2016年08月

2016年08月30日

下北沢X物語(3107)〜会報第122号:北沢川文化遺産保存の会〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第122号 
   
            2016年9月1日発行(毎月1回発行)
   東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
               会長 長井 邦雄(信濃屋)
 事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
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1、「北沢川文化遺産保存の会」第2回研究大会終了 

 先月8月6日、北沢タウンホール12階、スカイサロンを一日借り切って大会を開いた。「シモキタらしさのDNA」を語るをコンセプトに掲げて行った。ねらいは「消えゆく街の歴史を遺そう」というものだ。世田谷区教育委員会への後援申請も通り、広報「せたがや」にも掲載された。他団体、下北沢グリーンライン、世田谷ワイズメンズクラブの協力を得ることもできた。しかし、午前、午後、夜と三部からなる研究大会にどれだけの人が集まるのか正直不安であった。

 当初、10時から始まったとき、椅子は少なめに並べた。しかし、時間になると参加者が増えてきて、椅子をつぎつぎと継足した、安堵したことだった。一部から三部参加者の延べ参加人数は70名近くとなった。大盛況だったと言ってよい。

 まず午前は、下北沢の古老に語ってもらうという企画だった。三十尾生彦さん、伊藤文学さんがそれぞれに街の歴史を語った。三十尾さんは街の変化をつぶさに語られた。九十三歳の話は興味深い、かつては物売りの声が充ち満ちていたという。「いわしこー、いわしこー」という声が響いて聞こえてきたという。東京湾で採れたいわしを商う声だったと。金魚屋、風鈴屋、季節季節に街にはその声が響いていたと。
 伊藤文学さんは下北沢で興した出版業の盛衰を話された。都市中央の出版業から離れた地点で、独特の売れ口を探しあて、それが最後に凋落していくという話は、街の物語を聞くようでこれも面白いもののであった。

 午後は、研究会、本当に純粋な研究会だった。まずは、「下北沢交通史」(きむらたかしさん)、近世時代の道も含めての下北沢一帯の交通史を図表、写真などを使いながら詳しく発表された。恐らくはこれほどに詳しい交通史は当地域一帯では初めてことではなかったか、高く評価できるものである。

 二つ目の研究発表は「東京セロファン世田谷工場」(木村康伸さん)の歴史である。この工場のことは三十尾さんが初めて証言されたことから皆の知るところとなり、今回の発表に至った。地域の忘れられた歴史を掘り起こしたという点ではよかったと。
 このことから意外なことがわかった。世田谷工場ではなかったがこの会社に勤めていたのが当会の会員であった。セロファン工場は廃水が出る。それで近隣住民の苦情を聞くというのが仕事でもあった。やはり廃液の問題がどうしてもでてくる。よって北沢工場の移転は近代日本における公害史の一ページを飾るものかもしれないと彼はいう。その彼は苦情を聞いているうちに奥さんと出会って結婚されたという。

 今後のことである。この研究会をどうして行くかは課題だ。意義あることは間違いない。一つ言えば、いつまでもボランティア出演では済まされないということだ。今回は話していただいた方には、納涼会は招待とした。また研究発表された方には資料作成代として薄謝をさしあげた。高額謝礼は考えてはいないが一定の額は考えるべきではないか。
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 研究会や講演の謝礼は難しい問題だ。しかし、無償の奉仕活動というのもどうなのか。また、会場使用料や備品借用料金も経費としてかかる。今回の全日借り切って北沢タウンホールスカイサロンを会場として使った。部屋の使用料は31160円である。機器使用料7600円である。これは会の基金を活用して支払った。こういう経費をどのように生み出していくかは課題である。(左、当日の懇親会での記念写真)

 今後の展望  

 第3回目となる来年の研究会について決定したわけではないが、「三田用水」を研究テーマとした会を開こうと考えている。が、今回のようなベーシックな街の歴史を残そうという試みについては多くの方が興味を持たれた。今回、The Oliver L. Austin Photographic Collection の映写を行った。戦後の下北沢の街を鳥類学者がカラー写真で撮っていて往事の町並みが驚くほど鮮明に残されていた。空気感や臭いまでが伝わってくるものだった。この撮影された場所がどこであったかをきむらたかしさんが説明をする。すると会場から驚きの声が上がった。ビジュアルに街の変化がこれによって捉えられた。これを見て多くの人が過去風景を懐かしがっていた。
 終わった後に、自分も話してもいいという人が現れたり、また我らの関係者に小劇場を運営していた人がいたりしてびっくりしたものだった。
 今回会場として使ったスカイサロンは、改修工事に入る。来年夏は使えないようだ。それで一つの企画であるが、第四回ではやはり同じくテーマを「シモキタらしさのDNAを語る」にするのもよいのではないかと思う。
 長くこの街で店をやってこられた方、また、石坂悦子さんのように小劇場のオーナーをやって来た人などに街の隆盛を語ってもらう。計画としてはそんなことを考えている。

2、三田用水をめぐる会の開催

 代官山ステキ総合研究所は、まちづくりの一環として「緑の文化十字路」を構想されている。路の一端は、ここを通り抜けている三田用水を象徴されている。この用水は玉川用水を取り入れることから始まっている。その取り入れ口は我らのフィールドである北沢五丁目にある。そういう点でいうと縁が深い。今回九月に当会の二人、きむらたかしときむらけんとが招かれて話をすることになった。以下はその概要である。

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NPO法人代官山ステキ総合研究所 
                            地域の歴史を深堀する


代官山ステキサロン&懇親パーティ
<320年間、代官山エリアを流れていた三田用水の概要>

日時:2016年9月21日(水)開場6:00.開演6:30。
場所:HILLSIDE TERRACE E棟ロビー
参加費:お一人様3,500円


 渋谷・恵比寿・中目黒・池尻大橋。この矩形の広域代官山エリアに小さな用水(上水)が江戸時代、初期から流れていました。玉川用水から分枝し、西渋谷台地、白金台地の稜線を縫うように流れ続け、時代の要請を受けた役割を各地で果たしました。それが320年の歴史を持つ三田用水です。

 2020年には4000万人の外国人観光客が日本に訪れるといわれますが、江戸・東京の記憶が残るこの地の歴史を語れる方が少なくなっていることも事実です。それどころか、その存在さえ知らない方が増えているのは残念なことです。
 お話は三田用水研究の第一人者の方々です。皆様、お誘い合わせの上、ご参加ください。

三田用水の概要(敬称略) 

�〇暗塚竸紊粒詰廖    〔畋次々А  |楼荵鵬函κ杆郢�
 三田用水やその前身、三田上水と細川上水を国立国会図書館など蔵の絵図などをベースに解説。これまで膨大な三田用水関連資料を蒐集した動機、経過、結果の概略をお話しいただきます。また、三田用水研究の先行事例。さらに現状と今後の研究課題についても触れていただきます。                      
 
�◆”�景地形物語:三田用水        きむらけん  文化探査者・作家    
 風景や地形的な観点で三田用水を物語的視点で捉えてみようという試みである。日々近郊の荏原を歩き、都市荏原に眠る多くの物語を掘り起こしている。


 懇親パーティ(軽飲食あり8時頃〜)
     会員の方も当日参加の方も自由に名刺交換・意見交歓していただきます。


出欠表 (北沢川文化遺産会員、及び一般の参加希望者は掲出した参加票を印刷してください。)

 送付先:NPO法人代官山ステキ総合研究所 事務局
     〒150-0033 渋谷区猿楽町30-8 ツインビル代官山B-601 
 �筺�03−3496−1616 Fax: 03−3496−1604  E-mail: iwakin@aspi.co.jp


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3、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

