2017年07月
2017年07月31日
下北沢X物語(3330)―世田谷代田「帝音」を巡るプレ研究会―
(一) 「うちのお袋が帝国音楽学校にお化けが出ると言っていました。普段そんなことは言っていませんでしたから何かあったんだと思うな……」と帝音の側に住む米沢さんがいう。「帝音は空襲で焼けたんだけどまだその跡が残っていたんだね。内田百里離┘奪札い覇匹鵑正憶があるんだけど、焼けた小学校から夜になると音楽が聞こえるみたいなことを書いていたな。もしかしたら帝音の焼け跡から歌声とか楽器の音とか聞こえていたのかな?」と私。この話興味深い、帝音の地域における存在の意味を象徴していないか?29日土曜日、世田谷「邪宗門」に集まって8月5日に行われる研究会の打ち合わせをした。講師の久保絵里麻さんを交えての会だったが、やはり地元ネタだ。妙に盛り上がってプレ研究協議会のようになってしまった。
昭和2年(1927)12月、帝国音楽学校は世田谷中原駅の側に創設された。
「大根畑に建ったというのは本当ですか」と米澤さん。
「本当です、創設時の書類に書いてあるんですよ」と久保さん
「もう鉄塔もあったはずです」
鉄塔に二階建ての音楽学校、原風景としては大事だ。際だっていたはずだ。
亡くなられた代田の古老今津博さんが『昔の代田』に書き残している。昭和六年に彼は当地に引っ越してきた。
連れて行かれた世田谷代田中原駅(現世田谷代田)で下車して見た周りの景色には驚いた。駅前 そして道の両側にはぼちぼち商店があるものの、畠…竹藪…こんもりした林……。それより巨大な鉄塔が建ち、線路をまたいでいる高圧線。こんなものは山の中にあると思っていたのに。
僕はこんな田舎に住むの。
今津少年は世田谷中原駅で電車を降りたとたん、広がっている景色に驚嘆した。漫画の吹き出し風台詞では、「がびびびびびびびび〜ん」という気分だったろう。超田舎だった。
すでに帝国音楽学校もあるはずだが、どう目に映ったのだろうか。しかし、真っ先に目に入ったのはおとろしく「巨大な鉄塔」だった。この風景は大事だ。とてつもなく高く大きい鉄塔だった。
「やっぱりね、鉄塔風景は大事なんですよ。この鉄塔はうちの方の目黒まで続いているんですよ。代田とは高さがまるで違うのですよ。いびつに見えるのですよ」
当地では鉄塔のある風景というのは際だっていた。
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2017年07月29日
下北沢X物語(3329)〜会報第133号:北沢川文化遺産保存の会〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第133号
2017年8月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、また再び戦争の夏、戦後72年が巡ってくる
太平洋戦争とは何だったのか?マスコミ取材で突きつけられた課題だ。国威を掛けた戦いに何がどうあろうと国民はしゃにむに走らされた、空元気を出して、最後には徒手空拳で戦った。敗戦が明白なのに戦争は終わらず、しまいには原子爆弾を投下されてやっと降参した。軍部は、敗走を転身、瓦解を玉砕、特攻戦死を散華と言葉で飾り立てた。精神力で戦えば活路は開けると叱咤された。最後は、竹槍で戦え、それでもだめなら敵の金玉を蹴り上げて倒せ号令を掛けた。その間、多くの犠牲者が出た、多くが無念の死を強いられた。犬死にさせられた無謀な戦いだった。
原爆投下が戦争を終結させたとアメリカ人はこれを評価している。戦争末期では全国の諸都市はB29による爆撃で焦土と化していた。敗戦は明瞭だった。が、軍部は最後まで徹底抗戦を唱えた、そして負け方にもこだわった、「国体護持」である。軍部は国民のことは考えず、メンツにこだわった。五月二十四日、二十五日、B29の爆撃によって東京は廃墟となった。攻撃リストから外された。完璧に負けたのだ。が、戦争は終わらない。とうとう八月六日に広島に、九日には長崎に原子爆弾が投下された。甚大な被害を受けてようやく敗戦が決定する。覚えておかなくてはいけないことは、「戦争が始まったらなかなか終わらないことだ」、人は戦を終えられない生き物なのだ。多くの経験者から戦争を聞いてきた、誰もが口をそろえて言った「戦争はするな!」だ。
戦争をしないようにするために何でもする覚悟が必要だ。しかし、今の社会、何でもするよりも対峙する方に傾いている。「敵がミサイルを撃ってくるから気をつけよ」と。敵のミサイル実験の映像ばかりが流れてくる。「国民への脅し」だ。解決法を考えたであろうか?「日本も危ないから軍備を増強しよう」、果ては「核兵器を持とう」とまで言い始める。核の核心は、人類の死滅だ、こちらがボタンを押せば、向こうも押す、敵味方なく人は死滅する。
毎年、「戦争経験を聴く会、語る会」を開いている。来年は十一回目となる。すでに算段をしていて協力してくださる方に打診をしている。概ね了解されていることからまず、タイトルを「歌と証言とで伝えるヒロシマ」とした。
まず、国内外で被爆証言活動をされている村上啓子さん。(1937年生まれ)が健康が許せば講演してもよいとの朗報を得た。また合唱団体「すみれ会」代表の鈴木勢以子さんからは歌の合唱で協力をするとの嬉しい返事を得ている。やはり大事なことは戦争を語り継いでいくことだ。
今年春、「僕のお嫁さんになってね−特攻隊と鉛筆部隊の子どもたち」という絵本が出版された。鉛筆部隊は当会の活動によって発掘された戦時秘話である。この話が現地長野で評判になっている。地元テレビ局が「子どもに戦争を伝える」という視点でこれを軸にニュース特集を計画しているということの連絡があった。
また当会の活動とは直接関係しないが、会報編者は戦争伝承の物語を書いている。「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」は自著だが、姫路の劇団・プロデュースFでは、今夏の夏の朗読劇公演で当作品を劇の台本として使い、ヒロシマを伝えたいとのこと。
我々の活動が、全国に輪となって広がり初めている。
「何があっても戦争はするな!」、というのが戦争経験者の重ね重ねの戒めだ。
2、「帝音」と中原商店街
久保 絵里麻(えりあ)
戦前、中原駅前にあった音楽学校、通称「帝音」の歴史は短いが波瀾に満ちている。創立早々、校長・教員・学生らが総退学して帝音を去るという悲劇的な幕開けのあと、空っぽの帝音校舎に他校から自主退学してきた血気盛んな音楽学生たちが帝音を再起へと導いた。その後の帝音は自由な校風と画期的な制度を敷いた異色の音楽学校として世間の注目を集めた。
その頃の雑誌に載った“帝音生”による一節。
「……[帝音が]今やあらゆる方面から注目される所となり何んだかきまりが悪い様な氣がしてなりません。然かし、毎日學校へ行つて全校生徒の新興の意氣盛んなる空氣に浸ってゐると〔…略…〕一日も学校へ行かないではゐられない様な氣持になつてしまいました。この様な気持は全生徒の誰れでもが持つてゐる気持ちなのですから此の学校の賑やかな事、面白い事〔…略…〕從つて世田谷中原通りは常に帝都[音]生徒達のおかげで、今迄淋しい郊外の何等取り立てゝ云ふべき處ではなかったのが近頃急に活気を呈して、賑やかな街になって来ました。」[補足:筆者]
寄稿したのは帝音でチェロを専攻していた中澤良雄という学生。学校誌に創作小説を披露した筆が立つ人物だが、帝音が中原商店街の賑わいに一役買っていたことは彼の創作(フィクション)ではなかろう。
例えば、帝音の教育・教授法の先生で、校長にも就任した田村虎蔵先生は言わずと知れた唱歌《金太郎》の作曲家であり視学官。彼は、「奥様もだいぶお困りのようでした」といわれるほどの撞球(ビリヤード)好きだった。それを知ってか知らずか、中原商店街には“ビリヤードカフェー”があった。田村先生だって此処で腕を磨いていたに違いない。
それから“帝音生”の愉しみといえばアミダくじ。敗者は全員にアイスをおごる、なんていう遊びをしていた。定番はスマックアイスクリーム。作曲家の大木正夫先生も「すまぬね」と学生にまぎれて“スマック”をほおばっていたとか。
さて、アイスが溶けない距離にあった帝音御用達のお店はどこか?情報求む。
(芸術学博士久保絵里麻さんは、八月五日の「帝音の歴史」を講義してくださる方だ。今回特別に地元ネタの帝音話を書いて頂いた。当日は、代田の帝音について情報をお持ちの方はぜひ参加されて情報を公開してください。お願いします)
3,第3回北沢川文化遺産保存の会研究大会
研究会テーマ
世田谷代田の音楽学校の歴史を知る
開催日時 2017年8月5日(土)1時30分より
場所 北沢タウンホール12階 スカイサロン
会費 500円 申し込み不要 先着順70名
主催 北沢川文化遺産保存の会 後援 世田谷区教育委員会
協力 三土代会・代田自治会・代田北町会・世田谷ワイズメンズクラブ
昭和2年(1927)4月、小田急線が開通した。この年の暮れ、世田谷中原駅 (現世田谷代田駅) 北の大根畑だったところに二階建ての音楽学校が出現した。帝国音楽学校だ。開校したとたんピアノやバイオリンの楽器、そしてテノールやソプラノの歌声が響いてきた。大根畑に忽然と現れた近代に人々は文化的ショックを受けたに違いない。これが当地における芸術文化の始まりといえよう。
学校の名にある帝国とは、満州、樺太、朝鮮、台湾などを含めた旧領地を指し、実際にこれらの地域出身学生も数多くいた。戦争末期に廃校となるが、学校が一帯に与えた音楽文化には、大きなものがあると思われ戦争の前後を通じ、当地に音楽関係者が住んだり、歌劇団が創設されたりしたのもこの影響だろう。
講師の久保絵里麻氏は、当地の世田谷代田でもほとんど知られていないこの学校の史料を発掘し、これをテーマの一環とした研究で芸術学博士号を取得した、この学校の研究の第一人者だ。学校は世田谷代田の誇りといえる。ぜひおいでください。
第一部 講演「帝音」の歴史 13時30分〜15時30分
講師:久保 絵里麻 (芸術学博士)
第二部 世田谷代田の音楽文化を語る 15時30分〜16時30分
参加者による自由討議 司会:きむらけん
第三部 懇親会・納涼会(申込み必要) 17時30分〜21時20分
会費3.500円「帝国音楽学校弁当」飲物 付き
イベント プロマジシャン出演予定 作道 明氏 等
