2018年04月

2018年04月30日

下北沢X物語(3509)―文士町文化の鉱脈と平和憲法―

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(一)2004年12月会発足以来、文化探訪の旅を続けている。聞き込んだり、調べたりしてきた。それらを一つ一つは積み重ねてきた、そして今日は3509エントリーとなった。この蓄積は自分には貴重だ、この頃これが結晶化、熟成化してきていると思う。

 一昨日、作道敬子さんが探り当てた情報があった。『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』に載せた飯田勝さんの絵がある。六枚のうちの一枚は、「北沢四丁目」とあるが、どこにあった家なのかは分からなかった。聞き込みに聞き込みを重ねた末の成果だ。味のある絵、住んでいた人のことも分かった。絵は家族のドラマをも写し取っていたと思った。

 28日、事務局に会報を印刷して持っていったときに情報を知った。その現場はぜひ見ておきたい、そこは古老三十尾生彦さんの家に近い。彼は会報にエッセイを書いていた。その執筆者に会報を届ける用事もあることから行った。久方振りに会員の及川園子さんが来ていて、彼女も現場の近所だ、いっしょにそこに向かった。

「何だここだったのか!」
 家のあったその道は因縁があった。かつて自転車で通勤していたときに通っていた道だ。古びた日本家屋が確かにあった、場所が分かると記憶も蘇るものである。

 面白いことがあった。このとき及川さんの知り合いが犬を連れて通った。
「ほら、この絵ってここよね?」
「ちょっと違うような、どうしてかというと二階の窓ガラスが割れていて前から気になっていたのよ」
 破屋として放置されいたようだ。人の記憶は面白い、割れていたガラスのことは覚えているが場所は曖昧だった。

 及川さんもこの家の聞き込みを続けていて、来るときに呼び鈴を押した家があった。赤坂さんの家だ。再度呼び鈴を押したところ応答があった。

 赤坂暢穂さん、彼と出会ったのも因縁である。彼の話は一つ一つがしみ通る、地に根づいた話だった。隠れた文化鉱脈とはかくやと思ったほどだ。

 赤松さんは知らなかったが、彼はわたしを知っていた。驚きだ、地図やブログでとうに知っていたという。それですっかり打ち解け、ついにお家にお邪魔して話を聞いたことだ。

 人は言葉なり、数語交わしただけで相手が分かる。言葉が豊かで知の深さが思われた。その勘は合っていた長年大学で教鞭を執ってこられた人だ。
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2018年04月28日

下北沢X物語(3508)―東京新聞を読んで:伊藤文学―

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(一)北沢川文化遺産保存の会は、2004年12月に発足した。この時のメンバーに入っていたのが伊藤文学さんだ。知り合って十三年にもなる。一冊の原稿を抱えて困っていたときに彼が出版社を紹介してくれた。本の名は『鉛筆部隊と特攻隊』だ。朝日新聞の書評で取り上げられ増刷された。これが端緒となって長編四冊を書いた。昨年十二月に出したのが最終巻『と号第三十一飛行隊(武揚隊)の軌跡』である。

 世田谷の疎開学童と沖縄に飛び発つ特攻隊とが深い接触をしていた。調べると代沢小ばかりではなかった。彼らは東大原小、駒繋小、二子玉川小、山崎小の学童らと深い関わりを持っていた。もの悲しい悲恋物語もあった。これらは埋もれていた歴史真実である。この陰に伊藤文学さんがいた。

 伊藤文学さん、一刻者だ、付き合っていると衝突をする。何回も喧嘩をした。坂口安吾の文学碑を建てるときデザインを巡って対立したこともある。彼もブログに記している。代沢小での講演のとき私が言った一言が気に入らないで「席を蹴って」会場を出ていったとも記されている。

 しかし、彼はおおらかだ。この春に何度か出会ったがもうすっかりと昔の恨みは互いになくしていた。「やあやあ」と出会って握手をしたことだ。

 伊藤文学さんは、我らの会から出ていった。彼の思いがあった。北沢川沿いを斎藤茂吉とともに歩いたという思い出がある。それでいち早く歌人の文学碑を建てたいと思っていた。それで彼は別の人と組んで代田北沢川に大きな文学碑を建てた。私は文学碑などは質素でいいと思っている。が、彼は大きくて風格のあるものではければならないと思っているようだ。大金を掛けて斎藤茂吉の歌碑をついに建てた。

「もうね、あの人ともそりがあわなくてね抜けちゃったよ」
 この前、そんな話をしていた。会からは抜けたようだ。

 伊藤文学さんのお父さんは、伊藤祷一さんだ。美装本で有名な第一書房の編集者だった。戦後になってこれを再興しようと詩人の田中冬二と彼とが長谷川巳之吉に掛け合ったが断られ、第二書房を下北沢に興した。その出版社を継いだのが伊藤文学さんだ。
 その彼から手紙をいただいた、それを紹介する。

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2018年04月27日

下北沢X物語(3507)―講の道中:世田谷から富士へ―

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(一)歩きは脳を刺激する、物事を気づかせもする。「いい道はいい考えを浮かばせる」、微妙にカーブしている緑豊かな道、発想の源だ、「人は立ち止まれば不審者、歩いていれば旅人」。かつては自転車派だった、これは捨てた、未練はない、歩きに魅力を見いだしたからだ。歩きの途中ではよく富士に出会う。立ち止まって眺める。遠望する富士はやはり綺麗だ。遙か彼方に孤高の富士が雪を戴いてどっしりと座っている。見ていると気の安らぎを覚える。

「あの富士まで歩いて行こう」
 そんな思いも湧いてくる。富士につい人は感情移入してしまう。しかし、客体的に見れば富士そのものに意味はない。意義を見い出しているのは人間自身だ。

 いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない

有名な台詞、夏目漱石の『三四郎』の一節だ、向学心に燃えて三四郎は上京する、その車中で出会った広田先生から富士について聞かされる場面だ。この言葉に対する三四郎の反応が面白い。「三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする」と。
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明治44年刊行の『尋常小学読本唱歌』に「ふじの山」が収められているが、一節目、二節目最後は「富士は日本一の山」と高らかに歌われている。これは周知のことだろうが、広田先生は「日本一の名物」だという。そして次の言い草が素晴らしい、「富士山は天然自然に昔からあった」と。これは掛け値なしにそうだと思う、何万年前からあって後から人間が現れ、この山をああでもない、こうでもないと批評してきた。結局、富士の色づけをしてきたのは日本人そのものである。

