2019年01月

2019年01月31日

下北沢X物語(3693)―会報第151号:北沢川文化遺産保存の会―

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「北沢川文化遺産保存の会」会報 第151号  
           2019年2月1日発行(毎月1回発行)

    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(水木定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
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1、荏原ダイダラボッチ研究先駆者−鈴木堅次郎−

 いわゆる旧郡の荏原、当地にダイダラボッチだとされる箇所が複数ある。この呼称については、別名ダイタクボとも呼ばれていた。これの典拠は武蔵野会の雑誌『武蔵野』第二巻第二号(大正8年7月)に『駒澤行』と題された「武蔵野会遠足記」である。このとき下馬西澄寺から、明治大学運動場側の坂道を上っていく記述がある。ここでは「石斧が散見された包含層がある」と述べ、以下にはこうある。

 鳥居、大野、村高の諸先輩の詳細説示されてゐる場所である。その先にダイダクボといふ凹地がある。三四段の地域で最も深い所に池があり古来灌漑用にの水源となつてゐる。伝説に曰く、此処はダイダラボッチの足跡でこの凹地に入り土地を堀り木を伐ると罰が当たると、蓋し水源保護のためだろうと。

かつての明治大学運動場には現在UR都市機構の「アクティ三軒茶屋」という大型マンションになっている。南隣には日本大学危機管理学部がある。この二つの建物の間を西に向かって古道が通じている。さらに行くと再び坂道となる、テコテン坂である。坂の頂上の右手には学校が見える、旭小学校だ。
 遠足ではこの道をたどったようだ。テコテン坂を下って左に曲がると見事な凹地が見られる。これが「ダイダクボ」と称されていたところだ。現在は鶴ヶ窪公園となっている。窪には池があって、このたもとに鶴ヶ窪弁財天が祀られている。「古来灌漑用の水源」とされるが今も水路跡は確かめられる。たどると蛇崩川に行き着く。
 「駒澤遠足記」の書き手は、「ダイダクボといふ凹地」と記している。人々にダイダクボと呼ばれていたという言い方だ。
 注目すべき点はこれを書いた人だ、鈴木堅次郎である。この人のことはつまびらかではないない。しかしはっきりしているのはいくつかの著作があることだ、「三軒茶屋の稲荷神社」(1929年:駒澤郷土叢書)「世田谷城名残常盤記−世田谷風土記−」(1961年)などだ、いずれも「非売品」とあることから私家版であるようだ。これらの著作をものしていることから世田谷の民俗、風土に詳しい人であったことだ。ネット検索を掛けてみると「東京・荏原の有力者で、府議会議員を務めた鈴木堅次郎」とある。大正年代においては郷土のことに詳しい人として知られていた。それで「駒澤遠足」に参加しその記録を書いた。
 彼のことはいくつかの論文に出てくる。まず先の『武蔵野』第二巻第三号(大正8年12月)である。ここに谷川磐雄の論考『武蔵の巨人民譚』が載っている。
この記述の中で谷川は、武蔵野会の会員鈴木堅二郎氏から代田の窪地のことを聞いたと書いている。そして、次のように記している。

 又駒澤村上馬引澤、同じく野澤、碑衾村谷畑等にもあるよし鈴木氏から承はつた、これ等は何れも窪地の足形をなしてゐるところで太古のダイダラボッチの歩いた足跡であると傳へてゐる。

鈴木堅次郎は荏原地域のダイダラボッチについて深い見識を持っていたようだ。研究者の間ではその点については一目置かれていた。間違いなく言えることは堅次郎はフィールドワーカーだったと。当地一帯のダイダラボッチの痕跡につい全部を歩き廻っていてすべてを知っていた。
 東洋歴史学者・言語学者中島利一郎も鈴木のことについて触れている。彼は『武蔵野の地名』(新人物往来社、昭和51年)を著している。ここで「ダイダラボッチ伝説」について述べている。

 世田ヶ谷の代田にはダイダラボッチの足跡という大きな凹地があったのを、鈴木氏から現地で教えられた記憶がある。今は、前の地点がどこであったか、まったく見当がつかない。後人のためには、それが今日の代田何丁目何番地であるかを明記しておく必要がある。いつか、もう一度そこを確かめておきたいと思う。代田地方における同行者の東道を仰ぎたい次第である。

 ここでは鈴木氏と書いているが鈴木堅次郎のことに違いない。荏原のダイダラボッチについては彼ほど詳しい人はいなかった。中島利一郎も彼に案内されて訪れたようだ。中島も鈴木もダイダラボッチの痕跡が大事であることはよく知っていた。代田のダイダラボッチ跡は何丁目何番何号かはしっかりと今は記録されている。
 「ふるさと世田谷を語る」上馬・下馬・野沢・三軒茶屋・駒沢編(平成6年)に「野沢を主とした大正末期より〜昭和初期の略図」が載っている。これに鈴木堅次郎家としとしてその所在が明確に記されている。地元の最有力者だったことが分かる。現在の住所で言えば上馬1丁目15番である。今でも鈴木姓があることから末裔が住んでいるようだ。
 鈴木堅次郎は足場のよいここを拠点に一帯を歩き回っていた。ダイダラボッチ跡は丹念に巡っていた。その彼が野沢の窪みを「ダイダクボ」と呼称していた。ここだけを呼ぶのではなく巨人伝説のある窪みを「ダイダクボ」と一般的に呼称していたのではないかと考えられる。埼玉県さいたま市には大田窪、これはダイタクボと読む、やはりダイダラボッチ伝説のあるところだ。
 ダイダクボは語としては消滅し死語となった。が、大正時代にはダイダラボッチの窪みをダイタクボと呼称していたと考えてよい。

2、第五回「北沢川文化遺産保存の会研究大会」の開催

 先号で、研究大会を開催については触れた。1月4日、当会の金子善高さんが梅丘パークホールに行き、会場予約をした。開催期日は7月27日である。
 今回五回目は、テーマを「世田谷代田の歴史文化」と決めた。2020年度に世田谷代田駅前広場が完成の運びとなる。現在オープニングに向けて盛大な行事を開催しようと準備委員会が動き始めた。当会の会員もこれに加わって企画立案に携わっている。
 駅前広場には、ダイダラボッチの足形が大きなモザイクとして刻まれる。文字通り、ダイダラボッチの町として全国に発信することとなる。
 この開場イベントの一環として今回の研究会を開催しようと提案し了承された。前回同様、東邦薬品に協賛依頼をしたところ快く引き受けてくださった。
 後援については直接世田谷区が後援をする形にしたいと考えた。申請書を区に提出をした。今は許可証の交付を待っているところだ。
 
 第5回北沢川文化遺産保存の会 研究大会
 世田谷代田駅前広場開場記念行事(プレイベント)
 日時 2019年7月27日(土) 10時30分より(予定)
 場所 梅丘パークホール 会費 500円(資料代)


発表者については打診中だ、三土代会の重鎮、柳下隆さんには代田の歴史文化を語っていただく。午前が、柳下さんの講演で午後が研究発表会である。やはり大事なのは若手の参加だ、駅前広場の完成を機にどんなまちづくりをするのかのフレッシュな意見がほしい。四五コマの発表を考えている。時間は一コマ30分、発表者を募集している。
 終了後に懇親会を行う。会費3000円、いつもと同じ形で行う。

3、歩く会の改革(行事委員会の発足)

  会の活動の基軸となっているのは毎月の歩く会だ。これの運営についてはきむらが一手に引き受けてやってきた。が、無理が生じてきたことから代わりを求めていた。昨年の忘年会で行事委員会を作る提案をした。これを別宮通孝さんが引き受けてもよいとのこと。それで毎月の計画については彼を中心とした委員会が組み立ててくれることになった。三月からの行事は新機軸で行っていく。
・基本、楽しい町歩きとしていく。そのために無理はしない。今までは午後1時に始まっていた。終わりについては各自に任せていた。が、参加者の健康面、安全面を考えると終わり時間の予告も必要だ。目安としては三時間ぐらいが適当だと思われる。4時ぐらいを終わりとするようにしたい。主催は北沢川文化遺産保存の会で、開催の責任者はきむらが今まで通り担う。保険手続きは、参加者が十名を越えた場合には掛けている。
 町歩きの希望、要望、また案内役の希望などは別宮さんや当方へ。