*恒例不用品オークション・一品おみやげ持参(強制ではない)
お弁当の手配があるので必ず申し込んでください。締め切り8月2日まで
申し込み先 米澤邦頼 090−3501−7278
4、都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
第131回 9月16日(土) 午後1時 田園都市線 駒沢大学駅改札前
案内人 きむらけん (新企画)世田谷のダイダラボッチを歩く
コース:野沢旧五輪道路→鶴ヶ久保公園(駒沢ダイダラボッチ)→連合艦隊司令長官旧居→明大野球場跡→安藤輝三大尉旧居→中里色街跡→山田風太郎旧居→世田谷変電所跡→大村能章旧居跡→三好達治旧居跡→萩原朔太郎旧居跡→武満徹旧居跡→帝国音楽学校跡→代田のダイダラボッチ跡→下北沢駅 *9月1日の「せたがや広報」に募集掲載をします。が、会の方優先にしたいので早めに申し込んでください。
第132回 10月21日(土)午後1時 浅草雷門前
(新企画)昭和・狭斜の巷を歩く(荷風、露伴、吉行の世界を歩く)
案内人 松山信洋さん
コース:浅草雷門→旧玉ノ井→露伴旧居跡→鳩の街→京島→曳舟
第133回 11月18日(土) 午後1時 三鷹駅改札前
案内人 原敏彦さん (新企画)三鷹・武蔵野散策
コース:三鷹駅→禅林寺→玉川上水→井の頭公園→吉祥寺駅 関係する文人は、森鷗外・茉莉、太宰治、田中英光、国木田独歩、山本有三、北村西望、吉村昭等々
第134回 12月16日(土) 午後1時 京王線幡ヶ谷駅改札前
案内人 渋谷川・水と緑の会 梶山公子さん (新企画)渋谷川の跡を歩く
コース:幡ヶ谷駅→玉川上水・二字橋→宇田川水源の地(JICA・NITE)→旧徳川山脇の流れ→大山の池→底抜け田んぼ(小田急線南側)→西原児童遊園地→小田急沿線の小川跡→田中地蔵→山手通り下・流れの合流点→新富橋→初台川→代々木八幡と縄文古代住居→代々木八幡駅かつて「代々木九十九谷」と呼ばれた地域に渋谷川の支流である宇田川が流れていました。明治神宮の西側にあたる西原、大山町、元代々木などの地域です。そこには縄文時代の人々も住んでいました。上記のような宇田川の跡をたどって地域の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498
■ 編集後記
▲*訂正とお詫び*『下北沢文士町文化地図』第7版の「帝音」年表に誤りがありました。右記のとおり訂正し、謹んでお詫び申し上げます。誤:1939.6→正:1939.2
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
▲原稿募集。原稿用紙二三枚。身の回りの文化探訪で発見したことなど。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
2017年07月28日
下北沢X物語(3328)―日本偽汽車紀行:塩尻玄蕃之丞狐―
(一)狐狸が汽車に化けた話は誰に話しても面白がられる、しかし、この話、一回こっきりの話である。返す返すも残念に思うのは汽車化けの術が伝わらなかったことである。なぜなら汽車に化けた狸たちは、真正面から本物の汽車とぶつかってことごとく討ち死にしているからだ。二三匹ぐらいはぶつからずに適当に化けて、その術を温存してほしかった。この伝承、一つには人間の自然破壊への戒めという側面もあるからだ。明治大正期に鉄道が次々に敷設されていって、その工事のために狐狸は住処を失った。それで人間に仕返しをしようと汽車化け術を考案し抗議に及んだのである。今日近代においては新たな鉄道が次々に敷設されている。九州新幹線、北陸新幹線、北海道新幹線だ、さらに超巨大工事としてリニア新幹線の敷設が開始されている。これらの工事は大規模化している。一山を削ったり、高山のどてっぱらをぶち抜いたりしている。狐狸たちのみならず野生動物たちは人間の仕業によってますます居場所を失っている。彼らは反撃に出てもいいはずだ。
しかし、狐狸が新幹線に化けて現れたという話はとんと聞かない。あってもよさそうである。北陸新幹線「新親不知トンネル」は、7336メートルもあるという。『奥の細道』での旅の途次、苦労した地点だ、「今日は親知らず子知らず・犬もどり・駒がへしなどいふ北国一の難所をこえて疲れ侍れば……」(『奥の細道』)かつての名だたる難所だった。狐狸たちの活躍場所でもあったはずだ。
「新親不知トンネルからE7系新幹線がシュポッと抜け出たとたん真っ正面からですよ。同型のE7が現れて大騒ぎになったんですよ」
新たなる民譚の萌芽が期待される。が、こういう新話はほとんど聞かない。ここも謎だ。
狐狸的妄想譚である、「新幹線の高速性における偽汽車出現の可能性」という論文がある。本稿においては、偽汽車出現の困難性を次の三点に亘って説いている。
/郡汗が高速化して狐狸達の化け時間が確保できなくなった点。
現物を視認して形を脳裏に刻んだ後、一念姿形を思い描き、エイッと術を掛ける。そういう間が取れなくなった。
△匹ε召鵑任盡せ場が確保できない点
偽汽車話の肝は衝突するまでのドラマだ。現業の運転士が偽汽車を視認して突っ込んでいく。そのときのプロセスがもっとも大事だ。電車運転士はのけぞるようにしてブレーキを掛ける。目の玉が飛び出るほどの恐怖、漫画では吹き出しに「ギャホホホホホホ……」と描かれる。ところがこの間がない。
8什人間の共同幻想へのモチベーションが低いこと。
もっとも肝心な点だ、「偽汽車」は信じようとする人間の心が必要だが、
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2017年07月26日
下北沢X物語(3327)―戦時中の忘れ得ぬ思い出:戦闘機飛燕―
(一)「あのときのことは忘れられないね」浅間温泉で出会った岩越平八さんは言った。御年八十三歳である。当時は本郷国民学校の五年生、みんなを引き連れて陸軍飛行場へ行ったという、そして夢にまで見た戦闘機を見て、驚喜した。少年時代の大冒険である。「陸軍松本飛行場とは言わなかった、あのときは笹部の飛行場とか言っていた。できたばかりの飛行場には飛行機が一杯いると噂では聞いていたんだ」
「神林にあって、神林飛行場とも言っていたんですよね」と私。
「そうそう、ここからは遠かった。直線で三里ぐらいかな」
「どうやって行ったんですか?」
「あのときはこの浅間温泉には兵隊が一杯あちこちにいたんだ。この上の方には松本五十連隊の将校が下宿していて馬で通っていたね。それで米のとぎ汁を用意していて通りかかるとこれを馬に飲ませてあげたんだよ。こっちは魂胆があってやっているんだ。だけどね、『馬に乗せて』と頼んでも一回も乗せてもらわなかったね」
「そうだったんですか」
「うんそれでね、この下の方の椿の湯に兵隊がいたことはこの目で見て知っていたんだ。あちこちに兵隊いたけど、そういうことを話してはいけなかったんだ。だけど椿の湯にいたのはこの目で見て知っているからね、飛行服を着て白いマフラーをした航空兵がここを出ていった。そしてトラックで飛行場に向かっていたのをこっちは知っていたんだ。」
「うんそうそう、椿の湯とここの小柳の湯は世田谷の山崎国民学校の疎開学童がいました。私はその学童から聞いて知っています。特攻隊は確かにいました、その連中が飛び発ったとき旅館上空までお別れに来ているんです」
この彼らは何隊か分からない。彼らから疎開学童に送ってきた葉書には宮崎県佐土原町の紫明館とあった。消印は昭和二十年四月三日となっていた。
私はこの料亭を調べに現地まで行ったことがある。痕跡は何もなかったが確かに紫明館はあった。
「あれは三月のことだね、椿の湯にトラックが来たんだ。来てまた戻るようだったんで、『兵隊さん飛行場まで乗せていってくださいよ』と頼みこんだんですよ。そのとき下級生が五名ほどいたんですよ。その連中も声をそろえて『兵隊さんどうかお願いします』と頼みこんだんだ。みんなで拝み倒して、ようやっと許可をもらったんだ。荷台に乗ると風が冷たかったんだ。山をくだっていくと向こうに北アルプスが見えて山はまだ真っ白だったね。でもみんなウキウキしていたんだ、何しろ飛行機を間近にみるのは初めてだから……」
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2017年07月25日
下北沢X物語(3326)―狐狸幻想:偽汽車と鉛筆部隊―
(一)旅の目的は、鉛筆部隊ゆかりの人と出会うことだった。しかし、本筋が横道に逸れて知らず知らずに狐狸に取り憑かれてしまった。気づくと三台の車に分乗した鉛筆部隊の関係者は安曇野の狐狸のふるさとを追っていた。そして玄蕃稲荷神社に行き着き狐に出会った。三台は別れて帰路についた。ところが皆と別れて帰る途中、狸が憑いたらしく山道で迷った。見知らぬ道を走るうちに出会ってしまった、それは道の真ん中に大の字になって転がっていた。狸である、どうやら車にひき殺されたようだ。「偽汽車ならぬ、偽車に化けて現れて死んでしまったのか?」、そんな噂をしたことだ。今回の旅、狐狸に始まって狐狸に終わった。例年の夏恒例行事となった浅間温泉への旅である。
2012年に『鉛筆部隊と特攻隊』が発刊された。毎年関係者が集まって浅間温泉、目の湯で同窓会を開いている。続けようといって継続してきたわけではないのに数えてみると六回目となる。この二十二日に開催した。毎回顔ぶれが違う、今回は二人のご夫婦が加わられた。まず一組目は、武揚隊山本薫中尉の甥御さん山本富繁さんと山本喜美代さん夫妻だ。二組目は『私のお嫁さんになってね』、特攻隊と疎開学童とのふれあいを絵本にした童話作家高田充さんとその奥さんである。
常々私達は、人知れぬ歴史・文化を追っている。今回の会も密かな出会いとなった。
2012年、浅間温泉に滞在していた「と号」第三十一飛行隊・武揚隊の隊員が別れの言葉を記したサイン帳が見つかった。彼らの隊が当地にいたことを裏付ける資料だ。
昨年、2016年、今度はこの隊の隊長だった山本薫中尉のご遺族から連絡があり、武揚隊の最後の旅路を記した手記があることを知らされた。思ってもない情報だ。
資料を得て思ったのは、割り符である。すなわち二枚にわかれていた割り符だ、サイン帳と手記、これが合わさったことで今まで埋もれていた隊の歴史が明瞭となった。
