2017年04月
2017年04月29日
下北沢X物語(3268)〜桜受難2017年春〜
(一)今年の春の天候は異常だった、端的に表れたのは桜だ、咲き方が変だった。満開とはなったが枝の先端のつぼみは開かない。変な咲き方をして今年の桜は終わった。受難はまだ続く、満開を最後のとして老木はお役ご免、次々にばっさばっさと伐られつつある。我が家の前にある呑川上流でのことだ。「こんな立派な桜の木を切るやつがあるか!」、カンカンに怒って抗議する人もいる。が、桜にも寿命がある。ほとんどが染井吉野である。人間の手によって作られた木、園芸種のこの樹はひ弱だという。耐性を持たないこれは今各所で枯れ始めている。日本人が最も好むものは桜と鯛だという。正宗白鳥に「花より団子」というエッセイがある。
洗足池畔の私の家の向ひは、東京近郊の桜の名所である。私は、終戦の前年軽井沢に疎開して以来十数年間、毎月一度は必ず上京してゐたが、盛りの短い桜時には、一度も来合せたことはなかつた。この頃、こゝに居を定めることになつたので、久振りに花の盛りを朝夕たつぷり見ることが出来た。急速に温くなつたので、見る/\咲揃ふやうになつた。「細雪」のなかの或女性は、花のなかでは何が好きかと訊かれて、「それは桜やわ」と答へた。たべ物としての魚類のうちでは何が好きかと訊かれて、それは鯛であると答へた。日本人としての平均した好みはさういふところなのだらう。
洗足池にはよく行く。この池畔に正宗白鳥が住んでいたといのはつい最近知ったことだ。谷間の丘上にあって向かいの「桜山」がよく見えるところだ。
ついこの間、満開のときに洗足池へ行った。が、往事の面影はここにはない。老木だらけのそこにはロープが張られている。枯れて倒れてくるときもあるのだろうか。それにしても老桜はみすぼらしい。「桜の名所」というには木々が貧弱だ。
しかし、花より団子、桜が咲いていなくても出店が花を広げている、人々は桜をみずに食い物を探索して、気に入ったものがあればぱくぱくと食っていた。
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2017年04月28日
下北沢X物語(3267)〜文化探訪12年:歴史の落ち穂拾い〜
(一) 「あなたたちのような人もいないと世の中回っていかない」地図配りを通して街の歴史を拾っている。この我らの活動を知っている人がいた。代沢小学校の警備のおじさんだった。人々が取りこぼしたものを拾っていく、こういうことも社会には必要なのだと思う。この代沢小の「鉛筆部隊」も落ち穂拾い活動で発見されたものだ。これによって人に知られるようになった。満州から飛来してきた特攻隊員と疎開学童とが接触していたという逸話だ。実はこの物語まだ終わっていない。鉛筆部隊では武剋隊が主であった。ところがこの陰にはもう一隊がいた。武揚隊だ、この情報が新たに入ってきて追跡を続けている。編成時の機数は十五機だった。それが特攻出撃の過程で次第に数がどんどん減っていく。それは惨憺たるものだった。戦闘機はついに三機となってしまう。故障破損、接触事故、撃墜と続いた挙げ句のことである。これも知られざる逸話だ。文化探訪は、イレギュラーバウンドだ。求めようとしたわけではないのに別の真実に行き着く。忘れがたいことがある。だいぶ前、自転車で梅丘を通り掛かった。旧家でケヤキの枝を伐っていた。その宇田川家はぐるりと大欅に囲まれていた。その剪定である。
「昔はね、この枝を大森の漁民が買いに来ていたものだよ…」
当主が教えてくれた。
「へぇ、そうだったのですか?」
感心する話であった。ところがこの話、充分に理解していたわけではない。このときからしばらく経って偶然にこの話の真実が、「ことん」と胸に落ちた。
文化探訪は、のべつまくなしではなく、その時期、その時期にトピックがある。例えば、高圧鉄塔駒澤線もその一つである。思い入れが強く調べに夢中になる。この鉄塔には番号が振ってある、数字の少ない方を「若番」、多い方を「老番」いう。
不思議なものだ、鉄塔は青春を惹起する。「誘われて若番へ」との冒険だ、NO1はどこにあるのか。ずんずん行ってしまう。とたどり着くと別線、千鳥線だ、やはり番号が付いている、その鉄塔から鉄塔へ、鉄塔千鳥線紀行というのもまた心惹かれるテーマだ。
鉄塔線をたどれば真実が見えてくる。駒澤線の前身は桂川電力だ、山梨県の桂川で起こした電気を高圧線で東京に運ぶ、駒澤線、千鳥線をたどっていくと六郷に着く。そばに京浜急行が走っている。ここの変電所に電気を送るために長距離の送電線が敷設されたのだった。
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2017年04月26日
下北沢X物語(3266)〜下北沢駅の地下道の話を聴く会�供�
(一)古老とは風景の長いトンネルを生きてきた人だ。その記憶に街の歴史が刻まれている。今年90歳になる石川寿男さんは当地で生まれ育った人だ、彼の記憶風景の中で駅は重要である。親とともにお出かけしたり、奥さんを出迎えたり、また子どもを見送ったりもした。彼は写真の片隅に写った駅の架線柱を見て、小田急線か井の頭線か容易に判断がついた。橋脚や踏切、風雪に耐えてきた駅という風景が彼の記憶に残っている。図を描いてほしいという要望に石川さんは、かつての駅を略図に再現してくれた。そこには地下道があり、踏切もある。そんな中埋もれた踏切も見つかった。「お地蔵さん踏切があったな」
かつての小田急線下北沢2号踏切だ。この側に電車に轢かれた人々の慰霊碑がある。踏切がなくなってもこれは今も存在している。
「その下北沢寄りもう一本、そして駅ホームの端にもう一つあった…」
「ああ、跨線橋になっていた踏切、あのラブホテルの裏ね、あれが下北沢1号踏切だったんだ。それは知っているけどもう一つは知らない。」
「井の頭線の橋脚に沿って一本あったんだよ」
「ああ、あれあれ富安好恵さんがよく子どもを連れていったという跨線橋ね、あの代わりになるものがあったんだ」
これは米澤さんだ。
「ということは、下北沢零号踏切にあたるんだ。おもしろいのだけど、小田急線乗客が増えるにつれて車両を増やしていくそうするとホームが足りなくなるので延ばす。それで踏切を潰してしまうんだ。
0号踏切の写真を石川さん持っていた。『小田急開業80周年記念特集』だ。ここに「1957年、4両ホームの下北沢駅」とキャプションにはある。こういう記録は大事だ。 にる、昭和32年では四両編成しか止まれない。この後に延伸されて0号はホームに食われなくなってしまった。
