的街歩き掘

(一)Yの町、三軒茶屋は固有性がある、庶民的で大衆的である。物価も低廉だ。
「シモキタのオオゼキよりも安いから私はここまで買い物に来るの」
街歩き参加者の一人は下北住まいである。下61バスに乗ってXの北沢からYの三茶へ買い物多くの高齢者が来ているというのは本当だ。惣菜屋一つとってみても分かる。これをのぞいてみる、三茶らしい佇まいだ、「自家製切り干しダイコン」、「高野豆腐のにつけ」など家庭料理を低廉で売っている。この食べ物の艶や色がみるからにおいしそう、こういう店はXにはない。(写真)
山田風太郎は、終戦後この町に暮らして人々を観察している。世田谷通りには米軍の軍用車が疾駆していた、街は殺伐としていて「近くの上馬、上町、若林町などの往来に屍体三つも転がる」さまであった。彼はそんな街の路地裏に住んでいた。世田谷通りから外れたところだ。
昭和20年、三軒茶屋に住み始めて一月あまり、医学生である彼は、ここに隠れ潜んで生活するようになった。この町の人気を示す例として近隣に住む人のことについて触れている。
となりの馬上吾郎という大工さんは好人物らしい。日向で鉋などならしながら、「ねえ、ねえ、愛して頂戴ね」などとヘンな声出して唄っている。おかみさんは無愛想で口が重くておっとりして、それだけ親切な善人である。子供がいないので、貧しく静かな生活の中に、仄かな寂しさが風のように吹いている。
路地裏ののんきさがここには現れている。歌をうたいながら鉋を使っている。切りくずがシューッと空中に舞い上がる様が想像される。この馬上吾郎さんには子どもがいないと。が、この場所を最初に訪ねたときにその息子さんに出会って、風太郎の居住場所を教えてもらった。今回もピンポン突撃したが、応答はない。しかし、この箇所を読み上げていると、裏口が開いてこの方が出てこられた。
「うちの親父の名前が読み上げられている声が聞こえてきたものですからね」
この路地は不思議だ。世田谷通りと並行して走っている道だが古道の趣きがある。
「馬上さんのお母さんによると官軍がここを通っていったというんですよ」
三軒茶屋の茶屋の一つ石橋楼には東征官軍陣羽織があるという。ここは、慶應四年、明治元年二月、東征してきた官軍がここに宿陣を張った。路地を含めて官軍がひしめいていたのだろうか?
続きを読む
2016年01月18日
下北沢X物語(2957)〜XとY町の比較文化論的街歩き供
(一)Yは背尾根筋の街であり、Xは沢筋の街である。前者は道が、後者は鉄道が形成した。ここに大きな歴史の差がある。遥か古代から連綿と続いた街と、昭和期になって近代の鉄道によってできた街との違いである。我等は西側の若林から三軒茶屋に入った。海野十三旧居から北原白秋旧居を経てである。詩人の家はY字追分から分岐した登戸道に面している。背尾根筋の街道である。白秋の文学にも地形が端的に現れている。
SF作家から詩人宅に向かう途中で往時を覚えている女性に出会った。
「白秋宅は前は広い芝生で家は赤瓦の二階屋で洋館でした」と言う。
この家は「同郷の先輩で元政友会の代議士や貴族院議員をつとめた吉原正隆の邸宅であった」(評伝『北原白秋』藪田義雄)政治家の家である。恐らくは世田谷の別宅だろう。詩人は、当地に昭和3年(1928)4月に馬込から越してくる。そして昭和6年までの三年間を過ごす。この転居は小田急開通と関連する。すなわち彼の子供たちが成城学園に通う便宜を考えてのものだ。
「ほら、ここは丘上の背尾根筋にあるでしょう。日当たりがよく住むのにはよい場所ですけども実は大変悩まされているのです…」
わたしはこう切り出した。背尾根筋ゆえの問題である。
「一つは風ですね、当時の武蔵野は風が吹くと大変だった、付近は畑だったでしょう。その土がもうもうと舞い上がったのですよ…」
歌集『白南風』は、ここでの生活を多く歌に詠み込んでいる。若林でのことは「世田ヶ谷風塵抄」に幾多も詠まれている。彼自身解説にこう記している。
家は街道にのぞみ、囂音と塵埃と筆硯の繋鎖とに苦しめられる。しかれども邸内広く、花木多く、奥の庭やや古風にして四時目を楽しましむ。
背尾根故に遠くの音もよく聞こえた。つぎの歌は興味深い。
多摩川に砂利あぐる音の風向きをひと日きこえて寒あけずいまだ
機械音だと思われる。多摩川で砂利をすくいあげている音だ、それが風に乗って聞こえてきた。
「北原白秋はもう一つ悩まされたことがあったのですよ。ほらこの道というのは多摩川とか富士とかに行く軍事道路だったのです、ひっきりなしに軍馬のひずめ、行軍の足音が聞こえていたのです…」
タンクの無限軌道の地響きなり一台が行きてまた続き来る
若林の大邸宅を借りて住む詩人。この辺りは興味深い点だ。詩人で食っていける人は少ない。領域が多岐にわたっていた点もあって収入があったのだろう。歌人、詩人、童謡作家であった。著名人であったゆえに原稿依頼も多かった。彼は若林在住時代極めて珍しい企画に関わっている。
旅客機というものがまだ大衆の生活に溶けこんでいなかった時代に、大坂朝日新聞がその勝れた性能を誇るドルニエ・メルクールを使って、詩人による日本最初の航空文学をうち樹てようとする企画はまさしく画期的なものだった。(評伝『北原白秋』藪田義雄)
詩人は九州大刀洗飛行場から大阪まで飛んでいる。「天上の気品と香気とがどんなに冷厳なものか…」、未来への期待をこめて彼は飛行機で空を飛んだ。続きを読む
2016年01月17日
下北沢X物語(2956)〜XとY町の比較文化論的街歩き〜
(一) 「三茶探検大探検」というテーマを立てての街歩きを行った。街の佇まいを比較論的に眺め観るのは興味深い。どんなお店があってどんな人が歩いているか。今回は「下61」というバス路線で密接に結ばれているX町とY町とを比較しながら歩いた。昨日、1月16日のことだ。集合したのは世田谷線若林駅である。線はボロ市へ行く人々で混雑していた。
