2018年11月

2018年11月30日

下北沢X物語(3653)−特攻物語はどこまでも続く−

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(一)町外れには物語が潜んでいる。「田舎の人にも都会の人にも感興を起こさしむるような物語、小さな物語、しかも哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語が二つ三つそこらの軒先に隠れていそうに思われるから」(『武蔵野』)と国木田独歩は言う。北沢や代田は間違いなく町外れだ。言えば都鄙境、物語の宝庫だ、二つ三つどころでなく無数に隠れている。今日はその一つを紹介しよう。歴史の奥の奥に隠れていた歌だ、これを私は偶然に掘り起こすことができた。何とこの秋の「特攻平和観音年次法要」で世田谷区長保坂展人氏によってこれが紹介されていた。

 28日、世田谷代田の中原斎田家で駅前広場開場記念についての会合が開かれた。2020年3月にオープンする。広場にはダイダラボッチの大きな足跡がモザイク紋様で描かれる。具体的な話として検討されたのは記念に「代田ダイダラボッチ物語」(仮称)を配ろうというものだ。ダイダラボッチは伝説として当地に存在していた。が、今度は駅前広場に具体的な形として現れる、これによって内外の人が興味を持つだろうと考えられる。
ダイダラボッチは、「代田」の語源となっている重要なものだ。それでこの際、当地の歴史を知ってもらおうとこれが企画された。
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 会合があったときに斎田孝氏から冊子を渡された。会報『特攻』122号(平成30年11月発行)である。
「これ知っていますか?」
「いや、知りません」
 9月23日に世田谷観音で「第67回特攻平和観音年次法要」が開催された。これのことがトップ記事として紹介されていた。このときに世田谷区長保坂展人氏が挨拶をされた。その全文が掲載されていた。「青春の途上に大海原に散った特攻隊員」、そういう「歴史を決して忘れてはならない」と述べ、

 先日、下北沢の歴史に詳しい方から一冊の本を紹介されました。


私のことである、このように書かれていることから春の出来事を思い出した。
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2018年11月28日

下北沢X物語(3652)−世田谷代田は詩人の聖地−

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(一)世田谷区風景資産「代田の丘の61号鉄塔」は隠れたシンボルだ、こっそりとここにやって来る人は後を絶たない。聖地巡礼でもある、この鉄塔、萩原朔太郎の生存痕跡を記すものとして我らが推奨したものだ。彼を信奉している吉増剛造が「下北沢の次元の穴に引き込まれてゆくのだ。」(月刊「ポエム」1977,7)と言う、この「下北沢の次元の穴」は萩原朔太郎が当地に住まっていたことから発想されている。菊田一夫がこの鉄塔近くに四五年ほど住んでいたことが分かった。彼はもともとは詩人を志して関西から上京してきていた。当時の文学青年の多くは朔太郎に心酔していた。

 菊田一夫は昭和48年4月4日に亡くなっている。興味深いことがある。「評伝 菊田一夫」では年号は元号で記される。「本文で元号を用いたのは、菊田一夫の活躍した時代が昭和と切っても切れない関係にある」からだと。自分で思うのは、「平成」はいつまで経っても慣れない、しかし、「昭和」は何時までも懐かしい。

 彼の終の棲家は港区白金四丁目の白金マンションだった。
「あのはす向かいにある広い敷地は、服部金太郎、セイコー創業社旧宅だ」
 聖心女子大の守衛さんが教えてくれた。付近は白金のお屋敷街だ。丘上に位置し、マンションも坂上にある。昭和45年夏から菊田一夫はここに住んだ、晩年は糖尿病を患っていた。

 体力の衰えた菊田は、そんな坂道では散歩もままならない。通いでくる手伝いのおばさんに食事を作ってもらいながら、晩年の傑作といわれた「夜汽車の人」を書いた。興行師という仮面を脱ぎ捨てて、作家菊田一夫が書きたいものを書こうとして挑んだ執念の作物である。
  『評伝 菊田一夫』(木幡欣治著 岩波書店 2008年)


この「夜汽車の人」は、萩原朔太郎の詩「夜汽車」を下敷きにして描かれたものだ。
ネットで検索すると、この作品が「萩原朔太郎記念 水と緑と詩のまち 前橋文学館」で昨年暮れに上演されている。ホームページにあらすじの紹介がある。

萩原朔太郎の詩「夜汽車」(『純情小曲集』)を主題として創作された菊田一夫による舞台劇を、2008年に東宝現代劇75人の会の丸山博一さんが1時間ほどの脚本に構成し直した朗読劇。永遠の想い人・エレナとの出会いと別れを経験する中で、詩と真正面から向き合う朔太郎のひたむきさ、そんな朔太郎を支える妹や恩師、理解を得られない両親との葛藤を通して揺れ動く朔太郎の詩と生涯を、史実と虚構を交えながら浮かび上がらせます。

「夜汽車」は、素晴らしい。自身でも『日本鉄道詩紀行』で取り上げ、「伊勢物語」と絡めながら短編小説風にまとめた。
 菊田一夫は晩年にこれを書いた。しかし、彼は早くから朔太郎を思慕していたようだ。

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2018年11月27日

下北沢X物語(3651)−世田谷代田の菊田一夫−

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(一)人生は物語だ、人は因縁因果で結びついている。が、何で繋がっているのか分からない。人生は闇だ、が、最近、文士町物語の新事実の一端が偶然に分かった。それは劇作家と詩人との接近遭遇だ。時代は異なるが二人は至近距離に住んでいた。その因縁を解き明かすのは一編の詩だ、日本最高の汽車詩、「夜汽車」だ、自身も最も気に入っている。もうこうなると妄想だ、二人は代田という土霊繋がりで繋がっていた。劇作家は菊田一夫であり、詩人は萩原朔太郎である。

 菊田一夫の代田在住の事情は不明だ、我ら「下北沢文士町文化地図」には「菊田一夫終焉の地」と記している。そのいきさつはよく分かっていない。ところが偶然、これが分かった。奥州市在住の蓮池直人さんは、ネットでこのブログを見つけられたようだ。地図の送付希望がメールで寄せられた。彼とのやりとりで菊田一夫の記念館が奥州市にあることを知った。地図を送付したところ蓮池さんからはお手紙を戴いた。館の学芸員とも会われたようだ。劇作家の代田在住は間違いなかった。しかし、終焉の地は代田ではなかった。港区白金台だった。世田谷代田と菊田一夫、蓮池さんからの情報を頼りに調べていくうち思いがけないことが分かってきた。

 菊田一夫が代田に住んでいた、当会の会長長井邦雄さんからの情報からだ。女性関係があって住んでいたとも聞いていた。蓮池さんから戴いた手紙でも指摘されていた。

 学芸員さんと一時間ほど話させていただき、代田と菊田氏の話をしてまいりました。菊田氏は仕事柄でしょうか女性遍歴も華々しく(この辺りのことは木幡欣治著「評伝 菊田一夫」に詳しいです)新しい女性との出会いと転居のタイミングに相関が見受けられるので、当時同棲されていた女優さんと破局を迎える45年夏頃まで数年の間を代田に暮らしていたようでその後白金へと転居しています。
 