この写真、下北沢駅の井の頭線から小田急線のホームへ跨線橋が架かっているのが見える。その向こうには下り線をまたぐ建物が写っているように見える。あるいはこれが小田急をまたぐ自由通路なのかもしれない。
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2017年04月25日
下北沢X物語(3265)〜下北沢駅の地下道の話を聴く会〜
(一)その駅の地下道には郷愁がある、薄暗く小便臭い、独特の雰囲気があった。時に潜り抜けるときに頭上に「グドングドン」と電車の車輪が響きもした。そこは旅立つときの一つの結節点であった。例を挙げる、すなわち、昭和十九年八月十二日夜の十時過ぎ、代沢国民学校を出た学童の行列はここにさしかかった。リュックを背負った子どもたちが下北沢駅南口の地下道の階段を下りていく。暗く薄汚い穴蔵だ。「ここをまた潜るときがくるのかなあ?」一人が言った。疎開に行ったらもう帰ってこられないかもしれない。普段何とも思わなかった地下道がこのときは特別に思えた。しかし、この地下道の歴史はよく分かっていない。ついこの間、BS放送「TOKTYOディープ」という番組でこの地下道のことが取り上げられた。「生まれも育ちも下北沢南口」というレコード店店主の椿正雄さん(58)がインタビューの中で答える。店を南口で35年間営んできたという。
「下北沢の「南口がなくて北口しかなくて南口の住人は、そこらへんにトンネルがあって線路の下くぐって反対側に(行った)」
「じゃあ、駅降りてもこちらには簡単にこれなかったんですね?」
「そうです」
南口に出るには地下道を潜っていかなくてはならない。それで開発が遅れていたと。
「南口の人間は北口のことに明るくなくて(北口に)行くと緊張して…同じ街なのに違う街にいくみたいだった…」
この椿さんの話は戦後の話である。地下道がだいぶ後まであったことを証言しているわけだがいつまであったのか分からない。人によって記憶がまちまちだ。
地下道が南と北とを分ける境界だった。ゆえに北と南とではとらえ方が違う。この間、北口の一番街を通りかかったので薬屋のご主人に聴くと地下道があったことを知らない。分かったことは北口方面にいる人はこれを覚えていない。だからこれを聞くには南口領域に住んでいた人に聞くに限る。
「東京ディープ」のディレクターはこの地下道の話が証言者の口から出てきたことで方々に当たったと。小田急にも京王にも問い合わせたが分からなかったと彼女は言っていた。裏を取るために念入りに調べても不明だったと。それ以来、こちらも多くの人にこの問題を問いかけていた。そんなとき地下道をよく知る古老がいるとの情報を得た。
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2017年04月23日
下北沢X物語(3264)〜文化を求めて漕いで歩いて12年�供�
(一)物事に夢中になる性格だ、だいぶ前に鉄塔を懸命にたどっていったことを書いたら、「まるで鉄塔少年のよう」と言った人がいた、そういつも少年のように夢中になる。しかし鉄塔たどりが一つの文化ラインの発見につながった。高圧鉄塔駒沢ラインは、都鄙境界ラインである。わかりやすく言えば「場末」だ。駒沢線鉄塔57号脇に住んでいた三好達治は、そこを寓居といい、場末と言った。この都会との間合いが大事だ、田園と都市の境にこそ芸術文化は生まれる。当文士町の根幹である。「生まれる」と述べたがこのプロセスに物語がある、昭和六年、鉄塔61号下に土地を検分にきたのは萩原朔太郎だ、このときに娘の葉子もついてきていた。彼女はここへ来て「竹の子を見ていた」(『蕁麻の家」)その「眼を今度は外に向けると、すぐに眼の前に高圧線鉄塔が見えた」と。候補地は竹の子のできる竹藪だった。そこに詩人自身の設計による家が建った。高い鉄塔は必ずや意識されているはずだ。そして完成した家は「南側から見ると中世の城と寺院とを取りまぜたような急勾配の屋根が高く見え、遠く方からもすぐそれと分かった」、竹藪に忽然と「東ヨーロッパ風の新鮮な感覚」の家が建った。土地の人々にとっては驚きだ。家は二階屋である。
かつては平屋がほとんどだった。五六十代の人に聞くと家の中に階段のある家は珍しかった。友達の家の二階からよく外を眺めていたという。こんな例がある。
我が家の新築現場は、距離を隔てて南面に根津山の鬱蒼たる樹木が遮っているほかは、三面黒々とした火山灰土の畑が起伏を伴い、その間間に藁葺き屋根の農家が点在する僻村に似た環境だったから、そこに突如として建てられた二階屋は商店や農家に興味尽きない話題を提供したようなものだった。
『代田とわたし』小谷野修 昭和59年刊
時期は昭和三年三月であるようだ。当時の状況が眼に浮かぶ、周りは黒土の畑ばかりだった、「僻村に似た環境」こそは都鄙境である。前年の昭和二年に小田急線が開通して急速にこの一帯は開けてきた。
亡くなった代田の古老、今津博さんは当地に越してきたのは昭和六年だった。
ひ弱な兄弟の生育に不安を持っていた両親は、郊外住宅地への移転を考え、開通間もない小田急線沿線に目をつけたのだろう。連れていかれた世田谷中原駅(世田谷代田)で下車して見た周りの景色には驚いた。駅前、そして道の両側にはぼちぼち商店はあるものの、畠…竹藪…こんもりした林…。それより巨大な鉄塔が建ち、線路の上空をまたいで通る高圧線。こんな物は山の中にあるものと思っていたのに。
ぼくはこんな田舎に住むの! 『昔の代田』 今津博 2007年
少年は「僻村に似た環境」に出会って衝撃を受けた。周りじゅう畠や竹藪ばかりだ。閉口したのは肥だめのにおいが、あちこちにあって銀蝿がたかっていた。
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2017年04月22日
下北沢X物語(3263)〜文化を求めて漕いで歩いて12年〜
(一)当、ブログの初回の01は2004年9月13日だ。始めてもう12年超、文化探訪を続けて一回り、固有のにおい追い求めての旅である。当初は、自転車だった、途中から徒歩に変わった。ひたすら漕ぎ、そして歩いてきた。総距離は分からない、苦闘三千里である。数え切れないほどの人から話を聞いて聞き、万巻もの資料に当たってきた。このプロセスにおいて眠っていた歴史を掘り起こしもした。この頃になっての新たな気づき、それはイレギュラーバウンドが文化なのではないかということだ。筋違いの情報に真実は眠っていると…今、考えると「小耳に挟んだこと」、「ふと聞きさしたこと」の集積から多くを発見してきた。その土地固有のにおい、文化は12年の年月を経ることで熟成してきたように思う。経年ということは大事だ、資料を得ても最初は分からない。時間が経って、「ああ、これはあれだったのだな」と筋がようやっと分かってくる。
