2018年08月
2018年08月30日
下北沢X物語(3591)―近代戦争史を解き明かす一片の布−

(一)現今の平和とは平均的なのか?
「武剋隊の今西軍曹からもらったお歌は黄色い布に書いてあります。満州国皇帝溥儀から戴いたものだとおっしゃっていました」と立川裕子さんは言った。鉛筆部隊の一人は渋谷の日赤入院していた。お見舞いに行って聞かされた言葉だ。この説明に面食らってしまった。武剋隊の隊員がなぜ満州国皇帝からもらった布を持っているのか、さっぱりわからなかった。が、これの意味が次第に分かってくる。まず松本にやってきた特攻二隊は満州新京で発足していた。昭和20年2月10日、当地で他の二隊とともに編成された。このときに満州国皇帝溥儀に拝謁し、恩賜の煙草を戴いている。これを包んであったのが絹でできた黄色の布だ。一隊十五人編成、六十人が戴いた。そのうち二隊、三十枚が戦闘機とともに松本に飛んできた。満州国皇帝は特攻隊と距離を置かなかった。が、天皇は距離を置いた。日本では特攻隊が天皇に拝謁することは全くなかった。
この間の鉛筆部隊同窓会での田中幸子さんの話だ。
「今西さんは、私と立川さんに黄色の布にお歌を書いてくださました。私は、戦後になってその布と時枝宏軍曹からもらった木彫りの鳥を燃やしてしまったのです。大変申し訳ないことをしました。」
彼女の家は今の北沢タウンホールのすぐ近く、あづま通りに面してあった。
布に関しての新しい情報だ。これは山本さんの奥さん。
「先生、この間知覧特攻平和会館に行ったときに長谷部良平さんの遺墨が飾ってあって、それがやはりあの黄色の布に書かれているのですよ。軸装されていましたよ」
つぎのように書いてあったそうだ。
武揚 必中必沈 陸軍特別攻撃隊 武揚飛行隊
長谷部良平
松本陸軍飛行場を発った武揚隊は一旦、各務原に立ち寄った。ところが彼の乗機、九九式襲撃機はエンジンが不調だった。それで彼は残った。家が近いところから彼は故郷に帰った。そのときに黄色の布に決意を書き認めたものだろう。
取り残された彼は、単機で知覧に辿り着いた。誠第31飛行隊に属していた彼は、呼称を第31飛行隊と変えて一機で4月22日に出撃している。
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2018年08月29日
下北沢X物語(3590)―「鉛筆部隊」教育考―

(一)『鉛筆部隊と特攻隊』は、「ペンは剣よりも強し」を想起させる。一見、鉛筆が平和に結びつくようだがそうではない。分かってみると「鉛筆部隊」は皇民化教育の一端だったことが見えてきた。「鉛筆部隊同窓会」では、初めての試みとして懇談会を持った。いつもは夕刻の会食に集まったときにこれを行っていた。今回は記録用のカメラが入ることから敢えてこの会を設けた。全員が関係者だ、現役の鉛筆部隊隊員もいる。しらふで語ったことはよい結果を生んだ。記録者側からは「目の湯で皆様方のお話を伺い、改めてこの史実と先生方の活動を広く知ってほしいと思いました」との反応があった。戦時中、偶然、疎開してきた学童と特攻兵とがふれ合った。それがどんな意味を持ったか?彼らの死は何だったのか?鉛筆部隊にはどんな意味があったのか?など議論が弾み、一時間の予定が大幅に延びた。物語の発端は2008年、それから10年が経過した。月日が経って現象を俯瞰できるようになったと思った。
「鉛筆部隊」という四文字は人の記憶にインパクトを与えるものだ。矢花克己さんは山梨県護国神社の骨董市で古手紙を購入した。郵趣品としての興味からだ。ところがその手紙には「鉛筆部隊」という判子が捺してある。
「不思議ですよね、何枚も捺してあるんですよ。『鉛筆部隊』なんて聞いたこともありませんしね、それでネット検索にかけたらたちまちに一つのブログに行き着いたのですよ」

自身が担当することになった疎開学寮の一つのグループを「鉛筆部隊」と名付けたのは代沢国民学校教諭の柳内達雄先生だ。彼は、早くから綴方教育に熱心であった。
戦時中の昭和17年、「鉛筆部隊 : 少国民の愛国詩と愛国綴り方」(百田宗治)がある。百田は綴り方では先導的な役割を果たしていたことから、「鉛筆部隊」は、百田の著作からとったものと考えてよい。
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2018年08月27日
下北沢X物語(3589)―2018年「鉛筆部隊同窓会」―

(一)鉛筆部隊は何だったのか?�\鐐荵砲魴,蟲�こした−陸軍松本飛行場が大戦末期において沖縄攻撃の重要な後方拠点基地であったこと。�▲優奪箸鯆未靴橡笋發譴討い浸駑舛�多数見つかったこと。−立川裕子手紙資料・高山宝子資料・日比野貴和子資料・菱沼俊雄手記(ウィキペディア鉛筆部隊参照)��人と人とのネットワークが構築されたこと(鉛筆部隊同窓会が毎年開かれている)�な顕修�生まれている。「ラジオ深夜便」、「奇跡体験アンビリバボー」での紹介、Opera「鉛筆部隊と特攻隊」が生まれ、来月9月16日に下北沢のカトリック世田谷教会で実験公演が行われる。現在某局がこれをドキュメンタリーで追っている。
(二)
毎年行っている「鉛筆部隊」同窓会を25日、浅間温泉「目の湯」で開いた。東京から神奈川から、山梨から、果ては四国小松島から、そして長野県内からも集まってきた。
今回は初めて、「鉛筆部隊懇談会」を行った。いつもは会食の席で顔を合わせて皆で久闊を叙していた。矢花克己さんの調べでは2012年から集まりは始まり、今回ので10回目になるという。回数を重ねると振り返りができる。参加されたのは何らかの形で「鉛筆部隊」に関わっている人だ。その発言が記録となるものだ。「鉛筆部隊」のドキュメンタリーを追っているカメラも今回は入った。
25日に参加された人。
・矢花克己さん:奇跡体験アンビリバボーの冒頭場面で有名になった人。山梨県護國神社の骨董市で「鉛筆部隊」の判子を捺された手紙を購入する人として出てくる。本物の矢花さんか?との質問が多くあったと聞く。鉛筆部隊の存在がこの判子によって明らかになる。
・丸山修さん:高山宝子さんの資料の存在を当方に知らせてこられた安曇野市在住の人だ。武揚隊が浅間温泉に滞在していたことを明かす一時資料となった。
・田中幸子さん:鉛筆部隊の田中幸子さんでもうよく知られている。彼女がいつも幹事役を引き受けてくれている。
・鹿子木真理子さん:鉛筆部隊の鹿子木幹夫さんの奥さんである。
・高田さんご夫妻、ご主人は「僕のお嫁さんになってね」という「鉛筆部隊と特攻隊」をもとに絵本を去年出された。
・山本さんご夫妻:と号第三十一飛行隊(武揚隊)の隊長の甥御さんが富繁さんだ。「鉛筆部隊」が発端となって家の蔵に眠っていた資料が私のところに届けられた。
・小林梅恵さん:武剋隊が泊まっていた千代の湯旅館の元女将。
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2018年08月26日
下北沢X物語(3588)―ラグーザお玉の汽車遭遇衝撃2―