・第120回 9月17日(土)午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
 駒沢給水塔の水道を歩く 案内者 駒沢給水塔保存会 新庄靖弘さん
 共催 駒沢給水塔保存会・北沢川文化遺産保存の会
 〇都市東京の発展の礎、渋谷町単独の水道事業の痕跡を歩く。
 桜新町駅→大山道追分→真福寺→フラワーランド(トイレ休憩)→小坂邸(武家屋敷)→岡本隧道出口→岡本隧道入口→岡本民家園(トイレ休憩)→野川水道橋→砧下浄水所 →多摩川取水口→ 砧元村(バス停) 16時30分頃 終了の予定。


・第121回 10月15日(土)午後1時 山の手線田端駅南口改札口前
田端文士村を歩く 案内者 原敏彦さん
 芥川龍之介旧居跡→香取秀真旧居跡→與楽寺→天然自笑軒跡→東覚寺赤紙仁王→堀辰雄下宿跡→萩原朔太郎旧居跡→小杉未醒(放庵)旧居跡→田河水泡・小林秀雄旧居跡→ポプラ坂・ポプラ倶楽部跡 →山本鼎旧居跡→板谷波山旧居跡→大龍寺(正岡子規・板谷波山墓)→室生犀星旧居跡→福士幸次郎・サトウハチロー旧居跡→童橋公園→田端文士村記念館 
・第122回 11月19日(土)午後1時 京浜東北線大森駅西口改札前
馬込文士村を歩く 案内者 松山信洋さん
・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線下北沢駅北口
下北沢の古写真の痕跡を歩く キュレーター きむらたかしさん
 The Oliver L. Austin Photographic Collection には戦後の下北沢を鮮明なカラー写真で撮ったものがある。その現場を探し当て、昔と今とがどう変化しているかを皆で観察する。初めての試みだ。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
  電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

■ 編集後記

▲「ミドリ楽団物語」〜戦火を潜り抜けた児童楽団〜えにし書房刊 2000+税
 8月9日に刊行。ネット通販が一番手に入るようです。ぜひお読みください。
▲8月13日、会員の発案で東演の「月光の夏」を北沢タウンホールで観劇した。この後の懇親会にも参加し若手の団員と交歓した。会員は他に呼びかけて調査や歩き、観劇などできる。当方に連絡があれば計画を会報に掲載したい。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


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2016年08月29日

下北沢X物語(3106)〜解放、開放、大会報122号〜

image1(一) 「今度のは第122号ですか。へぇ、驚いたな、よく続いたもんだ…」
 会報を印刷して事務局の「邪宗門」に昨日届けた。マスターの作道さんが言う。自分では毎月の仕事としている。会報の原稿を起こし、三軒茶屋のキャロットタワー三階の市民活動支援コーナーで印刷をする。言ってみればルーティン、深く考えたことはなかった。
「そうか、毎月一回だから計算すると十年二ヶ月となるわけだ!何とも恐ろしいことだ!」
 十年一日という諺がある。「長い年月の間、何の変化もなく同じ状態であること」をいう。繰り返し繰り返し同じことを行っていると、その間に月日が経ったことに気づかないでいる。
「もう十年も経ってしまったんだ!」
 気分として会報の玉手箱を開けたような思いがしたものだ。開けたとたんに透明の煙が立ち昇ったようだ。それで何だか急に歳を取ってしまったような気がする。
 そういえば資料を探していると会のみんなと撮った写真が出てくる。安吾文学碑の完工、横光利一文学顕彰碑の建立、比べると老けてみえる。人は気づかないうちに歳を取っていくのだ。


 会報では毎月の街歩きを案内している。この九月は「駒沢給水塔の水路を歩く」、これは120回目、これも十年目を迎える。正確な数は分からない。が、折に特番行事なども入れていた。参加人数は延べで2000人ぐらいにはなるのではないか。

 十年目を迎えるのは幾つもある、来年「戦争経験を聴く会、語る会」、また、「世田谷の戦跡を巡る」も同じだ。研究紀要も今年度発行するがテーマは「ダイダラボッチ」、第5号となる。発刊して五年が経つことになる。またついこの間始めた、「北沢川文化遺産保存の会・研究大会」は三回目を迎える。

 しかし、会があったらばこそ自分がある、と言える。人間死ぬまで何をするかということは大きな問題だ。動いて、考える、これが人間である。我らの会はこれを実践している。まず動く、これは歩くことだ、歩き回ってその土地を知る。文化探査である。

 これだけではない、戦争経験者の話、古老の話を聞いて過去を考える。大事なことである。歩いたり、考えたりを常に私たちはしている。これが活動の原動力ではないだろうか。

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2016年08月27日

下北沢X物語(3105)〜疎開学童資料に見る戦争の断面�検�

P1060095(一)世田谷の疎開学童の手紙、葉書、そして証言が近代戦争史をあぶり出した。それは浅間温泉に数多くの特攻隊員がいたことを証した。昨秋、長野県護国神社境内に特攻勇士の像が建立された。これには世田谷の疎開学童と彼らとが触れ合ったことが刻まれた。除幕式では当会が調べ上げたことが機縁になったとの挨拶が述べられた。

 武剋隊、武揚隊、ともに浅間温泉で一月余りの滞在を強いられた。偶然当地には都会から来た大勢の疎開学童がいた。未来ある命は彼らには輝かしく目に映った。死に逝く命が彼らに思いを託したのは自然だ。昭和二十年三月二十八日に武剋隊後発組六名はは松本飛行場を発って各務原飛行場に降り立った。そして航空路兵站宿舎に落ち着いた。時枝宏軍曹はこの日千代の湯の松本明美さんに、「元気な明ちやん達とお別れして急にさびしくなつてしまいました」と葉書を書いた。翌、二十九日、佐藤正伍長は梅の湯の石井貴和子さんに「貴和ちやんもお元気で書きたい事は山々あれど書かん」と書いて葉書を出した。後者には拗ねたような思いが見て取れる。

 時枝宏さんの葉書は四年前の2012年の「戦争と平和展」で展示された。松本から飛び立った特攻隊員が一人の女児に葉書を出した。人々の関心を惹くものだった。見学者がガラスに顔をくっつけて懸命にこれを読もうとした。このときの学芸員の毎日の仕事は顔の脂をぬぐうためにガラスを拭くことだったと。

 今回は佐藤正伍長の葉書が展示されている。「葉書と書簡をめぐる物語については、きむらけん氏の著書『忘れられた特攻隊』に詳しい」とある。これを読まないと経緯は分からない。今回の展示では脂汗がつくようなことはないようだ。

 武剋隊後半組の二人が、それぞれに各務原から浅間温泉にいる女児に葉書を送っている。思慕を綴ったものだ。四十日近くともに過ごしたことでその子に情が移ったということはあるだろう。当初、250キロ爆弾を装着する予定だったがそれが500キロ爆弾に変更になった。これが滞在を長引かせる結果となった。

「その装着変更がなかったら我々もこうやって毎年、浅間温泉で鉛筆部隊同窓会を開くこともなかったですね」
 24日夜、皆で集まった。鉛筆部隊の田中幸子さん、鉛筆部隊の故鹿子木幹雄さんの奥さん、真理子さん。武揚隊遺墨発見のきっかけとなった安曇野の丸山修さん。そして鉛筆部隊の手紙類を手に入れた山梨市の矢花勝己さんだ。それともうすっかりおなじみとなった目の湯の主人中野さんだ。

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2016年08月26日

下北沢X物語(3104)〜疎開学童資料に見る戦争の断面�掘�

P1060093(一)24日、松本博物館で開催されている「戦争と平和展」を見に行った。寄贈した佐藤正伍長の遺品がケースに収められ展示されていた。「疎開児童と特攻隊員」というタイトルがそれにはつけられていた。学童と隊員との深い交流を示す証拠である。

 この夜、「鉛筆部隊と特攻隊」の取材で知り合った人たちと出会った。浅間温泉目の湯旅館である。武剋隊将校が宿とした旅館で今もそのままの佇まいで残っている。彼らが宴席を張ったであろう部屋で皆とは一献を傾けた。