昭和二十年二月十日、満州国新京で大本営直轄の特攻四隊が編成された。武揚隊、武剋隊、蒼龍隊、扶揺隊である。すべて誠隊だ、第八航空師団所属の特攻隊だ。三月末敵機動部隊が沖縄に接近してきた。九州新田原へ誠隊は集結してくる。各隊は所属の台湾に行かずに九州から直接沖縄に突撃を敢行した。が、四隊のうち武揚隊だけが台湾へ行くことを命令された。中古機を駆っての遠距離飛行は惨憺たるものだった。これらの経過は、今回四国徳島の山本家資料を得て初めて分かったことだ。
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2017年07月23日
下北沢X物語(3325)―あわれな狸の提灯列車―
その日は星月夜、空には真砂をまぶしたような星が青く赤く輝いていた。田圃では蛙がグゥグルと鳴いている。と、遙か向こうに赤い光が灯った。一つ現れ、二つ現れる。ゆっくりと走って行く。ほおずき色の明かりが五つも六つも連なって動いていく。ちょうどその辺りには西に向かう本線が走っていた。
「ボッボッ、シャッシャッー、ボッボッ、シャッシャッー」
耳を澄ますとそんな音が聞こえた。夜汽車がゆっくりと走っているようだった。それにしては遅い、その音もくぐもったようで切れが悪い。奇妙な汽車だ。
「あれはな、狸だよ」
脇にいた爺さんが笑いながらいう。
「狸?」
「そう狸の提灯行列だよ、ほらなゆらりゆられて行くだろう、音だってのんびりだ。しかしな、きれいなものだ鬼灯の提灯がゆっくり進んでいく、狸たちはさぞかし嬉しいだろうなあ」
「そうなんだ、ということは小さい明かりは子狸?」
「そうそう親が汽車のまねをするから子狸は大喜びでついていくんだ。いっちょまえに、シュッシュッとやらかしてなあ」
「音も真似るの?」
「うん、あいつらは音を真似るのがうまいんだよ、真似てよろこぶんだ」
爺さんがそう言ったときだ。
「ぽぉぉぉうーーーーーーーー」
西の向こうで遠汽笛が鳴った。
「ありゃ、本物の汽車がやってきた」
「ほんもの?」
「うん、あの狸の提灯行列は偽物だ、やつらうれしがって汽車に化けて提灯行列をするのが好きなんだ」
「あれ、汽車だ!」
狸の提灯行列の向こう、西に煙をもうもうとあげた機関車が現れた。機関室には人影が見える。一人が盛んに動いている。石炭を釜にほおりこんでいるのだろう。
「あれ、明かりがまるで違う。黄色く灯った窓辺が、狸のよりもうんと明るいよ」
機関車に続いて客車が現れた、カタンタントン、コトトットと駆けていく。
「ありゃあ、あれは急行列車だ」とじいさんは言う。
「スピードが速いよ。このままだと轢かれちゃうよ」
急行列車はみるみる速度を上げる。そして、ぼうぼうと汽笛を鳴らす。狸に気づいたようだ。
「ありゃま、狸たちは浮かれていて気づかないんだな」
「あ、どんどん近づくよ、あ、後ろの親狸と子狸がすっ飛んだよ」
「むごいことをするもんだ」
急行列車は、狸たちを蹴散らしていく。ちょうちんが横に上に飛んだ。
やがて汽車は駆け抜けていった。辺りはシーンと静まりかえった。ちょうちんのカケラも見えない。空には星が瞬いていた。
この民話は伝えられている。
何匹もの狸がチョウチンを提げて線路の上を一列に進んでいく。ところがすぐ後ろから。本物の急行列車が追いついてきてアッという間にこの狸列車をひきつぶしてしまったということだ。
『偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』(現代民話考 珪消みよ子)
2017年07月22日
下北沢X物語(3324)―試案「日本偽汽車物語紀行」―
(一)なぜ狐狸は汽車が大好きなのだろうか、彼らは全国各地で汽車に化けて現れている。ところがこれが悉く敗退している。討ち死にである。これによって汽車化けの術が近代今日に伝わらなくなった、惜しいことだ。が、この偽汽車現象は興味深い、古代と近代との境目に起きた事象である。狐狸が次々に汽車に化けて現れた、しかし、それは狐狸の目に映ったものではなく人間が目にしたことである。「おお不思議だ」、「おお恐ろしい」、「おお面白い」と当時の人々は思った。この心のありようにこそ問題点が含まれている。人々の共同幻想である、背景に潜んでいる謎を解くこと、これによって我々が依拠している文化が紐解かれるのではないか?六郷高畑で狸が頻繁に汽車に化けて現れた事例について報告した。現地を歩いたとき高畑地区では東海道線や京浜東北線は高架になっている、それで往時は築堤ではなかったかと述べた。これについて地形上の指摘が、きむらたかし氏からあった。すなわち、明治十三年の一帯の古地図では、鉄道線路は切り通しになっているとのことだった。
狐狸がなぜ汽車に化けて現れるか、その理由として言われていることがある。鉄道敷設によって巣穴が壊された、彼らはその仕返しをしようと化けて現れた。六郷高畑の例でいえば、鉄道敷設には切り通しを作るという大きな土木工事があった。小高くなった畑地を掘り下げる必要があった。まさにそこが狸たちのねぐらだった、そこを壊されて立ち上がった。
『偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』(現代民話考 珪消みよ子)では、愛知県の例を引いている。
明治三十年であった。豊川鉄道が初めて長篠へ通じたときである。川路の正楽寺森の狸が、線路工事のために穴を荒らされた仕返しに、ある晩機関車に化けて走ってきて、こちらからゆく汽車を驚かせた。
明治五年の新橋横浜間の鉄道開通によって鉄道建設ブームが沸き起こった。それで各地で線路が敷設された。車と違って汽車は勾配に弱い。これを緩やかにするために隧道をうがち、切り通しを作った。近代の機械を通すために自然破壊が行われた。
鉄道の敷設は金がかかる。街道筋に鉄道を通せば安上がりである。それで当初は街道沿いに線路を敷設するはずだった。ところが、そういうわけにはいかなかった。
その当時鉄道にたいする一般人の理解も同じように排斥的なものであった。鉄道なんかが敷設されると、宿屋に泊まる者がなくなって町がさびれる、汽車の煙が桑の葉につもってカイコが全滅するとか、汽車の轟音でニワトリが卵を生まなくなるとか、根も葉もないデマがそれからそれへと言いふらされて鉄道敷設が妨害された。『明治の汽車』 永田 博編 交通日本社
人々の反対によって街道筋に鉄道を敷設することは困難であった。それで田畑や原野を切り開く必要があった、そこはまさに狐狸たちが死守してきた住処だった、ここを破壊する鉄道近代に狐狸たちは立ち上がった、懲りることなく汽車に化けて現れた……
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2017年07月20日
下北沢X物語(3323)―「太子堂の空襲」梅津迪子 供
(一)言葉の基本は伝えだ、しかし、今この言葉が崩壊しはじめている。狐狸的で珍妙な問答が公の場で繰り返されている。スーツを着た広報担当者は、お尻にしっぽが出ているのに、それを指摘すると気のせいですと応える。国民の目にもしっぽが見えているのにかまわずに見間違いですと。社会を支えている言葉が崩れかけている。戦争中は、もっとひどかった末期になると大本営は嘘に嘘を塗り固めた情報を流した、支配者が皆、狸や狐になっていた。明白な事実が捕まえられているにも関わらず、「そういう事実はない」と言う。国家は言葉で成り立っているがこれも崩壊しつつある。「太子堂空襲」の経験をコツコツと集めてこれを小冊子にして梅津迪子は人に配った。聞き書きという経験をした。これによって気づいたのは、「日本人の家庭生活のやさしさ、気持ちの豊かさだった」と後記に書いている。
戦争中の苦しい辛い生活の中で互いが互いを思って暮らしていた、人々の紐帯感が強かった。広島の被爆者から聞いたのは、仲間の女子学生の行方を捜そうと原爆投下後の市内に入って懸命に友を探したという、裸足である。暑いさなか溶けたアスファルトが足にくっついたという。この人たちは入市被爆を結果的にすることになる。
太子堂二丁目の萩原さんから聞いた話を梅津さんは記録している。昭和二十年五月二十四日のことだ。落下してきた焼夷弾につぎつぎに火が点く、それを皆と協力して一晩中消し続けた。
やれやれ今日は何とか無事に終わったと思って井戸水を汲んでいると、離れの屋根上から煙が出ている。「お父さん」と呼びながら上に登って瓦を剥がしてみると中が燃えている。火の粉が入って燃えだしたのだろう。大声で助けを求めると大勢のご近所の方がきてくださり、バケツリレーで消すことができた。
三月十日の東京大空襲はなすすべもなく下町はあらかた燃えた。しかし、これによって学んだのは焼夷弾は消せるということだ。この後類焼を防ぐために建物疎開、防火帯が作られたり、また防火用水が設置されたりした。
常日頃防火の大事さを説いていた警防団長が焼夷弾が落ちてきたら真っ先に逃げた、この話は面白おかしく語られる。が、人々が懸命に協力して焼夷弾の火を消し止めたというのは警防団長逃亡の話よりも何百倍も多い。
「代田三丁目の自宅で西の方を見ていたらB29が高射砲に撃たれて火を噴いたんですよ。それでみんなで拍手をしたのです。ところがその飛行機がこちらへやってきて焼夷弾を落とす、というよりか捨てるんです。それで家に火が燃え移ったんですよ。でもこれは皆で協力して消し止めましたよ……」
亡くなってしまった代田の古老、今津さんから聞いた話だ。
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2017年07月19日
下北沢X物語(3322)―「太子堂の空襲」 梅津迪子―
(一)私達はすべてを忘却して生きている。近隣で更地によく出くわすが、どんな家があったのかほとんど思い出せない。ましてや過去のこととなると雲を掴むようなものだ。しかし記録があると確認ができる。偶然、風景資産の交流会で梅津迪子さんと出会った。彼女は「太子堂の空襲」をこつこつと記録してきたという。それを自分で印刷し、折りたたんで製本したという。すべて自分の手で行っている。ささやかでも伝えを伝えようとすることは大切だ、なかなか難しいことだが一歩踏み出せば誰でもできる。こういうことは世のため、人のためになることだ。彼女はこういう。昭和二十年五月二十四・二十五日の山の手大空襲では、池尻・太子堂・三軒茶屋は総なめにあい、旭小・多聞小・区役所は全焼、東大原・三宿小は半焼の被害にあいました。太子堂の四丁目はほとんど燃え、二丁目は梅津さんの下の川まで焼け、三丁目は富塚さんの烏山川まで焼け広がりました。
