2016年11月
2016年11月30日
下北沢X物語(3168)〜創立12周年&大月文子おばあちゃん〜
(一) 「今度の忘年会の弁当の名前は何にします?」と米澤さん、「何にしよう?」、夏冬の懇親会の弁当には名前をつけていた。先回納涼会のは、名前の在庫がなく「ミドリ楽団物語弁当」にした。さて今回は?と思ったとき「そうだ、創立が2004年12月だった」、「よし決まりだ、『創立12周年記念弁当』にしよう」、月日の経つのは恐ろしく早い、我らの会を打ち立ててからもう12年になった。驚きだ。十二年は長いようで短い。鉄道交点一帯の文化、歴史探査を続けてきた。途中出会った印象深い人は何人もいる。しかし大きな存在としては大月文子さんがいる。下北沢一番街大月菓子店のおばちゃんだった。残念ながら店は閉めてしまった。掲出した写真の年号は2009年3月となっている。
長年一番街で菓子店をやってきた大月さんは顔が広い。おばちゃんを通して多くの人を紹介してもらった。特に大事な点は、我らの本部は下北沢南部の「邪宗門」だ。南部情報は眠っていても入ってくる。
「中村汀女の北沢の家は、ご自分が貸しておられたところですからそこがその家ですよ」
お客さんとしてやってきた人が長い間分からなかったその家を教えてくれた。
中村汀女は仙台から世田谷北沢の家に越してくる。「世田谷」と部立てされたその冒頭が、「十月末北沢の家に入る」とあって、四句が詠まれている。その一句だ。
時雨るるや水をゆたかに井戸ポンプ
中村汀女俳句集成 東京新聞出版局
現代人にこの感動は分からない。当時は水道はない、家にある井戸ポンプが頼りだった。炊事、洗濯これが欠かせない。主婦である彼女は水の出が心配だった。ところがそこの井戸水は豊富だったごっきんごっきんと取っ手を上下すると清冽な水が樋からほとばしった。笑みがこぼれてくる。
何時も思うのは俳人なり、詩人がどこに住んでいたかということだ。北沢の家の跡を知って出かけた。鎌倉通りを挟んだ丘上だ、なるほど代田吹上方向から水が流れてくるわけだ、私はそう思った。関豆腐店は井戸水で豆腐を作っていた、巧かったらしい、豆腐と俳句はどこかで繋がる。土地や地形のおもしろさはここにあり!
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2016年11月28日
下北沢X物語(3167)〜戦時小田急入線幻のC58?〜
(一)「夏草に汽罐車の車輪来て止る」、少年の心のときめきを描いて見事だ。蒸気機関車は懐かしい、これが近代電車線を走ってきたら心躍るだろう。世田谷代田に住む人がこれが近くの小田急線に乗り入れてくると聞いて勇んで出かけたという、戦争時代に東海道線が爆撃でやられたらその補完線として小田急を使う、それで試験的に蒸気機関車が入ってくる、そういう噂があった。さてこれが本当かどうか?勤労感謝の日に「豪徳寺駅周辺風景づくりの会」が主催する「古老に聞く」が催された。テーマは玉電と小田急だ。話者は豪徳寺生まれ、豪徳寺育ちの千葉宏さんだ。講演会の最後に自由討議の時間があった。このときに三つの質問をした。
1、貨物列車による進駐米軍の入京?
2、戦時中の女性による電車運転?
3、C58機関車の小田急入線?
1と2は、既に記述済みだ。1については『下北沢X惜別物語』を参照されたい。(世田谷区立図書館十七冊収蔵)2についても3165回で触れた。残るは3である。
「東北沢の方を見ると坂の上から黒い煙を吐いて蒸気機関車が下ってきました」
茶沢通り踏切のところでこれを目撃した人から聞いた。が、これは小田急線開通前のことである。架線がない時は小型の蒸汽機関車で荷物を運んでいた。
この話、飯田勝さんから聞いたものだ。念のためと思って検索で調べたら「2013年11月22日」に他界されていた。息子さんの飯田淳さんが「飯田 勝 遺作展 『まなざし』」を「GALLERY HANA SHIMOKITAZAWA」開いていた。飯田さんの踏切のイラストが掲出されている、まさにその東北沢四号踏切だ。
「踏切の番小屋はどちら側にありました?」
「海側、スズナリ側ですね」
飯田さんから教わった。番小屋を描いた絵が掲出されている、「1987年 下北沢茶沢通り」とある。
そういえば思い出した。自由討議の時間、参加者の一人が
「経堂駅の構内の外れには、確かね、昭和二十五六年頃まで転車台がありましたよ」と。
あるいは、国鉄から入線してきた機関車はここで方向転換をしたのだろうか?
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2016年11月27日
下北沢X物語(3166)〜会報第125号:北沢川文化遺産保存の会〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第125号
2016年12月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、随想的文士町・文士村比較論
先月の街歩きは百二十二回目で馬込文士村を、その前の百二十一回では田端文士村を歩いた。文士や芸術家が多く集まった地域を文士村と呼ぶ。下北沢も作家や芸術家の参集地点である。が、村としないで町としている。それはなぜだろうか?他と比較すると見えてくるものがある。文士村比較論である。
・地形
共通する点がある、それは地形である。武蔵野台地の末端に位置していて谷や沢が深いことである。が、田端や馬込の場合に比べると下北沢の谷や丘は緩やかである。それでも地形というのは芸術文化に関連が深い。やはり景観が創作意欲を刺激するのではないかと思われる。この点、大森を最寄り駅とする馬込は景色の彫が深い。とば口の八景坂からはかつては海が見えていた。一帯は別荘地としても有名だった。
萩原朔太郎は、「坂」と題してこう述べている。馬込の坂であろう。
坂のある風景は、不思議に浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ。坂を見てゐると、その風景の向ふに、別の遙かな地平があるやうに思はれる。特に遠方から、透視的に見る場合がさうである。
詩人は晩年に世田谷代田に住むがやはり谷のあるところだ。が、馬込の坂はアプローチが長い、歩いている間に考えが浮かんでくることはあったろう。代田の場合は少し下ればおしまいだ。それでも彼にとっては土地の起伏というのは郷愁としてあったろうと思う。丘上に聳え建つ代田の丘の61号鉄塔と自身が設計した鋭角的な屋根には繋がりがあったと、自分では推理している。
いずれにしても三つに共通する点は地形の起伏だ。絵に描く場合、また、思念を深める場合、これは合いふさわしいものだったのではないか?
・間合い
下北沢野屋敷に住む石井さんはよく言っていた。
「うちの親父がここに住むことに決めたのだが、東京駅にコンパスの針をおいて十キロの縁を描く、そうするとここの下北沢がその線上にあったというんだね」
東京都心から下北沢は十キロ、大森の場合は十一キロ、田端は七キロだ。都会中心からの間合いも大事だ。文学や芸術はど真ん中を敬遠する、やはり一定の距離がある方がよい。きらめく光を遠望する、また遠くに都会の喧噪を聞いて絵筆やペンを走らせる。最も好んだポジションではないか。
いわゆる都鄙、都市と田園との境目が一番よい。谷があれば斜面には緑が残っている。昭和初年代であれば畑なども多かった。のどけさがあった。静寂である。これらこそ芸術や文学の源泉ではなかったか。
・人間同士
田端や馬込は、文士村だ。前者は芥川龍之介、後者は尾碕士郎、中心になる人物がいて多くの文士たちが集まった。人と人との関係が濃厚だった。それで彼らが集うサロンもあった。
下北沢文士町の場合はどうだろうか。文学サロンとして知られていたのは雨過山房である。すなわち横光利一邸である。
我らは、北沢川緑道に横光利一文学顕彰碑を建立した。これには二枚の敷石が使われている。横光家から戴いたものである。
小説『微笑』に描かれている逸話は有名だ。「石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す」と書かれている。梶は横光利一だと考えてよい、雨過山房に玄関までのアプローチに石畳が敷いてあった。それを渡ってくる訪問者の靴音で用件が分かったというものだ。このことを知っていて多くの文士たちが心してこの石畳を歩いた、大岡昇平などはそうである。
ただ街中に文士のサロンがあったとは聞かない。個別のグループで喫茶店に集まっていたというのは聞く話だ。パトロンみたいな形で家を貸していた人もいる。一番街のお茶屋さんには網野菊、大谷藤子、宇野千代などの女流が集まっていたそうである。
また文芸仲間が多く集まっていたのは下北沢静仙閣や代田の翠月荘などだ。他にも北原白秋の弟子筋が集まっていた下宿屋もあった。
下北沢での人間的な結びつきは党派的、個別的であった。また、下北沢界隈には多く短歌、俳句などの結社があってそこにそれぞれが集って作品を詠んだり批評したりしていた。詩人福田正夫の「どんぐり会」などはその一例である。
・何が文士を集めたか?