4、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施している。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩く。会員外も参加は自由だ。 基本原則は、第三土曜日午後としている。13時に始めて約3時間、終わり時間の目安を16頃としている。

第147回 2月16日(土)13時 下北沢駅東口 ピーコック前
下北沢の地図を探訪する(新企画の試み)
 まちの文化情報を各自が参加してチェックしたり、聞き込んだりして楽しむ。
 誰でも気軽に参加できる、専門知識は要らない。言ってみれば、簡易的なオリエンテー リング、まちにある目標物を探したり、新たな目標物を見つけたりする遊び。
 新たに付け加える情報、旧情報の確認をする。2時間ほど各自担当区域を歩き、情報を 手に入れる。(時間内にできる範囲のことをする)
・新しい地図を作る、そのための情報集めを行う。
 �―犬泙辰涜任噌腓錣察´■押■殻召料箸鮑遒襦��C甘�区域を決める。�ぅ哀襦璽廚燃特楼茲忙兇蕕个蠶敢困鮃圓Α��ィ音�間ほど経ったら戻ってくる �Δ�茶を飲みながら報告会を行う。
  当日全員に第7版地図を配布する。会費は取らない。
  ただし参加申し込みはすること。
  企画責任者 ◎別宮通孝・きむらたかし・きむらけん・米澤邦頼 


第148回 3月16日(土) 13時 東急大井町線等々力駅改札
 谷沢川と九品仏川を歩く 案内人 木村康伸さん 
 コース:等々力駅−谷沢川−等々力渓谷−九品仏川−九品仏浄真寺−奥澤神社−海軍村−呑川・九品仏川合流地点−工大橋−大岡山駅
※世田谷区南部を流れる谷沢川と九品仏川の間には、河川争奪が行われた過去がある。その珍しい現象の痕跡を辿りながら、九品仏川流域の地形や歴史も訪ねて歩く。
第149回 4月20日(土) 13時 東京駅丸の内北口改札
 案内人 別宮通孝さん 皇居東御苑探訪(平成最後)
 コース:駅〜大手門〜東御苑〜富士見櫓〜松の廊下跡〜二の丸庭園〜江戸城天守台跡〜北詰門橋〜北の丸公園〜田安門〜昭和館〜九段下
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールでの申し込み きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498

■ 編集後記
▲第12回「戦争経験を伝承する会」5月19日(日)午後13時30分より。当会自作の「Opera鉛筆部隊と特攻隊」の公演を行う。出演者も含めてボランティアスタッフを募っている。ぜひ協力を。
▲会報への記事投稿は随時受け付けている。歓迎!
▲梅祭り 関連行事座談「代田文士町&ダイダラボッチ」(きむらけん)
 2月27日(水)14時から16時まで 募集は広報などで
▲新年になりました会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。
(写真は野沢のダイタクボ、現鶴ヶ丘公園)

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2019年01月30日

下北沢X物語(3692)−第5回研究大会:世田谷代田の歴史と文化−

第五回研究大会
(一)北沢川文化遺産保存の会は研究大会を開催してきた。今年は5回目となる。世田谷区の後援申請も許可が降りて公に大会が宣伝できることになった。当初は細々とした出発だったが地元でも認知されてきた。参加数も増え、また発表内容も質が高まってきた。今回のタイトルは「世田谷代田の歴史と文化」をテーマとする。来年度、世田谷代田は脚光を浴びる。2020年春に駅前広場が完成する。ここには代田の語源となったダイダラボッチの足跡がモザイク模様で描かれる。地元ではこれを記念するセレモニーを開く。我らも準備委員に加わり協力している。今回の研究会は駅前広場オープン行事のプレイベントとして開くことにしている。

 世田谷代田は古い町である。ここにはかつて南北を貫く堀之内道があった。この通り沿いに中原商店街があって賑わいをみせていた。古い人の話では下北沢の町に行くときは割烹着姿で行ったが、中原へはおめかしして行ったというほどだ。しかし、この通りを新しい道路が突き抜ける形で作られた。東京オリンピック開催に備えて建設された環状7号線である。これによって商店街はほとんど無くなってしまった。

 昭和8(1933)年に詩人の萩原朔太郎は下北沢から世田谷代田に引っ越してくる。居住地を選ぶに当たってのいきさつを彼の娘葉子はこう書いている。「世田谷中原(現在は世田谷代田)を探した。そして中原のほうに、駅から七分小高い所に竹藪の空き地を見つけ、一五○坪借りたのだった。中原は屋敷町で静かな環境に恵まれていた」(「父・萩原朔太郎」筑摩書房 昭和34年)

 中原商店街は通りの裏手にあるお屋敷の住民をお得意さんとしていた。ついこの間まであった和菓子「香風」の親父さんは、お屋敷に古くから住んでいた人が亡くなると、ごそっと需要が減ると話しておられた。

 世田谷代田駅には数百メートルだが環七から取り残された通りが残っている。菓子店はそこにあった。近隣では俳句の結社があってそこに菓子を届けていた。お屋敷の和菓子好きのご主人が亡くなり、著名な俳人もいなくなり、とうとう菓子店は店を閉じた。評判の『香風最中』を売っていたが。
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2019年01月28日

下北沢X物語(3691)−中村汀女さんの幻の句碑−

無題
(一)書類の山を整理していたら一枚の書き付けが出て来た。四句の俳句が記されている。「何だろう?」と句を読む。すべてに「桜」が詠まれている。とたんに思い出した。「そうだ中村汀女さんの句だ!」。書いた人は、小川濤美子さん、汀女さんの長女で俳人だ。以前に、中村汀女さんの桜を詠んだ句を北沢川緑道の「桜橋」に建てようという動きがあった。それで濤美子さんに選句して戴いたものだ。あれから時がだいぶ経った。彼女は2017年4月22日に死去した。新聞の訃報、「昭和を代表する女流俳人、中村汀女の長女。汀女主宰の『風花』を昭和63年から引き継いだ。句集に『富士薊』『和紙明り』、エッセー集に『中村汀女との日々』など。」で知った。「お母さんの句碑を建てます」との約束は果たせないままだ。

 我らの会は2004年12月に発足した。北沢川沿岸に住む文芸人の文学碑を建てようとのことから発足した。坂口安吾、萩原朔太郎、横光利一、三好達治の四基は建てた。が、中村汀女さんのは実現していない。

 発足以来十数年、多くのドラマがあった。文学碑についても同じだ。「北沢川文学の小路物語」という冊子を作り、社会に発信した。これには大きな反響があった。行政の方でもこれを後押しするような動きがあった。ある日忽然と、「全部の文学碑の見積もりを出せ」という話が舞い込んできて衝撃が走った。もうだいぶ前のことなので子細は忘れた。が、見積もりを出してもらった覚えがある。

 その一連の文学碑には田村泰次郎、森茉莉、横光利一、加藤楸邨、中村汀女、三好達治、斎藤茂吉などが挙げられていた。碑に刻む文言を選び、書類として出していた。全く当てにもしていなかったゆえに、衝撃的だった。が、それは春の夜の夢、沙汰止みになってしまった。計画通り全部建っていたらとんでもないことになっていたように思う。夢は夢である方がよい、一基建てるだけでも大変な労苦がある。三好達治の詩碑を建てるだけでも大変だった。デザイナーの道吉剛さんと文言のやりとりを何度したか分からないほどだ。Faxが三四十回ぐらいは行き来したように覚えている。句読点の配置、漢字の並べ方についてはデザイナーの美学があった。


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2019年01月27日

下北沢X物語(3690)−世田谷物語との遭遇−

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(一)「ふと通りかかったとき直感的にこの芸術的感性は同じではないかと思ったのですよ。世田谷の疎開学童が地方に行きました。ところが現地ではびっくりするのです。歌をうたっても踊りをおどってもうまい、絵を描かせてもすばらしいのです。親から受け継いだDNAが田舎に行ってしみ出てくるのです。田舎ゆえに際だって見えるということもあったと思います。この方も戦禍を避けるために世田谷から北海道に移住したのですよね。開拓地で文化は花開くんだと思いました」ギャラリーでは「新雪の時代」と題しての世田谷から北海道に入植した人々の文化活動を紹介していた。