(一)
私達は、すべてを忘れてしまう、かつてはいたるところに音があった。典型例はゲタだ。温泉地などでは地元民はうるさいと感じていたようだ。が、ゲタの音で曜日が分かった。土曜日はゆっくりで、日曜日はせわしい。帰らねばならないからだろう。「やっとん、こらせー」というかけ声を覚えているだろうか。線路工手の歌だ、鉄道線路では必ず聞かれた。協働するために歌は欠かせない。歌が響いて心意気が合うと仕事がはかどる。が、これも今は機械が線路の補正修理を行う。歌は死滅した。「がったん、ごっとん」というのは車輪がレールの継ぎ目を刻む音だ。カダンスという、乗客はこれを聞いて旅をした。汽車旅の音合いだ、これが喜怒哀楽を刻んでいた。「日本鉄道文学音紀行」の中心となる核だ、が、カダンスも今は消えた、ロングレール化によってあの歌は消えてしまった。いわば鉄道音楽だ、この喪失によって我らは「こぅくくっく」という味のない新幹線走行音を聞かされるようになった。
ラグーザお玉は幼い頃に経験した汽車遭遇経験を持っていた。これを求めて「ラグーザお玉 自叙伝」を点検した。が、残念ながらこれにはなかった。そんなはずはない、改めて図書検索をする。すると「ラグーザ・玉 女流洋画家第一号の生涯」が見つかった。これならばあるだろう、これも借りて点検した、が、求めていたお玉汽車遭遇記述はなかった。絵と汽車とは縁がないようだ。ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーとは違う。この彼の絵「雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道」は素晴らしい。霧の中から現れる汽車出現は見事だ。
困ったときは、きむらたかしさん、我々の中の合いことばだ。そのたかしさんに「困った」とメールを送ったところ、すぐに返事がきた。
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2018年08月24日
下北沢X物語(3587)―ラグーザお玉の汽車遭遇衝撃―

古代の旅は遙かだった。例えば、平安時代の旅だ、『伊勢物語』の「東下り」である。都を発った男は新天地を求めて東国へと向かう。そして、「行き行きて、駿河の国にいたりぬ」、今の静岡県にたどりつく。「行き行く」は、「道をひたすらに歩きに歩いてゆくと」という意だ、言葉に旅人の息づかいや汗が思われる。旅は辛く苦しい、一時も気を抜けない、「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく」と続く、そして「すずろなるめを見ることと思ふに修行者あひたり」、山中でばったりと一人の修行僧に出会った。人という温もりに出会って張り詰めた思いが一気に解けた。
(一)
「日本鉄道文学音紀行」の冒頭だ、明治、大正、昭和に描かれた文学作品の鉄道場面を丹念に追って調べ上げた。汽車のカダンスが時代を刻んでいたという発見を得た。壮大な文学汽車紀行を終えて冒頭に戻った。序章からの点検だ、が、「ゆるい!」と思った。まず、ここでは読者にガツンと伝わるものがなければならない、パンチがない。
古代から近代への激変は汽車によってもたらされた。徒歩行から機械へ、この転換は衝撃的なものだった。枕はこれから入って行くべきだ。大事なことは汽車と遭遇しての人々の驚きだ。
それはとんでもない変革だった。鉄道敷設は人々に驚嘆をもたらした。「時間と空間の抹殺」であった……。
まだこの方がましだ。しかし、普通の人には何を言っているのか分からない。大事なのは具体例だ。人が始めて汽車に接してどう感じ、どう思ったか。このことを調べて気づいた、日本人が外国に行って汽車に出会ったという例は多く記録がある。遣米使節団などでは複数がこれを書いている。
ところが日本の汽車が動いたときに人はどう思ったかという記録は少ない。新聞記事には開業初日の人々の反応というのはある。
(明治五年五月七日横浜品川間の仮開業が行われた)この運転では、陸蒸気見物のための沿線にむらがった人々が、はじめてみる異様な文明の利器に驚嘆の目をみはった。
「日本の鉄道」100年の話 沢和哉 築地書館 1972年
当方が知りたいのはここに書かれる「驚嘆」の具体例だ。始めて動き出した汽車に人々は驚いたという記述はいくらでもある。が、この衝撃を描いたのはあまりない。
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2018年08月23日
下北沢X物語(3586)―日本の怨念の穴ぼこ白河の関―

(一)「東北勢、越すに越せない白河の関 快進撃・金足農も『通行手形』効かず」と、どうやら白河の関にある白河神社はお守りの「通行手形」を金農に贈ったらしい。
このところの新聞の見出しに、「白河越え」が躍っていた。記事には「深紅の大優勝旗が『白河の関』を越して東北の地に降り立ったことはなく積年の悲願だ」と。待てよ、奥州への関所は、三関ではなかったか。常陸の勿来の関、羽前の念珠が関、鼠ヶ関ともいう。高校野球決勝に進んだ「金足農」は秋田県だ。こちらルートとしては鼠ヶ関に近い。「快挙、深紅の大優勝旗鼠ヶ関を越える!」でもよいが、こちらの関は全国区ではない。やはり、「白河越え」がメジャーである。今年の甲子園での高校野球観戦者は100万人を超えたという。ファンの多くは「白河越え」の意味を知っている、が、実際に行った人は少ない。白河の関は、寂しいところだ。蕎麦を頼んでも赤いプラスチックのタレ入れ、その蓋にネギが少々、こんなことは誰も知らないだろう。