「どうも新京からここにやってきた特攻は本部直轄部隊で別格だったようですね……昭和二十年二月に発足しています、第二航空軍は盛大な壮行会を開いていますね…」

二月十日  新京にて特攻隊四隊の編成及集結完了。満州
         国皇帝に拝謁、記帳、恩賜品の下賜、建国神
         廟の参拝等行う。関東軍、第二航空軍主催の
         編成及出陣式並びに特攻四隊の全員出席して
         盛大な壮行会を開催。
「読谷村史」第五巻 資料編四 「戦時記録下」 2004年刊


「この特攻四隊のうち武剋隊と武揚隊が陸軍松本飛行場に飛来してきて長逗留してしまうのですよね。ところがこの二隊だけが長逗留してしまうのです。浅間温泉に疎開してきた学童たちは温泉に宿泊していた彼らと顔見知りになっています。ところがほとんどその名前は覚えていないのですね。滞在が短かったからでしょう。ところが武剋隊と武揚隊の隊員の名前は覚えていました。滞在が長かったことで接触する時間も多かった。それが理由ですね。でもここに謎があるのですね。彼らはどうして長くここに泊まっていたか?」
 
「段々分かってきましたが、特攻二隊は特別仕様の爆弾をつけようとしたみたいです。特攻機に装着する爆弾は250キロ爆弾が普通だった。ところが彼らの場合は違っていたようなんです…」

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2016年08月24日

下北沢X物語(3103)〜疎開学童資料に見る戦争の断面�供�

CCI20140511_0013(一)世田谷の疎開学童の日記や手紙から埋もれた戦争史が見えてくる。東大原小の疎開学童だった太田幸子さんの日記には昭和二〇年『三月二十八日(土)午後吉原さんが飛行機で富貴の湯の上を飛んだ。ちゅうかへりもした』と記録している。武剋隊後半組が先陣の大戦果の報を聞いて、「いざ沖縄へ」と旅立った日である。ここにそれぞれの戦隊の明暗がみてとれる。

 すなわちこの吉原さんは、武剋隊の兄弟隊である武揚隊の隊員である。武剋隊が大手柄をたてた。一段と気がはやる。一刻も早く特攻突撃をしたい、が、全機の整備ができていない。隊長山本薫中尉は分散出撃はしなかった。隊の一員、吉原香軍曹は同宿している疎開学童に腕を見せてやろうと富貴の湯上空で宙返りを見せた。この記述は、まだ武揚隊が浅間温泉に滞在していたことを示す。

 一方、武剋隊後半組は前半に続けと、二十八日各務原を発った。六機のうち一機佐藤正伍長は編隊から離れて浅間に飛んだ。この編隊機の長は誰かという問題はある。小林勇少尉か、金尚弼少尉か。これは大きな論争になっている問題だ。

 いずれにせよ、後半隊の隊長に断っての離脱だ。単機での分散行動を許したのは彼の思いを長は知っていたからだろう。佐藤正伍長は浅間に別れがたく、ここに飛来してきた。低空で急降下をして何度も梅の湯上空を旋回した。ところが偶然、これを見ていた少年が日記に絵と文字を書き残していた。三月二十八日とある。

 けふは朝、ねつがさがったのでおきました。そしておひるからみんなかわにあそびにいきました。そしてみずのひっかけっこをしました。そしたら飛行機がすごくてい空をとんできては急こうかをします。ぼくたちは夢ちゅうでようふくをふりました。

 飛行機好きの少年だけに絵は巧い。単発、複座、機首を巻いている帯、そして特徴的なことは操縦席真上のアンテナ、この先端から尾翼へアンテナ線が繋がれている。これが描き込まれている。
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 彼らの搭乗機は、九九式襲撃機である。「主翼前縁にスラット」、「視界を広げるために機体に比して風防・天蓋が大きく設計」されている。それらの特徴が絵と符合する。偶然、大槻さんは、女児に別れを告げにきた佐藤機を描いたのでないか?

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2016年08月23日

下北沢X物語(3102)〜疎開学童資料に見る戦争の断面〜

CCI20130815_0000(一)世田谷の疎開学童たちが残した日記、手紙などに近代戦争史が埋もれている。今回、その一部が松本博物館で開かれている「戦争と平和展」で展示されている。この資料の価値づけを含めて、戦争史の一端に触れてみたい。展示されているのは誠第三十二飛行隊、武剋隊隊員佐藤正伍長の遺品である。彼は、昭和20年4月3日、宮崎新田原飛行場から特攻出撃し帰らぬ人となった。
 
 昭和二十年(1945)二月十日、満州新京で特攻隊四隊の編成が行われた。扶揺隊、蒼龍隊、武剋隊、武揚隊だ。後者の二隊が陸軍松本飛行場に飛来してきて、ここで特攻機用に仕様を変えるための改修を行った。四十日あまりの滞在期間中に彼ら隊員は浅間温泉に疎開していた学童と出会って交流を重ねた。死地に赴く彼らと若い命とが出会ってドラマが生まれた。

 武剋隊の動向については隊付きの整備兵佐藤曹長が手記を残している。これに満州新京から行程が記録されている。が、この武剋隊十五機は整備の遅れが生じたことから前半九機、後半六機に別れて松本から飛び立っている。佐藤曹長は前半に付いた。それで後半の隊の動向は詳らかではない。ところが疎開学童資料がこれを記録している。

 今回の展覧会では、当方が寄贈した佐藤正隊員の遺品四点が展示されている。そのうちの一枚が葉書である。まずはその表書きだ。

長野県松本市外浅間温泉梅の湯旅館内玉川国民学校
  石井貴和子殿
 
 岐阜県稲敷郡那珂町各務原航空路兵站宿舎内 
          佐藤  正
三月二十九日


  後半隊は六名である。浅間温泉の三つの旅館に分宿していた。この手紙、梅の湯に疎開していた女児に宛てられたものだ。ここには少年飛行兵組の三人が宿泊していた。佐藤正伍長、佐藤英實伍長、古屋吾朗伍長である。千代の湯には航養組の時枝宏軍曹が、また目の湯に将校の小林勇少尉、金尚弼少尉がいた。

 後半組六名は、陸軍松本飛行場を飛び立ち、一旦各務原飛行場に立ち寄った。それが「航空路兵站宿舎」である。

 当時、新田原、各務原、立川などには、特攻隊員を主とする空中勤務者専用の航空兵站宿舎があった。いずれも食糧事情の悪いところだけに、国民大衆にたいしていささか申しわけない感がしたが、宿舎ではできうる限りのご馳走をつくって最大限のもてなしをしてくれた。 「特攻隊の裏方」 飛行第一○八戦隊 菱沼俊雄 
 「会報 特攻」 平成一三年二月刊
 
 
 こうやって引用しているが不思議だ。双発高練に搭乗して菱沼大尉は各務原に飛来してきた。そして、昭和二十年三月「二十九日と三十日は那珂町(岐阜と各務原のあいだにある)の航空兵站に泊まったのであった」(「特攻隊の裏方」)と記している。つまりは佐藤正伍長と同じ宿舎にその日泊まっていたということだ。

