2018年12月

2018年12月31日

下北沢X物語(3674)−印象に残った2018年の言葉−

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(一)カタストロフィ、人類の大破局、長く生きてきたが2018年、これが現実味を帯びてきた。巨大台風、豪雨、酷暑など近来にない異常気象に襲われた。また世界中に吹き荒れる政治問題、根本には移民問題がある。これ以上流入移民は受け入れられない。国境に壁をという考えが強まって世界は急速に閉塞化してきた。この背景にあるもので見逃せないのはアイデンティティーの崩壊だ、長い間育んできた文化が薄れていくという危機感だ、この日本でも移民が大きな問題となった、が、目先の利益、人手が足りないから移民を受け入れようと決めた。島国日本は差別意識が濃厚だ、流入してくる移民と文化観をどう分かち合うか、全く考えられていない。当座の問題は解決するが時間が経てば問題は噴出してくるはずだ。その土地に生きて、その土地の特質を知って生きる、生きていく上の根本だ。いえばその文化観も崩壊の危機に瀕している。

 この2018年、一年間、ひたすら歩いて文化探訪を行ってきた。行って聞く、多くの人に出会った。印象に深く残った言葉を記してみる。

・除染廃棄物は三十年後に県外へというが無理だ。

 前から行ってみたかった白河の関をこの夏に訪れた。奥の細道への難関峠だ、即、車で乗り付けてはいけない、それで歩きに歩いた。起伏に富んだ田園地帯が続く、が、人影がない、どこもそうだが今地方では人口減少が進んでいる。新幹線や高速道路によって人々は東京に吸い上げられている。渋谷のスクランブル交差点には人が気持ちが悪いほどいる。
ようやっと出会った親父さんに話しが聞けた。
「今日は休みの日だからいいが平日は除染廃棄物を積んだトラックが車列をなして通っていくんだ。福1の周辺にできた中間貯蔵施設に運ぶんだ」
「あれって30年経ったら県外へ持っていくという約束ですね?」と私。
「どう転んでも無理だよ、あれほどのものをどこが引き受けてくれるんだよ」
 人間は現役で働けるのは三十数年、自分が現場にいるときをしのげばそれでよい。受け入れる側も運び込む側も無理だと分かっていながら「三十年できっちり県外へ」と約束する。今日現代の茶番劇だ、六ヶ所村への高レベル放射能廃棄物の受け入れも30年から50年間とし、県外に運び出すとしているがほとんど見通しが立っていない。

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2018年12月29日

下北沢X物語(3673)−詩人はなぜX町に集うのか?−

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(一)鉄道が交差する一帯は、詩人密度日本一だ。詩人、俳人、歌人の数は異常と思えるほどに多い。なぜに集ったか、一番は鉄道のクロスだ、四方向から人が集まり、そして去って行く。詩歌人は、本質的にはさすらい人だ、交差部には縛りがない、飽きたら立ち去る、気に入ったら住み着く。自由性が高い。もう一つ大事なことは都心東京との距離である。国木田独歩は「東京は武蔵野から必ず抹殺しなければならぬ」(『武蔵野』)と述べた。都心から距離を置いたところが詩人の居場所だ。抒情が生まれる場である、遠くに東京の灯りを見、都会の残響を聞くことで詩は生まれる。放浪者にとって好都合なポジションである。

 当地に集った詩人の作品がある。土地のことを歌ったものはないか、多くを調べてきた。
一番適しているのは詩よりも短歌や俳句が分かりやすい、後者はほとんどが年代順に並べられている。これらを漁り漁ってきた。斎藤茂吉、尾山篤二郎、堀内通孝、中村汀女、中村草田男、加藤楸邨、宇田零雨、上甲平谷などだ。はっきりしていることがある、家に居るときの作品は少ない、旅に出るととたんにこれが多くなる、情緒が刺激されるからだ。さすらい人にとって旅は大事だ。

四通八達という言葉がある、(大都会などで)道路・鉄道が網の目のように四方八方に通じていることを言う。鉄道の交差はこの基幹となるものだ。具体的には小田急線であり、井の頭線である。海へも山へも行ける。

 小田急線が海へ通じていることはロマンであるらしい。下北沢駅前市場の茶舗「高村園」のご主人にインタビューしたことがある。
「夏はずっと江ノ島に行っていました」
 海の家のアルバイトだ。江ノ島と下北沢の関係がおもしろい。だいぶ前のことなので記憶もはっきりしないが、浜は組関係の「シマ」だったようだ。夏になると当地から若いものがアルバイトで出稼ぎに行っていた。彼はそれを懐かしがっていた。下北沢を通る小田急線が海に通じていたことへのロマンを感じていた人だ。

 世田谷代田駅お別れ会というものがあった。そのときに挨拶に立った人が、代田連絡線を使って井の頭線経由の江ノ島行きの電車が計画されたこともあったと言っていた。富士にも、箱根にも、江ノ島へも通ずる路というのは詩情をかき立てるらしい。続きを読む

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2018年12月28日

下北沢X物語(3672)−都市論、都鄙論、沢の町−

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(一)東北沢4号踏切に行く手を阻まれたことがきっかけで、以来十四年間一帯の文化を調べてきた。その間、大勢の人と会ってきた。一人一人の記憶にまちが眠っていた。駅前市場の茶舗「高村園」のご主人もその一人だ、市場の路地を行き交う人の足跡を聞いてきた。音で人の健康度が分かった。傾向としては若者の歩き方が変わってきたとも。心が靴に載っていない、音で言えば北口駅前市場には水が流れていたと聞いた。沢の一つだ。市場の西側は崖だ、上から下へと流れがあるのは自然だ。水も流れてくるが娘も流れ着いてくる、「大当たり三色娘」を思い出した。これも沢の物語だ。

「『大当たり三人娘』という東宝映画があるのですよ。知っていますか?」
 反応はない、しかし車椅子に乗った矢崎さんは頷いた。古い人でないと分からない。
「昔は、映画が始まるときにニュースから始まったのですね、画面が四角です。終わると左右の黒い幕がゆっくりと開いていくのです、ワイヤーが滑っていく音が、ジジジジンと聞こえてくる、新しい世界が始まるという期待感がありましたね……」

「大当り三色娘」は、昭和32年(1957)封切りの東宝映画だ。初のシネマスコープ作品である。終戦後12年経っている。社会はすっかりアメリカナイズされている。この映画ミュージカル仕立てだ、美空ひばり、江利チエミ、雪村いずみの三人娘が最初に出て来て歌をうたう。三色娘はそれぞれに色がついている、カラー効果を最大限に狙ったものだろう。

 改めてこの映画を観る、キャストを見ているとこの脚本は井手俊郎が担当していた。彼は下北沢にある東宝の大部屋役者の寮に住んでいた。ここで脚本を書いていた。そして駅前のCafe「マコト」にもよく来ていた。東宝の映画監督のたまり場だった。

 井手俊郎は最初から下北沢をイメージしてこれを作ったように思われる。沢と丘とがうまく配置されている作り方だ。

 冒頭三人が歌い終わった後、文字が大きく描かれた看板が現れる。「下北原マーケット」だ、このときに電車のタイフォンが鳴る。ぷぉぉぉんという音だ、これにも意味がある、市内電車のチンチンではない、郊外電車の警笛、小田急電車だ。
 この映画のロケは、下北沢駅前市場で行われた。
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2018年12月26日