しかし当関は、遺跡としては重厚である。歌枕としても有名である。当地を詠んだ短歌は恐らくは百首はあるだろう。「陸奥」は、みちの奥、遙か遠くの辺境で、その関門である、さすらい人の誰もが憧れたところだ。近代においてもさすらいの地の原点として国民にも強く意識されている。日本の近代化は峠を克服することで可能となった。典型的なのは箱根と碓氷である。が、いまだに「大深紅旗、白河越えなるか」が大きな話題となる、越すに越されぬ白河の関、ここには古代以来の怨念の穴ぼこが空いているのやも。
今回の旅で気づいたことは、「白河の関」という言葉は通行手形だと思った。東北線白坂駅から歩いた。集落から集落は遠い。家があっても人がいない。たまに畑仕事をしている地元民に出会う。一人歩きのさすらい人は警戒される。が、「白河の関はこっちでいいのですよね」と話し掛けるとたちまちに相好を崩す。「あんた、行ってもめぼしいものは何もないんだから」と笑いながら応ずる。
一人でうろうろしている者は怪しい、「詐欺か」、「物盗りか」などと想像するのだろう。が、当人が「白河の関」を目指していると知ると、安心するようだ。
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2018年08月21日
下北沢X物語(3585)―さすらい人の聖地白河の関―

(一)
白河の関へはひたすらに歩いた、行けども行けども道は湧いてくるばかり、雲もまた湧いてきて青空に遊ぶ、道の辺に虫の音がすだく、シャシュショと足音が森に響く、さすらいの旅は五感とともにある。この過程をいくことが旅であると実感される。そんなときにふと思ったのは、白河の関というのは到達点ではなくて通過点だと。能因法師が詠んだのは「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」だ。時の経過が主題だ、歩いて行く過程で春、夏の景色を眺め、辿り着いた関で秋風の冷たさを知った。彼の旅の味わいは、真白き富士をみたこと、葦の生い茂る武蔵野を通ったことだ。白河の関は過去を振り返る結節点だ。歩きに歩いて白河の関に辿り着いてみても深い感動は湧かない。きっとさすらい人の霊魂がひしめいていいるだろう。そう思っていたら「白河の関跡」という標柱の近辺には閑寂が漂っていた、そこにあるのは石柱や歌碑である。言霊は漂っているが、他に取り立ててみるべきものはない。ここがかの有名は「白河の関」、何やら肩すかしを食ったように思った。
今日21日は、高校野球の日本一を決める試合が行われる。大きな話題となっているのは「深紅の大優勝旗」が白河の関を越えるかどうかだ。
夏の全国高校野球で東北6県の悲願、優勝旗の「白河の関越え」がついにかなうのでしょうか。「白河関跡」にある白河市の白河神社では、秋田の金足農業が決勝進出を果たしたことを受けて21日の試合に向けて宮司が必勝祈願を行いました。
NHK NEWS WEB 福島
白河の関は、日本列島の北と南とを分ける境界だ。日本人が持っている境界意識と繋がる。高浜虚子は「1894年(明治27年)、三高の学科改変により碧梧桐と共に仙台の第二高等学校に転入」した。そのときの思いを「子規居士と余」という随想に記している。
汽車が白河の関を過ぎた頃から天地が何となく蕭条として、我らは左遷されるのだというような一種の淋しい心持を禁ずることが出来なかった。乗客の中うちにだんだん東音の多くなって来る事も物淋しさを増す一つの種であった。
「回想 子規・漱石」岩波文庫、岩波書店
白河の関を越えると空の色が違ってくる。また、乗客が交わす会話は東北弁になってくる。すれば都落ちの感がして寂しさが募った。
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2018年08月20日
下北沢X物語(3584)―憧憬:イタリアと白河の関―

歳を重ねてくると行きたいと思うところが無くなってくる。今行きたいところは二箇所、イタリアと白河の関だ。後者は古典文学の聖地、松尾芭蕉『奥の細道』の冒頭文は有名だ、「春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ」、関がさすらいの旅に誘った。彼の地へ強い思慕だ。多くの歌人が関のことを詠んでいる。一生に一度は行ってみたい、さすらい人の聖地だ。問題はどう行くかである、関が関であった時代は皆歩いた。自らの力で行ってその場所を確かめてこそ意味がある。車で行ってはならぬ。自身の足で辿り着いて彼の地の土を踏んでみたい。8月18日、年来の願望、白河の関行きを敢行した。が、結果は「狐につままれてしまった」

(一)
自身は今壮大な想像の旅をしている。「日本鉄道文学音紀行」である。文学作品に描かれた鉄道音響をたどる旅だ。一つ一つの作品に当たっていくうちに大きな発見があった。近代の旅における音響は人々の思念の区切っていたことだ。「日本鉄道詩紀行」(集英社新書 2002年)を上梓して以来、かれこれ16年ほど文学の襞に眠っている音を拾い上げてきた。仕上げが泉鏡花であり、内田百�里任△襦�この旅もほぼ書き終えた。総仕上げにおける鏡花は、超難関だった。中でも「銀鼎」の読みは難しかった。この作品芭蕉追慕の旅である。白河の関が山場だ、この場合は鉄道での関越えだ。文中に、
「白坂だ、白坂だ。」
という記述が出てくる。深夜汽車で寝ていた男が、ふと目覚める、「どこを走っているのか?」と同室の主人公に聞くと「二本松を越したようだ」と。旅の手練れは腑に落ちない、が、とある駅を通りかかった。それを白坂駅だと判定する。
男は、白河さえ着いていないのに二本松はあり得ないと思った。彼は神経を研ぎ澄ました。そのときに駅を通りかかった、彼は走行音で判断したように思う。「勾配・曲線の旅 日本鉄道名所2」(小学館)で勾配を確かめる。すると白坂はサミット駅だった。確実に音が変わるところだ。
この白坂駅から白河の関まで歩くことに決めていた。サミットのトンネルを潜り抜けると電車は軽快な音を立てた、思った通り下り勾配だった。カタタン、コトトンというかつてのようなカダンスは聞こえない。滑るように下ってひっそりと駅に着いた。下車したのは二三人だった。駅は無人駅だ。数軒家はあるが人がいない。
駅から国道伝いに行く。人がいたら道を聞こうと思うが、人がいない。国道188号から国道388へ、道が狭くなって歩道がない、車がすっ飛ばしていく。怖いほどだ。
途中、矢印があって標識には「東北自然歩道」とある。→白河の関跡6,3キロ。国道よりよほどよい。
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2018年08月18日
下北沢X物語(3583)―演劇、演出、鉛筆部隊2―

