2017年08月
2017年08月31日
下北沢X物語(3351)―会報第134号:北沢川文化遺産保存の会〜

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第134号
2017年9月1日発行(毎月1回発行)
北沢川文化遺産保存の会 会長 長井 邦雄(信濃屋)
事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休)
155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
会報編集・発行人 きむらけん
東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、第3回研究大会 北沢川文化遺産保存の会
八月五日、世田谷代田にあった「帝音」をテーマとした研究会を開催した。長年、「帝音」について研究を続けてこられた久保絵里麻先生(芸術学博士)の講演を中心にして会を開催した。一言でいえば、非常に好評であった。
印象に残っていることがある。当日、久保さんが師事されたという帝音出身者の會則道氏(NHK交響楽団ヴィオラ奏者。才能教育研究会スズキ・メソード指導者)のお嬢さんが来ておられた。
「自分の家では、小さい頃から『テイオン』というのはずっと聞き慣れていて、ごくごく普通に存在するものと思っていましたが、この地元世田谷代田ではほとんど知られていないということを聞いてびっくりしました」
そんな感想を言っておられた。これが現実である。
久保先生の講演が意義深かったことは、「テイオン」の存在を当地に知らしめたことにあった。ただ学校が存在していたということではない。わかってみると当地の、芸術文化に深い関わりがあったことが、講演を聴いておぼろに浮かんできたことである。
一帯に文学者は多くいた。しかし、そのことが当地の文化性にたちどころに繋がっていくわけではない。
「最近越してこられた人は、物書きさんなんですって、ほら時々夜中になると、大きな声を出しているでしょう、まあ、ものかきさんなんかみなそうかも」と、うわさする。
しかし、音楽というのは誰の耳にも届くものである。帝音では、楽器、声楽なども教えていたという。そういう声を聞きに近所の人も来ていたという。
「音楽学校があることで子どもの音感に影響を与えていたことはあるのではないか。学区内の代沢小では戦争前からバンドがあって練習をしていた。音楽に対する感度が高い、戦後そのバンドが『ミドリ楽団』となってアニー・パイル劇場で何度も公演をしている。主メンバーの一人は安倍圭子さん、マリンバの世界的奏者だけど、代田という音楽的感性の豊かなところで育ったことも遠因の一つではないか」と、これは私がそう思ったのだ。
講演会の後に、「研究協議・情報交換」を行った。タイトルは、「世田谷代田の音楽文化を語る」である、「帝国音楽学校と地域文化」を話し合うものだが、活発に意見が出された。
具体的な話としてこんなことがあった。
帝国音楽学校があった時代に、学校の近くに「平間聲学研究所」があった。学校の教官であった声楽の平間文寿が運営していた私塾のようだ。戦後になってこの跡に「長門美保歌劇団」ができている。夫の鈴木雄詞とこの劇団を結成し、昭和二十一年(1946)十一月に「蝶々夫人」で旗あげ公演を行っている。同じ声楽同士だから平間文寿と長門美保との間には関連があったのではないかと思われる。
当日、この近くに長年住んでいた当会会員の川田正義さんが参加された。昔の地図を描いてくれた。それによると戦前は平間聲学研究所のすぐ近くに長門美保は住んでいた。ということは彼女と平間とは近所同士だったといえる。
戦後になって音楽が解禁され歌劇団を作り、練習を開始しようとした。「平間聲学研究所」の建物は残っていたのだろう。それを平間に相談して歌劇団としたという推察が、川田メモによって分かった。帝音の陰翳が戦後にも生きていた例である。
川田さんの家は駒沢線62号の近くだ。周りには音楽家が多くいた。古関裕而、明本京静、同年では安倍圭子さん。
「阿部さんは音楽的な感性にすぐれていましたね。家にピアノがありましてね、近隣に音楽をやっている人が普通にいましたからそんなところで影響は受けたでしょう」
帝国音楽学校の陰翳が今も何か残っているのではないだろうか。
講演をしてくださった久保先生は、四歳から會則道先生にバィオリンを師事されたという。この先生のエピソードをたまたまみつけた。
戦争末期はその耳の良さを買われ、近づいてくる戦闘機を、固有のエンジン音で敵機かどうか聞き分け、どの方角からやってくるかも勘案し、防空壕に避難すべきどうかの判断を求められたという。
會則道先生は、帝音時代も周囲の音に耳を傾けていた。すぐ側を小田急線が通っていた。
「あのね、そこを電車が通るのだけど、電車によって音が違うんだ。甲号車はカタタントンって軽い音がする、乙号車は、少し重くて、グットンガットンという。君らが新宿から乗ってくるのは乙号車だ、電車にも靴があって種類が違うと音も違ってくる……」
音楽家は音に敏感だ、タイフォンを聞いただけで急行か各停かが分かったのかも。
次年度以降の研究会については、「世田谷代田の歴史と文化」をテーマとして、「世田谷代田の音を巡って」ということで土地の人に代田囃子の伝承、また、久保さんにも出てもらって話をしていただいてはという案がある。
講演で「帝音」が話題になったが、それがどこにあったのか。その場所及び関連する跡を巡る散歩をとの声も上がっている。これについては順次会報で連絡することにしたい。
2、帰ってくるロス・コンパニェロス
我々にとって懐かしい歌声がある。ラテンバンドのロス・コンパニェロスである。納涼会や忘年会でもうおなじみである。また毎月出演している下北沢テピートに聞きに行かれた方も多いはずだ。
長年に亘って演奏してきた彼らの歌声、また演奏はいぶし銀の年季を感じる。その彼らがまた帰ってくる。12月2日(土)、午後五時半から北沢川文化遺産保存の会の忘年会を開催する。ここで歌声を披露してくれることになった。ぜひおいでください。
文化は楽しくなければ文化ではない、基本的な考えである。それで楽しむためにこれまで納涼会や忘年会を催してきた、夏の納涼会も三十名以上の出席があり楽しめた。手品についても作道明さんの手づるでプロの手品を堪能できた。我等は芸能を心底楽しんだ。
しかし、問題が生じた。何の問題か、後始末である。北沢タウンホールは団体が発生させたゴミは団体の責任で始末することになっている。お弁当カラ、空き瓶などがゴミとして出る。これについては一部の人に負担を押しつけていた。大量に出たゴミを持って帰ったり始末したりしていた。会を楽しくしていくにはやはりこの問題を解決すべきである。基本自分が出したものは自分で、お弁当の箱は各自が持ち帰って処分をする。まずこれが一番ではないか。席に一枚一枚ビニール袋を置く、自分の分は持ち帰るようにしよう。
先般、片付けのときのトラブルで「若い人を使え」という意見が出された。ビン類などについては若者(何歳までかは微妙だ、歳を取っていても気分は若いという者も多い)に持って帰ってもらう。私もリュック持参で来ようと思う。
・当日の各自持参品について、これは今は義務ではなくなっている。私はいつも自分で作ったパンを持ってきている。ちょっと面白いから何か持って行こう。これはこれでいいのではないだろうか。
・オークションについては、家庭にある自分の家で使わないものを持ってきてもらっている。しかし、これも義務ではない。この売り上げは会の活動資金としている。
忘年会 12月2日(土) 北沢タウンホール二階集会室 5時30分より
参加費 3000円
なお、以上を提案したが、それぞれ意見があるかもしれない。これはメールなどで当方に知らせてほしい。当会は、2004年に発足した。もう十二年も続いている。会の運動から歴史が発掘された、過言ではない、しかし、会の運営について感じることは世代交代をしていかないと運営が難しくなるということだ。会報の発行、歩く会の立案、戦争経験の運営、研究会の立案、紀要の編集、執筆など多くのことがある。人間限りある命、私もいつまでもやれない。できれば徐々に仕事を譲っていきたい。各部署のここはやってもよいという人がいれば助かるのだが。
3、都市物語を旅する会
私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。
第131回 9月16日(土) 午後1時 田園都市線 駒沢大学駅改札前
案内人 きむらけん (新企画)世田谷のダイダラボッチを歩く