田端や馬込は中心人物がいて多くが集った。代表格は芥川龍之介であり、尾碕士郎であった。下北沢の場合は横光利一となる。しかしこれはここでは党派的だと述べた。新感覚派もいれば、プロレタリアレ系、北原白秋系など雑多なグループがあって随所で集っていたようだ。基本何が人を集めたか?
下北沢には教会が多い。どうしてか、とある牧師に伺ったところ「神のお導き」と言われた。が、教会のホームページには信者の交通の利便性を考えて当地に建てたとの説明がある。まさにこれが正解である。
小田急線と井の頭線が交差することで交通の利便性が高まった。これによって多くの人々が集まるようになった。俳句や短歌の結社があるのも人が来やすいからだ。しかし、いわゆる文士村のように示し合わせてきているわけではない、それぞれにそれぞれが自由に来ていた。だいぶ経って、下北沢駅でばったり出会って、「なんだおまえも来ていたのか?」と互いにびっくりする出会いがあった。
昨今分かったのは世田谷代田に帝国音楽学校ができた。これは昭和二年に開校している。かつて大根畑であったところが音楽学校になった。小田急が開通したことでこれはできた。鉄道が文化や芸術や音楽を当地に集めた。気付かぬうちに誰も彼もが集っていた。そのことから「文士村」ではなく、我らは「文士町」と呼んでいる。
2、創設12周年記念
忘年会&情報交換会&ダイダラボッチ音頭踊り発表会
もう十二月だ、今年もあと僅かとなった。イギリスのEU離脱、アメリカ大統領選での番狂わせなど思いがけない事態が幾つも起こった年だ。旧来の考え方や価値がどんどんと壊されいくという激動の年となった。世界は漂い始めた、基盤が失われつつあるのだろう。が、我らの拠って立つ場は、常なる文化探訪だ。これを追求きゅして止まない。土地固有ものを掘り起こす、その一つがダイダラボッチ音頭だ、今回石坂悦子さんがこれに振りをつけて下さった。ダイダラボッチ音頭の踊りでの初お披露目をする。歌おう、踊ろう、ダイダラボッチ音頭、歌ったり、語ったり、マジックをしたり、我らが集まって楽しく過ごす。それが恒例の忘年会だ。
基本、参加した人が楽しめる会にしようとこのところ夏と冬にはずっと開いている。まずはおいしいお弁当を食べ、好きな飲み物を飲み、各自が持ってきた何か(何でもよい、手作りのパン、自宅近くの名産、亡くなった丸山さんはいつも日の出納豆持参だった)をその逸話ととも味わい楽しむ。そして語り合ったり、しゃべったり、気が向いた人は手品をしたり(今回も作道明さんが披露してくれるだろう)、歌を唄ったり、踊りを踊ったり、(ダイダラボッチ音頭の振りができているやも知れず)して楽しむものである。
恒例のオークションも楽しめる。家でいらなくなったものを持ってきてみんなに買ってもらってその代金は会の活動費にする。夏に古い切符を持ってきている人がいてそれは忘れてしまっていた。楽しめるもの持ってきてほしい。今回はきむらたかし氏の古地図が出品。
日時、12月3日(土) 五時半から 場所 北沢タウンホール二階集会室
参加費 3000円 会員、非会員誰でも参加できる。
お約束の一人一品持参のこと(義務ではない)、オークション品(自宅に何かあれば)
申し込み締め切り 11月30日(水)までに米澤邦頼に090−3501−7278
○「信濃屋特製」豪華お弁当がつく、必ず連絡を
3、都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線下北沢駅北口前
下北沢の戦後カラー写真跡を歩く キュレーター きむらたかしさん
鳥類学者Austin さんが戦後に撮った下北沢の街の写真。当時の空気感や臭いまでもが漂ってくる鮮明なカラー映像である。どこで撮影されたのか、写真と今とを比較するという新しい試みの街歩きだ。右写真は、一例、東北沢6号踏切のところの写真だ
![847330_1464343782[1]](https://livedoor.blogimg.jp/rail777/imgs/a/1/a1c8c319-s.jpg)
・第124回 1月21日(土)午後1時 田端駅南口改札口前(前回と同じ)
田端文士村を歩く(2) 案内者 原敏彦さん
十月に実施したが全コース回りきれなかったので二回目を行うことにした。
芥川龍之介旧居跡→童橋公園→福士幸次郎・サトウハチロー旧居跡→鹿島龍蔵邸跡→大龍寺(正岡子規・板谷波山墓)→ポプラ坂・ポプラ倶楽部跡→板谷波山旧居跡→室生犀星旧居跡→田端文士村記念館
・第125回 2月18日(土) 午後1時 烏山区民センター前広場
(京王線千歳烏山駅北側徒歩1分)
烏山寺町を歩く 仙川地図研究所 和田文雄さん案内
・第126回 3月18日(土) 午後1時 田園都市線桜新町駅改札前
品川用水を歩く(�供法”弊醉竸緝�活研究会 渡部一二先生
昨年に引き続き第二回を行う。痕跡としては品川用水の水を活用した野沢水車跡がお堂などとして残っており、水車や石臼がここに残されている。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498
■ 編集後記
▲保険について。今年から街歩きのときに保険代として50円戴いている。が、このところ取っていない。何回か保険を掛けるために事務手続きを行った。これを掛けるには全体参加人数の把握が必要だ。しかし、これが掴めない。結局多めに掛け金をかけてしまう。大概は予想と合わず損失が出る。そんなことが続いたことで止めにしている。街歩きはこれからも続ける。自団体主催で十数名の場合は、「交通に気をつけよ」、「危ない場合には声を掛けよ」と互いに注意しあうことで凌ぐ。他団体との共催の場合のみ保険は掛ける、いかがか?
▲インターネット「北沢川文化遺産保存の会」の掲示板は自由に書き込める。また、フェイスブックについても「北沢川文化遺産保存の会」として入っている。これは申請した人が活用できる。フェイスブックで「北沢川文化遺産保存の会」でアクセスしてみてほしい。
▲当メール会報は会友に配信しているが、迷惑な場合はご連絡を。配信先から削除したい。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
2016年11月25日
下北沢X物語(3165)〜古老が語る小田急物語�供�
(一)風景は客体的にあるものではない、各自がこれを解釈して自分の記憶に貯め込んでいるだけである。人によって風景は違う。色好みの人はいつか経堂駅で会った美女を、鉄道好きの人は、「井の頭線の明大前駅と一高前駅間に、電車が一台だけ焼け残っていた」(『東京空襲』一色次郎)のを記憶している。後者は昭和二十年五月の空襲で多く車両が焼けて神泉駅のトンネルにあった二両だけが助かったという説を覆すものだ。11月23日、梅丘地区会館で「古老に聞く」が行われた。話者は八十七歳の千葉宏さんである。この日自由討議になって私は三つの質問をした。これまで多くの人から戦時中のエピソードを聞いてきた、その事実は掴んでいるがやはり裏を取っておくべきだ。記憶風景は人によって違う、個々人の願望がたまたま風景に生きているかもしれない。
・戦時中、小田急電車を女性が運転していたのは本当か?