下北沢X物語(3671)−対話沸騰、都市論、都鄙論−

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(一)ローソクの灯りに揺れる「ノエルの小径」を歩いた。思いが刺激されたのだろう、別れがたくなって企画参加店の一つカフェ「CAFE KOYOI」に行った。宵の町を歩いてきて町が醸し出す銀粉が身体や衣服にもまとわりついていた。そのせいで興奮したのか熱く語った、都市論、都鄙論だ。フリーライターの女性、「町に哀感が漂っているのよね」、ミュージシャンは「おおかた音が死滅してきたけどここには生の空気感がある」と。「沢的な町が今も生きているのでしょうね」と私。話しているうちに都市間格差の問題に発展した、「千葉なんかの町並みは東京の延長みたいになっていて均質化しているのよね。だけどここには田舎が残っているのよね」……
 都市論、都鄙論だ。

「ここの西側に高圧鉄塔があるのです。東京内輪線といいます。東京を取り囲んでいる鉄塔ラインです。内側には鉄塔がないわけだからこの辺りが都市と田園との境になるのですね、この鉄塔近くに住んでいた詩人の三好達治は場末と言っていますがまさに都鄙境ですね……彼は鳥が好きで、世田谷代田にやってきた鳥のことをよく書いています。庭には樹木が多くあったのです。高圧鉄塔まで飛んで来たやつらが遊びにくるらしいのです。すると耳のいい彼は明治神宮から飛んで来たものだと判定するのですね、各県の銘木で育った森ですから鳥が多く集まってきます。当然のことですが音楽性が高いわけですよ。他の鳥と競うわけですから、そういう美声を持った鳥がここにやってきて、ぴぃぴぃと鳴く。鳥好きの詩人は恩恵を受けるわけですね、やはりここが都市と田舎の差ですね……」
 東京内輪線は、一つの介在物だ、12本の高圧線は休むのに都合がいい。小鳥の音楽家たちには憩いの場所である。

「不思議なんですよね、高圧鉄塔ラインには作詞家とか作曲家、詩人などが多く住んでいるのですね。ここに鳥が飛んできてばらけて留まる。偶然の所産、音符に見える。大概芸術家は息詰まるものです、ふと見るといい具合にばらけて音符になっている。これが彼を救うのです、鳥の音符に発想を得て、ぽんぴんぴんとピアノを弾いてみる、『案外に行ける!』ということで曲ができたなんてことも……」
「あっははは、冗談でしょう」と皆。
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2018年12月25日

下北沢X物語(3670)−路地に揺れる燈:聖夜のまち歩き−

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(一)夜のまち歩きは初めてだ、が、昼とは違って匂いや空気が異なる。まち独特の空気のトンネルを潜っていくと刺激を受ける。ついにはカフェで「下北沢ビール」を飲みながら遅くまで文化を語った。ここには至る所に次元の穴が開いている。そう言ったのは詩人の吉増剛造だ、どうやら我らも次元の穴に入り込んだようだ、文化論は沸騰した。スタートは駅前だ、「これからまち歩きをしますが、キーワードは三つです……鉄と沢と路です。鉄は何でか?『鉄道!』、『そう土台ですね、ここでクロスした小田急線と井の頭線とが多くの価値を運んできた。文化の原動力となった……」

 我らのまち歩きは23日だ、前の日の22日に下北沢東口が落成し、始発に合わせ早朝にセレモニーがあった、それに参加した山本裕さんから聞いた。長年親しんできた北口が東口となった。

「昭和二年に開業して以来、多くの歴史を紡いできました。今日は、ローソクの点った路地を探検していきますが、ここに多くのランタンが集まった歴史的事実は覚えていてもらいたいのです……それは昭和19年8月12日です。この日数多くの提灯が集まってきました。戦争中ですから灯火管制されています。街灯は真っ暗、代沢小から、東大原小から多くの学童が駅に集結しました。先導したのが提灯なんです、北口にこれがゆらめいたのですね。電車が警笛を鳴らして出発していきます。親が火の出るような口調で我が子の名を叫びました。提灯は一層にゆらめきました……」
 
「予定時間一時間です、キーワードに基づき、歩きます。二番目は『路』といいました。いろいろの路が交差しているのがおもしろいのです、古道に新道に路地、地域特有のものです。三番目は『沢』ですね、下北沢は沢のまち、至る所にこれがある、探し当てるのは容易です、低くなっているところが沢、かつてのドブ、小川です……」
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2018年12月23日

下北沢X物語(3669)−孤高の詩人吉田一穂と下北沢−

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(一)下北沢鉄道交点一帯には数多くの詩歌人がいた。その全貌は分かっていない。消息が分かってきた一人に吉田一穂(よしだいっすい)がいる。孤高の詩人だ「あらゆるものを否定して憚らなかった」(添田邦裕『定本 吉田一穂全集 別巻 小澤書店 平成5年)という、一時期下北沢にも居住していた。鉄道交点に集う文化人の特徴は一徹であることだ、地域的特性と思想とに連関性はあるのだろうか?


下北沢裂くべし、下北沢不吉、日常久しく恐怖が芽生え
る、なぜ下北沢、なぜ

 
 吉増剛造の『黄金詩編』(現代詩文庫41 吉増剛造 思潮社 1971年)の一節だ。彼は吉増剛造は下北沢という土地に深い愛着がある、その一端がここに現れている。なぜに日常久しく恐怖が湧いてくるのか、それは当地一帯にぽこぽこ「次元の穴」が口を開けているからだ。そこに入って行くとどこに連れられていくか分からない。

 詩人吉増剛造は下北沢に恐怖する、それは詩の巨人が居たからだ。萩原朔太郎である。この吉増剛造は吉田一穂詩を高く買っている。一穂の詩に次元の穴が開いているのかもしれない。

 彼は吉田一穂の詩を筆写した。

(……書き写していると筆の先端に別の言語系統がしのびよるようだ。それもこれも吉田一穂詩の詩だから起る、異化作用の如き一環なのか、分からない)
 『定本 吉田一穂全集 �機”嬾拭‐�澤書店 平成5年)


 一穂詩に引っ張られる、引き摺り込まれるのかもしれない。その詩を彼は引用している。「内部」という詩だ。

 外部に歯をむく垂直な骨格をした人間は、生活の断崖に爪を研ぎ、吠えて落ちた。泥土にもがく日々の陰惨なテロア!耐え難い飢渇が、ガックと膝を折って突き倒す、虚しい反射痙攣の描く半円を痕して。  ……

 人間の精神、内面を言葉を通して具体的に描いている。吉田一穂独特の表現だ。

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2018年12月22日

下北沢X物語(3668)−蝋燭の点る聖夜の小径散歩−

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(一)「クリスマスの夜、まち歩きをお願いできますか?」との連絡、案内人の都合が付かなくなってピンチヒッター役が回ってきた。下北沢のイベント「小径のノエル」、企画に賛同するお店が店先にキャンドルを飾り聖夜をもり立てる、それらの店を巡りながら町案内をするというものだ。出発は、駅前広場、しもきたスクエア。ここがキャンドル広場になっている。まず皮切りに何と伝えるか?燈つながりで言えば、1944年8月12日の夜だ、ここに行燈が多く集まった、人の数約2000人ほど二校の学童が疎開に出ていった。行燈がゆれて「幸子!」、「一郎!」と、必死に親が我が子の名を叫んだ……ということもあった。が、今は平和、灯にいいことをイメージしたい。参加者は燭を見て何を想像するだろうか?