手元に手書きの地図がある。自身、人に話を聞いたときに、そこの場の略図を書いてもらうことがよくある。書いてもらったのは2012年のことだ。もう五年ほど経つ。忘れないようにピンで留め壁に貼ってある。それを今取り出して見ている。
世田谷代田二丁目に古くから住む木幡俊子さんに書いてもらったものだ。彼女のすぐ裏手が萩原朔太郎の家だった。詩人は臨終間近に「苦しい、苦しい」と言っていたと、それが聞こえてきて怖くて布団に潜ったと彼女は言っていた。
略図には代田円乗院そばの寺前橋たもとに「橋本八百二アトリエ」と記してある。当地との関連を調べると、「1936年(昭和11年) 文展招待展「沼畔」世田谷の自宅に橋本八百二絵画研究所を開設する」とある。弟子筋もここに出入りしていたのだろうか。
地図には萩原朔太郎家のはす向かいには「中島中将」とある。著名な軍人として木幡さんは書き込んだものらしい。調べると中島今朝吾であるようだ。wikiには「日本の陸軍軍人。第16師団師団長、第4軍司令官、階級は陸軍中将。」とある。
いわゆる南京事件において彼の日記は、事件を証明するものとして重要視されている。当人は第十六師団長として南京攻略戦に参加した。そのときの日記には、攻略戦において捕虜を取らない方針であること、捕虜を日本刀の試し斬りに使ったこと、捕虜を一ヶ所にまとめて「処理する予定」「そのためには大きな濠を要する」との記述があるとのことだ。彼は終戦直後の昭和二十年十月に病死している。代田が臨終の場だったのだろうか。
○注記 この中島中将については、きむらたかしさんから記事をアップした後に、コメントに指摘があった。日本紳士録には代田在住の陸軍中将として、「中島鐵藏 陸中将、世田谷、代田一ノ六三五▲松澤二〇七一」が記されている、この彼だと。
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2017年04月20日
下北沢X物語(3262)〜第127回街歩きは山梨ツアー了〜
(一)文化とはイレギュラーバウンドである。ひょんなところから情報が発掘される。甲州市塩山放光寺の住職から紅梅キャラメルの話が飛び出て話題になった。「へぇ、松原にそんなキャラメル工場あったの?」と。街歩きの歩きでは込み入った話はでない、しかし、車中だとひょんなことから地元文化が発掘されもする。ツアーに参加された原さん、「家の近くに明本京静という音楽家が住んでいました」と。作詞家であり、作曲家である。調べると「あゝ紅の血は燃ゆる」など、数多くの戦時歌謡の作品を残している。「湖上の尺八」は明本の作曲だ。歌っているのは伊藤久夫である。帝国音楽学校出身だ。明本は代田二丁目住まい、帝音のつながりがここでも出てきた。住所を調べると今も教わった番地に明本の名が認められる。また新たな発見だ。今回は山梨探訪だった。当地は文化濃厚である。我らのフィールドとも密接な関連がある。それは線でつながっている。今で言う高圧鉄塔駒沢線だ。かつてこの線は「桂川電力」の送電線だった。すなわち、山梨県を流れる桂川で電気を起こし、これを東京に送っていた。東京西郊の都鄙にこれは敷設された。高圧線鉄塔下は空き地だった、東からせめてきた東京という都市はこの縁辺まで迫ってくる、線沿い空き地は音楽に活用された。防火帯というのがあるが防音帯でもあった。少々音を出してもかまわない、音楽学校ができ、作曲家が住み、ピアノをかき鳴らしては軍歌を作りもした。「駒澤線軍歌ライン」と呼んでいる、あるいはイレギュラーバウンドで知ることとなった明本京静の場合もそうかもしれぬ。
旅に出て知ることは多い。案内人の矢花克己さんは、笛吹市在住だ。居住区の真ん中を笛吹川が流れている。雁坂峠方向から流れてきて谷を削って甲府に流れていく。幸田露伴の『雁坂越』にはこんな記述がある。
こういうように三方は山で塞ふさがっているが、ただ一方川下の方へと行けば、だんだんに山合いが闊(ひろ)くなって、川が太って、村々が賑やかになって、ついに甲州街道へ出て、それから甲斐一国の都会甲府に行きつくのだ。笛吹川の水が南へ南へと走って、ここらの村々の人が甲府甲府と思っているのも無理は無いのである。
辺鄙な山間から下っていくと、甲斐の国の都会に出るというのがよい。甲府の町が人々にとってはきらびやかな町だった。笛吹川をたどると甲府がある、川はその方向を示す重要な目印だったと分かる。
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2017年04月19日
下北沢X物語(3261)〜第127回街歩きは山梨ツアー�掘�
(一)甲斐路の旅は、少年時代に始まって今に至っている。愛着の深い路だ。しかし、現今では旅の形態が大きく変化した。かつてのメインは中央本線であった。が、今は中央高速である。景色の見え方がまるで違う。鉄道の場合、座席の右か左かでは違う。私は下りでは左を選んだ。列車から眺められる甲府盆地、南アルプスの景観がよく眺められる。心豊かになる風景だ。車窓は横の景色である。時に長坂あたりの線路際に桔梗を見つけて気持ちが明るんだ。が、中央高速の旅はチューブの中をぐんぐんと潜っていくだけだ、景色の味わいが少ない。汽車のように各駅で止まることはない。しかたなしにパーキングエリアで降りて用を足す。高速化時代では、プロセスが省略される。思うところに行けるという便利さはあるが、車の旅には途中の楽しみがない。
今回のツアーに行った人からメールをもらった。
普通の観光旅行と違って、行きたいところにも降ろして頂き、最高の桃源郷、フルーツのフラワーラインは感動と興奮が冷めずです。
大井俣窪八幡神社の見学は思いがけず最高の収穫、宮司さんの説明や資料はとても分かりやすく勉強になりました。盛り沢山の観光を有り難うございました。
やはり誰の目にもフルーツラインコースは感動だった。笛吹市から山梨市へ甲府盆地北斜面の果実園帯を抜けるのがこのコース。眼下に見下ろすサラダボールはあっちこっちがピンク色に染まっている。すべてが桃の花だ。
遠くに目を転じると甲府盆地の山並みの北斜面が望める。そこの沢を銀色のドームが横切っている。リニア新幹線だ。自然風景の中にあって無粋だ。