 なるほどだ、仕事柄美しい女性に会う機会は多かった。つい惚れてしまうことは度々あったのだろう。
 女優の美しさは格別だったようだ。松林宗恵監督からこれを聞いていた。生で接する彼女らは生々しい色気を持っていたようだ。妖艶という言葉がある、生身の美人の美しさをいったものだろう。

 蓮池さんからの手紙によって二つの情報を得た。一つは、菊田一夫に関して描いた評伝があることだ。それは『評伝 菊田一夫』(木幡欣治著 岩波書店 2008年)だ、これはすぐに手にいれた。

 つぎは、終焉の地だ、代田ではなく白金だった。「どこだろう?」、家の側には目黒通りがある。これを東に行けば白金だ、行ってみたい。

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2018年11月25日

下北沢X物語(3650)−Opera「鉛筆部隊と特攻隊」へのチャレンジ−

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(一)Opera「鉛筆部隊と特攻隊」の反省会は熱かった。なぜだろう?一つは地域性の濃さだ、物語の始まりは当地、下北沢だ、イメージが具体的に浮かんできたから。二つ目は意外性だ、戦争物をオペラでというのは珍しいから。三つ目は刺激性だ、題名どおり特攻隊を扱ったものだ。これは日本人の感性に訴えるものがあるからなど。我らは、これの再チャレンジを誓った。

 総じて楽しい会だった。戦争、演劇、音楽、文学などを語った。文化は自主的に集まって話しを楽しむことである。場所は教会だ、神の庭が宴会舞台を盛り上げもした。話題になったのは教会堂の音響のよさだ。歌うと響き渡る。関根神父さんが劇が終わって「ふるさと」を歌おうとの提案、一番で終わるかと思ったら皆で全曲大合唱。「あのフィナーレは素晴らしかった」との感想、私も同感だった。教会は音楽が生きる舞台装置だと知った。

 あらを探せば欠点はいくらでもある。が、実験にしてはうまくいった。これを支えたのは下北沢の人脈だ。神父さんから演出担当の若桑比織さん、またピアニストの内村真由美さんの紹介があった。教会人脈である。

 若桑さんからは、劇の何たるかを教わった。全体の中での演者の調和、我を我として出さず、これを昇華させて登場人物の一人として演ずる。

 内村真由美さん、彼女はピアノも弾けるし、サヌカイトもこなした。劇の感想文には「ピアノはオリジナルですか」と。内村さん即興が巧みだ。雰囲気に合わせて弾いてくださる。

脚本指導も厳しい。
「何でもそうなんですけど出だしが肝心なんですね、初手から観客を引っ張っていく」
 若桑比織さんの話を聞いて、思いついたのは子役だ。
 客席にいる子どもが「鉛筆部隊の子供たちはどうなったの?」と呼び掛ける。これで始めることを思いついた、それで石坂悦子さんに電話を掛けた。
「子役がぜひほしいのですが」
「うちの孫を使えばいいわよ」
 その二人の孫は立派に役をこなして、今回の反省会にも出席して大きなバームクーヘンをほおばっていた。
石坂悦子さんも下北沢の文化人脈の一人だ、彼女は当地で第一号となる小屋を開いていたと聞いた。彼女自身も戦争と平和を考える催しをずっと行ってきていた。

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2018年11月24日

下北沢X物語(3649)−残虐非道な戦争は絶えざる伝えが必要だ−

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(一)「今夜はどうして熱いのですか?」、「キミが火を点けたからだよ」、「えっ!」。気づくと夢中になって戦争を論じていた。昨日、カトリック世田谷教会で9月に実施した「オペラ鉛筆部隊と特攻隊」の反省会を行った。公演は一つの試みだ、今戦争を伝えることが困難になってきている。戦争は遠い過去となった、それで戦争を知らない若者が増え関心も低下している。「戦争経験を聞く会、語る会」を11年間開いてきたがじり貧状態だ。しかし逆に戦争への緊張は高まりつつある。一昨日散歩していたら「Jアラート」の試験放送が流れてきた。米朝の話し合いで緊張は緩んでいる。なのにミサイルの危険性は去っていないと国家は国民に伝えている。外国が攻めて来る、危機を煽るのは為政者の常套手段だ、そして軍備増強に走る。来年度「軍事費 過去最大5.3兆円」と。こんな中だからこそ戦争は伝えなくてはならぬ。昨日話し合ったことは第二世代による、戦争伝承だ、創意工夫してこれを続けようと。会の名称も「戦争を伝承する会」と改めることにした。

 9月13日に下北沢のカトリック世田谷教会で「オペラ鉛筆部隊と特攻隊」を実験公演として行った。狙いは戦争を経験していない第二世代による伝承である。戦争を伝えるには工夫が必要だ、朗読、演劇、人に見せるものを通して戦争を伝えよう、そんな思いからこれを開催するに至った。これをオペラと銘打った。参加された人からは「手作りオペラをありがとう」との言葉もあった。初めての試みで失敗もあった。しかし、参加された人は好感を持たれたようだ。

 テーマとした「鉛筆部隊と特攻隊」は地元ネタである。疎開学童が東京に住む親に何十と鉛筆で書いた手紙を送っている。その宛先は「北沢四丁目三五三番地」だ、カトリック世田谷教会の脇の坂道を上がったところがその番地だ。子が出せば父が応える、父と子の交換日誌がこの物語の素材ともなっている。

 学童の母校は代沢小だ。「オペラ鉛筆部隊」では、現役の鉛筆部隊隊員だった田中幸子さんが登場して証言をする場面もある。当事者が劇に出てくるというのはリアリティがある。

 この「オペラ鉛筆部隊と特攻隊」は、代沢小の疎開の歴史そのものである。疎開学童を「鉛筆部隊」と名付けたのは同小の柳内達雄先生である。実験劇を見にこられた校長先生からは学童や保護者に見せてもらいたいと。
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2018年11月22日

下北沢X物語(3648)−地図づくりは出会いの物語−

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(一)まちの文化地図は零版に始まり、今では七版目に至っている。地図づくりは情報集めに他ならない。多くの人と出会うことによってこれを得ることができた。「下北沢文士町文化地図」は情報が命だ、これを集めることで知ったことは、町の人々、とくに文化人の特質だ、一刻者というか孤高的であることだ。自立した人が自分なりの哲学や考えを持って住んでいる、土地の文化はその人たちの脳裏に深く眠っている。我々はそれを一人一人から引き出して地図や冊子にまとめてきた。有名人から無名人から得たものがここに集約されている。振り返ると一人一人の顔が浮かんでくる、が、残念なことに多くの人が物故された。言い換えれば、彼らの小さな遺言がこの地図に載っている。