コース:野沢旧五輪道路→鶴ヶ久保公園(駒沢ダイダラボッチ)→連合艦隊司令長官旧居→明大野球場跡→安藤輝三大尉旧居→中里色街跡→山田風太郎旧居→世田谷変電所跡→大村能章旧居跡→三好達治旧居跡→萩原朔太郎旧居跡→武満徹旧居跡→帝国音楽学校跡→代田のダイダラボッチ跡→新代田駅
第132回 10月21日(土)午後1時 浅草雷門前 案内人 松山信洋さん
(新企画)昭和・狭斜の巷を歩く(荷風、露伴、吉行の世界を歩く)
コース:浅草雷門→旧玉ノ井→露伴旧居跡→鳩の街→京島→曳舟
第133回 11月18日(土) 午後1時 三鷹駅改札前
案内人 原敏彦さん (新企画)三鷹・武蔵野散策
コース:三鷹駅→禅林寺→玉川上水→井の頭公園→吉祥寺駅 関係する文人は、森鷗外・茉莉、太宰治、田中英光、国木田独歩、山本有三、北村西望、吉村昭等々
第134回 12月16日(土) 午後1時 京王線幡ヶ谷駅改札前
案内人 渋谷川・水と緑の会 梶山公子さん (新企画)渋谷川の跡を歩く
コース:幡ヶ谷駅→玉川上水・二字橋→宇田川水源の地(JICA・NITE)→旧徳川山脇の流れ→大山の池→底抜け田んぼ(小田急線南側)→西原児童遊園地→小田急沿線の小川跡→田中地蔵→山手通り下・流れの合流点→新富橋→初台川→代々木八幡と縄文古代住居→代々木八幡駅かつて「代々木九十九谷」と呼ばれた地域に渋谷川の支流である宇田川が流れていました。明治神宮の西側にあたる西原、大山町、元代々木などの地域です。そこには縄文時代の人々も住んでいました。上記のような宇田川の跡をたどって地域の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。
第135回 1月20日(土)午後1時 東横線代官山駅改札前
案内人 山内久義さん(代官山ステキ総合研究所 事務局) 代官山を歩く
新しく変わりつつある代官山を、街に詳しい山内さんの案内で歩く。これも初めての企画です。代官山ステキ総研は当会恒例の三田用水を歩くでお世話になっている団体です。
コース:駅→マンサード代官山→代官山ひまわり坂→代官山アドレス(同潤会跡)→
テノハ代官山→ヒルサイドテラス(旧朝倉邸を眺めながら)→猿楽神社(猿楽塚)→T-SITE
→猿楽古代住居跡公園 + モンキーカフェ
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
メールの場合 きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498
■ 編集後記
▲2017年は、2月、3月の街歩きの計画が決まっていない。希望を寄せてください。今年の車での山梨訪問は好評だった。山梨富士を巡るコースへのチャレンジが候補としてあがっている。他にこんところがあればという意見はこちらへ。
▲長年、会の活動を通して疎開学童のことを調べてきた。『鉛筆部隊と特攻隊』をはじめとする三冊の著書はこの成果だ。これですべてを書き上げたと思っていたらまた新しい資料が寄せられた。武揚隊の案内誘導をした菱沼氏の手記だ。<信州特攻隊物語最終章>として四巻目が十月に上梓される。『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡』(えにし書房)

▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
▲原稿募集。原稿用紙二三枚。身の回りの文化探訪で発見したことなど。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
2017年08月30日
下北沢X物語(3350)―森茉莉と代田「邪宗門」3―
(一)「感想文」には森茉莉のことが綴られている。そこから見えてくることがある。1,茉莉が歩いていたという淡島や下北沢への郷愁を持っている。
2,彼女の生き方のスタイルについて多くが憧れを持っている。
3,こだわりを持っている。森茉莉全集を買っても、これには手をつけず、作品は文庫本で読むとか。
4.ファン年歴が長い。森茉莉一筋という人も多い。
5.総じて言えることは、森茉莉愛好家は知的教養レベルが高い。
6.自分の飼っている猫、さらには自分の子どもに茉莉の名をつける。
一例だ。
初めて伺いました。清瀬から娘の茉莉花(六歳、もちろん森茉莉さんから勝手にお名前を頂きました)を連れて来ました。一歩お店に入るなり暖かい雰囲気が伝わってきて、とても居心地がよかったです。茉莉さんが一日中こちらで原稿を書いていたというのもよくわかる気がしました。マスター、お店の方もとても親切でいろいろなお話や本を見せて頂、ありがとうございました。……このあと、茉莉さん旧居跡を見て帰ります。(MM)
茉莉という名はよく見かけるがもしや森茉莉にあやかってのことなのか。猫などは多く居そうだ、「ジュリエットやこのチョコレエート食べるかい」という場合の猫の名ジュリエットは間違いなく「黒猫ジュリエット」から取ったものだ。
この人若いときからの森茉莉ファンだったろうと想像される。彼女が歩いた街を、娘と歩いてみたいと思ってきたのだろう。
退職記念に森茉莉全集を購入したという人は多い。つぎはそうだ。
長年の森茉莉さんの大ファンです。私の退職記念は茉莉さんの全集を入手したことです。今日は念願かなって主人とここへ参りました。
幸運にもご主人の作道さんや伊藤文学さんにお会いでき、種々のお話をゆっくりうかがうことができ大変うれしゅうございました。一生の思い出になることと思います。ありがとうございます。(YK)
退職したらすぐ問われるのは何をするかだ、この人は森茉莉をじっくり読もうときめたようだ。そして念願の聖地へ。これに付き合う旦那さんもステキだ。
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2017年08月28日
下北沢X物語(3349)―森茉莉と代田「邪宗門」2―
(一)邪宗門「森茉莉感想日記」を読むと、「森茉莉にかぶれた」という人が多いことに気づく。特異な現象だ、下北沢文士町に居住した他の女流で「かぶれる」という場合、あるのだろうか。「私は宇野千代にかぶれましてね」というのは言いにくい、男から男へ渡り歩くイメージがある。「私は大谷藤子にかぶれましてね」というのは玄人過ぎて意味をなさない。唯一存在しうる一人がいる。「私は萩原朔太郎にかぶれていまして、今もここに空いているという次元の穴を求めてうろついているのですよ」と、これは成り立つ。しかし、これは男性だ、森茉莉の場合は多くは女性である。感想文を読んでいると人一人一人の人生が浮かんでくる。例えば、「私は森茉莉さんに救われました」という感想があった。
昔、函館白百合学園高等学校を受験しみごとに落ちました。
その下の科に入れたもののやややけっぱちになって生きていました。そんなある日茉莉さんの作品と出会い「求めていたものはこれだ」と思いました。それから「大学はせめて東京の大学に行きたい。」と思いました。
大学は念願通りに進み茉莉さんの研究をしました。大学院にも進み又茉莉さんの研究をしました。
希望した夢もかなった私に道を与えてくれた茉莉さんに感謝です。
あなたに一目会いたかった! (RA)
森茉莉が人生の指南役だった、彼女に出会ったことで自分を見つけることができたという。またこんな感想もある。
教科書の『父の帽子』ではじめて森茉莉に出会い本の中で夢を膨らませ、実在の人であるのか、遙か遠くの人でありました。邪宗門でいろいろお話をうかがい確かに「居た」と実感できました。鳥海山のふもと。最上川の河口の地、酒田のMでした。
森茉莉との出会いは高校時代だったというのが多い。この彼女の場合も、教科書教材として森茉莉の作品が収められていて、これに触れて彼女を知った。
高校時代は進路に悩む場合が多い。誰もがそうだがこの時期に社会というものを知ってくる。人生のハードルは高い、けども森茉莉のように気兼ねなく自由に生きているのを見て救われるというのはあったのではないか。
彼女は遙か地方にいる。その彼女は東京に住んでいた森茉莉に思いをはせた。空想の人物だった者が、「邪宗門」を訪れることで彼女の実在を感じられたと。
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2017年08月27日
下北沢X物語(3348)―森茉莉と代田「邪宗門」―