 昨日、26日、三軒茶屋キャロットタワー3階の市民活動コーナーで会報の印刷を行った、帰りがけにギャラリーに飾ってある絵画が目に入った。写真撮影は可能らしいので係員に聞いたところ、なぜ興味を持ったかを逆に聞かれた。

「戦時中に世田谷から北海道に渡って原野を開拓された人がいることは知っていました。ここを通り掛かったときに絵が飾ってあってそのタッチに自分が調べていることと同じ感性があると思って見学しました」
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 会場でもらった「新雪の時代」のパンフレットにはこう書かれていた。

*北海道江別市の世田谷部落をご存じでしょうか?
*北の<世田谷>は、石狩川とその支流世田豊平川、豊平川に挟まれた野幌原野の三角州に位置しています。1945年7月、食糧増産を目的とする「拓北農兵隊」として東京都世田谷区から33世帯が入植したのがその由来です。エノケン一座の役者や音楽家、大学講師などさまざまな経歴を持つ人々は、数多くの困難を乗り越えながら農耕作に適さない過酷な泥炭地を切り開きました。


 戦争末期、食糧不足は深刻だった。かてて加えて1945年には世田谷も空襲に襲われた。焼け出された人も数多くいた。行き場がなかったことから「拓北農兵隊」に応募した。当地区域に住んでいる人は文化人が多かった。ところが娯楽は禁止、役者や音楽家は食ってはいけない。大学も学徒動員がかけられ学生はキャンパスからいなくなった。文化人、教養人は行く当てがなかった。

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2019年01月25日

下北沢X物語(3689)−呑川のカモのレストラン−

DSCN1003(一)日々の漫歩生活は、家の前の緑道から始まる。北へ行くと世田谷区深沢、南へ行くと大田区石川町だ、緑道は川に蓋をしたもの、どんどん下ると東急目黒線とぶつかる。これを地下道で潜るとすぐに川が現れる。呑川だ、深く抉られ川床が東京湾へとずっと続いている。このところここに群れている鳥がいることに気づいた。ときに百羽を超える。両岸はコンクリート、野生の鳥が集うにしては風情がない。ところがこれを観察しているうちに分かってきた。呑川開口部は彼らのレストラン、餌場だった。ここから連想したのは、江戸前カモだ、食べると美味いのではないか?ところがこの答えは意外だ、「おいしくないっていうのよ」、川の側の工事現場にいる女性警備員が教えてくれた。

 この呑川の水は天然自然の水ではない。大田区ホームページに解説がある。「呑川とは」と題してこう述べている。

 世田谷区と目黒区の上流域では、呑川は暗渠となっています。目黒区と大田区の境付近にある工大橋から下流は、開渠となっています。この工大橋付近において、東京都の清流復活事業として、下水道局落合水再生センターで高度処理された水を呑川に導水しています。この水が呑川の主な水源となっています。

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開口部のすぐ上手の橋を工大橋という。東京工業大学に隣接しているからだ。落合水再生センターから導水管で導かれた再生水が工大橋まで流れてきて、ここでやっと日の目をみる。

 「江戸前カモ」といったのは、「江戸前寿司」を思ったからだ。つまり、江戸時代、人口がどんどん増えることで、人間が排泄するものも多くなった。これ、すなわち栄養分のあるうんちまじりの水江戸湾に流れ込んだ。これが魚を肥やしておいしくした。実はカモたちも同じ恩恵に浴している。

 下水再生水は、各家庭で出た汚水を浄化してできたものだ。工大橋には東京都の看板が立っている。「清流の復活−呑川」と。落合水再生センターで高度処理された水を流すことで呑川の清流を復活させたと謳う。が、ここの開渠部にくると水が臭う。浄化したといっても窒素やリンなどの溶存物質は完全に取り除くことはできない。それで臭うようだ。が、カモたちはこの恩恵にあずかっていた。富栄養性の高い水、これがカモのレストランを作っていた。

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2019年01月24日

下北沢X物語(3688)−古老の証言2:北沢の風物詩−

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(一)時は刻々と過ぎてゆく。あのときもこのときも遠ざかるばかりだ。町がどう変わったかも定かでない。が、古老、94歳の三十尾生彦さんは覚えていた。彼はかつては北沢の町中に生活の音が生きていたと言う。道筋に沿って音がやってきては遠ざかった。ぶぉうぶぉうという山伏の法螺貝、ひゅうふるるという虚無僧の尺八、「なむみょうほうれんげきょう」と唱える托鉢の僧、「いわしこぉー」という鰯売り、「しじみいらんかねぇー」とシジミ売り、「六貫三百どうでもいい」という団扇太鼓、「ろっこんしょーじょう」と白装束、数えたらきりがない。この風景には常に子どもの姿があった、怖い者がくると逃げる、面白いものにはついていく。路地にはいつも子どもたちの歓声や弾んだ声に満ちていた。今と違ってうじゃうじゃと戯れていた。


�/晃兄�川風物詩(界隈の子供たち)

 北沢四丁目の路地には子どもが溢れていた。かくれんぼうや縄跳び、男も女もきゃぁきゃあ言って遊んでいた。
 昭和初期北沢は江戸時代を引きずっていた。子供はふつうはかすりの筒袖に坊主頭だった。垂れる青ハナを袖で拭きテカテカに光っていたのを覚えている。
 私は渋谷からここに越して来たので、おかっぱ頭で繋ぎの服を着てやって来た。それで異彩を放っていた。目だったので女男と囃されいじめられた。ところが移転時に持参した頑丈なドイツ製の三輪車を提供したお陰ではな垂れ小僧の仲間に入れてもらえた。この車は、私が小学校を出ても 近所に転がっていたのを覚えている。

�⊃晃兄�川風物詩(音の風物詩)
 虚無僧の行脚
 編傘かぶり袈裟を掛け嫋嫋と尺八を吹きながらやってくる。音で分かった。そして家々の戸口で無言で門ずけをする。それが何か厳かで怖かったことを覚えている。

 山伏の行
 頭に頭巾(ときん)を頂いた男、これが腹に響く法螺貝の音をひびかせる。そしてがしゃんがしゃんと錫杖を強く響かせる。彼らはあたりを睥睨しながら集団で通り過ぎる。
「大山詣りか?」
 子供心に怖かった。
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2019年01月22日

下北沢X物語(3687)−ふしぎ町高輪を歩く2−

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(一)歩いて実感したことは高輪は文化が凝縮し濃縮している土地ということだ。何と言っても歴史の厚みがある。中心となる道は東西を貫く二本榎木通りだ、典型的な背尾根道である。南面は品川の海が望める第一級の景勝地だ。旧皇族の広大な土地もこちら側だ、一方北面の谷にはぎっしりと墓石で覆われている。この風景も圧巻だ、江戸期から人々が埋葬されてきた。墓は歴史時間を端的に物語る、人は死に、墓が残る、が、丹念に見て廻ると崖地の礎石は墓石が使われている。墓は無縁仏有縁仏が入り交じっている。墓と寺と大名下屋敷跡、歴史の重層が肌で感じられる。これを貫いているのが道だ。二本榎木通りは東海道の補完道だった。が、この道江戸以前から使われた道だろう。

 思い出すのは「更級日記」だ、平安時代中期に書かれたもので上総から京都までの道行きが描かれている。高輪近くの三田を通って行くときの記述だ。

今はむさ しのくにになりぬ。ことにおかしき所 も見えず。はまもすなごしろくなども なく、こひぢのやうにて、むらさきおふときく野も、あしおぎのみたかくおいて、むまにのりてゆみもたるすゑ見えぬま で、たかくおいしげりて、中をわけゆく に、たけしばといふ寺あり。

 草ぼうぼうだったようだ。葦や荻が高く生い茂っている細道を行くと竹芝寺があった。三田の済海寺のようである、さらに東進するが今の東海道となるが、賢明な選択は二本榎木通りではなかったか。菅原孝標娘は背尾根を馬に乗ってゆき、海を眺め深い感慨に襲われたのではないかと思いもした。
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 高輪には至る所に歴史の断片が落ちている。まず、「品川駅創業記念碑」を見て、つぎは「東禅寺」だ。門前には「都旧跡 最初のイギリス公使宿館跡」という碑。館は攘夷派の標的になって度々襲われている。「東禅寺事件」というとの説明がある。