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2018年04月25日

下北沢X物語(3506)―あくがれの富士:冥土としての富士―

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(一)我々はどこからどこへ行くのか?それは誰にも分からない。が、確実なのは老いてそして死ぬことだ。その後どこへ行くのか?これまた分からない。それで人々は手がかりを経典に求めた。来世には地獄があり、極楽があるという。針のむしろでの生活より、香しい蓮の花に囲まれて過ごしたい。誰しも思うことだ。ところが寺院の僧侶は言う、「極楽は十万億度の彼方にある」と。理解不能な程の彼方にある。しかし、富士の場合は違う。

 富士講の大先達身禄の弟子の高田藤四郎は、彼の教えを受けて説いたという。

 実際に自分の足で富士に登ったことで分かる。富士八合目では月を出迎える、あのときの感動は忘れられないものだ。煌々と照り輝く月の中に三尊の如来が見える、それを見たときは、極楽に行ったような思いがしたものだ。

 言えば、手に届くところに神がいる、それは富士だった。江戸時代における富士講の広まりは、遠い存在の極楽を身近にしたことが大きい。もう一つ大事なのは、その富士が常々望めたということだ。

 信仰心は廃れた。しかし、富士にあくがれるというのは今もある。太宰治の『富嶽百景』の一節に、「あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない」とある。都会から見える富士の一端だ。
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 自身の散歩コースというのがある。目黒東工大の大井町線と目黒線を跨ぐ陸橋はいつも通る。ここから富士がよく望めるからだ。見えないとがっかりする、見えると嬉しい。
「私もね、ここは必ず通ることにしているんですよ」
 ここで出会った人がいる。彼は病気がちだが、ここへ来ると元気になるという。
「ほんとね、富士が見えるとホッとするね、やっぱり富士はいいねえ」
 胆石で東芝病院に入院していたときに患者が話していた。ついこの間、病院に行くと東京品川病院と名を変えていた。
 
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2018年04月24日

下北沢X物語(3505)―霊峰富士:観光の隆盛と信仰の衰退―

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(一)「富士山−信仰の対象と芸術の源泉」という理由で、富士は世界文化遺産に登録されたという。しかし、前者の信仰、具体的には富士講だが著しく衰退している。また後者の芸術の源泉だが近代的な建物、とくには高層ビルが建ち麗しい富士を塞いでいる。「万葉集」では、山部赤人が「語りつぎ 言ひ継ぎ往かむ 富士の高嶺は」と詠んでいるが、近代の富士は危うい。

毎年中央線で長野へゆく、新宿からの特急はとくに混み合う、が、大月でかなりの人々が下車する。ほとんどが外国人だ、富士急行線に乗って富士方面に向かう人である。世界文化遺産になってから富士がグローバルなものとなり観光客が押し寄せている。

 まず、我らは富士の恩恵を得た水力発電所を見学した。鹿留発電所だ、この母体となる桂川電力は1910年(明治43)9 月に設立された。現地に行ってみて分かることは地形が荒々しいことだ、渓谷に発電所を造り、これを動かすための導水路を掘り、水圧鉄管を敷設する。大きな土木工事が行われたことが容易に想像がつく。
「やっぱり鉄道が出来ていたのでしょうね、何時できたのでしょうか?」
 山峡に発電所を建てるとすれば機材やコンクリートなどの運搬が必須だ。鉄道が開通していないと出来ない。調べると甲武鉄道は、1902年(明治35年)10月1日に大月まで、翌年6月には甲府まで開通している。

 甲府盆地の真ん中まで鉄道を通すことは大変であった。八王子以西は急峻な山々が聳え立っている。中でも笹子トンネルの掘削は難工事だった。が、これが貫通し笹子峠を鉄道で潜り抜けることができるようになった。その喜びもひとしおだった。甲州財閥は鉄道開通に商機を見いだした、豊富な水資源を使って電気を起こし、それを東京方面に売る。

 桂川電力経営陣は、折々に北口本宮富士浅間神社に参拝をした。電気の源となる水は富士に降った水だ。霊峰富士の恩恵を受けてこその会社である。鹿留発電所によって起こされた電気は大田区の六郷変電所まで送られた。ここには今でも桂川神社が祀られている。ご神体は木花咲耶姫だ、これは富士浅間神社のご祭神と同じだ。

 我々は、鹿留発電所を見学した後に、北口本宮浅間浅間神社へ行った。このときに偶然に神社の玉垣に「桂川水力株式会社」と彫られた石を見つけた。同行した米澤邦頼さんが見つけたものだ。

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2018年04月22日

下北沢X物語(3505)―一富士、二富士、三も富士―

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(一)太宰治の富士批評は群を抜いている、富士には「かなわない」、富士は「やっぱり偉い」、富士は「よくやっている」(『富岳百景』)、そういう富士を昨日みんなでレンターカーを駆って見に行った。第138回目の町歩き(案内 藤井理嗣さん。運転 米澤邦頼さん)だ、都留からは笛吹市の矢花克己さんが鉛筆部隊の田中幸子さんを乗せて合流した。またとない好天で、間近で富士の姿を拝めた。太宰は、「註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた」とも言ったがあまりにも間近に接すると照れ臭くもなる。

 富士を巡る旅、物見遊山である。が、富士は我らの活動の底流に大きな存在を占めている。当地最大の伝説、ダイダラボッチとの結びつき、当地一帯に流行っていた富士講との関連、当地を縦断する高圧鉄塔駒沢線との連関など、富士は当地の文化事象全般に関わる。

 昭和二年に小田原急行鉄道は開通するが、往時の社の鳥瞰図を見ると富士を基軸とした旅への誘いがメインとなっている。当地からの富士の眺望、展望も欠かせない、丘上から見られる富士は人々の心のよりどころであった。
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 小田原急行鉄道、帝都線とが下北沢で交わることによって利便性がが増し、鉄道交点を取り巻くように小学校が開学していく。これらの学校のほとんどが校歌に富士を詠み込んでいる。一例として東大原小の一節、「朝夕あおぐ 神山富士の 正しき姿 清らの心」と。神々しい山、富士は、学童らの精神的支柱となっている。景色眺望にメリハリをつける重要なポイントでもあった。

 富士は日本人の精神的支柱である。万葉歌人赤人詠んだ歌はその一つだろう。

田児の浦ゆうち出でて見れば真白にそ
           富士の高嶺に雪は降りける


「ゆ」は、ポイントだ、経由してという意味だ。田子の浦沿いに旅をしているとき、とふと海岸沿いに出た、すると頂上まで真っ白に雪をかぶった富士が聳え立っていたことよ。霊峰富士に出会った感動を詠んでいる。そう山にに接すると誰しも神々しい気持ちになる。
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2018年04月21日