舞台は舞台に限らない。突然、二階のテラスから声が響く、ときには客席からも。全体が舞台です。役者というのは頭数というのではありません。一人一人の個性が声に出るのです。子供がいれば子供の声、これは世の中の現実相を写すのに重要です。年寄りがいてもよいとのこと。今回のでは、鉛筆部隊の田中幸子さんのセリフがある。「過去を体験してその現場の目撃者がいればその出演はインパクトがあります」と若桑さん、「それで田中幸子さん、劇に出ることになったのですが?」、「えっ!」84歳は電話の向こうで驚いた。
(一)
劇の監修者や演出家は、批評家である。彼らの話を聴くと、忸怩たるものがある。「朗読劇 ダイダラボッチ」を作って皆に演じてもらったことがある。このときは批評家もおらず、恣意的作ったものだ。言ってみれば学芸会である、が、今度のは演劇だ。ないがしろにはできない。まず、セリフを切り詰めた。そして、構成を工夫した。子役を使っての見せ場をつくる。
舞台台本三次稿を作る、セリフを削る、子役の工夫をする、導入の工夫をする、これによって一ページぐらいは削った。演出の若桑さんから早速の反応があった。
新台本、拝見しました。
舞台らしい脚本だと思いました。
現役の子供さんと、
体験者ご本人の登場は、
それだけで感慨深いもので、
その事そのものが一番、
リアルなメッセージなので、
余計な説明も、過剰な演出も、
それと比べれば無力なくらい、
説得力があると思います。
「舞台らしい脚本」になったとのこと。大きいのは子供を配役に加えたことだ。これによって舞台の色合いがだいぶ違ってくる。この話の根幹は、青年と子供たちとのふれあいだ、一方は死んでしまう、が一方は生きていく、その対照は大きい。子供というのは希望である。声を聴いただけで元気が出るということはある。
当事者である人が出てくるというのも大きい。当初は、セリフを歌姫に歌ってもらう計画だった。それを変えて本人出演とした。体験者の生の声というのは重みがある。子供なり、田中さんなりは何も飾らなくてもよい。そのままが絵になる。
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2018年08月17日
下北沢X物語(3582)―演劇、演出、鉛筆部隊―

舞台は小宇宙である、それを創り上げるのが役者で、それを支えるのが台本だ。観客を意識して緻密に造りあげねばならぬ、とくには導入だ。今の台本の始まりは「それは遠い昔、戦争中のこと、鉛筆を握って戦っていた子どもたちがおりました。『鉛筆部隊』です」となっている。こういう説明ではだめだ。のっけから劇なんだから劇がなくてはならない。そのためには仕掛けが必要だと。演出家の意見は手厳しい。下北沢で出会った人だ、こういう人が当地にはゴロゴロいるから怖い。
(一)
一つの出会いから劇は生まれた。一人の女性、「私歌うのです」、「じゃあ、オペラを歌ってください」と返す。ところが「いいですよ!」と。偶然から Opera「鉛筆部隊と特攻隊」は生まれた。アッという間に決まった。こちらも慌てて台本を作った。ちょっと練習してみよう。カトリック世田谷教会で試みに彼女が歌をうたった。よく声が響く、するとまたそのときに「私チェロを弾いてもいいですよ」と。また台本を読んだ教会の関根神父さん、「セリフをもっと削りこまないと」と。では「監修」をと言うとOKだ。話がトントン拍子に進んだ。
神父さんからメールをいただいた。「読み出したら、いろいろ感想が増えました。邪宗門で今日の午後にでもお会いできませんか?」と。この日邪宗門は定休日、それで翌日10日になった。行くと新手の人もいた。若桑比織さんだ。彼の言葉が冒頭に繋がっていく。
この9月16日にカトリック世田谷教会でOpera「鉛筆部隊と特攻隊」を公開することにした。関根英雄神父の協力によるところが大きい。この逸話下北沢と長野を繋ぐ物語だ。
代沢国民学校の学童が下北沢から松本市外の浅間温泉に疎開する。その宿に、偶然に特別攻撃隊員が現れる。若い命と出会った彼らは気持ちを新たにして出撃していく。沖縄で彼らは突撃戦死する、ところが十数日経って彼らから手紙が送られてくる。
神父さんは長野県出身でこの話に深い興味を持っておられる、それで知り合いの演出家に手伝いを頼んだのだ。
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2018年08月15日
下北沢X物語(3581)―平和にもっと金をかけよう!―

戦争による犠牲があったから今の平和はある。この言い方は好きではない、死ななくてもよかったのに戦死したり、野垂れ死にしたり人も多くいるからだ。粗雑な戦略を組み立てた人、いいかげんな指揮官もいた。が、我らは戦争責任を問わない。戦争で死んでしまった人が報われないように思う。今回調べて分かったのは、8月10日にポツダム宣言が受諾されたと聞いて早くに敗戦を知っていた人もいたことだ。待てよ、大阪に空襲がなかったか、これは8月14日だった、京橋駅空襲とも言われる。駅付近で多くが犠牲になったからだ。8月10日には戦争は終わると分かっていた。14日の空襲で死んだ人の犠牲は何だったのだろう?
(一)終戦記念日は8月15日だが、8月10日に日本の敗戦を知って人々が喜んでいたという。「レイテ捕虜収容所」である。
忘れもしない、「ポツダム宣言は、天皇の国家統治の大権に何等の変更を加えずとの了解のもとに受諾す」との日本国政府の回答が、連合国側に送られた昭和二十年八月十日夜のレイテ捕虜収容所の光景である。
「八月十日の夜」関山栄次 21世紀へ2000人自分史 新聞編集センター 2000年
この捕虜収容所に日本人が多く収容された。ここでは皆姓名が記録された。同姓同名が数多くいた。「長谷川一夫」である。日本人は「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に洗脳されていた。それで本名を名乗らないで有名な映画俳優の名を申告した。
捕虜として捕らわれたとき日本人以外の外国人は口々に喜びを口にした。ところが日本人は青ざめたという。生きて恥をさらせない、自決を考えたからである。
「終戦日、つきが落ちた」と書いている人もいる。海軍経理学校の生徒だった長谷川昭さんだ。八月十五日、玉音放送を聞いた。
(玉音放送の)後半に至って日本が負けたといことが理解できました。前の方で教官の一人が泣いていたようでした。あたりはしんとして、蝉の声だけがジージーと聞こえていました。私の心に最初にうかんだのは「生きられる」ということでした。死ななくていいんだ、命が助かったんだ、という思いは、日本敗北を悲しむよりはるかに強く、嬉しさがこみあげてきました。そして次ぎに、「なんだ日本は神国では無かっただ、普通の国だったんだ」と、なにかつきが落ちた気分になりました。
21世紀へ2000人自分史 新聞編集センター 2000年
彼は、常日頃「我国ハ神国ナリ」という教育を受けてきた。日本が特別な国家だと覚え込まされてきた。その国家が負けた。この時に人の思いは様々だったろう。「ああ、これで生きられる」という思いは特別のものだった。が、ここでいう憑き物が落ちたということは大事だ。
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2018年08月14日
下北沢X物語(3580)―文士町出版社の盛衰:斎藤書店―