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2019年01月21日

下北沢X物語(3687)−ふしぎ町高輪を歩く(第147回)−

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(一)町歩きもまた物語だ、参加者が高輪を歩きながら土地のページをめくっていく。これを案内者の松山信洋さんは「ふしぎ町高輪」と銘打った。何が不思議なのかは参加者が探し当てることだ。実際に歩いて見る、驚くのは土地の起伏だ、谷谷が深い。そしてそこを埋め尽くしているのがお墓だ、驚く程に寺院の数が多かった。あちこちに歴史上の人物がひっそりと眠っていた。本当に不思議だった、地形の屈曲、道の屈曲、景観の深み、縄文から近代までの時代の相など不思議だらけだった。なぜだろう?と思った。一番最初に思ったのは都鄙境だ、江戸時代の町外れだった。都鄙境には物語がたんと眠っている。路地を行くと忽然と加賀の千代女の句碑があったり、寺山修司の「人力飛行機舎」があったり、そして、江戸時代の巨人荻生徂徠の墓があったり、そのめまぐるしさに圧倒されるほどだった。

 フィールドワークはおもしろい、地を足いて土地の特質を知ると分からなかったことが分かってくる。高輪を歩くと夥しい数の寺院があった。それでなるほどと思ったことがある。高輪の西向こうは品川宿だ、江戸四宿のうちで最も遊郭が流行ったのはここで遊女が最も多かった。客の多くが品川近辺の寺の僧であったと聞いていた。歩いてみて得心がいった。寺社が樹木も多く墓ばかりだ、寂しいことこの上ない、「こんな夜はあのことしっぽり」と多くの坊さんが考えついて馴染みの遊女に日参していたのではないか?

 1月19日、午後一時、品川駅で待ち合わせた。かつては場末の郊外駅だった。しかし今や新幹線が発着する大ターミナルとなった。ドーム型の天井には目を見張るほどだ。場末の駅は中央駅になった。

 品川というのは一種の緩衝地帯だ、郊外から攻めてくる敵を此処で迎え撃つ、江戸期に品川宿に多くの寺院を置いたのは兵営として火急の場合使えるとのこともあった。
 この駅で思い出すのは中野重治の「雨の夜の品川駅」だ。

「辛よさようなら/金よさようなら/君らは雨の降る品川駅から乗車する」で始まる、プロレタリア同胞を送るのは東京駅よりも、品川駅である方が詩的だ、場末感が漂っていたからだ。
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2019年01月19日

下北沢X物語(3686)−文士町文化地図:各版比較考察3−

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(一)人は物語を旅して生きる、小さな感動、悲哀などを記憶の片隅にしまいながら時を重ねていく。文化地図もその時その時の願望や希望が断片的に記されている。七枚を並べてみると一つ一つの物語が読み取れる。伏線となるものが最初にあって、何枚目かでそれが完結している。初版では物語の萌芽が二つある。一つは文学碑の建立であり、もう一つは鉄塔の保存だ。これらの思いや夢が数枚後では実現し現実のものとなっている。時の不思議だ、具体的には代沢小に建立した安吾文学碑であり、世田谷区地域風景資産となった「代田の丘の61号鉄塔」である。我らは希望を追ってこれまで来たのだ。

 坂口安吾文学碑を建てようというのが運動の始まりでもあった。やはり、活動する場合の種は必要だ、会を立ち上げるに当たって何人かと話しをした。創立メンバーで一番熱を持っていたのはやはり地元の東盛太郎さんだ、代沢小出の彼は安吾文学碑建立には積極的だった。やはり具体的な作品があったことが我らを力づけた。「風と光と二十の私」である。ここには学校の周りのことが詳しく描かれている。

 私のはその分校で、教室が三つしかない。学校の前にアワシマサマというお灸だかの有名な寺があり、学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない。
坂口安吾全集4 ちくま文庫 2002年


こういう記述が我々を熱くした。碑の建立はドラマだ、
 2006年5月に我らの最初の発信物『北沢川文学の小路物語』ができた。朝日、毎日の東京版に大きく載った。反響は大きかった。このことが碑建立に結びついた。

 新聞を見て驚いた人たちがいた。馬込文士村ガイドの会の人たちだ。馬込文士村に関係する文学者が当地に多くいたことだ、坂口安吾、萩原朔太郎、萩原葉子、宇野千代、三好達治などである。早速に会の人たちが訪問をされた。この関係から意外なことが分かった。
「大田区東矢口に坂口安吾が住んでいた家があってその門柱が今も残っています」
 さっそくに行ってみたところ門はあった。所有者は、新潟日報社である。
「この門柱を使って文学碑を建てたい」
 熱意が湧いてきた。しかし、大田区の方でもこれを残したいという願望があった。
 
 門柱を譲渡してもらう、これを運ぶ、そして碑を作る。一つ一つが大きなハードルだった。今にして思うと、私と同じように碑の建立を願望していた人がいたから実現したのだと思う。当時の世田谷区教育委員会の次長である。
 最後は大田区と世田谷区の教育委員会で相談をして世田谷区へと決まったものだ。

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2019年01月17日

下北沢X物語(3685)−文士町文化地図:各版比較考察2−

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(一)文化地図の発行年月は初版、2006年12月、7版は2017年3月だ。11年が経過している。この間に大きな変化があった。当該地域の文化の起爆力となった小田急線の地下化である。地表線から地下線へ変貌し町の風景が一変する。その締めくくりに参画する。2020年春に世田谷代田駅の広場が完成する。ここに念願のダイダラボッチの足跡をかたどったモザイク模様が描かれる。この開場を記念して地元では盛大なイベントを計画している。我らの会もこの行事に連動して二つのイベントを予定している。一つは「世田谷代田の歴史と文化」をテーマとした研究大会の開催だ。これは当会が毎年計画しているもので今回は第五回となる。開催日は、今年7月27日で、会場は「梅丘パークホール」だ。もう一つは、広場オープン記念として「下北沢文士町文化地図」第8版を発行し、イベントに参加された人々への配布をする。これらに向けてすでに準備会が発足している。

 さて、文化地図の考察だ。初版から7版までの間に都市の変貌と発展があった。初版においては都市論の一端が述べられる。A面の2ページでは、「�供_舎迷�X交点周辺文化」として記述されている。冒頭文に続く第二と第三段落ではこう述べている。(筆者 きむらけん)

 教会や文士の参集の根本にあるものは同じである。例として教会、文士を取り上げたが、実は他の分野も多く集まっている。文化分野では画家、映画監督、俳優など数限りなく居住している。政治、経済、学術の分野についても同じである。
 下北沢周辺に様々な価値を呼び寄せたのは鉄道である。農業を中心として営んでいた地域、新屋敷に鉄道が敷かれた。小田原急行鉄道は昭和2年に、帝都電鉄は昭和8年に敷設された。下北沢でその二つの線路がクロスしたことは大きい。地図上にその痕跡を残しているが特異な形状である。作家の清水博子は「街の座標」でこのXを「ひしゃげた座標軸」と形容している。巧みな比喩である。そのゆがみやねじれは極めて人間的だ。近代の屈折ともいえる。

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2019年01月16日

下北沢X物語(3684)−文士町文化地図:各版比較考察1−

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(一)2006年12月25日に文化地図の初版を発行した。以来7版までの累計は6万部に達する。先頃、区役所の地域振興課から照会があった、初版から7版までの資料存否の確認だ、現在行政のホームページでは第4版がアップされている。全編の公開の可能性の打診である、それで保存地図を確認したところ全版すべて揃っていた。改めて並べてみると興味深い、当該都市の、町の経年的な文化資料となっていることだ。これらを比較考察することで町の歴史や文化が見えてくる。試みとして各版の特徴を比較してみた。

 当初、文化地図を作り始めたときは改版のことは考えていなかった。行き当たりばったりである。ところが、改版を重ねるうちにノウハウが蓄積されてきた。統一的な記号、また表記法などが改善されるようになった。これら記録7枚を並べてみるとそれぞれに特徴がある、記録としても貴重である。
 地図の大きさはタテ30×ヨコ42cmだ。見開き4ページの体裁だ、以後1と2との表面をA面とし、3と4との裏面をB面とする。