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2016年08月21日

下北沢X物語(3101)〜夏再び「戦争と平和展」松本博物館〜

CCI20160819_0000○兵は、いくさびとのことだ、兵器は、いくさびとが用いる武具、人間が敵を倒すための道具である。大事なことは人間が関わるものだという点だ。いくら兵士が勇敢だとしても使えば自分までが消滅するものを果たして兵器と呼んでいいのか?「核兵器」はこれに当たる。広島、長崎の経験は、残酷な核への認識ではなかったか。赤ちゃんも、子どもも、女も、爺さんも婆さんも一緒くたに皆殺しにするものだ。落とされた瞬間にすべては吹き飛ぶ。驚いたことに途中の建物一切合切が無くなり、広島湾に浮かぶ沖合の似の島が見通せた。戦慄する恐怖の爆弾だった。核は兵器ではない。あんなにも酷い武具だ。兵器ではなく、人類抹殺機、人類破綻装置だ。兵器と呼称するから平気でこれを使おうとする。核の使用を世界全体で禁止しようという「報告書」への採否が国連で行われたが日本は棄権をした。根幹は日本が米国の「核の傘」に依存しているからだ。人間抹殺機ということを知りながらこれによって自分を守っているのは根本的な疑問だ。アジアでは絶対に使わないとの他国との交渉を主導して核の傘から脱却すべきだ。唯一の被爆国の責務ではないか?、原爆被害者への誓いは、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」だった

(一)終戦記念日を迎える夏は、戦争戦争でたて込む。六日は原爆忌だった。この日、「戦争と平和展」が松本市博物館でオープンした。この式典に招かれていたが私たちの主催する研究会と重なったために欠席をした。

 四年前の夏、博物館を訪れたときにびっくりしたことがある。
 この頃、世田谷の疎開学童の取材を続けていた。その関係で下馬の太田幸子さんのお宅に伺った。彼女は東大原小の疎開学童だった。往事の克明な日記を見せていただいた。富貴の湯の上空で吉原さんが宙返りしたと書いてあった。調べていくと、この彼は、誠第31飛行隊、武揚隊の吉原香軍曹だった。特攻隊員の彼は旅館富貴の湯に宿泊していた。
「その時の写真です」
 彼女は一枚を差し出した。富貴の湯の庭で東大原小の女児たちと特攻隊員の数名が一緒に記念写真に収まっていた。その瞬間歴史の秘密に触れたように思ったことだ。
P1030097

 びっくりしたというのはこの写真のことだ。博物館玄関の右に大きな立て看板があった。これにこの写真が堂々と飾られていたからだ。まさに日の目をみた写真だ。

ところがここに写っているのは武揚隊の隊員ではなかった。これは写真照合で分かった。では、誰だったのかこれはいまだに分からない、謎である。

 つい二三日前、博物館から今回の展示の写真目録が送られてきた。これを見て私が寄贈した遺品が展示品として飾られていることを知った。

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2016年08月20日

下北沢X物語(3100)〜「カスバの女」と帝国音楽学校�検�

P1060088(一)人は時を生きる、このブログも時とともにある。今回の記事の回数は、3100である。多くの人と出会い、多くの話を聞いてきた。その証言を載せてきた。始まりを調べると2004年8月31日だ。間もなくで12年なる。出会った人は千人は超えるだろう。証言された方で亡くなられた方も少なくない。年月はそっと過ぎてゆく、「時は逝く、何時しらず柔らかに影してぞゆく」と詠んだのは白秋だ、この結びは、「時は逝く、赤き蒸汽の船腹の過ぎゆくごとく」だ。「時は逝く、ブログのアラビア数字の一つ一つが増えゆくたびに…」…。

 エト邦枝、一旦は歌手として華やかなスポットライトを浴びた。が、レコードは1776枚しか売れなかったと。すぐに歌手は廃業して下北沢で歌謡教室を開いて糊口を凌いだ。臥薪嘗胆、「カスバの女」が突然に脚光を浴び、本家本元の彼女は舞台に立ってこの歌を歌った。「苦節十二年、エト邦枝が歌う、『カスバの女』です」と紹介されてマイクを握る。スポットライトはきるんと目に光った涙を一瞬に映した。最高の時だったろう。

 が、栄枯盛衰、盛者必衰、人は老いて亡くなる。一人の女性の軌跡を追った。終焉の場所へ赴いた。そこは深沢五丁目十三番地、長谷川病院である。本通りの江戸道から脇道に入る、その左手に大きな建物があった。三階建てである。診療科目は、「内科、消化器科、肛門科、外科、整形外科」とあった。総合病院だ。しかし、何となく佇まいが静かである。人の出入りがない。不思議に思って玄関を覗きこむ。すると張り紙があった。
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 休院のお知らせ
 当院は昭和28年開院以来、皆様に多大なご支援を賜り診療にあたらせて頂きましたが、院長体調に不安を生じ、平成27年10月31日(土)をもって当分の間休院することになりました。
 患者さまには都合で休院することに対しお詫びいたしますとともにこれまでご愛顧賜りましたことをスタッフ一同感謝申し上げます。


 院長の高齢化による引退で病院を閉めたとのことだ。が、この張り紙によって分かったことがある。開院は昭和28年であるということだ。彼女は、昭和62年(1987)3月13日に亡くなっている。恐らくは救急搬送でこの病院に下北沢から運び込まれたものだろう。

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2016年08月18日

下北沢X物語(3099)〜「カスバの女」と帝国音楽学校�掘�

P1060050(一)文士町には人の盛衰物語がひっそりと隠れている。先だって六日、北沢タウンホールで研究会を開いた。二人の古老の話を聞いた。一人は伊藤文学さんだ。当地で親から引き継いだ出版業を続け、従来の文芸路線から脱却し際物へと舵を切った。これが大成功する、雑誌『薔薇族』である。が、インターネットの普及によって売れ行きが悪くなり、とうとう廃刊の憂き目に遭ったと。
 
 最盛期には儲かりに儲かって西洋アンティークを飾る美術館まで作ったほどだった。文学さんの出版は土地の文化と結びついている。出版辺境の地ゆえの男色という新手のジャンルを見出し成功した。興隆物語のなれの果てだ。いつだったか住む家まで小さくなったと嘆いていた。

 エト邦枝の場合は、これとは反対に事業規模が大きくなっていったようだ。「カスバの女」で打って出たがヒットせず、発売後三ヶ月で芸能界を引退した。そして下北沢で歌謡教室を開いた。恐らくは細々と始めたのだろう。しかし、段々に人気が高まっていった。杉村京子さんは、「練習場所は三室ありました」という。当初は一室だったが繁盛するにつれ、次第に部屋を増やし三室まで確保したのだろう。

 彼女は、歌謡教室で教えるだけでなく、「後は観光バスガイドの指導を10年間務め」(ウィキ)たという。全国から観光バスガイドが東京に研修にやってくる。このときに歌唱指導などを行った。帝国音楽学校で声楽をみっちりと習った彼女は、教え方も確かだったのだろう。持ち歌を若いバスガイドにきっちりと仕込んだ。

 バスガイドらは先生であるエト邦枝に実地指導では誉められた。こぶしまわしがすばらしいとか、音感が優れているとか。田舎に戻った彼女らは先生に誉められた歌声をバスの中で披露する。

 ここは地の果てアルジェリア どうせカスバの夜に咲く

 と歌った。函館で、金沢で、長崎で、鹿児島で、すると地方の観光地ではこれが流行るようになった。辺境を歌った音楽は深く人々の印象に残る、高度経済成長期にあった男たちは忙しい、日常から抜け出てさすらってみたい、彼らの願望でもある。これがカラオケで歌われるようになる。するとそれを聞いた女がまた歌う。次第次第にこの歌は全国に行き渡った。

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2016年08月17日

下北沢X物語(3098)〜「カスバの女」と帝国音楽学校�供繊�

P1060078(一)文士町という呼称は都市文化論への問題提起である。普通は、村だが、町と形容している。人との関係性が濃厚なのは村だ、が、町の場合はこれが希薄である。偶然的要素によって人が集って生活をしている。大元は分かっている、電鉄線の交差が大きな要因だ。機械が作り出した因縁はなかなか分からない。が、それがふとした機会に分かることがある。町物語のおもしろさだ。
 