東京から地下を潜って、グゥグゥという音を聞いたかと思うと、地上に抜け出て「名古屋に着いた」という。こんな旅にどんな意味があるのか。この線、ほとんどがトンネルだ。掘れば掘るほどズリが出る。これの捨て場がない。南アルプスのどてっぱらをぶちぬいて隧道を掘る、あの山は人々の魂が還っていく場だ。一企業の裁量でこんな大工事をさせていいものか、かつまた、リニアは電気を多く食う。それで原発稼働を前提としている。原発そのものは既に破綻してしまっている。何かこの頃世の中がおかしい。
高校時代、中央本線に乗って旅をしたことがある。勝沼から見える甲府盆地、空の青、山々の緑、お盆を突き抜ける川、大自然に圧倒された。が、今は中央高速が盆地を走り抜け、北辺にはリニア新幹線もできようとしている。自然の里が人工の里になりつつある。
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2017年04月17日
下北沢X物語(3260)〜第127回街歩きは山梨ツアー�供�
(一)高速道、パーキングエリアにおける人の表情は興味深い。談合坂では上りと下りとでは違いがある。飛躍するが品川駅で汚れたわらじの山があったと。お江戸に入るには新品に履き替える、装いを改める、上り談合坂での女子のトイレ使用時間が長いという。田舎の空気を落として都会時間に戻る。能における鏡の間だ、「私田舎臭くないかしら?」と点検するらしい。甲府盆地では人は固有の文化に色づけられる。景色であり、宗教であり、空気である。それを落とすために男子は、トイレでしずくをきっちりと切るという。「山梨というが山ばかり…」、参加者の感想だ。
フルーツラインを走った。笛吹市から山梨市へ甲府盆地北斜面の果実園帯を抜ける道だ、眼下に広がる紅色の絨毯が美しく眺められる。そればかりか遙か向こうの南斜面まで俯瞰できる。こういうところで育った人々には独特の世界観が育つのではないか。
当地の観光パンフレットには、「風林火山」、「戦国の名将夢の足跡」と謳う。武田信玄の名言だ。
風林火山 –疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し。
名将の世界観が端的に表される。泰然自若とした武将を思う、彼は高楼の座敷に座って甲州の山々と川とを眺めている。そのときにふと思いついた言葉だ、静けさの中で案出された、そこで思いついたのは山間哲学だ。海を眺めていてはこういう発想は生まれないのではないかと思う。
我らは寺社を巡った、乾徳山恵林寺、高橋山放光寺、大井俣窪八幡神社の三つである。恵林寺は、「信玄自ら寺領を寄進し当山を菩提寺と定め」たという。武田信玄の墓所がある。
寺の「明王殿」には、「武田信玄公が生前に対面で摸刻させたという、等身大の不動明王が安置されており、『武田不動』として尊崇されている」
武将像である、作り手は「らしく」造る。しかし、人間、出会ったときの表情で分かることがある。生き生きとしている人は表情が違う、目が生きている。像は眼光鋭い、思うに、戦国武将は信仰に厚い、心を定めるところが不動明王だったのか。心に造形を信じることは大事だ。
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2017年04月16日
下北沢X物語(3259)〜第127回街歩きは山梨ツアー〜
(一)長く続けてきた街歩き、初めての県外、かつ車を使ってのツアーだった。行き先は山梨だ、我々は地球温暖化による異変に預かった。驚くなかれ桜も桃も満開だった。春爛漫と中央線特急電車に降りかかる桜吹雪、見渡す限りピンクの絨毯に覆われた甲府盆地、誰もが目を見張った。某旅行社の観光バスと出会ったが、「趣味が広がり、仲間が増える」というキャッチが目についた。しかし、我らのツアーは完全な手作りである。当初は観光バスを仕立てるつもりだった。が、これだとどうしても高くなる。また事務手続きが煩雑だ。それで考えたのは大型乗用車をレンタルで借りてのツアーである。運転手米澤さんを入れて定員は十名だ。申し込みを締め切ったあとに「空きがないか?」と。残念ながらキャンセルは出なかった。
北沢川文化遺産保存の会、活動を続けてきて多くのつながりができた。今回もツアーの案内役は会友の矢花克己さんだ。これももう『鉛筆部隊と特攻隊』でおなじみとなった人だ。山梨県護国神社の境内で、偶然古手紙の山を見つけて購った。ところが不思議なことにその手紙ははがきには「鉛筆部隊」と判が捺されている。「これは一体何なのか?」とネット検索で調べたところこの私のブログがヒットした。鉛筆部隊の行方を追っていた私は彼から送られてきたその複写によって多くの事実を知った。
戦中の古手紙は、内容よりも、貼られた切手や消印、そこに郵趣的な価値がある。矢花さんが購ったものは近代戦争史の一端を表した歴史資料である。彼はこれを昨年、市立松本博物館に寄贈した。今年も当館で「戦争と平和展」が開かれるがあるいは展示されるかもしれない。
山梨県笛吹市住まいの矢花さん、我らを案内することを楽しみしておられた。地域の歴史に詳しい。自治会の組長、石和八幡宮の氏子総代を務めている人だ。事前に得た彼からの事前情報である。
昨夜の雨で 満開の桜も足踏状態です 土曜日は桃源郷間違いなしだと思います 天気も曇りの予報 気温22度まで上がる模様です 予定には入っていないのですが 以前行った 樋口一葉ゆかりの慈雲寺の糸桜も満開を迎えております 恵林寺の櫻は池に散った花弁がきれいではないでしょうか 盆地東部を北から南からの眺望は真に桃源郷かと
その彼が予想した「桃源郷」にまさにぶち当たった。
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2017年04月14日
下北沢X物語(3258)〜穴ぼこ論争:地下道の消滅はいつ?〜
(一)都市は貪欲だ、変化をむさぼり食って街を変貌させている。鉄道線のクロスによって特徴づけられていた街もたちまちに消滅した。これによって一人の小説家はずっと悩まされていた頭痛から解放された。この症状は興味深い。「小田急線と井の頭線が交差するひしゃげた座標軸が、頭蓋骨をじわじわとしめつけてくる」(清水博子『街の座標』)ものだった。いびつな座標軸が街のシンボルだった。それが地下化によって消えた。ゆがみ、変形交差がなくなったことで街は溜を失ったように思える。ゆがみにも物語がある。下北沢における鉄道交差のゆがみは、明大前での京王線との交わりにある。すなわち、明大前は東西を横断している淀橋台が最も薄いところだ。ここを切り崩して線路を敷設する。鉄道を敷設するに当たって工費が最も低廉で済む。しかも京王線は他社である、彼の線に敬意を払って、十字クロスで下を潜らせていただく。後発組の井の頭の礼儀である。かつてこの線は小田急系列の会社だった。他社は正攻法でせめて十字クロスを通す、自社は仲間内、ゆがんだりいびつになったりしても大目に見てくれる。