(一)脳よりも舌、精神的な生き方よりも味覚が優先される、そんな時代ではないだろうか。昨日身近に感じたのは「贅沢貧乏」よりも「境界の彼方」だった。灯台もと暗しだ、足下で起こっている文化現象を捉え損ねていた。アニメと文学の境界で起こっていることだ。ひところ代田邪宗門は森茉莉の面影を求める人が多かった。しかし、今はアニメ『境界の彼方』の聖地として多くのfファンが全国から訪れている。「森茉莉ノートはようやっと一冊が終わり、二冊目に入ったところです。『境界の彼方』は後になるんですけどね、ノートはどんどん増えていきますね。もう五六冊にもなりました」
邪宗門のマスター作道さんがいう。
それを見せてもらった。「ずっと来たかった聖地、やっと来られて嬉しい」、「あんみつコヒーがおいしかった」などと書かれている。若い人が圧倒的に多い。
一方の森茉莉ノートだ、これの発案者は私だ。確認すると最初の人の記述が、2005年11月だ。我等の会の発足が2004年12月だ、一年経った頃に『森茉莉感想ノート』を作った。この趣旨は自分で書いてノートに貼り付けた。ところがその文字も風化してしまい。すべてが消え去ろうとしている。
最初の方に書いてある感想で目についたものはつぎだ。
高校生の頃に森茉莉さんの作品を幾つか読んで「セーターをつくろうことができなくて川にこっそり捨てに行った」というエピソードが何となく残っていたのですが、今その川の近くに住んでいるというのは不思議な縁だなと思いました。(M)
この場面『贅沢貧乏』に書かれているエピソードだ。
魔利の場合、実行と思考との間には雲烟万里の隔りがある。穴があくと綴くれないから、そっと捨てる。夜更けの十一時四十分頃に魔利の住むアパルトマンの近くを通る人は、かさばった新聞紙の包みを抱えて川辺の方へ歩いて行く、怪しげな女の姿を見るのだ。
現代日本のエッセイ 『贅沢貧乏』文芸文庫
確かにここは印象に残る場面だ、ボロアパルトマンを出るときにこっそりと左右を覗き、人がいないのを見ると「いひひひ」と魔法の杖を持った老婆よろしく夜闇に紛れてドブ川の北沢川に行き、セーターをこっそり捨てる。
「えっ、ここがセーターを捨てた川ですか!」
文学散歩で案内すると驚く、この場面は多くが印象に残しているようだ。
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2017年08月25日
下北沢X物語(3347)―代沢・東大原運命の経路は中央線�供�
(一)特記しておきたいことがある。一人の女性の記憶が近代戦争史の一ページを開いたことを。それは東大原国民学校の疎開学童だった秋元佳子さんである。彼女は浅間温泉富貴の湯旅館にいてここにやってきた「と号第三十一飛行隊」、武揚隊の隊員と交流していた。彼女の記憶は飛び抜けている。彼らが温泉を立ち去っていくときに大広間で壮行会が開かれた。そのときに彼女らを恋い慕う歌をうたった。この歌詞を彼女はソラで覚えていた。一晩で消える命だったものが繋ぎ止められた。先だって、テレビ信州、八月十五日の終戦特集番組ではこの歌詞がテロップで流された。この彼女は、「きけ わだつみのこえ」に出てくる長谷川信少尉の記憶も確かだった、彼女の証言が端緒となって武揚隊員が揮毫した遺墨が、そして彼らの苦難の台湾行を記録した。菱沼俊雄手記が見つかった。これらのことは記録として残す責務があると思い、「と号第第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡」をまとめた。この十月には上梓される。東大原は、信越線で松本に向かったのか、これは秋元佳子さんに聞けば分かる。
「八月十二日に疎開で浅間温泉に行くでしょう。東大原は信越線で行ったことになっているんですが……」
「そんなことはありません」
彼女は言下に否定した。
やはり東大原は中央線で疎開に行ったのだ。
「あの日のことはよく覚えています。まず学校に集まりますね、私に弟がいたのですよ。小三の、きっとみんな校庭に集まったので興奮したのでしょうね、肋木に登って落ちて気絶したんですよ。それでこれでは疎開に行けないと思っていたら息を吹き返したんです。その弟のせいで姉の私は先生から叱られたんですよ」
「あのときは学校を出て今の一番街を行ったのですね?」
疎開学童の隊列の行進は一つのデモンストレーションだ、ヒトラー・ユーゲント一行が下北沢に来たときにメインストリートを通った。それを思い出していた。
「一番街から栄通を通って駅へというのですか、違います」
この質問も一蹴された。
「どういうルートを通ったのですか」
「私の家は、あのときに一番街にありました。だから通れば覚えています」
「とすると?」
「学校を出ると鎌倉通りにぶつかるでしょう。まっすぐに行くと一番街です、けれども私達は角の成徳のところを右に曲がったのです、そしてまっすぐ行きました。そのままいくと踏切にぶつかるでしょう」
「ああ、今の井の頭線の踏切ですね」
「そうでも、あれよりもずっと手前を左に折れていくと今の北口の坂の上にでます。そこを下っていって駅前の広場に行きました」
またもや彼女の記憶は鮮明だ。
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2017年08月24日
下北沢X物語(3346)―代沢・東大原運命の経路は中央線!―
(一)一つの疑問から分かったことがある。歴史の質というのは人によって違うことだ。七十二年前の疎開経路など誰も覚えてはいないと思っていた。ところが、探せば分かる。驚きだ、そのときのことを正確に覚えていた人がいた。昭和十九年八月十二日、代沢と東大原の国民学校は下北沢駅から疎開に出発した。記録では経路が違ったとあった。前者は中央線、後者は信越線だというのだ。が、どうもこの事実は腑に落ちない。当時の客車の定員は一両あたり八十名だ、代沢、東大原合わせて一千名程度だ、十二三両編成で一気に中央線で運べたのではないか、別々ではなく一緒だったのではないか?。疑問に思うことは大切だ。そこから道が開けてくる。昭和二十年二月二十五日、この日も疎開学童にとっては忘れがたい日である。受験を控えた六年生が疎開地を去っていく日だ。前日の二十四日、松本の田町国民学校では送別式が挙行された。「代沢国民学校生徒総代 山本一代」、彼女の名演説に多くが涙した。その冒頭だ。
田町国民学校の諸先生、ならびに児童のみなさま。いよいよお別れの時が参りました。私たち六年生は明日午後五時三十分、松本駅発の汽車で空襲下の帝都へ帰ります。
時代が経っているが伝わってくる、この一文を読んだだけでも講堂内のぴりりとした空気が如実に感じられる。彼女は「帰ります」と言って間をおいた。在校生、とくに疎開残留組にこの言葉は響いた。疎開していた旅館に同宿していた特攻兵からも「おめえら東京に帰るんだってな、また靖国で会おうな」と声を掛けられてもいた。
さて、汽車の話だ。当日、松本発十七時三十分発の列車で六年生は帰京するという。ところが実際は、十分早い、十七時二十分発だ、着駅は新宿、その列車番号は、「3402」である。世田谷に帰る六年生は各校乗り合わせだ。東大原174名、代沢125名、北沢91名などとある。その総計は、1,192名である。中央線の一列車編成は千二百名は乗せられるということである。
こういうことも記録が残っているからこそ分かる。「集団疎開児童帰京輸送計画表」である。「世田谷区教育史 資料編六 平成五年発行 世田谷区教育委員会」に載っているものだ。これには各校の帰着先も記してある。東大原と代沢は下北沢だ。第一師範は、「第一師範」だ、すなわち東横線第一師範駅、今の学芸大学駅だ。二子玉川は「読売遊園」だ。すなわち、玉電の読売遊園電停である。
中央線列車一編成で千二百は運べる。とするなら代沢校と東大原校合わせて一千名程度、一緒の列車で運べる、運んだはずだ。
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2017年08月22日
下北沢X物語(3345)―代沢・東大原運命の出発日’44.8.12�◆�
(一)東京から地方へ疎開が始まったのは昭和十九年八月四日だ。二十万人規模の大移動だ。旅慣れない学童を運ぶ、戦時輸送における鉄道員の苦闘があった。世田谷から松本市、及び浅間温泉への疎開したのは、北沢、太子堂、東大原、代沢、第一師範、駒繋、中里、三宿である、八校の総計は四千二百名だ。昭和十九年八月十一日、十二日、十三日、十四日の四日間でこれを終えている。一大事業だった。記録されていない苦労があった。「当時私は、EF13の機関車を運転しておりまして、新宿から甲府まで疎開、団臨は何度も運転しましたよ。何しろ乗せるのが学童だけでしょう。旅慣れていない子ですよね。だからね、やっぱり気を遣いましたよ。あの頃は、旅客にせよ、貨物にせよ、満載でしたね、乗客の気もたっていれば、こちらも同じですよ。だから着発なんかは乱暴でしたね、ダイヤも乱れていましたから焦るのですね、急発進、急停車なんかよくありました。乗客が将棋倒しなるなんてことはありましたね。でもね、親から離れて長野に行くっていうのに恐ろしい思いをさせたてはいけないと思いました。極力、驚かさないように、ゆっくり出発し、そして駅に着くときはゆっくりと止めました……」