 文士町は都鄙境物語である。知られなければ永遠に埋もれる、これが偶然分かることがある、「へぇ、そうだったか!」と。「マコト」の話も、マコトに面白い。故松林宗惠監督「ここに『マコト』という喫茶店があった」と下北沢駅北口の一角を指しながら教えられた。だいぶ探し回った揚句、「マコト」はまことにあった。多くの映画人、芸能人が出入りしていた喫茶店である。この「マコト」とつながりの話はひょっこり、ぽっこりとマコト不思議に後になって掘り起こされる。

 北沢四丁目の古老、三十尾生彦さんは、座間キャンプを慰問した。このときにプロモートに加わっている。慰問団は、灰田勝彦とその楽団、コメディアン坊や三郎。そして日本舞踊の名取藤間間七龍師匠であったと。
「浦島太郎物の早変わりの踊りに米兵は度肝を抜かれていました」
 この踊りの師匠に渡りをつけたのは三十尾さんだった。すぐ近くに住んでいたからだ。
「灰田勝彦と坊や三郎に渡りをつけたのは『マコト』のマスターだったと思います」
 これはついこの間、聞いた話だ。マコトのマコトだ。

 「シモキタらしさのDNAを語る」という研究会を行ったが、打ち合わせのときに聞いた話だ。エト邦枝のことも偶然杉村京子さんから得た話だ。「カスバの女」を歌ったエト邦枝の逸話だ。

「カスバの女」は、昭和30年(1955)に発表された。このときの経緯を「早すぎた流行歌 「カスバの女」〜大高ひさを作詞 東京・下北沢〜2010年4月9日(朝日新聞)は記す。

 テイチクは歌手にエト邦枝を考えていました。低いアルトと日本人離れした顔立ちが、この歌のイメージと重なったのでしょう。けれど、不幸なことに、映画主題歌として発売された「カスバの女」は、肝心の映画が中止になったため、社内の話題にもなりませんでした。失意のエトは3カ月後に芸能界を去り、小田急線の下北沢駅近くに歌謡教室を開きました。

  その歌謡教室はどこにあったのだろう。ネットで調べてみると、ここに通っていた人が、「東北沢4号または5号の踏切に近い場所にあった歌の教室」と記している。いまや踏切はすっかりなくなった。が、こういう踏切話に出くわすと俄然興味が湧いてくる。
「踏切の警報音とセッションをしながら『カスバの女』が歌われていたのでは?」
 すぐに妄想が湧いてくる。しかし、この人踏切のことについてやけに詳しい。踏切を号数で言う人めったにいない。
 4号は、交番前の踏切だ。5号は路地踏切だ、ここでは轢かれたり、自殺したりして何人もが死んでいる。
「あそこはおばちゃんの踏切と呼んでいました」
 鉛筆部隊の立川裕子さんの姪御さんから聞いた。叔母が自殺したからだ。これで思い出したのはここを渡ろうとして急に立ちすくんで動けなくなった子がいた。確か大月文子おばあちゃんの孫だったと思う。その話を聞いた霊媒師がたまたま大月菓子店に来ていて、「えぃ、やっ」とたちどころに気合いを掛けたところ、悪霊は消え去ったと…。
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2016年08月15日

下北沢X物語(3097)〜終戦記念日、核兵器は人類絶滅機〜

CCI20150805_0000(一)
「つくづく敗戦の惨めさを目前に見せつけられ、戦争などという事は孫末代までも生涯かけてすべきものにあらず」
 世田谷の代沢小学校の学童は信州に疎開した。その疎開先のお寺、真正寺のお上さん、橘弥生さんが日記に書き残されていた文言である。このお寺には、音楽好きの子が集まって毎日音楽に明け暮れていた。が、彼らは昭和二十年十一月一日、ここを発って東京へ引き揚げた。それまでは毎日学童たちが演奏する音楽が賑やかに鳴り響いていた。去った後には、今度は、「ドカン、ドカン」という響きが聞こえてきた。進駐してきた米兵が陸軍松本飛行場に残されていた数多くの日本軍の重爆撃機や戦闘機をダイナマイトで破壊した。彼女の息子たちは飛行場へ動員で駆出されこの虎の子を懸命に守っていた。それが敵の手に渡り、つぎつぎに壊されていく、聴くに堪えない音だったと。

 「戦争はどうあってもやってはならぬ」、一旦始まった戦争は何人死のうとも終わらない、人の生き死によりもメンツが重んぜられた。負け方の体裁を整えるためだ。国民はその間ただただ殺される。特攻に行って飛行機が不調で帰ってくると「どうしてお前は死ななかった。仲間に申し訳ないではないか」と問い詰められた。最後の本土決戦になって、竹槍で迎え撃て、それが駄目だったら敵の金玉を蹴り上げろ。全く無茶も無茶、戦略も何もあったものではない。

 わたしたちは戦争経験を聞く会、語る会を九回続けてきた。動員学徒の人々に来ていただいて話を聞いた。彼ら知性ある者が、「物力には負けるが精神力では日本は敵の何倍もの力がある」と信じて戦ったと言われた。

 しかし、現実にはどうころんでもまともに戦えない敵の圧倒的な力を見せつけられた。墜落したB29に備えられた給湯器は紅茶か珈琲を好みによって選べるものだった。搭乗員は全員パラシュートを装着していた。海上への不時着に備え救命ボートまで備えられていた。救急バックには何と釣り針まで備えてあった。

 以前、元特攻隊員だった久貫 兼資さんにお話を直接伺ったことがある。特攻機に乗って敵艦撃沈に向かったが機の故障で不時着して生還した方である。
「特攻は最も安上がりの戦法だった」
 と言われた。中古機に爆弾を装着し人間が操縦して敵艦に体当たりをする。そして死んだものは神様にする。機材は低廉、死んだ後には神になると言葉でいえばよい。間違いなく低廉で安上がりだ。戦争末期劣勢は明らかだった。本土の諸都市は空襲によってことごとく破壊された。が、国家は自殺に等しい本土決戦を声高に叫んだ。とことん追い詰められた揚句、国家存亡の危機とか言い、ついには特攻戦法に切り替える。作戦の不手際を人間爆弾という最後の手法として使った。兵士という駒を人間としては見ていなかった。
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2016年08月14日

下北沢X物語(3096)〜「カスバの女」と帝国音楽学校〜 

P1060076(一)一昨日元疎開学童の松本明美さんから葉書が来た。「あと二日で十二日です、七十二年前、浅間に出発した日がきます」と。世田谷の代沢国民学校は昭和二十年八月十二日に下北沢駅を発って、浅間温泉に向かった。当事者には忘れがたい日である。都会育ちの彼らが音楽会や演芸会で芸を披露する、地元の人は度肝を抜かれる、歌にせよ、踊りにせよ、巧みだった。当地、下北沢鉄道交点の芸能文化の反映である。ピアノを習ったり、日本舞踊や洋舞をたしなんだりした子がいた。いとも簡単に芸を披露してみせた。

 再疎開先の洗馬真正寺での音楽会に見事に日舞「絵日傘」を舞った子どもがいた。学区域には藤間流名取藤間勘七龍が教室を開いて教えていた。
「多分、そこに踊りを習いに行っていた子でしょう」
 北沢の古老三十尾生彦さんが言う。彼は戦後に米軍厚木基地を慰問している。灰田勝彦、坊や三郎、そしてこの藤間勘七龍が芸を披露した。大受けに受けた、下北沢に戻ってジープ一杯の戦利品をほくほく顔で山分けしたという。

 先日六日、北沢タウンホールの12階を一日借り切って研究大会を開いた。「シモキタらしさのDNAを語る」がテーマだった。この準備会を旧東北沢六号踏切前の大庄水産で行った。このときに居合わせた杉村京子さんから聞いた話がある。
「『カスバの女』を歌ったエト邦枝さんは一番街の八幡湯のマンションに住んでいました」
 その歌手の名前はメモした。が、何でもすぐになくしてしまう。ところが「カスバの女」は覚えていた。
 