「私は三つイメージしました。まず一つ目この下北沢は、沢のまち、至るところに小川が流れていました。当時を知る人は、蛍が群れていたといいます……」
 古老の三十尾さんから聞いた、森巖寺川には小魚も群れていた。幻影の蛍だ。

「二つ目、『小径のノエル』と称していますが、路地に幾つもキャンドルが点っているのですよね、入り組んだ路地町には人に知られない逸話が多く眠っている、その一つ一つが点っているのかも……」

 国木田独歩は「武蔵野」で田園と都市の境に「哀れの深い物語、あるいは抱腹するような物語」、これが「二つ三つ其処らの軒先に隠れて」いるという。思い出すのは独歩の孫だ、俳優の三田隆である。映画で主役を務めたほどの人気ぶりだったが、身を持ち崩し、「下北沢の自転車屋の二階で看取る人もなくこっそりと死んだ」という。

「……三つ目ですが、ここには多くの若者が集まってきますね。音楽志望、演劇志望の人たち、いわば心に灯を持った人たちです。こういう人たちは今もいます。けどももっと沢山いたのですよ、それは詩人なんです。それは多分驚くほどの数ですね……」
 この話は分かってもらえないだろう。
下北沢は詩人が集うまち、だった。
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2018年12月20日

下北沢X物語(3667)−森巖寺川探訪まち歩き総集編−

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(一)まち歩きの最後、お茶を飲んで文化を語った。電車文化論、上辺の京王線と下辺の玉電との関連性だ、両線の特徴は幅広、軌間1372ミリ、馬車軌道と呼ばれたものだ。東京市電への乗り入れを前提としていた。いわゆる路面電車系統の路線だ。関東大震災前に両線は開通していた。東京下町で被災した人たちが逃げてきて沿線は人口が膨らんだ、その特徴を残しているのが京王の笹塚近辺、玉電の太子堂近辺だ。木密地域でごみごみしている点は共通している。庶民の町だ、ここには文芸放浪人も集まってくる。笹塚は福田正夫を中心とした集まり、太子堂は林芙美子を中心とした集まりだ。路面電車的な庶民性を持っている。一方、京王と玉電の間に、新しい郊外電車が敷設される。鉄道空白地域でそこには武蔵野が残っていた。この真ん中をぶち抜いたのが小田急電車だ……。鋼鉄電車、鉄骨支柱、複線、築堤、切り通しなどの最新設備を備えていた。モダンな路線にはモダンな人が集まってきた。下北沢近辺でいうと横光利一であり、萩原朔太郎である。

 下北沢文士町に集った詩人、俳人、歌人の作品を読むと、武蔵野的な面影が作品に色濃く出ている。いえば郊外電車が切り開いた一つの影響である。小田急は昭和2年、井の頭線は昭和8年に開通する。利便性が高まったことから多くが集まってくる、教会もその一つだ、教会といえど需要と供給とがある、知性と教養のある信者、これがどこからでも集まれる、鉄道交点の利便性が大きく影響している。

 宗教や歯医者さん、詩人、歌人、俳人が集まってきた。ちょっと降りてお参り、ちょっと降りて治療、ちょっと降りて歌を詠む、鉄道交点の利便性だ。何でも集まってきていた。色香もそうだ。昭和20年1月1日は元旦だ、小田急線下北沢3号踏切のすぐそばに静泉閣という高級アパートがあった。空襲警報がなってここの壕に飛び込む。

 「ひえびえとした壕の中にドキンとする香が匂った。それは私が長い間忘れていた」(『日本空襲記』 一色次郎 文和書房 昭和47年)と記される。このアパートには2号さんが多く住んでいた。壕に飛び込んだ瞬間、おめかしをした女性の色香が強烈に匂ってきた。きっと昼には男が訪ねてくるのだろう。
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2018年12月19日

下北沢X物語(3666)−北沢は空襲リストから外されたか?−

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(一)森巖寺川は笹塚から北沢へと南下して流れている。途中井の頭通りを渡る。かつての防火帯でもあった。この北側は焼け、南は焼け残った。今でもまちの風合いが違う。差が一番分かるのが現一番街だ、鎌倉通りから下ってくると真ん中あたりで通りが古色を帯びていると感じる。ここの戦後風景がDr.オースティンによって鮮やかに撮られている、写真の雰囲気が今もはっきりと残っている。事実戦前からの建物が今も使われている。戦災に遭わなかったことがまちの雰囲気に大きな影響を与えている。かつてここには八幡湯があった。この銭湯の角の道を北へ行く路地がある。昭和9年の地図に御殿山小路と記されている。風格のある名前を借りたものだ。なぜ御殿なのか。屋敷や邸宅があったからだ。その代表格が綿谷邸である。これら御殿があったことから戦禍を免れたのではないか?まちの謎だ。

 森巖寺川は中山谷、野屋敷の境界を抜けていく、右岸が高く緑が鬱蒼としている。綿谷邸である。赤坂先生が作った資料にこう書いてある。

 綿谷邸:元朝鮮殖産銀行頭取、貴族院議員有賀光豊邸、戦後連合軍将校宅として接収、敷地千坪、保存樹林、映画のロケに利用されている。

 宏壮な邸宅である。御殿山小路の奥には屋敷や邸宅があった。建築家今井兼次の斬新なデザインの家などもあった。この一帯は赤松林であった。

「この綿谷邸は何度も来ましたけども玄関のところに行っても千坪もの広さがあるというのは分かりませんよね。ところがネットでは昭和22年の航空写真が見られます。これで見るとこの広さはよく分かります。米軍のB29は昭和19年11月1日に東京上空に姿を現します。いわゆる偵察ですね、航空写真を撮りまくったのです……」と私。

 高高度の一万メートルを飛行するB29が初めてその姿を現す。大変な騒ぎとなった。
高射砲で当たるわけはないのに部隊によっては撃ちまくった。
「まったくあれは無駄でした」
 駒沢高射砲陣地の中隊長からじかに聞いたことだ。
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2018年12月17日

下北沢X物語(3665)−文化人ザクザク森巖寺川−

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(一)森巖寺川は、まちの裏側を流れている、暗渠化したとはいえ固有の匂いがする、これこそが文化である、川探訪でまちの裏事情が読み取れた。古びた空き家があったり、解体作業中の屋敷があったりもする。高齢化による代替わりということがある。壊されると大概はアパートになるようだ。町の人通りと居住人、下北沢には若者が多くやってくる。音楽家志望、演劇志望の人も多い。アパートには単身者やカップルまでは住める。が、家族ができると住めなくなる。若い夫婦が住むには家賃は高すぎる。このまちの特徴は、人は住んでいるが子どもはいないことだ。地区には、北小、大原小、守山小の三つがあった。これらは一気に合併して下北沢小学校になった。実は文化は子どもが伝えるものだ。子どもが減ると文化も衰退する。