「今日の街歩きXとY街を比較しながら歩いてみたいと思います。これら記号は交通の形状をいうのですがXとは何ですか?」
「小田急線と井の頭線とがX状に交差している下北沢ですね」
「では、Yは何でしょう?」
「三軒茶屋」
「なぜYなんでしょう?」
「道が分かれているから…」
「そうそうこの辺りは面白いですね、下北沢は沢に形成された街、ここに近代の鉄道が通って街が形成されていった。鉄道の役割が大きいでしょう…一方の三軒茶屋は道ですね、街道のわかされですね、ここで大山厚木街道と登戸道に分かれていく。結節点、区切りでもある。ポイントは尾根筋のわかされですね」
こちらは王道的な追分である。わかされとしては別格官弊社級である。
「大山詣でに行くあの人は左に、富士講で富士へ行く人は右にそれぞれが別れていく。その前にお茶を一杯ということでお茶を飲んだのでしょう。当地には田中屋、石橋屋、角屋という三軒茶屋のお茶屋があったところから三軒茶屋と名がついた…」
「鉄道という点では、かつてはY字形をした線路がありましたね、渋谷から来た玉電がここで二子玉川方向か下高井戸方向へ分かれていく。ここは電車の檜舞台でした。二両編成の電車がYカーブに入って横腹を見せて通る、それがかっこいい場でした。もっともこれは片方が田園都市線となって地下に消えてしまいました」
「この間うちからの話では下北沢の購買層の多くが三茶へ来ているといいます。その辺りを街を歩きながら観察しましょう…」
続きを読む
2016年01月15日
下北沢X物語(2955)〜シモキタの昔を古老が語る・了〜
(一)記憶や思い出が人の心を刺激する。古老、三十尾生彦さんが語った北沢の町の様子は新たな過去風景を蘇らせる。今朝、パソコンを開いたとたんメッセージが届いていた。グリーンライン下北沢の 関橋知己さんからだ、「小清水 和敏さんからまたコメントいただきました。」と。
「邪宗門懐かしですね。僕が小学生の時、生クリームを配達していました。今でもありますよね。我が家は牛乳販売店だったのでたいていは判りますが今は変わってしまった。元実家は代沢5丁目にありました。亡くなった祖父母の話しだと昭和8年頃区画整理が始まるまで回りは田んぼだった。裏山は無縁仏のお墓でそれを森巌寺に埋葬したそうです。下北沢の駅の周辺は竹林と聴いております。我が家のお墓も森巌寺にあります。昔大きな池があったそうです。森巌寺の火事を知っている人はわずかです。」
小清水さんの証言は町の変遷を物語る。彼が生クリームを届けた「邪宗門」は今もある。我等の会の事務局だ。一昨日行ってきたばかりだ、店は暮れに50周年を迎えている。昭和40年12月23日に開店した。
「五十年の歴史の中で最も印象深いことは何でしょう?」
そう私は聞いた。
「やっぱり、会が発足したというのは一番大きいできごとですね」
マスターの作道さん、北沢川文化遺産保存の会がここで産声を上げたことをいう。地域だけではなくもっと広く店が知られるきっかけとなった。

「店は街中にはなく離れていましたから絶えず苦労をしてきましたね、今の今まで夢中でやってきましたね…」
マスターの作道明さんも古老だ。街の変化をよく記憶に残している。
「開店した頃の主なお客さんは近所に住んでいる学生でした。部屋は狭いから応接室代わりにここを使っていました…」
街の歴史の一端を覗かせる証言だ。
三十尾さんは丘の高いところは屋敷町、低いところは庶民の町だと。後者には下駄履き建物が作られた。。階下に家族が住み、二階は学生の下宿や貸間にした。シモキタ一帯はそんな学生たちで溢れていた時期があった。地方の学生寮もあって、各地の方言が飛び交っていた。貧乏学生はオデヲン座で映画を見ては未来への希望を胸にしまった。その時の外国女優は誰だったろうか、スクリーンに恋心を募らせた。
続きを読む
2016年01月14日
下北沢X物語(2954)〜シモキタの昔を古老が語る掘
(一) 「土地の歴史文化を古老に聞く」という会を開いた。御年九十二歳、三十尾生彦さんの話を伺った。北沢に長く住まわれた方である。シリーズでこれを伝えているが、この発信に対する応答が興味深い。一つは町の歴史への世代間格差であり、もう一つは現行都市批評である。例えば、会に参加されたきむらたかし氏のコメントだ。
[気づいてみれば…]
この会は「準古老」あるいはそれ以上の世代の方々が「いーっぱい」いて、そこでは、戦時中の話にせよ、まして、戦後すぐころの話についても「当たり前」の共通認識のある事柄が多かったので、私のような「若手」でも、妙な安心感があったのですが…
今回のような「本当の若手」の方々が参加された催しでの反応をみると、この会では「当たり前」のことが、今や「当たり前」の知識でないことが明確になりました。
実は、会自体への若い方の新規参加が少ないのは、この情報ギャップのせいかもしれません。
あるいは、このブログを読んでも、江戸時代、下手をすると鎌倉時代の話に見えてしまっているのではかかろうか…と。
私たちは常々集まりを催している。確かに話される内容は指摘される通り内容が濃厚、他者からすると異様かもしれない。駒沢高射砲陣地、世田谷の江戸道、赤堤に墜ちたB29、北沢阿川家の睡蓮の話などだ。自分たちでは面白がって話題にしている、ところが若い人々にとって異時代にいる人々ではないか?と。彼によると私も準古老に入っていると知って衝撃を受けたことだ。
ネットでの盛り上がり、古老同士がフェイスブックで議論を闘わせている。これもみものである。初回の会の反応を受けて二回目を研究会の形で実施してみようと提案している。「予定としては8月6日午後、北沢タウンホール二階集会室を予定しております…『シモキタの街の歴史の形成過程を語る』みたいな感じです」との当方の提案だ。