戦争末期働き盛りの男性が出征させられた。鉄道の現業従事者も例外なく軍隊に取られた。それで鉄道を動かすことが困難なった。それで若い女性を充当した。駅員、あるいは車掌というのはごく普通にあった。が、電車を若い娘に運転させた例は少ない。
広島電鉄は困り果ててついには広島電鉄家政女学校の生徒を運転させた。慎重を期して三ノッチまでの低速運転をさせた。いわゆる直列走行で、これ以上だと並列走行になって速度が速くなる。実際に運転していた女性は、三ノッチ以上出ないように留め金がしてあったと聞く。このような市内線を動かしたという例はあるが通常の電車を動かしたというのは聞かない。それで興味を持っていた。
小田急の電車を女性が動かしていた。この話は、世田谷代田に住む若林麟介さんが記録されていた。
山の手が大空襲を受けた昭和20年5月25日の翌日だったか、小田急が漸く動き出しました。新宿駅はすっかり焼失し尽くされ、駅の広場の屋根を支えていたレールは、まるで飴のように曲がって倒れていました。南口の橋上からの景色は、焼け野原、京王線は未だ不通、南新宿から新宿駅に入ってきた普通電車の運転手は女性でした。
小田急も男性に代わって運転手を女性にさせていた。若林さん、橋上から見て運転席にいたのは女性だと認められたと言われる。このことは他に裏が取れれば間違いないこととして記録ができる。それで千葉宏さんに質問をしたのである。
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2016年11月24日
下北沢X物語(3164)〜古老が語る小田急物語〜
(一) 「月日は百代の過客」、時間は永遠の旅人だ、が、我らが乗っている時の船の乗り心地は悪くなっている。芭蕉時代は春夏秋冬が廻り灯籠のようにゆっくりと動いていた。一秒にも命があった、一級酒の味があった、が、今の時は三級酒、日々が薄っぺらい、総てが機械に管理されるようになっている。古老はこんな逸話を聞かせてくれた。「豪徳寺の駅は丘上の駅でした。階段を上って改札に入る、駅員が木柵に入っていて入鋏しますね…」
情景が目に浮かぶ。硬券にパンチを入れると屑が下に落ちる、それがタタキに散らばっていた。彼は絶えず鋏を動かしていてそれがカチカチと響く。
「それで改札を抜けると線路を渡ってホームに出るのですよ。準急や急行は止まらないでしょう、これが来るときは駅員は両手を大きく広げて通せんぼしていましたね」
懐かしい光景だ。今だと皆自動改札である。入鋏もない、通せんぼもない。
昨日、豪徳寺駅周辺風景づくりの会主催の「古老に聞く」が梅丘地区会館で開かれた。この案内は毎回戴いていて行ったことがなかった。今回のテーマは「玉電 小田急」だった。興味深い、それで参加した。が、会場は家から行くには不便だ、東横線、井の頭線、小田急線に乗って大回りしていく。簡単なのは真っ直ぐ北上すればよい、つまりは歩きだ、目黒区八雲から世田谷区梅丘までは小一時間で着いた。
「古老に聞く」、これは常日頃行っている。
一昨日だった、いつもの荏原逍遙で古老と出会った。八十七歳だ、名前は聞かなかった、仮に用賀洋子さんとでもしておこう。世田谷用賀で会ったからだ。
「戦争は地獄だった…人間はね、戦争で死ぬともうゴミよ」
彼女はそういう。
「荏原中延へ勤労動員で行かされたのね。あそこは空襲で丸焼けになったからね、焼けた工場から機械を掘り出してそれの分解掃除をするの、きつい仕事だった……それで大勢が焼け死んだの、死体に鳶口を突き刺して、それでトラックの荷台にほおりこむの、見ていられなかったね…」
人間戦争で死んだらもうゴミだ、焼き場で焼けない。広場に持っていって一緒くたにしてそこで燃やしてしまう。戦時中はごく普通に行われていた。
戦争は地獄だ、古老の言葉は覚えておかなくてはならない。
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2016年11月22日
下北沢X物語(3163)〜馬込文士村:景観、人間、都鄙�供�
(一)荏原台南端の馬込の谷は深い、この傾斜が名馬を産んだ。坂が馬を鍛て宇治川の先陣を司った「摺墨」が生まれた。朔太郎旧居のすぐそばに摺墨塚がある。この谷が人間を鍛えたか?、当地に居住した文士たちは坂を上ったり下ったりした。「坂を見てゐると、その風景の向ふに、別の遙かな地平があるやうに思はれる。」と朔太郎は言った。彼方には「のすたるぢや」がある。坂は思考の鍛錬をさせていたのかもしれない。急坂を上ったり下ったりしていると物を思うことは確かだ。馬込の谷はイマジネーションを湧かせもした。文学と丘の上下論というのはある。文学で食うというのは大変だ、まず修行せねばならない。その場合アパートか長屋だ、大概は低地のごみごみしたところに建っている。赤ん坊の泣く声、トイレの臭いが漂うところで考えたり書いたりする。しかし丘下の貧乏長屋で苦労しても報われるのはごく少数だ。辛酸、苦渋を嘗めて、金が入るようになると眺望のいいところに居を構える。が、努力だけではどうにもならない、才能、そして運も必要だ。
大成した作家は丘上に住む。今回、馬込の三島由紀夫邸には初めて行った。やはり丘上だった。その位置を確かめたがどうもそこからは富士が望めるようだ。日本文学と富士、そして日本の美学にはこの山は欠かせない。
「自分の家の近くに目黒区緑が丘の三島の家があって何度か訪ねたことがあるのですが、これが旧番地でよく分からなかったのですよ。現住所は分かりますか?」
馬込文士村を歩いているときに案内人の松山信洋さんに聞いた。
「わかります」
すぐに知らせてくれた。
昨日散歩の途中、そこへ行った。緑が丘一丁目である、その家の前の道は古道だ。坂になっていて名がついている。「寺郷坂」目黒区教育委員会た立てた標識もある。
この坂上には立源寺があり、かつてこの周辺を「寺郷」といった。また、この道は江戸時代、九品仏へ向かう道で、この辺りに水茶屋があったため「衾の茶屋坂」とも呼ばれていた。九品仏道である。
やはり三島邸は丘上にあった。緑が丘の一等地である。恐らくここからも富士が見えたろうと思う。そこはかつての海軍村だ。海軍軍人が多く住んでいた。あるいは体がなまるから好んで住んだのではないか?三島も隣町の自由が丘のボディビルジムに通っていたという。きっと歩いていったろう。緑が丘の坂海軍軍人と肉体派作家を鍛えたか。
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2016年11月21日
下北沢X物語(3162)〜馬込文士村:景観、人間、都鄙〜
(一)芸術や文化が生まれるときに都市との間合いというのは重要だ。都会の喧噪がさざ波のように押し寄せたり、夜には銀座の灯りが遠望できたりする都会近郊はクリエーティブな場としては絶好だったろう。そしてもう一つ大事なのは景観だ。深く抉り込まれた九十九谷の地形も見逃せない。荏原台南端の谷の上からは海が見え、そして富士も見えた。人々が憩う場としては最適だった。馬込文士村の最寄り駅、大森は歴史が古い。明治五年に新橋と横浜間の日本で最初の鉄道が開通する。当初、大森には駅はなかったが四年後の明治九年には駅ができる。都心と間をおいたここは別荘地として好適だった。丘上は風光明媚で外国人が別荘を作った。
大森山王は馬込に行くときの入り口だ。外国人別荘地を通って、馬込の大根畑に行く、異国世界を通って田舎に行くというところは一つの魅力ではなかったか。
馬込文士村と下北沢文士町は関連や繋がりがある。ここへ住んでいて後に文士町へ来た人が何人もいるからだ。筆頭は萩原朔太郎であり、三好達治であり、そして宇野千代だ。そして朔太郎の娘萩原葉子も加えられる。
十一月十九日、松山信洋さんを案内者とし馬込文士村を巡った。タイトルは、「馬込文士村散歩〜女性・新しい時代の風」というものだ。宇野千代を初めとしてここでは女性が自己主張をなした。その辺りを問題提起していくものだ。
文士町と比べると遥かにこちらの方が歴史が古い。一番特徴的なのはやはり地形だ。駅そのものが丘にある。そして山王に向かうがここへは急階段を上っていく。登り切ると平坦でゆったりとした敷地にお屋敷が今も建っている。
「大森も高台の方には殊に別荘が多い」「高台一帯の住宅地は、場所によると海をみはらして景色がよい。空気も柔らかく、冬も東京の山の手などよりは暖かいから養生地にも適している」(河井酔茗『東京近郊めぐり』大正十一年)、松山さんもこれを資料としていた。歩いてみて分かる山王に住むことはステータスだった。
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2016年11月19日
下北沢X物語(3161)〜渋谷の狸と時間格差〜
(一)東横線から井の頭線への乗り換えは極端に不便となった。うなぎの寝床のような地下通路をぐるぐると回ってようやく乗り場に着く。多くの人がなるべく渋谷を通らないでいくようにしていると。私の愛用路線は下61小田急シティバス、北沢タウンホール行きだ。下北沢に直行するバスだ。三茶西友前では長蛇の列、お年寄りが買い物をして下北沢方面に行く。太子堂商店街は昔懐かしい売り声や食べ物の臭いがする。電車よりもバス、とはいうものの渋谷迷宮を通らざるを得ないときもある。この間、渋谷の狸に出会った。まず行きである、例のうなぎの寝床を通っていくとき途中丸柱の列がある。その一つ一つに着飾った可愛らしい女の子の拡大写真が貼ってある。アイドルの女の子たちらしい。ミニスカートをはいた彼女らに見とれながらいく。
この時は、かつての職場の僚友のお通夜に行くためだ。行きと帰りでは三時間ほどしかない、ところが帰りだ。かわい子ちゃんたちが居ない。代わって今度はむくつけき男の子たちがやはり丸柱に貼られていた。男子のアイドルたちだ。通り掛かった女性がそれにカメラを向けている。かっこいい男の子ゆえに惹かれたのだろう。
「お通夜に行っている間に張替えたのか!」
あまりにもの変わり身の早さに驚いてしまった。渋谷の狸に化かされたのか?