 調べるとすぐにエト邦枝だと分かった。元演歌歌手が八幡湯のマンションに住んでいた。そう驚くべき話ではない。ところが興味を惹く点があった。この彼女「帝国音楽学校」卒業生だった。
東演納涼会A 
 学校は、下北沢の西隣世田谷中原(代田)にあった。昭和六年に創設されたこの学校は、戦争中の昭和二十年五月二十五日の空襲で焼失してそのまま廃校となった。高圧鉄塔64号のそば建っていた。
伝説の音楽学校だ。先だって世田谷代田の和菓子の老舗「香風」が閉店した。かつてここの二階に喫茶室があって音楽学校の学生がよく出入りしていた。やはり、音楽家を志しているゆえに服装もおしゃれだったようだ。しかし、音楽で身を立てることは容易ではない。ぼろぼろの服を着た苦学生もいた。

 エト邦枝も「香風」に来ていたろう。仲間と将来を語りあった。彼女、音楽があらばこそ数奇な運命を辿る。
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2016年08月12日

下北沢X物語(3095)〜青春18切符で旅にさ迷う�供繊�

P1060075(一)青春18切符に対置される旅は、豪華客船の旅だ。後者は人気があるらしい。巨大な船の設備は豪華だ。劇場やプールなどもある、酒池肉林、酒は飲み放題、肉も魚も食べ放題。が、こんな旅に私は我慢できない。やはり青春18切符程度の質素さがよい。何と言っても豪華なのはめくられる景色である。移りゆく景色を眺めながらぼんやりとしている時間は、何物にも代えがたい。

 民族学者宮本常一は、父親から「旅の十訓」を授かった。その第一、これがよい。

一、汽車に乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちが良いか悪いか村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か藁葺きか、そういうことも良く見ることだ。

 移動していく汽車からは土地が観察できる。家の造り、屋根の瓦の色、畑の作物、お墓の弔い方など。その土地その土地の固有性が出ていて面白い。
P1060073

 さて、さすらいの話だ。当日、浅間山南麓小諸市塩野あたりをさまよい歩いた。仲間の別宮さんからは、コメントがあった。「古道歩きには事前の調べは欠かせない」と。が、自分には漂流願望がある、必ずしもそこに行き着かなくてもよいというのがある。途中、藁葺き屋根の古民家には幾つも遭遇した。偶然ゆえに得がたいものだ。あてずっぽうの流離い旅の醍醐味だ。

 地方では歩行に価値はない、都会からの酔狂人がほっつき歩く程度だ。田舎にはすっかり車社会が定着している。かつてはどこに行っても道しるべはあったが今はない。カーナビの普及で必要がなくなったからだ。思えば迷った道にほとんでしるべはなかった。そしてまた道を聞こうにも人がいない。結局、十数キロ歩いたところでコンビニ辿り着き、タクシー会社に電話して車で駅までは乗っていった。小諸駅だ。

 信越線、小海線、中央線経由はもう昔から乗り慣れている。車窓を楽しむコースとしては一番よい。信越線はなくなって18切符が使えないJRバスやしなの鉄道に乗らなくてはなならない。これはこれでまた異文化を味わえる。ところが、この味わいのある各停旅行の小海線、ひところよりも乗客が減った。

 もっとも特徴的だったことは野辺山から団体が乗り込んできたことだ。彼らはつぎの清里まで高原列車の旅を楽しんで降りてしまった。バスのツアー客である。
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2016年08月11日

下北沢X物語(3094)〜青春18切符で旅にさ迷う〜

P1060074(一)このところずっと気を張って生活をしてきた。やっと仕事が一段落したことで旅心が湧いてきた。「山国の古街道でも歩いてみようか」と。それで、一昨日の九日、まずは新宿湘南ラインで高崎に向かった。ここからは信越本線の残存路線で横川まで向かう。かつて碓氷峠に材をとった物語を書くために何度も通ったところだ。鮮明に残っている記憶がある。

「トンネルの幕を引くときは釜をおっかぶせるにようにロープを操るんだ!」 

 碓氷峠には二十六箇所ものトンネルがあった。隧道番がここに居て、機関車が隧道に入ったとたんに幕を被せる。そのコツを隧道番の息子さんだった人から取材した。
煙害を防ぐための幕引きは危険な仕事だった。一歩誤れば命を失いかねない。が、この話そんな昔のことではない。碓氷峠に鉄道が敷設されたのは1893年だ。わずか123年前のことだ。116年前にはこんなことで人は自慢していた。これは小田原のことだ。

「ついこの間までは駕籠か草鞋がけだったんだからな。それがどうも芝居見物にでも行くようなこしらえで、上等の箱か何かで居眠りをしながらでお午後時分には着いて仕舞おうてんだかから大層なものさ。」   「熱海線私語」 牧野信一

 熱海と小田原の間に人が押す人車鉄道が開通した。そのときの喜びだ。時の移ろいの速さを思う、私は車窓からぼんやりと妙義山の山並みを眺めながら思った、ここ百十数年の間に驚嘆すべき交通の進歩の発展を。自身の記憶にある六十年だって恐ろしいほどの変化だった。速く、速くという貪欲さはとどまるところを知らない。外は見えなくても地下を潜ってでも名古屋や大阪にたちまちに着くというリニアを建設し始めた。旅は車窓にこそある、が、これをも抹殺してしまおうというのだ。

 横川から軽井沢までの在来線は廃止された。この間をJRバスが運行している。碓氷バイパスを通っていく。思い起こされるのは事故だ。今年1月15日、ここの入山峠で起こった「軽井沢スキーバス転落事故」である。痛ましい事故だ、乗客の多くは若者だ、15人が亡くなった。路線バスはその現場を通っていく、峠を上りきったあたりに痕跡があった。献花台に花束が見えた、現場は、いまだにガードレールが曲がっている。魂がうめいた痕跡だ。が、大事故の現場は一瞬にして過ぎる。そして車内には軽井沢へ向かう満員の乗客の安息感がある。自分も含めて事故とは無縁な日常を我らは生きている。
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 軽井沢からは「しなの鉄道線」に乗る、するとすぐに「中軽井沢駅」となる。昭和31年、「沓掛駅」だったものを変更した。味わいのある地名だが、経済宣伝を優先した結果これは消えた。「旅人が草鞋や馬の沓をささげて神に旅の平穏を祈ったことに由来するといわれる」地名だ。

 いつもここを通る度に、味気なさを感じる、ところが、この隣の駅名はそのまま残っている。「信濃追分」だ、地名からして詩的で素敵だ。名峰浅間山と信濃追分、ことばの響きを聞いただけでもうきうきとしてくる。
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2016年08月09日

下北沢X物語(3093)〜都市下北沢の興隆史研究�供�

P1060047・都市興隆史は面白い。しかし興って隆盛する様を見ていた人がいなくてはいけない。その経過をじっくりとみて観察していた人の証言は貴重である。しかし今回の反省である、歳を重ねた人を古老だとすぐに形容しないことだ。伊藤文学さん、古老と言われて驚いたと言われる。女性の胸元に熱い魅力を今も感じ続けていると言い切った。そんな人にはあまりいい言葉ではなかったようだ。古老、人生の熟成者とでも言い換えようか。

(一)
 街の発展と衰亡、見た目には栄えてはいるが生活はしにくくなっていると。かつて生鮮三品は多くあった街だが今はこれがない。それで隣町の三軒茶屋まで当地から買い物に行っている。三軒茶屋と下北沢とを結ぶ小田急シティバスは繁盛している。下61は自分でも愛用している。野沢から三軒茶屋に着くとシルバーパス該当者と思われる人たちが長蛇の列をなしている。
「あの三軒茶屋に行くと、まず食べ物のにおいがする。それと売り手の声が聞こえる」
 古老の三十尾さんはそう言っていた。そう太子堂の商店街は揚げたての天ぷらを売っている。そしてそのはす向かいでは今日はスイカが安いよとの声。