・神崎公伸 いいですね。必ず街の歴史は形成された時の事情が読み込まれています。下北沢は好景気の時に自然に育つた雑草のDNAを持つています。環境が変わると枯れるまで順応できないのです、がもともと自然人ですからシンは枯れません。今下北沢の環境は最悪状態ですが、今年は訴訟関係で動きが出て一部改善の方向も感じられます。もし自然環境の変化が期待できれlば自然人の多い
下北沢は再び勢いを取り戻すことが期待できます。それが下北沢のDNAを再び呼び戻す為に今一度 歴史をほどく作業は有効ですね。よろしくお願いします。
・きむら けん ありがとうございます。もう早速、北沢一帯の交通路線の発展と衰亡というタイトルで発表してよいとの反応を得ています。わたしは文化というのは楽しむものだと思います。三十尾さんの話はおもしろく楽しかったです。今度はベーシックな部分大切にしながらまた会を続けたいと思います。
・神崎公伸 下北沢の交通路線の発展と衰亡は面白いですね〜
今下北沢には老人の姿が見えません。消えたわけではないのです。ところがタウンホールと三軒茶屋へ行くバスは年寄りで満杯です。この原因は下北沢は面白くないからだと知り合いは申しています。
・三十尾 生彦 カオスの街は三茶に移り始めています年寄りは敏感にそれを感じているのでしょう、要注意 北沢圏デスね!庶民度が高く物価が安いので 無料バスで三茶まで買い出し 結構多いですよ!
・三十尾 生彦 下北沢はスーパー以外に 買い物ができなくなったのが致命傷! 肉 野菜 魚 味噌 揚げ物惣菜 皆なくなった!
この古老同士の議論はこの後も続いている。興味深いのは、彼らが「下61的世界観」を持って街批評をしていることだ。下61とは、駒沢陸橋-北沢タウンホールを運行する小田急バスのことである。
続きを読む
2016年01月12日
下北沢X物語(2953)〜シモキタの昔を古老が語る供
(一)古老の話を聴く、第一回目としたが振り返ると何十人にも聴いてきた。下代田の柳下政治さん、代田の今津博さん、松林宗恵監督、下北沢二号踏切脇の佐山一雄さん、映画プロジューサーの森栄晃さんなど数限りないほど聴いてきた。もう物故された方も多い。思い出すと地域のことを多くから聴いてきた。が、全体というよりも部分ではなかったか?沢や谷一枚の文化を聴いてきたように思う。非常に面白いのは個々の沢には個々の話が埋もれている。となりは近いのに居住区の沢の向こうはあまり知らない。沢ごとに皆が皆独立的に生きて来たからではないかと思う。会の後で参加者に感想を言っていただいた。ここでは街の形成についての具体的な事実津や文化の階層性のことが話題になった、これは当地の都市論に通ずる話ではないか?
今回は北沢三丁目に住まう三十尾生彦さんのお話を伺った。まさにこれは一つの沢の固有的物語であった。北沢川支流・森巖寺川の凹みを縦断する一本の小路の変遷史である。沢を横切っていく船底型の道だ、東北沢と下北沢とを繋ぐ新道である。この路地物語を彼は語った。
繁華な街になろうとしてなりきれなかった。東北沢という街と下北沢という街の綱引きの過程で次第に敗退していく過程が面白い。
「我々は、ひそかにここを元スリ横町と呼んでいたのですよ」
この通りには生活関連の店が一応揃っていた。蕎麦屋、豆腐屋、理髪店、酒屋、布団屋、駄菓子屋、雑貨屋、茶屋、電気屋、染め物屋である。特徴的なことはここにカフェがあったことだ。女性が七八人もいた。三十尾さんの家のはす向かいだ。
少年にとって色街の片鱗は忘れ難いものである。多感な彼にとっては忘れ難いものだ。遊女のいる町で女性の脂粉のにおいを嗅いで育った。ここで連想するのは北原白秋は『思ひ出』である。すたれゆく町で過ごした『思ひ出』だ。白秋はこれを「自叙伝として見て欲しい一種の感覚史なり性欲史に外ならぬ」と詩人は描いている。北沢の横町が醸す猥雑さは三十尾さんのある種、「感覚史なり性欲史」という部分もあったのではないかと思う。

かつて森巖寺川には小鮒が群れ、エビが獲れ、ホタルも愛でることができた。それは少年の感覚史に大きな影響を与えた。ところが田園地帯だったここが次第に開発されて懐かしい小川もどぶ川となってしまった。彼には哀惜の思いがあったろう。
続きを読む
2016年01月11日
下北沢X物語(2952)〜シモキタの昔を古老が語る機
(一)田園地帯にあった小さな家が次第に町に取り囲まれていく。童話「ちいさいおうち」である。このプロセスへの郷愁は誰もが持っている。清い小川が流れていてトンボやホタルも飛び交っていた。それが次第に壊されていく。「夢のような町の形成史」を92歳の三十尾生彦さんは語られた。皆、そこについつい惹き込まれてしまった。土曜日、1月9日の午後、北沢南区民集会所で「古老に聴く会」を開いた。話者は三十尾生彦さん、九十二歳からである。集まったの二十数名だった。
去年、世田谷トラジッションが文士町を巡る街歩きを開催した。案内係を務めたがこのときに三十尾さんが参加されていた。北沢の町の変化についてよく記憶されていることから彼の話を聴く会を開こうとの話が持ち上がった。そして、今回の「シモキタの昔を古老が語る」という会を催すことになった。古老の話を聴く、第一回目である。
北沢の町の発展形成は小田原急行鉄道の開通によるところが大きい。昭和二年、北沢の丘をぶちぬいてこの鉄道が開通した。東北沢駅ができ下北沢駅もできた。この原初風景は、高須光治「下北沢風景」によって描かれている。この絵は下北沢側から東北沢側の崖線を描いている。
この丘上は東北沢駅方向だ、手前は沢筋の下北沢地区である。絵画は小田急開通時のものだ、が、古老が語る風景は、これから四五年が経過した「第二次下北沢風景」である。