ゆがんだ座標軸、これが街をねじ曲げていた。まず降りたときに方向を狂わせる。今はなくなったが、下北沢で井の頭線を降りて小田急に乗る。動き出したとたん「逆!」に走り出す感覚があった。ひしゃげた座標軸のマジックだ、吉増剛造風に言えば次元の穴のなせる技でもある。
井の頭線から小田急線への乗り換えは一種独特で、いわゆる胎内くぐりのような感覚があった。あっちこっちを巡って小田急のホームに着く。ひしゃげた鉄道線路の交差は駅の構造を複雑にした。しかもかつては地下道が二つもあった。
『小田急五十年史』には、コラム記事に「下北沢の二つの地下道」という題で説明がある。この地下道を使った中学生の作文が引用されている。しかし、何度読んでみてもわかりにくい。それでも理解できるのは、「駅の中と外に地下道が一本ずつ」あったことだ。つまり一つは小田急線に乗る場合に改札を通って「地下道をくぐってホーム出」るもの。もう一つは、「小田急の下をくぐる公衆通路」である、これが南口と北口とを結ぶ地下道であろう。
先だっての地図配りのときにNHKの番組「TOKYO ディープ」のデレクターが来て質問された。
「番組で下北沢を取り上げるのですが、駅の地下通路がいつまであったのかわかりません、いつまであったのでしょう?」
番組名 TOKYO ディープ!下北沢
放映日は、4月17日(月)19:00〜19:29 の予定だということだ。
放送波 NHKBSプレミアム続きを読む
2017年04月13日
下北沢X物語(3257)〜二大穴ぼこ論争:ダイダラボッチ&地下道〜
(一)「きらめく星は天の穴ぼこだ」という比喩がある、穴ぼこに対する人間の興味は果てがない。まず一つはダイダラボッチの穴ぼこだ、世田谷代田にその痕跡が残っていたことから柳田国男は当地をフィールドワークした。この場所は分かっている。ところが次に行ったダイダラボッチはどこか分からないでいた。彼の論考にいう「足跡の一つは玉川電車から一町ほど東の、たしか小学校と村社との中程にあった」という箇所だ。が、これは武蔵野会の遠足行事「駒澤行」で見当がついた。すなわち小学校は旭小学校であり、村社は野沢稲荷神社である。とすればその箇所は自明である。この駒澤にはダイダラボッチが二つあった。その一つは具体的に描かれている。『ダイダラ坊の足跡』ではこう記す。
道路のすぐ左に接して、ほぼ同じくらゐの窪みであったが、草生の斜面を畠などに拓いて、もう足形を見ることは困難であった。しかし踵のあたりに清水が出て居り、その末は小流をなして一町歩ばかりの水田に漑がれている。
ここは現在の鶴ヶ久保公園に当たる。駒澤のダイダラボッチである。根拠は他にもある。ここが「代田窪」と称されていたことによる。すなわちダイダラボッチの窪みということだ。これは「野沢を主とした大正末期より昭和初期の略図」(『ふるさと世田谷を語る』上馬他編)にちゃんと記されている。
また、先ほど述べた「駒澤行」(雑誌『武蔵野』特別号、大正八年七月発行)にも記述されている。まず、「明治大学運動場側の坂道附近には石斧が散見された包含層がある」という。この明大運動場跡は今は、UR都市機構の「アクティ三軒茶屋」という大型マンションになっている。この坂道は野沢へと行く古道である。途中、テコテン坂を経由して行くと、「その先にダイダクボといふ凹地がある」とある。
現在の鶴ヶ久保公園はダイダラボッチであること。まず第一点、ここが代田窪と称されていたことを田中正雄さんという古老が描いた地図に載っていること、次に第二点、武蔵野会の「駒澤行」にも「ダイタクボ」と記されていること。これらから結論づけたものだ。
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2017年04月11日
下北沢X物語(3256)〜ダイダラボッチの里、世田谷代田が熱い�供�
(一) 「ダイダラボッチっていうのはお話ではないのですね。私はずっと絵本に出てくるダイダラボッチを信じていました。学術的に意味のあるものだとは全く知りませんでした」と。教育委員会の女性はびっくりしていた。今回我らは、紀要第五号を発行した。タイトルは「代田のダイダラボッチ」である。副題は「東京の巨人伝説の中心地」である。この間の土曜日に地域の重鎮のところに米澤さんと持って行った。あいにく、当主は不在であったが後に電話が掛かってきた。紀要ダイダラボッチや七版地図は大きな話題を投げかけたようだ。加えて帝音もある。「大根畑に突然にわかに出現した音楽学校から楽器の音やテノールやソプラノが流れてきたのです。衝撃的なできごとだった…」
「そうそう、あそこは大根畑だった!」
斉田家当主の孝さんは記憶がよみがえったらしく興奮しておられた。
「世田谷代田は、西の松原から、東の下北沢から攻められてやせ細ってきています。当地の歴史の本拠地は世田谷代田ですよね。私は代田には二大巨人がいると言っています。一人は超大物巨人、詩界のドン、萩原朔太郎です。彼が放つオーラに近代詩人は今も影響を受けています。『下北沢や代田には至る所に次元の穴が空いている』と言われているほどです。そのもう一つの穴が、ダイダラボッチの穴なのです、これが二人目の巨人です。とんでもなくおもしろい話なんです」
いろんなところで世田谷代田二大巨人伝説を吹聴している。
世田谷代田のムラの歴史を作ったのは三土代会だ。できれば8月の研究会に協力をしてもられないかと三土代会や町会にとお願いに行った。その翌日になって紀要と地図とを前者は会員に配布したいので150部ほどもられないかとの連絡があった。会の米澤さんが要望通りの冊数を届けてくれた。
ダイダラボッチに朔太郎に帝音、伝承、詩歌、音楽、幅の広い文化があった。が、これらも消えて行こうとしている。とくに帝音は廃校になったこともあって人の記憶から消えている。今日手にした本に次のような記述を見つけた。
昭和4年頃の話で世田谷中原に名物おばあさんがいた。
当の婆さんは、音楽に興味があったらしく、今の小田急線世田谷代田駅の近くにあった東洋音楽学校の玄関脇によく立ち止まっては、暫くの間、教室から聞こえてくる楽器の音に聞き惚れていた。 『代田とわたし』 小谷野修