「中央線は、スイッチバックがあったでしょう。小淵沢までは、初狩、笹子、勝沼、韮崎、新府、穴山、長坂に。私らの場合は勝沼まででしたからね、でもね、最初でしたか、初狩でバックしはじめると客車から『キャー』とかの声が聞こえたんですよ。坂で暴走し始めたと思ったのですね。子どもはスイッチバックなんて初めてだから、後ろ向きに走れば怖くなりますね。まあ、それから推進運転する場合は、適度汽笛を少し長めに鳴らすようにしましたね」
「中央線は甲府から先は蒸気機関車でしたから違う苦労があったようです。トンネルですね、夏ですから窓開け放しですから煤煙がどんどん入ってきます。隧道に入るときは合図の汽笛を鳴らすんですが、疎開団臨のときはやはり適度汽笛を少し大きく鳴らしたと聞いていますね。普通列車だと少々乱暴に運転しても大人は慣れていますから大丈夫ですけどね、急停車して学童がころんだなんてことになるかわいそうですからね、学童団臨は本当に慎重に運転しましたよ……」
「そういえば帰京団臨も運転しましたが、まず驚いたのは子どもたちの表情ですね、さすが家に帰れるとあって嬉しそうな顔をしていました。行くときは青ざめていましたからね。やっぱりね、親から子を引き離すというのは大きな無理がありますよ。そうそう思い出した。松本に向かうとき、上りとの交換があるでしょう、子どもから見ると自分らと違ってあっちは東京へ戻るんだと分かるんですね。それで上りを見ては泣いている子もいましたよ。あの頃のことを思い起こすと子どもが可愛そうでした。やはり戦争はやっちゃいけないんですよ……」
中央線のEF15を運転していた甲府機関区の某氏に創造的インタビューをしてみた。
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2017年08月21日
下北沢X物語(3344)―代沢・東大原運命の出発日’44.8.12―
(一)戦後72年、戦争も遙か遠くになった。が、今夏、長野のテレビ二局と中央紙読売新聞で疎開学童と特攻隊の関わりが報じられた。この話は埋もれていた近代戦争史の一齣である、地元でも把握されていなかった事実である。具体的には世田谷の小学校二校、代沢小学校と東大原小学校の疎開学童が松本飛行場に飛来してきた特攻隊と深く接していた。これは関係者からの聞き込み、また取材過程で手に入れたと手紙や遺品などから明らかになった。代沢小と東大原小の学童は浅間温泉に疎開した。この子ども達と偶然に出会った特攻隊があった。満州新京で発足した特攻四隊のうちの二隊だ。武剋隊と武揚隊である。彼らは松本飛行場に飛来してきて一月余り温泉に滞在した。このときに二校の学童と交わった。これからを生きる命と死ぬ運命にあった者との出会いだ。
つい最近になって知ったことがある。この二校の出発日は同じだったことである。すなわち、昭和十九年八月十二日だ。代沢校はこの日だということは分かっていた、が、東大原校も同じだった。この日に下北沢駅を旅立った二校の学童が、二隊の特攻隊と出会っていた。
東大原小学校同窓会発行の『古きを温ねて−第三荏原から東大原へ』(平成十九年)に疎開に関する記述がある。
世田谷区では、八月十日に北沢・太子堂が先発、東大原は十二日の夕刻学校を出発、下北沢駅から新宿へ、列車に乗り換え信越線経由で翌朝九時に松本着、浅間温泉行きの電車で本郷小学校へ、同校児童との対面式を済ませて正午に宿舎に到着、五百余名の児童を収容する東大原小学校集団疎開学園がスタートしたのでした。
運命の八月十二日だ。この日、駅が見送りの人でごった返したことは間違いない。疎開出発の日、順序としてはまず学校で壮行式を行った。父母の見送りは学校までと決められていた。しかし、戦況は逼迫していた。何時東京も空襲を受けるのか分からない。親と子、離ればなれになったらもう二度と会えなくなる、今生の別れだ。それで親は駅まで行って学童らを見送った。
この日、 昭和十九年八月十二日はとんでもなく大変な日であった。これほど悲嘆に暮れた日はない。別れといえば小田急線下北沢駅地下化を翌日に控えた二〇一三年三月二十二日、地表電車を送る人々で構内はごった返した。が、戦時中の八月十二日の騒ぎを超えるものではない。この日悲しみの塊が爆発するほどに叫び声が、泣き声が上がった。
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2017年08月19日
下北沢X物語(3343)―偽汽車亀有狢塚総括―
(一)偽汽車は人間が狐狸に仮託して描いた伝説だ、文明に初めて出会った日本人の驚きを戯画化して描いた。根底にあるのは人と汽車との遭遇だ。曲折化した一種の文明論である。偽汽車が本物と衝突したときは思いがけず「コチン」と軽い音がする。創作伝承話として必要なオチである。話の核である、これがないと伝わらない。偽汽車は全国に流布している。発信源は東京である。新橋と横浜間に鉄道が開通しこの話は起こった。この区間では三例を把握している。品川、六郷、鶴見である。この三つがこの伝説の源流だ。これがまず都市近郊に流布する。「偽汽車」という呼称を生み出したのは佐々木喜善である。彼の著書『東奥異聞』では、「偽汽車」という見出しを設けこれを説明している。
ただしこの偽汽車だけはごく新しい最近にできた話である。ずっと古いころで明治十二、三年から二十年前後のものであろう。それにしては分布の範囲は鉄路の延びるにつれて長く広い。克明に資料を集めてみたなら奥は樺太、蝦夷が島の果てから南は阿里、台南の極みまでも走っているかもしれない。
東京に始まって地方へ、果ては樺太や台湾まで伝播したという。鉄道延伸と偽汽車の流布、東京に始まったこれは全国津々浦々へと伝わった。このことについては分類ができそうだ。第一次はやはり新橋、品川間から始まった。次が東京近郊だ。山の手線が次位にくる。先だっては五反田の例を挙げた。孫引きになるが『江戸東京の噂話』(大修館書店 野村純一著 2005年)には渋谷恵比寿の話を載せている。

(恵比寿)発電所の踏切付近にいた狸は汽車の真似をして、本物の汽車の妨害をする。ゴーシーシューポーという音を立てて汽車に向かって進んでくる。本物の汽車が狸公ぶつかると、狸の汽車は消えてしまい、翌朝見ると狸の死がいが残っていたという。
(渋谷区教育委員会『渋谷の昔ばなし』
偽汽車の流布の仕方はある。鉄道延伸に沿ってだ。亀有狢の面白いところは、これが都鄙境譚であるからだ。音響譚、音楽譚であることはこれを象徴している。
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2017年08月18日
下北沢X物語(3342)―日本偽汽車紀行 常磐線亀有4―
(一)「えっまたか?」人々はその音を異様に感じた。日本鉄道の土浦線亀有駅近辺では、「ピィヒョウピィヒョウ」と汽笛が立て続けに鳴っていた、気持ちが悪くなるくらいに頻繁に聞こえていた。のどかな村ではただならぬことであった。ところがだ、ある日突然にそれがやんだ。折も折、線路脇を通った村人が線路上に「血だらけのけものが転がっている」のを見つけた。「ぎょっふぉ、狢だ!」、その死骸は見性寺に運ばれ葬られた。「あんなにたくさん通った汽車は狢だったのだのお。」
「そういえば、むじながひかれた後はずいぶんと静かになったものだ。」
「むじなも汽車にはかなわなかったんだのお」
その後、日が経つにつれて、汽車に負けたむじなをかわいそうに思い、だれ言うともなく、塚を作って供養してやろうということになり、ささやかな塚が作られました。
『かつしか昔話』
亀有狢の偽汽車伝説はいくつかの特徴がある。
1、狢が汽車に化けて現れた、が、その偽汽車の実像の目撃談はない。
音響譚としての偽汽車であること。
2,近代の汽車と狢との力量の差を主眼にしている。
機械近代の犠牲になった狢への同情が述べられていること。
3,狢塚が今も存在していて供養されていること。
見性寺には偽汽車の検証に訪れた。この寺は、常磐線のすぐ脇にあった。狢と鉄路の関係性の深さが思われた。
この境内には、狢塚があって、その近くに正岡子規の句碑がある。
病苦
林檎くふて 牡丹の前に 死なん哉
明治三十二年作のようだ。病床にある自分の願いはたらふく林檎を食べて、そして、彩り豊かで美しい牡丹の花の前で死にたい、そういう意であろう。
なぜこの句碑がここにあるのか、興味深い。見性寺と子規の関係いかに?