葬式への往復で出会った変化だ、「朝には紅顔ありて夕べには白骨となる」という世の無常をいう言葉を思い出した。何たる変化の激しさだろう。都市は変化を見せつけて飽きさせないところだ。しかしこんな変化は必要なのか?近代都市人は時間をも食いつぶしているのではないかと。
ある人にこの話をしたら、「あれは照射だ」という、天井に機器があってそれが映像を切り替えているのだと、渋谷の狸説は、いとも簡単に崩壊した。
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2016年11月18日
下北沢X物語(3160)〜死ぬまで歩きたい、書いていたい〜
(一)我らの会の街歩きに参加されていた九十歳を過ぎた人が、「死ぬまで歩いていたい」と。同感だった、日々私も歩いている、そして書いている。この二つが生きる糧だ。それで「死ぬまで歩きたい、書きたい」というのは私の願望だ。気付いてみると自分もそう長くないと思ってきた。この間、京王線布田のお寺まで行ってきた。かつての同僚のお通夜があった、私よりも彼は若い。遺影に手を合わせながら、やがては自分の番が回ってくると思った。帰りの電車の中で、はかない命だ。「それまでは歩きを楽しもう、また書くことに燃えよう」と決意した。しかし、後者は何でもいいというわけではない、興味を持って熱意を注げるものでないと難しい。歩くのは身体を動かせばいい、が、書くのは考えを要する。自分の関心が持てるものでないと意欲が湧かない。もともと私は鉄道が好きである。鉄道童話を書いたり、鉄道文学を著わしたりしてきた。ここのところずっと歴史物に手を染めていた。これらに一区切りついたことから年来のテーマに取り組もうと思った。
『音の鉄道文学史』である、レールを刻む音が実は、我々の心を刻んできたのだという自分の鉄道観である。明治、大正、昭和の文学作品に鉄道の響きが記録されている。これを順次追っていけば『音の鉄道文学史』ができる。少しずつ書きためてきた。おおよそ八割方はできていて企画書もまとめた。反応は悪くはない、どこかが手を挙げてくれるだろうと思う。
自分の人生もそう長くはない、店じまいに備えてやることはやっておこう。鉄道文学史は自分のライフワークである。が、これまでを俯瞰するとやり残したことがある。十年来、取り組んできた文化探査だ。下北沢文士町の探訪である。懸命にやってきて四基の文学碑を建立してきた。また文士町地図も改版に改版を重ねてきた、その経緯を含めて『下北沢文士町物語』としてまとめることはできる。しかし、これはエベレストに登るような困難さがある。自分で築いてきた山が途方もないものになった。今日のブログのエントリー数が「3160」だ、膨大な言葉の山の下に、物語や逸話が書き留められている。これを整理することは超難題だ。
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2016年11月16日
下北沢X物語(3159)〜「ミドリ楽団」とトランプ旋風�供�
(一)この東京世田谷上空を心底気持ちが悪くなるほどに敵機が覆った。その巨大な重爆撃機が次から次に現れる。1945年5月24日、今の羽根木公園、根津山からこれを見ていたのは一色次郎だ。「今夜はいったいどういうことなのだろか。私は胸の奥がしんとつめたくなった。敵はどうしてこんなにもたくさんの飛行機を飛ばすのだろう。私は首をかしげないではいられなかった。」(『東京空襲』)、巨大重爆撃機はサーチライトで照らされている、ジュラルミンでできた巨大鯨だ、それが次々と湧くように現れる。まさに「偉大なるアメリカ」が、圧倒的な物量を見せつけた日だった。あれから71年、アメリカは凋落した。貧すれば鈍する、次期大統領候補は人種差別を公然と言い放つ、「民主主義や人権、法の支配の尊重という米国の基本」すら危うくなってきた。覚えておかなくてはならないことがある。敵だったアメリカは軍国主義に染まっていた日本を解放した。軍部は徹底抗戦を叫んでいた、一億総特攻である。気が狂っているとしか思えない。そんなときに空から降ってきた伝単には何が書いてあったか?今、これを注目すべきだ。B29から撒かれたビラである。
日本国民は次の自由(私権)を享有すべきである。
一、欲望の自由
一、恐怖からの自由
一、言語の自由
一、圧政からの自由
右の自由を得る道はただ一つである。
この戦争を惹起した軍閥を除去し、自由国民の仲間入りをし給へ。
この頃軍部は敵の圧倒的な戦力にこてんぱんにうちのめされているにも関わらず、「被害軽微」などとラジオで伝えていた、「大本営発表」を平然と流していた。そんな圧政に強いられている国民への呼びかけだ。この頃の敵の偉大さだ、「民主主義や人権」を説いている。
しかし、空と地上では人々が吸っている空気はまるで違っていた。我々は飢えに苦しんでいた。が、上空の空飛ぶ要塞では快適だった。設備として紅茶か珈琲を選んで飲める給湯器が備えられていた。圧倒的に豊かであり、かつまた強かった。
そういうアメリカに帰ろう。"Make America Great Again"という呼びかけだ。アメリカ人大衆はそれに乗った。が、方向がおかしい、民主主義にや人権尊重という基本理念と逆行しはじめたようだ。
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2016年11月15日
下北沢X物語(3158)〜「ミドリ楽団」とトランプ旋風〜
(一)アメリカ大統領選の演説でトランプは、「Make America Great Again」と訴えた。偉大なアメリカを取り戻せ、である。結果として予想は覆り、クリントン氏を打ち破ってトランプ氏が大統領となった。本国アメリカ、また日本でも激震が走った。速報を聞いて思い返したのは、「ミドリ楽団」の団員のことだ。この夏「ミドリ楽団物語」を上梓した。この物語の核は楽団団員たちがグレートアメリカに遭遇したカルチャーショックだった。グレートアメリカ、それは物資の潤沢さ、人々の明るさ、そして、自信だった。疎開先で窮乏生活を送っていた疎開学童たちは、1945年8月15日に日本が戦争に負けたと知らされる。男子は悔し涙を流した。土手に集合を掛けたり、本堂の片隅への参集を呼びかけたりした、そして皆で指切りげんまんをした。日本を滅ぼしたアメリカへの復讐を誓った。
代沢小に赴任してきた浜館菊雄先生は、戦前にバンドを結成した。が、たちまちに戦争に突入する。歌舞音曲は慎まなくてはならない、しかし、楽器は親から離された子の心を慰めるものだと強く主張して疎開先にこれを持ち込んだ。第一次疎開先では、浅間楽団、第二次疎開先では、真正寺楽団とし、練習を重ねた。
戦争中であったが、演奏技量がこれによって保たれた。戦後になって活動を再開する、たゆまぬ練習が功を奏する、児童楽団の演奏技量を聞きつけた米軍から慰問のオファーを受ける。「ミドリ楽団」として再発足した彼らは聖路加国際病院での初演奏に臨む。傷痍軍人の慰問だ。
病院には礼拝堂がある、そこのホールで演奏は行われた。大きなソファーに大きなおしりを乗せた白人がどでんと座っている。また、松葉杖をついた黒人もいた。髪の毛が金髪、ブロンド、そして黒、また目の色も違う。それだけでも緊張したものだ。