下北沢X物語(3504)―北澤文化集宅と嘉穂寮―

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(一)分かってみると面白い、北澤文化集宅と飯塚嘉穂学寮は隣合っていた。段丘になっていて高い方が文化集宅であり、低い方が学寮だ、こちらは川筋となる。飯塚の川筋男というと気性が荒くて有名だ。産炭地の子弟に遊学するに便利なところというので飯塚市はここに寮を建てた。彼らは必死に勉学に励んでいた。が、道一本隔てると優雅な文化集宅があった。都心へ通うスーツを着た男、また夕方から銀座の高級バーに通うマダムもいたという。世帯は二十数世帯もあったが一人で二部屋を占めている人もいたようだ。

 北澤文化集宅は井の頭線の渋谷寄りだ。反対側の新代田寄りに秀樂園アパートがあった。こちらもオシャレだった。昭和12年に建てられたという。「アパート生活は、長屋を借りるよりはずっとモダンで都市的な生活と考えられていた」(『田園と住まい展』世田谷文学館カタログより)こちらは風呂はなく銭湯を利用していたそうだ。

 文化集宅は風呂があってこれが電熱で湧くと聞いた。男女別の風呂だったように記憶しているが、これは牟田さんに確かめている。

 文化集宅は「秀樂園」よりも高級だったようだ。電話を取り次いでくれる人がいるというところかして違う。それと電話を引くことが大変だった。牟田さんは昭和十八年生まれ、戦後の話をしているのだと思う。

 『父・萩原朔太郎』(萩原葉子)に電話番号の抽選の話が書かれている。代田に住む萩原朔太郎が松沢局に出かける。このとき妙なものを詩人は持って行く。
「背中にしゃもじを背負って行くとかならず抽選にあたるおまじないだよ」
その甲斐あって抽選にはうかった。戦前は電話を引き込むのも大変だった。

 中原中也が北沢に住む横光利一にもっと便利な都会に出てくるようにと手紙を出していた。都内だと思う存分電話で話ができるが北沢だと市街だから電話は高いし、繋がらない。

 嘉穂学寮と文化集宅の間は川と丘との境目だ。これは住宅地図を見ても分かる。学寮側の一角は家々の密集度が高い。が、一段上の文化集宅になると土地が広々としている。文化住宅の敷地も300坪あったとか聞いた。
駐留軍将校のウィリアム・バンスさんもこの辺りにある接収家屋に住んでいたようだ。
牟田家とは懇意にしていたらしい。集宅で将校の子供と記念写真に収まっているのを牟田さんは持っていた。もちろんカラーである。

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2018年04月19日

下北沢X物語(3503)―下北沢「北澤文化集宅物語」―

DSCN0113(一)世田谷代田に「小暮荘」というのがあるらしい。ある夕刻、世田谷代田駅前で飲み会を行っていたとき、「小暮荘はこの近くなんですよね?」と通りかかりのアベックに聞かれた。「あんたたち鋭い勘をしているね、あれには『小田急線・世田谷代田駅から徒歩五分、築ウン十年』と書いてあったでしょう、そうそう南へ行かずこっちに来たのは素晴らしいよ」とこちらも小説虚構の「小暮荘物語」に付き合ったことがある。

 「北澤文化集宅」は虚構ではなく実在していた。デザインや設備、内装などかなり凝っていたらしい。「小暮荘」はアパートだが、こちらはオシャレなコンドミニアムだったらしい。俳優、作家、デザイナーなどが住んでいたという。ここを舞台とした映画を撮りたいとの話もあったようだ。カットでは幾つかの映画に出てくると。戦前からあったというこの「北澤文化集宅」の話を聞くのは始めてだ。

 牟田敬之さんはここに長く住んでいた。彼は代沢小の「ミドリ楽団」の元団員だった。この因縁で彼と出会った。昨日、18日に邪宗門で話を聞いた。

 この集宅、古い地図で確認してみる。「住宅地図1962年(昭和37年)版」にはちゃんとある、北沢二丁目二四二番地である。区画が「イ」と「ウ」に別れている。三百坪ほどだったらしい。
 
 東宝映画「大当たり三色娘」で下北沢あずま通りの八百屋に車が突っ込む場面がある。駅から来た道とあずま通りが交差したところの角に八百銀があった。
 確かに下北沢駅南口から真っ直ぐに西に向かう道が写っている。下って降りていく。そして木立の間を上っていく。映画を一時停止にする、すると雪村いずみがお尻を突き出している。その向こうに丘へ上る坂があって二本の松が見える。この右手に三角形の屋根が見える、これがどうもそうらしい。

 牟田さんは、写真家だ、ご自分で撮った写真を持って来られた。それを見るとコンクリート二階建てだ、真四角ではなく楕円を間に入れたりしてデザインと意匠に工夫が懲らされている。場所的には丘上に掛かるところだ。

「いつごろに建ったのですか」
「戦前だね、たぶん昭和十、四五年だと思う」
 これは一緒についてこられた兄の、敬武さんの話だ。
「うろおぼえだが、まつしょぼうの編集長か?そこの誰それがヨーロッパに渡って建築事情を見てきたらしい、それでスペイン風の建築で作ったのだと……」

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2018年04月18日

下北沢X物語(3502)―デレクターとカメラマンとの文化談義―

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(一)日々が過ぎていく、このところ多くのことがあった。しかし、言葉は時間には追いつかない。今日は、今日あったことを書こう。二人と会った、一人は若いデレクターである。昨日の読売新聞の記事を読んで興味を持ったようだ、それで直接会って取材したいとの申し出だ。三時から人に会うことになっているのでその前だったよいと。

「この辺り一帯の歴史や文化を十三年前から調べています。このことを、『下北沢文士町地図』に記録しています。今回作ったアルバムはこの地図の別冊となっています。これが焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』です。やはり焼け遺ったというのはキーですね。焼けたまちの代用機能を果たすことになったのですよ……」

「ひとくちに焼け遺ったといっても意味が掴めませんよね。当時は多くが焼けてしまったのですね。焼けなかったことがいかに大きなことだったか……」
詩人の福田正夫は大原の家を焼かれてしまう。詮方なく壕舎生活を強いられる。そのときのことを詩に描いている。

 �次々莠防�の歌

 キリヤコンキリリコンコロコロン
 壕舎は鳴きますうたひます メゾ・ソプラノの顫音あの山手空襲で
 うたはせるのは風なのですね 「福田正夫全詩集」 冬至書房新社 昭和59年