調べてみたところこの寺に埋葬されている寒川鼠骨に関係があるようだ。彼は、正岡子規門下の俳人だ。病中の子規を介抱し、没後の遺墨などの保存に尽力している。彼もまた松山出身者で子規を深く慕っていた。
病臥している子規の相手をしていたのは鼠骨だ。恐らくは見性寺の狢塚の逸話を話したであろう。子規は狸には深い愛着を持っている。句にも多く狸を詠んでいた。
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2017年08月16日
下北沢X物語(3341)―日本偽汽車紀行 常磐線亀有3―
(一)亀有の偽汽車伝承は幾通りかある。『かつしかの昔ばなし』では、狸の腹鼓の巧みさを中心にしたものだ。狢の親子三匹が技に夢中になって練習している最中に汽車がこの親子に突っ込んできた。機関士の方は日頃この狢にだまされていて、それを恨みに思って、「エィッ」とばかりにひき殺してしまった。「亀有村の人々は狢を哀れみ」狸塚を見性寺に建てて供養した。亀有狢はこころざしなかばに倒れ、多聞寺の狸塚までゆかず、地方名の狸塚で終わってしまいました。それだけに村人の同情は大きく……
腹鼓の演奏家として亀有狢は懸命に練習してきた。ゆくゆくは第一級になって晴れて向島多門寺の狐塚で演奏することを夢見ていた。親はその晴れ舞台を思った。
向島芸者衆がいる中で、ポンツク、ポンツクと小気味よく腹鼓を叩くと歓声があがった、『よう、日本一!』と。するとここぞとばかり、息を二呼吸、ぐっと腹を張る、すると音は跳ねて、月夜に転がっていくようだった。
「まあ、亀有狢さん音につやのあること!」
ところが夢は無惨に打ち砕かれた。向島の名取りがただのど田舎の亀有狸で終わってしまった。村人はそれがかわいそうでならない。
彼らを偲ぶために亀有の菓子屋は「腹鼓最中」を売り出した。こってりした田舎最中は、皮肉なことに汽車でやってきた連中が、「うまいうまい、ことに腹のところにたっぷり入っているあんこは口がとけるようにうまい」との評判だった。
一方『葛飾のむかし話』(編集 葛飾区児童部児童課 一九八四年)にある「汽車になったむじな」は偽汽車の話を中心とする。この冒頭だ。
常磐線が北千住から亀有、松戸方面へと、はじめて通った明治のころのお話です。
その頃は田畑の中を走る単線で、汽車は一時間に一本くらいしか通らず、朝夕でもせいぜい二本くらいという、静かなものでした。
偽汽車の舞台設定として大事なことがある。一つは、時代設定だ、汽車が走り始めたころというのはポイントだ。狸や狢が汽車に初めて接して起こったできごとだからだ。
常磐線は、開通した当初は土浦線と呼ばれていた。明治29年田端と土浦間が開通している。東北線と同じ日本鉄道によるものだ。
もう一つ、単線であることだ。偽汽車に欠かせない条件だ。複線だと落ちがうまくいかない。偽汽車と本物の汽車がすれ違いましたでは話にならない。やはり単線であることは重要だ、あっちから汽車がきて、こっちからも汽車がくる、「えっ、どうなるの」、とはいうもののぶつかるに決まっている。
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2017年08月15日
下北沢X物語(3340)―10年間戦争経験者の話を聞いてきて―
(一)世間ではAIがしきりにもてはやされる。人間の代わりに考えたり、動いたりしてくれる、重宝されるはずだ。が、体を動かしたり考えたりすることで人間が人間たりうる。そういう点でAI賛美もどうなのか?が、彼AIの観点については評価ができる。我欲がないからである。つい最近面白いことがあった。中国のAIサービスへ「共産党万歳」との書き込みをしたところ「腐敗して無能な政治に万歳ができるのか」と反論したという。即刻サービスは停止されたという。もっともAIに西欧一辺倒的な情報が入っていないともかぎらないが。今日は、終戦記念日だ、試みにパソコンのコルタナさんに「太平洋戦争とは?」と聞いてみた。しかし何の返答もない。コルタナさんも手に余るのか?