しかし、彼らはひるまなかった。音楽に国境はないというのが指導者の浜館菊雄の口癖だ。心を込めて演奏すれば必ず成功すると。それで彼らは懸命に弾いた。編曲の手練れは彼らの一人一人に楽譜を持たせていた。木琴、ハーモニカ、アコーデオンが中心である。が、単に弾いたり、吹いたりするわけではない、各楽器には出番がある。木琴がリードするとつぎにハーモニカの番になって、そして、アコーデオンに移る。音楽演奏のキレのよさは聴衆の耳を射た。
「アメリカ人の反応が日本人の三倍!」
大きな手で彼らは拍手した。松葉杖をついた者も立ち上がって手をたたいた。この病院での演奏は大成功だった。彼らのデビューはこれがきっかけだ。

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2016年11月13日
下北沢X物語(3157)〜機縁因縁安吾文学碑〜
(一)私達の乗った人生の船はさ迷い漂流する、そして突然に思いがけないところに寄港する。昨日は四人の方々を文士町案内に誘い、坂口安吾文学碑までたどり着いた。近代戦争史の発掘の旅は碑が据えてある代沢小から始まった。ここの学童は浅間温泉に疎開した。分宿した先の千代の湯班は引率の先生によって鉛筆部隊と呼ばれた。その学童たちと偶然に立ち寄った特攻隊員との交流がなされた。その一人時枝宏軍曹は、出撃時に僚友に子どもへの言づてを頼んだ。「出発の際まで皆さんと楽しく遊んだことを非常にうれしく」思っていたと。これを頼まれたのが「自分は同じ任務についている武揚隊の五来軍曹」である、これを手がかりにしてひっそりと消えて行こうとしたこの隊を追った。そして、昨日はその関係者を安吾文学碑へと案内した。誰あろう?武揚隊の隊長山本薫中尉の末裔である。弟の長男ご夫妻と、そのお子さん二人である。この坂口安吾文学碑は我々が尽力して建立した。文学碑第一号である。安吾はこの学校で代用教員として務めた。そのときの思いを「風と光と二十歳の私と」作品に編んだ。その一節、「人間の尊さは自分を苦しめることにある」を刻んだ。因縁の彼ら武揚隊隊員はあまりにも出撃までが長引いた。死のうとするのに死ねないところが苦しく、辛かったようだ。
出撃せねばならないのにできない、覚悟ができているのに死ねない、死ぬことを猶予されて長く生を生きた。難行苦行の末に最期を迎えている。こういうことは全く知られていない。戦場の影に潜む逸話に私は深い興味を覚える。
「先生、彼らの霊が取り憑いているのですよ」と皆がいう。
昨日、山本さんのご家族を案内して事務局の邪宗門行った。ここで記念写真を撮ったときのことだ。
「あれ、何か変な影が写っていますよ。やっぱりこれは霊ですよ」
写真を撮ってくれた仲間の米澤邦頼さんが云う。
この武揚隊、最後は台湾の八塊飛行場から沖縄へ向かって特攻に行った。隊長の山本薫中尉もそうだ。ついこの間、家族でここに行かれたそうである。
「最後に歩いた地を歩きたい」
奥さん、山本記美代さんの願いから現地訪問された。
「飛行場跡は防衛大学になっていて中には入れません」
縁戚の隊長の足跡をたどる、すれば関心が深まる。やはりネットで調べられたようである。
「ただ台湾から出撃したということだけが念頭にあったのです」
私が書き記しているもので満州からの苦難の道程が分かった。それで私に会いたいということで資料を持って上京された。四国からである。(代沢小安吾文学碑前で山本家の皆さん)
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2016年11月12日
下北沢X物語(3156)〜歴史的写真の謎いま再び〜
(一)偶然に発見した写真は歴史的な写真となった。航空兵と疎開学童とが一緒になって写った写真だ。博物館の正面玄関に掲げられたり、ポスターになったり、テレビでも放映されたりした。が、この写真の真相は分かっていない。ところが謎が少し解けてきた。松本浅間温泉で疎開学童と特攻隊とが深い関係を持っていた。それをシンボライズするものとして今は使われている。今考えると不思議だ。全く同じ写真だがつぎつぎに見つかって、今度また三枚目に出会って、謎の一端が解けた。
まず一枚目だ、世田谷下馬の取材先の家から発見された。「こんなものがあります」と太田幸子さんは言って一枚の写真を出された。そこには疎開学童の女児と航空兵とが一緒になって写っていた。
彼女は東大原国民学校の疎開学童である。浅間温泉富貴の湯に滞在していた。写真はその庭で撮ったものである。太田さんの肩に一人の兵士が手を掛けている。この兵士は誰なのか?またもう一人、飛行帽を被った兵士が女児を抱くようにして写っている。この兵士は誰か、もっといえばこれの部隊名は何というのかよく分からなかった。
つぎに二枚目だ、自身のブログでの情報発信がこれまた歴史資料の発掘に繋がった。検索でこのブログを見つけた安曇野の丸山修さんが手元にある資料の存在を知らせてきた。それは二つだ、一つは浅間温泉富貴の湯にいた武揚隊隊員に揮毫を頼んだようで、和綴じ帳には各隊員が書き残した言葉が書かれていた。もう一つはアルバムだ。多くの兵が写っていた。その中にこの一枚が挟まっていた。

これの持ち主は高山宝子さんだ。彼女は富貴の湯に来ていた特攻隊員飯沼芳雄伍長の小学校時代の同級生だった。そのことからこの旅館には度々慰問に訪れていた。それで遺墨と写真とを持っていた。後者には多くの航空兵が写っていた、その中一枚としてこの写真があった。
どうやら疎開学童たちや地元の関係者にはこれが配られていたようだ。
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2016年11月10日
下北沢X物語(3155)〜第10回記念「戦争経験を聴く会・語る会」〜
(一)戦争はすべてを破壊する。一旦これが始まれば人間が人間でなくなる。日常の法は役立たなくなる、人が死んでも殺されても何とも思わなくなる。が、あの戦争から遠ざかり、これも忘れられつつある。浸透してきているのは核には核で対峙しようという人間のおごりだ。たった一発で何十万人を殺すという悪魔の兵器だ、広島、長崎の惨状は忘れてはならぬ。ところが事態は急変した。日本もその核を持てと主張する人物が昨日、アメリカの大統領に選ばれた。恐ろしい時代になった。が、どうあっても戦争しない、これを忘れないようにしなければならない。そのために山手空襲があった日に合わせ、「戦争経験を聴く会、語る会」を開いてきた。来年はとうとう十回目を迎える。継続は力とはいう、が、戦争経験を継承することは困難になってきている。一つは時間経過による体験の風化、一つは戦争体験者がいなくなっているからだ。そういう中でこれをどう開くのか大きな課題である。
これまで開いてきた十回であるが、近代戦争史の隠れたページを開いた。昨年、長野県護国神社に特攻勇士の像が建立された。この碑文には松本浅間温泉に滞在していた特攻隊と世田谷の学童とがふれ合ったことが刻んである。これも発端はこの会で発信されたことが大きい。
疎開学童と特攻隊はこれまでの会ではしばしば話題になった。要点は、世田谷の疎開学童が戦争近代の隠れた逸話を切り開いたということだ。
戦時中、世田谷からは七校が浅間温泉に疎開した。その数なんと2500名ほどだ。昭和二十年二月から三月にかけて沖縄戦に向かう特攻機が陸軍松本飛行場に多数飛来してきていた。その戦闘員、航空兵がこの温泉に数多く滞在していた。ところが往事記録にはこれがない。公的な資料はほとんどが焼却された。しかし失われないものがあった。