池尻、三宿、三軒茶屋は野砲兵聯隊の兵営、そして軍事演習地としての駒沢練兵場があってこれが狙い撃ちにされた。これによって近隣の街はその余波を食らって甚大な空襲被害を受けた。彼女はいう「この歴史を風化させてはならない、今記録しなければ失われてしまう」ということから人から人を辿って「太子堂の空襲」を記録したという。こういう地道に努力する人がいてこそ歴史は支えられるものだ。その聞き書きだ。
岡崎さん(下の谷)
私は、四月に池袋で焼け出されて、母の住んでいた下の谷に移ってきました。
大空襲の時は、昭和女子大のところは兵隊の場所だったから、あそこから、焼けてきました。下の谷は低いから、焼夷弾や焼けた材木などが飛んできたですよ。もう死ぬかと思ったですよ。そしたら急に風が変わって命拾いしました。急に風が変わって真っ暗になったのです。下の谷の池田屋さんの側は全部焼けました。爆弾が雨あられと降ってきて逃げようたって、逃げられなかったのです。
ここで証言されていることで重要なのは風向きだ。証言者は下の谷に住んでいた。昭和女子大は南に位置する。ここに近衛野砲兵聯隊の兵営と厩とがあった。B29はここに焼夷弾攻撃を仕掛けた。しかし、事実としては近衛野砲兵聯隊の兵舎は一部は焼けたが多くは焼け残っている。昭和女子大も当初はこの焼け残った兵営を校舎に使っていた。戦災地図でみると昭和女子大辺りは緑色になっていてその南手の下馬が赤で示されている。
下の谷から上手に当たる下馬や三軒茶屋がB29の焼夷弾攻撃によって焼けた。折からの南風にあおられて投下された焼夷弾やまた火の点いた材木の木っ端などが飛んで来て下の谷地区は焼けたのだろう。
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2017年07月17日
下北沢X物語(3321)―第130回街歩きは地下街探訪供
(一)十年間街歩きを続けてきた。時代は確実に変化している、一つ目は風だ、二つ目は臭いだ、三つ目は緑だ。人をなぎ倒しそうなビル風が吹くようになった。街から住宅地から臭いが消えた。まず鼻をつまんで通ることもなくなった。メンマ工場もドブもなくなった。木々の緑は確実に減っている。こんもりと木々が生えていたお屋敷がまるごと更地になってマンションが建つ。都心を歩いてみて思ったのは風景にとっかかりがなくなったことだ。
「いつの間にかこうなっちゃったの」
久方振りに日比谷公園にきた向井さん、景色の変貌ぶりに驚いていた。
聞くところによると日比谷公会堂によく通ってきていたという。それを聞いて思い出した。かつては何かというとここで集会が開かれていた。日比谷野音も同じだった。彼女は何十年かぶりに来て回りについたてのように建っているビル目を瞠っていた。
都会は変貌している。まず地上の変化は大きい。当方、散歩途中に大岡山小学校脇の環七の歩道橋をよく渡る。東に都心方向がよく見える。ここ数年で著しく変わった。淀橋台地が北から南へと下っているがその上や、もうっと向こうの台地につぎつぎと高層ビルが建った。林立するビル。壁だ、東京湾から入ってくる南風がこの衝立に遮られて、内陸部へ吹いて行かない。それで高温化現象も起こっているという。
高層化という変貌は見える。が、地下化というのは見えない。しかし地下街はどんどん広がっている。丸の内の地下道を通ったがここにも地下の街、通りができていた。
日比谷から地下に降り、東京駅に向かう。丸ビルではエレベーターで六回まで、ここのテラスからの東京駅全体がよく眺められる。
「色がシックになったね、前の赤色がよかった」
「もけいのお家をみているみたいだ」
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2017年07月16日
下北沢X物語(3320)―第130回街歩きは地下街探訪―
(一)昨日、15日、第130回目の街歩きを行った。月一回ゆえ、10年と八ヶ月にもなる。この間の変化は大きい。景観が著しく変わったこと、長大な地下街が形成されたこと、そして地球温暖化が一層に加速したことである。人間の生理に影響を与えていることだ。まず、高層ビルが林立し威圧感が増した。つぎに迷宮のような地下街ができ人は自己存在を失った。そしてとどめだ、地球温暖化により都市が高温化、高熱化し、夏の街歩きができなくなくなったことだ。七月の行事は、十年来駒沢練兵場を歩くを行ってきた。しかしこれも危険になってきた。街歩き行軍で熱中症が予想されるようになった。もう少し気持ちよく歩けるところはないか。
「都心の地下道は案外に涼しいのではないか?」
ふと思いついたことから地下道を通っての街歩き、お江戸東京を巡るという企画に結びついた。
ー尊飮廚いけず地下道は涼しかった。
風景が新鮮に見える。
穴蔵の地下道を歩いていってようやく階段を上って地表に出る。するとそこには日比谷公園の緑とビルによって区切られた青空があった。新鮮な感動を覚えた。
C浪爾箸いΧ間も四角い箱一辺倒ではなく、曲がっていたり、通路が細くなっていたり、地下街があったりと変化がある。
っ浪竺垢任麓を澄ますと通行人の足音が聞こえる。繁華な地点ではせわしく、過疎化した地下道ではのんびり聞こえる。
ッ鷲修暴个襪燭咾膨垢こ段を上らねばと思っていたがエスカレーターやエレベーターが思いの外備わっていてその危惧はなかった。
今回は東京駅を中心とする地下道を歩くことにした。日比谷に集合して、そして地下道を巡り、ポイントになるところで地表にでて旧跡を見学するという方法だった。
通例の街歩きにはない新鮮さを参加者は感じた。結論として次年度も、これを実施することにした。
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2017年07月14日
下北沢X物語(3319)―六郷高畑で狸はなぜ汽車に化けたのか掘
(一)偽汽車の主人公は狸だ、しかし狸にとっていいことは何一つない、最後は悲劇的な結末でおわる。機関車にひき殺されて死ぬ、希望がまるでない。当人たちにとっては得にもならない話だ。ゆえに仲間内で流行ったわけではない、人間どもが勝手に作っては面白がっていた。ひき殺された狸は狸汁にして食ってしまったという例もある。そんなことを考えていくと機械近代における人間の冷酷さが見えてもくる。偽汽車現象は深くかんがえてみる必要がある。近代を近代たらしめたのは鉄道である。この出現によって「時間と空間の衝突」を招来させた。それは衝撃的だった。人間ももちろんだが狸もこれと遭遇したとき度肝を抜かれた。六郷川橋梁が開通した。ガラガラと雷が鳴ったと思ったら忽然と黒い物体が現れてこちらへ向かってくる。土手の草むらでこれを見ていた狸たちは震え上がった。二千年の眠りから覚めた狸社会は大騒ぎとなった。
一連の記事を書いていたところ、SNSで「偽汽車の話は古代と近代の境目に起こった超常現象で意味深いものがある」との指摘。この事実の背後には時代の境目に生きた人々の思いが潜んでいる。偽汽車は当時の人々の願望を鏡のように写し出している。人々の共同幻想が生み出したものではないか。
さて、六郷川橋梁に現れた狸の話だ。
汽車に化けた狸
狐だか狸かしらないけど。東海道、今の六郷橋ね、六郷橋の上ぃ、橋の真ん中で、ボーボーって鳴っているんだね、そうすると、汽車の機関士がさぁ、びっくりして汽車を止めたってこと聞いてらぁね。それが二回、三回、四回つづいているうちにね、機関士がね、「こんちきしょう」と思って、狸ということがだいたい分かってきたんで、そいでまあ、思い切って機関車走らせた。走らせてあくる日行ったらば、狸が死んでいたと。
そういうことは、よく聞いたよね、子どもの時分、年寄りから。
【八幡塚 男 明治31年生】(中島)
「大田区の文化財 第22集」 口承文芸 昔話・世間話・伝承
著者名 大田区教育委員会編 1986年3月
話者は八幡塚に居住していた。高畑の南側に当たる。この場合は平地ではなく鉄橋上に狸が現れた例だ。しかし、汽車の姿は見えていないようだ。橋梁にさしかかると汽笛の音が聞こえる。機関士は不思議に思って汽車を止めた。
この場合単線か複線かは説明されない。偽汽車の場合のお約束がある。舞台として使われる線路はみな閉塞区間である。つまり単線で起こることになっている。この場合も単線で汽車を走らせていたところ向こう側から機関車が走ってくる音がする。
「ぶつかるぞ!」
反対側から汽車が走ってくるのを確認して運転士がパニックに陥る。これも決まり切ったパターンだ。
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2017年07月13日
下北沢X物語(3318)―六郷高畑で狸はなぜ汽車に化けたのか供
(一)狸が汽車に化ける、いわゆる偽汽車の民譚は全国各地に分布している。この話不思議な点が二つある。なぜ狸が汽車に化けるのか、普通は人に化けて出てくるが、が、彼らは機械に化けて出てくる。もう一つだ、機関車に化けた狸は、本物の汽車に必ずと言っていいほどぶつかっていく。「ギャオー、ぶつかるぞ!」と人は恐怖に陥る。ところが衝突時の反応が「コチン」と軽い、ここにおかしみがある。何だと調べてみると狸が死んでいた……という結末だ、化けた狸は悉く敗退して討ち死にしている、なぜみんな死ぬのか。まず第一点である。従来だと狸は人に化けて現れる。人語を操って人をたぶらかす。ここには他者との交流があった。が、機械ではそんなことは成り立たない。即物的である。文明の最先端である汽車になぜ化けたかという点は謎だ。
つぎの第二点である、汽車に化けた彼らはほとんど突撃死している。民譚は語り伝えられてこそ生きる。ところが当事者は次々に殉教者のように汽車に飛び込んでいく。もったいないのはこれでは汽車化けの術が後代に伝わらないことだ。伝えられてこそ民譚は生きる、が、この話狸たちが討ち死にしてしまい。民譚としてはいまや死にかけている。
「真夜中、終電後に新幹線に化けた狸が走っていった。証拠は最後尾がふわふわとした狸の尻尾になっていて、毛のの間から赤いテールランプがぼんやりとみえていた!」
こういう話、あれば面白いが新幹線に化けた狸の話は聞かない。
狸はなぜ汽車に化けたか、近代文明論的観点で考えると面白い。ここに時代の割れ目の秘密が潜んではいないだろうか?