 子どもが文化を受け継いでいく、なぜ知ったか。疎開学童の調べを通してのことだ。この地域全部の学校は長野に疎開した。親のいない子どもだけの生活は味気ない、しばしば演芸会が行われた。さすが文化都市からきた学童だ、音楽や踊り演劇手慣れたものだ。ダンスなどあまりのできばえの良さに、地元の爺さんが入れ歯を噴き出したという伝説があるほどだ。環境としての芸術文化、これに彼らが身近に接していたことが大きい。代沢小のミドリ楽団の指揮者の女性、母は英国音楽学院の出だと。母がピアノを弾くとみんな集まってきて歌をうたったと。戦前の話しだ。

「家族で住めない町になってしまいましたから、いわゆる絆というものがどんどんと希薄になって行きますね、このまちが抱えている大きな問題ですよ」
 赤坂さんが言われた。

 町の過去では空襲が話題になった。青空公園のところだ。
「そこのお家は玄関のところに焼夷弾が落ちてきたのですね。誤爆ではないかと……」
 昭和20年5月24日、25日、この一帯は空襲に襲われた。
「中村草田男がこのすぐ上の貸家に住んでいました。やっぱり焼夷弾が落ちてきているんですよ。だから誤爆ではなく流れ弾ですね」と私。

 大空襲 自宅付近に落ちた焼夷弾を消し止め、未明まで奮闘し類焼を免れた。
 中村草田男全集 別巻 みすず書房 1991
 
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2018年12月16日

下北沢X物語(3664)−森巖寺川・文化泥濘地帯探訪行−

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(一)下北沢鉄道交点は沢のまち、至る所にハケがあって水が湧出していた、その流れには蛍がいたと土地の古老は言う。光る虫の乱舞は詩である、輝いていたのは蛍だけではない、沢筋には至る所に言葉を輝かす詩人が居て一帯を徘徊していた。当地には水脈ならぬ、詩脈が走っている。分かってきたのはこれが三つあることだ、北原白秋系、萩原朔太郎系、福田正夫系である。彼らに傾倒する若い詩人が沢筋、路地筋を人知れず行き交っていた。当地は、詩人濃度、密度日本一であった。昨日は沢筋の一つを歩いた、森巖寺川である、支流は笹塚に、大原に、下北沢にもある。これが詩人福田正夫が住んだところと重なってくる。この川は短い。沿岸には過去蛍が乱舞していて、我ら参加者は興奮した。最後は珈琲店、「邪宗門」に行き皆で川旅冒険を熱く語った。

第145回、まち歩きを昨日15日実施した。テーマは森巖寺川を歩くだ。案内者は地理学者の赤坂暢穂先生だ、北沢小学校出身で小さいころ近辺をさんざん冒険しまくった人だ。まず我らは京王線笹塚に集まった。
下北沢から笹塚までは近い、参加者の三人の女性は歩いてきたという。そうかつてはこの笹塚の方がにぎやかだった。かつて「笹塚演芸館」があって、ここでは弁士が活躍していた。近隣の人々は映画や演芸を見るためにここに来ていた。
 
 町の発展と形成というのが今回しばしば話題になった。小田急線よりも京王線の方が早く敷設されている。下北沢と笹塚、隣合ったまちどうしは深い関係がある。
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 詩人の福田正夫は、「関東大震災で丸裸になった正夫が生地小田原を引き揚げ、上京し」(『父福田正夫』福田美鈴 教育出版センター 1984年)「東京市外世田谷下北沢809番地」(年譜)住んだのは大正12年末のことだ。現在の北沢五丁目の北東端、笹塚駅近くである。

 震災被害を受けて東京下町から多くが京王線や玉電沿線に逃げ延びてきて住んだ。小田原からというのは珍しい。が、文芸で食べていくには東京が一番だ、選んだ土地が下北沢の北東端だったのは興味深い。ここに民衆派詩人福田正夫が越してくる。彼を慕って多くの若者たちが集まってきた。
 この北五は、いわゆる木密地域だ、狭い家に集まって若者は熱く文学を語っていた。詩人は多くは貧乏だ、が、志を持った彼らは未来に希望を持っていた。彼らは心の光に火を点してい、そんな集まりの中に孤高の詩人、吉田一穂がいた、昭和4年、短期間だが「下北沢14番地」に居住している。詩の蛍の一匹だ。
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2018年12月14日

下北沢X物語(3663)−18.12.14国家は沖縄に泥爆弾を投擲した−

武剋隊満州新京にて
(一)昭和20年3月末、浅間温泉富貴の湯で沖縄特攻に向かう15名が舞台に立って歌った、「世界平和が来ましたならばいとしなつかし日の本へ」と、聞いていたのは東大原国民学校の疎開学童である。明日出撃するという最後の夜だ、はるばる満州新京から松本陸軍飛行場に彼らは飛んで来た、特攻出撃へ備えて機体改造をするためだ。彼らは当地で偶然に疎開学童に行き会った。「君らの未来を護るために征く」学童に言っていた。沖縄が米軍によって占領されかけている、日本人として許せない、命を賭して沖縄を護るのだと。そして多くが沖縄の海に散った。一方、今日2018年12月14日、日本政府は沖縄の辺野古の海に土砂を投入した。「辺野古の海を護ってほしい」、県民多くの願いだ、しかし政府はそれを平然と無視して泥爆弾を沖縄に放擲した。水浸く屍、特攻兵の思いとは重ならない。

沖縄県は、ホームページで実情をこのように訴えている。

沖縄には、多くの米軍基地があります。
特に、米軍だけが使っている基地(米軍専用施設)は、日本にあるもののうち、その面積の約70%が沖縄に集中しています。

米軍基地の多くは、街の真ん中や近くにあるので、ショッピングセンターや公園、道路をつくることなど、沖縄の人たちにとって暮らしやすい街をつくることが難しくなっています。

米軍の飛行機やヘリコプターの事故が起きたり、戦闘機(せんとうき)などの大きな音が原因で夜眠れなかったり、学校の授業での先生の声が聞きづらくなったりもします。
また、米軍基地から飛行機などの燃料油がもれて川や海を汚し、沖縄の豊かな自然環境を壊してしまうなど、いろいろな問題が起きています。
さらに、米軍の兵隊が起こす犯罪も大きな問題のひとつです。

これらの問題は、沖縄の人たちの生活や自然環境に大きな影響(えいきょう)を与えています。


日本は民主国家である。人々の考えを大事にするというのが国家の基本である。公平でなかったら公平にする。日本には米軍基地が置かれているがその大半、70パーセントが沖縄に置かれているのは著しく不公平である。これを改善してほしいというのは当然の願いである。

 もう一つ、日米地位協定がある。

日米地位協定

在日米軍基地の管理権は米軍が持つことや、米軍への課税免除、軍人、軍属らの刑事裁判権などについて定める。運用改善や補足協定が結ばれるなどしてきたが、条文は1960年の日米安全保障条約改定に合わせて締結以来、一度も変わっていない。

  日米地位協定(2017年10月29日 朝日朝刊)