(一)土地の土地での出来事はうち捨てられて闇の中に消えて行く。が、足下には歴史が眠っている。これを知ることで自分たちが歩いてきた道を知ることができる。先だっての四日、「下北沢の戦後を語る」というタイトルで研究大会を開いた。戦後を見つめ直すというものだ。私は「下北沢の戦後文学」を話した。焼け遺ったまちにはこれを活用した知的産業が興った。出版社だ。屋根のある家と机と椅子があれば十分だ。ここが編集室となり数多くの本を出した。日本全国の活字に飢えていた人々へ知の栄養を届けていた。
戦後、あらゆる束縛から解放された。ところが人は価値再構築をしなくてはならなかった。手がかりになるものは書物だ。ところがこれが不足していた。出版ブームはこれで起こった。何としてでも本を出したい。が、東京の中心部はあらかた焼けていた。ところが当地は焼け遺った。屋根のある家があれば何とかやっていける。それでここに小出版社が興った。文潮社、黄蜂社、第二書房、そして斎藤書店などだった。
書物への飢餓感を一人の学徒兵、金子鉄朗氏がこう述懐している。
敗戦を契機として急激に自由の大地に押し出された私は、深い絶望感に襲われた。理想と希望を喪失し、精神的支柱を求めた。過去のあらゆる権威とモラルが崩壊したあと、重苦しい虚脱状態と、耐え難い自戒の中から自己を見いだすために、心のよりどころがほしかった。
21世紀へ2000人自分史 新聞編集センター 2000年
敗戦は思いもよらぬものだった。「負けると思っていたんだ」ということを当事者からよく聞いた。しかし、結果論であって多くは日本が勝つと信じていた、信じ込まされていた。そして迎えた8月15日、誰もが呆然自失となった。
折からの用紙難で哲学や教養書は本屋の店頭から姿を全く姿を消し、手に入れるのは容易ではなかった。神田の古書店街は戦災を免れたが、書棚はガラガラ。神保町の岩波書店小売り部では、朝早くから学生が長い行列をつくり、「西田幾多郎全集」「善の研究」「三太郎の日記」など争って買い求めた。紙質や体裁などは問題ではなかった。しかし瞬く間に売り切れ、むなしくひきかえしたこともあった。

学徒動員くずれは文学書ではなく、即、哲学書を求めた。なにもかにもわやくちゃになりどう生きていったらいいか分からない。それで西田幾多郎に走った。
斎藤書店もこれに応えている。昭和22年には「西田幾太郎の手紙」を出している。この出版社は、北沢川べり、世田谷区代田一の六五三の二にあった。
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2018年08月12日
下北沢X物語(3579)―辺野古の海を埋め立てるな―

(一)日本国憲法が高らかに謳うところの基本的人権は誰であろうとも等しく享有されるべきだ。自由権、平等権は侵してはならない。しかし、沖縄では国家がこれを踏みにじっている。民意が望まない辺野古新基地を国が強権的に推進している。人々の思いを力で蹴散らしている。基地建設を推進するため「沖縄防衛局が8月17日にも辺野古海域に土砂を投入する」と通告して来ている。思い起こすのは昭和二十年三月のことだ沖縄沖に米軍の艦船が雲霞の如く押し寄せた。特攻機がこれらに数多く突っ込んだ、その一人、長谷部良平は「当たって皆を安らかにせん」と書き残し突撃した。この皆には、本土人も「うちなんちゅう」も含むものだ。が、今、辺野古の海を取り囲んでいるのは海上保安庁の船だ、沖合にずらりと並んだ船を見て、戦争中の米軍の艦船を思い出した島人もいた。本土の船がうちなんちゅうを攻めようとしている。「船で当たって国家を安らかにせん」とばかりに、政治家の夢見をよくするために沖縄の人々はまた再び本土の犠牲になろうとしている。欠けているのは沖縄の人々の心の痛みに対する本土の人々の想像力だ。
今、政府は、多くの民意とは反対のことを強引に推し進めている。過酷事故を起こした福島第一原発の例から、一度あることは二度あると学んだ、それで国民は原発再稼働に否定的だ。実際、すでに原発から排出される高レベル放射性廃棄物は行き場を失っている。その見通しもない。このシステムはもう詰んでいる。が、依然としてこれを推進させようとしている。
不合理で不平等なことが各所で起こっている。これに対しての集会やデモがフェィスブックで流れてくる。その一つ一つに付き合えない。しかし、「埋めるな!辺野古 沖縄県民大会に呼応する8.11首都圏大行動」の知らせには心が動いた。辺野古新基地建設は、あまりにも強引だ、人一人が行ってどうにかなるものではない。が、行って意志表示をすることも大事だ。

東池袋中央公園はどこにあるか知らない。サンシャイン60の側だという。そちら方面に向かう。土曜日の池袋は人が多い。が、ふと気づいた。歩く人の中にドブネズミっぽい服装の人がいる。地味なシャツにズボン、そして頭には帽子、背中にはリュック、これがすばしっこい。人垣を縫って前へ前へ進んでいく、同類だった。自分の鏡を見るようだった。この集会、沖縄でも行われる。が、沖縄までは行けないが東京でもある。ならばそこへ。
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2018年08月11日
下北沢X物語(3578)―まち論:学生たちの熱い発表―

・恒例の北沢川文化遺産保存の会の研究大会を8月4日開催した。テーマは、「下北沢の戦後を語る」である。きっかけは、オリバー・L・オースティン博士写真を掲載した『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』が大きな話題となったからだ。これには戦災を免れたまちが鮮明に写されていた。戦前の建物がそっくりそのまま活用されている。そこに平和があった。あれから70余年、まちは焼け遺ったことが原動力となって今日に至った。文学、芸術、演劇などの文化が戦災を免れた幸運の中で生まれ、それが引き継がれてきた。若い学生が丹念にまちを調べ、その成果を発表した。当日限りのもので終わってはならぬ。記録を残すべきだ。紀要7号は「論考 下北沢の戦後」(仮題)としてまとめることにしたい。
(一)カトリック世田谷教会を会場として使ったのは初めてだ。きっかけは、昨年11月教会で、「下北沢青空マルシェ」が行われた。私は地図配りで参加した。そのときに関根英雄神父と話す機会があった。戦争は大きな節目でこれが今日の時間に繋がっている。戦後とは何であったかを考えることは重要だ、地域の文化を掘り下げて発信するのが教会の役目でもあるとのこと。会場を積極的に貸してくださることとなった。
今年は四回目である、地域の文化をトピックに取り上げて研究会のテーマとしてきた。地域文化を掘り下げる場合、年齢層が限られる。人生のベテランが集まることになる。問題は伝承だ、長く生きてきた者が体験を語ってそれを若者に引き継いでいく。大切なことだ。後に体験者がやはり必要なのは若者の参加である。
このところ代官山ステキ総研主催の「代官山大学」に参加している。数校の大学のゼミが参加してまちづくりの提言をする。溌剌とした若者の発表には刺激がある。ゼミ生に参加してもらって研究会を盛り上げられないかと考えた。今回はこれが実現した。
まず、法政大大学院建築学科の学生である。「図面なき教会を測って」という題で同大の磯目知恵さんが発表された。カトリック世田谷教会の建物の保存に向けた調査が行われたが図面がなかった。そこで彼らが協力して図面を作った。