 大原と北沢は隣り合わせである、だいぶ前に地元の人に聴いたことがある。
「焼けた焼けないでは大違いでしたよ。今になるまでどれほど苦労したか!」
 しかし、それにしても福田正夫の擬音語は素晴らしい。大原の微傾斜を南風がなめていく音を見事に描いている。

「家があるということは生活をする上で基盤になりますからね、家があれば商売でもなんでもできますからね。ほらこの写真は今の下北沢駅北口ですよ。温泉マークに 旅館と書いてあるのです。いわゆる連れ込み宿ですね、しもたやを改造したにわかづくりの旅館です」
 「いろは」があって、「名月」、「かたばみそう」もあった。
「そんなのいくらでもありましたよ。家の近くには『たかはし』という連れ込み宿がありましたよ」
 新手の名の連れ込み宿が、この後で会った牟田さんから聞かされたことだ。

「下北沢というと音楽文化ですよね」
 デレクターは聞いてきた。
「そうそう、そうなんですよ。しかし、これは今に始まったことではないのですよ。この写真アルバムにある時代から音楽的な素地はあったのですよ……」

 つい話が長くなる、『ミドリ楽団物語』まで話は発展した。
「おもしろいですね、それは取り上げてみたいですね」
 彼は取材して企画を出す。ところが番組にならない企画である。今日来たのはNHKの研修生である。彼は番組制作コースにいてそろそろ研修も終わりに近づいて、具体的な計画を出さなくてはならない。それで新聞に載ったわれらのアルバムに着目をしたというわけである。

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2018年04月16日

下北沢X物語(3501)―3500ENTRYの根幹は漕ぐ・歩く―

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(一)誇っていいことがある、それは書いて、漕いで、歩いてきたことだ。頭と足とを使っての3500エントリーである。その根幹はフィールドワークにある、前は自転車だった。2006年6月24日に会として初めて出した冊子が新聞に大きく取り上げられた。その朝日新聞の見出しは「自転車でたどる下北沢文士物語」とあり、続く小見出しには「ブログで報告、冊子に」とある。写真には自転車にまたがる姿が写っている。

 ひたむきに走っていた、その頃は自転車で地球何周したとか話していた。足で学んだことは大きい、隈無いほどに走り回った。足の筋肉が記憶したことは国分寺崖線の斜度である。多摩川から家に帰ってくるときにここを登り切ることの辛さがあった。このことによって足が地形を覚えこんだ。荏原一帯で地理的要件で大事なことは沢と丘である。自転車で登って降りてを繰り返しているうちに土地の形状を知った。このことから丘の形状を代田半島、大岡山半島と呼ぶようになった。言い始めは自分である。

 3500エントリーは自分には壮大な物語である、成長や気づきのドラマだったということだ。これもフィールドワークによることが大きい。自転車で梅丘を通りかかったとき宇田川家の大欅の剪定に行き会った。「昔はこの枝を大森の漁民が買いにきていた」と主人から教わった。数年後、「稲毛道が箒で掃いたように綺麗になっていた」との記述を目にした。二重の驚きがあった、一つは、何と荷車からはみ出た欅の枝が箒の役割を果たしていた。それは海苔ヒビに使う欅の枝であったのだ、もう一つは、稲毛道は背尾根道、古道であって海に向かい、そして品川宿に向かうものだった。
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 記事を書き重ねるうちに自分自身が学んでいた。前に書いたことが後になって別のことに結びつく。その連続だった。実は、このブログのタイトル前は、「浮遊的物語世界的日記」であった。最初、ブログとは何かよく分からないうちに始めた、このことがブログ名に端的に表れている、気分は浮遊的、漂泊的なものであった。

 念のためと思って、「浮遊的物語世界的日記」を検索してみる。すると一例がひっかかった。「森茉莉の名残を偲ぶなら今のうちか? 浮遊的物語世界的日記 という、下北沢を話題にした blogに森茉莉の話題が時々出てくる」とある。ブログからの引例が一つあって、「浮遊的物語世界的日記」が生きながらえていた。

 現在は、「東京荏原都市物語資料館」である、訳も分からずに始めたことがエントリーの回数を重ねることで次第にテーマがはっきりとしてきた。自分自身は旧郡の荏原地域一帯を漕ぎ、そして歩き回っていたのである。

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2018年04月15日

下北沢X物語(3500)―3500ENTRYから生まれた著作群―

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(一)日々をどう生きるか、大きな課題だ、今朝の朝刊の声欄に「本当の人生 定年後に始まる」とあった。そう第二の人生をどう送るか?自らが考えるべき問題だ、日々歩いているが瞬間に行き違った夫婦の会話、「お父さん、日に十時間もテレビ見ちゃだめよ!」、これには「……」相手は無言。することもなく日長テレビを観て過ごすというのもあるだろう。こういうのもあった、「退職以来プラモに凝ってね」と言う彼、倉庫の中はその完成品がぎっしりと並べてあった。与えられた人生をどう生きるか。私の場合は十三年間、ひたすらに書いてきた。当ブログである、ひたむきに書いて書いて書きまくって、今日で3500エントリーとなる。

 そういえば、一千エントリーに達したとき、取材があった。ネット上の「下北沢経済新聞」である。検索で調べると記事は消えずに残っていた。掲載は、2008年4月25日である。タイトルは、

下北沢近辺の地理と歴史を探るブログ、3年半で1千エントリー突破


 「日本鉄道詩紀行」(集英社新書)、「広島にチンチン電車の鐘が鳴る」(汐文社)などの著書を持つ児童文学作家のきむらけんさんが下北沢周辺の都市文化や近代文学について調査した結果などを書きつづったブログ「東京荏原都市物語資料館」のエントリー数が、このほど1,000件を突破した。 

 記事掲載から十年、記事はもう2500を超えている。日々書くことが日常で、エントリー番号は機械的につけている。が、3500ともなると感慨深い。人生は日々明日へと繋がる、「月日は百代の過客」という有名な言葉があるが、「ネット記事も白代の過客」である、当方が放った記事は、ネット空間で永遠の旅に就いている。

 3500エントリーという数は数値としてイメージできるが、個々の記事はどのような旅を続けているのか?長い帯のようになっていてネット空間にさまよっている。尻尾あたりは消えてなくなっているのではないか。

 自分の部屋には段ボール三、四箱分の資料がある。ただ積み上げているだけで、「ああ、あれはどこへ行った?」というときに探してはみる。途方もない作業だ、こんなときは検索する。「東京荏原」と入れ、そして関連の「〇〇」を入れると大概は、引っ掛かる。尻尾部分も消えずにネット空間をさまよっている。