 米兵が婦女を暴行するということは何度も起こっている、が、刑事裁判権は日本側にはない。公正な裁判すら沖縄県民は受けられない。

 騒音問題もひどい。夜間は飛ばないということになっているがその約束は平然と打ち破られている。
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2018年12月13日

下北沢X物語(3662)−浜のダイダラボッチ&文明−

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(一)ダイダラボッチが尻餅をついて菊名池ができた。その時の踵跡が、仲手原で、起き上がろうとして手をついた指の跡が白幡池だ、身体を動かした影響で谷戸谷ができ、富士塚にまで影響が及んだとある。浜のダイダラボッチはいわば地形物語だ、が、一回行っただけの私には地形がイメージできない。朝起きて、「今日もダイダラボッチ」と覚悟を決める。そしてまた現地に向かった。まずは東横線妙蓮寺で降りて菊名池へ、数名の古老がいたので聞いてみる、「ダイダラボッチが尻餅をついた?そんな話は知らないよ」、もうバードに夢中だ、彼らには鳥に小判?諦めて丘を上る、富士塚と名のつく町だ、延々と尾根道が続くのは小気味良い、出会った人に富士は見えぬかと聞く。すると裏手に巨大な塔が見えるという。「文明の墓標だね」と。風景の辛口評論家は言う、何とまあ、新横浜駅に建つ高層ビルのことを指していた。

 菊名池は二回目の訪問となる、最初来たときに「もっとここの池は大きかった。真ん中に橋が架かっていた」と聞いていた。行くと菊名池公園プールがあった。これを造るために埋めてしまったらしい。池の名残がここにあった。弁財天である、祭神は市杵島姫命でイチキシマヒメは宗像三女神の一柱、水の神である。古くからある池で周りから集まってくる水は農耕に使われていたと推測できる。ダイダラボッチは湧水池である場合が多い、それでお約束ごととして弁財天が祀られる。
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 池には、バードウオッチャーが五六人もいる。
「それはキンクロハジロだよ」
 鳥の名を聞くとたちどころに答えが返ってくる。渡り鳥だ。
 この間も三人に聞いたが、池のダイダラボッチ伝説は誰も知らない。どうもこの話はこの一帯では死滅してしまったように思われる。

 ダイダラボッチが転倒した、このときジタバタしたことで地形が影響を受けたともいう。その一つ、「富士塚」には深い興味を持った。坂を登っていくと「富士塚町」である。
「富士塚という塚はないですか」
「いや、塚があるというのは聞いたことはありません」
「富士山はよく見えますよね」
「それはもうね、今日は駄目かもしれませんね」
 彼女は薄曇りの空を見て言った。

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2018年12月12日

下北沢X物語(3661)−浜のダイダラボッチと古老−

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(一)ダイダラボッチ伝説の地は方々訪ねた、が、代田ダイダラボッチよりも近いのに行ってなかったところがあった。浜のダイダラボッチだ、自宅からは東横線でひょいと行ける距離にある。ついに昨日、決行した。探訪ではダイダラボッチには出会わないが人には出会う、一人は手練れの日曜画家だ、もう一人は原発科学者だった。後者は学徒動員で苦労したと、東横線、「工業都市駅」で降りて日新工業に行き、海軍艦載機のフックを作っていたという。聞いたこともない駅だが武蔵小杉駅と元住吉駅の間にあったと。

 まず向かったのは大倉山駅にある大倉精神文化研究所だ。なぜか?ここのホームページにダイダラボッチ逸話を載せているからだ。興味深く思ったのはダイダラボッチを「精神文化」の一環として捉えて居ることだ。ネットには伝説の原文そのままが紹介されている。これをそのままコピーして引用するのも気が引ける。附属図書館に行って原典を閲覧したかった。

 駅からは急坂を上っていく。武蔵野で慣れている坂とは違う。アプローチが長い、多摩丘陵系の小山だ、登っているときに家と丘の隙間から富士が見えた。ダイダラボッチ伝説と富士、これは大事だ。屹立した荘厳な山はダイダラボッチ伝説には欠かせない。この特異な風景が物語を生んだ。

 小高い山の頂上にギリシャ風の荘厳な建物が見えてきた。研究所だ、ここの附属図書館は誰でも入れる。司書の人に事情を話すとすぐに原文をみつけてきてくれた。

 「私の散歩道」 2003年 押尾寅松 大倉精神文化研究所という冊子だ。
作者は港北の語り部といわれている人だ。これには「ディラ坊と菊名池」という文章があって当地のダイダラボッチが詳しく記されていた。

「ダイダラボッチの話しがここのホームページに詳しく掲載されていますが、やはり地元の貴重な話しとしてネットに掲載されているのですよね」
「そうそう、うちの研究員が関係しています」

 インターネットにはこうある。

2003年9月、押尾寅松さんからたくさんの昔話を伺いました。その時に、押尾さんが手書きで書かれていた原稿が『私の散歩みち』です。いずれ御著書に収められるものと思いますが、押尾さんの了解を得て、平井誠二専任研究員が入力し、公開させていただきました。続きを読む

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2018年12月10日

下北沢X物語(3660)−散歩と鉄道と文学−

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(一)人は固有の時間を持っている、私の場合は徒歩的時間である。時が足の動きとともに過ぎていく。景色もゆっくりと変わっていく。が、最新時間は全く異なる。今日の荏原逍遙は南だ、陸橋に差し掛かる。と、急にガルンガルンと音がした。下を覗くと白い物体が超高速で走っていく。やがて小杉の超高層ビル群の間に消えて行く。一編成に千人は乗っているという。高速で宇宙をゆく人は歳を取らないと聞いた、人が長生きするようになったのは新幹線の出現によってか?何時だったか居眠りをしていて気づくと大阪、身体は着いているのに心は箱根あたりにあるのではと思ったことがある。乗り物の高速化は人に影響を与えているのか。

君が行く道の長手を繰り畳ね  焼き滅ぼさむ  天の火もがも

よく知られた万葉集の名歌だ。あなたが行く長い道をたぐり寄せて、焼き滅ぼしてしまうような天の火がほしい、恋人との距離はどうにもならない、それを一遍に焼きつくしてしまえばあなたに会える。切ない恋心だ。

 現代人、近代人には生まれてこない発想だ。「道の長手」は新幹線が代わって焼いてくれる、スマホではあなたの映像も声もたちまちに視聴できる。

 我々人間の時間観を革命的に変えたのは汽車である。産業革命によって生まれた汽車は人々に大衝撃を与えた。それは、「時間と空間の抹殺」と表現された。歩行的時間が標準だったところへ、機械なるものが現れ、歩いて一時間かかるところを数分で連れていった。初めて汽車に乗った人は大衝撃を受けた。
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2018年12月09日

下北沢X物語(3659)−異常気象と異常政治−

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(一)天候も政治も異常をきたしている、前者は自然の動きでどうにもならない、後者は人間の采配でどうにかなるものだ。が、現政権はほとんど民意を汲み取ろうとしない。社会の有り様を根本的に変えていく法案を与党は数にものを言わせてどんどん成立させている。民主主義は死滅しかけている。海外ではフランスで政権に対する反発が起き暴動も発生している。原因はマクロン政権の「弱者無視」の政策にある。日本の場合もよく似ている。根は同じだ、為政者はものを言わない国民の性情をよく知っている。危ない橋を渡っても時が経てば忘れるだろうと高をくくっている。我が道を歩き始めている。それは言い換えれば独裁への道だ。