疎開学童が書き残した手紙、日記などである。これは個別的に所持しているものだ。これらの記録を丹念に見ていったことで歴史事実が明らかになった。ここにこそ忘れられた戦争の真実が眠っていた。世田谷の疎開学童が戦争近代の歴史を紐解いた。記念大会ではこれに焦点をあててみてはどうか?ということになった。
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2016年11月09日
下北沢X物語(3154)〜黄色の布きれは皇帝カラー〜
(一)知らないで死ぬところだった、そういう事象はよくある。先週、秋日和、中央線のあずさに乗った。ぼんやりと車窓を眺めるのが子どものときから好きだった。どこかに行くというとき一番楽しかったのは着いた先の見学ではなく、行き帰りの車窓だった。夜行列車に乗っても暗い窓の向こうを懸命に見詰めていた。石川啄木の気持ちはよく分かる。雨に濡れし
夜汽車の窓に映りたる
山間の町のともしびの色
啄木の汽車詠歌は好きだ。
何事も思ふことなく
日いちにち
汽車のひびきに心まかせぬ
レールの刻みを聴きながら旅をするのは心地よい。が、幹線の中央線は継ぎ目の音が聞こえない。現今の鉄道はロングレール化されて音楽を奏でなくなった。詩を失った。
電車の響きで言えば思い出すことがある。山梨から来た人が言っていた。
「電車の音が山峡に響いていてそれがふっつりと消えてしまい。それから暫く経つとごととごととんって聞こえてくるのです。夜などは音楽のようでしたね」
汽車旅、電車の旅は瞑想させる。
トンネルを抜けて勝沼に出ると南アルプスの連なりが見えてくる。もう白い雪を被っている。この日本アルプスは今も造山運動を続けている。いわゆる褶曲山脈だ。洋上にあった伊豆半島が日本列島に近づいて衝突し、これによって大地が押し上げられアルプスが形成された。つい数年前だった、これを知って「ああ、知らないで死ぬところだった」と。
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2016年11月07日
下北沢X物語(3153)〜再び武揚隊を訪ねての旅�掘�
(一)戦後七十一年、戦争は遙か昔に遠ざかった。が、その因縁因果はいまだに尾を引いている。松本まで飯沼節子さんに話を聞きに行った。彼女は兄弟を三人を戦争で失っている。一人の兄はルソンで、一人の姉は女子挺身隊で不慮の事故に遭って、そしてもう一人の兄の飯沼芳雄さんは特攻で亡くなっている。彼女は特攻は酷いという。年齢の近かった芳雄兄とは一番仲が良かったという。それだけに思い出が深い。が、その兄はいない。先だっても武揚隊の五来末義さんの遺族と連絡が取れて、遺墨の写しを送ってあげた。前に調べたとき五来さんの遺書には病気の妹を案ずることが書いてあった。聞くとその妹さんも亡くなったそうだ。五来さんところは三人兄弟一人だけが残ったという。特攻で行けば死ぬ。子孫が残ることはない。当たり前のことだが酷いという意味が今になって実感されてきたことだ。
「摩文仁の丘に兄の名が刻んであるのを見て涙をしました。でも、その後、知覧特攻平和会館に行ったのですが何もないのです…」
飯沼芳雄軍曹は七月十九日が命日となっている。この日は沖縄特攻の最後の日だ。台湾八塊飛行場から薄暮、「十六時三十分」に発進している。ところが共に出た藤井清美少尉は「陸軍沖縄戦特別攻撃隊出撃戦死者名簿」には乗っているが、伍長のは載っていない。敵機に撃墜されたか機の不調で墜落したものだろう。一般戦死扱いとなっている。
四月十日、台湾に渡るため武揚隊の一隊はその飛行をしている最中に敵機に遭遇した。そして、長谷川信少尉、西尾勇軍曹、海老根重信伍長の三機は艦載機に撃墜されている。これも特攻戦死ではない。
例えば、五月十七日に特攻戦死した武揚隊の柄澤甲子夫伍長は二階級特進して少尉の位が授けられている。遺族がもらえる恩給の額も違ってくる。特攻戦死と一般戦死には大きな違いがある。前者の場合は記録を保存したり、名簿に登載したりと丁重に扱われるが。後者の場合はそうではない。命令によって行かされたものの扱いの違いは大きい。「陸軍沖縄戦特別攻撃隊出撃戦死者名簿」は麗々しい。が、飯沼伍長はここには載っていない。調べてみて分かったことだ。
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2016年11月06日
下北沢X物語(3152)〜再び武揚隊を訪ねての旅�供�

(一)情報を追っての果てのない旅だ。発端はネットだった、この機械は情報の流れを革命的に変化させた。今までほそぼそと各地に隠れていた情報がネットを通して忽然と日向に現れるようになった。武揚隊の歴史事実を発掘することになったのはやはりネットだ。これが近代戦争史の一端を繙いた。大本営直轄の特別攻撃隊が陸軍松本飛行場に雌伏していて時がきてついにここを飛び去った。
「三年前のことですけど、街中のポスターで知ったのです。博物館で開かれる戦争と平和展で特攻のことが展示されることを、それで行ってみると大きく写真が伸ばして展示してあったのです、それを見てゾッとしましたね。兄が写っていたのですよ…」
武揚隊の隊員に飯沼芳雄軍曹がいた。彼は松本出身だった。妹の節子さんには思いがけない兄との出会いだった。
このときはネットがきっかけとなって発掘された武揚隊関係の遺墨や写真が展示された。昭和二十年三月、飯沼芳雄伍長が浅間温泉に来ていることを地元の人は知った。彼にとっては思ってもない帰郷である。
武揚隊の乗機は各務原で特攻用に爆装改修を行う予定だった。昭和二十年二月末日に名古屋に飛んできた。が、もうこの時制空権は完全に敵の手中にあった。虎の子は爆撃されて壊される可能性があった。それで急遽長野の松本飛行場に飛来してきた。
家族は飯沼軍曹の飛来をどうして知ったか。
「ある日突然、飛行機が飛んできて家の周りを回るもんで不思議に思っていたら夕方になって近所の電話のある人のところに兄さんから『昼間家の上空を飛んでいたのは俺だ』との知らせがありまして、兄が浅間温泉の富貴の湯に来ていることを知ったのですよ!」
節子さんの証言だ。親からこの話は聞いたという。
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2016年11月04日
下北沢X物語(3151)〜再び武揚隊を訪ねての旅〜
(一)中央線は好きだ。新幹線と違い、途中の風景が眺められるからだ。しかしそれでも速くなった。沿線風景をぼんやりと眺めながら、疎開の旅を思う。学童たちにとって始めての旅だ。都会から遙か離れた田舎に行く、親は「もう二度と会えないのではないかと駅で別れるときは泣いていた。、しかし、皆と一緒の旅出でだ、その興奮からか悲しみは湧いてこない。しかし、深更になって汽車は轟々と音を立てて走っていく。そして、山中らしきところに着いたと、汽車は止まった。とたんに静かになって虫の声が聞こえる。と、ふと列車は動き出した。「怖い!」、寝ていた子も起きて騒ぎ出す、「先生、汽車が反対に走っているよ!」と。「大丈夫、これはスイッチバックと言って坂のきついところはバックして、ジグザグに登っていくんだよ」
これも経験だ。
夜が明けて、左手に広い湖面が見えてくる。
「海だ!」
「違うよ。諏訪湖だよ」
ちょっとしたやりとりで何も知らなかった子が、知識を蓄えていく。が、今はこの諏訪湖海説は雲散霧消してしまった。
この頃では、松本に行くときには甲府から矢花克己さんの車で高速でいく。諏訪湖サービスエリアで休憩をする。ここから諏訪湖が一眸のもとに見下ろせる。