〇初版 名称 下北沢X交点周辺文化地図 発行日2006年12月25日


・A面 目次
 I 「北沢川文学の小路を歩こう」 北沢川文化遺産保存の会
 調査研究員 きむらけん


解説文のキーセンテンス
・昭和の近代文学が凝縮され、圧縮されている特別な場がある。東京世田谷、下北沢の南を流れている北沢川、せせらぎが東西に流れている代田、代沢、北沢だ。一帯には文学詩歌の営みの痕跡群がある。まるで約束しでもしたかのように参集して来ている。(冒頭文)


・北沢川文学空間は不思議だ。気づくと思いがけない数の文芸人が存在していた。のみならず文学とは、日本語とは、文化とは何か、今も問題を投げかけている。(末尾文)
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2019年01月14日

下北沢X物語(3683)−人間の成長:でんちゃから富士へ−

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(一)日々の歩きで跨線橋をよく通る、ここが園児たちの電車観望台になっている。富士も見えはするが「お山!」と言って喜ぶ子はいない、やはり「でんちゃ!」だ。一方、富士観望台にたむろするのは圧倒的に熟年だ。人間はでんちゃに始まりお山で終わるようだ。当方も「でんちゃ」を見ても心ときめかない、新幹線などは「何であんなに急ぐことがあるのか?」と冷ややかだ。過去を振り返ると自分もでんちゃの運転士に憧れた、が、それは消え失せて今は富士の姿を渇望してやまない。でんちゃから富士へ、人間がたどる必然か?

でんちゃからお山へ、子どもはいつ関心を移していくのだろう?
 昨日、下北沢小学校の前を通り掛かった。5月にはここの同窓会の講演をすることになっている。新校舎は旧東大原小の跡地に建っている。地形的には丘上に位置し、富士がよく見えた。東大原の校歌はこれを高らかに歌い上げている。その一番(作詞 葛原しげる 作曲 藤井清水)

朝夕あおぐ 神山富士の
正しき姿 清らの心
わが明けくれの かがみとこそ
よき日本人 わがちかい
のぞみ気高き 学舎ゆかし
東大原小学校


「西方に聳えるあの神山富士に倣って正しく清らかに生きよう、日本人の生きていく鑑として誓を立て、望みを気高くもって学舎をより慕わしく思おう」という意か。学校は昭和2年創立、昭和10年年10月東京市第三荏原尋常小学校と改称し、校歌制定は昭和11年だ。卒業生は「第三荏原」だと言って学校を誇りに思っていた。昭和8年に小田急線と井の頭線がクロスした。それを背景とした栄え行く町が背景にあったことは間違いない。

 東大原、守山、北沢が統合してできたのが下北沢小学校だ、東大原、北沢は校歌に富士があった。北小は「真白い富士の嶺そびえ立つ/清い姿を身にこめて」とある、作詞は詩人の福田正夫だ。

 校歌では富士を褒め称え、そしてあの山を鑑として正しく清く立派に生きよという。校歌における富士の役割は大きいものがある。
 富士の山影を活用した情操教育というのが伝統的あった。子どもはほおっておけば「でんちゃ、でんちゃ」で終わる。神山富士を心に植え付けて、そして将来は国家に尽くしてほしい、そんな願いがあったようにも思う。

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2019年01月13日

下北沢X物語(3682)−古老の証言:下北沢の昭和十年頃−

DSCN0207(一)年寄り一人一人は一冊の書物を蔵している。地域の歴史がこれに残されている。このブログでは古老から聞いた話を数多く載せている。北沢四丁目に住む三十尾生彦さん(94歳)には度々協力を戴いた。今回また往時をまとめてくださった。昭和十年頃の話である。昭和八年に小田急線とクロスする井の頭線が敷設され利便性が高まった。以来段々に一帯が開発されていった、畑地やハラッパが建物によって侵食されいく、その様子がよく分かる。こういう記録は大事にしなくてはならない。
 古老の証言は大事だ。町の姿を次代に残すことで未来が見えてくる。下北沢は沢の町、大きな沢が二つある、まず東部を縦貫して流れているのが森厳寺川だ。つぎに西部にはダイダラボッチ川がある。今回は前者の記憶だ、後者のもぜひほしい。求む、ダイダラボッチ川の風景変遷情報を。

〇森厳寺川風物詩 

*注:森厳寺川は笹塚を源流として下北沢の東部の沢を流れ下っている。小川である、途中に森厳寺のすぐ脇を通ることからこれを森厳川と呼び習わしている。源流部では約45メートルの標高がある、下流代沢小学校では35メートルだ、急傾斜を流れる川で大雨時に度々溢れた。原因の一つは旧東北沢4号踏切脇にあった小田急線のカルバート(暗渠)が狭かったことが原因である。

森厳川ぞいは概ね今のようにぎっしりと家々は建っていなかった。ネギ畑と未開墾のハラッパが広がっていた。土は関東ローム層の赤土で、赤黒い畑が広がっていて水道道路(井の頭通り)まで見渡せた。畑には埋められた肥桶があって通ると異臭を放っていた。

 この肥溜めは自然放置の熟成待ちだから、畑と肥だめの区別がつかない。それで遊びに熱中しすぎて、肥だめに落ちることは度々あった。当時水道はまだ普及はしていなくて井戸の水を汲んで井戸端で汚れを落としをしたが臭いはなかなか抜けなくて苦労した。母親からきついお目玉を頂戴したこともあった。

 家の近くのハラッパは蝙蝠とギンヤンマが飛び交う供達天国だった。暗くなるまで歓声が聞こえていた、子供達は夕食も忘れてトンボ釣りに熱中したものだ。
 やがてそのハラッパの一角に赤坂家のアパートも建ち上がった。これを追って空き地に家が建ち並び段々に空き地はなくなり、トンボも来なくなった。

 後に赤坂家のアパートの二階に私ども夫婦がお世話になり、一年ほど新婚生活を謳歌した。


*文中、赤坂さんというのは赤坂暢穂さんのことだ。森厳川沿いにある、赤坂さんのお兄さんと三十尾さんは親しくしていた。この人は英語が堪能だったようで赤坂さんと三十尾さんが組んで米軍慰問に行った。灰田勝彦、坊や三郎、下北沢在住の日本舞踊の師匠藤間勘七龍を伴った。師匠の本名は、鈴木ナヲ、親は鈴木瓦店を経営していた。関東大震災後に北沢にできた店だ。
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2019年01月11日

下北沢X物語(3681)−思い出の東横線ワーレントラス橋−

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(一)日々ほっつき歩く、昨日は渋谷へ、今日は大岡山へ。出歩くとドラマに出会う。今朝のことだ、まず近くの東横線の跨線橋、登ると保育園児がいる、「でんちゃ、でんちゃ」と喜んでいる。「みんな、でんちゃ好きなんだ」、「そうなんです」と保育士さん。「あれ、今日は富士がよく見えるよ」と指さすと、園児はポカン。たおやかな富士の嶺に子は全く興味を示さない。次ぎに平町バス停のところで老婆二人が向こうを指さしている。見るとビルとビルの間に見事に富士が見える。「きれいですね」というと「ここからの眺めは最高よ」と。「若い人に富士といっても感動しないのよ」、富士への興味は年老いてから湧くことを知った。

 昨日は、渋谷まで行った。8日に代官山で行われた新年会で自身が問いかけた跨線橋が気になったからだ。

 地下化した東横線は代官山からトンネルに入る。軌道跡には商業施設「LOG ROAD DAIKANYAMA(ログロード代官山)」ができた。何回かここは訪れている。が、人通りがほとんどない。平日の日中ということもある。人と擦れ違うということはない。前よりも賑わいが薄れたような気がする。とっつきのビアガーデンは人が入るが、奥は人の入りが悪いと聞いたことがある。

 ログロードのロゴは、線路マークが入っている。線路の記憶を残すためだという。が、線路は繋がっていてこそ生きてくる。このログロードは先端部で折れて階段で終わる。そして、下りたところから東に進むと、くだんの跨線橋がある。