 出会った人の数はよく分からない、千人は超えるのではないか。その中でもう何人もが鬼籍に入られた。松林宗恵監督、森栄晃プロジューサー、田中義輔会長、東條由布子さんなどだ。

近衛野砲兵聯隊に所属していたのは田中義輔会長だ、会社の経営者だったが商人臭いところはなく透徹したものの考えを持っていた。紳士という印象だ、彼は文化地図の有用性に早くから気づいていた。忘れがたいエピソードとしては地図を印刷する資金に困っていたときそっと資金を出してくれたということがあった。

 昭和10年か11年だったですね、坂口安吾さんに横光利一さんを紹介してもらったのです。それであれは水曜会といっていましたね、水曜日に開かれましたから。お宅に行くと川端康成さんと林芙美子さんと、それから今日出海さん、この人たちが集まってきて俳句の会を開くのですよ。

 森栄晃さんとの出会いも、出会いの出会いだ、一番街大月菓子店の文子おばあちゃんに彼を紹介してもらった。この出会いで当、文士町の重鎮横光利一のことが分かった。
 水曜会では、俳句の会が催されていたとのこと。当地は俳人が多いまちだ、郊外文学と俳句というのは一つの切り口になるかもしれない。
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2018年11月21日

下北沢X物語(3647)−まちの地図づくり12年−

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(一)
 「……時は逝く、何時しらず柔らかに影してぞゆく」、白秋はいう。そうふと気づくといつの間にか歳を重ねていた。記録された経過がそれを明確にする。我々の会の発足が2004年12月、間もなく満14年となる。蓄積された回数、会報は148号、まち歩きは144回、これらを割ると12年という数字が出てくる。我らの会の対外的な初発信は2006年5月31日に発行された『北沢川文学の小路物語』だ。朝日・毎日で大きく取り上げられ、これを手に入れようと大勢人が来て交通整理が必要だった。この冊子梅丘図書館では盗まれもした。デザインを担当は故東盛太郎さんだ。中央図書館に寄贈に行ったところ喧嘩に、「地域の貴重な情報を置くかどうか分からないって、責任者を呼べ!」となった。伝説の冊子だ、デザインのプロは素晴らしい冊子を作った。急逝した彼のお別れ会では、お悔やみの言葉に、「『北沢川文学の小路』は彼の遺作となりました」と。思い出深い冊子である。

 このブログも回を重ねて今日は3647、ネットでの絶えざる発信だ、つい数日前岩手県から当会が出している地図についての照会があった。昨日は、テレビ放送局から地図の別冊を番組で使いたいとの連絡があった。「都市物語資料館」と銘打っているがその役割をすでに果たしている。ここから生まれた物語も数知れない。

 我らの活動の一環に地図づくりがある。「下北沢文士町文化地図」である。版を重ね、現在は7版となっている。この原型を作ったのは東盛太郎さんだ。「北沢川文学の小路物語」には表紙がついている。これは取り外せる。広げるとこの裏が「『北沢川文学の小路』地図」となっている。実は、これが今の地図の原型となっている。いえば零版だ、現今の七版と見比べると一目瞭然だ。後者は赤や青のマークが密集している。時が経って、気づいてみるとこれだけ集まっていた。
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2018年11月19日

下北沢X物語(3646)−東附30回生へ:君らの一人の先輩−

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(一)先日17日、かつての勤め先の学校の同窓会が新宿であった。会場に入ったとたん、「先生、覚えていますか?」と問うてくる、「誰だっけな?」と。多くが分からない。しかし名前が分かってくると不思議なものだ、数十年前の情景が思い起こされる。あの子は前の方、この子は後ろの席だった、やんちゃなやつだった、可愛い子だったなどと。

還暦を前にした君たちにメッセージをスピーチで贈った。
 もう一つ、君たちに杉村裕さんの話しをしておこう。誰も知らない話だろう。
 彼は日記を残している。昭和二十年六月二十四日に書いた一節だ。

一切の偉大なるものは認めさへすれば教養になる。
 色々の事のあつた高校時代。怒り笑ひ喜び泣いた、あの頃つまらぬことに大いに憤慨したが、一番懐しい時代。亀尾さん、俺の思想の根底は彼及び独逸語で造られたのを想ふ。そして俺が始めて人の世への眼をあけたのも、あの時代だ。


 得てして我々は若いときは権威への反発から偉大なものへ反発する、しかし、ふと気づくことがある。それをそれとして認めれば自分の体系の中にそれは組み込まれて知識になる。
 彼は高校時代という、グランドがやたらに広い。そしてプールがやたらに深い。エリート校の体育施設の特徴だ、国家を担う者はプールで溺れるようではいけない。学校のプールが深かったことを覚えているだろう。杉村裕は東京高校在籍者だ、君たちと同じ校舎で学んだ者だ、君らの先輩だ。

彼は昭和二十年六月二十九日の日記にこう書いている。駅まで送ってくれた母多恵と別れ上野行きの列車に乗る。これが母との最後の別れだ。こう記す。

『特攻隊ニ行ク人ハ本当ニ新聞ニ書イテアル様ニ喜ンデ行クノカ聞イテクレト誰カガ言ツテヰタ。』ト母ノ言ニ一寸憤慨シタ。少クトモ私ハ喜ンデ行キマス。ソレガオ国ノタメト思フカラ、ソレガ日本人トシテノツトメデアルト思フカラ。

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2018年11月18日

下北沢X物語(3645)−芝川・隠田川・まち歩き人生歩き−

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(一)昨日、恒例のまち歩き、今回は梶山公子さんの案内で芝川・隠田川を歩いた。今回で144回目となる。月一回と勘定すると12年目となる。出発は小田急線南新宿から「寛永江戸全図」を頼りにして川跡をたどった。代々木近辺の谷を巡り、原宿へ、今日現代の最先端のまち、若い男女が行き交う。その中で我らドブネズミ部隊は異様だ。終着地の渋谷には超高層のビル群、圧倒される。その足で私は新宿に出た、元勤め先の東附の同窓会である、この頃では誘いが来ても行かなくなった。が、今度のは自分が初めて担任をした学年でひとしお思いが深い。三クラス、六年間で九人の教員が受け持った。もう三分の一が物故され、生徒120名のうち7名が亡くなったと。そしてまた驚いたのは彼らが後三年ほどで還暦を迎えると。酒を酌み交わしながらこもごもの人生を語る。時の流れはとうとうと流れゆく。「先生覚えていますか、俺の胸ぐらをがっすと掴んで、おいおい泣き出したんですよ」、言われて遙か遠い昔を思い出した。自分も若かった、彼らもまただ、何だか涙が出そうになった。「俺も歳を取ったなあ」と感慨深く思った。

 南新宿から我々は歩き出した。
「ここは昔は、小田急本社前と言っていました。場所はずれていますけど」
 新宿から一つ目の駅は、開業時は、千駄ヶ谷新田と言った。つぎが山野駅だ。
 この辺りは鉄道線が敷設されることで急速に宅地開発が進んだ。南新宿の駅近くに田山花袋が住んでいた。彼に『少女病』という私小説がある。