絵画では中腹の傾斜部分は畑地として描かれている、証言ではその凹凸地に新たな道が開け、そして家々ができいった。この辺りの町の形成史は面白い。丘上にアッパーミドルの赤色の屋根の家が建ち、つぎに沢筋に長屋ができていく。
丘と沢との中腹は取り残される。こここそが丘と沢との境界である。丘上に住むのは知識人と地主、その沢筋には庶民が住む、「貧乏人の子だくさん」という慣用句さながら家々には多くの子供がいた。三十尾さんもその一人だった。波乱万丈の人生を送ってこられた方である。
「私は、明治神宮外苑の国立競技場で開かれた学徒出陣式に出ましたよ」
昭和18年(1943年)10月21日に学徒75,000人がここに集まって出陣式を行った。
もう73年前のことである。当人は応召されたが1日で返されたとのこと。三十尾さん多くのことを経験している。
続きを読む
2016年01月09日
下北沢X物語(2951)〜代沢ミドリ楽団と聖路加国際病院供
(一)批評的な視点が死んで全体主義に陥ると人々は自由を失う。この体制になると国家は、一つの党派または階級によって支配される。その権威には制限がなく公私を問わず国民生活の全てに対して可能な限り規制を加えるようになる。聖ルカを冠した病院の名もおかしい、屋上の十字架は目障りだとなる。それで戦時中軍部の命令によって「聖路加国際病院」は「大東亜中央病院」に変更させられ、そして病院のシンボルであった屋上の十字架も撤去させられた。体制に都合のいいものに全て変えられる。戦争中のことだが今、この国家に全体主義が復活する兆しはないだろうか?米軍のバスで米軍中央病院に着いた楽団員はまず「白亜の殿堂」といわれた六階建ての巨大ビルディングに圧倒される。
「先生、大きな星条旗が掛かっているよ」
聖路加病院はすべてを接収されてアメリカ軍が運営する病院となっていた。
「先生、屋上に十字架が建っているよ」
青空に刺さっているこれはこの病院の一番の目印である。が、戦時中、これは軍部によって撤去された。物語中であったたとしても、「先生、十字架が!」とは言えない。病院のシンボルである十字架はどうなったのか。気がかりだ。
終戦翌年の1946年(昭和21)5月には、以前と同じ型の十字架が奉献(ものを差し上げること)されました。アメリカ軍の病院になった建物の塔屋には、ふたたび十字架が立ったのでした。
『戦争といのちと 聖路加国際病院ものがたり』(日野原重明 小学館2015年9月)
すなわち、昭和21年5月以降だと十字架は聳え立っている。塔の復興は私の想像に刺激を与えた。ミドリ楽団の慰問を3月にして物語を進行させていた。20年11月に東京に帰ってきて、そして翌年3月に慰問というのは早過ぎると思った。米兵を愉しませる音楽の訓練はそうたやすくはなかったろうと思う。自分のイメージでは塔屋の再興がなされてから慰問に来たのだろうと思った。
続きを読む
2016年01月08日
下北沢X物語(2950)〜代沢ミドリ楽団と聖路加国際病院〜
(一)代沢小ミドリ楽団は、戦後華々しいデビューを飾る。昭和二十五年のクリスマスには彼らの演奏が全米のテレビで放映されたほどだ。このきっかけは楽団が聖路加国際病院で慰問演奏をしたことからだ。このとき病院はGHQによって接収され米軍極東中央病院として使われていた。慰問演奏は入院している米兵を見舞うためのものであった。ここでの演奏が大評判となりミドリ楽団は米軍各施設からの演奏依頼が殺到した。ついにはアニー・パイル劇場での三日連続公演も開かれるほどだった。
「ミドリ楽団物語」を昨年から書きまとめている。この物語、副題は、「戦火を潜り抜けた児童楽団」である。即ち楽団は昭和十九年になって戦火を避けるために長野県の淺間温泉に疎開する、「浅間楽団」である。ところがここも安全ではなくなり塩尻に再疎開し、今度は「真正寺楽団」となって練習に励む。戦後になってようやく疎開引き上げとなり昭和20年11月に代沢小に戻ってくる。楽団は再出発する。
物語は佳境に差し掛かった。おおよそ八割ぐらいは完成したろうか。これからが山場だ。
まず最初に聖路加国際病院の慰問にいく。代沢小の保護者の古沢末次郎さんの仲介だったという。が、このあたりの記録はない。書き手である自分が場面を想像して埋めていくしかない。こういう場合現場を確かめることは大事だ。
また事実を知るには行われた年月日の調べは欠かせない。アニーパイル劇場の公演月日は関係者からの聞き取りで分かった。が、聖路加国際病院への慰問はいつなのかは分からない。
彼ら楽団は、浅間滞在時に日本軍部隊を慰問している。大糸線沿線に布陣していた「決部隊」、本土決戦部隊である。慰問のノウハウはあった。
戦後になって楽団は、新生バンドとして蘇る。が、戦中と戦後では大きな開きがある。日本軍の慰問は自分たちが知っている歌、軍歌や童謡を演奏すれば事足りた。
続きを読む
2016年01月06日
下北沢X物語(2949)〜北沢の町の変貌を古老に聴く(案内)〜
(一)街は急速な変貌を遂げている。都心から十キロ圏の北沢の街は著しい。昭和二年、小田急が開通が大きなきっかけとなった。この北沢の丘に先駆者として住んだのが小説家垳利一である。作品『睡蓮』にはその変化が端的に描かれる。彼は昭和三年の秋家を建てようと当地を訪れる。作品には北沢の町の変化がつぶさに語られる。1、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植っている平凡な畑だったが、周囲に欅や杉の森があり近くに人家のない
北沢の丘上の風景だ。一帯は芋が植えられた畑地だった。四周には雑木林が広がっていた。森には欅や杉も生えている。典型的な「武蔵野」だった。
2、私の家の附近いったいの森はすべて截り払われ、空地には私の家より大きな家が次ぎ次ぎに建ち出した。