それでも AIが回答する太平洋戦争は、大体が予想がつく。
・全く勝ち目のない無謀な戦争でした。犠牲者はおおよそ三百万と言われていますが、結果としては同胞を無駄死にさせただけのものでした。戦争を指導した軍部は判断を誤ったのです。さらに本土徹底抗戦などと言って軍部は戦争終結を遅らせました。広島、長崎の原爆を受けようやっと戦争は終わったのです。
AIは主観を排除して、合理的な判断に基づき回答をくだす。戦争前に聞いてみても同じだったろう。
「AIさん、これからアメリカと戦いますが、予想としてどうでしょうか?」
「アナタガタハマチガッテイマス。アメリカノブツリョウ、カガクテキナシンポハニホンヲアットウスルモノデス、センソウヲシテハナラナイ」
しかし現実には戦争に突入した。そして今日はその戦争に負けた。敗戦記念日だ。
AIは主観性を排除する、が、人間は我欲的だ、自己中心に物事を考える。
私たちは、毎年戦争経験を聴く会、語る会を催してきた。今年五月は十回目だった。2012年の第五回では、「海軍第14期飛行予備学生の話を聞く」を催した。学徒動員組の七名が参加された。知的レベルの高い人たちである。
「確かに合理的に考えれば物量に勝っているのはアメリカの方でした。しかし精神力では日本の方が数段勝っていました。だから勝てると思っていました」
動員組の一人の証言だ、精神力で戦えば勝機はある、軍部も同じだったろう、長期になれば勝ち目はない、が、短期決戦で望めば勝ち目はあると踏んだ。
(二)
どうしても人間は自分を中心に都合良く考える。
「そのうちに神風はきっと吹いてくると思っていましたよ」
多くの人から戦争経験を聴いた中で、この言葉には何度も出会った。神が助けてくれると。これは特攻隊の将校も同じような考えを持っていた。
愈々戦局も超重大となって来ましたね。然し私は絶対に日本の必勝して不敗なるを信じます。神州必ずや天佑あり、神助のもと、我等の赤い血を捧げて始めて日本の必勝は期し得られるものであります。
松本浅間温泉に約四十日余り滞在していた武揚隊山本薫中尉の言葉だ。彼は十四人の部下を率いていた。強い使命感と責任感を持っていた。天佑や神助は心からの願いだった。
今だからこそ言えるというのはある、当事者やその渦中にある者たちは、勝つと信じて日々を暮らすしかなかった。武揚隊は二十年二月に松本飛行場に飛来してくる。前年十月この飛行場の完成に向けて松本一中の生徒は動員された。望月照正さんもその一人で懸命にツルハシを振ったり、トロッコを押したりしていた。
「丘にはためくあの日の丸を/仰ぎ眺める我等の瞳」で始まる「勝利の日まで」もよく歌った。これらの歌をうたっていると、胸が熱くなる思いがした。
彼は、何とか日本は勝だろうと信じて懸命に力仕事に励んだ、そしてともに歌を歌った。「勝利の日まで」だ。望月さんにとってはそれが青春だったという。
戦争経験者から聞いたのは、「戦争には負けると思っていたよ」という感想が多かった。この批評を聞いて、「そうだったろうなあ」と同意した。が、今は違う、あのときは戦時一色に染まっていた。普通の国民は「ニッポン勝て勝て、チャチャチャ」、戦勝を期待していた。
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2017年08月13日
下北沢X物語(3339)―日本偽汽車紀行 常磐線亀有2―
(一)狸の腹鼓は高い音楽性を持っていた。これを向島の名手が打つと一帯にこれが響き渡り、多くの狸をうっとりとさせたという。亀有村の原に住まう狢一家も江戸の方から聞こえてくるこれに憧れた。「ああいう惚れ惚れするような腹鼓が打ちたい」と願った。それでひたすら練習に励んだ。すると「向島の名手のように音に色気がついてきた」との評。名人級に近づいてきた。「よし、お前達もだいぶうまくなった。もう一息だ。それでな、近々お披露目をしたい。明日明後日が満月となる」
亀有狢は、息子二人に伝えた。満月の夜はことさら腹鼓の音色が冴える。
「お父、どこでやるの?」と下の子が聞いた。
「お前達も知ってのとおり向島名人は荒川の土手で腹鼓を打っていた、やはり高いところがよい。それでな近頃できたろう、土手のようなお立ち台が……」
「お父、あれは、鉄道線路でねぇかい、我らの巣穴を壊して作ったものだよ」
長男狢が怒りに満ちた声で言う。
「そうだ、我らの巣穴を壊した奴らに鼓を高らかに叩いて威嚇し、あわせて近所の人たちに我らの技を披露するのだ……」
たちまちに満月の夜となった、煌々と月影が照っている。土手の上に敷かれた二本のレールも青く光っている。申し分ない夜だ。
「よし、行くぞ」
亀有狢の親は右足をちょこんと線路に預けて、まず一発、「ぽん、ちょん、たん」と。すると月の光の降る野原に音が見事に響いた。つづけて二匹の子狸も父に続いた。
「ぽん、ちょん、たた、とん、ちょん、たんつん」
親子そろっての腹鼓の合奏だ。月夜の青い光がいっそうに濃くなる。亀戸狢たちは合奏に聞き惚れ、うっとりして演奏に励む。
この場面を『かつしかの昔ばなし』はこう描く。
親狢が先ずポンと打てば、小狢がポンポンポンと調子を合せ、ポポンと拍手をあげて打つ切れのよさにポンポンポンポンと連れの打ち込みがあたりに冴えわたりました。
そんなときに西の方から「ぴぃぴょ!」という音が聞こえてきた。汽笛だ、どうやら機関車が近づいてきたようだ。しかし、三匹は腹鼓に夢中になっていて、気づかない。
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2017年08月12日
下北沢X物語(3338)―日本偽汽車紀行 常磐線・亀有―
(一)「狸が汽車に化けるなんてあるの?でもそんな狸の話を追っ掛けるなんて楽しくてしょうがないでしょう。そうやっぱりね生きるっていうことはこの世の中に一つ面白いことを見つけてさ追いかけることだね」、狸の寺、向島多聞寺のそばで出会った八十歳になる女性は言った。何事もつい夢中になって追い掛けてしまう。昨日は二つの狸塚を訪ねて三万歩、下町を歩いた。亀有、そして向島である。狸伝説は痕跡はあまり残っていない、が、ここにはいずれも石碑が存在している。両地点は距離的には近い。しかし、結果として30キロ近くも歩くこととなった。地勢や地形の影響だ、一帯は川が多い。対岸から対岸へ容易には行けない。
東京を歩き回るとき一日乗車券は重宝する。今回も「都営まるごと切符」を使った。しかし、東端は都営の交通の便は悪い、地下鉄や路線バスを綱渡り的に乗り継いでいく、が、これもまた、旅、楽しいものだ。
一番の目的地は、常磐線亀有駅の側にある見性寺訪問である。地図で調べると常磐線に隣接してある。偽汽車のリアリティは鉄道が近くに走っていることだ。ただ現地に行くと想像とは異なる。寺と鉄道とはフラットな面で接しているだろうと思っていくと違っていた。常磐線は高架になっていた。

見性寺に行くとき駅前の地図で場所を確認した。寺の位置はすぐに分かった。が、ここで面白いことを発見した。寺の名の後に(狢塚)と記されていることだ。一般的に興味は持たれていないが玄人筋がよく来ているらしい。それでわざわざ注記したものだ。この狢塚、ネットではかなりの人が話題にしている。
一般に偽汽車の痕跡はほとんど残ってはいない。が寺には「狢塚」がある。汽車にひき殺された狸を祀っている塚である。
偽汽車の民譚を多く集めているのは、『現代民話考�掘ゝ教ゼ屐αァ�自動車の笑いと怪談』(松谷みよ子 立風書房)である。が、ここに採録されていない。その亀有見性寺「狢塚」へ行くという目的があった。が、もう一つ大事なのは地元図書館に行ってこの話の典拠を探しだすことだった。
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2017年08月10日
下北沢X物語(3337)―第3回「帝音」をめぐる研究大会総括―
(一)昭和二年十二月に世田谷中原に音楽学校が創設された。が、「帝音」は昭和十九年三月に廃校となった。この学校の存在はすっかり忘れられていた。が、今回、久保絵里麻さんがこれをテーマに取り上げ、帝音の歴史を語った。音楽学校の創設や維持には大きなドラマがあったことを知った。しかし学校を支えた教授陣は音楽関係の草分けで数々の功績を残している。また帝音出身の卒業生も音楽界で活躍をしている。また当校に入校してきた台湾、韓国、中国からの入学してきた者は祖国で音楽教育を担い、功績を残している。世田谷代田にあった「帝音」を地元講演で価値づけたことは大きいし、意義深い。久保さんの講演が終わった後に、研究協議を行った。「世田谷代田の音楽文化を語る」、具体的には「帝国音楽学校」と地域との関連を語るものであった。これはとても盛り上がった。音楽学校と地域との結びつきがどうであったかについては誰もが深い関心もった。実際廃校になった後も地域に影響を与えていた。それが今日の現代音楽に伝統が繋がって生きているのではないか、そういう議論がなされた。