この男はどこから来るかと言うと、千駄谷の田畝を越して、櫟の並木の向こうを通って、新建ちのりっぱな邸宅の門をつらねている間を抜けて、牛の鳴き声の聞こえる牧場、樫かしの大樹に連なっている小径こみち――その向こうをだらだらと下った丘陵の蔭の一軒家、毎朝かれはそこから出てくるので、丈の低い要垣を周囲に取りまわして、三間くらいと思われる家の構造つくり、床の低いのと屋根の低いのを見ても、貸家建ての粗雑な普請であることがわかる。

田山花袋は、明治39年12月に、ここ渋谷村代々木山谷に新居を建てた。その様を描いたものだ。郊外の畑の中に一軒ぽっつりとあった。家々がようやく建ち始めた頃だ、まわりには牧場があった。木々の緑がある、いわゆる武蔵野だ。
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 このときの彼の最寄り駅は甲武鉄道代々木駅だ、この39年10月には国有化されている。この一帯が切り開けたのは甲武鉄道の開通が大きい。これをシオに開発が進む。同著では「今からふた月ほど前、近郊の地が開けて、新しい家作がかなたの森の角かど、こなたの丘の上にでき上がって、某少将の邸宅、某会社重役の邸宅などの大きな構えが、武蔵野のなごりの櫟くぬぎの大並木の間からちらちらと画のように見えるころ」と記している。

 明治期の古地図を見ると代々木の谷はほとんどが自然のままで、いわゆる武蔵野であった。沢スジには小川が見える。これが芝川である。谷筋から流れてきた水を集めて、流れていた。これが田圃を潤していた。

「東京が日々攻め寄せる」と言ったのは徳冨蘆花だが、代々木あたりは真っ先に攻められた。宅地開発が進むと小川は責め立てられてたちまちに埋められる。その川跡をたどっても微かにドブの匂いがするだけでほとんど痕跡はない。


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2018年11月16日

下北沢X物語(3644)−代田北沢電車線文化論−

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(一)文化論はおもしろい、土地固有の匂いだからだ、が、嗅ぎつけられないとおもしろくない、嗅ぎつけて分かってくるととんでもなく楽しくなる。それで何時も聞かれる「なぜにここの文化を調べ始めたのか?」、もう数えきれないほど応えてきた。「前に自転車通勤していました。このときいつも足止めを食らったのが小田急線東北沢四号、交番前の踏切です。待っている15分がもったいない、ということで近辺をぐるぐる回ったのです、その時に嗅いだのはドブ川と鉄粉の匂い、それと路地の生活臭ですね」。ドブは地形と直結する、即ち沢地形だ、鉄粉は鉄道、電車は止まるときブレーキシューで車輪を締めつける。このときに鉄粉をまき散らす。前は駅構内の線路は鉄さびで黄色に染まっていた。上には井の頭線、下には小田急、鉄粉濃度が濃かった。路地にはカレーや焼き魚が臭った。この地域の特色は三つ、鉄道と沢と路地だ。近代の鉄道と武蔵野の名残の沢と路地。
 
レイモンド・ウィリアムズは『共通文化に向けて』(川端康雄 編訳 みすず書房 2013年)ではこう述べる。

 文化とは普通のもの−これをわたしたちの出発点としなければならない。あの地方で成長することは、一つの文化の形成と、その変化のさまざまな様態を見ることだった。


 文化とは格別のものではない普通のものだ。ごくごくありきたりのものがその土地で芽生え成長していく。大事なのはプロセスだ。これを文学にスポットを当てて論じるのは難しい。膨大な著作から書き手が成長する様を分析しなくてはならないからだ。

 しかし、このマチがどう形成されてきたか、変化してきたかはある程度は分かる。それは出発点がはっきりしているからだ。昭和2年(1927)4月1日だ。この日「新宿駅七時十五分発の開通祝賀電車」(小田急五十年史)が発車した。一番電車はヘッドマークをつけて装いを凝らしていたと思われる。
 神奈川県の方では各駅で盛大な祝賀行事が行われた。「花火打ち上げ、大神楽、浪曲、安来節や相撲」などだ。当地北沢、代田でも何らかの祝賀行事が行われたと思われる。

 とくに世田谷中原駅(代田駅)では何かの行事が行われたはずだ。土地柄が古いからここではだまってはいられなかったろう。地上駅の世田谷代田駅が地下化によって廃止になるときはやはり記念行事を行った。2019年度、世田谷代田駅に駅前広場が完成し、ここにダイダラボッチの足跡がモザイク模様で描かれる。わたしたちも準備会に入っているが三土代会による餅つき、神輿などが予定されている。開通日当日は花火の打ち上げがあって大変な賑わいだったのではないか。沿線にはゴザが敷かれ、そこに人々が待っていた。

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2018年11月15日

下北沢X物語(3643)−代田・北沢文化の源:研究大会の過程から−

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(一)北沢、代田の地域文化をテーマに研究会を開いてきた。今年は夏に第4回を開催した。「下北沢の戦後を語る」であった。「焼け遺ったまち 下北沢の戦後アルバム」の発行がきっかけだった。会での発表を通して認識したことは、「屋根のある家で文化活動は育まれた」ということだ。戦災で焼け遺ったまちで文学、芸術、演劇活動などが始まった。雨露を凌げる空間がどれほど大事だったか。戦災と文化という切り口は我々に視点を与えた。我らがフィールドとしている鉄道交差部周辺には日本の近代文化が濃縮されている。吹きだまりとなったここには価値が価値づけられていない逸話が果てもなく埋まっている。今、第5回を計画している。今度は「世田谷代田の歴史文化」をテーマとする。北沢は近代が核だが代田は古代が入ってくる。当地に潜んでいる文化の源は何か。一つは、境界であり、一つは地形であり、もう一つは交通ではないかと考える。

 研究会は我らがフィールドワークしている場で開いてきた、第一回が北沢小、第二、三は北沢タウンホール、第四回目はカトリック世田谷教会、これらは下北沢の中心部にあたる。今回、第5回目は梅丘パークホールでの開催を予定している。

 北沢東端、北沢中心、そして今度は代田西端となる。北沢小から梅丘パークホールまでの距離はたった二キロだ。土地の起伏があるが、このたった2000メートルに濃厚な文化が土地の皺に埋まっている。

 北沢小のすぐ東は渋谷区だ。間に玉川上水が流れていた、掘り向こうは豊玉郡、こちらは荏原郡だ、つまりは境界に位置する。北沢小学校の男児にとっては掘向こうは異界だった。大きなお屋敷があって森陰の湧水池には小魚が群れをなしていた。目の青い外国人もここに住んでいた。もっとも怖かったのは幡ヶ谷の火葬場だ。
「戦後のことですね、掘向こうに住んでいる外国人が絨毯を抱えて通っていくのですよ。下北沢のヤミ市で売っていたみたいです」
 北沢東端に住む人の証言だ、この人、掘向こうはもう異界だったと。こちらからあちらへと流人がゆく。その一人は大空詩人の永井叔だ、こういう流浪の旅人が北沢小の音楽講師となって子どもらにマンドリンの弾き語りをしていた。
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2018年11月13日