 昨年秋に、東横線跡地にできた渋谷ストリームという高層ビルが開業した。そのときのニュースでは跡地はプロムナードになっていると伝えていた。
「もしかしたら代官山と繋がったのかもしれない」
 そう思っていたのだが、跨線橋は元のままだった。
 
 跨線橋に上って渋谷方向を見る。記憶にある風景はどこにもない。左手の崖だけは今も残っている。崖上の塀に長い間、「神永電線」という文字が書かれていたのを覚えている。自分が立っている跨線橋のすぐ北にワーレントラス橋があった。思い出の東横線鉄橋だ。

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2019年01月10日

下北沢X物語(3680)−新年早々瓢箪からまたオペラ−

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(一)新年から不用意に口をすべらせてしまった。8日、代官山ステキ総研の「2019年、新年賀詞情報交換会」が代官山で行われた。順番が回ってきて今年の抱負をスピーチした。昨年は、オペラを演じたところ好評だったと伝え、「代官山と三田用水」というオペラも考えられるのではないかと言ったところ、「それはグッドアイディアだ」という話になった。下北沢は沢の町、代官山は丘のまち、共に音楽家が住んでいる。ところが代官山はハイソな人が多い、芸術的な人的資源が豊富である。スピーチの後、常務理事の鋤本氏が来られてオペラの作曲も歌い手も弾き手も皆ルートがあるとの話だ。思いついたことをうかつに話すものではない。下北沢文化圏とは違うものが当地にはある。独自の文化である。言えば、「代官山と三田用水」というのは他との差別化を図る、キーワードではなかったかと思った。

 代官山ステキ総研と私たちは連携関係にある。下北沢と代官山、なぜ繋がりがあるのか、これは一般的に知られていない。両者は用水で繋がっていた、三田用水である。北沢北端の玉川用水に三田用水の取り入れ口がある、この用水が下り下って代官山を横断している。代官山という町形成、景観形成は三田用水が深く関わっている。

代官山ステキ総研は、毎年「代官山大学」を開催している。大学のゼミ生が代官山をフィールドワークとした研究発表会を行うものだ。何回か参加して影響を受けた。

「私たちは同年代を集めて研究会を開いています。が、ロートルは過去しか語らないのですね、ところが若者は未来を語ります。その違いは大きいと思います。私たち北沢川文化遺産保存の会は昨年研究会を開きました。大学のゼミ生に参加してもらいました。法政大学、成城大学の若者はまちの未来を語ってくれました。これは代官山大学から学んだことです」
 挨拶で私はこう述べた。

「今年も研究大会を計画しています。来年度、世田谷代田駅駅前広場が開場します。ここにダイダラボッチの足跡をかたどったモザイク模様が描かれます、地元ではオープニング記念行事を考えていますが、私たちもこの関連行事の一環として研究大会を開催することにしました」
 すでに一月四日、会員の金子善高さんが梅丘パークホールの予約申し込みをして会場は押さえたところだ。
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2019年01月08日

下北沢X物語(3679)−「猫町」散歩の舞台は野屋敷か4−

P1000811(一)明大前も鉄道がクロスする駅だ、ここで乗り換えるときにいつも不思議な現象に出くわす、井の頭線から乗り換えて京王本線に乗ろうとすると電車は逆方向から来る。「猫町」でも乗車中「汽車の進行する方向が、いつの間にか反対にな」っていると錯覚することがあると言う。詩人は物事には「秘密の裏側」があると言う。散歩中に彼もこれに出くわした、帰宅しようと急いでいるとき「樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐると廻ったあとで、ふと賑やかな往来に出た」そのときに驚嘆するほどの「情趣の深い町」、「幻燈の幕に映つた影絵のような町」に出くわした。多分北沢3丁目辺りの路地だろう、迷った挙げ句ふと通りに出た、見違えるほどに美しい、しかしふと気づくと「それは私のよく知つている、近所の詰まらない、有りふれた郊外なのである。いつものやうに四つ辻にポストが立つて、煙草屋には胃病の娘が座つてゐ」た、この「猫町」を特定する手がかりは四つ辻のポストである。

 亡くなった東盛太郎さんとこのポストを探し回った。四つ辻のポストは例の鈴蘭堂の側にあればいいが、これはない。斜め前方のかつて大月菓子店があったところにポストはあった。ここだとイメージが違ってくる。

�Ω翕損馨�路入り口 案内

「朔太郎は鈴蘭堂で煙草を買い、そして旧北沢局のポストに手紙を放りこみます。彼はこれからどうするか。詩人の日常は家で書き物をした後、外出をする。『私は行く先の目的もなく方角もなく、失神者のようにうろうろと歩き廻っている』と『猫町』では言っています。うろつき廻る場合、どこをどうたどっていくかということですが、彼は『樹木の多い郊外の屋敷町』を巡ったと言っています。この辺りで木々が生い茂った屋敷町はこの野屋敷しかありません。ほら、ここに路地が北へ続いていますね、これを御殿山小路と言っていました。なぜそう言ったか御殿のような屋敷があって木々が鬱蒼と生い茂っていました。散歩するにはうってつけですね……」

 そうここは散歩道として親しまれていた。彫刻家の淀井敏夫氏はこう言ったという。
「路地を歩いて行くと奥に大島家のヒマラヤ杉が見えるでしょう。鬱蒼と木々が茂っていていい感じですね、私はあの木々の上の空に別世界があるように感じていましたよ」
 このヒマラヤ杉はこの地のランドマークだった。世田谷区の保存樹木であった、が、これを継続していくことは困難になったようで、大島さんからやむを得ず伐ることになりましたとの連絡があった。
「戦争中にも軍部から目立つから伐れと言われたのですけど、『伐るなら俺の腕を切ってから伐れと抵抗したそうなんです」
 大島さんからこれは聞いていた。

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2019年01月07日

下北沢X物語(3678)−「猫町」ツアーへのときめき3−

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(一)「猫町」ツアーは感覚の旅だ、猫のように神経を研ぎ澄まして裏路地を行く。すると次元の穴に吸い込まれてしまうこともある。スリリングな探検をするには注意を怠らないことだ、観察すべき点は三つだ。「路」、「沢」、「影」である。地域固有のものである、これらは朔太郎の文学性と関わるものだ。「路」は一帯に張り巡らされている路地だ、萩原朔太郎旧居の周りもこれに取り囲まれている。密かに行動する場合は好都合だ、「沢」は地形の凹みだ、これも至る所にある、ゆえに路は上ったり、下ったりする。さすらい歩く場合の味付けとなる。「影」は、猫の隠れ場所だ、詩人は「ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは、ただ一疋の青い猫のかげだ」と『青猫』に詠んでいる。町の陰翳は魂が宿る場所だ。路地の角や隅には影が至る所に存在する。詩人がなぜ下北沢や代田に住んだか?地形的に好むものをここに見いだしたからではないか?「猫町」ツアーは、詩人の文学性に触れる旅である。

 地形と「猫町」の関係も少なからずある。下北沢に住んでいた詩人がなぜ隣の世田谷代田に移ったか?昭和6年に朔太郎はここに引っ越してくる。が、「下北沢は近く井の頭線も開通される……もう少し静かな郊外の方がよいだろうということで」(『父・萩原朔太郎』萩原葉子著 筑摩書房 昭和34年)隣の世田谷中原(代田)に引っ越す。選択肢としては「父が小田急線では一番好きな成城学園前」もあった。が、前者を選んだ。成城学園前にはどんな特徴があるか。路、沢、影のうち、沢はある。が、ここは国分寺崖線が通っていて沢が深い。また広い路が碁盤目状に走っていて明るい、影がないことだ。そして隠れるところがない。彼が好みとするところは「野良犬みたいに終日戸外をほッつき廻」(『秋と漫歩』)ることだ。その様子を見事に描いているのは三好達治だ。彼の追悼詩「師よ 萩原朔太郎」彼はこう詠んでいる。その一節だ。

都会の雑踏の中にまぎれて
(文学者どもの中にまぎれてさ)
あなたはまるで脱獄囚のやうに 或はまた彼を追跡する密偵のやうに
恐怖し 戦慄し 緊張し 推理し 幻想し 錯覚し
飄々と乎として影のやうに裏町をゆかれる
いはばあなたは一人の無頼漢 宿なし
旅行嫌いの漂泊者
 四季 第六十七号 萩原朔太郎追悼号<昭和17・9> 冬至書房新社
 (旧漢字は新漢字に置き換えている) 