 フランスでの「黄色いベスト」運動は根が深い。テレビでは一人の女性、地方公務員にインタビューしていた。
「フランスは自由発祥の地というがとんでもない恥ずかしいことなんです、普通に働いているのに普通の生活ができなくなっているのですよ。毎月赤字でサラ金から借金して補っているのよ」
 今日の新聞にはこうあった。

 マクロン氏は17年5月の就任以来、法人減税のほか、労働者を解雇しやすくする労働法改正を進めてきた。企業への規制を緩め、グローバル化に対応する競争力つける狙いだ。だが、一連の政策は「富裕層のための政治」と受け取られた。(『朝日新聞』) 

大元は日本の与党も同じだ。企業側に有利なように政策を立案する。大きな問題となっている「改正出入国管理法」もほとんど議論することなく数の力に頼んでこれを成立させた。もともとは企業側から人手不足で困っているという強い要望があってこれに応えたものだ。これを機に外国人が大勢入ってくる。

 日本人は単一民族だ、島国で風土としては流れ者を歓迎しない。今もなお差別意識が濃厚に残っている。外国人をどう受け入れてどのようにするのか、日本人とどう融和させていくのかなどは全く議論はない。単純に人手がないから入れる、今後の国の形を変えていく重要なものであるにも関わらず、公明、日本維新の会なども賛成し、強引に法案を通してしまった。

 公明党のポスターはよく民家の壁に貼ってある。通りゆく人にアピールしている。党是は〈生命・生活・生存〉の人間主義と謳っている。が、人間に寄り添っていると全く思えない。

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2018年12月07日

下北沢X物語(3658)−電車が初めて走った:音の文化史−

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(一)交通の変革と音の理解という興味深い問題がある。文明開化を経て交通革命がおこる。ガタクリ馬車から汽車へ、そして電車へと。馬車の場合の理解は容易だ、馬が車を引く。道が悪くてガタガタと音がする。理解の範疇を超えるものでない、が、機械である汽車は理解を超える。しかし、馬の代わりとなる黒いものが煙を出したり、火を噴いたりしてシュッポと音を立てる、仕組みが何となく分かる。ところが電車となると理解不能だ。牽引するものが無くてすぅっと動く、驚嘆だった。老人はあわあわと見守るだけ、近づいてもよけることはしない。京都市電が走りはじめたとき電車の到来を知らせる先駆けを立てた。京王電気鉄道は大正2年に走りはじめた。このとき人々はどんな反応を示したか?。

京王線の音については、「下北沢X物語(2667)〜都鄙境の秘境探検京王線〜」で触れている。詩人福田正夫の御子息の福田達夫氏の文章を引用している。

 私が子供だったその頃、京王電車は一輛で走っていた。それも運転台が吹き抜けの市電形の車輛であり、ステーションは低く乗る時も降りる時も一段タラップを踏まなくてはならなかった。市電と違うのはあちらが緑と黄色の色分けをしていたのに対して、京王線が焦げ茶色をしていたことだ。ギシギシと音をたてて揺れる木製の電車が走っているのを見ているだけで一生懸命さが感じられ親しみのある形だった。クレヨンで描く画にもなり易かった懐かしい思い出の電車だった。
 『戦争中の中学3年生』 日本中学校 昭和21・22 同期会編集委員会


この文章を描いた詩人の三男は昭和4年生まれだ。京王線開通は大正2年だ、それでも往時を思い起こさせるものだ。開通時の電車が走行していた。いわゆるオープンデッキの単車である。運転台にはブレーキハンドルがついていて停まるときには運転手がこれを回して停めていた。車体は木製で動くと車体が軋み音を立てた。

 代田近傍の人々は電車が動くということで堀之内道を北上した。陣取ったのは踏切だ。線路が陽を浴びて銀色に光っていた。
「ドン!」
 東の方、笹塚へんの空に白いつぶつぶの雲が見えた。花火だ、これに混ざって音が聞こえてくる。
「楽隊が出ているんだ」と誰かが言った。開通式が行われているらしい。

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2018年12月06日

下北沢X物語(3657)−東京辺境荏原の音の文化史−

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(一)時は、刻々ととどまることなく流れゆく、その間に多くが消えて行く、音はその一つだ、が、時代時代には固有の音があった。これが人々の歴史を刻んでいた。大きい音や小さい音、前者はやはり交通機関のものだ。鉄道以前はガタ馬車だ、荏原北辺では甲州街道馬車会社のこれが明治5年から走っていた。やがて電車が出現する、大正2年4月15日に京王電気鉄道が笹塚、調布間を走りはじめる。馬車は、テートーとラッパを鳴らした、電車ではこれがチンチィンと鐘に代わる、文明開花時における音の変化は興味深い。が、体系的な雑音の文化史はない、このブログ、東京荏原都市物語資料館は、3600エントリーのそこここでまちの音について触れている。これを参考にして音の文化史に挑戦してみる、想像的音の文化論だ。

 文明開化期における大激変をもたらしたのは鉄道だ。ラグーザお玉は荏原南端、大森で汽車を見て驚嘆した。「むこうのほうから黒い煙をはきながら、ヒューッと汽車が走ってきました。ひと目みた私は、これはたいした怪物だとおもいました」(『鉄道誕生物語』)
音との遭遇だ、疾風怒濤のごとく「ヒューッ」と音を立ててやってきた。見物人は度肝を抜かれ、慌てて逃げ惑った。

 明治5年に品川横浜間の鉄道が仮開業している。これをラクーザお玉は品川から見学に行った。前夜から弁当持参で行った。怖い物みたさ、好奇心が人々を誘った。

 一方、同じ頃荏原北辺では甲州街道にガタ馬車が走っていた。道路は悪路で走ると車輪の響が直に身体に伝わった。「ガタガタ」と始終揺れていたことから人々は「ガタ馬車」と呼んだ。

 明治5年(1872)10月には甲州街道馬車会社が、甲州街道を使って東京〜八王子間で初の会社組織として馬車事業を開始している。馬2頭が引いて片道4時間を要したという。 
「中央線誕生」中村建治著 交通新聞新書 2016年


  「ガタ馬車」は、乗り心地の悪さからくる蔑称でもある。が、これは「テートー馬車」とも呼ばれていた。通過予告のラッパを吹いていたからだ。
乗り心地が悪くても、新時代の乗り物だ、かっこいいものだ。子どもは動くものは何でも好きだ。家の近くの遊歩道で園児がよく遊んでいる、ゴミ収集車が来るとうれしがる。
「また来てね!」
 いつも挨拶を交わしている。ガタ馬車の御者も女にもてた。遠くからテートーと鳴ると、ひそかに心ときめかせた女性もいた。彼女にはテートーという音が恋という心の刻みだった。

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2018年12月04日

下北沢X物語(3656)−機縁因縁ネット繋がりの14年間−

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(一)1日に北沢タウンホールで会の創立14周年を祝った。参加したメンバーの多くはネット機縁での繋がったものだ。会にはロスコンパニェロスが参加し、ラテンの名曲を披露して宴を盛り上げた。リーダーの張替滋夫さん、彼とは鉛筆部隊繋がり、読者だった。「自分たちもそう長くはない、生きている限り皆を楽しませたい」と。ボランティア出演だ。社会奉仕、我らの活動の原点もここにある。調べたり、記録したり、まとめたりしたことが社会奉仕に繋がっている。「あんたたちみたいな人がいないと世の中うまく回っていかないのだよ」と。代沢小の警備員が地図を褒めてこういった。過去を知ることで人は己の立ち位置が分かってくる。我々は、何を築き、何を壊してきたのか?