下北沢X物語(3642)−瓢箪から駒:ダイダラボッチから菊田一夫−

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(一)長い間、ダイダラボッチを取り上げてきた。今日の記事のエントリー数は、3642回目だ、過去をさかのぼると04年10月1日に「だいだらぼっち伝説を求めて」とある。ここでは風景と伝説とを絡めて論じている。かつて代田の丘からは遠方の山々が望見された。富士、丹沢、秩父、筑波山などだ。これは巨人を想像するときの手がかりだった。それで古代代田人は天という空間を物語の素材に使ってきた。「代田で夜目に見た巨人は、筑波山に腰をかけ長いキセルを浅間山の煙で火をつけ、煙草をうまそうに吸っていました」(『改訂世田谷の民話』)もこの一例だ。現代でも富士や丹沢は見えるが建物が高くなっていてその存在感は薄い。ダイダラボッチ伝説も希薄になってきている。今回のダイダラボッチの有形化をきっかけにこの貴重な伝説をどう後世に伝えるか。「ミュージカルってどうかしら?」と準備会で。これは代田SAPの女性たち。

 伝承を劇仕立てにするのは賛成だ。やはり大事なのは人が面白がることだ。それでダイダラボッチ伝説をミュージカル風に仕立てる。
「代田小の子どもたちがやるんですから大勢が出られる方がいいですね」
 代田SAPは代田小の保護者やOBの会である。この学校には和太鼓倶楽部もある。駅前広場のお披露目のときも彼らの出演も考えられている。

 ミュージカル「ダイダラボッチ」、発想としてはおもしろい。緑の丘にダイダラボッチが出現する。さわやかな印象での登場も悪くはない。小田急が開通して当地は開けた。緑の木々の間に赤い屋根の家、そしてとんがり帽子の中原教会の塔……あの思い出深い『鐘の鳴る丘』が思い浮かぶ。

 緑の丘の赤い屋根/とんがり帽子の時計台/どんがらどん/ダイダラボッチの足音が聞こえます……

 元歌は、菊田一夫作詞、古関裕而作曲だ。この二人、代田に居住していた。ところがこの話に関わることでことでびっくりしたことがあった。

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2018年11月12日

下北沢X物語(3641)−有形化されるダイダラボッチの課題−

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(一)2019年度内に世田谷代田駅前広場は完工する予定だ、ここにはダイダラボッチの足跡がモザイク紋様で描かれる。当地代田の語源はこのダイダラボッチから来ている。しかし一般的に誰でも知っている話ではない。密かに逸話として伝わってきた。が、今度はこのダイダラボッチが具体的な形としてデビューする。晴れの場、駅前に登場した彼は歌って行かなくてはならない。が、ダイダラボッチ本人は歌わない。デビューさせたら私たちが歌っていかなくてはならぬ、つまりは、ダイダラボッチ、巨人伝説の継承である。

 柳田国男は「東京市は我日本の巨人伝説の一箇の中心地」(『ダイダラ坊の足跡』)だと述べた、彼自身、実踏をして当地に足跡の痕跡をはっきりと認めた、まさにその中心地が代田である。その駅前広場に巨人の足跡をかたどった大きなモザイク紋様が出現する。

 私は全国の鉄道線は大体乗っている。各駅ホームには白い鳥居型の案内板がある。「ダイダラボッチ・巨人の足跡」下車駅などと書かれた看板は見たことがない。全国でも珍しい駅となるだろう。その新装される駅のオープン時には地域でイベントを行う。その準備会が動き始めた。餅つき、神輿、和太鼓演奏などが候補として挙がっている。ハレの場は賑やかな方がいい。

 が、大事なことはハレの次ぎにはケが巡ってくることだ。準備会に出席していた区の関係者からは、一回こっきりではなくて未来に繋がっていくといいと。そうだ、形を作ったらこれを伝承していなかくてはならない。他に類例のない名所ダイダラボッチは由来、歴史を継承していかなくてはならない。

 ダイダラボッチの根源を溯ることは困難である。何しろ話が古いからだ。が、まず開村から始まる。『世田谷の地名』、所収の「代田略年表」には、1590年、天正18年に吉良家の家臣だった七家、いわゆる代田七人衆が帰農して開墾を始めた。が、代田という地名はすでにあった。「この地域は、北条氏康の家臣垪和又太郎が永禄12年(1569年)にこの地の領主になったとき、すでに代田屯と呼ばれていたようです(『北条分限帳』)」(『ふるさと世田谷を語る』代田など)とある。

 記録は永禄12年、約450年ほど前までは遡れるが、これ以前は分からない。しかし、あるとき忽然と地名ができたわけではない。当地に、巨人の足跡があって人々はそれをダイダラボッチと呼称してきた。言い伝えは500年程度のものではなくて1000年ぐらいは遡るだろう。

 その理由は、ダイダラボッチと言われているところには必ず古蹟があることだ。つまり旧石器や縄文などの痕跡である。
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2018年11月10日

下北沢X物語(3640)−文化地図改訂八版に向けて−

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(一)「下北沢文士町文化地図」と銘打って2006年12月以来、これを改訂しながら発行してきた。現在のは改訂7版だ。(2013年3月)初版からの総発行枚数は6万部となる。これは下北沢鉄道交差部を中心とした文化地図である。毎年変化が激しい、これまではその都度、新しく見つかった作家旧居や文化関連旧跡を入れ込んできた。過去は過去で我々が生きてきた証として記録しておく必要がある。記録したことで歴史への関心が深まった。ダイダラボッチの跡、帝国音楽学校跡、店員道場跡、映画館跡などだ。2019年度に世田谷代田駅前に広場ができる。ここには念願のダイダラボッチの足跡が描かれる。これを機に動作が鈍くなった地図ソフトを入れ替え、新しいのにしたい。そのためには旧来の地図に載せていた痕跡をすべて閲する必要がある。完成すればまちの基礎資料となる。改訂八版に向けた意気込みだ。

 世田谷代田地区では駅前広場が完成し、下北沢とつながる遊歩道もできる。地図にはこれを記すつもりだ。遊歩道がかつての代田連絡線後を通っている。今日、北沢タウンホールで広場開園記念行事に向けての準備会があった。
 ひとしきり、代田連絡線で盛り上がった。そんなことからぜひ「代田連絡線」の案内看板の設置をしてほしいと要望したことだ。

 地図には新しくできる施設は記録される。が、消えていったものも大事だ。それが文化的に関わるものであればなおさらだ。現在地図に記録してほしいと要望が出ているのは、ジャズ喫茶「マサコ」だ。長年当地にあって文化発信を続けてきた店だ。これは地図に記録したい。今までは痕跡は載せていたが存続期間は載せていない。マサコは1953〜2009だったという。下二桁の年号ぐらいは載せられないか。