聖堂の建築資材は、戦争中の昭和18頃、フランスから船便で送られた。図面はなく、棟梁等は送られてきた材料を元にイメージで建築した。彼らはどのように建物を作ったのだろうか?取りかかったのは全体を測ることであった。丹念に調べて図に落とす。それができあがると棟梁たちの意図が分かってくる。一番大きいのは、日本の神社仏閣などとの建て方の違いである。そこからいくつかのヒントが生まれたという。「未来の遺産となる建物は」という課題である。
彼らは、聖堂やカマボコ兵舎の模型を作った、当日はそれを提示しての研究発表を行った。図面のない建物の図面を作って棟梁たちの建築に対する思いを知ったとのことだ。
当初は、中西邸という私宅の二階で教会の集まりは始まった。信者が増えて建物がきしむほどだったという。そういう経緯から献堂に至ったようだ。
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2018年08月09日
下北沢X物語(3577)―小田急貨物での米軍の東京進駐―

アメリカ文化の浸透というのは鉄道交差部では早かった。一人の少年は、近隣の接収家屋にいるアメリカ人から綺麗なクリスマスカードを貰った。彼は思いを寄せている彼女宛てにそれをこっそりと届けたという。鉄道交差部は、線路で四通八達、ヤミ物資が容易に手に入った。下北沢駅前北口には本物の珈琲を飲ませるカフェができた。砧の撮影所では強烈なライトを浴びさせられる。すべてのライトが消えて天井の灯りだけになるとホッとした。誰からもなく「マコト」に行こうやと声がかかる、すると「おう」と応える。「マコト」では、監督連中は熱く映画論を戦わせた。「ローアングルだ」、「いやひきのアングルだ!」
(一)今日8月9日は長崎原爆記念日だ、中学2年のときに長崎原爆資料館に行って強烈なショックを受けた。恐怖が鉛筆を走らせた。その感想文は十数ページに及んだ。それを担任の先生はガリ版で刷って皆に配ってくれた。往時、不良だった自分が目覚めた。被爆によってひんまがったラムネ壜、焼け焦げた死体の山、全身アザだらけの肉体今でも鮮やかに記憶に残っている。
長い間、原爆のことはいつか書こうと思っていた。1999年にこれは実現した。『広島にチンチン電車の鐘が鳴る』だ。このときに取材をしたのが藤井照子さんだ。彼女はこれがきっかけとなって語り部となった。そして大型番組に出演した。TBS 戦後60年特別企画「ヒロシマ〜あの時、原爆投下は止められた」である。そのときに彼女は原爆を投下した科学者と対峙した。彼女はこう言った。
「日本が真珠湾攻撃したから、アメリカも仕返しをするという意味で、科学者として、どの程度の威力があるということをご存知でありながら、日本には、原爆を一発落として、本当に一瞬にして、街は焼き尽くされ、人々は木の葉のように焼かれるような状態であっても、そういうことをしなくても、日本には、もう兵器もないし、降伏する状態にあるのではないかということを、B29は何回も偵察に来ているのに、それがわからなかったのか、と思うし、原爆を落としたために早く終戦になって、穏やかな暮らしを今、皆がしている、と言う風に思っておられるということに、怒りを覚えます」
核兵器をめぐる深い溝〜抑止と廃絶の間…TBS外信部デスク 萩原豊

「原爆の投下が戦争終結を早めた」ということに対する非難だ。アメリカはB29によってすっかり全国の諸都市を壊滅させていた。敗戦は時間の問題だった、なのに皆殺し兵器原爆を使ったと怒った。が、科学者のハロルド・アグニューは謝罪しなかった。
アメリカの非人道的な処置に対して怒るのは当然だ、が、もう五月の時点で首都東京は焼き払われていた。ぐずぐずと敗戦を遅らせた戦争指導者たちの責任も責められるべきである。
藤井照子さんは残念ながら亡くなった。自分の構想の中で『皇国電車少女物語』があった。戦時中に懸命に広電を動かそうとした乙女らの物語だ。彼女からも取材してあった。彼女もこれの完成を楽しみにしていたのだが……
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2018年08月08日
下北沢X物語(3576)―敗戦からの出発そして今日―

研究会のまとめ 内容は濃厚だった。神父さんは言われる「歴史を掘り起こすことは新しい未来を切り開く第一歩」と。歴史の原初は戦前のまちだった。それを撮ったのは、オリバー・オースティン博士だ。これは『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』に載せた。道路、街灯、路地など今も痕跡が残っている。長い間人々が歩いてきた場だ、路地の陰に今もなお多くの物語が潜んでいる。「怪」は、手でそこの土塊を広い、「何だこれは」と思うことだ、それが文化である。まちの至る所に歴史の片鱗が残っている。それがおもしろいし、たのしい。
(一)文学と演劇との接点
・文学 焼け遺ったまちに出版社ができた。屋根のある家の使われ方として一つである。出版社ができてこの関係で著名な作家が来訪したり、滞在したりした。そのときにしもたや改造の「連れ込み旅館」(名月)が、作家達の缶詰宿となった。出版物を待ち望んでいた人々に当地から多くの文学書が生み出されて、敗戦下の国民に届けられた。
・演劇 ザ・スズナリの責任者の野田治彦さんが「戦後の演劇史」を語られた。順序としては児童演劇が出発点となって、つぎにいわゆるアングラ劇場ができ、そういう経過を経て今日に連なっていると。
劇団「風の子」の創設者は多田徹さんだという。調べると彼は、東大原小の13回生で昭和15年3月に卒業されている。住所は北沢4の21である。ここに劇団「風の子」があった。ここをお座敷劇場「六畳が舞台で八畳の方が観客席」(『証言児童演劇』多田透)として使っていた。ここと隣接した番地北沢4の12には俳人の中村草田男が住んでいた。5月末、大空襲。自宅付近に落ちた焼夷弾を消し止め、未明まで奮戦し類焼を免れた」(『中村草田男全集別巻』)と記している、一帯は焼け遺った。
◎焼け遺ったまち が、出版社、作家の缶詰宿、お座敷劇場として使われた。 勃興した文化の根が繋がっている。
・貧乏人に優しい町でありつづけたい
「今日聞いた話からすると、言えることは多様であること、それでいろんな人がやってくる。それで思うのは、貧乏人に優しい町ということです。それでやっぱり若い人は貧乏ですが、そういう人たちがやってきて将来の夢を追っかける。これから十年後も二十年後も三十年後もありつづけてほしい。」
会場からの意見である。野田さんの話の中にいわゆるお店やさんが役者に優しいということを言われた。例示として「�δ� 」があがった。
古老の三十尾さんがよく言われる。沢スジは庶民の町で人情に厚い。