 人間どう生きるかは一人一人の大きな課題だ、私たちの会員、現役もいれば退役者もいる。しかし、総じていえることは文化好きだ、言えば過去を大事にする人である。この間、世田谷代田駅を描いた絵画があった。これを来年の研究会のチラシに載せた。絵がひとしきり話題になった。会員の金子善高さんの元の家が写っていた。
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「家の側に踏切があったんだ」
「そう魔の踏切だね」
 世田谷代田2号踏切だ。代田小への通学路となっていて、跳ねられた子も多い。
「昔は、ここで人がはねられて死ぬと、その現場にムシロをかぶせて置いておくんだ。それを保線の連中が夜通し見守る、そして翌日に家族に見せるんだね。ところが時間が経ってくると死体が腐って臭ってくるんだ。あれは嫌だったね……落ち葉を焼くと死体の腐ったのと同じような匂いがするんだ……」
 踏切といってもかつては遮断機や警報器などはなかった。しかしここの踏切は危険だった。斜めの道が線路をぶつかっている。家や土手によって電車は見えない。おまけに道は坂だ、子どもはつい走って行って坂を下ってきた線路で轢かれる。危険な踏切だ。
 昭和29年4月20日、参議院運輸委員会で取り上げられた。「小田急線代田二号踏切事故等に関する件」として。

「鉄道諸法規が明治時代のもので、鉄道を優先していた。踏切を渡るのも自己責任としているが、人間の命というものがなおざりにされている」と質問者は指弾している。警報器も遮断機もなかった。轢かれたら監督責任のある親が悪いという時代だった。
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2018年12月03日

下北沢X物語(3655)−14年間の情報蓄積は記録の宝箱−

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(一)「2004年に会は発足してこの12月で14周年を迎えました。比喩的に言うとこうです、最初はやみくもに壁に穴を開けていました。1,2……1000と、その一つ一つをネットに公開してきました。集積化した情報は世界に届くようになってきたのです。無益に開けたと思った穴の、そのあっちからも、こっちからも情報が入ってくるようになりました。ネット情報が結晶化してきたのです。気づくとそれが土台を築いていたのです。断片的な情報が合わさって総合化が起こってきたのです。wikiに詳しく解説されている『鉛筆部隊』などは好例です……」

 一日はダブル会合、一つ目は世田谷区民会館で行われた。地域の絆づくりで助成を受けた区内各地の団体の交流会である。参加した人を捕まえて、互いの会の紹介をする。冒頭に掲げたようなことを私はプレゼンした。
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 が、奇遇である。偶然に出会った相手は、駒繋小学校のおやじの会の人だった。
「私は偶然のことから駒繋小の歴史を調べたことがあるのですよ。戦争中に駒繋は浅間温泉に疎開しているのですね、目の湯旅館です。昭和二十年二月にここに満州からやってきた特攻隊が突然にやってきたのですね。隊長を初めとする将校たちです。この彼らが学童たちと歌ったり、踊ったりしているのですよ。この隊は武剋隊、特攻隊の中でも特別でしてね、大本営直轄なんですよ……」
「まったくそんなこと知りませんでした……」
彼は別れ際にやってきて挨拶をした。
「紹介された本はぜひ読んでみます」
 「鉛筆部隊と特攻隊」である。言えばきりがない、駒繋小のすぐ側に武剋隊古屋伍長の弟さんが住んでいる。広森達郎隊長が血染めの鉢巻きを伍長に贈ったと彼から聞いた。
「住んでみてびっくりです、すぐそばに特攻観音があったのですよ……」

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2018年12月01日

下北沢X物語(3654)―会報第149号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第149号    
           2018年12月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、2018年を振り返る

 今号は149号だ、年間12回発行してきたことを考えると、12年と5ヶ月ということになる。チリも積もれば、会報の山。印刷部数は約70部、すると一万を超える。この会報、ネットにもアップしている。世界中、どこからでも見られる。
 さて今年も残りわずかとなった。我々は何をしてきたろうか。

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  これは区の地域の絆連携活性化事業の助成を受けて発行した。下北沢のまちの戦後を撮った写真は大きな反響を呼んだ。
 テレビではTBS、フジテレビ、そして東京新聞、毎日新聞で紹介された。とくには東京新聞では新聞一面でカラーで紹介されたことで多くが知ることとなった。一番大きなことは文字通り「焼け遺ったまち」が鮮明に写し出されていることだ、屋根のある家々があったことで人々はここで生きた。文化の源泉がここにあったのだという認識が生まれた。

�∪鐐莊亳海鮓譴覯顱κ垢�会の開催

今年で11回目を迎えた。今回は被爆者の村上啓子さんに被爆経験を語っていただいた。凄惨なありさまがありありと語られどうあっても核兵器は使うべきではないとの思いを強くしたことだ。
 講演の後は、コーラスグループのジョイフルエコーの皆さんが美しい歌声を披露してくださった。終わった後、今後はどうするかとの問いに、続けようとの声。

�K迷�川文化遺産保存の会:第四回研究大会−戦後の下北沢を語る−
 
 第四回目となる研究大会を開催した。場所は、カトリック世田谷教会だった。
 「焼け遺ったまち下北沢の戦後のアルバム」の発行を記念して「下北沢の戦後を語る」というテーマにした。今回の特色は、若い参加者が多かったことだ。成城大のゼミ生、また法政大の大学院の学生の発表があった。彼らの発想は若いだけあって斬新だ。我らは過去を語っていたが、彼らは未来を語っていた。 
 成城大の境ゼミの若者は、オースティンアルバムをフィールドワークした上で、彼らの見解を語っていた。下北沢は個性あるまちだ、「新宿化しないように独自の工夫をする必要がある」という提言は多くが共鳴する言葉だった。
 若い人が発表すれば若い人が来る。すると発表にも活気が出てくる。今後の方向性を考える上で重要なポイントだ。
 今年9月に、伊東市で諸大学から12ゼミが参加しての経営学合同ゼミが行われた。
「8月4日の下北沢での研究大会での発表をベースに、さらにブラッシュアップした発表で優秀賞、3ゼミの一つに選定されたようです。」との朗報。

�ぁ�Opera鉛筆部隊と特攻隊」の公演 (9月)