小田急が開通した当時、当地から駅までは遠かった。今の下北沢駅や東北沢駅を最寄り駅とした。ところが間もなくして渋谷から吉祥寺へと抜ける渋谷急行鉄道の敷設工事が始まり附近の開発は急速に進んだ。アッパーミドル階級がここに地所を求め住むようになった。宅地としては都市人には魅力だった。武蔵野郊外風景が残っていたからだ。
3、いつの間にか私の家の周囲には八方に家が建ち連り、庭の中へ見知らぬ子供たちの遊びに来る数が年毎に増えて来た。
作家の家が丘上に一軒建った。夜には霙が屋根を叩く音が聞こえた。季節風が吹くと回りの木々が騒ぎ、家も揺れた。ところが畑地がどんどんと宅地に変わっていく。そしていつの間にか回りにはすっかり家が建った。ついこの間まで隣り近所に住む人は見知った人だった。が、つぎつぎに家が建って新しい人が増えた。やってくる子供も誰が誰だかわからない。
文中に描かれる1から2は、北沢の丘上の変化を記録している。具体的な年号を押し填めると昭和一桁から昭和二桁ぐらいまでの変化を表している。北沢二丁目のことだ。
(二)北沢二丁目は小田急線路の南側だ。北側は三丁目だ。地形的には沢筋にあたる。沢には小川が流れている、森厳寺川だ。谷は崖線だ。背尾根には南の森厳寺へと続く古道が通っている。ちょうどこの三丁目は高須光治「下北沢風景」に描かれた場所である。
昭和三年頃、すなわち垳利一が北沢へ移って来た頃の風景だ。これは変貌していく。つぎの第二次「下北沢風景」へと移っていく。谷は赤土の畑だった。が、ここも上記の1から3のように変化していく。
興味深いことがある。水は高きから低きに流れる。土地の開発は低きから高きへとなされていく。沢筋は水が出る、ゆえに土地価格としては低廉だ。丘上にはアッパーミドルが住んだ。沢筋には庶民層が住んだ。街工場や市場などはここにできた。
第二次下北沢風景は沢筋が開発されていく様だ。ここに居住していたのが三十尾生彦さんだ。今年九十二歳、一帯が開発される過程をつぶさに見ておられる。この彼からその当時を聴こうという話が持ち上がり、この一月九日にこれが実施される。その案内をここでしたい。
(三)
土地の歴史文化を古老に聞く(第一回)
シモキタの昔を古老が語る
話者 三十尾 生彦さん
鉄道線が交差していた下北沢も小田急が地下化して踏切がすっかりなくなった。風景が一変してしまったと言ってよい。街はどんどん変わりつつある。ここに住む人もまた入れ替わり、過去の記憶はますます遠ざかっていく。
かつて、八十年ほど前は、この辺りは至る所に畑があった、そこには肥だめがあって遊んでいた子供達はよく落ちてしまった。が、駅の東には北沢川の支流が流れていて水も案外きれいでエビや小魚が捕れた、夏にはホタルも舞っていてきれいだったという。 (写真は三十尾生彦さん)
そういう往時のことはすっかり忘れ去られてしまった。が、この往時のことを記憶に鮮やかに残している人がいた。今年で九十二歳になられる三十尾 生彦さんである。
三十尾さんは千住で関東大震災に遭ってそののち北沢に移り住んだ。もう当地での生活は八十年にもなるという。
小田急が開通したのは昭和二年だ。これをきっかけに沿線はどんどん開発される。畑だったところが、竹やぶだったところがつぎつぎに宅地化して家になってしまった。丘上のアッパーミドルの住まい、低い方には庶民が住まった。彼の家のそばには思い出深い横町があってミニ商店街が形成されていた。彼の家のはす向かいにはキャフェがあって魅力的な女性がいたそうである。となりは石工の家で、トンカチトンカチ石を彫る音が聞こえていた。また、すぐちかくには製紙工場もあってここではセロファンが造られていた。
長い年月の間、三十尾さんは下北沢の街を見続けていた。どんな土地だったのか。どんな人がいたのか、記憶に中にあるシモキタの街の姿を語りを通して聞く。

証言者 三十尾 生彦さん(92歳)
日時 1月9日(土)13時30分より
場所 北沢南区民集会所(世田谷区北沢3-25-8)
会費 200円
主催 北沢川文化遺産保存の会
定員 36名 申し込みは ネットおよび電話
ネットaoisigunal@hotil.com(きむらけん)
電話 米澤邦頼 090−3501−7278
(写真は、街を語る三十尾生彦さん)
*文中引用『睡蓮』は青空文庫から。
2016年01月05日
下北沢X物語(2948)〜小説『睡蓮』は阿川家栽培の蓮?供
(一)荏原地域は都市伝説の宝庫だ。東京の西郊にあって短期間に大変貌を遂げてきた地域だ、その間の、一つ一つの歴史事実を把握することは不可能だ。情報が膨大であるからだ。我々の記憶は危うい。ついこの間まで建物があったところが更地になっている。そこに何があったのか皆目思い出せない。ましてや何十年の前の記憶など当てにならない。それでもまことしやか人は証言する。「池の上には東條英機邸もあった、それと杉山元元帥の家もあった。五月末の空襲ではここの家を狙い撃ちしていたんだ」と。東京都市伝説だ、当日、B29は高度3000メートルで飛来してきた。爆撃機搭載のノルデン爆撃照準器がいかに正確であってもピンポイント爆撃はできなかった。
我々人間は正確な事実よりも面白い物語を好む。池の上駅名伝説もその一つだろう。『玉川村 江戸・近世』(豊田真佐男著 1993年刊)には、「井の頭線敷設のためには阿川金三郎所有の広い畑と池を通りぬけねばならぬため交渉したところ、快い快諾を得られて、会社側も好意的に駅の命名を同人に任せたことから、阿川金三郎自身が『池の上』と命名したという郷土史が秘められている」とある。「睡蓮」を栽培していた阿川家の池の上にあるから「池の上」としたとなる。
小説『睡蓮』はこの池の蓮から連想されたものと同著は述べる。本当か?