・若者が定住できる町に
この一帯に小学校が三つあった。それがどんどん統合されてとうとう一つになってしまった。下北沢小学校である。まちに活気はあって若者がくるけれどもその人たちが町に住まない。何とか住んでもらえるようにしたい。
根本的な問題である。一帯が発展したのは鉄道によるところが大きい。小田急であり、井の頭線である。これらが敷設されることで、とくにこの二線が交わることで人が増えた。交差部を取り囲むように小学校が開学していった。ところが今はこれがどんどん閉校に追い込まれている。
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2018年08月06日
下北沢X物語(3575)―戦争からの解放とまちの原動力―

(一)今日は73回目の原爆忌だ、原爆はためらいもなく人間の営みをことごとく破壊する。爺さんも婆さんも乙女も赤ん坊も一切合切を死滅させる。悪魔の兵器だ。しかし現実にはこの核を肯定させられている。我々はアメリカの核の傘によって守られているからだ。このことで唯一の被爆国である我が国は、「核兵器禁止条約」に反対し、加盟しなかった。被爆者団体はこれに憤っている。あの広島の、あの長崎の惨状を知っている日本は何としてでも核廃絶を提唱すべきだ。そうでないと被爆で死んでいった人々の魂は報われない。「我が国は絶対に核は持たない」と主張し、東アジア非核武装地帯をと提案してほしい。
四日に、私たちは、「下北沢の戦後を語る」という研究会を開いた。当地で起こった文化活動は戦争の影響を大きく受けている。この東京は戦争の惨禍に遭っている。発表の中でカトリック世田谷教会の関根英雄神父は米軍による「無差別爆撃」を指摘された。東京空襲、山手空襲はその無差別爆撃だ。前者はその典型だ、東京下町には多くの市民、一般人が住んでいた。木造密集地帯を真っ先に襲って見せしめとした。山手空襲でも表参道の惨劇というものがある。あの広い通りを炎火が舐めて人々を襲って殺した。
現今に残されている、「帝都近傍図」の戦災地図を見ると、緻密な計画のもとに東京の西と東とが爆撃を受けていることが分かる。読み取れるのは米軍の東京への、日本への憎しみである。
「おれんところの庭先の、パールハーバーを襲うなんてとんでもないジャップだ」
彼らの憎しみによる報復は執拗である。全国のほとんどの都市がB29の空襲を受けている。悲惨だったのは沖縄戦だ、艦載の大砲からとんでもないトン数の砲弾が撃ち込まれている。この地上戦では沖縄県民の三分の一が犠牲になっている。
米軍爆撃機、艦船によって国土が焦土と化した。が、北沢の多くは焼けなかった。なぜか。度々この推理を巡らせてこの理由を書いてきた。アメリカ軍は、終戦後にキャンプ地と隣接する渋谷区大山近辺の邸宅街を接収を予定していた。それでここは爆撃しなかった。北沢はこの地域の風上に当たる。弾を落とせば北沢の東北に落下する、それで北沢は狙いからは外された。こう推理していたが、これを裏付ける証言をきむらたかしさんがコメントで寄せてきた。当方、驚いたことだ。

進駐軍による大山町の家屋接収
町内在住の南部さんの話によりますと…
『戦後すぐ接収の通知が来て、父はG.H.Q.に乗り込んで直談判に及ぴました。そのためか接収は家屋の半分で済んだのですが、その時、向こうか「軍の宿舎用に、大山町・松濤町など洋館の多い地域は焼かないで残した、前から決まっていたので変更はできない』といわれ家屋に番号のついた地図を見せられた、と話しておりました』とのことです。」 (野口正吉・編「渋谷区大山町誌」同町会/H16・刊 p.40) 続きを読む
2018年08月05日
下北沢X物語(3574)―猛暑に負けない熱い文化研究―

(一)オリバー・L・オースティン博士は、下北沢の戦後を活写した写真を残した。その時から70余年が経過した。我らは、これを『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』として発刊した。反響は大きく写真が発端となってまちの戦後史が随所で話題となった。そのことから夏の研究大会のテーマを「下北沢の戦後を語る」とした。昨日、4日。カトリック世田谷教会で研究会を、北沢タウンホールでは懇親会を開いた。夜も昼もすべて文化漬け、濃厚な一日だった。特記すべき点は、大勢の若者が加わって議論が深まったことだ。法政大学の院生は、まちの歴史建築物を、成城大学の学部学生は、フィールドワークを通してのまち観察を熱く語った。若者たちの新鮮な発想に会場から熱い拍手が湧いた。今回で四度目となる北沢川文化遺産保存の会の研究大会だが、最高に充実した会となった。(参加者60数名)、そして何と、結末もびっくり、会の懇親会に、保坂展人世田谷区長が挨拶に見えた、我らの活動を区内での有意義な活動だと認めておられた、嬉しかった、みんなで記念写真を撮ったことだ。
昨日のプログラムである。
� _舎迷瑤寮鏝� コーディネーター きむらたかし 13:05〜13:45
�◆_舎迷瑤寮鏝緤験� きむらけん 13:45〜14:15
�� 下北沢の戦後の演劇史 野田治彦 14:25〜14:55
�ぁ.�トリック教会の献堂と下北沢の未来 関根英雄神父 14:55〜15:25
(図面なき教会を測って 法政大学建築学科 磯目知恵 10分)
�ゲ舎迷瑤里泙繊�商店街 70年の検証
〜オーティン博士の写真とインタビューで辿る今昔を中心に〜成城大学境ゼミ
発表者:倉田 慎一朗、長沼 美優、大西 由希子、福井 千智、根本 澪、野呂 友希子、渡辺 航世、高橋 舞、五十嵐 健人、堀口 由理香、梯 愛香
表題、タイトルだけでも内容が濃い。三十分単位での発表である。息をつく間もないほどだった。
しかし、大事なことがある。オリバー・L・オースティン博士の写真は、鍬であったことだ。鍬の一振りで、過去の文化が耕されたと言ってよい。
私にとっても興味深いことが幾つかあった。
私は、「下北沢の戦後文学」というタイトルで話をした。焼け遺ったまちがどんな働きをしたか。その一つは、いわゆる「しもたや」が旅館業をはじめたことだ。例として「晴光園」を取り上げた。宏壮な日本家屋、何とこれを描いた絵画を自宅から持ってきて下さった方がおられた。
この家こそ、衆議院議員宮脇長吉の家、その息子が紀行作家の宮脇俊三である。彼は『時刻表戦後史』の中で、この家が早く焼けてほしいと思ったと書いている。が、焼けずに遺って、日本旅館となった。
懇親会には、衆議院議員の落合貴之さんが参加された。秘書の方が「北沢川文化遺産保存の会」紀要 第4号(2015年8月15日)『戦後70周年記念戦争記録集』で駒沢高射砲陣地の記事を見て議員に伝えたようだ。
「うちのおじいさんは、駒沢の高射砲陣地で高射砲を撃っていて、なかなか飛行機に当たらなかったと言っていました」
落合貴之さんの話だ。
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2018年08月03日
下北沢X物語(3573)―再論:北沢はなぜ焼け遺ったか―