「疎開学童は、中央本線からこの湖を見て海と誤解したんですよ。高速道路時代になって、皆諏訪湖はここからみるでしょう。広さへの感動はありませんよね…」
中央線から篠ノ井線へ、そして松本駅に着く。土地独特の雰囲気があって到着するときに心弾む。小島烏水はこんなことを言っている。
松本市で汽車を下りたが、青々とした山で、方々を囲まれていて、雲がむくむくと、その上におい冠かぶさっている、山の頂は濃厚な水蒸気の群れから、二、三尺も離れて、その間に冴えた空が、澄んだ水でも湛えたように、冷たい藍色をしている、そこから秋の風が、すいすいと吹き落して来そうである。 出典 『谷より峰へ峰より谷へ』
電車から降りたとたんに空気が違うと感じる。が、かつてと違って青々とした山々も建物がどんどん高くなって見えなくなってきた。
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2016年11月03日
下北沢X物語(3150)〜武蔵野の音の文学論�掘�
(一)日々歩かない日はない、が、音に足を止めることはない。突然にグラグラガシャン、重機が入って家を壊している。煤けた天井の板が剥がされる。隠されていたその家の裏面があらわになる。人はそこで起居し人生を送ってきた。この家の持ち主はどうしたのだろう。そんな思いに耽ることがある。が、重機の音に風情があるわけではない。もう今や耳にとめる音は無くなってしまった。徳富蘆花の「みみずのたはこと」では、懐かしい音がレコードされている。
四辺が寂しいので、色々な物音が耳に響く。鄙びて長閑な鶏の声。あらゆる鳥の音。子供の麦笛。うなりをうって吹く二百十日の風。音なくして声ある春の雨。音なく声なき雪の緘黙。単調な雷の様で聞く耳に嬉しい籾摺りの響。凱旋の爆竹を聞く様な麦うちの響。秋祭りの笛太鼓。月夜の若い者の歌。子供の喜ぶ飴屋の笛。降るかと思うと忽ち止む時雨のさゝやき。
まずは鳥の声だ。これも聴かれなくなった。早暁に啼く鶏の声などは絶えて久しい。もう小鳥も来ない。キジバトがクゥクゥパウパウとよく啼いていたが、このところこれも聴かない。蘆花が生きていた時代には音に自然の息吹があった。自身の目黒の家の近くには氷川神社がある。秋祭りでは笛の音を聴くこともなくなった。例の、ワッセ、ワッセという御輿を担ぐ音だけは聞こえてはくるが、あまり風情は感じない。
武蔵野を日々歩く、が、風情のある場所はない。草野天平にこんな詩があった。
武蔵野を歩いて
路は続いてゐる
私は歩いてゐる
小橋の上へとまり
ぽとんと石をおとす
そしてまた歩きはじめる
木蓮の下を通れば
にほひがして
遠くに雲は浮いてゐる
路は続いてゐる
かつてはどこへ行っても小川が流れていた。が、今は暗渠化されて石をなげようにも流れがない。家の上流に行くと深沢、模擬川が流れている。本物の川だと思ってカルガモが泳いでいる。
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2016年11月01日
下北沢X物語(3149)〜会報第124号:北沢川文化遺産保存の会〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第124号
2016年11月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、来年度の構想二つ
(1)第三回「北沢川文化遺産保存の会」研究大会の開催 テーマ 帝国音楽学校
研究大会を始めて二回目を今年終えた、「シモキタらしさのDNAを語る」は、盛会裡に終わった。ねらいは、街の過去をきちんと遺して置こうということだ。
時代が急速に進展発展するにつれ街の多くの事象が失われつつある。それを記録し後に伝えることは大事なことだ。
当初の第一回は、研究大会をとりあえず開こうということで行った。最初から続ける積もりはなかった、しかし、会員、また会員以外でも参加された方の評判は悪くはなかった。今回は丸一日行い、延べ七十名ほどの参加があった。反響がそれなりにあった、このことから来年もこれを実施したい。
私たちは、会を立ち上げて以来、「下北沢文士町文化地図」を発行してきた。改版を重ね、今は六版を数える。当地に残る芸術文化の痕跡を記したものでこれらを網羅している。が、文化人の居住跡はすべては分かっていない。住んでいたことは分かっているが、どこに住んでいたか分からない作家、詩人、俳人は数多い。
当地一帯になぜ芸術文化が参集してきたのか。様々な価値を集めたのはここに敷設された新式鉄道にある。武蔵野を走る急行鉄道である。これが芸術文化を育んだ。その一例が最近になって分かってきた。世田谷代田にあった帝国音楽学校である。
ネット辞書wikiには、その沿革が載っている。「1931年 - バイオリニスト鈴木鎮一らによって設立された」とある。つまりは、昭和六年に創立されたことになる。が、最近になってこの全貌を知った。この学校を研究テーマとしている久保 絵里麻さんを知った。彼女はこの学校の創設から終焉までを丹念に調べ博士論文を書いて芸術学博士号を取得されている。彼女がまとめた論文には「帝国音楽学校年表」を載せている。創立年に関して
1927年12月 第一次帝国音楽学校創立(校長:福井直秋)
1928年4月 開校
つまり、昭和二年末に創立し、翌年四月に開校していることになる。この創立年は大事だ。小田原急行鉄道が昭和二年四月に開通しているからだ。帝国音楽学校はその世田谷中原駅(現在の世田谷代田駅)のすぐ側に建った。元の地目が大根畑だったところに音楽学校は建った。学校は開業されたばかりの鉄道で繁華な町新宿と繋がっていた。新鉄道で若者を呼び寄せ、音楽学校を開校する。芸術文化の芽ばえが鉄道によってもたらされた。楽器を抱えた若者が来る、教授陣も近辺に住まう、丘上の畑ににょっきりとできた学校からは爽やかな歌声や楽器の音が聞こえてきた。当地の芸術文化の嚆矢ではないか。
次回は、「代田の帝国音楽学校」をテーマとし、芸術学博士の久保 絵里麻さんに講演をしていただく。その後に当地の芸術文化との関わりについて参加者と語り合いたい。
期日は八月五日(土)一時半から北沢タウンホール集会室で行う予定だ。前回と同じく世田谷区教育委員会に後援を申請する。地域に宣伝をしていただくために代田地区の諸団体に協力者となってほしい。これを広く募集するものである。
(2)第10回「戦争経験を聴く会、語る会」構想
毎年、この会を継続してきた。「どうあっても戦争はするな!」という思いから、山の手空襲のあった五月末日に開いてきた。今度は十回目を迎える。が、年々、開催が危ぶまれるようになった。戦後七十一年、経験者が年老いていってじかに生の体験を聞くことは難しくなってきたからだ。しかし、戦争を語り継いでいくことは必要だ。そのためには工夫をしなくてはならない。それで昨年は、「戦争と音楽」をテーマとし、代沢小の協力を得て児童の参加という形を取った。来年は、どんな工夫をするか、戦争物の物語の場面をみなで群読してみてはどうかというアイデアも出ているが。
これまでこの会は九回開いてきた。ささやかな会だが近代戦争史に光を当てた。第七回目ではテレビ取材が入り、当夜のニュースで流された。長野県松本の浅間温泉で同地から特攻のために九州に移動していくときにその隊員たちは、同宿の疎開児童の女児たちに別れの歌をうたった。その中にオリジナルの歌詞を覚えている人がいて、これが曲として蘇った。大きな感動だった。