 一月に続いて再び、三十尾生彦さんに今回も話していただいた。脳という記憶箱に抽斗があってそこに逸話を眠らせておられる。そして自分の講演日が近づいてきたらパソコンに向かって要点を打ち込んでいく。日常への緊張感だ。

 今回、第二回研究大会の課題としては記録がある。研究会を開いたというだけでなく、その記録が役立つように公開の必要がある。そのためにはどうするか。対処としてはICレコーダーに撮る。もう一つはビデオ撮影をする。後者についてはユーチューブに公開したらどうかと提案している。

 後半の研究会の発表は高く評価できる。一帯の交通史の形成過程などは、これほど詳しく論じられたのは初めてのことだったのではないか。いずれにしても古老の話、研究会、いずれも記録するに値する貴重なものだ。
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2016年08月08日

下北沢X物語(3092)〜都市下北沢の興隆史研究〜

P1060064(一)八月六日、北沢川文化遺産保存の会は、北沢タウンホール十二階、スカイサロンを一日借り切って第2回研究大会を開いた。大会コンセプトは「シモキタらしさのDNAを語る」だ。街がどのようにして生まれたのか、その歴史的な経緯を語る会だ、ねらいは、「消えゆく街の歴史を遺そう」というものだ。一番の不安は、長丁場の大会にどれほど人が集まるのかということだった?

「そんなに人は来ないでしょう椅子は少なめでいい」
 ところがドラマは起こるものだ。
「人間、継足すことに幸福を覚えますね、椅子をどんどん足してくださいと言うときは嬉しさがこみ上げてきますね」
 基本、人は衰退よりも興隆を好む。幸いにして事前の不安は吹き飛び、盛況だった。一部、二部、三部の参加者を総計すると五六十名にもなる。第三部の懇親会でもお弁当が足りず、ついに下北沢「オオゼキ」まで走って買いに行ったほどだ。

 「消えゆく街の歴史を遺そう」というのが研究大会のコンセプトだ、午前第一部は、下北沢の古老、三十尾生彦さん、伊藤文学さんの話、午後は、研究発表二本、「下北沢を中心とする交通網の変遷」(きむらたかしさん)、「東京セロファン世田谷工場の歴史」。それと「下北沢文士町を巡る問題提起」、どうして芸術文化が濃厚に存在するのか、それと戦後下北沢の貴重なカラー写真の映写と解説だった。

 できるだけ参加者で街を語ってもらいたいと思っていたが、時間がなくてかなわなかった。

 研究大会の入場料は500円とした。昨年は300円だった。値上げしたわけだがこの点で主催者は、「対価に見合うだけの質と内容だったのか?」と自らに問わなくてはならない。しかし、古老たちの熱意のこもった弁舌、そして発表者の質の高いプレゼン、参加者の声、これらを総合すると「五百円」取っただけのことはあったと評価してよい。

・参加された方々が熱心に聞かれていたこと、発表の後にはつぎつぎに手が上がって多くの質問が出されたこと。
・第一部、第二部、途中で席を立って帰るという人がいなかったこと。
・予定していた時間が足りなくて準備していたものをカットするほどだった。
 

 大会を通して何を学んだのか?
 東の都市東京が市域を拡大するにつれ縁辺にあった当地域は大変貌を遂げていく。とくに東から延びてくるバス路線、鉄道路線による影響が大きい。雑木林、畑地だった当地が住宅地に変貌した。文明生活の拡大によって大きく変化しそして今日がある。

 大都会東京の膨張による大きな影響を受けて街は変化発展した。この裏には人間のドラマが渦巻いている。欲得や好奇心、人間の生の感情が吹きだまってきていた。
 思ったことは、温故知新である。過去を見詰めなおしてこそ未来が見えてきもする。

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2016年08月05日

下北沢X物語(3091)〜刊行『ミドリ楽団物語』〜

ミドリ楽団物語・戦中から戦後、価値が一気に転変する激動の時代だった。その中を駆け抜けた児童楽団がいた。世田谷代沢小のバンド部員たちだ。音楽に関わっていたからこそ彼らは濃縮された時代をくぐり抜けた。ゆえに副題は「戦火をくぐり抜けた児童楽団」とした。味方の日本軍を見舞い、そして敵の米軍を慰問した類い希な楽団だ。なかんずく現象として興味深いのは、下北沢鉄道交点の芸術文化がこの楽団において見事に映し出されている点だ。彼らの戦後における活躍は華々しい。映画やテレビを通して世界デビューまで果たしている。歴史の陰にひっそりと埋もれていた逸話だ、これを物語化したものだ。

(一)大海に出会って感動する、人間誰しもこれは一回こっきりである。子どもというのはそういう新たなものへ出会って次第に成長していくものだ。この児童楽団は価値や環境が激変する中を生きた。戦争があったらばこそである。当面したのは飢餓である。ゆえに食べ物との出会いは強烈だった。戦中、彼らは厳冬期、本土決戦に備えて訓練する決部隊を慰問した。そのときに大釜でぐつぐつ煮えているお汁粉を振る舞われた。戦後、アニー・パイル劇場では大きなハンバーガーに出会って驚いた。タマネギのみじん切りは食い放題、ケチャップも好きなだけかけられた。中には角砂糖まで挟み込む者もいた。食ショックだ。

 作品というのは一つの小宇宙である。書いている最中は、全体像は見えない。が、これを書き終わって作品になる。それが本として手に持てるようになったときに初めてその世界を掴んだ気になる。今回のは、聞き書きを素材にした物語だ。言えば歴史事実と自分の想像力が織りなしたものである。それだけに感銘が深い。あの場面、この場面が思い起こされる。描いた風景に対する郷愁である。

 学童たちのいる風景、彼らが潜っていく風景のトンネル、はスリリングだ。疎開列車の窓にはドラマが映る。、「海だ!」、「違うよ、山の中に海があるわけないよ」、「そうだよそうだよ、これは諏訪湖だよ!」、このあたりの会話が楽しい。こういう彼らの道行きは丁寧に書いた。提灯に照らされた夜の道をゆく場面も美しい。これが二箇所ある。

 一つは、下北沢駅南口の通りを行く彼らだ。提灯の光に先導されてここの坂を上る、バンドの部員が砂利道を歩いていくと背中にくくりつけたタンバリンの鈴が鳴る。ずっくざっく、じゃらり、すると歌の旋律が喚起されて少国民兵士たちは気持ちが鼓舞される。この夜は全町民あげての見送りだった。その人々に送られ疎開地に向かう。学校では三本杉校長に激励されたばかりだ。勇ましい歌の一つも出てこようというもの。昭和二十年八月十二日の夜のことである。

 もう一つある、提灯に照らされた道を歩く、それは帰郷の日である。これは昭和二十年十一月一日だ。洗馬村真正寺から中央本線洗馬駅まで約十キロの道を歩いていく。中山道との合流点付近から振り返ると曲がりくねった道を後方集団の提灯が揺れ動いている。そして谷間には星の光に照らされてぼんやりと銀色に光っている川が見える。奈良井川である。辛い疎開生活だったがいざ別れるとなると切ない。

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2016年08月04日

下北沢X物語(3090)〜文化遺産保存の会の研究大会に来たれ!