作品では、私が住む北沢の家のとなりに新しく家を建てて人が越してくる。それは加藤高次郎氏である。その彼は幸せな家庭を築いて生活をしていた。その朝の出勤風景はこう描かれる。
朝家を出るとき敷島を口に咥え、ひらりと自転車に乗るときのゆったりした高次郎氏の姿を私の見たのは一度や二度ではなかった。また細君のみと子夫人が、背中の上の方に閂のかかった薄鼠色の看守服の良人を門口まで送って出て、
「行ってらっしゃい。行ってらっしゃい」
と高くつづけさまに云って手を振り、主人の見えなくなるまで電柱の傍に立ちつくしている姿も、これも雨が降っても雪が降っても毎朝変らなかった。
茶畑の間の砂利の敷かれた小路が家の前を通っている。靴を履いた後に彼は煙草に火を点けた。そして自転車を出して、くわえ煙草のままサドルに「ひらり」とまたがる。「薄鼠色の看守服」姿はかっこいい。その夫を若奥さんはいつまでも見送っている。仲むつまじく生活しているさまがここに滲み出ている。
続きを読む
2016年01月04日
下北沢X物語(2947)〜小説『睡蓮』は阿川家栽培の蓮?〜
(一)垳利一小説『睡蓮』は、北沢の土地の佇まいを描いたものとして得がたいものだ。作家が当地に居を定めるときの経緯が描かれている。彼が初めて当地を訪れたのは昭和三年である。小田急が開通してすぐの頃だ。「秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇の中に際立って白く見えていた」とある。この北沢の丘はかつては阿川家の茶畑があった。その名残だろう。先だって、『玉川村 江戸・近世』(豊田真佐男著 1993年刊)を読んでいたときにおやと思う記述があった。『睡蓮』では、「ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植っている平凡な畑」と描かれる。
文中の畑とは現在の井の頭線、池の上駅から南へ徒歩二、三分のところであるが、参考までに昭和初期のこの辺の田園風景を描写しておこう。昭和八年一月、井の頭線(帝都線)が開通する以前の池の上周辺には大きな池があり、この池に阿川家では出荷のための蓮を栽培していたという情景で、今では聞かれなくなった水鶏の鳴声がここに夜毎きこえたという。短編「睡蓮」も阿川家栽培の蓮からの着想である。
手持ちの「陸地測量部」大正六年十二月発行地図で確かめる。くだんの「高台の平坦な畑」の麓にあたる阿川本家側の「210」番地に確かに大きな池がある。ここで栽培されていたていた睡蓮から喚起されたものという。話としては面白いが…。
『玉川村 江戸・近世』は、「垳利一と阿川家」と題してこの両者の関わりを述べている。「彼の新邸となった雨過山房は犬養健の命名によるが、宅地は池の上の名家阿川金三郎よりの借地であったことから垳利一と阿川家のふれあいを世田谷文学のひとこまとしてお伝えしたい」と冒頭にはある。しかし、全体を読んでみると、関わりを関わりとして因縁深く結びつけている嫌いがある。
小説『睡蓮』は、このタイトル語こそが全体のキーワードである。北沢の平凡な畑に居を構えたのは作家の私だ。程なくしてこのすぐ近くに地ならしが始まった。新しく家が建つようだ。
続きを読む
2016年01月01日
下北沢X物語(2946)〜会報第114号「北沢川文化遺産保存の会」〜

…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第114号
2016年1月1日発行(毎月1回発行)
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
…………………………………………………………………………………………………………
明けまして おめでとうございます
どうか今年もよろしく
お願い申し上げます。 北沢川文化遺産保存の会
一、昨年の総括と新年の計画
暮れの12月5日に恒例の、忘年会を北沢タウンホール12階、スカイサロンで開いた。特別出演のラテンバンド、ロス・コンパニェロスの演奏と歌声に酔いしれてたことだ。
この会を始めるに当たって、今年の総括をし、項目を列挙した。
・地図の発行 「下北沢文士町文化地図」改訂6版を4月1日づけで発行した。一万部刷ったうち、既に今年は半数がなくなった。この分だと2017年の春には第七版を発行しないと、桜祭りでは配布できなくなる。
・研究会の開催 北沢小学校同窓会の協力を得て第一回を8月に開催した。個々人の興味、関心を公の場で発表する機会はあった方がよいということで、今年、第2回8月6日に開催する。北沢タウンホール2階集会室を予定している。午後は研究大会を開き、夜はそこで納涼会を開く。 第一回目は世田谷区教育委員会の後援申請をしなかったが今回は予定している。誰でも自由に参加し発表できる。短時間での発表ポスターセッションも行う。
・第8回「戦争経験を聴く会、語る会」、これは東京都民教会で開催した。今年も第9回を開く予定である。「戦争と音楽」をテーマとする。「戦火を潜り抜けた児童楽団」−ミドリ楽団の軌跡をたどる−実際の歌をうたったり、また際だって勝れていたミドリ楽団の演奏技術を、音楽の専門家が語る。
5月21日(土)午後、東京都民教会で行う。
・歌関係の復活や作曲が行われた。
「真正寺学寮歌」の復活 失われた疎開学童の歌である。これが作曲家 明石隼汰さんの手によって蘇った。「ダイダラボッチ音頭」の作曲 これは会歌としている。作詞はできていたが作曲はできていなかった。去年、代田児童館の協力によってこれが完成し、ユーチューブにアップしている。視聴回数、今日のカウントでは370回となっている。→「ダイダラボッチ音頭」