歌を聞いたのは東大原小の疎開学童であり、歌をうたったのは松本に飛行機の整備・改修にやってきた「と号第三十一飛行隊」である。武揚隊である。この関係、すなわち学童らが浅間温泉富貴の湯に滞在していた、そこにやってきたのが武揚隊である。これによってこの存在が明らかになった。ドラマチックなのは、調べの過程で埋もれていた彼らの遺墨が見つかったことで、この隊存在があきらかになったことだ。分かってみるとこの隊は、発足から最後の終戦前に突撃するまで数々の辛酸を嘗めていたことが分かった。悲運、不運を絵に描いたような隊だったことがここにきて分かった。この隊の最後の足取りはある程度分かってはいたのだが、それが具体的に分かった。きっかけは武揚隊の隊長山本薫中尉のご遺族が資料を提供してくださったからだ。その資料をまとめた人は菱沼俊雄氏、なんと新田原から台湾まで武揚隊の誘導機の機長として彼らを案内し、そして、山本隊長が出撃していくところを見送っている陸士の同級生だった。その記録は克明である。襲い来る艱難辛苦を潜り抜け、最後の最後まで思いを遂げようと努力していたことが分かった。
私自身の案である。「疎開学童機縁の特攻隊」−と号第三十一飛行隊―をタイトルとしたい。なぜかというと学童との接触が無ければこの隊は歴史に埋もれていたからだ。そしてまたこの隊は惨憺たる目に遭って終戦間際まで古びた機体にむち打ち出撃している。彼らの悲惨な道行き、苦難に苦難を重ねたことは全く知られていない。世田谷の疎開学童調べがこの隊の事績を掘り起こすことになった。この調べはまだ続けている。それで疎開学童を通してと号第三十一飛行隊のことが明らかになってきた。なお11月7日(月)2時から第一回の開催準備会を事務局の世田谷邪宗門で開くことにしている。興味ある方は参加を。
2、恒例忘年会のお知らせ
もう十一月だ、今年もあと僅かとなった。ついこの間、夏の納涼会を行ったと思ったらもう忘年会を行う時期になった。恒例の我らの忘年会だ。
基本、参加した人が楽しめる会にしようとこのところ夏と冬にはずっと開いている。まずはおいしいお弁当を食べ、好きな飲み物を飲み、各自が持ってきた何か(何でもよい、手作りのパン、自宅近くの名産、亡くなった丸山さんはいつも日の出納豆持参だった)をその逸話ととも味わい楽しむ。そして語り合ったり、しゃべったり、気が向いた人は手品をしたり(今回も作道明さんが披露してくれるだろう)、歌を唄ったり、踊りを踊ったり、(ダイダラボッチ音頭の振りができているやも知れず)して楽しむものである。
恒例のオークションも楽しめる。家でいらなくなったものを持ってきてみんなに買ってもらってその代金は会の活動費にする。夏に古い切符を持ってきている人がいてそれは忘れてしまっていた。楽しめるもの持ってきてほしい。
日時、12月3日(土) 五時半から 場所 北沢タウンホール二階集会室
参加費 3000円 会員、非会員誰でも参加できる。
お約束の一人一品持参のこと(義務ではない)、オークション品(自宅に何かあれば)
申し込み締め切り 11月30日(水)までに米澤邦頼に090−3501−7278
○「信濃屋特製」豪華お弁当がつく、必ず連絡を
3、改訂七版「下北沢文士町文化地図」について
世田谷区の地域の絆予算が当会に下りている。年度内には発行する。改訂作業を行いたい。まず、表面の左で、「帝国音楽学校」について紹介する。これは芸術学博士の久保絵里麻さんに依頼してある。また最近の版では古写真を掲載している。できれば次版では、Austin さんが戦後直後に撮った下北沢の街の写真を使いたいと思っているが写真版権の問題をクリアーしなければならない。
工夫としてはただ旧跡があったということだけではなく、創立、廃校を西暦で小さく入れることをしたい。地図に入れておいた方がいい情報についてはぜひ連絡を
4、都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
・第122回 11月19日(土)午後1時 京浜東北線大森駅西口改札前
馬込文士村を歩く(テーマ 女性…新しい時代の風)
案内者 松山信洋さん
下北沢文士町と縁の深い、萩原朔太郎、三好達治、宇野千代旧居などを巡る。
大森駅西口→尾崎士郎記念館→山王草堂(徳富蘇峰)→北原白秋旧居跡→山本周五郎旧居跡→尾崎士郎・宇野千代旧居跡→三島由紀夫邸→萩原朔太郎旧居跡→川端龍子美術館→村岡花子邸
・第123回 12月17日(土)午後1時 小田急線下北沢駅北口前
下北沢の戦後カラー写真跡を歩く キュレーター きむらたかしさん
鳥類学者Austin さんが戦後に撮った下北沢の街の写真。当時の空気感や臭いまでもが漂ってくる鮮明なカラー映像である。どこで撮影されたのか、写真と今とを比較するという新しい試みの街歩きだ。
・第124回 1月21日(土)午後1時 田端駅南口改札口前(前回と同じ)
田端文士村を歩く(2) 案内者 原敏彦さん
十月に実施したが全コース回りきれなかったので二回目を行うことにした。
芥川龍之介旧居跡→童橋公園→福士幸次郎・サトウハチロー旧居跡→鹿島龍蔵邸跡→大龍寺(正岡子規・板谷波山墓)→ポプラ坂・ポプラ倶楽部跡→板谷波山旧居跡→室生犀星旧居跡→田端文士村記念館
・第125回 2月18日(土) 午後1時 京王線烏山駅改札前
烏山寺町を歩く 仙川地図研究会 和田文雄さん案内
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498
■ 編集後記
▲会友のもと、近隣地方の旅は?毎月歩く会を実施している。当初は、ほとんど自分でコースを決めて行ってきた。が、この頃では案内者が育ってきたので私はコーディネーターに徹している。案内者と連絡を取り、大筋を決めてこれを会報などで広報する。120回も行ってくるとアイディアが枯渇してくるときもある。そこで考えたのが会友のもとへの旅である。幸いにお誘いがある。まずは、山梨の矢花克己さんのもとへだ。まず春、4月15日には桃の花と山梨の歴史を訪ねようかと。車組と電車組の二つに分ける。車については不足するなら出してもいいと申し出がある。来年の話だが「行くよ」という人は希望だけでいいので伝えてもらいたい更には埼玉ときがわ町の松原征男さんからの。「来年、『有志芳』10号発行当たりで、何かやれればと思っています。その頃か、秋日和においでいただければ田舎を楽しんでいただけると思います。」とのお誘いがある。
▲会員は各自文化活動を行うことができる。ちょっと劇みようよ。ちょっと歩こうよ。などと思ったら、その企画をこちらへ送ってほしい。そのアイディアを実現するために広報したい。このところの広報手段としては、ブログ、フェィスブック、当会掲示板、メルマガを使っている。掲示板は「北沢川文化遺産保存の会」と検索を入れれば「F2C」と出る、これは誰でも自由に書き込める。ぜひ使ってください。
▲行事保険は毎回掛けているが、実数把握が難しい。その手続きも難しい。引率の範囲で事故防止ができるのであれば参加者が少ない場合は掛けなくともよいのではと思う。
▲当メール会報は会友に配信しているが、迷惑な場合はご連絡を。配信先から削除したい。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net 「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(掲示のイラストは帝国音楽学校の校舎イメージ図。きむらけん作成)



