  戦争を伝えることが難しくなってきている。それで考えたのが演劇を通してこれを訴えるというものだ。それで地元ネタでもある「鉛筆部隊と特攻隊」をオペラ化して世田谷カトリック教会で実験的に公演をしてみた。
思いがけず多くの人々が見にきてくださった。練習もなかなかできなかったが、評判をしては悪くはなかった。評の一つに「手作りオペラ」というのがあったが褒め言葉と捉えた。これは9月に行ったが、ついこの間、反省会を開いた。
 やはり続けることが大事だということで陣容を入れ替えてこれを継続することになった。再演は、毎年五月に行っている「戦争経験を聞く会・語る会」で行うことにした。
 戦争も話者がいなくなりつつある。それで戦争を経験していない第二世代、第三世代で受け継いでいくことが必要だ。この場合は、演劇とか朗読、音楽などで行うというのが一番だ、それでこの名称も変えることにした。
 「戦争経験を伝承する会」である。

2、創立満14年、北沢川文化遺産保存の会

 「……時は逝く、何時しらず柔らかに影してぞゆく」と北原白秋はいう。ふと気づくといつの間にか歳を重ねていた。
2005年12月1日に一通のお知らせが出回った。「北沢川文化遺産保存の会 発起人会開催のお知らせ」だ、開催は12月17日、代田「信濃屋食品館」2階、会議室で行われた。細かくは覚えていない、が、会議室が埋まるほど地元から多くの人が参加した。記憶にあるのは多聞小の校長先生が来ておられたことだ。範囲から少し外れるが、芹沢光治良ゆかりの学校ということで入れてほしいと。現行地図をみると「芹沢光治良『人間の運命』の一舞台」と多聞小には書かれている。

 もう一つ覚えていることがある。「趣旨及び経緯説明」とある。呼び掛け人は七名いる。これは誰かやるだろうと思っていた。しかし、これを誰にしようかという話しは一度もなかった。誰もが私がやるものだと思っていたようだ。実際、私がプレゼンテーションを行った。何を話したか分からない、「それでは皆さん拍手を」と廣島文武氏が呼び掛けると、一斉に皆拍手をした。これで会は発足し動き始めた。

 我々の会の発足が2004年12月17日、間もなく満14年となる。これまで蓄積された回数、会報は148号、まち歩きは144回だ。
 我らの会の対外的な初発信は2006年5月31日に発行された『北沢川文学の小路物語』だ。朝日・毎日で大きく取り上げられた。これを手に入れようと大勢人が来て交通整理が必要だった。
「いやあ、びっくりですよ。いつもうちに来られる客層とは違ってみな立派な方だったから」と邪宗門のマスター作道さんの弁だ。これは区の助成を受けてのことだったので無料で配った。しかし、帰りに寄金をされる方々が多く、財政的にはだいぶ潤った。
 この冊子梅丘図書館では盗まれもした。デザインを担当は故東盛太郎さんだ。彼は意気揚々と中央図書館に寄贈に行った。ところが喧嘩になった。血の気の多いかれは「地域の貴重な情報を置くかどうか分からないって、責任者を呼べ!」と言った。今となっては伝説の冊子だ、彼、デザインのプロは素晴らしい冊子を作った。急逝した彼のお別れ会では、お悔やみの言葉に、「『北沢川文学の小路』は彼の遺作となりました」と。
 我らの活動の一環に地図づくりがある。「下北沢文士町文化地図」である。版を重ね、現在は7版となっている。この原型を作ったのは東盛太郎さんだ。「北沢川文学の小路物語」には表紙がついている。これは取り外せる。広げるとこの裏が「『北沢川文学の小路』地図」となっている。実は、これが今の地図の原型となっている。いえば零版だ、現今の七版と見比べると一目瞭然だ。後者は赤や青のマークが密集している。時が経って、気づいてみるとこれだけ集まっていた。

 零版地図を見ると、その当時の活動の様子が分かる。特徴的なことは「お稲荷様」が多い。あちこちにこの所在が書き記されている。
 最初は、何か訳が分からずにやみくもに活動をしていた。北沢川沿岸地域に居住痕跡のある文士を我々は調べていた。この過程で発見があった。
「なぜか文士旧居の近くにお稲荷さんがあるのですよ。萩原朔太郎も、三好達治も、横光利一も、おまけに森茉莉の近くにもあったんですよ」
 これがきっかけだった。辺り一帯を調べ回って、お稲荷様を見つけ出しては喜んでいた。
文化探査初心者はお江戸やその近郊にお稲荷様がふんだんにあること、「伊勢屋稲荷に犬の糞」というのは知らなかった。なぜに近代文学はお稲荷さんを欲したのか、真剣に考えていたほどだった。
 馬込文士村にいったとき、萩原朔太郎旧居のそばにお稲荷さんがあった。
「やっぱりなあ、詩人のそばにはお稲荷さんがいるんだよ。やつにたぶらかされないとなかなかああいう詩は書けないよ」
 今思うとおもしろいし楽しかった。赤いものをひたすら探していた。赤い鳥居、そしてポストである。私も、東さんもあのころ猫に取り憑かれていた。彼は「猫町界隈」というエッセイを雑誌に書いていた。
「ポストがヒントだよね」
 我らの合いことばだ。それは『猫町』に出てくるポストだ。『猫町』は萩原朔太郎が書いた小品だ。四つ辻とか、ポストとか、屋敷街とか、ここに出てくる場所が、下北沢や代田のどこなのか必死に駆けずり回って探していた。そういう我らを、少年のようだと冷やかす人がいたが。そうそう我らは冒険少年になったまちを駆けずり回っていた。

 もう、あれから14年、言えば出会いと別れの年月だった。時間の経過は恐ろしいほどだ、その出会った人、お話を伺った人も何人もが鬼籍に入られた。松林宗恵監督、森栄晃プロジューサー、田中義輔会長、東條由布子さんなどだ。今も顔が浮かんでくる。

3、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第145回 12月15日(土)13時 笹塚駅改札前
案内人 赤坂 暢穂(のぶお)さん 森厳寺川を歩く
森厳寺川は北沢中学辺りを源流とし、代沢小の東で北沢川に合流している支流です。ひっそりと流れている川ですが、沢山のドラマが眠っています。北沢四丁目に住む赤坂さんは子どもの頃から慣れ親しんできた川です。この昔の姿を彼の案内により辿ります。


第146回 1月19日(土)13時J R品川駅中央出口
案内人 松山信洋さん ふしぎ町:高輪を歩く
コース:品川駅ー東禅寺ー高野山別院ー承教寺ー大石良雄切腹の場ー旧高松宮邸ー魚藍坂ー荻生狙來墓ー幽霊坂ー伊皿子坂ー泉岳寺
◎品川は東海道の宿場の起点であり、江戸時代以来の様々な歴史が眠っている。開国によって外国の領事館が置かれ、政府の高官の屋敷が建ち並んでいたのもこの地であった。埋め立てもすすみ現在は大きく姿を変えている。しかし起伏に富んだ地形はそのままである。全く現代の先端でありながら、近代の香りを色濃く残した地域。今回はそんな不思議な魅力を持った品川の高輪地区を中心に歩いてみようと思っている。…テーマは「ふしぎ街」

◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールでの申し込み きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498


■ 編集後記
▲ 伊藤文學講演会「ひとりぼっち」の人たちをつないで:2018年12月16日(日)
 ホテルニューオオタニ ガーデンコート 1F 紀尾井フォーラム 紀尾井町4-1
 会費2000円 お申し込み03−3587−1777
▲年度末です会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。



rail777 at 00:00|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化