明治五年、日本最初の鉄道は新橋品川間に走った。この区間で狸が化けて現れた例は一つは品川道灌山だ。二つ目が鶴見駅近辺、そして今回大田区の地域資料で見つけたものが三つ目だ。これは六郷高畑の例である。前二つは丘陵地のものだが高畑は多摩川河川敷に近い。全体に土地がフラットで狸が棲息するにはあまりふさわしいようにも思えない。それで土地の様子を観察するために、矢口渡駅で降りここから高畑まで歩いてみた。
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2017年07月11日
下北沢X物語(3317)―六郷高畑で狸はなぜ汽車に化けたのか―
(一)狸は汽車が大好きだ、じゃぼじゅぼと煙を上げて走ってくる汽車をみると化けたくなる。狸が汽車に化けて現れたという民譚は数多くある。日本で初めて汽車が走った区間では品川権現山の話はよく知られる。これ以外、大田区六郷高畑でもこの類例が認められた。このことから現地探訪に及んだ。(高畑の)国鉄のところにはね、ほんとに狸がいたんですって。国鉄がまだ開通したばっかりのころね、こっちから行くんですってね、汽車が。そうすると、向こうからも来るんですって。運転手はこわくなってね、そいでね、急いで止めるんですって。そうするとパッとなくなっちゃうんですって。三台待ってて、あるとき、とても元気のいい運転手が、「えーいっ」て、ぶつかったもかまわないってね。そうしたら、それが狸だったんで。明くる日、狸が死んでたってね。【八幡塚 女 大正六年生・大正11年生】(中島)
「大田区の文化財 第22集」 口承文芸 昔話・世間話・伝承
著者名 大田区教育委員会編 1986年3月
いわゆる偽汽車とされている民譚の典型例だ。大事な点を整理する。
・時期 国鉄が開通したばかりの頃 当時の鉄道を所管したのは「工部省鉄道寮」だ。
新橋と横浜駅間の鉄道が営業運転を開始したのが明治五年(1872)十月十五日だ。
この鉄道開業に近い頃ということだ。
・場所 高畑 当時六郷村があってその一つが高畑であった。地名は残っていないが。神社や建物に名を残し ている。高畑神社、高畑小学校である。
・偽汽車
営業運転をしていた汽車が走っていると向こうからも同じ汽車が走ってきた。単線上を走っていたことから運転手は衝突の危険を感じて汽車を止めた。同様のことが二回も三回も起きた。度々汽車が現れるので怪しいと思っていた。また再び現れた、そのときは元気のいい運転手だった。「よし」と、その汽車に突っ込んだところ、何かにぶつかった。分かってみるとその正体は狸だった。いわゆる偽汽車民端の多くがこの形式で語られる。そういう意味では典型的な例だ。
なお、資料の大田区の口承文芸では他にも数例同じような話を載せている。
最も興味深いのは場所である。当該場所は、東海道線六郷川橋梁の東側に位置する。多摩川左岸である。この一帯を高畑と呼んでいた。
もっとも単純に考えればその箇所は小高くなっていて畠が多くあったということになる。果たしてそうなのか。
日本で最初に汽車が走った区間で狸が化けて出てきたのは品川の道灌山だ。名のとおり山になっている。狸が棲息していた場としてはふさわしい。高畑の場合は多摩川の氾濫原に接しているところから住処としてどうなのか、ここに興味がある。小高い畑で一帯は雑木林だったとなると狸が住むのにはふさわしい。狸の出没についても信憑性がある。
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2017年07月10日
下北沢X物語(3316)―核兵器禁止条約になぜ日本は加盟しないのか―
(一)「振り上げた拳をどのように下ろすのか」、戦いをどう収めるのか、困難な問題だ。今九州新田原飛行場のことを触れておきたくて戦史をしらべている。レイテ戦に向かう機の日本本土の最後の寄港地だった。数多くの戦闘機、そして兵員がしばし休んだ、時間が取れた隊は宮崎神宮に参拝した。最後のお別れ、死出の旅路だ、が、手を広げすぎた南方戦線の収拾はどうにもならなかった。メンツから矛を収められない、特攻機を繰り出したが泥沼にはまり込むだけだった。特攻というと沖縄という認識が固定化されている、しかしこのレイテ特攻も悲惨だった、このことを我々は忘れ掛けていると思った。七月七日国連で「核兵器禁止条約」が採択された。究極の「振り上げた拳の下ろし方」である。この条約は、核兵器の使用、開発、移転などを幅広く禁止したものだ。核は一切使わないようにしようという国際条約だ。根本は、これを使うと地球が亡ぶからだ。条約は人間の英知が生み出した賢明な方策だ。しかし唯一の被爆国である日本は加わらなかった。
七月八日の新聞(『朝日新聞』)は論調でつぎの見出しを掲げている。
・「核の傘」に頼る唯一の被爆国
・「橋渡し役」かすむ日本
日本は安全保障を米国の核抑止力に頼る。北朝鮮が核・ミサイル開発を加速させるなか、「核の傘」の重要性は以前よりも増して強調されている。日本政府関係者は「日本の核抑止政策が核保有国の核を前提としている以上、核拡散条約は基本的に相いれない」と話す。
日本は米国の核の傘によって護られているから「核兵器禁止条約」には賛成しないという。「虎の威を借りる狐」そのものではないか?
根本、基本、虎は核兵器だ、敵を威圧するものである。「かかってくるならかかってこいよ、きたらお返し、倍返しでお前の国をふっとばしてやるから」ということだ。目には目を歯には歯をという力づくの戦略だ。これをよしとするのが日本だ。核を使ってもかまいませんというものだ。この考え方は間違っている。広島、長崎の被爆の実態を忘れた脳天気な考えではないか。
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2017年07月08日
下北沢X物語(3315)―風景とは何か?地域風景資産を歩いて検
(一)当地一帯は土地の起伏に富んでいる。谷あり、沢あり、坂あり、一つ一つの窪みに物語が隠れている。斜面には詩がある、音があり、臭いがあり、色がある。しかし、かつての武蔵野はすべて均一化しつつある。稜線の膨らみすら剥ぎ取られ、そこにどでんとマンションができると過去は一切に消えてしまう。この頃、大木は災難だ、初夏には新緑を秋には紅葉を楽しませていた欅が、あるとき行くと忽然と消えている。大木は都市人が快適な生活を送るには邪魔である。昨今の様相は、垣根や雑木や古木が消えてそこに瀟洒な家が建つ。都会では風景の奪い合いが起こっている。風景は人の心をくつろがせるものである、それを都会人は悉く潰して幾何学模様の建物を建て偉いだろうという。風景や風光で曲線に勝るものはない。古里の山というのは懐かしい。興味深いのはどこから見るかという点はある。懐かしい山が近づいてくる、そして、とある一点にさしかかると「心がツゥンとしてくる」、懐かしさは数値的に正確なものだ。何度何度も見た風景は記憶が角度まで覚えている。
三好達治は、世田谷代田に住んでいて亡くなった。当地では『駱駝の瘤にまたがつて』という詩集を著している。代田小路のひっそりとした家に住んでいて隠遁的な生活を送っていた。日々時間のあるときは近隣を歩き回っていた。ご愛用の銭湯は太子堂「清水湯」だ。彼のエッセイに『東京雑記』というものがある。その中の『薄暮の新緑』の冒頭は、
裏町の銭湯の入口に傾きかかった柳の緑が美しい。やはり五月はいい。色のさめたポストの脇に鼻緒の切れた下駄が片足裏がへって捨てられている。こんな貧しい街角のつまらぬ一もと柳であるが、萌え出たばかりのやつと緑の浮きたつやうになつたのがすゐすゐとして風がないからまたその輕やかな曲線がそよりともしない。身なりのよごれた子供たちが三五人その下で何かわめき散らしてゐる。
三好達治全集 10 筑摩書房 昭和39年刊
「清水湯」はとうに店を閉めた。跡にはマンションが建ってしまってここに描かれた下町風情はもうない。
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2017年07月07日
下北沢X物語(3314)―風景とは何か?地域風景資産を歩いて掘
(一)風景を作り出すのは時代精神である、巨大構造物が作られいくとき人々は感動を持った。昭和四年、北原白秋は『海豹と海』の中の「鋼鉄風景」の中で、冒頭で「神は在る、鉄塔の碍子に在る」と鋼鉄風景を讃えている。そびえ立つ鋼鉄の塔への賛嘆だ、また彼は歌集『白南風』の序の末尾に「砧村の雲と鉄塔の下に」と記す。居宅の南にそびえ立つ鉄塔への敬意を払っている。緑の木々に覆われた武蔵野に建つ鉄塔は自然と調和するものだった。白秋は機械近代を象徴する塔には同意的だった。白秋、そしてまた朔太郎も同じだ。詩人は深い山中に「ふと見いだした一脚の白いベンチは、どんなに我らの気分を爽快にするか」(『新しき欲情』)という。「一つの人工物は沈鬱の影の深い自然の中で、いつも賑やかで明るい都会の幻影夢みさせる」(同)とも。郊外の丘上にそびえ立つ銀色の鉄塔は明るい人工物である。「明るい都会の幻影」でもあった。その鉄塔との関わりにおいて彼は世田谷代田の丘に自らの設計による家を建てた。
今回の街歩きは、地域風景資産を歩くというものだ。ゆえに資産の風景のある場はコースのハイライトだ。まず、北沢川緑道に建てた碑のところに行く。
「ここから見ると鉄塔が丘上にそびえ立っているのがよく見えます。今は近辺に建物が建ってしまってあまり目立ちません、が、萩原朔太郎が自宅をここに新築した昭和八年ではひときわ目立つ塔ですね。緑の中に立つ銀色、それが空を突き刺していました。塔の高さは二十八メートルあります」
詩的光景であることは間違いない。