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2018年11月09日

下北沢X物語(3639)−夢か悪夢かリニア新幹線−

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(一)国中の空気が淀んでいる。天災続きもあるが一番は民意がないがしろにされているからだ。辺野古の工事再開、四十年超の原発再稼働の認可など次々に権力側が人々を圧しはじめている。一私企業が国家の後押しを受けて、超大工事リニア新幹線を推進している。これも十分な説明もないままに工事が強行されている。先だっての講演会の後、各地市民団体から実情の報告があった。共通していたことは、JR東海の誠意のなさだ。見通しなど十分に住民に説明がないままに工事は始まっている。各地で深刻な問題が起こっている。夢の新幹線は、悪夢の新幹線だ、報道はこれによって起こっている深刻な問題を取り上げない。今、市民が自由に空気を吸ったり、考えたりすることが窮屈になってきている。下手に反対すると叩かれる、そんな風潮すら感じられる。

 長野県大鹿村の例が報告された。ここは、南アルプストンネル工事の長野県側坑口である。この大鹿村では現在、二つの非常口(作業用トンネル坑口)で火薬による発破掘削が進行している。
「もう四六時中、発破の音がしてすごいのですよ。『ドーン』と雷のような音がして家が揺れるのですよ。平和だった村が戦場になったよう」

「発破が始まると、風呂場の床がひび割れたり、家の石垣が崩れたりしているんですよ。被害は訴えているんですが認めてくれないんですね」

「工事車両を通すための道路が土砂崩れで通れなくなったのですよ。そうすると村の狭い道路にダンプが入り込んでくるのです。これがすれ違えないのですね。通勤とか通学とかにさしさわりが出ています」

 大鹿村には中央構造線が走り、赤石構造帯などの多くの活断層があるとのことだ。
『総点検・リニア新幹線』(リニア・市民ネット・編著 緑風出版 2017年)にはこうある。

 このように活断層もあり、残土捨て場もない谷間に、実際山体が崩壊して大災害を起こしている地域、その大鹿村にトンネルを開けてしまうことは危険極まりなく、日本一美しい村の景観も壊してしまうことでしょう。
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2018年11月07日

下北沢X物語(3638)−リニア新幹線は本当に安全か2−

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(一)中央線笹子トンネル西口には「代天工」という扁額が掛かっている。「天に代わって工事する」、主語は明治の鉄道技術陣だ、「私どもが偉大なる天に代わって隧道を掘り奉ります」。自然を敬う思いが見られる。笹子トンネルは、4,656メートル、一方 南アルプスを貫く長大トンネルは20キロもある。リニア技術陣はどれほどに天を敬っているのか、ここには地震の巣となる多くの活断層がある。トンネルはこの地震に耐えられるか?また最も危惧されるのは掘ったときの膨大な残土(掘削土)をどうするのか。自然環境を破壊しないで処理できるのだろうか。知れば知るほど疑問が生じてくる。

講演をされたのは地震学者の島村英雄先生だ。「高速鉄道のトンネル……地震の危険性」という題で話された。5月に17日に行われたJR東海の、「中央新幹線品川・名古屋間における大深度地下使用の認可申請に関する説明会」では、「地震への対応方針」としてはこうあった。

・トンネルは、地盤に追随して揺れるので
 地表構造部に見られる振動の増幅が生じません。
 また、一般に、地震の揺れの大きさは地下深くなるほど小さくなる傾向にあります。


 私たちの認識としては地下は地盤と一緒に揺れるので揺れは地表よりも少なく、むしろ地下だから安全だという会社側の説明を鵜呑みにしていた。が、トンネルは決して安全ではないことを知った。その例示として丹那トンネルの話をされた。

◊丹那トンネルは、丹那断層というA級の活断層があって知らずにこれを貫通していた。
◊おびただしい出水が生じ芦ノ湖の水量の三倍にも達した。
◊トンネル上の盆地には渇水が生じ不作の被害が生じ一揆までおきた
◊工事中にこの活断層が地震を起こした。


 因果関係はわからないが工事によってひずみが生じたのかもしれない。
 が、ショックだったのは、「掘削中のトンネルが2,7メートル近くも左右に食い違ってしまった」とのことだ。

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2018年11月06日

下北沢X物語(3637)−リニア新幹線は本当に安全か?−

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(一)近代の論理とは何か、よく分からないことがあってもあたかも分かっているかのように説明することではないか?南アルプスの断層に長大トンネルを掘ってリニアを通そうとしている。施行側のJR東海は「安全」だと説明している。が、地震学者の講演を聴いて、「安全かどうかはよく地球と相談してからでないと回答できません」というのが本当のところではないかと思った。地震はいつどのようにしてどこで起こるか、そのメカニズムは分かっていない。地中深くリニアは通るから大丈夫だと回答しているがどうもそうではない。最も危惧されるのは大規模工事によって起こされる、自然環境の破壊だ。市民の一人として見過ごせない。

日々荏原を逍遙している。この地域をリニア新幹線が通るということは聞いていた。どこを通るか分からなかった。そんなときにフェイスブック友からこの説明会があるとの情報を得た。5月17日に奥沢小学校に聞きに行った。「大深度地下使用の認可申請に関する説明会」だ、着工を前提としたものだ。疑問が噴出したが聴衆は十分に納得したとは言えない。超巨大大工事への疑問は拭えなかった。

 このとき配られた資料によってコースが分かった。日々歩いているところだった。昨日も行った。自宅前の遊歩道を南下する、目黒線にぶつかるがここを地下道でぬける。地表には小さな公園がある。保育園児のたまり場だ、そこでおじいさんが園児に構っていた。
「あのねえ、君たちこれからが大変だよ、私はね、75年間苦労してきた。人生は大変だ、問題はこれからだよ、いいか覚悟しておけよ!」
 孫に小判?、園児たちはポカンとしている。保育士の先生は苦笑していた。これまでを生きてきた人、これからを生きる子との出会いだ。これからが大変は、よく分かる。多くの大問題が先送りされてこの子たちの肩にのしかかってくる。問題は、巨大工事での失敗は責任は誰も責任を取らないことだ。担当者が職務についている期間だけ無事であればよい。後は野となれ山となれだ。

「あんた、平日は大変だよ、中間貯蔵施設に除染した土を運ぶんだけど道はダンプで一杯だよ。三十年であれをまた県外に運ぶって、それはどう転んでも無理だよ」
 先だって福島県白河市に行ったときに地元民から聞いた。お互い無理と分かっていながら空約束をする。恐ろしい現実だ。
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2018年11月04日

下北沢X物語(3636)−文士町の陰翳と城ヶ島−

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(一)文化は固有的だ、鉄道交差部には鉄粉が匂い、浜辺には潮の香りがする。前者は都会的なきな臭さだ、これを嗅いでいると海や山が思われて、人はさすらいの旅に出たくなるのかもしれない。文化の日、城ヶ島を訪れて、我ら文士町の根源に触れたように思った。当地で出会ったのは北原白秋と宮柊二だ。文士町との繋がりが濃厚な歌人である。