 ネットでは、見知らぬ誰かがたまたま検索で引っかけることがある、ときにその人がコメント寄せてくるときもある。印象深い逸話は幾つもある。

 今、ふと思い起こしたことがあって「仰徳集」、「糸賀」と入れてみた、たちまちに記事が引っ掛かった。「下北沢X物語(1374)〜丘影の若き貴公子の物語2〜」である。ここに「仰徳集」から引用した短歌を載せていた。

品川にうちゑませせつヽたちましヽ温顔すでに拝むよしなし 陸軍大尉 糸賀公一

品川駅を発って行かれる若き貴公子、白川宮永久王を駅で送ったときの心を詠んだものだ。王はモンゴルで不慮の航空機事故に遭い亡くなった。「仰徳集」はその死を悼む歌集だ。この糸賀公一さんの息子さんが偶然当ブログを見つけられた。その糸賀公三からこんなコメントがあった。

 昨日この記事をコピーして父に会って来ました。大変喜び、こうして情報を提供していただきました皆様に、くれぐれもお礼をと言うことで、再度ご連絡を致しました。
 さすがに高齢ですので(98歳)自分の詠んだ歌の文言までは憶えていないようでしたが、品川の宮邸に何度かお邪魔した事、また運動会があった事など思い出したようです。
 蒙彊の地でご逝去された時には父は、東京から出張のおり現地に伺ったと、話して居りました。また宮様は演習中に自国の飛行機に突っ込まれて亡くなられ、宮様の父君、祖父君もいずれも不慮の死に遭われていたので、宮様自身日ごろから、注意されていたにもかかわらず、あのような事になってしまって、あの無念さは忘れられないと言って涙ぐんでいました。
 日ごろは単調な療養生活ですが、父はこの記事は何度も私に読んでくれるように要求し、昨日は思いがけず充実した日となった事でしょう。ありがとうございました。


 全国のひそかなところで、ひそかに記事を読み、涙ぐんだという人もいる。続きを読む

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2018年04月13日

下北沢X物語(3499)―多摩川の土手での対話―

DSCN0102(一)戦争四部作を書き上げて、ようやくライフワークに着手した。これまた壮大な文化論である。テーマは旅だ、近代の旅における律動をテーマとしたものだ。言えば音の文学論である。明治期に鉄道が出現し、機械音が時を刻み始めた。律動はリズムである、一定の間隔をおいて刻まれるこれは人の記憶に残った。意外なことにこれが文学テクストに記録されている。順次これを追っていくと新たな観点の文学史が開けてくる、その可能性にチャレンジをしようと考えている。

 日々私は旅をしている。徒による逍遙だ、前は多摩川へは自転車でよく行っていた。が、この自転車はすっぱりと捨てた。駐輪や手入れや故障の心配から解放された。歩きは何といっても健康によい。

 自宅からは南へ向かう。すると多摩川左岸の国分寺崖線に行き着く。これに沿っていく、この背尾根にはずらりと古墳が並んでいる。東急多摩川駅からは河川敷を南下する。すると多摩川を渡る新幹線が見られる。歩いていく十数分の間、上り下りがひっきりなしに通る。それも十六両編成だ。
「そんな急いでどこへいくのだろう?」
 
新幹線を目で送りながら古代の旅を思う。『伊勢物語』の「東下り」だ、都を発った男は、「行き行きて駿河の国にいたりぬ」。歳を重ねて歩きの味を知った今、「行き行く」という言葉の意味深さが分かるようになった。「野を越え山を越え歩きに歩きを重ねてとうとう駿河の国に辿りついたことよ」という意である。

 一歩一歩のストロークに深みがある、峠の頂では一息つき、山水を飲み、彼方の山並みに目を遣る、そのときに人生とは何ぞやと思いもする。この歩く過程にこそ味わいがあったのだ。
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 が、今我らの旅は待つことが中心だ。目的地に着くのを待つ、座席に縛り付けられて身動きできないままに旅をする。退屈である。が、東下りの旅では、「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく、すずろなるめを見ることと思ふ」、何が現れるか分からない、不安で不安で仕方が無い。そんなところにとふと一人の修行者に行き会ってホッとする。

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2018年04月12日

下北沢X物語(3498)―看板から町を紐解く―

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(一)当地には多くの文士が住まった。詩人、俳人、歌人、小説家などだ。その彼らの作品にまちの情景が描かれる。これまでは文字を通して町並みや通りを想像するだけだった。が、歌人が詠んだ町の情景がつぶさにカラー写真で眺められる。もちろんDr.オースティン写真である。これによって作品が詠まれたり、書かれたりした当時の町並みを目で確かめられるようになった。

 下北沢在住の歌人堀内通孝は、戦後のまちの様子を七首の歌に詠んでいる。そのタイトルは「下北沢」である。

戦ひの火に遇はざりしこの区画冬靄やさしき高きにみれば
「風物歌集」(財団法人 都市計画協会発行 昭和二十八年)


 詠まれた年月は昭和二十五年二月である。Austinによって撮られた写真とは同時期である。今回発行したもののタイトルを『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』とした。やはり大事なポイントは「戦ひの火に遭はざりしこの区画」、つまり焼け遺った下北沢である。

 堀内通孝は近くの丘から町を眺めた。彼の家は高みにあった。冬靄に包まれた町がぼぉっと沢の底に浮かんで見えたのだろう。戦火に遭わなかったことの安堵感がしみじみとこれからは感じられる。

 この町が焼け遺ったことが当地の命運を決定づけた。なぜ狙われなかったのか。空襲があったのは昭和二十年五月二十四日、二十五日だ。B29重爆撃機は恐ろしいほどの数が飛来してきた。計画は綿密だ、一機一機に目標地点が割り当てられていた。いわゆる絨毯爆撃作戦だ。が、最初から外されている地区があった。Dr.オースティンが住んでいた渋谷大山地区である。代々木練兵場、後のワシントンハイツから近いこと、また邸宅街であったことから投下場所から除外された。米軍は終戦を考えていた。駐留は代々木練兵場だ、とするならば将校の宿舎が必要だ、代々木大山町はここの邸宅が当てにされていた。大山は下北沢の西北に当たる。この下北沢の位置も焼けなかったことに関係する。季節は五月だ、風は南から吹いている。

 B29の高度は3000メートルほどだったという。上空に来て焼夷弾を落としはしない。高度一万メートルで飛来してきたときは立川辺りで投下すると聞いたことがある。西から飛来してきて多摩川を過ぎて投下したのではないか?が、ノルデン式爆撃照準機は下北沢の東北は抜かしていた。誤爆の恐れがあったことから下北沢も偶然抜かされたのではないか、これは想像だ。しかし、結果的に焼けなかった。