「この高圧線は、駒沢線といいます。ずっと南の方まで行っています。私は目黒に住んでいるのでよく知っていますが、あちらでは鉄塔は低いのです。いびつに見える鉄塔もあります。鉄塔が格好よくないのです」
「そうなんですか」
「そうなんですよ。うちらの方は線は六本なんです。だから低くていびつになるのです」
「線の数で鉄塔の高さは違うのですか?」
「ええ、ほら、ここは違うでしょう、数を数えると十二本あります。とても都合いいですよね。よく鳥が留まっていますよ、そのときは様になりますね。彼らは、規則的には留まりません。ばらけて留まる。ここがミソですね、ランダムにとまると思いがけない曲が生まれるます。ここら辺りは作曲家などの音楽家は数多く居住しています。電線に留まった鳥をみて曲がひらめくのですね……」
「ほんとかよ?」
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2017年07月05日
下北沢X物語(3313)―風景とは何か?地域風景資産を歩いて供
(一)風景とは、五体で感じ取る立体物である。そう思わせる事例をテレビ・ドキュメンタリー番組で観た。原発事故で避難指示が出ている区域では十五歳以上にしか一時帰宅は認められていない。十五歳になった機会に故郷を訪ねるという。慣れ親しんだ故郷風景との再会だ。その帰宅者の後を追った番組だ。六年ぶりの帰還での感想、「道が狭くなったね!」、「学校の靴箱に友達の上履きがそのままある!」、「おばあちゃんの軽四の運転席の臭いが懐かしい!」と十五歳の女子。まず思ったことは、原発過酷事故が人から風景を奪っていたことだ。これによって心理的バランスを崩して死んだり、病気になったり、自殺したり、悲惨な結果を招いている。罪深いものだ。
そうであるのに根本的なことが解決していない。それは至る所に山積みになっている黒いビニール袋だ。異様、異常な風景である。これら放射性廃棄物、低レベルも高レベルのものの始末をどうするか見通しが立っていない。そういう中で原発を再稼働することには憤りを感じる。人は自分を育んでくれた風景の中で自由に振る舞うことができる権利がある。それを根こそぎ奪ってしまった。
十五歳の一人の女子にとっておばあちゃんの軽自動車の運転台の臭いは懐かしくてたまらない。人間にとって風景というのは臭いも含んでいることを表している。空気に故郷の臭いがすると言っていた。思うに臭いも、音も、色もあったはずだ。時節時節でこれらが違っていて、その中で人は成長していく。人間は風景を潜り抜けて成長するものだ。
大きな過誤あったときにその原因を突き止めるべきだ。なぜあの戦争は起きたのか、なぜ原発過酷事故が起きたのか、責任を追及して、そこから再生すべきものを人は考える義務がある。
さて地域風景資産を巡る旅だ。当方は、今、「代沢せせらぎ公園と北沢川緑道」、「代田の丘の61号鉄塔」の二つを受け持っている。先だって風景資産の交流会ではこんな提案をしたものである。
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2017年07月04日
下北沢X物語(3312)―風景とは何か?地域風景資産を歩いて―
(一)風景は人の心のよりどころである、地域にはこの風景や痕跡が残っている。しかし、往時はもう偲びようがないほどに変化している。「その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった」(『風と光と二十の私』)と大正十四年(1925)頃の様子を坂口安吾は描いている。学校とは代沢小のことだ。が、この二年後昭和二年(1927)、学校の近くの土地が売りに出された。「清風園土地分譲」として昭和二年十二月の朝日新聞の広告に載った。七月二日、北沢地域の風景資産を歩いて案内した。主催は、日本建築家協会 関東甲信越支部世田谷地域会である。朝十時からの街歩きだが、北沢川文化遺産保存の会が担当したのは午後だ。淡島のせせらぎ公園から下北沢駅までである。
「九十年前は、いわゆる武蔵野でうねうねと丘があって、そこに竹藪、麦畑、そして茶畑だったんですよ。昭和二年の末にここの一角を売り出す広告が載ったのですね。「清風園」といいます。土地のことについてこんなことが書いてあるんですよ。
此の地は赤松の多い高台で東南向きの雛壇になつて居りますから全地悉く日光通風に理想的です。しかも視野はひろびろと豁け此のあたり一帯の所謂「近代郊外風景」が居ながら恣にされます。
渋谷急行線はすぐに停車場を設置されます。水道、瓦斯、電熱の整ふた珍しい安い処分物です。
「この辺りが開けたのは鉄道が大きいですね、もうすでに小田急線は開通しています。これにくわえて渋谷急行線、これは井の頭線ですこれが近々できるからお買い得ですよというのでしょうね……」
この広告に使われている「近代郊外風景」というのは土地をアピールするポイントだ。まず電気水道瓦斯というインフラが整っている。そこに家を建てれば居間から武蔵野の自然風景が堪能できる。
「赤い松林の向こうに青々とした丘が見えて、それがどこまでも続いています。何しですね敷地は皆雛壇式ですから隣の家に眺めを遮られることはありません。天気のいい日には雪をかぶった富士も見えるのですよ」
住宅案内人はそんな説明をしたのではないだろうか。
「ところでみなさん、ここに家を新築すると屋根は何色にしたんでしょう?」
「?????」
「松林に生える色です」
「赤ですね、ほら」
私は手に持っていた「下北沢風景」参加者に見せた。尾根筋に赤い屋根の家が建っている。作者は高須光治、彼は風景に詩情を感じたから描いたに違いない。
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2017年07月02日
下北沢X物語(3311)―論考「邪宗門について」 松原征男

邪宗門について― ときがわ町東光寺の版木を中心に ―
松原 征男
北沢川文化遺産を保存する会の事務局である茶房“邪宗門”の名前が気がかりでした。時の権力者にとって好ましくない宗教を邪の宗教として禁制したことは広く知られていますが、昨年の春に仏教宗門による他宗教を邪教として防御していたことを示す版木と出会いした。
本稿では邪教を、世に害毒を流すような不正な宗教。邪教。特に江戸時代、吉利支丹(切支丹・キリスト教)を邪宗門と称し(広辞苑)、他宗教に対峙するときや、国家権力や統治者等が特定の宗教を、敵性宗教であるとみなし弾圧目的で使用する用語というほどに使用します。
具体的には、権力者による二つの邪宗門制札(高札)と、ときがわ町東光寺の版木から読み取れる仏教宗門による邪教に対する防御について、取材できた資料3点を基に紹介します。
*冒頭に掲げた写真は、小澤家所蔵の切支丹制札87‘玉川村政要覧より転載したものだ。
1 小澤家所蔵の切支丹制札(戦国時代)
「戦国時代天文十八年(一五四九)ごろ伝来した切支丹宗に対し織田信長は保護したが、豊臣秀吉は国情に合わぬとこれを禁じ、徳川家康は一層きびしくこれを禁じた。寛永一四年(一六三七)、島原の乱が起こると、幕府は信徒を絶滅するため全国津々浦々に制札を掲げた。この制札はその一つである」。と87‘玉川村政要覧32-33頁に掲載しています。
小澤家所蔵の切支丹制札 87‘玉川村政要覧より転載
〔玉川小沢文雄氏所蔵 町指定文化財。『たまがわ』p.32-33 (87‘玉川村政要覧)玉川村役場 昭和62年3月〕。
また、『ときがわ町文化財ハンドマップ』7頁(ときがわ町文化遺産活用実行委員会 平成26年3月(2014)発行にも、「戦国時代に伝来したキリスト教は、当初織田信長の保護等により各地に広がりましたが、江戸時代になって徳川幕府は、その教えや外国の侵略を恐れて禁制としました。特に寛永14年(1637)の原島の乱以降は厳しく取り締まられ、切支丹の制札が掲げられるようになりました。(ときがわ町)根際地区の小澤家には天和2年(1682)のものも含む計4枚の切支丹制札のほか、多数の貴重な古文書が所蔵されています。」と説明しています。
執筆にあたり、小澤眞明氏(文雄氏長男)宅を訪問して確認しました。
2 邪宗門の制札(江戸時代後期)
日高市高麗郷民俗資料館には、邪宗門に関する3点の制札が常設展示公開されています。そのうちの1点が江戸後期、慶応4年の邪宗門の禁制(太政官高札)です。

邪宗門の禁制高札 平成28年春 日高市高麗郷民俗資料館にて 撮影 松原
定
一 切支丹宗門之儀者是迄御禁制之通り固く相可相守事
一 邪宗門之儀者固く禁止之事
慶応四年三月 太政官
墨書された制札を、日高市役所の担当職員は、
一 キリシタン宗門の儀は これまで御制禁の通り 固くあい守るべきこと
一 邪宗門の儀は固く禁止のこと と、読み下しました。
上記2点は、権力者による邪宗門(邪教)の禁制であった。
3 邪教防御の版木(明治時代中期)
ここに紹介する版木は、仏教宗門による邪教に対する防御です。
ときがわ町日影にある日蓮宗東光寺所蔵の明治中期の制作と推測できる版木には、邪教(邪宗門)に対峙する文言が彫り込まれている。同版木は両面彫りで他面は絵馬(『有志芳』8号裏表紙に掲載)である。方形の版木の大きさは、縦27.1僉横30.2僉厚さ2.3僉
文言は、題名1行、本文7行、説教日・場所3行、主催者2行の13行です。
邪教への防御 東光寺所蔵の版木 刷り 松原
東光寺28代目住職濱島文明氏は「西哲の語(かたる)に云う、邦国の為に職事を勤むるは是(こ)れ我が本分なり。此言(このこと)実に然り。故に今回、各宗同盟し和信会と号(な)ずけ、毎月演説説教を修(しゅ)し、以て国俗を挽回し、邪教蔓延の防御をなし、真正仏教の大理(だいり)を覆載(ふうさい)間の衆生に注入せんとす。伏して乞う護法の諸君随喜あらん事を」。と読み下しています。