 「講釈師見てきたような嘘をつき」というが、「抒情詩人見てきたような真実を詠む」、三好達治は代田北沢界隈をほっつきあるく詩人を活写している。
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2019年01月05日

下北沢X物語(3677)−「猫町」英語版ツアーガイド手引き書2−

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(一)「猫町」ツアーは短い旅だ、が、新しい手法の旅だ、萩原朔太郎は通常の旅を「同一空間に於ける同一事物の移動」(『猫町』)に過ぎないと認識する。そうイタリアへ、フランスへ行っても同一空間をこっちからあっちへ移動するだけだ。「何処へ行つてみても同じやうな人間が住んで居り、同じような村や町やで」つまらない。それで詩人は新たな旅を創出した。「人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶ」というものだ。「運動のための散歩の途上で、或る日偶然に」「新しい方法を発見した」という。代田北沢は路地ばかりだ、そこを行くときに見つかった。路地にこそ新しい旅への端緒が潜んでいるようだ。

 「猫町」は、旅論でもある。
  旅とは何か、家を離れてよその土地を訪ねることだ、常とは違うところへ行くことで人は新鮮な感懐を持つ、それで人は旅には憧れる、この新春になって海外旅行を誘う新聞広告が増えた、通例的には人は遠くへ行くことが旅だと思って入る。が、「旅嫌いの漂泊者」は、身近なところに、至る所に旅は落ちているという。言えば、人よ、ローマに行くことなかれ世田谷代田や下北沢に来たれということになる。

 昨年、暮れに夜の『猫町』のツアーを行った。町探検のキーワードの一つが「路」だった、この町はさまよえば分かる、新道、古道、路地が入り乱れている。普通は見分けがつかない。
「ああ、ここがいいですね、ほら道を見てくださいよ、そこはかとなく路が曲がっているでしょう、これは間違いなく古道ですね。昔の路は無理をしないのです。自然地形を利用しているからどうしても屈曲ができるのですね……」
 下北沢代沢五叉路の手前でそう説明したことだ。
「路地も多いですね、この距離も一つの魅力ですね、人が間合いをとってすれ違える。温もりのある距離ですね、だからところどころにローソクを点すと町が引き立ってくるのです。『ノエルの小径』っていいアイディアですよね」
 そうここでは路地がポイントだ、「猫町」ツアーのポイントもここにある。

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2019年01月04日

下北沢X物語(3676)−「猫町」英語版ツアーガイド手引き書−

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(一)年が明けて我らの活動は15年目に入った。時を経て来ると振り返りができる。何をなしてきたのか?言えることは「地域の知的資源の発掘」だったことだ。文学碑四基の建立、文化地図の発行、ネットでの発信はまさにこれだった。これらを通して、文化人が当地域に密集して住んでいることを知った。あらゆるジャンルに跨がる。中でも詩歌人が多いことは大きな特徴だ。傑出しているのは萩原朔太郎の存在だ。今も熱く彼を信奉している人がいて当地は、聖地と考えられている。吉増剛造は、「下北沢裂くべし、下北沢不吉、下、北、沢、不吉な文字の一行だ」(『黄金詩編』)と謳う。朔太郎が当地一帯を徘徊していたことが強く意識されている。詩人が書いた「猫町」は言わばバイブルだ、この物語とびっきりおもしろい。地域を越えたグローバルなものだ、それで前から外国人向けの「猫町」ツアーをと言ってきた。それでガイドによって翻訳化されることを念頭に、ツアーガイド手引き書をまとめてみた。

 『猫町』は、萩原朔太郎が描いた短編小説だ、詩人の清岡卓行は日本文学ベストワン小説に推挙している。(萩原朔太郎『猫町』詩論)際だっていることは、「主人公の意識の屈折がストーリー」となっている点だ。朔太郎自身、旅への期待をなくしていて、「私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかり」(『猫町』)をするようになっていた。この作品が書かれたのは1936年(昭和10)、世田谷代田在住時である。朔太郎は医師から散歩を奨められ「毎日家から十四、五町(三十分から一時間位)附近を散歩してゐた」、ゆえに想定されるコースは代田や下北沢である。一帯の路地町を迷いながら歩くツアーは、異国人も興味を持つはずだ。それで外国人向けの『Cat Town Walk』を提唱してきた。

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2019年01月01日

下北沢X物語(3675)―会報第150号:北沢川文化遺産保存の会―

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…………………………………………………………………………………………………………
「北沢川文化遺産保存の会」会報 第150号   
         
  2019年1月1日発行(毎月1回発行)
    北沢川文化遺産保存の会  会長 長井 邦雄(信濃屋)
               事務局:世田谷「邪宗門」(木曜定休) 
       155-0033世田谷区代田1-31-1 03-3410-7858
                 会報編集・発行人   きむらけん
          東京荏原都市物語資料館:http://blog.livedoor.jp/rail777/
…………………………………………………………………………………………………………
あけましておめでとうございます。
  どうかことしもよろしくお願いします。 北沢川文化遺産保存の会


1、創設15年目を迎える

 当会は、2005年12月に発足した。今年は15年目を迎える。発足以来、数多くのことをしてきた。毎月発行の会報も一つだ、今回の会報の号数は、150号である、記録の積み重ねである。号数は長い時間の経過を表すものだ。この長い年月、こつこつとまちに眠っていた文化・歴史を掘り起こしてきた。発見も多くあった。一つは近代戦争史の秘められた事実だ。この発端は当地の疎開学童の調査から始まった。一帯の小学校は戦時中長野県に疎開していた。このことを調べることで意外な発見があった。それは当地居住の二世が疎開先で、都会風の文化をばらまいていたことである。
 疎開学童の到来は、地元にはショックだった。小さな子どもがきちんと並んでやってきた。坊っちゃん、嬢ちゃんである。地元の少年は女の子たちのあまりのかわいさに衝撃を受けた。「お人形のように可愛い子がいるなんて!」と、代沢小が疎開した旅館の隣に住んでいた降旗康男監督はそう述懐している。
 都会からやてきた疎開学童の、挙措動作は地元住民には興味深いことだった。演芸会は寂しさをまぎらわせるためによく行われた。歌がうまい、楽器が弾ける、踊りやダンスもうまい、おしゃまで頭がよい。この温泉に沖縄に出撃する特攻隊のお兄さんたちがやってくる。垢抜けした女の子に彼らは深い興味と関心とをもった。「お嫁になって」と告白された子も何人もいる。希有な話しとしてフジテレビのたけしのアンビリバボーで取り上げられもした。「鉛筆部隊と特攻隊」の話は松本に特攻隊が沖縄出撃に備え多くの隊がやってきていたことを明かした。近代戦争史の記録ともなった。
 私たちは、当地あった建物など、埋もれていたものも明らかにしてきた。下北沢店員道場、セロファン工場、海外植民学校などだ。また、当地に居住した代表的な作家、詩人は紀要にまとめて記録した。萩原朔太郎、三好達治、横光利一などである。
 発足以来、「下北沢文士町文化地図」を作成し、これの改訂を行い、現在では七版が配られている。これは失われた歴史・文化を記録したものである。戦争被災地域なども記録してきた。これらが今では記録資料として重宝されている。

今年度の計画

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 これまで名前を、「戦争経験を聴く会、語る会」としてきた。が、体験者が高齢化によっていなくなりつつある。直接戦争に関わった人からの話は聴くことが困難になった。が、戦争を伝えていくことは重要である。それで第二世代、第三世代による、戦争伝承を継続することにした。工夫としては歌や演劇で戦争を伝える。その試みとして昨年9月に実験的に「Opera鉛筆部隊と特攻隊」を公演してみたところ好評であった。それでこれを今度の会で正式公演として行うことにした。

期日 2019年5月19日(日) 開場13時 開演13:30分
場所 カトリック世田谷教会聖堂
演目 Opera鉛筆部隊と特攻隊
 監修:関根英雄牧師 演出:若桑比織 
 歌 石坂いつか 語り手�,�むらけん �¬つ蝓〇厂髻仝渊粛鬚劼泙蝓Δ泙蠅�
 元鉛筆部隊隊員 田中幸子 音楽・ピアノ 内村真由美