・「北沢川文化遺産保存の会」紀要四号の発刊 戦後70周年記念戦争記録集
例年よりもページ数が増えて、経費が二十数万円かかった。今回は、以後の継続を考えワンコインの寄金をして頂いている。講演をした寺や神社などの協力があって150部ほどがさばけた。紀要五号の経費がなんとかまかなえそうなので、これを今年も発行したい。「世田谷の高射砲陣地」をテーマにしたいと考えている。
・記念碑関係の建立 今年秋に長野県護国神社に特攻勇士之像が建立された。ここの碑文に特攻兵と疎開学童の交流が刻まれている。これは会の活動を通して発掘された話、『鉛筆部隊と特攻隊』の踏まえて刻んであることが、除幕式の祝辞で述べられた。
戦争関連では、去年駒沢高射砲陣地の隊長、内藤悌三さんに取材をし、紀要にもまとめた。この内藤さんこれがきっかけとなって高岡明円寺に石碑を建てられた。
・戦争関連でのメデイアでの報道
まず、去年五月、第九回戦争経験を聴く会、語る会の模様が当日のNHKテレビニュースで放映された。「出撃前の歌 特攻隊員たちが込めた思い」(2015年5月23日8時55分)
つぎに、フジテレビでの放送。奇跡体験!『アンビリバボー』悲しき戦争の記録★鉛筆で戦った子どもたち。(2015.8.13日放映)『鉛筆部隊と特攻隊』を素材とした放送。
・「日本水大賞」への応募 第18回目のこの賞、文化部門に応募した。
三回目のチャレンジだ。 活動が十年を迎え、応募するラストチャンスとして応募。
・街歩きの会 昨年末で回数は112回目を数える。今後は他団体との協力をしての開催を行う。2月、仙川文化を訪ねる。(仙川地図研究所)。3月、品川用水の痕跡を歩く(品川用水復活研究会)
◎以上から、〆G度の計画としては、「下北沢文士町文化地図」改訂7版の発行準備。第9回戦争経験を聴く会、語る会の開催。B萋鷁鷂Φ翅膕颪粒催。5要5号の発行。(内容は「世田谷の高射砲陣地」を予定。ァ峺渡靴吠垢会」を始める。(第一回)
二、北沢川の昔を思う 三十尾 生彦(92歳)
瀬戸内寂聴さんは私と同年の九三歳、一年の闘病生活から戻り“命”という長編小説に取り込んでいるらしい。恋多き女として二十六歳の時、新しい恋を貫くために子を残して出奔したそうな。病いも肺炎、ガン、骨折など大病を患った。が、意思の強さで乗り越えてこられた、そして今瞳を輝かして新作長編にチャレンジしておられるようだ!私もこれに負けないくらい大病をしたが強運で乗り越えてきた。今周りは皆逝ってしまい独居生活だがいたって元気である。
人は晩節を汚す事例が多いのに 輝いているのはなんとも羨ましいばかりのお元気さだ。もう死を静かに迎える心構えはできているが残っているが煩悩が若者同様の人恋しの思いを捨てがたく思っている。寂聴さんもいい男には目がないとおっしゃっている。幾つになっても何かしでかしたいと思ったら このエネルギーは必要なのかもしれない。
1、本題北沢川を思うである。!
この川、北沢中学を起点〜石川湯〜金子ボクシングジム〜信用金庫〜代沢小学校
この脇の低地を流れる(今は暗渠上は遊歩道)
昭和8年頃 北沢中はなく沼地で川の源流で 湧水があリ 暴れ川だった。
製紙水道道路を隔てて大きな釣り堀二面があった。その下流は畠の中を流れ石川湯の脇を、チャザワ通りに沿って代沢小学校の所で今の北沢川(桜の名所)に合流。
その頃の風俗
当時は荏原郡世田谷村字下山谷といった。子供は絣の筒袖 坊主刈り下駄履きで 皆水鼻垂らして 鼻水でふいた袖がコテコテに光っていた。新参者の私だけが つなぎの服でおかっぱだから“女男”と言われていじめられた
北澤川の思い出 その頃の風景
畠が殆どで作物は野菜類、大きな肥桶を埋め込んだ肥溜めが方々にあり蓋もなかったので悪臭が強かった。落ちて酷い目にあったことがある。
道路は舗装もなく大雨だと川が氾濫して床上浸水など当たり前 酷いことになった。
今の茶沢通りから富士と東北沢駅が見え高所は大抵竹林で 低地の畠地も半分は休耕地で子供の遊び場だった。
流れの水はキレイでエビや小魚がいてホタルも飛んでいた。家の周りではカエルがやかましく広場は子どもの遊び場でトンボ釣りの格好の場所だった。
2、百姓やめて 地代で暮らす旦那になった時代
当時の農家だった地主は〜租税負担が辛いのでタダで借り手に貰ってほしいと頼んでいた時代だ、後年地価が上がるに連れて畑をやめ林や畠を潰して宅地にして売り出し旦那になって富裕になった。いろいろな層のひとたちたちが我先に移り住んできた。
北沢・代沢なぞ沢の名前がついた所は細流が流れた低地だった。どこでもそうだ少し高いところは新開地といい高所得のインテリーや軍人・政治家などが居を構えたが低地で流れの両側は、商人や職人が居住した。
3、日本産業発展期の昭和10年頃
公害問題はまだなかったから川崎などの工場街は排煙で先が見えなくなり、工員たちが肺がんになろうと、喘息児が増えようとも、躍進日本のシンボルとして許された時代だったから、当地、北沢の一角にできた製紙工場の未処理廃液たれ流しも問題にならなかった、ここに働く工員たちがこの筋の活性をささえてきたのだ。
石川湯前の通りは小型商店街になり公設市場も設けられた。買いものは大概 ここで間に合ったし八人も女性がいるカフェも出来た。
しばらくは好景気に乗って賑わったが、間も無く不景気が襲ってきて、大学は出たが職がなくモク拾いでしのいだと新聞記事が出る時代が来て、客足が減り店じまいをする者が増え 何をやっても永続できない所になった。どういうことかセロハン工場も閉鎖されてしまった。その後洪水問題解決のために全域暗渠化で遊歩道ができた。上の道が狭すぎたのと見物の目玉がないので魅力のない道になった。
4、船底街 元スリ横丁の由来