また、意訳として「西洋の哲学者が言うには、自国の為に仕事に励む事は自分の役割であり当然のことである。だから、この度、それぞれの仏教各宗の僧が同盟し、それを和信会と名づけ、毎月、演説説教を行い、日本の風俗習慣を取り戻し、キリスト教が広まるのを防ぎ本当に正しい仏教の大いなる教えを天地の間にいる人々に教化しようとする。
仏法を守る諸君が大いなる喜びに満たされることを心より祈ります」。と解説しています。
更に「内容から見て、和信会都幾川組の事務局が、各会員寺院に通知したものと思われる。時期は明治22年大日本帝国憲法発布によりキリスト教の伝道が自由になった危機感から仏教各宗が同盟し、キリスト教の蔓延阻止を図ったのではないかと思います」。と明治中期制作の版木と推測できる説明でした。(東光寺の所在地 埼玉県比企郡ときがわ町日影821番地)
4 邪宗門について
多くは、時の権力者及び宗門間で邪宗(邪宗門)の用語が使われています。
鎌倉時代の中ごろ、日蓮が立正安国論を唱え、正法とする『法華経』に対し、他宗派を邪教としています。しかし、時の権力者執権北条時頼は、政治批判と受け止め、宗祖日蓮を伊豆に配流している。
室町末期から日本へ流入したキリスト教に対して、江戸幕府の初代将軍徳川家康が国家統治の観点から警戒感を示すようになり、1612(慶長17)年の禁教令を皮切りに、キリシタン(隠れキリシタン)を邪教とし、徳川幕府の出す命令に対して、日蓮宗の非服従を貫く不受不施派や宗教統制に入らなかった宗教を幕府は「邪宗門」として厳しく取り締まった。先に述べた小澤家(ときがわ町)や高麗郷民俗資料館(日高市)の邪宗禁制の高札などもこうした状況下で出現したと考えられます。
明治政府は五榜の掲示の第三札に「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ、若不審ナル者有之ハ其筋ノ役所ㇸ可申出」と記し、引き続きキリスト教および日蓮宗不受不施派などの信仰を禁止した。しかし、1871(明治4)年の寺請制度廃止、1873(明治6)年の 太政官布告「禁制高札の撤去」によりキリスト教の禁止は解除されている。更に、同22年の大日本帝国憲法(第28条)により、信教の自由(信じる自由、信じない自由)が認められ、形の上ではキリスト教は邪教の縛りからから解放されたことになります。
一方、明治政府は神道の国教化を目指し、神道と仏教の分離を求めている。この過程で修験系武藤家(武蔵国の藤原家・ときがわ町西平)の往古多武峯大権現には明治2年、復号願を出し「多武峯神社はそのなごりを留めている」(武藤重慶氏談)。
ある宗教を信仰したり布教したりすることを禁ずる「禁教令」では江戸幕府が、キリスト教を「邪宗門」と呼んで、権力者として強制改宗の対象とした一方、(ときがわ町)東光寺の版木に見られるように、明治中期に説教・演説という方法ではありますが宗門間でも同じ用語を使って邪宗門に対峙していたことを取り上げました。比企地方における宗教史の一部分として本版木の貴重性を留めておきたいと思います。
茶房主作道明氏が命名されました“邪宗門”のいわれを改めてお伺いできますことを楽しみにしております。
本執筆にあたり、ときがわ町、日高市市役所、小澤眞明様、濱島文明ときがわ町東光寺住職様、武藤重慶多武峯神社神主様のご協力に感謝申し上げます。
*松原 征男 当会会員 埼玉県ときがわ町在住 研究家
2017年07月01日
下北沢X物語(3310)―会報第132号:北沢川文化遺産保存の会―
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第132号
2017年7月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
1、江戸東京の地下道を歩いてみませんか 木村 康伸
当会の活動の一つである「都市物語を旅する会」は、盛夏の八月を除く毎月開催されている。季節によっては、寒風に吹きさらされたり、強い日差しに照らされながら旅をすることもある。それでも、私たちの文化探求の気持ちは、そんな寒風や日照りに負けたりはしない。とは言え、気候の厳しい時期は、どうしても旅の参加者が少なくなってしまうものである。
一年前の七月も、そうであった。
七月と言えば、梅雨が明けていなければムシムシとして雨が降る。梅雨末期の豪雨に見舞われることもある。また、梅雨が明けていたり、梅雨の晴れ間があれば、強い日差しが出て気温もかなり高くなる。いずれにしても、旅をしづらい季節だ。
そういうときに、旅をしやすい場所はないものか。一年前の旅する会を終えたとき、参加者の間でそんな話になった。
博物館見学はどうだろうという提案も出たが、この会で大事なことは、風景の移ろいである。博物館見学ではそれが叶わない。
そこで考え出されたのが、地下道を歩いて旅をする、という方法である。都会の地下に張り巡らされた地下道なら、空調が完備している。また、雨や日差しにさらされることもない。七月に旅をするにはもってこいだ。
そこで今年七月の「都市物語を旅する会」は、地下道を巡る旅を企画した。
では、どこの地下道を旅するか。真っ先に想起されたのは東京駅周辺である。周辺の大手町・二重橋前・日比谷・銀座といった地下鉄の各駅との間で、地下道が縦横無尽に張り巡らされている。歩き甲斐のある地下道である。
また東京駅周辺は、江戸時代からずっと、江戸・東京という大都市の中心であり続けている。それだけに、歴史や文化の濃厚な地域である。
ただその分、見どころが多過ぎてしまう。
そこで今回は、当会の拠点である世田谷との関連を念頭に巡ってみたいと考えている。
そもそも江戸という地名は、入江の入口を意味する。平安末期、その江戸に最初に館を築いたのが秩父平氏の一族であった江戸氏である。江戸氏はここを拠点に水陸交通を支配し、後に「八ヵ国の大福長者」と呼ばれるまで力を蓄える。しかしその後江戸の地を去り、戦国時代には世田谷を治めた吉良氏の有力な家臣として活躍することとなる。次いで江戸時代には世田谷喜多見二万石の大名喜多見氏となる。つまり、この世田谷喜多見氏が江戸の祖とも言える。
また江戸時代、世田谷のうち二十ヵ村は井伊家の彦根藩世田谷領となる。世田谷領の領民は江戸城桜田門外にあった彦根藩江戸上屋敷へ年貢を納入するとともに、人足として彦根藩に調達され、世田谷と江戸を頻繁に行き来することがあった。江戸は彦根藩との関わりで、多くの世田谷領民が足跡を残した場所でもあった。
そんな江戸と世田谷の関連を想いながら、この地下道を巡る旅の案内をさせていただきたいと考えている。
ところで先に、旅する会では風景の移ろいが大事だと書いたが、地下道を歩くだけでは風景の移ろいが感じにくいかもしれない。そこで当日は要所要所で地上に出て、江戸東京の風景を眺められるようにする予定である。
涼味を求めて行く、そんな地下道を巡る旅に、おいでください。7月15日実施。
2、ゲリラ的な探訪会の薦め
日々、私は街歩きをしている。感づいていることは当地一帯の土地需要が高いことである。風情ある日本家屋が壊され、そこに数棟の家が建つ。また、ビルが壊されて新しいマンションが建つ。ごくごく普通のことだ。
しかし、人間の記憶はあやふやだ、散歩中に更地に出会うことはよくある、が、そこに何があったのかは思い出せない。歴史はこうやって潰えていく。「昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ」というのは『方丈記』の一節だ、日々変転、すべてが今消滅しつつある。
先だって三四人集まったときに、にわかに話が持ち上がって下北沢駅の地下道について古老に聞いてみようということになって実現した。かつては街の南北をつなぐ通路はこの公衆地下道一本だった、いわば文化の関門だった。しかし、この構造や歴史がつまびらかではない。それで古老に聞いた。が、それでもすべてが分かったわけではない。謎が多く残った。今では別の人がここをよく知っているとも聞いた。第二回地下道の話を聞く会をしようかとも。
我らは毎月、街歩きを実施している。この場合は、多くの箇所を巡っていく。話題は網羅的だ、それで一つのことを聞いてみるというのもいいのではないか。地下道のことも一つだが、他にも多くありはしないか。
かつて近隣には測器の会社が多くあった。今はほとんど無くなった。懸命にレンズ磨きをしていた人もいる。そういう人から話を聞くのもよい。
「レンズ磨きのこつは、なんといっても手触りだな、機械計測なんかは当てにならない。磨きに磨いて、手を当てると肌触りでわかる。おや、おかしいなと思って計測するとやはり0,001ミリ違っていた……」
この間、誰かから聞いたがあの有名なメンマ工場の話、日本人でなく中国からきた人が作っていたらしい。どうやって作っていたのか、メンマ工場について聞く会。
この間、山梨にみんなで旅行したときに突然、「紅梅キャラメル」の話が出た。これを買ってカードを集めると野球道具がもらえた。部員が懸命にくってくいまくって多くの券を集めたところ、その会社潰れたと、紅梅キャラメルをよく知っている人に話を聞く。
鉄道交点には歴史文化の秘密が埋まっている、それらを一つずつ掘り起こしていくと、近代日本文化史の片鱗が見えてくる。
一つことをよく知っている古老は数多くいるはずだ、いつだったか、代沢で「どうしてこの道は広いのか?」とたまたま聞いたところ、「おれはこの半世紀お前達が来るのを待っていた」といわんばかりに道の由来を話してくれた。
ゲリラ的な、聞き書き会を提唱したい。さて、さては、南京玉すだれ?