DSC02598○文化とはよって立つところの固有のにおいである。例えば、鉄道が交差していた下北沢にはブレーキシューが削った鉄粉が匂っていた。近隣のどぶも独特のにおいがあった。沢筋のにおい、そして丘上のにおい、これは日向くさい。これらが芸術感覚に影響していたと考えることもできる。街をそんな視点で捉えようという試みだ。面白がれば面白くなる、老若男女来たれ、我らの研究会へ。若者の参加費はただだ。先だって、武蔵中学の生徒が文士町を訪ねてきて、「坂口安吾文学碑」を見て、自由研究のテーマゲットと言ったそうだ。若者よ、中学生、高校生、大学生よ、来たれ、大歓迎だ。

(一)このところOliver L. AustinS Collectionで話題が沸騰している。鳥類学者だった彼が占領下の日本各地の風景をカラー写真に撮っている。この中に十数枚が下北沢の街を撮ったものである。鮮明なカラー映像は往事の空気感まで描いていて見事である。沸騰しているのはその写真がどこを撮ったものなのか、聞き込みや調査でここがほとんど分かってきた。これらは街を記録したものとしては貴重である。八月六日、第二回「北沢川文化遺産保存の会」研究大会を行うが、これをプロジェクターに映し、参加者に当時の街を語ってもらおうと計画している。

 「消えゆく街の歴史を遺そう」というのが今回のテーマでもある。第一部は、10時から古老に聞くを予定している。下北沢の戦前と戦後を、三十尾生彦さん(93歳)、伊藤文学さん(84歳)に語っていただく。
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 第二部は、13時30分から、まず、「シモキタの歴史研究」ということで、「下北沢を中心とする交通網の変遷」をきむらたかしさんが発表される。下北沢に多くの文化価値が集まってきた最大の原因は交通の発展、進歩である。これの経過が発表される。

 つぎに、北沢4丁目にあった「東京セロファン世田谷工場」の歴史について木村康伸さんにはなしてもらう。これも古老三十尾さんがその記憶を語ったことが発端になった。これを「知りたい」と言う話しになって今回の発表へ結び付いたものだ。

 東京近郊工業発展史として位置づけられ、記録されるべきものだが全貌はほとんど分かっていない、セロファンを作るには水が必要だ。推測されるのは地下水、それと用水だ。ここには三田用水の分流が流れていた。ここからの取水か?

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2016年08月03日

下北沢X物語(3089)〜改版『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』�供�

film416(一) 「昨日新聞に、原子爆弾で死んだ者二十八萬人と書いてありました。幸子はくやしくてくやしくてたまりませんでした。この尊い日本の国民を殺していういうと入って来るアメリカ兵、必づうらみは晴らさなければなりません。今の子供はいちばんせきにんが重いのです。」 

 昭和二十年「八月二十五日夕」と記された手紙の一節だ、東京世田谷東大原国民学校の六年の女子学童が下北沢野屋敷の実家に送ったものだ。原爆被害の過酷さを新聞は述べているが、犠牲者「二十八萬人」というのは過度な虚飾、プロパガンダだ。被害を水増しすることで国民の敵意を煽った。事実、彼女は敵への悔しさをぶつけている。

 被害者実数は正確にはつかめていないが、「昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計」とされている。たった一発で十数万人が死んだ。が、アメリカ国民の間では、「原爆のおかげで第二次大戦が終結した」とされている。しかし、もうこの時、全国の諸都市は大型爆撃機で廃墟と化していた。敗戦は時間の問題だった。そんなときに新型爆弾を敢えて用いた。「一発で十万人を殺す」ことはいかに言い繕っても正当化することはできない。惨殺である。

 この八月一日のニュースとして広島市長が、「原爆の日」の平和記念式典で読み上げるスピーチのことが伝えられていた。

 オバマ米大統領が5月に広島を訪問した際の演説から「核を保有する国々は恐怖の論理から逃れ、核兵器のない世界を追求する勇気を持たなければならない」との訴えを引用する。

 大統領演説は素晴らしい。2016年5月に生きていた人々は深い感銘を受けた。しかしこれを引用すると聞いたとき釈然としないものを感じた。「勇気」は必要だ。が、思うに、過去にさかのぼって核を使用しない「勇気」を持つべきだっのではないか?

 通常爆撃ならまだしもだ。「警戒警報」が鳴って、「空襲警報」に切り替わる、人々は覚悟を決めて逃げたり、防空壕に入ったりした。ところが、原子爆弾はこのプロセスがない。ドングワラワラと爆発したとたんに命が消える、溶けもした。何万人も半殺しの火傷を負いもした。こういう被害への想像力を持ち得たろうか。広島、長崎原爆からの教訓はこうではないか?

人類は絶対に原爆を落とさないと誓う勇気が必要だ。続きを読む

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2016年08月01日

下北沢X物語(3088)〜改版『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』〜



(一)原爆忌がまた近づいてきた。あの八月六日がまた巡ってくる。以前、これをテーマとした物語を書いた。『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』である、かつては、広島原爆資料館の売店でも売られていた。ところがこれも絶版となってしまった。私にとっては思い出深い本だ。2000年1月「読売新聞」書評欄に載った。

 ◆「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」 きむらけん著

 ヒロシマの悲劇をテーマにした児童文学はいくらもあるが、大人にこそ読んでほしいと思わせる作品はそう多くない。戦争が嫌いで電車が好きな人に、本書は忘れえぬ一冊となるだろう。
 男の多くが出征していなくなった戦争末期、広島電鉄の路面電車を運転した十五、十六歳の女学生がいたこと。被爆三日後の八月九日に一部で運転が再開され、それが地獄の底にいる市民に無言の励ましを与えたこと。二つの事実から、瞬く星の光のようなこの物語が生まれた。
 運転士の姉、電車好きの弟。ひもじい毎日でも仲良く、笑顔を忘れない四人姉弟のささやかな幸せが、一瞬の閃光(せんこう)で奪われる。独りぼっちになった弟は、死屍累々(ししるいるい)の廃墟で思いがけない電車の警鐘を聞いた……。  その年に生まれた著者は東京の高校教師。擬音、擬態語が鮮やかで、少年の心理描写も見事だ。綿密な調査・取材の跡がうかがわれるが、読む者の心を打つのは<想像力だろう>(顕)


 あの惨劇からは遠ざかっていくばかりだ。それでもあの悲劇は時代を超えて伝えていかなくてはならない。本は絶版となってしまった。しかし、これを生かす方はある。ネット時代はこれが容易である。アマゾンキンドルでは気軽にこれを作れる。

 このところひと月余り長編小説の校正に追われていた。日々文章との格闘だった。ようやっと終えて安堵する暇もなく、つぎのに取り掛かった。性質、タチとしてぼんやりとできない、それでつぎの仕事を見つけ出してしまう。ちょうどあの時節がすぐにめぐってくる。それでこの作業に取り掛かった。

 まずは、テキスト捜しから始まる。ところが書籍での発行は、1999年である。16年も前のことだ。さて原稿がどこにあるかだ。パソコンやUSB、DVDなど心当たりを探してみる。書籍での発行年は1999年だ。探しに探してようやっと見つかったのはフロッピーである。かろうじてこれに残っていた。

 旧作をネットで公開する、これも容易ではない、編集、校正、デザインなど全部自分でやらなくてはならない。表紙にはイラストレーターの著作権がある。前に広島に行って撮ってきた写真をあしらってこれは作った。

 本文は、書式を整える。刊行本を見ながらルビを改めて入れ直す。単語としては、運転士が頻繁に出て来る。が、チンチン電車の運転士である、やはりこれは運転手だろう。こんな問題は簡単だ一括変換で行えばすぐにできる。

 が、改版といっても大きく変えたわけではない。てにをはが中心だ、それでも何か所かの表現は変えた。大きな点は、最後に『電鉄家政女学校の記憶』という長編詩を載せたことだ。

 「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」は、事実を元にした物語だ。細かなところで事実と違う部分がある。それで真実詩とでも言っていいこの詩を載せた。

 前にも述べたが、ドキュメンタリー映画「皇国少女」の最後は、この長編詩がスクリーンに出てきて延々と流される。



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