“商いに不向きな通り”とも、この筋は 東北沢からのつながりで繁盛するだろうと考えた輩が店を出し一応生活のインフラは出来上がった。だが地主の思惑か 古い道なりのままで、駅からの一直線の貫通路はついに実現しなかったので、商店街は孤立してしまった。のちに下北沢が井の頭線を加えて ターミナルとして発展したために茶沢通りのバスも廃線になった。これで、“勝負あった”櫛の歯が抜けるように 店をたたむ 向きが増え、後を狙ったものも長つづきせずすぐに夜逃げ同然に引き上げた。
この傾向は今でも顕著で風呂屋服屋と2軒の飲み屋だけで後は皆廃業普通の住宅になってしまった。でも頑張り生き残りの連中はここは“船底街元スリ横丁”だものと自嘲気味に言っていた。今日、近代になって家がものすごい勢いで増え木密地区になった。
三、土地の歴史文化を古老に聞く(第一回)
シモキタの昔を古老が語る 話者 三十尾 生彦さん
鉄道線が交差していた下北沢も小田急が地下化して踏切がすっかりなくなった。風景が一変してしまったと言ってよい。街はどんどん変わりつつある。ここに住む人もまた入れ替わり、過去の記憶はますます遠ざかっていく。
かつて、八十年ほど前は、この辺りは至る所に畑があった、そこには肥だめがあって遊んでいた子供達はよく落ちてしまった。が、駅の東には北沢川の支流が流れていて水も案外きれいでエビや小魚が捕れた、夏にはホタルも舞っていてきれいだったという。
そういう往時のことはすっかり忘れ去られてしまった。が、この往時のことを記憶に鮮やかに残している人がいた。今年で九十二歳になられる三十尾 生彦さんである。
三十尾さんは千住で関東大震災に遭ってそののち北沢に移り住んだ。もう当地での生活は八十年にもなるという。
小田急が開通したのは昭和二年だ。これをきっかけに沿線はどんどん開発される。畑だったところが、竹やぶだったところがつぎつぎに宅地化して家になってしまった。丘上のアッパーミドルの住まい、低い方には庶民が住まった。彼の家のそばには思い出深い横町があってミニ商店街が形成されていた。彼の家のはす向かいにはキャフェがあって魅力的な女性がいたそうである。となりは石工の家で、トンカチトンカチ石を彫る音が聞こえていた。また、すぐちかくには製紙工場もあってここではセロファンが造られていた。
長い年月の間、三十尾さんは下北沢の街を見続けていた。どんな土地だったのか。どんな人がいたのか、記憶に中にあるシモキタの街の姿を語りを通して聞く。
話者 三十尾 生彦さん(92歳)
日時 1月9日(土)13時30分より
場所 北沢南区民集会所(世田谷区北沢3-25-8)
会費 200円
主催 北沢川文化遺産保存の会
定員 36名 申し込みは ネットおよび電話 早めに!
aoisigunal@hotmail.com(きむらけん)
米澤邦頼 090−3501−7278
四、都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
・第113回 1月16日(土) 午後1時 世田谷線若林駅集合
〇注記: 世田谷線若林駅集合=東急世田谷線若林駅集合(当日は沿線でボロ市開催のため、混雑・遅延必至!)。三茶探検大探検!(三茶の街の文化をみんなで探そう)
まず基本は、海野十三旧居、北原白秋旧居、山田風太郎旧居を訪ねる。その後は、参加者の発案によって三茶の街を探検する。なんでもござれ、奇妙な三角地帯、古びた商店街など、参加した人が案内をする。来たれ!三茶チャカチャカ、三茶大探検。
・第114回 2月20日(土)午後1時 京王線仙川駅改札前
仙川の文化を尋ねる 案内人 和田文雄さん
仙川駅→京王線旧線跡→滝坂→高射砲陣地跡付近→武者小路実篤公園→国分寺崖線の森→寺町→仙川駅
・第115回 3月19日(土)午後1時 京王線千歳烏山駅脇区民センターロビー
品川用水の痕跡を歩く 案内人 渡部一二さん(農学博士)
北沢川文化遺産保存の会・品川用水復活研究会共催
ロビーにて用水の説明→粕谷村の築堤→堀り通りと「洗い場」→塚戸十字路→ひえがら橋と急坂→小田急線千歳船橋駅
*今後の予定。四月、世田谷城を歩く(供法8涎遏江戸道と駒沢高射砲陣地。六月、恒例三田用水歩き。七月、駒沢練兵場と平和資料館
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも500円
参加申し込みについて(必ず三日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん aoisigunal@hotmail.com FAX3718-6498
■ 編集後記
▲会報への寄稿を!編集者以外の人が書くことで紙面が充実してきまし。論考、随筆の寄稿をお願いします。
▲インターネット上に「北沢川文化遺産保存の会掲示版」を設置しました。ちょっとした連絡や情報などを気軽に書き込んでください。
▲今回の会報114号は、郵送配布のものとは古老に聴くのところだだいぶ違う。ここは注意されたい。会場を邪宗門から北沢南区民集会所(世田谷区北沢3-25-8)に変更した。
▲新年になりました。会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。歩く会に参加したときに連絡係の米澤邦頼さんに払うこともできます。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへaoisigunal@hotmail.com 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。



