��第五回 北沢川文化遺産保存の会研究大会の開催

 毎年、研究大会を行ってきた。地域の文化を関係者が発表するものである。形として定着してきて地域でも認知されるようになった。
 今回五回目は、テーマを「世田谷代田の歴史文化」と決めました。2020年度に世田谷代田駅前広場が完成の運びとなる。現在オープニングに向けて盛大な行事を開催しようと準備委員会が動き始めた。当会の会員もこれに加わって企画立案に携わっている。
 駅前広場には、ダイダラボッチの足形が大きなモザイクとして刻まれる。文字通り、ダイダラボッチの町として全国に発信することとなる。
 この開場イベントの一環として今回の研究会を開催しようと提案し、了承された。前回同様、東邦薬品に協賛依頼をしたところ快く引き受けてくださった。
 後援については今まで世田谷区教育委員会としていたが、皆さんの尽力で直接世田谷区が後援をする形にしたいと考えた。それで年末に申請書を区に提出をした。
 地域の団体は三土代会ほか町会、自治会に協力を得るつもりだ。
 
 第5回北沢川文化遺産保存の会 研究大会
 世田谷代田駅前広場開場記念行事(プレイベント)
 日時 2019年7月27日(土) 10時30分より(予定)
 場所 梅丘パークホール 会費 500円(資料代)


発表者については打診中だ、三土代会の重鎮、柳下隆さんには代田の歴史文化を語っていただくように要請をし内諾を得ている。午前が、柳下さんの講演で午後が研究発表会である。やはり大事なのは若手の参加だ、駅前広場の完成を機にどんなまちづくりをするのかのフレッシュな意見がほしい。各方面に打診している。

 終了後に懇親会を行う。会費3000円、いつもと同じ形で行う。
 イベントも計画したい。

�2舎迷�文士町文化地図大改訂版の発行

 代田・北沢を中心に我らは15年間、地道な調査を続けてきた。文化痕跡を調べ上げ、これを地図上に落として記録してきた。現在は改訂7版に至っている。これまでの累積発行部数は6万に達している。文化地図の評価は定着してきて、まちの文化を記録したものとして広く知られるようになった。世田谷区もホームページに「下北沢周辺の文士旧居跡」としてアップしている。
 戦災で焼けたところも記録している。地図を見るとちょうど下北沢鉄道交点を中心に焼けていないことが分かる。Dr.オースティン写真はこの箇所を撮って記録している。焼け残った町にエトランゼを惹きつける魅力があったからだろう。写された写真を見ると戦前からの古い町並みが見事に残っている。この景色に趣や風情があった。
 もう一つ大事なのは残ったところが文化発信の場となったことだ。出版社が生まれ、文芸人が集まり、また屋根のある家の下で文芸詩歌が生まれている、当地の文化の大きな原動力となっていることは忘れられている。
 今回、第8版を発行する、これは世田谷代田駅前広場開場記念としたい。よって解説や資料などは主には世田谷代田を中心にまとめたい。
 旧来の版はソフトが古く使うことが困難になった。この改訂8版を作るに当たってはソフトも新しくしたい。来年度には今年同様、区の絆助成金を申請しこれを完成させたい。しかし、ソフトを新しくしたりデザインを改めたりするには従来の助成金では限界がある。それで開場記念の事業の一環として認めてもらい、不足分の補いをお願いしている。
 旧来地図は、言わば建て増しに建て増しを重ねたものだった。これを刷新して新しくしたい。地域の記録としても重要なものだ。これに向けて現場確認などの作業を行っていきたい。会員が参加して歴史地図を作る、各人がこれに加わって楽しむ。これをめざしたい。

�ち藁�15周年:北沢川文化遺産保存の会

 今年、2019年12月17日、会を創設してちょうど15周年を迎える。例年、12月の第一土曜日に恒例の年忘れの会を開いている。予定では今年は12月7日となる。
 基本、私たちの会は参加した人が楽しむ会を行っていく。今度も同じような計画となるだろう。一応のけじめとしてセレモニーを行うのか、これらは今後考えていきたい。
 これまで企画立案は、私が多くを手がけてきた。
 創立15周年に向けて、委員会が立ちあがるといいと思っている。
 この年末を楽しみに待ちたいものだ。暮れのロスコンパニェロスの演奏は素晴らしかった。演奏時間を長くして音楽を存分に楽しむことを企画してもよいのではないか。

2、都市物語を旅する会

 私たちは、毎月、歩く会を実施しています。個々の土地を実際に歩き、その土地の文化
を発見して楽しみながらぶらぶら歩いています。参加は自由です。 基本原則は、第三土曜日午後としています。第二週には、会員の希望によって特番を設けることがあります。

第146回 1月19日(土)13時JR品川駅中央出口
案内人 松山信洋さん ふしぎ町:高輪を歩く
コース:品川駅−東禅寺−高野山別院−承教寺−大石良雄切腹の場−旧高松宮邸−魚藍坂−荻生狙來墓−幽霊坂−伊皿子坂−泉岳寺
◎品川は東海道の宿場の起点であり、江戸時代以来の様々な歴史が眠っている。開国によって外国の領事館が置かれ、政府の高官の屋敷が建ち並んでいたのもこの地であった。埋め立てもすすみ現在は大きく姿を変えている。しかし起伏に富んだ地形はそのままである。全く現代の先端でありながら、近代の香りを色濃く残した地域。今回はそんな不思議な魅力を持った品川の高輪地区を中心に歩いてみようと思っている。…テーマは「ふしぎ街」


第147回 2月16日(土)13時 下北沢駅東口 ピーコック前
下北沢の地図を探訪する(新企画の試み)
 まちの文化情報を各自が参加してチェックしたり、聞き込んだりして楽しむ。
 誰でも気軽に参加できる、専門知識は要らない。言ってみれば、簡易的なオリエンテー リング、まちにある目標物を探したり、新たな目標物を見つけたりする遊び。
 新たに付け加える情報、旧情報の確認をする。2時間ほど各自担当区域を歩き、情報を 手に入れる。(時間内にできる範囲のことをする)
・新しい地図を作る、そのための情報集めを行う。
 �―犬泙辰涜任噌腓錣察´■押■殻召料箸鮑遒襦��C甘�区域を決める。�ぅ哀襦璽廚燃特楼茲忙兇蕕个蠶敢困鮃圓Α��ィ音�間ほど経ったら戻ってくる �Δ�茶を飲みながら報告会を行う。
  当日全員に第7版地図を配布する。会費は取らない。
  ただし参加申し込みはすること。
  企画責任者 ◎別宮通孝・きむらたかし・きむらけん・米澤邦頼 
 
◎申し込み方法、参加希望、費用について 参加費は各回とも550円(資料代保険代)
 参加申し込みについて(必ず五日前まで連絡してください。資料部数と関連します)
 電話の場合、 米澤邦頼 090−3501−7278
  メールでの申し込み きむらけん k-tetudo@m09.itscom.net FAX3718-6498


■ 編集後記

▲今後の行事をどうするか「行事委員会」が発足した。委員長は別宮通孝さん、1月19日のまちあるき終わった後に相談会を開催することにした。
▲暮れのクリスマス、23日、ローソクで飾り付けをした「小径のノエル」を歩く、夜の下北沢まち歩きを乞われて実施した。夜には夜の風情がある、「哀愁があるわね」と女性。
▲新年になりました会員は、会費をよろしくお願いします。邪宗門で受け付けています。銀行振り込みもできます。芝信用金庫代沢支店「北沢川文化遺産保存の会」代表、作道明。店番号22。口座番号9985506です。振り込み人の名前を忘れないように。
▲当、メール会報は会友に配信していますが、迷惑な場合連絡を。配信先から削除します。
◎当会への連絡、問い合わせ、また会報のメール無料配信は編集、発行者のきむらけんへk-tetudo@m09.itscom.net「北沢川文化遺産保存の会」は年会費1200円、入会金なし。会員へは会報を郵送している。事務局の世田谷「邪宗門」で常時入会を受け付けている。


rail777 at 08:39|Permalink│Comments(0)││学術&芸術 | 都市文化