3,第3回北沢川文化遺産保存の会研究大会

研究会テーマ 世田谷代田の音楽学校の歴史を知る
開催日時 2017年8月5日(土)1時30分より
場所 北沢タウンホール12階 スカイサロン
会費 500円 申し込み不要 先着順70名
主催 北沢川文化遺産保存の会 後援 世田谷区教育委員会
協力 三土代会・代田自治会・代田北町会・世田谷ワイズメンズクラブ
昭和2年(1927)4月、小田急線が開通した。この年の暮れ、世田谷中原駅 (現世田谷代田駅) 北の大根畑だったところに二階建ての音楽学校が出現した。帝国音楽学校だ。開校したとたんピアノやバイオリンの楽器、そしてテノールやソプラノの歌声が響いてきた。大根畑に忽然と現れた近代に人々は文化的ショックを受けたに違いない。これが当地における芸術文化の始まりといえよう。
学校の名にある帝国とは、満州、樺太、朝鮮、台湾などを含めた旧領地を指し、実際にこれらの地域出身学生も数多くいた。戦争末期に廃校となるが、学校が一帯に与えた音楽文化には、大きなものがあると思われ戦争の前後を通じ、当地に音楽関係者が住んだり、歌劇団が創設されたりしたのもこの影響だろう。
講師の久保絵里麻氏は、当地の世田谷代田でもほとんど知られていないこの学校の史料を発掘し、これをテーマの一環とした研究で芸術学博士号を取得した、この学校の研究の第一人者だ。学校は世田谷代田の誇りといえる。ぜひおいでください。
第一部 講演「帝音」の歴史 13時30分〜15時30分
講師:久保 絵里麻 (芸術学博士)
第二部 世田谷代田の音楽文化を語る 15時30分〜16時30分
参加者による自由討議 司会:きむらけん
第三部 懇親会・納涼会(申込み必要) 17時30分〜21時20分
会費3.500円「帝国音楽学校弁当」飲物 付き
イベント プロマジシャン出演予定 作道 明氏 等
*恒例不用品オークション・一品おみやげ持参(強制ではない)
問合わせ先 米澤邦頼 090−3501−7278
◎なお、第三部 懇親会への参加を希望される方は弁当を発注する都合上
【8月1日必着】で会の連絡幹事 米澤 090-3501-7278宛 必ず連絡を。
*懇親会への当日参加表明・8月1日以降の参加取り消しは出来ません。
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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第132号
2017年7月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、江戸東京の地下道を歩いてみませんか 木村 康伸
当会の活動の一つである「都市物語を旅する会」は、盛夏の八月を除く毎月開催されている。季節によっては、寒風に吹きさらされたり、強い日差しに照らされながら旅をすることもある。それでも、私たちの文化探求の気持ちは、そんな寒風や日照りに負けたりはしない。とは言え、気候の厳しい時期は、どうしても旅の参加者が少なくなってしまうものである。
一年前の七月も、そうであった。
七月と言えば、梅雨が明けていなければムシムシとして雨が降る。梅雨末期の豪雨に見舞われることもある。また、梅雨が明けていたり、梅雨の晴れ間があれば、強い日差しが出て気温もかなり高くなる。いずれにしても、旅をしづらい季節だ。
そういうときに、旅をしやすい場所はないものか。一年前の旅する会を終えたとき、参加者の間でそんな話になった。
博物館見学はどうだろうという提案も出たが、この会で大事なことは、風景の移ろいである。博物館見学ではそれが叶わない。
そこで考え出されたのが、地下道を歩いて旅をする、という方法である。都会の地下に張り巡らされた地下道なら、空調が完備している。また、雨や日差しにさらされることもない。七月に旅をするにはもってこいだ。
そこで今年七月の「都市物語を旅する会」は、地下道を巡る旅を企画した。
では、どこの地下道を旅するか。真っ先に想起されたのは東京駅周辺である。周辺の大手町・二重橋前・日比谷・銀座といった地下鉄の各駅との間で、地下道が縦横無尽に張り巡らされている。歩き甲斐のある地下道である。
また東京駅周辺は、江戸時代からずっと、江戸・東京という大都市の中心であり続けている。それだけに、歴史や文化の濃厚な地域である。
ただその分、見どころが多過ぎてしまう。
そこで今回は、当会の拠点である世田谷との関連を念頭に巡ってみたいと考えている。
そもそも江戸という地名は、入江の入口を意味する。平安末期、その江戸に最初に館を築いたのが秩父平氏の一族であった江戸氏である。江戸氏はここを拠点に水陸交通を支配し、後に「八ヵ国の大福長者」と呼ばれるまで力を蓄える。しかしその後江戸の地を去り、戦国時代には世田谷を治めた吉良氏の有力な家臣として活躍することとなる。次いで江戸時代には世田谷喜多見二万石の大名喜多見氏となる。つまり、この世田谷喜多見氏が江戸の祖とも言える。
また江戸時代、世田谷のうち二十ヵ村は井伊家の彦根藩世田谷領となる。世田谷領の領民は江戸城桜田門外にあった彦根藩江戸上屋敷へ年貢を納入するとともに、人足として彦根藩に調達され、世田谷と江戸を頻繁に行き来することがあった。江戸は彦根藩との関わりで、多くの世田谷領民が足跡を残した場所でもあった。
そんな江戸と世田谷の関連を想いながら、この地下道を巡る旅の案内をさせていただきたいと考えている。
ところで先に、旅する会では風景の移ろいが大事だと書いたが、地下道を歩くだけでは風景の移ろいが感じにくいかもしれない。そこで当日は要所要所で地上に出て、江戸東京の風景を眺められるようにする予定である。
涼味を求めて行く、そんな地下道を巡る旅に、おいでください。7月15日実施。
2、ゲリラ的な探訪会の薦め
日々、私は街歩きをしている。感づいていることは当地一帯の土地需要が高いことである。風情ある日本家屋が壊され、そこに数棟の家が建つ。また、ビルが壊されて新しいマンションが建つ。ごくごく普通のことだ。
しかし、人間の記憶はあやふやだ、散歩中に更地に出会うことはよくある、が、そこに何があったのかは思い出せない。歴史はこうやって潰えていく。「昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ」というのは『方丈記』の一節だ、日々変転、すべてが今消滅しつつある。
先だって三四人集まったときに、にわかに話が持ち上がって下北沢駅の地下道について古老に聞いてみようということになって実現した。かつては街の南北をつなぐ通路はこの公衆地下道一本だった、いわば文化の関門だった。しかし、この構造や歴史がつまびらかではない。それで古老に聞いた。が、それでもすべてが分かったわけではない。謎が多く残った。今では別の人がここをよく知っているとも聞いた。第二回地下道の話を聞く会をしようかとも。
我らは毎月、街歩きを実施している。この場合は、多くの箇所を巡っていく。話題は網羅的だ、それで一つのことを聞いてみるというのもいいのではないか。地下道のことも一つだが、他にも多くありはしないか。
かつて近隣には測器の会社が多くあった。今はほとんど無くなった。懸命にレンズ磨きをしていた人もいる。そういう人から話を聞くのもよい。
「レンズ磨きのこつは、なんといっても手触りだな、機械計測なんかは当てにならない。磨きに磨いて、手を当てると肌触りでわかる。おや、おかしいなと思って計測するとやはり0,001ミリ違っていた……」
この間、誰かから聞いたがあの有名なメンマ工場の話、日本人でなく中国からきた人が作っていたらしい。どうやって作っていたのか、メンマ工場について聞く会。
この間、山梨にみんなで旅行したときに突然、「紅梅キャラメル」の話が出た。これを買ってカードを集めると野球道具がもらえた。部員が懸命にくってくいまくって多くの券を集めたところ、その会社潰れたと、紅梅キャラメルをよく知っている人に話を聞く。
鉄道交点には歴史文化の秘密が埋まっている、それらを一つずつ掘り起こしていくと、近代日本文化史の片鱗が見えてくる。
一つことをよく知っている古老は数多くいるはずだ、いつだったか、代沢で「どうしてこの道は広いのか?」とたまたま聞いたところ、「おれはこの半世紀お前達が来るのを待っていた」といわんばかりに道の由来を話してくれた。
ゲリラ的な、聞き書き会を提唱したい。さて、さては、南京玉すだれ?
3,第3回北沢川文化遺産保存の会研究大会

研究会テーマ 世田谷代田の音楽学校の歴史を知る
開催日時 2017年8月5日(土)1時30分より
場所 北沢タウンホール12階 スカイサロン
会費 500円 申し込み不要 先着順70名
主催 北沢川文化遺産保存の会 後援 世田谷区教育委員会
協力 三土代会・代田自治会・代田北町会・世田谷ワイズメンズクラブ
昭和2年(1927)4月、小田急線が開通した。この年の暮れ、世田谷中原駅 (現世田谷代田駅) 北の大根畑だったところに二階建ての音楽学校が出現した。帝国音楽学校だ。開校したとたんピアノやバイオリンの楽器、そしてテノールやソプラノの歌声が響いてきた。大根畑に忽然と現れた近代に人々は文化的ショックを受けたに違いない。これが当地における芸術文化の始まりといえよう。
学校の名にある帝国とは、満州、樺太、朝鮮、台湾などを含めた旧領地を指し、実際にこれらの地域出身学生も数多くいた。戦争末期に廃校となるが、学校が一帯に与えた音楽文化には、大きなものがあると思われ戦争の前後を通じ、当地に音楽関係者が住んだり、歌劇団が創設されたりしたのもこの影響だろう。
講師の久保絵里麻氏は、当地の世田谷代田でもほとんど知られていないこの学校の史料を発掘し、これをテーマの一環とした研究で芸術学博士号を取得した、この学校の研究の第一人者だ。学校は世田谷代田の誇りといえる。ぜひおいでください。
第一部 講演「帝音」の歴史 13時30分〜15時30分
講師:久保 絵里麻 (芸術学博士)
第二部 世田谷代田の音楽文化を語る 15時30分〜16時30分
参加者による自由討議 司会:きむらけん
第三部 懇親会・納涼会(申込み必要) 17時30分〜21時20分
会費3.500円「帝国音楽学校弁当」飲物 付き
イベント プロマジシャン出演予定 作道 明氏 等
*恒例不用品オークション・一品おみやげ持参(強制ではない)
問合わせ先 米澤邦頼 090−3501−7278
◎なお、第三部 懇親会への参加を希望される方は弁当を発注する都合上
【8月1日必着】で会の連絡幹事 米澤 090-3501-7278宛 必ず連絡を。
*懇親会への当日参加表明・8月1日以降の参加取り消しは出来ません。
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