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2018年04月10日

下北沢X物語(3497)―アルバムが町の文学史を紐解く―

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(一)Dr.オースティン写真には看板に焦点を当てて撮られたものがある。店の二階部分にずらりと並んだ広告。どれも目立つように大きく文字が書かれている。特異な景観だ、ちょうどこの前には小田急線の線路がある。電車の窓から見えるようにと設置されたのだろう。競って店名を売り込んでいる、こういう活況が南口に人を呼び込んだのだろうか。

 南口で店を出すのは当初はためらわれたらしい。「砂場」のお上さん、住む部屋は近くに借りて、とりあえず店舗を出して営業をしてみる、そんなことをしていたらしい。北と比べて人通りは閑散としていたようだ。

 渡辺順三はここに古本屋を出した。開店したのは昭和十三年四月だった。商売人としては「私は、全くの素人なので、どのくらい売れるものか見当もつかなかった」。この彼はプロレタリアが多く集まっていた豪徳寺からやってきた。

 その頃は貸家などはいくらでもあった。私は妻と二人であちこちを見て歩いて、結局下北沢駅南口通りに新築の二階屋で、間口二間の店舗になっている家を借りることにした。たしか家賃が二十五円で、敷金が百円だった。『烈風の中を』 東邦出版社 昭和46年

 友人の助けを借りて手作りをした店だ。彼の知人は横浜の寺の坊さんだった。こんな申し出をしている。

「うちの寺の縁の下に、墓標の古いのがたくさんあります。五六寸角からもっと太いものもあるから、これを挽き割って店の本棚をつくったらどうです。材料はたいてい檜で、何年も風雨にさらされたものですから絶対に狂いません」(同上)

 大地堂は密かに人気のあった店だ。懸命に本を探すと掘り出しものもあった。とある人がこんなことを書いている。

一九四四年の秋、駅に近い古書店「大地堂」に、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』(改造文庫版)がひっそりとおかれていたなどといっても、信用するだろうか。あとで知ったのだが、古書店の主人は「プロレタリア歌人」の渡辺順三氏であった。
        「東京セレクション」花の巻 住まいの図書館出版局


 ある人と書いたが、井上光晴である。 
 かつて松林宗恵監督に下北沢を案内してもらったことがある。この大地堂跡も回った。
「ここの通りはよく通っていた、店を覗くと三好達治がいて何度も見かけた」
 彼には憧れの詩人だったらしい。

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2018年04月09日

下北沢X物語(3496)―まちの南と北の比較考察―

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(一)下北沢のまちを写したDr.Austin写真は、細部までくっきりと写っている。70年前の過去がリアルに想像される。これらの写真は大まかに言えば二つに大別される。北、本通り商店街と南、南口通り商店街とに分けられる。この両者の風景には微妙に佇まいや風情に差異がある。それはこのまちの形成と発展に関連しているようだ。

 この写真の中で最も気に入っているのは本通りの道のカーブを捉えた一枚だ(写真番号4)。すずらん通りとも称されたここには凝った造りの街灯が設置されている。鈴蘭を模したものだ。道としてのステータスがある、それは本通りである。二子道と堀之内道とを繋ぐ古道である。
「昔はね、ここを堀之内さんへ向かうお会式の賑やかな行列が練り歩いて通ったのですよ。二階の雨戸を開けて見るのですけどね、北風がピュウピュウ吹いて寒かったけど、今は十月でも暑いくらいだわね」
 下北沢一番街の大月菓子店の娘さんから聞いた話だ。

「ヒットラー・ユーゲントが店員道場に向かったときこの本通りを行進していったんだ。通り沿いに万国旗が飾られていたよ」
 これも一番街の秋元金物店の秋元さんから聞いた話だ。

 小田急開通によってまちが急速に発展する、この一番街が一番賑やかだった。通りの店舗は昭和二年に多くは建てられている。そこはかとなくカーブしていく道に沿って建てらている。これには街道筋的な趣がある。町並みの佇まいは古色を帯びている。

 残念なことに一番街の中心にあった大月菓子店は閉じてしまった。折々に立ち寄っては話を聞いた。大月文子おばあちゃんの紹介でどれだけここで多くの人に会ったか?まさに北の文化ステーションだった。
 そういえばつい先日、アルバムのことで南口のお店に立ち寄った。ところが主人はお客さんとの対応で忙しくしていて話を聞くのが憚られたほどだ。人通りということで言えば北と南とでは今はだいぶ違う。

「もうね生鮮三品を売る店がなくなっていくのよ」
 おばあちゃんは閉店前から嘆いていた。かつては生活に密着したお店が多くあった。大月菓子店の前には製麺屋さんがあって玉うどんを売っていた。それがドーナツ店に変わり、今はブティックとなっている。変化が激しい。やはりここでも個人商店がつぎつぎになくなっていく。
「昔は賑やかで、巣鴨と武蔵小山とこことで合同運動会をやっていたこともあるんだ」
 会うといつもまちの歴史を話してくれたのは今井兼介さんだ。彼からたくさんの話を聞いた。ご病気なのかこのところずっと会っていない。
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2018年04月07日

下北沢X物語(3495)―下北沢「砂場」のお上さんの証言―

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(一)Dr.オースティン写真を見るにつけ一通の手紙を思い起こす。昭和二十一年一月六日に北沢一丁目から友に出されたものだ。小学六年生の立川裕子さんは戦争の敗因をここに書いている、「日本は科学が遅れていたのとあまり日本の人がゆだんしていたからだと思ひました」と。的確な大戦批評である。まず一つ、科学技術力を過信していたが内実を伴っていなかった。つぎに油断だ、精神力で戦えば相手はイチコロだとの甚だしい錯誤があった。

 結果としてはボロクソに負けた。昭和二十年三月十日の山の手大空襲、そして、五月二十四・二十五日の山手大空襲、これによって首都は廃墟と化した。が、軍部は降参しない。徹底抗戦を叫んで、ついには八月六日広島に、九日に長崎に原爆が投下される。国民の多くを無駄死にさせた。二度と戦争を起こさないようにあの大戦は総括すべきだがそれはしない。我が国は戦争責任を問わない、問題があってもそれを徹底追及することなく曖昧なままにしてしまう。そういう国家的な体質は今も変わりがないのではないか。