帝国音楽学校があった時代に、学校の近くに「平間聲学研究所」があった。学校の教官であった声楽の平間文寿が運営していた私塾のようだ。戦後になってこの跡に「長門美保歌劇団」ができている。夫の鈴木雄詞とこの劇団を結成し、昭和二十一年(1946)十一月に「蝶々夫人」で旗あげ公演を行っている。同じ声楽同士だから平間文寿と長門美保との間には関連があったのではないかと思われる。
今回、この近くに長年住んでいた当会会員の川田正義さんが地図を描いてくれた。それによると戦前は平間聲学研究所のすぐ近くに彼女は住んでいた。ということは彼女と平間とは近所同士だったといえる。
戦後になって音楽が解禁され歌劇団を作り、練習を開始しようとした。「平間聲学研究所」の建物は残っていたのだろう。それを平間に相談して歌劇団としたという推察が、川田メモによって分かった。帝音の陰翳が戦後にも生きていた例である。
川田さんの家は駒沢線62号の近くだ。周りには音楽家が多くいた。古関裕而、明本京静、同年では安倍圭子。
「阿部さんは音楽的な感性にすぐれていましたね。家にピアノがありましてね、近隣に音楽をやっている人が普通にいましたからそんなところで影響は受けたでしょう」
安倍圭子さんマリンバの世界的奏者である。代沢小のミドリバンドの主要メンバーでもあった。遠い帝音陰翳といってもよい。自著
「ミドリ楽団物語」も帝音が地域にばらまいた音楽感性を反映している。
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2017年08月09日
下北沢X物語(3336)―第3回研究大会:世田谷代田「帝音」�供�
(一)今日、九日は長崎原爆忌である。忘れがたい思い出がある。中2のときに学校で長崎原爆資料館に行った。何の気なしに入って原爆の被害のすさまじさに衝撃を覚えた。当時私は不良だった。勉強などはばかにしていた。が、この衝撃は忘れがたく、遠足から戻っての感想には率直な思いを書いた。気づくと二十枚ほどになっていた。それを当時の担任の先生がガリ版に起こし、印刷し皆に配ってくれた。自分に目覚めた思いがした。長崎原爆が自分を覚醒させたのだと思う。現今の文化探査のきっかけとなった。あれから五十七年経った。昨日は終戦記念日の番組の撮影に、テレビ信州のデレクターとカメラマンが家にきた。「戦争だと特攻で行った人にどうしても目が行きがちですけど、裏舞台にいて懸命に任務を果たしていた人がいるんですね。松本に来た特攻二隊、武剋隊や武揚隊の十五機には、全部に整備員がついていたのです。満州から最前線の沖縄や台湾にまでついて行っているんです。機は九九式襲撃機で中古です。くたびれた機の整備は大変だったのです。武揚隊などは台湾に行くまで機体不調で飛べなくなったり、不時着したりした機が多くあったのです。整備員は気が気ではなかったでしょう。しかし、中古機でも手がけていれば愛機ですね、彼らの多くは機とともに運命を共にすると覚悟を決めていました。出撃の段になって隊長に申し出るわけですが、『原隊に復帰せよ』と言われたのです。戦後、彼らは犠牲になって死んだ特攻兵士の家を訪れ、最後の様子を報告していますね。『飯沼伍長は所持金を国防献金しましてね、新聞に載ったのですよ』と武揚隊の整備員は遺族に報告しています。戦争の裏方、そういう人のことも私達は覚えておくことが必要ですね……」
時代はめくられる。が、その時々で何であろうと与えられた仕事にを懸命に懸命に生き生きて存在したものがあった。しかし、時代とともにふっと消えてしまい。そのまま忘れられてしまうものもある。整備員もそうだ。彼らがいて苦闘したことはほとんどは知らない。
今回の取材、『鉛筆部隊』が、童話作家高田充也さんによって童話化された。長野の地元ではこれが評判になっているようだ。この関連での取材でもある。
☆子どもたち、また戦争を知らない時代に向けて、メッセージをお願いします。
鉛筆部隊の学童たちは鉛筆を握って戦いました。ひたすらに手紙や日記を書きました。それらが今残っています。それらを読んで、文章力の高さを思います。小学生のレベルを超えていると思いました。ひたむきに書くこと、大事なのは手で書くことですね。
文章というのは面白いもので書く力がつくと思考力が高まります。物事の善し悪しがわかってきます。批評力ですね。あれはおかしい、これはよい。ものを見る目ができてくると世の中のことも分かってくる。思うに、この批評力こそが平和に結びつくものだと私は信じています。
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2017年08月07日
下北沢X物語(3335)―第3回研究大会白熱:代田「帝音」―
(一)日本の音楽文化史に大きな足跡を残していた代田「帝音」は歴史から消滅していた。この学校の事績を丹念に調べ、創立から廃校までのプロセスを明らかにした。それが久保絵里麻さんである。世田谷代田に存在した「帝音」を歴史上に蘇らせたことは大きく評価できる。地域の文化を語るとき「帝音」の存在は極めて重要なものだと認識した。芸術文化の先鞭の役割を担っていたことは、文士町の発展と形成を考える上でも極めて重要だ。参加者からは「極めて質の高い一級の研究会」という批評を得た。研究協議では議論が白熱した。八月五日、下北沢タウンホール、スカイサロンで北沢川文化遺産保存の会の第三回研究大会を開いた。「世田谷代田の帝音の歴史を知る」をテーマとした。メインは芸術学博士久保絵里麻さんによる講演「帝音の歴史」であった。彼女は誕生から廃校までの歴史を三期に分けて丹念に話した。二時間半にも及ぶ熱弁だった。
この研究会は第三回目となる。開会に当たって、当会の説明をした。発足は2004年で十二年間に亘って北沢、代沢、代田の歴史文化を掘り起こしてきた。研究会はその成果を発表する場として設けた。第一回が「北沢川流域の文化を語る」、第二回が「シモキタらしさのDNAを語る」であった。地元に密着した研究テーマで行ってきた。これら延長上に第三回目を設定した。芸術文化の先駆けをなす帝音の講演だ。

講演者の久保さんは帝音ゆかりの人だ。開演に当たって紹介をした。
久保 絵里麻(芸術学博士)
4歳より、「帝音」出身者の會則道(かいのりみち)(NHK交響楽団ヴィオラ奏者。才能教育研究会スズキ・メソード指導者)にヴァイオリンを師事。明治学院大学大学院博士後期課程修了(芸術学)。専門は日本近代音楽史。研究テーマ:帝国音楽学校の研究、この研究の第一人者だ
彼女はバァイオリン奏者だった。彼女が師事したという會さんの娘さん二人も出席されていた。
「もう小さい頃から、帝音、帝音ということばは聞かされていました。帝音というのはすっかりなじんでいた語でした。しかし、地元の皆さんはほとんどご存じないことを今日知ってショックを受けました」
世田谷代田における帝音の歴史評価が如実に表れている意見だと思った。
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2017年08月06日
下北沢X物語(3334)―核は人類殺戮器悪魔の兵器を許すまじ―
(一)「あのときは、ピシュッと青白い光が走ってドグゥワンという音がしたのです。私はブレカーが落ちたのかと思いました。しかし電車の中は真っ暗で何も見えません……。八月六日、朝、広島電鉄家政女学校の藤井照子は電車を運転して広島駅前に着いたときだった。
「手探りで前を進もうとしたところ、瞬間からだがふわっと浮いたと思ったら、ストンと落ちたのですよ。気づくと電車のモーターカバーが爆風で飛ばされていたんですよ。左足は蓋に引っ掛かり、右足はモーターかかり、そして床にどさっと落ちたのです。『おかあさん』と叫びました。それでもようやっと穴から這い上がって、後ろの車掌さんのところにいき、ドアのカギを上に持ち上げて、外にでました」
「もう辺りの風景は一変していましたね。何もかもが爆風で吹き飛ばされていてあっちでもこっちでも火の手があがっていました。そしたら男の人の声が飛んできて『伏せー』というじゃあありませんか。私は女の車掌さんと手をつないで、そこに伏せました。地面が熱いのですよ。そのときに初めて爆弾だということに気づいたのですよ。」