小谷野さんの家は二階屋だったという。当時は多くは平屋だった。帝国音楽学校も大きな二階屋だった。それがにょっきり出現してそこから音楽が流れてきた。やはりそれを聞きに来ていた聴衆もいたことだ。
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2017年04月10日
下北沢X物語(3255)〜ダイダラボッチの里、世田谷代田が熱い〜
(一)今、どこへ行ってもダイダラボッチで熱い、今日教育委員会へ後援申請を届けに行ったところ受付の人は、ダイダラボッチの話を聞いて興奮していた。「いやいや仕事上地域の文化に興味を持つことは大事ですよ」と。彼女の熱を評価したほどだった。今、世田谷代田がおもしろい。我らもは、地図や紀要を地域に配っては、あちこちで長話をしてしまう。
八日土曜日、歩きながらのゲリラ的地図配りを敢行した。この攻めの戦法では意外な発見があった。代田八大龍王のそばに住む中村さんは相好を崩し、「新しい地図、これはいいねえ。もらうとさ、二三日は楽しめちゃうんだよ!」と。居住人にとって新たな街の発見が楽しめるようだ。「おお、やっぱりマークが増えている」、もう喜色満面だ。彼のところにくる前に代田二丁目でおばあさんに会った。昭和六年以来ずっと当地に住んでいたという中島さんだ。米澤さんと私は記憶の黄金を掘り当てた。
「それなら萩原朔太郎さんに会ったことあります?」
昭和八年(1933)から詩人は彼女のすぐ近くに住んでいた。
「ええ」
「ほんとですか、どんな印象でした?」
「どうでしたかって?」
彼女は困惑していた。人間は八十年前のことを覚えている。そんな先入観を持つものだ。それでも記憶を振り絞って、
「ああ、通りかかると会釈はしましたね」と。
朔太郎は、「ふわふわと体が浮くような早足で、あやつり人形のように」(『父・萩原朔太郎』)歩いていたと娘葉子は回想している。ひょこひょこと歩いてきた詩人が少女を見て少しびっくりして目礼をする。そんな場面を思い浮かべた。
「今度の地図に武満徹さん家を入れましたが、すぐ側ですね」
「そうそう、そこにいたのよ」
旧居は確証がなくて、「推定」と入れた。が、古老の証言でこれは外してよいことが分かった。
「ひまわり公園覚えていますか」
近所の若者が集まってここでコーラスで歌った。そのときに武満徹が指揮をしたという。崖線の上からは緑の武蔵野が青空のもとに見えていた。空の緑と歌は、戦後の青年には希望だったろうと思う。
「滑り台を覚えているわ、長い長い滑り台ね」
そう北沢川になだれ込む崖には滑り台とはしご段とがあった。詩人の娘、萩原葉子が東大原小から帰るときここで痴漢に出会った。
私は身をひるがえして、十メートルの急なはしご段を無我夢中で、矢のようにとびおりたのである。ちびで敏捷だった私は、毎日この遊園地できたえていたのが思わぬ時に役立ったのだ。
北沢川左岸物語だ。一帯の左岸は高い。急傾斜がずっと下流まで続いている。この坂が軍馬を鍛えた。そう輜重部隊の荷や野砲の砲車を牽引する馬を鍛えた。人間の少女も痴漢撃退力を鍛えていた。ここでいう遊園地は「ひまわり公園」である。
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2017年04月08日
下北沢X物語(3254)〜地図配りは最高の文化活動だ�検�

(一)年寄りは歴史を記憶をため込んだ知恵者だ、二人の古老と出会った。お一人は大正十二年(1923)年生まれの九四歳だ。東京大学からの学徒出陣兵だった。入営したのは東部十七部隊、駒場にあった近衛輜重兵連隊である。
「入営して三ヶ月は蹴ったり、殴られっぱなしでした…」と辻さん。
「以前、海軍第十四期飛行予備学生だった人に話を聴いたことがあります。やはり東大からの学徒出陣兵でした。『アメリカは確かに物量的に勝っているけれども、精神力では負けていない』と言っていました。実情としてはどうなんでしょう?」
「そういうふうな分析はしませんでしたね。大きな時代の流れがあってそれに対してなすこともなく身を任せていたように思います…今はドイツにいることが多いのですが、やはりよそから見ていると日本全体は顕著に右傾的になってきていますね。知識人もそれをはっきりと感じとっていますけどもね、皆黙っていますね…」
確かに言われてみると右傾化している。ドイツ文学者それを危惧していた。
昨日の新聞報道では、
義家弘介文部科学副大臣は7日の衆院内閣委員会で、幼稚園など教育現場の毎日の朝礼で子どもたちが教育勅語を朗読することについて、「教育基本法に反しない限りは問題のない行為であろうと思います」と答弁した。
このところ「教育勅語」を肯定するような発言が与党から続いている。辻氏は軍隊では殴られたといった。この勅語も暗記させられた少しでも違っているとビンタが飛んだ。完全に上から押さえつける教育である。個々人の自由はない。
肝心な部分は、次だ。口語訳を示そう。
万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。
即座に思い起こすのは特攻である。「皇国の御楯となって自身の肉体を捧げて散る」、まさにこのことと軌を一にしないか?多くの若者が命令によって爆弾を機体に装着して敵艦船に突撃した。個々の人権などは顧みられない。
そしてまたこれが失敗すると1036柱に入れられないで、記録もされない。交戦戦死、事故死は犬死にだ。
思うに、現今は人の命よりも、金だ、金、金、金に尽きる。
原発は施策として破綻している。国民の多くが再稼働は危険だからやめてほしいと思っている。が、世界最高水準の規制をしているから安全だと、が、避難すら危ういのに再稼働に突き進んでいる。
福島原発被害者の自主避難にもこの三月で援助を打ち切った。後は、「自己責任」だと声を荒げて復興相は言い放つ、国民をゴミ扱いだ。
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2017年04月07日
下北沢X物語(3253)〜地図配りは最高の文化活動だ�掘�
(一)経年的に得られた情報を文化地図に落とす。改版七版地図にはその情報が凝縮している。裏面の古地図も毎回入れ替えている。今度のは旧番地が記載されている。これを見て北沢住まいの青木友栄さん、「昔は四丁目四○九番地でしたので、五百番台でどこかな位の記憶でしたが、今度頂いた地図で場所が分かりました」と、旧番地は過去風景を当人の脳裏に浮かび上がらせる。確か?五百番台に二二六事件の首謀者が住んでいたはずだと。「文士町文化地図」領域における旧軍関係情報は得ている。が、やはり文学や芸術を中心としたこの地図に旧軍関係のものは似合わない。知っていてもこれは省いている。しかし、旧軍の枢要な人物がどこに住んでいたかを記録にとどめておくことは必要である。
地図配りで出会った青木さん、下北沢に居住していた二二六事件の首謀者の資料を約束通り送って頂いた。そのタイトルは「世田谷と二・二六事件(第三回)」であった。記事の作者は小池泰子氏である。『駒場の二・二六事件』を書いた人だった。
記事は二枚の複写だ、末尾に「本会会員」とあることから「世田谷区誌研究会」発行の「せたかい」ではないかと思われる。論文のまず冒頭だ、見出しは「下北沢駅近くの丹生誠忠中尉」とある。この彼は事件前日、昭和十一年二月二十五日北沢の家を淡々と出でいった。家には新婚の妻がいた。以下は引用文だ。
二・二六事件の首謀者として処刑された丹生誠忠中尉が、世田谷区北沢四丁目五百六十八番地に住むようになったのは、結婚してからだった。
丹生中尉は昭和十年四月、山口美奈子さんと結婚をしたのを機に、夫人の実家にある下北沢駅北口近くに新居を構えた。
この家は同志の連絡によい位置にある。代沢通りを、南に下れば、中橋基明中尉の家のある三軒茶屋に至る。途中の代沢十字路を東に行けば、駒場の栗原安秀中尉が住んでいる。中橋中尉の三軒茶屋から西方の上馬には、香田清貞大尉と安藤輝三大尉が住んでいる。特に栗原中尉や中橋中尉とは隊外での夜の交遊は繁しいものがあったと、仏心会(二・二六事件遺族の会)会長だった河野司氏は話していた。
北沢四丁目五百六十八番地はどこか?わかりやすい目印でいえば、現在もある銭湯「石川湯」近くだ。古老の三十尾さんところのすぐそばだ。彼いう「元スリ横町」近辺だ。森厳寺川沿岸の貸家か貸間ではなかったか。
丹生中尉の家は、「同志の連絡によい位置」にあったのは確かだ。謀略や密議をする場合は隠密行動を行う。駒場や三軒茶屋は密かに歩いていける距離だ。ただ今のように茶沢通りはない、三茶へは行きにくかった。「代沢十字路」は近代のものだ。南にはまっすぐつながっていない。が、駒場へは淡島通りをたどれば容易に行けた。
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2017年04月05日
下北沢X物語(3252)〜地図配りは最高の文化活動だ�供�
(一)文化地図は鍬である、これが人々の脳裏に埋まっている情報をざくざくと掘り起こす、文化という原義、耕すに直結する、やはり文化地図配布は最高の文化活動だ。しかし、である、大きな問題がある、怒濤のごとく押し寄せる情報をどう整理するかである。ジャンルは多彩である。そのお一人はドイツ文学の第一級の研究者だった。偉いから偉いというものでもない、大事なことは、光彩を持った人と出会うことによってこちらの感性がスパークする、刺激を受けて新たな見方が生まれる。認識が深まりを得られる。人々は頭脳に記憶を持っている。それが地図をみてふとよみがえる。文化地図は時間の集積が記されている。例えば、薄ピンクに塗られているところは、戦災で焼けたところである。
「そうかあ、家の近くまで燃えていて消えたんだけど、ここまで燃えていたのか!」
戦災箇所の表示に気づく人はいないが、たまにこれを見て感動する人もいる。
「しかしね、もう昔のことなんかわかっちゃくれないね、若い人は話をしても通じないものなあ」
伊藤文学さんが嘆くように言う。「屋根のない井の頭線の電車乗った」という彼も、「おれは古老と言われるようになってもうびっくりだよ」
去年タウンホール開いた研究会で、「古老の話を聴く」に出てもらった。85歳は古老である。
「おれはね、都バスの筋をやっていたんだ。バスで言えば最前線は、品川や深川だね、なにしろダイヤが過密だから、混み合って数珠つなぎになるともう大変で、パソコンにでてくる筋を直接見ながら、それをちょっとずつ動かして指令するんだ。○○停留所で30秒待機とかね、ところがね、いわゆる筋屋が育たないんだ、それでおれは定年なってからも長く引き留められたんだ…今は杉並に住んで毎日こうやってあるいているんだ…」
退職したスジ屋はバスに乗らずに方々を歩きで回っているようだ。
「いいですよね、歩きは万病の薬、シルバーパスに乗ってはいけませんよ」
これは私。ところが帰りしな仲間の別宮通孝さんと三茶まで一緒になった。
「えっ、街道歩きの達人がシルバーパスを買ったって?それは堕落ですよ」
「なんか元を取るためについ乗ってしまうんですよ。あははは…」
池の上から来た人はおもしろいエピソードを知っていた。
「酒屋の三勝の親父さんの話なんですけどね、横光利一のところによくお使いに行かされたのですよ。行くとチョコレートをくれることも……それで突然にピアノの音が鳴り響いてくることもあったって…」
この話を聞いて思い出した。彼は、北沢の丘の土地を見に来たときのことを小説『睡蓮』で書いている。
周囲に欅や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。
何かの瞬間に、大声を出したり、また急にピアノが弾きたくなったり、自分を制御できない衝動が走る。それで人に迷惑をかけないように当地にきた。その一端を語っているようでおもしろい。
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2017年04月04日
下北沢X物語(3251)〜地図配りは最高の文化活動だ〜
(一)地図配りでは幾十人もの市民の物語がひもとかれる。我々の文化地図は、人の思いを刺激するようだ。地図がきっかけとなって人は戦争を、旅を、人生を、土地を、恋などを語る、それは目前での生のドラマだ。ときめいたり、戦慄したり…長年続けてきた地図配りは我らの文化活動の根幹をなす、わかってきたのは文化地図が人々の心の扉を開く鍵であることだ、いったん開けられたドアからは情報が洪水のようにあふれてくる。4月2日、3日、二日続けて恒例の「文化地図」配布活動を行った。場所は、我らが建立した代沢小安吾文学碑前である。一日目は、800枚、二日目は400枚ぐらい。
今回は予定していた1日が雨で中止、それで一日順延して日曜、月曜に配った。月曜日に配ったのは初めてだ。が、日曜日に比べると人出は少ない。ところがここがおもしろい。