 ドクターオーステン写真を見るにつけ「科学が遅れていた」ことを実感する。技術力ではアメリカが遙かに日本をしのいでいた。
 昭和二十年四月二十四日、代田西の丸荘に住んでいた一色次郎は近くの根津山に行ってB29の飛来する様を見ていて震撼とする。「今夜はいったいどういうことなのだろうか。私は胸の奥がしんとつめたくなった。敵はどうしてこんなにもたくさんの飛行機を飛ばすのだろう。私は首をかしげないではいられなかった」(『東京空襲』)上空を巨大重爆撃機が空を占め、これでもかこれでもかと飛来してきた。圧倒的な軍事力である。しかもこのB29には、給湯設備があって乗員はコーヒーか紅茶かを選べたという。

 話は飛躍する、カラーのことで経験を思い起こす。昭和四十年代だ、道玄坂上の映画館で成人映画を観たことがある。これが白黒だ、ところが濡れ場になると急にカラーになる。いびきをかいていた者も急に起き上がって真剣に画面を見つめる。男はカラーで目覚める!これをパートカラーと言った。昭和四十年代においても我々は貧相だった。

 昭和二十三年に代沢小「ミドリ楽団」は横浜のオクタゴン劇場に米兵の慰問に行く。映画と演奏とがセットだった。団員は、劇場でこの映画を観た。「イースター・パレード」である。ジュディ・ガーランドとフレッド・アステアが主演である。美男美女が歌い踊る、カラー映画である。この映画を観て団員は度肝を抜かれた。

 そういえば「総天然色」という言葉があった。我々は遅くまで白黒で、あちらは早くからカラーであった。
「これって着色じゃないですか?」
 Dr.オースティン写真アルバムを配っているとよく聞かれる。
「いえ、違いますよ」
 今という時代になってアメリカの技術力に驚いていた。
「へぇ、そうなんだ」と。

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2018年04月06日

下北沢X物語(3494)―オースティン写真が歴史を掘り起こす―

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(一)文化とは耕すことだ。改版を重ねてきた我らの文化地図はその鍬の役割を果たしている。この七版に加わったのが今回発行した『焼け遺ったまち 下北沢戦後アルバム』である。古写真がカラーであることは大きい、人の記憶を刺激する。色が過去を耕し始めた。記録されていないまちの微細な歴史だ。

 例えば耕しの一端だ、「電柱的風景論」、写真を発端にして、こういう観点があることに気づかされた。Dr.オースティンが撮った写真は70年も前のものだ、町並みがすっかり変わっている。ところが、「電柱の位置はほとんど変わりがない」と教えてくれたのが元東電マンの石川寿男さん、九十歳である。
 彼の話から昔のことが分かってきた。当地一帯は、電力各社が入り乱れて家々に電気を供給していた。
「それはな、電柱装柱が違うんだよ」
 初めて聞く言葉だ、つまり、会社によって電柱の建て方や張り方、また部品などが違っていた。この差異が目で見て分かったということだ。
「供給先として東京電灯はなかった。でもな東京市電はあった」
 下北沢一帯に電気を供給していた会社の名である。石川さんの証言に基づきこれをアルバムに記録していた。私は、「東京電灯、玉川電気、京王帝都」と書いた。その間違いを彼は指摘していた。
 玉川電気鉄道が北沢地域に電気を供給していたことは古老、三十尾生彦さんから聞き知った。北沢の彼の家は玉川電気の出張所だったという。昭和の初め頃の話だ。

 玉電は何時まであったのか?調べると昭和13年3月10日 に玉川電気鉄道と東京横浜電鉄は合併していた。現、東急の傘下に入った。
 恐らくは玉川電気鉄道の電気供給事業はそのまま引き継がれていたことから、合併して後も呼び名をそのまま使っていたのだろう。

 東京の電気供給事情について調べると論考があった。「東京の電気事業と電源開発」
(「地学雑誌」西野 寿章 123 巻 2014年 2 号)

 東京市の旧市域では東京電灯と東京市,新市域の北部では東京電灯と王子電気軌道,南部では東京電灯と東京市および目黒蒲田電気鉄道,西部では東京電灯と京王電気軌道,東京電灯と東京市,東京横浜電鉄,目黒蒲田電気鉄道,京王電気軌道が重複して供給地域を獲得していた。

当荏原地域は「南部」や「西部」に当たる。東京電灯は桂川電力から駒沢線を受け継いでいる。荏原地域を南北に貫いている送電線を所持していることから当地域に電気を供給していたようだ。論考によると他、京王電気、東京市電、東京横浜電鉄もあった。まさに各会社が入り乱れていた。

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2018年04月04日

下北沢X物語(3493)―流転する時間と文化地図―

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(一)人々はその地域に生き、歳を重ね、やがて老いてゆく。人、一人一人には思い出がある。お気に入りのお店、街角、樹木、が、人々の記憶にある町並みも時とともに変転する。改変に改変を重ねてきた文化地図はその片鱗を記録してきた。あの時はあの人が、そしてこの人も生きていた。それも時を経ると現世という舞台から退場する。文化地図はそういう人が残した遺産でもある。

 地図上に記された小さな痕跡、下北沢駅北口には「珈琲店マコト」跡とある。松林宗恵監督の証言を得て加えたものだ。東宝の映画監督が撮影終了後にここに来て一杯の珈琲を飲み、仕事の疲れを取った。監督同士はカメラワーク、風景情報などを交わしたという。映画論も盛んだった。
「ここの沢というのは擂り鉢だ、だから坂上から人は下ってくる、その場合は若い女がいい。上手の邸宅からべっぴんの女中が下りてきて、その女中同士がここの市場で出会う。そして互いの家の内情を話題にする、人間だれでも覗き趣味はある、映画はそれを満足させるものでもある……」
「大当り三色娘」は下北沢駅前市場から始まる。この映画は杉江敏男監督によって撮られている。マコトでの映画論がヒントになったのではないか。この映画東宝初のシネマスコープ作品である。ニュース映画が終わると、ジィジィジィと音がしてスクリーンが広くなってゆく。すると拍手が湧き起こる。