「白秋先生は、一所に腰を落ち着けないで転々としておられたでしょう」
 城ヶ島白秋記念館の管理人の女性は言う。
「世田谷でも転居先が二箇所ありますね、若林と砧」
「そうそう最後は阿佐ヶ谷でしたね……今日は残念ながら曇っていますけど、この西、ちょうど真正面に富士が見えるのですけどね」
「ああ、じゃあ、そこに建っている碑は富士を向いているのですね」
 野毛山古墳に埋められた埋葬者は富士を向いていた、歌碑も霊峰を向いて建てられるようだ。
 白秋は大正二年(1913)に一年あまりこの三浦三崎に居住する。日々海岸から富士を見ていた。このときのことが詠まれているのは『雲母集』(きらら)である。ここに「不尽抄」として数首富士を詠んでいる。

わがこころ麗(うら)らかなれば不尽の山けふ朗らかに見ゆるものかも


前年の明治四十五年人妻と恋に陥り、その夫から姦通罪で告訴されるというスキャンダルを起こしていた。富士を眺めることで気持ちがほぐされたものだろう。

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白秋碑は、砂浜に建っていた。「城ヶ島の雨」が刻んである、根府川石で彼は、「帆型の石が荒磯に突き差したように」との希望があったようでそれを形にしたものだ。

雨はふるふる城ヶ島の磯に利休鼠の雨がふる

 歌碑を見ながら思ったことは、さすらい人の歌ったものだと思った。住んでいる人にとって雨が降ったとしても格別な感慨はない。が、エトランゼにとっては詩であった。

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2018年11月03日

下北沢X物語(3635)−近代日本カダンス文学論−

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(一)日本人の近代の情調を築いてきたのは汽車のカダンスだ、旅人の哀しみを、喜びを刻み、そしてまた欲情を喚起させもした。しかし、音律ははかない、たちまちに消え去る、汽車の響きのその音韻史を提起するものだ……

 音ほどはかないものはない、発生したとたんに消えて行く、時代時代には固有の音があった。物売りの声、ゲタの音、荷馬車の音。が、これらは記録されない。音にまつわる話は時代の闇に消えていくばかり、その一例だ、松本浅間温泉に疎開した学童は夜になって遠汽笛と微かな汽車の響きを聴いた、山の遙か向こう東京には父母がいる。上りはそこへ向かっている、音を聞きさして哀しみがこみ上げてくる。上級生は肩をさすって下級生を慰めた。汽車の音は遙かの父母を思わせる。

 幾多の音物語が編まれ、消えていったろう。それでも文学作品端々にはひっそりと音が記録されている。『東京に近づく一時間』という作品がある。その一節だ、「睡っている連中が多い。それだもんで、喋っている一組の男の声だけがさっきから、車輪の響きや短い橋梁をわたるゴッという音の合間に私のところまで聞えて来るのである。」。三等車の床下から絶えずカッタン、トッタンという響きが聞こえてくる。子守歌は大人まで眠りに誘う。情景が浮かんでくる。

 座席の青いモケットを陽が過ぎていく、車内に漂う薄青い煙草の煙、そして鼾、そこへ牛乳瓶が床を転がる、と、グワグワと音が響く、短い橋を渡る音だ。雑然とした車中で一組の男の対話だけが聞こえてくる。カタカタ、トンタンというカダンスがこれを際立たせる。旅の情調をこれが刻む、宮本百合子が記録した汽車の音の破片だ。

文学作品には汽車の響きが描かれる。が、総じてそれは男性の書き手だ。が、一人宮本百合子は別格のように思われる。しばしば味わい深い鉄道場面を描いている。『播州平野』は、その一つだ。
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2018年11月01日

下北沢X物語(3634)―会報第148号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第148号    
           2018年11月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、代田の呼称は「ダイダ」

 2019年度には、世田谷代田駅前広場が完成し、ここにはダイダラボッチの足跡のレリーフが完成するという。それで俄然、我らの会でダイダラボッチ熱が高まってきている。これに触発されてダイダラボッチ伝説のある場所を調べた。
 ダイダラボッチに関しての論考は、『ダイダラ坊の足跡』である。柳田国男が昭和二年に書き表したものだ、彼は世田谷代田に残っていたダイダラボッチの足跡を実際に訪ねて調査をしている。二番目に訪ねたのが野沢にあるダイダラボッチである。これは現在の鶴ヶ窪公園のある場所だ、沢のどんづまりになっていて池がある。現在は循環水が使われているが当時は水が湧き出ていた。この水を守るために弁天様が祀られていたが今もなお現存する。
 大正年間にこの脇を通り掛かった武蔵野会の会員鈴木堅次郎氏はここのことを「ダイダクボ」と記録している。漢字表記では「代田窪」と書く。さいたま市には「太田窪」という地名が今も残っている。やはりこのダイタクボもダイダラボッチ伝説から地名は生じているとのことであった。しかし、地元の人に何人にも聞いたが地名がダイダラボッチに基づいているということはほとんどが知らなかった。
 次ぎに訪れたのは、石岡市だ。ここに代田という地区がある。この読みは「ダイダ」である。みんな「ダイダ」と言う。やはりここもダイダラボッチから地名は来ている。伝説によると代田地区にダイダラボッチの足跡があったらしい。
 ここでは大きな特徴がある。毎年、ワラや杉の皮で作った大人形を作る。これを村の辻に立てる風習がある。市作成の資料によると、「天明の大飢饉の後、疫病などの災厄がムラに侵入しないように、藁製の大きな人形を立てるようなったのが始まりと伝えられる」とある。この人形をダイダラボッチと称している。
 今も三つの集落でこの風習が続いていて、行くと辻にこれが飾ってある。このことは近隣の人はよく知っている。代田がダイダラボッチから来ていることも多くが知っていた。しかし、農村地帯であるこの地域は人口が減少してきている。それで去年まではダイダラボッチも四体が作られていたが今年は一つ減って三体になったそうだ。ダイダラボッチの伝承も次第次第に消えつつある。

 世田谷代田駅前にダイダラボッチの足形のレリーフが作られる。このことから自身ネットでは連続してこの話を書いている。これを読んだ谷亀緑郎さんから「先先代の当主の斎田平太郎氏が平素代田のことを『ダイダ』と言っていたという」という情報を得た。非常に興味深く思ってこれを調べたことだ。茨城県石岡市の代田はやはり「ダイダ」だった。ダイダラボッチを由来としていることからである。