(一)首都東京はB29による攻撃で集中攻撃を受けた。その被害を表したのが−戦災焼失区域表示−「帝都近傍図」だ、絨毯爆撃の跡が一目で分かる。敵の狙いは帝都壊滅だったと分かる。その赤色の一片一片の声が、『東京大空襲・戦災誌』第2巻に記録されている。被災民のうめきだ、が、表題には「これで人並み」、「これでみんなの仲間入り」とある。焼けて一人前、悲しい声だ、焼け遺ったことは誇れなかった。しかし、オリバー・オースティン博士の写真『焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム』見ると焼け遺ったまちは活況を呈している。生き生きとしたまちの活力が活写されている。が、なぜ当地は空襲を免れたのか?
なぜ焼けなかったのか。五月二十五日の空襲の記録では、北沢四の三五三では、「五〇キロの油脂焼夷弾を敢闘して消した」(手紙)とあり、三五四では、「焼夷弾の束がはじける音、落下する音が頭上に聞え、ときにはドスンという地響きが身近でした」とある。B29が飛来してきて焼夷弾を投下している。が、それでも当地のほとんどは焼けなかった。
改めて「帝都近傍図」を見る。焼け跡をたどるとB29の飛行コースが想像できる。東南から進入してきたB29は、若林辺りから攻撃を始め、代田、大原、北沢、笹塚、幡ヶ谷と爆撃していったのではないか?
世田谷代田の杉山杜美子さんは二十四日の空襲をこう記録している。
突如、東の上空が異様に赤くなる。外に飛び出す。あー B29が一連の炎となって落ちる。あっ!空中分解する。万歳!万歳!
妹とともに手を打って喜ぶうちにまたすぐ、一機が南の方に落ちる。高射砲の音はますますすさまじい。南の上空の敵編隊が分裂して頭上に近づいてきた。こわい!と思った瞬間、ザ、ザ、ザーッという音、見回すと北側の廊下が火の海、台所の隣の電話室の床が大きくえぐられて火を噴いている。
『東京大空襲・戦災誌』第2巻 東京空襲を記録する会 1975年
住所は旧番地で代田二の七二八だ。代田小学校の東隣の家だ。B29の撃墜は、この日は米軍発表では十七機だった。彼女の目撃した機は、「東」とあるところから千駄ヶ谷に墜落した機だろう。
文章には代田を襲った機の侵入コースが書かれている。この日根津山から見ていた一色次郎は「いつもの夜と違って、侵入コースが二本あった。少し南よりから、平行して入ってくるのである。レールのように、南部の上空に、爆撃機の長い列が二列になった」(『東京空襲』)とある、杉山さんいう侵入方向と一致する。
これらの証言からすると、南西からの侵入ルートのコースに当たったのが世田谷代田ではないか、これらが北西に向かい大原、北沢北、笹塚、幡ヶ谷と総なめにした。ここは推理だが、北沢四丁目、現在の北沢一丁目に落ちた焼夷弾は流れ弾だったのではないか。
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2018年08月02日
下北沢X物語(3572)―北沢の空襲と歴史のシッポ―

(一)ふと気づいた、「北沢の空襲」が自身の壮大な旅の始まりだった。これが発端となって長編小説を四作まとめた。流転、変転、これらがもとになってついにはOperaの台本まで書いてしまった。この9月16日にOpera『鉛筆部隊と特攻隊』の実験公演をカトリック世田谷教会で行うことになった。旅の帰着点なのか?出発点なのか?
北沢は全部が戦災から免れたわけではない。北部の北沢五丁目は焼けた。ここで焼け出された人がいた。その人は金子静枝さん、家が焼け明大前の知人宅に身を寄せた。その時に事件に遭遇した。彼女はこれを語るとき決まって涙を流した。昭和二十五年五月の末、彼女は二十歳だった。
「隣の奥さんがこれから息子さんが飛行機で飛んでくると言われたの。それで日の丸を持って待っていると一機の戦闘機が現れたのね。上空を旋回しながら降りてきて操縦席のお顔が見えました。懸命に手を振っておられました。お母さんは泣きながら息子さんの名を呼んでいました。そのうちに飛行機は翼を振って西の方に飛んでいきました……」
特攻機が母親に別れを告げにきたものだった。初めて聞く話だった。世田谷区松原のその現場には何度か行った。また、『月光の夏』の原作者毛利恒之氏にも会って特攻機がどこから来たのか聞きもした。
夢中になる性分である。これが発端となって調べた。昭和二十年三月に沖縄特攻は始まった。本州各地の飛行場から沖縄特攻へ数多くの戦闘機が飛び立って行った。関東一円の飛行場からこれらは飛び発っていた。世田谷近傍では、陸軍調布飛行場があった。ここからも数多くの特攻機が飛び立っていた。飛来してきた方向からするとここからの一機ではないかと思われた。
昭和二十年四月五日、埼玉県桶川飛行場から第七十九振武隊、十二機が飛び発った。この飛行機に小月まで同乗した整備員の柳井政徳さんに話を伺ったこともある。操縦士は京都の風呂屋の息子さん、その煙突の周りを何度も旋回したと、彼は語った。
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