「しばらくして起き上がってみたんですけど家とか電車とか、なにもかもがなぎ倒されたりしていて、今まで聞いていた爆弾とは違うように思ったのです。」
「ところがそのとき、鉢巻きがないのに気づき車内に引っ返したところそれがみつかったのですよ」
鉢巻きは皇国少女の命、これを締めて彼女らは懸命に電車を運転していた。自分を支えるものであった。
彼女にとって広島駅前での被爆経験は忘れがたいことだった。火を噴いている家から子どもの姿が見える、が、どうにも助けようがなかった。何とも手の下しようがなかったことをずっと負い目として生き続けてきた。
原爆投下で、広島電鉄家政女学校の生徒は三十名ほどが犠牲になった。藤井さんも右手にやけどを負った。が、命はとりとめた。結婚して子どももうけた。
彼女の若いときの写真を見ると本当に美人だった。が、被爆したことが一生ついてまわってがんとのたかかいだった。美しかった顔は、被爆による影響から皺が増えていった。
彼女は、二十四年、八月十八日、八十六歳の生涯を終えた。被爆語り部だった。
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2017年08月04日
下北沢X物語(3333)―代田・北沢文士町の発展と形成�供�
(一)文芸、詩歌、音楽を牽引したのは鉄道だった。北沢の丘に高名な文学者が引っ越してきたのも、代田の丘に音楽学校が創設されたのも小田原急行鉄道が開通したからだ。前者は昭和三年十一月、後者は昭和二年十二月だ。鉄道の開通は昭和二年四月だ。この開業時の鳥瞰図を描いたのが吉田初三郎である。富士を基軸にしてその山麓を路線が小田原、相模の海まで一気に引かれている。デフォルメした富士、そしてこれを取り巻く山々や海が見事に描かれている。旅心を誘う図である。図の上には、「開通 最高速度」、「小田原急行鉄道」と惹句が記されている。高速度で走る、急行鉄道が一気に旅客を富士の裾野を駆けていく様が想像される。人間、動物は根本、漂泊への願望を持つ、この感情を強く刺激する絵図である。遙かなあなたまでもが記される。開通時に出された小田原急行鉄道の鳥瞰図は鉄道会社の世界観を表している。それが帝国音楽学校と結びつく。壮大なロマンである。
「吉田初三郎の鳥瞰図は遙か彼方まで鉄道が繋がっていることを描いています。小田原からは東海道に接続し、さらにこれが京都大阪に繋がって山陽道の終点下関までが書かれています。それでも終わらない、海の向こうには釜山が、そして上海や台湾までもが描かれています。一方北に目を転じると……」
鉄道路線が描かれるが、初三郎らしい技がここで見られる。巨大富士の右を回り込んでいく中央線が書き込まれる。行き着く先は、「塩尻」だ、心憎い設定だ。ここで中央線は篠ノ井線に別れて、さらに信越線に行き、直江津へ、はたまた羽越線経由で青森へ。その先には北海道がある。が、ここで終わらない「樺太」までもが書かれている。
「東の果ての果てには樺太があるんですよ。そして西には、朝鮮、満州、そして台湾、これこそが大日本帝国、世田谷代田に創設された帝国音楽学校は、ここから名前をとっていますね。外地から留学してきていた久保さんから聞きました」
帝国という名は、実質だった。台湾や朝鮮から留学してきた者もいるという。そんな学生が最寄り商店街に出入りしていた。
会報133号では、今度の研究会で講演していただく久保絵里麻博士に寄稿していただいた。帝音生の話しとして「世田谷中原通りは常に帝都[音]生徒達のおかげで、今迄淋しい郊外の何等取り立てゝ云ふべき處ではなかったのが近頃急に活気を呈して、賑やかな街になって来ました。」[補足:筆者]という。
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2017年08月03日
下北沢X物語(3332)―代田・北沢文士町の発展と形成―

(一)文芸と文学では影響力が違う。前者は個人的な営為だ。後者も同じだが大きな違いは、音が出ることだ、歌声や楽器の音である、五感、感受性に直ちに響いてくるものだ。
今年度平成29年度も会として世田谷区の「地域の絆連携活性化事業」に申請を出し、計画が認められた。要望した予算通りに補助金が認められた。これによる事業の一つは「紀要の発行」である。
私達は2012年以来、研究紀要を発行してきた。
創刊号は、『代田の丘の鉄塔文学論』だ、第二号は『北沢の丘石畳文学論』(2013年)、第三号は、『代田小路寓居文学論』だ、第四号は、『戦後70周年記念戦争記録集』(2014年)、第五号は、『代田のダイダラボッチ 東京の巨人伝説の中心地』(2015)である。
文士町の芸術文化について書いてきているが、あまり紀要の評判は聞かない。今年の春、三好達治の版権継承者の三好和子さんが当地に見えて「紀要には誰も書いていない当地における三好達治の行状がとても詳しく書かれていて評判です」と言われた。批評されることがないだけに嬉しかった。

つい最近、第五号『ダイダラボッチ』を読んだ詩人の伊藤真理子さんから手紙をいただいた。「すごい大論ですね、ヒタチの国風土記から柳田国男の論まで、すごい内容です。『紀要』というにはもったいないです」と。褒められることがないので嬉しい。
この頃思うのは時間だ、生きることはついてはここに尽きる。自分が時間をどう過ごしてきたかではないかと思う。ふりかえるとしゃにむに生きてきた、行動で誇れることは、自転車で地球数周分ひたむきに走ったことだ。今は、ひたむきに歩いている。歩いて考える、これは自身の活力の源泉だ。
これまでの時間を振り返って驚くことがある。毎月の会報は、133号、街歩きは130回、作り続けた地図は第七版、番外冊子は、『北沢川文学の小路物語』(2006年)、『下北沢X惜別物語』(2007年)、『安吾文学碑建立記念記録集』〜あんこ先生が帰ってきた〜』(2007年)の三冊。
今計画を立てている紀要は第六号だ。
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2017年08月01日
下北沢X物語(3331)―世田谷代田「帝音」を巡るプレ研究会�供�
(一)帝国音楽学校と地域文化は興味深い問題だ。1944年に廃校となった。しかし、当地の音楽文化に陰翳を残している。「代沢小の『ミドリ楽団』は戦後、アニーパイル劇場で華々しいデビューをするわけですが間違いなく言えることは当地にあった音楽的感性なしには成り立たないと思います。子ども達が感性を環境の中で磨いていたのです。いつだったか代沢小の校長室でアルバムを見せてもらった。そのときに間からはらりと落ちてきたものがある。手作りの「花の詩集」だった、和田誠さんの詩もあった。小学生にしてはませているのですよ。詩というのは言葉の感性、音の感性と結びついている。音がよくなきゃ詩にはならない。和田さんは代田、つまり帝音のあるところは代沢小の学区域だったのですよ。音楽を志望する学生が出入りしたり、住んだりした。校舎からは音楽が聞こえてくる。音楽のあることが普通だったのです。感性を醸成されますね」「世田谷中原教会と帝音というのはどこかで結びつくように思っているんですけどね」
久保絵里麻さんが言う。
当地一帯に教会は多い。が、戦前からというのは少ない。「世田谷中原教会」が最も古い。昭和七年(1932)に原宿から移ってきている。
「先生方の中にもキリスト教の信者もいましたからね」
音楽を学ぶということは家が裕福であったと思われる。帝音の遠足写真を久保さんから見せてもらったが服装などもしっかりしている。洋装の女性もいた。
世田谷代田で当時目立つ風景とては、鉄塔、帝国音楽学校、中原教会の塔屋だった。私は以前にこんな記事を書いた。
教会のある風景はどのようにしてできたのか。昭和十四年、世田谷中原に三階建ての塔屋も備えた教会堂が建った。太陽が降り注ぐ緑の丘に十字架が天を突き刺す。西欧的なお洒落な風景の現出である。これを描きに画学生もくるほどだった。この教会は新会堂建設と同時に「同胞幼稚園」を開園した。十字架が聳える塔に通う園児というのもまた近隣住人にとってはハイカラだった。教会堂の建物風景が人を惹き付ける。信者も園児も増えた。
塔屋はあこがれでもあった。画学生が来たり、音楽学校の学生が来たり、そして後者は演奏とか歌うことで関わりがあったのかもしれない。
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