日曜と月曜日では空気感がまるで違う。日曜日は人の波がとぎれなかった。折々に人と話をするが皆気も心も流れに押されて落ち着きがない。どうしても話が断片的になる。ところが月曜日はのんびりゆったりだ。ついには九十歳を過ぎた人の人生を聞いてしまった。一人はシベリア抑留者で、もう一人は学徒出陣兵である。。
長年地図を配っていて、多くの人がこれを知っている。
「新しい版ですよ」
そういうと皆寄ってくる。
「昨日ね、一枚もらってね、おもしろかったのね、それで人にあげようと思ってまたきたのよ」
月曜日に来た女の人だ。

今回の地図で話題になったのは代田連絡線だ。というよりもこちらが説明をしたからだ。二人の子どもを連れたお母さんに。
「ほら、裏をめくると地図が載っていますね。戦後の地図ですね。あれあれ、妙な線路が載っていますね。世田谷代田と新代田を鉄道線路が結んでいますね。これは何でしょう?、あのね、戦争中、井の頭線の車庫が空襲で焼けてしまって電車を動かせなくなったんですよ。それで井の頭線は電車の運行が困難になったのですね。それで小田急さん、電車を分けてくださいよとお願いしたのです。ダイダラボッチに頼めば簡単だったけど……」
自分ではここで勝手に想像をしはじめる。ダイダラボッチさんにお願いすれば簡単だった。巨人は片腕で軽々と小田急線の電車を掴んで、井の頭線に置く。たちまち開通だ。
『ダイダラボッチさんありがとう!』
……そんなことにはなりませんね。やはり線路を引かないとね、鉄道連隊の工兵がやってきて二週間ほどでたちまち線を引いて、電車をこれで送ってめでたし、めでたし。井の頭線はまた動き出したのですよ」
「おもしろい!」
若いお母さんが感動して目を潤ませる。
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2017年04月02日
下北沢X物語(3250)〜紀要第5号&新地図第7版〜
(一)のっけから館員は冷たい言葉でいう。「ご寄贈戴いても必ずしも受け入れるとは限りません」と。我らの会の紀要第5号「代田のダイダラボッチ」と「下北沢文士町文化地図」第七版ができた。その翌日、30日世田谷中央図書館にこれを持って行ったときのことだ。それで即座に思い出したことがある。我らの会がデビューするきっかけとなったのは『北沢川文学の小路物語』だ。これをデザインした東盛太郎さんがこれを寄贈しようとしたときに冷たくあしらわれた。『なんだと、地域文化の粋が詰まったものを受け入れない?とんでもない、責任者を呼べ!』と恐ろしい剣幕になったと。実際これは我らの会のデビューとなった。今となっては語りぐさだ。「朝日、毎日の東京版トップに載ったときは大変でした。店の前で大久保良三さんが何しろ交通整理をしたくらいなんですから…」
邪宗門マスターの作道さんが当時を思い出していう。
もうあれから何年経ったろう。『北沢川文学の小路』の表紙に裏に書かれた地図が、「文士町文化地図」となって昇格し、以来ずっと続けて改版をしてきた。それが今回の、第七版である。途中から研究紀要も出すようになって、今回のは紀要第五号である。
行政側の窓口をいくつか訪れて地図と紀要を差し出した。が、総じて事務的でクールであった。が、郷土学習室では違った。ダイダラボッチや代田連絡線で盛り上がった。
図書館に寄贈した後、帰ろうとして気づいたのは二階にある「郷土学習室」だ。学童が郷土学習でここに訪れる。伝承で大事なのは次代に受け継ぐことだ。
「よくおいでくださいました。ここにお名前を…」と受付の人。
「いいえ、今日は郷土学習に関係するものを寄贈しに来たのです」
「あら、それはそれは、では係の人を呼んできます」
現れたのは室長だ。そしてまた続いて男の人が来た。ものを取り出して差し出すと、「あら」と顔をほころばす。興味を引くものであったようだ。
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2017年04月01日
下北沢X物語(3249)〜知覧の語り部、峯苫さん〜
(一)小さいときから怖がりだった。物陰からひょいと幽霊が出てくる妄想に悩まされていた。特攻ものを書くのなら知覧詣では欠かせない、が、ずっと行かなかった。なぜなら、怖いからだ。彼らのお化けに出会ったわけではない、偶然に疎開学童と彼らが浅間温泉で接していたことを知った。ここから調べが始まった。今にして思うと不思議だ。芋づる式という言葉がある。一本の蔓を引っ張ると次々に芋が掘り起こされる。同様に一本の糸を発端に次々に埋もれていた真実が掘り起こされた。もしや特攻で逝ってしまった人の霊魂が取り憑いたのではないか?不思議なことが次々に起こった。なおさらに本山詣ではためらわれる。しかし、知覧情報は密かに得ていた。鉛筆部隊の田中幸子さんは、5月の慰霊祭には必ず出席していた。彼女は1036柱の一つ、武剋隊今野勝郎軍曹の慰霊碑を寄贈している。そんなことから特攻平和会館の人とも親しくなっていた。武剋隊や武揚隊の記録も田中さんを通して知覧から得ていた。それは峯苫真雄さんである。先だって知覧を訪れたときに初めて彼にお目にかかった。長年館で語り部を続けてこられたが三月で退かれるとのことだった。この彼のことは『特攻基地 知覧』(高木俊朗著)を読んで知っていた。
真雄は滑走路の方に行ってみた。十六歳の少年には、この飛行機と飛行場は、夢であり希望であった。滑走路には、たくさんのドラムかんや材木が置捨てたままになっていた。それはアメリカ空軍着陸のうわさにおびえて、妨害しようとして運びだしたものだ。飛行場の西のはしには、飛行機が三四十機、ならべてあった。一式戦闘機が多かったが、九八式直協機、九九式襲撃機などもあり、たった一機、海軍の零式艦上戦闘機がまじっていた。これらの飛行機が、再び特攻機となって飛ぶことは、もはや考えられなかった。三千年不敗の神国が負けたことが、現実であったのだ。少年は心に大きな衝撃と激しい混乱を感じた。

昭和二十年八月十六日の陸軍知覧飛行場でのできごとだ。峯苫さんは当時十六歳、整備員として働いていた。彼には青空を飛ぶ飛行機が憧れだった。敗戦の日、十五日を境にその飛行機はすべて死に絶えてしまった。
彼は一機一機を大事に整備してきた。それら飛行機が一朝にして無用物となってしまった。耐えがたいことだったろう。
「ああ、九九式襲撃機ね、私も何度も扱いましたよ…」
武揚隊、武剋隊の搭乗機だった。
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