 世田谷代田は、ダイタと今は読んでいる。が、これはこう呼びましょうと決めたからであって、たまたまそう呼んでいるに過ぎない。茨城県の代田は、地名由来に基づき「ダイダ」と言っている。世田谷代田もかつては大斎田家の当主、この人は当地の歴史に詳しく、円乗院遺跡のことについて論考を書いておられる。根拠あって「ダイダ」だと言っておられたのであろう。
 この地名に関して調べると色々とおもしろいことが分かってきた。「代田橋」は、ダイタバシと読むのが読みにくい、代田+橋という連語の場合はどうしても濁ってくるようだ。代田橋のマンション名は、「ダイダ橋」と呼んでいる建物が多くある。
 代田大斎田家の前に歩道橋がある。ここの橋の名前がおもしろいよと邪宗門のマスターの息子さんに言われていってみた。「だいだみやまえほどうきょう」とあった。何のこともない、今も人によっては「ダイダ」と濁って言っている人が結構いる。
 ダイダラボッチが地名の語源だとすると「ダイダ」が正しいのだろう。

地名の由来については、「ふるさと 世田谷を語る 代田・北沢・代沢・大原・羽根木」(平成9年3月発行)」にはこうある。

この地域は、北条氏康の家臣垪和又太郎が永禄12年(1569年)にこの地の領主になったとき、すでに代田屯と呼ばれていたようです(『北条分限帳』)。代田の地名の由来は、「だいたらぼっち」の伝説によるという説が有力だと考えられています。昔、代田の西の守山近辺(現在の守山小学校付近)の窪地のことを村人は「だいたらぼっち」と呼んでいました。それは、この地に雨水や湧水を集めてできた沼地があり、その形が人の足跡に似ていたことから、大男「だいたらぼっち」の足跡と呼ぶようになり、池の近くの玉川上水に大男が一晩でかけたといわれる橋を代田橋と呼びましたが、今はこの橋も池もなくなっています。この「だいたらぼっち」が変化し、「だいた」になったというものです。

2、戦争経験を伝承する会

 私達は、毎年「戦争経験を聴く会語る会」を開いていた。今年で11年目となる。が、あの戦争から73年も経った。体験者はいなくなり、戦争も遙か遠くになってしまった。しかし、戦争の緊張は今も続いている。あの戦争を忘れないでいることは我らに必要なことである。これからも継続したい。
 しかし、通常の方法では困難になっている、経験者がいない。それでこのところ歌をうたったり、劇を行ったりしている。つまりは戦争第二世代が、戦争伝承をするようになったということだ。伝承に第二世代が加わって戦争を伝えていくことは大事だ。
 それでこれまでは「戦争経験を聴く会・語る会」としてきたが、これからは名称を変更して「戦争経験を伝承する会」にしたい。来年は第12回を開く。

3、実験オペラ反省創作会

「オペラ鉛筆部隊と特攻隊」の公演は無事終わりました。課題は、戦争をどう伝承するかだ。先だっての公演を踏まえて今後どうするか。楽しく語り合いたいと思います。
 打ち上げを兼ねた「実験オペラ反省創作会」を開くことにしました。飲んだり、食べたりしながら今回の実験を今後にどう生かすか、楽しく語りたいと思います。
なお、この会は戦争伝承を歌や朗読で行う、音響のいい教会を使って行おうというねらいもあります。
 興味ある人は参加できます。
・今後公演をするに当たってどんな工夫が必要か。
 参加された方々の意見はぜひ聞いておきたい。
・今回はカトリック世田谷教会の協力で戦争伝承ができた。この伝承を伝えるための工夫。 市民が参加して表現して伝える。さまざまな伝承の方法を考える。
〇開催日
 11月23日(祭日) 17時から世田谷カトリック教会食堂で
〇会費 1000円 飲み物、つまみなどの差し入れ大歓迎 ゴミは持ち帰る。
 申し込み先 きむらけんへ なるべく早めにメールなどで


4、都市物語を旅する会 

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第144回 11月17日(土)13時 小田急線南新宿駅改札前
案内人 渋谷川水と緑の会 梶山公子さん 「しば川」「隠田川」を歩く。
コース案:南新宿駅→渋谷川支流暗渠→明治神宮・北池→神社本庁→「千駄ヶ谷3丁目遊び場」(明治通り)→千駄ヶ谷小学校→千原児童遊園地→神宮前1丁目(原宿橋)→キャットストリート(渋谷川暗渠)→表参道(参道橋)→長泉寺(滝見観音)→渋谷駅北(宮益橋)→渋谷駅南(稲荷橋・新設遊歩道)→解散
・平成18年(2006) に発見された『寛永江戸全図』(寛永19~20年:1642)に描かれた渋谷川を、明治神宮「北の池」近傍から渋谷駅稲荷橋までたどります。その中で江戸から明治の水車の形跡と渋谷川、旧道と橋、新しく作られた道などを通して川と町の歴史を感じ取る楽しいツアーにしたいと思います。是非ご参加ください。


第145回 12月15日(土)13時 笹塚駅改札前
案内人 赤坂 暢穂(のぶお)さん 森厳寺川を歩く
森厳寺川は北沢中学辺りを源流とし、代沢小の東で北沢川に合流している支流です。ひっそりと流れている川ですが、沢山のドラマが眠っています。北沢四丁目に住む赤坂さんは子どもの頃から慣れ親しんできた川です。この昔の姿を彼の案内により辿ります。

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールでの申し込み きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

5、まちあるき検討会

 忘年会が行われるが開始に先立って短時間、話し合いを行いたい。
 ・関係者で集まって企画会議みたいものを行い。そこでコースや案内者を決めていくこ  とにしたい。毎回は大変なので年二回ぐらい行う。
 ・極力地域にシフトしていく。つまりは世田谷地域だ。が、格別関心の深い地域につい  てはこだわらない。水系、玉川上水、三田用水など
 ・一箇所に絞って、そこを集中して歩く、研究会的なもの。
この件は、忘年会で冒頭で若干議論してもらえたらありがたい。今回12月までは載 せている。前に松山信洋さんに品川宿を歩くを頼んでいたので 一月はこれでよいので はないかと思う。

6、北沢川文化遺産保存の会忘年会

 期日 12月1日(土)
 場所 北沢タウンホール三階ミーティングルーム
 時間 17時40分から *一品持参 オークション品も
 会費3000円 「祝!創立14周年」弁当
  アトラクション ロス・コンパニェロス再度登場
*申し込み締め切り11月28日(水) 弁当を信濃屋に発注する。


申し込みは 連絡幹事の米澤邦頼へ 090−3501−7278
または、きむらけんにメールで k-tetudo@m09.itscom.net
◎会場は公共施設でゴミは自団体での処理が義務づけられている。これまでは一部の人に負担を押しつけていた。基本、ゴミは持ち帰ることにしたい。協力を。

■ 編集後記

▲ 漆の玉手箱展 当会会友の矢花克己さんの知人伊藤猛氏が羽根木で個展を開くとの案内。世田谷区羽根木1−21−27 Wasabi-Elisi+atolyeB  期日10月24日(水)〜11月5日(月) 時間11:00〜17:00 主催者の伊藤猛さんは漆で五輪メダルを作っておられる方で、その展示もされる。
▲会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。



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