 「文士町文化地図」は零版も加えると八版目だ。この間、十数年が経つ。あの証言、この証言、聞いた人々は亡くなった。

「今庭に綺麗な鳥が飛んできて枝に留まった、その瞬間にハッとしたろう。これだ、ここを文学に書き表すんだ」
 森栄晃映画プロジューサーは横光邸での一場面を証言された。彼は雨過山房で開かれる水曜会に通っていた。そのときの一端を語ったものだ。もうその彼も亡くなられた。
 下北沢一番街を大原方向かひょこひょこと下りてくる姿が今に浮かぶ、彼は東北沢四号踏切側にあるフィットネスクラブに通っていた。その彼を大月菓子店のおばちゃんがとっ捕まえて私に引き合わせてくれた。
 この大月文子おばあちゃんの功績も大きい。長い時間が掛かって下北沢の萩原朔太郎旧居をみつけてきてくれた。
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 このところ新聞やテレビ、メディアからの取材を受けることが多い。
 『焼け遺ったまち下北沢戦後アルバム』では私は04を推奨している。それは下北沢一番街を撮った写真だ。ここに萩原朔太郎が居住していた。当時そのままだ。路傍からひょいと詩人が出てきそうな予感がするくらいだ。しかし、この間会ったテレビデレクターは大詩人のことを知らなかった。
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2018年04月03日

下北沢X物語(3492)―地図配りは最高の文化活動だ―

DSCN0091(一)毎年花の季節に地図配りをしている。改版を重ねての文化地図七版とそして今回は別冊『焼け遺ったまち下北沢戦後アルバム』を配った。地図における累積情報と原色写真とによる発信は人々に多くの衝撃を与えた。効果としてはまちの歴史認識が深まった。配布だけでなく、新聞やテレビに取り上げられることによって全国にも発信が伝わった。

 我々は文化活動を長年行ってきた。昨日、新聞社から電話があって文士町地図の作成は何時から始めたのかとの問い合わせがあった。
「2006年5月31日に会では『北沢川文学の小路物語』を発行していて、この表紙の裏側が文士町地図の原型です。ですからこれが0版です、これを受けついで今は改訂7版となっています。だから13年前からということになりますね」
 当初は、版を重ねることは考えていなかった。ところが地図を作って配ると新たな情報が集まる。このことから新しく得た情報をつぎつぎに加えるようになった。それで今日に続いている。

 文化とは何か、地図の改版を重ねて今にあるということから、我らの文化活動が何かといことが分かってきた。

 つまり、文化とは土地固有のにおいを調べて記録し、これを時間を掛けて育てることだったと言える。文化活動について大切なことは伝承である。地図を配って人々に近隣にダイダラボッチの足跡があったこと、また、飯塚嘉穂学寮が存在していたことを知らせる。後者などはもうすっかり忘れ掛けている。が、九州飯塚は産炭地としてかつては羽振りがよかった。東京に寮を作って、飯塚出身の学生をサポートしていた。いずれ石炭はなくなる、ゆえに人的資源を育てようということで将来の投資としてここを建てたものだ。
 この学寮で青春時代を送った人が、在寮時代のことを思い出とともに書いている。下北沢オデオン座映画館で洋画をみて美しい女性に恋い焦がれたと。
「だけど、ああ可愛子ちゃんと胸を焦がしているとトイレが臭ってくるんだよなぁ」

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 似たような例でいえば代田六丁目に「七島学生寮」と地図に記してある。伊豆七島からきた東京遊学組が生活していた寮である。丘に上がった島の学生、ここにも多くの物語があった。鉄道交点寮物語は数限りない。

 地図は配るだけではない、地図を通して見知らぬ人とふれ合う。これが面白いし、楽しい、文化とは自分が参加して楽しむことである。ささいなことが何かに繋がることもある。この地図一本一本の糸の集積である。
 今回、とある飛行機の航跡を確固たるものとして認識できた。これも成果だ。
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2018年04月01日

下北沢X物語(3491)―Dr.AustinアルバムへのTV取材―

DSCN0085(一)『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』への反響は大きい、「Thank you for your
photo! How exciting that the brochure is done!」、「写真を送ってくださってありがとう。このアルバムがどれほど私を興奮させるものか!」、アメリカのAnnika Culver博士からきむらたかしさんに送られてきたメッセージだ。当の日本でも、また海外でも評判である。昨日、テレビの取材があってこれに同行した。まず女性レポターが我らのアルバムを手に持ち、撮影箇所を巡った。土曜日とあってどこもここも混雑していた。が、七十年前に撮られた箇所は今も栄えて流行っているということだ。

 我ら会の出番は最後だ、南口砂場のところで人々が行列を作っている、これについてきむらたかしさんが食料配給で人々が並んでいるとの説明をする。そして最後に、こちらにカメラが向けられる。テレビ撮影は時間が掛かる、が、本番での放送時間は短い。レポーターの歩いての検証でだいぶ時間を取っているので簡単に答えようと思っていた。ところがレポーターが突っ込んできて、また、デレクターからも注文が出される。自身、熱くなる性分だ。ふと気づくと燃えていた。

「どうしてこれを作ろうと思ったのですか?」
「このアルバム、『焼け遺ったまち』としてあります。この言葉は大事ですね、戦禍に遭わなかった町で戦前の町並みがそっくり残っています。その往時の空気感や雰囲気が驚くほど鮮明に撮られています。歴史的にも貴重なものでぜひこれをアルバムにしたいと思いました……」

「このアルバムをどんな人に伝えたいと思いますか?」
「よく聞いてくださいました。実はこのアルバム、『下北沢文士町文化地図』の別冊となっています。地図とアルバムとで伝えようとしていることがあります。普通一般には文士が多く集まるところを村と呼びます、が、私たちは町としてきました。恐らく全国にはこういう町はないと思います。(一般的には人が呼びかけたり、誘ったりしてムラはできますが)ここは人ではなくクロスする鉄道が彼らを集めたのです。萩原朔太郎、三好達治、横光利一などは当地が終焉の地ですね、ほかにも詩人、歌人、俳人、小説家などが驚くほど多く住んでいました。そういうことは全国的にも知られていないことです……実は、今回作成したアルバムは世田谷区の助成を受けています。この事業のタイトルが『文士町を全国に発信する』となっています……」
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「下北沢は若い人が多いですが、どんなことを伝えたいですか?」
「まちというのは上っ面だけを見てもあまり面白くはありません。まちの裏に隠されている歴史とか文化を知ることでまちが面白くなります……ここのことで言えば、詩人の吉増剛造が『下北沢には至るところに次元の穴が開いている』と言っています。当地に萩原作郎が住んでいたことが大きく影響しています。面白いではありませんか、オースティンさんの写真を見ていくと陰翳の深いまちだということが分かります。路地の、建物の陰にぽっかりと穴があいている、次元の穴です……」
 マイクに向かって出たとこ勝負で話しているのでこんなにまとまってはいない。
「長くお話していただきましたけど、放送するのはどのくらになりますか」
 デレクターは親指と人指し指を縮めて見せる。大半はカットされているのではないか。

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